北越奇談 巻之三 玉石 其十一・其十二・其十三(古金)
其十一
竹の町近村(きんそん)、搖上(ゆりあげ)と云へる所に、享保(きやうほ)の頃、農夫某(それがし)と云ふ者、一日、葱(ひともじ)を植ゆ。忽(たちまち)、鋤(すき)の物に當たる音あり。老夫、即(すははち)、金(かね)ならんことを思ふ。密(ひそか)に是を掘れば、一壷(いつこ)、重さ數十斤(すじつきん)なる物あり。土を拂(はらひ)て内を見れば、金光(きんくはう)、眼(まなこ)を射るがごとし。爰(こゝ)に、鶉衣(てゝら)を以つてこれを包み、家に歸りて深く藏(かく)し貯(たくは)ふと雖も、皆、異形(ゐぎやう)にして、用ゆべき所なし。偶(たまたま)、予が父に二片と半を以つて、今の金(かね)ニ交易(かえん)ことを求む。父、其金位(きんい)はかりがたきを以つて、是を新潟某(なにがし)に送る。其余(よ)、又、あることを知らず。老夫の云ふ、只、三片のみにして、殘す所なしと。其金(かね)、異形、左に圖す。
[やぶちゃん注:図は「其十三」の後に回した。
「搖上(ゆりあげ)」現在の新潟県新潟市西蒲区東汰上(ひがしよりあげ)周辺と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。河内一男氏の「越後の大津波伝説」によれば、この新潟市西蒲区東汰上及び同西汰上は江戸期には「ゆり上げ」と呼ばれていたとあり(以下、(アラビア数字を漢数字に代え、ピリオド・コンマは句読点に代え、一部に記号を補った)、以下のような文字通り、驚天動地の名称由来説が示されてある。
《引用開始》
現在は「よりあげ」と呼ばれ、標記のような漢字のあてられている両集落は、江戸期までは「揺り上げ」、または「ゆり上」と表記されていました。江戸時代の文献が二つあります。一つは「新潟県史資料編」(第八巻、付表一〇三三ページ)で、ここでは郷村帳とよばれる村々の一覧表の中にあります。もう一つは橘崑崙著の「北越奇談」巻の三、其の十一の本文中に確認できます。越後では「ゆ」が「よ」に転訛します。「ゆーさり」が「よーされ」、「ゆうべ」が「よんべ」です。両集落はかつては旧西蒲原郡巻町と西川町に所属し、西川をはさんで位置しています。現在の汰上は転訛したあとの当て字であることがわかります。
この「ゆりあげ」の語源が名取市の閖上と同じとすれば[やぶちゃん注:宮城県名取市閖上(ゆりあげ)のリンク先の前の部分を参照されたい。]、いつの時かの大津波襲来時にここまで津波が遡った可能性があります。もっとも海陸の分布は今日と随分違っていたでしょうから、川を遡ったというより、近くまで海が入り込んでいた時期の津波だったのかもしれません。そうすると、壊滅的な被害を受けていた可能性があります。
《引用終了》
「享保(きやうほ)」「きやうほう(きょうほう)」と二様に読む。概ね一七一六年から一七三六年。
「葱(ひともじ)」葱(ねぎ:単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum)を指す女房詞(にょうぼうことば)の一つ。「ゆもじ」(浴衣:平仮名の頭語の「ゆ」に「もじ」を接尾)や「おくもじ」(奥様・頭語の「おく」に「もじ」を接尾)のように語尾に「もじ」(文字:単純に附加した「その文字」を指したり、「その文字の数」を指したりする一種の符牒)を附すタイプの一種(後は現在も普通に用いられている「おまる」(携帯便器)・「おかか」(削った鰹節)のように尊敬・丁寧の接頭語「御」由来の「お」「ごん」を語頭に附したものなどが主体。「おかちん」(餅)・「おだい」(飯)など。他に「こうこ」(沢庵)・「いしいし」(団子)・青物(野菜)・「なみのはな」(波の花/塩)・くのいち(女の忍びの者)等が挙げられる)。ウィキの「女房言葉」の総論部によれば、女房詞は『室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房が使い始め、その一部は現在でも用いられる隠語的な言葉である。語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや、語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現する文字詞(もじことば)などがある』。『省略形や擬態語・擬音語、比喩などの表現を用いる。優美で上品な言葉遣いとされ、主に衣食住に関する事物について用いられた。のちに将軍家に仕える女性・侍女に伝わり、武家や町家の女性へ、さらに男性へと広まった』とある。勘違いしてはいけないのは、「一文字」だからと言って「葱」の形状が「一文字」に似ているという意味ではない点である。葱は古くは「き」と呼ばれた。これは「気」や「息」の「き」と同語源と思われる、強い臭いを有するものを意味する文字である。それが「き」一文字であるから「一文字(ひともじ)」なのである。その証拠に「二文字(ふたもじ)」は同じネギ類である「韮」(ネギ属ニラ Allium tuberosum)を指すが、これは葱(ねぎ)を意味する「き」が「一文字」であるのに対し、「にら」が二文字であることに由来する。因みに「にもじ」(「に文字」)が別にあって、これもやはり、同属の「大蒜(にんにく)」(ネギ属ニンニク Allium sativum)を意味し、これは先と同じく頭語の「に」に「もじ」を接尾した語である。この三つは同じ接尾語「もじ」を介して、臭気の甚だしい同じような食物野菜という共通性で同類グループ語群を形成している点でも面白い。
「金(かね)」金物(かなもの)。
「密(ひそか)に」ここは文字通りで、あわよくば、何か金(かね)めになるような金物(かなもの)であって欲しい、そのためには人に気取られぬようにこっそりと、の謂い。
「數十斤(すじつきん)」一斤は百六十匁(一匁は三・七五グラム)に当たり六百グラム丁度、従って十斤は現在の六キログラム。六掛けで三十六キログラムであるが、男が独りで掘り出して(中身だけとしても)こっそり運び出すにはちょっと重過ぎるから、最低レベルの総重量二十キロ前後としておこう。
なる物あり。土を拂(はらひ)て内を見れば、金光(きんくはう)、眼(まなこ)を射るが「鶉衣(てゝら)」野島出版脚注に『振仮名「ててら」とあるのは「つづら」の転訛であろう。草木のつるで編んだ籠』とあるが、採らない。古語としての「鶉衣」(うづらごろも:歴史的仮名遣)」は鶉(キジ目キジ科ウズラ属ウズラ
Coturnix japonica)の羽が斑(まだら)であるところから、継ぎ接(は)ぎのしてある着物。襤褸(ぼろ)な着物の意であり、「ててら」も古語で(「ててれ」とも言う)下着、肌「襦袢 (じゅばん)」や「褌(ふんどし)」の意であるからで、そもそもが後に「を以つてこれを包み」とある以上、籠などではなく、布地であることが明白であるからである。
「異形(ゐぎやう)」雰囲気から古銭ではあるらしいが、今まで全く見たことがない、異様に変わった形状と質を持っていたのである。
「用ゆべき所なし」とあるのは、金銀は含有しておらず、鉄や銅でも非常に粗悪な或いは強烈に錆びついて劣化したものででものあったか。
「二片と半」これは崑崙が後で「三片のみ」として図したものとは違うと読むべきであろう。
「今の金(かね)ニ交易(かえん)ことを求む。父、其金位(きんい)はかりがたきを以つて、是を新潟某(なにがし)に送る」この農夫は、なにがしかの金に換金してもらおうと、崑崙の父(高井忠治郎。現在の新潟県長岡市寺泊当新田(とうしんでん)にある浄土真宗万福寺にある橘崑崙茂世の建立した墓碑に拠る。野島出版版の最後に附された解説に従った。茂世が生まれたのもこの寺(当時は薩埵山(さったさん)浄花庵と称した。この寺には良寛の師大森子陽の墓があり、大森は実に茂世とは同族の後裔である)と推定されている)に頼んだのであるが、父もそれを見てみるに、金めのものには到底見えなかったのであろう、しかしまあ、ともかくも古物としての価値もないとは言えぬと判断して、新潟のこの手の好事家或いは古物商に送って調べて貰ったというのであろう。その後の消息が全く記されていないから、まさに二束三文のものであったのであろう。それなりに古物的価値があったならば、即座に全部をこの農夫のところへ買い付けに来たであろうが、そんな記載もないから、そうした価値もなかったということであろう。
「其余(よ)、又、あることを知らず」掘り出された総重量から考えても、相当の量がなければならぬのに、それ以外のものが有意にあるかどうかは分らなかった。農夫は金めのものに交換出来ぬと知って、面白がって欲しがる周囲の連中などに分け与えてしまったのであろう。今回、改めてこの「北越奇談 巻之三 玉石」に記載するに当たり、崑崙が現地踏査に訪れた際には最早、「三片のみ」しか残っていなかったのである。]
其十二
天明六丙午(ひのえうま)、苅羽郡(かりはこほり)五日市村の貧民某(それがし)、一男子(いちだんし)ありと雖も、家、貧なるが故に、奉公して東武にあること、巳に三年、只、老(おひたる)夫婦、家にありて、農事を努む。其子を迎(むかへ)んことを欲(ほつす)れども、不ㇾ能(あたはず)。茅屋(ぼうおく)の前に、只一大(おほいなる)[やぶちゃん注:このルビは「只一大」三字全部にかかっている。]梅樹(うめのき)あり。これを切(きつ)て薪(たきゞ)と成し、又、その根を掘るに、鋤、物に當たりて両断となる。取り上げて是を見るに、金光、燦然たり。凡(およそ)、十有五枚(じゆうゆうごまい)、老夫、その金(かね)なることを知らず、寺僧に示す。初めて其金なること知りて、終(つゐ)に領主に上す。領主、これに、通金(つうきん)數(す)百金を賜ふと云へり。其異形、左に図するごとし。
[やぶちゃん注:図は「其十三」の後に回した。
「天明六丙午」一七八六年。
「苅羽郡(かりはこほり)五日市村」現在の新潟県柏崎市西山町五日市か。ここ(グーグル・マップ・データ)。西直近に越後線の刈羽駅がある。
「東武」江戸。
「十有五枚」図のキャプション通りに忠実に数えてみると、厳密には計十八枚となる。
「通金(つうきん)數(す)百金」当時、現行で通用していた小判数百両。貧農の老夫婦、腰を抜かして立てずなったこと、これ、間違いない。]
其十三
明和年中(ぢう)、三島郡の内(うち)、金銀數(す)品を地中に掘得(ほりう)る者、在(あり)。その金銀、異形、是を見ると雖も、其人(ひと)、祕して不ㇾ顯(あらはさず)。其圖は左(さ)に記す。又、寛政四(し)壬子(みづのへね)、高田(たかた)關町(せきまち)と云へるにて、古銀(こぎん)一片を掘り出(いだ)す者あり。其形文(けいぶん)、左のごとし。【只シ此二図は友人某が図記して贈れるなり。】
[やぶちゃん注:「明和」概ね一七六四年から一七七二年まで。
「三島郡」「さんとうごほり」と読む。三島郡として現存するが、今は出雲崎町(いずもざきまち)一町のみ。近代以前は現在の長岡市の一部・新潟市西蒲区の一部・小千谷市の一部・燕市の一部を含む広域郡であった。
「寛政四(し)壬子(みづのへね)」一七九二年。
「高田(たかた)關町(せきまち)」現在の新潟県上越市南本町のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。高田城の南直近。
「此二図は友人某が図記して贈れるなり」後で見て戴くと判る通り、細部まで描写されていて、前二例のそれとは、雰囲気が有意に違う。友人が送付して呉れた細密に描かれたそれを崑崙が改めてここに転写したのである。]
[やぶちゃん注:「其十一」「其十二」「其十三」の各条で語られた小古貨幣の崑崙による写し図。但し、原典では、後の「其十四」の途中に古銭の図とともに挟まって出る。キャプションを示し、度量衡の換算をしておく。で一分(ぶ)は三十八ミリグラムである。なお、私は古貨幣に全く興味がなく、これらを同定しようもない。悪しからず。その方面の識者の御教授があれば幸いではある。
〈見開き右頁〉
揺上村古金三片
重サ三十二匁[やぶちゃん注:百二十グラム。]
同十六匁四分[やぶちゃん注:六十一・五グラム。]
同二十一匁七分[やぶちゃん注:三十一・三八グラム。]
五日市村古金十有五枚
長四寸 巾二寸余[やぶちゃん注:長さ十二・一二センチメートル。幅約六センチメートル強。]
重サ三十七匁六分[やぶちゃん注:百四十一グラム。]
同三十一匁四分[やぶちゃん注:百十七・七五グラム。]
同二十四匁[やぶちゃん注:九十グラム。]
重サ三十七匁一分[やぶちゃん注:百三十九・一三グラム。]
同十八匁六分[やぶちゃん注:六十九・七五グラム。]
〈見開き左頁〉[やぶちゃん注:「五日市村古金十有五枚」の続きなので続けた。]
重十八匁[やぶちゃん注:六十七・五グラム。]
同十八匁六分[やぶちゃん注:六十九・七五グラム。]
無文金
二十九匁四分[やぶちゃん注:百十・二五グラム。]
十九匁四分[やぶちゃん注:七十二・七五グラム。]
十三匁六分[やぶちゃん注:五十一グラム。]
十二匁二分[やぶちゃん注:四十五・七五グラム。] 二枚
同二十一匁五分[やぶちゃん注:八十・六三グラム。]
同形(どうぎやう)無文ノ金(きん)五枚
只(たゞし)シ目かた おのおの相違あり
三島郡有得(ゆうとく)の者 高田小判(たかたこばん)といふ 共(ともに)ニ三枚
〈最上部の表の図〉
表文[やぶちゃん注:「おもて」の「もん」(紋)。]
[やぶちゃん注:中に打たれてある文字は右が「越判」(推定)で、左が「高田」。]
〈中央の前の裏の図〉
背文[やぶちゃん注:「はいもん」。「○」の刻印と「田」の刻印(「高田」の「田」であろうか)、左上には楓の葉か鳥のようなデザインの刻印がある。]
厚サ三厘[やぶちゃん注:〇・九ミリメートルであるから、一ミリと見てよい。]
重サ三匁九分五厘[やぶちゃん注:重量単位での「一厘」は一匁の百分の一だから三十七・五ミリグラムとなり、「五厘」は百八十七・五ミリグラムとなるから、「三匁九分五厘」は十四・八二グラム弱。]
〈最下段〉
上杉謙信 鋳ㇾ之(これをねる)
上杉謙信 鋳ㇾ之(これをねる)
[やぶちゃん注:貨幣の上部に謙信が特別に天皇家から下賜された「五七桐」の家紋が打たれてある。下部にあるのは、この左キャプションからは謙信の華押ということになるが、似てはいるが、かなり違う。或いは原画の筆者の誤りに加えて転写した崑崙のミスが重なったものかも知れぬ。
銀[やぶちゃん注:その下の貨幣の中の字は「價」か。]
御藏花降銀
重サ二十匁[やぶちゃん注:七十五グラム。]
形不定
新泻銀[やぶちゃん注:「泻」は「潟」の略字。]
柏崎
村上銀
此品 皆
切てつかふ
[やぶちゃん注:最後は「切って使う」の意か? 集合体のものが連なっているのだろうか? 不詳。識者の御教授を乞う。]
銀小判
高田(たかた)関町古銀
重さ
二匁二分[やぶちゃん注:八・二五グラム。]
冒頭に述べた通り、以下は次の条で示す。]