北越奇談 巻之二 古の七奇
古(いにしへ)の七奇(しちき)
[やぶちゃん注:最初の名数は前と同じく処理した(原典は一字空けで連続)。注は各項目ごとに附した。]
燃土(もゆるつち)
燃水(みづ)
白兎(しろうさぎ)
海鳴(うみなり)
胴(ほら)鳴
火井(くはせい)
無縫塔(むほうとう)
其一 燃土、焚土(えんど)なり。米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池、同ク柿崎(かきざき)の裏田(うらた)の沼より出(いづ)る。又、三島郡竹森(たけもり)と云(いへ)る所、用水の溜池及(および)田の沼より出づ。其外、所々に多し。是、謂ゆる、桑田江海(さうでんこうかい)の変、上古、艸根木葉(さうこんぼくよう/くさのねこのは[やぶちゃん注:後ろの「/」以下は左ルビ。以下、同じ。]深く落(おち)重なりて、數(す)千年を積み、泥土(でいど/どろつち)のごとくなりたる物也。是を田家(でんか)の人、切(きり)上げて、日に干(ほし)、焚(たく)時は、卽(すなはち)、よく燃(もゆ)る。今尙、信州にも出(いで)、西國にもありと云へり。然れども、「日本書紀」に、『人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)五月、越國進二水土一可ㇾ代二薪油一者』とあり。上古、已に予が國より此一奇を出すこと、明(あきらか)なり。今年、文化庚午(かうご)まで千百四十三年に及べり。
[やぶちゃん注:「燃土」これは永らく「石炭」或いは「泥炭」とされてきたが(私は本文の叙述から今日まで何の疑問もなしに「石油」が染み込んだ腐葉土のようなもの思い込んでいた)、近年の研究では天然アスファルト(natural asphalt:土瀝青(どれきせい)。原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のもので、ここは地表面まで滲出した原油が、長い年月をかけて軽質分を失い、それが風雨に晒され、酸化されて出来た天然のそれ)であるとされる。既に縄文後期後半から晩期にかけて、日本海側の現在の秋田県・山形県・新潟県などで天然アスファルトは産出され発見されており、縄文人はこれを熱して、後の項に出る石鏃(せきぞく:石製の鏃(やじり))や骨銛(こつせん:動物の骨(ほね)で出来た銛(もり))などの漁具の接着や破損した土器・土偶の補修などに利用していた。
「焚土(えんど)野島出版脚注には、『「えんど」と振仮名がつけてあるが、正しくは「ふんど」又は「はんど」である』とある。
「米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池」現在の新潟県上越市大潟区潟町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「柿崎(かきざき)」前の潟町の東北の日本海沿岸にある現在の上越市柿崎区柿崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「三島郡竹森(たけもり)」先の柿崎より遙か東北の長岡市寺泊竹森。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「桑田江海(さうでんこうかい)の変」盛唐の詩人劉廷芝の名作「代悲白頭翁」(白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代はる)の「已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海」(已に見る 松柏の摧かれて薪(たきぎ)と爲るを 更に聞く 桑田の變じて海と成るを)で知られる「滄海變じて桑田となる」(但し、実際には同じ盛唐の詩人儲光羲(ちょこうぎ)の詩「獻八舅東歸」(八舅(はつきう)の東歸するに獻ず)の最終句「滄海成桑田」(滄海も桑田と成る)を出典とすると言った方が正しいようである)の誤り。原義は「青海原が桑畑に変わるように、世の中の移り変わりが激しいこと」を言うが、ここはそうした想像を絶した物質変性を言っている。
「切(きり)上げて」地中から伐り出して地表に掘り上げて。
「人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)」六六八年。
「五月、越國進二水土一可ㇾ代二薪油一者」原文に従って訓読すると「五月、越國(ゑつこく)、水土(すいど)を進(すゝ)めて可ㇾ代二薪油(しんゆ)に代(か)ゆべき者(もの)」であるが、この叙述を載せる「日本書紀」の伝本の当該箇所を私は見出すことが出来ない。識者の御教授を乞う。
「文化庚午(かうご)」文化七年。一八一〇年。崑崙の冒頭の凡例のクレジットの前年。「千百四十三年」か数えの計算であるからおかしくない。]
其二 燃水(もゆるみづ)、草生津(くさふづ)の油(あぶら)、卽(すなはち)、臭水(くさみづ)の油なり。頸城郡(くびきごほり)、凡(およそ)六ケ所。然れども、その大なるものは、蒲原郡草生津村、同新津(にいつ)村、同柄目木(からめき)村、同黑川館村(くろかはたてむら)等(とう)なり。出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)と云ふ所、海中に出(いづ)ツ[やぶちゃん注:ママ。「出づ」の衍字か。]。如ㇾ此(かくのごとく)、所々(しよしよ)、水中(すいちう)より、油、混じはりて、沸出(わきいづ)るを、草(くさ)にしみ付(つけ)、採ること也。然(しか)れども、如何なる油なることを知らず。水の臭きが故に「くさ水の油(あぶら)」と稱す。張華が「博物志」ニ『石泉脂石漆(せきせんしせきしつ)』、李時珍が「本艸(ほんさう)」に『石腦油(せきのうゆ)』又『石油(せきゆ)』『山(さん)油』、「酉陽雜記(ゆうようざつき)」ニ『石脂水』と云へる、皆、此類(たぐひ)か。今、此邦(くに)の醫(ゐ)、是を「石腦油」に當(あて)、用(もちゆ)るに、甚だ効ありと云へり。予是を按ずるに、これも又、焚土(えんど)のごとく、數(す)千年前(ぜん)、松柏(しようはく)の古木大材(こぼくたいざい)、土中に落入(おちいり)たる、松脂(まつやに)の腐水(ふすい)と覺ゆ。其故は、甚(はなはだ)、油煙(ゆえん)多く、松の匂ひあり【或人云、「松脂は茯苓となり、琥珀となる、何ぞ油となるの理あらん、是は只、土中の油なるべし」と。然らず。松脂、其樹より自然に滴り落(おち)、土中に凝塊するもの、化して茯苓・琥珀ともなるべし。これは土中に含みたる松脂にして、水土の底に腐爛せるものなればなり。只、「土中自然の油(あぶら)」と云はんも暗愚の說と云ふべし。】。殊に、上古、北越は、如何なる山谷水土の変ありにしや、所々(しよしよ)、水底(すいてい)・沼田の下(した)、多く埋木(まいぼく)の大なるものを出(いだ)すこと、はかりがたし。近頃、圓淨湖水(えんじようこすい)の底、樋(ひ)、掘り拔きの所、數(す)丈の土中より、立木(たちき)のまゝなる埋木(まいぼく)數(す)十を出すと云へり。何(いづ)れ、其奇、可ㇾ察(さつすべし)。此二奇(にき)、卽(すなはち)、『可ㇾ代二薪油一(しんにかゆべき)』ものなり。
[やぶちゃん注:言わずもがな、石油。
「蒲原郡草生津村」旧新潟県古志郡草生津町(くそうづまち)内。現在の新潟県長岡市草生津。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「新津(にいつ)村」現在の新潟市秋葉(あきは)区新津本町周辺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「柄目木(からめき)村」新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。新津の南東直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「黑川館村(くろかはたてむら)」現在の新潟県胎内市のこの附近か(グーグル・マップ・データ)。
「出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)」現在の新潟県三島郡出雲崎町勝見に「蛇崩丘(じやくずれおか)」という場所を見出せる。位置はマッピン・データのこちらで確認されたい。古く或いは近くに大きな崩落のあった場所には「蛇崩」の名が各地でつく。地中を巨大な蛇が移動したと考えられたり、激しい帯状の崩落の跡が蛇のように見えたからであろう。
『張華が「博物志」』晋の政治家文人張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物書。散逸しているが、恐らくは次の「本草綱目」の記載(張華「博物志」載、『延壽縣南山石泉注爲溝、其水有脂、挹取著器中、始黃後黑如凝膏、燃之極明、謂之石漆。』(下線太字やぶちゃん)からの半可通な孫引きであろうと私は思う。
『李時珍が「本艸」』明の本草学者李時珍(一五一八年~一五九三年)の著した「本草綱目」。以下は、「金石之三」に「石腦油」として項立てされてある。中文ウィキのこちらで原文が読める。その「釋名」では「石油」「石漆」「猛火油」「雄黃油」「硫黃油」を挙げるが、ここで崑崙が示す「山油」という異名は出ない。不審である。
「酉陽雜記」唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる主に怪異記事を集録した博物学的大著「酉陽雜俎(ゆうようざつそ(ゆうようざっそ)」の誤り。「卷十 物異」の以下。
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石漆。高奴縣石脂水、水膩浮水上如漆。採以膏車及燃燈、極明。
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自然流で訓読すると、
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石漆(せきしつ)。高奴(かうど)縣の石脂水(せきしすい)、水の膩(あぶら)の水上に浮きて漆(うるし)のごとし。採りて以つて車に膏(あぶらさ)し、及び燈(ひ)に燃(も)さば、極(いみ)じく明(めい)たり。
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これは確かに「石油」のことと考えよい。東洋文庫版の今村与志雄の訳注でもそう推定注されてあり(この部分の注は詳細を極める)、『現在、この地方に玉門油田(中華人共和国成立後、最初に開かれた油田)がある』ともある。「高奴縣」現在の陝西省延安市北東部を流れる延河北岸地域に相当する秦代の古い県名。後漢末には廃されている。この附近か(グーグル・マップ・データ)。
「甚だ効あり」先のリンク先の「本草綱目」の「主治」を見ると、「小兒驚風」(小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当)・「瘡癬蟲癩」(疥癬や虫刺されによる皮膚の壊死をいうか)・「針箭入肉」(尖ったものが筋肉まで刺さって折れたもの状態を指すか)に処方するとある。
「松脂(まつやに)」主成分はテレビン油(C10H16)とロジン(アビエチン酸などの樹脂酸を主成分とする樹脂の総称)。因みに、石油の主成分の殆んどは炭化水素で、それに種々の炭化水素混合物が混じり、その他にも硫黄化合物・窒素化合物・金属類も含まれている。崑崙が拘るように松脂が石油になったわけではないが、構成元素は確かに同じ炭素と水素ではあるし、この反論した知ったか男の謂い方は確かにひどく気に食わない。やれ! やれ! 崑崙先生!
「茯苓」「ぶくりやう(ぶくりょう)」は漢方薬に用いる生薬の一つ。茸の一種である松の根に寄生する松塊(まつほど:菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa )の菌核を乾燥させたもの。健胃・利尿・強心等の作用を持つ。
「琥珀」植物の樹脂が化石となったもの。黄褐色か黄色を呈し、樹脂光沢を持ち、透明か半透明。石炭層に伴って産出する。
「圓淨湖水(うえんじようこすい)」野島出版脚注によれば、正しくは「圓上寺湖」であるとし、『信濃川の悪水を円上寺より隧道によって寺泊町を横断して日本海に注ぐもの』とあるが、この湖(後掲するように「潟」)は現存しない。現在の新潟県長岡市寺泊下曽根附近(ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した「円上寺潟」のことである。新潟県公式サイト内のこちらのページに、この附近は『下曽根地域付近に円上寺潟と称する』五百『ヘクタール余りの湖沼の低湿地が広がる水害常襲地帯』で、『また、地域を縦貫していた島崎川は、現在の燕市(旧分水町牧ヶ花)地先で西川と合流し、地域の用水源としても重要な機能を果たしてい』たものの、『梅雨や秋雨の頃になると』、『西川からの悪水が逆流し』、『一帯は湛水し、一大湖沼の様相を呈してい』た(これが、崑崙が「湖水」と表現した所以であろう)。『円上寺潟の干拓は』承応元(一六五二)年から『始まり、日本海への排水も計画され』『たが、丘陵地を通過すること、膨大な費用がかかることなどからその当時は、排水先を島崎川筋から西川に求めざるを得』ず、『その後、島崎川筋への排水路の整備を進め』ものの、『排水口にある村々の反対などに遭い、思うように工事が進』まなかった。そこで、寛政一〇(一七九八)年、『渡部村地内(旧分水町)から丘陵地を掘り抜き、野積村須走浜にて日本海に直接排水する計画』(排水路延長四千九十メートルの内、隧道部分は実に千百八十一メートルあった)『が再び立案され』、寛政一二(一八〇〇)年『より工事が始まり』、文化一二(一八一五)年『に竣工し』た。しかし、それでも『潟の完全な排水はできず』、その悲願は『明治以降の大河津分水路の完成まで』『待たなければなか』ったとある、その隧道のことをここで「湖水の底」に「樋(ひ)」を「堀り拔」いた、と言っているのだと私は読む(下線太字はやぶちゃん)。本書の刊行は文化九(一八一二)年であるから、この隧道掘削の時期と矛盾がないからである。
「數(す)丈」一丈は三・〇三メートル。]
其三 白兎(しろうさぎ)は諸州共に是ありと雖も、他邦の白兎は、卽(すなはち)、其質(しつ)にして、生(むま)るゝより、白く、冬・夏ともに相同じ灰色なるは、その常なりと。越國(ゑつこく)に產する所は、春の末より秋の終りまでは盡(ことごと)く灰毛(はいげ)にして、白は絕(たへ)て、なし。冬は、卽、淸白(せいはく)に雪の凝(こ)れるがごとし。春・秋も尙、斑(まだら)なるものだに見ず。去(さんぬ)ル安永年中、古志郡(こしごほり)の内(うち)より、黑頭(くろかしら)の白兎を出(いだ)せしことあり。近世に至ては、奧羽、又、信州・加賀・越中・佐州などにも、白兎、予が國のごとしと云へり。然(しか)れども、「年代實記」に、『寶龜五甲寅從二越國一獻白兎』とあり。此國、他邦に先立(さきだ)ちて、奇と稱すること、如ㇾ此(かくのごとし)。凡(およそ)三奇、今、猶、諸州に同類出ると雖も、證書(しようしよ)、明(あきらか)なるを以(もつて)、他邦の產は盡(ことごと)く越國(ゑつこく)の餘流と云ふべし。
[やぶちゃん注:これは冬季に雪深い越後なれば、そこに棲息する野兎(哺乳綱ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus )の体得した保護色に過ぎないと思われる。
「安永」一七七二年~一七八一年。
「古志郡」旧越後国の同郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。位置や歴史(非常に古くは越中国に属した)はウィキの「古志郡」で確認されたい。
「佐州」佐渡国。
「年代實記」不詳。野島出版脚注にも『この名の本は明らかでない』とある。幾つかの文字列の組み合わせで試してみたが、ネット上でも掛かってこない。
「寶龜五甲寅從二越國一獻白兎」「寶龜五甲寅(きのえとら)、越國より白兎(はくと)を獻ず」。]
其四 海鳴(うみなり)は晴天と雖も、雨ならんとする時、已ニ海潮の響(ひゞき)、五、六里に聞へ渡りて、南にあり。風雨の日も晴んとする時は、北に聞ゆ。是を以つて、國人(くにうど)、陰晴(いんせい)を占ふ。今、九州灘ニ是と類(るい)する所ありと云へり。然(しか)れども、予が國、此(この)奇、先達(さきだつ)て有(ある)により、今、好事の者、九州灘の中に聞出せりと覺ゆ。予是を按ずるに、數十里の海潮、大山(たいさん)の插(さしはさ)むところ、必ず、汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし。然(しか)れども、陰晴(ゐんせい)に、其氣、自然と南北すること、北越の海に限る、と云へり。故に以(もつて)、奇となすか。唯、享德年間の舊記に此奇を擧げたるを見る。
[やぶちゃん注:これは激しい上昇気流や逆転層などの海域の大気上の変化によって、通常は聴こえない遠くの岩礁や暗礁或いは岩礁性海岸にぶつかる波濤の音が、ごく近くで聴こえる現象のように思われる。遠雷の可能性を挙げる方もおられようが、崑崙は「海鳴」「海潮」「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」等、完全に海の波の砕ける音として述べており、「雷の音」と思われるような記載は一切していないことから、それは排除されると思う。また、天候が悪化するのは上昇気流につきものである。私は高山の山頂で下界の市街の音がびっくりするほどすぐそこのように聴こえるのを何度か経験したが、概ね、その後に雨雪となった。
「九州灘」玄界灘のことか。後の「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」辺りからは周防灘とも思われなくもない。
「享徳」一四五二年から一四五四年。足利義政の治世。
「舊記」不詳。]
其五 胴鳴(ほらなり)は秋晴(しうせい)の日、風雨ならんとする時、必、是を聽く。例へば、雲中(うんちう)より雷(らい)の轟き落(おつ)るごとく、雪の高山(かうざん)より雪崩れ落(おつ)るがごとき聲ありて、何處(いづ)くとも定めがたし。頸城郡には黑姬嶽(くろひめだけ)と云へ[やぶちゃん注:ママ。]、蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)とも云ふ。又、岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山とも云へり。其響(ひゞき)、更に遠近(えんきん)なし。俗の諺に、昔、奧州阿部の族徒、黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)と云へる者あり。八幡太郞義家のために討(うた)れ、其頭(かしら)と胴(どう)と兩斷して埋(うづ)む、と【今、蒲原郡鎧潟の辺、黑鳥村八幡の神社あり。其下、時々震動して、此音をなす。】然(しか)るに、其胴、其頭と合(がつ)せんことを欲して此鳴動をなせりと云へ傳ふ。一笑すべし。今は、此奇、稀に聞(きく)ことなり。只し、黑鳥の村、二、三里の間(あいだ)は、今、猶、此動鳴(どうめい)ありて、其方角、紛ふべくも在ず、黑鳥八幡の社地なり、と云へり。又、黑鳥村の人は、前々(ぜんぜん)より、更に此鳴動を聞こと、なし。他(た)に出るときは、卽(すなはち)、聞(きく)。是、又、一奇なり。予近頃、丙寅(へいゐん)の秋、米山(よねやま)より西北の海邊(かいへん)にて聞(きゝ)しは、山の鳴るにあらず、海潮の響、地に接して、此動鳴をなすなるべし。是を以(もつて)按ずるに、頸城郡の海は能登の北涯(ほくがい)を外(はづ)れ、佐州の南浦(みなみうら)を離(はな)れて、大洋數(す)千里の海潮、玆(こゝ)に、的(てき)する所なれば、此響(ひゞき)をなす、と覺ゆ。是、卽、數(す)千里の外(ほか)、風雨氣(き)ざし起こる時は、其氣、海上を走りて、地に徹接(てつせつ)する所、即、其氣、地を押し、山谷(さんこく)に徹して、鳴動す。凡(およそ)、氣を以つて氣を製[やぶちゃん注:ママ。「制」。]するとは、此理(り)にして、方(まさ)に風(かぜ)ならんとする時は、窓戸(そうこ)先(まづ)ツ鳴り、雨ならんとする時は、煤(すゝ)、自然に落(おつ)。頭(かしら)痒く、氣鬱(きうつ)し、魚(うを)、躍(おど)り、猫兒(びようじ)獨り、狂ふ。是、自然にして、其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)るものなり。されば、晴天、波(なみ)風、靜かなる折にも、浦々(うらうら)、胴鳴(どうめい)する時は、必、風雨あり。胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん。此義を以つて擦(さつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]すれば、越後にのみ限るいはれ、なし。他邦、いまだ穿鑿の至らざる所か。只し、地勢によるか、黑鳥の一奇か。
[やぶちゃん注:これは崑崙も疑義を挟んでいるように(崑崙は最終的に「海鳴」と同じ現象と断じ、それが陸の山地地形によって増幅されたものと考えているようである)、「海鳴」との差異が明確でない。当初、私はまず、①遠雷の可能性を考えた。次に「胴鳴」という呼称から、ある程度、有意に地下或いは海底の下方などで発生するものと考え、その場合は、②天然ガス(「其七」の火井(かせい)を参照)或いはメタンガス等、又は、近年、多量の埋蔵が確認されているメタンハイドレートの圧力の高まりによる爆発音或いは土中空所等でのそれらの自然発火を想定した。最後に、③断層帯などのある場所で発生する地鳴り(或いは地震のプレ現象)と考えた(しかし、崑崙は、その鳴動のある地域で、遙か以前或いはその後に大きな地震が発生し、ひどい災害を受けたなどということは一切記していない。ただ、地震災害のスパンは長いから、崑崙がたまたま経験しなかったことの方は特におかしくはなく、かのかつての大規模な新潟地震は私自身の記憶にも鮮明ではある)。しかし不審なのは、何よりも近代以降、こうした体験事実(特に②が原因とするなら)が聴こえてこないことである。本当にそうした自然の地中の化学物質によって爆裂震動などの現象が起こっていたのであれば、それは近代の諸記録にも記され、公機関はその異常音に危険性を察知し、速やかに調査するはずであろうが、そうした新潟県での事実を私は寡聞にして知らないことである。但し、③の地震災害調査予防のための調査は行われており、新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)の河内一男氏の「地震鳴動(地鳴り)予知された地震」には、何と! 「§2 橘崑崙著『北越奇談』に見る鳴動」という章でこれを『小規模地震に関連した地震鳴動』の江戸期の科学的古記録として位置付けておられる。必読!
「頸城郡には黑姬嶽(くろひめだけ)」新潟県糸魚川市にある黒姫山(くろひめやま)。標高千二百二十一メートル。
「蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)」先の河内の記載から、守門岳(すもんだけ:新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る標高千五百三十七・二メートルの山)と粟ケ岳(あわがたけ:新潟県加茂市と三条市の境で新潟県のほぼ中央にある標高千二百九十三メートルの山)と判明。
「岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山」原典では「外道山」のルビが黒く抜け落ちている。やはり、先の河内氏の記載から新潟県村上市山辺里(さべり)にある下渡山(げどやま)と判明。標高二百三十七・八メートル。なお、以上の山の位置も河内氏のページの地図に総て示されてある。
「奧州阿部」安倍貞任(さだとう 寛仁三(一〇一九)年~康平五(一〇六二)年)及びその弟宗任(むねとう 長元五(一〇三二)年~嘉承三(一一〇八)年:鳥海柵の主として「鳥海三郎」とも称された)の一族。兄貞任は前九年の役で源頼義・義家父子と戦って敗死し、弟宗任は降服、義家によって都へ連行され、四国の伊予国に配流、治暦三(一〇六七)年には筑前国宗像郡筑前大島に再配流させられた。
「黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)」ウィキの「黒鳥兵衛」によれば、『越後国の伝説上の人物』とする。『伝説によれば、平安時代の後期、安倍貞任の残党であった黒鳥兵衛は越後国へ入ると』、『悪逆非道の限りを尽くし、朝廷の討伐軍をも打ち破った』。『困り果てた朝廷は、佐渡国へ配流となっていた源義綱』(?~長承三(一一三四)年?:頼義の子で義家の同母弟。後三年の役には下向せず、以後義家に代わって朝廷に重用された。天仁二(一一〇九)年に実子義明が源義忠暗殺の嫌疑で殺害されたのに怒り、出京したが、追捕され、佐渡に配流となった。歴史的には帰京後に自殺したとされている)『を赦免し(あるいは源義家とも言う)黒鳥兵衛の討伐に当たらせた』。『黒鳥兵衛は妖術を使って抵抗するが、次第に追い詰められ、現在の新潟市南区味方の陣に立てこもった。当時、このあたり一帯は泥沼で、容易に歩ける場所ではなく、攻めるに難しい陣であった』。『攻めあぐねていた源義綱は、ある日、一つがいの鶴が木の枝をくわえて来ると、それを足に掴んで沼の上を歩くのを見た。「これこそ神の御加護」と、かんじき(竹などで作った輪状又はすのこ状の歩行補助具で、足に着け、雪上や湿地などで足が潜らないようにする。)を作り、兵に履かせて一気に攻め込んだ。不意を突かれた黒鳥兵衛は、ついに討ち取られ、首をはねられた』。「かんじき」発明の始祖とされ、『かんじきの緒を立てた場所が現在の新潟市西区黒鳥緒立』とされ(ここ(グーグル・マップ・データ)。以下の地名もこの周辺に集まっている。地図を拡大されたい)、『黒鳥兵衛の斬られた首の落ちた所が現在の新潟市西区黒鳥である』と伝え、『これが、黒埼という地名の起源となった』という。『黒鳥兵衛の首は塩漬けにされ、埋めた場所に首塚が造られ』、『この地に鎮護のために建てた祠が緒立の八幡神社である』とされる(ここ(グーグル・マップ・データ)先の地図内であるが、先の地図ではこの神社は示されないので再度、リンクさせた。「新潟市文化スポーツ部文化政策課」公式サイト内の「緒立八幡宮」のページも是非、参照されたい)。『塩漬けの首により、塩分を含んだ水が地中から湧き出している』とされ、これが現在の緒立温泉(鉱泉)であるという。ここに本記載の内容が出、時折、『空に轟音が轟くことがあるという。人々は、首を切られた黒鳥兵衛の胴が首を求めて咆哮すると言い、「胴鳴り」と呼んで恐れた』とある。『このように、黒鳥兵衛の伝説は越後国一帯を舞台とする壮大な軍記物で、伝説ゆかりの地は、新潟市黒埼地区を初め、新潟県北部に広く分布する。緒立からは緒立遺跡や的場遺跡といった古い住居跡が見つかっているが、黒鳥兵衛伝説は史実に基づくものではなく、後世の創作と見られている』とある。こういうピカレスク・ロマン、とっても好き!
「蒲原郡鎧潟」現在の新潟市西蒲区鎧潟にあったかつてあった面積約 九平方キロメートルの潟。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓が始められ、明治末期までに半分が耕地となった。但し、ここは先の黒鳥地区からは南南西に十一キロも離れていから、「黑鳥村八幡の神社あり」というのはちょっと解せない。現在、新潟市県新潟市西蒲区巻甲(鎧潟の南西近く)に八幡宮(といっても、ただの小さな石の祠。個人サイト「新潟県神社探訪」のこのページを参照)はあるにはあるが、新しい(刻印は昭和五(一九三〇)年七月という)。これは潟の完全干拓後に移されたものと考えてよいように思われるが、にしても黒島と鎧潟の距離は如何ともしがたい。識者の御教授を乞う。
「丙寅(へいゐん)」文化三年丙寅(ひのえとら)はグレゴリオ暦一八〇六年。
「米山(よねやま)」既出既注。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「佐州の南浦(みなみうら)」前に「能登」半島を指してあるから、佐渡島の小佐渡の本土側を広域に指していよう。
「的(てき)する」目指す。対馬海流の中の本土側の流れは能登を舐めて富山湾沖を回って佐渡海峡を北上する。
「徹接(てつせつ)する」野島出版脚注に『つきさゝる』とある。
「此理(り)にして」「此」は強調の「これ」であろう。
「風(かぜ)ならん」後の「雨ならん」とともに、プレの状態(風が吹かんとしている直前、雨が降ろうとしている直前)を指している。
「先(まづ)ツ」以前にもあったが、これは以降にもまま見られるから、これは例えばこの場合、「まづ」の積りで「先ツ」と本文を刻印したにも拘わらず、ルビだけを集中して後から彫った結果、ダブった、結果的に衍字となってしまったものであろうと私は推測する。以後に出ても注記はしない。
「頭(かしら)痒く」原典・野島出版版ともに「痒く」は「かゆく」と平仮名。推定して漢字化した。
「猫兒(びようじ)」子猫。ここまでは、大気圧や気温・湿度の変化を、人の器官や心理及び動物が事前に察知(予兆)すること(それを崑崙は「其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)る」と言っているのである)を示している。
「胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん」崑崙先生に諸手を挙げて賛同する。黒島の胴体が鳴るというのは洒落にもならない、あまりに牽強付会の駄解釈である。]
其六 無縫塔(むはうとう)は蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)門外、溪流數十尋(すじうじん)の渕(ふち)囘(めぐ)りて、百歩ばかりの間(あいだ)、岸、平かに、亂石(らんせき)、磊落(らいらく)たり。此寺、住僧入寂三年の前、必、此渕より墓所の印(しるし)となせる石一ツ、岸の上に上ぐることなり。其石、常躰(つねてい)の石に異なるにもあらねど、自然にして來徃(らいわう)の人、誰(たれ)云ふとなく、「是こそ無縫塔なり」と。衆目の指す所、皆、一(いつ)なり。其奇怪、如何なることとも量りがたし。一トたび、衆人の名付(なづく)るより、其石、幾度(いくたび)、渕に抛入(なげいる)れども、一夜(いちや)にして、また、もとの所に上げ置く、となり。先年、住職の和尙、其石を渕に投入(なげいれ)て曰、「我、大願あり。いまだ死すべからず」とて、其場より、寺を出(いで)て、再び歸らざりしに、命(いのち)恙(つゝが)なく、長壽なりし、と云へり。其奇、甚(はなはだ)し。予此所に到りて、寺の墳墓を見るに、已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり。信州四部(しぶ)の溫泉寺(をんせんじ)、此奇と相同じと云へ[やぶちゃん注:ママ。]傳ふ。予いまだ其地に至らず。知る人に詳しく聞得(きゝえ)しに、水底(すいてい)より無縫塔の形を ★ 作りなして上ぐると云へり。甚(はなは)タ、訝(いぶか)し。追(おつ)て考ふべし。只し、此一奇は怪と云ふべきのみ。
[やぶちゃん注:★部分には、以下の画像が入る(今まで通り、野島出版のもの。早稲田大学古典データベースのものは許可を得ないと使用出来ない)。原典のものはもっと太目である。但し、無縫塔(卵塔)の形状としてはこの野島出版のものの方がよく模していると言える。但し、頭頂部はこんなに有意には尖らないので注意されたい。
なお、この話、崑崙も最後に言い添えている通り、この古えの七奇の中で、自然現象としては唯一全く説明出来ず、人為によるものでないとすれば、確かに純然たるただ一話の怪奇譚と言える。しかし、どうもこれ、私には、檀家或いは土地の者の中に、代々、そういう闇の予兆を司る者がいたのではないかなどとも思うのである。その証拠に、例として崑崙の挙げた、石が上ると同時にここを去った和尚は長寿を全うしている。石が上るのが、死の三年も前というのもはたから見ると間が抜けているように見えるが、しかし、死病でもないのに寿命を三年に限られておいて平然と住持を続けるというのも僧とは言え、はなはだ苦痛であろう(少なくとも私なら苦痛である)。気にくわない住持を追い出すため、或いは、心理的に追い詰めて精神的に弱らせて死に至らせるか、実際に殺害に及んだケースもあるやも知れぬ。後に俗説の「奇」の中に「即身仏」が出るが、即身仏の木乃伊(ミイラ)の一部は秘かに霊薬とされ、実際に売買されたようである。また、東北に限らず、本邦では国外からの旅人などの行路死病人や、放浪してきた異邦人を確信犯で殺害し、それを、洒落ではないが、即席に、即身仏化、ミイラ化して、それを即身仏の妙薬として売っていた事実が実は確かにあったと思われる。そんなことを派生的に想像してみると、ますますリアルにホラーではないか。まんず、この寺の実在が不明なのをいいことに勝手に感想を記させてもらった。悪しからず。
「無縫塔」若い読者のためにウィキの「無縫塔」を引いておく。『主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)』で、『塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また』、広義に古くより普通の『墓場のことを「卵塔場」と』も称する。『形式としては二種類あり、一つは基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせるものである。もう一つは、基礎の上に六角または八角の竿と呼ばれる台座の上に中台、請花、卵形塔身がのる。卵形塔身は前者のほうが長く、後者は低い。基礎の下には脚、返花座(かえりばなざ)が据えられることが多い。また、竿、中台、請花には格座間などの総力が施されている場合がある。卵形塔身は、時代によって形が微妙に変化する。なお、この卵形塔身に縫い目がない(一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名がある』(各部の配置はリンク先を参照されたい)。『中世期の石塔は、それまでのもろい凝灰岩から硬質の花崗岩や安山岩の利用といった材質の変化、また関東に入った大蔵系石工の活躍、技術の進歩、大陸から入った禅宗を含む鎌倉新仏教の台頭などによって、複雑な形を持った新たな形式が数多く登場した。平安期からの五輪塔をはじめ、鎌倉期には宝篋印塔、板碑、狛犬などが新たに造られるようになった。 無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持の墓である』。但し、この話の怪石は自然石で、村人がその川から自然に岸に上って来る妖石を「無縫塔」と呼んでいるものなので注意されたい。
「蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)」現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。同寺の公式サイトの「アクセス」の地図を見られたい(グーグル・マップ・データにはポイントされていないからである。「ストリートビュー」のここで、辛うじて、寺の名を記した門前の写真が見られる。この写真にある川が、ここに出る川と考えてよかろう)。ぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡巡り」の「おぼと石/五泉市」で、この寺を本話の舞台としておられ、その淵から揚がる石を「おぼと石」と呼ぶとある。本歩柑子は大高興氏なる方の「北越奇談」の現代語訳から引用をされており、その冒頭は『中蒲原郡河内谷、陽(永)谷寺門外の渓流数』十『尋(ひろ)』(七十メートルほど)『のふちを回って、百歩ばかりの間は平になっていて、岩石がうず高く積っております』。『この寺の住僧が死ぬ』三『年前までは、必ず毎年ふちから墓印のついた石が一つずつ岸に上がります』(以下略)とあるから間違いない(なお、私は「北越奇談」の現代語訳があるということは情報としては知っている。しかし、所持していないし、買うつもりも、ない。本電子化をすべて終えた後になら買ってもいいとは思っている。私は本書に限らず、原文を載せないただの現代語訳というものに対して、生理的な激しい嫌悪感を持っているからである)。そこに画像で示された現地の説明板「オボト石」によれば、雷城(いかずちじょう:新潟県五泉市雷山(いかづちやま)に築かれた中世の山城。築城時期・築城主ともに不明。戦国時代には越後と会津蘆名氏との領界の城として重視され、天正一七(一五八九)年に蘆名氏が伊達氏に滅ぼされると同時に廃城となっている)落城の際、城主の一人娘菊姫が東光院淵に身を投じたが、永谷寺の大潮和尚の功徳によって成仏し、淵の龍神と化したという(「成仏」して「龍神」というのは私にはやや解せぬ)。それに感謝し(感謝して死を告げるというのも私には解せぬ)、歴代の住職が亡くなる七日前になると、淵から墓石となる丸い石を届けるようになったという。村人達はこの石を「オボト石」と呼び、毎年、般若会には見知らぬ女性が法会の席に座っており、これは菊姫の化身がお参りに来ると伝えられているとある(「越後村松 桜藩塾」という署名が最後にある)。「おぼといし」は「むほうとう」と発音が似ている。
「數(す)十尋(じん)」水深としての一尋(ひろ)ならば六尺で約一・八メートルであるが、これでは深過ぎる。淵の周囲の距離としておこう。百八メートル前後か。永谷寺の西方山下には早出川というが川が流れてはいる。
「磊落」原義使用で、石が多く積み重なっているさま。
「已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり」ということは、人が彫った無縫塔以外に、そうでない自然石に見えるものが、十四、五も卵塔場(この場合は住職その他のその「陽谷寺」関連の僧侶の墓所という狭義の意で用いた。一般に寺僧の墓は墓所の中でも一定区画に纏められてある)に存在したと崑崙は言っているのである。しかし、この寺の創建が古いものであったとすれば、古えの僧の無縫塔が風化して自然石のように見えたとも解釈可能ではある。粗悪な砂岩などを用いれば、風雨にさらされれば短期で崩落してしまうからである。
「信州四部(しぶ)の温泉寺(おんせんじ)」現在の長野県下高井郡山ノ内町(まち)にある渋温泉の横湯山温泉寺。嘉元三(一三〇五)年、京の臨済宗東福寺の虎関師練国師が草庵を建てて温泉の効能を教え、弘治二(一五五六)年に佐久曹洞宗貞祥寺から節香徳忠禅師を招いて開山、武田信玄が永禄七(一五六四)年に伽藍を寄進し、寺の紋を武田菱とした。川中島の戦いの折りには武田方の湯治場となっていた(ウィキの「山ノ内町」に拠る)。]
[やぶちゃん注:北斎のもの。右中央上に「入方村 火井の図」のキャプション。]
其七 火井(くはせゐ)、三條の南一里ばかり山の麓、入方村(によほうじむら)【卽、入方寺村なり。又、妙法寺、又、如法寺とも云ふ。】某(それがし)と云ふ百姓の家、炉(ろ)の角(すみ)に石臼を置き、其穴に竹を差し、火をかざせば、卽、声ありて、火移り、盛(さかん)に燃(もゆ)ること、尺ばかりならん。縱橫に竹を組み上ぐれば、其竹の孔(あな)ごとに、皆、火、燃ゆる。竹を少し引(ひき)上ぐれば、央(なかば)は火絕(たへ)て、無く、上にばかり、火、盛んなり。皆、土中より登れる氣の燃ゆるなるべし。一說に硫黃(ゐわう)の氣と云へれど不ㇾ然(しからず)。硫黃は、卽、火遠く土中に入(いり)て、地中も又、燃(もゆる)なり。是は、必、臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし。凡(およそ)、國中(こくちう)、是に類する所、甚だ多し。柄目木村(からめきむら)、卽、入方村(によほふじむら)に同じ。寺泊大和田山(おほわだやま)の間(あいだ)、少しの水溜(みづたま)りありて、冷水なれども、常に湯の沸くがごとく泡立(あはだち)てあり。是に火をかざせば、忽、然(もゆ)る。その他(ほか)、栃尾(とちを)の鄕(ごう)比禮(ひれ)と云ふ所、山澤(さんたく)の水に火をかざせば、水上に、火、燃(もゆ)る。魚沼郡一ノ宮村山間(やまあい)の澗流(かんりう)に火を移せば、三尺ばかり上にて、火、燃ゆる。古志郡見附川(みつけがは)、舟渡(ふなわたし)ある所、川原(かはら)の砂に管(くだ)を刺し、火をかざせば、幾所(いくところ)も燃(もえ)て不ㇾ絶(たへず)、甚(はなはだ)夜行(やこう)に便(たより)あり。其余(そのよ)、所々(しよしよ)に多し。頸城郡(くびきごほり)上野尾(うへのを)の原(はら)、谷間より風の出る洞(ほら)ありて、火を移す時は、忽、空中に、火、燃(もゆ)ること、如二車輪一(しやりんのごとし)。又、同郡(ぐん)[やぶちゃん注:ここまで他は総て「郡」は「こほり」「ごほり」であるので特異点の読みである。]吉村(よしむら)、大滝氏(おほたきうじ)、近來(きんらい)、井(ゐ)を掘(ほり)しに、烟草(たばこ)の吹殼(ふきがら)より火移り、井中(ゐのうち)く燃上(もえあが)りて、數日(すじつ)消えず。甚(はなはだ)奇なり。水戶赤水(みとせきすい)先生、此一奇を以つて甚(はなはだ)賞す。卽、「琅耶代醉(ろうやたいすい)」に火井(くはせゐ)の說を擧(あ)ぐ。又、「大明一統志(だいみんいつとうし)」にも、『蜀地(しよくち)雲南(うんなん)に有二火井一不過二三所(くはせゐあり にさんしよにすぎず)』[やぶちゃん注:後半返り点なしはママ。]とあり。赤水(せきすい)の「奧羽記行」に、卽身佛・逆竹(さかさだけ)・八房梅(やつふさのむめ)等(とう)を七奇に擧げて、『越人、是等の白癡(たはけ)を奇と思へるも可ㇾ笑(おかし)』と謗(そし)れり。甚だ誤れるならずや。赤水、偶(たまたま)、此國ニ至り、農夫・商客等(ら)の蒙說を聞(きゝ)、北越には人なきがごと、思へたるなるべし[やぶちゃん注:ママ。]。何ぞ再び、知者を求めて尋ね聞(きか)ざるや。赤水の博識には淺々(あさあさ)しき說と云ふべし。又、此火井(くはせい)を賞して、『是、陰火にあらず、陽火にあらず』と云へり。是、又、誤れり。硫黃の火を以(もつて)是に移せば、卽、燃(もゆ)る。是、陽火にあらずして何ぞや。陰火は陽火に遇ふ時は、忽、消(きゆ)るものなり。
右は古の七奇なり。
[やぶちゃん注:これは天然ガスである。石油が地熱で温められて気化し、概ね、地層が地上に向かって山型に曲がった部分に溜まったもので、成分の殆んどはメタン(CH4)で、有害な一酸化炭素は含まれていない。空気より軽いため、家屋内では高い所(天井)に貯留する。「臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし」という崑崙の認識は科学的も正しい。
「入方村(によほうじむら)【卽(すなはち)、入方寺村なり、又、妙法寺、又、如法寺とも云ふ。】」現在の新潟県三条市如法寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「竹を少し引(ひき)上ぐれば、央(なかば)は火絕(たへ)て、無く、上にばかり、火、盛んなり」これは、竹を有意に引き上げた際には、引き上げた際に臼と竹筒の隙間から酸素が多く供給されて完全燃焼するから、燃える炎の中心部分(芯)が青く透けて燃えていないように見える、ということのように私は読んだ。
「硫黃は、卽、火遠く土中に入(いり)て、地中も又、燃(もゆる)なり」崑崙が温泉地などで黄色くなった高熱の噴煙孔を観察した際の認識に基づくものか?
「柄目木村(からめきむら)」既出既注。新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「寺泊大和田山(おほわだやま)」地域名としては現在、新潟県長岡市寺泊大和田がある(ここ(グーグル・マップ・データの航空写真))。この地域か、その周辺のピークを指すか。この地区と北の寺泊の本地区との間には、上記のリンク先を地図に切り替えて見ると、確かに現在でも数箇所の池沼らしきものを確認出来る。
「栃尾(とちを)の郷(ごう)比禮(ひれ)」現在の新潟県長岡市比礼。ここ(グーグル・マップ・データ)。東直近に栃尾地区が広がる。
「魚沼郡一ノ宮村」現在の新潟県小千谷市内(ここ(グーグル・マップ・データ))ではあるが、それ以上の限定が出来ない(合併前の旧村名などから推理したが、結局、だめであった)。識者の御教授を乞う。
「澗流(かんりう)」野島出版脚注に『谷川の流れ』とある。
「古志郡見附川(みつけがは)」地名からは現在の新潟県見附市(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、同市内を流れる渡しの必要な大きな河川は現在は刈谷田川(やりやたがわ)という名である。それ以上の「舟渡(ふなわたし)ある所」の「川原(かはら)」までは比定不能。識者の御教授を乞う。
「頸城郡(くびきごほり)上野尾(うへのを)」不詳。全くお手上げ。識者の御教授を乞う。
「同郡(ぐん)吉村(よしむら)」不詳。全くお手上げ。識者の御教授を乞う。
「大滝氏(おほたきうじ)」不詳。
「水戶赤水(みとせきすい)先生」崑崙と同時代人である水戸藩の地理学者で漢学者でもあった長久保赤水(享保二(一七一七)年~享和元(一八〇一)年)のことか。本名は玄珠。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。農民出身ながら、水戸藩第六代藩主徳川治保(はるもり)の侍講となり(就任は安永六(一七七七)年)、安永三(一七七四)年に日本地図「日本輿地路程全図(にほんよちろていぜんず)」を作成、五年後の安永八年にはそれを修正した「改正日本輿地路程全図」初版を大坂で出版している。これは、日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、作成者名から通称「赤水図」と呼ばれている。その後もマテオ・リッチの地図を参考に日本の島嶼などを加筆した世界地図「地球万国山海輿地全図説」(天明五(一七八五)年頃)を刊行したり、遠く第二代水戸藩主徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の「地理志」の執筆など行った博識の才人である。彼は宝暦一〇(一七六〇)年、四十四歳の時、東北地方(奥州南部と越後)を二十日間に亙って旅し、それから三十二後の晩年、寛政四(一七九二)年に旅行記「東奥紀行」を著している(以上はウィキの「長久保赤水」に拠った)から、ここの批判的記載はそれに基づくものか。
「琅耶代醉(ろうやたいすい)」野島出版脚注に『四十巻。明の張張鼎思が撰したもので経史の考証を随録したものだという』とある。いろいろ検索して見たが、それ以外のことは判らなかった。
「大明一統志(だいみんいつとうし)」明朝の全域と朝貢国について記述した地理書。九十巻。李賢らの奉勅撰で一四六一年に完成。
『赤水の「奧羽記行」』先に注した寛政四(一七九二)年刊の「東奥紀行」のことであろうか。
「卽身佛・逆竹(さかさだけ)・八房梅(やつふさのむめ)」総て次の章に出るので注さない。
「人なきがごと」愚鈍な輩ばかりで、真の「知者」たる「人」たるべき「人」は一「人」としていないように。
「求めて」底本「もとめて」と判読出来る。野島出版版は『めとめて』。「め」ではないし、「目留めて」では意味が通じぬ。単なる誤植かと思われる。
「赤水の博識には淺々(あさあさ)しき說と云ふべし」かの博識の「赤水」「に」「しては」、「淺々(あさあさ)しき」(考えが浅く軽率極まりない)謂いと言わざるを得ぬ。崑崙の言うべき時には毅然として謂うという態度が素晴らしい。
「陰火」「陽火」例えば、李時珍の「本草綱目」の「火部」の冒頭の「陽火 陰火」に出る陰陽五行説の「火(か)」の考え方である。火(か)は五行の一つであり、「気」はあるが、「質」は持たず、造化の両間にあって万物を生殺する。五行のうち、「火」を除く「木」・「土」・「金」・「水」は皆一種であるが、ただ「火」だけは「陽火」と「陰火」の二種が存在する。「陽火」は草に遭えばこれを焼き、木があると燔(た)き、湿(しつ)によって弱まり、水によって消滅するのに対し、「陰火」は草木を焚(た)かず、金石を融解して流す。湿によっていよいよ燃え、水に遭うとますます熾(さか)んになり、水を差すと、光焔は自然に消滅する、などと判ったような判らないようなことを言っている。また、そこで時珍は「地」の「陰火」の中に「石油之火」を挙げているから、長久保赤水もそれを安受け売りしただけのことと思われる。原文は中文ウィキのこちらで読める。]
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