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2017/08/04

橘崑崙「北越奇談」電子化注始動 / 序・目録・敍・前書・凡例

 
橘崑崙 北越奇談



[やぶちゃん注:これより、越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん
 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の永寿堂という書肆から板行された随筆「北越奇談」(全六巻)を電子化注する。

 序及び校合監修は戯作者柳亭種彦、挿絵は大部分が浮世絵師葛飾北斎によって描かれた(筆者崑崙自身も絵師であり、幾つかの下絵を描いている)という、今から見れば、恐るべき豪華な奇談集である。

 電子化に際しては、加工データとして所持する平成二(一九九〇)年野島出版(新潟県三条市)の第五版「北越奇談」をOCRで読み込んだものを使用し、それを早稲田大学古典データベースのこちらからダウン・ロードした原典画像で校合、漢字をそれに合わせて正字化して示した(但し、一部の漢字は現在の新字に等しいものが含まれており、それはそのままに再現した。判読に迷うものは正字を採用した)。また、一部は原典の平仮名を恣意的に漢字化し(それは特に注していない)、さらに読み易さを考えて、句読点や濁点・記号及び改行等を大幅にオリジナルに増補してある。但し、読みについては私が読みが振れると判断したものに限って附した。歴史的仮名遣の誤りは原典のママであり、それも煩瑣なだけなので、原則、注していない。二行割注は同ポイントで【 】で示した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。原典の小文字表記(「一」の数詞等)は一部(「予」「ニ」等)覗いて再現せず(拗音との混同を避けるため)、同ポイントとした。

 挿絵は総て野島出版のものを用いたが、早稲田大学古典データベースの上記のものをダウン・ロードして見られんことを強くお薦めする。

 なお、野島出版の「北越奇談」は、新字採用で編者不詳ながら、詳細な脚注・補注が完備しており、しかも最後に本書の構成及び筆者橘崑崙の事蹟考証(この追跡は他書の及ぶところではない)を附してある非常に優れたものであり、地方出版物としては極めて優れた刊行物(しかも刊行当時で九百五十円という驚くべき安価)であり、入手を強くお薦めするものである。

 ウィキの「北越奇談」によれば、『北越地方の怪異談や、奇岩、怪石、植物などの博物学的記録などが内容の中心であり、特に』第四巻及び第五巻は確信犯で『「怪談」と題し、妖怪譚を中心として収録』している。但し、『崑崙は必ずしも怪異・奇跡といったものを信じておらず、疑念を挟みながら、または娯楽的に、怪異なことは怪異なままとして扱っていたようで、竜などの伝説上のものを架空のものと割り切って書いている例も見られる。また、そうした怪異譚に中に織り交ざる形で、刊行までの約』二百『年間にわたる北越地方一体の様子、人々の考え方なども読み取ることができる』内容である。第三巻では『海保青陵による原稿が記載されているが、これは刊行年』から七年前の『ものであり、それだけに原稿が揃ってから出版に至るまで』の厳密な考証や監修がなされたと考えてよく、刊行自体が『かなりの曲折をともなう大事業だったことが窺える。さらに』以下を見て戴くと判る通り、冒頭の目録末には「右前編六册」と書かれていること、また巻末(リンク先は早稲田大学の当該部のHTML画像)に「北越奇談後編續出」「古器 産物 名所旧跡 山勝 海絶 奇事 其外珍話等多く集む」と『広告があることなどから、崑崙は後編を執筆する予定であったことをうかがわせるが、結局は後編は出版されず、後編分の草稿の有無も判明していない』。『刊行当時としては崑崙は無名の人物であったのに対し、北斎は浮世絵師の代表といえ、種彦も新進の戯作者であった。こうした面々は、版元が無名の崑崙を売り出すために起用したものと考えられている』。本書は知られた地誌で私の偏愛するところの、鈴木牧之著になる、本書から二十五年後の刊行である「北越雪譜」(天保八(一八三七)年)とともに越後の二大奇書と呼ばれるが、牧之は「北越雪譜」の執筆に向けての取材中、崑崙に会った、と自著「北海雪見行脚集」の中で『述べており、年代も同じで感覚も似ていることから』、本書はかの名著「北越雪譜」の『執筆の上での大きな参考にもなっ』たものと考えてよい。『雪国の生活の厳しさを感じさせる』「北越雪譜」に対して、本「北越奇談」は『娯楽物語としての趣向が強いため、江戸時代当時の人々の嗜好に合い、好んで受け入れられたという。しかし、現代では、「北越雪譜」が『牧之の遺した多くの資料によって研究が大きく進んでいる』のに反し、この「北越奇談」は『北斎の画を収めた書として価値が高いと注目されてはいるものの、随筆としての研究はそれほど進んでいない。これは崑崙が生没年不明の上、生涯の記録も少ない謎の人物ということが大きな要因と見られている。そのような多くの意味において、この』二『大奇書は対照的である』とある。私は、実利的地誌としての「北越雪譜」に若き日に強く感動したが(これは私の愛読書で、灼熱のトップレスの女性が行き来する真夏のスペインのコスタ・デ・ソルの浜辺でも黙々とそれを読んだ)、その後に本書野島出版のそれで読んで、これは「北越雪譜」以前に出現しながら、それを美事に補完するところの民俗学書であると、またまた、心打たれた若き日の思い出す。「北越雪譜」の電子化注もしたいが、これは複数の部分原文電子化が行われているので、今回は見送り、その雪国の民俗を伝えて素晴らしいプレ作品としての本書のオリジナル電子化注をすることとした

 注では野島出版の詳細な注も参考にさせて戴きつつ、オリジナリティを出すように心がけるつもりである。【2017年8月3日始動 藪野直史】]

 

 

[やぶちゃん注:以下、柳亭種彦の手になる序。]

 

 

 花を植(うゆ)る園(その)には、蝶、晨(あした)にまひ、水を湛(たゝふ)る池には、螢、夜(よる)照す。これ、その好(このむ)所を慕ひて也。書を讀(よむ)こと終日(ひねもす)倦(うま)ず。故に書肆の訪(とふ)こと屢(しばしば)也。一日、永壽堂主人、靑紅(せいこう)一帙(いちじつ)を携(たづさへ)來(き)つ、標題して「北越奇談」といふ。朗誦(らうじゆ)終(おはつ)て曰(いはく)、「夫(それ)、慕はしきもの他(ひと)の國の名勝古跡なり。其ことを聞(きか)むに文(ぶん)あり。其形を見(みん)に畫(ぐは)あり。宛然(ゑんぜん)として北越に到るがごとし。蓋(なんぞ)速(すみやか)に上肆(じようし)なさゞるや。」。書肆、笑(わらつ)ていふ、「我、既に其心あれど悲哉(かなしいかな)、編者(へんしや)崑崙先生は遙(はるか)に北越三条にあり。剞劂(きけつ)終(おは)つて後(のち)、先生の挍合(きようごう)を待(また)ば、發兌(はつだ)の期(ご)を錯(あやまる)べし。子(し)に其(その)叓(こと)を諾(だく)さん爲來(きた)れりとて去(さる)。書肆の言(こと)、默止(もだし)難く、傭書(ようしよ)劂人(けつじん)の誤(あやまり)を補ふと云へど、我は唯、俗書に遊ぶのみ。かゝる書を挍合なすべき才(さへ)なく、猶、先生の意に惇(もと)ることも多かるべし。そは、稿本を得て後(のち)、再(ふたゝ)び先生の閲(けみ)するを待たで、發販(はつはん)なすゆへにこそあれ。

 文化八年辛未蘭秋

        柳亭主人種彦 ㊞
 
[やぶちゃん字注:署名の下に洒落た刻印がある。早稲田大学版のこちらの画像で確認されたい。]

 

[やぶちゃん注:「永壽堂」本書を板行した書肆(書店)。奥附に相当するものと思われる広告の前の早稲田大学版のこちらの画像で確認されたい。

「靑紅一帙」野島出版脚注に『青や赤い表紙の本の一包。帙は本のつつみをいう』とある。

「宛然として」あたかもまさに実際に。宛(さなが)ら。

「北越三条」新潟県のほぼ中央部に位置する現在の三条市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「剞劂(きけつ)」「剞」は彫刻師の用いる曲がった小さな彫刻刀、「劂」は同じく使用される曲がった鑿(のみ)で、転じて版木を彫ることから、印刷・上梓の意となった。

「先生」原著者である橘崑崙を指す。後の種彦の言のそれも同じ。

「挍合(きようごう)」「校合(きょうごう:現代仮名遣)」に同じい。写本・印刷物の文字や記載事項を基準となる底本或いは原稿と照らし合わせ、その異同を知らべて訂正したり、相違を書き記したりすること。

「發兌(はつだ)」書物などを印刷して発行すること。

「叓(こと)」「事」の異体字。但し、野島版では上部が「古」になっており、原典は「古」の字のようであるものの、下部の「口」の右手に大きな汚損があるので、この字を採用した。

「默止(もだし)難く」(先に述べた通り、内容が非常にリアリティがあって心惹かれて)無視して何もしないわけにはどうにもいかないので。

「傭書(ようしよ)劂人(けつじん)」野島出版脚注には、『傭書は雇われて文字を写す人。劂人は文字をほる人』とある。

「惇(もと)る」反する。

「そは、稿本を得て後(のち)、再(ふたゝ)び先生の閲(けみ)するを待たで、發販(はつはんん)なすゆへにこそあれ」万一の誤字・誤判読は、総て、この私(柳亭種彦)が責めを負うべきものであるという注意書き。

「文化八年」一八一一年。刊行の前年。

「辛未」「かのとひつじ」或いは音で「シンビ」。干支は正しい。

「蘭秋」陰暦七月の異称。

「柳亭主人種彦」(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)は合巻(ごうかん:文化年間以降に流行した草双紙(挿絵に重きを置いた通俗的絵草紙)の一種で、黄表紙本が内容の複雑化に伴って長編化したもの。従来、五丁一冊であったものを数冊合綴(がってつ)したところからの呼称で、伝奇色が強く、歌舞伎絵風の華麗な表紙・挿画が読者の関心を惹いた)の流行作家。本名は高屋彦四郎知久で、れっきとした旗本小普請組二百俵取りの武士であったが、若い頃より芝居を好み、声色も巧みであったという。文化四(一八〇七)年に読本(草双紙に対して読むことを主体とした本の意)の創作を始めたが、成功せず、同八年に合巻に筆を染めて以後、本領を発揮し、合巻界の第一人者となった。同十二年に初編刊した「正本製(しょうほんじたて)」は芝居の世界を巧みに描写した合巻として人気を博し、その後の「源氏物語」を大奥の世界に擬えた「偐紫(にせむらさき)田舎源氏」は歌川国貞の華麗な挿絵とともにベストセラーとなり、文政 一二(一八二九)年から天保一三(一八四二)年まで、実に三十八編をも重ねたが、内容から幕府の咎めに遭い、絶版となった。一説には春本「春情妓談水揚帳(しゅんじょうきだんみずあげちょう)」などの執筆も併せて咎められた結果、自殺したともされる。小説だけでなく、考証物にも優れ、書籍の収集家としても知られた(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」を下敷きにした)。]

 

 

 

 北越奇談 目録

越後地理路程略圖並順路案内

 龍蛇ノ奇   卷一

 七奇ノ辨   卷二

 玉石     卷三

 怪談     卷四

 同      卷五

 人物     卷六

   右前編六册

 

[やぶちゃん注:冒頭注で記した通り、「右前編六册」とあって、後編の予定があり、或いはその草稿が存在した可能性さえも捨てきれない。どこかに残っていないものだろうか?]

 

 

 

北越奇談敍

維昔吾北越國俗相傳爲口實者有七奇談焉爾後民間妄好怪僻雷同其説塗々增附曁今至其既有二十有四奇事云於是乎愚者動眩惑于其偽妄※[やぶちゃん字注:「※」=「目」+「曹」。但し、これは野島出版版で、原典はよく見ると、「つくり」の上部の中の横一画(第六画目)がない。]無適従矣吾橘先生詳論辨七奇輯錄其説撰題北越奇談者若干卷博而約簡而要天下始知七奇之説且許其實也昔司馬遷將爲史記歴觀天下紀載亦勤矣故及書成人服其該博也先生所善画所好詩既老無事血氣益彊固周游海内盖爲是也冊之美且善也衆目所視誰敢間之及刻成命敍於遂書詹々言以爲序

文化六年己巳初冬

         明浦漁人林成 ㊞ ㊞

[やぶちゃん注:この署名の左に篆刻の刻印が二つ縦に並ぶ。上は「號文斉」、下は「一字大噐」。]

 

[やぶちゃん注:原典は上記の通りの完全な白文。野島出版版には訓読文が載るので、それを恣意的に原文表記を無視して概ね正字化して以下に示す。但し、若干、表記に疑義(歴史的仮名遣の誤り)を感ずる箇所を恣意的に訂した。また、読点も増やした一部の漢字が本文とは別な字になっているのは野島出版版のママである。その方が文意をとり易いと判断したからである。

   *

北越奇談敍

維(これ)昔(むかし)、吾が北越國俗(こくぞく)、相傳へて、口實と爲(な)すもの、七奇談あり。爾後(そののち)、民間妄(みだ)りに怪(くわい)を好み、雷同に僻(かたよ)り、其の説、塗塗(とと)增附して今に曁(およ)び、其れ、既に、二十有四奇事あるに至ると云ふ。是(ここ)に於てか、愚者は動(やや)もすれば、其の僞妄(ぎばう)に眩惑(げんわく)し、瞢[やぶちゃん注:底本のママ。](ぼう)として適從(せきじゆう)するところなし。吾が橘先生、詳(つまびら)かに論じて七奇を辨じ、其の説を輯錄(しふろく)し、撰して「北越奇談」と題するもの若干卷、博(はく)にして約(やく)、簡にして要、天下始めて七奇の説を知り、且つ其の實たるを許すなり。司馬遷、將に史記を爲(つく)らんとし、天下を歷遊して、紀載(きさい)、亦た、勤めたり、故に書、成(な)るに及び、人、其の該博(がいはく)に服するなり。先生、畫を善くする所、詩を好(よく)する所、既に老いて無事、血氣、益々(ますます)彊固(きようこ)、周(あま)ねく海内(かいだい)に游(あそ)ぶは、蓋(けだ)し、是れが爲めなり。册の、美にして、且つ、善なるは、衆目の視(み)る所、誰か敢へて之を間(かん)せん。刻、成るに及び、敍を余に命ず。遂に詹々(せんせん)の言(げん)を書して以て序と爲す。

文化六年己巳初冬

         明浦漁人林成 ㊞ ㊞

   *

「維(これ)昔(むかし)」野島出版版では「おもうむかし」と訓じているが、とらない。「維」には「思う」(思ふ)に相当する意はない。次の語を強調する「これ」で訓じた。

「塗塗增附」内容をより厚く多く増補すること。

「曁(およ)び」及び。到(至)り。

「僞妄(ぎばう)」野島出版版では「ぎぼう」とルビするが、正しい歴史的仮名遣で示した。出鱈目な偽り。虚言妄語。

「瞢(ぼう)」意識が明らかでないような状態。「冥(くら)いこと」を意味する。

「適從(せきじゆう)」拠り所として従うこと。「適帰」も同義。

「輯錄(しふろく)」集めて記録すること。

「博(はく)にして約(やく)」その智の内容、博(ひろ)くして、正確且つ短く語られてあること。

「其の實たるを許すなり」それが根拠のない噂や虚偽ではない、紛れもない現象的事実であることを認知するものである。

「紀載(きさい)」「記載」に同じい。

「彊固(きようこ)」強く堅固。

「海内」(越後国の)国内。

「是れが爲めなり」この心身の驚くべき強健なるが故である。

「册」書画。

「間(かん)」謗(そし)ること。批判すること。

「詹々(せんせん)」くどくどと言い続けること。無暗に言葉が長々しいこと。分不相応に序を請け負って書いたことへの自己卑辞。

「文化六年」一八〇九年。本書板行の三年前。先の柳亭種彦の序文が二年後で、理由は不明中がら、出版に遅滞が生じたことがはっきりと判る。

「己巳」「つちのとみ/キシ」。干支は正しい。

「明浦漁人林成」現代仮名遣で「めいほぎょじんりんせい」と読んでおく。現地の隠棲した漢詩人で、橘崑崙の友人であったようだ。野島出版脚注には、坂口五峰の「北越詩話」の記載からとして、小林文斎なる人物がこの奇談の序を書いたとあって、彼は『名は成、字は大器、一号明浦漁人』であるとする。注者は『三条附近の人であろうか』と推測されておられる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、橘崑崙の手になる凡例の前の序(前書)。名所の記載は全部連なっているが、甚だ読み難いので、各項を総て改行した。原典では「長岡」の記載の後に改頁見開きで以下の地図「越後國畧圖」(橘崑崙自筆であろう)が載る。]

 

Etigonokuniryakuzu

 

 凡(およそ)諸國遊歴の客(かく)、名所古跡を探(さぐら)んとするの志(こゝろざし)ある人は、必ず、先づ、其國の地理を知らずんばあるべからず。道路の順、逆によりて空しく、草鞋(さうあい)を費すのみならず、僅か數十步(すじつぽ)の違(たがひ)にして名勝を見落としたるは殘情(ざんじやう)の止(とゞ)め難(がた)きものなり。ここに於て、今、北越、二、三の勝所を擧げて風遊(ふうゆふ)の子に、たよりするものなり。

○市振(いちふり)【親知らずと云(いふ)難所(なんじよ)あり。】

○鍋が浦【名立(なたち)と有間川の間。盆山(ぼんさん)の奇石多し。】

○居多【親鸞上人旧跡。】

○五智(ごち)【國分寺。五智如來有(あり)。】

○今町(いままち)【直江の津(つ)。春日新田への今渡(いまわたし)。應化(おふけ)の橋あとや。】

○關川(せきがは)

○高田(たかた)【榊原侯十五万石御城下。直江町(なをえまち)。今、あふげの橋。この橋上、妙高山の眺望よし。】

○春日林泉寺【上杉輝虎公旧跡。】

○柿崎(かきざき)【鸞上人旧跡。是より、米(よね)山かけこし、鯨波(くじらなみ)へ六里。】

○米山下通(したどほり)

○上ヶ輪(あげわ)【弁慶力餠。産水(うぶみづ)あり。】

○笠島(かさしま)【奇石あり。黑海苔(くろのり)名産。】

○青海川(あをうみがは)【景色よし。山々一望。櫻多し。】

○鯨波【鬼ヶ洞(ほら)といふあり。】

○柏崎(かしはざき)【縮(ちゞみ)を見るには小千谷(をぢや)へ出づべし。山路(やまみち)九里。長岡へすぐに出るには八里。】

○長岡【牧野侯七万四千石御城下○悠久山(ゆうきうざん)の宮(みや)へ十八丁。これ勝地なり。櫻の時、殊によし。三條へ六里。】

○如法寺村(によはうじむら)【入方村とも[やぶちゃん注:この割注は「如法寺村の右上方にある特殊なもの。ルビはない。以下は普通に本文割注。]】【火井七奇(ひいせゐしちき)ノ一。三条へ二十丁。】

○三条【東本願寺掛所(かけしよ)あり。本城寺(ほんじやうじ)へ十八丁。】

○弥彦(やひこ)【一ノ宮明神○國上(くかみ)山へ一里。風穴あり○野積(のづみ)。弘智法印即身仏なり。一里。】

○角田濱(かくだのはま)【絶景なり。一里のまはり。新潟へ五里。赤塚(あかつか)の下へ出る。】

○新潟【湊入(みなといり)、亦、景色よし○鳥屋野(とやの)へ一里。是より舟にて何(いづ)くへも通行よし。】

○小島【八房梅(やつふさのむめ)。】

○草水(くさふづ)【燃(もゆ)る水、七奇ノ一、油(あぶら)の涌(わく)池あり。】

○河内谷【陽谷寺。七奇ノ一。無錘塔。此処、五泉(ごせん)より山々入こと、三里。】

○水原(すいばら)【福島潟(ふくしまがた)のほとりを通り、三里。こしの水海(みづうみ)なり。】

○新發田(しばた)【溝口侯五万石御城下。せいろうの松原(ばら)を通り、八里。】

○乙村(きのとむら)【大日堂。】

○村上【内藤侯御城下五万石。】

○蒲萄峠(ぶどうとふげ)【葡萄とも書(かく)。矢ぶきの明神。】

○これより、羽州鼠が關に至る。

 

  ○右大略道路少しの遲速ありといへども皆順路なり。

  前の圖と、引き合はせ見るべし。

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、橘崑崙の手になる凡例。各柱の「一」以外の後の行は原典では一字下げになっているが再現していない。]

 

   凡例

一、怪談は君子の憎む所なりといへども、近世の風俗・文事、甚だ盛んにして、聖語(せいご)は已に童牧(どうぼく)の口號(くごう)たり。佛説は、すなはち、婦女の舌弄(ぜつらう)となれり。こゝに於て、朋友の茶話(さわ)、對賓(たいひん)の談笑、動(やゝも)すれば、其頭(かうべ)を交へんとす。鳴呼(あゝ)、我等(わがとう)の下愚、默して退くに無由(よしなし)。しかれば、かの怪談妄説も時あつて、又、一助なきことなからんやと。是、が此戲作(げさく)を著(あらは)すの素意(そゐ)なり。讀人(よむひと)、あやしみたまふこと、なかれ。

一、奇事怪説、人々に記し、家々に論ずる所、數十百章(すじふひゃくしよう)に至れば、が目(ま)の當たり見聞(みきゝ)たるの余(よ)は、十にして、一、二取(とつ)て、三寫(さんしや)の誤まり無(なき)にしもあらざるべし。

一、年歴日時(ねんれきじつじ)をあらはして、人の姓名を隠せるあり。亦、地名を出(いだ)さずして、其人を記せるもあり。是は今時(こんじ)存命の人、又、舊事といヘども、其子孫、顯然たるは、これを憚るのみ。

一、事々(じじ)妄説のみなるはが乳學(にうがく)性愚(せいぐ)のいたす所也。亦、國字・天爾遠波(てにをは)の相違、多かるべし。希(こひねがは)くは、博達(はくたつ)の諸子、言言(げんげん)に雌黃(しわう)を加(くはへ)給はんことを請ふ而已(のみ)。

   文化八年辛未仲秋

            北越三条 崑崙橘茂世 述

                  ㊞ ㊞

[やぶちゃん注:この名の左に印二種。上は「橘茂世」、下は「野薔薇華亭」。

 以下、全体が枠で囲まれた(省略)柳亭種彦の挿絵に就いての四字下げの注記。]

 

畫(ぐは)は北齋翁の筆(ふで)なれど、畫翁(ぐわおう)の盤多(ばんた)を助けんと、崑崙子の下繪(したゑ)のまゝに彫するもの四枚、傍(かたは)らに茂世(もせい)の印(ゐん)を押したり。印無きは、悉く北齋翁の畫なり。

      辛未秋      柳亭種彦再禀

 

[やぶちゃん注:以下の、優れた遠近感を持った北斎の描画は「凡例」の途中に見開きで入る。今回は左右の画をトリミングしてなるべく中央に寄せた。中央上部に隙間が出来てしまったが画像の回転角を微調整出来ない私の安物の加工ソフトではこれが限界。悪しからず。]

 

Hokuetukidankantouhokusai

 

[やぶちゃん注:「草鞋(さうあい)」草鞋(わらじ)。

「鍋が浦」現在の新潟県上越市大字鍋ケ浦。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「名立(なたち)」新潟県上越市名立(なだち)区の名立地区。鍋が浦の西方。

「有間川」新潟県上越市有間川(ありまがわ)。桑取川河口。鍋が浦の東方。

「盆山(ぼんさん)」 庭に石などを積み上げて築く人工の山や、箱庭や盆栽の上に自然の石や砂を用いて作った山(に用いる奇石)の謂いか。

「居多」「こた」であろう。原典はルビ位置が黒く潰れている。消したのではなく、翻刻の誤りか。有間川の東方の新潟県上越市五智に居多(こた)神社(こたじんじゃ)がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。承元元(一二〇七)年に専修念仏停止(ちょうじ)の法難を受けて越後国府へ御流罪となった親鸞は、木浦(現在の糸魚川市能生)から舟に乗って、この居多ヶ浜に上陸したと伝えられる。

「國分寺」新潟県上越市五智にある天台宗安国山華蔵院五智国分寺。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の中の越後国国分寺の後継寺院に相当する。

「五智如來」五大如来ともいい、密教で五つの知恵(法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)を五体の如来に当て嵌めたもの。金剛界五仏と同義。通常は大日如来(中心)・阿閦(あしゅく)如来(東方)・宝生如来(南方)・観自在王如来(=阿弥陀如来)(西方)・不空成就如来(北方)を配するが、ウィキの「五智国分寺」によれば、五智国分寺のそれは大日如来を中心として薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来である。

「今町(いままち)」現在の新潟県上越市住吉町附近の旧地名と思われる。この附近(グーグル・マップ・データ)。関川の右岸に春日神社があり、その南に新潟県上越市春日新田として地名が残る。

「今渡(いまわたし)」関川を渡る渡しのあった旧地名か。

「應化(おふけ)の橋」現在の新潟県上越市川原町附近にあったとされる橋。ウィキの「直江津橋」(現在の同地区の関川に架橋)によれば、その橋は「おうげの橋」「おうぎの橋」と呼ばれ、漢字表記は「応化」・「往下」・「応解」・「逢岐」・「大笥」などであったとし、森鴎外の「山椒大夫」では『安寿と厨子王丸とその母が、この橋の辺りで連れ去られたとされている。上杉謙信が』天文一八(一五四九)年『に荒廃した橋を再建、堀秀治が新たに橋を架けたが、松平忠輝が高田城下の繁栄のために橋を壊して渡しのみとし、明治初期に至るまで『直江津に橋は架けられなかった』とある。但し、以下の「高田」の項にも旧直江の「直江町(なをえまち)」に当時、「あふげの橋」があり、「この橋上、妙高山の眺望よし」とまで記しているから、この旧橋は位置が比定されていないことが判り、恐らくは関川の少し上流には当時、橋があったことになり、ウィキの記載には不審が残る。

「榊原候」高田藩の江戸中後期の藩主家。

「春日林泉寺」現在の新潟県上越市中門前にある曹洞宗春日山林泉寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「林泉寺上越市によれば、明応六(一四九七)年に越後守護代長尾能景が創建、天文五(一五三六)年)にその子為景が死ぬと、為景の末子であった虎千代(後の上杉謙信)が七歳で林泉寺に預けられた。彼は十四歳で呼び戻されて元服して景虎と称するまで、林泉寺六世天室光育から学問を学び、景虎が後に上杉氏を継承し、上杉輝虎を称すると、林泉寺は上杉氏の菩提寺となった。『輝虎は七世住職益翁宗謙のもとで参禅』、元亀元(一五七〇)年に剃髪した際、『師の諱から一字を取って不識庵謙信と号した』。天正六(一五七八)年に『急死した謙信の遺骸を収めた棺は、謙信の号のもととなった春日山城内の不識院に埋葬されたが』、謙信の養子景勝が慶長三(一五九八)年に会津へ、慶長六(一六〇一)年に米沢へと移封されたのに伴い、『米沢へと移された。通説では林泉寺もこれにしたがって移転したとされている』。『開山以来の袈裟と持鉢は上越市の林泉寺に残されており』、『法統上の正統を伝えている』。『上杉氏移封後は春日山城下に残された林泉寺は一時衰退』したが、『上杉景勝に代わって春日山城主となった堀秀治によって再興され、春日山城主・堀氏、堀氏改易後高田城に入封した松平氏』、十八『世紀前半から明治維新まで高田藩に在封した榊原氏と歴代の上越地方の支配者により』、『菩提寺として尊崇を受け』、また、『江戸時代の林泉寺は江戸幕府』第二代将軍『徳川秀忠から御朱印で寺領』二百二十四石を『授けられ、高田藩主から禁制の特権』も与えられていたという。しかし、寛永年間及び弘化四(一八四七)年の二度の『火災で本堂や山門などが焼失』したとある(下線やぶちゃん)。

「上杉輝虎」上杉謙信。前注参照。

「柿崎」新潟県上越市柿崎区柿崎。

「鸞上人旧跡」原典のママ。野島出版版では「親鸞」となっている。柿崎での親鸞については新潟県上越市柿崎区にある柿崎御坊の別称を持つ川越山浄善寺の公式サイト内のこちらに詳しい。

「米(よね)山」新潟県中越地方と上越地方との境に位置する山。九百九十二・五メートル。江戸時代に北陸道が再整備された際、米山麓の米山峠には鉢崎関が設置され、出雲崎や佐渡島に向かう旅客を取り締まっていた。ここ(グーグル・マップ・データ)。北国街道一番の難所とされた。

「かけこし」峠を乗り掛けて越し。

「鯨波(くじらなみ)」新潟県柏崎市鯨波。ここ(グーグル・マップ・データ)。

へ六里。】

「上ヶ輪(あげわ)」新潟県柏崎市上輪。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「弁慶力餠。産水(うぶみづ)あり」サイト「ほかにねーこて柏崎」の「弁慶の力餅」に、復刻された「弁慶餅」の画像とともに、『同地区の伝説によ』る『と、文治三(一一八七)年、源義経が兄頼朝に追われ、奥州落ちをする際、北の方が同地区の亀割坂付近で産気づき、胞姫神社に祈願して安産で亀若丸を生んだと伝えられて』おり、『この時、義経の供をしていた弁慶が産湯を得るために、つえで掘った井戸が「弁慶の産水井」、ついた餅が「弁慶の力餅」として長く伝わったとも言われてい』るとある。「上輪新田の弁慶の産水井戸(御膳水(ごぜんすい)」(PDF)も参照されたい。

「笠島(かさしま)」新潟県柏崎市笠島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑海苔(くろのり)」生海苔を刻んで、紙漉きの要領で漉いて乾燥させたもの。焼かないので磯の香が強い。

「青海川(あをうみがは)」新潟県柏崎市大字青海川。ここ(グーグル・マップ・データ)。鯨波の西直近。

「鬼ヶ洞(ほら)」柏崎市役所公式サイト内の『柏崎市名所案内「鯨波鬼穴」』(海食洞の画像有り)によれば、『昔、この穴に赤鬼が住んでいて、村の娘たちをとらえては食べ、村人を苦しめていました。村人は神様に鬼を追い払ってもらおうと、番神さんにお願いをしたところ』、二十九『の仏様を従え、うちわ太鼓を打ち鳴らし、大声を張り上げ、お題目を唱えながら穴に近づきました。すると、赤鬼が穴から這い出し、逃げて行ったと云われています。それ以来、この穴を鬼穴と呼ぶようになりました』と伝承を記す。

「牧野侯」越後国の古志郡全域及び三島郡北東部・蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた長岡藩の江戸時代を通じて藩主であった牧野氏。

「悠久山(ゆうきうざん)」新潟県長岡市東部に位置する海抜百十五メートルのなだらかな山。長岡の中心市街地付近では唯一の山である。

「如法寺村(によはうじむら)」三条市如法寺附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火井七奇(ひいせゐしちき)」油田関連の七不思議。「卷之二」の「古の七奇」で詳述される。

「掛所(かけしよ)」浄土真宗の寺院で地方に設けられた別院。後には別院の支院を呼ぶようにもなった。

「本城寺(ほんじやうじ)」新潟県三条市の本成寺(にしほんじょうじ)地区のことであろう。当地には法華宗長久山本成寺がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「弥彦(やひこ)」新潟県西蒲原郡弥彦村。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一ノ宮明神」新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦にある彌彦(いやひこ)神社。神社名の正式な読みは以上だが、地域名が「やひこ」であることから「やひこ」神社とも呼ばれるらしい。言わずもがなであるが、神社仏閣と地名を別な読み方をするのは〈ハレとケ〉の民俗からはごくごく普通のことである。

「國上(くかみ)山」新潟県燕市に位置する標高三一二・八メートルの国上山(くがみやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。弥彦村の南直近で俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する。

「風穴」国上山にある真言宗雲高山国上寺(こくじょうじ)本堂裏手にある。

「野積(のづみ)。弘智法印即身仏なり」長岡市野積にある真言宗海雲山龍泉院西生寺(さいしょうじ)に現存する日本最古の即身仏弘智法印のそれ。弘智は高野山で修行の後、西生寺の東の岩坂に庵住、正平一八/貞治二(一三六三)年十月二日に入定(にゅうじょう)したとされる。

「角田濱(かくだのはま)」新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。

「赤塚(あかつか)」角田浜の東北直近。

「湊入(みなといり)」新潟湊の湾口部の呼称か。

「鳥屋野(とやの)」新潟県新潟市中央区鳥屋野。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小島」阿賀野市小島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八房梅(やつふさのむめ)」小島にある浄土真宗梅護寺(親鸞が布教のために滞在した)にある、一つの花に八つの実がなる八重咲きの梅。親鸞が植えた梅干の種から育ったと伝える「越後七不思議」の一つ。

「草水(くさふづ)」「臭水」(臭い水)がもと。油田。

【燃(もゆ)る水、七奇ノ一、油(あぶら)の涌(わく)池あり。】

「河内谷」「陽谷寺」新潟県五泉市川内にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡巡り」の「おぼと石/五泉市」を読む限り、ここである。

「無錘塔」卵塔。僧侶の墓で卵形をしている。本文で語られるが、淵に投げ入れても、自然に岸辺に揚がるという、自然現象では説明出来ない古い一奇。

「五泉(ごせん)」新潟県下越地方にある五泉市(ごせんし)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「水原(すいばら)」阿賀野市水原町(すいばらまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「福島潟(ふくしまがた)」やや内陸の新潟県新潟市北区新鼻に位置する阿賀野川水系に出来た潟。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「こしの水海(みづうみ)」新潟県阿賀野市水原地区にある人造湖瓢湖(ひょうこ)のことか(ここ(グーグル・マップ・データ))。白鳥渡来地と知られる小さな湖であるが、人造と言っても寛永一六(一六三九)年に用水池として竣工している古いものである。

「新發田(しばた)」新潟県新発田市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「溝口侯」柴田藩主の溝口家。

「せいろう」新潟県北蒲原郡聖籠町(せいろうまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。新発田市(北部分は一部が海岸まで達する)の海沿い側の北西に接する。

「乙村(きのとむら)」新潟県胎内市乙。(グーグル・マップ・データ)。

「大日堂」同地区内にある真言宗如意山乙寶寺(おっぽうじ)の本堂(本尊・金剛界大日如来)。寺伝によれば、天平八(七三六)年に聖武天皇の勅願により行基菩薩や婆羅門僧正らが北陸一帯の安穏を祈り開山したとされる古刹。

「村上」新潟県北部の日本海に面した村上市。

「内藤侯」村上藩の江戸時代中後期の藩主内藤氏。

「蒲萄峠(ぶどうとふげ)」新潟県村上市葡萄にある、村上城下を起点にして北上、庄内鶴岡へ通じる旧出羽街道の峠。(グーグル・マップ・データ)。

「矢ぶきの明神」「矢葺の明神」。現在は漆山神社とも呼称する。前の葡萄峠も含め、豆壱郎氏のサイト内の「峠コレクション」の葡萄峠が写真も豊富でよい。

「羽州鼠が關」山形県鶴岡市大字鼠ヶ関。(グーグル・マップ・データ)。

 

「聖語(せいご)は已に童牧(どうぼく)の口號(くごう)たり。佛説は、すなはち、婦女の舌弄(ぜつらう)となれり」儒教の聖人君子や仏教のありがたい教説も、今や、子女や農夫さえも口ずさむような面白くもおかしくもないような知れたものと変容してしまった。

「對賓(たいひん)の」賓客を迎えて披露する。

「其頭(かうべ)を交へんとす」そうした平凡な脳味噌による、常套的な退屈な話を交わすことから救われてはいない。

「我等(わがとう)」我等(われら)に同じい。

「下愚、默して退くに無由(よしなし)」そのような下等で面白味のない話しか出来ないのであれば、黙して語らず、早々にその場をしりぞく以外にはやりようがない。

「予が目(ま)の當たり見聞(みきゝ)たるの余は、十にして、一、二取(とつ)て、三寫(さんしや)の誤まり無(なき)にしもあらざるべし」私が実際に目の当たりにし、直接に見たり聞いたりしたもの以外のそれは、三つに一つは誤りが含まれていないとは言えないであろう(されば、そのような認識でお読み戴きたい)。

「乳學(にうがく)性愚(せいぐ)」野島出版脚注に『学問が』浅く、『馬鹿な生まれつき』とある。

「雌黃(しわう)」元来は石黄(せきおう:鶏冠石の変質した砒素の硫化鉱物。有毒で黄色を呈し、樹脂光沢がある)を指し、これは古く中国で書き上げてしまった文章の誤りにこれを塗布して正したことから、詩文を添削したり、インスパイアすることを指す語となった。

「仲秋」陰暦八月の異名。冒頭の柳亭種彦の序文の書かれた翌月である。

「茂世」(しげよ)は橘崑崙の名。

 

「北齋翁」(宝暦一〇(一七六〇)年~嘉永二(一八四九)年)は知られたの浮世絵師。江戸本所割下水の川村家に生まれたが、幕府御用鏡磨師中島伊勢の養子となり、その後、勝川春章に入門して「勝川春朗」と号して役者絵を発表、後に狩野派・住吉派・琳派、さらには洋風銅版画の画法をも取り入れて独自の画風を確立した。画業は主要画号の使用時期を基準に六期に区分するのが一般的であるが、本書刊行の文化九(一八一二)年は、彼が北斎を名乗った時期(寛政一一(一七九九)年頃から文化一一(一八一四)年頃まで)の後期に当たり、まさに北斎の画業の一大進展期であると同時に、様式の確立期に相当している

「盤多(ばんた)」盤は皿や鉢などの容器を謂うが、意味が通じぬ。「繁多」(忙しい)の謂いであろう。

「再禀」「サイヒン」と読む。「禀」は「稟」の俗字で、この場合は再度、ある要請や命令を受けることで、序文の添書き(追加)を、再び引き受けた、謂い。]

 

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