北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))
俗説十有七奇(じうゆしちき)
[やぶちゃん注:前章に続き、各個的に注するが、「其二」の「箭ノ根石(やのねいし)」は長く、図譜も夥しいので、適所で切って注してある。
先に後に出る挿絵をフライングして示す。
以下は、キャプションを右から下、次いで左方向の順でオリジナルに判読した(野島出版版は画像のみで活字化されておらず、キャプションに対する注記も一切ない)。幾つかの問題点があるので、それぞれに私の注を附しておいた。句読点・鍵括弧・記号を追加した。]
〈一枚目右図〉
「霹靂堪(へきれきじん)」【四品。】
俗に「石劔」。
「雷の太皷の橃」と云。
[やぶちゃん注:「堪」の音は「たん」が正しい。これは「堪(た)える・堪(こら)える・打ち勝つ・勝(すぐ)れる」の意で、以下の石棒を霹靂(雷)に打ち勝つ、天変に立ち向かうための呪具・聖具と考えた呼称と推定する。
「石劔」は「せきけん」。「石剣」(「せっけん」とも読む)は縄文後期から晩期にかけての遺跡などから出土する石器で、その形状が武具である剣に似ているための名称(但し、以下で述べる通り、実際に実戦用の「剣」として用いられたものとは思われない)。ウィキの「石剣」によれば、本邦では縄文中期頃以降の遺跡から出土する石棒(男性器をかたどったものだが、縄文後期になるとこうした形状の物は減る)を加工する『技術から石剣・石刀の類が造られるようにな』なったと考えられており、『石棒と同様、指揮棒として特定の人が権力を示す為に使ったとも、祭祀用具とも考えられてい』て、『実用的武具ではなかったという考えでは』『考古学研究者の』『見解は一致している。八幡一郎は、「石棒が武器として用いられたかは分からないが、あんな重い物を振り回すわけにはいかない」とし、武具ではなく、呪具と関連したものと捉えている』とある。但し、ここに描かれた物のうちの最初の三品は、「石剣」というよりも、古形の「石棒」と言った方がよいように思われる。グーグル画像検索の「石棒」と「石剣」をリンクさせておく。
「太皷」は「たいこ」で太鼓と同じい。
「橃」この判読は推定だが、太鼓の「撥」(ばち)であろう。]
長一尺六寸余。
[やぶちゃん注:約四十八・四八センチメートル余り。]
八寸。
[やぶちゃん注:二十四・二四センチメートル。]
一尺五分。
[やぶちゃん注:三十一・八一五センチメートル]
長一尺三寸余。
囘リ五寸五分。
[やぶちゃん注長さは約三六・四センチメートル余り。「囘リ」は「めぐり」で円周(最大)と解釈しておく。一六・七センチメートル。]
「霹靂楔(へきれきけつ)」【三品。】
俗に「大勾玉
鬼の手形」と
いふ。
[やぶちゃん注:「楔」は「くさび」で、その石器の一面が有意に薄くなっていることを意味しているものと思われる。「大勾玉」は「おほまがたま」。]
長八寸五分。両面。
[やぶちゃん注:二十五・七五五センチメートル。「両面」というのは、この図で立体感を出すことが出来なかったことを憂えた崑崙が、この石器が有意な厚さを持った恐らくは円盤状の石器で、反対側も同じ形状であることを示すために入れたのではないかと推理した。]
此所、しのぎの下、自然ト薄く楔のごとし。
[やぶちゃん注:下部の「○」は記号ではなく、穴と見た。
「しのぎ」は「鎬」で刀剣や鏃などの刃の背に沿って小高くなっている部分を指すから、この石器は左側の三日月型に見える部分が厚く鎬状になっており、右の楕円に見える部分が有意に薄くなって(穴さえ空けられて)楔のように見えるというのであろう。これは本文に叙述がないのであるが、以下の注で述べた通り、私はこれを主に漁具として用いられたと推定されている石器「石錘(せきすい)」の一種ではないかと考えている。石錘は平たい石を楕円形に加工し、その長軸両端に紐を掛けるための凹部を切り出してあるものが普通であるが、弥生から古墳時代の九州型のそれでは一個から三個の穿孔を施したものがあり、これは日本海ルートで伝播したと考えられ、若狭の遺跡からも出土している。]
〈一枚目左図〉
徑四寸余。
厚八分。
[やぶちゃん注:この石器は非常に不思議な形をしているが、この凹みは繩を懸けたものと思われ、とすれば、異形の「石錘」とも考えら得るか?
「徑」は「わたり」で直径。
「四寸余」十二・一二センチメートル余り。
「厚」「あつさ」。
「八分」二・四二センチメートル。]
○此二図(にづ)、上ミにつゞく。
[やぶちゃん注:「上(か)みに續く」で、先の右の図の「霹靂楔」に続く、の意と思われる。特に下方のそれは正しく「楔」としか言いようがない形状だからである。これは或いは実際に石器を製作するために岩石に打ち込んだ石製の「楔」そのものとも考え得る形状と言える。]
青黑色。
長九寸四分 厚四分余。
[やぶちゃん注:長さ二十八・四八センチメートル、厚さ一センチ三ミリメートル余り。]
「雷斧石(らいふせき)」【三品。】
俗に「狐まさかり」。
此、おほく出、
みな、ねす灰色。
[やぶちゃん注:これらは典型的な石斧である。「狐」は形状(側面ではなく描かれた図のこちら側)が狐の顏の形に似るからか? 或いは単に野中に落ちている小さな石の斧からの「妖狐の使う小(ちっ)ちゃな鉞(まさかり)」という意味か?
「ねす灰色」「鼠灰色(ねずはいいいろ)」か?]
「天狗ノ飯櫂(てんぐのめしがひ)」【一品。】
赤黑色。
[やぶちゃん注:「飯櫂」は「飯匙」(めしがひ/めしがい)で杓文字(しゃもじ)のこと。因みに全く関係ないが、「天狗の飯匙」は現在、菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門テングノメシガイ綱テングノメシガイ目テングノメシガイ科 Geoglossaceae の茸の一群の和名でもある(黒っぽいスプーン型の茸である)。]
此數類、予が見たる所なり。
事余、又、異形も
あるべし。
[やぶちゃん注:「事余」は「じよ」で「他にも」の謂いであろう。]
〈三枚目の図〉
「石鏃(せきぞく)」【十三品。】
如ㇾ此也形、甚だ夛し。
しのぎ、するどに
立て、能、竹木を
けづる。
[やぶちゃん注:一行目は「かくのごときなるかたち、はなはだおほし」或いは「かくのごときなり。かたち、はなはだおほし」と読んでおくが、「也」は判読に自信がない。二行目以下は「鎬(しのぎ)、鋭(するど)に立(たち)て能(よ)く竹木(ちくぼく)を削る。」であろう。]
長三寸二分。如白玉。
[やぶちゃん注:長さ九・七センチメートル。「白玉のごとし」。最上段の最も大きく、優れた形をした有茎石鏃の解説であろう。]
○大小異形。俗に「箭の根」又「矢石」と云。
紫・赤・靑・黑・白・黄・斑、色、皆、如ㇾ玉(むらさき あか あを くろ しろ き またら いろ みな たまのごとし) 黄土色は、夛く兼所なり。
[やぶちゃん注:「兼所」は「かぬるところ」或いは「かねるところ」で、どの色にも多く付随している色である、という意味と読む。]
其一 「神樂嶽(かぐらだけ)のかぐら」と云へるは、山下人(やましたびと)・樵夫(きこり)など、時有(ときあつ)て、山上、忽(たちまち)、御神樂(みかぐら)を奏する音、聞ゆと云へり。然(しかれ)ども、其所(そのところ)、分明(ぶんみやう)ならず。中越後(なかえちご)にて是を尋(たづ)ぬれば、羽州の境(さかひ)、村上山中(むらかみやまなか)と云へ、下越後(しもえちご)にて是を尋(たづぬ)れば、會津境(ざかひ)、津川の邊(ほとり)とも云へり。予數ヶ年(すかねん)、其地を求むれども、未ㇾ得(いまだえず)、あるまじきことにもあらねど、重(かさね)て穿鑿を歷(へ)て、其實(じつ)を記すべし。或人、是を聞(きゝ)たりなど云(いへ)れど、牧笛樵歌(ぼくてきしようか)なんど誤まりけん、訝(いぶか)し。
[やぶちゃん注:山風や谷風によって山の反対側或いは近くの別な麓の村の音が反響して山頂から聴こえるような現象。
「然ども其所、分明ならず」以下に見る通り、一箇所を限定して指し示すことが出来ないことを謂う。
「村上山中(むらかみやまなか)」現在の新潟県北端の村上市。ここ(グーグル・マップ・データ)。出羽国、現在の山形県との境に当たるのが、朝日山地。朝日岳の主峰大朝日岳(標高千八百七十メートル)は山形県に属する。ここは私も登頂したことがある。
「會津境(ざかひ)、津川」新潟県東蒲原郡阿賀町津川附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「牧笛樵歌(ぼくてきしようか)」本来は「牧笛」は、牧童が家畜に合図するときに吹く笛であるが、ここは百姓の草刈の際に野良作業の囃子として吹き鳴らす笛や太鼓、「樵歌」は文字通り、樵(きこり)が伐採する際の木こり唄。]
其二 「箭ノ根石(やのねいし)」【「石鏃(せきぞく)」なり。】。諸方の好事家、已に此奇を知ル。其形、種々(しゆじゆ)ありて、上品なるものは紫(し)・白(はく)・靑(せい)・黑(こく)、皆、如ㇾ玉(たまのごとし)、甚だ鋭(するど)にして、込(こみ)も長し。大なるもの、八寸ばかりなるあり。二寸、三寸、四寸なるものも又、稀なり。多くは一寸ばかりなり。總て、北越所々(しよしよ)、山中並ニ古き社地・古城跡・畑(はた)などにもあり。雷斧石(らいふせき)を、まゝ交(まじ)へ出(いだ)す。又、俗に「天狗のメシガイ」と云ふ物を出す。石鏃に似て、形、異也。頸城郡には大光寺村山畑(やまはた)、神田山(かんだやま)、三島郡には圓淨湖(ゑんじようじがた)の北、京ケ入村(きやうがいりむら)・渡邊村・長者ヶ岡・竹森(たけもり)の村、古き社地あり。雪中(せつちう)に土(つち)のうちより飛放(とびはなつ)て、竹木(ちくぼく)に鑿立(えりたつ)こと、ありし。蒲原郡には伊夜日子山下(いやひこのさんか)、麓村(ふもとむら)の畑(はた)、黑滝(くろだき)の古城跡等(とう)なり。又、米山の西北(にしきた)、土底村(どそこむら)海邊(かいへん)、砂山の間(あいだ)に小池あり。此所、甚(はなはだ)夛(おほ)し。日々、小児等(ら)、其辺(ほとり)、盡(ことごと)く拾ひ盡(つ)くして、歸(かへる)と雖も、翌朝(よくてう)、又、元のごとし。予一とせ、此池に遊び、其奇を試んと思ひ、一夕(いつせき)、小児等(ら)を伴ひ、かの池より、五、六丁にして池の畔(ほとり)に至り、石鏃、五ツ、六ツ、拾ひ得て歸りぬ。扨、翌朝未明に、又、独行(どつかう)してその所に至り見るに、果して、三ツ、四ツあり。其中(そのうち)、不思義なるは、半(なかば)、鏃(やじり)の形をなして、いまだ全くならざるものあり。又、水底(すいてい)所々(しよしよ)に石銷(くづ)、一ト群れづゝにして、有(あり)。皆、一片(いつへん)一片に、割(さけ)ケ飛(とび)たるがごとし。まことに予此奇を見て、身毛寒慄(しんもうかんりつ)をなせり。又、何(いづ)れ社地などに、地中より飛放(とびはなつ)て、人に當(あた)れるものもあれど、敢(あへ)て損傷(そんじよう)に及ばず。又、信州境、關山(せきやま)の中(うち)にて、農家の婦(ふ)、戸外(こぐはい)に出て、浴湯(ゆあび)したりけるに、山中(さんちう)より何處(いづ)くともなく、矢響(やひゞき)して、盥(たらゐ)の中(うち)に飛入(とびいり)たり。女、驚き、立上(たちあがり)て是を見れば、大なる箭(や)の根石(ねいし)、徑(わた)り七寸計(ばかり)なるものなり。誠に、其奇、はかるべからず。
[やぶちゃん注:以下、本文は改行せずに続いているが、長いので、ここで一旦、切ることとする。
この話の中で、崑崙自身の不思議な体験として、石鏃を執り尽くしたはずなのに、翌朝に行くと、拾い忘れるはずのない有意に目立つ石鏃が複数転がっている、またその中には、あたかも昨日から今日にかけて、新たに加工している途中のようなものさえも交っている、という怪異が出るが、これは海を隔てた佐渡島の怪談実録を集めた私の偏愛する「佐渡怪談藻鹽草」の中の一篇「淺村何某矢の根石造るを見る事」(既に全話をオリジナルに電子化注済み)を強く思い出させた。海峡を隔ててはいるものの、隣国であり、この類話性はすこぶる興味深い。
「箭ノ根石(やのねいし)【石鏃(せきぞく)なり】」後で崑崙の描いた多量の図譜が出るが、本邦では縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。矢の先端の反対側に突起を伴わない「無茎石鏃」の外、傘の柄のようにそこに突起(茎)を持つものもあって、それは「有茎石鏃」と呼称する。縄文記には、原石を打ち欠いて剥片を作り、それに細部の調整を加えて製作したもので、それらの殆んどは「打製石器」に属する。弥生以降から側縁部に磨きをかけた「磨製石器」としての石鏃が増加してくる。矢柄(やがら)への取り付けは管状の植物の凹み部分などを利用し、紐などで縛って装着させたと考えられているが、有茎石鏃の場合はその突起箇所を柄に成形した凹み部分と咬み合わせることで強度を加増させたものと考えられる。既に前章の注で述べているが、東北や北海道地方では石鏃の補強や補修及び接着部からアスファルトが検出される場合も多く、現在の新潟・秋田などにあった油田地帯から湧出した天然アスファルトが、交易の結果、北日本一帯に流通していたことが判明している(以上は主にウィキの「石鏃」に拠った)。但し、実際に崑崙が図で提示するそれらは、既に掲げた通り、多様な形状をした「石鏃」もさることながら、それだけに留まらず、乳棒状の擂り粉木か突き棒のような「石棒」・「石剣」・「石矛(いしぼこ)」の類や、典型的形状を成す石斧類(「霹靂堪(へきれきじん)」・「雷斧石(らいふせき)」)、三角稜を呈した手裏剣のような特異な武具か器具のような、しかし、漁具の錘のようにも見える「霹靂楔」などにまで及んでいる。
「込(こみ)」先の注で出した「有茎石鏃」鏃(やじり)を矢本体である篦(の:矢柄(やがら))の中にさし込まれる突起部分。「のしろ」とも呼ぶ。
「八寸」約二十四センチメートル。
「二寸、三寸、四寸」約六センチから十二センチメートル。
「一寸」三センチメートル。
「天狗のメシガイ」図及び前の注を参照。
「頸城郡」「大光寺村」旧中頸城郡内。現在位置不詳。識者の御教授を乞う。
「神田山(かんだやま)」上越市頸城区塔ケ崎に神田山神社があるから、前の大光寺村とともにこの附近(グーグル・マップ・データ)か?
「圓淨湖(ゑんじようじがた)」既出既注。現在の新潟県長岡市寺泊下曽根附近(ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した「円上寺潟」のこと。
「京ケ入村(きやうがいりむら)」長岡市寺泊京ケ入。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下、「渡邊村」「長者ヶ岡」「竹森の村」もこの周辺ととっておき、面倒なので限定比定はしない。悪しからず。
「雪中(せつちう)に土(つち)のうちより飛放(とびはなつ)て、竹木(ちくぼく)に鑿立(えりたつ)こと、ありし」石鏃類が、冬場、雪の中で地面から飛び出して、竹や樹木に深く刺さった状態で発見されることがあるというのである。奇怪な現象である。「伊夜日子山」多数既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山のこと。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「麓村(ふもとむら)」弥彦山の南東山麓の新潟県西蒲原郡弥彦村麓。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「黑滝(くろだき)の古城跡」弥彦村麓の中のここ(グーグル・マップ・データ)。築城時期・築城主体ともに不明。一説に鎌倉末期に刈羽郡小国保から西蒲原に進出した小国氏が築いたともされる。慶長三(一五九八)年に廃城となったと推定される。詳しくは秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の「黒滝城」を参照されたい。
「米山の西北(にしきた)、土底村(どそこむら)海邊(かいへん)」新潟県上越市大潟区土底浜。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「小池」現在の土底地区には「天ヶ池」があり、その周辺にも池沼は散在する。
「かの池より、五、六丁にして池の畔(ほとり)に至り」「五、六丁」は五百四十六~六百五十五メートルほどであるが、ここ意味がよく判らぬ。
「身毛寒慄(しんもうかんりつ)をなせり」恐ろしさのあまり、身の毛がよだつほどに寒気とともに慄(ぞっ)としたというのである。
「何(いづ)れ社地などに、地中より飛放(とびはなつ)て、人に當(あた)れるものもあれど、敢(あへ)て損傷(そんじよう)に及ばず」どこそこの社(やしろ)の境内地内では、突然、地中から石鏃が飛び出して、参詣人や通行者に当たるという奇怪な現象が起こる場合もあるが、特にそれによって傷を受けるほどではない、というのである。これって多分、子どもの悪戯ではないの? 僕ならきっとやるもん、崑崙先生。
「信州境、關山(せきやま)」新潟県妙高市関山。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「七寸」二十一・二一センチメートル。崑崙先生、これもさ、その農家の女性に懸想している、どこそこの男が覗きをしているうちにムラムラきて、しょうかたなしに男根に似た石鏃を投げたと解釈する方が、ずっと自然だと思うんですけど?]