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2017/09/30

老媼茶話巻之弐 惡人(承応の変始末)

 

     惡人

 

 慶安四年秋七月、油井正雪・丸橋(まるばし)忠彌が餘類、悉(ことごとく)、刑罪に行はる。其節、改元有(あり)て承應元年と成る。頃日(このごろ)、又、別木(べつき)庄右衞門・林戸右衞門(はやしべゑもん)・三宅平六・藤江文十郎・土岐與左衞門といふ浪人共、打寄(うちより)、徒黨の結(ゆ)ひをなし、忍び忍びに正雪・忠彌が殘黨を集(あつめ)、天下をくつがへすべき事を、なす。已(すで)に、一味の者共、大勢なりければ、件(くだん)のものども、密かに道灌山の麓に寄合(よりあひ)、しめし合せけるは、

「此度(このたび)、大猷院樣御法事、增上寺にて有之間(これあるあひだ)、この折を得て、增上寺の風上、二、三ケ所より火を放(はなち)て燒立(やきたて)、万部(まんぶ)の布施物(ふせもつ)の金銀をうばひ取(とり)、是を以(もつて)、此度(このたび)、武具・馬具をかい求(もとめ)、すべて用金にあてべし。その外、徒黨のものども、二、三百人、江戸町中、爰(ここ)かしこに火を付け、江戸一面に燒立ん。然らば、老中、火を消さんとて出(いで)給はゞ、愛宕の邊り、四、五所に待伏(まちぶせ)して、鐵抱を以(もつて)打落(うちおと)し、其(その)外、目立(めだち)し大名を撰(えらみ)、打(うち)、遠矢に打殺(うちころ)し、江戸水道の水上(みなかみ)に毒を流し、御城(おしろ)の焰焇(えんしやう)ぐらへ、火矢をいかけて燒落(やきおと)し、天下の變を見るべし。若(もし)、其(その)謀計、叶わずば、四國西國のはてへ落行(おちゆき)、跡をくらまし、又、時節の至るを待(まつ)べし。增上寺御法事、來(きたる)九月十五日より初(はじま)る也。十八、九日頃、手筈を合(あはせ)、一度にむほんを起すべし。」

とて、各(おのおの)、私宅歸りける。

 爰に城半左衞門家來長嶋刑部左衞門、是も一味の者也しが、忽(たちまち)、志を改(あらため)、九月十三日夜、松平伊豆守殿宅來り、悉(ことごとく)かの物共が企(くはだて)を、ちうしんす。伊豆守殿、悉く相尋(あひたづね)、彼等が居所、書付(かきつけ)、細(こまか)に上聞に達しければ、則(すなはち)、今夜、彼(かの)黨の棟梁をからめ取(とり)、きびしく拷問可仕(つかまつるべき)由被仰出(おほせいだされ)、町奉行石谷(いしがや)將監(しやうげん)・神尾(かんを)備前守に被仰付(おほせつけられ)、阿部豐後守殿は、此度、御法事に付、增上寺に相詰居(あひつめゐ)玉ひけるに、兩町奉行、豐後守殿宿坊へ來り、此事をひそかに内談有(あり)。すべての樣子、御法事御用と違ひければ、寺僧を始め、人、皆、是をあやしみける。豐後守殿、石谷將監・神尾備前守同道にて宿坊を立出(たちいで)、本堂の前なる小松原に暫(しばらく)立留(たちどま)り、豐後守殿、被申(まうされ)けるは、

「只今、各(おのおの)へ相談仕(つかまつる)施行(せぎやう)の場所、彌(いよいよ)此所可然(しかるべく)候哉(や)。」

と被申ける。

 兩町奉行、答(こたへ)て、

「尤(もつとも)。此所宜敷(よろしく)候べし。非人ども、山門より入(いり)て裏門へ通りぬけにさせば、混亂、仕(つかまつる)まじ。」

と申さるゝ。

 豐後守殿、

「此(この)義、可然候。」

と云(いひ)て、夫より、三人打連(うちつれ)、本堂被歸(かへられ)ける間、寺僧共、三人の家來ども初(はじめ)、密談の程を不審しけるが、只今の評定を聞(きき)て、

「扨(さて)は施行(せぎやう)の場所の事にて有(あり)ける。」

と心得ける。

 今夜は、風、烈敷(はげしく)吹荒(ふきあれ)、物そらぞら敷(しき)夜なれば、增上寺の番所番所加番を添(そへ)、寺中・寺外に至(いたる)迄、大勢の足輕、櫛のはを引(ひく)ごとく、打𢌞り、打𢌞り、嚴敷(きびしく)警固し、夜を明(あか)し、石谷將監・神尾備後守は、其夜、寅の刻、與力・同心、召連(めしつれ)、門前の町、二町目に向ひ、三宅平六・土岐與左衞門借宅(しやくたく)押込(おしこみ)て平六が上下弐人、召取(めしと)。此間に、與左衞門、逐電す。平六は大に働き、將監が組の同心笹岡源右衞門と云(いふ)もの、痛手、負(おひ)たり。別木庄右衞門・林戸右衞門・藤岡又十郎をば、札の辻に有(あり)とて、平六を生捕(いけどり)て、兩町奉行、芝の辻へ引(ひき)ける。

 其折節、別木・林・藤岡、打寄、取々に評義して、

「我等、若(もし)志を得る事あらば、別木は關東を領、昔北條氏康がごとく、たらむ。」

と云。林は、

「西國を一圓に領せん。」

といふ。藤岡は、

「奧州五十四郡をたもつて阿部の賴任がごとく、榮花をひらくべし。」

と言(いひ)て、何心なく酒飮(のみ)、たはむれ有けるが、何方(いづかた)ともなく、三宅・土岐、むほん、顯れ、召捕(めしとら)れける由、傳聞(つたへきき)、大きに驚き、

「急ぎ先(まづ)西國へ落行(おちゆか)ん。」

とて、取物(つるもの)も取(とり)あへず、辻を立出(たちいで)けるに、石谷・神尾が取手の者に、はしたなく行逢(ゆきあひ)たり。三人の者共、兩町奉行の大勢を見て、棚下(たなした)へかくれける。與力・同心、是をみて、

「何ものぞ。夜更て我々をみて隱るゝ、名乘(なのれ)。」

と云。

 別木與左衞門、林・藤岡に先達(せんだつ)けるが、

「是は阿部豐後守家來也。此度、御法事御用にて罷通(まかりとほり)候。」

と云。

「豐後守家來、何しに隱るゝぞ。面(おもて)を見よ。」

と立寄(たちよる)所を、別木、刀を拔(ぬき)て切懸(きりかか)る。

「すは、痴(クセ)もの、あますな。」

とて、大勢、押懸(おしかか)りける内に、神尾備前守、同心橋本喜兵衞、一番に飛(とび)なして懸るを、林戸右衞門、刀を拔(ぬき)て拔打(ぬきうち)に切(きり)すへける。取手の同心、いやが上に、おりかさなり、別木・藤岡をば生捕(いけどり)たり。

 はやし戸右衞門、大力強勢の男、そのうへ、劍術の名人にて、三尺五寸、藤嶋友重が打(うつ)たる刀を拔(ぬき)て散散に切𢌞(きりまは)る。將監組のうち、同心赤羽與左衞門・堀江喜左衞門・湯淺半左衞門・成瀨彌五右衞門・吉江六太夫、神尾組の同心岩瀨庄左衞門・横澤勘六、以上九人は、くつきやうの者共なれど、林壱人に切立(きりたて)られ、三人は手負(ておひ)たり。去共(されども)、同心共、いやが上におり重(かさな)り、石谷・神尾、頻りに下知し給へば、林も終(つひ)に生捕(いけどら)れ、かくて未明に石谷・神尾は豐後守殿宿坊へ來り、

「林・藤岡・三宅・別木、生捕し徒黨の内、土岐與左衞門は逐電仕(つかまつり)候。」

よし被申(まうさる)。

 明(あく)る十四日、四人の者ども、拷問し、徒黨の意趣、同類の輩、被尋(たづねられ)、白狀に隨ひ、同類與黨の輩(やから)が一類緣者、印(しる)す。

「水野美作守(みまさかのかみ)家人(けにん)石橋源右衞門【三百石領ス。】。此者、今度、徒黨棟梁たる。」

よし、別木、申(まうす)に付(つき)、美作守へ被仰遣(おほせつかはさる)。弟(おとと)又次郎兄弟、召込置(めしこみおく)。

 阿部豐後守家人山木兵部【二百石。】。彼は武田家の軍師山本勘介賴純が孫也。是も同類のよし也。

 松平但馬守家人町田安齋【三十人扶持。】。かれは別木が親なり。

 同家中町田兵庫【三百石。】。別木か兄也。

 松平遠江守家人町田甚兵衞、別木が兄也【弐百石。】。

 阿部豐後守家人千手八左衞門【弐百石。】。石橋源右衞門姉聟(あねむこ)也。

 北條出羽守家人永田九郎兵衞、幷(ならびに)養仙と云(いふ)醫師、土岐與左衞門弟也。このものども嚴しく召捕へさし置く。

 十六日朝、今度の徒黨人(とたうにん)土岐與左衞門、爰かしこと、隱れ𢌞りけるが、天網のがるゝ所なく、一夜の宿かすものなかりければ、增上寺裏門切通しにて腹切(はらきり)、吭(のど)を、かく。然共(しかれども)、深手にて無之(これなき)故、死せさりしを、所のもの、見付、公義へ訟(うつたへ)ける間、公儀より外科を付(つけ)、養生せさせられけれども、十七日の曉(あかつき)、終に相果けるみぎり、辭世、

  立歸る煙は同じ世の中を名にかへし身の惜しからめやは

 廿一日、彼黨が謀反の與黨、嚴敷(きびしく)御詮義の上、罪科、極(きまは)り、淺草に於て、林・藤岡・三宅・石橋・別木・町田、六人の者共、はりつけにおこなはれ、六人の親兄弟、同日、淺草にて首をはねられける。

 誠に愚成(おろかな)る哉(かな)、蚊蜂(ぶんはう)、針を以(もつて)富士をくづさんとし、とうらう、車をさへぎるの假(たとへ)より、なを及びなき天下を望(のぞみ)、斯淺間敷(かくあさましき)死をとぐるは、其身の心からなり。

 露程(つゆほど)も知らざる親族迄、御仕置(おしおき)に行なわれ、骸(かばね)の上の恥をさらす事こそ、あさましけれ。 

 

[やぶちゃん注:今回の本文は一部で底本に示された、右に附された原典の異本校合跡の方を読み易さ・理解し易さを考慮して本文採用した箇所がある。そこはいちいち明記しなかった。疑義のあられる場合は、底本を見られたい。

慶安四(一六五一)年四月から七月にかけて起こった「慶安の変」に続いて、翌慶安五年九月十三日(グレゴリオ暦一六五二年十月十五日)に発生した、浪人集団による老中暗殺を含む江戸テロ未遂事件である「承応(じょうおうのへん)の変」の実録物。まず、ウィキの「慶安の変」より引く。「由比正雪の乱」「由井正雪の乱」「慶安事件」とも呼ばれる。『主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義』。『由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた』。『この頃、江戸幕府では』三代将軍徳川家光(慶長九(一六〇四)年~慶安四(一六五一)年四月二十日:丁度、この事件の勃発の月、満四十六の若さで病死した。死因は胃癌や高血圧症からの脳出血などが疑われている))『の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。浪人の中には、武士として生きることをあきらめ、百姓・町人に転じるものも少なくなかった。しかし、浪人の多くは、自分たちを浪人の身に追い込んだ御政道(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた』。『正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった』。『そのような情勢下』で『家光が』病死し、後を未だ十一歳の長男『家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし』、『これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐する。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、全国の浪人たちを味方に付け、幕府を支持する者たちを完全に制圧する、という作戦であった』。『しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしま』い、慶安四年七月二十三日に、まず、『丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である』七月二十二日『に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま』、七月二十五日、『駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌』二十六日『早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後』、七月三十日『には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害』、八月十日『に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した』。『駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力』二十『余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげた』。『江戸幕府では、この事件とその』一『年後に発生した承応の変』(後述)『を教訓に、老中・阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、正雪らの掲げた理念に沿った世になるに至った』とある。

 次にウィキの「承応の変から引く。慶安五年九月十三日に発生した浪人騒動。『主な首謀者は別木庄左衛門、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門』。「承応事件」或いはと別木は戸次とも書くことから「戸次庄左衛門の乱」とも称する。『牢人の別木庄左衛門が、同士数人とともに』徳川秀忠の正妻であった崇源院(お江(ごう)の方)の二十七回忌が『増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、江戸幕府老中を討ち取ろうと計画した』。『しかし、仲間の』一『人が老中・松平信綱に密告したため、庄左衛門らは捕らえられ、処刑された。また、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も、計画を打ち明けられていながら』、『幕府に知らせなかったという理由で、ともに磔刑に処せられている。更に、老中・阿部忠秋の家臣である山本兵部が庄左衛門と交際があったということで、信綱は忠秋に山本の切腹を命じている』(下線やぶちゃん)。『慶安の変同様、それまでの武断政治の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。以後、幕府は文治政治へ政治方針を転換した』。なお、これが「承応の変」「承応事件」と呼ばれるのは、事件の五日後の九月十八日に承応元年に改元されたこと、事件の後処理を含め、決着がついたのが改元後であったためである。

「油井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年~慶安四(一六五一)年)ウィキの「由井正雪」より引く。『江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者で』、『名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある』。『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎』(「樟紀流花見幕張」くすのきりゅうはなみのまくはり)き:「丸橋忠弥」「慶安太平記」の異称もある。全六幕。明治三年三月(一八七〇年四月)に東京守田座で初演)では、慶長十年に『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたと』し、『治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出』、『軍学者の楠木正辰の弟子とな』って『軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚』、『婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』(以下、「慶安の変」の記載は略す)。『首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する』。

「丸橋忠彌」(?~慶安四(一六五一)年)は、ウィキの「丸橋忠弥」より引く。『江戸時代前期の武士(浪人)』。『出自に関しては諸説あり、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説(『望遠雑録』)、出羽国出身とする説など定かではない。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべもりずみ)と設定されている』。『友人の世話で、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開く。その後、由井正雪と出会い、その片腕として正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門が密告したため幕府に計画が露見。そのため捕縛され、磔にされて処刑された』。『辞世の歌は』、

 雲水のゆくへも西のそらなれや願ふかひある道しるべせよ

『墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺』。『一説に』、『新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進は、忠弥の血筋だという』とある。

「其節、改元有(あり)て承應元年と成る」この謂い方はおかしい。これではあたかも由井正雪らによる「慶安の変」の直後に改元があったようにしか読めない。実際には前注通り、以下に語られる「承応の変」自体が「慶安」から改元される直前に起った事件である。

「別木(べつき)庄右衞門」(?~承応元(一六五二)年)は江戸前期の浪人。姓は「戸次」とも表記される。元は越前国大野藩士で二百石を領したが、浪人となって江戸に出て、軍学を講じていた(ウィキの「別木庄左衛門」に拠る)。小学館「日本大百科全書」には、軍学を山本勘助の孫山本兵部、また、石橋源右衛門に学んだとする。本文にある通り、この二人の師も連座して斬罪となっている

「林戸右衞門」本文で振った通り、ネット記載を縦覧する限りでは(実際には読みを振ったものは極めて殆んどない)これは「林」が姓で「はやしべゑもん」と読むようである。詳細事蹟不詳。

「三宅平六」詳細事蹟不詳。以下の「藤江文十郎」・「土岐與左衞門」も同じ。

「結(ゆ)ひ」結束の誓い。

「道灌山」現在の東京都荒川区西日暮里四丁目付近の高台。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大猷院樣御法事」「大猷院」は家光の諡号で、これでは彼の法要となり、誤り。事実は故家光の母である徳川秀忠の正妻崇源院(お江の方)の二十七回忌法要である。

「万部(まんぶ)の」多量の。

「あてべし」ママ。「あつべし」。底本にも編者により、「つ」の訂正注が「て」の右にある。

「打(うち)、遠矢に打殺(うちころ)し」この前の「打」は「討ち」で、「急襲し」の意であろう。

「江戸水道の水上(みなかみ)」当時の江戸の上水は神田上水のみ。井之頭池(現在の三鷹市井の頭の井の頭公園内)を水源とする。

「焰焇(えんしやう)ぐら」焔硝蔵(えんしょうぐら)。火薬庫。当時の江戸城の焔硝蔵がどこにあったか私は知らないが、非常に危険施設であるから、城内にはなかったのではないかと思ったりもする。こちらの幕府職の解説一覧の「鉄砲玉薬奉行」の項に、『現在の杉並区永福寺の東の和泉にあった焔硝蔵と四ツ谷の紀伊藩下屋敷と永井遠江守下屋敷の間にあった焔硝蔵』とあるのが目にとまった。識者の御教授を乞う。

「增上寺御法事、來(きたる)九月十五日より初(はじま)る也。十八、九日頃、手筈を合(あはせ)、一度にむほんを起すべし」この日程も誤りと思われる。「備陽史探訪の会」のブログの小林定市氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」によれば、崇源院の二七回忌法会は、『九月五日より』『行なわれ』『十五日に終る』とあるからである。それ『を待って、風の烈しい夜増上寺の周辺数ヶ所に火を放ち、寺に乱入して財宝や香奠の金銀を奪い取る。その際、火消の指揮をとるため出動する老中を待伏し、鉄砲又は遠矢で打落すと府内は大騒動となるから、その虚に乗じて天下の変を窺わんとするものであった』とある。

「城半左衞門」前注の小林氏のそれに『普譜奉行城半左衛門朝茂』とある。

「長嶋刑部左衞門」前注の小林氏のそれには『朝茂の』家来『長島刑部左衛門』とし、その後に『長島は幕府が放ったスパイだった』とある。「町人思案橋・クイズ集」の「承応(しょうおう)の変を密告した武士。どんな対応が待っていたの?」では、彼を特に密偵であったとはしないが、事件後、彼は密告によって幕府転覆計画を未然に防いだ褒賞として、五百石『という高禄で幕府の御家人として採用された』とあり、因みに、『前年に起きた慶安の変も密告者によって計画は潰(つい)えてい』るが、やはり、この時の『直接の密告者である奥村八左衛門(はちざえもん)とその従弟奥村七郎右衛門(しちろうえもん)』も三百石の『御家人として召し抱えられたらし』く、他に『林理左衛門(りざえもん)という人物も密告した』ようで、こちらも五百石で『召し抱えられた』ようであると記す。

「九月十三日夜」先の小林氏の記載から、この密告の日付は正しい。

「松平伊豆守」松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵国忍(おし)藩主(寛永一〇(一六三三)年~寛永一六(一六三九)年)・同川越藩初代藩主(事件当時)で老中(本事件当時は老中首座)。幕藩体制完成期の中心人物の一人。慶安の変の際も密告者は彼に密告している。なお、ウィキの「松平信綱」には、先の『慶安の変で丸橋忠弥を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから』、『捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の』二『階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという(『名将言行録』)』とある。

「ちうしん」「注進」。歴史的仮名遣は「ちゆうしん」でよい。

「石谷將監(しやうげん)」石谷貞清(いしがやさだきよ 文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)は旗本。ウィキの「石谷貞清」によれば、慶長一四(一六〇九)年十六歳で徳川秀忠に召し出されて大番となり、慶長二十年の『大坂夏の陣においては、土岐定義の指揮下に入って江戸城の守備をするように命じられたが、命令を破り徳川秀忠の行軍に徒歩侍として付き従った。この行動は軍規違反ではあったが、徳川秀忠は貞清が若い事やその志に感じるものがあったのか、軍規違反を許し、逆に金子三枚を褒美として与えている。合戦に及んでは、秀忠本陣にて斥候を務めたという』。その後、領地を与えられ、腰物持・徒歩頭・御目付と昇進、寛永一〇(一六三三)年には千石の加増を受けて、合計千五百石を領した。寛永十四年の「島原の乱」では上使板倉重昌の副使を務めたが、『板倉・石谷両氏は諸大名に比べて身分が低いために軽視され、諸大名はその命令に従わなかったとされる。また、城方の守備も堅く幕府方は多数の死傷者を出して敗走した。重昌及び貞清は諸卒を督戦したが効果が無く、焦燥した重昌は翌寛永』十五年一月一日、『自ら先頭となって城方に突撃』するも、『鉄砲の弾に当たって戦死している。貞清も同様に突撃し』て『奮戦したが』。『負傷して後退した。この際、貞清の従士』三『名が討死し』、『幕府側に多数の死傷者が出たと言う。この日の幕府側の損害があまりに大きかったため』、『城方が夜襲をしてくる可能性を考慮し、貞清は負傷に堪えて各陣所を巡見』、『警戒態勢を整えた。また、細川忠利、黒田忠之、島津家久に援軍を依頼し、合わせて戦況を江戸に報告した。板倉重昌の戦死に伴い』、『総大将は松平信綱に代わったが、同月』二十八日『に貞清は板倉重矩』(故板倉重昌の長男)『と供に島原城に突入し奮戦している』。同年三月五日『に駿府へ凱旋したが、軍令違反に抵触したことを咎められ、一時』、『蟄居した』が、同年十二月三十一日『には蟄居処分を解かれている』。慶安四(一六五一)年、『江戸北町奉行に就任し』、『従五位下左近将監に叙任された』。「明暦の大火」(一六五七年)の際には』、『伝馬町牢屋敷の囚人を解放してその命を救ったと』される。因みに、『貞清は元来、柳生宗矩や沢庵宗彭、小堀政一と親交があり、彼らの茶会派閥の一員であった』ともある。

「神尾(かんを)備前守」神尾元勝(かんおもとかつ 天正一七(一五八九)年~寛文七(一六六七年)は旗本で茶人。ウィキの「神尾元勝」によれば、『江戸時代の歴代町奉行の中で、もっとも長期間奉行職を務めた。通称は五郎三郎。官位は内記、従五位下備前守。剃髪後に宗休と号』した。『岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で、後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った』。慶長一一(一六〇六)年に『家康に登用されて徳川秀忠に拝謁、書院番士に選出される。その後』、『小姓番、使番、作事奉行と累進し』、、寛永一一(一六三四)年『に長崎奉行に就任』、寛永十八年『には殉職した加賀爪忠澄の後任として南町奉行に就任した』。寛永二十一年に浪人四人と力士一人が『吉原で狼藉を起こした際、同心を率いてこれを鎮圧し』、『彼らに死罪を下し、由井正雪による幕府転覆計画の折にも石谷貞清と共に鎮圧するなど、奉行として江戸の治安維持に尽力し、寛文元』(一六六一)年『に致仕するまで、足掛け』二十『年近くに渡り』、『奉行を勤めた。玉川上水を開削する際、推進した玉川兄弟の案を幕府に献策するなど、便宜を図ったのも元勝だという』とある。

「阿部豐後守」阿部忠秋(慶長七(一六〇二)年~延宝三(一六七五)年)は下野壬生藩・武蔵忍藩主(先の松平信綱の後で寛永一六(一六三九)年より没年までであるから事件当時もこの地位)・老中ウィキの「阿部忠秋」によれば、徳川家光・家綱の二代に亙って老中を務めた。『慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代の歴史家竹越与三郎より「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)と高く評価された。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。関ヶ原の戦いを扱った歴史書』「関原日記」(全五巻)『の編者でもある』。『忠秋は「細川頼之以来の執権」と評せられ』、『責任感が強く、また、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった』。『阿部忠吉(阿部正勝の次男)の次男。母は大須賀康高の娘。長兄の夭折により』、『家督を相続』、『初名は正秋であったが、寛永三(一六二六)年に『徳川秀忠の偏諱を拝領し、忠秋と名乗った。正室は稲葉道通の娘、継室は戸田康長の娘。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部政澄(重次の兄)の子の正令(後に正能と字を改める)を養子として迎えた』。元和九(一六二三)年に豊後守に叙任、寛永一〇(一六三三)年三月に「六人衆」(松平信綱阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次。後の「若年寄」に相当する江戸幕府初期の職名)の一人となり、同年十月二十九日に老中に任ぜられた。由比正雪の乱が起こった後、松平信綱や大老酒井忠勝らは、『江戸から浪人を追放することを提案し、他の老中らもその意見に追従したが、ただ一人忠秋のみは、江戸に浪人が集まるのは仕事を求めるゆえであって、江戸から浪人を放逐したところで根本的な問題の解決にはならないと、性急な提案に真っ向から反対し、理にかなった忠秋の言い分が最終的には通った』とある。リンク先には先に出た老中松平信綱との逸話が記されているので、彼の人となりを知るために引いておくと、『ある寺の僧侶が他国の寺院へ転属する命令を頑として受け入れないため、松平信綱と』二『人で説得に出かけた。最初に信綱が理路整然と僧侶に転属の理由を述べて説得したが、ますます反発』して「他の方が適任だ」『と言う始末であった。次に忠秋が』「どうしても行きたくないのか」と訊ねると、「お咎めを受けても行きません」『と僧侶は答えたので』、「では咎めとして転属を申し付ける」『と忠秋が言ったとたん、僧侶は』、「知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手ですね(知恵がある)」『と笑いながら申し付けを受け入れたと言う』。また、正保二(一六四五)年十月のこと、『家光が神田橋外の鎌倉河岸へ鴨狩りに出かけ』、『家光は鴨を飛び立たせるために小石を投げるように命じたが、手ごろな石が無かった。そのため、魚屋から蛤を持ち帰らせて小石の代わりにした。翌日、この顛末を聞いた松平信綱は「上様のお役に立った魚屋は幸せ者であり、蛤の代金を取らせる事はあるまい」と言った。しかし同席していた忠秋は、「上様のお役に立ったのは名誉に違いないが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。上様のなさったことで町人に損失を与えては御政道の名折れである」と反論し、代金を支払わせたという。(『寛明日記』より)』とある。

「只今、各(おのおの)へ相談仕(つかまつる)施行(せぎやう)の場所、彌(いよいよ)此所可然(しかるべく)候哉(や)。」「ただ今、御両人へ相談致した施行(せぎょう)のやり方は、以上のような形でよろしゅう御座るか?」といった意味か。施行とは僧や貧しい人々の救済のために物を施し与えることで、崇源院の法要の中で既に決められていた次第の中の一部であったものと考えられる。さすれば、後の「非人ども、山門より入(いり)て裏門へ通りぬけにさせば、混亂、仕(つかまつる)まじ」も腑に落ちる。当時、賤民として差別されていた非人は貧者であり、まさに施行を受けるに相応しく、非人は葬列や埋葬にも関与したから、増上寺でのそれを受ける資格があったと考えられるからである。

「寺僧共、三人の家來ども初(はじめ)、密談の程を不審しけるが、只今の評定を聞(きき)て「扨(さて)は施行(せぎやう)の場所の事にて有(あり)ける」「と心得ける」実際にはとんでもないテロ行為の計画があることを両奉行は内密に報告したのであるが、それが彼ら三人の家来や増上寺の僧らが知れば大変なパニックを起こすし、或いは、彼らの三人の家来や寺関係者の中に謀略集団と内通している者がいると情報が洩れて問題となると考えた、三人の一芝居なのであろう。事実、まさにこの阿部忠秋の家臣山木兵部(先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」では「山本」とあるし、本文もかの軍師山本勘助の孫だと書いてある)がこのテロリスト別木と交友があって、事件後に阿部から切腹を命ぜられている。兵部は本文にも捕縛者の名として出、先の阿部忠秋の引用でも見た。他に本文では「千手八左衞門」なる人物(石橋源右衛門の姉の婿。事蹟不詳)がやはり忠秋の家臣である。

「物そらぞら敷(しき)」不詳。なんとなくはっきりしない、いや~な感じのする、の謂いか。

「加番」追加の警護兵員。

「櫛のはを引(ひく)ごとく」「櫛の齒を挽く如く」。櫛の歯は一つ一つ鋸で挽いて作ったところから、「物事が絶え間なく続く」さまを比喩する。

「寅の刻」午前四時の前後二時間に相当する。

「上下弐人」謀議の徒党の中の主犯格クラス(群)と共犯(従犯)格クラスの謂いか。どちらがどっちかは判らぬが、前とここの記述順序の従うなら、三宅平六が前者で、土岐与左衛門が後者であったものか。

「笹岡源右衞門」不詳。

「藤岡又十郎」先に出た藤岡又十郎の別姓か、単なる誤りであろう。

「札の辻」一般名詞では高札を立てた道辻(街道や宿場町など往来の多い場所を選んだ)を指すが、ここは地名で、江戸の正面入口として芝口門が建てられていた、現在の田町駅の南西の『「札の辻」交差点』附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。増上寺の一・五キロメートルほど北に当たる。

「芝の辻」江戸地誌には冥いので不詳。識者の御教授を乞う。

「阿部の賴任」安倍貞任・宗任兄弟の父で陸奥国奥六郡を治めた俘囚長安倍頼時(?~天喜五(一〇五六)年)と子らの名を混同した誤りであろう。

「棚下(たなした)」「店下(たなした)」であろう。商家の軒先。

「是は阿部豐後守家來也」嘘をつくにも太ッ腹だわ!

「あますな」「取り逃がすな!」。

「橋本喜兵衞」不詳。

「すへける」「据へける」。

「いやが上に」「彌が上に」副詞。なおその上に。ますます。「嫌が上に」と書くのは誤り。

「三尺五寸」一メートル六センチメートル。異様に長い刀である。

「藤嶋友重」室町前期に始まる刀工の一派。初代は名刀工来国俊の門であったという。

「將監組」石谷貞清配下。

「赤羽與左衞門」不詳。以下、「堀江喜左衞門・湯淺半左衞門・成瀨彌五右衞門・吉江六太夫」及び「神尾組の同心岩瀨庄左衞門・横澤勘六」も同前としておく。

「くつきやう」「屈強」。

「下知」指図。叱咤・命令。

「林・藤岡・三宅・別木、生捕し徒黨の内、土岐與左衞門は逐電仕(つかまつり)候。」

「印(しる)す」「記名した」ともとれるが、形容詞「著(しる)し」(はっきり判る・明白である)の動詞化で、「すっかり判明した」の意と私は採る。

「水野美作守」備後福山藩第二代藩主で水野宗家第二代の水野勝俊(慶長三(一五九八)年~承応四(一六五五)年)。ウィキの「水野勝俊によれば、『初代藩主・水野勝成の長男』。慶長三(一五九八)年、当時、『放浪の身であった父・勝成が身を寄せていた三村親成知行の備中国成羽城下にて生まれ』、『幼少から勝成に従い』、慶長一四(一六〇九)年に十一歳で『「美作守」に叙任され』ている。慶長一九(一六一四)年『には大坂の役に参加し、翌年の夏の陣では特に軍功を挙げた』。元和五(一六一九)年に『勝成の福山入封に同行するが、福島正則の築いた鞆の鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため』、『「鞆殿」と呼ばれたという』。寛永九(一六三二)年の『熊本藩加藤忠広の改易に際しては、勝成と共に熊本城受け取りの任に当た』っており、寛永一五(一六三八)年の『島原の乱では父・勝成に従い、息子(水野勝貞)と伴に参陣し、総攻撃で原城への一番乗りを果たした』。翌年、四十二歳で『勝成から家督を譲られ』、以後、十六年余り、『藩主を務め、父・勝成の事業を継続し、新田開発や領地の整備に奔走した』とある。彼と承応の変のテロリストらは何らの関係もなかったが、「家人(けにん)」(家臣)から幕府転覆に関与した者を出してしまったからにはただではすまない。先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」によれば、『承応事件をきっかけとして、領主勝俊の苦心は始まる。当時幕府は権力強化を計り、大名の廃絶を推進していた。幕府転覆に加担した家臣を出した大名家は譜代と雖も法律的理由により何時でも取漬される状況にあった』とあり、『取潰しを避けるため、勝俊は早急に徳川家に対して恭順の意を表わす必要に迫られた』。『最も効果があると考えられたのは、大猷院(徳川家光)を鄭重に祀ることであった』が、『当時水野家の財政状況は』『極度に悪化していた』(引用元には具体的な逼迫内容が書かれてある)。『苦心の末』に『案出されたのが奈良屋町の明王院と草戸村の常福寺を合併させて、領内随一の大寺を創出し、先代の徳川将軍を祀ることであった』とある(実は引用元はこれに関わる遡った水野勝成署名の下知状が偽作であることを証明したものである)。

「石橋源右衞門」(?~承応元(一六五二)年)は備後福山藩士で兵法家。彼は承応の変の首謀者戸次(別木)庄左衛門らから、武装蜂起の相談を受けていた。彼は計画を通報しなかった咎により同年九月二十一日に切腹した、と講談社「日本人名大辞典」にある。先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」には、別木らは、最初の『取調べで、石橋が課叛の張本人であると名指していたことから』、事件の六日後の九月十九日、『評定所において尋間があり、別木らは、石橋に挙兵の方法を尋ねた後、陰謀を打ち明け』、『二百余名の連判状を示して石橋の判形を求めた』が、『石橋は驚き』、『「今御静謐の御代を乱さんとは、須弥山に長競』(たけくら)べ(須弥山(しゅみせん)は古代インドの世界観の中で全宇宙の中心に聳えるとする架空の途方もなく高い山のこと)、『石を抱いて渕に入るに等し、先年』、『由井正雪無道の徒党を企だて』、『忽に誅せられ、骸の上に恥を曝す、前車の覆るは後車の戒めなるべし」と応じなかった』。『その後』、『別木は石橋の宅を三度も訪間するが、何れも留守と称して対面を回避した』。『しかし、別木らの謀反を聞きおき乍』ら、『主人美作守勝俊に押し隠し』、『報告しなかったことを咎められ、判決は主謀者と同罪と決まり、取調べから二日後の』二十一『日に断罪が下され、石橋源右衛門を含め』、『六人の主謀者は浅草において傑刑、石橋源右衛門の弟又次郎(十五才)と、子息の兵部左衛門(五才)も同日浅草において斬罪となった』(下線やぶちゃん)とある。

「松平但馬守」越前木本藩主・越前勝山藩主・越前大野藩初代藩(事件当時は大野藩主)主松平直良(なおよし 慶長九(一六〇五)年~延宝六(一六七八)年)。

「町田安齋」事蹟不詳。後の記載から、別木の親族として斬罪に処せらている。以下「町田兵庫」「町田甚兵衞」他も概ね(「親兄弟」に関しては確実に)同じと読んでよかろう。

「松平遠江守」遠江掛川藩第二代藩主・信濃飯山藩初代藩主(事件当時は飯山藩主)松平忠倶(ただとも 寛永一一(一六三四)年~元禄九(一六九六)年)。

「北條出羽守」下総岩富藩第二代藩主・下野富田藩主・遠江久野藩主・下総関宿藩主・駿河田中藩主・遠江掛川藩主(事件当時は掛川藩主)北条氏重(文禄四(一五九五)年~万治元(一六五八)年)。

「蚊蜂(ぶんはう)」蚊(か)や蜂(はち)。

「とうらう」「蟷螂」。カマキリ。

「なを」「猶」。

「露程(つゆほど)も知らざる親族迄、御仕置(おしおき)に行なわれ」先に示した通り、石橋源右衛門の弟又次郎十五歳、源右衛門の子の兵部左衛門五歳も一緒に斬罪とされているのは涙を誘う。

「骸(かばね)の上の恥をさらす」石橋源右衛門が別木らを諫めた手紙の文章(先の引用の下線部)を三坂が用いていることが判る。]

2017/09/29

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)


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かへる    

        【和名加閉流

         俗云加波須】

蝦蟇【遐麻】

       【雖遐之常慕

        而返故名之

        和名亦然】

ヒヤアヽ マアヽ

本綱蝦蟇在陂澤中背有黑點身小能跳接百蟲解作呷

呷聲擧動極急蝦蟇青鼃畏蛇而制蜈蚣此三物相値彼

此皆不能動【蛇螫人其牙入肉中痛不可堪者搗蝦蟇肝傅之立出】

周禮蟈氏掌去鼃黽焚牡菊以灰洒之則死【牡菊無花菊也】

―――――――――――――――――――――

黒虎 身小黑嘴脚小班

 前脚大後腿小班色有尾子一條

𧋷 遍身黃色腹下有臍帶長五七分住立處帶下有

 自然汁出

螻蟈 卽夜鳴腰細口大皮蒼黑色月令所謂孟夏螻蟈

鳴者是也【螻蛄同名】

△按蝦蟇種類甚多或時有蝦蟇合戰以爲不祥

 續日本紀云稱德帝時【神護景雲二年七月】肥之八代郡蝦蟇陳

 列廣可七丈南向去及日暮不知去處桓武帝時【延暦三年

 五月】蝦蟇二万許從攝州難波南行池列可三町入四天

 王寺内悉去 著聞集云後堀河帝【寛喜三年夏日】髙陽院殿

 南有堀蝦蟇數千爲群左右相構而戰或咬殺半死如

 此數日京師人争見之【其外蛙合戰古今不少】

 河州錦部郡天野近處有田名西行田限畔蛙不鳴【如此

 處亦間有之】 新古今折にあへは是もさすかに哀也小田のかはつの夕暮の聲 忠良

Kaeru

かへる    蟇〔(けいば)〕

        【和名、「加閉流」。

         俗に「加波須〔(かはず)〕」

         と云ふ。】

蝦蟇【遐麻〔(がま)〕。】

       【之れを遐(はるか)すと雖も、

        常に慕ひて返る。故に、之れ、

        名づく。和名も亦、然り。】

ヒヤアヽ マアヽ

「本綱」、蝦蟇〔(かへる)〕、陂〔(つつみ)〕・澤の中に在り。背に黑點、有り、身、小にして能く跳べり。百蟲〔(ひやくちゆう)〕に接〔(まぢ)〕はる。作「呷(カフ)呷」の聲を作〔(な)〕すと解す。擧-動(ふるまい)、極めて急なり。蝦蟇〔(かへる)〕・青鼃〔(あをがへる)〕、蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず【蛇、人を螫〔(さ)〕して其の牙を肉中に入れて、痛み、堪ふべからざれば、蝦蟇〔(かへる)〕の肝〔(きも)〕を搗き、之れを傅〔(つ)〕くれば、立どころに出づ。】

「周禮」の、『蟈〔(かく)〕氏、鼃黽〔(あばう)〕を去ることを掌る。牡菊〔(ぼきく)〕を焚きて、灰を以つて之れに洒〔(そそ)〕ぐときは、則ち、死す【牡菊は、花、無き菊なり。】』〔と〕。

―――――――――――――――――――――

黒虎 身、小にして黑く、嘴〔(くちばし)〕・脚、小さく、班〔(まだら)〕なり。

黃〔(じゆんわう)〕 前脚、大にして、後ろの腿〔(もも)〕、小さく、班色〔(まだらいろ)〕、尾子〔(びし)〕、一條、有り。

𧋷〔(わうき)〕 遍身、黃色、腹の下に臍の帶〔(おび)〕、有り。長さ五、七分。住立〔(ぢゆうりつ)する〕處、帶の下に、自然、汁、出づること、有り。

螻蟈〔(らうかく)〕 卽ち、夜、鳴く。腰、細く、口、大きく、皮、蒼黑色。「月令〔(がつりやう)〕」に謂ふ所の、『孟夏に、螻蟈、鳴く』といふは、是れなり【「螻蛄(けら)」と、名、同じ。】

△按ずるに、蝦蟇〔(かへる)〕の種類、甚だ多し。或る時、蝦蟇、合戰すること有り、以つて不祥と爲す。

「續日本紀」に云はく、『稱德帝の時【神護景雲二年七月。】、肥の八代郡(〔(やつしろのこほ〕り)、蝦蟇〔(かへる)〕、陳列〔(のべつら)〕なる、廣さ七丈可(ばか)り、南に向ひて去る。日暮に及びて、去る處を知らず。』〔と〕。『桓武帝の時【延暦三年五月。】、蝦蟇二万許り、攝州難波の南より行く。池に列なる〔こと〕、三町可〔(ばか)〕り、四天王寺の内に入りて、悉く去る』〔と〕。「著聞集」に云はく、『後堀河帝【寛喜三年の夏日。】〔の時〕、髙陽院〔(かやのゐん)〕殿の南に堀有り。蝦蟇〔(かへる)〕數千、群〔(むれ)〕を爲し、左右〔(さう)〕に相ひ構へて戰ひ、或いは咬み殺し、半死す。此くのごとくすること、數日〔(すじつ)〕なり。京師の人、争ひて之れを見る。』〔と〕【其の外、蛙合戰、古今、少なからず。】。

河州錦部郡〔(にしごりのこほり)〕天野の近處〔(きんじよ)〕、田、有り、「西行田〔(さいぎやうだ)〕」と名づく。畔(あぜ)を限りて、蛙、鳴かず【此〔(か)〕くごとくなる處、亦、間〔まま〕、之れ、有り。】

「新古今」 折にあへば是もさすがに哀れ也(なり)小田のかはづの夕暮の聲 忠良

[やぶちゃん注:一応、良安の評言の冒頭は動物界Animalia 脊索動物門Chordata 脊椎動物亜門Vertebrata 両生綱Amphibia 無尾目 Anura に属するカエル類の総論たらんとする書き出しであるが、その実、蛙合戦の記載によって前項無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus(亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus・亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus)が確実に含まれてくるし、中国本草書から引っ張り出した個別記載は本邦に棲息しない種及び実在が疑問視されるような種(「黃𧋷」)もいる。はたまた、代表する挿絵は如何にもどっしりとしていて、無尾目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科トノサマガエル属トノサマガエル Pelophylax nigromaculatus 然としているようにも見える。凡そ、総論性には欠くが、次の「蛙」が「あまがへる」と読みを振り、その項内で「青蝦蟇」(あおがえる)・「赤蝦蟇」(あかがえる)などを挙げ、その後には「蝌斗(かへるこ)」でオタマジャクシを別項立てしているから、各論よければ総てよし、とすることとしよう。

「加波須〔(かはず)〕」この「須」に従うなら、「づ」ではないことになり、歴史的仮名遣の「かはづ」は誤りということになる。そもそも「かはづ」の語源ははっきりしないのであるが、主流は「川」に住む蛙或いはそれと田に住む蛙とを区別するためなどとされ、その場合は「川住」(かはずみ)の「蛙」であって「ず」が正しいことになるのである(別に「川集(かはつどふ)」の短縮説があり、これなら「づ」でよろしい)。しかし私はこれらのインキ臭いもっともらしい説はみな眉唾であると思う私が中学高校の六年を過ごした富山高岡の伏木(田舎と馬鹿にするでない。ここは大伴家持所縁の万葉の里である)では、蛙を「ぎゃわず」と呼んだ。これはまさに蛙の鳴き声のオノマトペイアそのものであり、リアルに対象を想起出来る語と考えている。私は「かわず・かはづ」もその消毒されたものと心得ている。大方の御叱正を俟つものではある。

「遐(はるか)すと雖も、常に慕ひて返る。故に、之れ、名づく」「遐」は「遠い・遠くかけ離れるさま」を指す。遠いところに捨てても、必ず、元いたところにたちまちのうちに帰ってくるから「かへる」というのだというのである。この安っぽい駄洒落CMのような説は、しかし、かなり古くから信じられてあるものである。例えば、私の「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」を読まれたい。

「陂〔(つつみ)〕」堤。

「百蟲〔(ひやくちう)〕に接〔(まぢ)〕はる」これは、あらゆる虫類と生態系上の強い繋がりを持っている、という意味で解する。

「呷(カフ)呷」「こうこう」という鳴き声のオノマトペイア。

「青鼃〔(あをがへる)〕」カエル亜目アオガエル科アオガエル亜科アオガエル属 Rhacophorus のアオガエル類か、その近縁種。本邦では俗に言う「あおがえる」であるが、あれは日本固有種(本州・四国・九州とその周囲の島に分布。対馬には棲息せず)のシュレーゲルアオガエル Rhacophorus schlegelii である。

「蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず」これはまさに「三竦み」の原型である。私は現行の「三竦み」に深い疑念を持っている。現行のその三者を蛇・蛞蝓(なめくじ)・蛙をそれに当て、私の聞いたものでは以下のように説明される。――蛇は蛙を捕食するから蛙には蛇が天敵である。――蛙は蛞蝓を容易に捕食するから、蛞蝓にとって蛙は天敵である。――ところが、蛞蝓には蛇の毒が効かず、逆にそのねばねばとした粘液でもって逆に蛇を溶かしてしまうから蛇にとって蛞蝓は天敵である――されば、三者が出逢うと、その相互の天敵の相克関係から三者とも身動きがとれずなって竦んでしまう――というのである。しかし、この中の蛞蝓と蛇の関係は、まことしやかにこれを説明するための俗説に過ぎず、そのような機序や能力は実際のナメクジには、当然、ないわけで、これは納得し難い。中国の古い誤った認識だから仕方がないだろうというのは、匙を投げたのと同じだ。私はこの「三竦み」を母から聴いた幼少の頃から、この「蛞蝓」は何か他の生物だったのではないか? と思い続けてきた。それは、「蛞蝓」という画数の多い字は書かれたものでは別な字を誤認し易いと私は思ったからである。そうして、『同じ虫偏並びで蛇と蛙に拘わりそうな強そうなものと言ったら――「蜈蚣」――だろ!』と考えた。ところが、である。その後、博物学に興味を持つようになって「本草綱目」を拾い読みするうち、ふと目が止まった記述があった。それは「蜈蚣」の項の『性、畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身卽死』(性、蛞蝓を畏る。敢へて行く所の路(みち)を過ぎず。觸るれば、其の身、卽ち死す)であった。そこで私は、かく、考えた。『何故だか知らんが、蛞蝓が百足の天敵なら、こりゃ、蛞蝓でもええんかも知れんぞ!』と。しかし、それでも納得は行かなかった。生物学的に蛞蝓が百足を忌避するというのは説明出来ないからであり、百歩譲っても蟇蛙(ひきがえる)は百足を食うが、蛇だって百足を食うからである。このような疑惑は思いの外、執念深いものである。或いは人に児戯に類したものと揶揄されるであろうこういう空想は、我々の意識の倦怠の中で、外見上の年齡を越えて遙かに永く生き延びるものである。とっくに分別の出来た大人が、猶、熱心に『「三竦み」は納得出来ん!』と憤懣を持ち続けたのである(バレましたね、梶井基次郎の「愛撫」の拝借で御座る(リンク先は私の古い電子テクスト))。大学生の頃には、寧ろ、陰陽五行説にでも、この三者を当て嵌め、その相克説から解説するなら判るが、これでは馬鹿にされているようなもんだ、と独り憤慨していたものだった。教員になってからも、生徒に話して呆れられ、同僚の生物の教師に酒を飲んでは議論を吹っ掛けて迷惑がられたものだ。――ところが――この私の疑義と推論が正しかったと判る時が遂にやってきた! 一九九〇年平凡社刊の荒俣宏「世界大博物図鑑 3 両生・爬虫類」、その「カエル」の項の「三すくみ」である。以下、やや長いのであるが、私の永年の憂鬱を払拭するためであるので、荒俣氏もお許し戴けるものと思う。ピリオド・コンマは句読点に代えさせて貰ったことをお断りしておく。

   *

 カエルといえば、ヘビ、ナメクジと組み合わせて〈三すくみ〉とよばれる奇妙な寓意をあらわす小道具となる。

 しかし、日本的寓意といわれる〈三すくみ〉にも東洋的起源がもとめられると思われるので、まず東南アジアの民話から考えていく。

 インドネシアでは、カエルと人間との不思議な因果関係が相当にはっきり意識されてきた。スラウェシ東部に住むトラジャ族に伝わる〈ヘビとカエル〉という昔話に、その例が残っている。それによれば、年寄りのヘビがカエルに子どもたちの守りをしてやるとだまして、その子どもをみな食べてしまう。けれどもヘビは次に人に見つかって殺される。いっぼうカリマンタン西部に伝わる〈小鹿とカエル〉では、カエルが踊りの好きな小鹿をだまして、森の奥まで連れていく。クラン・クルン・クラン・クルンというカエルの太鼓にあわせて小鹿は踊る。ところが。気持ちが高ぶっていくうちに、小鹿は思わず狩人の仕掛けた罠にはまってしまう。すなわち人間はカエルの苦手なヘビを殺し、かわりにカエルは人間に小鹿という利益をもたらす、と考えられていたわけだ。

 これらの民話は、ヘビとカエルが出てくる点を考えあわせるとなおいっそう、日本の〈三すくみ〉の原型を思わせる。

 いっぽう、ベトナムでも、カエルは人間と利害関係をもつ動物だと考えられた。ベトナムの昔話のひとつに〈蛙女房〉というものがある。貧しい若者がカエルを嫁にもらう。そのカエルは皮を脱いで、人間の姿になることができた。ただし人前では皮を脱がない。料理も裁縫も得意で評判となるが、夫はまわりから〈君の奥さんは才能はあるが、きれいじゃない〉と揶揄(やゆ)される。そんなある日美人くらべが行なわれることになった。しかし美人くらぺの当日、カエルはついにみんなの前で皮を脱ぎ捨て、たいそう美しい女となってあらわれた。むろん競争は彼女の勝利に終わる。稲作のさかんな国であるところから、つねに稲のあいだにいるカエルが好意的にみられたのだろう。しかしカエルは人間にプラスを与えるのと同時に、マイナスをも与えるのである。〈蛙にされた上人〉という昔話によると、カエルは、その昔、色恋に迷った名高い上人が、観音様の怒りにふれ、姿を変えられたなれの果てである。そのため、カエルは自分が仏教の修業を積んだころの慣習を今でも忘れていない。たとえ首を切られても人が合掌し続けるように、前肢を合わせているのだ。べトナム人にとってカエルは、美しい女房でもあり。破戒僧でもあるということになる。どちらも、へたをすれば身を滅ぼす元凶となる。

 べトナムには、さらにカエルと人間との因果関係を語る話がある。〈カエルは天を裁判にかける〉という昔話がそのひとつである。昔。大干ばつがおこった。正義感の強いカエルはカニ、クマ、トラ、ハチ、キツネを引きつれ、天に昇って天帝をこらしめる。そしてついに天帝に雨を降らせることを承諾させた。天帝は言う、〈これからは下界で干ばつがおきたら、おまえは歯ぎしりをしてわたしに教えなさい〉と。そのときから、カエルが歯ぎしりをすると、かならず雨が降るようになったのだという。民間にはこういう歌が伝わっている。〈カエルは天の老人であり、カエルを打つものは天に罰される〉。

 人は雨を降らせるために、カエルを鳴かせる。しかしカエルを打てば、人は天に罰せられる。ベトナムでの雨乞いは、一種の自己撞着(どうちゃく)となる。

 ところで、東南アジアにある、カエルとヘビ、小鹿、人、天帝、女房などを組み合わせた〈三すくみ〉関係を、もっと絞りこんだのが、中国での考え方である。《書言字考節用集》によれば、中国ではカエル、ヘビ、ムカデが三すくみを形成するといわれてきた。ヘビはカエルをすくませて食い、いっぼうムカデはヘビを毒殺し、さらにカエルはそのムカデを平気でたいらげるからである。また陸佃《埤雅》[やぶちゃん注:「ひが」と読む。]によれば、ムカデ、ヘビ、ガマで三すくみをなす。ムカデはヘビの脳と目を食らい、ヘビはガマを食べ、ガマはムカデを餌とする。これが自然の法則というものだという。

 この中国版三すくみは、江戸時代初期に日本へ輸入されたらしい。雑俳集の《瀬とり舟》をみると、〈妻に逢夜若衆忍で蛙蝸蛇(さんすくみ)す〉とある。江戸の俳諧師が、ムカデをナメクジ(蝸)に置きかえたことがわかる。《俚言集覧(りげんしゅうらん)》は、はっきりと、三すくみを〈蛇、蛙、蛞蝓(なめくじ)〉と定義し、動きがとれないことの譬(たとえ)とだと説明している。《本草綱目》には、ムカデはナメクジに触れると死ぬ、とある。もしかすると、俳諧師たちはこの事実を知っていて、へどに勝つ動物を、ムカデから、より強いナメクジにかえた可能性もある。ナメクジはムカデ同様カエルに弱いだろうから、それでも三すくみは崩れないと思ったのかもしれない。[やぶちゃん注:この荒俣氏の推理はかなり的を射ていると思う。俳諧師は季の詞に敏感であるために、一種の博物学的素養を第一としており、本草書等もよく読んでいたからである。]

 ちなみに、江戸後期になると、三すくみをとりいれた〈虫拳(むしけん)〉という児戯が生まれる。親指がカエル、小指がナメクジ、人さし指がヘビである。

 いずれにせよ、この〈三すくみ〉は古来中国で〈蟲〉とよばれた生きものの3代表を組み合わせたもので、男、女、胎児(子)になぞらえた陰陽五行の相生相克理論と思われる。

   《引用終了》

この最後を読んで私は快哉を叫んだものだ。さらに言えば、荒俣氏の指示する通り、実は「三竦み」は「虫」を三つ合わせた正字の「蟲」にシンボライズされる強力なそのパワーの均衡チャートででもあったのであると、独り、膝を打ったものである。最後に再度、私の二十年余り(当該書の刊行は私が結婚した三十二歳の年であった)の憂鬱を解いて呉れた荒俣宏氏に謝意を表するものである。因みに、言い添えておくと、蛇は蛞蝓を食う。食うどころか、カタツムリやナメクジのみを主食とする蛇さえ、いる。本邦産では、南西諸島の石垣島と西表島にのみ棲息する日本固有種のヘビ亜目セダカヘビ科セダカヘビ属イワサキセダカヘビ Pareas iwasakii がそれ。松澤千鶴氏のブログ「図鑑.netブログ」の「三すくみ」は嘘だった? 蛇はナメクジも平気をご覧な!

「周禮」「しゆらい(しゅらい)」とも読む。「儀礼(ぎらい)」「礼記(らいき)」ともに「三礼(さんらい)」と呼称され、儒教で重んじられる経書(けいしょ)群である「十三経」の一つ。周公旦が書き残したものとされるものの、実際には後の戦国時代以降になって周王朝の理想的制度を仮想して書かれたものとされる。礼(れい)に関する書物の中では最も需要なものとされた。

「蟈〔(かく)〕氏」以下に見る通り、蛙を駆除することを掌る官の名。但し、後に見るように、「螻蟈」で青い蛙類(或いは広義の蛙類)を指す。他にこの「蟈」はずっと後に項立てされる、砂を口中に含んで人の影を射て死に至らせるという幻の怪虫「蜮(いさごむし)」や「蟈蟈」でキリギリスやクツワムシを指す漢字である。

「鼃黽〔(あばう)〕」蛙。

「黒虎」大陸産の蛙であろうが、両生類には詳しくなく、中文サイトでも同定不能。

「嘴〔(くちばし)〕」口吻部の先端部。

黃〔(じゆんわう)〕」不詳。中文サイトでも同定不能。

「尾子〔(びし)〕」この蛙は体部の後端が通常の蛙より、有意に突き出ている(オタマジャクシの時の尾部痕か)種らしい。或いはある種の変態途中の個体を差すか。

「黃𧋷〔(わうき)〕」東洋文庫版はこの「𧋷」を良安の誤りと断じ、「蛤」の字を横に補正注している。確かに、「本草綱目」の電子化されたものでは一部で確かに「黃蛤」となっているものもあるが、検索を掛けてグーグルブックスの刊行本画像で見ると、現行の中国語で印刷された活字翻刻本では「𧋷」とするものがかなりある国立国会図書館デジタルコレクションの画像で古い「本草綱目」の翻刻本を見ても「𧋷」である。私は、実はこの「𧋷」の方で正しいと思っている。中文サイトの字典の「𧋷」の例文にも、清の李元「蠕範 卷一 物匹第二」の「蛙」の条に「曰黃𧋷、身黃、腹下有臍帶、正月出不可食」という記載を見出せるからでもある。

「臍の帶」両生類ではあり得ない。特殊な種の何らかの器官(生殖?)か、或いは体外寄生虫か・脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)Gordioidea のハリガネムシ類の宿主がカエルに捕食されて体外に出るケースを考えたが、その事態自体が稀で、しかもその場合、消化されなかったとしても、糞と混じって出てくるものと思われ、ハリガネムシが蛙の腹部を食い破って出てくることは考え難いと私は思う。

「五、七分」一・六~二・一センチメートル。

「住立〔(ぢゆうりつ)する〕處、帶の下に」東洋文庫訳では「住立處帶」としてそのまま出し、割注で『(不明)』とする。しかし、こんな現代の学術用語みたような四字熟語は考えにくい。中文の「本草綱目」の現代の刊本をグーグルブックスで視認したところ、「住立處」の後に読点を打っているところから、独自にかく読んだ。但し、「住立」が意味不明な点は東洋文庫と同じである。

「螻蟈〔(らうかく)〕」中文サイトに古くは青蛙のことをかく呼んだと出るから、先に出したカエル亜目アオガエル科アオガエル亜科アオガエル属 Rhacophorus のアオガエル類か、その近縁種としておく。

『「螻蛄(けら)」と、名、同じ』同じってことはさ、結構、今までもいろいろ誤認されてきたのを見た通り、実はやっぱ、これもさ、螻蛄(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類)の鳴き声の誤認でないの?

「蝦蟇、合戰すること有り、以つて不祥と爲す」冒頭に注した通り、通常は大型であるナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus の繁殖行動を指す。これは本種が、多数個体が一定の水場に数日から一週間という極めて短かい期間に集まって繁殖行動をとるからで、古来、「がま合戦」「かわず合戦」と称された。本種の繁殖期のは動く物を何でも抱接しようとし、逃げられないように強い力で絞めるため、を絞め殺してしまうこともある。これを不吉とするのは、良安が挙げる以下の具体例が示しているようで、前掲の荒俣氏の「世界大博物図鑑 3 両生・爬虫類」の「カエル」の項の「ガマ合戦」の条は、そのくんずほぐれつの生態行動ではなく、まさにその吉兆を証左する形で書かれている。例えば、良安の挙げる「桓武帝の時」(延暦三(七八四)年五月のそれについて、後の歴史書「水鏡」(作者未詳。鎌倉初期の成立か)では、これを解釈して、この時の「がま合戦」は平城京から長岡京への『遷都の前兆であり』、『その年のうちに遷都があたふたと行われた』が、『長岡京では不祥事ばかりおこり』、僅か十年『後に平安京へ遷都されたことを思いあわせると』、『なるほど凶兆であったといえる』とされ、また「百練抄」(編者未詳。鎌倉後期の十三世紀末頃の成立と推定される、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書)には、『源平合戦の時代には』、『ガマ合戦やヘビとカエルの争いがしばしば見られたらしい』と記しておられる。

「稱德帝」第四十六代孝謙天皇が淡路廃帝(あわじはいたい)淳仁天皇(在位は僅か二ヶ月)の後、第四十八代天皇として重祚した際の称。

「肥」肥後。

「七丈」「廣さ」とあるが、ここは長さで採ってよかろう。二十一メートル強。

「三町」三百二十七・二七メートル。

「著聞集」「古今著聞集」。以下は、「巻第二十 魚虫禽獣」の載る「寛喜三年夏高陽院の南大路にして蝦(がま)合戰の事」。以下に示す。

   *

寛喜三年夏の比(ころ)、高陽院殿(かやのゐんどの)の南の大路に堀あり。蝦(がま)、數千(すせん)あつまりて、方(かた)きりて[やぶちゃん注:敵味方に分かれて。]、くひあひけり。ひとつがひ、くひあひて、或いはくひ殺され、或いはかたいきして[やぶちゃん注:虫の息になって。]、はらじろになりてありけり[やぶちゃん注:ひっくり返って仰向けになり、白い腹を見せている有様であった。]。またも、またも、おほく集まること、かぎりなし。あるもの、心見に[やぶちゃん注:試しに。]、くちなは[やぶちゃん注:蛇。]を一つもとめて、その中へなげいれたりけるに、すこしもをそるゝ事なし。くちなはも、また、のまんともせず、にげさりにけり。京中のもの、市をなして見物しけり。ふるくも蝦のたゝかひはありけるとかや。

   *

「寛喜三年」一二三一年。

「髙陽院〔(かやのゐん)〕殿」新潮古典集成の頭注によれば、『中御門大路から大炊御門大路に及ぶ南北二町、西洞院大路から堀川小路に及ぶ東西二町の地を占める邸第』とあり、その「南の大路」とは『大炊御門大路をさす』とある。大内裏の東方の南寄りで、内裏から大路二本隔てた位置。現在中央付近(グーグル・マップ・データ)に当たる。

「其の外、蛙合戰、古今、少なからず」この割注、一応、良安の添えたものと見て、引用の外に出したが、前の「古今著聞集」の原典を見ても判る通り、これは原典の末尾を小手先で書き換えて、添えたに過ぎないことが判る。

「河州」河内国。

「錦部郡〔(にしごりのこほり)〕天野」現在の大阪府河内長野市天野町。(グーグル・マップ・データ)。

「西行田〔(さいぎやうだ)〕」現存しない。「JR西日本」の「Blue Signal」の西行を辿る|西行を慕い、妻子が暮らした天野の里によれば、『西行出家後、家に残した妻は西行が高野山にいることを知り、尼となって天野の里へと移ってきた。養女に出されていた娘も成人して出家し、京から母の元へと移ってきた。母娘は天野で睦まじく暮らしこの地で生涯を終えたと伝わる。高野山と都とを頻繁に行き来していた西行だから、道中、妻子の元に立ち寄り、幾度となく家族団らんの時を過ごしたにちがいない』。『雑木林のなかに、西行妻娘の墓とされる小さな石塔が、花を供されて仲良く並んで立っている。昔から里人が誰ともなく花を供え、手を合わせるのだそうだ。西行堂はその石塔の近くにあるが、後年、西行を慕って里人が建てたものを再建したものである。西行が耕作したと伝えられる「西行田」(狭間田)も今では痕跡もない』とある。

「畔(あぜ)を限りて、蛙、鳴かず」その田だけ、畔を境として、他の田では蛙が鳴くのに、その「西行田」だけは蛙が鳴かない。何か謂れ(伝承)があったのだろうが、知り得なかった。識者の御教授を乞う。

「折にあへば是もさすがに哀れ也(なり)小田のかはづの夕暮の聲」「新古今和歌集」の「巻第十六 雑歌上」の前大納言忠良(粟田口(藤原)忠良(あわたぐちただよし 長寛二(一一六四)年~嘉禄元(一二二五)年:摂政近衛基実次男。粟田口家始祖。政務より歌人としての活動が主で、「古今著聞集」では、長期間、ろくに出仕しなかったために危うく大納言の地位を剥奪されそうになり、その心境を和歌を通じて兄の基通と語り合う逸話が収録されているとウィキの「粟田口忠良にある)の一首(一四七七番歌)。

   百首歌たてまつりし時

 をりにあへばこれもさすがにあはれなり小田(おだ)の蛙(かはづ)の夕暮の聲

この「さすがに」であるが、新日本古典文学大系の注によれば、『旧注に「古今の序には鶯に対して蛙の歌を書けり。されども世間にそれほどもてはやす物にあらず。されば「さすがに」とよめり』『とある通りであろう』とある。]

2017/09/28

老媼茶話卷之弐 山寺の狸

[やぶちゃん注:第一巻は底本本文に従ってきたが、濁点の殆んどないそれは若い読者でなくても、かなり読み難く、何より、老婆心から無駄な注を附さざるを得なかったので、第二巻より濁点を恣意的に追加することとする。これは原典にある読み等にも適応する(例えば、次の「山寺の狸」の原典のカタカナ・ルビである「イタズラ」の「ズ」や「食求(ヒダルク)」の「ダ」。底本は「イタスラ」「ヒタルク」)。但し、私が、本来は清音であり、ここもそのままがよく、そのままで充分に通用すると判断したものは濁音化していない(例えば、次の「山寺の狸」の「懲らさずは」の内の「は」。底本は「懲らさすは」。この「ずは」(原典「すは」)は打消の助動詞「ず」の連用形に係助詞「は」の付いたもので、打消の順接の仮定条件を表わす(もし~ないとならば)が、「ずは」の「は」は本来、かく清音であったが、後に発音が「ずわ」に転じ、更に「ずば」「ずんば」の形も生じた(因みに近世口語では「ざあ」や「ざ」へも変じている)。されば、「ずば」でもよいのだが、本書原典が異様に濁音を避ける傾向にあるのは(例えば、次の「山での狸」では底本で原典本文に濁点表記が出現するのは「こり果させずんば」の「ば」が最初である)、作者三坂春編(はるよし)は当時の時点に於ける「文語」を尊重していたことが一つの理由であろうと思われることからして、ここは「ずば」ではなく、古形の「ずは」が三坂の主旨に沿うものと考えた。同じことはその後にある「たそかれ」(「黄昏(たそがれ)」。原義は「誰(た)れそ彼(かれ)は」である)も同じである)。また、かく変更したことは原則、注記しない。]

 

老媼茶話卷之弐

 

     山寺の狸

 奧州磐崎(ばんさき)の郡(こほり)三坂の城主越前守隆景の家士に濱田喜兵衞とて近國に隱れなき大力の者有。幼き時は牛太郞(うしたらう)と云(いふ)。

 牛太郞、五、六の年より、京道(きやうみち)五、六里斗(ばかり)は獨(ひとり)往來せり。

 牛太郞十一の年、白鷄(にはとり)を祕藏し飼置(かひおき)けるを、隣家の犬、此鷄(にはとり)を喰殺(くひころ)しける。牛太郞、怒(いかつ)て、犬をとらへ、下腮(したあご)足を懸(かけ)、上腮(うはあご)兩手をかけて、口を引裂(ひきさき)、殺さんとす。

 牛太郞乳母、是を見付、

「其犬、必(かならず)、殺し玉ふな。鷄をば、幾も今の間に調へ進ずべし。」

と云。

 牛太郞、聞(きか)ず。

 乳母、重(かさね)て曰、

「今度斗(ばかり)は我(わが)云(いふ)事を聞給ひて、犬の命、助け給へ。さもなくば前度からの徒(イタヅラ)を母へ不殘(のこらず)告(つぐ)べし。」

といふ。

 牛太郞、用ひずして犬を殺しける。

 乳母、腹を立(たて)、急ぎ内へ入(いり)、右の荒增(あらまし)、こまやかに母に告る。

 母、此(この)事を聞(きき)て大(おほき)に驚ひて、

「十や十一の小童の徒に、犬の口を引裂(ひきさく)なんど、並々の所行にあらず。强くいましめ懲(こら)さずは、末々の大惡人に成るべし。」

とて、牛太郞を呼寄(よびよせ)て大きに呵(しかり)、家を追出(おひいだ)す。

 牛太郞、母に呵られ、裏へ逃(にげ)て、柹の木に登り、柹を喰(くひ)て、飢(うゑ)を助(たす)く。

 日もたそかれに及びし頃、乳母、心に哀(あはれ)を思ひ、

「おさなき心にて、便(たよ)るべき母には嚴敷(きびしき)折艦に逢ひ、我とは中(なか)をたがひ給ふ。嘸(さぞ)、心に便りなく、かなしく思ひ給ふらん。」

と思ひかへし、裏の柹の木のもとへ行(ゆき)、

「此(これ)以後、母御(ははご)と我(われ)、言(いふ)事を能(よく)聞(きき)、徒(いたづら)をし給はずは、隨分、母御へ御詫(おわび)して中を直すべきか。」

といふ。

 牛太郞も、日は暮(くる)る、食求(ヒダルク)は成る、差(さし)もの徒者(いたづらもの)も、こりたると見へて、

「いかにも、此(この)末は母と汝が云(いふ)事を能聞て、徒をすまじ。母御へ詫言し、中を直し吳(くれ)よ。」

と、たのむ。乳母、是を聞、牛太郞、母に詫言をす。

 母、聞(きか)ずして、呵聲(しかりごゑ)にていふ樣、

「牛が徒(いたづら)を、よの常の子共(こども)の仕業(しわざ)と思ふと見へたり。此節、こり果(はて)させすんば、正直の人には成(なり)ましきぞ。子の、あく人となる事は父母の恥といへり。とも角(かく)、こよひは內へよせざるそ。何方(いづかた)へも出(いで)て行(ゆけ)。」

と、あららかにいふて、戶を堅くしめたり。

 牛太郞、詫言の叶はざるを聞て、大に母を恨めしく思ひ、

『しからば、伯母を賴み、暫(しばし)、彼所(かしこ)にあるべし。』

と思ひ、柹の木より、おり、壱里斗(ばかり)へだゝりし山里の伯母を賴みに行(ゆき)ける。

 折柄、秋更(ふけ)て、山路、物淋しく、木の葉散みだれ、物凄きたそかれに、壱人の坊主、勢高く骨ふときが、淺黃(あさぎ)の平包(ひらづつみ)、筋違(すぢかひ)に首にかけ、肩肌脫(かたはだぬぎ)になり、大ひ成(なる)樫の棒を杖に、つひて來りける。牛太郞を見て立止り、

「小童(ワツハ)、日暮るゝに何方(いづかた)へ行(ゆく)ぞ。此先の村は何と云(いふ)所ぞ。」

と云。

 牛太郞、聞て、

「侍を小童(わつぱ)と云(いふ)は慮外のやつめ。」

と、坊主を、しかる。

 坊主、聞て、目を見出し、

「いや、小賢(コザカ)しき禿童(カブキロ)め。何をいふぞ。己(おのれ)、天窓(アタマ)張(はり)ひしぎくれん。」

と臂(ヒジ)を延(ノベ)、拳(こぶし)を握り、牛太郞にちかづく。

 牛太郞、

「心得たり。」

といふざま、備前兼光弐尺三寸の刀を拔(ぬき)、のび上り、坊主が左の目の上より、橫面(よこつら)半分、頰骨をかけ、筋違(すぢかひ)に切落す。

 首は谷へ落ち、骸(むくろ)は道に橫たはれる。平包は首より脫(ぬげ)て岸陰(きしかげ)に留(とどま)る。

 牛太郞、平包を取上げ、ひらき見れば、淨土數珠(ずず)壱連・かながきの阿彌陀經壱卷・永樂錢百文・古衣(ふるぎ)・ふるゆかたを包(つつみ)たり。取(とり)て肩に懸(かけ)、壱丁程過行(すぎゆき)けるが、牛太郞、思ひけるは、

『坊主は手向ひせし間、止事不得(やむことえず)して切殺したり。人を殺害(せつがい)して此平包を取(とる)時は、切取(きりどり)也。』

と思ひ、又、木の所へ立歸り、坊主が死骸のそばへ。平包をなげ捨て、伯母が方へ行(ゆく)。

 折節、伯母が方には家內の男女、數多(あまた)召集(めしあつめ)、夜業(よわざ)に大豆を打(うた)せ賑(にぎやか)に閙敷(さはがしく)有(あり)けるが、牛太郞唯(ただ)壱人(ひとり)來(きた)るを見て、おどろき、

「汝、人をもつれずして、日暮(ひぐれ)て獨(ひとり)來(きたる)ぞ。」

といふ。

 牛太郞、つゝまず、右の事ども、悉(ことごと)く語りければ、伯母、聞て、

「汝、又、何とて、鷄を取たればとて、隣(トナリ)の犬をば殺しけるぞ。母が呵りしも、尤(もつとも)道理也。此(これ)已後(いご)、かゝる徒(いたづら)、な、せそ。隨分、伯母が詫言して、母が怒りをなだむべし。母は我(わが)妹也といへども、心たけき女也。此頃は此里、狼(おほかみ)のあれて、山より里へ下り、往來の人をなやます故、日暮て通る人、なし。禁(いま)しめの爲ならば、呵(しか)る事は呵るとも、幼きものを唯獨り遙々(ハルばる)の山道を遣(つかは)す事、汝が母がひが事也。夕飯、既に過(すぎ)たり。求食(ヒダルク)はあらざるか。」

と樣々に寵愛しける。

 牛太郞、伯母か懇(ネンゴロ)なる志を得て、母の心の難面(ツレナキ)を恨む。

 暫(しばらく)有(あり)て、伯母、牛太郞が衣裳の血に染(そみ)たるを見付、あやしみ、其故を、とふ。

 牛太郞、僞(いつはり)て、

「日は暮るゝ、山道を急ぐとて、誤(あやまつ)て、石に、つまづき、倒れ、鼻を打(うつ)て、鼻血、出(いで)候。其血の懸りたるにて候。」

といふ。

 伯母、誠として疑(うたがは)ず。

 午太郞、夫(それ)より宿へ不歸(かへらず)、四、五年、伯母の方に有ける。

 牛太郞、十三に成(なり)ける春、在所に狼籍者弐人有て、人、四、五人、切殺し、大勢に手を負(おは)せ、淸閑寺といふ在所の小寺に缺込(かけこ)み、住持を追出(おひいだ)し、戶・障子堅く〆(しめ)て取籠居(とりこもりゐ)たり。村のものども、大勢、寺を取卷有(とりまきあり)けれども、只、ひた訇(ののし)り鬩(せめ)ぐ斗(ばかり)にて、誰壱人(たれひとり)にても、内へ入(いる)者、なし。

 牛太郞、折節、在所の童共(わらはども)と山へ遊びに行(ゆき)けるが、此騷動を聞て走來り、刀を拔(ぬき)て垣を躍越(をどりこ)へ、戶を蹴放(けはな)し、内へ入(いる)。狼籍者、

「子共(こども)也。」

と見て、さのみ驚かず。

 壱人の男、眼(まなこ)を見出し、

「餓鬼め、何しに來(きた)る。」

と、刀に手をかけるを、午太郞、雷光のごとく飛懸(とびかか)り、何の手もなく、大袈裟に切殺(きりころ)す。

 殘る男、

「是は。」

と云(いひ)て立上(たちあが)り、刀をふり上(あぐ)る。

 太刀下を、くぐり、後(うしろ)へ拔(ぬけ)、首、水もたまらず、打落(うちおと)す。

 所の者共、此働(はたらき)をみて、大きに驚き、

「むかし、鞍馬山に牛若丸とておはしけると語り傳へしが、その牛若丸にもおとるまじ。」

と、是より、馳走(ちそう)・崇敬(すうけい)せり。

 牛太郞、成人して後、喜兵衞と云。

 喜兵衞、天性、碁を打(うつ)事を好み、碁勢、甚(はなはだ)强くして、近國に敵する者なし。

 爰(ここ)に岩城の山寺の住僧、是も碁勢强くして、碁を打事を好み、相手だにあれば、終日終夜に打(うち)あかす。

 或人、是を難(なん)じて曰、

「圍碁は戰場を表し、生死をあらそふ『しゆら・とうじやう』を學ぶと申(まうす)。御僧の甚すき好み給ふは、よからざる事に候はずや。」

といふ。

 僧、笑(わらひ)て曰く、

「我、碁を好む事、菩提成佛の緣(ゆかり)也。黑石の死する時は黑業煩惱(こくごふぼんなう)の失(しつ)する事を悅び、白石の死する時は白法善根(びやくはうぜんこん)の滅する事を恐(おそれ)て、無上菩提を觀念する便(たより)となれり。俗人の好(このむ)とは、又、格別にあらずや。」

と、いへり。

 喜兵衞、是を聞て、わざわざ、岩城の山寺へ尋行(たづねゆき)、住僧と碁を打ち、終日(ひねもす)、互に勝負をあらそふ。

 折節、秋の雨降(ふり)て、寂莫(じやくまく)と、もの淋しく、其夜も、いたく更ければ、住僧の曰、

「夜(よ)も深更に及びたり。此所(ここ)に止(とま)り玉へ。夜明(よあけ)て御目にかゝるべし。緩々(ゆるゆる)休み玉へ。」

とて、住僧は內に入(いり)、喜兵衞、只壱人、客殿に伏(ふし)たりけるに、いづくより來るともなく、喜兵衞が枕元へ、犬子(いぬのこ)、弐、三疋、來り、枕のあたり、夜着の上、躍(をど)り越(こし)、はね步行(ありき)、やかましくして眠られず。

『さもあれ、屛風、立𢌞(たてまは)し、狗子(いぬのこ)の可入(いるべき)隙(ひま)もなし。不思義さよ。』

と思ひなから、犬子をつかんで、屛風の外へ抛出(なげいだ)せば、其儘(そのまま)、歸り來(きた)る。

 かくする事度々(たびたび)に、狗の子の數、ふえて、拾疋餘りに成(なり)たり。

 喜兵衞、枕を上、有明の灯にて能く見れば、狗子にてはあらずして、兒法師(ちごはうし)・女の首、いくらともなく、枕元を、躍(をどり)ありく。

 喜兵衞、興をさまし、起直(おきなほ)り、一々取(とつ)て庭へ抛捨(なげす)て、又々、眠らんとせしが、頻りに腹痛(はらいた)して、大便、きざしける間(あひだ)、立て障子を開き、緣へ立出(たちいで)、星月夜の小暗(おぐら)きに、ふみ石をつたへ行(ゆき)、見れば、遙成(はるかな)る築山(つきやま)の陰に、雪隱(せつちん)有(あり)て、大き成る松・杉、生茂(おひしげ)り、眞闇(まつくら)にして、いぶせき所也。

 便用(べんよう)して出(いで)んとするに、外より戶を押(おさ)へ、明(あけ)させず。

 壁の隙(ひま)より覗(ノゾ)きみれば、勢高く、瘦枯(ヤセガレ)たる姥(うば)、兩手を以(もつて)、戶を、おさへ居(ゐ)たり。

 喜兵衞、脇指を拔(ぬき)、姥が胸板を壁越(かべごし)に、

「ぐさ」

と、つく。

 太刀先、働き、戶は、なんなく開き、姥も、行方、しれず。

 座敷へ上り、灯、かき立(たて)、切先(きつさき)を見るに、骨引(ほねびき)有(あり)て、血、染(そみ)たり。

 脇差の血を押のごひ居(をり)たりけるに、暫(しばらく)有(あり)て、西の方より、光物(ひかりもの)、飛來(とびきた)り、緣先へ落(おち)たり。

 喜兵衞、刀(かたな)おつ取(とり)、障子、引(ひき)あけてみれば、件(くだん)の姥、雨落(あまおち)に立(たち)、内の樣子を窺居(うかがひゐ)たりけるが、喜兵衞を見て、一文字に飛懸(とびかか)りけるを、拔打(ぬきうち)に、

「礑(はた)」

と切(きる)。姥、切(きら)れて取(とつ)て返し、表の方へ、かけ出(いで)けるを、喜兵衞、續(つづき)て、追(おひ)かけける。

 俄(にはか)に、空、かき曇り、雨ふり、稻光(いなびかり)して、深夜の闇と也(なり)ければ、喜兵衞、内へ歸り入(いる)。

 程なく、夜も明(あけ)ければ、緣へ立出(たちいで)、是を見るに、緣先より雨落の踏石迄、血、夥敷(おびただしく)こぼれ、それよりは、雨に打(うた)れて、血色、薄く消(きえ)て、姥が行方、尋(たづぬ)べき樣もなし。

 和尙に逢(あひ)、夕べの事共(ことども)をかたりければ、和尙の曰、

「此所(ここ)、人里遠く、山深き地なればにや、斯(かか)る怪敷(あやしき)事、まゝ有(あり)。過(すぎ)し春も、我(われ)獨(ひとり)、學窓に籠り、灯に對し、書をひらき、見居(みゐ)たるに、夜更(よふけ)、人(ひと)靜(しづま)りて後(のち)、學窓の元に、人の彳(たたず)む音あり。靜(しづか)に我(わが)名をよぶ。『諫曉(かんげう)々々。淋しくはなきか』と云。我、答(こたへ)ずして有(あり)ければ、窓より毛のはへたる手を出(いだ)し、我(わが)面(つら)を撫(なで)んとす。我、その腕を强く握り、其腕首を切取(きりとる)。怪物、逃去(にげさり)、行方なし。見るに、年ふる狐の手なり。然るに、此山奧に塚原、有(あり)、古杉・老松、隙(ひま)なく生茂り、晝さへ日のめも見へず、常に深々朦々たる所、有(あり)。此所に古狸・老狐、數多(あまた)、土窟(どくつ)を構へ住(すみ)候。里人の申(まうす)には、常に異成(ことなる)獸(けもの)、三疋あり。其壱は、面瘦(もやせ)て、眼(まなこ)赤く、胴、細長(ほそながく)して、手足、ふとく、馬の大きなる狸あり。その鳴聲、高くひゞきて、鐘を打(うつ)ごとし。其弐には、面(おも)丸く、鼻柱、とがりて、斑成(まだらな)る狸の、片目、つぶれし、有(あり)。其三には、耳、大(おほき)く、眼、丸く、頰、とがり、口、廣く、其形、老大にして、右の腕首なき狐、有(あり)。里人の申(まうす)に、『此狐は、定(さだめ)て、過(すぎ)し春、我に腕を切られし老狐なるべし。』と沙汰致し、是等、極(きはめ)て妖怪をなし、人を迷(まよは)し殺(ころし)候。月白く、風淸く、松風颯々(さつさつ)たる夕べには、老狐・古狸、子(こ)を携へ、類を集(あつめ)、をのが土窟を出(いで)て、月にうそぶき、終夜(よもすがら)、腹つゞみを打(うち)、樂(たのしむ)、といへり。近くの里人、遠く笛・皷(つづみ)の音(ね)を聞(きく)事、度々(たびたび)也。其音色、さはやかにして面白(おもしろく)、感情を催(もよほす)といへり。是、世俗に申傳(まうしつたへ)候、狸の腹鼓(はらつづみ)、是(これ)なるべし。古人曰、夫(それ)、獸は一氣にして偏(へん)なるもの也。狐狸、千歲(せんざい)を經て怪をなす。狸の年經たる、能(よく)雷雨を起し、人の死骸(むくろ)をさらひ取(とる)。是を、人、『化者(くわしや)』といふといへり。夕べの化者(ばけもの)も必(かならず)、此者の所爲なるべし。」

と語られける。

 喜兵衞、歸りし夕方、和尙、日沒の務(つとめ)をなし、念佛申(まうし)おはせしに、忽然として、五十斗(ばかり)の片目なる女、十斗の小女をつれ、和尙の前へ來り、泣(なき)て申(まうし)けるは、

「我等は此御寺近くに住(すみ)侍る嬬女(ヤモメ)にて候が、夕べ、我姊(あね)を狂人の爲に殺害(せつがい)せられ候間、向(むかひ)の山の塚原へ、今宵、姊の死骸を埋葬仕(つかまつり)候。乍御大義(ごたいぎながら)、和尙を引導の師に賴(たのみ)奉る。此由、申さんとて參り候。」

と云。

 和尙は、

『件(くだん)の片目狸の化(ばけ)たるならん。』

と思ひければ、傍(かたはら)に有る竹箆(シツヘイ)を押取(おしとり)、是をうたんとし玉ふに、女も小女も、かきけす樣に、みへずなりたり。

 其夜、牛(うし)みつ過(すぐ)る頃、寺の向の塚原へ、燒松(たいまつ)、數多(あまた)灯(とも)し、人、大勢、經讀・念佛申(まうし)、鉦(ドラ)・鐃(ニヨウ)・鉢(ハチ)たゝき、立て、人を埋葬(はうふりうづむ)體(てい)にみへ、暫(しばらく)有(あり)て燒松の火も消(きえ)、人音(ひとおと)も靜(しづま)りけり。

 和尙、明(あく)る日、人を遣し、見せ玉ふに、土、うづ高く、物を埋(うづめ)たる跡あり。

 掘返(ほりかへ)し、是を見るに、小牛のごとく成る古狸、首より立割(たてわり)に切(きり)さかれたる、其死骸を埋(うづめ)たる也。

「定(さだめ)て是は、夕べ、喜兵衞に切られたる狸なるべし。」

と、人、皆、申(まうし)ける。

 其後、三坂の城は奧州仙臺の城主伊達左京太夫輝宗の爲に責落(せめおと)さる。此節、濱田喜兵衞は、金の大半月の前立(まへだて)に塗鉢(ぬりばち)の冑(かぶと)、朱具足(しゆぐそく)を着(き)、黑の馬に打乘(うちのり)、大長刀(おほなぎなた)、水車(みづぐるま)に𢌞し、聲を懸(かけ)、馬、一さんに、新田常陸之助が三千斗(ばかり)にて扣(ひか)へたる敵の眞中へ乘入、十方へかけ散じ、八方へ追靡(おひなびき)、能(よく)、武者十四、五騎、切殺し、敵味方の目を驚かし、いさぎ能(よく)、討死せり。

 三坂の城跡、今、三坂山に石垣、纔(わづか)に殘れり。

 三坂の家の子、長山越中・遠藤越後・吾妻甚平・吉田大藏。是等、近國に名をしられたる武勇の者共也。

 その子孫枝葉、上三坂・下三坂その外、所々に零落して、其四家の類族、今に有(あり)と申(まうし)侍る。

 奧州磐崎郡(いはさきのこほり)三坂村曹洞宗久長山耕山寺は、三坂氏代々の墳墓(フンボ)の道場也。三坂村の内、捨石、寺領とす。

  幸山院殿重嚴壁公禪門

 俗名三坂越前守隆景、此寺、三坂合戰の節、兵火(ひやうくは)の爲に囘祿して、本尊阿彌陀佛・十王堂・地藏堂・寺寶の舊記までも悉く燒失せり。依之(これによつて)古(いにしへ)をかんがへ印(するす)べき先記(せんき)なし。其後、又、此寺、自火(じか)の災あり。夫よりは誰(たれ)取立(とりたて)る者もなく、物、替り、星、ふり、今、纔(わづか)の小寺と成(なり)ぬ。近頃、耕山寺の祖玄といふ僧、あらたに地藏の緣起を作る。しかれ共、其文言(もんごん)、拙(つたな)くして虛妄の說のみ多(おほく)、用(もちふ)るに不足(たらず)。只、里俗、語傳(かたりつたふ)るを以(もつて)、印(しるし)とゞむ斗(ばかり)也。今に至る迄、御代々三坂氏菩提所耕山寺へ

將軍樣より    御朱印被成下

大猷院樣     御朱印

 地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事、任先規奇附之訖。可收納。幷於當所別當耕山寺中門前山林竹木諸役等免除、如有來永不可有相違者也

   慶安元年七月十一日

[やぶちゃん注:この部分は注で訓読を試みる。] 

 

老媼茶話弐終

 

 爰に油井正雪・丸橋忠彌が一件有共(あれども)、「慶安太平記」に悉く有之(これある)故、略之(これをりやくす)。

[やぶちゃん注:ママ。実際には終わっていない(「卷之弐」は本条を含めて全八篇から成る)。というか、現行では、二巻目は。まだ続く。これを見るに、「老媼茶話」の祖本は十六巻本であったものが(本底本(宮内庁書陵部本)は七巻に拾遺一巻が附く。多量の増補が加えられてしまった哲学堂本は逆に二十巻もある)早期に散佚したというのが、よく判る錯文とも見える。]

[やぶちゃん注:この話、注を附すのに、異様に苦労した。その理由の一つは私が戦国史に極めて冥いからに他ならない。しかし、注を概ね附し終わりそうになったところで、私はあることに気づいた。それに基づいて、既に記した私の以下の注を全面的に書き直すことも考えたのだが、逆に、私の半可通で不完全な推理が、全くの的外れではないことにも同時に気づいた。されば、変則的であるが、そうした「不詳」とした注や不全な推理の跡をそのままにしておいて、注の最後にある決定打を示すことと決した。そこを御理解の上、読み進めて戴けると幸いである。但し、怪談部分は、本書よりちょっと後を時制とする(寛延二(一七四九)年)「稲生物怪録」ばりに面白いぞう!

「奧州磐崎(ばんさき)の郡(こほり)三坂」これは現在の福島県いわき市三和上三坂。ここ(グーグル・マップ・データ)。戦国時代にこの地方を治めた岩城氏の重要拠点とされ、三坂城(三倉(さのくら)城)があった。

「越前守隆景」室町時代から戦国時代にかけての武将で陸奥国大館城主で岩城氏第十一代当主であった岩城氏の全盛期を築き上げた岩城常隆(?~永正七(一五一〇)年又は天文一一(一五四二)年)の弟に岩城(車)隆景がいるが、彼は小川姓でないし、越前守でもないようだし、そもそも後に出る実録資料等を考えると、生存時間が有意に前のように思われるから彼ではないのか? しばしば中世の廃城でお世話になる余湖氏のサイトの「三坂城」のページに『天正~文禄年間』(一五七三年から一五九六年)『には小川越前守隆景が城主となっていたという』とある人物であろう。この小川越前守隆景は恐らく、この当時、同地方を支配していた小川氏の一族の嫡流の一人と思われるただ、非常に気になることがある。それは、この「三坂」という地名であり、本電子化の最初に紹介した三好想山の「想山著聞奇集 卷の參」の「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事(リンク先は私の電子化注)の割注の記載である。煩瑣を厭わず再掲すると、

   *

此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後(のち)、寬保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。

   *

で、実に、本書の作者三坂春編(はるよし)こそが、ここに出る三坂城主であった(三坂)越前守隆景なる人物の後裔だと述べているのである。底本の高田衛氏の解説を見ると、この人物は作者の三坂家の始祖で、岩城平の城主である岩城常隆に仕えたとあるのである(因みに、この隆景の主君岩城常隆(永禄一〇(一五六七)年~天正一八(一五九〇)年)は陸奥磐城大館城主で、佐竹義重に従い、達政宗と戦い、天正十八年には豊臣秀吉の小田原攻めに加わって所領を安堵されたものの、その帰途、鎌倉で二十四歳の若さで死去している)。さて? 先の「小川越前守隆景」と「三坂越前守隆景」は同一人物なのか、それとも全くの別人なのだろうか? しかし、こんなに近接した時機に、こんなにそっくりな名を持つ人物が、同じ場所に別人として存在していたというのは考えにくい。う~む、困った。但し、注の最後に決定打を示すこととする。

「濱田喜兵衞」不詳。但し、やはり注の最後に決定打を示すこととする。

「京道(きやうみち)」三十六町(約三千九百二十四メートル)を一里とする現在の一里の路程距離のこと。呼称は「西国道」「上道」等が一般的で、「大道(おおみち)」「大里」などとも読んだ。「坂東道(ばんどうみち)」(別称「東道」「小道」「小里」「田舎道」)に対する路程距離スケールの区別名称である。

「五、六里斗(ばかり)は獨(ひとり)往來せり」満四、五歳でこの距離は異様で、恐るべき脚力と言わねばならぬ。

「白鷄(にはとり)」二字へのルビ。

「あららかに」底本では後の「ら」の箇所は踊り字「〱」である。これは別本によって補訂されたもので、底本親本は『あらかに』となっているらしい。しかしこの二字以上の繰り返しを意味する踊り字をそのまま正字化してしまうと、「あらあらかに」となっておかしいため、敢えてかく、した。無論、「荒らかに」である。

「勢高く」「背(せい)高く」。

「平包(ひらづつみ)」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。

「小童(ワツハ)」の読みは原典のママ。「わつぱ」(わっぱ)。小童(こわっぱ)。

「禿童(カブキロ)」底本のルビは『カフキロ』。これは当てるなら、少年の卑称の「がき」を指す「かぶろ」であろうが、ガキのくせに、偉そうな「かぶいた」奴の謂いを含むと思われるので、敢えて「カブキロ」とした。実際には私はこのような語を知らない。

「天窓(アタマ)」二字へのルビ。

「張(はり)ひしぎくれん」「ひしぐ」は「拉ぐ」で「押して潰す・圧迫を加えて勢いを弱める・押さえつける・押しやる」の意であるから、「頭を地面に張り倒して呉れるわ!」の謂い。

「備前兼光」鎌倉後期に備前国に住したとされる名刀工備前長船住兼光。ウィキの「備前長船兼光」によれば、「備前長船兼光」を称した刀工は何人かいるが、『一般には南北朝時代に活躍した刀工を指すことが多く、また室町時代の兼光の作刀はほとんど見られない』とする。始祖と目される備前長船兼光は文永年間(一二六四年~一二七五年)頃の刀工で、『岡崎五郎入道正宗の正宗十哲とされる』が、『年代的にみて疑問視する説もある』。次に南北朝の延文年間(一三五六年~一三六一年)頃、応永年間(一三九四年~一四二八年)頃、長禄年間(一四五七年~一四六一年)頃、天文年間(一五三二年~一五五五年)頃に同名の刀工がいるが、ただ兼光と言った場合は最初の二人、特に二人目の延文年間の兼光を指すことが多い。ともかくも、少年の彼が自分の刀としてこのような名物を持っていることから、彼が相当な家柄の子であることが判る

「弐尺三寸」六十九・六九センチメートル。

「岸陰(きしかげ)」切り岸(ここは道の上の方に切り立った崖)の隅。

「淨土數珠(ずず)」浄土宗の数珠にはは一般檀家・信徒用の「日課数珠」、僧侶用の本式のそれには、通常の「日課数珠」の他に儀式用の「荘厳(しょうごん)数珠」がある。孰れも念仏の数を数えられる形式になっているが、本式の数珠でも百八玉はない本式数珠は二つの輪を交差させた独特の形状を成し、両方の輪にそれぞれ親玉と主玉があり、一方の輪には主玉の間に副玉と呼ばれる小さな玉が入って、交互に並んでいる。その副玉が入っている方の輪に、金属製の輪が大小二つと房が繋がっている。現行では男性用・女性があり、玉数や大きさは異なるが、同じ形式で作られている。男性用のそれは「三万浄土」、女性用それは「六万浄土」と呼称されるが、これは念仏を唱える際に決められた形式で数珠の玉数に沿って数えていくと、男性用は三万二千四百回、女性用は六万四千八百回、唱えることが出来るようになっていることに由来するという。参照した京都の数珠専門店「はな花」のこちらのページで実物の形式図や実物画像が見られる。この数珠形式が何時決まったものかは不明であるが、ここは取り敢えず、男が僧であるから、男性用の「三万浄土」の「荘厳数珠」ととっておく。普通の数珠より複雑であるから、一見して区別出来るので、このシーンには相応しかろう

「壱丁」約百九メートル。

「切取(きりどり)なり」牛太郎は、武士として侮辱されたことへの遺恨討ちであったが、これを持ち去ったのでは、捕まれば、結果的に、斬り殺して金品を奪った強盗殺人の罪を犯したことになってしまう、と考えたのである。

「閙敷(さはがしく)」底本は『いそがしく』とルビするが、これは編者によるものであり、採らない。閙(音「ネウ(ニョウ)・ダウ(ドウ)」)は第一義が「騒ぐ・騒がしい」の意であるからである。

「牛太郞、十三に成(なり)ける春、在所に狼籍者弐人有て」前のエピソードが十一の時で、それより「四、五年、伯母の方に有」ったのだから、ここで言う「在所」は実家ではなく、寄せて貰っている伯母の「在所」である。

「淸閑寺」不詳。現在のいわき市に同名の寺はない模様。

「ひた」副詞。ひたすら。

「鬩(せめ)ぐ」底本は清音「せめく」で、この語は古くは清音であったから、そのままでもよい、但し、古語としての「せめぐ(せめく)」の原義は「互いに憎み争う」「責め苦しめる」の謂いで、今一つ、ピンとこない(敷衍して「批難する」でもしっくりこない)。鬩(音ケキ・キヤク・ゲキ(慣用))には他に「恐れる」・「鳴く」・「静かなさま」(これは通音の別字の逆意用法)があるから、ここは「恐れ戦(おのの)く」の意で採ればよかろう。

「大袈裟に切殺(きりころ)す」刀を大上段に振りかぶって、一気に一方の肩から他方の腋へかけて斬り下げて斬り殺した。

「水もたまらず」「水も溜まらず」。刀剣で以って鮮やかに素早く斬るさま。

「馳走(ちそう)」饗応。

「生死」僧を諫めているのであるから、「しやうじ(しょうじ)」と読むのがよいと思う。

「しゆら・とうじやう」「修羅・鬪諍」。

「黑石の死する時は、黑業煩惱(こくごふぼんなう)の失する事を悅び、白石の死する時は白法善根(びやくはうぜんこん)の滅する事を恐(おそれ)て無上菩提を觀念する便(たより)となれり」まず、「黑業(こくごふ)」(こうごう)とは仏語で「悪い行為・悪い果報を受ける悪い行い」としての「業(ごう)」を謂い、その対義語として「白業(びやくごふ」(びゃくごう)、「よい果報を受ける善い行い」、「善業( ぜんごう)」という語があることを押さえるならば、この和尚の謂いは、

「――黒石(くろいし)の死ぬ瞬間には、即ち、絶対の悪しき因縁としての悪業(あくごう)や煩悩(ぼんのう)が雲散霧消することの機縁として、これに喜悦し――白石が死ぬ瞬間には、純白にして無垢の正法(しょうぼう)に至る善根、絶対の善なる属性が完全に滅してしまうことの悪因縁の教えとして、これを心から畏れ、さても、孰れの場合にても、これ、無上の大慈大悲の菩提を観想する方便となって、私の中にあっては格別に作用しておるのじゃて。」

という意味と採れると私は思う。

「雪隱(せつちん)」底本は『せついん』と編者ルビする。確かに本来の読みはそうではある。しかし、私はここで今時、そう発音する人が少ない中、ここは普通に「せっちん」と読みたいのである。

「なんなく」「難無く」。

「行方」底本は編者により『ゆきかた』とルビするが、「ゆくゑ」と読んではいけない意味が判らぬので(私はそう読みたい)ルビを振らなかった。

「骨引(ほねびき)有(あり)て」肉を切っただけでなく、骨をも引き斬った痕がありありと残っていて。骨片の細片でも附着していたのであろう。

「雨落(あまおち)」雨垂れの落ちる所を広く指すが、後で「雨落の踏石」とあるから、雨落(あまお)ち石(いし)、雨垂れで地面が窪んでしまうのを防ぐために軒下に置き並べた石(「雨垂れ石」とも呼ぶ)の謂いで私は読んだ。

「礑(はた)」「はた」は副詞で、唐突に物を打ったり、ぶつけたりするさま。漢字「礑」(音「トウ」)も同義。私はここは一種のオノマトペイアとして採りたい。

「學窓」ここは書斎の謂いか。

「諫曉(かんげう)」一般名詞として「諫曉」(かんぎょう)は仏語に存在し、「諫め、諭すこと」を指す。中でも「信仰上の誤りについてそうすること」を謂う。もし、そういう意味で採るなら、ここは妖魔が来りて、「お前には悪しき因縁があるぞ!」と逆に諫めていることになる。『聖アントニウスの誘惑みたようなもんだ! 「淋しくはなきか」がその誘惑を物語ってるぞ』なんどと、迂闊な私は最初、独り合点してしまって読んでいた。しかし、それではどうにも「淋しくはなきか」と繋がりが頗るつきで、悪い。そうして、よく見ると、直前で和尚は「靜(しづか)に我(わが)名を」呼ぶ、と言って、この台詞が出るのである以上、この「諫曉(かんげう)」とは和尚の法名と読むしかないのである。そうしてこそ「淋しくはなきか」が腑に落ちるのである。それで採る。

「深々朦々」霧や闇などが深く一面に立ち籠めているさま。

「土窟(どくつ)」土中の洞穴。

「馬の大きなる狸あり」意味不明。「馬の(如く)大きなる狸あり」の意でとっておく。

「颯々(さつさつ)」風の吹くさま。風が音を立てるさま。

「一氣にして偏(へん)なるもの」ある契機を得ると、瞬時にして、片寄った、正当でない、禍々しいものになる属性をもっているもの、の謂いか。

「化者(くわしや)」底本では編者によって右に振漢字で『火車』とする。ウィキの「火車(妖怪)から引く。『火車、化車(かしゃ)は、悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪』。『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・甲府市、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』。「奇異雑談集」の「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」によれば、『越後国上田で行なわれた葬儀で、葬送の列が火車に襲われ、亡骸が奪われそうになった。ここでの火車は激しい雷雨とともに現れたといい、挿絵では雷神のように、トラの皮の褌を穿き、雷を起こす太鼓を持った姿として描かれている』(リンク先に画像有り)。「新著聞集」の「第五 崇行篇」の「音誉上人自ら火車に乗る」には、文明一一(一四七九)年七月二日、『増上寺の音誉上人が火車に迎えられた。この火車は地獄の使者ではなく』、『極楽浄土からの使者であり、当人が来世を信じるかどうかにより、火車の姿は違ったものに見えるとされている』。同じ「新著聞集」の「第十 奇怪篇」の「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」には、『武州の騎西の近くの妙願寺村。あるときに、酒屋の安兵衛という男が急に道へ駆け出し、「火車が来る」で叫んで倒れた。家族が駆けつけたとき、彼はすでに正気を失って口をきくこともできず、寝込んでしまい』、十『日ほど後に下半身が腐って死んでしまったという』。やはり同じ「第十 奇怪篇」の「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」には、『松平五左衛門という武士が従兄弟の葬式に参列していると、雷鳴が轟き、空を覆う黒雲の中から火車が熊のような腕を突き出して亡骸を奪おうとする。刀で切り落としたところ、その腕は恐ろしい』 三『本の爪を持ち、銀の針のような毛に覆われていたという』とあり、またまた同書の「第十四 殃禍篇」の「慳貪老婆火車つかみ去る」では、『肥前藩主・大村因幡守たちが備前の浦辺を通っていると、彼方から黒雲が現れ「あら悲しや」と悲鳴が響き、雲から人の足が突き出た。因幡守の家来たちが引きおろすと、それは老婆の死体だった。付近の人々に事情を尋ねたところ、この老婆はひどいケチで周囲から忌み嫌われていたが、あるとき』、『便所へ行くといって外へ出たところ、突然』、『黒雲が舞い降りて連れ去られてしまったのだという。これが世にいう火車という悪魔の仕業とされている』とある。「茅窓漫録」の「火車」には、『葬儀中に突然の風雨が起き、棺が吹き飛ばされて亡骸が失われることがあるが、これは地獄から火車が迎えに来たものであり、人々は恐れ恥じた。火車は亡骸を引き裂いて、山中の岩や木に掛け置くこともあるという。本書では火車は日本とともに中国にも多くあるもので、魍魎という獣の仕業とされており、挿絵では「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている』(リンク先に画像有り)。かの名著「北越雪譜」にも「北高和尚」の中に、『天正時代。越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』と古典籍を挙げる。また、『火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがあ』り、例えば、『岩手県遠野ではキャシャといって、上閉伊郡綾織村(現・遠野市)から宮守村(現・同)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りこして食べてしまうといわれた。長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされた』。『山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される』とあり、『群馬県甘楽郡秋畑村(現・甘楽町)では人の死体を食べる怪物をテンマルといい、これを防ぐために埋葬した上に目籠を防いだという』。『愛知県の日間賀島でも火車をマドウクシャといって、百歳を経た猫が妖怪と化すものだという』。『鹿児島県出水地方ではキモトリといって、葬式の後に墓場に現れたという』。以下、「考察」の項。『日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また中世日本の説話物語集『宇治拾遺物語』では、獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる』。『河童が人間を溺れさせて尻を取る(尻から内臓を食べる)という伝承は、この火車からの影響によって生じたものとする説もある』。『また、中国には「魍魎」という妖怪の伝承があるが、これは死体の肝を好んで食べるといわれることから、日本では死体を奪う火車と混同されたと見られており』、『前述の『茅窓漫録』で「魍魎」を「クハシヤ」と読んでいることに加えて、根岸鎮衛の随筆『耳袋』巻之四「鬼僕の事」では、死体を奪う妖怪が「魍魎といへる者なり」と名乗る場面がある』とある。最後の話なら、私が「耳囊 卷之四 鬼僕の事」で全訳注をしている。「耳囊」の中でも私の好きな一条である。是非、読まれたい。なお、には、ここで「化者」を「くはしや」と読んで、「ばけもの」と読まないのは、名前をずらして、敢えて普通の読みをしないことによって、その難を避ける意図が、まず、あるように思われる。さらに謂い添えておくと、「化者」=「火車」という正体説は、単なる漢字の音通からの、安易な妖怪認識の薄っぺらな解釈説に過ぎず、大いに眉唾であるとさえ感じている。ただ、そうした誤認や拡大解釈が、以降の妖怪世界をとめどなく広げたことは認めなくてはならないとは言える。

「竹箆(シツヘイ)」(しっぺい)は禅宗で師家(しけ:禅の指導者)が修行者を指導するために用いる仏具。長さは六十センチメートルから一メートル、幅は三センチメートルほどで、割り竹を弓の形に曲げ、籐(とう)を巻き、漆を塗って作る(武具の弓を切って製することもある)。古く唐宋時代の禅僧が使用したことが知られるが、現在では修行者のなかの第一座(首座(しゅそ))が住持の命によって禅問答を取り交わす法戦式(ほっせんしき)の折りに用いられる(以上は小学館の「日本大百科全書」に拠る)。既にプンプンしていたが、この「淸閑寺」が禅寺であり、この僧が禅僧であることがこれで明らかになる

「牛(うし)みつ」「丑滿つ時」。一般に午前二時から二時半頃。午前三時から三時半とする場合もあり、ここは「過(すぐ)る頃」であるから、後者で採っても問題ない。

「燒松(たいまつ)」「松明(たいまつ)」。

「鐃(ニヨウ)」読みは原典のママ。歴史的仮名遣としては「ネウ」が正しい。現代仮名遣で「にょう」である。仏式で用いる打楽器の一つ。シンバル型の金属製の銅鑼(どら)。単品を紐で下げ、桴(ばち)で打ったり、まさにシンバル同様に二枚を以って鳴らすこともある。

「伊達左京太夫輝宗」(天文一三(一五四四)年~天正一三(一五八五)年)。戦国大名で達氏第十六代当主。伊達晴宗の次男。ウィキの「伊達輝宗」によれば、『長兄の親隆は母方の祖父である岩城重隆の養子となっていたため、次男の輝宗が世子とな』った。天文二四(一五五五)年三月、『元服し、将軍・足利義輝の偏諱を受けて輝宗と名乗る』。永禄七(一五六四)年、『末頃に父・晴宗より家督を譲り受けた』が、『この時点では、家中の実権を、隠居の晴宗と天文の乱に際して家中最大の実力者となった中野宗時・牧野久仲父子に握られていた。そのため、家中の統制を図った輝宗は』永禄一三(一五七〇)年四月に『中野宗時に謀反の意志有りとして牧野久仲の居城・小松城を攻め落とし、中野父子を追放する。この際に輝宗に非協力的であったとして、小梁川盛宗・白石宗利・宮内宗忠らが処罰されている。同年、義姫の実家・最上家でも、義守・義光父子の間で抗争が始まると、輝宗は義守に与して義光を攻めたが、義姫が輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた』。『家中の実権を掌握した輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停した。また幅広い外交活動を展開し』、天正三(一五七五)年七月『には中央の実力者である織田信長に鷹を贈ったのをはじめとして、遠藤基信に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した』。天正六(一五七八)年『に上杉謙信が没し』、『御館の乱が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・亘理元宗に一任し、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に上杉景虎方として参戦したが、乱は上杉景勝方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は新発田長敦・重家兄弟の奮闘に阻まれて得るところが無かった。しかし、御館の乱における論功行賞において新発田勢の軍功が蔑ろにされ、さらには仲裁を図った安田顕元が自害するに及んで』、天正九(一五八一)年『に重家が景勝に叛旗を翻すと、輝宗は盛氏の後継・蘆名盛隆と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。このため新発田の乱は泥沼化し』七『年にもわたる長期戦となった。

一方、対相馬戦においては、相馬盛胤・義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが』、天正七(一五七九)年『には田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図り』、天正一〇(一五八二)年『には小斎城主・佐藤為信の調略に成功すると』天正一一(一五八三)年五月、『ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・丸森城の奪還に成功し』、翌年一月『には金山城をも攻略した』。『伊具郡全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年』五『月に祖父・稙宗隠居領のうち』、『伊具郡を伊達領、宇多郡を相馬領とすることで和平が成立した。ここに至って伊達家は稙宗の頃の勢力圏』十一『郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。このことは』天正一一(一五八三)年四月『の賤ヶ岳の戦いで盟友・柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて滅亡したことを受け』同年六月五日、『付の甥・岩城常隆に宛てた書状の中で、秀吉の勢力が東国に及ぶような事態に至れば奥羽の諸大名を糾合してこれに対抗する意思を示している』『ことからもうかがえる』。天正一二(一五八四)年十月六日、『蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後わずか』一『ヶ月で当主となった盛隆の子・亀王丸の後見となる。輝宗はこれを期に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した舘山城に移った。以後自らは越後介入に専念するつもりであったという。ところが、家督を継いだ政宗は上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上による共同での越後介入策を放棄したため、蘆名家中において伊達家に対する不信感を増大させるに至った』。翌天正十三年『春に、政宗は岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光・岩城常隆・伊達成実らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして』、『定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年』四『月に大内氏に対する討伐命令を下した。定綱は蘆名盛隆未亡人(輝宗妹・彦姫。亀王丸の母)にとりなしを求めたものの、政宗は』五『月に突如として蘆名領に侵攻し(関柴合戦)、これに失敗すると』、『定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった』。同年十月、『義継は政宗に降伏を申し入れ、輝宗と伊達実元の斡旋により五カ村を除く領地召し上げの厳しい条件で和睦した。同月』八『日に義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れたが、面会が終わり出立する義継を玄関において見送ろうとした輝宗は、義継とその家臣に刀を突きつけられ』、『捕えられた。伊達成実の著作とされる『成実記』および伊達家の公式記録である『伊達治家記録』によると、同席していた成実と留守政景が兵を引き連れて遠巻きに追ったが、二本松領との境目にあたる阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗が「自分を気にして家の恥をさらすな。わしもろともこ奴を撃て」と叫び、それが合図となって伊達勢は一斉射撃を行ったという。この銃撃で輝宗と義継を始めとする二本松勢は全員が死亡し、鷹狩中であった政宗が一報を受け』、『現場に到着したのは既に全てが終わってからであったとしている』(下線やぶちゃん)。長々と引いたのには理由がある。それは先に推定比定した主人公「濱田喜兵衛」の君主小川「越前守隆景」は天正~文禄年間(一五七三年から一五九六年)の三坂城城主であったという事実と、ここで輝宗によって三坂城が「責落(せめおと)さ」れたという記載とがやや矛盾するようにも思われるからである私の読みの推定比定や読み方が誤っているのか、或いは、事実とは異なった設定で三坂が本話を書いているのか、私にはまるで判らない。お手上げである。戦国史に御詳しい方の御教授を乞うものであるが、やはり、注の最後に決定打を示すこととする。

「水車(みづぐるま)に𢌞し」水車が回るように自由自在に、ぶん回して。

「新田常陸之助」天正一三(一五八五)年の時点で、実在した輝宗の有力家臣の武将として名が見える

「長山越中」下は越中守であろうが、不詳。三好氏の有力家臣団には長山姓を見出せない。

「遠藤越後」下は越後守であろうが、不詳。以下、同前。

「吾妻甚平」不詳。以下、同前。

「吉田大藏」不詳。以下、同前。

「上三坂」現在の福島県いわき市三和町(みわまち)上三坂(かみみさか)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「下三坂」現在の上三坂の東北直近の三和町下三坂附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧州磐崎郡(いはさきのこほり)三坂村曹洞宗久長山耕山寺」現在の福島県いわき市三和町上三坂字中町地内に現存。後に出る通り、兵火と自家出火による火災によって、悉く焼失してしまい、寺の由緒が不明であるとする。ネットでも、めぼしい情報はない。

「捨石」不詳。

「幸山院殿重嚴壁公禪門」見る通り、浜田喜兵衛の主君「三坂越前守隆景」の法名。以下はその三坂氏菩提寺である耕山寺の略歴。

「三坂合戰」不詳。但し、注の最後に決定打を示すこととする。

「星、ふり」幾「星」霜を「經り」。

「近頃、耕山寺の祖玄といふ僧、あらたに地藏の緣起を作る。しかれ共、其文言(もんごん)、拙(つたな)くして虛妄の說のみ多(おほく)、用(もちふ)るに不足(たらず)」ひどい書かれように見えるが、筆者の三坂春編が隆景の後裔であるという事実を考えるなら、何となく判らんでもない。

「御代々三坂氏菩提所耕山寺へ」底本に従い、最後に句読点を打たなかった。これは、当時の筆録法に従ったもので、貴人を示す文字(ここは「將軍樣より」)が出る場合に改行して行頭へ持って行ったものである。

「御朱印被成下」「御朱印、成し下さる」。

「大猷院」第三代将軍徳川家光の諡号。

「地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事」恐らくはこれが朱印状の標題で「地藏堂領陸奧國磐崎郡三坂村内拾石事」であると思われる。されば、次の訓読文に前の部分も含めて推定で附してみた。

「任先規奇附之訖。可收納。幷於當所別當耕山寺中門前・山林竹木・諸役等免除、如有來永不可有相違者也」底本の読みを参考に(一部、従っていない)書き下してみる。

   *

    御朱印、成し下さる。

大猷院樣〔御朱印〕

地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事

先規(せんき)に任せ、奇附(きふ)せしめ、之れを訖(おは)んぬ。收納すべし。幷びに、當所(たうしよ)別當(べつたう)に於いて、耕山寺中(じちう)・門前・山林竹木・諸役等(とう)免除し、有り來たるごとく、永く相違有るべからざる者なり。

   *

「慶安元年七月十一日」一六四八年八月二十九日(この年は正保五年二月十五日(一六四八年四月七日)に慶安に改元している)。

「油井正雪・丸橋忠彌」次の「惡人」の条で頭に名が出るので、そこで注する。

「慶安太平記」史書ではないので注意。慶安四(一六五一)年に浪人由比正雪・丸橋忠弥らが幕府転覆を図った、慶安事件(慶安の変)を扱った実録本・講談・歌舞伎などの題名または通称。由来は正雪が楠流の軍学者で、「太平記」の主要人物である楠木正成の子孫と称したという巷説から。

 

 以下、予行通り、最終注を附す。 

 モデル人物の隔靴掻痒の注を附しながら……それとは別に……この怪談……どうも……いつか昔……読んだことがある気がしてきていた……そうして……人物探索のためにいろいろな通称を掛け合わせて検索している中……見つけた! 「あっつ! あれか!!」と思わず、叫んだのである。

 これは綱淵謙錠(大正一三(一九二四)年~平成八(一九九六)年)氏の怪異譚集「怪(かい)」に載っていたのだ!

 私がそれ(昭和五七(一九八二)年中公文庫刊)を読んだのは、実に三十五年前、教員になって三年目のことだった。

 先程、書棚に発見した。

 当該小説集は「あとがき」によれば、所収する十篇の半分の五篇が、まさに「老媼茶話」に取材したものであった。

 本話を素材にしたものは、まさしく小説集の題である「怪」であった。

 当該作は、再度してみたが、ただの現代語訳ではなく、それぞれのシークエンスに深みがあり、途中に別な話柄を挟み込んだ、粋な時代怪奇小説に仕上がっている。

 一綱淵氏はその一番最後のパートを、原話のように浜田喜兵衛関連の事蹟と、その最期を叙述して締めくくっておられる。それを引いて、私の半可通の注に箔を添えたいと思う。綱淵氏の著作権は存続しているが、最終パートはそれほど長くないし、私としては、どうしてもここに掲げたい内容で、あの世の綱淵氏もお許し下さるように思うのである。

   《引用開始》

 浜田喜兵衛の仕えた三坂越前守隆景は岩城(いわき)氏に臣属し、会津の蘆名氏に加勢して、伊達氏に反抗していた。

 当時の伊達氏は独眼竜政宗の父輝宗の時代で、蘆名氏と奥州を二分し、米沢に本拠を置き、三春の田村氏と盟約を結んで勢力を拡大しようとしていた。世は元亀・天正の戦国末期、食いつ食われつの明け暮れのなかに、三坂城は二人の豪勇の士で、その堅陣を誇っていた。

 一人は吾妻(あづま)八郎教為(のりため)であり、もう一人が浜田喜兵衛景之(かげゆき)であった。世人は二人を〈三坂の双壁〉とたたえ、竜虎並んで城を出づれは三坂勢に敵なし、と恐れられた。

 ところが吾妻八郎教為は、あるとき山伏を殺害し、その怨霊に取り憑かれて悶死して果てたため、三坂城の命運はいつに浜田喜兵衛の双肩にかかることになった。

 天正八年六月、蘆名盛氏(もりうじ)が死んだのを境として、蘆名の盛運は次第に下降線をたどり、伊達との勢力の均衡は破れて、天正十三年十月、三坂城は伊達・田村連合軍の攻略するところとなった。

 このとき浜田喜兵衛は金の大半月の前立物(まえだてもの)を打った塗鉢(ぬりはち)の兜をいただき、朱具足の鎧を着け、八寸(やき)(四尺八寸)[やぶちゃん注:地面から跨る背部までの高さが一メートル四十四センチメートルあまりの馬。馬は「四尺」が標準。]にあまる黒馬にまたがって大薙刀を水車のように振り廻し、手勢百人を引きつれて、押し寄せた新田常陸介(ひたちのすけ)の軍勢三千人の真只中めがけて魚鱗懸(ぎょりんがか)かり[やぶちゃん注:陣形の名称。中心が前方に張り出し、両翼が後退した陣形。△の形に兵を配する。]に駈け入って、主従相互に大声を掛け合い、十方に駈け散らし、八方に追い靡かせ、ひた物狂いに敵を追い返けること三回。「鬼神も三舎を避けよう」と、敵味方その勇猛ぶりを賞嘆せぬ者はなかった、という。[やぶちゃん注:「三舎を避く」は、元来は「辞退したり、しりごみをすること」であるが、転じて、謙遜して相手に一目置くことを指す。中国の故事で「三舎の距離を退く」というのが原義。「一舎」は三十里(本邦の概ね約五里)に相当する単位で、古代中国の軍隊が一日行軍して宿舎したことに由来する。三舎は三日分もの行程に当たるので、この語は元が「戦意のないさま」の形容であった。]

 そのうちに三坂勢は全軍城門を押し開いて打って出で、乱軍[やぶちゃん注:「みだれいくさ」と訓じておく。]となって城中に火の手が挙がり、黒煙万丈、数刻後には全員討死して落城の悲運を迎えた。

 その間に浜田書兵衛は〈能武者十四五騎切殺し、敵味方の目をおどろかし、潔く討死せり〉と旧記は語っている。

 この三坂合戦のさいの出火で、三坂家の菩提寺であった曹洞宗の久長山耕山寺も類焼し、本尊の阿弥陀仏、十王堂、地蔵堂、寺宝の旧記までも、ことごとく焼失した。そのため当時の史実を探るべき先記は全く存在しない、という。

 ただわずかに三坂山に残る石垣のみが三坂の城あととして、長いあいだ往事を語りつづけて来たが、その石垣の上の松籟に、遠いつわものどもの雄たけびや勝鬨をしのぶ人もいた。そして月の明るい晩など、その松籟にまじって、鼓の音が遠く近く聞える、といわれた。だれか風流人の手すさびででもあったのであろうが、ある本は、浜田喜兵衛の死を喜ぶ狸の腹鼓である、と書き伝えている。もっとも、それをまことと信じる人間がこの世に存在しなくなって久しい。

   《引用終了》

私の注の疑問は、かなり、この綱淵氏の文章で明解にされていると思う。細かな不分明部分はあるが、私のは、怪奇談の電子化注であって、注は戦国史を正確に明らかにすることにあるのではないから、この辺りで、お許し願いたく存ずる。明確な誤りは御指摘頂ければ訂正する。]

老媼茶話 化佛(ばけぼとけ) / 老媼茶話巻之壱~了

 

     化佛(ばけぼとけ)

 

 淺野彈正少弼(だんじやうせうひつ)長政の步士(かち)、伊勢に使(つかひ)に行(ゆき)ける道に、墓はらのあり。夜半はかりに此所を通りけるに、變化(へんげ)のもの、いてたり。身に火焰有(あり)て、不動明王のかたちの如し。火光の中に、其おもてをみれは、

「にかり。にかり。」

と打笑(うちわらひ)て來(きた)る。步士、刀をぬき、走りかゝりて、是を、きる。

 火光、忽(たちまち)、消(きえ)て、暗夜(アンヤ)となりぬ。

 それより、伊勢に行て、明日、歸路に右の所をみれは、苔むしたる石佛のかうべより、血、流れいて、切先(きつさき)はつれにきつたる跡あり。是をとりて歸り、人にかたらんも誠(まこと)しからねは、したしき友にひそかにかたりて、其刀を見せけるに、刃(やいば)は血つきて、石のひきめあれとも、刃、かけす。

 淺野長政、是を聞(きき)て、秀吉の聽に、たつす。

 秀吉、彼(かの)刀(かたな)をめしよせ、一覽あるに、備中靑江の作にて、貳尺五寸有(あり)。

「是(これ)、名物なり。」

といふて、「にかり」と異名(いみやう)して祕藏せらる。

 そのゝち、京極若狹守忠高家に傳われり。

 

 

老媼茶話卷之壱終

 

[やぶちゃん注:本話、出典未詳。識者の御教授を乞う。

「淺野彈正少弼(だんじやうせうひつ)長政」(天文一六(一五四七)年~慶長一六(一六一一)年)。

「步士(かち)」「徒士」「徒」とも書き、徒侍(かちざむらい)のこと。主君の外出時等に徒歩で身辺警護を務めた下級武士。

「いてたり」「出でたり」。

「流れいて」「流れ出で」。

「切先(きつさき)はつれにきつたる跡あり」刀の切っ先が外れて斬ったと思しい痕があった。

「是をとりて歸り」ちょっとここが不審。「是」(これ)は当然、その石仏としか読めないのであるが、以降にはその石仏の話は出ず、専ら、斬った刀の話のみで石仏は出てこない。まあ、血を吹き出した石仏を担いで帰る武士も、なかなか、キョワイ。いや、或いは、滑稽かも?

「誠(まこと)しからねは」真実とは到底、思って貰えそうもない事実であるので。

「石のひきめあれとも」明らかに石を引き斬ったような痕跡や石屑が刃の表面に附着していたが。

「かけす」「缺けず」。

「めしよせ」「召し寄せ」。

「備中靑江」刀工集団である青江派。平安時代後期から南北朝期にかけて備中国(現在の岡山県西部)で栄えた。開祖は青江守次。 同派は時代ごとに三分割されており、鎌倉時代中期以前を「古青江(こあおえ)」、鎌倉中期から南北朝初期を「中青江(ちゅうあおえ)」、南北朝中期以降室町初期までを「末之青江(すえのあおえ)」と称する。

「貳尺五寸」七十五・七五センチメートル。短いと思われる向きもあるかも知れぬが、江戸時代の武士が好んだ刀の平均長は二尺三寸前後、六十九・六九センチメートル、約七十センチメートルで、これは長めの部類である。

「京極若狹守忠高」(文禄二(一五九三)年~寛永一四(一六三七)年)は江戸前期の大名。出雲国松江藩主。若狭国小浜藩主高次の子で京都生まれ。若狭守、後に左近衛権少将。慶長一四(一六〇九)年に父の遺領を継いだ。元和元(一六一五)年の大坂の陣に出陣している。寛永一一(一六三四)年、出雲・隠岐二十六万四千石余に転封、松江に居城を置いた。忠高の母は第二代将軍徳川秀忠の室崇源院の姉であったことから、徳川氏の縁戚として処遇された。江戸で死去したが、嗣子がなく、甥を末期養子に立てたが、その時点での領地は没収された(以上は概ね「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。その継いだ甥の高和には播磨龍野に六万石の所領が与えられて大名として存続は許された(ここはウィキの「忠高に拠る)。]

2017/09/27

老媼茶話 武將感狀記 船越、大蛇を殺す

 

     武將感狀記 船越殺大蛇

 淡路周本(スモト)の城主、船こし五郎左衞門と云(いふ)大力の強弓引(つよゆみひき)あり。

 同こく、しとりの池に大蛇住(すみ)、人民を呑喰(のみくらふ)と聞く。

「大蛇を退治せん。」

とて弓矢を持(もち)、馬に乘(のり)、しとりの池へ行(ゆき)、馬を池の汀(みぎは)にのりとゝめ、大音(だいおん)上(あげ)、

「此池に大蛇住(すむ)と聞(きく)。出)いで)て勝負をせよ。」

とよははりけれは、俄(にはか)に、雨、一通りして、雷光、隙(ひま)なく、池の波、逆卷(さかまき)て、大蛇、あらはれ、紅(くれなゐ)の舌をいたし、船越に、むかふ。

 船越、大の雁俣(かりまた)を以て大蛇の口の中へ射込(いこみ)けれは、さかしまにかへるかとみへしか、また、立上(たちあが)り、船越を追ふ。

 船越、馬にむちを打(うち)、はせ歸る。

 大蛇、是を追(おひ)かけ、草木の上を走る音、疾(シツ)風のことし。

 しとりの池より、すもとまて、壹里半の處なり。

 其道に「あま」といふ所あり。其所、楠の森あり。

 此森陰に馬をのり入けれは、大蛇、ふなこしをみうしなひ、森の木梢にのほり、下を見おろす所を、船越、振返り、二の矢を射る。其矢大蛇の咽(のど)にあたり、大蛇、大きによはりて、急に、追(おふ)事、ならす。

 船越、いそき、城に至り、馬を乘入(のりい)、門をとつる時、大蛇、追來り、門の上を乘越(のりこえ)、うちへいらんとする時、船越か將のふ地それかし、立向(たちむかひ)、長刀を以て、大蛇の首を切落す。

 其時、大蛇は納地(ノフチ)それかしに息を吹(ふき)かくる。身に熱湯をあひるかことく、納地、毒氣を觸(フ)れて甚(はなはだ)煩熱(はんねつ)し、其日の暮方に死(しす)。船越か乘(のり)たる馬もたち所に死(し)ゝ、船越も四、五日過(すぎ)て、皮膚、あかく爛(タヽ)れて死(しに)たり。

 大蛇のかしら、今に於て、船越の子孫、持(もち)つたへたりといへり。

 「深祕錄」には「船越三郎四郎殿」とあり。

[やぶちゃん注:「武將感狀記」ウィキの「武将感状記」によれば、『熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって』正徳六(一七一六)年『に刊行された、戦国時代から江戸時代初期までの武人について著された行状記で』「砕玉話」とも称する。『戦国時代には戦地で功績のあった者に、主君が感状を与えるのが慣わしであった。家臣に対する賞賛を書状に認め』、『勲記としたり、または褒賞の目録的な意味合いをなすものでもあった。しかし、本著は実際にそうした感状の類を集成したものではなく、著者が見聞した評伝を、独自の価値判断のもとに好んで採録した逸話集である。その内容は戦国時代や安土桃山時代、かつ江戸時代初期の逸話が中心となることから、封建道徳に即した武士特有の倫理観によって評価された物語と考えられる』。『採録された逸話は必ずしも戦闘に関するものだけではない。石田三成と豊臣秀吉の出会いとして有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話が記されているのは本著である』。『一般的にいわれてきたこととして、著者の熊沢猪太郎は肥前国平戸藩の藩士で、諱は正興、号を淡庵、または砕玉軒ともいい、備前国岡山藩の藩士であった陽明学者の熊沢蕃山の弟子とされている。そのため本著に採録された逸話は、肥前平戸藩と備前岡山藩関係のものが、他藩のものと比較して多数を占めることも道理とされていた』。『しかし東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということだった』。『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』。『逸話集という性質、並びに記事の年代と刊行年の隔たりから、史料的価値は高くないと考えられている。本著にしか採録されていない逸話もあるが、著者の出自が不明なことなどから記事の裏付けがとれず、これも信憑性に欠ける点とされている。ただ、刊行年頃の武士の価値観を推し量る材料としては有用との評価がある。小説の材料としても重宝されている』とある。「船越殺大蛇」(船越、大蛇を殺す)は同書の「巻之八」にある「舟越五郎左衞門大蛇を射る事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「淡路周本(スモト)の城」淡路国津名(つな)郡、現在の兵庫県洲本市、淡路島東部中央にあった洲本城のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「洲本城」によれば、大永六(一五二六)年に三好氏の重臣安宅(あたぎ)治興が築城し、治興の後は養子安宅冬康(三好長慶の弟)が城主となり、彼の死後は彼の長男信康・二男清康と受け継がれが、天正九(一五八一)年の淡路討伐の際に総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられている(その後、脇坂安治に移り、江戸時代になって姫路城主池田輝政三男忠雄が領主になった際、一時、廃城となったが、寛永八(一六三一)年から同十二年にかけて復活している)。

「船こし五郎左衞門」不詳。しかし、先の「武将感状記」の当該章を見ると、三坂が省略した実録風部分が冒頭にあって、そこでこの人物は、阿波・土佐・淡路三州を支配した『三好が三男にて淡路の洲本に在城し、年々播磨紀伊と戰』った武将と紹介されている。私は戦国時代に冥いのであるが、これと前注を重ねて見ると、この人物は阿波国の武将で細川晴元に仕えた三好元長の三男であった安宅冬康(享禄元(一五二八)年?~永禄七(一五六四)年)をモデルとしているのではないかと私は思っている【二〇二三年三月二十日追記:これは知人からの指摘によって、モデルは冬康の旧家臣の祖先の誤認であることが判った。本注の最後の追記を見られたい。】ウィキの「安宅冬康」によれば、三好氏家臣『安宅氏へ養子に入り』、『淡路水軍を統率し』、『三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。経緯・理由については様々な見解があり』、『不明な部分が多い』とし、『安宅氏は淡路国の水軍衆で』、『長兄の長慶は当時、細川氏などによって畿内を追われ』、『淡路島にいた。長慶は冬康をこの安宅氏の当主・安宅治興の養子にして家督を継承させた。穏やかで優しい仁慈の将であり、人望が高かったという』。『以降、三好家は長兄の長慶が摂津国・河内国・和泉国の兵を、次兄・三好実休が阿波国衆を、冬康が淡路衆を、弟・十河一存が讃岐国衆を率いるという体制で各地を転戦した。冬康は大阪湾の制圧や』永禄元(一五五八)年『の北白川の戦い』や永禄五年三月の『畠山高政との戦い(久米田の戦い)に従軍、特に畠山高政との戦いでは次兄の実休が敗死すると冬康は阿波に撤退して再起を図り』、同年六月には、再び、『高政と河内で戦い勝利している(教興寺の戦い)』。『その後、弟・一存や次兄・実休、甥で長慶の嫡男・三好義興が相次いで死去すると、三好一族の生き残りとして長慶をよく補佐したが』、『長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられ』ている。享年三十七と伝える。『冬康の殺害に関する経緯・理由については諸説あ』り、『山科言継は自身の日記『言継卿記』にて、冬康に逆心があったゆえに殺されたようだ(「逆心悪行」)、と、伝聞の形で書き記している』が、『多くの民衆は』当時の長慶の寵臣であった『松永久秀の策動が背景にあったことを信じて疑わなかった』という。『例えば『続応仁後記』『三好別記』などの史料には、冬康の死因は確実に久秀の讒訴が原因による謀殺であると記されており、久秀は「逆心の聞こえあり」「謀反の野心あり」と長慶に讒訴したという』。『実際に久秀には十河一存・三好実休・義興といった長慶の兄弟、嫡子が相次いで死去して三好家中で同等かそれを凌駕する実力を保有する者で残っていたのは冬康だけであり、これを除く事で主家を乗っ取ろうと考えても不思議では無かった』。『一方で、『足利季世記』や『細川両家記』にも、冬康が讒訴によって殺されたと書かれており、これらの史料の記述も、冬康が久秀の讒訴で殺されたとする根拠とされているが、この』二史料に『関しては、「何者かの讒訴によって、冬康は長慶に殺害された」としか書かれておらず』、『久秀が関与したとは一言も書かれていない』とある。『長慶が自らの意思で冬康を殺害したという見解もある。弟の十河一存、実休、嫡男の義興に相次いで先立たれ、長慶の親族の有力者は冬康一人になっていた。思慮深い性格もあって、冬康への人望は一層のこと強くなっていった』。『そのこともあって、後継者の義継を巡り軋轢・疎隔が生じたのではないかとも指摘されている』。『冬康本人が、義継への家督継承を不服としていた可能性もあると指摘される』。『天野忠幸は冬康殺害の理由について断言はしていないが、冬康が義継の家督継承に不服を抱いていた可能性もなきにしもあらず、と解説した上で』、『「例え冬康が無辜であっても、自分の死後、義継の地盤が盤石になるためには、冬康を殺す必要があったのではないか』『と指摘している。長江正一は、長慶は義継の将来のためにも冬康の処遇について考慮しなければならなかったと指摘する』。『また、長慶はこの頃、重い病によって判断力が低下していたと考えられる』。『殺害後に冬康が無実であること知った長慶は相当に後悔したといわれている』。『その後、長慶は精神を病み(うつ病であったといわれる)、そのまま後を追うように』七『月に病死している』。『この晩年の長慶が鬱病に罹患したという観点から冬康謀殺を考察する見解もある。三好長慶の研究もしている介護士の諏訪雅信は、「鬱病の末期症状による被害妄想を原因とした殺害」「集団自殺・心中」という』二『つの見解を提示している』。『「被害妄想を原因とする殺害」は、長慶の病状が悪化するにつれ、兄弟の中で唯一の生存者となっており、人格者として慕われていた冬康に人々の人望が集まり、それが長慶には「冬康が家臣達を糾合して自分を殺そうとしている」ように映った、というものである』。『もう一つの「集団自殺・心中」説は、鬱病と自殺に強い因果関係があり、また鬱病による自殺は時々心中の形となって現れ、その犠牲になるのは多くは身内である、ということに着目した見解であり』、『三好家の惣領として、天下人として自分の無力さに絶望を感じた長慶が、冬康を道連れにして殺害し、自らも食を絶って餓死した、というものである』。但し、『提唱者である諏訪自身は、これら』二『つの見解は自分自身のこじつけによる解釈だと注意書きして』はいるという。『長江正一は、最終的に粛清という結末になってしまった結果も鑑み、長慶と冬康の関係・及び両者の地位は源頼朝と源範頼、足利尊氏と足利直義、豊臣秀吉と豊臣秀次のそれに似ていると指摘する』。また、『今谷明は、冬康が粛清される直前の三好政権末期における両者の関係を、悪い表現と前置きした上で、「文化大革命の末期における、毛沢東と周恩来のよう」と評した』。『天野忠幸は長江や今谷のように長慶と冬康の関係を他の歴史上の兄弟と直接比較はしていないが、織田信長の死後、織田信雄、織田信孝、織田秀信(三法師)、並びに彼らを後援する柴田勝家、豊臣秀吉らの間で内紛が起こった事例を例え、このような事態が起こることを防ぐ為に長慶は冬康を粛清したのではないか、という見解を出している』とある。『冬康は平素は穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮を繰り返し傲慢になっていた兄・長慶に対し鈴虫を贈り、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる(または鈴虫でさえ大事に育てれば長生きする)。まして人間はなおさらである」と無用な殺生を諌めたという逸話が残っている』。『『南海治乱記』には、「三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり」と記されている』。『冬康は和歌に優れ』、「安宅冬康句集」「冬康長慶宗養三吟何人百韻」「冬康独吟何路百韻」「冬康賦何船連歌百韻付考証」などの『数々の歌集を残し、「歌道の達者」の異名を持った』。『中でも代表的な歌は』、

 古へを記せる文の後もうしさらずばくだる世ともしらじを

『である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。歌の師は里村紹巴、宗養、長慶であ』った。『なお、細川幽斎は著書『耳底記』の中で、安宅冬康の歌を「ぐつとあちらへつきとほすやうな歌」と評している』とある。長々と引いた理由は、民を苦しめる大蛇を倒すも、部下の武将納地某ともども落命したとする、この英雄を、私はこの悲劇の歌人武将安宅冬康に比定したい欲求を抑えられないからであり、そうした彼をこうした悲劇のヒーローとして説話化して伝承することは、如何にも日本人好みであると思うたからである。但し、安宅冬康の別姓や通称に「船越」や「五郎左衛門」は見当たらない私の比定はとんでもない誤りかも知れぬ。大方の御叱正を俟つものである。【二〇二三年三月二十日追記:以上はやはり、私のトンデモ誤認で、知人からの指摘によって、モデルは冬康の旧家臣船越景直の祖先の誤認であることが判った。以下、当該ウィキによれば、船越景直(ふなこしかげなお 天文九(一五四〇)年~慶長(一六一一)年)は、『戦国時代から江戸時代初期の武将で江戸幕府の旗本。父は船越景綸。子に永景、北条氏盛室。通称は五郎右衛門。官途は左衛門尉』で、『船越氏は藤原氏の流れを汲んだ淡路の国人で、鎌倉時代より戦国時代まで三原郡倭文の庄田を中心に支配し、室町時代には細川氏の被官となって活動していた』。『景直は初め淡路庄田城主として、細川氏の重臣だった三好長慶の弟、安宅冬康に水軍を従えて仕えた。後に三好氏が滅んだことから織田信長に帰属し、天正』九(一五八一)年には淡路を攻めた羽柴秀吉から本領安堵を受ける。本能寺の変の後も秀吉の直臣として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣。後に淡路から播磨明石郡へと移され』、四千『石を受けて弓組と鉄砲組を率いた。その後も秀吉の家臣として小田原征伐や文禄の役にも従軍している』。『ところが、文禄』四(一五九五)年に『秀次事件に関わって』、『秀吉から勘気を蒙り、陸奥の南部信直に預けられる。秀吉の没後、徳川家康の求めから摂津や河内に所領をあてがわれて復し、関ヶ原の戦いには東軍に加わった。その功から大和宇智郡にも』千五百『石を加増され』、六千『あまりを知行する江戸幕府の旗本に列』した。『翌年には、家康に請われて堀尾吉晴や猪子一時、大島光義らと共に関ヶ原の戦いの話に興じている』。享年七十二と長生きしているから、本篇の主人公では、ない。また、『景直は茶人として知られ古田織部に師事し、慶長』一一(一六〇六)年に『皆伝を受けている。茶道具に用いられる織物、名物裂にある船越間道は景直』、或いは、『永景が用いたことに由来する』とある人物の先祖の誰かがモデルであると考えられる。教授を受けた知人に心から御礼申し上げるものである。】

「しとりの池」原典を確認すると「しどりの池」であるが、不詳。但し、淡路島は非常に多くの溜池があるから、未だ現存するかも知れない。識者の御教授を乞う。洲本城まで一里半の距離にある池で、その間に「あま」という地名がある。よろしく。

「よははりけれは」「呼ばはりければ」。

「雁俣(かりまた)」先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常の大きさのものでは、飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いるが、ここでは「大の」とあるから、不足はない。

「さかしまにかへるかとみへしか」鎌首を向こう側に仰向けにして、倒れるかと見えたが。

「大蛇、是を追(おひ)かけ、草木の上を走る音、疾(シツ)風のことし」この音響効果が上手い。

「のふ地」「納地(ノフチ)」不詳。但し、原典では大蛇が出現する直前に『納(をさ)氏(し)』と『加治(かぢ)氏』が駆けつたとあり、毒気に触れた部分でも『納(をさむ)も加治(かぢ)も毒氣に觸れ』て死んだとする。この納(或いは納地)・加治或いはそれに近い姓の人物は三好氏の有力家臣団の中に見出せない

「深祕錄」作者不詳の江戸初期に成立した戦国大名諸家に関する記述を集めた「諸家深秘録」か。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、以前に述べた通り、私のパソコンでは画像表示が異様にかかるので、探索は諦めた。悪しからず。

「船越三郎四郎」不詳。但し、検索をかけるうち、グーグルブックスの伊藤龍平の「ツチノコの民俗学 妖怪から未確認動物へ」ので、別に宝暦九(一七五九)年刊の河田正矩なる人物の著になる「金集談」に、まさにこの船越五郎衛門或いは船越三郎四郎(異伝の記載)による淡路での「しどり池」大蛇退治の話が載っていることを見出せた。守備範囲でない戦国期の注に少し疲れた。これにて失礼仕る。悪しからず。]

老媼茶話 宇治拾遺 海の恆世(相撲取海恒世の話)

 

     宇治拾遺 海の恆世

 

 後一條の御宇に、丹波の國にうみの恆世(ツネヨ)といふ角力取(すまひとり)の大力有。

 恆世か家の傍に大沼有り。岸に、大木古木、生しけり、木陰、いと冷(すず)しかりけり。

 ある夏、炎天、もゆるかことく、凌(しのぎ)かたかりしかは、恆世、かたひらはかりきて、あしたをはき、鐵棒をつき、小童壱人、めしつれ、件(くだん)のきし陰の大木に腰をかけ、扇ひらき、つかひ、暑(あつき)を凌き居たりけるに、俄(にはか)に、川水、みなきりて、泡立(あはだち)、きしの笆(ませがき)・あし・こも、ゆるきいて、大きなる蛇、水中より頭(かしら)をさしいたし、口をひらき、舌を出し、恆世をまもり居たるか、又、水に沈み、むかうのきしへ、およきわたり、松の大木を七重八重にまとひつき、尾斗(ばかり)、こなたゑさし越(こし)、きしに立(たち)たる恆世か足に、二重(ふたへ)三重に卷着(まきつき)ける。

 恆世、兼てより、「かく此蛇のはかる」とは知(しり)たりけれと、『何ほとのことかあらん』と思ひ、少(すこし)も、さわかす。

 蛇、力をいたし、しきりに強く引(ひく)。

 恆世も、

「きつ。」

と踏張(ふんばり)、

「引とられし。」

と、こらへける。

 蛇、あまりにつよく引しかは、胴中より、

「ふつつ。」

と引切(ひきき)れ、沼水、あけの血染(ちぞめ)となる。

 恆世、あしをからみたる蛇の尾を引ほとき、水にて洗ひけれとも、へびのからみたる跡、うせさりける。

「酒にてあらふものなり。」

と兼々聞置(きこき)けれは、酒を取よせ、能々(よくよく)あらひけれは、其跡、常のことく成(なり)にけり。

 きれたる蛇のきれ口の大きさを見るに、渡り壱尺斗(ばかり)あり。蛇のかしらの方は、猶、大木を、數返(すへん)、まとひいたりけるを、打殺しける。

 近きあたりの人々、より集り、

「大蛇の引たるはいか斗(ばかり)の力そ。ためし見るへし。」

とて、大勢、繩をつけ、拾人斗にて引(ひき)けれとも、

「猶、たらす。」

と云けり。次第に人を增し、六拾人斗にて引ける時、

「蛇の力、是程ならん。」

と云ける。これらを以(もつて)、恆世か力をはかるに、百人力には越(こえ)たるへし。

 此恆世、そのゝちの角力(すまひ)のせつ、陸奧の國の住人眞髮(マカミ)のなりむらと取(とり)ける時、頭(かしら)をつね世か胸につけ、つよく押(おし)たるを、恆世、引よせて、仰(ノケ)さまに、なけ付(つけ)たり。

 つね世、相撲には勝(かち)けれとも、大ちからに胸ををされ、むねの骨、をれくたけ、本國下るとて、はりまの國にて、むなしくなれり。

 

[やぶちゃん注:大蛇退治譚で前条と直連関。さて、問題は出典で三坂は表題で「宇治拾遺物語」とするのであるが、実はほぼ相同の話が先行する「今昔物語集」にあり、しかも三坂が主人公とする「恆世」は後者に明記されるものである(前者は「經賴(つねより)」で発音は似ていても、「恆世」と書き誤まる可能性は低い。或いは三坂が参考としたものは「今昔物語集」の話を誰かが合わせて纏めたものであったのかも知れぬ)。また、「宇治拾遺物語」をそのまま引いているわけでもない。そこで、まず、「今昔物語集」のものを示した上で、「宇治拾遺物語」版を提示しておく。

 「今昔物語集」のそれは、巻第二十三の「相撲人海恆世會蛇試力語第廿二」(相撲人(すまひびと)海恆世(あまのつねよ)、蛇(へみ)に會ひて地からを試む語(こと)第二十二)である。

   *

 今は昔、丹後の國に海の恆世と云ふ右[やぶちゃん注:右衛門府方に所属した相撲取り。宮中行事の相撲(すまい)の節会(せちえ)に従事した公務員である。]の相撲人(すまひびと)、有りけり。

 其の恆世が住みける家の傍らに舊河(ふるかは)有りけるが、深き淵にて有りける所に、夏の比(ころあひ)、恆世、其の舊河の汀(みぎは)近く、木景(こかげ)の有りけるに、帷(かたびら)[やぶちゃん注:裏を付けない(「袷(あわせ)の「片ひら」の意)衣服。単(ひとえ)物。]許りを着て、中(なか)結ひて[やぶちゃん注:裾が乱れぬように腰を帯や紐で結ぶことをいう。]、足駄(あしだ)を履きて、杈杖(またぶりづゑ)[やぶちゃん注:尖端が二つに分かれている杖。]と云ふ物を突きて、小童(こわらは)一人許りを共に具して、此彼(ここかしこ)冷(すず)み行(あり)きける次(つい)でに、其の淵の傍らの木の下(もと)に行きけり。

 淵靑く恐しげに、底も見へず。葦や薦(こも)など生(お)ひたりけるを見て、立てりけるに、淵の彼方の岸の、三丈[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]許りは去りたらむと見ゆるに、水のみなぎりて、此方樣(こなたざま)に來たりければ、恆世、

「何の爲(す)るにか有らむ。」

と思ひて見る程に、此方の汀近く成りて、大きなる蛇(へみ)の水より頭(かしら)を指し出でたりければ、恆世、此れを見て、

「此の蛇の頭の程を見るに、大きならんかし。此方樣に上(のぼ)らんずるにや有らん。」

と見立てりける程に、蛇の、顏を指し出でて、暫く、恆世を守りければ、恆世、

「我を此の蛇は何にか思ふにか。」[やぶちゃん注:「我らを、この蛇めは、どうしようと考えておるのか?」。]

と思ひて、汀、四、五尺許り去(の)きて、動かで立ちて見ければ、蛇、暫し許り、守り守りて、頭を水に引き入れてけり。

 其の後(のち)、彼方(あなた)の岸樣(きざま)に、水、みなぎると見る程に、亦、卽ち、此方樣に、水浪(みづなみ)、立ちて來たる。其の後、蛇の尾を水より指し上げて、恆世が立てる方樣に指し寄せける。

「此の蛇、思ふ樣(やう)の有るにこそ有りけれ。」

と思ひて、任せて見立てるに、蛇の尾を指し遣(おこ)せて、恆世が足を二返許り纏ひてけり。

「何(いか)にせむと爲るにか有らむ。」

と思ひ立てる程、纏ひ得て、

「きしきし。」

と引いければ、

「早う、我を河に引き入れむと爲るにこそ有りけれ。」

と思ふ。

 其の時に、踏み強(つよ)りて立てるに、

「極じく強く引く。」

と思へるに、履きたる足駄の齒、踏み折りつ。

「引倒されぬべし。」

と思へけるを、構へて踏み直りて立てるに、強く引くと云へば愚かなりや、引き取られぬべく思へけるを、力を發して足を強く踏み立てければ、固き土に五、六寸許り、足を踏入れて立てるに、

「吉(よ)く強く引くなりけり。」

と思ふ程に、繩などの切るる樣に、

「ふつ。」

と切るるままに、河の中に、血、浮び出づる樣に見へければ、

「早う切れぬるなり。」

と思ひて、足を引きければ、蛇の引かされて、陸(くむが)に上ぼりにけり。其の時に、足に纏ひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、其の蛇の卷きたりつる跡、失せざりけり。

 而る間、從者(じゆしや)共、數(あまた)來りけり。

「酒を以つて其の跡を洗ふ。」

と、人、云ひければ、忽ちに、酒、取りに遣りて、洗ひなどして後、從者共を以つて、其の蛇の尾の方を引き上げて見ければ、大きなりと云へば愚かなり、切口の大きさ、一尺許りは有らむとぞ見へける。頭(かしら)の方(かた)の切(きれ)を見せに[やぶちゃん注:見させるために]、河の彼方(かなた)に遣りたりければ、岸に大きなる木の根の有りけるに、蛇の頭を數(あまた)返り纏ひて、尾を指さ遣(おこ)せて、先づ、足を纏ひて引きけるなりけり。其れに[やぶちゃん注:逆接の接続詞。ところが。]、蛇の力の恆世に劣りて、中より切れにけるなり。我が身の切るるも知らず、引きけむ蛇の心は奇異(あさま)しき事なりかし。

 其の後、

「蛇の力の程、人何(いく)ら許りの力にか有けると試みむ。」

と思ひて、大きなる繩を以つて蛇の卷きたりける樣に恆世が足に付けて、人、十人許りを付けて引かせけれども、而(しかも)、

「彼(か)れ許りは無し。」

とて、三人寄せ、五人寄せなど付(つけ)つ引かせたれども、

「尚、足らず。」

「足らず。」

と云ひて、六十人許り、懸りて引けきる時になむ、

「此許(かばかり)ぞ、思へし。」

と恆世、云ひけり。

 此れを思ふに、恆世が力は、百人許りが力を持ちたりけるとなむ思ゆる。

 此れ、希有(けう)の事なり。昔は此(かか)る力(ちから)有る相撲人(すまひびと)も有りけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

 次に「宇治拾遺物語」のそれは、「經賴(つねより)、蛇に逢ふ事」である。

   *

むかし、經賴(つねより)といひける相撲(すまひ)の家の傍らに、古川(ふるかは)のありけるが、深き淵なる所ありけるに、夏、その川の近く、木陰のありければ、帷(かたびら)ばかりきて、中結ひて、足駄はきて、またふり杖といふ物つきて、小童(こわらは)一人(ひとり)供に具して、とかくありきけるが、

「涼まん。」

とて、その淵の傍らの木陰に居(ゐ)にけり。

 淵、靑く、恐ろしげにて、底も見えず。蘆・菰(こも)などいふ物、生ひ茂りけるをみて、汀(みぎは)近く立てりけるに、あなたの岸は、六、七段(たん)[やぶちゃん注:一段は六間であるから、六十六~七十六メートル強でとんでもない大河になってしまう。何かの間違いであろう。]斗りは、退(の)きたるらんとみゆるに、水のみなぎりて、こなたざまにきければ、

「何(なに)のするにかあらん。」

と思ふ程に、この方の汀近く成りて、蛇(くちなは)の頭(かしら)をさし出でたりければ、

「此蛇(くちなは)、大きならんかし。外(と)ざまにのぼらんとするにや。」

と見立てりける程に、蛇、頭をもたげて、つくづくとまもりけり。

「いかに思にかあらん。」

と思ひて、汀一尺ばかり退(の)きて、端(はた)近く立ちて見ければ、しばしばかりまもりまもりて、頭を引き入てけり。

 さて、あなたの岸ざまに、水、みなぎる、と見ける程に、又、こなたざまに、水波、立ちてのち、蛇の尾を汀よりさし上げて、わが立てる方ざまにさし寄せければ、

「此蛇、思ふやうのあるにこそ。」

とて、まかせて見立てりければ、猶、さし寄せて、經賴が足を三返り、四返りばかり、まとひけり。

「いかにせんずるにかあらん。」

と思ひて、立てる程に、まとひ得て、

「きしきし。」

と引きければ、

「川に引き入れんとするにこそありけれ。」

と、そのをりに知りて、踏み強(つよ)りて立てりければ、

「いみじう強く引く。」

と思ふ程に、はきたる足駄の齒を踏み折りつ。

 引き倒されぬべきを、かまへて踏み直りて立てれば、強く引くとも、おろかなり。引き取られぬべく覺ゆるを、足を強く踏み立てければ、かたつらに、五、六寸斗り、足を踏み入れて立てりけり。

「よく引くなり。」

と思ふ程に、繩などの切るるやうに切るるままに[やぶちゃん注:とともに。]、水中に血の、

「さ。」

と沸き出づるやうに見えければ、

「切れぬるなりけり。」

とて、足を引きければ、蛇(くちなは)、引きさして[やぶちゃん注:引くのを止めて。]、上ぼりけり。

 その時、足にまとひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、蛇の跡、失せざりければ、

「酒にてぞ洗ふ。」

と人の言ひければ、酒とりにやりて、洗ひなどして、後に從者(ずさ)ども呼びて、尾の方(かた)を引き上げさせたりければ、大きなりなどもおろかなり。切口の大きさ、徑(わたり)一尺ばかりあるらんとぞ見えける。頭(かしら)の方(かた)の切れを見せにやりければ、あなたの岸に大きなる木の根のありけるに、頭の方を、あまた返りまとひて、尾をさしおこして、足をまとひて引くなりけり。力の劣りて、中より切れにけるなんめり。我あ身の切るるをも知らず引きけん、あさましきことなりかし。

 其の後、

「蛇(くちなは)の力のほど、幾人(いくたり)ばかりの力にかありしと試みん。」

とて、大きなる繩を蛇の卷たる所に付けて、人、十人斗りして引かせけれども、

「猶、たらず。猶、たらず。」

と言ひて、六十人斗りかかりて引きける時にぞ、

「かばかりぞ覺えし。」

と言ひける。

 それを思ふに、經賴が力は、さは[やぶちゃん注:それならば。]、百人斗りが力を持ちたるにやと覺ゆるなり。

   *

これを見るに、三坂の叙述の最後の段落部分は「宇治拾遺物語」は勿論、「今昔物語集」にもないが、実はこれは「今昔物語集」の同話の三話後の「相撲人成村常世勝負語第廿五」(相撲人(すまひびと)成村、常世と勝負する語(こと)第廿五)を三坂が独自に圧縮して附したものである。後で当該原文を示す。

「後一條の御宇」長和五(一〇一六)年~長元九(一〇三六)年。上記の通り、こんな特定時間設定は原典にはない(以下の注で示す識者の考証によるモデル候補とはやや(あくまで「やや」である)合うとは言い得る)。根拠不詳で大いに不審。

「丹波の國」現在の京都府中部と兵庫県東部に跨る地方名。古くは「たには」と称した。「宇治拾遺物語」は主人公経頼の出身の記載はない。「今昔物語集」は「丹後」とする。現在の京都府北部に当たる。和銅六(七一三)年に丹波国から分国したものであり、丹波とは近隣ではあるものの、不審ではある。

「うみの恆世(ツネヨ)といふ角力取(すまひとり)」この人物と同一人物と思われる者が同巻の第二十五話(に出るのであるが、小学館の日本古典全集の「今昔物語集三」の頭注によれば、それらから、この「海の恆世」人物は丹後を生国とし、村上天皇の治世(天慶九(九四六)年~康保四(九六七)年)の末より相撲人として召され、十世紀末から十一世紀初めにかけて、右の最手(ほて:相撲節会で相撲人中の最高位。現在の横綱相当)となり、永観二(九八四)年に没した人物ということになる。当時の現実の相撲取りで「つねよ」と名乗った人物が「越智常世」(「常代」「経世」とも)と「公候常節」(「恒世」とも)が実在はしたが、姓・生国・没年とも一致しないので、モデルであったかも知れぬが、同定比定は無理である旨の記載がある。

「もゆるかことく」「燃ゆるが如く」。

「かたひらはかりきて」「帷子(かたびら)ばかり着て」。

「あしたをはき」「足駄を履き」。

「きし陰」大沼の「岸蔭」。

「みなきりて」「漲りて」。ぼこぼこと沸き上がるようになって。

「笆(ませがき)」「籬・籬垣(まがき)」に同じく、これらも「ませがき」と訓じ得る。目の粗い低い垣根で、通常は庭の植え込みの周りなどに設けるが、ここは沼の岸の柵か。

「ゆるきいて」「搖(動)るぎ出で」。

「さしいたし」「差し出だし」。

「まもり居たるか」凝っと見つめていたが。

「兼てより」先程来。

「かく此蛇のはかる」「かくして、この大蛇、我らを襲わんとするための謀り事をしているのだ。或いは」「襲うための間合いを測っているだ。」の謂いであろう。

「引とられし」「引き取られじ」。

と、こらへける。

 蛇、あまりにつよく引しかは、胴中より、

「ふつつ。」

と引切(ひきき)れ、沼水、あけの血染(ちぞめ)となる。

 恆世、あしをからみたる蛇の尾を引ほとき、水にて洗ひけれとも、へびのからみたる跡、うせさりける。

「酒にてあらふものなり。」

「渡り」「徑(わたり)」。直径。一尺だと、この蛇の胴回りは約九十五センチメートルにも達する。

「まとひいたりける」「い」はママ。

「此恆世、そのゝちの角力(すまひ)のせつ、陸奧の國の住人眞髮(マカミ)のなりむらと取(とり)ける時、頭をつね世か胸につけ、つよく押(おし)たるを、恆世、引よせて、仰(ノケ)さまに、なけ付(つけ)たり」「つね世、相撲には勝(かち)けれとも、大(だい)ちからに胸ををされ、むねの骨、をれくたけ、本國下るとて、はりまの國にて、むなしくなれり」先に述べた通り、三坂の附言。元は「今昔物語集」の「相撲人成村常世勝負語第廿五」(相撲人(すまひびと)成村、常世と勝負する語(こと)第廿五)である。やや長いが、当時の相撲の節会の様子や取組の前後の描写が実にリアルなので、全文を引いておく。□は欠字或いは予想される欠文。

   *

 今は昔、圓融院天皇の御代に、永觀(やうぐわん)二年[やぶちゃん注:九八四年。]と云ふ年の七月□日、堀川院にして相撲(すまひ)の節(せち)、有りける。

 而るに、拔手(ぬきで)ノ日(ひ)[やぶちゃん注:事前試合の勝者による選抜試合。]、左の最手(ほて)・眞髮(まかみ)の成村(なりむら)、右の最手・海(あま)の常世(つねよ)、此れを召し合はせらる。

 成村は常陸國の相撲なり。村上の御時より取り上ぼりて手(て)[やぶちゃん注:先の「最手」の略か。]に立ちたるなり。大きさ・力、敢へて並ぶ者無し。

 恆世は丹後の相撲なり。其れも村上の御時の末つ方より出で來たりて、取り上ぼりて最手に立ちたるなり。勢ひは成村には少し劣りたれども、取り手の極めたる上手にて有りけるなり。

 今日召し合はせらるれば、二人乍ら、心※(こころにく)くて[やぶちゃん注:「※」「」+「忄」+「惡」。互いに好敵手として一目置いていおり。]、久く成りたる者共なれば、勝負の間、誰(た)が爲にも極(いみ)じく糸惜(いとほし)かりぬべし[やぶちゃん注:結果的に孰れにとっても残念なものとなってしまうに違いない。]。況んや、成村は恆世よりは久く成りたる者なれば、若(も)し打たれむには極めて糸惜しかりぬべし。

 然(さ)て成村は六度まで障(さは)りを申す。

 恆世も障りをこそ申さねども、成村は、我よりは久しく成りにたる者なれば、忽ちに取らむ事も糸惜しく思へて、強ひて勝負せむとも思はずは、亦、力極めて強くて取り合ふとも輒(たやす)く打ち難し。

 然れば、成村、六度まで障りを申すとて、離るる度(たび)每(ごと)にぞ放ちける。

 七度と云ふ度、成村、泣々、障りを申すに、免(ゆる)されざれば、成村、嗔(いか)りて起つままに、只、寄せに寄せて取り合ひぬ。

 恆世は頸を懸けて、小脇をすけり。[やぶちゃん注:片手を常村の首に回し懸けて、一方の手で腰を差した。]

 成村は前俗衣(まへのたふさき)[やぶちゃん注:陰部を覆う布。]と喬(そば)の俗衣のかは[やぶちゃん注:現在の「まわし」の体側部。]とを取りて、恆世が胸を差して、只絡(ひたからみ)に絡めば[やぶちゃん注:ただがむしゃらに引きつけたので。]、恆世、密かに、

「物に狂ひ給ふか。此(こ)は何(い)かにし給ふぞ。」

と云へども、成村、聞きも入れずして、強く絡みて引き寄せて外懸けに懸くるを待ち、内がらみにからんで、引き覆ひて、仰樣(のけざま)に棄つれば、成村、仰樣に倒れぬ。

 其の上に、恆世は横樣になむ、倒れ懸りたりける。

 其の時に、此れを見る上中下(かみなかしも)の諸人(しよにん)、皆、色を失ひてなむ有りける。

 相撲の勝ちたるには、負くる方をば、手を扣(たた)きて咲(わら)ふ事、常の習ひなり。

 其れに[やぶちゃん注:逆接の接続詞。しかし。]、此れは事の大事なればにや有りけむ、密音(しのびね)も爲ずして、[やぶちゃん注:声も立てずに。]

「ひしひし。」[やぶちゃん注:ひそひそ。]

と云ひ合たりける。

 其の後、次の番の出づべきに、此の事を云ひ繚(あつか)はれける程に[やぶちゃん注:この勝負の判定に対していろいろな意見や論議がなされ、もめているうちに。]、日も漸く暮れにけり。

 成村は起きて走しり上がりて、相撲屋(すまひのや)に入るままに、狩衣袴(かりぎぬばかま)を打ち着て、卽ち、出でにけり。軈(やが)て其の内に下りにけり。[やぶちゃん注:即座に、その日のうちに国元の常陸へと下向してしまった。]

 恆世は、成村は起きぬれども、上がらずして臥せりければ、方(かた)の相撲長(すまひのをさ)[やぶちゃん注:相撲の節会の恆世の配されていた右方の世話役。]共、數(あまた)寄りて救ひ上げて、弓場殿(ゆばどの)[やぶちゃん注:相撲の節会は紫宸殿の前庭で興行されていたから、ここ紫宸殿の西にあった校書(きょうしょ)殿の北側東廂の先にあった弓射場を指す。]の方に將(ゐ)て行きて、殿上人の居たる□[やぶちゃん注:「を」か。]引き出だして、其(そ)が上になむ臥せたりける。

 其の時に、方(かた)の大將にて、大納言藤原淸時[やぶちゃん注:諸本では実在した藤原濟時の誤りとされる。]、階下(はしのした)[やぶちゃん注:紫宸殿の階下の座。]より下坐して、下襲(したがさね)[やぶちゃん注:束帯の内着(うちき)で、半臂(はんぴ)または袍(ほう)の下に着用する衣。裾を背後に長く引いて歩く。]、脱ぎて、被(かつ)げてけり。將(すけ)共[やぶちゃん注:参列していた近衛の中将や少将。]、寄りて、恆世に、

「成村は何(いか)が有つる。」

と問ひければ、只、

「手。」[やぶちゃん注:「良き最手(ほて)」の「手」であろう。]

と許り、答へてける。

 其れより相撲屋樣(ざま)に、相撲の長(をさ)共に救ひ上げられて、我れにも非らで有る者[やぶちゃん注:常世を指す。身体も動かせず、意識さえ朦朧としているから「我にもあらで」なのである。]を、押し立て、將(すけ)共、有る限り、物脱ぎてなむ被(かつ)げける。墓々(はかばか)しく衣(きぬ)だに□□□[やぶちゃん注:ろくに衣を着用することさえもとろくに出来ず、その後云々、といった欠文が想定される。]。

 播磨國にて死にけり。

 胸の骨を差し折られて死ける、とぞ異(こと)[やぶちゃん注:他(ほか)の。]相撲共は云ひける。

 成村は其の後、十餘年、生きたりけれども、

「恥見(はぢみ)つ。」

と云ひて、上ぼらざりける程に、敵(かたき)に罸(う)たれて死にけり。

 成村と云ふは、只今有る最手(ほて)、爲成(ためなり)が父なり。

 左右(さう)の最手、勝負する事、珍き事に非ず。常の事なり。而るに、天皇の其の年の八月(はづき)に位を去らせ給ひければ、「左右の最手、勝負しては忌(いむ)」と云ふ事を云ひ出でて、其より後には勝負する事、無し。此れ、心得ぬ事なり。更に其れに依るべからず。

 亦、正月十四日の踏歌(たふか)[やぶちゃん注:中国伝来の民間行事が日本固有の歌垣と結びついて形成された宮中行事。足で地を踏み鳴らしながら調子をとって祝歌を歌う集団歌舞。持統朝頃から記録があり、平安時代には年中行事化した。正月十四日に男踏歌(おとうか)、同十六日の女(め)踏歌に分かれて、踏歌節会(とうかのせちえ)となったが、ここに記したような風聞によって男踏歌の方は廃されてしまった。]、昔より每年(としごと)の事として行はるるを、大后(おほきさき)[やぶちゃん注:醍醐天皇の后、藤原穏子(仁和元(八八五)年~天暦八年一月四日(九五四年二月九日))。]の、正月(むつき)の四日(よか)、失せ給へれば、御忌日(おほむきにち)[やぶちゃん注:喪の期間の誤りか。]なるに依りて行はれぬを、怪しく人の心を得で、「踏歌は后の御爲に忌む事」と云ひ出でて、今は行はれぬなり。此れも心得ぬ事なりかし。

 尚、成村、恆世、勝負する事は有るまじかりける事也なりとぞ、世の人、謗(そし)り申しけるとなむ語り傳へたるとや。

   *]

老媼茶話 鬼九郎左衞門事(蛟を仕留める)

 

     鬼九郎左衞門事

 

 天文のころ、大内家の士に世良(せら)九郎左衞門といふ大力量の武士有(あり)。其頃、長門國わたり河といふ所に住す。

 その渕に大成渕といふ、ふち有。或とき、其渕、血になりて、水底(すいてい)に、うめく聲あり。

「何樣(なにさま)、大蛇なるへし。」

と人民、群集(ぐんじゆ)せり。世良、思へらく、

『吾、大力武勇の名を傳(つたへ)て、ふちの底なる聲をたゝさすは、人、嘲(あざけ)りも有るへし。』

とて、刀を拔(ぬき)て渕へ飛入けれは、大蛇、紅(くれなゐ)の舌を出(いだ)し呑(のま)んとす。

 九郎左衞門、二(ふた)太刀さして水上にうかみいで、息をつき、こしに綱を付(つけ)て、又、水裡(みづのうち)へ入、大蛇にゆひ付くがより、引揚(ひきあげ)見るに、五十間はかりの大蛇、手あし、四有、血をはく事、やます。

 仍(よつ)て、すたすたにきり、はらのうちをみれは、人を呑たりとみへて、白骨、少々殘り、にくは、なし。

 刀と脇差、有、刀、さやを拔(ぬけ)て、背中つき通り、脇さしも拔て、みつから、はらはたを突(つき)やふりて有けり。

 其刀は來國俊(らいくにとし)の名劍なり。

 則(すなはち)、大内よしたか公へたてまつりけれは、「大蛇國俊」と號せられ、重寶となる。

 世良にはろく給りて、

「蛇をとるものは鬼より外(ほか)有まし。」

とのたまひて、則、鬼九郎左衞門と受領せられけり。

 

[やぶちゃん注:前話の「釜渕川猿」とロケーションも近く、しかも戦った相手は淵の妖獣、その褒美に貰ったのも来派の名剣で、内容も強い親和性を持っている。これは確信犯で連関して並べていることが一目瞭然であり、三坂の連続性を期した編集方針が見てとれる。出典は不詳。識者の御教授を乞う。

「鬼九郎左衞門」「世良(せら)九郎左衞門」不詳。

「天文」一五三二年~一五五五年。但し、大内義弘(次注参照)の存命中であるから、天文年間であるなら、天文二十年九月一日(義弘没日)よりも以前となる。

「大内家」後に出る通り、室町時代末期の大名大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)。享禄元(一五二八)年父義興から家督を継ぎ。周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の七ヶ国の守護を兼任、少弐・大友・尼子氏らと戦って勢力を張り、天文五(一五三六)年には彼の献資によって後奈良天皇は即位式を上げ得た(その功によって大宰大弐に補任されている)。また対明・対鮮交易に努め、貿易の利を得る一方で、「一切経」「朱氏新註」などの書物や文化財を蒐集し、それらを大内版として開版した。京都の難を避けた公家・僧侶を保護・厚遇し、同十九、二十年には渡来したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許し、西洋文化の輸入に努めるなど、文化の発展にも大いに貢献した。しかし、家臣陶晴賢(すえはるかた)の反乱によって長門深川の大寧寺で自害すた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「長門國わたり河」「わたり河」は渡川で、現在の山口県阿武郡阿東町生雲東分と推定される(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここには大内氏の山城渡川城があった。

といふ所に住す。

「大成渕」「おほなりぶち」と訓じておく。

「たゝさすは」「糺さずば」。

「水裡(みづのうち)」私の推定訓読。

「ゆひ付くがより」「結ひ付くがより」。「より」は格助詞で「~するやいなや」の意。

「五十間はかり」約九十一メートルほど。蟒蛇(うわばみ)である。しかも手足四肢を備えているというのだから、龍の一種、蛟(みずち)と見える。

「すたすたにきり」「ずたずたに斬り」。

「はらのうちをみれは」腹の内を見れば」。

「にくは、なし」肉はすっかり消化されてなかった。

「みつから」自ら。ここは自発。

「はらはた」「腸(はらわた)」。

「來國俊(らいくにとし)」鎌倉末期の刀工。ウィキの「来派によれば、先行する作物に「國俊」と二字のみを彫る物があるが、別人と推定されている。始祖国行や二字「圀俊」の作物に比べ、細身の穏やかな作が多い。『来国俊以降、短刀の作を多く見る』。『刃文は直刃を主体とし』、『穏健な作風のものが多』い。『現存作は太刀、短刀ともに多く、薙刀や剣もある』。『正応から元亨』(一二八八~一三二四年)に至る在銘作があり、この間』、同名(「來國俊」)の二『代があるとする説もある。徳川美術館には「来孫太郎作」銘の太刀があるが、銘振りから「来孫太郎」は来国俊の通称とされている』とある。

「ろく」「祿」。

「受領」(武勇を讃えた名の)拝領。]

老媼茶話 釜渕川猿(荒源三郎元重、毛利元就の命に依り、川猿を素手にて成敗す)

 

    釜渕川猿

 

 毛利大江の元就の士、荒(あら)源三郎元重は藝州高田郡吉田に住す。

 天文三年八月、よし田の釜か渕より化生(けしやう)の者いてゝ、近邊の男女・わらんへを摑(つかみ)て渕へかけいり、民家・商家、門を閉(とぢ)て、よし田郡山の城下、往來、絶(たえ)たり。

 元就、是を聞(きき)たまひ、荒源三郎に下知し玉ふ。

 源三郎は本名井上にて、信濃源氏の末裔なり。其形容七尺に餘り、力量七拾人か力有(あり)、神道魔法を行へは、大蛇にても鬼神にてもたまるましと、萬民、雲霧のことくあつまり、見物、貴賤、市をなす。

 時に源三郎元重、はだかになり、下帶に、大(おほ)たち、十文字にさし、渕の淺みに立(たち)、大音(だいおん)にて訇(ののし)りける。

「いかに此渕の化生、慥(たしか)に聞。汝、人民を取喰(とりくらふ)。その科(とが)によつて、只今、殺害(せつがい)のため、荒源三郎、來りたり。出(いで)て勝負をせよ。」

と呼(よば)わりけれは、渕の底、とゝろき、逆浪(さかなみ)立(たつ)て、水、岸にあふれて流れ出(いで)て、元重か兩あしを水中より、

「ひし。」

と摑(つかみ)て引込(ひきこま)んとす。

 源三郎

「きつ。」

と見て、

「やさしや。」

と、足を取たる兩手を握りて、

「ゑい。」

と引(ひく)。

 化生、下へひく。

 互に引合(ひきあひ)、おとり出(いで)しか、化者(ばけもの)の力、百人力もあるへし、山のことくにして、うこかす。

 おもてを水中より差出したるをみれは、鬼にはあらす、渕猿也【俗に川太郎といふ者ならん。】。

 去(され)はこそ、『頭(かしら)、くほき處ありて、水あれは、力、つよく、水、なけれは、力、なし』と兼々聞(きき)およひけれは、頭を取(とら)んとするに、忽(たちまち)、すへりて取れすして押合(おしあひ)しか、終(つひ)に頭を摑て、さかしまになし、ふり𢌞しけれは、かしらの水、こほれて、渕猿、たちまち、力、おとろへけれは、提(さ)けて、岸にあかり、

「化物、取(とつ)たり。」

とよはわりけれは、見物の貴賤、

「取たりや、取たりや。」

と、一同におめき、暫く鳴りもしつまらす。

 かくて元重、件(くだん)のものを、なわにてしはり、提(さげ)て、城中へ歸り、

「釜か渕の化物、生(いけ)とり候。」

と訴(うつたへ)しかは、元なり、感悦し給ひて、

「誠に源三郎は大蛇鬼神にも增(まさ)りたり。」

とて、加恩五拾貫、來國行(らいくにゆき)の太刀を玉はりけれは、源三郎、請(うけ)すして、

「かゝる畜類をとり候得(さうらえ)はとて、御恩賞に預り候事、却(かへつ)て迷惑仕(つかまつ)るなり。」

とて打笑(うちわらひ)、たまはりける太刀かたな、御前に差置(さしおき)、我屋(わがや)にさしてかへりける。

 

[やぶちゃん注:「釜渕川猿」「渕」の字は底本が「淵」ではなく、敢えてこの字を用いている以上、原典がそうなっていると判断し、ママとした。さて、これは最早、これ以前の条々のように書名を指すものではないようである。実際、幾ら、ネット検索をしても、書名としての痕跡すら出てこない。さすれば、これは、所謂、妖怪伝承に於ける「釜渕」の「川猿」という通俗呼称を標題としたと考えてよく、出典を示さぬという点に於いて、それが純粋な語りの採録であったとしても、本条は、本「老媼茶話」に於ける記念すべき最初の三坂によるオリジナリティに富んだ怪奇談の濫觴であることを示すものと考えてよいであろう。「川猿」は、後の本文で「川太郎」と言い換えてあるように、「河童」と同義として用いている。形状を猿に似ていると捉えたもので、笹間良彦「図説 日本未確認動物事典」一九九四年興英文化社刊に拠れば、まさにこの安芸周辺の周防・伊予・土佐では河童をそのまま「えんこう(猿猴)」、伊予では縮めて「えんこ」とも呼んでいる。但し、伝承上は猿と河童は仲が悪いとすることが多いように思われるから、河童としては屈辱的な呼称ではあろうか

「毛利大江の元就」言わずもがな、安芸国の国人領主で後の戦国大名毛利元就(明応六(一四九七)年~元亀二(一五七一)年)。彼の本姓は大江氏で、毛利氏の家系はかの鎌倉幕府初期の公家フィクサー大江広元の四男毛利季光を祖とする血筋である。

「荒(あら)源三郎元重」「荒」は通称「源三郎」に冠した武将好みの「強さ」を示す「悪」や「鬼」などと同じ添え辞。この人物は毛利家家臣井上元重のことである。彼についての詳細は判らぬが、同じく毛利家家臣であった彼の兄の井上就澄(なりずみ ?~天文一九(一五五〇))のウィキによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『毛利氏の家臣で安芸井上氏当主である井上元兼の次男として生まれる。名前の「就」の字は毛利元就の偏諱とされる』。『安芸井上氏は元々は安芸国の国人であったが、就兼の祖父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後三十余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べており、安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は考えていた』。『天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏・小早川氏相続問題が概ね』、『解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断』、『毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め』、『大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた』。天文十九年『七月十二日、井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに安芸井上氏の粛清が始まり、翌七月十三日、兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された』。『就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が三百余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎、元有の弟の井上元重、元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち三十余名が粛清されることとなった』とあるからである(下線やぶちゃん)。本伝承で川猿を退治した荒源三郎元重がこの井上元重と同一人物であることは、例えば、ブログ「戦国緩緩~戦国武将の事をゆるゆると」の「河童と井上氏の顛末」に書かれてある。ある記事によると、柳田國男もこの伝承に言及しているともするが、今の所、見出せない。発見し次第、追記する。

「藝州高田郡吉田」かつての毛利元就の居城吉田郡山城の城下町として栄えた、旧広島県高田郡吉田町(よしだちょう)。現在の広島県安芸高田市吉田町吉田周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天文三年」一五三四年。

「よし田の釜か渕」位置は不詳だが、吉田と言っているから、中国地方最大の「江の川(ごうのかわ)」の城下町吉田周縁(南東から南西及び東北から南西)にあった同川の淵である(先のグーグル・マップ・データを参照されたい。広島県域では「可愛川(えのかわ)」とも呼ばれ、「中国太郎」の異名も持つ。

「わらんへ」「童」。

「かけいり」「驅け入り」。

「七尺に餘り」二メートル十二センチを有に越えていた。

「神道魔法を行へは」八百万の神に祈請した神力(しんりょく)や魔術の如き怪力を出してことに当たる時は。

「たまるまし」「堪(たま)るまじ」。堪えられまい。

「大(おほ)たち」「大太刀」。

「とゝろき」「轟き」。

「やさしや。」「弱っちいのう!」。

「おとり出(いで)しか」「躍り出でしが」。

「くほき」窪んだ。

「すへりて取れすして」「滑りて取れずして」。一般に河童に体表面は粘液で覆われており、滑り易いとする。

「おめき」「喚(おめ)き」。

「來國行(らいくにゆき)」生没年不詳の鎌倉中期の京の刀工。「来派」の事実上の祖であり、来太郎とも呼ばれる。来の由来は、最古の刀剣書「観智院本銘尽」によれば、先祖が高麗より移住したことから「雷」と称したとされる。現存する作品は太刀が多く、短刀も僅かにあるが、孰れも「國行」と二字に銘を彫(き)り、後の一門のように「來」の字を冠することはない。子の国俊に弘安元(一二七八)年銘の太刀があることから、その父の活躍年代がほぼ知られる。太刀は概して幅広で豪壮な風を持つ(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「請(うけ)すして」「請けずして」。

「太刀かたな」「たちがたな」。「來國行」銘の当該一振りを指す。

「我屋(わがや)にさして」「に」は「を」の意。「さして」は「指して」(方へと向かって)の意。]

2017/09/26

老媼茶話 太平記評判 平家物語琵琶法師傳

 

     太平記評判 平家物語琵琶法師傳

 

 あわちの國の住人、淡路の冠者よし久は六條判官爲よしの末子(ばつし)なり。平家の大將能登守教經のため、生(いけ)とられ、首を獄門にかけ晒(さら)さる。冠者よし久かおとゝに、讚岐蜜嚴(ミツゴン)寺の住侶(じゆうりよ)義專坊(ぎせんばう)といふもの、是をふかく憤(イキトヲ)り、白峯(しらミネ)の崇德(ストク)院の御廟にとちこもり、

「昔のあた、報わせ給はん。御方人(みかたびと)にくわゝりなん教經か首を、生前に見せさせ玉へ。」

と祈願しけるこそおそろしけれ。一向、斷食にて、一七日(ひとなぬか)、行ひまんする夜は壽永三年二月六日。其夜は身もかるく、心も空になり、飛上(とびあが)るへくなりにける時、讀(よめ)る。

  さこ神のさこねもやらす住(すみ)わたる天飛(あまとぶ)鳥の心地こそすれ

 御殿、鳴動(メイトウ)して、

  我もまた飛(とぶ)さにつれよさこ神の天の戸わたる世さわりをせん

と、あさやかに詠し給ふとひとしく、天(あま)の羽車(はぐるま)に乘(のり)て、崇德院とうちつれ奉り、一谷(いちのたに)に來り、軍(いくさ)の始終、見物して、火の手の上るを扇立(おほぎたつ)るとそ覺へける。

 案のことく、教經、六日の夜より、氣、違ひ、物くるわしく、氣、相替(あひかは)り、軍(いくさ)の下知をもしたまわす、鎧、ぬきすて、小袖・はら卷きに長刀(なぎなた)引(ひつ)さけ、さまさまのたわことを言(いひ)て、

「是は、天狗酒宴の舞の手の第壱、旋風樂(せんぷうらく)といふもの。」

と一さしかなてらるゝありさま、つねならす。まして敵ふせくへき心、ましまさす。

 七日の辰の下刻に、北の陣屋より、火焰、覆ひかゝるかと思へは、戌亥(いぬゐ)の風、吹出(ふきいだ)し、強く焰(ほのほ)をうつまき、なりとよむ聲、夥(おびただ)し。諸軍勢、亂立(みだれたち)て、濱手濱手へ、かけ出(いづ)る。其紛れに、のりつねは、ゆくへなく、なり給ふ。

 爰に、能登守殿の郎等(らうどう)に讚岐の六郎經時も西をさして落行(おちゆき)しに、大藏(おほくら)か谷(たに)の邊りに唐綾(からあや)の鉢卷したる男、長刀、持(もち)なから、倒れふせり。みれは、能登守殿の御死骸(おんしがい)、疵(きず)もつかす、いまた、あたゝかなり。引立(ひつたて)んとするに、大男なれは、力、およはす、跡を歸り見るに、源氏の大勢、つゝきたり。是非なく、打捨て、あかしのかたへ落延(おちのび)たり。能登守殿の死首をは、安田遠江守よし定の家の子、田原の源吾といふ者、とりて、首帳(くびちやう)にしるし、都にのほせ、七條河原に獄門にかけさらせり、とあり。下(しも)、略之(これをりやくす)。

[やぶちゃん注:「太平記評判」江戸時代に広まった「太平記」の注釈書「太平記評判秘伝理尽鈔」のことか? ウィキの「太平記評判秘伝理尽鈔」によれば、これは『近世初期に日蓮宗の僧侶、大運院陽翁がまとめたものとみられるもので、「太平記」本文に沿って奥義を伝授する体にしたもので、「伝」(本文にない異伝)と「評」(軍学・治世などの面から本文を論評した部分)から成るとある。原書に当たることが出来ないので不詳しておく。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、私のパソコンでは表示に驚くほど時間がかかり、しかも当該画像本には目録もないため、諦めた。同書に「平家物語琵琶法師傳」なる条があるかないかだけでもお教え願えると助かる。さすれば、ただの「不祥」のみに留められるからである。にしても、略があって、どうしてこれが「平家物語琵琶法師傳」なのか、全く分らぬというのは、消化に頗る悪いぞ!

「淡路の冠者よし久は六條判官爲よしの末子(ばつし)なり」「平家物語」の流布本(ここでは高橋貞一校注講談社文庫版(昭和四七(一九七二)年刊)を用いたが、恣意的に漢字を正字化した)の「六箇度合戰」の冒頭に、

   *

さる程に平家福原へ渡り給ひて後は、四國の者ども一向隨ひ奉らず。中にも阿波讚岐の在廳等(ら)、皆平家を背いて、源に心を通はしけるが、さすが昨日今日まで、平家に隨ひ奉る身の、今日始めて源氏の方へ參りたりとも、よも用ひ給はじ。平家に矢一つ射懸け奉つて、それを表にして參らんとて、門脇(かどわきの)平中納言教盛、越前三位通盛、能登守教經父子三人、備前國下津井にましますと聞いて、兵船(ひやうせん)十餘艘でぞ寄せたりける。能登殿、大きに怒つて、「昨日今日まで、われらが馬の草(くさ)剪(きつ)たる奴ばらが、いつしか契りを變ずるにこそあんなれ。その儀ならば、一人(いちにん)も洩らさず討てや」とて、小船ども押浮べしに追はれにければ、四國の者ども、人目計りに矢一つ射て、退(の)かんとこそ思ひしに、能登殿に餘りに手痛う攻られ奉つて、叶はじとや思ひけん、遠負(とほま)けにして引退(ひきしりぞ)き、淡路國福良(ふくら)の泊(とまり)に著きにけり。その國に源氏二人(ににん)ありと聞こえけり。故六條判官爲義が末子(ばつし)、賀茂冠者(かものくわんじや)義嗣(よしつぎ)、淡路(あはぢの)冠者義久(よしひさ)と聞えしを、大將に賴(たの)うで、城郭を構へて待つ處に、能登殿押寄せて散々に攻め給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負うて、虜(いけどり)にこそせられけれ

   *

と名が出る(下線はやぶちゃん)。「新潮日本古典集成」の水原一校注の「平家物語」の同条には、この「賀茂冠者」と「淡路冠者」についての特別注がある。長いが、概ね全文を引用させて戴く。傍点は太字に代えた。

   《引用開始》

 六条判官為義は保元の乱で処刑されたが、生前源氏の天下を夢みつつ血縁を諸国に派遣していた[やぶちゃん注:中略。]。賀茂の冠者・淡路の冠者は、再起した平家のために攻め滅ぼされはしたが、そうした為義の布石の一角だったと言える。しかしその系譜の位置づけには、系図や平家諸本の間でまちまちで、明確には説明しがたい。賀茂の冠者は名を諸本で義継・末秀・為清(底本は淡路の冠者が為清)等種々に伝える。広本系及び南都本は為義五男掃部助(かもんのすけ)頼仲(保元の乱後処刑)の子で掃部冠者とし、中院本等には為義末子とする。「清和源氏系図」(続群書類従)には為義末子に「義次〈賀茂冠者、義久ジクㇾ誅〉」とあるが、『尊卑分脈』には、賀茂冠者は見えず、為義第七子に「為義(母賀茂成宗女)」とあるのが注意される。淡路の冠者は諸本により「義久・為信」ともある。広本系に為義四男四郎左衛門尉頼賢の子とし、南都本は掃部冠者と同じく頼仲の子とする。中院本に賀茂冠者と同じく為義末子とする。「清和源氏系図」に「義久〈淡路冠者、於熊野被ㇾ誅畢ヲハンヌ〉」とあり、『尊卑分脈』に為義第十一子に「為家(淡路冠者、猶子)」とある。混乱して定めがたいが、源氏沈淪(ちんりん)の世にひそかに生き永らえ、時節の到来にも日の目を見ることもなくつかの間に滅びた、いわば歴史の捨石であるために、系譜も謎(なぞ)に覆われたのであろう。

   《引用終了》

とあり、粉飾とも思われない節もある。事実、為義には子が多かった。

「能登守教經」清盛の異母弟平教盛の次男で、私の好きな猛将平教経(永暦元(一一六〇)年~寿永三(一一八四)年二月七日或いは元暦二(一一八五)年三月二十四日)は実は最期が明らかでない。「吾妻鏡」では一ノ谷の戦いで甲斐源氏の一族安田義定の軍に討ち取られて京都で獄門になったと記し、本条はこれを採用した内容となっている。「吾妻鏡」の壽永三年二月七日の条の最後に(以下、太字はやぶちゃん)、

   *

七日丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。著于一谷後山【號鵯越】。[やぶちゃん注:中略]其外薩摩守忠度朝臣。若狹守經俊。武藏守知章。大夫敦盛。業盛。越中前司盛俊。以上七人者。範賴。義經等之軍中所討取也。但馬前司經正。能登守教經。備中守師盛者。遠江守義定獲之云々。

   *

七日丙寅(ひのえとら)。雪、降る。寅の尅[やぶちゃん注:午前四時頃。]、源九郎主(ぬし)、先づ殊(しゆ)なる勇士七十餘騎を引き分かちて、一の谷の後ろの山【鵯越(ひよどりごえ)と號す。】に著く。[やぶちゃん注:中略。]其の外、薩摩守忠度朝臣・若狭守經俊・武藏守知章・大夫敦盛・大夫業盛・越中前司盛俊、以上七人は、範賴・義經等の軍中、討ち取る所也。但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は、遠江守義定、之れを獲ると云々。

   *

続く、六日後の二月十三日の条。

   *

十三日壬申。平氏首聚于源九郎主六條室町亭。所謂通盛卿。忠度。經正。教經。敦盛。師盛。知章。經俊。業盛。盛俊等首也。然後。皆持向八條河原。大夫判官仲賴以下請取之。各付于長鎗刀。又付赤簡【平某之由。各注付之。】。向獄門懸樹。觀者成市云々。

   *

十三日壬申(みづのえさる)。平氏の首を源九郎主の六條室町亭に聚(あつ)む。所謂、通盛卿・忠度・經正・教經・敦盛・師盛・知章・經俊・業盛・盛俊等の首なり。然る後、皆、八條河原に持ち向ふ。大夫判官仲賴以下、之れを請け取り、各々、長鎗刀に付け、又、赤簡(あかふだ)【平某(たいらのなにがし)の由、各々、之れを注し付く。】を付け、獄門に向ひて樹に懸く。觀る者、市を成すと云々。

   *

しかし、一方で、「玉葉」や「醍醐雑事記」などの別な一次史料では一ノ谷で生き残ったとする記載もあり、中には平家滅亡後に落人として現在の徳島県祖谷(いや)に落ち延び、そこを開拓したとする伝承さえもある。しかしやはり私は「平家物語」の、かの壇ノ浦の戦いで、大童となって凄絶な最後を遂げる彼にひどく惹かれる。思い出を恍惚に繋げて、私の記憶の私だけの「平家物語」(これは私の中だけのリズムの詞章であり、どこかのデータをコピー・ペーストしたものではない。実はどの伝本にも忠実でないものである)のシークエンスを綴ってみたい。

   *

 凡そ、能登殿の矢先に𢌞る者こそなかりけれ。教經は、今日を最期とや思はれけん、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からやおど)しの鎧着て、鍬形打つたる甲(かぶと)の緒を締め、嚴物(いかもの)作りの大太刀佩き、二十四差(さ)いたる切斑(きりふ)の矢負ひ、滋藤(しげどう)の弓持つて、差しつめ引きつめ、散々に射給へば、者ども多く手負ひ射殺さる。矢種皆盡きれば、黑漆の大太刀、白柄の大長刀(おほなぎなた)、左右に持つて、散々に薙(な)いで𢌞り給ふに面を合する者ぞなき、多の者ども討たれにけり。

 新中納言、使者を立てて、

「能登殿、いたう罪な作り給ひそ。さりとてよき敵か。」

との給ひければ、

「さては大將軍に組めごさんなれ。」

と心得て、打ち物、莖短(くきみじか)に取つて、源氏の船に乘り移り乘り移り、をめき叫んで攻め戰ふ。

 判官を見知り給はねば、物の具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ𢌞る。

 判官も先に心得て、表に立つやうにはしけれども、とかう違へて、能登殿には組まれず。

 されどもいかがしたりけん、判官の船に乘り當たり、

「あはや。」

と目を懸けて、飛んでかかる。

 判官、かなはじ、とや思はれけん、長刀、脇にかい挾(はさ)み、味方の船の二丈ばかり退(の)きたりけるに、ゆらりと飛び乘り給ひぬ。

 能登殿は、早業や劣られたりけん、やがて續いても飛び給はず。

 今はかうとや思はれけん、太刀・長刀、海へ投げ入れ、甲も脱いで、捨てられけり。鎧の草摺(くさずり)かなぐり捨て、胴ばかり着て、大童になり、大手(おほて)を廣げて立たれたり。

 およそあたりを拂つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。

 能登殿、大音聲(だいおんじやう)をあげて、

「われと思はん者は、寄つて教經に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下り、兵衞佐(ひやうゑのすけ)に會うて、もの一言(ひとこと)謂はんと思ふぞ。寄れや、寄れ。」

とのたまへども、寄る者一人も、なかりけり。

 ここに、土佐國の住人安藝郷を知行しける安藝大領實康(あきのだいりやうさねやす)が子に安藝太郎實光とて、三十人が力持つたる大力(だいぢから)の剛(かう)の者あり。われにちつとも劣らぬ郎等(らうどう)一人(いちにん)、弟(おとと)の次郎も普通には勝れたるし兵(つはもの)なり。安藝太郎、能登殿を見奉つて申しけるは、

「いかに猛(かけ)うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひ、長(たけ)十丈の鬼なりとも、などか從へざるべき。」

とて、主從三人小舟に乘つて、能登殿の船に押し雙(なら)べ、

「えい。」

と言ひて乘り移り、甲の錣(しころ)を傾け、太刀を拔いて、一面に打つて懸かる。

 能登殿、ちつとも騷ぎ給はず、まづ先に進んだる安藝太郎が郎等を、裾を合はせて、海へ、どうど、蹴入(けい)れ給ふ。

 續いて寄る安藝太郎を、弓手(ゆんで)の脇に取つて挾み、弟の次郎をば、馬手(めて)の脇に搔い挾み、ひと締め、締めて、

「いざ、うれ、さらば、おのれら、死出の山の供せよ。」

とて、生年(しやうねん)二十六にて、海へ、つつ、とぞ入り給ふ。

   *

 

「讚岐蜜嚴(ミツゴン)寺」現在の徳島県徳島市不動本町にある真言宗降魔山蜜厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。大宝年間(七〇一年~七〇四年)に行基が不動の尊像を刻んで、この地に安置したのを創建と伝える。

「義專坊」不詳。

「白峯(しらミネ)の崇德(ストク)院の御廟」崇徳院が荼毘にふされた、現在の香川県坂出市青海町にある真言宗綾松山白峯寺(しろみねじ)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在、崇徳天皇白峯陵が直近にある。

「あた」「讎」。

「報わせ」「わ」はママ。

「一向」副詞で「ひたすらに・一途に」。

「行ひまんする夜」「行ひ」の「滿ずる夜」。断食修法七日七夜の満願の当夜。

「壽永三年二月六日」「吾妻鏡」で「一ノ谷の戦い」で討死したとする寿永三(一一八四)年二月七日の前日の夜。

「飛上(とびあが)るへくなにける時に」「へく」は「べく」。飛び上れるような気持ちになれた、その時に。

「讀(よめ)る」「詠める」。

「さこ神のさこねもやらす住(すみ)わたる天飛(あまとぶ)鳥の心地こそすれ」類型歌を私は知らない。一・二句目が不詳。「さこ神」「さこね」が判らぬ。「さこ」は「谷」「迫」で「山の尾根と尾根の間の小さな谷」か? だとすれば、「さこね」は「谷の根」となる。奥深い山の谷の精霊(すだま)たる谷神(こくしん:老子の謂う、「玄牝(げんぴん)」、宇宙全体の創造神であると同時に完全な破壊を齎す神、所謂、「原母」、ユングの謂う、全的創造神であると同時に全的破壊たるところの「グレート・マザー」か?)の謂いか? それに「雑魚寝もやらず」(何も成すこと出来ずにいい加減に無為に雌伏していることから解放されて)の謂いか? 識者の御教授を乞う。それで整序するなら、

 迫神(さこがみ)の雜寢もやらずすみ渡る天(あま)飛ぶ鳥の心地こそすれ

で、

――復讐を遂げるために、天馬空を飛ぶが如くに自由自在に空を駈けわたれるような気持ちが、今、身に満ち満ちている気がする!――

ということか?

「我もまた飛(とぶ)さにつれよさこ神の天の戸わたる世さわりをせん」やはり、類型歌を私は知らない。しかし、前注のように解釈すると、崇徳院の怨霊が答えた歌のように、響いてはくる。整序すると、「飛ぶさ」の「さ」は接尾語で、名詞に付いて「方向」を表す名詞を作るもの、「さわる」を「障る」と採れば、

 我れもまた飛ぶさに連れよさこ神の天(あま)の戸(と)亙る世障(さは)りをせん

となって、

――我れ(御霊(ごりょう)のチャンピオンたる崇徳院の怨霊)もまた、一緒にそなたの飛ばんとする彼方(恨み骨髄の平教経のいる一の谷の方)へともに連れて行け! あらゆるこの世の創造と破壊を司る「さこ神」として、その封印たる「天の戸」を完全に開き切って、このおぞましき憎き世に大いなる致命的な「障り」(大厄災・カタストロフ)を起してやろうぞ!――

という呪詛歌であろうか? 大方の御叱正を乞う。

「あさやかに」「鮮やかに」。

「詠し」「えいじ」。

「天(あま)の羽車(はぐるま)」天(あま)驅ける翅の生えた車。

「扇立(おほぎたつ)る」扇を開いてやんややんやと讃賞する気持ちであろう。

「物くるわしく」「わ」はママ。

「氣、相替(あひかは)り」態度が異様に変じて。

「さまさまのたわこと」「樣々の譫語(たはごと)」。

「天狗」よく知られたことであるが、ウィキの「崇徳院の記載を使用させて貰うと、崇徳院は(「保元物語」に拠る)配流された讃岐国での軟禁生活の中、極楽往生を願って五部大乗経(「法華経」・「華厳経」・「涅槃経」・「大集経」・「大品般若経」)の写本作り、権力抗争のために戦死した者らへの供養にと、それを京の寺院に収めて貰うことを朝廷に求めたが、後白河院はそれに呪詛が込められているのではと疑って拒否し、写本を送り返してしまった。これに激怒した崇徳院は、舌を噛み切ってその血を以って『写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と』『書き込み、爪や髪を伸ばし続け』、『夜叉のような姿になり、後に生きながら』にして天狗になった『とされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また』、『崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めてるのにも関わらず』、『血が溢れてきたと言う』辺りと、よく一致するように描かれている。本書よりも後の作であるが、上田秋成の私の好きな「雨月物語」冒頭の、復讐の鬼となった崇徳院を諫める西行の面前で院が烏天狗と語る「白峯」を持ち出すまでもなかろう。

「旋風樂(せんぷうらく)」不詳。

「かなてらるゝありさま」「奏でらるる有樣」。

「つねならす」「常ならず」。

「敵ふせくへき心」「敵防ぐべき心(構へ)」。

「ましまさす」「御座(ましま)さず」。

「辰の下刻」現在の午前八時二十分頃から午前九時頃まで。

「戌亥(いぬゐ)」北西。

「うつまき」「渦卷き」。

「なりとよむ」「鳴り響(とよ)む」。

「讚岐の六郎經時」島津久基の「義経伝説と文学」()によれば、彼は教経の替え玉となったとする説が、「鎌倉実記」(巻一三)や後の浄瑠璃「義経千本桜」「弓勢智勇湊」(ゆんぜいちゆうのみなと:福内鬼外(平賀源内)の変名)等に出るとする(但し、「弓勢智勇湊」では「七郎義範」と変名されてあるとある)。

「大藏(おほくら)か谷(たに)」現在の兵庫県明石市大蔵。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「つゝきたり」「續きたり」。

「安田遠江守よし定」安田義定(長承三(一一三四)年~建久五(一一九四)年)は甲斐源氏武田義清の子。頼朝の挙兵に甲斐で呼応し、「富士川の戦い」の功で遠江守護となった。源義仲の追討やこの一ノ谷の戦いなどで活躍したが、後に謀反の疑いで殺された。先の「吾妻鏡」の引用を参照されたい。

「田原の源吾」不詳。

「首帳(くびちやう)」「しるしちやう」とも訓じた。戦場で討ち取った敵の首及びそれを討ち取った者の氏名を記した帳簿。「首目録」「首注文」とも称した。

「下(しも)」以下。]

老媼茶話 保曆間記(源頼朝の幻視と死)

 

     保曆間記

 

[やぶちゃん注:これより、和書の移行する。本書の怪奇談集の真骨頂へのプレ部分である。]

 

 建久九年の冬、右大將殿、相模川橋供養にいてゝ歸り給ひけるに、八的(やまと)か原といふ所にて、亡(ほろぼ)されし源氏、よし廣・義つね・行家以下の人々あらはれて、より朝に目を見合(みあはせ)たり。是をは、打捨過(うちすてすぎ)玉ひけるか、いなむらが崎の海上に、十歳はかりなる童子のあらわれて、

「汝を、此程、隨分と、うらなひつるに、今こそ見付(みつけ)たれ。我を誰(たれ)とか見つる。西海に沈(しづみ)し安德天皇なり。」

とて失(うせ)玉ひぬ。

 其後(そののち)、かまくらに入(いり)玉ひて、則(すなはち)、病(やみ)つき給ひけり。

 次のとし、正月十三日に、うせ玉ふと云々。

 

[やぶちゃん注:「保曆間記」(ほうりゃくかんき)は南北朝期に成立した歴史書。作者不明ながら、足利方の武士と推定されている。成立は延文元(一三五六)年以前。ウィキの「保暦間記」によれば、保元元(一一五六)年の保元の乱に始まって、暦応二(一三三九)年の『後醍醐天皇崩御までを記述し、この「保元から暦応まで」が書名の由来となっている』。不完全な「吾妻鏡」の記載が終わっている文永三(一二六六)年『以降の鎌倉時代に起こった事件の概要を研究するうえで貴重な史料であり、「和田合戦」、「承久の乱」、「宝治合戦」、「二月騒動」、「霜月騒動」など、現在使用されている鎌倉時代の事件名称の多くは本書の記述に由来する』。特に「右大將」『源頼朝の死について』、ここに出るように、『相模川橋』(現在は神奈川県茅ヶ崎市下町屋にある「旧相模川橋脚」((グーグル・マップ・データ))がその橋の跡とされるが、ここにあった橋であったかどうかは定かではない)『供養の帰路、八的ヶ原(現在の辻堂および茅ヶ崎の広域名)で源義経らの亡霊を、稲村ヶ崎海上に安徳天皇の亡霊を見て、鎌倉で気を失い病に倒れたと記しているが、実際の死因については諸説ある』(下線はやぶちゃん)ことは言うまでもないが、その実際の死因及びここに出るような亡霊群の幻視症状については、「北條九代記 右大將賴朝卿薨去」の私の注を参照されたい。私は、同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので(左上の真ん中辺りから)で視認出来る。

「建久九年」一一九八年。この前後の「吾妻鏡」は存在せず、十四年も経った第三代将軍実朝「巻二十」の建暦二(一二一二)年二月二十八日の条に頼朝急逝の記事は出現する。

   *

二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋數ケ間朽損。可被加修理之由。義村申之。如相州。廣元朝臣。善信有群議。去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結緣之。故 將軍家渡御。及還路有御落馬。不經幾程薨給畢。重成法師又逢殃。旁非吉事。今更強雖不有再興。何事之有哉之趣一同之旨。申御前之處。仰云。故將軍家薨御者。執武家權柄二十年。令極官位給後御事也。重成法師者。依己之不義。蒙天譴歟。全非橋建立之過。此上一切不可稱不吉。有彼橋。爲二所御參詣要路。無民庶往反之煩。其利非一。不顚倒以前。早可加修復之旨。被仰出云々。

   *

二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋、數ケ間(すうかけん)、朽ち損ず。修理を加へらるべの由、義村、之れを申す。相州、廣元朝臣、善信(ぜんしん)のごとき、群議、有り。

去る建久九年、重成法師[やぶちゃん注:稲毛重成。]、之れを新造す。供養を遂ぐるの日、之れと結緣(けちえん)の爲に、故將軍家、渡御す。還路に及びて、御落馬有りて、幾程(いくほど)を經ずして薨(こう)じ給ひ畢(おは)んぬ。

 重成法師、又、殃(わざはひ)に逢ふ。旁(かたがた)、吉事に非にあらず。

 今更、強(あなが)ちに再興有らずと雖も、

「何事か、之れ、有らんや。」

の趣き、一同するの旨(むね)、御前[やぶちゃん注:源実朝。]に申すの處、仰せて云はく、

「故將軍家、薨御は、武家の權柄(けんぺい)を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり。重成法師は、己(おの)が不義に依つて、天譴(てんけん)を蒙むるか。全く橋建立の過(とが)に非ず。此の上は、一切(いつさい)、不吉と稱すべからず。彼(か)の橋有ること、二所御參詣の要路たり。民庶、往反(わうばん)の煩ひ無し。其の利、一(いつ)に非ず。顚倒(てんたう)せざる以前に、早く修復を加ふべし。」

の旨、仰せ出さると云々。

   *

「義村」は三浦義村。彼は三浦介で、同職は相模国の実務支配の立場にあったことから上申したものと思われる。「相州」は執権北條義時。「廣元朝臣」は大江(正確にはこの時はまだ中原姓)広元。この時は一時的に政所別当を退いていたが、事実上の最高権力者の一人であった(建保四(一二一六)年に大江姓の勅許を受け、同年には政所別当に復職した)。「善信」問注所執事三善康信の法号。稲毛重成(?~元久二(一二〇五)年)は桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり))を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。建久九(一一九八)年に重成は亡き妻のために相模川に橋を架けたが、ここにある通り、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬、それが元で死去している。その後、元久二(一二〇五)年六月二十二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したと指弾されて(これが実朝が言っている「己が不義」である)、翌二十三日には早々に殺害されている。なお、同日、彼の親族らを討ったのは、まさにここに出る三浦義村であった(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。私の北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡も参照されたい。「結緣」は法要の功徳を共有することを指す。

「よし廣」源義広(?~元暦元(一一八四)年)。源為義三男で頼朝の父義朝の弟。志田三郎先生(しださぶろうせんじょう)の名でも知られる。平家の天下の時期の動静はあまりよく判っていない。甥頼朝の挙兵直後に頼朝と対面しているが、合流はしなかった。逆に寿永二(一一八三)年二月に鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことに反発、下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合して、二万の兵を集めて頼朝討滅を掲げ、常陸国から下野国へと進軍した。しかし、鎌倉攻撃の動きは頼朝方に捕捉され、下野国で頼朝軍に迎え撃たれる形となり、結果的に本拠地を失った(野木宮合戦)。その後、同母の次兄義賢(よしかた)の子であった信濃の木曾義仲の軍に参加し、義仲とともに北陸道を進んで入洛、入京後に信濃守に任官された。元暦元(一一八四)年正月の「宇治川の戦い」で源義経軍との戦いで防戦に加わったものの、「粟津の戦い」で義仲が討ち死にし、敗走、義広もまた逆賊として追われた。同年五月四日、伊勢国羽取山(現在の三重県鈴鹿市の服部山)に籠って抵抗を試みたが、幕府の追討軍との合戦の末、斬首された(以上はウィキの「源義広志田三郎先生に拠った)。

「義つね」源義経。

「行家」源行家(永治元(一一四一)年から康治二(一一四三年)頃~文治二(一一八六)年)。源為義十男。前の義広の末弟。初名は義盛。保元の乱で父が殺された後は熊野に潜んでいたが、治承四(一一八〇)年に源頼政の召に応じて名を行家と改め、以仁王の挙兵に伴って諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した人物として知られる。養和元(一一八一)年、美濃に拠って、平重衡らと墨俣川で戦って敗れ、鎌倉の源頼朝を頼って所領を求めたが、拒まれたため、兄義広とともに源義仲と結んだ。入洛後、従五位下備前守となったが、後に義仲と対立して紀伊に退いた。平氏滅亡後は頼朝と対立した義経に協力して頼朝追討の院宣を得、さらに四国の地頭に補せられたものの、結局、頼朝に追われ、和泉に隠れ住んでいたところを捕われて殺された(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「是をは」「これをば」。

「いなむらが崎」「稻村ヶ崎」。

「うらなひつるに」「占ひつるに」であるが、どうもピンとこない。先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を見るに「うらみつるに」(恨みうつるに)とある。その意で採る。

「次のとし、正月十三日に、うせ玉ふ」建久十年一月十三日。ユリウス暦一一九九年二月九日。享年五十三、満五十一歳であった。]

老媼茶話 群居解頤曰(嶺南の茄子の大樹)

 

     群居解頤曰

 

 嶺南は、地、暖(あたたか)にして、草菜(さうさい)、冬をへても、おとろへす。かるか故に、蔬圃(ソホ)のうちに、茄子をうゆるもの、ふる根、二、三年のものは、漸々(やうやう)にして枝幹(シカン)を長(ちよう)して、大樹となる。なつ、秋、熟しぬるとき、樹にかけはしして、是を、つむ。三年にして後(のち)、樹も、としよりて、子、まれなり。則(すなはち)、伐去(きりさり)て、別にわかきをうゆる、といへり。

 

[やぶちゃん注:「群居解頤」(ぐんきょかいい)は宋の高懌(こうえき)撰の随筆。当該項は「嶺南風俗」の冒頭にある一番目の以下の前半。

   *

嶺南地暖、草萊經冬不衰。故蔬圃之中栽種茄子者、宿根二三年者漸長枝幹、乃成大樹。每夏秋熟時、梯樹摘之、三年後樹老子稀、卽伐去別栽嫩者。又其俗入冬好食餛飩、往往稍暄、食須用扇、至十月旦、率以扇一柄相遺、書中以吃餛飩爲題、故俗云、踏梯摘茄子、把扇吃餛飩。

   *

「嶺南」既注であるが、再掲しておく。中国南部の「五嶺」(越城嶺・都龐(とほう)嶺(掲陽嶺とも称す)・萌渚(ほうしょ)嶺・騎田嶺・大庾(だいゆ)嶺の五つの山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当し、部分的には華南とも重なっている。更に、かつて中国がベトナムの北部一帯を支配して紅河(ソンコイ河)三角州に交趾郡を置くなどしていた時期にはベトナム北部も嶺南に含まれていた。

「かるか故に」「かかるが故に」に同じい。

「蔬圃(ソホ)」野菜畑。

「茄子」ナス目ナス科ナス属ナス Solanum melongena ウィキの「ナスによれば、『原産地はインドの東部が有力で』、『その後、ビルマを経由して中国へ渡ったと考えられている。中国では茄もしくは茄子の名で広く栽培され、日本でも』千年『以上に渡』って『栽培されている。温帯では一年生植物であるが、熱帯では多年生植物となる』とあるから、古「根、二、三年のもの」というのも納得出来るが、大樹となってその木に足場を組んで実を採取するというのは何ともブッ飛んだ話で、そういえば、この「群居解頤」、平凡社の「中国古典文学大系」では「歴代笑話選」(第五十九巻)に所収されているのも、これまた納得であった。]

老媼茶話 三才圖繪【人物十二】(大食国の人頭果)

 

     三才圖繪【人物十二】

 

 大食こくは海の西南一千里にあり。山谷のあひたに、うへき、有。枝上(しじやう)に、花、生(しやう)して、人の首のことし。ものいふ事、なし。人、物をとふことあれは、只、笑ふのみなり。しきりにはらへは、則(すなはち)、凋(シホミ)み落(おつ)る、といへり。

 

[やぶちゃん注:「三才圖繪」「三才圖會」が正しい。明の王圻(おうき)と彼の次男王思義によって編纂された、絵を主体とした全百六巻からなる膨大な類書(百科事典)。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。「三才」は「天・地・人」で「万物」の意。世界の様々な事物を天文・地理・人物・時令・宮室・器用・身体・衣服・人事・儀制・珍宝・文史・鳥獣・草木の十四部門に分けて各項図入りで説明している。当該項は「巻二十六」の「人物十二」にある「大食國」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して活字化しておく。

   *

大食國在海西南一千里居出谷間有樹枝上花生如人首不解語人借問惟笑而巳頻笑輒凋落大食國之總名有國千餘其屬有麻離拔曰達吉慈尼路骨勿斯離餘未及知

   *

本書は挿絵がないのが淋しい。また、この「三才図会」の人頭果は私の幼少の頃からのお気に入りなので、ここは一つ、国立国会図書館デジタルコレクションの挿絵と本文の画像をトリミングして示すこととする。

 

Jintouka

 

Sansaizuetaisyokukoku

 

「一千里」明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、五百五十九キロ八百メートル。

「うへき」「植木」。

、有。枝上(しじやう)に、花、生(しやう)して、人の首のことし。ものいふ事、なし。「しきりにはらへは」「頻りに笑へば」。笑い過ぎると。]

老媼茶話 佛祖統記(放生(ほうじょう)の功徳)

 

     佛祖統記

 

 もろこしの天寶年中、當塗(とうと)の漁人劉成(リウセイ)・李曄(リキ)といふもの、魚をとつて船にのせ、丹陽に行(ゆく)。船をとゝめて、一夜、あかせり。

 李は行かす、劉成壱人、行り。

 夜更(よふけ)て、船の上を見る。

 ひとつの大魚、ひれをふるひ、首(かうべ)をうこかし、

「阿彌陀佛。」

をとなふ。劉成、驚き是をみるに、萬魚ともに、をとりおとつて、念佛を申す聲、天地をうこかす。

 劉、大に恐れて、ことことく、取(とり)たる魚を江(かう)にはなつ。

 李に、此よしを、語る。

 李曄、聞(きき)て、まこととせす、劉成、やむ事を得すして、おのかたからを以て、是を、つくのひけり。

 明る日、劉、荻(ヲキ)のうちにて、錢萬五千を【拾五貫。】得たり。

 題(タイシテ)曰、「還カヘス」(汝に魚の直(あたひ)を還(かへ)す)とありし、といへり。

 

[やぶちゃん注:「佛祖統記」南宋の天台宗の僧志磐(しばん 生没年不詳)が一二五八年から一二六九年の十一年を費やして撰した仏教史書。全五十四巻。天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂されている。紀伝体(以上はウィキの「仏祖統記に拠った)。以上の話は同「巻第二十八」の「浄土立教志第十二之三」の「往生禽魚傳」の中の一条「劉成魚」。

   *

劉成魚 唐天寶中當塗漁人劉成李暉。載魚往丹陽泊舟浦中。李他往。劉遽見舡上大魚振鬣搖首稱阿彌陀佛。劉驚奔於岸。俄聞萬魚俱跳躍念佛。聲動天地。劉大恐盡投魚於江。李至不信。劉卽用己財償之。明日於荻中得錢萬五千【十五貫也。】題云還汝魚直。

   *

「天寶」既注。唐の玄宗の治世の後半七四二年から七五六年まで。唐王朝の危機の時期。

「當塗(とうと)」現在の安徽省馬鞍山(まあさん)市当塗県。南京の南西、長江右岸。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「李曄(リキ)」この読みは「リエフ」(現代仮名遣「リヨウ」)でなくてはおかしい

「丹陽」江蘇省鎮江市丹陽市。南京の東、長江右岸のやや内陸。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「李は行かす」李は夜遊びに出ず、舟に残って寝たことをいう。

「夜更(よふけ)て」劉成が夜更けに舟に戻ったのである。

「ひれをふるひ」「鰭を振るひ」。

「うこかし」「動かし」。

「をとりおとつて」「躍り踊つて」。

「おのかたから」「己(おの)が寶」。

「つくのひけり」「償(つぐの)ひけり」。

「拾五貫」一貫は銭千文であるから、「錢萬五千」で一万五千文。「唐とアッバース朝の財政規模」というページに拠れば、この天宝年間の租税の内の「調」の絹と棉の一人当たりの納税既定量が絹二丈に綿三両とし、これは貨幣換算額で七百五十文相当(絹分が百文で 棉分が六百五十文)とある。また、同様に「祖」の粟・米は二石で貨幣換算額で七百五十文である。さらにその注には『宮崎市定「唐代賦役制度新考」』『によると、租・調・徭は、徭役の日数換算することができ、租=力役』十五日=雑徭三十日=『絹+棉=麻・布と解析している。更に史料から力役一日』五十『文と算出できるため』、十五×五十=七百五十文=二石『という計算が成り立つ』とあるから、過酷な苦役(クーリー)十五日分の二十倍、雑役一ヶ月の一年十ヶ月に相当する大金である。

『題(タイシテ)曰、「還カヘス」(汝に魚の直(あたひ)を還(かへ)す)にとありし』河原の荻原の中から拾った一万五千文の金包の上に「還汝魚直」と墨書きされてあったというのである。]

老媼茶話 齊地記(始皇帝、石橋を架けんとす)

 

     齊地記

 

 始皇帝以ㇾ術召ㇾ石-行。至ㇾ今ニ皆東ニセリㇾ首

 

[やぶちゃん注:「齊地記」(せいちき)は斉の秀才で、晏嬰の子孫と思われる尚書郎晏謨(あんも)の撰になる斉(現在の山東省)の地誌。全二巻。唐志地理類に入っているらしいが、捜し得なかった。しかし、中文サイトで「欽定四庫全書」内の唐の徐堅の撰になる「初学記」の「巻二」の「天部」の一節、橋の架橋(舟を並べた浮橋を含む)について記した中に(下線太字は私が附した)、

   *

秦都咸陽渭水貫都造渭橋及橫橋南渡長樂漢作便橋以趨茂陵【對便門作橋故亦謂之便門橋】並跨渭以木爲梁漢又作覇橋以石爲梁【長安又有飲馬橋洛陽魏晉以前跨洛有浮橋洛北富平津跨河有浮橋卽杜預所建又有車馬橋鄂坂有黃橋有朱雀橋歷晉逮王敦反後改爲乘雀橋又有枝橋羅落橋張侯橋張昭所造故名之又有赤欄橋白虎橋雞鳴橋蜀有七橋一冲里橋二市橋三江橋四萬里橋五夷里橋六笇橋七長升橋云李氷造上應七星又有鴈橋漢安橋廣一里半又有隂平橋升仙橋相如題者襄陽有木蘭橋一名豬蘭橋雀鼠谷有魯班橋上方有鬼橋陜城有鴨橋淸河有呂母橋章安有赤蘭橋上虞有百官橋仇池博山橋覆津橋鹿角橋泗水有石橋張良遇黃石公處也東海有石橋秦始皇造欲過海也後涼有通順橋在燉煌後燕有五丈橋此皆晉魏已前昭昭尤著也】事對造舟 鞭石【造舟事已見上叙事中齊地記曰秦始皇作石橋欲渡海觀日出處舊始皇以術召石石自行至今皆東首隱軫似鞭撻瘢勢似馳逐】飛洛 浮河【成公綏洛禊賦曰飛橋浮濟造舟爲梁春秋後傳曰赧王三十八年秦始作浮橋于河

   *

とあるのを見出した。本文を訓読しておくと(一部に送り仮名を〔 〕で補塡した)、

 始皇帝、術を以つて石を召〔すに〕、自行(じぎやう)す。今に至〔るまで〕、皆、首を東にせり。

三坂の本文では、ただ、

 始皇帝は、道術を以って石それ自身を能動的に動かさせて何かを作ろうとした。(が、それは完成せず、)今に至るまで、その動かした石は、皆、悉く、その運動の跡を東方に向けている。

と読めるのみである。しかし、の「千字文」始皇帝蓬莱東海旅立った徐福の後に配されてあること、さらに以上の「初学記」の最後の部分を見ることで、これは、「ガリヴァ―旅行記」のラピュタのように東海洋上に浮いているともされた仙境蓬莱山へ、始皇帝が石に術をかけ、大陸から東海へ、蓬莱山へ、夢の浮橋を架けるように指示した(「鞭石」とは鞭で東を指して行くようにさせた石、或いは、その先導を仰せつかった石の意ではないか?)が、徐福の任務不履行によって、それを果たせず(架け渡すべき蓬莱山の位置を特定出来ないのだから当然)、始皇帝は亡くなり、それらの石は、皆、東を指して向いたまま、今も転がっているばかりだ、と読めるように思うのであるが、如何?]

2017/09/25

老媼茶話 註千字文【畧之】(始皇帝と徐福)

 

     註千字文【畧之】

 

 秦の始皇帝、徐ふくに命して、ほう來宮へ行(ゆか)しめ、不老不死の藥を、もとむ。徐ふく、童男女五百人ともなひ、船にのり、ほう來宮至る。

 待期(マツゴ)過(すぎ)ても、かへらす。

 始皇帝、人をつかわし、仙藥の事を、とはしむ。

 徐福かいはく、

「海底に蛟龍(みづち)あり。ほう來に至る事、あたわす。」

といふ。

 始皇帝、則(すなはち)、大あみをつくり、大蛟龍を取(とり)、是をころす。

 魚の長さ、三拾里。

 始皇帝、これより、やまふを受て、たゝす。

 終(つひ)に沙丘に崩し玉ふと云々。

 

[やぶちゃん注:「千字文」(せんじもん)は子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために作られたられた、一千字の総て異なった文字を使って作られた漢文の長詩を広く指す。ウィキの「千字文によれば、南朝の梁 (五〇二年~五四九年)の『武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣』『に文章を作らせたものである。周興嗣は、皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え、皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。王羲之の字ではなく、魏の鍾繇の文字を使ったという異説もあるが、有力ではない。完成当初から非常に珍重され、以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した』。内容は『「天地玄黄」から「焉哉乎也」まで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた』、四字を一句と『する』二百五十『個の短句からなる韻文で』、『全体が脚韻により』九『段に分かれている』。『注釈本も多数出版され』ている。ここで三坂が採用した「註千字文」なるものは梁周興嗣撰他になる「纂圖附音増廣古注千字文」(全三巻)である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して、当該部を発見したここ)。「昆池碣石」部分の註釈の中間部であるが、一部を省略してある。それが標題下の割注「之れを畧す」の意味であろう。

「徐ふく」「徐福」。ウィキの「徐福」より引く。『斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)』出身の方士。司馬遷の「史記」の『巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け』、三千『人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり』、『戻らなかったとの記述がある』(リンク先に原文有り)。『東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山については』後に日本でも広く知られるようになり、「竹取物語」でも『「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる』。『瀛州はのちに日本を指す名前となった』。同じ「史記」の『「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている』。「日本における伝承」の項。『青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県出水市、いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である』。『徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。 丹後半島にある新井崎神社に伝わる』「新大明神口碑記」という古文書には『徐福の事が記されている』。『徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から』二千二百『年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅』一・五キロメートル『のところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている』。『徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある』。『徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し』、『徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である』。『富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群』「富士文献」は『漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している』ものであるが、この「富士文献」は『徐福が編纂したという伝承があ』る。しかし、それらは『文体・発音からも』、『江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない』。『北宋の政治家・詩人である欧陽脩』の七言詩「日本刀歌」には、「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(其の先(せん) 徐福 秦の民を詐(たばか)り/藥を採ると淹留(えんりう)して 丱童(くわんどう) 老いたり/百工 五種 之れとともに居り/今に至るまで 器玩(きぐわん) 皆 精巧)『(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する』とある。

「待期(マツゴ)」予定していた帰国の時期を待って、それを「過(すぎ)ても」「かへらす」「歸らず」。

「つかわし」ママ。「遣(つかは)す」。

「あたわす」「能はず」。

「大あみ」「大網」。

「蛟龍(みづち)」ウィキの「蛟龍」によれば、『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』。『日本では、「漢籍や、漢学に由来する蛟〔コウ〕・蛟竜〔コウリュウ〕については、「みずち」の訓が当てられる。しかし、中国の別種の竜である虬竜〔キュウリュウ〕(旧字:虯竜)や螭竜〔チリュウ〕もまた「みずち」と訓じられるので、混同も生じる。このほか、そもそも日本でミズチと呼ばれていた、別個の存在もある』(ここで言う本邦での「みずち」(古訓は「みつち」)は水と関係があると見做される竜類或いは伝説上の蛇類又は水神の名である。「み」は「水」に通じ、「ち」は「大蛇(おろち)」の「ち」と同源であるともされ、また、「ち」は「霊」の意だとする説もある。「広辞苑」では「水の霊」とし、古くからの「川の神」と同一視する説もあるという)。『ことばの用法としては、「蛟竜」は、蛟と竜という別々の二種類を並称したものともされる。また、俗に「時運に合わずに実力を発揮できないでいる英雄」を「蛟竜」と呼ぶ。言い換えれば、伏竜、臥竜、蟠竜などの表現と同じく、雌伏して待ち、時機を狙う人の比喩とされる』。荀子勧学篇は、『単に鱗のある竜のことであると』し、述異記には『「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜となる」とある。水棲の虺』は、一説に蝮(まむし)の一種ともされる。「本草綱目」の「鱗部・龍類」によれば(以下、最後まで注記番号を省略した)、『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられたとされている。長さ一丈余』(約三メートル)『だが、大きな個体だと太さ数囲(かかえ)にもなる。蛇体に四肢を有し、足は平べったく盾状である。胸は赤く、背には青い斑点があり、頚には白い嬰』(えい:白い輪模様或いは襞(ひだ)或いは瘤の謂いか?)『がつき、体側は錦のように輝き、尾の先に瘤、あるいは肉環があるという』。但し、蛟は有角であるとする「本草綱目」に反して、「説文解字」の『段玉裁注本では蛟は「無角」であると補足』して一定しない。「説文解字」の小徐本系統の第十四篇によれば、「蛟竜屬なり、魚三千六百滿つ、すなわち、蛟、これの長たり、魚を率いて飛び去る」(南方熊楠の「十二支考 蛇に關する民俗と傳説」から私が改めて引用した)『とある。原文は「池魚滿三千六百』『」で、この箇所は、<池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟竜がボス面をしてやってきて、子分の魚たちを連れ去ってしまう、だが「笱」』(コウ/ク:魚取り用の簗(やな)のこと)『を水中に仕掛けておけば、蛟竜はあきらめてゆく>という意』が記されてあるそうである。「山海経」にも『近似した記述があり、「淡水中にあって昇天の時を待っているとされ、池の魚が二千六百匹を数えると蛟が来て主となる」とある。これを防ぐには、蛟の嫌うスッポンを放しておくとよいとされるが、そのスッポンを蛟と別称することもあるのだという』。更に時珍は「本草綱目」で『蛟の属種に「蜃」がいるが、これは蛇状で大きく、竜のような角があり、鬣(たてがみ)は紅く、腰から下はすべて逆鱗となっており、「燕子」を食すとあるのだが、これは燕子〔つばくろ〕(ツバメ)詠むべきなのか、燕子花〔カキツバタ〕とすべきなのか。これが吐いた気は、楼のごとくして雨を生み「蜃楼」(すなわち蜃気楼)なのだという』。『また、卵も大きく、一二石を入れるべき甕のごと』きものである、とする。

「三拾里」「千字文」とこの古註が書かれたのは東晋期に当たるので、当時の一里は四百四十メートルしかない。従って、十三キロ二百メートルに相当する。「荘子」的、というか、中国的スケールである。

「これより、やまふを受て、たゝす」「やまふ」は「病ひ」、「たゝす」は「立たず」(立てなくなった)。「これより」とあるから、蛟龍を獲り殺したことがその病いの原因であり、少なくとも三坂はそれが遠因となって始皇帝は崩御し、秦も滅ぶこととなったと言いたい感じである。

「沙丘」地名。始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年)は七月の暑い最中(さなか)、巡幸中の沙丘の平台(現在の河北省平郷。ここ(グーグル・マップ・データ))で亡くなった。]

老媼茶話 事文類聚【後集二十】(小町伝説逍遙)

 

     事文類聚【後集二十】

 

[やぶちゃん注:「事文類聚」(じぶんるいじゅう)は宋の祝穆(しゅくぼく)の編になる中国の類書(百科事典)。一二四六年成立。全百七十巻。「芸文類聚」(げいもんるいじゅう)(唐の高祖(李淵)の勅命で、欧陽詢らが撰した類書。六二四年成立。全百巻。天・歳時・地・山などの全四十六部に物事を分類、それぞれに関連する詩文を配したもの。本邦にも早くから伝わって影響を与えた)の体裁に倣い、古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新集三十六巻・外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻を追加して総計で全二百三十六巻の大著に膨れ上がった。この条は三坂の叙述の最初の特異点で、「事文類聚」の「後集第二十巻」の「髑髏」の部からの訓読引用(原典標題は「草生髑髏」(草、髑髏に生ず)で「述異記」からの引用とするもの)は最初の段落のみで、それを契機として、作者三坂が登場、膨大な和書から、奇怪な小野小町髑髏伝承から自在な小町伝説を引用証明の形で語る形式を採る。また、その採集は、三坂の博覧強記がタダモノのそれではないことを明確に印象附けるものともなっている。なお、「事文類聚」の当該本文は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。それを見ると、婢の名は確かに「興進」であり、この読みは「コウシン」でなくてはならぬ。「興」を「輿」或いは「與」と見誤ったものであろう。また、原典そのままの完全訓読ではなく、三坂が翻案した箇所があることも判る。以下に視認したそれを白文(句読点や鍵括弧を独自に(和刻本の訓点の一部には従えない箇所がある)附した)で翻刻しておく(国立国会図書館デジタルコレクションのそれは和刻本で訓点がある)。

   *

    草生髑髏

陳留周氏婢、名興進、入山取樵。夢見一女語之曰、「近在汝頭前。目中有刺、煩。拔之、當是有厚報。」。牀頭果有一朽棺。頭穿壞、髑髏堕地、草生目中。便、爲拔草内着棺中、以甓塞穿。卽、髑髏處、得一雙金指環【桓冲之「述異紀」。】。

   *

これは「太平御覧」の第四百七十九巻に、

   *

桓冲之「述異紀」曰、陳留周氏婢、名興進、入山取樵。夢見一女語之曰、「近在汝目前。目中有刺、煩。爲之、當有厚報。」有見一朽棺。頭穿壊、髑髏墮地、草生目中。便、爲草内着棺中、以甓塞穿。卽、於髑髏處、得一雙金指環。

   *

また、「太平広記」の「巻第二百七十六 夢一」に「述異記」を出典とする「周氏婢」で、

   *

陳留周氏婢入山取樵、倦寢。忽夢一女子、坐中謁之曰、「吾目中有刺、願乞拔之。」。及覺、忽、見一棺中有髑髏、眼中草生、遂與拔之。後於路旁得雙金指環。

   *

とある話である。原文の「甓」(音「ヘキ」)は焼成した煉瓦のこと(「塼・専・磚」(音「セン」)とも書き、古えより土木建築の基本材として多方面に使われてきた)。この条はやや長いので、冒頭だけここに注した。]

 

 陳留の周氏か婢に興進(ヨシン)と云しもの、山に入(いり)て樵(キコリ)し、勞(ロウ)して、ふして、夢みらく、ひとりの女あり。是(ここ)に語(かたり)ていはく、

「我、近く、汝か頭(かうべ)のほとりにあり。目の内に刺(サシ)ありて煩し。是をぬかば、まさに厚く報すへし。」

 ゆめ覺(さめ)て、皈(かへり)て、我(わが)をるゆかのほとりをほるに、はたして壹のくちたる棺あり。頭(カウベ)、そこね、髑髏(トクロウ)、地に落(おち)て、草(くさ)、目のうちに生す。則(すなはち)、此草をぬき、棺を補(ヲキナ)ひ、ふさぎて置(おけ)り。則、髑髏の處におゐて、壱雙の金指環(キンシクハン)を得たり。

 是、本朝の小野ゝ小町かことに相似たり。實方(さねかた)中將、奧羽にあそひ、小野ゝ小町か髑髏の草をぬく事は、「袖中鈔」・「無明鈔」、其外にも見へたり。

 「愚見(クケン)抄」に、

 或説に、左中將【なりひら】、二條の后(きさき)をおかし奉らん斗(はかり)ことに出家せしか、そのゝち、髮をはやさん爲に、陸奧の國八十嶋(やそしま)に至りて、小野ゝ小町が髑髏の、

  秋風のふくにつけてもあなめあなめ

 なりひら、是を見るに、しやれかうべの目の穴より、すゝき、生拔(はへぬけ)たる、風に吹(ふか)るゝおとのかく聞へける。左中將、哀(あはれ)に覺へて、

  小野とはいはしすゝき生(おひ)けり

と下の句を附(つけ)しといへり。

 「壒囊鈔(あいなうせう)」に曰、

 目より薄の生出(おひいづ)る事、去古事(こじ)、侍るにや、先、近頃の連歌に、

  目より薄は生出(おひいで)にけり

といふ難句(なんく)のありけるに、

  物夫(もののふ)の野邊に射失(スツ)る破(ヤレ)かふら

 と付たり。名譽の秀句といへるを、十佛は、「さしもの古事を無下(むげ)に付(つけ)たり」と難しける。たとへは小のゝ小町か集(しふ)に、

  秋風の吹(ふく)につけてもあな目あな目小野とはいはし薄生(おひ)けり

 「あなめ」、「古今(こきん)」の註にて、『「悲々」と書(かき)て「アナメアナメ」と讀(よむ)』と註せり。「是は彼(かの)小町、死(しし)て後(のち)、よめる歌なり」とあり。

 「平安誌」に、

 「市原野ゝ出(いで)はつれに、小野ゝ小町が乞喰(こつじき)せしおりの枕石とて有りし」となり。

 市原野に「あなめ塚」といふあり。小野ゝ小町、としよりて、關寺にて死(しに)ける折、艸庵に、辭世、書殘(かきのこ)せり。

  おはる迄身をは身こそは思ひしれみつからしつる野邊の野送り

 弘法大師、此野に分入(わけいり)、此歌をみて、

  世の中に秋風たちぬ花薄まねかはゆかむ野へも山へも

 と口すさみ、過玉(すぎたま)へは、いつくともなく、

  秋風のふくにつけてもあなめあなめ小野とはいはし薄生けり

 大師ふしき思召(おぼしめし)、野邊をさかし見玉へは、しろく晒(さらし)たるとくろの眼の穴より、薄(すす)き、生たるあり。此白骨を、ひろい、うづめ、此石塚を建玉(たてたま)ふと也。又、西行法師、此前を過(すぐ)るとて、誦經念佛し、入相(いりあひ)のかねを聞(きき)て、

  なき人のいかなる草のかけにおりて今うちならす鐘をきくらん

とよみて過(すぎ)給ひけるに、あとより、十八、九斗(ばかり)の女、あらはれ、この歌をよみ、失せける。

  聞そとよ此野ゝ草の影にをりて今打(うち)ならすかねの一こゑ

 

[やぶちゃん注:「小野ゝ小町」生没年未詳にして出自・身分も不詳。「古今和歌集」の代表的歌人で恋愛歌に秀で、六歌仙・三十六歌仙の一人。交渉を持った人物などによって承和から貞観中頃(八三四年~八六八年頃)が活動期と考えられ、仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)両天皇の後宮に仕えた官女と推定されてはいる。

「實方(さねかた)中將」藤原実方(?~長徳四(九九九)年)は公家で歌人。従四位上・左近衛中将。三十六歌仙の一人。ウィキの「藤原実方」によれば、左大臣藤原師尹の孫で、侍従藤原定時の子であったが、父が早逝したため、叔父の大納言済時の養子となった。天禄四(九七三)年、『従五位下に叙爵し』、二年後の天延三(九七五)年には『侍従に任ぜられる。その後は、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と武官を歴任する傍ら』、『順調に昇進』し、正暦四(九九三)年には『従四位上、翌』年、『左近衛中将に叙任され』、『公卿の座を目前に』したが、長徳元(九九五)年正月、突如、陸奥守に左遷させられてしまう。同年の三月から六月にかけて、『養父の大納言・藤原済時を始めとして、関白の藤原道隆と道兼の兄弟、左大臣・源重信、大納言・藤原朝光、大納言・藤原道頼ら多数の大官が疫病の流行などにより次々と没するが、養父・済時の喪が明けた』九『月に陸奥国に出発した』。『左遷を巡っては、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生』、『このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある』(本条で三坂が「奧羽にあそひ」(遊び)とするのはこの伝承に洒落た感じがする)。『しかし、実方の陸奥下向に際して天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。さらにこの逸話では、口論に際し』、取り乱すことなく、『主殿司に冠を拾わせ』て『事を荒立てなかった行成が、一条天皇に気に入られて蔵人頭に抜擢されたとされるが、実際の任官時期は同年』八月二十九日で、実方の任官と八ヶ月も『開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙ともされることから』、『逸話と事実に不整合がある。これらのことから、後世都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話(後述の死後亡霊となった噂や、スズメに転生した話も含め)の形成につながったとも考えられる』。長徳四年十二月(九九九年一月)、『任国で実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した(名取市愛島に墓がある)。没時の年齢は』四十歳ほどであったとされる。彼は『藤原公任・源重之・藤原道信などと親し』く、『風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも』二十『人以上の女性との交際があったと言われ』、『光源氏のモデルの一人とされることもある』。『死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの噂が流れたとされ』、『また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)』とある。ただ、三坂は小町の髑髏の草を抜いてやるという説話の主人公がこの実方であるというのを最初に押し出しているのであるが、それを実方とする知られた文献は有意には多くない。私の調べた限りでは、歌僧顕昭(けんしょう 大治五(一一三〇)年?~承元元(一二〇九)年?)の「古今集序註」(ここの情報)や、江戸中期の儒学者新井白蛾(正徳五(一七一五)年~寛政四(一七九二)年)の「牛馬問」(巻之一「小野小町」。私の昔から好きなサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典の壺」のこちらに現代語訳が載る。但し、そこではその小野小町というのは小野正澄(私は不詳)の娘であって、我々の知る小野小町ではないとし、我々の知っているそれは「小野良實」(後述)の娘であるとする。それを受ける形で、滝沢馬琴は「兎園小説」の第五集で乾斎なる人物が報告する「小野小町の辨」もある。以下に所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化、記号や読みを加えて示す。

   *

小野小町の事、「牛馬問」に委しく辨じ置けり。却て小町を一人と思ふより紛れたる説多し。實方朝臣、陸奥へ下向之時、髑髏の眼穴より薄の生ひ出でゝ、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とはいはじすゝき生ひけり」と有りし歌の小町は、小野の正澄の娘の小町なり。康秀の三河椽(じよう)と成りて下向の時、「詫びぬれば身を浮草の根をたえて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ」と詠みしは、高雄国分の娘の小町なり。「思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを」の歌、又、出羽郡司小野良実が娘の小野の小町なり。高野大師の逢ひ給ふ小町は、常陸国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならざる異説ある而已(のみ)。中にも良實が娘の小町は美人にて、和歌も勝れたればひとり名高く、凡(すべ)て一人の樣(やう)傳へ來るのみ。かゝる類(たぐひ)、万事に多し。暫く記して疑を存し、亦、以て博雅君子に問ふ。

   *

これは所謂、複数の小野小町が実在したことの主張である。ここで白蛾と乾斎の言う「小野良實」というのは「小野良眞」のことであろう(「實」と「眞」は誤り易い字ではある)。我々の知っている美女小野小町の出自説の一つに、「尊卑分脈」で小野篁の息子である出羽郡司「小野良眞」の娘とされているからである(但し、小野良真の名はこの「尊卑分脈」にしか載らず、他の史料には全く見当たらないこと、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長二(八二五)年から 昌泰三(九〇〇)年の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)を考えると、篁の孫とするには年代が合わない。なお、他に小野篁自身の娘とする説もある。ここはウィキの「小野小町」に拠った)。さて、複数の小町の追跡というのは本条の主旨とは微妙にずれてしまうし、美形でない別人の小町には読者の食指もイマイチ動かぬであろうからして、ここらで留めおくこととする。

「袖中鈔」顕昭の著になる平安末期(文治年間(一一八五年~一一九〇年)頃成立)の歌学書。全二十巻。「万葉集」から「堀河百首」辺りまでの歌集・歌合せから約三百の難解な歌語を抄出して解釈したもの。私は所持しないので、当該箇所は紹介出来ない。

「無明鈔」「無明抄」。鴨長明の歌論書。全二巻。承元四(一二一〇)年頃の成立か。当該話は「業平本鳥きらるる事」と続く「をのとはいはじといふ事」。但し、そこでは藤原実方ではなく、在原業平である

   *

ある人いはく、「業平朝臣、二條の后の、未だ、ただ人におはしましけるとき、盜み取りて行きけるに、兄人(せうと)たちに取り返されたるよし、いへり。この事、また『日本記式』にあり。ことざまは、かの物語にいへるがごとくなるにとりて、迎ひ返しけるとき、兄人たち、その憤りを休め難くて、業平の朝臣の髻(もとどり)を切りてけり。しかあれど、誰(た)がためにもよからぬ事なれば、人も知らず、心一つにのみ思ひて過ぎけるに、業平朝臣、『髮生(お)ほさん』とて、籠りて居たりけるほど、『歌枕ども見ん』と數寄(すき)にことよせて東(あづま)の方(かた)へ行きにけり。陸奧國(みちのくに)に至りて、『かそしま』といふ所に宿りたりける夜、野の中に歌の上の句を詠ずる聲あり。その詞にいはく、

  秋風の吹くにつけてもあなめあなめ

と言ふ。あやしく思えて、聲を尋ねつつ、これを求むるに、さらに人なし。ただ、死人の頭(かしら)一つあり。明くる朝(あした)になほこれを見るに、かの髑髏(どくろ)の目の穴より薄(すすき)なん一本(ひともと)生(お)ひ出でたりける。その薄の風に靡(なび)く音のかく聞こえければ、あやしく思えて、あたりの人に、このことを問ふ。ある人、語りていはく、『小野小町、この國に下りて、この所して命終りにけり。すなはち、かの頭、これなり』と言ふ。ここに業平、哀れに悲しく思えければ、涙を抑へつつ、下の句を付けけり。

 小野とはいはじ薄生ひけり

とぞ続けける。その野をば『玉造(たまつくり)』と、男(をのこ)、言ひけり」とぞ侍る。

 玉造の小町・小野小町と、同じ人かあらぬ者かと、人々、おぼつかなき事に申(まうし)て爭ひ侍りし時、人の語り侍りしなり。

   *

後の「愚見抄」(鎌倉時代の歌論書。作者不詳(伝藤原定家))に出るが、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」とは「秋風が吹くたびごとに! ああ、目が痛い! 目が痛いわ!」の意で、応じた業平の下の句「小野とはいはじ薄生ひけり」は表は「『小野』(美しい野)とは呼べるまい、かくも薄がさわに生い茂ってしまっているのだから」であるが、裏は「小野小町も最早、絶世の美女ではない、かくも薄の生い茂った荒涼とした場所に髑髏となって埋もれてしまっているからには」の謂い。因みにこの伝承は、後の謡曲「通小町(かよいこまち)」の元ネタとなる。同類の話は、「無明草子」(鎌倉初期の物語形式を採った随筆或いは最古の文学評論書。作者は通説では藤原俊成の娘越部禅尼(こしべのぜんに)とされ、建久七(一一九六)年から建仁二(一二〇二)年頃の成立と推定されている)にも載るので、そこを引いておく。但し、そこでも奇体な夢を見るのは藤原実方ではなく、同時代人の藤原道信(天禄三(九七二)年~正暦五(九九四)年:公家で歌人。従四位上・左近衛中将)とする説を添えている

   *

それにつけても、憂(う)き世の定めなき思ひ知られて、あはれにこそはべれ。屍(かばね)になりて後(のち)まで、

 秋風の吹くたびごとにあな目あな目小野とは言はじ薄(すすき)生(お)ひけり

など詠みてはべるぞかし。廣き野の中に薄の生ひてはべりける、かく聞こえたるなりけり。いとあはれにて、その薄を引き捨てはべりける夜(よ)の夢に、かの頭(かしら)をば、『小野小町と申す者の頭なり。薄の、風に吹かるるたびごとに、目の痛くはべるに、引き捨てたまひたるなむ、いとうれしき。この代はりには、歌をいみじく詠ませ奉らむ』と見えて侍りけるとかや。

 かの夢に見たる人は、道信の中將と人の申し侍るは、まことにや。

 誰(たれ)かは、さることあるな。色をも香をも心に染(し)むとならば、かやうにこそあらまほしけれ。

   *

「誰(たれ)かは、さることあるな」の部分は「新潮日本古典集成」では、『〔小町以外の〕誰がこれほど徹し得ようか』と訳があり、「かやうにこそあらまほしけれ」の部分は『死後もこのようにありたいものですね』とする。

「愚見(クケン)抄」先の注を参照。私は所持しないので、ここに出る原文を紹介出来ない。

「二條の后(きさき)」藤原長良の娘で、清和天皇の女御で後に皇太后となった藤原高子(たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)。言わずと知れた、業平と恋愛関係にあったが、入内のために引き裂かれたとされる、「伊勢物語」のかの「芥川」の段の鬼に喰われる女のモデルである。

「おかし」「犯し」。略奪し。

「斗(はかり)ことに」「謀事(はかりごと)」が露見したため「に」、の謂いであろうか。

「出家せしか」出家して髪を断髪したが。無論、業平が出家した事実など、ない。高子の一件で、憤激した彼女の兄弟らに襲われ、髪を切り落とされたとも言われるから、それをかく言ったものであろう。

「髮をはやさん爲に」落語みたような理由づけで思わず笑ってしまう。

「陸奧の國八十嶋(やそしま)」不詳。現在の宮城県の塩竃或いは松島附近か。

「壒囊鈔(あいなうせう)」室町時代の僧行誉作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明する。「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて七百三十七条とした「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」二十巻(編者不詳。享禄五・天文元(一五三二)年成立)があり、近世に於いて「壒囊鈔」と言った場合は後者を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。

「古事」「故事」。

「先」「まづ」。

「目より薄は生出(おひいで)にけり」「物夫(もののふ)の野邊に射失(スツ)る破(ヤレ)かふら」南北朝時代に撰集された連歌集「莬玖波集(つくばしゅう)」の「巻第十九 雑体連歌」に素暹(そせん)法師(これは法名で、俗名は東胤行(とうのたねゆき ?~文永一〇(一二七三)年?或いは弘長三(一二六三)年?:鎌倉時代の武将で歌人。源実朝に仕えた。承久の乱の功によって下総東荘(とうのしょう)の領主から美濃郡上郡山田荘の地頭となった。定家の子藤原為家に和歌を学び、その娘婿となって二条流の歌人として知られた)の作として載る。但し、

 

  目より薄の生出でにけり

 狩人の野へにいすつるわれかふら

 

の表記である(国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認)。「狩人」をも「もののふ」と訓ずるのはルビ無しでは至難の業。

「十佛」鎌倉末期から南北朝期の連歌師坂十仏(さかじゅうぶつ 弘安三(一二八〇)年或いは翌年頃か?~?)。「密伝抄」によれば「日本一和漢才学の者」とし、和歌にも堪能で、「新後拾遺和歌集」に入集、また、足利尊氏に「万葉集」を講じてもいる。医術を修得した医僧としても著名である。花下(はなのもと/地下)連歌の指導者善阿(ぜんな:「菟玖波集」に三十二句が入集(にっしゅう)しており、同集の編者救済(ぐさい)も彼の弟子である)の弟子であり、知的で巧妙な付合を得意とした。

「無下に」風流もなくひどい状態で。

「難しける」「難じける」。批難したという。

「小のゝ小町か集(しふ)に」「秋風の吹(ふく)につけてもあな目あな目小野とはいはし薄生(おひ)けり」神宮文庫蔵本「小野小町集」(奥書のクレジットは慶長十二年(一六〇七年))の本文の終わりは

   *

 

 人のこゝろうらみ侍りける、比もさにやとそ

 

心にもかなはさりける世中を うき世にへしとおもひける哉

 

 おなし比、みちの國へくたる人に、いつはか

 りとひしかは、けふあすものほらんといひし

 は

 

みちのくはよをうき島も有といふを 關こゆるきのいそかさるらん

 

 なといひてうせにけり。のちを、いかにもす

 る人やなかりけん、あやしくてまろひありき

 けり

 あはてかたみにゆきてける人の、おもひもか

 けぬ所に、歌よむこゑのしけれは、おそろし

 なから、より、きけは

 

秋風のふくたひことにあなめあなめ をのとはいはてすゝきおひけり

 

 ときこえけるに、あやしとて、草の中をみれ

 は、小野小町かすゝきのいとをかしうまねき

 たてりける、それとみゆるしるしはいかゝ有

 けん

 冬、みちゆく人の、いとさむけにてもあるか

 な、よこそはかなけれといふをきゝて、ふと

 

手枕のひまの風たにさむかりき 身はならはしのもにそありける

 

   *

で終わっており(底本は所持する昭和四八(一九七三)年明治書院刊「私家集大成第1巻 中古Ⅰ」の一部を補正して示した)、この髑髏伝承の一首が載っている。「日本国語大辞典」の「あなめ」の項は、『小野小町の髑髏(どくろ)の目に薄が生え、「あなめあなめ」と言ったという伝説から)ああ目が痛い。また、ああたえがたい。あやにくだ。*小町集「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ小野とはなくし(てカ)薄おひけり」*江家次第―一四・御即位付后官出車「在五中将〈略〉到陸奥国、向八十島、求小野小町尸、夜宿件島、終夜有ㇾ声曰、秋風之吹仁付天毛阿部目阿部目、後朝求ㇾ之、髑髏目中有野蕨、在五中将涕泣曰、小野止波不成薄出計理、即斂葬」*袖中抄―一六「顕昭云、あなめあなめとはあな目いたいたと云也」*俚言集覧「あなめ〈略〉あなにくもあなめ、も如レ同の言故に重ねて義訓せるなり」』とある。「江家次第」では髑髏の目を抜けて生えるのは「薄」ではなく、「蕨」(わらび)であることが判る。私は蕨の方がより印象的な絵になる気がする。

『「古今(こきん)」の註にて、『「悲々」と書(かき)て「アナメアナメ」と讀(よむ)』と註せり』『「是は彼(かの)小町、死(しし)て後(のち)、よめる歌なり」とあり』孰れも引用原典不詳であるが、一つの可能性として『「古今(こきん)」の註』というのは、現在、九州大学蔵の中世の「古今和歌集序秘注」という書物を指しているのかも知れない。小田幸子氏の論文「変貌する小町」(グーグルブックスので視認した)によれば、この書は謡曲「卒塔婆小町」のモチーフの元となった記載があるとし、そこでは古い卒塔婆に腰掛けた小町を弘法大師が説教するというブットビの内容らしい。

「平安誌」京都の地誌らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。

「市原野ゝ出(いで)はつれに」市原野を抜け出た外れの辺りに。

「小野ゝ小町が乞喰(こつじき)せしおりの枕石とて有りし」「乞喰(こつじき)」は「乞食」と同じで物乞い。小町への「百夜通い」の伝説で知られる深草少将は、九十九日目の夜、大雪の中で凍死してしまうが、その後、小町は少将の怨霊にとり憑かれて物狂いとなり、乞食の老女となったとする伝承がある(これを受けた謡曲が「卒都婆小町」・「通小町」である)。「枕石」は不詳だが、現在の京都府京都市左京区静市市原町附近にあったのであろう。ここには小野小町終焉の地と伝える、天台宗補陀洛寺、通称「小町寺」がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『市原野に「あなめ塚」といふあり』この呼称は今はない模様だが、前の補陀洛寺には、現在、小町の供養塔や小町姿見の井戸などの遺跡、さらには亡骸(なきがら)から生えたという薄(!)まである(ここでは問題の薄髑髏伝説のロケーションはまさにこの寺にセットされてあるのである)と観光案内にはあるから、この境内の供養塔附近か、寺周辺にあった古墳を指したのであろう。

「關寺」(せきでら)は「世喜寺」とも書き、かつて近江国逢坂関の東(現在の滋賀県大津市逢坂二丁目付近)にあった寺。ウィキの「関寺」によれば、現在は廃絶してないが、現在、長安寺(ここ(グーグル・マップ・データ))という寺は、その跡地に建てられているとする説がある。『創建年次は不明であるが』、貞元元(九七六)年の『地震で倒壊したのを』、『源信の弟子である延鏡が、仏師康尚らの助力を得て』万寿四(一〇二七)年に『再興した。その時、清水寺の僧侶の寄進によって用いられた役牛の』一『匹が迦葉仏の化現であるとの夢告を受けたとする話があり、その噂を聞いた人々が件の牛との結縁を求めて殺到し、その中に藤原道長・源倫子夫妻もいたという。そして、その牛が入滅した際には源経頼が遭遇したことが』「左経記」(万寿二年六月二日の条)に見え、その後、菅原師長が「関寺縁起を『著した(なお、長安寺には牛の墓とされる石造宝塔が残されて』いる)。『また、倒壊前には老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり』、これが謡曲「関寺小町」として『伝えられている。また、同寺に安置されていた』五丈の『弥勒仏は「関寺大仏」と呼ばれ、大和国東大寺・河内国太平寺(知識寺)の大仏と並び称された。南北朝時代に廃絶したと言われている』とある(下線やぶちゃん)。

「おはる迄身をは身こそは思ひしれみつからしつる野邊の野送り」伝承歌の類い。整序すると、

 

 終はるまで身をば身こそは思ひ知れ自らしつる野邊の野送り

 

か。小町の辞世と伝えるものは他に、

 

 あはれなりわが身の果てや淺綠(あさみどり)つひには野べの霞と思へば

 

 我死なば焼くな埋づむな野にさらせ瘦せたる犬の腹を肥やせよ

 

最後のトンデモない一首を凄絶として称揚する者がネットには多いようだが、野狐禪のなまぐさ坊主か、底の浅い武将の下手な辞世みたようで、私は反吐が出るほど厭だ。寧ろ、このおぞましいそれは「九相詩絵巻」を長歌と見立てた、糞坊主の所産と見た。三坂の引くそれも下の句の「自らしつる野邊の野送り」が夢幻を今一つ捩じっていていいが、上の句が観念的なのが残念だ。一首の全体が自然の中に溶け込んで原子にまで分解して消えていく映像の体(てい)として私は「あはれなり」の一首を採る。

「弘法大師、此野に分入(わけいり)、此歌をみて」この伝承では空海は小野小町の後の世に生きている点でパラレル・ワールド! いやいや、空海は今も高野山で生きているんでしたね、はい。

「世の中に秋風たちぬ花薄まねかはゆかむ野へも山へも」整序すると、

 世の中に秋風立ちぬ花薄(はなすすき)招かば行かむ野へも山へも

と、弘法大師さまでもお怒り遊ばすであろう、採りどころの滓もない如何にもな近世人しか詠みそうにない超駄歌である。

「さかし」「探し」。

「とくろ」「髑髏(どくろ)」。

「ひろい」「い」はママ。「拾ひ」。

「なき人のいかなる草のかけにおりて今うちならす鐘をきくらん」整序すると、

 亡き人の如何なる草の蔭に下(お)りて今打ち鳴らす鐘を聽くらむ

分解した各句の表現は西行の歌句にはあっても、この一首総体は西行の歌にはないと思う。

「十八、九斗(ばかり)の女、あらはれ、この歌をよみ、失せける」伝承や「玉造小町壮衰記」やら謡曲なんどで、彼女を醜怪な老婆や髑髏に変じさせるのには飽き飽きしている。三坂が最後にかく映像を出してくれたことに私は感謝している。

「聞そとよ此野ゝ草の影にをりて今打(うち)ならすかねの一こゑ」初句は「きけぞとよ」と読むか。和歌嫌いの私には判らぬ。識者の御教授を乞う。]

2017/09/24

老媼茶話 宣室志(ありがたい声明(しょうみょう)……実は……)

 

     宣室志

 

 太原の商人に石憲といふ者あり。長慶二年の夏の頃、雁門關に行くに、暑(しよ)、盛(さかん)なるにつかれて、大木のもとに、ふしたり。

 夢に一僧あり。

 石憲にいわく、

「我(わが)庵の南に冷水あり。玄浴地となつく。檀越(だんをつ)、われに偕(トモナフ)てあそふへし。」

憲、僧とともに行(ゆく)に、窮林積水(キウリンセキスイ)あ

 群僧(グンソウ)、水中に、あり。

 憲、是を見て、深く怪しむ。

 僧の曰、

「檀越、梵音(ぼんいん)を聞(きか)んと欲するか。」

 憲、是を、

「然り。」

とす。

 群僧、水中に有つて、同音に聲を合(あはせ)て噪(ハツカ)し。

 一僧あり、憲か手を取(とり)て、ともに浴す。

 其(その)冷事、甚し。

 驚(おどろき)て寤(サム)るとき、衣、ことことく、しめる。

  明日(みやうじつ)、行(ゆき)つから、道に池有りて、蛙、鳴(なく)事、甚たし。夜夢にみし處に、たかわす。池に群蛙(ぐんあ)あり。儼(ゲン)として、きのふの僧のことし。

 

[やぶちゃん注:この話、確かに「宣室志」の第一巻に「石憲」として見出せるが、三坂の訳は肝心要の凄惨なコーダを略してしまった結果、珍しく、台無しの尻切れトンボの失敗作になってしまっている

   *

有石憲者、其籍編太原、以商為業、常行貨於代北。

長慶二年夏中於鴈門關行道中、時暑方盛、因偃於大木下。忽夢一僧、蜂目、被褐衲、其狀甚異、來憲前謂曰、「我廬於五臺山之南、有窮林積水、出塵俗甚遠、實群僧清暑之地。檀越幸偕我而遊乎。卽不能、吾見檀越病熱且死、得無悔於心耶。」。憲以時暑方盛、僧且以禍福語相動、因謂僧曰、「願與師偕往。」。於是、其僧引憲西去。且數里、果有窮林積水。見群僧在水中。憲怪而問之、僧曰、「此玄陰池。故我徒浴於中、且以蕩炎燠。」。於是引憲環池行。憲獨怪群僧在水中、又其狀貌無一異者。已而天暮、有一僧曰、「檀越可聽吾徒之梵音也。」。於是憲立池旁、群僧即於水中合聲而噪。僅食頃、有一僧挈手曰、「檀越與吾偕浴於玄陰池、慎無懼。」。憲卽隨僧入池中、忽覺一身盡冷、噤而戰。由是驚悟。見己臥於大木下、衣盡濕、而寒慄且甚。時已日暮、卽抵村舍中。

至明日、病稍愈。因行於道。聞道中忽有蛙鳴、甚類群僧之梵音、於是逕往尋之。行數里、見窮林積水、有蛙甚多。其水果名玄陰池者、其僧乃群蛙爾。憲曰、「此蛙能幻形以惑於人、豈非怪之尤者乎。」。於是盡殺之。

   *

主人公はただの一介の商人である。やはり、原作通り、あまりの気味悪さから、「此れ、蛙、能く形を幻じて、以つて人を惑はすは、豈に怪の尤もなる者に非ずや!」と叫んで、「是に於いて、之れを殺し盡す」と終わらねば、本当の唐代伝奇とは言えないと私は思う。

「太原」現在の山西省の省都太原市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長慶二年」「長慶」は唐代穆宗(ぼくそう)の治世の年号。同二年は西暦八二二年。

「雁門關」別名「西陘関(さいけいかん)」とも称し、山西省北部の代県の西北にある雁門山(別名「勾注山(けいちゅうざん)」)の中にある古えからの関所。北方異民族の侵入に対抗するための防衛拠点で、数多くの戦いが繰り広げられてきた場所として知られる。太原の北約百四十八キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「なつく」「名づく」。

「檀越(だんをつ)」梵語で「施主」の意の「ダナパティ」の漢訳。寺や僧に布施をする信者。檀那。檀家。読みは「だんおち」「だんえつ」等があるが、私は響きの好悪から習慣的に「だんおつ」で詠むことにしている。

「偕(トモナフ)て」「伴ふて」。

「窮林積水(キウリンセキスイ)」「窮林」は「深い林」の意、「積水」は「満々と湛えられた水」で高原の大きな湖である。

「梵音(ぼんいん)」一般には現在は「ぼんおん」「ぼんのん」と読まれる。単に読経のことも指すが、ここは声明(しょうみょう)の一種で、清浄な音声で仏法僧の徳を讃える偈頌(げじゅ)。四箇(しか)法要(仏教儀式の部分名で、「唄(ばい)」・「散華(さんげ)」・「梵音」・「錫杖(しゃくじょう)」の四種の声明から成る。宗派を越えて広くいろいろな法会に用られる)で二番目に唱えられる、それと採る。

を聞(きか)んと欲するか。」

「噪(ハツカ)し」この漢字では「騷(さは)がし」で「人が喧しく騒ぎ立てる」の意であるが、「はつかし」の読みの方だと、これは「恥づかし」で、「こちらが気恥ずかしくなるほどに相手が立派だ、優れている」の謂いとなるように私は思う。前の「梵音」を音楽的に優れた声明(しょうみょう)のそれと採るなら、意味は後者で採るべきであり、原話で石憲が騙されたと憤慨して蛙を皆殺しにするのは、ここで有り難い天人の声を聴いた(実際には蛙(ぎゃわず)のけたたましい鳴き声)ように感じたからに他ならないと私は読む。原典もこの漢字を用いているから、原作者は真相の伏線として騒ぐ声としたものを、或いは三坂はルビでそれと逆の効果を出そうしたものかも知れぬ。大方の御叱正を俟つものではある。

「冷ル事」「ひゆること」。その冷たさに「驚(おどろき)て」目覚める(寤(サム)る)のである。展開としては上手い手法である。なお、この目覚めた時、後の謂い(「夜夢にみし處に」)から、既に夜になっていたのである。

「ことことく」「悉く」。

「しめる」「濕る」。暑い盛りであるというのに、衣服はずぶずぶに水に濡れていた。

「行(ゆき)つから」「つ」は助動詞「つ」が変化した接続助詞で、活用語の連用形につく動作の従属性を示すそれであろうが、ここは「行き」を名詞化する働きがあるように思われる。さすれば「から」は恐らくは通過する地点を示す体言につく格助詞であろう。「行く途中に於いて」の意である。「行く道すがら」の「がら」と採ってもよいか。

「たかわす」「違(たが)はず」。

「儼(ゲン)として」「厳かな感じで」であるが、どうも訳がおかしいし、ここで立ち切れては意味が判らぬ原話を見ると、歩いて行くうちに、夢の中で聴いたのと同じ、有り難い厳かな「梵音」のようなものが聴こえて来たので、それを目安に道を辿って、尋ねて行ったところが……あらマッちゃん、出ベソの宙返り! それは僧の声明なんかなじゃあなかった! 忌まわしい蛙(ぎゃわず)の鳴き声だったではないか! と続いてこそ! である。]
 

老媼茶話 廣五行記(病原の妖魚・瘧を噛み殺した絵の獅子)

 

      廣五行記

 

 唐(もろこし)に僧あり。膈噎(カクイツ)の病(やまひ)を愁(うれへ)、すへて食をくたさす、數年にして命をはらむとす。其弟子に告(つげ)て曰、

「我(わが)氣、絶(たえ)て後(のち)、吾(わが)むねをさき、のんどをひらき見よ。いつれの物か、病となりたる。其根本をたゝせよ。」

と云(いひ)て、終(つひ)に死せり。

 弟子、則(すなはち)、むねをさきひらくに、一物を得たり。

 形、魚に似て、兩の頭あり。遍體(へんたい)ことことく、是(これ)、肉鱗(にくりん)なり。

 鉢のうちに入るゝに、おとりて止(し)す。諸味の食を致すに、くろふと見へすして、須臾(しゆゆ)に化して水と成(なる)。

 又、もろもろの毒藥を入るゝに、皆、消(きえ)て水となる。

 時、夏の中、藍(アイ)の熟したるを、水にもみ出し、靛(テイ)となして、少し鉢の中へ傾入(いれ)たるに、此むし、大きにおそれて、鉢のうちを走り𢌞り、しはらくの内に、化して、水となる。

 是より、世に傳えて、靛水(ていすい)を以て噎(カツ)を治すといへり。

 

 唐土(もろこし)に、おこりを煩ふ人、年を越(こえ)ておちす。いろいろと百針(ひやくしん)すれとも、しるしなし。

 其頃、顧光寶(ココウホウ)といふ、當時、無雙(ぶさう)の繪師、獅子をゑ書(かき)て、戸外に、かけおく。

 其夜、戸外、さわかしき物音、あり。

 夜明(よあけ)てみれは、繪かく所のしゝの口中およひ胸板(むないた)、皆、血に染(そ)み、戸外にも爰(ここ)かしこに、血、あり。

 おこりわつらふ人、病、すなわち、いへたり。

 

[やぶちゃん注:二部に分かれるので、一行空けた。

「廣五行記」明の李時珍の博物書「本草綱目」にも引用されるが、佚書。「太平廣記」の「醫三」に「廣五行記」を出典として「絳州僧」(こうしゅうそう)で前半が以下のように載る。

   *

永徽中、絳州有一僧病噎、都不下食。如此數年、臨命終、告其弟子云。吾氣絶之後、便可開吾胸喉、視有何物、欲知其根本。言終而卒。弟子依其言開視、胸中得一物、形似魚而有兩頭、遍體悉是肉鱗。弟子致鉢中。跳躍不止。戲以諸味致鉢中。雖不見食、須臾、悉化成水。又以諸毒藥内之、皆隨銷化。時夏中藍熟。寺衆於水次作靛。有一僧往。因以少靛致鉢中。此蟲恇懼。遶鉢馳走。須臾化成水。世傳以靛水療噎疾。

   *

後半の話は同じく「太平廣記」の「畫一」に「顧光寳」として以下のように見出せるが、これはそこでは「八朝畫錄」(或いは「八朝窮怪錄」)を出典としている。

   *

顧光寶能畫。建康有陸、患瘧經年。醫療皆無効。光寶常詣引見於臥前。謂光曰。我患此疾久、不得療矣、君知否。光寶不知患、謂曰。卿患此、深是不知。若聞、安至伏室。遂命筆、以墨圖一獅子、令於外牓之。謂曰。此出手便靈異、可虔誠啓心至禱、明日當有驗。命張外、遣家人焚香拜之。已而是夕中夜、外有窣之聲、良久、乃不聞。明日、所畫獅子、口中臆前、有血淋漓、及於外皆點焉。病乃愈、時人異之。

   *

「膈噎(カクイツ)」漢方では「噎」は「食物が喉を下りにくい症状」を指し、「膈」は「飲食物を嚥下出来ないこと」「一度は喉を通っても後で再び嘔吐する症状」を指す。精神的な嚥下不能から喉の炎症、アカラシア(achalasia:食道アカラシア。食道の機能障害の一種で、食道噴門部の開閉障害若しくは食道蠕動運動の障害或いはその両方によって飲食物の食道通過が困難となる疾患)や咽頭ポリープによるもの、更には食道狭窄症や逆流性食道炎、重いものでは咽頭癌・食道癌や噴門部癌や胃癌も含まれると思われる。

「すへて食をくたさす」「總(すべ)て食を下(くだ)さず」。あらゆる食物を嚥下することが出来ず。恐らくは悪性の食道癌と思われる。食道癌と診断された人は診断時点で七十四%の患者が嚥下困難を訴え、十四%の人に嚥下痛がある。食道癌は現在でも消化器系癌の中では予後が極めて悪い(これはリンパ節転移が多いことと、食道が他の消化器系臓器と異なり、漿膜(外膜)を有していないために周囲に浸潤しやすいことによるとされる)。食道癌全体の五年生存率は現在でも十四%ほどである。以上はウィキの「食道癌」に拠った。

「我(わが)氣、絶(たえ)て後(のち)」この「氣」は生気で、気絶や仮死状態ではない、完全に絶命したと断定出来る状態を指している。

「むねをさき」「胸を裂き」。

「のんど」「喉(のんど)」。

「ひらき」「開き」。

「いつれの物か病(やまひ)となりたる」「か」は疑問の係助詞(「たる」で係り結び。僧の強い思いから言えば、ここは句点ではなく、下に続く読点としたいが、それでは結びにならないので、涙を呑んで底本通りの句点とした)。孰(いづ)れの物がこの宿痾の原因であったものか。

「たゝせよ」「糺(ただ)せよ」。

「遍體(へんたい)」全身。

「ことことく」「悉(ことごと)く」。

「肉鱗(にくりん)」肉芽で出来た鱗(うろこ)。形状はまさに実際の進行した癌の感じに酷似しているのが不気味である。

「おとりて」「躍りて」。踊り入って。

「止(し)す」魚の形をしているくせに、泳ぐことなく、鉢の中で凝っとして動かずに静止しているのであろう。鉢底か、鉢の中央かは判らぬが、映像的には後者がよい。

「諸味の食を致すに」いろいろな種類の餌を試みに与えて見たが。

「くろふと見へすして」「喰(くろ)ふと見えずして」。摂餌する様子は全く見せない。ところが! と後に続く。

「須臾(しゆゆ)に」僅かの間に。

「もろもろの毒藥を入るゝに、皆、消(きえ)て水となる」そう現認出来るからには、透明でない色つきの毒物を複数、試みたのであろう。

「夏の中、藍(アイ)の熟したるを、水にもみ出し、靛(テイ)となして」タデ目タデ科イヌタデ属アイ Persicaria tinctoria から染料を製する手法で、その完成した染料を濃い藍色の顔料を中国で「靛(テイ)」と称する。所謂、暗青色の染料インジゴ(Indigo)である。ウィキの「アイ(植物)」によれば、本邦へは草体としての「アイ」は六『世紀頃に中国から伝わり、藍色の染料を採る為に広く栽培された』。『藍染めは奈良時代から続く歴史があり、藍による染色を愛好する人もいる。海外では“Japan Blue”、藍色を指して“Hiroshige Blue”と呼ばれることもある。染色には生葉染め、乾燥葉染め、すくも染めがある。生葉染めには、最も古い方法である布に生葉をそのまま叩きつけて染める叩き染めか、すり潰した汁で染める方法があるが、濃く染まらない、葉が新鮮なうちでなければ染色できない(インジカンがインジゴに変化して利用できなくなるため)といった欠点がある』。『乾燥葉染めは、アイ葉を乾燥させたものを用いる方法。そのままでは色素が繊維に沈着しないので、還元反応を行って色素の沈着ができるようにしなければならない。生葉に比べて無駄なく染色でき、時期もあまり選ばない』。『すくも染めは、乾燥したアイ葉を室のなかで数ヶ月かけて醗酵させて』「すくも」と呼ぶもの『を造り、更にそれを搗き固めて藍玉を作り、これを利用する方法である。生産に高度な技術と手間を必要とするため、現在では徳島以外で日本産のすくもを見ることはほぼない。染色には、藍玉(すくも)を水甕で醗酵させてから行う(醗酵すると水面にできる藍色の泡を「藍の華」と呼び、これが染色可能な合図になる)ので、夏の暑い時期が最適である。すくもの利点は、いつでも醗酵させて染色できること、染料の保存が楽なこと、木綿にも濃く染められることなどが挙げられる』とある(下線やぶちゃん)。この本文では「夏の中、藍(アイ)の熟したるを、水にもみ出し」とあるから、二番目の「乾燥葉染め」か「すくも染め」であろうが、「熟す」というのは発酵に最もふさわしいし、季節も「夏の中」(夏真っ盛り)で、まさにその「藍玉」を「水に」揉(も)「み出し」て藍の顔料を溶かした水を作ってそれを試してみたのだと読むなら、その製造過程もすこぶる鮮やかで映像的に映える

「傳えて」ママ。

「靛水(ていすい)」「靛」を溶かしこんだ水。

「噎(カツ)」読みはママ。この字の音は「イツ」(但し、慣用音)以外には「エチ」(呉音)「エツ」(漢音)があるが、「カツ」はない。先に「膈噎(カクイツ)」で正しくルビしているから、原作者はその「カクイツ」を誤って頭の「カ」と後の「ツ」を繫げてしまったもののように私には思われる。

「おこり」「瘧(おこり)」。音は「ギヤク(ギャク)」。数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫 Plasmodium sp. で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカ Anopheles sp. 類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum・三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax・四日熱マラリア原虫 Plasmodium malariae・卵形マラリア原虫 Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

「おちす」「落ちず」。病気が治らないことをかく言う。

「百針(ひやくしん)」いろいろな経絡に鍼(はり)治療を施すこと。ウィキの「によれば、鍼術(しんじゅつ)は元は石器時代の古代中国において既に発明されたとする。『砭石(へんせき)もしくは石鍼(いしばり、石針とも書く)とよばれるこの鍼の元は主に膿などを破って出すのに使われた。これが後に動物の骨を用いて作られた骨針、竹でできた竹針(箴)、陶器の破片でできた陶針などになっていった。現在使われる金属の鍼は戦国時代頃に作られ始めたといわれる。この鍼が黄河文明で発展した経絡の概念や臓腑学(ぞうふがく)、陰陽論(いんようろん)などと結びついて鍼治療が確立していく。黄帝内経(こうていだいけい)と呼ばれる最古の中医学理論のテキストの中に、当時使われていた鍼を特徴で』九『つに分類した古代九鍼が紹介されている』とある。

「顧光寶(ココウホウ)」不詳。

「ゑ書(かき)て」「繪畫きて」。描いて。

「かけおく」「掛け置く」。

「さわかしき」「騷(さはがし)き」。

「すなわち」ママ。

「いへたり」ママ。]

老媼茶話 聞奇錄(項から龍)



     聞奇錄

 

 もろこしの金州に水陸院といふ寺あり。文淨といふ僧あり。夏の頃雨ふりたるに、雨たれ、落(おち)て、文淨かうなしに、かゝる。其跡、終(つひ)にかさに成(なり)て、年經て、愈(いえ)す。漸々に、はれて、大なる桃のことし。文、五月に及(および)、雨、ふり、大雷(だいらい)なりて、はれたる處、俄(にはか)に穴に成て、甚(はなはだ)いたみ出(いで)たり。人にみせしむるに、その穴のうちに、一物あり。わたかまれる龍のかたち、陰々として動(うごき)、晝夜、甚、いためり。日を經て、また、雨ふり、雷鳴りて、庭中に落たり。黑雲、其室に入(いる)。項(ウナシ)の穴より、もの、あり、脱(ぬけ)いてゝ、雲にのり、そらへ、のほり去る。白龍のかたち、長さ弐丈斗(ばかり)に見へ、是より、文淨かうなし、いたみ、止(やむ)。穴も又、平ふくして痕(アト)なし。

 

[やぶちゃん注:「聞奇錄」于逖(うてき)撰になる唐代伝奇の一つ。一巻。以上は「太平廣記」の「雷二」に「聞奇錄」を出典として「僧文淨」で載る。

   *

唐金州水陸院僧文淨、因夏屋漏、滴於腦、遂作小瘡。經年、若一大桃。來五月後、因雷雨霆震、穴其贅。文淨睡中不覺、寤後唯贅痛。遣人視之、如刀割、有物隱處、乃蟠龍之狀也。

   *

「金州」複数ある古い地方名であるが、恐らくは現在の西安の南方近くの、陝西省安康市一帯と思われる。(グーグル・マップ・データ)。

「雨たれ」「雨だれ」。

「文淨かうなしに」「文淨が項(うなじ)に」。

「かさ」「瘡」。この場合は腫れ物。

「愈(いえ)す」「癒えず」。

「はれて」「脹れて」。

「五月に及(および)」とある年の五月のこと。

「はれたる處」その項の「脹れたる」ところが。

「俄(にはか)に穴に成て」急に陥没して穴が出来て。

「甚(はなはだ)いたみ出(いで)たり」今までに感じたことがない、激しい痛みが感じられた。

「わたかまれる」「蟠(わだかま)れる」。蜷局(とぐろ)を巻いた。

「陰々として」薄暗い中に妖しい感じで。

「弐丈斗(ばかり)」唐代の一丈は三・一一メートルであるから、二丈は六メートル二十二センチに相当する。

「平ふく」「平復」。平癒。]

老媼茶話 二程全書十九(人、石となる)

 

     二程全書十九

 

 伊川(いせん)の曰、「それかし、南中にありし時に、きけり。石をとる人、有(あり)。石、落(おち)て、つひに、石中にあり。幸に、死せす。うゆること甚し。たゝ、石膏をとつて、是を、くろふ。幾としといふ事をしらす。のちに、別人の復(また)來つて、石をとるあり。此人の、石中にあるを見て、是を引出(ひきいだ)し、漸(やうやう)、身の硬(コハキ)を覺ゆ。はつかに、いてゝ、身の風にあたる、則(すなはち)、化して、石になれり」。

 

[やぶちゃん注:「二程全書」北宋の思想家程顥(ていこう:号を「明道」と称した)と程頤(ていい:号を「伊川」と称した)兄弟(この二人をして「二程子」と称した)の全集。朱熹(しゅき)が編纂した「程氏遺書」(二程子の語録集)・「外書」(「程氏遺書」の補遺)に,「明道文集」・「伊川文集」・「伊川易伝」・「経説」・「粋言」を合刻して刊行したもの。明代以来、数種の刊本が出されたが、清の呂留良(晩村)のものが最良とされる。和刻本は明の徐必達の刊本を翻刻したものであるが、本邦では二程子の言葉を部門別に再編成した明の唐伯元編の「二程類語」がよく読まれた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「南中」現在の雲南省周辺で、古くは南方のミャンマー北部をも含んだ地方名。

「石中にあり」大きな落石があり、一緒に落ちたが、石の有意な隙間に落ちてその上に、岩石が積み重なって、埋まったものの、死ぬことはなく、そこで何年(「幾とし」)も生きていたというのである。

「うゆる」「餓ゆる」。

「くろふ」「喰らふ」。

「身の硬(コハキ)を覺ゆ」救い出されて地上に出ると、直に自分の体が硬くなってゆくのを覚えた。というか、救い出してくれた者にそう告げたのである。

「はつかに」僅かの間に。

「いてゝ」「凍てて」。水が凍るように固まっしまいて。

「身の風にあたる、」底本は読点ではなく、句点であるが、ここは「身の風にあたる」「やいないや」の意味であるから、私は読点とすべきであると思う。地下の世界から出て、大気の象徴たる風が身に当たるや。

「則(すなはち)」即座に。]

老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)

 

     茅亭客話

 

 虎、酒に醉たる人を傷(やぶ)らす。

 この頃、ひとりの村夫、有。市に出て醉(ゑひ)て歸るとて、きしに望みて醉(ゑひ)ふしたり。虎あり、來つて、是をかぐ。とらの髭、たまたま、醉てふしたるものゝはなのうちへ入る。醉(ゑふ)者、大きに噴嚔(フンテイ/クサメ)す。虎、思ひかけされは、おとろきて、ふみはつし、岸より落(おち)て死ゝけり、となり。

 

[やぶちゃん注:「茅亭客話」(ぼうていかくわ)は、黄休復なる人物が、五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもので、全十巻。以上は、同書の巻八の掉尾にある以下の「李吹口」の最後の部分(下線太字で示した)である。

   *

永康軍太平興國中虎暴失蹤、誤入市。市人千餘叫譟逐之。虎爲人逼弭耳、矚目而坐、或一怒則跳身咆哮。市人皆顛沛。長吏追善捕獵者。李吹口失其名、衆雲李吹口至矣、虎聞忙然竄入市屋下匿身。李遂以戟刺之、仍以短刃刺虎心、前取血升餘、飲之。休復雍熙二年成都遇李、因問、「向來飲虎血何也。」。李云、「飮其血以壯吾誌也。」。又云、「虎有威、如乙字、長三寸許、在脅兩傍皮下。取得佩之、臨官而能威衆、無官、佩之無憎疾者。凡虎視隻以一目放光、一目看物。獵人捕得、記其頭藉之處、須至月黑、掘之尺餘、方得如石子色琥珀狀、此是虎目精魄、淪入地而成。「琥珀」之稱因此、主療小兒驚癇之疾。凡虎鬚拔得者將劄牙、無復疼痛。凡虎傷者、人衣服器杖乃至巾鞋皆摺疊置於地上、倮而復僵。蓋虎能役使所殺者人魂也。凡爲虎傷死及溺水死者、魂曰倀鬼。凡月暈虎必交也。凡虎食狗必醉。狗、虎之酒也。凡虎不傷醉人頭。有一村夫入市醉歸、臨崖而睡、有虎來嗅之、虎鬚偶入醉者鼻中、醉者大噴啑、其聲且震、虎驚躍落崖而斃。此事皆聞李吹口者。

 

この直前部、「犬を喰らうと虎は必ず酔う。犬は、虎にとっての酒である」とあるのが面白い。

「傷(やぶ)らす」「傷らず」で、傷つけることはない、の意である。原文を見よ。]

 

老媼茶話 酉陽雜俎曰(ナゾの殺人生物出現!)

 

     酉陽雜俎曰

 

 溫會(ヲンクハイ)といふ人、江州(がうしう)にありし時、客とつれて漁子(アマ)の水に入(いり)て魚をとるを見るに、壹人の漁子(アマ)、忽(たちまち)に岸にのほり、くるひ走る。溫會、是をとふに、但(タヽ)、手をかへして、背中にゆひさして、物言(ものいふ)事、あたはす。漁者のせなか、黑し。細細(こまこま)是をみれは、背中に物ありて、取(とり)つく。色(イロ)、黃(クチ)葉のことく、大(おほい)さは壹尺餘ありて、其上に、あまねく、眼あり。かみ入りて、とるに、はなれす。溫、是をやかしむ。燒落(やきおと)すをみれは、一眼の裏ことに、嘴(ハシ)あり、針のことく、刺(サシ)入(いり)けり。漁子、血を出す事、數升にして死す。何蟲といふ事を識るものなし。

 

[やぶちゃん注:短文ながら、個人的に非常に惹かれる話である(私は有毒・危険動物のフリークで、その方面の十数冊の学術的専門書も所持している)。この奇怪な人を死に至らせる危険生物は、

・淡水産生物である(「江州」(後注参照)というロケーションから)。但し、動物か植物か藻類かは不明である。

・それは単体の群体らしい生物である。

・体色は単体はくすんで黄色であるが、離れて見ると、群体は全体に黒く見える。但し、原文は「漁者色黑」で、これは漁師は肌の色が黒かったで、日焼けした漁師の肌色全体を指しているように見え、寧ろ、そこにその奇怪生物の朽ち葉色の暗い黄色が目立った、と読むのが正しいようにも思われる

・その大きさ(張り付いた生物の長径であろう)は一尺余りであった。唐代(「酉陽雑俎」は唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる志怪録)の一尺は三十一・一センチメートルである。

・表面には無数の眼のように見える付属器がある。これを私は取り敢えず、この生物群体の「単体」の器官或いは組織と見る

・漁師の背中に張り付いて人力を以ってしても剝すことが出来なかった。そこで、火(薪(たきぎ)であろう)をもって、張り付いた外側を焼いたところ、剥がれ落ちた。

・剥離したその生物群体の裏側(漁師の背中に張り付いた側)を見ると、先の眼様器官の一つずつの裏に対応して、一本ずつ、釘の様な(三坂は「針の如く」と書いているが、後に示した原典には、もっと太い動物の「觜」(ハシ/くちばし)の如き「釘」のようなものとあるのである)器官が付随していて、それが漁師の背中に非常に深く噛み付くように刺さっていたことが判った。後でこの被害者は二升という多量出血(但し、唐代の一升は〇・五九四四リットルしかないので、三升で一・七八、六升三・五六リットルである。それでも一升瓶一、二本に相当する)しているから、この針の数にもよるものの、刺さった深さは剝し得なかったことからみても、人体表皮の数ミリどころではなく、一センチ以上で、真皮や血管まで突き通していたと読むべきである。剝し得なかったことから、その釘状の器官はただ尖った針釘状のものではなく、鉤(かぎ)状にカエシを持っていたことが深く疑われる

・被害者の漁師は、その多量出血直後に亡くなった。ネット情報を見ると、例えば、体重六十キロの人の場合、約五リットルが全体の血液量となり、出血性ショックに陥るのは一リットルを超えたぐらいが目安となり、命に危険が及ぶ量は一・六リットルを超えたぐらいからとされるから、まずは、この漁師は時代と職業から見て体重は五十キロ前後と推定され、その「數升」という出血量を過少に見積もっても、一般的出血危険量を遙かに越えており、漁師の死因は大量出血死と考えるのが妥当であろう。但し、この生物が有毒物質をその針を以って人体に注入した可能性も充分に考え得ることではある。

・それが何という名の虫かは、現地の人間も誰も知らない。ということは、現地の人間もその奇怪生物をその時、初めて見たということになる。

 

この生物は一体、何だろう?

正直、該当しそうな淡水産生物は存在しないと私は思う。

ただ、一読、「形状はあれが潰れたみたいなもんに近かろうな」と思った動物はある。苔虫(コケムシ)の一種、

外肛動物門掩喉(えんこう)(苔虫)綱掩喉目ヒメテンコケムシ科オオマリコケムシ属オオマリコケムシ Pectinatella magnifica

である。多分、御存じない方が多いであろうから、ウィキの「オオマリコケムシを引いておく。下線は私が引いた。それはこの「酉陽雜俎」の奇怪生物の属性に似た部分があるという意味で引いた。『池や沼などの淡水域に棲み、寒天質を分泌して巨大な群体を形成する』。『アメリカ合衆国ペンシルベニア州のフィラデルフィア郊外で発見・記載された北アメリカ東部原産の生物で』、一九〇〇『年頃に中央ヨーロッパに持ち込まれた。日本では』一九七二『年に山梨県の河口湖で発見されて以来』、翌一九七三年には『同県精進湖でも多数の群体が出現、その後外来種として分布を広げている』。『現在では日本各地の湖沼で普通に見られる。奇妙で大きな外見から、度々話題になることがある』。『オオマリコケムシは群体を形成して肉眼的な大きさになる生物であるが、これを構成する個虫は非常に小さい。時に小型で分散性の休芽が作られて群体から放出され、これが悪条件への耐久や分布を広げる役目を担う。群体の表面には特徴的な多角形の模様が見られ、この模様と群体の形状が手まりを思わせることから「オオマリコケムシ」の名が付いた』。『群体中の個虫は体腔を共有するとともに細胞外に寒天質を分泌してこれに埋没する。個虫が寒天質を分泌しながら水草や岩に付着して増殖するために群体という形をとるものと考えられている』。『群体は球形から分厚い円盤状の形をしており、内部には寒天質が詰まり、表面に個虫が並んでいる。発達すると群体塊は房状に増殖して一畳にも達する大きさになる。長さでは』二・八メートル『に達したという報告もある』。『大きな群体塊となると付着物から離れていったん沈むが寒天質中にガスが溜ってやがて浮遊してくる』。『群体は夏から晩秋にかけて、』一ヶ月で『倍増するほどの速度で成長するが、冬季には低温によって表面の個虫が死滅し、ただの寒天質の塊になってしまう』。『オオマリコケムシの越冬は後述する休芽の状態で行われる』。『個虫のポリプ体(虫体、polypide)は体長』一・五ミリメートル『ほどで、肉眼では寒天(ポリプ体と区別して虫室(zooecium)とも呼ばれる)塊表面の黒色の点として認識できる』。『虫体は群体の外側へ向けて馬蹄形の触手冠を持ち、その中央に口がある。消化管はU字型をしており、肛門は触手冠の外側に開口する』。『摂食の様式は濾過摂食であり、水中の微生物やデトリタスをこの触手冠で濾し取って食べる。口の側にある口上突起(epistome)の近傍には赤い色素がある』。『また、触手冠の両先端部の下面、および虫体と寒天質が接する部分の肛門側には、上皮線からの分泌物の乳白色の塊がある』。『他の外肛動物と同様に循環器系は無いが、代わりに胃緒(funicles)と呼ばれる紐状の間充織のネットワークが体内を充たしている』。『オオマリコケムシは雌雄同体であり、生活環には有性生殖と無性生殖の両方が見られる』。『いずれの場合も』一『個体から新たな群体を形成する過程を含むが、そのような最初の個虫は初虫 ancestrula)と呼ばれる』。『有性生殖では体腔内の卵巣で受精が起こった後、親個虫の胚嚢(表皮直下の空嚢)の中で幼生の胚発生が進行する。幼生はほぼ発生が完了してから親個虫の外に放出される』。『幼生は繊毛によって遊泳し、適当な基物に着生して初虫となる』。『オオマリコケムシの無性生殖は二通りある。一つは群体中の個虫が増殖する際の出芽である。前述の有性生殖によって独立した幼生は、着生後に出芽を繰り返して個体数を増やし、群体を形成してゆく』。『もう一つの無性生殖は休芽(スタトブラスト、statoblast)と呼ばれる耐久性の構造を経るものである。休芽は発生初期の段階の個虫が強靭なキチン質の殻に包まれたもので、この状態で低温や(ある程度の)乾燥といった環境ストレスに耐える。休芽は丸みを帯びたいびつな多角形で、直径は約』一ミリメートル『(突起含まず)である。休芽は丈夫な殻に覆われており、この殻には錨型の棘が十数本ある』。『休芽は個虫の胃緒で無性的に形成され、完成すると寒天質を周囲にまとって放出される。この寒天質は放出後数週間持続するが後に消滅する。

休芽は温度や光条件により発芽する』。『休眠状態の発芽は低温に晒されると静止状態に移行し、その後適温』(摂氏十七~二十五度)『になると発芽する』。『この仕組みにより、オオマリコケムシは群体の生育に適した春期に発芽することができる。適温に置かれた休芽は、一日目に細胞層の陥入によって消化管の形成が始まる』。二『日目にはU字型の消化管の形成が完了し、触手冠の原基も作られる』三~四『日目には虫体がほぼ完成』し、五『日ほどで初虫となる個体が殻からハッチ』(hatch:孵る・孵化する)『してくる』。『琵琶湖や霞ヶ浦、雄蛇ヶ池など、日本各地の湖沼で時々』、『大発生する。水質が悪化した水域で多く見られる傾向がある。積極的に害をおよぼす例は知られていないが、取水口などに詰まって取水の物理的な障害となる場合がある』。『また本種の分布域拡大とともに、同じ生態的地位を占める在来種であるカンテンコケムシ』(オオマリコケムシ属カンテンコケムシ Pectinatella gelatinosa:無色透明の寒天質の中に塊状の群体をつくる。群体は普通長径 一・五~二センチメートルの楕円形を成し、個虫は共通した体腔内に並ぶ。一個虫には七十本から百本に及ぶ触手がある。休芽は暗褐色で直径一・三ミリメートル内外の円形を呈し、周縁には非常に小さな錨形の鉤が並んでいる。若い群体は移動する性質を持ち、関東地方以西の池沼・用水池に棲息しており、ときに大発生することがある。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『やヒメテンコケムシ』(ヒメテンコケムシ属ヒメテンコケムシ Lophopodella carteri 。日本各地の池沼などに見られる。塊状の長径一・五センチメートルほどの薄い外皮に包まれた群体を形成する。個虫は共通の体腔内にあって、馬蹄形の総担を持ち、その上に七十本から八十本の触手をもつ。長さ一ミリメートル内外の楕円形で両端に棘のある暗褐色の休芽を形成する。休芽は乾燥すると水に浮び,水鳥などによって運ばれる。ここも同じく「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『が減少しており、これらの生物の脅威となっていると考えられている』。『食べても毒はないが、ふつうオオマリコケムシは食用にはならない』とある。グーグル画像検索「Pectinatella magnificaをリンクさせておく。ブニュブニュ系が苦手な人は見ない方がよいとは思う。中国にこの淡水産のコケムシ類が棲息しているかどうかは分らぬが、いないはずはない。但し、言わずもがな、これらは人間の皮膚に刺さって出血を起こさせたり、毒を注入したりする生物ではないしかし、この叙述形状は私は淡水産のコメムシ類の群体にかなり似ていると思う。特に群体の個虫を「眼」と比喩するのは私にはよく納得出来るのである。

 三坂が訳したのは、「酉陽雜俎」の「卷十七 廣動植之二」にある以下である。

   *

異蟲 溫會在江州、與賓客看打魚。漁子一人、忽上岸狂走。溫問之、但反手指背、不能語。漁者色黑、細視之、有物如黃葉、大尺餘、眼遍其上、齧不可取、溫令燒之落。每對一眼、底有觜如釘、漁子出血數升而死、莫有識者。

   *

「江州」は現在の中華人民共和国江西省北部にある九江(きゅうこう)市の古称。(グーグル・マップ・データ)。]

老媼茶話 潜確居類書曰(布団の下の阿房宮賦を詠ずる声)

 

     潛確居類書曰

 

 揚州の蘇陰といふ人、夜日、ふして聞(きく)は、我被(フスマ)の下にて數人有(ありて、ひとしく阿房宮の賦をとなうる聲、甚た急に、ほそし。被(フスマ)をひらいて是をみれは、化(け)の物、なし。只、蝨(シラミ)數拾(すうじふ)を得たり。其大(おほい)豆のことし。是を殺して、其後(そののち)に聲を、きかす。

 

[やぶちゃん注:この話、私は一読、怪異ではなく、偏愛する絵巻「病草紙」の、精神病の一種か、熱性マラリアによる幻覚かと思われる〈小法師の幻覚を見る男〉を思い出した。同図の添書きを示す(句読点を附した)。

   *

なかごろ、持病もちたるおとこ、ありけり。やまひ、おこらむとては、たけ四、五寸ばかりある法師の、かみきぬきたる、あまたつれだちて、まくらにあり、と、みえけり。

   *

この蘇陰なる人物もそうした病者ではなかったか? 「夜」だけでなく、昼間も寝ていることがあるという意味かと思われる「日夜」にそれを強く感じた。

「潜確居類書」「潛確類書」とも。明代の学者陳仁錫(ちんじんしゃく 一五八一年~一六三六年)が編纂した類書(百科事典)。但し、中文サイトで多様な検索を試みたが、同書内には当該文を見出せなかった。しかし、「中國哲學書電子化計劃」で「仙雜記」なる書の「卷七」中に、「淸異志」からの引用として、

   *

虱念阿房宮賦揚州蘇隱、夜臥、聞被下有數人齋念「阿房宮賦」、聲緊而小。急開被、視之無他物。惟得虱十餘、其大如豆、殺之卽止。

   *

を見出せた。「雲仙雜記」は唐の馮贄(ひょうし)撰。「淸異志」は不詳。唐から五代にかけての小説集で陶穀の撰になる「淸異錄」のことかと思ったが、違う。識者の御教授を乞う。

「夜日、ふして」「夜日」読み不詳。「やじつ」か「よるひる」と「日」に当て訓するか。「夜を日に継ぐ」の謂いで、昼夜の別なく、橫になると必ず、の謂いではあろう。

「被(フスマ)」「衾(ふすま)」。夜具。蒲団。ここは敷布団。

「阿房宮の賦」晩唐の名詩人杜牧(八〇三年~八五三年)の名作。原田俊介氏のサイトのこちらに原文及び阿房宮(始皇帝が建てようとした大宮殿で、咸陽の東南、渭河を越えた現在の陝西省西安市西方の阿房村に遺跡が残る。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡によって未完のままに終わった)の解説(ウィキの「宮」への嵌め込みリンク。前の解説もそれを用いた)や現代語訳もある。

「甚た急に、ほそし」「甚だ急に(にして)細し」。非常に速い調子で詠み、しかも非常に小さな声である。]

2017/09/23

老媼茶話 宣室志(柳将軍)

 

      宣室志

 

 東洛に故宅あり。むなしく鎖(トサ)して年久し。

 唐の貞元年中に盧處(ロシヨ)ぬきんせられて御史(ぎよし)となる。是によつて、その故宅を資て住(ぢゆう)せんとす。

 或人の曰、

「此宅は怪物有(あり)て、住(すむ)事、あたわす。故に久敷(ひさしく)空閑荒廢の宅となれり。」

盧かいわく、

「吾よく是を弭(ヲサメム)。」

とて、一夕(いつせき)、盧處と從吏と、只、弐人、其堂に、いねたり。

 僕にめいして、堅く鎖して人の出入をとゝむ。

 從吏は武勇にして能(よく)弓をゐる。則(すなはち)、矢を執(とり)て軒ちかく座す。

 夜半、門をたゝくものあり。從吏とへは、

「柳將軍の使なり。書を盧侍御に奉る。」

といふて、一幅の書を軒下に投(トウ)す。

 盧處、是を見るに曰、

「吾、爰(ここ)に家たる事、とし、有(あり)。堂奧軒級(トウオクケンキウ)、皆、我(わが)居(きよ)なり。門の神戸(しんと)の靈は、皆、我(わが)隷(ヤスコ)なり。しかるに君、我(わが)室に突入(トツニウ)する事、豈(あに)其理あらん哉(や)。よろしくすみやかに去るへし。はつかしめをまねく事、なかれ。」

と讀(よみ)おはれは、其書、ひらひらとして、よもにくだけちりたり。

 又、聞(きく)に、柳將軍、來り、

「盧御史にまみゑん。」

と。

 身の長(たけ)數丈にして庭上(ていじやう)に立(たちて)て、手に一瓢(いつへう)を握る。

 從吏、則引ためて放

 手に持(もち)たるふくべに當る。

 則しりそき去り、又、來りて軒に附(つき)て首をうつふして、堂を伺ふ。

 其かたち、はなはた異相なり。

 又、是を射るに、其むねにあたる。

 退き去りぬ。

 盧處、其跡をきわむるに、ひかしの空地に至りて、柳の樹の高百餘丈なるに、矢の、其上を射てつらぬきて、あり。

 これ、所謂、柳將軍なり。是より恙(つつが)なかりしと也。

 

[やぶちゃん注:「宣室志」(唐の張読の撰になる伝奇小説集。もとは十巻あったと考えられるが、散逸し、後代の幾つかの作品に引用されて残る)の「第五巻」に「盧虔」(ロケン)(本条の「盧處」は誤り)として載る

   *

東洛有故宅、其堂奧軒級甚宏特、然居者多暴死、是以空而鍵之且久。

故右散騎常侍萬陽盧虔、貞元中、爲御史分察東臺、常欲貿其宅而止焉。或曰、「此宅有怪、不可居。」。虔曰、「吾自能弭之。」

後一夕、虔與從吏同寢其堂、命僕使盡止於門外。從吏勇悍善射、於是執弓矢坐前軒下。夜將深、聞有叩門者、從吏即問之、應聲曰、「柳將軍遣奉書於盧侍御。」。虔不應。已而投一幅書軒下、字似濡筆而書者、點畫纖然。虔命從吏視、其字云、「吾家於此有年矣。堂奧軒級、皆吾之居也。門神、皆吾之隸也。而君突入吾舍、豈其理耶。假令君有舍、吾入之可乎。既不懼吾、甯不愧於心耶。君速去、匆招敗亡之辱。」。讀既畢、其書飄然四散、若飛燼之狀。俄又聞有言者、「柳將軍願見盧御史。」。已而有大厲至、身長數十尋、立庭、手執一瓢。其從吏卽引滿而發、中所執。其厲遂退、委其瓢。久之又來、俯軒而立、挽其首且窺焉、貌甚異。從吏又射之、中其胸。厲驚、若有懼、遂東向而去。

至明、虔命窮其跡、至宅東隙地、見柳高百餘尺、有一矢貫其上、所謂柳將軍也。虔伐其薪。自此其宅居者無恙。後歳餘、因重構堂室、於屋瓦下得一瓢、長約丈餘、有矢貫其柄、卽將軍所執之瓢也。

   *

これも岡本綺堂が「中国怪奇小説集」の中で「柳将軍の怪」の題で訳している。「青空文庫」のこちらで読める。

「御史」監察御史。古代中国の官名。古くは君主に近侍する史官であったが、秦代以後には主として官吏の監察に当たった。

「資て」原典で判る通り、「貿」の誤り。「貿て」ならば、「かひて」で、「買ひて」となる。

「弭(ヲサメム)」この字は動詞で「止(や)める」「止む」の意。「その怪を止めさせよう」の意。

「侍御」皇帝に直接仕える高官の尊称。

「とし、有(あり)」「とし」は「年」で、年久しい、の意。

「堂奧軒級(トウオクケンキウ)」歴史的仮名遣では「ダウアウケンキフ」が正しい。家屋の奥まったところ(一般に主人の妻及び二人の閨房)や軒廂(のきびさし)や階段に至るまで屋敷内総ての意。

「門の神戸(しんと)の靈」中国の仏教寺院や道教道観だけでなく、一般住宅などの建物の入口に立ち、門番の役目をするとされた門神(もんしん)。参照したウィキの「によれば、『検閲を司り、悪鬼から門を守るとの伝えから春節に中国各地の門戸に貼られる』。『観音開きの木戸が多いため、左右の扉の外に面した側に一対の門神が貼られる、または描かれるのが普通。中国においては、民間伝説としてよく知られている秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)が対で描かれるか、一枚扉の場合は、魏徴または鍾馗が描かれることが多い』。『門神の歴史は古く、前身は「桃符」または「桃板」と呼ばれる木であった。古代中国において桃木は「五木の精」であり、邪気を避けることができると考えられた。このため、漢代には、魔除けとして飾ることが始まった。桃木には文字や模様を刻む場合もあり、これが対聯や年画の原型となった』。『南北朝時代以降、紙が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。神荼と鬱塁を描いて貼ることが流行した。梁(南朝)の宗懍の『荊楚歳時記』には、元日に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。唐代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた』とある。

「隷(ヤスコ)」「隷」は下級の召使いであるから、判るが、ルビの「ヤスコ」は不詳。「養い子」或いは養って「増やす子」か? 識者の御教授を乞う。

「よもにくだけちりたり」「四方(よも)に碎け散りたり」。

「數丈」唐代の一丈は三・一一メートル。再来襲した際、「軒に附(つき)て首をうつふして堂を伺ふ」とあり、正体の柳の樹も「百餘丈」もある(これは誇張に過ぎるが)というのだから、十数メートルは有に越える巨人と読んだ方が面白い。

「ふくべ」「瓢」。

「しりそき」「退き」。

「ひかし」東。]

老媼茶話 酉陽雜俎曰(樹怪)

 

      酉陽雜俎曰

 

[やぶちゃん注:「曰」はママ。「に曰(いは)く」であるが、標題とするなら、初めから総てに附すべきであるが、この前の三条にはない。この後にも三条に附されてある。この注は以下、略す。]

 

 洛陽の臨湍(リンセン)寺の僧知通、常に法花經を誦し、座禪行道(ぎやうだう)す。好(このみ)て閑靜の地をもとむ。人跡至らさる處、年をへて、おこたらす。

 或夜、人有(あり)、庵室をめくりて、知通を呼ふ。知通、答(こたへ)て、

「我をよふは何ものそ。入來ていふべし。」

 怪物の長六尺あまりありて、面色、靑く、目を見はり、口、大にして、耳際(みみぎは)まて裂(さけ)たるか、僧の前に立(たち)て合掌す。

 知通かいわく、

「なんし、さふきや。この火につひて、身をあたゝめよ。」

といふ。

 ばけもの、座につゐて火に向ひ、一言を、ましえず。

 妖物、火に醉(ゑひ)て口をひらき、目をふさぎ、爐によりて、ふして、鼾(いびき)をかく。

 知通、則(すなはち)、香匙(ケウシ)を以て灰火(アツハイ)をあけて、口の内埋(うづ)み入(いれ)たり。

 妖物、大にさけひ起て、はしり出(いづ)るに、つまつき、倒れたる聲、あり。

 知通、そのつまつきたる處へ行てみるに、木の皮、壱片を得たり。

 是を取(とり)て、山にのほり、尋ぬるに、大なる桐の木有り。

 其木のもと、くほみて、あらたにそげたる跡あり。木の皮を附(つけ)て見るに、合(あひ)て違(たが)ひなし。

 木のこしに、きず、あり。落入たる事、六、七寸。蓋し、妖物(ばけもの)の口にして灰火(アツハイ)、其うちにあり。久しく奕(エキ)々螢(ケイ)々たり。

 知通、火を以て燒倒(やきたふ)すに、妖物なかりし、となり。

 

[やぶちゃん注:これは既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」』に出、その注で原典も紹介したのでそちらを参照されたい。なお、三坂は主人公「智通」を「知通」に誤まり、寺の名を「臨湍寺」と誤り(「臨湍」(別本では「臨瀨」)は地名であって寺の名は示されていない)、「香匙」の読みを「ケウシ」と誤っている。後者は正しくは、呉音なら「カウジ(コウジ)」、漢音なら「キヤウジ(キョウジ)」でなくてはならないなお、これも岡本綺堂が「中国怪奇小説集」の中で「怪物の口」の題で訳している。「青空文庫」のこちらで読める。

「さふきや」「寒きや」。「寒いか?」。

「つひて」「就て」。寄って。

「ましえず」「申(ま)し得ず」。

「香匙(ケウシ)」仏事に於いて香(こう)を火にくべるために掬う匙(さじ)。

「灰火(アツハイ)」暖房用の炉の中の消え残っている埋もれ火を含んだ灰炭(はいずみ)。

「奕(エキ)々螢(ケイ)々」(エキエキケイケイ)は光り輝くさま。]

老媼茶話 廣異記(山魈その2)

 

     廣異記

 

 山魈(サンセウ)は嶺南にあり。獨足(どくそく)にして、踵(キビス)、うしろに向ふ。手足ともに三ッゆひなり。天寶年中、北地の商人、嶺南に至り、山中にて、忽ち、牝(ヲンナ)山魈に逢ふ。再拜して脂粉(シフン/ベニヲシロイ)をあたふ。山魈、甚(はなはだ)よろこんて曰、

「此樹下に安寢(あんしん)せよ。われ、よく、まもらん。」

といふ。

 中夜(ちうや)に、ふたつの虎、來れり。山魈、乃(イマ)し、手を以て、虎の頭を撫(なで)て曰、

「斑子(ハンシ)去。わが客、います。」

と。ふたつの虎、耳をすへて去

 夜明けて、辭謝してわかれされり、といへり。

 山魈、其牝(ヒン/ヲンナ)は脂粉(ベニヲシロイ)を好み、其牡(ヲ)は金錢を求むといふ。

 

[やぶちゃん注:これは「廣異記」の「八」にある一塊りの「山魈」譚からの抜粋である。

   *

山魈者、嶺南所在有之。獨足反踵、手足三歧、其牝好傅脂粉。於大樹空中作窠、有木屏風帳幔、食物甚備。南人山行者、多持黃脂鈆粉及錢等以自隨。雄者謂之「山公」、必求金錢、遇雌者謂之「山姑」、必求脂粉。與者能相護。

唐天寶中、北客有嶺南山行者、多夜懼虎、欲上樹宿、忽遇雌山魈。其人素有輕齎、因下樹再拜、呼「山姑」。樹中遙問、「有何貨物。」。人以脂粉與之。甚喜、謂其人曰、「安臥無慮也。」。人宿樹下、中夜、有二虎欲至其所。山魈下樹、以手撫虎頭曰、「斑子、我客在、宜速去也。」。二虎遂去。明日辭別、謝客甚謹。其難曉者、每中與人營田、人出田及種、餘耕地種植、並是山魈。穀熟則來喚人平分、性質直、與人分、不取其多。人亦不敢取多、取多者遇天疫病。

天寶末、劉薦者爲嶺南判官。山行、忽遇山魈、呼爲「妖鬼」。山魈怒曰、「劉判官、我自遊戲、何累於君、乃爾罵我。」。遂於下樹枝上立、呼、「班子。」。有頃、虎至、令取劉判官。薦大懼、策馬而走、須臾爲虎所攫、坐下。魈乃笑曰、「劉判官、更罵我否。」。左右再拜乞命。徐曰、「可去。」。虎方捨薦。薦怖懼幾絶、扶歸、病數日方愈。薦每向人其事。

   *

「嶺南」中国南部の「五嶺」(越城嶺・都龐(とほう)嶺(掲陽嶺とも称す)・萌渚(ほうしょ)嶺・騎田嶺・大庾(だいゆ)嶺の五つの山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当し、部分的には華南とも重なっている。更に、かつて中国がベトナムの北部一帯を支配して紅河(ソンコイ河)三角州に交趾郡を置くなどしていた時期にはベトナム北部も嶺南に含まれていた。

「獨足(どくそく)」一本足。本書の「山魈」の注を参照されたい。

「踵(キビス)、うしろに向ふ」これおかしくね? 踵は後ろに向いているよ、三坂殿。ここは「踵(キビス)、前に向ふ」でしょ?

「三ッゆひ」「三つ指」。前肢(と言っても足は一本だから三肢)の指がそれぞれ三本しかないことを謂う。

「天寶」唐の玄宗の治世の後半七四二年から七五六年まで。先に出た「開元の治」の反対で、唐王朝の危機の時期。元年には玄宗お気に入りの安禄山が平盧節度使となり、三年には安禄山は范陽節度使を兼任、楊太真が玄宗の後宮に入って(因みに、この年から唐王朝は年次表記を「年」から「載」に改めている)、翌年、彼女は貴妃の位を賜って楊貴妃となっている。同十四載に安史の乱が勃発し、洛陽から玄宗以下が蒙塵し、安禄山に占拠されてしまう。翌十五載の六月に玄宗の子の粛宗が即位して、至徳と改元されている(以上はウィキの「天宝に拠った)。

「北地」華北。

「牝(ヲンナ)山魈」「ヲンナ」は「牝」の左ルビ。

「中夜(ちうや)」夜半。

「乃(イマ)し」丁度、その時、すかさず。

「「斑子(ハンシ)」虎の異名。ここは愛称のように聴こえて、何だか、すこぶる納得。

「耳をすへて」「据えて」。獣類の大人しくするさま。]

老媼茶話 述異記(山魈)

 

     述異記

 

 もろこしに王宇窮といふもの、川のなかれに蟹の落(おつ)るをとらん爲、簗(ヤナ)をつくりて、をく。あしたに行みるに材頭(サイトウ/サイモクキリカブ)壱長(たけ)弐尺はかり、是(これ)かために、簗(ヤナ)やふれて、蟹(カニ)、皆、いづ。則(すなはち)、簗をつくろひ、材頭をかたはらに捨て歸。あくるあした、往(ゆき)て見る。材頭、又、簗のうちにありて、やふるゝ事、前のことし。又、修治(ツクロイ)して、次のあした、行みるに、初めのことし。

 王宇窮、是を疑ふ。

「此(この)材頑は、何樣(いかさま)、妖(ハケ)物也。」

とおもひ、蟹のかごにとり納め、家へかへる。

「まさに割(わり)て火にやくへし。」

と。

 家ちかくに成(なり)て、籠のうち、動轉して、しつ(窣)しつの聲あり。是を見るに材頭、變して一物となる。人のおもて、猿の身也。手壱、足壱あり。

 宇窮に語て曰、

「我、うまれて蟹をこのむ。まことに水中に入り、簗を損する罪ありといへとも、今、是をゆるし、籠をひらき、我をいたさは、相むくふて、蟹を多くとらしめん。我は是(これ)、山の神なり。」

といふ。

 宇窮か曰、

「汝、山の神にてあらはあれ、前後已犯す所、壱度にあらす。つみゆるすへからす。」

 此もの、ねんころに、

「放していだすへし。」

とわびるといへとも、王宇窮、ゆるさす。

 其(その)性名をとへとも、宇窮、答へすして、家、いよいよ近つく。

 其物いはく、

「既に我をゆるさす、其性名をとへとも答へす。われ、はかり事なし。只、死につくのみ。」

 宇窮、則、家にかへりて、燒火(たきび)を以て是をやくに、寂(セキ)として、こよなる事なし。

 王宇窮、すへき樣(やう)なく、ゆるしてかへらしむといへり。

 土俗の曰、

「是、山魈(さんせう)と名つく。人の性名をしれは、能く是にあたりて、人をそこのふ。またよく蟹を喰。」

といへり。

 

[やぶちゃん注:これは「太平廣記」が「述異記」から引くとする、「鬼八」の中の以下の「富陽人」である。

   *

宋元嘉初、富陽人姓王、于窮瀆中作蟹。旦往視、見一材頭、長二尺許、在裂開、蟹出都盡、乃修治、出材岸上。明往看之、見材復在中、敗如前。王又治、再往視、所見如初。王疑此材妖異、乃取納蟹籠中、繫擔頭歸、云。至家當破燃之。未之家三里。聞中倅倅動。轉顧、見向材頭變成一物、人面猴身、一手一足、語王曰。我性嗜蟹。此寔入水破若蟹。相負已多、望君見恕。開籠出我、我是山神、當相佑助。使全大得蟹。王曰。汝犯暴人、前後非一、罪自應死。此物轉頓、請乞放、又頻問君姓名爲何、王囘顧不應答。去家轉近、物曰。既不放我、又不告我姓名、當復何計、但應就死耳。王至家、熾火焚之、後寂無復異。土俗謂之山魈、云、知人姓名、則能中傷人、所以勤問、正欲害人自免。

   *

であるが、三坂は読み違えて、姓名として「王于窮」としてしまっているが、「于」は場所を示す助字であり、「窮」は単字ではなく「窮瀆」(キュウトク)であって、川の小さな浅瀬の意であるから、主人公は、ただ「王」である。「蟹」(カイダン)は蟹を獲るための竹製の籠のこと。なお、「太平廣記」には別に「妖怪二」に「搜神記」からの引用として殆んど変わらない話を「富陽王氏」として載せている。但し、現在の「搜神記」にはこの話は載らない。なお、岡本綺堂が本話を「中国怪奇小説集」の中で「山𤢖」(さんそう)の題で訳している。「青空文庫」のこちらで読める。

「簗(ヤナ)」本邦では狭義には、川の瀬に杭などを八の字形に並べて打ち込んでおいて、水を堰き止めて一ヶ所だけを開けておき、そこに簀棚(すだな:簀子(すのこ)で出来た高くした棚)を設けて、流れてくる魚をそこで受けて捕獲する仕掛けを指すが、簀棚の代わりに竹製の筌(うけ:外側が網状になっており、漏斗状に形作った口から入ってきた魚介類を閉じこめて捕獲する漁具)を用いた筌簗(うけやな)もあり(或いは筌のみを単独でも用いる)、ここは、それ。

「材頭(サイトウ/サイモクキリカブ)」「サイトウ」が原典の右ルビ、「サイモクキリカブ」が左ルビ。以下、同じなのでこの注は略す。

「弐尺はかり」「はかり」は「許(ばか)り」。「述異記」は南朝梁の任昉(じんぼう)の撰とされる志怪小説集であるから、当時(東晋期)の一尺は二十四・二五センチメートルしかないので、四十八・五センチメートルであるから、約五十センチメートル弱。

「やふれて」「破れて」。

「しつ(窣)」「窣」は原典の「しつ」への振漢字(前と同様に以下ではこの注は略す)で、:「窣」(音「ソツ・ソチ」)は、軽いものや薄いものが触れ合う時に出る小さな音で「カサカサ・ガサガサ・サラサラ・ゴソゴソ・カサコソ」等のオノマトペイア。ここは籠が大きく転び動くのであるから、「ガザゴソ」がよかろう。

「人のおもて、猿の身也」人面にして、猿の身体(からだ)である。

「手壱ッ、足壱ッあり」手も足も一本しかないことを言う。

「我をいたさは」「我れを致さば」。この「致す」は補助動詞の丁寧語の用法か。私を(そのように許して)呉れましたならば。

「山の神にてあらはあれ」「あらはあれ」は「あらばあれ」。「山の神だろうが、何だろうが、な、この野郎!」といった怒り心頭の喝破である。

「壱度にあらす」「一度にあらず」。

「ねんころに」「懇ろに」。心を籠めて(いるよう)に丁寧に。

「放していだすへし」どうか許してお解き放ち下され。

「其(その)性名をとへとも」「その姓名を問へども」

「はかり事なし」どうしようもない。

「寂(セキ)として、こよなる事なし」「王宇窮、すへき樣(やう)なく、ゆるしてかへらしむ」「こよなる」は底本のママで、底本では「よ」の横に「と」と編者が訂正注する。「異なる事なし」である。ここは全体が三坂のトンデモ誤読であると私は思う。「太平廣記」の原典を見ると「後寂無復異」であって、これは「後、寂として復た、異(い)無し」で、岡本綺堂などは「寂(せき)としてなんの声もなかった」と同時空間的エンディングとするのであるが、どうもシークエンスのキマリ文句としては尻が落ち着かぬこれは寧ろ、志怪小説によくある、「その後は、簗の破れることもなくなり、すっかり奇異なことは起こらなくなった」と読むべきであろう。事実、明治書院の「中国古典小説選2」(二〇〇六年刊)の訳もそのようになっている。何より、「王宇窮、すへき樣(やう)なく、ゆるしてかへらしむ」というシーンは原話にもなく、三坂自身も、どうにも据わりの悪いラスト・シーン(の誤訳)に窮して、敷衍して蛇足したものと私には読めるのである。

「山魈(さんせう)」現代仮名遣では「さんしょう」。中国古代の山中に棲む一本足の妖怪の名。綺堂の訳の「山𤢖」(さんそう)とは恐らくは元は異なるのではないかと私は思うが、ウィキの「によれば、中国の古書「神異経」には、『西方の深い山の中に住んでおり、身長は約』一『丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気にかかるという。食習慣や、殺めた人間が病気になるといった特徴は、同じく中国の山精(さんせい)にも見られる』とあり、そのウィキの「を見ると、『中国河北省に伝わる妖怪』『山鬼(さんき)とも』称し、「和漢三才図会』」では『中国の文献が引用した解説が載っている。それによると、安国県(現在の中国の安国市)に山精はおり、身長は』一尺或いは三~四尺で、一本だけ『生えている足は』、『かかとの向きが前後逆についており』(本書の次条「廣異記」を参照)、『山で働く人々から塩を盗んだり、カニやカエルをよく食べたりする。夜に現れて人を犯すが、「魃」(ばつ)の名を呼ぶと彼らは人を犯すことが出来なくなるという』(本話の最後に語られる内容を逆手にとった人間の方から先に「言上げ」することによる絶対的な神怪の退治法)。また、『人の方が山精を犯すと、その人は病気になったり、家が火事に遭ったりするという。また』、「和漢三才図会」に於いては『「山精」という字には「片足のやまおに」という訓がつけられている』とし、再び、ウィキの「に戻ると、やはり「和漢三才図会」には『山𤢖(さんそう)に対して「やまわろ」の訓が当てられている。「やまわろ」という日本語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた』とある。その辺りは、どうぞ、私の寺島良安和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類の「山𤢖(やまわろ)」及び「山精(かたあしのやまおに)」等をじっくりとお読み戴きたいし、本邦の「やまわろ」や「山男」についても、本「怪奇談集」の「想山著聞奇集 卷の貮 𤢖が事」等々で散々っぱら電子化注してきたので、これくらいにしておく。因みに、現代中国語の「山魈」は実在する生物種、かの哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科マンドリル属マンドリル Mandrillus sphinx の漢名である。

「人の性名をしれは、能く是(ここ)にあたりて、人をそこのふ」「是(ここ)にあたりて」とは「人の姓名を知ることによって、ある強いパワーを現実の対象物にぶつけ当てて」の謂いで、その結果として「人をそこのふ」、「損なう」、傷つけるのである。相手の姓名を名指すこと(言上げすること)によってその相手を支配したり、征服したり、傷つけ、果ては殺すことが出来るというのは、まさに中国に於いて真正な本名に纏わる、というよりも、言霊(ことだま)に関わる汎世界的な呪術の最たるものである。]

老媼茶話 松風庵寒流(三坂春編(はるよし))始動 / 序・太平廣記(生きた胴体)

 

[やぶちゃん注:三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」のオリジナル電子化注に入る。本書の読みは現代仮名遣で「ろうおうちゃわ」「ろうおうちゃばなし」などの読みで紹介されているものもあるが、私は底本序文の編者による現代仮名遣のルビ「ろうおうさわ」を採用するものである。

 作者松風庵寒流、三坂春編は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている。これは三好想山の「想山著聞奇集 卷の參の「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事(リンク先は私の電子化注)に載る割注に、

   *

此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後[やぶちゃん注:後裔。]、寛保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。[やぶちゃん注:「零本」:完全に揃っている本を完本と称するのに対し、半分以上が欠けていて、残っている部分が少ない場合を「零本」という。零は「はした・少し」の意で「端本(はほん)」に同じい。]

   *

にあること、後に示す「續帝國文庫」の「近世奇談全集」の序の後に附された「後人附記」等によりほぼ確定と言える。

 底本は一九九二年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫26 近世奇談集成[一]」を用いたが、例によって恣意的に漢字を概ね正字化した。また、底本の凡例には編者が振仮名を附したとあるだけで、その仮名遣については附言がない。ところが本文を見ると、編者の追加した平仮名の振仮名(原典にはカタカナの振仮名の他、若干の平仮名のもの及び振漢字があり、それは本電子化で採用した)は歴史的仮名遣ではなく、現代仮名遣であり、原典の本文や振り仮名と混合されると、私には頗る気持ちが悪い。そこで、ここでは追加する読みは、私が必要と判断した箇所に限り、しかも歴史的仮名遣で、ストイックにオリジナルに附すこととした。これは同時に底本の編集権を侵害せず(私は基本的に編集権侵害なるものは丸ごとその本を無断で複製すること以外にはないと考えているので実際には微塵もそう思ってはいないのだが)、全体がオリジナルな、しかも原典(私は底本の親本である写本の宮内庁書陵部本を無論、見たこともないし、本作が載る明治三六(一九〇三)年刊の正字本の「續帝國文庫」の「近世奇談全集」(柳田國男・田山花袋編・校訂)も所持しないが)に近いものとなると信ずる。二行割注は【 】で示した。句読点及び記号を一部でオリジナルに除去・変更・追加し、一部に改行を施した。踊り字「〱」は正字化した。字配りはブログ公開を考え、底本に従ってはいない。

 実は、私は既に本作の中の最上級の怪談の一篇である「入定の執念」を自己サイトで電子化訳注している。それだけ、思い入れの深い怪奇談集である。但し、最初の第一巻は主に中国の志怪小説や怪奇談随筆のごく短い紹介短文であって、実はそれらに親しんでいる私にはあまり面白いとは思われないのであるが、恐らく、三坂はこれらを示すことで、自身の怪奇談をそれらに比すべきものたらんと叱咤する覚悟の表われであり、オリジナリティの表明ともとれる。

 目次は以下に示す序文の後に続くが、それは全電子化を終えた後に附すこととする。【2017年9月23日始動 藪野直史】]

 

 

老媼茶話

 

 

     序

 

 山里は、常さへひとめまれなるに、神無月廿日あまり、時雨ふりあれて淋しきゆふへゆうへ、近くの老媼・村老の夜の長さをくるしみ、夜每に我草庵におとつれ來て、爐をめくり、茶を煮て、をのかとち、さまさま、ものかたりなしぬるを、予はかたはらに聞居て、つれつれのあまり書集めしに、いつとなく十六册になりぬ。もとよりいやしき村老や姥の茶番かたりなれは、虛妄の説のみにして十に壱もとる所なしといへとも、心有(こころある)人に見すへきにしもあらす、只をさなきはらへの耳をよろこはしめむと、しるして「老媼茶話」と名つくるもの也。

 

 于時寛保二年十月廿二日

           邊隅幽栖柴扉散人

                松風庵寒流

 

 さみしさにおなしこゝろの友もかな雨にふけゆくねやの灯

 

[やぶちゃん注:「ひとめまれなるに」「人目稀なるに」。

「ふりあれて」降り荒れて」。

「ゆふへゆうへ」「夕べ夕べ」。

「めくり」「巡り」。

「をのかとち」「己がどち」。自分ら同郷の仲間内(うち)にて。

「茶番かたり」「茶番語り」。茶を呑み交わす際の底の見え透いた下手な馬鹿げた物語り。謙辞。

「はらへ」童(わらべ)。

「于時」普通は「ときに」と訓じて、「今現在」の意。

「寛保二年」寛保二年壬戌(みづのえいぬ)。一七四二年。第八代将軍徳川吉宗の治世。

「邊隅幽栖柴扉散人」「へんぐういうせいさいひさんじん」と音読みしておく。「松風庵寒流」(同じく「しようふうあんかんりう」と読んでおく)とともに三坂吉編の号と思われる。]

 

 

老媼茶話卷之壱

 

     太平廣記

 

 淸河の崔廣宗(さいこうそう)といふもの、もろこし開元年中、法をおかして刑に逢ふて、首をはねられて、獄門にかけられたり。しかれとも、むくろは死せさりしかは、家人、かきて、家へかへりしに、うえたる時は、卽ち、地にゑかきて、「うゆる」といふ文字を、ゆひにて、かく。家人、則(すなはち)、食をすりくすにして、首刎(はね)たる跡の穴に入るゝに、あけば、「止」といふ字を、かく。家人、罪あれは、其罪の次第を書(かき)あらはして、いましむ。只、言語なし。三、四年過(すぎ)て、ひとり、男兒、うましむ。ある日、地に書していわく、

「明日かならす死せんまゝ、葬禮の具をそなへしめよ」

と。果して翌日、死したり。

 

[やぶちゃん注:これは「太平廣記」の「妖怪九」に「廣古今五行記」(唐の竇維(とうい)の撰になる志怪小説集)から引くとする「崔廣宗」。

   *

淸河崔廣宗者、開元中爲薊縣令。犯法、張守珪致之極刑。廣宗被梟首、而形體不死。家人舁歸。每飢、卽畫地作「飢」字。家人遂層食於頸孔中。飽卽書「止」字。家人等有過犯、書令決之。如是三四、世情不替。更生一男。於一日書地云。後日當死、宜備凶具。如其言也。

   *

「淸河」複数ある地名であるが、底本の編者による「せいか」という清音ルビや、歴史的な事実と薊県(現在の天津市薊州区)の県令であったとする辺りから推すと、現在の河北省邢台(けいだい)市清河(せいか)県か((グーグル・マップ・データ))。

「開元年中」七一三~七四一年。玄宗の治世の前半で、楊貴妃に惑わされる以前の彼が善政を行った「開元の治」の時期で、唐の絶頂期とされる。

「むくろは死せさりしかは」首を刎(は)ねられた胴体は不思議なことに死ななかったために。

「かきて」「舁きて」。担いで。

「うえたる時は」首のない生きた胴体だけの崔廣宗が餓えを覚えた時には。

「ゆひ」「指」。

「すりくす」「擂(す)り屑(くず)」。細かく砕いた状態。首がないので噛むことが出来ないからぐちゃぐちゃにすり砕いた食物を切断された首の食道部に押し入れたのである。荒唐無稽な中にあって妙にリアルであるところが猟奇的であると同時に面白い。

「あけば」「飽けば」。首のない生きた胴体だけの崔廣宗が充分に食って食い飽きたと感じた際には。

「家人、罪あれは、其罪の次第を書(かき)あらはして、いましむ」家人の中で罪を犯した者があれば、その処罰の内容を指で地に書いて諫めた。

「ひとり、男兒、うましむ」驚くべきことに、首のない生きた胴体だけの崔廣宗は、妻と交合もしていたのである。これはブッ飛んだ猟奇と言える。]

2017/09/22

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)

 

和漢三才圖會卷第五十四

   濕生類

 


Hikigaeru

 

ひきかへる  𪓰 蚵

 䗇鼁 𪓰𪓿

       苦 癩叚蟇

蟾蜍

       【和名比木】

唐音
チエンチエイ

本綱蟾蜍【辛凉徴毒】其皮汁甚有毒在人家下濕處形大背上

多痱磊鋭頭皤腹促睂濁聲不解鳴行極遲緩不能跳躍

吐生擲糞自其口出也或取之反縛着密室中閉之明且

視自解者

抱朴子云蟾蜍千歳頭上有角腹下丹書名曰肉芝能食

山精人得食之可仙術家取用以起霧祈雨辟兵自解縛

今有技者聚蟾爲戯能聽指使物性有靈於此可推

蟾有三足者而龜鼈皆有三足則蟾之三足非怪也蓋蟾

蜍土之精也上應月魄而性靈異穴土食蟲又伏山精制

蜈蚣故能入陽明經退虛熱行濕氣殺蟲𧏾而爲疳病癰

疽諸瘡要藥五月五日取東行者陰乾用

土檳榔 蟾蜍屎也下濕處往往有之亦能主疾

△按蟾蜍實靈物也予試取之在地覆桶於上壓用磐石

明旦開視唯空桶耳又蟾蜍入海成眼張魚多見半變

――――――――――――――――――――――

蟾酥

    蟾蜍眉間白汁謂之蟾酥其汁不可入

    人目令人赤腫盲以紫草汁洗點卽消

 取蟾酥法以手捏眉稜取白汁於油紙上及桑葉上挿

 背陰處一宿卽自乾安置竹筒内盛之或以蒜及胡椒

 等辣物納口中則蟾身白汁出以竹箆刮下麪和成塊

 乾之味甘辛温有毒主治疳疾及疔惡腫

△按蟾酥倭不製之用自中華來者正黒色如墨而平圓

 是麪和成塊者矣【辛微苦微甘】畧似阿仙藥氣味而帶辛

 

ひきがへる  𪓰〔(きよしう)〕 蚵〔(かは)〕

       䗇鼁〔(きくきよ)〕 𪓰𪓿〔(しうし)〕

       苦〔(くらう)〕 癩叚蟇〔(らいがま)〕

蟾蜍

       【和名、「比木〔(ひき)〕」。】

唐音
チエンチエイ

「本綱」蟾蜍【辛、凉、徴毒。】其の皮汁、甚だ毒有り。人家〔の〕下濕の處に在り。形、大に〔して〕、背の上に痱-磊〔(ひらい)〕多く、鋭〔き〕頭、皤(しろ)き腹、促(みぢか)き睂(まゆ)、濁れる聲、鳴くこと、解せず。行くこと、極めて遲く緩やかにして、跳び躍〔(はね)〕ること、能はず。吐生〔(とせい)〕して擲〔(なげう)〕つ。糞、其口より出だすなり。或いは之れを取りて反-縛(しば)りて密室の中に着きて之れを閉〔じ〕、明くる且(あさ)視るに、自〔(おのづから)〕解く者なり。

「抱朴子」に云はく、蟾蜍、千歳すれば、頭の上に、角、有り、腹の下に丹書〔(たんしよ)〕有り。名づけて「肉芝〔(にくし)〕」と曰ふ。能く山精を食ふ。人、得て、之れを食ふ。仙術家に取〔り〕用〔ふ〕べし。以つて霧を起し、雨を祈り、兵を辟〔(さ)〕け、自〔(おのづか)〕ら縛(しば)れるを解く。今、技者(げいしや)有りて、蟾を聚めて、戯と爲〔(な)すに〕、能く指使〔(しし)〕を聽く。物性の靈有ること、此に於いて推〔(お)〕すべし。

蟾、三足の者、有り。而〔れど〕も、龜・鼈〔(すつぽん)〕にも、皆、三足有るときは、則ち、蟾の三足も怪しむに非ざるなり。蓋し、蟾蜍は土の精なり。上〔は〕月-魄〔(つき)〕に應じて、性、靈異〔たり〕。土に穴して蟲を食ふ。又、山精を伏し、蜈蚣(むかで)を制す。故に、能く陽明經〔(ようめいけい)〕に入りて虛熱を退け、濕氣を行(めぐら)し、蟲𧏾〔(ちゆうじつ)〕を殺す。而して、疳病・癰疽〔(ようそ)〕・諸瘡の要藥と爲す。五月五日、東へ行く者を取りて、陰乾しにして用ふ。

土檳榔〔(どびんらう)〕 蟾蜍の屎〔(くそ)〕を〔いふ〕なり。下濕の處に、往往、之れ、有り。亦た、能く、疾を主〔(つかさど)〕る。

△按ずるに、蟾蜍は實〔(まこと)〕に靈物なり。予、試みに之れを取りて地に在(を)き、桶を上に覆ひて、壓(をしもの)に磐石〔(ばんじやく)〕を用ゆる。明旦、開き視れば、唯、空桶のみ。又、蟾蜍、海に入りて眼張(めばる)魚と成る。多く半〔ば〕變〔ずる〕を見る。

――――――――――――――――――――――

蟾酥(せんそ)

蟾蜍の眉間〔(みけん)〕の白汁、之れを「蟾酥」と謂ふ。其の汁、人の目に入るるべからず。人〔の目〕をして赤〔く〕腫〔らせ〕て盲〔(めしひ)〕ならしむ。紫草の汁を以つて洗〔ひ〕點ずれば、卽ち、消ゆ。

蟾酥を取る法 手を以つて眉の稜(かど)を捏(ひね)り、白汁を油紙の上及び桑の葉の上に取り、背陰(かげうら)の處に挿すこと、一宿すれば、卽ち、自〔(おのづか)〕ら乾く。竹筒の内に安置〔して〕之れを盛る。或いは、蒜〔(ひる)〕及び胡椒等の辣〔(から)〕き物を口中に納〔(い)〕るれば、則ち、蟾、身(みづか)ら、白汁を出だす。竹箆(〔たけ〕べら)を以つて刮-下(こそげ)、麪〔(むぎこ)〕に和し、塊(かたま)りと成し、之れを乾〔(ほ)〕す。味、甘く辛、温。毒、有り。疳疾及び疔(ちやう)・惡腫を治することを主〔(つかさど)〕る。

△按ずるに、蟾酥、倭〔(わ)〕に之れを製せず。中華より來たる者を用ふ。正黒色、墨のごとくにして平圓〔(へいゑん)〕。是〔れ〕、麪〔(むぎこ)〕に和して塊りを成す者か【辛、微苦。微甘。】。畧〔(ほぼ)〕、阿仙藥の氣味に似たり。辛(から)みを帶ぶ。

 

[やぶちゃん注:ヒキガエル類は怪奇談にしばしば妖怪の一種として出現し、私の「耳囊」カテゴリ「怪奇談集」にも沢山出てきたため、実はもの凄い数の注を私は過去に附してきた。ここでは生物学的に厳密なその決定注として示したいのであるが、まずは、

脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae に属するヒキガエル類

である。これは本稿の大分が中国本草書の引用であるから、どうしても最初はここで留めておく必要があるのである。ウィキの「ヒキガエル科」によれば、『四肢が比較的短く、肥大した体をのそのそと運ぶ。水掻きもあまり発達していない』。『後頭部にある大きな耳腺から強力な毒液を出し、また、皮膚、特に背面にある多くのイボからも、牛乳のような白い有毒の粘液を分泌する。この毒によって外敵から身を守り、同時に、有害な細菌や寄生虫を防いでいる。不用意に素手でふれることは避けるべきで、ふれた場合は後でよく手洗いする必要がある。耳腺の毒液は勢いよく噴出することもあるので、これにも注意を要する。この毒液には心臓機能の亢進作用、即ち強心作用があるため、漢方では乾燥したものを蟾酥(せんそ)と呼んで生薬として用いる。主要な有効成分はブフォトキシン』(bufotoxin:激しい薬理作用を持つ強心配糖体の一種。主として心筋(その収縮)や迷走神経中枢に作用する)『などの数種類の強心ステロイドで、他に発痛作用のあるセロトニン』(serotonin:血管の緊張を調節する。ヒトでは生体リズム・神経内分泌・睡眠・体温調節など重要な機序に関与する、ホルモンとしても働く物質である)『のような神経伝達物質なども含む』とある。

 さて問題は良安の記述及び本邦での「ひきがえる」であるが、これは一般的には、現在は本邦固有種と考えられている(以下の記載はウィキの「ニホンヒキガエル」に拠る)、

ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus

と同定してよいであろう(他にもヒキガエル類はいるが、ここでは、これで代表させて問題ない)。その体色は褐色・黄褐色・赤褐色などで、白・黒・褐色の帯模様が入る個体もおり、変異が大きく、体側面に赤い斑点が入る個体が多く、背にも斑点が入る個体もいる。但し、さらに言えば、厳密には現在、このニホンヒキガエルはさらに以下の二亜種に分けられている

亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus

(本邦の鈴鹿山脈以西の近畿地方南部から山陽地方・四国・九州・屋久島に自然分布する。体長は七~十七・六センチメートル。鼓膜は小型で、眼と鼓膜間の距離は鼓膜の直径とほぼ同じ

亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus

(本邦の東北地方から近畿地方・島根県東部までの山陰地方北部に自然分布する。体長六~十八センチメートル。鼓膜は大型で、眼と鼓膜間の距離よりも鼓膜の直径の方が大きい

なお、本来、本種が存在しなかった北海道への移入については、引用元を参照されたい。

 以下、ウィキの「ニホンヒキガエル」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『四六のガマと呼ばれるが、前肢の指は四本、後肢の指は五本。繁殖期のオスにはメスを抱接する際に滑り止めとして後肢にコブ(婚姻瘤)ができるためそれを六本目の指と勘違いしたと』も言われる(引用元には要出典要請が掛けられてあるが、私は複数の書物でこの説を読んでおり、疑問視する必要はないと考える)『の亜種とされていたが、分割され』て『独立種となった。ヘモグロビンの電気泳動法による解析では、両亜種の解析結果がナガレヒキガエル』(ヒキガエル属ナガレヒキガエル Bufo torrenticola:日本固有種で北陸地方から紀伊半島にかけて自然分布し、体長はで七~十二・一センチメートル、で八・八~十六・八センチメートル)『とは類似するものの』、『ヨーロッパヒキガエルとは系統が異なる(近縁ではない)と推定されている』。『低地から山地にある森林やその周辺の草原などに生息し、農耕地、公園、民家の庭などにも広く生息する。本種は都市化の進行にも強い抵抗力を示し、東京の都心部や湾岸地域でも生息が確認されている』。『夜行性で、昼間は石や倒木の下などで休む。ヤマカガシは本種の毒に耐性があるようで好んで捕食する。ヤマカガシの頚部から分泌される毒は、本種の毒を貯蓄して利用していることが判明している』。『本種を含め、ヒキガエル類は水域依存性の極めて低い両生類である。成体は繁殖の際を除いて水域から離れたまま暮らしており、とりわけ夏季には夜間の雑木林の林床や庭先等を徘徊している姿がよくみられる。体表のイボや皺は空気中における皮膚呼吸の表面積を最大化するためと考えられている。また後述のように、繁殖に必要とする水域規模もまた、相対的に小さくて済むようになっている』。『食性は動物食で、昆虫、ミミズなどを食べる』。『繁殖形態は卵生。繁殖期は地域変異が大きく南部および低地に分布する個体群は早く(屋久島では九月)、北部』及び『高地に分布する個体群は遅くなる傾向があり(立山や鳥海山では七月)。池沼、水たまり、水田などに長い紐状の卵塊に包まれた千五百~一万四千個(基亜種』で『六千~一万四千個、亜種アズマヒキガエル』で『千五百~八千個)の卵を産む。多数個体が一定の水場に数日から一週間の極めて短期間に集まり繁殖する(ガマ合戦、蛙合戦)。南部個体群は繁殖期が長期化する傾向があり、例として分布の南限である屋久島では日本で最も早い九月の産卵例、十一月の幼生の発見例(十月に産卵したと推定されている)、一~三月の繁殖例、三~四月の産卵例がある。繁殖期のオスは動く物に対して抱接しようとし、抱接の際にオスがメスを絞め殺してしまうこともある。幼生は一~三か月で変態する』。『先着のオスが発する、またはオスがメスと思って上に乗っかると「グーグー(おれはオスだ。さっさと降りろ!)」のリリース・コールという特別な鳴き声によって弱いオスは離れ、通常一対一のペアで産卵が行われる』(ここと次の部分には要出典要請が掛けられており、)。『背中のオスの抱きつく力が刺激になって産卵を誘発するといわれ、紐状の卵塊を長時間にわたって産み出すために、産卵後のメスは体力を使い果たして、産み落とした卵の側で休む事が多い』。『大柄な姿に反してヒキガエルの幼生期間は短く、仔ガエルに変態した時の体長はわずか五〜八ミリメートルである。これは、水の乏しい地域で短期間しか存在しない水たまり等でも繁殖できるよう進化がすすんだためと考えられている』。『形態や有毒種であることからか忌み嫌われることもある。しかし民家の庭等に住みつくこともよくあり、人間の身近で生活する動物とも言える。一番身近な生物の一つ』である(私の家にも一九九〇年に新築した直後から、猫の額ほどの庭とも言えぬ庭の隅の狭苦しい水道受けの下に十五センチを超える一匹が実に十年近く棲んでいたのを思い出す)。『本種の皮膚から分泌される油汗をガマの油と称して薬用にしたとされる。しかし実際に外傷に対し』、『薬として用いられたのは馬油や植物のガマの方であるとも言われているが、実際のところは不明である。二〇一六年現在に於いて種村製薬から発売されている商品は、その配合も含めて第二次世界大戦後に作られた物である。』但し、『「ガマの油」とは別に、ヒキガエルの耳下腺分泌物には薬効があり、それを小麦粉で練ったものは蟾酥といい、強心や抗炎症などに用いた』とある。

 なお、「がまがえる」と「ひきがえる」は、本邦では「大きな蛙」の代名詞のように汎用化されて同一生物種とされてしまい、「蟇(蛙)」「蟾蜍」と両方に全く同じ漢字名が使用され(それぞれを漢字変換すると、ワード・プロセッサ自体が混用していることがお判り戴けるはずである)、全く同種として認識されているのであるが、次項の出る「蝦蟇」(がま:無尾(カエル)目アカガエル科ヌマガエル亜科ヌマガエル Fejervarya limnocharis)と、このヒキガエル科の「蟾蜍」は生物学的には全く異なる種であるので、くれぐれも注意されたい

「癩叚蟇〔(らいがま)〕」これのみ、東洋文庫の読みを参照した。他は総て、今まで通り、独自に音を調べ、歴史的仮名遣で記してある。

「痱-磊〔(ひらい)〕」当初は「いぼ」と当て訓しようと思った(「痱」は現代中国語「痱子」で「あせも」を意味し「磊」は文字通り、「石がゴロゴロと多く積み上っている」の意)が、「いぼ」では隆々突兀たる背部のイメージが出ないので敢えて音読みした。東洋文庫版は『ぶつぶつ』とルビするが、これはショボ過ぎるし、古文の訓読としては馴染まないので採らない。

「鋭〔き〕」私は「とき」と訓じたい。

「皤(しろ)」「白」に同じい。

「促(みぢか)き睂(まゆ)」「短き眉」。

「鳴くこと、解せず」その鳴き声は明瞭に音写することが出来ない、の謂いと採る。

「吐生〔(とせい)〕して擲〔(なげう)〕つ」意味を採り難いが、本巻は「湿生類」で湿気から生ずる生物と認識された生物群である。即ち、これは突如、口から自分の子を吐き、そのまま飼育せずに放置するという意味である。しかも「糞、其口より出だすなり」とくるのは、異形の彼らとは言え、時珍先生、あんまりです!

「反-縛(しば)りて」底本では「縛」の右に「シハリテ」と振るのであるが、「反」を上手く読めないので、二字でかく読ませた。「反縛」という熟語は漢語で「両の手を反りかえして縛り上げること」を意味するように思われるから、或いは四肢を背の側に反らせて繩で縛り上げ、絶対に這えぬようにすることを言っているのではないかと私は推測する。

「着きて」(動けぬように)しっかりと据え置いて。

「自〔(おのづから)〕解く者なり」常に何故か絶対の解けぬように縛ったはずの繩が自然に解けてしまっているのである、の意。ここで大事なのは、後で良安が実験した時のように(これは怪奇談の中にしばしば出る。例えば私の「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」を見よ)、密室の中で消えていなくなっている「怪」として書かれているのではない点である。都合よく、そう読んではいけない。そうしてこれなら、非常に柔軟な体を持つヒキガエルならば、繩を抜けても少しもおかしくないことが判る。さればこそ、時珍のこの記載は決して読む物を怖がらせるような超常怪奇現象として書いているのでは決してなく、観察上の事実を書いているのである。彼は当時の立派な博物学者なのである。

「抱朴子」(ほうぼくし)は晋の道士葛洪(かっこう:彼は「道教は本、儒教は末」という儒・道二教を併用する思想の保持者であった)の号であると同時に彼の仙道書の書名。 元は全百六篇とされるが、現存するそれは内篇二十・外篇五十・自叙二篇である。三一七年の成立。内篇は仙人の実在を主張し、仙薬製造法・修道法・道教教理などを論じて道教の教義を組織化したものとして後代の道教のバイブルの一つとされ、外篇は儒教の立場からの世事・人事に関する評論が載る。私の偏愛書の一つである。但し、以下は「抱朴子」の原書(「仙藥」の章にある)からの引用ではなく、良安は「太平御覧」(宋初期に李昉らの奉勅撰によって九七七年から九八三年頃に成立した類書(百科事典)の一つ。同時期に編纂された「太平広記」・「冊府元亀」・「文苑英華」と合わせて四大書と称される)の「巻九百四十九 蟲豸部六」の「蟾蜍」の記載その他を元に書いたのではないかと思われ、しかもここ以下は、そこから安易に繋ぎ合せて引いた(良安の悪い癖である)ために、「抱朴子」ではない、他の「玄中記」や靈憲」等の記載も含まれてしまっているように見える。以下に「太平廣記」のそれを示すので確認されたい(下線やぶちゃん)。

   *

「抱朴子」曰、蟾蜍壽三千。又曰、肉芝者、謂萬歳蟾蜍頭上有角、領下有丹書「八」字再重。以五月五日日中時取之、陰乾、百日、以其足畫地、卽爲流水。帶其左手於身、辟五兵。若敵人射已者、弓弩矢皆反還自向也。又曰、辟兵法、或以月蝕時刻三歳蟾蜍喉下有『八』字者血、以書所持之刀劍。「玄中記」曰、蟾蜍頭生角、得而食之、壽千歳。又能食山精。張衡「靈憲」曰、羿請不世之藥於西王母、娥竊之以奔月。遂托身於月、是爲蟾蜍。「淮南子」同。

   *

「千歳」原典の「抱朴子」でも「三千歳」であり、上記の通り、「肉芝」は「萬歳」を経た蟾蜍で、「千歳」は「玄中記」の数値であることが判る。

「山精」(さんせい)は、ここでは古代中国で広範なアニミズムの山川草木に対する精霊崇拝から生じた山の霊・神怪及びそれが零落した化け物を指す語であったと思われる。後に擬人化して一本足の鬼の怪物として描かれるのであるが(良安自身が描いて解説している。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山精」を参照されたい)、幾らなんでも、ちんまいヒキガエルがこの「一本だたら」めいたそれを食うという情景は中国であっても考えにくい。あくまで魑魅魍魎や木霊(こだま)のような人間の目には見えない妖気から成り立っている精霊(すだま)を想起するのがよい。後に出る「山精を伏し」もそう採ってこそ、すんなりと読める。

「兵を辟〔(さ)〕け」武器の難を避け。

「自〔(おのづか)〕ら縛(しば)れるを解く」捕縛された場合にそのきつく絞まった繩をいとも簡単に自然に解(ほど)いてしまう。

「技者(げいしや)」読みはママ。技芸者。業者(わざもの)。この場合は、ヒキガエルを用いて芸をさせるために調教する大道芸人のような生業(なりわい)の者を指すのであろう。

「戯と爲〔(な)すに〕」芸をを仕込むに。

「能く指使〔(しし)〕を聽く」よくその調教師の指図を弁えてその通りにする。

「物性」人以外の動植物の基本的属性。

「推〔(お)〕すべし」推察することが出来る。

「蟾、三足の者、有り」これは後足が一本の前足とで三本の蛙のことを指す。捕食されて欠損したものや奇形で幾らも自然界に実在はするが、中国では蝦蟇仙人(がませんにん)が使役する「青蛙神(せいあしん)」という霊獣(神獣)がこの三足だとされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれて、一本足で大金を掻き集める金運の福の神として現在も信仰されている。それを形象した置物も作られて売られている。

「龜・鼈〔(すつぽん)〕にも、皆、三足有る」これも欠損や奇形で説明は出来るが、私の好きな中国古代のトンデモ地理書「山海経」の「中山経」には、「其陽狂水出焉、西南流注于伊水、其中多三足龜、食者無大疾、可以已腫」とあって、伊水という川に三足亀が多く棲む、これを食べる者は大病かそうでないかなどは無関係に腫瘍を治すことが出来る、とする。東晉の郭璞(かくはく)の「江賦」には「有鱉三足、有龜六眸」と出、この「鱉」(音「ゲツ・ケツ」)はまさにスッポンのことである。

「ときは」ここは「ことを考えれば」の意。

「蟾蜍は土の精なり」この場合は巣籠もりする土という具体的な「土(つち)」も勿論乍ら、五行の元素(エレメント)としての、万物を育成・保護するという性質や季節の変わり目の象徴でもある「土行(どぎょう)」の含みも添えていよう。

「月-魄〔(つき)〕に應じて」「淮南子(ゑなんじ)」の「覧冥訓」に、羿(げい)が不死の薬を西王母に求めたところ、羿の妻嫦娥(じょうが)が、これを窃(ぬす)んで月に奔(はし)ったことが見え、嫦娥は月中の蟾蜍(せんじょ)となって月の精となったとあり(これは「楚辞」の「天問」にも歌われているが、そこでは兎となったとされるから、観察される月表面の模様にヒキガエルを見たことが推理される。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。東洋文庫の注にも、『蟾蜍は月に住むという。『淮南子』(精神訓)に、日の中には踆烏(しゅんう)あり、月の中には蟾蜍がいる、とある』とある。

「山精を伏し」魑魅魍魎を降伏(こうぶく)し。

「蜈蚣(むかで)を制す」ヒキガエルは実際にムカデを捕食するが、ここで言っているのには、やはり陰陽五行説による相克説や蜈蚣と蟾蜍の中国での民俗学的関係があるように私には思われる。はっきり書けるように資料が集められたら、追記したいと思っている。

「陽明經〔(ようめいけい)〕」人体を巡っている十二経絡の一つで、手に流れる大腸経や足に流れる胃経の総称。

「蟲𧏾〔(ちゆうじつ)〕」「𧏾」は「人を刺す虻(あぶ)や蚊(か)の類」或いは「虫に刺されたり噛まれたりして病むことを意味する。東洋文庫はあっさりと「蟲𧏾」の二字で『むし』とルビする。その方が判りはよい。

「疳病」は「癇の虫」と同じで、「ひきつけ」などの多分に神経性由来の小児病を指す。

「癰疽〔(ようそ)〕」感染性の腫れ物や腫瘍。「癰」は浅く大きくもの、「疽」は深く狭いものを差す。

「諸瘡」皮膚のできものや腫れ物及び外傷。

「土檳榔〔(どびんらう)〕」「檳榔」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu であるがここはその実である檳榔子(びんろうじ)のことであろう。「酉陽雑俎」の「巻十 物異」に、

   *

土檳榔 狀如檳榔。在孔穴間得之。新者猶軟、相傳蟾蜍矢也。不常有之、主治惡瘡。

   *

とあるのがそれ。「矢」は「屎」の意。但し、原典の叙述から見て、実際には「ヒキガエルの糞」ではないようで、「採取されるところではそう言い伝えられている」とある。地面の穴の中から採取され、新しいものは柔らかで、滅多になく、悪性腫瘍に効く、とする辺りからは、稀種のキノコの類のように私には思われる

「疾を主〔(つかさど)〕る」病いを療治する。

「磐石〔(ばんじやく)〕」重く大きな岩石。

「蟾蜍、海に入りて眼張(めばる)魚と成る。多く半〔ば〕變〔ずる〕を見る」脊椎動物亜門条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属 Sebastes の、あの魚のメバルである。驚く人も多かろうが、実はこの「ヒキガエルがメバルに変ずるというトンデモ変異譚(メタモルフォーゼ)」は、以外にも江戸時代には全国的にポピュラーなものであった。私の「谷の響 二の卷 六 變化」を是非、参照されたい。そこで私流のこの伝承の見解も注で附してあるからである。

「蟾酥(せんそ)」ウィキの「蟾酥から引く。生薬の一つで、アジアヒキガエル(ヒキガエル属アジアヒキガエル Bufo gargarizans:朝鮮半島及び中華人民共和国東部・日本(南西諸島)・ロシア南東部に分布)やヘリグロヒキガエル(ヒキガエル属ヘリグロヒキガエル Bufo melanostictus:インド及び東南アジア・中国南部・台湾・ネパール・パキスタン等に分布。本邦には棲息しない)の『耳腺分泌物、皮膚腺分泌物を集め、乾燥させたもの』である。『漢字の「蟾」はヒキガエル、「酥」は牛や羊の乳から取る脂肪や、それに類似するものをいう』。『主な有効成分は強心性ステロイドでブファリン(bufalin)、レジブフォゲニン(resibufogenin)、シノブファギン(cinobufagin)、ブフォタリン(bufotalin)、シノブフォタリン(cinobufotalin)、ガマブフォタリン(gamabufotalin)等』、『またインドール塩基のセロトニン(serotonin)等を含む。有効成分はアルコールや油脂に溶解するので、粉砕してエタノールや白酒に浸し、溶解して用いる』。『中国の『中華人民共和国薬典』に収載。日本薬局方では毒薬とされている』。常用量は一日二~五ミリグラム、極量は一日十五ミリグラムと規定されている。『生薬としては、多くはやや艶のある赤褐色から黒褐色で、上面が凸レンズ状にふくれ、下面が凹んだ円盤状に成型され、団蟾酥と称する。中央に穴をあけ麻紐を通し』五個ほどを一連として『吊るしていることが多かった。他に板状に乾かした後、不規則なフレーク状に割ったものもあり、片蟾酥と称する。表面に水滴をたらすと、水分を含んで乳白色に変化する』。『味は、はじめは甘く刺激性があり、後に持続性の麻痺感を生ずる』。『臭いはあまり無いが、わずかに生臭さがある』。『皮膚、粘膜などに長く接触すると、痛みを感じ、発泡する』。『生産地は、中華人民共和国の江蘇省、河北省、遼寧省、山東省などの各地。多くは夏と秋にアジアヒキガエルやヘリグロヒキガエルを捕獲、または養殖して洗浄し、白い分泌物を集める』。『薬理作用は、強心作用、血圧降下作用、冠血管拡張作用、胃液分泌抑制作用、局所麻痺作用、抗炎症作用等がある』。『蟾酥を用いた和漢薬には六神丸などがある』。『なお、民間薬で傷薬として用いられる「蝦蟇の油」は、実際は本品でなく、動物の脂肪から取った油、もしくは植物のガマの油であったとされる』とある。

「紫草」シソ目ムラサキ科ムラサキ属ムラサキ Lithospermum erythrorhizon か。ウィキの「ムラサキによれば、同種の根は生薬で「紫根(シコン)」と呼ばれ、「日本薬局方」にも収録されている。抗炎症作用・創傷治癒の促進作用・『殺菌作用を持ち、紫雲膏などの漢方方剤に外用薬として配合される。最近では、日本でも抗炎症薬として、口内炎・舌炎の治療に使用される』とあり、中文ウィキはこれを「紫草」という漢名で出す。

「背陰(かげうら)の處に挿す」陰干しする。

「一宿すれば」一晩で。

「竹筒の内に安置〔して〕之れを盛る」最後の「之れを盛る」がよく判らぬ。「保存する」なら「安置」があるから屋上屋である。「熟成させる」の意だろうか? 識者の御教授を乞う。

「蒜〔(ひる)〕」ここは特定種ではなく、ネギ・ニンニク・ノビルなどの食用とする単子葉植物綱ユリ目ユリ科 Liliaceae の多年草類の古名。

「胡椒」コショウ目コショウ科コショウ属コショウ Piper nigrum から製した香辛料。同種の実の収穫のタイミングや製法の違いによって黒・白・青・赤の胡椒が製品としては別に存在する。

「刮-下(こそげ)」こそぎ落とし。

「麪〔(むぎこ)〕」小麦粉。

「疔(ちやう)」面疔(めんちょう)。顔面に発生した癤(せつ:毛包組織の化膿性病変。広義の「おでき」の一つであるが、重症化すると根治が難しく、合併症によって生命に危険をもたらこともある)。口の周囲・額・鼻などに発生し易く、近代以前では、炎症が頭蓋内に及んで脳膜炎などを起こすことが頻繁にあり、非常に恐れられた病気である。

「倭〔(わ)〕」日本。

「平圓〔(へいゑん)〕」平たい円盤状。

「是〔れ〕、麪〔(むぎこ)〕に和して塊りを成す者か」これが前に記した「麪に和し、塊(かたま)りと成し、之れを乾す」とある最終精製物なのであろうか?

「阿仙藥」先行する、訳の分らぬ項立て第五十二 蟲部 阿仙藥の本文及び私の注を参照されたい。結論だけを言うと、「阿仙薬」とは被子植物門双子葉植物綱アカネ目アカネ科カギカズラ属ガンビールノキ Uncaria gambir の葉及び若枝を乾燥させて加水し、そこから抽出した精製エキスのことで、当該エキスは、強い活性酸素抑制能力により、「生活の質」(QOL:quality of life)の向上・過酸化脂質の無毒化・心筋梗塞の発生抑制・細菌性食中毒の予防・身体機能の「恒常性」(Homeostasis:ホメオスタシス)を健康な状態に保つ・健胃整腸機能その他の効果があるとされる。詳しくはリンク先の私の注を、どうぞ。]

2017/09/21

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 菊虎(きくすい) / 第五十三 化生類~了

Kikusui

きくすひ

菊虎

       【木久須比】

キヨツ フウ

 

△按菊虎農政全書云喜食菊葉小蟲也蓋淸明以後出

 食嫩葉如不防則喰盡矣芒種後無之其蟲大二分許

 黒色頸邊畧黃而最美也其來也必二隻若其雌雄者

 矣聞人音則速飛去故早旦潜窺視可捕去之或夜提

 燈取之常則竄于根下土不見

 

 

きくすひ

菊虎

       【「木久須比」。】

キヨツ フウ

 

△按ずるに、菊虎、「農政全書」に云はく、喜びて菊の葉を食ふ小蟲なり。蓋し、淸明の以後、出でて、嫩(わか)葉を食ふ。如〔(も)〕し防(ふせ)がざれば、則ち、喰〔らひ〕盡くす。芒種の後、之れ、無し。其の蟲、大いさ、二分許り。黒色、頸の邊〔り〕、畧〔(ほ)〕ぼ黃にして、最も美なり。其の來るや、必ず、二隻。若〔(も)〕し〔や〕、其れ、雌雄なる者か。人音を聞けば、則ち、速かに飛び去る。故に、早旦、潜かに窺〔ひ〕視て、之れを捕〔り〕去るべし。或いは、夜、燈を提〔(さ)〕げて之れを取る。常は、則ち、根の下の土に竄〔(かく)〕れて見へず。

 

[やぶちゃん注:コメツキムシ上科ジョウカイボン科 Cantharidae のジョウカイボン類(但し、次のジョウカイボン以外は「ボン」を和名から外す)か、本邦産の一般種であるジョウカイボン属ジョウカイボン Athemus suturellus のことを指しているように思われる。ウィキの「ジョウカイボン科」によれば、『ジョウカイボン科の昆虫は、細長い体に糸状の長い触角を持ち、見かけではカミキリムシ科』(多食亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae)『の昆虫に』、或いは、寧ろ、『カミキリモドキ科』(多食亜目カミキリモドキ科 Oedemeridae)『の昆虫に似ている。しかし分類的にはそれらとは遠く、ホタル科などとともにホタル上科に属する。この群は甲虫としては非常に柔らかな体をしている』(私は上の分類はこれに従っていない)。『食性は肉食で、成虫、幼虫ともに小型の昆虫などを捕食している。成虫は草の上や花などに見られることが多く、幼虫は地上性』。この和名の『意味、由来については不明である』。『英名はSolider beetle であるが、これはイギリスの軍服に似た色彩(赤・黄色・黒)の種にちなんでとのこと』。『小型から中型の甲虫で、小さいものは三ミリメートル程度から、二センチメートル『を越えるものまである』。『全体に細長く、腹背にやや扁平ながら、ほぼ円筒形のプロポーションである。全体に柔らかく、特に前翅が柔らかい』。『頭部は前胸に比べて狭くなく、その点で頭部の幅が狭く、往々に前胸に隠れるホタル科やベニボタル科とは異なる。触角は糸状で細長いものが多い。大顎は鋭く噛む形で、上唇は薄くて認めがたい』。『前翅は基部が特に幅広くなく、ほぼ同じ幅で伸びる。ただし、一部の種では退化して短くなる』。『幼虫はやや腹背に扁平なイモムシ状、胸部に三対の短い歩脚を持つ。体表はビロード状で、頭部は幅広く、短い触角と頑丈な顎を持つ』。『胸部と腹部はキチン化が弱く、柔らかい』。『成虫は花や葉の上に見られ、小型の昆虫などを捕食する。特に一部の種は花によく見られ、花粉等も食べる』とあるから、菊に好んで飛来する種もあっておかしくはない(下線やぶちゃん)。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のジョウカイボン Athemus suturellus のページによれば(冒頭の分類はこちらを採用させて戴いた)、ウィキが不明とする和名について(コンマを読点に代えた)、『「ジョウカイボン」という珍妙な名前は、平清盛の法名である「浄海」に由来し、「坊」をボンと呼んだという説が知られています。平清盛が熱病で死去したのと、触れると炎症を起こすカミキリモドキの毒とをかけたもので、本種をカミキリモドキと混同したため、このような名前になったということです。本種はカミキリモドキのような毒を分泌することはありません。定説では無いので,真偽の程は分かりませんが,比較的納得のいく仮説だと思います』とある。カミキリモドキ類は前に示した、ヒトの皮膚や粘膜に炎症を起こす毒物カンタリジンを分泌する種が含まれる。

 

「農政全書」明の暦数学者として知られた徐光啓(一五六二年~一六三三年)によって纏められた農書。ウィキの「農政全書」によれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したさつまいもについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)技術を踏まえた水利についての言及もなされている』。刊行は彼の死後六年後の一六三九年である。

「淸明」二十四節気の第五で、旧暦の二月後半から三月前半。太陽暦では四月五日頃に当たる。期間としては次の「穀雨」(太陽暦で四月二十二日頃)前までとなる。

「芒種」二十四節気の第九で、旧暦四月後半から五月前半。太陽暦では六月六日頃に当たる。期間としては次の「夏至」(太陽暦で六月二十一日頃)前まで。

「其の來るや、必ず、二隻。若〔(も)〕し〔や〕、其れ、雌雄なる者か」これは非常に気になる。何故なら、本種の中には、前に示した通り、カンタリジンを含む別種とよく形状が似ているものが含まれるからで、何度も述べた通り、類感的援用によって、本種も二匹いればそれは雌雄、さすれば、そこには催淫性の呪力や媚薬効果があるなどとと考えられたのではないかと、強く疑うからである。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 守瓜(うりばえ)


Uribae

うりはへ    【音權】 【音含】

守瓜

        【和名宇利波閉

        瓜蠅】

シウ クハア

 

爾雅云注輿父黃甲小蟲喜食瓜葉又名守瓜

△按桑蟲又瓜蟲食瓜桑者也蓋與一類二種乎其

 大如犬蠅而黃色甲下有翅速飛喜食瓜葉以蟲眼鑑

 視之黑眼露與蠅不同

 

 

うりばへ    〔(けん)〕【音、權。】 〔(かん)〕【音、含。】

守瓜

        【和名、「宇利波閉」。瓜の蠅なり。】

シウ クハア

 

「爾雅注」に云はく、『・輿父〔(よほ)〕は黃なる甲の小さき蟲にて、喜んで瓜の葉を食ふ。又、守瓜と名づく。』〔と〕。

△按ずるに、は桑の蟲、又、瓜の蟲。瓜・桑を食ふ者なり。蓋し、と一類二種か。其の大いさ、犬蠅〔(いぬばへ)〕のごとくにして、黃色、甲の下に翅〔(つば)〕さ有りて、速く飛〔ぶ〕。喜んで瓜の葉を食ふ。蟲眼鑑(〔むし〕めがね)を以つて之れを視れば、黑き眼、露(あら)はにして、蠅と同じからず。

 

[やぶちゃん注:甲を有すること、瓜を好むとすること、複眼が突き出ていること、及び、最後で良安が観察したところ、蠅とは似ていないとするところから、良安の観察したのは、本邦で俗に「ウリバエ」(瓜蠅)とも呼ばれる、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ハムシ上科ハムシ科ヒゲナガハムシ亜科 Luperini Aulacophorina亜族ウリハムシ属ウリハムシ Aulacophora femoralis 或いはその記念種と比定したい。ウィキの「ウリハムシによれば、『頭部はやや幅が狭く、胸部はそれよりやや幅広い。全身が黄色で、腹部は黒い』。『成虫越冬で、浅い土中で越冬する。春にウリ科の苗に来訪し、周囲の土の表面や浅い土中に産卵する。幼虫はウリ科の根を食害し、また地上に果実などがあるとこれも食うことがある。蛹化は土中で行われる。成虫は』七『月以降に出現する』。『春から夏にかけて主にキュウリ等のウリ科植物に出現する。幼虫は根を食い荒らし、成虫は葉を食い荒らすので害虫となっている』。『キュウリやカボチャなどの作物によくつくこと、多数が集まってよく飛ぶことなど目立つ点が多く、ハムシ類ではもっともよく知られているものの一つである』とある。

 

〔(けん)〕」不詳。

〔(かん)〕」不詳。

「輿父〔(よほ)〕」不詳。東洋文庫は割注で『の別名』とする。これらは上記のハムシ類の近縁かその仲間とは推定されるものの、大陸の記載でしかも古いものであるから軽々にそう比定は出来ぬ。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蓑衣蟲(みのむし)


Minomusi

みのむし 結草蟲 木螺

     壁債蟲

蓑衣蟲

     【俗云美乃無之】

 

△按諸木嫩葉漸舒老葉間有卷中生小蟲其蟲喰取枯

 葉吐絲用作窠長寸許婆裟形如撚艾炷毎縋于枝其

 蟲赤黒色有皺假而首尖時出首喰嫩葉動其首貌彷

 彿蓑衣翁故名之俗説秋夜鳴曰秋風吹兮父戀焉然

 未聞鳴聲蓋此蟲以木葉爲父爲家秋風既至則邇零

 落矣人察之附會云爾耳其鳴者非喓聲乃涕泣之義

  契りけん親の心も知らすして秋風たのむみの虫のこゑ 寂蓮

 枕草子に云風の音を聞き知りて八月はかりになれは父よ父よとはかなけに鳴くいみじくあはれなり

羅山文集詩蓑袂蠢然唯恠哉恰如釣叟立江隈曾開戰

蟻避風雨今見微蟲撲雪來

 

 

みのむし 結草蟲 木螺〔(ぼくら)〕

     壁債蟲〔(へきさいちゆう〕

蓑衣蟲

     【俗に「美乃無之」と云ふ。】

 

△按ずるに、諸木の嫩(わか)葉、漸く舒〔(の)〕び、老葉〔(らうえう)〕、間(まゝ)、卷くこと有り。中に小蟲を生ず。其の蟲、枯葉を喰取〔(くひと)り〕て絲を吐き、用ひて窠〔(す)〕を作る。長さ、寸許り、婆裟(ばしや)として、形、撚〔(ね)〕りたる艾-炷(もぐさ)のごとし。毎〔(つね)〕に枝に縋(ぶらさが)る。其の蟲、赤黒色、皺叚(しわきだ)有りて、首、尖り、時に首を出だして嫩葉を喰ふ。其の首を動かす貌〔(さま)〕、蓑(みの)衣(き)たる翁に彷彿(さもに)たり。故に之れを名づく。俗説に「秋の夜、鳴きて、曰く、『秋風 吹けば 父戀し』と。然れども、未だ鳴き聲を聞かず。蓋し、此の蟲、木の葉を以つて父と爲し、家と爲し、秋風、既に至れば、則ち、零落、邇(ちか)し。人、之れを察して、附會して爾(しか)云ふのみ。其の「鳴く」とは、喓(すだ)く聲に非ず、乃〔(すなは)ち〕、涕泣の義〔なり〕。

   契りけん親の心も知らずして秋風たのむみの虫のこゑ 寂蓮

「枕草子」に云ふ、『風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「父よ父よ」と、はかなげに鳴く、いみじくあはれなり。』〔と〕。

「羅山文集」の詩。

 

蓑袂蠢然唯恠哉

恰如釣叟立江隈

曾聞戰蟻避風雨

今見微蟲撲雪來

 

 蓑の袂 蠢然〔(しゆんぜん)〕として 唯 恠〔(くわい)〕かな

 恰も 釣(つり)する叟(をきな) 江の隈(くま)に立つがごとし

 曾つて聞く 戰蟻 風雨を避〔(さへぎ)〕ると

 今見る 微蟲 雪を撲〔(う)ち〕て來たるを

 

[やぶちゃん注:林羅山の七絶は句で改行し、前後を一行空け、後に訓読を示した。]

 

[やぶちゃん注:我々が親しく「蓑虫」と呼んでいるのは、有翅昆虫亜綱新翅下綱 Panorpida上目鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ヒロズコガ上科ミノガ科 Psychidae に属するの蛾(日本には二十種以上が棲息する)の幼虫を含んだ棲管であるが、本邦ではその中でも最も大きな蓑を形成する(当然、内部の幼虫も大きい)であるオオミノガ(ミノガ科オオミノガ亜科 Acanthopsychini Eumeta 属オオミノガ(ヤマトミノガ)Eumeta japonica)の幼虫を指すことが多い。参照したウィキの「ミノムシ」によれば、『成虫が「ガ」の形になるのは雄に限られる。雄は口が退化しており、花の蜜などを吸うことはできない。雄の体長は』三~四センチメートルに達する。『雌は無翅、無脚であり、形は小さい頭に、小さな胸と体の大半以上を腹部が占める形になる(また、雄同様口が退化する)。したがって「ガ」にはならず、蓑内部の蛹の殻の中に留まる(性的二形)』。『雄は雌のフェロモンに引かれて夕方頃』、『飛行し、蓑内の雌と交尾する。この時、雄は小さな腹部を限界近くまで伸ばし蛹の殻と雌の体の間に入れ、蛹の殻の最も奥に位置する雌の交尾孔を雄の交尾器で挟んで挿入器を挿入して交尾する。交尾後、雄は死ぬ。その後、雌は自分が潜んでいた蓑の中の蛹の殻の中に』一千『個以上の卵を産卵し、卵塊の表面を腹部の先に生えていた淡褐色の微細な毛で栓をするように覆う。雌は普通は卵が孵化するまで蛹の殻の中に留まっていて、孵化する頃にミノの下の穴から出て地上に落下して死ぬ』。二十『日前後で孵化した幼虫は蓑の下の穴から外に出て、そこから糸を垂らし、多くは風に乗って分散する。葉や小枝などに到着した』一『齢幼虫はただちに小さい蓑を造り、それから摂食する』。六『月から』十『月にかけて』七『回脱皮を繰り返し、成長するにつれて蓑を拡大・改変して小枝や葉片をつけて大きくし、終令幼虫』(八令幼虫)『に達する。主な食樹は、サクラ類、カキノキ、イチジク、マサキなど』。『秋に蓑の前端を細く頸って、小枝などに環状になるように絹糸をはいてこれに結わえ付けて越冬に入る。枯れ枝の間で蓑が目立つ。越冬後は普通は餌を食べずにそのまま』四月から六月にかけて蛹化し、六月から八月に『かけて羽化する』。『日本列島(本州、四国、九州、対馬、屋久島、沖縄本島、宮古島、石垣島、西表島)』『に分布する。本種は東南アジアに広く分布する Eumeta variegata と同じ種であるという説も有力である』。『近年は後述する外来種のヤドリバエ』双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ヒツジバエ上科ヤドリバエ科 Tachinidae『による寄生により生息個体が激減しており、各自治体のレッドリストで絶滅危惧種に選定されるようになってきている』。『オオミノガを初めとして、日本ではミノムシは広く見られる一般的な昆虫であったが』、一九九〇『年代後半からオオミノガは激減している。原因は、オオミノガにのみ寄生する外来種の』ヤドリバエ科Nealsomyia 属オオミノガヤドリバエ Nealsomyia rufella の侵入よるもので、『オオミノガヤドリバエは、主にオオミノガの終令幼虫を見つけると、摂食中の葉に産卵し、卵は葉と共に摂食される。口器で破壊されなかった卵はオオミノガの消化器に達し、体内で孵化する。(さらに、オオミノガヤドリバエ自体に寄生する寄生蜂が見つかっている)』とある。そういえば、確かに、蓑虫を見なくなったなぁ……確かに。……小学生の時、箱の中で色とりどりの毛糸で蓑を作らせたのを思い出した……

 

「嫩(わか)葉」若葉。新芽の葉。

「舒〔(の)〕び」伸び。

「窠〔(す)〕」「巣」に同じい。

「婆裟(ばしや)」東洋文庫訳の割注に『しおれて垂れ下がるさま』とある。

「撚〔(ね)〕りたる艾-炷(もぐさ)」灸に使用される、ヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の葉の裏にある繊毛を精製した「艾炷〔(もぐさ)〕」であろう。「炷」は音「シユ(シュ)」で灸に用いるための「もぐさ」の灯心状のものの一本分を指す語である。

「皺叚(しわきだ)」この「叚」(音「カ」)は「瑕」(「瑕疵(かし)」で判るように疵(きず)の意)に通ずるから、皺や傷のような襞を指している。読みの「きだ」は「段」の謂いと私は読む(「段(きだ)」は布や田畑の面積を測る単位として普通に使われる読みである)。まさにここはそのまま「段々(だんだん)になっている」の意で、蓑の中の幼虫は実際、前頭部部分が鎧上で以下の体節もかなりくっきりと段々に分かれており、この謂いはまさに納得出来るのである。

「彷彿(さもに)たり」いい当て訓だ!

「秋の夜、鳴きて」蓑虫も親の成虫の蛾も発声器官を持たないので当然、鳴かない。しかし、清少納言は鳴くと言い、芭蕉も、

 

 蓑蟲の音を聞きに來よ草の庵(いほ)

 

の一句がある(「続虚栗」。「蕉翁句集」に貞享四(一六八七)年の作とする)。今も「蓑虫鳴く」は秋の季語である。では、何の音声を蓑虫が鳴いていると誤認したものだろうと探りたくなる。その見当になるのは、まずは、良安も引く清少納言の記した鳴き声である。彼女は「虫尽くし」の冒頭で偏愛するそれとして、『鈴蟲。ひぐらし。蝶。松蟲。きりぎりす。はたおり。われから。ひをむし[やぶちゃん注:蜉蝣。]。螢』と羅列列挙した直後、述懐本文の冒頭にそれを挙げているのである。

   *

 蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て、これも恐ろしき心あらむとて、親の、あやしき衣ひき着せて、

「今、秋風吹かむをりぞ、來むとする。待てよ。」

と言ひ置きて、逃げて去(い)にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、

「ちちよ、ちちよ。」

とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり。

   *

「チチヨ、チチヨ」である。私は実はこれを、昔から、私の偏愛する、

「鉦叩き」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科カネタタキ科 Ornebius 属カネタタキ Ornebius kanetataki

であると勝手に思い込んでいる。事実、通常、彼らは「チッチッチッチッ」という小さな声で鳴くのである。また、ウィキの「カネタタキ」によれば、『同士が近接状態になると普段と鳴き方が変わり、「チルルチルル!チルチル!チルルルルルル!」という競い鳴きをする』ともある。You Tube で後者を探し出して聴いてみた(これ)。このウィキの後者の音写がそれに相応しいかどうかは別として、私はやはりカネタタキの声こそが「ちちよ、ちちよ」に最もふさわしいとする考えを変える気持ちはない

 さて、今日、これを調べるうちに、世の中には、私のようなフリークな、しかも稀有なことに、アカデミストがいたことが判った! 国文学者平島成夫氏(昭和二(一九二七)年~平成五(一九九三)年)である。平島氏は一九八九年発行の「高松短期大学紀要」(第十九号)の「日本文芸のリアリズム 枕草子『鳴くみの虫』考(PDF)でこれを文学的民俗学的生物学的に大真面目に探求されておられるのである。

 その追跡は執拗且つ緻密であるが、残念なことに、平島氏の結論は私の結論とは一致しない氏は所謂、蚯蚓と同じく、この〈鳴く蓑虫〉の正体を、長いドライブの末、

ケラ直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis

に最も相応しいとされている。非常な敬意を表するところの優れた論文であるが、この結論は私にはいただけないのである。ケラは大きく「ジ…………」或いは「ビー…………」という強い連続性を持ったものであって、三音で切れず、捨てられた鬼の娘が父を恋う声などには、決して比喩出来ないからである(少し遠くで聴く分には私は嫌いではない)。孰れにせよ、平島氏の論文は必読である。ともかく何より、面白いのである!!

「零落」落魄(おちぶ)れること。或いは草木の枯れ落ちることも意味するから、ここは良安、ちょっと洒落て、化生生物の終末期に一種の掛詞を用いたとも採れる。

「邇(ちか)し」「近し」。

「附會して爾(しか)云ふのみ」こじつけて言ってみたに過ぎぬ。しかし、やはりこういうところ、良安は時に本文に和歌なんぞを引くものの、極めて非文学的人種と読める。だから以下の分かり切った蛇足の一文『其の「鳴く」とは、喓(すだ)く聲に非ず、乃〔(すなは)ち〕、涕泣の義〔なり〕』(その場合の「なく」というのは、「鳴く」、虫が沢山集まって「鳴く」のその声の謂いではないのであって、則ち、強い人間的感情に牽強付会した悲しみによって声をあげて涙を流す「涕泣」という意味なのである)とまで大真面目に言わんでもいいことまで言い添えてしまうのである

「契りけん親の心も知らずして秋風たのむみの虫のこゑ 寂蓮」「夫木和歌抄」所収。読み易く整序すると、

 

 契りけむ親の心も知らずして秋風賴む蓑蟲の聲

 

である。

「蠢然〔(しゆんぜん)〕」小さな虫の蠢くさま。転じて、取るに足らぬ者が騒ぐさま。

「恠〔(くわい)〕」「怪」に同じい。東洋文庫版は「恠なるかな」と「なる」を送るが、原典にはなく、従えない。

「釣(つり)する叟(をきな) 江の隈(くま)に立つがごとし」私はm羅山はかく詠んだ時、彼の脳裏には私の偏愛する柳宗元の五絶の名品「江雪」が想起されていたと信ずる。

   *

 

 千山鳥飛絶

 萬徑人蹤滅

 孤舟蓑笠翁

 獨釣寒江雪

 

  千山 鳥(とり)飛ぶこと 絶え

  萬徑(ばんけい) 人蹤(じんしよう) 滅す

  孤舟 蓑笠(さりふ)の翁

  獨り 寒江の雪に釣るを

 

   *

私は「獨り」「寒江の雪に釣」りする「孤舟」「蓑笠の翁」とは、「楚辞」の「漁父之辭」の道家的な孤高の思想者であると思うし、たとえ彼がそうであったとしても、私は、必ずしも、屈原に言ったのと同じように、「滄浪之水淸兮 可以吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」(滄浪の水 淸(す)まば 以つて 吾が纓(えい)を濯ふべし 滄浪の水 濁らば 以つて吾が足を濯ふべし)とばかり嘯いてはいないと思う人種である。だからこそ「曾つて聞く 戰蟻 風雨を避〔(さへぎ)〕ると」「今見る 微蟲 雪を撲〔(う)ち〕て來たるを」という羅山の覚悟が詠めてくるように思うのである。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 ※(のみ)


Nomi

のみ  蚤 【並同字】

     【和名乃美】

𧎮【音早】

 

ツア◦ウ

 

説文𧎮人跳蟲六書正譌云𧎮蟲省叉聲葢蚤則得

之緩輒失之辨之在蚤故爲早暮之早又云叉者古爪字

万寶全書云五月五日午時採石菖蒲晒乾爲末放蓆下

則蚤永無矣

五雜組云以桃葉煎湯澆之則蚤盡死

△按蚤赤色肥身小首六足能跳夏月人家生於濕熱氣

 而自在牝牡其大者牝腹有白子成小蚤牡者却小故

 謂婦大於夫者稱蚤婦夫稱矣凡𧒂螽莎雞蟋蟀螽斯

 之類亦雄小而不好鳴雌大而善鳴也如鶯雲雀山雀

 等小鳥雄大而善囀雌小而不能囀上下各別也

 

 

のみ  蚤 〔(さう)〕【並びに同字。】

     【和名「乃美」。】

𧎮【音、早。】

 

ツア

 

「説文」、𧎮人を囓りて跳ぶ蟲。「六書正譌〔(りくしよせいか)〕」に云はく、『「𧎮」、「蟲」の省くに从〔(したが)ひ〕て、「叉(さ)」の聲〔(せい)〕なり。葢〔(けだ)〕し、「蚤(はや)」きときは、則ち、之れを得〔れども〕、緩〔(ゆる)〕きときは、輒〔(すなは)〕ち、之れを失ふ。之れ、辨ずること、「蚤(あした)」に在り。故に「早暮(あさゆく)」の「早〔さう〕」と爲す。又、云ふ、「叉」は古への爪(つめ)の字なり〔と〕。

「万寶全書〔(ばんはうぜんしよ)〕」に云はく、五月五日午の時、石菖蒲〔(せきしやうぶ)〕を採りて、晒し乾し、末と爲〔し〕、蓆(むしろ)の下に放ち〔おけば〕、則ち、蚤、永く無し。

「五雜組」に云はく、桃〔の〕葉の煎〔じ〕湯を以つて之れに澆(そゝ)げば、則ち、蚤、盡く死す。

△按ずるに、蚤、赤色、肥えたる身、小首、六足にして、能く跳ぶ。夏月、人家〔にて〕、濕熱の氣より生じて、自〔(おのづか)〕ら、牝牡〔(ひんぼ)〕在り。其の大なる者は牝〔(めす)〕、腹に白き子有りて小蚤〔(このみ)〕と成る。牡は却つて小さし。故に、婦、夫より大なる者を謂ひて、「蚤の婦夫(めをと)」と稱す。凡そ、𧒂螽(いなご)・莎雞(きりぎりす)・蟋蟀(こほろぎ)・螽斯(はたをり)の類、亦、雄は小さくして好く鳴かず。雌、大にして善く鳴くなり。鶯・雲雀・山雀・等のごとき小鳥は、雄は大にして善く囀〔(さえず)〕り、雌は小にして能く囀(さへづ)らず。上〔(う)〕へ・下、各別なり。

 

[やぶちゃん注:本文は人を刺しているので、隠翅(ノミ)目ヒトノミ科 Pulicidae のヒトノミ属ヒトノミ Pulex irritans に比定し得るが、実は本邦では衛生環境の向上によってヒトノミは殆んど存在しなくなっており、その代わり、イヌノミ属 Ctenocephalides のネコノミ Ctenocephalides felis やイヌノミ Ctenocephalides canis による人への刺傷ケースが増えている(ネコノミのケースが多い)。私は大学一年の時、二階の三畳の下宿で、大家が飼っていた猫のネコノミに刺された経験があるが、ハンパなく痒い。

 

「六書正譌〔(りくしよせいか)〕」東洋文庫の書名注に、『五巻。元の周伯琦撰。『説文』によって説明し、また自説によって考察したもの。隷字・俗字も併記している』とある。

『「蟲」の省くに从〔(したが)ひ〕て』虫の一部を省略し、そこに別字を入れることで、新たに作った字(この場合は、意味も違うもので異体字ではない)であることを示す。

『「叉(さ)」の聲〔(せい)〕なり』古い中国音なので一致しないが、「蚤」の音「サウ」の「サ」の反切として誤魔化しておこう。なお、「叉」には「刺す」の意があるから、意味上のそれもあろうとは思う。

『「蚤(はや)」きときは』「蚤」には生物種のノミが第一義乍ら、「早い・速い」の意が第二義にある。ここは人が素早くノミを捕えようとする時は、の意。

「緩〔(ゆる)〕きとき」ゆっくりとそれを行っては。

「之れを失ふ」ノミを捕えられない。

「之れ、辨ずること」この字義を解説するならば。

「蚤(あした)」読みはママ。「あした」は直に来る「明日」或いは「早朝」で、以下に「早暮(あさゆく)」とあるように、現在の「早晩」であり、もともとは「早いことと遅いこと」の謂い乍ら、現在、「近いうちにきっと」の意で用いられるように、この前の「早〔さう〕」の意をのみ採る語であるから、「早い」=「速い」=すばしっこいの謂いとなるのであろう。

『「叉」は古への爪(つめ)の字なり』実は「蚤」は「爪」に通ずると漢和辞典にあり、「蚤」と同字である「」の字も音通ながら、イメージとしては「刺す」ことを「爪で引っ掻く」の意に通じさせたようにも感じさせる字である。

「万寶全書〔(ばんはうぜんしよ)〕」東洋文庫の書名注に、『無名氏撰。清の毛煥文増補の『増補万宝全書』がある。三十巻。百科事典のたぐい』とある。

「石菖蒲〔(せきしやうぶ)〕」単子葉植物綱 ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。本邦では端午の節句の菖蒲湯はショウブ(ショウブ属ショウブ変種ショウブ Acorus calamus var. angustatus)を使用しているが、少なくとも中国や漢方に於いてはショウブではなく、このセキショウを指す。ショウブは中国では白菖(蒲)とする。

「末」粉末。

「桃〔の〕葉」漢方では中国原産のバラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica 或いはノモモ(Amygdalus persica var. davidiana)の葉を用いる。モモの葉にはタンニンやニトリル配糖体が含まれており、鎮咳作用やボウフラ殺虫作用が知られており、漢方でも殺虫の効能があり、頭痛・関節痛。湿疹などにも用いる。

「其の大なる者は牝〔(めす)〕、腹に白き子有りて小蚤〔(このみ)〕と成る。牡は却つて小さし。」現認し易いネコノミを例にとると、で体長は二~三・五ミリメートルであるのに対して、は一・五~二・五ミリメートルであり、特には腹部が大きく、三ミリ以上あれば、である。

𧒂螽(いなご)莎雞(きりぎりす)蟋蟀(こほろぎ)螽斯(はたをり)の類、亦、雄は小さくして好く鳴かず。雌、大にして善く鳴くなり」各種(群)は総て既出項。種(群)同定その他は私の注を参照されたい(特異的に本文部にリンクさせた)。性的二型の部分は概ね正しい(有意にが大きいものが多いが、有意には違わない種もあることはある)ものの、鳴くのは殆んどがが鳴く種もある)であり、誤りであるが鳴くのは、例えば、キリギリス科ツユムシ亜科 Ducetia 属セスジツユムシ Ducetia japonica やキリギリス科ツユムシ亜科クダマキモドキ属サトクダマキモドキ Holochlora japonica などである。「図鑑.net モバイルブログ」の松沢千鶴氏の「雌(メス)が鳴く種もいる? 鳴く虫たち」を読まれたい)。

「鶯」スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone の体長はで十六センチメートル、メスで十四センチメートル。♀♂ともによく鳴くが、のみが囀る点で正しい

「雲雀」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、ヒバリはも体長は十七センチメートルほどで、見分けがつかない。従って、ここに挙げるのは不適切である。は冠羽を立たせていることが多いという記載もあるが、もよく立てるとする否定記載もある。縄張指示や繁殖期にはが有意によく鳴く

「山雀」スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius も、♂♀ともに体長は十三~十五センチメートルで、見分けがつかない。これも大きさでは不適切。但し、やはりの方がよく鳴く

「上〔(う)〕へ・下、各別なり」自然空間の「上」部である空を主たる行動空間とする「鳥」と、「下」部の地面及びその近接域を棲息域とする「虫」とでは、それぞれ、生態習性が全く異なるのである。]

2017/09/20

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 ※蠓(まくなぎ) 附 蠁子(さし)


Makunagi