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2017/09/30

老媼茶話巻之弐 惡人(承応の変始末)

 

     惡人

 

 慶安四年秋七月、油井正雪・丸橋(まるばし)忠彌が餘類、悉(ことごとく)、刑罪に行はる。其節、改元有(あり)て承應元年と成る。頃日(このごろ)、又、別木(べつき)庄右衞門・林戸右衞門(はやしべゑもん)・三宅平六・藤江文十郎・土岐與左衞門といふ浪人共、打寄(うちより)、徒黨の結(ゆ)ひをなし、忍び忍びに正雪・忠彌が殘黨を集(あつめ)、天下をくつがへすべき事を、なす。已(すで)に、一味の者共、大勢なりければ、件(くだん)のものども、密かに道灌山の麓に寄合(よりあひ)、しめし合せけるは、

「此度(このたび)、大猷院樣御法事、增上寺にて有之間(これあるあひだ)、この折を得て、增上寺の風上、二、三ケ所より火を放(はなち)て燒立(やきたて)、万部(まんぶ)の布施物(ふせもつ)の金銀をうばひ取(とり)、是を以(もつて)、此度(このたび)、武具・馬具をかい求(もとめ)、すべて用金にあてべし。その外、徒黨のものども、二、三百人、江戸町中、爰(ここ)かしこに火を付け、江戸一面に燒立ん。然らば、老中、火を消さんとて出(いで)給はゞ、愛宕の邊り、四、五所に待伏(まちぶせ)して、鐵抱を以(もつて)打落(うちおと)し、其(その)外、目立(めだち)し大名を撰(えらみ)、打(うち)、遠矢に打殺(うちころ)し、江戸水道の水上(みなかみ)に毒を流し、御城(おしろ)の焰焇(えんしやう)ぐらへ、火矢をいかけて燒落(やきおと)し、天下の變を見るべし。若(もし)、其(その)謀計、叶わずば、四國西國のはてへ落行(おちゆき)、跡をくらまし、又、時節の至るを待(まつ)べし。增上寺御法事、來(きたる)九月十五日より初(はじま)る也。十八、九日頃、手筈を合(あはせ)、一度にむほんを起すべし。」

とて、各(おのおの)、私宅歸りける。

 爰に城半左衞門家來長嶋刑部左衞門、是も一味の者也しが、忽(たちまち)、志を改(あらため)、九月十三日夜、松平伊豆守殿宅來り、悉(ことごとく)かの物共が企(くはだて)を、ちうしんす。伊豆守殿、悉く相尋(あひたづね)、彼等が居所、書付(かきつけ)、細(こまか)に上聞に達しければ、則(すなはち)、今夜、彼(かの)黨の棟梁をからめ取(とり)、きびしく拷問可仕(つかまつるべき)由被仰出(おほせいだされ)、町奉行石谷(いしがや)將監(しやうげん)・神尾(かんを)備前守に被仰付(おほせつけられ)、阿部豐後守殿は、此度、御法事に付、增上寺に相詰居(あひつめゐ)玉ひけるに、兩町奉行、豐後守殿宿坊へ來り、此事をひそかに内談有(あり)。すべての樣子、御法事御用と違ひければ、寺僧を始め、人、皆、是をあやしみける。豐後守殿、石谷將監・神尾備前守同道にて宿坊を立出(たちいで)、本堂の前なる小松原に暫(しばらく)立留(たちどま)り、豐後守殿、被申(まうされ)けるは、

「只今、各(おのおの)へ相談仕(つかまつる)施行(せぎやう)の場所、彌(いよいよ)此所可然(しかるべく)候哉(や)。」

と被申ける。

 兩町奉行、答(こたへ)て、

「尤(もつとも)。此所宜敷(よろしく)候べし。非人ども、山門より入(いり)て裏門へ通りぬけにさせば、混亂、仕(つかまつる)まじ。」

と申さるゝ。

 豐後守殿、

「此(この)義、可然候。」

と云(いひ)て、夫より、三人打連(うちつれ)、本堂被歸(かへられ)ける間、寺僧共、三人の家來ども初(はじめ)、密談の程を不審しけるが、只今の評定を聞(きき)て、

「扨(さて)は施行(せぎやう)の場所の事にて有(あり)ける。」

と心得ける。

 今夜は、風、烈敷(はげしく)吹荒(ふきあれ)、物そらぞら敷(しき)夜なれば、增上寺の番所番所加番を添(そへ)、寺中・寺外に至(いたる)迄、大勢の足輕、櫛のはを引(ひく)ごとく、打𢌞り、打𢌞り、嚴敷(きびしく)警固し、夜を明(あか)し、石谷將監・神尾備後守は、其夜、寅の刻、與力・同心、召連(めしつれ)、門前の町、二町目に向ひ、三宅平六・土岐與左衞門借宅(しやくたく)押込(おしこみ)て平六が上下弐人、召取(めしと)。此間に、與左衞門、逐電す。平六は大に働き、將監が組の同心笹岡源右衞門と云(いふ)もの、痛手、負(おひ)たり。別木庄右衞門・林戸右衞門・藤岡又十郎をば、札の辻に有(あり)とて、平六を生捕(いけどり)て、兩町奉行、芝の辻へ引(ひき)ける。

 其折節、別木・林・藤岡、打寄、取々に評義して、

「我等、若(もし)志を得る事あらば、別木は關東を領、昔北條氏康がごとく、たらむ。」

と云。林は、

「西國を一圓に領せん。」

といふ。藤岡は、

「奧州五十四郡をたもつて阿部の賴任がごとく、榮花をひらくべし。」

と言(いひ)て、何心なく酒飮(のみ)、たはむれ有けるが、何方(いづかた)ともなく、三宅・土岐、むほん、顯れ、召捕(めしとら)れける由、傳聞(つたへきき)、大きに驚き、

「急ぎ先(まづ)西國へ落行(おちゆか)ん。」

とて、取物(つるもの)も取(とり)あへず、辻を立出(たちいで)けるに、石谷・神尾が取手の者に、はしたなく行逢(ゆきあひ)たり。三人の者共、兩町奉行の大勢を見て、棚下(たなした)へかくれける。與力・同心、是をみて、

「何ものぞ。夜更て我々をみて隱るゝ、名乘(なのれ)。」

と云。

 別木與左衞門、林・藤岡に先達(せんだつ)けるが、

「是は阿部豐後守家來也。此度、御法事御用にて罷通(まかりとほり)候。」

と云。

「豐後守家來、何しに隱るゝぞ。面(おもて)を見よ。」

と立寄(たちよる)所を、別木、刀を拔(ぬき)て切懸(きりかか)る。

「すは、痴(クセ)もの、あますな。」

とて、大勢、押懸(おしかか)りける内に、神尾備前守、同心橋本喜兵衞、一番に飛(とび)なして懸るを、林戸右衞門、刀を拔(ぬき)て拔打(ぬきうち)に切(きり)すへける。取手の同心、いやが上に、おりかさなり、別木・藤岡をば生捕(いけどり)たり。

 はやし戸右衞門、大力強勢の男、そのうへ、劍術の名人にて、三尺五寸、藤嶋友重が打(うつ)たる刀を拔(ぬき)て散散に切𢌞(きりまは)る。將監組のうち、同心赤羽與左衞門・堀江喜左衞門・湯淺半左衞門・成瀨彌五右衞門・吉江六太夫、神尾組の同心岩瀨庄左衞門・横澤勘六、以上九人は、くつきやうの者共なれど、林壱人に切立(きりたて)られ、三人は手負(ておひ)たり。去共(されども)、同心共、いやが上におり重(かさな)り、石谷・神尾、頻りに下知し給へば、林も終(つひ)に生捕(いけどら)れ、かくて未明に石谷・神尾は豐後守殿宿坊へ來り、

「林・藤岡・三宅・別木、生捕し徒黨の内、土岐與左衞門は逐電仕(つかまつり)候。」

よし被申(まうさる)。

 明(あく)る十四日、四人の者ども、拷問し、徒黨の意趣、同類の輩、被尋(たづねられ)、白狀に隨ひ、同類與黨の輩(やから)が一類緣者、印(しる)す。

「水野美作守(みまさかのかみ)家人(けにん)石橋源右衞門【三百石領ス。】。此者、今度、徒黨棟梁たる。」

よし、別木、申(まうす)に付(つき)、美作守へ被仰遣(おほせつかはさる)。弟(おとと)又次郎兄弟、召込置(めしこみおく)。

 阿部豐後守家人山木兵部【二百石。】。彼は武田家の軍師山本勘介賴純が孫也。是も同類のよし也。

 松平但馬守家人町田安齋【三十人扶持。】。かれは別木が親なり。

 同家中町田兵庫【三百石。】。別木か兄也。

 松平遠江守家人町田甚兵衞、別木が兄也【弐百石。】。

 阿部豐後守家人千手八左衞門【弐百石。】。石橋源右衞門姉聟(あねむこ)也。

 北條出羽守家人永田九郎兵衞、幷(ならびに)養仙と云(いふ)醫師、土岐與左衞門弟也。このものども嚴しく召捕へさし置く。

 十六日朝、今度の徒黨人(とたうにん)土岐與左衞門、爰かしこと、隱れ𢌞りけるが、天網のがるゝ所なく、一夜の宿かすものなかりければ、增上寺裏門切通しにて腹切(はらきり)、吭(のど)を、かく。然共(しかれども)、深手にて無之(これなき)故、死せさりしを、所のもの、見付、公義へ訟(うつたへ)ける間、公儀より外科を付(つけ)、養生せさせられけれども、十七日の曉(あかつき)、終に相果けるみぎり、辭世、

  立歸る煙は同じ世の中を名にかへし身の惜しからめやは

 廿一日、彼黨が謀反の與黨、嚴敷(きびしく)御詮義の上、罪科、極(きまは)り、淺草に於て、林・藤岡・三宅・石橋・別木・町田、六人の者共、はりつけにおこなはれ、六人の親兄弟、同日、淺草にて首をはねられける。

 誠に愚成(おろかな)る哉(かな)、蚊蜂(ぶんはう)、針を以(もつて)富士をくづさんとし、とうらう、車をさへぎるの假(たとへ)より、なを及びなき天下を望(のぞみ)、斯淺間敷(かくあさましき)死をとぐるは、其身の心からなり。

 露程(つゆほど)も知らざる親族迄、御仕置(おしおき)に行なわれ、骸(かばね)の上の恥をさらす事こそ、あさましけれ。 

 

[やぶちゃん注:今回の本文は一部で底本に示された、右に附された原典の異本校合跡の方を読み易さ・理解し易さを考慮して本文採用した箇所がある。そこはいちいち明記しなかった。疑義のあられる場合は、底本を見られたい。

慶安四(一六五一)年四月から七月にかけて起こった「慶安の変」に続いて、翌慶安五年九月十三日(グレゴリオ暦一六五二年十月十五日)に発生した、浪人集団による老中暗殺を含む江戸テロ未遂事件である「承応(じょうおうのへん)の変」の実録物。まず、ウィキの「慶安の変」より引く。「由比正雪の乱」「由井正雪の乱」「慶安事件」とも呼ばれる。『主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義』。『由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた』。『この頃、江戸幕府では』三代将軍徳川家光(慶長九(一六〇四)年~慶安四(一六五一)年四月二十日:丁度、この事件の勃発の月、満四十六の若さで病死した。死因は胃癌や高血圧症からの脳出血などが疑われている))『の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。浪人の中には、武士として生きることをあきらめ、百姓・町人に転じるものも少なくなかった。しかし、浪人の多くは、自分たちを浪人の身に追い込んだ御政道(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた』。『正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった』。『そのような情勢下』で『家光が』病死し、後を未だ十一歳の長男『家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし』、『これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐する。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、全国の浪人たちを味方に付け、幕府を支持する者たちを完全に制圧する、という作戦であった』。『しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしま』い、慶安四年七月二十三日に、まず、『丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である』七月二十二日『に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま』、七月二十五日、『駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌』二十六日『早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後』、七月三十日『には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害』、八月十日『に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した』。『駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力』二十『余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげた』。『江戸幕府では、この事件とその』一『年後に発生した承応の変』(後述)『を教訓に、老中・阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、正雪らの掲げた理念に沿った世になるに至った』とある。

 次にウィキの「承応の変から引く。慶安五年九月十三日に発生した浪人騒動。『主な首謀者は別木庄左衛門、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門』。「承応事件」或いはと別木は戸次とも書くことから「戸次庄左衛門の乱」とも称する。『牢人の別木庄左衛門が、同士数人とともに』徳川秀忠の正妻であった崇源院(お江(ごう)の方)の二十七回忌が『増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、江戸幕府老中を討ち取ろうと計画した』。『しかし、仲間の』一『人が老中・松平信綱に密告したため、庄左衛門らは捕らえられ、処刑された。また、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も、計画を打ち明けられていながら』、『幕府に知らせなかったという理由で、ともに磔刑に処せられている。更に、老中・阿部忠秋の家臣である山本兵部が庄左衛門と交際があったということで、信綱は忠秋に山本の切腹を命じている』(下線やぶちゃん)。『慶安の変同様、それまでの武断政治の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。以後、幕府は文治政治へ政治方針を転換した』。なお、これが「承応の変」「承応事件」と呼ばれるのは、事件の五日後の九月十八日に承応元年に改元されたこと、事件の後処理を含め、決着がついたのが改元後であったためである。

「油井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年~慶安四(一六五一)年)ウィキの「由井正雪」より引く。『江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者で』、『名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある』。『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎』(「樟紀流花見幕張」くすのきりゅうはなみのまくはり)き:「丸橋忠弥」「慶安太平記」の異称もある。全六幕。明治三年三月(一八七〇年四月)に東京守田座で初演)では、慶長十年に『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたと』し、『治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出』、『軍学者の楠木正辰の弟子とな』って『軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚』、『婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』(以下、「慶安の変」の記載は略す)。『首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する』。

「丸橋忠彌」(?~慶安四(一六五一)年)は、ウィキの「丸橋忠弥」より引く。『江戸時代前期の武士(浪人)』。『出自に関しては諸説あり、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説(『望遠雑録』)、出羽国出身とする説など定かではない。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべもりずみ)と設定されている』。『友人の世話で、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開く。その後、由井正雪と出会い、その片腕として正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門が密告したため幕府に計画が露見。そのため捕縛され、磔にされて処刑された』。『辞世の歌は』、

 雲水のゆくへも西のそらなれや願ふかひある道しるべせよ

『墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺』。『一説に』、『新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進は、忠弥の血筋だという』とある。

「其節、改元有(あり)て承應元年と成る」この謂い方はおかしい。これではあたかも由井正雪らによる「慶安の変」の直後に改元があったようにしか読めない。実際には前注通り、以下に語られる「承応の変」自体が「慶安」から改元される直前に起った事件である。

「別木(べつき)庄右衞門」(?~承応元(一六五二)年)は江戸前期の浪人。姓は「戸次」とも表記される。元は越前国大野藩士で二百石を領したが、浪人となって江戸に出て、軍学を講じていた(ウィキの「別木庄左衛門」に拠る)。小学館「日本大百科全書」には、軍学を山本勘助の孫山本兵部、また、石橋源右衛門に学んだとする。本文にある通り、この二人の師も連座して斬罪となっている

「林戸右衞門」本文で振った通り、ネット記載を縦覧する限りでは(実際には読みを振ったものは極めて殆んどない)これは「林」が姓で「はやしべゑもん」と読むようである。詳細事蹟不詳。

「三宅平六」詳細事蹟不詳。以下の「藤江文十郎」・「土岐與左衞門」も同じ。

「結(ゆ)ひ」結束の誓い。

「道灌山」現在の東京都荒川区西日暮里四丁目付近の高台。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大猷院樣御法事」「大猷院」は家光の諡号で、これでは彼の法要となり、誤り。事実は故家光の母である徳川秀忠の正妻崇源院(お江の方)の二十七回忌法要である。

「万部(まんぶ)の」多量の。

「あてべし」ママ。「あつべし」。底本にも編者により、「つ」の訂正注が「て」の右にある。

「打(うち)、遠矢に打殺(うちころ)し」この前の「打」は「討ち」で、「急襲し」の意であろう。

「江戸水道の水上(みなかみ)」当時の江戸の上水は神田上水のみ。井之頭池(現在の三鷹市井の頭の井の頭公園内)を水源とする。

「焰焇(えんしやう)ぐら」焔硝蔵(えんしょうぐら)。火薬庫。当時の江戸城の焔硝蔵がどこにあったか私は知らないが、非常に危険施設であるから、城内にはなかったのではないかと思ったりもする。こちらの幕府職の解説一覧の「鉄砲玉薬奉行」の項に、『現在の杉並区永福寺の東の和泉にあった焔硝蔵と四ツ谷の紀伊藩下屋敷と永井遠江守下屋敷の間にあった焔硝蔵』とあるのが目にとまった。識者の御教授を乞う。

「增上寺御法事、來(きたる)九月十五日より初(はじま)る也。十八、九日頃、手筈を合(あはせ)、一度にむほんを起すべし」この日程も誤りと思われる。「備陽史探訪の会」のブログの小林定市氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」によれば、崇源院の二七回忌法会は、『九月五日より』『行なわれ』『十五日に終る』とあるからである。それ『を待って、風の烈しい夜増上寺の周辺数ヶ所に火を放ち、寺に乱入して財宝や香奠の金銀を奪い取る。その際、火消の指揮をとるため出動する老中を待伏し、鉄砲又は遠矢で打落すと府内は大騒動となるから、その虚に乗じて天下の変を窺わんとするものであった』とある。

「城半左衞門」前注の小林氏のそれに『普譜奉行城半左衛門朝茂』とある。

「長嶋刑部左衞門」前注の小林氏のそれには『朝茂の』家来『長島刑部左衛門』とし、その後に『長島は幕府が放ったスパイだった』とある。「町人思案橋・クイズ集」の「承応(しょうおう)の変を密告した武士。どんな対応が待っていたの?」では、彼を特に密偵であったとはしないが、事件後、彼は密告によって幕府転覆計画を未然に防いだ褒賞として、五百石『という高禄で幕府の御家人として採用された』とあり、因みに、『前年に起きた慶安の変も密告者によって計画は潰(つい)えてい』るが、やはり、この時の『直接の密告者である奥村八左衛門(はちざえもん)とその従弟奥村七郎右衛門(しちろうえもん)』も三百石の『御家人として召し抱えられたらし』く、他に『林理左衛門(りざえもん)という人物も密告した』ようで、こちらも五百石で『召し抱えられた』ようであると記す。

「九月十三日夜」先の小林氏の記載から、この密告の日付は正しい。

「松平伊豆守」松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵国忍(おし)藩主(寛永一〇(一六三三)年~寛永一六(一六三九)年)・同川越藩初代藩主(事件当時)で老中(本事件当時は老中首座)。幕藩体制完成期の中心人物の一人。慶安の変の際も密告者は彼に密告している。なお、ウィキの「松平信綱」には、先の『慶安の変で丸橋忠弥を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから』、『捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の』二『階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという(『名将言行録』)』とある。

「ちうしん」「注進」。歴史的仮名遣は「ちゆうしん」でよい。

「石谷將監(しやうげん)」石谷貞清(いしがやさだきよ 文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)は旗本。ウィキの「石谷貞清」によれば、慶長一四(一六〇九)年十六歳で徳川秀忠に召し出されて大番となり、慶長二十年の『大坂夏の陣においては、土岐定義の指揮下に入って江戸城の守備をするように命じられたが、命令を破り徳川秀忠の行軍に徒歩侍として付き従った。この行動は軍規違反ではあったが、徳川秀忠は貞清が若い事やその志に感じるものがあったのか、軍規違反を許し、逆に金子三枚を褒美として与えている。合戦に及んでは、秀忠本陣にて斥候を務めたという』。その後、領地を与えられ、腰物持・徒歩頭・御目付と昇進、寛永一〇(一六三三)年には千石の加増を受けて、合計千五百石を領した。寛永十四年の「島原の乱」では上使板倉重昌の副使を務めたが、『板倉・石谷両氏は諸大名に比べて身分が低いために軽視され、諸大名はその命令に従わなかったとされる。また、城方の守備も堅く幕府方は多数の死傷者を出して敗走した。重昌及び貞清は諸卒を督戦したが効果が無く、焦燥した重昌は翌寛永』十五年一月一日、『自ら先頭となって城方に突撃』するも、『鉄砲の弾に当たって戦死している。貞清も同様に突撃し』て『奮戦したが』。『負傷して後退した。この際、貞清の従士』三『名が討死し』、『幕府側に多数の死傷者が出たと言う。この日の幕府側の損害があまりに大きかったため』、『城方が夜襲をしてくる可能性を考慮し、貞清は負傷に堪えて各陣所を巡見』、『警戒態勢を整えた。また、細川忠利、黒田忠之、島津家久に援軍を依頼し、合わせて戦況を江戸に報告した。板倉重昌の戦死に伴い』、『総大将は松平信綱に代わったが、同月』二十八日『に貞清は板倉重矩』(故板倉重昌の長男)『と供に島原城に突入し奮戦している』。同年三月五日『に駿府へ凱旋したが、軍令違反に抵触したことを咎められ、一時』、『蟄居した』が、同年十二月三十一日『には蟄居処分を解かれている』。慶安四(一六五一)年、『江戸北町奉行に就任し』、『従五位下左近将監に叙任された』。「明暦の大火」(一六五七年)の際には』、『伝馬町牢屋敷の囚人を解放してその命を救ったと』される。因みに、『貞清は元来、柳生宗矩や沢庵宗彭、小堀政一と親交があり、彼らの茶会派閥の一員であった』ともある。

「神尾(かんを)備前守」神尾元勝(かんおもとかつ 天正一七(一五八九)年~寛文七(一六六七年)は旗本で茶人。ウィキの「神尾元勝」によれば、『江戸時代の歴代町奉行の中で、もっとも長期間奉行職を務めた。通称は五郎三郎。官位は内記、従五位下備前守。剃髪後に宗休と号』した。『岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で、後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った』。慶長一一(一六〇六)年に『家康に登用されて徳川秀忠に拝謁、書院番士に選出される。その後』、『小姓番、使番、作事奉行と累進し』、、寛永一一(一六三四)年『に長崎奉行に就任』、寛永十八年『には殉職した加賀爪忠澄の後任として南町奉行に就任した』。寛永二十一年に浪人四人と力士一人が『吉原で狼藉を起こした際、同心を率いてこれを鎮圧し』、『彼らに死罪を下し、由井正雪による幕府転覆計画の折にも石谷貞清と共に鎮圧するなど、奉行として江戸の治安維持に尽力し、寛文元』(一六六一)年『に致仕するまで、足掛け』二十『年近くに渡り』、『奉行を勤めた。玉川上水を開削する際、推進した玉川兄弟の案を幕府に献策するなど、便宜を図ったのも元勝だという』とある。

「阿部豐後守」阿部忠秋(慶長七(一六〇二)年~延宝三(一六七五)年)は下野壬生藩・武蔵忍藩主(先の松平信綱の後で寛永一六(一六三九)年より没年までであるから事件当時もこの地位)・老中ウィキの「阿部忠秋」によれば、徳川家光・家綱の二代に亙って老中を務めた。『慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代の歴史家竹越与三郎より「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)と高く評価された。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。関ヶ原の戦いを扱った歴史書』「関原日記」(全五巻)『の編者でもある』。『忠秋は「細川頼之以来の執権」と評せられ』、『責任感が強く、また、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった』。『阿部忠吉(阿部正勝の次男)の次男。母は大須賀康高の娘。長兄の夭折により』、『家督を相続』、『初名は正秋であったが、寛永三(一六二六)年に『徳川秀忠の偏諱を拝領し、忠秋と名乗った。正室は稲葉道通の娘、継室は戸田康長の娘。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部政澄(重次の兄)の子の正令(後に正能と字を改める)を養子として迎えた』。元和九(一六二三)年に豊後守に叙任、寛永一〇(一六三三)年三月に「六人衆」(松平信綱阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次。後の「若年寄」に相当する江戸幕府初期の職名)の一人となり、同年十月二十九日に老中に任ぜられた。由比正雪の乱が起こった後、松平信綱や大老酒井忠勝らは、『江戸から浪人を追放することを提案し、他の老中らもその意見に追従したが、ただ一人忠秋のみは、江戸に浪人が集まるのは仕事を求めるゆえであって、江戸から浪人を放逐したところで根本的な問題の解決にはならないと、性急な提案に真っ向から反対し、理にかなった忠秋の言い分が最終的には通った』とある。リンク先には先に出た老中松平信綱との逸話が記されているので、彼の人となりを知るために引いておくと、『ある寺の僧侶が他国の寺院へ転属する命令を頑として受け入れないため、松平信綱と』二『人で説得に出かけた。最初に信綱が理路整然と僧侶に転属の理由を述べて説得したが、ますます反発』して「他の方が適任だ」『と言う始末であった。次に忠秋が』「どうしても行きたくないのか」と訊ねると、「お咎めを受けても行きません」『と僧侶は答えたので』、「では咎めとして転属を申し付ける」『と忠秋が言ったとたん、僧侶は』、「知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手ですね(知恵がある)」『と笑いながら申し付けを受け入れたと言う』。また、正保二(一六四五)年十月のこと、『家光が神田橋外の鎌倉河岸へ鴨狩りに出かけ』、『家光は鴨を飛び立たせるために小石を投げるように命じたが、手ごろな石が無かった。そのため、魚屋から蛤を持ち帰らせて小石の代わりにした。翌日、この顛末を聞いた松平信綱は「上様のお役に立った魚屋は幸せ者であり、蛤の代金を取らせる事はあるまい」と言った。しかし同席していた忠秋は、「上様のお役に立ったのは名誉に違いないが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。上様のなさったことで町人に損失を与えては御政道の名折れである」と反論し、代金を支払わせたという。(『寛明日記』より)』とある。

「只今、各(おのおの)へ相談仕(つかまつる)施行(せぎやう)の場所、彌(いよいよ)此所可然(しかるべく)候哉(や)。」「ただ今、御両人へ相談致した施行(せぎょう)のやり方は、以上のような形でよろしゅう御座るか?」といった意味か。施行とは僧や貧しい人々の救済のために物を施し与えることで、崇源院の法要の中で既に決められていた次第の中の一部であったものと考えられる。さすれば、後の「非人ども、山門より入(いり)て裏門へ通りぬけにさせば、混亂、仕(つかまつる)まじ」も腑に落ちる。当時、賤民として差別されていた非人は貧者であり、まさに施行を受けるに相応しく、非人は葬列や埋葬にも関与したから、増上寺でのそれを受ける資格があったと考えられるからである。

「寺僧共、三人の家來ども初(はじめ)、密談の程を不審しけるが、只今の評定を聞(きき)て「扨(さて)は施行(せぎやう)の場所の事にて有(あり)ける」「と心得ける」実際にはとんでもないテロ行為の計画があることを両奉行は内密に報告したのであるが、それが彼ら三人の家来や増上寺の僧らが知れば大変なパニックを起こすし、或いは、彼らの三人の家来や寺関係者の中に謀略集団と内通している者がいると情報が洩れて問題となると考えた、三人の一芝居なのであろう。事実、まさにこの阿部忠秋の家臣山木兵部(先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」では「山本」とあるし、本文もかの軍師山本勘助の孫だと書いてある)がこのテロリスト別木と交友があって、事件後に阿部から切腹を命ぜられている。兵部は本文にも捕縛者の名として出、先の阿部忠秋の引用でも見た。他に本文では「千手八左衞門」なる人物(石橋源右衛門の姉の婿。事蹟不詳)がやはり忠秋の家臣である。

「物そらぞら敷(しき)」不詳。なんとなくはっきりしない、いや~な感じのする、の謂いか。

「加番」追加の警護兵員。

「櫛のはを引(ひく)ごとく」「櫛の齒を挽く如く」。櫛の歯は一つ一つ鋸で挽いて作ったところから、「物事が絶え間なく続く」さまを比喩する。

「寅の刻」午前四時の前後二時間に相当する。

「上下弐人」謀議の徒党の中の主犯格クラス(群)と共犯(従犯)格クラスの謂いか。どちらがどっちかは判らぬが、前とここの記述順序の従うなら、三宅平六が前者で、土岐与左衛門が後者であったものか。

「笹岡源右衞門」不詳。

「藤岡又十郎」先に出た藤岡又十郎の別姓か、単なる誤りであろう。

「札の辻」一般名詞では高札を立てた道辻(街道や宿場町など往来の多い場所を選んだ)を指すが、ここは地名で、江戸の正面入口として芝口門が建てられていた、現在の田町駅の南西の『「札の辻」交差点』附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。増上寺の一・五キロメートルほど北に当たる。

「芝の辻」江戸地誌には冥いので不詳。識者の御教授を乞う。

「阿部の賴任」安倍貞任・宗任兄弟の父で陸奥国奥六郡を治めた俘囚長安倍頼時(?~天喜五(一〇五六)年)と子らの名を混同した誤りであろう。

「棚下(たなした)」「店下(たなした)」であろう。商家の軒先。

「是は阿部豐後守家來也」嘘をつくにも太ッ腹だわ!

「あますな」「取り逃がすな!」。

「橋本喜兵衞」不詳。

「すへける」「据へける」。

「いやが上に」「彌が上に」副詞。なおその上に。ますます。「嫌が上に」と書くのは誤り。

「三尺五寸」一メートル六センチメートル。異様に長い刀である。

「藤嶋友重」室町前期に始まる刀工の一派。初代は名刀工来国俊の門であったという。

「將監組」石谷貞清配下。

「赤羽與左衞門」不詳。以下、「堀江喜左衞門・湯淺半左衞門・成瀨彌五右衞門・吉江六太夫」及び「神尾組の同心岩瀨庄左衞門・横澤勘六」も同前としておく。

「くつきやう」「屈強」。

「下知」指図。叱咤・命令。

「林・藤岡・三宅・別木、生捕し徒黨の内、土岐與左衞門は逐電仕(つかまつり)候。」

「印(しる)す」「記名した」ともとれるが、形容詞「著(しる)し」(はっきり判る・明白である)の動詞化で、「すっかり判明した」の意と私は採る。

「水野美作守」備後福山藩第二代藩主で水野宗家第二代の水野勝俊(慶長三(一五九八)年~承応四(一六五五)年)。ウィキの「水野勝俊によれば、『初代藩主・水野勝成の長男』。慶長三(一五九八)年、当時、『放浪の身であった父・勝成が身を寄せていた三村親成知行の備中国成羽城下にて生まれ』、『幼少から勝成に従い』、慶長一四(一六〇九)年に十一歳で『「美作守」に叙任され』ている。慶長一九(一六一四)年『には大坂の役に参加し、翌年の夏の陣では特に軍功を挙げた』。元和五(一六一九)年に『勝成の福山入封に同行するが、福島正則の築いた鞆の鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため』、『「鞆殿」と呼ばれたという』。寛永九(一六三二)年の『熊本藩加藤忠広の改易に際しては、勝成と共に熊本城受け取りの任に当た』っており、寛永一五(一六三八)年の『島原の乱では父・勝成に従い、息子(水野勝貞)と伴に参陣し、総攻撃で原城への一番乗りを果たした』。翌年、四十二歳で『勝成から家督を譲られ』、以後、十六年余り、『藩主を務め、父・勝成の事業を継続し、新田開発や領地の整備に奔走した』とある。彼と承応の変のテロリストらは何らの関係もなかったが、「家人(けにん)」(家臣)から幕府転覆に関与した者を出してしまったからにはただではすまない。先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」によれば、『承応事件をきっかけとして、領主勝俊の苦心は始まる。当時幕府は権力強化を計り、大名の廃絶を推進していた。幕府転覆に加担した家臣を出した大名家は譜代と雖も法律的理由により何時でも取漬される状況にあった』とあり、『取潰しを避けるため、勝俊は早急に徳川家に対して恭順の意を表わす必要に迫られた』。『最も効果があると考えられたのは、大猷院(徳川家光)を鄭重に祀ることであった』が、『当時水野家の財政状況は』『極度に悪化していた』(引用元には具体的な逼迫内容が書かれてある)。『苦心の末』に『案出されたのが奈良屋町の明王院と草戸村の常福寺を合併させて、領内随一の大寺を創出し、先代の徳川将軍を祀ることであった』とある(実は引用元はこれに関わる遡った水野勝成署名の下知状が偽作であることを証明したものである)。

「石橋源右衞門」(?~承応元(一六五二)年)は備後福山藩士で兵法家。彼は承応の変の首謀者戸次(別木)庄左衛門らから、武装蜂起の相談を受けていた。彼は計画を通報しなかった咎により同年九月二十一日に切腹した、と講談社「日本人名大辞典」にある。先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」には、別木らは、最初の『取調べで、石橋が課叛の張本人であると名指していたことから』、事件の六日後の九月十九日、『評定所において尋間があり、別木らは、石橋に挙兵の方法を尋ねた後、陰謀を打ち明け』、『二百余名の連判状を示して石橋の判形を求めた』が、『石橋は驚き』、『「今御静謐の御代を乱さんとは、須弥山に長競』(たけくら)べ(須弥山(しゅみせん)は古代インドの世界観の中で全宇宙の中心に聳えるとする架空の途方もなく高い山のこと)、『石を抱いて渕に入るに等し、先年』、『由井正雪無道の徒党を企だて』、『忽に誅せられ、骸の上に恥を曝す、前車の覆るは後車の戒めなるべし」と応じなかった』。『その後』、『別木は石橋の宅を三度も訪間するが、何れも留守と称して対面を回避した』。『しかし、別木らの謀反を聞きおき乍』ら、『主人美作守勝俊に押し隠し』、『報告しなかったことを咎められ、判決は主謀者と同罪と決まり、取調べから二日後の』二十一『日に断罪が下され、石橋源右衛門を含め』、『六人の主謀者は浅草において傑刑、石橋源右衛門の弟又次郎(十五才)と、子息の兵部左衛門(五才)も同日浅草において斬罪となった』(下線やぶちゃん)とある。

「松平但馬守」越前木本藩主・越前勝山藩主・越前大野藩初代藩(事件当時は大野藩主)主松平直良(なおよし 慶長九(一六〇五)年~延宝六(一六七八)年)。

「町田安齋」事蹟不詳。後の記載から、別木の親族として斬罪に処せらている。以下「町田兵庫」「町田甚兵衞」他も概ね(「親兄弟」に関しては確実に)同じと読んでよかろう。

「松平遠江守」遠江掛川藩第二代藩主・信濃飯山藩初代藩主(事件当時は飯山藩主)松平忠倶(ただとも 寛永一一(一六三四)年~元禄九(一六九六)年)。

「北條出羽守」下総岩富藩第二代藩主・下野富田藩主・遠江久野藩主・下総関宿藩主・駿河田中藩主・遠江掛川藩主(事件当時は掛川藩主)北条氏重(文禄四(一五九五)年~万治元(一六五八)年)。

「蚊蜂(ぶんはう)」蚊(か)や蜂(はち)。

「とうらう」「蟷螂」。カマキリ。

「なを」「猶」。

「露程(つゆほど)も知らざる親族迄、御仕置(おしおき)に行なわれ」先に示した通り、石橋源右衛門の弟又次郎十五歳、源右衛門の子の兵部左衛門五歳も一緒に斬罪とされているのは涙を誘う。

「骸(かばね)の上の恥をさらす」石橋源右衛門が別木らを諫めた手紙の文章(先の引用の下線部)を三坂が用いていることが判る。]

2017/09/29

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)


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かへる    

        【和名加閉流

         俗云加波須】

蝦蟇【遐麻】

       【雖遐之常慕

        而返故名之

        和名亦然】

ヒヤアヽ マアヽ

本綱蝦蟇在陂澤中背有黑點身小能跳接百蟲解作呷

呷聲擧動極急蝦蟇青鼃畏蛇而制蜈蚣此三物相値彼

此皆不能動【蛇螫人其牙入肉中痛不可堪者搗蝦蟇肝傅之立出】

周禮蟈氏掌去鼃黽焚牡菊以灰洒之則死【牡菊無花菊也】

―――――――――――――――――――――

黒虎 身小黑嘴脚小班

 前脚大後腿小班色有尾子一條

𧋷 遍身黃色腹下有臍帶長五七分住立處帶下有

 自然汁出

螻蟈 卽夜鳴腰細口大皮蒼黑色月令所謂孟夏螻蟈

鳴者是也【螻蛄同名】

△按蝦蟇種類甚多或時有蝦蟇合戰以爲不祥

 續日本紀云稱德帝時【神護景雲二年七月】肥之八代郡蝦蟇陳

 列廣可七丈南向去及日暮不知去處桓武帝時【延暦三年

 五月】蝦蟇二万許從攝州難波南行池列可三町入四天

 王寺内悉去 著聞集云後堀河帝【寛喜三年夏日】髙陽院殿

 南有堀蝦蟇數千爲群左右相構而戰或咬殺半死如

 此數日京師人争見之【其外蛙合戰古今不少】

 河州錦部郡天野近處有田名西行田限畔蛙不鳴【如此

 處亦間有之】 新古今折にあへは是もさすかに哀也小田のかはつの夕暮の聲 忠良

Kaeru

かへる    蟇〔(けいば)〕

        【和名、「加閉流」。

         俗に「加波須〔(かはず)〕」

         と云ふ。】

蝦蟇【遐麻〔(がま)〕。】

       【之れを遐(はるか)すと雖も、

        常に慕ひて返る。故に、之れ、

        名づく。和名も亦、然り。】

ヒヤアヽ マアヽ

「本綱」、蝦蟇〔(かへる)〕、陂〔(つつみ)〕・澤の中に在り。背に黑點、有り、身、小にして能く跳べり。百蟲〔(ひやくちゆう)〕に接〔(まぢ)〕はる。作「呷(カフ)呷」の聲を作〔(な)〕すと解す。擧-動(ふるまい)、極めて急なり。蝦蟇〔(かへる)〕・青鼃〔(あをがへる)〕、蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず【蛇、人を螫〔(さ)〕して其の牙を肉中に入れて、痛み、堪ふべからざれば、蝦蟇〔(かへる)〕の肝〔(きも)〕を搗き、之れを傅〔(つ)〕くれば、立どころに出づ。】

「周禮」の、『蟈〔(かく)〕氏、鼃黽〔(あばう)〕を去ることを掌る。牡菊〔(ぼきく)〕を焚きて、灰を以つて之れに洒〔(そそ)〕ぐときは、則ち、死す【牡菊は、花、無き菊なり。】』〔と〕。

―――――――――――――――――――――

黒虎 身、小にして黑く、嘴〔(くちばし)〕・脚、小さく、班〔(まだら)〕なり。

黃〔(じゆんわう)〕 前脚、大にして、後ろの腿〔(もも)〕、小さく、班色〔(まだらいろ)〕、尾子〔(びし)〕、一條、有り。

𧋷〔(わうき)〕 遍身、黃色、腹の下に臍の帶〔(おび)〕、有り。長さ五、七分。住立〔(ぢゆうりつ)する〕處、帶の下に、自然、汁、出づること、有り。

螻蟈〔(らうかく)〕 卽ち、夜、鳴く。腰、細く、口、大きく、皮、蒼黑色。「月令〔(がつりやう)〕」に謂ふ所の、『孟夏に、螻蟈、鳴く』といふは、是れなり【「螻蛄(けら)」と、名、同じ。】

△按ずるに、蝦蟇〔(かへる)〕の種類、甚だ多し。或る時、蝦蟇、合戰すること有り、以つて不祥と爲す。

「續日本紀」に云はく、『稱德帝の時【神護景雲二年七月。】、肥の八代郡(〔(やつしろのこほ〕り)、蝦蟇〔(かへる)〕、陳列〔(のべつら)〕なる、廣さ七丈可(ばか)り、南に向ひて去る。日暮に及びて、去る處を知らず。』〔と〕。『桓武帝の時【延暦三年五月。】、蝦蟇二万許り、攝州難波の南より行く。池に列なる〔こと〕、三町可〔(ばか)〕り、四天王寺の内に入りて、悉く去る』〔と〕。「著聞集」に云はく、『後堀河帝【寛喜三年の夏日。】〔の時〕、髙陽院〔(かやのゐん)〕殿の南に堀有り。蝦蟇〔(かへる)〕數千、群〔(むれ)〕を爲し、左右〔(さう)〕に相ひ構へて戰ひ、或いは咬み殺し、半死す。此くのごとくすること、數日〔(すじつ)〕なり。京師の人、争ひて之れを見る。』〔と〕【其の外、蛙合戰、古今、少なからず。】。

河州錦部郡〔(にしごりのこほり)〕天野の近處〔(きんじよ)〕、田、有り、「西行田〔(さいぎやうだ)〕」と名づく。畔(あぜ)を限りて、蛙、鳴かず【此〔(か)〕くごとくなる處、亦、間〔まま〕、之れ、有り。】

「新古今」 折にあへば是もさすがに哀れ也(なり)小田のかはづの夕暮の聲 忠良

[やぶちゃん注:一応、良安の評言の冒頭は動物界Animalia 脊索動物門Chordata 脊椎動物亜門Vertebrata 両生綱Amphibia 無尾目 Anura に属するカエル類の総論たらんとする書き出しであるが、その実、蛙合戦の記載によって前項無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus(亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus・亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus)が確実に含まれてくるし、中国本草書から引っ張り出した個別記載は本邦に棲息しない種及び実在が疑問視されるような種(「黃𧋷」)もいる。はたまた、代表する挿絵は如何にもどっしりとしていて、無尾目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科トノサマガエル属トノサマガエル Pelophylax nigromaculatus 然としているようにも見える。凡そ、総論性には欠くが、次の「蛙」が「あまがへる」と読みを振り、その項内で「青蝦蟇」(あおがえる)・「赤蝦蟇」(あかがえる)などを挙げ、その後には「蝌斗(かへるこ)」でオタマジャクシを別項立てしているから、各論よければ総てよし、とすることとしよう。

「加波須〔(かはず)〕」この「須」に従うなら、「づ」ではないことになり、歴史的仮名遣の「かはづ」は誤りということになる。そもそも「かはづ」の語源ははっきりしないのであるが、主流は「川」に住む蛙或いはそれと田に住む蛙とを区別するためなどとされ、その場合は「川住」(かはずみ)の「蛙」であって「ず」が正しいことになるのである(別に「川集(かはつどふ)」の短縮説があり、これなら「づ」でよろしい)。しかし私はこれらのインキ臭いもっともらしい説はみな眉唾であると思う私が中学高校の六年を過ごした富山高岡の伏木(田舎と馬鹿にするでない。ここは大伴家持所縁の万葉の里である)では、蛙を「ぎゃわず」と呼んだ。これはまさに蛙の鳴き声のオノマトペイアそのものであり、リアルに対象を想起出来る語と考えている。私は「かわず・かはづ」もその消毒されたものと心得ている。大方の御叱正を俟つものではある。

「遐(はるか)すと雖も、常に慕ひて返る。故に、之れ、名づく」「遐」は「遠い・遠くかけ離れるさま」を指す。遠いところに捨てても、必ず、元いたところにたちまちのうちに帰ってくるから「かへる」というのだというのである。この安っぽい駄洒落CMのような説は、しかし、かなり古くから信じられてあるものである。例えば、私の「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」を読まれたい。

「陂〔(つつみ)〕」堤。

「百蟲〔(ひやくちう)〕に接〔(まぢ)〕はる」これは、あらゆる虫類と生態系上の強い繋がりを持っている、という意味で解する。

「呷(カフ)呷」「こうこう」という鳴き声のオノマトペイア。

「青鼃〔(あをがへる)〕」カエル亜目アオガエル科アオガエル亜科アオガエル属 Rhacophorus のアオガエル類か、その近縁種。本邦では俗に言う「あおがえる」であるが、あれは日本固有種(本州・四国・九州とその周囲の島に分布。対馬には棲息せず)のシュレーゲルアオガエル Rhacophorus schlegelii である。

「蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず」これはまさに「三竦み」の原型である。私は現行の「三竦み」に深い疑念を持っている。現行のその三者を蛇・蛞蝓(なめくじ)・蛙をそれに当て、私の聞いたものでは以下のように説明される。――蛇は蛙を捕食するから蛙には蛇が天敵である。――蛙は蛞蝓を容易に捕食するから、蛞蝓にとって蛙は天敵である。――ところが、蛞蝓には蛇の毒が効かず、逆にそのねばねばとした粘液でもって逆に蛇を溶かしてしまうから蛇にとって蛞蝓は天敵である――されば、三者が出逢うと、その相互の天敵の相克関係から三者とも身動きがとれずなって竦んでしまう――というのである。しかし、この中の蛞蝓と蛇の関係は、まことしやかにこれを説明するための俗説に過ぎず、そのような機序や能力は実際のナメクジには、当然、ないわけで、これは納得し難い。中国の古い誤った認識だから仕方がないだろうというのは、匙を投げたのと同じだ。私はこの「三竦み」を母から聴いた幼少の頃から、この「蛞蝓」は何か他の生物だったのではないか? と思い続けてきた。それは、「蛞蝓」という画数の多い字は書かれたものでは別な字を誤認し易いと私は思ったからである。そうして、『同じ虫偏並びで蛇と蛙に拘わりそうな強そうなものと言ったら――「蜈蚣」――だろ!』と考えた。ところが、である。その後、博物学に興味を持つようになって「本草綱目」を拾い読みするうち、ふと目が止まった記述があった。それは「蜈蚣」の項の『性、畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身卽死』(性、蛞蝓を畏る。敢へて行く所の路(みち)を過ぎず。觸るれば、其の身、卽ち死す)であった。そこで私は、かく、考えた。『何故だか知らんが、蛞蝓が百足の天敵なら、こりゃ、蛞蝓でもええんかも知れんぞ!』と。しかし、それでも納得は行かなかった。生物学的に蛞蝓が百足を忌避するというのは説明出来ないからであり、百歩譲っても蟇蛙(ひきがえる)は百足を食うが、蛇だって百足を食うからである。このような疑惑は思いの外、執念深いものである。或いは人に児戯に類したものと揶揄されるであろうこういう空想は、我々の意識の倦怠の中で、外見上の年齡を越えて遙かに永く生き延びるものである。とっくに分別の出来た大人が、猶、熱心に『「三竦み」は納得出来ん!』と憤懣を持ち続けたのである(バレましたね、梶井基次郎の「愛撫」の拝借で御座る(リンク先は私の古い電子テクスト))。大学生の頃には、寧ろ、陰陽五行説にでも、この三者を当て嵌め、その相克説から解説するなら判るが、これでは馬鹿にされているようなもんだ、と独り憤慨していたものだった。教員になってからも、生徒に話して呆れられ、同僚の生物の教師に酒を飲んでは議論を吹っ掛けて迷惑がられたものだ。――ところが――この私の疑義と推論が正しかったと判る時が遂にやってきた! 一九九〇年平凡社刊の荒俣宏「世界大博物図鑑 3 両生・爬虫類」、その「カエル」の項の「三すくみ」である。以下、やや長いのであるが、私の永年の憂鬱を払拭するためであるので、荒俣氏もお許し戴けるものと思う。ピリオド・コンマは句読点に代えさせて貰ったことをお断りしておく。

   *

 カエルといえば、ヘビ、ナメクジと組み合わせて〈三すくみ〉とよばれる奇妙な寓意をあらわす小道具となる。

 しかし、日本的寓意といわれる〈三すくみ〉にも東洋的起源がもとめられると思われるので、まず東南アジアの民話から考えていく。

 インドネシアでは、カエルと人間との不思議な因果関係が相当にはっきり意識されてきた。スラウェシ東部に住むトラジャ族に伝わる〈ヘビとカエル〉という昔話に、その例が残っている。それによれば、年寄りのヘビがカエルに子どもたちの守りをしてやるとだまして、その子どもをみな食べてしまう。けれどもヘビは次に人に見つかって殺される。いっぼうカリマンタン西部に伝わる〈小鹿とカエル〉では、カエルが踊りの好きな小鹿をだまして、森の奥まで連れていく。クラン・クルン・クラン・クルンというカエルの太鼓にあわせて小鹿は踊る。ところが。気持ちが高ぶっていくうちに、小鹿は思わず狩人の仕掛けた罠にはまってしまう。すなわち人間はカエルの苦手なヘビを殺し、かわりにカエルは人間に小鹿という利益をもたらす、と考えられていたわけだ。

 これらの民話は、ヘビとカエルが出てくる点を考えあわせるとなおいっそう、日本の〈三すくみ〉の原型を思わせる。

 いっぽう、ベトナムでも、カエルは人間と利害関係をもつ動物だと考えられた。ベトナムの昔話のひとつに〈蛙女房〉というものがある。貧しい若者がカエルを嫁にもらう。そのカエルは皮を脱いで、人間の姿になることができた。ただし人前では皮を脱がない。料理も裁縫も得意で評判となるが、夫はまわりから〈君の奥さんは才能はあるが、きれいじゃない〉と揶揄(やゆ)される。そんなある日美人くらべが行なわれることになった。しかし美人くらぺの当日、カエルはついにみんなの前で皮を脱ぎ捨て、たいそう美しい女となってあらわれた。むろん競争は彼女の勝利に終わる。稲作のさかんな国であるところから、つねに稲のあいだにいるカエルが好意的にみられたのだろう。しかしカエルは人間にプラスを与えるのと同時に、マイナスをも与えるのである。〈蛙にされた上人〉という昔話によると、カエルは、その昔、色恋に迷った名高い上人が、観音様の怒りにふれ、姿を変えられたなれの果てである。そのため、カエルは自分が仏教の修業を積んだころの慣習を今でも忘れていない。たとえ首を切られても人が合掌し続けるように、前肢を合わせているのだ。べトナム人にとってカエルは、美しい女房でもあり。破戒僧でもあるということになる。どちらも、へたをすれば身を滅ぼす元凶となる。

 べトナムには、さらにカエルと人間との因果関係を語る話がある。〈カエルは天を裁判にかける〉という昔話がそのひとつである。昔。大干ばつがおこった。正義感の強いカエルはカニ、クマ、トラ、ハチ、キツネを引きつれ、天に昇って天帝をこらしめる。そしてついに天帝に雨を降らせることを承諾させた。天帝は言う、〈これからは下界で干ばつがおきたら、おまえは歯ぎしりをしてわたしに教えなさい〉と。そのときから、カエルが歯ぎしりをすると、かならず雨が降るようになったのだという。民間にはこういう歌が伝わっている。〈カエルは天の老人であり、カエルを打つものは天に罰される〉。

 人は雨を降らせるために、カエルを鳴かせる。しかしカエルを打てば、人は天に罰せられる。ベトナムでの雨乞いは、一種の自己撞着(どうちゃく)となる。

 ところで、東南アジアにある、カエルとヘビ、小鹿、人、天帝、女房などを組み合わせた〈三すくみ〉関係を、もっと絞りこんだのが、中国での考え方である。《書言字考節用集》によれば、中国ではカエル、ヘビ、ムカデが三すくみを形成するといわれてきた。ヘビはカエルをすくませて食い、いっぼうムカデはヘビを毒殺し、さらにカエルはそのムカデを平気でたいらげるからである。また陸佃《埤雅》[やぶちゃん注:「ひが」と読む。]によれば、ムカデ、ヘビ、ガマで三すくみをなす。ムカデはヘビの脳と目を食らい、ヘビはガマを食べ、ガマはムカデを餌とする。これが自然の法則というものだという。

 この中国版三すくみは、江戸時代初期に日本へ輸入されたらしい。雑俳集の《瀬とり舟》をみると、〈妻に逢夜若衆忍で蛙蝸蛇(さんすくみ)す〉とある。江戸の俳諧師が、ムカデをナメクジ(蝸)に置きかえたことがわかる。《俚言集覧(りげんしゅうらん)》は、はっきりと、三すくみを〈蛇、蛙、蛞蝓(なめくじ)〉と定義し、動きがとれないことの譬(たとえ)とだと説明している。《本草綱目》には、ムカデはナメクジに触れると死ぬ、とある。もしかすると、俳諧師たちはこの事実を知っていて、へどに勝つ動物を、ムカデから、より強いナメクジにかえた可能性もある。ナメクジはムカデ同様カエルに弱いだろうから、それでも三すくみは崩れないと思ったのかもしれない。[やぶちゃん注:この荒俣氏の推理はかなり的を射ていると思う。俳諧師は季の詞に敏感であるために、一種の博物学的素養を第一としており、本草書等もよく読んでいたからである。]

 ちなみに、江戸後期になると、三すくみをとりいれた〈虫拳(むしけん)〉という児戯が生まれる。親指がカエル、小指がナメクジ、人さし指がヘビである。

 いずれにせよ、この〈三すくみ〉は古来中国で〈蟲〉とよばれた生きものの3代表を組み合わせたもので、男、女、胎児(子)になぞらえた陰陽五行の相生相克理論と思われる。

   《引用終了》

この最後を読んで私は快哉を叫んだものだ。さらに言えば、荒俣氏の指示する通り、実は「三竦み」は「虫」を三つ合わせた正字の「蟲」にシンボライズされる強力なそのパワーの均衡チャートででもあったのであると、独り、膝を打ったものである。最後に再度、私の二十年余り(当該書の刊行は私が結婚した三十二歳の年であった)の憂鬱を解いて呉れた荒俣宏氏に謝意を表するものである。因みに、言い添えておくと、蛇は蛞蝓を食う。食うどころか、カタツムリやナメクジのみを主食とする蛇さえ、いる。本邦産では、南西諸島の石垣島と西表島にのみ棲息する日本固有種のヘビ亜目セダカヘビ科セダカヘビ属イワサキセダカヘビ Pareas iwasakii がそれ。松澤千鶴氏のブログ「図鑑.netブログ」の「三すくみ」は嘘だった? 蛇はナメクジも平気をご覧な!

「周禮」「しゆらい(しゅらい)」とも読む。「儀礼(ぎらい)」「礼記(らいき)」ともに「三礼(さんらい)」と呼称され、儒教で重んじられる経書(けいしょ)群である「十三経」の一つ。周公旦が書き残したものとされるものの、実際には後の戦国時代以降になって周王朝の理想的制度を仮想して書かれたものとされる。礼(れい)に関する書物の中では最も需要なものとされた。

「蟈〔(かく)〕氏」以下に見る通り、蛙を駆除することを掌る官の名。但し、後に見るように、「螻蟈」で青い蛙類(或いは広義の蛙類)を指す。他にこの「蟈」はずっと後に項立てされる、砂を口中に含んで人の影を射て死に至らせるという幻の怪虫「蜮(いさごむし)」や「蟈蟈」でキリギリスやクツワムシを指す漢字である。

「鼃黽〔(あばう)〕」蛙。

「黒虎」大陸産の蛙であろうが、両生類には詳しくなく、中文サイトでも同定不能。

「嘴〔(くちばし)〕」口吻部の先端部。

黃〔(じゆんわう)〕」不詳。中文サイトでも同定不能。

「尾子〔(びし)〕」この蛙は体部の後端が通常の蛙より、有意に突き出ている(オタマジャクシの時の尾部痕か)種らしい。或いはある種の変態途中の個体を差すか。

「黃𧋷〔(わうき)〕」東洋文庫版はこの「𧋷」を良安の誤りと断じ、「蛤」の字を横に補正注している。確かに、「本草綱目」の電子化されたものでは一部で確かに「黃蛤」となっているものもあるが、検索を掛けてグーグルブックスの刊行本画像で見ると、現行の中国語で印刷された活字翻刻本では「𧋷」とするものがかなりある国立国会図書館デジタルコレクションの画像で古い「本草綱目」の翻刻本を見ても「𧋷」である。私は、実はこの「𧋷」の方で正しいと思っている。中文サイトの字典の「𧋷」の例文にも、清の李元「蠕範 卷一 物匹第二」の「蛙」の条に「曰黃𧋷、身黃、腹下有臍帶、正月出不可食」という記載を見出せるからでもある。

「臍の帶」両生類ではあり得ない。特殊な種の何らかの器官(生殖?)か、或いは体外寄生虫か・脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)Gordioidea のハリガネムシ類の宿主がカエルに捕食されて体外に出るケースを考えたが、その事態自体が稀で、しかもその場合、消化されなかったとしても、糞と混じって出てくるものと思われ、ハリガネムシが蛙の腹部を食い破って出てくることは考え難いと私は思う。

「五、七分」一・六~二・一センチメートル。

「住立〔(ぢゆうりつ)する〕處、帶の下に」東洋文庫訳では「住立處帶」としてそのまま出し、割注で『(不明)』とする。しかし、こんな現代の学術用語みたような四字熟語は考えにくい。中文の「本草綱目」の現代の刊本をグーグルブックスで視認したところ、「住立處」の後に読点を打っているところから、独自にかく読んだ。但し、「住立」が意味不明な点は東洋文庫と同じである。

「螻蟈〔(らうかく)〕」中文サイトに古くは青蛙のことをかく呼んだと出るから、先に出したカエル亜目アオガエル科アオガエル亜科アオガエル属 Rhacophorus のアオガエル類か、その近縁種としておく。

『「螻蛄(けら)」と、名、同じ』同じってことはさ、結構、今までもいろいろ誤認されてきたのを見た通り、実はやっぱ、これもさ、螻蛄(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類)の鳴き声の誤認でないの?

「蝦蟇、合戰すること有り、以つて不祥と爲す」冒頭に注した通り、通常は大型であるナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus の繁殖行動を指す。これは本種が、多数個体が一定の水場に数日から一週間という極めて短かい期間に集まって繁殖行動をとるからで、古来、「がま合戦」「かわず合戦」と称された。本種の繁殖期のは動く物を何でも抱接しようとし、逃げられないように強い力で絞めるため、を絞め殺してしまうこともある。これを不吉とするのは、良安が挙げる以下の具体例が示しているようで、前掲の荒俣氏の「世界大博物図鑑 3 両生・爬虫類」の「カエル」の項の「ガマ合戦」の条は、そのくんずほぐれつの生態行動ではなく、まさにその吉兆を証左する形で書かれている。例えば、良安の挙げる「桓武帝の時」(延暦三(七八四)年五月のそれについて、後の歴史書「水鏡」(作者未詳。鎌倉初期の成立か)では、これを解釈して、この時の「がま合戦」は平城京から長岡京への『遷都の前兆であり』、『その年のうちに遷都があたふたと行われた』が、『長岡京では不祥事ばかりおこり』、僅か十年『後に平安京へ遷都されたことを思いあわせると』、『なるほど凶兆であったといえる』とされ、また「百練抄」(編者未詳。鎌倉後期の十三世紀末頃の成立と推定される、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書)には、『源平合戦の時代には』、『ガマ合戦やヘビとカエルの争いがしばしば見られたらしい』と記しておられる。

「稱德帝」第四十六代孝謙天皇が淡路廃帝(あわじはいたい)淳仁天皇(在位は僅か二ヶ月)の後、第四十八代天皇として重祚した際の称。

「肥」肥後。

「七丈」「廣さ」とあるが、ここは長さで採ってよかろう。二十一メートル強。

「三町」三百二十七・二七メートル。

「著聞集」「古今著聞集」。以下は、「巻第二十 魚虫禽獣」の載る「寛喜三年夏高陽院の南大路にして蝦(がま)合戰の事」。以下に示す。

   *

寛喜三年夏の比(ころ)、高陽院殿(かやのゐんどの)の南の大路に堀あり。蝦(がま)、數千(すせん)あつまりて、方(かた)きりて[やぶちゃん注:敵味方に分かれて。]、くひあひけり。ひとつがひ、くひあひて、或いはくひ殺され、或いはかたいきして[やぶちゃん注:虫の息になって。]、はらじろになりてありけり[やぶちゃん注:ひっくり返って仰向けになり、白い腹を見せている有様であった。]。またも、またも、おほく集まること、かぎりなし。あるもの、心見に[やぶちゃん注:試しに。]、くちなは[やぶちゃん注:蛇。]を一つもとめて、その中へなげいれたりけるに、すこしもをそるゝ事なし。くちなはも、また、のまんともせず、にげさりにけり。京中のもの、市をなして見物しけり。ふるくも蝦のたゝかひはありけるとかや。

   *

「寛喜三年」一二三一年。

「髙陽院〔(かやのゐん)〕殿」新潮古典集成の頭注によれば、『中御門大路から大炊御門大路に及ぶ南北二町、西洞院大路から堀川小路に及ぶ東西二町の地を占める邸第』とあり、その「南の大路」とは『大炊御門大路をさす』とある。大内裏の東方の南寄りで、内裏から大路二本隔てた位置。現在中央付近(グーグル・マップ・データ)に当たる。

「其の外、蛙合戰、古今、少なからず」この割注、一応、良安の添えたものと見て、引用の外に出したが、前の「古今著聞集」の原典を見ても判る通り、これは原典の末尾を小手先で書き換えて、添えたに過ぎないことが判る。

「河州」河内国。

「錦部郡〔(にしごりのこほり)〕天野」現在の大阪府河内長野市天野町。(グーグル・マップ・データ)。

「西行田〔(さいぎやうだ)〕」現存しない。「JR西日本」の「Blue Signal」の西行を辿る|西行を慕い、妻子が暮らした天野の里によれば、『西行出家後、家に残した妻は西行が高野山にいることを知り、尼となって天野の里へと移ってきた。養女に出されていた娘も成人して出家し、京から母の元へと移ってきた。母娘は天野で睦まじく暮らしこの地で生涯を終えたと伝わる。高野山と都とを頻繁に行き来していた西行だから、道中、妻子の元に立ち寄り、幾度となく家族団らんの時を過ごしたにちがいない』。『雑木林のなかに、西行妻娘の墓とされる小さな石塔が、花を供されて仲良く並んで立っている。昔から里人が誰ともなく花を供え、手を合わせるのだそうだ。西行堂はその石塔の近くにあるが、後年、西行を慕って里人が建てたものを再建したものである。西行が耕作したと伝えられる「西行田」(狭間田)も今では痕跡もない』とある。

「畔(あぜ)を限りて、蛙、鳴かず」その田だけ、畔を境として、他の田では蛙が鳴くのに、その「西行田」だけは蛙が鳴かない。何か謂れ(伝承)があったのだろうが、知り得なかった。識者の御教授を乞う。

「折にあへば是もさすがに哀れ也(なり)小田のかはづの夕暮の聲」「新古今和歌集」の「巻第十六 雑歌上」の前大納言忠良(粟田口(藤原)忠良(あわたぐちただよし 長寛二(一一六四)年~嘉禄元(一二二五)年:摂政近衛基実次男。粟田口家始祖。政務より歌人としての活動が主で、「古今著聞集」では、長期間、ろくに出仕しなかったために危うく大納言の地位を剥奪されそうになり、その心境を和歌を通じて兄の基通と語り合う逸話が収録されているとウィキの「粟田口忠良にある)の一首(一四七七番歌)。

   百首歌たてまつりし時

 をりにあへばこれもさすがにあはれなり小田(おだ)の蛙(かはづ)の夕暮の聲

この「さすがに」であるが、新日本古典文学大系の注によれば、『旧注に「古今の序には鶯に対して蛙の歌を書けり。されども世間にそれほどもてはやす物にあらず。されば「さすがに」とよめり』『とある通りであろう』とある。]

2017/09/28

老媼茶話卷之弐 山寺の狸

[やぶちゃん注:第一巻は底本本文に従ってきたが、濁点の殆んどないそれは若い読者でなくても、かなり読み難く、何より、老婆心から無駄な注を附さざるを得なかったので、第二巻より濁点を恣意的に追加することとする。これは原典にある読み等にも適応する(例えば、次の「山寺の狸」の原典のカタカナ・ルビである「イタズラ」の「ズ」や「食求(ヒダルク)」の「ダ」。底本は「イタスラ」「ヒタルク」)。但し、私が、本来は清音であり、ここもそのままがよく、そのままで充分に通用すると判断したものは濁音化していない(例えば、次の「山寺の狸」の「懲らさずは」の内の「は」。底本は「懲らさすは」。この「ずは」(原典「すは」)は打消の助動詞「ず」の連用形に係助詞「は」の付いたもので、打消の順接の仮定条件を表わす(もし~ないとならば)が、「ずは」の「は」は本来、かく清音であったが、後に発音が「ずわ」に転じ、更に「ずば」「ずんば」の形も生じた(因みに近世口語では「ざあ」や「ざ」へも変じている)。されば、「ずば」でもよいのだが、本書原典が異様に濁音を避ける傾向にあるのは(例えば、次の「山での狸」では底本で原典本文に濁点表記が出現するのは「こり果させずんば」の「ば」が最初である)、作者三坂春編(はるよし)は当時の時点に於ける「文語」を尊重していたことが一つの理由であろうと思われることからして、ここは「ずば」ではなく、古形の「ずは」が三坂の主旨に沿うものと考えた。同じことはその後にある「たそかれ」(「黄昏(たそがれ)」。原義は「誰(た)れそ彼(かれ)は」である)も同じである)。また、かく変更したことは原則、注記しない。]

 

老媼茶話卷之弐

 

     山寺の狸

 奧州磐崎(ばんさき)の郡(こほり)三坂の城主越前守隆景の家士に濱田喜兵衞とて近國に隱れなき大力の者有。幼き時は牛太郞(うしたらう)と云(いふ)。

 牛太郞、五、六の年より、京道(きやうみち)五、六里斗(ばかり)は獨(ひとり)往來せり。

 牛太郞十一の年、白鷄(にはとり)を祕藏し飼置(かひおき)けるを、隣家の犬、此鷄(にはとり)を喰殺(くひころ)しける。牛太郞、怒(いかつ)て、犬をとらへ、下腮(したあご)足を懸(かけ)、上腮(うはあご)兩手をかけて、口を引裂(ひきさき)、殺さんとす。

 牛太郞乳母、是を見付、

「其犬、必(かならず)、殺し玉ふな。鷄をば、幾も今の間に調へ進ずべし。」

と云。

 牛太郞、聞(きか)ず。

 乳母、重(かさね)て曰、

「今度斗(ばかり)は我(わが)云(いふ)事を聞給ひて、犬の命、助け給へ。さもなくば前度からの徒(イタヅラ)を母へ不殘(のこらず)告(つぐ)べし。」

といふ。

 牛太郞、用ひずして犬を殺しける。

 乳母、腹を立(たて)、急ぎ内へ入(いり)、右の荒增(あらまし)、こまやかに母に告る。

 母、此(この)事を聞(きき)て大(おほき)に驚ひて、

「十や十一の小童の徒に、犬の口を引裂(ひきさく)なんど、並々の所行にあらず。强くいましめ懲(こら)さずは、末々の大惡人に成るべし。」

とて、牛太郞を呼寄(よびよせ)て大きに呵(しかり)、家を追出(おひいだ)す。

 牛太郞、母に呵られ、裏へ逃(にげ)て、柹の木に登り、柹を喰(くひ)て、飢(うゑ)を助(たす)く。

 日もたそかれに及びし頃、乳母、心に哀(あはれ)を思ひ、

「おさなき心にて、便(たよ)るべき母には嚴敷(きびしき)折艦に逢ひ、我とは中(なか)をたがひ給ふ。嘸(さぞ)、心に便りなく、かなしく思ひ給ふらん。」

と思ひかへし、裏の柹の木のもとへ行(ゆき)、

「此(これ)以後、母御(ははご)と我(われ)、言(いふ)事を能(よく)聞(きき)、徒(いたづら)をし給はずは、隨分、母御へ御詫(おわび)して中を直すべきか。」

といふ。

 牛太郞も、日は暮(くる)る、食求(ヒダルク)は成る、差(さし)もの徒者(いたづらもの)も、こりたると見へて、

「いかにも、此(この)末は母と汝が云(いふ)事を能聞て、徒をすまじ。母御へ詫言し、中を直し吳(くれ)よ。」

と、たのむ。乳母、是を聞、牛太郞、母に詫言をす。

 母、聞(きか)ずして、呵聲(しかりごゑ)にていふ樣、

「牛が徒(いたづら)を、よの常の子共(こども)の仕業(しわざ)と思ふと見へたり。此節、こり果(はて)させすんば、正直の人には成(なり)ましきぞ。子の、あく人となる事は父母の恥といへり。とも角(かく)、こよひは內へよせざるそ。何方(いづかた)へも出(いで)て行(ゆけ)。」

と、あららかにいふて、戶を堅くしめたり。

 牛太郞、詫言の叶はざるを聞て、大に母を恨めしく思ひ、

『しからば、伯母を賴み、暫(しばし)、彼所(かしこ)にあるべし。』

と思ひ、柹の木より、おり、壱里斗(ばかり)へだゝりし山里の伯母を賴みに行(ゆき)ける。

 折柄、秋更(ふけ)て、山路、物淋しく、木の葉散みだれ、物凄きたそかれに、壱人の坊主、勢高く骨ふときが、淺黃(あさぎ)の平包(ひらづつみ)、筋違(すぢかひ)に首にかけ、肩肌脫(かたはだぬぎ)になり、大ひ成(なる)樫の棒を杖に、つひて來りける。牛太郞を見て立止り、

「小童(ワツハ)、日暮るゝに何方(いづかた)へ行(ゆく)ぞ。此先の村は何と云(いふ)所ぞ。」

と云。

 牛太郞、聞て、

「侍を小童(わつぱ)と云(いふ)は慮外のやつめ。」

と、坊主を、しかる。

 坊主、聞て、目を見出し、

「いや、小賢(コザカ)しき禿童(カブキロ)め。何をいふぞ。己(おのれ)、天窓(アタマ)張(はり)ひしぎくれん。」

と臂(ヒジ)を延(ノベ)、拳(こぶし)を握り、牛太郞にちかづく。

 牛太郞、

「心得たり。」

といふざま、備前兼光弐尺三寸の刀を拔(ぬき)、のび上り、坊主が左の目の上より、橫面(よこつら)半分、頰骨をかけ、筋違(すぢかひ)に切落す。

 首は谷へ落ち、骸(むくろ)は道に橫たはれる。平包は首より脫(ぬげ)て岸陰(きしかげ)に留(とどま)る。

 牛太郞、平包を取上げ、ひらき見れば、淨土數珠(ずず)壱連・かながきの阿彌陀經壱卷・永樂錢百文・古衣(ふるぎ)・ふるゆかたを包(つつみ)たり。取(とり)て肩に懸(かけ)、壱丁程過行(すぎゆき)けるが、牛太郞、思ひけるは、

『坊主は手向ひせし間、止事不得(やむことえず)して切殺したり。人を殺害(せつがい)して此平包を取(とる)時は、切取(きりどり)也。』

と思ひ、又、木の所へ立歸り、坊主が死骸のそばへ。平包をなげ捨て、伯母が方へ行(ゆく)。

 折節、伯母が方には家內の男女、數多(あまた)召集(めしあつめ)、夜業(よわざ)に大豆を打(うた)せ賑(にぎやか)に閙敷(さはがしく)有(あり)けるが、牛太郞唯(ただ)壱人(ひとり)來(きた)るを見て、おどろき、

「汝、人をもつれずして、日暮(ひぐれ)て獨(ひとり)來(きたる)ぞ。」

といふ。

 牛太郞、つゝまず、右の事ども、悉(ことごと)く語りければ、伯母、聞て、

「汝、又、何とて、鷄を取たればとて、隣(トナリ)の犬をば殺しけるぞ。母が呵りしも、尤(もつとも)道理也。此(これ)已後(いご)、かゝる徒(いたづら)、な、せそ。隨分、伯母が詫言して、母が怒りをなだむべし。母は我(わが)妹也といへども、心たけき女也。此頃は此里、狼(おほかみ)のあれて、山より里へ下り、往來の人をなやます故、日暮て通る人、なし。禁(いま)しめの爲ならば、呵(しか)る事は呵るとも、幼きものを唯獨り遙々(ハルばる)の山道を遣(つかは)す事、汝が母がひが事也。夕飯、既に過(すぎ)たり。求食(ヒダルク)はあらざるか。」

と樣々に寵愛しける。

 牛太郞、伯母か懇(ネンゴロ)なる志を得て、母の心の難面(ツレナキ)を恨む。

 暫(しばらく)有(あり)て、伯母、牛太郞が衣裳の血に染(そみ)たるを見付、あやしみ、其故を、とふ。

 牛太郞、僞(いつはり)て、

「日は暮るゝ、山道を急ぐとて、誤(あやまつ)て、石に、つまづき、倒れ、鼻を打(うつ)て、鼻血、出(いで)候。其血の懸りたるにて候。」

といふ。

 伯母、誠として疑(うたがは)ず。

 午太郞、夫(それ)より宿へ不歸(かへらず)、四、五年、伯母の方に有ける。

 牛太郞、十三に成(なり)ける春、在所に狼籍者弐人有て、人、四、五人、切殺し、大勢に手を負(おは)せ、淸閑寺といふ在所の小寺に缺込(かけこ)み、住持を追出(おひいだ)し、戶・障子堅く〆(しめ)て取籠居(とりこもりゐ)たり。村のものども、大勢、寺を取卷有(とりまきあり)けれども、只、ひた訇(ののし)り鬩(せめ)ぐ斗(ばかり)にて、誰壱人(たれひとり)にても、内へ入(いる)者、なし。

 牛太郞、折節、在所の童共(わらはども)と山へ遊びに行(ゆき)けるが、此騷動を聞て走來り、刀を拔(ぬき)て垣を躍越(をどりこ)へ、戶を蹴放(けはな)し、内へ入(いる)。狼籍者、

「子共(こども)也。」

と見て、さのみ驚かず。

 壱人の男、眼(まなこ)を見出し、

「餓鬼め、何しに來(きた)る。」

と、刀に手をかけるを、午太郞、雷光のごとく飛懸(とびかか)り、何の手もなく、大袈裟に切殺(きりころ)す。

 殘る男、

「是は。」

と云(いひ)て立上(たちあが)り、刀をふり上(あぐ)る。

 太刀下を、くぐり、後(うしろ)へ拔(ぬけ)、首、水もたまらず、打落(うちおと)す。

 所の者共、此働(はたらき)をみて、大きに驚き、

「むかし、鞍馬山に牛若丸とておはしけると語り傳へしが、その牛若丸にもおとるまじ。」

と、是より、馳走(ちそう)・崇敬(すうけい)せり。

 牛太郞、成人して後、喜兵衞と云。

 喜兵衞、天性、碁を打(うつ)事を好み、碁勢、甚(はなはだ)强くして、近國に敵する者なし。

 爰(ここ)に岩城の山寺の住僧、是も碁勢强くして、碁を打事を好み、相手だにあれば、終日終夜に打(うち)あかす。

 或人、是を難(なん)じて曰、

「圍碁は戰場を表し、生死をあらそふ『しゆら・とうじやう』を學ぶと申(まうす)。御僧の甚すき好み給ふは、よからざる事に候はずや。」

といふ。

 僧、笑(わらひ)て曰く、

「我、碁を好む事、菩提成佛の緣(ゆかり)也。黑石の死する時は黑業煩惱(こくごふぼんなう)の失(しつ)する事を悅び、白石の死する時は白法善根(びやくはうぜんこん)の滅する事を恐(おそれ)て、無上菩提を觀念する便(たより)となれり。俗人の好(このむ)とは、又、格別にあらずや。」

と、いへり。

 喜兵衞、是を聞て、わざわざ、岩城の山寺へ尋行(たづねゆき)、住僧と碁を打ち、終日(ひねもす)、互に勝負をあらそふ。

 折節、秋の雨降(ふり)て、寂莫(じやくまく)と、もの淋しく、其夜も、いたく更ければ、住僧の曰、

「夜(よ)も深更に及びたり。此所(ここ)に止(とま)り玉へ。夜明(よあけ)て御目にかゝるべし。緩々(ゆるゆる)休み玉へ。」

とて、住僧は內に入(いり)、喜兵衞、只壱人、客殿に伏(ふし)たりけるに、いづくより來るともなく、喜兵衞が枕元へ、犬子(いぬのこ)、弐、三疋、來り、枕のあたり、夜着の上、躍(をど)り越(こし)、はね步行(ありき)、やかましくして眠られず。

『さもあれ、屛風、立𢌞(たてまは)し、狗子(いぬのこ)の可入(いるべき)隙(ひま)もなし。不思義さよ。』

と思ひなから、犬子をつかんで、屛風の外へ抛出(なげいだ)せば、其儘(そのまま)、歸り來(きた)る。

 かくする事度々(たびたび)に、狗の子の數、ふえて、拾疋餘りに成(なり)たり。

 喜兵衞、枕を上、有明の灯にて能く見れば、狗子にてはあらずして、兒法師(ちごはうし)・女の首、いくらともなく、枕元を、躍(をどり)ありく。

 喜兵衞、興をさまし、起直(おきなほ)り、一々取(とつ)て庭へ抛捨(なげす)て、又々、眠らんとせしが、頻りに腹痛(はらいた)して、大便、きざしける間(あひだ)、立て障子を開き、緣へ立出(たちいで)、星月夜の小暗(おぐら)きに、ふみ石をつたへ行(ゆき)、見れば、遙成(はるかな)る築山(つきやま)の陰に、雪隱(せつちん)有(あり)て、大き成る松・杉、生茂(おひしげ)り、眞闇(まつくら)にして、いぶせき所也。

 便用(べんよう)して出(いで)んとするに、外より戶を押(おさ)へ、明(あけ)させず。

 壁の隙(ひま)より覗(ノゾ)きみれば、勢高く、瘦枯(ヤセガレ)たる姥(うば)、兩手を以(もつて)、戶を、おさへ居(ゐ)たり。

 喜兵衞、脇指を拔(ぬき)、姥が胸板を壁越(かべごし)に、

「ぐさ」

と、つく。

 太刀先、働き、戶は、なんなく開き、姥も、行方、しれず。

 座敷へ上り、灯、かき立(たて)、切先(きつさき)を見るに、骨引(ほねびき)有(あり)て、血、染(そみ)たり。

 脇差の血を押のごひ居(をり)たりけるに、暫(しばらく)有(あり)て、西の方より、光物(ひかりもの)、飛來(とびきた)り、緣先へ落(おち)たり。

 喜兵衞、刀(かたな)おつ取(とり)、障子、引(ひき)あけてみれば、件(くだん)の姥、雨落(あまおち)に立(たち)、内の樣子を窺居(うかがひゐ)たりけるが、喜兵衞を見て、一文字に飛懸(とびかか)りけるを、拔打(ぬきうち)に、

「礑(はた)」

と切(きる)。姥、切(きら)れて取(とつ)て返し、表の方へ、かけ出(いで)けるを、喜兵衞、續(つづき)て、追(おひ)かけける。

 俄(にはか)に、空、かき曇り、雨ふり、稻光(いなびかり)して、深夜の闇と也(なり)ければ、喜兵衞、内へ歸り入(いる)。

 程なく、夜も明(あけ)ければ、緣へ立出(たちいで)、是を見るに、緣先より雨落の踏石迄、血、夥敷(おびただしく)こぼれ、それよりは、雨に打(うた)れて、血色、薄く消(きえ)て、姥が行方、尋(たづぬ)べき樣もなし。

 和尙に逢(あひ)、夕べの事共(ことども)をかたりければ、和尙の曰、

「此所(ここ)、人里遠く、山深き地なればにや、斯(かか)る怪敷(あやしき)事、まゝ有(あり)。過(すぎ)し春も、我(われ)獨(ひとり)、學窓に籠り、灯に對し、書をひらき、見居(みゐ)たるに、夜更(よふけ)、人(ひと)靜(しづま)りて後(のち)、學窓の元に、人の彳(たたず)む音あり。靜(しづか)に我(わが)名をよぶ。『諫曉(かんげう)々々。淋しくはなきか』と云。我、答(こたへ)ずして有(あり)ければ、窓より毛のはへたる手を出(いだ)し、我(わが)面(つら)を撫(なで)んとす。我、その腕を强く握り、其腕首を切取(きりとる)。怪物、逃去(にげさり)、行方なし。見るに、年ふる狐の手なり。然るに、此山奧に塚原、有(あり)、古杉・老松、隙(ひま)なく生茂り、晝さへ日のめも見へず、常に深々朦々たる所、有(あり)。此所に古狸・老狐、數多(あまた)、土窟(どくつ)を構へ住(すみ)候。里人の申(まうす)には、常に異成(ことなる)獸(けもの)、三疋あり。其壱は、面瘦(もやせ)て、眼(まなこ)赤く、胴、細長(ほそながく)して、手足、ふとく、馬の大きなる狸あり。その鳴聲、高くひゞきて、鐘を打(うつ)ごとし。其弐には、面(おも)丸く、鼻柱、とがりて、斑成(まだらな)る狸の、片目、つぶれし、有(あり)。其三には、耳、大(おほき)く、眼、丸く、頰、とがり、口、廣く、其形、老大にして、右の腕首なき狐、有(あり)。里人の申(まうす)に、『此狐は、定(さだめ)て、過(すぎ)し春、我に腕を切られし老狐なるべし。』と沙汰致し、是等、極(きはめ)て妖怪をなし、人を迷(まよは)し殺(ころし)候。月白く、風淸く、松風颯々(さつさつ)たる夕べには、老狐・古狸、子(こ)を携へ、類を集(あつめ)、をのが土窟を出(いで)て、月にうそぶき、終夜(よもすがら)、腹つゞみを打(うち)、樂(たのしむ)、といへり。近くの里人、遠く笛・皷(つづみ)の音(ね)を聞(きく)事、度々(たびたび)也。其音色、さはやかにして面白(おもしろく)、感情を催(もよほす)といへり。是、世俗に申傳(まうしつたへ)候、狸の腹鼓(はらつづみ)、是(これ)なるべし。古人曰、夫(それ)、獸は一氣にして偏(へん)なるもの也。狐狸、千歲(せんざい)を經て怪をなす。狸の年經たる、能(よく)雷雨を起し、人の死骸(むくろ)をさらひ取(とる)。是を、人、『化者(くわしや)』といふといへり。夕べの化者(ばけもの)も必(かならず)、此者の所爲なるべし。」

と語られける。

 喜兵衞、歸りし夕方、和尙、日沒の務(つとめ)をなし、念佛申(まうし)おはせしに、忽然として、五十斗(ばかり)の片目なる女、十斗の小女をつれ、和尙の前へ來り、泣(なき)て申(まうし)けるは、

「我等は此御寺近くに住(すみ)侍る嬬女(ヤモメ)にて候が、夕べ、我姊(あね)を狂人の爲に殺害(せつがい)せられ候間、向(むかひ)の山の塚原へ、今宵、姊の死骸を埋葬仕(つかまつり)候。乍御大義(ごたいぎながら)、和尙を引導の師に賴(たのみ)奉る。此由、申さんとて參り候。」

と云。

 和尙は、

『件(くだん)の片目狸の化(ばけ)たるならん。』

と思ひければ、傍(かたはら)に有る竹箆(シツヘイ)を押取(おしとり)、是をうたんとし玉ふに、女も小女も、かきけす樣に、みへずなりたり。

 其夜、牛(うし)みつ過(すぐ)る頃、寺の向の塚原へ、燒松(たいまつ)、數多(あまた)灯(とも)し、人、大勢、經讀・念佛申(まうし)、鉦(ドラ)・鐃(ニヨウ)・鉢(ハチ)たゝき、立て、人を埋葬(はうふりうづむ)體(てい)にみへ、暫(しばらく)有(あり)て燒松の火も消(きえ)、人音(ひとおと)も靜(しづま)りけり。

 和尙、明(あく)る日、人を遣し、見せ玉ふに、土、うづ高く、物を埋(うづめ)たる跡あり。

 掘返(ほりかへ)し、是を見るに、小牛のごとく成る古狸、首より立割(たてわり)に切(きり)さかれたる、其死骸を埋(うづめ)たる也。

「定(さだめ)て是は、夕べ、喜兵衞に切られたる狸なるべし。」

と、人、皆、申(まうし)ける。

 其後、三坂の城は奧州仙臺の城主伊達左京太夫輝宗の爲に責落(せめおと)さる。此節、濱田喜兵衞は、金の大半月の前立(まへだて)に塗鉢(ぬりばち)の冑(かぶと)、朱具足(しゆぐそく)を着(き)、黑の馬に打乘(うちのり)、大長刀(おほなぎなた)、水車(みづぐるま)に𢌞し、聲を懸(かけ)、馬、一さんに、新田常陸之助が三千斗(ばかり)にて扣(ひか)へたる敵の眞中へ乘入、十方へかけ散じ、八方へ追靡(おひなびき)、能(よく)、武者十四、五騎、切殺し、敵味方の目を驚かし、いさぎ能(よく)、討死せり。

 三坂の城跡、今、三坂山に石垣、纔(わづか)に殘れり。

 三坂の家の子、長山越中・遠藤越後・吾妻甚平・吉田大藏。是等、近國に名をしられたる武勇の者共也。

 その子孫枝葉、上三坂・下三坂その外、所々に零落して、其四家の類族、今に有(あり)と申(まうし)侍る。

 奧州磐崎郡(いはさきのこほり)三坂村曹洞宗久長山耕山寺は、三坂氏代々の墳墓(フンボ)の道場也。三坂村の内、捨石、寺領とす。

  幸山院殿重嚴壁公禪門

 俗名三坂越前守隆景、此寺、三坂合戰の節、兵火(ひやうくは)の爲に囘祿して、本尊阿彌陀佛・十王堂・地藏堂・寺寶の舊記までも悉く燒失せり。依之(これによつて)古(いにしへ)をかんがへ印(するす)べき先記(せんき)なし。其後、又、此寺、自火(じか)の災あり。夫よりは誰(たれ)取立(とりたて)る者もなく、物、替り、星、ふり、今、纔(わづか)の小寺と成(なり)ぬ。近頃、耕山寺の祖玄といふ僧、あらたに地藏の緣起を作る。しかれ共、其文言(もんごん)、拙(つたな)くして虛妄の說のみ多(おほく)、用(もちふ)るに不足(たらず)。只、里俗、語傳(かたりつたふ)るを以(もつて)、印(しるし)とゞむ斗(ばかり)也。今に至る迄、御代々三坂氏菩提所耕山寺へ

將軍樣より    御朱印被成下

大猷院樣     御朱印

 地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事、任先規奇附之訖。可收納。幷於當所別當耕山寺中門前山林竹木諸役等免除、如有來永不可有相違者也

   慶安元年七月十一日

[やぶちゃん注:この部分は注で訓読を試みる。] 

 

老媼茶話弐終

 

 爰に油井正雪・丸橋忠彌が一件有共(あれども)、「慶安太平記」に悉く有之(これある)故、略之(これをりやくす)。

[やぶちゃん注:ママ。実際には終わっていない(「卷之弐」は本条を含めて全八篇から成る)。というか、現行では、二巻目は。まだ続く。これを見るに、「老媼茶話」の祖本は十六巻本であったものが(本底本(宮内庁書陵部本)は七巻に拾遺一巻が附く。多量の増補が加えられてしまった哲学堂本は逆に二十巻もある)早期に散佚したというのが、よく判る錯文とも見える。]

[やぶちゃん注:この話、注を附すのに、異様に苦労した。その理由の一つは私が戦国史に極めて冥いからに他ならない。しかし、注を概ね附し終わりそうになったところで、私はあることに気づいた。それに基づいて、既に記した私の以下の注を全面的に書き直すことも考えたのだが、逆に、私の半可通で不完全な推理が、全くの的外れではないことにも同時に気づいた。されば、変則的であるが、そうした「不詳」とした注や不全な推理の跡をそのままにしておいて、注の最後にある決定打を示すことと決した。そこを御理解の上、読み進めて戴けると幸いである。但し、怪談部分は、本書よりちょっと後を時制とする(寛延二(一七四九)年)「稲生物怪録」ばりに面白いぞう!

「奧州磐崎(ばんさき)の郡(こほり)三坂」これは現在の福島県いわき市三和上三坂。ここ(グーグル・マップ・データ)。戦国時代にこの地方を治めた岩城氏の重要拠点とされ、三坂城(三倉(さのくら)城)があった。

「越前守隆景」室町時代から戦国時代にかけての武将で陸奥国大館城主で岩城氏第十一代当主であった岩城氏の全盛期を築き上げた岩城常隆(?~永正七(一五一〇)年又は天文一一(一五四二)年)の弟に岩城(車)隆景がいるが、彼は小川姓でないし、越前守でもないようだし、そもそも後に出る実録資料等を考えると、生存時間が有意に前のように思われるから彼ではないのか? しばしば中世の廃城でお世話になる余湖氏のサイトの「三坂城」のページに『天正~文禄年間』(一五七三年から一五九六年)『には小川越前守隆景が城主となっていたという』とある人物であろう。この小川越前守隆景は恐らく、この当時、同地方を支配していた小川氏の一族の嫡流の一人と思われるただ、非常に気になることがある。それは、この「三坂」という地名であり、本電子化の最初に紹介した三好想山の「想山著聞奇集 卷の參」の「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事(リンク先は私の電子化注)の割注の記載である。煩瑣を厭わず再掲すると、

   *

此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後(のち)、寬保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。

   *

で、実に、本書の作者三坂春編(はるよし)こそが、ここに出る三坂城主であった(三坂)越前守隆景なる人物の後裔だと述べているのである。底本の高田衛氏の解説を見ると、この人物は作者の三坂家の始祖で、岩城平の城主である岩城常隆に仕えたとあるのである(因みに、この隆景の主君岩城常隆(永禄一〇(一五六七)年~天正一八(一五九〇)年)は陸奥磐城大館城主で、佐竹義重に従い、達政宗と戦い、天正十八年には豊臣秀吉の小田原攻めに加わって所領を安堵されたものの、その帰途、鎌倉で二十四歳の若さで死去している)。さて? 先の「小川越前守隆景」と「三坂越前守隆景」は同一人物なのか、それとも全くの別人なのだろうか? しかし、こんなに近接した時機に、こんなにそっくりな名を持つ人物が、同じ場所に別人として存在していたというのは考えにくい。う~む、困った。但し、注の最後に決定打を示すこととする。

「濱田喜兵衞」不詳。但し、やはり注の最後に決定打を示すこととする。

「京道(きやうみち)」三十六町(約三千九百二十四メートル)を一里とする現在の一里の路程距離のこと。呼称は「西国道」「上道」等が一般的で、「大道(おおみち)」「大里」などとも読んだ。「坂東道(ばんどうみち)」(別称「東道」「小道」「小里」「田舎道」)に対する路程距離スケールの区別名称である。

「五、六里斗(ばかり)は獨(ひとり)往來せり」満四、五歳でこの距離は異様で、恐るべき脚力と言わねばならぬ。

「白鷄(にはとり)」二字へのルビ。

「あららかに」底本では後の「ら」の箇所は踊り字「〱」である。これは別本によって補訂されたもので、底本親本は『あらかに』となっているらしい。しかしこの二字以上の繰り返しを意味する踊り字をそのまま正字化してしまうと、「あらあらかに」となっておかしいため、敢えてかく、した。無論、「荒らかに」である。

「勢高く」「背(せい)高く」。

「平包(ひらづつみ)」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。

「小童(ワツハ)」の読みは原典のママ。「わつぱ」(わっぱ)。小童(こわっぱ)。

「禿童(カブキロ)」底本のルビは『カフキロ』。これは当てるなら、少年の卑称の「がき」を指す「かぶろ」であろうが、ガキのくせに、偉そうな「かぶいた」奴の謂いを含むと思われるので、敢えて「カブキロ」とした。実際には私はこのような語を知らない。

「天窓(アタマ)」二字へのルビ。

「張(はり)ひしぎくれん」「ひしぐ」は「拉ぐ」で「押して潰す・圧迫を加えて勢いを弱める・押さえつける・押しやる」の意であるから、「頭を地面に張り倒して呉れるわ!」の謂い。

「備前兼光」鎌倉後期に備前国に住したとされる名刀工備前長船住兼光。ウィキの「備前長船兼光」によれば、「備前長船兼光」を称した刀工は何人かいるが、『一般には南北朝時代に活躍した刀工を指すことが多く、また室町時代の兼光の作刀はほとんど見られない』とする。始祖と目される備前長船兼光は文永年間(一二六四年~一二七五年)頃の刀工で、『岡崎五郎入道正宗の正宗十哲とされる』が、『年代的にみて疑問視する説もある』。次に南北朝の延文年間(一三五六年~一三六一年)頃、応永年間(一三九四年~一四二八年)頃、長禄年間(一四五七年~一四六一年)頃、天文年間(一五三二年~一五五五年)頃に同名の刀工がいるが、ただ兼光と言った場合は最初の二人、特に二人目の延文年間の兼光を指すことが多い。ともかくも、少年の彼が自分の刀としてこのような名物を持っていることから、彼が相当な家柄の子であることが判る

「弐尺三寸」六十九・六九センチメートル。

「岸陰(きしかげ)」切り岸(ここは道の上の方に切り立った崖)の隅。

「淨土數珠(ずず)」浄土宗の数珠にはは一般檀家・信徒用の「日課数珠」、僧侶用の本式のそれには、通常の「日課数珠」の他に儀式用の「荘厳(しょうごん)数珠」がある。孰れも念仏の数を数えられる形式になっているが、本式の数珠でも百八玉はない本式数珠は二つの輪を交差させた独特の形状を成し、両方の輪にそれぞれ親玉と主玉があり、一方の輪には主玉の間に副玉と呼ばれる小さな玉が入って、交互に並んでいる。その副玉が入っている方の輪に、金属製の輪が大小二つと房が繋がっている。現行では男性用・女性があり、玉数や大きさは異なるが、同じ形式で作られている。男性用のそれは「三万浄土」、女性用それは「六万浄土」と呼称されるが、これは念仏を唱える際に決められた形式で数珠の玉数に沿って数えていくと、男性用は三万二千四百回、女性用は六万四千八百回、唱えることが出来るようになっていることに由来するという。参照した京都の数珠専門店「はな花」のこちらのページで実物の形式図や実物画像が見られる。この数珠形式が何時決まったものかは不明であるが、ここは取り敢えず、男が僧であるから、男性用の「三万浄土」の「荘厳数珠」ととっておく。普通の数珠より複雑であるから、一見して区別出来るので、このシーンには相応しかろう

「壱丁」約百九メートル。

「切取(きりどり)なり」牛太郎は、武士として侮辱されたことへの遺恨討ちであったが、これを持ち去ったのでは、捕まれば、結果的に、斬り殺して金品を奪った強盗殺人の罪を犯したことになってしまう、と考えたのである。

「閙敷(さはがしく)」底本は『いそがしく』とルビするが、これは編者によるものであり、採らない。閙(音「ネウ(ニョウ)・ダウ(ドウ)」)は第一義が「騒ぐ・騒がしい」の意であるからである。

「牛太郞、十三に成(なり)ける春、在所に狼籍者弐人有て」前のエピソードが十一の時で、それより「四、五年、伯母の方に有」ったのだから、ここで言う「在所」は実家ではなく、寄せて貰っている伯母の「在所」である。

「淸閑寺」不詳。現在のいわき市に同名の寺はない模様。

「ひた」副詞。ひたすら。

「鬩(せめ)ぐ」底本は清音「せめく」で、この語は古くは清音であったから、そのままでもよい、但し、古語としての「せめぐ(せめく)」の原義は「互いに憎み争う」「責め苦しめる」の謂いで、今一つ、ピンとこない(敷衍して「批難する」でもしっくりこない)。鬩(音ケキ・キヤク・ゲキ(慣用))には他に「恐れる」・「鳴く」・「静かなさま」(これは通音の別字の逆意用法)があるから、ここは「恐れ戦(おのの)く」の意で採ればよかろう。

「大袈裟に切殺(きりころ)す」刀を大上段に振りかぶって、一気に一方の肩から他方の腋へかけて斬り下げて斬り殺した。

「水もたまらず」「水も溜まらず」。刀剣で以って鮮やかに素早く斬るさま。

「馳走(ちそう)」饗応。

「生死」僧を諫めているのであるから、「しやうじ(しょうじ)」と読むのがよいと思う。

「しゆら・とうじやう」「修羅・鬪諍」。

「黑石の死する時は、黑業煩惱(こくごふぼんなう)の失する事を悅び、白石の死する時は白法善根(びやくはうぜんこん)の滅する事を恐(おそれ)て無上菩提を觀念する便(たより)となれり」まず、「黑業(こくごふ)」(こうごう)とは仏語で「悪い行為・悪い果報を受ける悪い行い」としての「業(ごう)」を謂い、その対義語として「白業(びやくごふ」(びゃくごう)、「よい果報を受ける善い行い」、「善業( ぜんごう)」という語があることを押さえるならば、この和尚の謂いは、

「――黒石(くろいし)の死ぬ瞬間には、即ち、絶対の悪しき因縁としての悪業(あくごう)や煩悩(ぼんのう)が雲散霧消することの機縁として、これに喜悦し――白石が死ぬ瞬間には、純白にして無垢の正法(しょうぼう)に至る善根、絶対の善なる属性が完全に滅してしまうことの悪因縁の教えとして、これを心から畏れ、さても、孰れの場合にても、これ、無上の大慈大悲の菩提を観想する方便となって、私の中にあっては格別に作用しておるのじゃて。」

という意味と採れると私は思う。

「雪隱(せつちん)」底本は『せついん』と編者ルビする。確かに本来の読みはそうではある。しかし、私はここで今時、そう発音する人が少ない中、ここは普通に「せっちん」と読みたいのである。

「なんなく」「難無く」。

「行方」底本は編者により『ゆきかた』とルビするが、「ゆくゑ」と読んではいけない意味が判らぬので(私はそう読みたい)ルビを振らなかった。

「骨引(ほねびき)有(あり)て」肉を切っただけでなく、骨をも引き斬った痕がありありと残っていて。骨片の細片でも附着していたのであろう。

「雨落(あまおち)」雨垂れの落ちる所を広く指すが、後で「雨落の踏石」とあるから、雨落(あまお)ち石(いし)、雨垂れで地面が窪んでしまうのを防ぐために軒下に置き並べた石(「雨垂れ石」とも呼ぶ)の謂いで私は読んだ。

「礑(はた)」「はた」は副詞で、唐突に物を打ったり、ぶつけたりするさま。漢字「礑」(音「トウ」)も同義。私はここは一種のオノマトペイアとして採りたい。

「學窓」ここは書斎の謂いか。

「諫曉(かんげう)」一般名詞として「諫曉」(かんぎょう)は仏語に存在し、「諫め、諭すこと」を指す。中でも「信仰上の誤りについてそうすること」を謂う。もし、そういう意味で採るなら、ここは妖魔が来りて、「お前には悪しき因縁があるぞ!」と逆に諫めていることになる。『聖アントニウスの誘惑みたようなもんだ! 「淋しくはなきか」がその誘惑を物語ってるぞ』なんどと、迂闊な私は最初、独り合点してしまって読んでいた。しかし、それではどうにも「淋しくはなきか」と繋がりが頗るつきで、悪い。そうして、よく見ると、直前で和尚は「靜(しづか)に我(わが)名を」呼ぶ、と言って、この台詞が出るのである以上、この「諫曉(かんげう)」とは和尚の法名と読むしかないのである。そうしてこそ「淋しくはなきか」が腑に落ちるのである。それで採る。

「深々朦々」霧や闇などが深く一面に立ち籠めているさま。

「土窟(どくつ)」土中の洞穴。

「馬の大きなる狸あり」意味不明。「馬の(如く)大きなる狸あり」の意でとっておく。

「颯々(さつさつ)」風の吹くさま。風が音を立てるさま。

「一氣にして偏(へん)なるもの」ある契機を得ると、瞬時にして、片寄った、正当でない、禍々しいものになる属性をもっているもの、の謂いか。

「化者(くわしや)」底本では編者によって右に振漢字で『火車』とする。ウィキの「火車(妖怪)から引く。『火車、化車(かしゃ)は、悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪』。『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・甲府市、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』。「奇異雑談集」の「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」によれば、『越後国上田で行なわれた葬儀で、葬送の列が火車に襲われ、亡骸が奪われそうになった。ここでの火車は激しい雷雨とともに現れたといい、挿絵では雷神のように、トラの皮の褌を穿き、雷を起こす太鼓を持った姿として描かれている』(リンク先に画像有り)。「新著聞集」の「第五 崇行篇」の「音誉上人自ら火車に乗る」には、文明一一(一四七九)年七月二日、『増上寺の音誉上人が火車に迎えられた。この火車は地獄の使者ではなく』、『極楽浄土からの使者であり、当人が来世を信じるかどうかにより、火車の姿は違ったものに見えるとされている』。同じ「新著聞集」の「第十 奇怪篇」の「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」には、『武州の騎西の近くの妙願寺村。あるときに、酒屋の安兵衛という男が急に道へ駆け出し、「火車が来る」で叫んで倒れた。家族が駆けつけたとき、彼はすでに正気を失って口をきくこともできず、寝込んでしまい』、十『日ほど後に下半身が腐って死んでしまったという』。やはり同じ「第十 奇怪篇」の「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」には、『松平五左衛門という武士が従兄弟の葬式に参列していると、雷鳴が轟き、空を覆う黒雲の中から火車が熊のような腕を突き出して亡骸を奪おうとする。刀で切り落としたところ、その腕は恐ろしい』 三『本の爪を持ち、銀の針のような毛に覆われていたという』とあり、またまた同書の「第十四 殃禍篇」の「慳貪老婆火車つかみ去る」では、『肥前藩主・大村因幡守たちが備前の浦辺を通っていると、彼方から黒雲が現れ「あら悲しや」と悲鳴が響き、雲から人の足が突き出た。因幡守の家来たちが引きおろすと、それは老婆の死体だった。付近の人々に事情を尋ねたところ、この老婆はひどいケチで周囲から忌み嫌われていたが、あるとき』、『便所へ行くといって外へ出たところ、突然』、『黒雲が舞い降りて連れ去られてしまったのだという。これが世にいう火車という悪魔の仕業とされている』とある。「茅窓漫録」の「火車」には、『葬儀中に突然の風雨が起き、棺が吹き飛ばされて亡骸が失われることがあるが、これは地獄から火車が迎えに来たものであり、人々は恐れ恥じた。火車は亡骸を引き裂いて、山中の岩や木に掛け置くこともあるという。本書では火車は日本とともに中国にも多くあるもので、魍魎という獣の仕業とされており、挿絵では「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている』(リンク先に画像有り)。かの名著「北越雪譜」にも「北高和尚」の中に、『天正時代。越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』と古典籍を挙げる。また、『火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがあ』り、例えば、『岩手県遠野ではキャシャといって、上閉伊郡綾織村(現・遠野市)から宮守村(現・同)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りこして食べてしまうといわれた。長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされた』。『山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される』とあり、『群馬県甘楽郡秋畑村(現・甘楽町)では人の死体を食べる怪物をテンマルといい、これを防ぐために埋葬した上に目籠を防いだという』。『愛知県の日間賀島でも火車をマドウクシャといって、百歳を経た猫が妖怪と化すものだという』。『鹿児島県出水地方ではキモトリといって、葬式の後に墓場に現れたという』。以下、「考察」の項。『日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また中世日本の説話物語集『宇治拾遺物語』では、獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる』。『河童が人間を溺れさせて尻を取る(尻から内臓を食べる)という伝承は、この火車からの影響によって生じたものとする説もある』。『また、中国には「魍魎」という妖怪の伝承があるが、これは死体の肝を好んで食べるといわれることから、日本では死体を奪う火車と混同されたと見られており』、『前述の『茅窓漫録』で「魍魎」を「クハシヤ」と読んでいることに加えて、根岸鎮衛の随筆『耳袋』巻之四「鬼僕の事」では、死体を奪う妖怪が「魍魎といへる者なり」と名乗る場面がある』とある。最後の話なら、私が「耳囊 卷之四 鬼僕の事」で全訳注をしている。「耳囊」の中でも私の好きな一条である。是非、読まれたい。なお、には、ここで「化者」を「くはしや」と読んで、「ばけもの」と読まないのは、名前をずらして、敢えて普通の読みをしないことによって、その難を避ける意図が、まず、あるように思われる。さらに謂い添えておくと、「化者」=「火車」という正体説は、単なる漢字の音通からの、安易な妖怪認識の薄っぺらな解釈説に過ぎず、大いに眉唾であるとさえ感じている。ただ、そうした誤認や拡大解釈が、以降の妖怪世界をとめどなく広げたことは認めなくてはならないとは言える。

「竹箆(シツヘイ)」(しっぺい)は禅宗で師家(しけ:禅の指導者)が修行者を指導するために用いる仏具。長さは六十センチメートルから一メートル、幅は三センチメートルほどで、割り竹を弓の形に曲げ、籐(とう)を巻き、漆を塗って作る(武具の弓を切って製することもある)。古く唐宋時代の禅僧が使用したことが知られるが、現在では修行者のなかの第一座(首座(しゅそ))が住持の命によって禅問答を取り交わす法戦式(ほっせんしき)の折りに用いられる(以上は小学館の「日本大百科全書」に拠る)。既にプンプンしていたが、この「淸閑寺」が禅寺であり、この僧が禅僧であることがこれで明らかになる

「牛(うし)みつ」「丑滿つ時」。一般に午前二時から二時半頃。午前三時から三時半とする場合もあり、ここは「過(すぐ)る頃」であるから、後者で採っても問題ない。

「燒松(たいまつ)」「松明(たいまつ)」。

「鐃(ニヨウ)」読みは原典のママ。歴史的仮名遣としては「ネウ」が正しい。現代仮名遣で「にょう」である。仏式で用いる打楽器の一つ。シンバル型の金属製の銅鑼(どら)。単品を紐で下げ、桴(ばち)で打ったり、まさにシンバル同様に二枚を以って鳴らすこともある。

「伊達左京太夫輝宗」(天文一三(一五四四)年~天正一三(一五八五)年)。戦国大名で達氏第十六代当主。伊達晴宗の次男。ウィキの「伊達輝宗」によれば、『長兄の親隆は母方の祖父である岩城重隆の養子となっていたため、次男の輝宗が世子とな』った。天文二四(一五五五)年三月、『元服し、将軍・足利義輝の偏諱を受けて輝宗と名乗る』。永禄七(一五六四)年、『末頃に父・晴宗より家督を譲り受けた』が、『この時点では、家中の実権を、隠居の晴宗と天文の乱に際して家中最大の実力者となった中野宗時・牧野久仲父子に握られていた。そのため、家中の統制を図った輝宗は』永禄一三(一五七〇)年四月に『中野宗時に謀反の意志有りとして牧野久仲の居城・小松城を攻め落とし、中野父子を追放する。この際に輝宗に非協力的であったとして、小梁川盛宗・白石宗利・宮内宗忠らが処罰されている。同年、義姫の実家・最上家でも、義守・義光父子の間で抗争が始まると、輝宗は義守に与して義光を攻めたが、義姫が輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた』。『家中の実権を掌握した輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停した。また幅広い外交活動を展開し』、天正三(一五七五)年七月『には中央の実力者である織田信長に鷹を贈ったのをはじめとして、遠藤基信に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した』。天正六(一五七八)年『に上杉謙信が没し』、『御館の乱が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・亘理元宗に一任し、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に上杉景虎方として参戦したが、乱は上杉景勝方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は新発田長敦・重家兄弟の奮闘に阻まれて得るところが無かった。しかし、御館の乱における論功行賞において新発田勢の軍功が蔑ろにされ、さらには仲裁を図った安田顕元が自害するに及んで』、天正九(一五八一)年『に重家が景勝に叛旗を翻すと、輝宗は盛氏の後継・蘆名盛隆と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。このため新発田の乱は泥沼化し』七『年にもわたる長期戦となった。

一方、対相馬戦においては、相馬盛胤・義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが』、天正七(一五七九)年『には田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図り』、天正一〇(一五八二)年『には小斎城主・佐藤為信の調略に成功すると』天正一一(一五八三)年五月、『ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・丸森城の奪還に成功し』、翌年一月『には金山城をも攻略した』。『伊具郡全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年』五『月に祖父・稙宗隠居領のうち』、『伊具郡を伊達領、宇多郡を相馬領とすることで和平が成立した。ここに至って伊達家は稙宗の頃の勢力圏』十一『郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。このことは』天正一一(一五八三)年四月『の賤ヶ岳の戦いで盟友・柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて滅亡したことを受け』同年六月五日、『付の甥・岩城常隆に宛てた書状の中で、秀吉の勢力が東国に及ぶような事態に至れば奥羽の諸大名を糾合してこれに対抗する意思を示している』『ことからもうかがえる』。天正一二(一五八四)年十月六日、『蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後わずか』一『ヶ月で当主となった盛隆の子・亀王丸の後見となる。輝宗はこれを期に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した舘山城に移った。以後自らは越後介入に専念するつもりであったという。ところが、家督を継いだ政宗は上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上による共同での越後介入策を放棄したため、蘆名家中において伊達家に対する不信感を増大させるに至った』。翌天正十三年『春に、政宗は岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光・岩城常隆・伊達成実らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして』、『定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年』四『月に大内氏に対する討伐命令を下した。定綱は蘆名盛隆未亡人(輝宗妹・彦姫。亀王丸の母)にとりなしを求めたものの、政宗は』五『月に突如として蘆名領に侵攻し(関柴合戦)、これに失敗すると』、『定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった』。同年十月、『義継は政宗に降伏を申し入れ、輝宗と伊達実元の斡旋により五カ村を除く領地召し上げの厳しい条件で和睦した。同月』八『日に義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れたが、面会が終わり出立する義継を玄関において見送ろうとした輝宗は、義継とその家臣に刀を突きつけられ』、『捕えられた。伊達成実の著作とされる『成実記』および伊達家の公式記録である『伊達治家記録』によると、同席していた成実と留守政景が兵を引き連れて遠巻きに追ったが、二本松領との境目にあたる阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗が「自分を気にして家の恥をさらすな。わしもろともこ奴を撃て」と叫び、それが合図となって伊達勢は一斉射撃を行ったという。この銃撃で輝宗と義継を始めとする二本松勢は全員が死亡し、鷹狩中であった政宗が一報を受け』、『現場に到着したのは既に全てが終わってからであったとしている』(下線やぶちゃん)。長々と引いたのには理由がある。それは先に推定比定した主人公「濱田喜兵衛」の君主小川「越前守隆景」は天正~文禄年間(一五七三年から一五九六年)の三坂城城主であったという事実と、ここで輝宗によって三坂城が「責落(せめおと)さ」れたという記載とがやや矛盾するようにも思われるからである私の読みの推定比定や読み方が誤っているのか、或いは、事実とは異なった設定で三坂が本話を書いているのか、私にはまるで判らない。お手上げである。戦国史に御詳しい方の御教授を乞うものであるが、やはり、注の最後に決定打を示すこととする。

「水車(みづぐるま)に𢌞し」水車が回るように自由自在に、ぶん回して。

「新田常陸之助」天正一三(一五八五)年の時点で、実在した輝宗の有力家臣の武将として名が見える

「長山越中」下は越中守であろうが、不詳。三好氏の有力家臣団には長山姓を見出せない。

「遠藤越後」下は越後守であろうが、不詳。以下、同前。

「吾妻甚平」不詳。以下、同前。

「吉田大藏」不詳。以下、同前。

「上三坂」現在の福島県いわき市三和町(みわまち)上三坂(かみみさか)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「下三坂」現在の上三坂の東北直近の三和町下三坂附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧州磐崎郡(いはさきのこほり)三坂村曹洞宗久長山耕山寺」現在の福島県いわき市三和町上三坂字中町地内に現存。後に出る通り、兵火と自家出火による火災によって、悉く焼失してしまい、寺の由緒が不明であるとする。ネットでも、めぼしい情報はない。

「捨石」不詳。

「幸山院殿重嚴壁公禪門」見る通り、浜田喜兵衛の主君「三坂越前守隆景」の法名。以下はその三坂氏菩提寺である耕山寺の略歴。

「三坂合戰」不詳。但し、注の最後に決定打を示すこととする。

「星、ふり」幾「星」霜を「經り」。

「近頃、耕山寺の祖玄といふ僧、あらたに地藏の緣起を作る。しかれ共、其文言(もんごん)、拙(つたな)くして虛妄の說のみ多(おほく)、用(もちふ)るに不足(たらず)」ひどい書かれように見えるが、筆者の三坂春編が隆景の後裔であるという事実を考えるなら、何となく判らんでもない。

「御代々三坂氏菩提所耕山寺へ」底本に従い、最後に句読点を打たなかった。これは、当時の筆録法に従ったもので、貴人を示す文字(ここは「將軍樣より」)が出る場合に改行して行頭へ持って行ったものである。

「御朱印被成下」「御朱印、成し下さる」。

「大猷院」第三代将軍徳川家光の諡号。

「地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事」恐らくはこれが朱印状の標題で「地藏堂領陸奧國磐崎郡三坂村内拾石事」であると思われる。されば、次の訓読文に前の部分も含めて推定で附してみた。

「任先規奇附之訖。可收納。幷於當所別當耕山寺中門前・山林竹木・諸役等免除、如有來永不可有相違者也」底本の読みを参考に(一部、従っていない)書き下してみる。

   *

    御朱印、成し下さる。

大猷院樣〔御朱印〕

地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事

先規(せんき)に任せ、奇附(きふ)せしめ、之れを訖(おは)んぬ。收納すべし。幷びに、當所(たうしよ)別當(べつたう)に於いて、耕山寺中(じちう)・門前・山林竹木・諸役等(とう)免除し、有り來たるごとく、永く相違有るべからざる者なり。

   *

「慶安元年七月十一日」一六四八年八月二十九日(この年は正保五年二月十五日(一六四八年四月七日)に慶安に改元している)。

「油井正雪・丸橋忠彌」次の「惡人」の条で頭に名が出るので、そこで注する。

「慶安太平記」史書ではないので注意。慶安四(一六五一)年に浪人由比正雪・丸橋忠弥らが幕府転覆を図った、慶安事件(慶安の変)を扱った実録本・講談・歌舞伎などの題名または通称。由来は正雪が楠流の軍学者で、「太平記」の主要人物である楠木正成の子孫と称したという巷説から。

 

 以下、予行通り、最終注を附す。 

 モデル人物の隔靴掻痒の注を附しながら……それとは別に……この怪談……どうも……いつか昔……読んだことがある気がしてきていた……そうして……人物探索のためにいろいろな通称を掛け合わせて検索している中……見つけた! 「あっつ! あれか!!」と思わず、叫んだのである。

 これは綱淵謙錠(大正一三(一九二四)年~平成八(一九九六)年)氏の怪異譚集「怪(かい)」に載っていたのだ!

 私がそれ(昭和五七(一九八二)年中公文庫刊)を読んだのは、実に三十五年前、教員になって三年目のことだった。

 先程、書棚に発見した。

 当該小説集は「あとがき」によれば、所収する十篇の半分の五篇が、まさに「老媼茶話」に取材したものであった。

 本話を素材にしたものは、まさしく小説集の題である「怪」であった。

 当該作は、再度してみたが、ただの現代語訳ではなく、それぞれのシークエンスに深みがあり、途中に別な話柄を挟み込んだ、粋な時代怪奇小説に仕上がっている。

 一綱淵氏はその一番最後のパートを、原話のように浜田喜兵衛関連の事蹟と、その最期を叙述して締めくくっておられる。それを引いて、私の半可通の注に箔を添えたいと思う。綱淵氏の著作権は存続しているが、最終パートはそれほど長くないし、私としては、どうしてもここに掲げたい内容で、あの世の綱淵氏もお許し下さるように思うのである。

   《引用開始》

 浜田喜兵衛の仕えた三坂越前守隆景は岩城(いわき)氏に臣属し、会津の蘆名氏に加勢して、伊達氏に反抗していた。

 当時の伊達氏は独眼竜政宗の父輝宗の時代で、蘆名氏と奥州を二分し、米沢に本拠を置き、三春の田村氏と盟約を結んで勢力を拡大しようとしていた。世は元亀・天正の戦国末期、食いつ食われつの明け暮れのなかに、三坂城は二人の豪勇の士で、その堅陣を誇っていた。

 一人は吾妻(あづま)八郎教為(のりため)であり、もう一人が浜田喜兵衛景之(かげゆき)であった。世人は二人を〈三坂の双壁〉とたたえ、竜虎並んで城を出づれは三坂勢に敵なし、と恐れられた。

 ところが吾妻八郎教為は、あるとき山伏を殺害し、その怨霊に取り憑かれて悶死して果てたため、三坂城の命運はいつに浜田喜兵衛の双肩にかかることになった。

 天正八年六月、蘆名盛氏(もりうじ)が死んだのを境として、蘆名の盛運は次第に下降線をたどり、伊達との勢力の均衡は破れて、天正十三年十月、三坂城は伊達・田村連合軍の攻略するところとなった。

 このとき浜田喜兵衛は金の大半月の前立物(まえだてもの)を打った塗鉢(ぬりはち)の兜をいただき、朱具足の鎧を着け、八寸(やき)(四尺八寸)[やぶちゃん注:地面から跨る背部までの高さが一メートル四十四センチメートルあまりの馬。馬は「四尺」が標準。]にあまる黒馬にまたがって大薙刀を水車のように振り廻し、手勢百人を引きつれて、押し寄せた新田常陸介(ひたちのすけ)の軍勢三千人の真只中めがけて魚鱗懸(ぎょりんがか)かり[やぶちゃん注:陣形の名称。中心が前方に張り出し、両翼が後退した陣形。△の形に兵を配する。]に駈け入って、主従相互に大声を掛け合い、十方に駈け散らし、八方に追い靡かせ、ひた物狂いに敵を追い返けること三回。「鬼神も三舎を避けよう」と、敵味方その勇猛ぶりを賞嘆せぬ者はなかった、という。[やぶちゃん注:「三舎を避く」は、元来は「辞退したり、しりごみをすること」であるが、転じて、謙遜して相手に一目置くことを指す。中国の故事で「三舎の距離を退く」というのが原義。「一舎」は三十里(本邦の概ね約五里)に相当する単位で、古代中国の軍隊が一日行軍して宿舎したことに由来する。三舎は三日分もの行程に当たるので、この語は元が「戦意のないさま」の形容であった。]

 そのうちに三坂勢は全軍城門を押し開いて打って出で、乱軍[やぶちゃん注:「みだれいくさ」と訓じておく。]となって城中に火の手が挙がり、黒煙万丈、数刻後には全員討死して落城の悲運を迎えた。

 その間に浜田書兵衛は〈能武者十四五騎切殺し、敵味方の目をおどろかし、潔く討死せり〉と旧記は語っている。

 この三坂合戦のさいの出火で、三坂家の菩提寺であった曹洞宗の久長山耕山寺も類焼し、本尊の阿弥陀仏、十王堂、地蔵堂、寺宝の旧記までも、ことごとく焼失した。そのため当時の史実を探るべき先記は全く存在しない、という。

 ただわずかに三坂山に残る石垣のみが三坂の城あととして、長いあいだ往事を語りつづけて来たが、その石垣の上の松籟に、遠いつわものどもの雄たけびや勝鬨をしのぶ人もいた。そして月の明るい晩など、その松籟にまじって、鼓の音が遠く近く聞える、といわれた。だれか風流人の手すさびででもあったのであろうが、ある本は、浜田喜兵衛の死を喜ぶ狸の腹鼓である、と書き伝えている。もっとも、それをまことと信じる人間がこの世に存在しなくなって久しい。

   《引用終了》

私の注の疑問は、かなり、この綱淵氏の文章で明解にされていると思う。細かな不分明部分はあるが、私のは、怪奇談の電子化注であって、注は戦国史を正確に明らかにすることにあるのではないから、この辺りで、お許し願いたく存ずる。明確な誤りは御指摘頂ければ訂正する。]

老媼茶話 化佛(ばけぼとけ) / 老媼茶話巻之壱~了

 

     化佛(ばけぼとけ)

 

 淺野彈正少弼(だんじやうせうひつ)長政の步士(かち)、伊勢に使(つかひ)に行(ゆき)ける道に、墓はらのあり。夜半はかりに此所を通りけるに、變化(へんげ)のもの、いてたり。身に火焰有(あり)て、不動明王のかたちの如し。火光の中に、其おもてをみれは、

「にかり。にかり。」

と打笑(うちわらひ)て來(きた)る。步士、刀をぬき、走りかゝりて、是を、きる。

 火光、忽(たちまち)、消(きえ)て、暗夜(アンヤ)となりぬ。

 それより、伊勢に行て、明日、歸路に右の所をみれは、苔むしたる石佛のかうべより、血、流れいて、切先(きつさき)はつれにきつたる跡あり。是をとりて歸り、人にかたらんも誠(まこと)しからねは、したしき友にひそかにかたりて、其刀を見せけるに、刃(やいば)は血つきて、石のひきめあれとも、刃、かけす。

 淺野長政、是を聞(きき)て、秀吉の聽に、たつす。

 秀吉、彼(かの)刀(かたな)をめしよせ、一覽あるに、備中靑江の作にて、貳尺五寸有(あり)。

「是(これ)、名物なり。」

といふて、「にかり」と異名(いみやう)して祕藏せらる。

 そのゝち、京極若狹守忠高家に傳われり。

 

 

老媼茶話卷之壱終

 

[やぶちゃん注:本話、出典未詳。識者の御教授を乞う。

「淺野彈正少弼(だんじやうせうひつ)長政」(天文一六(一五四七)年~慶長一六(一六一一)年)。

「步士(かち)」「徒士」「徒」とも書き、徒侍(かちざむらい)のこと。主君の外出時等に徒歩で身辺警護を務めた下級武士。

「いてたり」「出でたり」。

「流れいて」「流れ出で」。

「切先(きつさき)はつれにきつたる跡あり」刀の切っ先が外れて斬ったと思しい痕があった。

「是をとりて歸り」ちょっとここが不審。「是」(これ)は当然、その石仏としか読めないのであるが、以降にはその石仏の話は出ず、専ら、斬った刀の話のみで石仏は出てこない。まあ、血を吹き出した石仏を担いで帰る武士も、なかなか、キョワイ。いや、或いは、滑稽かも?

「誠(まこと)しからねは」真実とは到底、思って貰えそうもない事実であるので。

「石のひきめあれとも」明らかに石を引き斬ったような痕跡や石屑が刃の表面に附着していたが。

「かけす」「缺けず」。

「めしよせ」「召し寄せ」。

「備中靑江」刀工集団である青江派。平安時代後期から南北朝期にかけて備中国(現在の岡山県西部)で栄えた。開祖は青江守次。 同派は時代ごとに三分割されており、鎌倉時代中期以前を「古青江(こあおえ)」、鎌倉中期から南北朝初期を「中青江(ちゅうあおえ)」、南北朝中期以降室町初期までを「末之青江(すえのあおえ)」と称する。

「貳尺五寸」七十五・七五センチメートル。短いと思われる向きもあるかも知れぬが、江戸時代の武士が好んだ刀の平均長は二尺三寸前後、六十九・六九センチメートル、約七十センチメートルで、これは長めの部類である。

「京極若狹守忠高」(文禄二(一五九三)年~寛永一四(一六三七)年)は江戸前期の大名。出雲国松江藩主。若狭国小浜藩主高次の子で京都生まれ。若狭守、後に左近衛権少将。慶長一四(一六〇九)年に父の遺領を継いだ。元和元(一六一五)年の大坂の陣に出陣している。寛永一一(一六三四)年、出雲・隠岐二十六万四千石余に転封、松江に居城を置いた。忠高の母は第二代将軍徳川秀忠の室崇源院の姉であったことから、徳川氏の縁戚として処遇された。江戸で死去したが、嗣子がなく、甥を末期養子に立てたが、その時点での領地は没収された(以上は概ね「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。その継いだ甥の高和には播磨龍野に六万石の所領が与えられて大名として存続は許された(ここはウィキの「忠高に拠る)。]

2017/09/27

老媼茶話 武將感狀記 船越、大蛇を殺す

 

     武將感狀記 船越殺大蛇

 淡路周本(スモト)の城主、船こし五郎左衞門と云(いふ)大力の強弓引(つよゆみひき)あり。

 同こく、しとりの池に大蛇住(すみ)、人民を呑喰(のみくらふ)と聞く。

「大蛇を退治せん。」

とて弓矢を持(もち)、馬に乘(のり)、しとりの池へ行(ゆき)、馬を池の汀(みぎは)にのりとゝめ、大音(だいおん)上(あげ)、

「此池に大蛇住(すむ)と聞(きく)。出)いで)て勝負をせよ。」

とよははりけれは、俄(にはか)に、雨、一通りして、雷光、隙(ひま)なく、池の波、逆卷(さかまき)て、大蛇、あらはれ、紅(くれなゐ)の舌をいたし、船越に、むかふ。

 船越、大の雁俣(かりまた)を以て大蛇の口の中へ射込(いこみ)けれは、さかしまにかへるかとみへしか、また、立上(たちあが)り、船越を追ふ。

 船越、馬にむちを打(うち)、はせ歸る。

 大蛇、是を追(おひ)かけ、草木の上を走る音、疾(シツ)風のことし。

 しとりの池より、すもとまて、壹里半の處なり。

 其道に「あま」といふ所あり。其所、楠の森あり。

 此森陰に馬をのり入けれは、大蛇、ふなこしをみうしなひ、森の木梢にのほり、下を見おろす所を、船越、振返り、二の矢を射る。其矢大蛇の咽(のど)にあたり、大蛇、大きによはりて、急に、追(おふ)事、ならす。

 船越、いそき、城に至り、馬を乘入(のりい)、門をとつる時、大蛇、追來り、門の上を乘越(のりこえ)、うちへいらんとする時、船越か將のふ地それかし、立向(たちむかひ)、長刀を以て、大蛇の首を切落す。

 其時、大蛇は納地(ノフチ)それかしに息を吹(ふき)かくる。身に熱湯をあひるかことく、納地、毒氣を觸(フ)れて甚(はなはだ)煩熱(はんねつ)し、其日の暮方に死(しす)。船越か乘(のり)たる馬もたち所に死(し)ゝ、船越も四、五日過(すぎ)て、皮膚、あかく爛(タヽ)れて死(しに)たり。

 大蛇のかしら、今に於て、船越の子孫、持(もち)つたへたりといへり。

 「深祕錄」には「船越三郎四郎殿」とあり。

[やぶちゃん注:「武將感狀記」ウィキの「武将感状記」によれば、『熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって』正徳六(一七一六)年『に刊行された、戦国時代から江戸時代初期までの武人について著された行状記で』「砕玉話」とも称する。『戦国時代には戦地で功績のあった者に、主君が感状を与えるのが慣わしであった。家臣に対する賞賛を書状に認め』、『勲記としたり、または褒賞の目録的な意味合いをなすものでもあった。しかし、本著は実際にそうした感状の類を集成したものではなく、著者が見聞した評伝を、独自の価値判断のもとに好んで採録した逸話集である。その内容は戦国時代や安土桃山時代、かつ江戸時代初期の逸話が中心となることから、封建道徳に即した武士特有の倫理観によって評価された物語と考えられる』。『採録された逸話は必ずしも戦闘に関するものだけではない。石田三成と豊臣秀吉の出会いとして有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話が記されているのは本著である』。『一般的にいわれてきたこととして、著者の熊沢猪太郎は肥前国平戸藩の藩士で、諱は正興、号を淡庵、または砕玉軒ともいい、備前国岡山藩の藩士であった陽明学者の熊沢蕃山の弟子とされている。そのため本著に採録された逸話は、肥前平戸藩と備前岡山藩関係のものが、他藩のものと比較して多数を占めることも道理とされていた』。『しかし東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということだった』。『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』。『逸話集という性質、並びに記事の年代と刊行年の隔たりから、史料的価値は高くないと考えられている。本著にしか採録されていない逸話もあるが、著者の出自が不明なことなどから記事の裏付けがとれず、これも信憑性に欠ける点とされている。ただ、刊行年頃の武士の価値観を推し量る材料としては有用との評価がある。小説の材料としても重宝されている』とある。「船越殺大蛇」(船越、大蛇を殺す)は同書の「巻之八」にある「舟越五郎左衞門大蛇を射る事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「淡路周本(スモト)の城」淡路国津名(つな)郡、現在の兵庫県洲本市、淡路島東部中央にあった洲本城のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「洲本城」によれば、大永六(一五二六)年に三好氏の重臣安宅(あたぎ)治興が築城し、治興の後は養子安宅冬康(三好長慶の弟)が城主となり、彼の死後は彼の長男信康・二男清康と受け継がれが、天正九(一五八一)年の淡路討伐の際に総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられている(その後、脇坂安治に移り、江戸時代になって姫路城主池田輝政三男忠雄が領主になった際、一時、廃城となったが、寛永八(一六三一)年から同十二年にかけて復活している)。

「船こし五郎左衞門」不詳。しかし、先の「武将感状記」の当該章を見ると、三坂が省略した実録風部分が冒頭にあって、そこでこの人物は、阿波・土佐・淡路三州を支配した『三好が三男にて淡路の洲本に在城し、年々播磨紀伊と戰』った武将と紹介されている。私は戦国時代に冥いのであるが、これと前注を重ねて見ると、この人物は阿波国の武将で細川晴元に仕えた三好元長の三男であった安宅冬康(享禄元(一五二八)年?~永禄七(一五六四)年)をモデルとしているのではないかと私は思っている【二〇二三年三月二十日追記:これは知人からの指摘によって、モデルは冬康の旧家臣の祖先の誤認であることが判った。本注の最後の追記を見られたい。】ウィキの「安宅冬康」によれば、三好氏家臣『安宅氏へ養子に入り』、『淡路水軍を統率し』、『三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。経緯・理由については様々な見解があり』、『不明な部分が多い』とし、『安宅氏は淡路国の水軍衆で』、『長兄の長慶は当時、細川氏などによって畿内を追われ』、『淡路島にいた。長慶は冬康をこの安宅氏の当主・安宅治興の養子にして家督を継承させた。穏やかで優しい仁慈の将であり、人望が高かったという』。『以降、三好家は長兄の長慶が摂津国・河内国・和泉国の兵を、次兄・三好実休が阿波国衆を、冬康が淡路衆を、弟・十河一存が讃岐国衆を率いるという体制で各地を転戦した。冬康は大阪湾の制圧や』永禄元(一五五八)年『の北白川の戦い』や永禄五年三月の『畠山高政との戦い(久米田の戦い)に従軍、特に畠山高政との戦いでは次兄の実休が敗死すると冬康は阿波に撤退して再起を図り』、同年六月には、再び、『高政と河内で戦い勝利している(教興寺の戦い)』。『その後、弟・一存や次兄・実休、甥で長慶の嫡男・三好義興が相次いで死去すると、三好一族の生き残りとして長慶をよく補佐したが』、『長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられ』ている。享年三十七と伝える。『冬康の殺害に関する経緯・理由については諸説あ』り、『山科言継は自身の日記『言継卿記』にて、冬康に逆心があったゆえに殺されたようだ(「逆心悪行」)、と、伝聞の形で書き記している』が、『多くの民衆は』当時の長慶の寵臣であった『松永久秀の策動が背景にあったことを信じて疑わなかった』という。『例えば『続応仁後記』『三好別記』などの史料には、冬康の死因は確実に久秀の讒訴が原因による謀殺であると記されており、久秀は「逆心の聞こえあり」「謀反の野心あり」と長慶に讒訴したという』。『実際に久秀には十河一存・三好実休・義興といった長慶の兄弟、嫡子が相次いで死去して三好家中で同等かそれを凌駕する実力を保有する者で残っていたのは冬康だけであり、これを除く事で主家を乗っ取ろうと考えても不思議では無かった』。『一方で、『足利季世記』や『細川両家記』にも、冬康が讒訴によって殺されたと書かれており、これらの史料の記述も、冬康が久秀の讒訴で殺されたとする根拠とされているが、この』二史料に『関しては、「何者かの讒訴によって、冬康は長慶に殺害された」としか書かれておらず』、『久秀が関与したとは一言も書かれていない』とある。『長慶が自らの意思で冬康を殺害したという見解もある。弟の十河一存、実休、嫡男の義興に相次いで先立たれ、長慶の親族の有力者は冬康一人になっていた。思慮深い性格もあって、冬康への人望は一層のこと強くなっていった』。『そのこともあって、後継者の義継を巡り軋轢・疎隔が生じたのではないかとも指摘されている』。『冬康本人が、義継への家督継承を不服としていた可能性もあると指摘される』。『天野忠幸は冬康殺害の理由について断言はしていないが、冬康が義継の家督継承に不服を抱いていた可能性もなきにしもあらず、と解説した上で』、『「例え冬康が無辜であっても、自分の死後、義継の地盤が盤石になるためには、冬康を殺す必要があったのではないか』『と指摘している。長江正一は、長慶は義継の将来のためにも冬康の処遇について考慮しなければならなかったと指摘する』。『また、長慶はこの頃、重い病によって判断力が低下していたと考えられる』。『殺害後に冬康が無実であること知った長慶は相当に後悔したといわれている』。『その後、長慶は精神を病み(うつ病であったといわれる)、そのまま後を追うように』七『月に病死している』。『この晩年の長慶が鬱病に罹患したという観点から冬康謀殺を考察する見解もある。三好長慶の研究もしている介護士の諏訪雅信は、「鬱病の末期症状による被害妄想を原因とした殺害」「集団自殺・心中」という』二『つの見解を提示している』。『「被害妄想を原因とする殺害」は、長慶の病状が悪化するにつれ、兄弟の中で唯一の生存者となっており、人格者として慕われていた冬康に人々の人望が集まり、それが長慶には「冬康が家臣達を糾合して自分を殺そうとしている」ように映った、というものである』。『もう一つの「集団自殺・心中」説は、鬱病と自殺に強い因果関係があり、また鬱病による自殺は時々心中の形となって現れ、その犠牲になるのは多くは身内である、ということに着目した見解であり』、『三好家の惣領として、天下人として自分の無力さに絶望を感じた長慶が、冬康を道連れにして殺害し、自らも食を絶って餓死した、というものである』。但し、『提唱者である諏訪自身は、これら』二『つの見解は自分自身のこじつけによる解釈だと注意書きして』はいるという。『長江正一は、最終的に粛清という結末になってしまった結果も鑑み、長慶と冬康の関係・及び両者の地位は源頼朝と源範頼、足利尊氏と足利直義、豊臣秀吉と豊臣秀次のそれに似ていると指摘する』。また、『今谷明は、冬康が粛清される直前の三好政権末期における両者の関係を、悪い表現と前置きした上で、「文化大革命の末期における、毛沢東と周恩来のよう」と評した』。『天野忠幸は長江や今谷のように長慶と冬康の関係を他の歴史上の兄弟と直接比較はしていないが、織田信長の死後、織田信雄、織田信孝、織田秀信(三法師)、並びに彼らを後援する柴田勝家、豊臣秀吉らの間で内紛が起こった事例を例え、このような事態が起こることを防ぐ為に長慶は冬康を粛清したのではないか、という見解を出している』とある。『冬康は平素は穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮を繰り返し傲慢になっていた兄・長慶に対し鈴虫を贈り、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる(または鈴虫でさえ大事に育てれば長生きする)。まして人間はなおさらである」と無用な殺生を諌めたという逸話が残っている』。『『南海治乱記』には、「三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり」と記されている』。『冬康は和歌に優れ』、「安宅冬康句集」「冬康長慶宗養三吟何人百韻」「冬康独吟何路百韻」「冬康賦何船連歌百韻付考証」などの『数々の歌集を残し、「歌道の達者」の異名を持った』。『中でも代表的な歌は』、

 古へを記せる文の後もうしさらずばくだる世ともしらじを

『である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。歌の師は里村紹巴、宗養、長慶であ』った。『なお、細川幽斎は著書『耳底記』の中で、安宅冬康の歌を「ぐつとあちらへつきとほすやうな歌」と評している』とある。長々と引いた理由は、民を苦しめる大蛇を倒すも、部下の武将納地某ともども落命したとする、この英雄を、私はこの悲劇の歌人武将安宅冬康に比定したい欲求を抑えられないからであり、そうした彼をこうした悲劇のヒーローとして説話化して伝承することは、如何にも日本人好みであると思うたからである。但し、安宅冬康の別姓や通称に「船越」や「五郎左衛門」は見当たらない私の比定はとんでもない誤りかも知れぬ。大方の御叱正を俟つものである。【二〇二三年三月二十日追記:以上はやはり、私のトンデモ誤認で、知人からの指摘によって、モデルは冬康の旧家臣船越景直の祖先の誤認であることが判った。以下、当該ウィキによれば、船越景直(ふなこしかげなお 天文九(一五四〇)年~慶長(一六一一)年)は、『戦国時代から江戸時代初期の武将で江戸幕府の旗本。父は船越景綸。子に永景、北条氏盛室。通称は五郎右衛門。官途は左衛門尉』で、『船越氏は藤原氏の流れを汲んだ淡路の国人で、鎌倉時代より戦国時代まで三原郡倭文の庄田を中心に支配し、室町時代には細川氏の被官となって活動していた』。『景直は初め淡路庄田城主として、細川氏の重臣だった三好長慶の弟、安宅冬康に水軍を従えて仕えた。後に三好氏が滅んだことから織田信長に帰属し、天正』九(一五八一)年には淡路を攻めた羽柴秀吉から本領安堵を受ける。本能寺の変の後も秀吉の直臣として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣。後に淡路から播磨明石郡へと移され』、四千『石を受けて弓組と鉄砲組を率いた。その後も秀吉の家臣として小田原征伐や文禄の役にも従軍している』。『ところが、文禄』四(一五九五)年に『秀次事件に関わって』、『秀吉から勘気を蒙り、陸奥の南部信直に預けられる。秀吉の没後、徳川家康の求めから摂津や河内に所領をあてがわれて復し、関ヶ原の戦いには東軍に加わった。その功から大和宇智郡にも』千五百『石を加増され』、六千『あまりを知行する江戸幕府の旗本に列』した。『翌年には、家康に請われて堀尾吉晴や猪子一時、大島光義らと共に関ヶ原の戦いの話に興じている』。享年七十二と長生きしているから、本篇の主人公では、ない。また、『景直は茶人として知られ古田織部に師事し、慶長』一一(一六〇六)年に『皆伝を受けている。茶道具に用いられる織物、名物裂にある船越間道は景直』、或いは、『永景が用いたことに由来する』とある人物の先祖の誰かがモデルであると考えられる。教授を受けた知人に心から御礼申し上げるものである。】

「しとりの池」原典を確認すると「しどりの池」であるが、不詳。但し、淡路島は非常に多くの溜池があるから、未だ現存するかも知れない。識者の御教授を乞う。洲本城まで一里半の距離にある池で、その間に「あま」という地名がある。よろしく。

「よははりけれは」「呼ばはりければ」。

「雁俣(かりまた)」先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常の大きさのものでは、飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いるが、ここでは「大の」とあるから、不足はない。

「さかしまにかへるかとみへしか」鎌首を向こう側に仰向けにして、倒れるかと見えたが。

「大蛇、是を追(おひ)かけ、草木の上を走る音、疾(シツ)風のことし」この音響効果が上手い。

「のふ地」「納地(ノフチ)」不詳。但し、原典では大蛇が出現する直前に『納(をさ)氏(し)』と『加治(かぢ)氏』が駆けつたとあり、毒気に触れた部分でも『納(をさむ)も加治(かぢ)も毒氣に觸れ』て死んだとする。この納(或いは納地)・加治或いはそれに近い姓の人物は三好氏の有力家臣団の中に見出せない

「深祕錄」作者不詳の江戸初期に成立した戦国大名諸家に関する記述を集めた「諸家深秘録」か。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、以前に述べた通り、私のパソコンでは画像表示が異様にかかるので、探索は諦めた。悪しからず。

「船越三郎四郎」不詳。但し、検索をかけるうち、グーグルブックスの伊藤龍平の「ツチノコの民俗学 妖怪から未確認動物へ」ので、別に宝暦九(一七五九)年刊の河田正矩なる人物の著になる「金集談」に、まさにこの船越五郎衛門或いは船越三郎四郎(異伝の記載)による淡路での「しどり池」大蛇退治の話が載っていることを見出せた。守備範囲でない戦国期の注に少し疲れた。これにて失礼仕る。悪しからず。]

老媼茶話 宇治拾遺 海の恆世(相撲取海恒世の話)

 

     宇治拾遺 海の恆世

 

 後一條の御宇に、丹波の國にうみの恆世(ツネヨ)といふ角力取(すまひとり)の大力有。

 恆世か家の傍に大沼有り。岸に、大木古木、生しけり、木陰、いと冷(すず)しかりけり。

 ある夏、炎天、もゆるかことく、凌(しのぎ)かたかりしかは、恆世、かたひらはかりきて、あしたをはき、鐵棒をつき、小童壱人、めしつれ、件(くだん)のきし陰の大木に腰をかけ、扇ひらき、つかひ、暑(あつき)を凌き居たりけるに、俄(にはか)に、川水、みなきりて、泡立(あはだち)、きしの笆(ませがき)・あし・こも、ゆるきいて、大きなる蛇、水中より頭(かしら)をさしいたし、口をひらき、舌を出し、恆世をまもり居たるか、又、水に沈み、むかうのきしへ、およきわたり、松の大木を七重八重にまとひつき、尾斗(ばかり)、こなたゑさし越(こし)、きしに立(たち)たる恆世か足に、二重(ふたへ)三重に卷着(まきつき)ける。

 恆世、兼てより、「かく此蛇のはかる」とは知(しり)たりけれと、『何ほとのことかあらん』と思ひ、少(すこし)も、さわかす。

 蛇、力をいたし、しきりに強く引(ひく)。

 恆世も、

「きつ。」

と踏張(ふんばり)、

「引とられし。」

と、こらへける。

 蛇、あまりにつよく引しかは、胴中より、

「ふつつ。」

と引切(ひきき)れ、沼水、あけの血染(ちぞめ)となる。

 恆世、あしをからみたる蛇の尾を引ほとき、水にて洗ひけれとも、へびのからみたる跡、うせさりける。

「酒にてあらふものなり。」

と兼々聞置(きこき)けれは、酒を取よせ、能々(よくよく)あらひけれは、其跡、常のことく成(なり)にけり。

 きれたる蛇のきれ口の大きさを見るに、渡り壱尺斗(ばかり)あり。蛇のかしらの方は、猶、大木を、數返(すへん)、まとひいたりけるを、打殺しける。

 近きあたりの人々、より集り、

「大蛇の引たるはいか斗(ばかり)の力そ。ためし見るへし。」

とて、大勢、繩をつけ、拾人斗にて引(ひき)けれとも、

「猶、たらす。」

と云けり。次第に人を增し、六拾人斗にて引ける時、

「蛇の力、是程ならん。」

と云ける。これらを以(もつて)、恆世か力をはかるに、百人力には越(こえ)たるへし。

 此恆世、そのゝちの角力(すまひ)のせつ、陸奧の國の住人眞髮(マカミ)のなりむらと取(とり)ける時、頭(かしら)をつね世か胸につけ、つよく押(おし)たるを、恆世、引よせて、仰(ノケ)さまに、なけ付(つけ)たり。

 つね世、相撲には勝(かち)けれとも、大ちからに胸ををされ、むねの骨、をれくたけ、本國下るとて、はりまの國にて、むなしくなれり。

 

[やぶちゃん注:大蛇退治譚で前条と直連関。さて、問題は出典で三坂は表題で「宇治拾遺物語」とするのであるが、実はほぼ相同の話が先行する「今昔物語集」にあり、しかも三坂が主人公とする「恆世」は後者に明記されるものである(前者は「經賴(つねより)」で発音は似ていても、「恆世」と書き誤まる可能性は低い。或いは三坂が参考としたものは「今昔物語集」の話を誰かが合わせて纏めたものであったのかも知れぬ)。また、「宇治拾遺物語」をそのまま引いているわけでもない。そこで、まず、「今昔物語集」のものを示した上で、「宇治拾遺物語」版を提示しておく。

 「今昔物語集」のそれは、巻第二十三の「相撲人海恆世會蛇試力語第廿二」(相撲人(すまひびと)海恆世(あまのつねよ)、蛇(へみ)に會ひて地からを試む語(こと)第二十二)である。

   *

 今は昔、丹後の國に海の恆世と云ふ右[やぶちゃん注:右衛門府方に所属した相撲取り。宮中行事の相撲(すまい)の節会(せちえ)に従事した公務員である。]の相撲人(すまひびと)、有りけり。

 其の恆世が住みける家の傍らに舊河(ふるかは)有りけるが、深き淵にて有りける所に、夏の比(ころあひ)、恆世、其の舊河の汀(みぎは)近く、木景(こかげ)の有りけるに、帷(かたびら)[やぶちゃん注:裏を付けない(「袷(あわせ)の「片ひら」の意)衣服。単(ひとえ)物。]許りを着て、中(なか)結ひて[やぶちゃん注:裾が乱れぬように腰を帯や紐で結ぶことをいう。]、足駄(あしだ)を履きて、杈杖(またぶりづゑ)[やぶちゃん注:尖端が二つに分かれている杖。]と云ふ物を突きて、小童(こわらは)一人許りを共に具して、此彼(ここかしこ)冷(すず)み行(あり)きける次(つい)でに、其の淵の傍らの木の下(もと)に行きけり。

 淵靑く恐しげに、底も見へず。葦や薦(こも)など生(お)ひたりけるを見て、立てりけるに、淵の彼方の岸の、三丈[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]許りは去りたらむと見ゆるに、水のみなぎりて、此方樣(こなたざま)に來たりければ、恆世、

「何の爲(す)るにか有らむ。」

と思ひて見る程に、此方の汀近く成りて、大きなる蛇(へみ)の水より頭(かしら)を指し出でたりければ、恆世、此れを見て、

「此の蛇の頭の程を見るに、大きならんかし。此方樣に上(のぼ)らんずるにや有らん。」

と見立てりける程に、蛇の、顏を指し出でて、暫く、恆世を守りければ、恆世、

「我を此の蛇は何にか思ふにか。」[やぶちゃん注:「我らを、この蛇めは、どうしようと考えておるのか?」。]

と思ひて、汀、四、五尺許り去(の)きて、動かで立ちて見ければ、蛇、暫し許り、守り守りて、頭を水に引き入れてけり。

 其の後(のち)、彼方(あなた)の岸樣(きざま)に、水、みなぎると見る程に、亦、卽ち、此方樣に、水浪(みづなみ)、立ちて來たる。其の後、蛇の尾を水より指し上げて、恆世が立てる方樣に指し寄せける。

「此の蛇、思ふ樣(やう)の有るにこそ有りけれ。」

と思ひて、任せて見立てるに、蛇の尾を指し遣(おこ)せて、恆世が足を二返許り纏ひてけり。

「何(いか)にせむと爲るにか有らむ。」

と思ひ立てる程、纏ひ得て、

「きしきし。」

と引いければ、

「早う、我を河に引き入れむと爲るにこそ有りけれ。」

と思ふ。

 其の時に、踏み強(つよ)りて立てるに、

「極じく強く引く。」

と思へるに、履きたる足駄の齒、踏み折りつ。

「引倒されぬべし。」

と思へけるを、構へて踏み直りて立てるに、強く引くと云へば愚かなりや、引き取られぬべく思へけるを、力を發して足を強く踏み立てければ、固き土に五、六寸許り、足を踏入れて立てるに、

「吉(よ)く強く引くなりけり。」

と思ふ程に、繩などの切るる樣に、

「ふつ。」

と切るるままに、河の中に、血、浮び出づる樣に見へければ、

「早う切れぬるなり。」

と思ひて、足を引きければ、蛇の引かされて、陸(くむが)に上ぼりにけり。其の時に、足に纏ひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、其の蛇の卷きたりつる跡、失せざりけり。

 而る間、從者(じゆしや)共、數(あまた)來りけり。

「酒を以つて其の跡を洗ふ。」

と、人、云ひければ、忽ちに、酒、取りに遣りて、洗ひなどして後、從者共を以つて、其の蛇の尾の方を引き上げて見ければ、大きなりと云へば愚かなり、切口の大きさ、一尺許りは有らむとぞ見へける。頭(かしら)の方(かた)の切(きれ)を見せに[やぶちゃん注:見させるために]、河の彼方(かなた)に遣りたりければ、岸に大きなる木の根の有りけるに、蛇の頭を數(あまた)返り纏ひて、尾を指さ遣(おこ)せて、先づ、足を纏ひて引きけるなりけり。其れに[やぶちゃん注:逆接の接続詞。ところが。]、蛇の力の恆世に劣りて、中より切れにけるなり。我が身の切るるも知らず、引きけむ蛇の心は奇異(あさま)しき事なりかし。

 其の後、

「蛇の力の程、人何(いく)ら許りの力にか有けると試みむ。」

と思ひて、大きなる繩を以つて蛇の卷きたりける樣に恆世が足に付けて、人、十人許りを付けて引かせけれども、而(しかも)、

「彼(か)れ許りは無し。」

とて、三人寄せ、五人寄せなど付(つけ)つ引かせたれども、

「尚、足らず。」

「足らず。」

と云ひて、六十人許り、懸りて引けきる時になむ、

「此許(かばかり)ぞ、思へし。」

と恆世、云ひけり。

 此れを思ふに、恆世が力は、百人許りが力を持ちたりけるとなむ思ゆる。

 此れ、希有(けう)の事なり。昔は此(かか)る力(ちから)有る相撲人(すまひびと)も有りけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

 次に「宇治拾遺物語」のそれは、「經賴(つねより)、蛇に逢ふ事」である。

   *

むかし、經賴(つねより)といひける相撲(すまひ)の家の傍らに、古川(ふるかは)のありけるが、深き淵なる所ありけるに、夏、その川の近く、木陰のありければ、帷(かたびら)ばかりきて、中結ひて、足駄はきて、またふり杖といふ物つきて、小童(こわらは)一人(ひとり)供に具して、とかくありきけるが、

「涼まん。」

とて、その淵の傍らの木陰に居(ゐ)にけり。

 淵、靑く、恐ろしげにて、底も見えず。蘆・菰(こも)などいふ物、生ひ茂りけるをみて、汀(みぎは)近く立てりけるに、あなたの岸は、六、七段(たん)[やぶちゃん注:一段は六間であるから、六十六~七十六メートル強でとんでもない大河になってしまう。何かの間違いであろう。]斗りは、退(の)きたるらんとみゆるに、水のみなぎりて、こなたざまにきければ、

「何(なに)のするにかあらん。」

と思ふ程に、この方の汀近く成りて、蛇(くちなは)の頭(かしら)をさし出でたりければ、

「此蛇(くちなは)、大きならんかし。外(と)ざまにのぼらんとするにや。」

と見立てりける程に、蛇、頭をもたげて、つくづくとまもりけり。

「いかに思にかあらん。」

と思ひて、汀一尺ばかり退(の)きて、端(はた)近く立ちて見ければ、しばしばかりまもりまもりて、頭を引き入てけり。

 さて、あなたの岸ざまに、水、みなぎる、と見ける程に、又、こなたざまに、水波、立ちてのち、蛇の尾を汀よりさし上げて、わが立てる方ざまにさし寄せければ、

「此蛇、思ふやうのあるにこそ。」

とて、まかせて見立てりければ、猶、さし寄せて、經賴が足を三返り、四返りばかり、まとひけり。

「いかにせんずるにかあらん。」

と思ひて、立てる程に、まとひ得て、

「きしきし。」

と引きければ、

「川に引き入れんとするにこそありけれ。」

と、そのをりに知りて、踏み強(つよ)りて立てりければ、

「いみじう強く引く。」

と思ふ程に、はきたる足駄の齒を踏み折りつ。

 引き倒されぬべきを、かまへて踏み直りて立てれば、強く引くとも、おろかなり。引き取られぬべく覺ゆるを、足を強く踏み立てければ、かたつらに、五、六寸斗り、足を踏み入れて立てりけり。

「よく引くなり。」

と思ふ程に、繩などの切るるやうに切るるままに[やぶちゃん注:とともに。]、水中に血の、

「さ。」

と沸き出づるやうに見えければ、

「切れぬるなりけり。」

とて、足を引きければ、蛇(くちなは)、引きさして[やぶちゃん注:引くのを止めて。]、上ぼりけり。

 その時、足にまとひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、蛇の跡、失せざりければ、

「酒にてぞ洗ふ。」

と人の言ひければ、酒とりにやりて、洗ひなどして、後に從者(ずさ)ども呼びて、尾の方(かた)を引き上げさせたりければ、大きなりなどもおろかなり。切口の大きさ、徑(わたり)一尺ばかりあるらんとぞ見えける。頭(かしら)の方(かた)の切れを見せにやりければ、あなたの岸に大きなる木の根のありけるに、頭の方を、あまた返りまとひて、尾をさしおこして、足をまとひて引くなりけり。力の劣りて、中より切れにけるなんめり。我あ身の切るるをも知らず引きけん、あさましきことなりかし。

 其の後、

「蛇(くちなは)の力のほど、幾人(いくたり)ばかりの力にかありしと試みん。」

とて、大きなる繩を蛇の卷たる所に付けて、人、十人斗りして引かせけれども、

「猶、たらず。猶、たらず。」

と言ひて、六十人斗りかかりて引きける時にぞ、

「かばかりぞ覺えし。」

と言ひける。

 それを思ふに、經賴が力は、さは[やぶちゃん注:それならば。]、百人斗りが力を持ちたるにやと覺ゆるなり。

   *

これを見るに、三坂の叙述の最後の段落部分は「宇治拾遺物語」は勿論、「今昔物語集」にもないが、実はこれは「今昔物語集」の同話の三話後の「相撲人成村常世勝負語第廿五」(相撲人(すまひびと)成村、常世と勝負する語(こと)第廿五)を三坂が独自に圧縮して附したものである。後で当該原文を示す。

「後一條の御宇」長和五(一〇一六)年~長元九(一〇三六)年。上記の通り、こんな特定時間設定は原典にはない(以下の注で示す識者の考証によるモデル候補とはやや(あくまで「やや」である)合うとは言い得る)。根拠不詳で大いに不審。

「丹波の國」現在の京都府中部と兵庫県東部に跨る地方名。古くは「たには」と称した。「宇治拾遺物語」は主人公経頼の出身の記載はない。「今昔物語集」は「丹後」とする。現在の京都府北部に当たる。和銅六(七一三)年に丹波国から分国したものであり、丹波とは近隣ではあるものの、不審ではある。

「うみの恆世(ツネヨ)といふ角力取(すまひとり)」この人物と同一人物と思われる者が同巻の第二十五話(に出るのであるが、小学館の日本古典全集の「今昔物語集三」の頭注によれば、それらから、この「海の恆世」人物は丹後を生国とし、村上天皇の治世(天慶九(九四六)年~康保四(九六七)年)の末より相撲人として召され、十世紀末から十一世紀初めにかけて、右の最手(ほて:相撲節会で相撲人中の最高位。現在の横綱相当)となり、永観二(九八四)年に没した人物ということになる。当時の現実の相撲取りで「つねよ」と名乗った人物が「越智常世」(「常代」「経世」とも)と「公候常節」(「恒世」とも)が実在はしたが、姓・生国・没年とも一致しないので、モデルであったかも知れぬが、同定比定は無理である旨の記載がある。

「もゆるかことく」「燃ゆるが如く」。

「かたひらはかりきて」「帷子(かたびら)ばかり着て」。

「あしたをはき」「足駄を履き」。

「きし陰」大沼の「岸蔭」。

「みなきりて」「漲りて」。ぼこぼこと沸き上がるようになって。

「笆(ませがき)」「籬・籬垣(まがき)」に同じく、これらも「ませがき」と訓じ得る。目の粗い低い垣根で、通常は庭の植え込みの周りなどに設けるが、ここは沼の岸の柵か。

「ゆるきいて」「搖(動)るぎ出で」。

「さしいたし」「差し出だし」。

「まもり居たるか」凝っと見つめていたが。

「兼てより」先程来。

「かく此蛇のはかる」「かくして、この大蛇、我らを襲わんとするための謀り事をしているのだ。或いは」「襲うための間合いを測っているだ。」の謂いであろう。

「引とられし」「引き取られじ」。

と、こらへける。

 蛇、あまりにつよく引しかは、胴中より、

「ふつつ。」

と引切(ひきき)れ、沼水、あけの血染(ちぞめ)となる。

 恆世、あしをからみたる蛇の尾を引ほとき、水にて洗ひけれとも、へびのからみたる跡、うせさりける。

「酒にてあらふものなり。」

「渡り」「徑(わたり)」。直径。一尺だと、この蛇の胴回りは約九十五センチメートルにも達する。

「まとひいたりける」「い」はママ。

「此恆世、そのゝちの角力(すまひ)のせつ、陸奧の國の住人眞髮(マカミ)のなりむらと取(とり)ける時、頭をつね世か胸につけ、つよく押(おし)たるを、恆世、引よせて、仰(ノケ)さまに、なけ付(つけ)たり」「つね世、相撲には勝(かち)けれとも、大(だい)ちからに胸ををされ、むねの骨、をれくたけ、本國下るとて、はりまの國にて、むなしくなれり」先に述べた通り、三坂の附言。元は「今昔物語集」の「相撲人成村常世勝負語第廿五」(相撲人(すまひびと)成村、常世と勝負する語(こと)第廿五)である。やや長いが、当時の相撲の節会の様子や取組の前後の描写が実にリアルなので、全文を引いておく。□は欠字或いは予想される欠文。

   *

 今は昔、圓融院天皇の御代に、永觀(やうぐわん)二年[やぶちゃん注:九八四年。]と云ふ年の七月□日、堀川院にして相撲(すまひ)の節(せち)、有りける。

 而るに、拔手(ぬきで)ノ日(ひ)[やぶちゃん注:事前試合の勝者による選抜試合。]、左の最手(ほて)・眞髮(まかみ)の成村(なりむら)、右の最手・海(あま)の常世(つねよ)、此れを召し合はせらる。

 成村は常陸國の相撲なり。村上の御時より取り上ぼりて手(て)[やぶちゃん注:先の「最手」の略か。]に立ちたるなり。大きさ・力、敢へて並ぶ者無し。

 恆世は丹後の相撲なり。其れも村上の御時の末つ方より出で來たりて、取り上ぼりて最手に立ちたるなり。勢ひは成村には少し劣りたれども、取り手の極めたる上手にて有りけるなり。

 今日召し合はせらるれば、二人乍ら、心※(こころにく)くて[やぶちゃん注:「※」「」+「忄」+「惡」。互いに好敵手として一目置いていおり。]、久く成りたる者共なれば、勝負の間、誰(た)が爲にも極(いみ)じく糸惜(いとほし)かりぬべし[やぶちゃん注:結果的に孰れにとっても残念なものとなってしまうに違いない。]。況んや、成村は恆世よりは久く成りたる者なれば、若(も)し打たれむには極めて糸惜しかりぬべし。

 然(さ)て成村は六度まで障(さは)りを申す。

 恆世も障りをこそ申さねども、成村は、我よりは久しく成りにたる者なれば、忽ちに取らむ事も糸惜しく思へて、強ひて勝負せむとも思はずは、亦、力極めて強くて取り合ふとも輒(たやす)く打ち難し。

 然れば、成村、六度まで障りを申すとて、離るる度(たび)每(ごと)にぞ放ちける。

 七度と云ふ度、成村、泣々、障りを申すに、免(ゆる)されざれば、成村、嗔(いか)りて起つままに、只、寄せに寄せて取り合ひぬ。

 恆世は頸を懸けて、小脇をすけり。[やぶちゃん注:片手を常村の首に回し懸けて、一方の手で腰を差した。]

 成村は前俗衣(まへのたふさき)[やぶちゃん注:陰部を覆う布。]と喬(そば)の俗衣のかは[やぶちゃん注:現在の「まわし」の体側部。]とを取りて、恆世が胸を差して、只絡(ひたからみ)に絡めば[やぶちゃん注:ただがむしゃらに引きつけたので。]、恆世、密かに、

「物に狂ひ給ふか。此(こ)は何(い)かにし給ふぞ。」

と云へども、成村、聞きも入れずして、強く絡みて引き寄せて外懸けに懸くるを待ち、内がらみにからんで、引き覆ひて、仰樣(のけざま)に棄つれば、成村、仰樣に倒れぬ。

 其の上に、恆世は横樣になむ、倒れ懸りたりける。

 其の時に、此れを見る上中下(かみなかしも)の諸人(しよにん)、皆、色を失ひてなむ有りける。

 相撲の勝ちたるには、負くる方をば、手を扣(たた)きて咲(わら)ふ事、常の習ひなり。

 其れに[やぶちゃん注:逆接の接続詞。しかし。]、此れは事の大事なればにや有りけむ、密音(しのびね)も爲ずして、[やぶちゃん注:声も立てずに。]

「ひしひし。」[やぶちゃん注:ひそひそ。]

と云ひ合たりける。

 其の後、次の番の出づべきに、此の事を云ひ繚(あつか)はれける程に[やぶちゃん注:この勝負の判定に対していろいろな意見や論議がなされ、もめているうちに。]、日も漸く暮れにけり。

 成村は起きて走しり上がりて、相撲屋(すまひのや)に入るままに、狩衣袴(かりぎぬばかま)を打ち着て、卽ち、出でにけり。軈(やが)て其の内に下りにけり。[やぶちゃん注:即座に、その日のうちに国元の常陸へと下向してしまった。]

 恆世は、成村は起きぬれども、上がらずして臥せりければ、方(かた)の相撲長(すまひのをさ)[やぶちゃん注:相撲の節会の恆世の配されていた右方の世話役。]共、數(あまた)寄りて救ひ上げて、弓場殿(ゆばどの)[やぶちゃん注:相撲の節会は紫宸殿の前庭で興行されていたから、ここ紫宸殿の西にあった校書(きょうしょ)殿の北側東廂の先にあった弓射場を指す。]の方に將(ゐ)て行きて、殿上人の居たる□[やぶちゃん注:「を」か。]引き出だして、其(そ)が上になむ臥せたりける。

 其の時に、方(かた)の大將にて、大納言藤原淸時[やぶちゃん注:諸本では実在した藤原濟時の誤りとされる。]、階下(はしのした)[やぶちゃん注:紫宸殿の階下の座。]より下坐して、下襲(したがさね)[やぶちゃん注:束帯の内着(うちき)で、半臂(はんぴ)または袍(ほう)の下に着用する衣。裾を背後に長く引いて歩く。]、脱ぎて、被(かつ)げてけり。將(すけ)共[やぶちゃん注:参列していた近衛の中将や少将。]、寄りて、恆世に、

「成村は何(いか)が有つる。」

と問ひければ、只、

「手。」[やぶちゃん注:「良き最手(ほて)」の「手」であろう。]

と許り、答へてける。

 其れより相撲屋樣(ざま)に、相撲の長(をさ)共に救ひ上げられて、我れにも非らで有る者[やぶちゃん注:常世を指す。身体も動かせず、意識さえ朦朧としているから「我にもあらで」なのである。]を、押し立て、將(すけ)共、有る限り、物脱ぎてなむ被(かつ)げける。墓々(はかばか)しく衣(きぬ)だに□□□[やぶちゃん注:ろくに衣を着用することさえもとろくに出来ず、その後云々、といった欠文が想定される。]。

 播磨國にて死にけり。

 胸の骨を差し折られて死ける、とぞ異(こと)[やぶちゃん注:他(ほか)の。]相撲共は云ひける。

 成村は其の後、十餘年、生きたりけれども、

「恥見(はぢみ)つ。」

と云ひて、上ぼらざりける程に、敵(かたき)に罸(う)たれて死にけり。

 成村と云ふは、只今有る最手(ほて)、爲成(ためなり)が父なり。

 左右(さう)の最手、勝負する事、珍き事に非ず。常の事なり。而るに、天皇の其の年の八月(はづき)に位を去らせ給ひければ、「左右の最手、勝負しては忌(いむ)」と云ふ事を云ひ出でて、其より後には勝負する事、無し。此れ、心得ぬ事なり。更に其れに依るべからず。

 亦、正月十四日の踏歌(たふか)[やぶちゃん注:中国伝来の民間行事が日本固有の歌垣と結びついて形成された宮中行事。足で地を踏み鳴らしながら調子をとって祝歌を歌う集団歌舞。持統朝頃から記録があり、平安時代には年中行事化した。正月十四日に男踏歌(おとうか)、同十六日の女(め)踏歌に分かれて、踏歌節会(とうかのせちえ)となったが、ここに記したような風聞によって男踏歌の方は廃されてしまった。]、昔より每年(としごと)の事として行はるるを、大后(おほきさき)[やぶちゃん注:醍醐天皇の后、藤原穏子(仁和元(八八五)年~天暦八年一月四日(九五四年二月九日))。]の、正月(むつき)の四日(よか)、失せ給へれば、御忌日(おほむきにち)[やぶちゃん注:喪の期間の誤りか。]なるに依りて行はれぬを、怪しく人の心を得で、「踏歌は后の御爲に忌む事」と云ひ出でて、今は行はれぬなり。此れも心得ぬ事なりかし。

 尚、成村、恆世、勝負する事は有るまじかりける事也なりとぞ、世の人、謗(そし)り申しけるとなむ語り傳へたるとや。

   *]

老媼茶話 鬼九郎左衞門事(蛟を仕留める)

 

     鬼九郎左衞門事

 

 天文のころ、大内家の士に世良(せら)九郎左衞門といふ大力量の武士有(あり)。其頃、長門國わたり河といふ所に住す。

 その渕に大成渕といふ、ふち有。或とき、其渕、血になりて、水底(すいてい)に、うめく聲あり。

「何樣(なにさま)、大蛇なるへし。」

と人民、群集(ぐんじゆ)せり。世良、思へらく、

『吾、大力武勇の名を傳(つたへ)て、ふちの底なる聲をたゝさすは、人、嘲(あざけ)りも有るへし。』

とて、刀を拔(ぬき)て渕へ飛入けれは、大蛇、紅(くれなゐ)の舌を出(いだ)し呑(のま)んとす。

 九郎左衞門、二(ふた)太刀さして水上にうかみいで、息をつき、こしに綱を付(つけ)て、又、水裡(みづのうち)へ入、大蛇にゆひ付くがより、引揚(ひきあげ)見るに、五十間はかりの大蛇、手あし、四有、血をはく事、やます。

 仍(よつ)て、すたすたにきり、はらのうちをみれは、人を呑たりとみへて、白骨、少々殘り、にくは、なし。

 刀と脇差、有、刀、さやを拔(ぬけ)て、背中つき通り、脇さしも拔て、みつから、はらはたを突(つき)やふりて有けり。

 其刀は來國俊(らいくにとし)の名劍なり。

 則(すなはち)、大内よしたか公へたてまつりけれは、「大蛇國俊」と號せられ、重寶となる。

 世良にはろく給りて、

「蛇をとるものは鬼より外(ほか)有まし。」

とのたまひて、則、鬼九郎左衞門と受領せられけり。

 

[やぶちゃん注:前話の「釜渕川猿」とロケーションも近く、しかも戦った相手は淵の妖獣、その褒美に貰ったのも来派の名剣で、内容も強い親和性を持っている。これは確信犯で連関して並べていることが一目瞭然であり、三坂の連続性を期した編集方針が見てとれる。出典は不詳。識者の御教授を乞う。

「鬼九郎左衞門」「世良(せら)九郎左衞門」不詳。

「天文」一五三二年~一五五五年。但し、大内義弘(次注参照)の存命中であるから、天文年間であるなら、天文二十年九月一日(義弘没日)よりも以前となる。

「大内家」後に出る通り、室町時代末期の大名大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)。享禄元(一五二八)年父義興から家督を継ぎ。周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の七ヶ国の守護を兼任、少弐・大友・尼子氏らと戦って勢力を張り、天文五(一五三六)年には彼の献資によって後奈良天皇は即位式を上げ得た(その功によって大宰大弐に補任されている)。また対明・対鮮交易に努め、貿易の利を得る一方で、「一切経」「朱氏新註」などの書物や文化財を蒐集し、それらを大内版として開版した。京都の難を避けた公家・僧侶を保護・厚遇し、同十九、二十年には渡来したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許し、西洋文化の輸入に努めるなど、文化の発展にも大いに貢献した。しかし、家臣陶晴賢(すえはるかた)の反乱によって長門深川の大寧寺で自害すた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「長門國わたり河」「わたり河」は渡川で、現在の山口県阿武郡阿東町生雲東分と推定される(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここには大内氏の山城渡川城があった。

といふ所に住す。

「大成渕」「おほなりぶち」と訓じておく。

「たゝさすは」「糺さずば」。

「水裡(みづのうち)」私の推定訓読。

「ゆひ付くがより」「結ひ付くがより」。「より」は格助詞で「~するやいなや」の意。

「五十間はかり」約九十一メートルほど。蟒蛇(うわばみ)である。しかも手足四肢を備えているというのだから、龍の一種、蛟(みずち)と見える。

「すたすたにきり」「ずたずたに斬り」。

「はらのうちをみれは」腹の内を見れば」。

「にくは、なし」肉はすっかり消化されてなかった。

「みつから」自ら。ここは自発。

「はらはた」「腸(はらわた)」。

「來國俊(らいくにとし)」鎌倉末期の刀工。ウィキの「来派によれば、先行する作物に「國俊」と二字のみを彫る物があるが、別人と推定されている。始祖国行や二字「圀俊」の作物に比べ、細身の穏やかな作が多い。『来国俊以降、短刀の作を多く見る』。『刃文は直刃を主体とし』、『穏健な作風のものが多』い。『現存作は太刀、短刀ともに多く、薙刀や剣もある』。『正応から元亨』(一二八八~一三二四年)に至る在銘作があり、この間』、同名(「來國俊」)の二『代があるとする説もある。徳川美術館には「来孫太郎作」銘の太刀があるが、銘振りから「来孫太郎」は来国俊の通称とされている』とある。

「ろく」「祿」。

「受領」(武勇を讃えた名の)拝領。]

老媼茶話 釜渕川猿(荒源三郎元重、毛利元就の命に依り、川猿を素手にて成敗す)

 

    釜渕川猿

 

 毛利大江の元就の士、荒(あら)源三郎元重は藝州高田郡吉田に住す。

 天文三年八月、よし田の釜か渕より化生(けしやう)の者いてゝ、近邊の男女・わらんへを摑(つかみ)て渕へかけいり、民家・商家、門を閉(とぢ)て、よし田郡山の城下、往來、絶(たえ)たり。

 元就、是を聞(きき)たまひ、荒源三郎に下知し玉ふ。

 源三郎は本名井上にて、信濃源氏の末裔なり。其形容七尺に餘り、力量七拾人か力有(あり)、神道魔法を行へは、大蛇にても鬼神にてもたまるましと、萬民、雲霧のことくあつまり、見物、貴賤、市をなす。

 時に源三郎元重、はだかになり、下帶に、大(おほ)たち、十文字にさし、渕の淺みに立(たち)、大音(だいおん)にて訇(ののし)りける。

「いかに此渕の化生、慥(たしか)に聞。汝、人民を取喰(とりくらふ)。その科(とが)によつて、只今、殺害(せつがい)のため、荒源三郎、來りたり。出(いで)て勝負をせよ。」

と呼(よば)わりけれは、渕の底、とゝろき、逆浪(さかなみ)立(たつ)て、水、岸にあふれて流れ出(いで)て、元重か兩あしを水中より、

「ひし。」

と摑(つかみ)て引込(ひきこま)んとす。

 源三郎

「きつ。」

と見て、

「やさしや。」

と、足を取たる兩手を握りて、

「ゑい。」

と引(ひく)。

 化生、下へひく。

 互に引合(ひきあひ)、おとり出(いで)しか、化者(ばけもの)の力、百人力もあるへし、山のことくにして、うこかす。

 おもてを水中より差出したるをみれは、鬼にはあらす、渕猿也【俗に川太郎といふ者ならん。】。

 去(され)はこそ、『頭(かしら)、くほき處ありて、水あれは、力、つよく、水、なけれは、力、なし』と兼々聞(きき)およひけれは、頭を取(とら)んとするに、忽(たちまち)、すへりて取れすして押合(おしあひ)しか、終(つひ)に頭を摑て、さかしまになし、ふり𢌞しけれは、かしらの水、こほれて、渕猿、たちまち、力、おとろへけれは、提(さ)けて、岸にあかり、

「化物、取(とつ)たり。」

とよはわりけれは、見物の貴賤、

「取たりや、取たりや。」

と、一同におめき、暫く鳴りもしつまらす。

 かくて元重、件(くだん)のものを、なわにてしはり、提(さげ)て、城中へ歸り、

「釜か渕の化物、生(いけ)とり候。」

と訴(うつたへ)しかは、元なり、感悦し給ひて、

「誠に源三郎は大蛇鬼神にも增(まさ)りたり。」

とて、加恩五拾貫、來國行(らいくにゆき)の太刀を玉はりけれは、源三郎、請(うけ)すして、

「かゝる畜類をとり候得(さうらえ)はとて、御恩賞に預り候事、却(かへつ)て迷惑仕(つかまつ)るなり。」

とて打笑(うちわらひ)、たまはりける太刀かたな、御前に差置(さしおき)、我屋(わがや)にさしてかへりける。

 

[やぶちゃん注:「釜渕川猿」「渕」の字は底本が「淵」ではなく、敢えてこの字を用いている以上、原典がそうなっていると判断し、ママとした。さて、これは最早、これ以前の条々のように書名を指すものではないようである。実際、幾ら、ネット検索をしても、書名としての痕跡すら出てこない。さすれば、これは、所謂、妖怪伝承に於ける「釜渕」の「川猿」という通俗呼称を標題としたと考えてよく、出典を示さぬという点に於いて、それが純粋な語りの採録であったとしても、本条は、本「老媼茶話」に於ける記念すべき最初の三坂によるオリジナリティに富んだ怪奇談の濫觴であることを示すものと考えてよいであろう。「川猿」は、後の本文で「川太郎」と言い換えてあるように、「河童」と同義として用いている。形状を猿に似ていると捉えたもので、笹間良彦「図説 日本未確認動物事典」一九九四年興英文化社刊に拠れば、まさにこの安芸周辺の周防・伊予・土佐では河童をそのまま「えんこう(猿猴)」、伊予では縮めて「えんこ」とも呼んでいる。但し、伝承上は猿と河童は仲が悪いとすることが多いように思われるから、河童としては屈辱的な呼称ではあろうか

「毛利大江の元就」言わずもがな、安芸国の国人領主で後の戦国大名毛利元就(明応六(一四九七)年~元亀二(一五七一)年)。彼の本姓は大江氏で、毛利氏の家系はかの鎌倉幕府初期の公家フィクサー大江広元の四男毛利季光を祖とする血筋である。

「荒(あら)源三郎元重」「荒」は通称「源三郎」に冠した武将好みの「強さ」を示す「悪」や「鬼」などと同じ添え辞。この人物は毛利家家臣井上元重のことである。彼についての詳細は判らぬが、同じく毛利家家臣であった彼の兄の井上就澄(なりずみ ?~天文一九(一五五〇))のウィキによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『毛利氏の家臣で安芸井上氏当主である井上元兼の次男として生まれる。名前の「就」の字は毛利元就の偏諱とされる』。『安芸井上氏は元々は安芸国の国人であったが、就兼の祖父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後三十余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べており、安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は考えていた』。『天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏・小早川氏相続問題が概ね』、『解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断』、『毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め』、『大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた』。天文十九年『七月十二日、井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに安芸井上氏の粛清が始まり、翌七月十三日、兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された』。『就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が三百余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎、元有の弟の井上元重、元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち三十余名が粛清されることとなった』とあるからである(下線やぶちゃん)。本伝承で川猿を退治した荒源三郎元重がこの井上元重と同一人物であることは、例えば、ブログ「戦国緩緩~戦国武将の事をゆるゆると」の「河童と井上氏の顛末」に書かれてある。ある記事によると、柳田國男もこの伝承に言及しているともするが、今の所、見出せない。発見し次第、追記する。

「藝州高田郡吉田」かつての毛利元就の居城吉田郡山城の城下町として栄えた、旧広島県高田郡吉田町(よしだちょう)。現在の広島県安芸高田市吉田町吉田周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天文三年」一五三四年。

「よし田の釜か渕」位置は不詳だが、吉田と言っているから、中国地方最大の「江の川(ごうのかわ)」の城下町吉田周縁(南東から南西及び東北から南西)にあった同川の淵である(先のグーグル・マップ・データを参照されたい。広島県域では「可愛川(えのかわ)」とも呼ばれ、「中国太郎」の異名も持つ。

「わらんへ」「童」。

「かけいり」「驅け入り」。

「七尺に餘り」二メートル十二センチを有に越えていた。

「神道魔法を行へは」八百万の神に祈請した神力(しんりょく)や魔術の如き怪力を出してことに当たる時は。

「たまるまし」「堪(たま)るまじ」。堪えられまい。

「大(おほ)たち」「大太刀」。

「とゝろき」「轟き」。

「やさしや。」「弱っちいのう!」。

「おとり出(いで)しか」「躍り出でしが」。

「くほき」窪んだ。

「すへりて取れすして」「滑りて取れずして」。一般に河童に体表面は粘液で覆われており、滑り易いとする。

「おめき」「喚(おめ)き」。

「來國行(らいくにゆき)」生没年不詳の鎌倉中期の京の刀工。「来派」の事実上の祖であり、来太郎とも呼ばれる。来の由来は、最古の刀剣書「観智院本銘尽」によれば、先祖が高麗より移住したことから「雷」と称したとされる。現存する作品は太刀が多く、短刀も僅かにあるが、孰れも「國行」と二字に銘を彫(き)り、後の一門のように「來」の字を冠することはない。子の国俊に弘安元(一二七八)年銘の太刀があることから、その父の活躍年代がほぼ知られる。太刀は概して幅広で豪壮な風を持つ(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「請(うけ)すして」「請けずして」。

「太刀かたな」「たちがたな」。「來國行」銘の当該一振りを指す。

「我屋(わがや)にさして」「に」は「を」の意。「さして」は「指して」(方へと向かって)の意。]

2017/09/26

老媼茶話 太平記評判 平家物語琵琶法師傳

 

     太平記評判 平家物語琵琶法師傳

 

 あわちの國の住人、淡路の冠者よし久は六條判官爲よしの末子(ばつし)なり。平家の大將能登守教經のため、生(いけ)とられ、首を獄門にかけ晒(さら)さる。冠者よし久かおとゝに、讚岐蜜嚴(ミツゴン)寺の住侶(じゆうりよ)義專坊(ぎせんばう)といふもの、是をふかく憤(イキトヲ)り、白峯(しらミネ)の崇德(ストク)院の御廟にとちこもり、

「昔のあた、報わせ給はん。御方人(みかたびと)にくわゝりなん教經か首を、生前に見せさせ玉へ。」

と祈願しけるこそおそろしけれ。一向、斷食にて、一七日(ひとなぬか)、行ひまんする夜は壽永三年二月六日。其夜は身もかるく、心も空になり、飛上(とびあが)るへくなりにける時、讀(よめ)る。

  さこ神のさこねもやらす住(すみ)わたる天飛(あまとぶ)鳥の心地こそすれ

 御殿、鳴動(メイトウ)して、

  我もまた飛(とぶ)さにつれよさこ神の天の戸わたる世さわりをせん

と、あさやかに詠し給ふとひとしく、天(あま)の羽車(はぐるま)に乘(のり)て、崇德院とうちつれ奉り、一谷(いちのたに)に來り、軍(いくさ)の始終、見物して、火の手の上るを扇立(おほぎたつ)るとそ覺へける。

 案のことく、教經、六日の夜より、氣、違ひ、物くるわしく、氣、相替(あひかは)り、軍(いくさ)の下知をもしたまわす、鎧、ぬきすて、小袖・はら卷きに長刀(なぎなた)引(ひつ)さけ、さまさまのたわことを言(いひ)て、

「是は、天狗酒宴の舞の手の第壱、旋風樂(せんぷうらく)といふもの。」

と一さしかなてらるゝありさま、つねならす。まして敵ふせくへき心、ましまさす。

 七日の辰の下刻に、北の陣屋より、火焰、覆ひかゝるかと思へは、戌亥(いぬゐ)の風、吹出(ふきいだ)し、強く焰(ほのほ)をうつまき、なりとよむ聲、夥(おびただ)し。諸軍勢、亂立(みだれたち)て、濱手濱手へ、かけ出(いづ)る。其紛れに、のりつねは、ゆくへなく、なり給ふ。

 爰に、能登守殿の郎等(らうどう)に讚岐の六郎經時も西をさして落行(おちゆき)しに、大藏(おほくら)か谷(たに)の邊りに唐綾(からあや)の鉢卷したる男、長刀、持(もち)なから、倒れふせり。みれは、能登守殿の御死骸(おんしがい)、疵(きず)もつかす、いまた、あたゝかなり。引立(ひつたて)んとするに、大男なれは、力、およはす、跡を歸り見るに、源氏の大勢、つゝきたり。是非なく、打捨て、あかしのかたへ落延(おちのび)たり。能登守殿の死首をは、安田遠江守よし定の家の子、田原の源吾といふ者、とりて、首帳(くびちやう)にしるし、都にのほせ、七條河原に獄門にかけさらせり、とあり。下(しも)、略之(これをりやくす)。

[やぶちゃん注:「太平記評判」江戸時代に広まった「太平記」の注釈書「太平記評判秘伝理尽鈔」のことか? ウィキの「太平記評判秘伝理尽鈔」によれば、これは『近世初期に日蓮宗の僧侶、大運院陽翁がまとめたものとみられるもので、「太平記」本文に沿って奥義を伝授する体にしたもので、「伝」(本文にない異伝)と「評」(軍学・治世などの面から本文を論評した部分)から成るとある。原書に当たることが出来ないので不詳しておく。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、私のパソコンでは表示に驚くほど時間がかかり、しかも当該画像本には目録もないため、諦めた。同書に「平家物語琵琶法師傳」なる条があるかないかだけでもお教え願えると助かる。さすれば、ただの「不祥」のみに留められるからである。にしても、略があって、どうしてこれが「平家物語琵琶法師傳」なのか、全く分らぬというのは、消化に頗る悪いぞ!

「淡路の冠者よし久は六條判官爲よしの末子(ばつし)なり」「平家物語」の流布本(ここでは高橋貞一校注講談社文庫版(昭和四七(一九七二)年刊)を用いたが、恣意的に漢字を正字化した)の「六箇度合戰」の冒頭に、

   *

さる程に平家福原へ渡り給ひて後は、四國の者ども一向隨ひ奉らず。中にも阿波讚岐の在廳等(ら)、皆平家を背いて、源に心を通はしけるが、さすが昨日今日まで、平家に隨ひ奉る身の、今日始めて源氏の方へ參りたりとも、よも用ひ給はじ。平家に矢一つ射懸け奉つて、それを表にして參らんとて、門脇(かどわきの)平中納言教盛、越前三位通盛、能登守教經父子三人、備前國下津井にましますと聞いて、兵船(ひやうせん)十餘艘でぞ寄せたりける。能登殿、大きに怒つて、「昨日今日まで、われらが馬の草(くさ)剪(きつ)たる奴ばらが、いつしか契りを變ずるにこそあんなれ。その儀ならば、一人(いちにん)も洩らさず討てや」とて、小船ども押浮べしに追はれにければ、四國の者ども、人目計りに矢一つ射て、退(の)かんとこそ思ひしに、能登殿に餘りに手痛う攻られ奉つて、叶はじとや思ひけん、遠負(とほま)けにして引退(ひきしりぞ)き、淡路國福良(ふくら)の泊(とまり)に著きにけり。その國に源氏二人(ににん)ありと聞こえけり。故六條判官爲義が末子(ばつし)、賀茂冠者(かものくわんじや)義嗣(よしつぎ)、淡路(あはぢの)冠者義久(よしひさ)と聞えしを、大將に賴(たの)うで、城郭を構へて待つ處に、能登殿押寄せて散々に攻め給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負うて、虜(いけどり)にこそせられけれ

   *

と名が出る(下線はやぶちゃん)。「新潮日本古典集成」の水原一校注の「平家物語」の同条には、この「賀茂冠者」と「淡路冠者」についての特別注がある。長いが、概ね全文を引用させて戴く。傍点は太字に代えた。

   《引用開始》

 六条判官為義は保元の乱で処刑されたが、生前源氏の天下を夢みつつ血縁を諸国に派遣していた[やぶちゃん注:中略。]。賀茂の冠者・淡路の冠者は、再起した平家のために攻め滅ぼされはしたが、そうした為義の布石の一角だったと言える。しかしその系譜の位置づけには、系図や平家諸本の間でまちまちで、明確には説明しがたい。賀茂の冠者は名を諸本で義継・末秀・為清(底本は淡路の冠者が為清)等種々に伝える。広本系及び南都本は為義五男掃部助(かもんのすけ)頼仲(保元の乱後処刑)の子で掃部冠者とし、中院本等には為義末子とする。「清和源氏系図」(続群書類従)には為義末子に「義次〈賀茂冠者、義久ジクㇾ誅〉」とあるが、『尊卑分脈』には、賀茂冠者は見えず、為義第七子に「為義(母賀茂成宗女)」とあるのが注意される。淡路の冠者は諸本により「義久・為信」ともある。広本系に為義四男四郎左衛門尉頼賢の子とし、南都本は掃部冠者と同じく頼仲の子とする。中院本に賀茂冠者と同じく為義末子とする。「清和源氏系図」に「義久〈淡路冠者、於熊野被ㇾ誅畢ヲハンヌ〉」とあり、『尊卑分脈』に為義第十一子に「為家(淡路冠者、猶子)」とある。混乱して定めがたいが、源氏沈淪(ちんりん)の世にひそかに生き永らえ、時節の到来にも日の目を見ることもなくつかの間に滅びた、いわば歴史の捨石であるために、系譜も謎(なぞ)に覆われたのであろう。

   《引用終了》

とあり、粉飾とも思われない節もある。事実、為義には子が多かった。

「能登守教經」清盛の異母弟平教盛の次男で、私の好きな猛将平教経(永暦元(一一六〇)年~寿永三(一一八四)年二月七日或いは元暦二(一一八五)年三月二十四日)は実は最期が明らかでない。「吾妻鏡」では一ノ谷の戦いで甲斐源氏の一族安田義定の軍に討ち取られて京都で獄門になったと記し、本条はこれを採用した内容となっている。「吾妻鏡」の壽永三年二月七日の条の最後に(以下、太字はやぶちゃん)、

   *

七日丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。著于一谷後山【號鵯越】。[やぶちゃん注:中略]其外薩摩守忠度朝臣。若狹守經俊。武藏守知章。大夫敦盛。業盛。越中前司盛俊。以上七人者。範賴。義經等之軍中所討取也。但馬前司經正。能登守教經。備中守師盛者。遠江守義定獲之云々。

   *

七日丙寅(ひのえとら)。雪、降る。寅の尅[やぶちゃん注:午前四時頃。]、源九郎主(ぬし)、先づ殊(しゆ)なる勇士七十餘騎を引き分かちて、一の谷の後ろの山【鵯越(ひよどりごえ)と號す。】に著く。[やぶちゃん注:中略。]其の外、薩摩守忠度朝臣・若狭守經俊・武藏守知章・大夫敦盛・大夫業盛・越中前司盛俊、以上七人は、範賴・義經等の軍中、討ち取る所也。但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は、遠江守義定、之れを獲ると云々。

   *

続く、六日後の二月十三日の条。

   *

十三日壬申。平氏首聚于源九郎主六條室町亭。所謂通盛卿。忠度。經正。教經。敦盛。師盛。知章。經俊。業盛。盛俊等首也。然後。皆持向八條河原。大夫判官仲賴以下請取之。各付于長鎗刀。又付赤簡【平某之由。各注付之。】。向獄門懸樹。觀者成市云々。

   *

十三日壬申(みづのえさる)。平氏の首を源九郎主の六條室町亭に聚(あつ)む。所謂、通盛卿・忠度・經正・教經・敦盛・師盛・知章・經俊・業盛・盛俊等の首なり。然る後、皆、八條河原に持ち向ふ。大夫判官仲賴以下、之れを請け取り、各々、長鎗刀に付け、又、赤簡(あかふだ)【平某(たいらのなにがし)の由、各々、之れを注し付く。】を付け、獄門に向ひて樹に懸く。觀る者、市を成すと云々。

   *

しかし、一方で、「玉葉」や「醍醐雑事記」などの別な一次史料では一ノ谷で生き残ったとする記載もあり、中には平家滅亡後に落人として現在の徳島県祖谷(いや)に落ち延び、そこを開拓したとする伝承さえもある。しかしやはり私は「平家物語」の、かの壇ノ浦の戦いで、大童となって凄絶な最後を遂げる彼にひどく惹かれる。思い出を恍惚に繋げて、私の記憶の私だけの「平家物語」(これは私の中だけのリズムの詞章であり、どこかのデータをコピー・ペーストしたものではない。実はどの伝本にも忠実でないものである)のシークエンスを綴ってみたい。

   *

 凡そ、能登殿の矢先に𢌞る者こそなかりけれ。教經は、今日を最期とや思はれけん、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からやおど)しの鎧着て、鍬形打つたる甲(かぶと)の緒を締め、嚴物(いかもの)作りの大太刀佩き、二十四差(さ)いたる切斑(きりふ)の矢負ひ、滋藤(しげどう)の弓持つて、差しつめ引きつめ、散々に射給へば、者ども多く手負ひ射殺さる。矢種皆盡きれば、黑漆の大太刀、白柄の大長刀(おほなぎなた)、左右に持つて、散々に薙(な)いで𢌞り給ふに面を合する者ぞなき、多の者ども討たれにけり。

 新中納言、使者を立てて、

「能登殿、いたう罪な作り給ひそ。さりとてよき敵か。」

との給ひければ、

「さては大將軍に組めごさんなれ。」

と心得て、打ち物、莖短(くきみじか)に取つて、源氏の船に乘り移り乘り移り、をめき叫んで攻め戰ふ。

 判官を見知り給はねば、物の具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ𢌞る。

 判官も先に心得て、表に立つやうにはしけれども、とかう違へて、能登殿には組まれず。

 されどもいかがしたりけん、判官の船に乘り當たり、

「あはや。」

と目を懸けて、飛んでかかる。

 判官、かなはじ、とや思はれけん、長刀、脇にかい挾(はさ)み、味方の船の二丈ばかり退(の)きたりけるに、ゆらりと飛び乘り給ひぬ。

 能登殿は、早業や劣られたりけん、やがて續いても飛び給はず。

 今はかうとや思はれけん、太刀・長刀、海へ投げ入れ、甲も脱いで、捨てられけり。鎧の草摺(くさずり)かなぐり捨て、胴ばかり着て、大童になり、大手(おほて)を廣げて立たれたり。

 およそあたりを拂つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。

 能登殿、大音聲(だいおんじやう)をあげて、

「われと思はん者は、寄つて教經に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下り、兵衞佐(ひやうゑのすけ)に會うて、もの一言(ひとこと)謂はんと思ふぞ。寄れや、寄れ。」

とのたまへども、寄る者一人も、なかりけり。

 ここに、土佐國の住人安藝郷を知行しける安藝大領實康(あきのだいりやうさねやす)が子に安藝太郎實光とて、三十人が力持つたる大力(だいぢから)の剛(かう)の者あり。われにちつとも劣らぬ郎等(らうどう)一人(いちにん)、弟(おとと)の次郎も普通には勝れたるし兵(つはもの)なり。安藝太郎、能登殿を見奉つて申しけるは、

「いかに猛(かけ)うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひ、長(たけ)十丈の鬼なりとも、などか從へざるべき。」

とて、主從三人小舟に乘つて、能登殿の船に押し雙(なら)べ、

「えい。」

と言ひて乘り移り、甲の錣(しころ)を傾け、太刀を拔いて、一面に打つて懸かる。

 能登殿、ちつとも騷ぎ給はず、まづ先に進んだる安藝太郎が郎等を、裾を合はせて、海へ、どうど、蹴入(けい)れ給ふ。

 續いて寄る安藝太郎を、弓手(ゆんで)の脇に取つて挾み、弟の次郎をば、馬手(めて)の脇に搔い挾み、ひと締め、締めて、

「いざ、うれ、さらば、おのれら、死出の山の供せよ。」

とて、生年(しやうねん)二十六にて、海へ、つつ、とぞ入り給ふ。

   *

 

「讚岐蜜嚴(ミツゴン)寺」現在の徳島県徳島市不動本町にある真言宗降魔山蜜厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。大宝年間(七〇一年~七〇四年)に行基が不動の尊像を刻んで、この地に安置したのを創建と伝える。

「義專坊」不詳。

「白峯(しらミネ)の崇德(ストク)院の御廟」崇徳院が荼毘にふされた、現在の香川県坂出市青海町にある真言宗綾松山白峯寺(しろみねじ)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在、崇徳天皇白峯陵が直近にある。

「あた」「讎」。

「報わせ」「わ」はママ。

「一向」副詞で「ひたすらに・一途に」。

「行ひまんする夜」「行ひ」の「滿ずる夜」。断食修法七日七夜の満願の当夜。

「壽永三年二月六日」「吾妻鏡」で「一ノ谷の戦い」で討死したとする寿永三(一一八四)年二月七日の前日の夜。

「飛上(とびあが)るへくなにける時に」「へく」は「べく」。飛び上れるような気持ちになれた、その時に。

「讀(よめ)る」「詠める」。

「さこ神のさこねもやらす住(すみ)わたる天飛(あまとぶ)鳥の心地こそすれ」類型歌を私は知らない。一・二句目が不詳。「さこ神」「さこね」が判らぬ。「さこ」は「谷」「迫」で「山の尾根と尾根の間の小さな谷」か? だとすれば、「さこね」は「谷の根」となる。奥深い山の谷の精霊(すだま)たる谷神(こくしん:老子の謂う、「玄牝(げんぴん)」、宇宙全体の創造神であると同時に完全な破壊を齎す神、所謂、「原母」、ユングの謂う、全的創造神であると同時に全的破壊たるところの「グレート・マザー」か?)の謂いか? それに「雑魚寝もやらず」(何も成すこと出来ずにいい加減に無為に雌伏していることから解放されて)の謂いか? 識者の御教授を乞う。それで整序するなら、

 迫神(さこがみ)の雜寢もやらずすみ渡る天(あま)飛ぶ鳥の心地こそすれ

で、

――復讐を遂げるために、天馬空を飛ぶが如くに自由自在に空を駈けわたれるような気持ちが、今、身に満ち満ちている気がする!――

ということか?

「我もまた飛(とぶ)さにつれよさこ神の天の戸わたる世さわりをせん」やはり、類型歌を私は知らない。しかし、前注のように解釈すると、崇徳院の怨霊が答えた歌のように、響いてはくる。整序すると、「飛ぶさ」の「さ」は接尾語で、名詞に付いて「方向」を表す名詞を作るもの、「さわる」を「障る」と採れば、

 我れもまた飛ぶさに連れよさこ神の天(あま)の戸(と)亙る世障(さは)りをせん

となって、

――我れ(御霊(ごりょう)のチャンピオンたる崇徳院の怨霊)もまた、一緒にそなたの飛ばんとする彼方(恨み骨髄の平教経のいる一の谷の方)へともに連れて行け! あらゆるこの世の創造と破壊を司る「さこ神」として、その封印たる「天の戸」を完全に開き切って、このおぞましき憎き世に大いなる致命的な「障り」(大厄災・カタストロフ)を起してやろうぞ!――

という呪詛歌であろうか? 大方の御叱正を乞う。

「あさやかに」「鮮やかに」。

「詠し」「えいじ」。

「天(あま)の羽車(はぐるま)」天(あま)驅ける翅の生えた車。

「扇立(おほぎたつ)る」扇を開いてやんややんやと讃賞する気持ちであろう。

「物くるわしく」「わ」はママ。

「氣、相替(あひかは)り」態度が異様に変じて。

「さまさまのたわこと」「樣々の譫語(たはごと)」。

「天狗」よく知られたことであるが、ウィキの「崇徳院の記載を使用させて貰うと、崇徳院は(「保元物語」に拠る)配流された讃岐国での軟禁生活の中、極楽往生を願って五部大乗経(「法華経」・「華厳経」・「涅槃経」・「大集経」・「大品般若経」)の写本作り、権力抗争のために戦死した者らへの供養にと、それを京の寺院に収めて貰うことを朝廷に求めたが、後白河院はそれに呪詛が込められているのではと疑って拒否し、写本を送り返してしまった。これに激怒した崇徳院は、舌を噛み切ってその血を以って『写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と』『書き込み、爪や髪を伸ばし続け』、『夜叉のような姿になり、後に生きながら』にして天狗になった『とされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また』、『崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めてるのにも関わらず』、『血が溢れてきたと言う』辺りと、よく一致するように描かれている。本書よりも後の作であるが、上田秋成の私の好きな「雨月物語」冒頭の、復讐の鬼となった崇徳院を諫める西行の面前で院が烏天狗と語る「白峯」を持ち出すまでもなかろう。

「旋風樂(せんぷうらく)」不詳。

「かなてらるゝありさま」「奏でらるる有樣」。

「つねならす」「常ならず」。

「敵ふせくへき心」「敵防ぐべき心(構へ)」。

「ましまさす」「御座(ましま)さず」。

「辰の下刻」現在の午前八時二十分頃から午前九時頃まで。

「戌亥(いぬゐ)」北西。

「うつまき」「渦卷き」。

「なりとよむ」「鳴り響(とよ)む」。

「讚岐の六郎經時」島津久基の「義経伝説と文学」()によれば、彼は教経の替え玉となったとする説が、「鎌倉実記」(巻一三)や後の浄瑠璃「義経千本桜」「弓勢智勇湊」(ゆんぜいちゆうのみなと:福内鬼外(平賀源内)の変名)等に出るとする(但し、「弓勢智勇湊」では「七郎義範」と変名されてあるとある)。

「大藏(おほくら)か谷(たに)」現在の兵庫県明石市大蔵。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「つゝきたり」「續きたり」。

「安田遠江守よし定」安田義定(長承三(一一三四)年~建久五(一一九四)年)は甲斐源氏武田義清の子。頼朝の挙兵に甲斐で呼応し、「富士川の戦い」の功で遠江守護となった。源義仲の追討やこの一ノ谷の戦いなどで活躍したが、後に謀反の疑いで殺された。先の「吾妻鏡」の引用を参照されたい。

「田原の源吾」不詳。

「首帳(くびちやう)」「しるしちやう」とも訓じた。戦場で討ち取った敵の首及びそれを討ち取った者の氏名を記した帳簿。「首目録」「首注文」とも称した。

「下(しも)」以下。]

老媼茶話 保曆間記(源頼朝の幻視と死)

 

     保曆間記

 

[やぶちゃん注:これより、和書の移行する。本書の怪奇談集の真骨頂へのプレ部分である。]

 

 建久九年の冬、右大將殿、相模川橋供養にいてゝ歸り給ひけるに、八的(やまと)か原といふ所にて、亡(ほろぼ)されし源氏、よし廣・義つね・行家以下の人々あらはれて、より朝に目を見合(みあはせ)たり。是をは、打捨過(うちすてすぎ)玉ひけるか、いなむらが崎の海上に、十歳はかりなる童子のあらわれて、

「汝を、此程、隨分と、うらなひつるに、今こそ見付(みつけ)たれ。我を誰(たれ)とか見つる。西海に沈(しづみ)し安德天皇なり。」

とて失(うせ)玉ひぬ。

 其後(そののち)、かまくらに入(いり)玉ひて、則(すなはち)、病(やみ)つき給ひけり。

 次のとし、正月十三日に、うせ玉ふと云々。

 

[やぶちゃん注:「保曆間記」(ほうりゃくかんき)は南北朝期に成立した歴史書。作者不明ながら、足利方の武士と推定されている。成立は延文元(一三五六)年以前。ウィキの「保暦間記」によれば、保元元(一一五六)年の保元の乱に始まって、暦応二(一三三九)年の『後醍醐天皇崩御までを記述し、この「保元から暦応まで」が書名の由来となっている』。不完全な「吾妻鏡」の記載が終わっている文永三(一二六六)年『以降の鎌倉時代に起こった事件の概要を研究するうえで貴重な史料であり、「和田合戦」、「承久の乱」、「宝治合戦」、「二月騒動」、「霜月騒動」など、現在使用されている鎌倉時代の事件名称の多くは本書の記述に由来する』。特に「右大將」『源頼朝の死について』、ここに出るように、『相模川橋』(現在は神奈川県茅ヶ崎市下町屋にある「旧相模川橋脚」((グーグル・マップ・データ))がその橋の跡とされるが、ここにあった橋であったかどうかは定かではない)『供養の帰路、八的ヶ原(現在の辻堂および茅ヶ崎の広域名)で源義経らの亡霊を、稲村ヶ崎海上に安徳天皇の亡霊を見て、鎌倉で気を失い病に倒れたと記しているが、実際の死因については諸説ある』(下線はやぶちゃん)ことは言うまでもないが、その実際の死因及びここに出るような亡霊群の幻視症状については、「北條九代記 右大將賴朝卿薨去」の私の注を参照されたい。私は、同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので(左上の真ん中辺りから)で視認出来る。

「建久九年」一一九八年。この前後の「吾妻鏡」は存在せず、十四年も経った第三代将軍実朝「巻二十」の建暦二(一二一二)年二月二十八日の条に頼朝急逝の記事は出現する。

   *

二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋數ケ間朽損。可被加修理之由。義村申之。如相州。廣元朝臣。善信有群議。去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結緣之。故 將軍家渡御。及還路有御落馬。不經幾程薨給畢。重成法師又逢殃。旁非吉事。今更強雖不有再興。何事之有哉之趣一同之旨。申御前之處。仰云。故將軍家薨御者。執武家權柄二十年。令極官位給後御事也。重成法師者。依己之不義。蒙天譴歟。全非橋建立之過。此上一切不可稱不吉。有彼橋。爲二所御參詣要路。無民庶往反之煩。其利非一。不顚倒以前。早可加修復之旨。被仰出云々。

   *

二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋、數ケ間(すうかけん)、朽ち損ず。修理を加へらるべの由、義村、之れを申す。相州、廣元朝臣、善信(ぜんしん)のごとき、群議、有り。

去る建久九年、重成法師[やぶちゃん注:稲毛重成。]、之れを新造す。供養を遂ぐるの日、之れと結緣(けちえん)の爲に、故將軍家、渡御す。還路に及びて、御落馬有りて、幾程(いくほど)を經ずして薨(こう)じ給ひ畢(おは)んぬ。

 重成法師、又、殃(わざはひ)に逢ふ。旁(かたがた)、吉事に非にあらず。

 今更、強(あなが)ちに再興有らずと雖も、

「何事か、之れ、有らんや。」

の趣き、一同するの旨(むね)、御前[やぶちゃん注:源実朝。]に申すの處、仰せて云はく、

「故將軍家、薨御は、武家の權柄(けんぺい)を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり。重成法師は、己(おの)が不義に依つて、天譴(てんけん)を蒙むるか。全く橋建立の過(とが)に非ず。此の上は、一切(いつさい)、不吉と稱すべからず。彼(か)の橋有ること、二所御參詣の要路たり。民庶、往反(わうばん)の煩ひ無し。其の利、一(いつ)に非ず。顚倒(てんたう)せざる以前に、早く修復を加ふべし。」

の旨、仰せ出さると云々。

   *

「義村」は三浦義村。彼は三浦介で、同職は相模国の実務支配の立場にあったことから上申したものと思われる。「相州」は執権北條義時。「廣元朝臣」は大江(正確にはこの時はまだ中原姓)広元。この時は一時的に政所別当を退いていたが、事実上の最高権力者の一人であった(建保四(一二一六)年に大江姓の勅許を受け、同年には政所別当に復職した)。「善信」問注所執事三善康信の法号。稲毛重成(?~元久二(一二〇五)年)は桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり))を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。建久九(一一九八)年に重成は亡き妻のために相模川に橋を架けたが、ここにある通り、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬、それが元で死去している。その後、元久二(一二〇五)年六月二十二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したと指弾されて(これが実朝が言っている「己が不義」である)、翌二十三日には早々に殺害されている。なお、同日、彼の親族らを討ったのは、まさにここに出る三浦義村であった(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。私の北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡も参照されたい。「結緣」は法要の功徳を共有することを指す。

「よし廣」源義広(?~元暦元(一一八四)年)。源為義三男で頼朝の父義朝の弟。志田三郎先生(しださぶろうせんじょう)の名でも知られる。平家の天下の時期の動静はあまりよく判っていない。甥頼朝の挙兵直後に頼朝と対面しているが、合流はしなかった。逆に寿永二(一一八三)年二月に鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことに反発、下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合して、二万の兵を集めて頼朝討滅を掲げ、常陸国から下野国へと進軍した。しかし、鎌倉攻撃の動きは頼朝方に捕捉され、下野国で頼朝軍に迎え撃たれる形となり、結果的に本拠地を失った(野木宮合戦)。その後、同母の次兄義賢(よしかた)の子であった信濃の木曾義仲の軍に参加し、義仲とともに北陸道を進んで入洛、入京後に信濃守に任官された。元暦元(一一八四)年正月の「宇治川の戦い」で源義経軍との戦いで防戦に加わったものの、「粟津の戦い」で義仲が討ち死にし、敗走、義広もまた逆賊として追われた。同年五月四日、伊勢国羽取山(現在の三重県鈴鹿市の服部山)に籠って抵抗を試みたが、幕府の追討軍との合戦の末、斬首された(以上はウィキの「源義広志田三郎先生に拠った)。

「義つね」源義経。

「行家」源行家(永治元(一一四一)年から康治二(一一四三年)頃~文治二(一一八六)年)。源為義十男。前の義広の末弟。初名は義盛。保元の乱で父が殺された後は熊野に潜んでいたが、治承四(一一八〇)年に源頼政の召に応じて名を行家と改め、以仁王の挙兵に伴って諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した人物として知られる。養和元(一一八一)年、美濃に拠って、平重衡らと墨俣川で戦って敗れ、鎌倉の源頼朝を頼って所領を求めたが、拒まれたため、兄義広とともに源義仲と結んだ。入洛後、従五位下備前守となったが、後に義仲と対立して紀伊に退いた。平氏滅亡後は頼朝と対立した義経に協力して頼朝追討の院宣を得、さらに四国の地頭に補せられたものの、結局、頼朝に追われ、和泉に隠れ住んでいたところを捕われて殺された(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「是をは」「これをば」。

「いなむらが崎」「稻村ヶ崎」。

「うらなひつるに」「占ひつるに」であるが、どうもピンとこない。先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を見るに「うらみつるに」(恨みうつるに)とある。その意で採る。

「次のとし、正月十三日に、うせ玉ふ」建久十年一月十三日。ユリウス暦一一九九年二月九日。享年五十三、満五十一歳であった。]

老媼茶話 群居解頤曰(嶺南の茄子の大樹)

 

     群居解頤曰

 

 嶺南は、地、暖(あたたか)にして、草菜(さうさい)、冬をへても、おとろへす。かるか故に、蔬圃(ソホ)のうちに、茄子をうゆるもの、ふる根、二、三年のものは、漸々(やうやう)にして枝幹(シカン)を長(ちよう)して、大樹となる。なつ、秋、熟しぬるとき、樹にかけはしして、是を、つむ。三年にして後(のち)、樹も、としよりて、子、まれなり。則(すなはち)、伐去(きりさり)て、別にわかきをうゆる、といへり。

 

[やぶちゃん注:「群居解頤」(ぐんきょかいい)は宋の高懌(こうえき)撰の随筆。当該項は「嶺南風俗」の冒頭にある一番目の以下の前半。

   *

嶺南地暖、草萊經冬不衰。故蔬圃之中栽種茄子者、宿根二三年者漸長枝幹、乃成大樹。每夏秋熟時、梯樹摘之、三年後樹老子稀、卽伐去別栽嫩者。又其俗入冬好食餛飩、往往稍暄、食須用扇、至十月旦、率以扇一柄相遺、書中以吃餛飩爲題、故俗云、踏梯摘茄子、把扇吃餛飩。

   *

「嶺南」既注であるが、再掲しておく。中国南部の「五嶺」(越城嶺・都龐(とほう)嶺(掲陽嶺とも称す)・萌渚(ほうしょ)嶺・騎田嶺・大庾(だいゆ)嶺の五つの山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当し、部分的には華南とも重なっている。更に、かつて中国がベトナムの北部一帯を支配して紅河(ソンコイ河)三角州に交趾郡を置くなどしていた時期にはベトナム北部も嶺南に含まれていた。

「かるか故に」「かかるが故に」に同じい。

「蔬圃(ソホ)」野菜畑。

「茄子」ナス目ナス科ナス属ナス Solanum melongena ウィキの「ナスによれば、『原産地はインドの東部が有力で』、『その後、ビルマを経由して中国へ渡ったと考えられている。中国では茄もしくは茄子の名で広く栽培され、日本でも』千年『以上に渡』って『栽培されている。温帯では一年生植物であるが、熱帯では多年生植物となる』とあるから、古「根、二、三年のもの」というのも納得出来るが、大樹となってその木に足場を組んで実を採取するというのは何ともブッ飛んだ話で、そういえば、この「群居解頤」、平凡社の「中国古典文学大系」では「歴代笑話選」(第五十九巻)に所収されているのも、これまた納得であった。]

老媼茶話 三才圖繪【人物十二】(大食国の人頭果)

 

     三才圖繪【人物十二】

 

 大食こくは海の西南一千里にあり。山谷のあひたに、うへき、有。枝上(しじやう)に、花、生(しやう)して、人の首のことし。ものいふ事、なし。人、物をとふことあれは、只、笑ふのみなり。しきりにはらへは、則(すなはち)、凋(シホミ)み落(おつ)る、といへり。

 

[やぶちゃん注:「三才圖繪」「三才圖會」が正しい。明の王圻(おうき)と彼の次男王思義によって編纂された、絵を主体とした全百六巻からなる膨大な類書(百科事典)。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。「三才」は「天・地・人」で「万物」の意。世界の様々な事物を天文・地理・人物・時令・宮室・器用・身体・衣服・人事・儀制・珍宝・文史・鳥獣・草木の十四部門に分けて各項図入りで説明している。当該項は「巻二十六」の「人物十二」にある「大食國」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して活字化しておく。

   *

大食國在海西南一千里居出谷間有樹枝上花生如人首不解語人借問惟笑而巳頻笑輒凋落大食國之總名有國千餘其屬有麻離拔曰達吉慈尼路骨勿斯離餘未及知

   *

本書は挿絵がないのが淋しい。また、この「三才図会」の人頭果は私の幼少の頃からのお気に入りなので、ここは一つ、国立国会図書館デジタルコレクションの挿絵と本文の画像をトリミングして示すこととする。

 

Jintouka

 

Sansaizuetaisyokukoku

 

「一千里」明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、五百五十九キロ八百メートル。

「うへき」「植木」。

、有。枝上(しじやう)に、花、生(しやう)して、人の首のことし。ものいふ事、なし。「しきりにはらへは」「頻りに笑へば」。笑い過ぎると。]

老媼茶話 佛祖統記(放生(ほうじょう)の功徳)

 

     佛祖統記

 

 もろこしの天寶年中、當塗(とうと)の漁人劉成(リウセイ)・李曄(リキ)といふもの、魚をとつて船にのせ、丹陽に行(ゆく)。船をとゝめて、一夜、あかせり。

 李は行かす、劉成壱人、行り。

 夜更(よふけ)て、船の上を見る。

 ひとつの大魚、ひれをふるひ、首(かうべ)をうこかし、

「阿彌陀佛。」

をとなふ。劉成、驚き是をみるに、萬魚ともに、をとりおとつて、念佛を申す聲、天地をうこかす。

 劉、大に恐れて、ことことく、取(とり)たる魚を江(かう)にはなつ。

 李に、此よしを、語る。

 李曄、聞(きき)て、まこととせす、劉成、やむ事を得すして、おのかたからを以て、是を、つくのひけり。

 明る日、劉、荻(ヲキ)のうちにて、錢萬五千を【拾五貫。】得たり。

 題(タイシテ)曰、「還カヘス」(汝に魚の直(あたひ)を還(かへ)す)とありし、といへり。

 

[やぶちゃん注:「佛祖統記」南宋の天台宗の僧志磐(しばん 生没年不詳)が一二五八年から一二六九年の十一年を費やして撰した仏教史書。全五十四巻。天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂されている。紀伝体(以上はウィキの「仏祖統記に拠った)。以上の話は同「巻第二十八」の「浄土立教志第十二之三」の「往生禽魚傳」の中の一条「劉成魚」。

   *

劉成魚 唐天寶中當塗漁人劉成李暉。載魚往丹陽泊舟浦中。李他往。劉遽見舡上大魚振鬣搖首稱阿彌陀佛。劉驚奔於岸。俄聞萬魚俱跳躍念佛。聲動天地。劉大恐盡投魚於江。李至不信。劉卽用己財償之。明日於荻中得錢萬五千【十五貫也。】題云還汝魚直。

   *

「天寶」既注。唐の玄宗の治世の後半七四二年から七五六年まで。唐王朝の危機の時期。

「當塗(とうと)」現在の安徽省馬鞍山(まあさん)市当塗県。南京の南西、長江右岸。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「李曄(リキ)」この読みは「リエフ」(現代仮名遣「リヨウ」)でなくてはおかしい

「丹陽」江蘇省鎮江市丹陽市。南京の東、長江右岸のやや内陸。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「李は行かす」李は夜遊びに出ず、舟に残って寝たことをいう。

「夜更(よふけ)て」劉成が夜更けに舟に戻ったのである。

「ひれをふるひ」「鰭を振るひ」。

「うこかし」「動かし」。

「をとりおとつて」「躍り踊つて」。

「おのかたから」「己(おの)が寶」。

「つくのひけり」「償(つぐの)ひけり」。

「拾五貫」一貫は銭千文であるから、「錢萬五千」で一万五千文。「唐とアッバース朝の財政規模」というページに拠れば、この天宝年間の租税の内の「調」の絹と棉の一人当たりの納税既定量が絹二丈に綿三両とし、これは貨幣換算額で七百五十文相当(絹分が百文で 棉分が六百五十文)とある。また、同様に「祖」の粟・米は二石で貨幣換算額で七百五十文である。さらにその注には『宮崎市定「唐代賦役制度新考」』『によると、租・調・徭は、徭役の日数換算することができ、租=力役』十五日=雑徭三十日=『絹+棉=麻・布と解析している。更に史料から力役一日』五十『文と算出できるため』、十五×五十=七百五十文=二石『という計算が成り立つ』とあるから、過酷な苦役(クーリー)十五日分の二十倍、雑役一ヶ月の一年十ヶ月に相当する大金である。

『題(タイシテ)曰、「還カヘス」(汝に魚の直(あたひ)を還(かへ)す)にとありし』河原の荻原の中から拾った一万五千文の金包の上に「還汝魚直」と墨書きされてあったというのである。]

老媼茶話 齊地記(始皇帝、石橋を架けんとす)

 

     齊地記

 

 始皇帝以ㇾ術召ㇾ石-行。至ㇾ今ニ皆東ニセリㇾ首

 

[やぶちゃん注:「齊地記」(せいちき)は斉の秀才で、晏嬰の子孫と思われる尚書郎晏謨(あんも)の撰になる斉(現在の山東省)の地誌。全二巻。唐志地理類に入っているらしいが、捜し得なかった。しかし、中文サイトで「欽定四庫全書」内の唐の徐堅の撰になる「初学記」の「巻二」の「天部」の一節、橋の架橋(舟を並べた浮橋を含む)について記した中に(下線太字は私が附した)、

   *

秦都咸陽渭水貫都造渭橋及橫橋南渡長樂漢作便橋以趨茂陵【對便門作橋故亦謂之便門橋】並跨渭以木爲梁漢又作覇橋以石爲梁【長安又有飲馬橋洛陽魏晉以前跨洛有浮橋洛北富平津跨河有浮橋卽杜預所建又有車馬橋鄂坂有黃橋有朱雀橋歷晉逮王敦反後改爲乘雀橋又有枝橋羅落橋張侯橋張昭所造故名之又有赤欄橋白虎橋雞鳴橋蜀有七橋一冲里橋二市橋三江橋四萬里橋五夷里橋六笇橋七長升橋云李氷造上應七星又有鴈橋漢安橋廣一里半又有隂平橋升仙橋相如題者襄陽有木蘭橋一名豬蘭橋雀鼠谷有魯班橋上方有鬼橋陜城有鴨橋淸河有呂母橋章安有赤蘭橋上虞有百官橋仇池博山橋覆津橋鹿角橋泗水有石橋張良遇黃石公處也東海有石橋秦始皇造欲過海也後涼有通順橋在燉煌後燕有五丈橋此皆晉魏已前昭昭尤著也】事對造舟 鞭石【造舟事已見上叙事中齊地記曰秦始皇作石橋欲渡海觀日出處舊始皇以術召石石自行至今皆東首隱軫似鞭撻瘢勢似馳逐】飛洛 浮河【成公綏洛禊賦曰飛橋浮濟造舟爲梁春秋後傳曰赧王三十八年秦始作浮橋于河

   *

とあるのを見出した。本文を訓読しておくと(一部に送り仮名を〔 〕で補塡した)、

 始皇帝、術を以つて石を召〔すに〕、自行(じぎやう)す。今に至〔るまで〕、皆、首を東にせり。

三坂の本文では、ただ、

 始皇帝は、道術を以って石それ自身を能動的に動かさせて何かを作ろうとした。(が、それは完成せず、)今に至るまで、その動かした石は、皆、悉く、その運動の跡を東方に向けている。

と読めるのみである。しかし、の「千字文」始皇帝蓬莱東海旅立った徐福の後に配されてあること、さらに以上の「初学記」の最後の部分を見ることで、これは、「ガリヴァ―旅行記」のラピュタのように東海洋上に浮いているともされた仙境蓬莱山へ、始皇帝が石に術をかけ、大陸から東海へ、蓬莱山へ、夢の浮橋を架けるように指示した(「鞭石」とは鞭で東を指して行くようにさせた石、或いは、その先導を仰せつかった石の意ではないか?)が、徐福の任務不履行によって、それを果たせず(架け渡すべき蓬莱山の位置を特定出来ないのだから当然)、始皇帝は亡くなり、それらの石は、皆、東を指して向いたまま、今も転がっているばかりだ、と読めるように思うのであるが、如何?]

2017/09/25

老媼茶話 註千字文【畧之】(始皇帝と徐福)

 

     註千字文【畧之】

 

 秦の始皇帝、徐ふくに命して、ほう來宮へ行(ゆか)しめ、不老不死の藥を、もとむ。徐ふく、童男女五百人ともなひ、船にのり、ほう來宮至る。

 待期(マツゴ)過(すぎ)ても、かへらす。

 始皇帝、人をつかわし、仙藥の事を、とはしむ。

 徐福かいはく、

「海底に蛟龍(みづち)あり。ほう來に至る事、あたわす。」

といふ。

 始皇帝、則(すなはち)、大あみをつくり、大蛟龍を取(とり)、是をころす。

 魚の長さ、三拾里。

 始皇帝、これより、やまふを受て、たゝす。

 終(つひ)に沙丘に崩し玉ふと云々。

 

[やぶちゃん注:「千字文」(せんじもん)は子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために作られたられた、一千字の総て異なった文字を使って作られた漢文の長詩を広く指す。ウィキの「千字文によれば、南朝の梁 (五〇二年~五四九年)の『武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣』『に文章を作らせたものである。周興嗣は、皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え、皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。王羲之の字ではなく、魏の鍾繇の文字を使ったという異説もあるが、有力ではない。完成当初から非常に珍重され、以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した』。内容は『「天地玄黄」から「焉哉乎也」まで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた』、四字を一句と『する』二百五十『個の短句からなる韻文で』、『全体が脚韻により』九『段に分かれている』。『注釈本も多数出版され』ている。ここで三坂が採用した「註千字文」なるものは梁周興嗣撰他になる「纂圖附音増廣古注千字文」(全三巻)である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して、当該部を発見したここ)。「昆池碣石」部分の註釈の中間部であるが、一部を省略してある。それが標題下の割注「之れを畧す」の意味であろう。

「徐ふく」「徐福」。ウィキの「徐福」より引く。『斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)』出身の方士。司馬遷の「史記」の『巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け』、三千『人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり』、『戻らなかったとの記述がある』(リンク先に原文有り)。『東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山については』後に日本でも広く知られるようになり、「竹取物語」でも『「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる』。『瀛州はのちに日本を指す名前となった』。同じ「史記」の『「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている』。「日本における伝承」の項。『青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県出水市、いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である』。『徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。 丹後半島にある新井崎神社に伝わる』「新大明神口碑記」という古文書には『徐福の事が記されている』。『徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から』二千二百『年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅』一・五キロメートル『のところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている』。『徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある』。『徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し』、『徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である』。『富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群』「富士文献」は『漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している』ものであるが、この「富士文献」は『徐福が編纂したという伝承があ』る。しかし、それらは『文体・発音からも』、『江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない』。『北宋の政治家・詩人である欧陽脩』の七言詩「日本刀歌」には、「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(其の先(せん) 徐福 秦の民を詐(たばか)り/藥を採ると淹留(えんりう)して 丱童(くわんどう) 老いたり/百工 五種 之れとともに居り/今に至るまで 器玩(きぐわん) 皆 精巧)『(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する』とある。

「待期(マツゴ)」予定していた帰国の時期を待って、それを「過(すぎ)ても」「かへらす」「歸らず」。

「つかわし」ママ。「遣(つかは)す」。

「あたわす」「能はず」。

「大あみ」「大網」。

「蛟龍(みづち)」ウィキの「蛟龍」によれば、『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』。『日本では、「漢籍や、漢学に由来する蛟〔コウ〕・蛟竜〔コウリュウ〕については、「みずち」の訓が当てられる。しかし、中国の別種の竜である虬竜〔キュウリュウ〕(旧字:虯竜)や螭竜〔チリュウ〕もまた「みずち」と訓じられるので、混同も生じる。このほか、そもそも日本でミズチと呼ばれていた、別個の存在もある』(ここで言う本邦での「みずち」(古訓は「みつち」)は水と関係があると見做される竜類或いは伝説上の蛇類又は水神の名である。「み」は「水」に通じ、「ち」は「大蛇(おろち)」の「ち」と同源であるともされ、また、「ち」は「霊」の意だとする説もある。「広辞苑」では「水の霊」とし、古くからの「川の神」と同一視する説もあるという)。『ことばの用法としては、「蛟竜」は、蛟と竜という別々の二種類を並称したものともされる。また、俗に「時運に合わずに実力を発揮できないでいる英雄」を「蛟竜」と呼ぶ。言い換えれば、伏竜、臥竜、蟠竜などの表現と同じく、雌伏して待ち、時機を狙う人の比喩とされる』。荀子勧学篇は、『単に鱗のある竜のことであると』し、述異記には『「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜となる」とある。水棲の虺』は、一説に蝮(まむし)の一種ともされる。「本草綱目」の「鱗部・龍類」によれば(以下、最後まで注記番号を省略した)、『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられたとされている。長さ一丈余』(約三メートル)『だが、大きな個体だと太さ数囲(かかえ)にもなる。蛇体に四肢を有し、足は平べったく盾状である。胸は赤く、背には青い斑点があり、頚には白い嬰』(えい:白い輪模様或いは襞(ひだ)或いは瘤の謂いか?)『がつき、体側は錦のように輝き、尾の先に瘤、あるいは肉環があるという』。但し、蛟は有角であるとする「本草綱目」に反して、「説文解字」の『段玉裁注本では蛟は「無角」であると補足』して一定しない。「説文解字」の小徐本系統の第十四篇によれば、「蛟竜屬なり、魚三千六百滿つ、すなわち、蛟、これの長たり、魚を率いて飛び去る」(南方熊楠の「十二支考 蛇に關する民俗と傳説」から私が改めて引用した)『とある。原文は「池魚滿三千六百』『」で、この箇所は、<池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟竜がボス面をしてやってきて、子分の魚たちを連れ去ってしまう、だが「笱」』(コウ/ク:魚取り用の簗(やな)のこと)『を水中に仕掛けておけば、蛟竜はあきらめてゆく>という意』が記されてあるそうである。「山海経」にも『近似した記述があり、「淡水中にあって昇天の時を待っているとされ、池の魚が二千六百匹を数えると蛟が来て主となる」とある。これを防ぐには、蛟の嫌うスッポンを放しておくとよいとされるが、そのスッポンを蛟と別称することもあるのだという』。更に時珍は「本草綱目」で『蛟の属種に「蜃」がいるが、これは蛇状で大きく、竜のような角があり、鬣(たてがみ)は紅く、腰から下はすべて逆鱗となっており、「燕子」を食すとあるのだが、これは燕子〔つばくろ〕(ツバメ)詠むべきなのか、燕子花〔カキツバタ〕とすべきなのか。これが吐いた気は、楼のごとくして雨を生み「蜃楼」(すなわち蜃気楼)なのだという』。『また、卵も大きく、一二石を入れるべき甕のごと』きものである、とする。

「三拾里」「千字文」とこの古註が書かれたのは東晋期に当たるので、当時の一里は四百四十メートルしかない。従って、十三キロ二百メートルに相当する。「荘子」的、というか、中国的スケールである。

「これより、やまふを受て、たゝす」「やまふ」は「病ひ」、「たゝす」は「立たず」(立てなくなった)。「これより」とあるから、蛟龍を獲り殺したことがその病いの原因であり、少なくとも三坂はそれが遠因となって始皇帝は崩御し、秦も滅ぶこととなったと言いたい感じである。

「沙丘」地名。始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年)は七月の暑い最中(さなか)、巡幸中の沙丘の平台(現在の河北省平郷。ここ(グーグル・マップ・データ))で亡くなった。]

老媼茶話 事文類聚【後集二十】(小町伝説逍遙)

 

     事文類聚【後集二十】

 

[やぶちゃん注:「事文類聚」(じぶんるいじゅう)は宋の祝穆(しゅくぼく)の編になる中国の類書(百科事典)。一二四六年成立。全百七十巻。「芸文類聚」(げいもんるいじゅう)(唐の高祖(李淵)の勅命で、欧陽詢らが撰した類書。六二四年成立。全百巻。天・歳時・地・山などの全四十六部に物事を分類、それぞれに関連する詩文を配したもの。本邦にも早くから伝わって影響を与えた)の体裁に倣い、古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新集三十六巻・外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻を追加して総計で全二百三十六巻の大著に膨れ上がった。この条は三坂の叙述の最初の特異点で、「事文類聚」の「後集第二十巻」の「髑髏」の部からの訓読引用(原典標題は「草生髑髏」(草、髑髏に生ず)で「述異記」からの引用とするもの)は最初の段落のみで、それを契機として、作者三坂が登場、膨大な和書から、奇怪な小野小町髑髏伝承から自在な小町伝説を引用証明の形で語る形式を採る。また、その採集は、三坂の博覧強記がタダモノのそれではないことを明確に印象附けるものともなっている。なお、「事文類聚」の当該本文は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。それを見ると、婢の名は確かに「興進」であり、この読みは「コウシン」でなくてはならぬ。「興」を「輿」或いは「與」と見誤ったものであろう。また、原典そのままの完全訓読ではなく、三坂が翻案した箇所があることも判る。以下に視認したそれを白文(句読点や鍵括弧を独自に(和刻本の訓点の一部には従えない箇所がある)附した)で翻刻しておく(国立国会図書館デジタルコレクションのそれは和刻本で訓点がある)。

   *

    草生髑髏

陳留周氏婢、名興進、入山取樵。夢見一女語之曰、「近在汝頭前。目中有刺、煩。拔之、當是有厚報。」。牀頭果有一朽棺。頭穿壞、髑髏堕地、草生目中。便、爲拔草内着棺中、以甓塞穿。卽、髑髏處、得一雙金指環【桓冲之「述異紀」。】。

   *

これは「太平御覧」の第四百七十九巻に、

   *

桓冲之「述異紀」曰、陳留周氏婢、名興進、入山取樵。夢見一女語之曰、「近在汝目前。目中有刺、煩。爲之、當有厚報。」有見一朽棺。頭穿壊、髑髏墮地、草生目中。便、爲草内着棺中、以甓塞穿。卽、於髑髏處、得一雙金指環。

   *

また、「太平広記」の「巻第二百七十六 夢一」に「述異記」を出典とする「周氏婢」で、

   *

陳留周氏婢入山取樵、倦寢。忽夢一女子、坐中謁之曰、「吾目中有刺、願乞拔之。」。及覺、忽、見一棺中有髑髏、眼中草生、遂與拔之。後於路旁得雙金指環。

   *

とある話である。原文の「甓」(音「ヘキ」)は焼成した煉瓦のこと(「塼・専・磚」(音「セン」)とも書き、古えより土木建築の基本材として多方面に使われてきた)。この条はやや長いので、冒頭だけここに注した。]

 

 陳留の周氏か婢に興進(ヨシン)と云しもの、山に入(いり)て樵(キコリ)し、勞(ロウ)して、ふして、夢みらく、ひとりの女あり。是(ここ)に語(かたり)ていはく、

「我、近く、汝か頭(かうべ)のほとりにあり。目の内に刺(サシ)ありて煩し。是をぬかば、まさに厚く報すへし。」

 ゆめ覺(さめ)て、皈(かへり)て、我(わが)をるゆかのほとりをほるに、はたして壹のくちたる棺あり。頭(カウベ)、そこね、髑髏(トクロウ)、地に落(おち)て、草(くさ)、目のうちに生す。則(すなはち)、此草をぬき、棺を補(ヲキナ)ひ、ふさぎて置(おけ)り。則、髑髏の處におゐて、壱雙の金指環(キンシクハン)を得たり。

 是、本朝の小野ゝ小町かことに相似たり。實方(さねかた)中將、奧羽にあそひ、小野ゝ小町か髑髏の草をぬく事は、「袖中鈔」・「無明鈔」、其外にも見へたり。

 「愚見(クケン)抄」に、

 或説に、左中將【なりひら】、二條の后(きさき)をおかし奉らん斗(はかり)ことに出家せしか、そのゝち、髮をはやさん爲に、陸奧の國八十嶋(やそしま)に至りて、小野ゝ小町が髑髏の、

  秋風のふくにつけてもあなめあなめ

 なりひら、是を見るに、しやれかうべの目の穴より、すゝき、生拔(はへぬけ)たる、風に吹(ふか)るゝおとのかく聞へける。左中將、哀(あはれ)に覺へて、

  小野とはいはしすゝき生(おひ)けり

と下の句を附(つけ)しといへり。

 「壒囊鈔(あいなうせう)」に曰、

 目より薄の生出(おひいづ)る事、去古事(こじ)、侍るにや、先、近頃の連歌に、

  目より薄は生出(おひいで)にけり

といふ難句(なんく)のありけるに、

  物夫(もののふ)の野邊に射失(スツ)る破(ヤレ)かふら

 と付たり。名譽の秀句といへるを、十佛は、「さしもの古事を無下(むげ)に付(つけ)たり」と難しける。たとへは小のゝ小町か集(しふ)に、

  秋風の吹(ふく)につけてもあな目あな目小野とはいはし薄生(おひ)けり

 「あなめ」、「古今(こきん)」の註にて、『「悲々」と書(かき)て「アナメアナメ」と讀(よむ)』と註せり。「是は彼(かの)小町、死(しし)て後(のち)、よめる歌なり」とあり。

 「平安誌」に、

 「市原野ゝ出(いで)はつれに、小野ゝ小町が乞喰(こつじき)せしおりの枕石とて有りし」となり。

 市原野に「あなめ塚」といふあり。小野ゝ小町、としよりて、關寺にて死(しに)ける折、艸庵に、辭世、書殘(かきのこ)せり。

  おはる迄身をは身こそは思ひしれみつからしつる野邊の野送り

 弘法大師、此野に分入(わけいり)、此歌をみて、

  世の中に秋風たちぬ花薄まねかはゆかむ野へも山へも

 と口すさみ、過玉(すぎたま)へは、いつくともなく、

  秋風のふくにつけてもあなめあなめ小野とはいはし薄生けり

 大師ふしき思召(おぼしめし)、野邊をさかし見玉へは、しろく晒(さらし)たるとくろの眼の穴より、薄(すす)き、生たるあり。此白骨を、ひろい、うづめ、此石塚を建玉(たてたま)ふと也。又、西行法師、此前を過(すぐ)るとて、誦經念佛し、入相(いりあひ)のかねを聞(きき)て、

  なき人のいかなる草のかけにおりて今うちならす鐘をきくらん

とよみて過(すぎ)給ひけるに、あとより、十八、九斗(ばかり)の女、あらはれ、この歌をよみ、失せける。

  聞そとよ此野ゝ草の影にをりて今打(うち)ならすかねの一こゑ

 

[やぶちゃん注:「小野ゝ小町」生没年未詳にして出自・身分も不詳。「古今和歌集」の代表的歌人で恋愛歌に秀で、六歌仙・三十六歌仙の一人。交渉を持った人物などによって承和から貞観中頃(八三四年~八六八年頃)が活動期と考えられ、仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)両天皇の後宮に仕えた官女と推定されてはいる。

「實方(さねかた)中將」藤原実方(?~長徳四(九九九)年)は公家で歌人。従四位上・左近衛中将。三十六歌仙の一人。ウィキの「藤原実方」によれば、左大臣藤原師尹の孫で、侍従藤原定時の子であったが、父が早逝したため、叔父の大納言済時の養子となった。天禄四(九七三)年、『従五位下に叙爵し』、二年後の天延三(九七五)年には『侍従に任ぜられる。その後は、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と武官を歴任する傍ら』、『順調に昇進』し、正暦四(九九三)年には『従四位上、翌』年、『左近衛中将に叙任され』、『公卿の座を目前に』したが、長徳元(九九五)年正月、突如、陸奥守に左遷させられてしまう。同年の三月から六月にかけて、『養父の大納言・藤原済時を始めとして、関白の藤原道隆と道兼の兄弟、左大臣・源重信、大納言・藤原朝光、大納言・藤原道頼ら多数の大官が疫病の流行などにより次々と没するが、養父・済時の喪が明けた』九『月に陸奥国に出発した』。『左遷を巡っては、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生』、『このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある』(本条で三坂が「奧羽にあそひ」(遊び)とするのはこの伝承に洒落た感じがする)。『しかし、実方の陸奥下向に際して天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。さらにこの逸話では、口論に際し』、取り乱すことなく、『主殿司に冠を拾わせ』て『事を荒立てなかった行成が、一条天皇に気に入られて蔵人頭に抜擢されたとされるが、実際の任官時期は同年』八月二十九日で、実方の任官と八ヶ月も『開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙ともされることから』、『逸話と事実に不整合がある。これらのことから、後世都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話(後述の死後亡霊となった噂や、スズメに転生した話も含め)の形成につながったとも考えられる』。長徳四年十二月(九九九年一月)、『任国で実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した(名取市愛島に墓がある)。没時の年齢は』四十歳ほどであったとされる。彼は『藤原公任・源重之・藤原道信などと親し』く、『風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも』二十『人以上の女性との交際があったと言われ』、『光源氏のモデルの一人とされることもある』。『死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの噂が流れたとされ』、『また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)』とある。ただ、三坂は小町の髑髏の草を抜いてやるという説話の主人公がこの実方であるというのを最初に押し出しているのであるが、それを実方とする知られた文献は有意には多くない。私の調べた限りでは、歌僧顕昭(けんしょう 大治五(一一三〇)年?~承元元(一二〇九)年?)の「古今集序註」(ここの情報)や、江戸中期の儒学者新井白蛾(正徳五(一七一五)年~寛政四(一七九二)年)の「牛馬問」(巻之一「小野小町」。私の昔から好きなサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典の壺」のこちらに現代語訳が載る。但し、そこではその小野小町というのは小野正澄(私は不詳)の娘であって、我々の知る小野小町ではないとし、我々の知っているそれは「小野良實」(後述)の娘であるとする。それを受ける形で、滝沢馬琴は「兎園小説」の第五集で乾斎なる人物が報告する「小野小町の辨」もある。以下に所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化、記号や読みを加えて示す。

   *

小野小町の事、「牛馬問」に委しく辨じ置けり。却て小町を一人と思ふより紛れたる説多し。實方朝臣、陸奥へ下向之時、髑髏の眼穴より薄の生ひ出でゝ、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とはいはじすゝき生ひけり」と有りし歌の小町は、小野の正澄の娘の小町なり。康秀の三河椽(じよう)と成りて下向の時、「詫びぬれば身を浮草の根をたえて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ」と詠みしは、高雄国分の娘の小町なり。「思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを」の歌、又、出羽郡司小野良実が娘の小野の小町なり。高野大師の逢ひ給ふ小町は、常陸国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならざる異説ある而已(のみ)。中にも良實が娘の小町は美人にて、和歌も勝れたればひとり名高く、凡(すべ)て一人の樣(やう)傳へ來るのみ。かゝる類(たぐひ)、万事に多し。暫く記して疑を存し、亦、以て博雅君子に問ふ。

   *

これは所謂、複数の小野小町が実在したことの主張である。ここで白蛾と乾斎の言う「小野良實」というのは「小野良眞」のことであろう(「實」と「眞」は誤り易い字ではある)。我々の知っている美女小野小町の出自説の一つに、「尊卑分脈」で小野篁の息子である出羽郡司「小野良眞」の娘とされているからである(但し、小野良真の名はこの「尊卑分脈」にしか載らず、他の史料には全く見当たらないこと、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長二(八二五)年から 昌泰三(九〇〇)年の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)を考えると、篁の孫とするには年代が合わない。なお、他に小野篁自身の娘とする説もある。ここはウィキの「小野小町」に拠った)。さて、複数の小町の追跡というのは本条の主旨とは微妙にずれてしまうし、美形でない別人の小町には読者の食指もイマイチ動かぬであろうからして、ここらで留めおくこととする。

「袖中鈔」顕昭の著になる平安末期(文治年間(一一八五年~一一九〇年)頃成立)の歌学書。全二十巻。「万葉集」から「堀河百首」辺りまでの歌集・歌合せから約三百の難解な歌語を抄出して解釈したもの。私は所持しないので、当該箇所は紹介出来ない。

「無明鈔」「無明抄」。鴨長明の歌論書。全二巻。承元四(一二一〇)年頃の成立か。当該話は「業平本鳥きらるる事」と続く「をのとはいはじといふ事」。但し、そこでは藤原実方ではなく、在原業平である

   *

ある人いはく、「業平朝臣、二條の后の、未だ、ただ人におはしましけるとき、盜み取りて行きけるに、兄人(せうと)たちに取り返されたるよし、いへり。この事、また『日本記式』にあり。ことざまは、かの物語にいへるがごとくなるにとりて、迎ひ返しけるとき、兄人たち、その憤りを休め難くて、業平の朝臣の髻(もとどり)を切りてけり。しかあれど、誰(た)がためにもよからぬ事なれば、人も知らず、心一つにのみ思ひて過ぎけるに、業平朝臣、『髮生(お)ほさん』とて、籠りて居たりけるほど、『歌枕ども見ん』と數寄(すき)にことよせて東(あづま)の方(かた)へ行きにけり。陸奧國(みちのくに)に至りて、『かそしま』といふ所に宿りたりける夜、野の中に歌の上の句を詠ずる聲あり。その詞にいはく、

  秋風の吹くにつけてもあなめあなめ

と言ふ。あやしく思えて、聲を尋ねつつ、これを求むるに、さらに人なし。ただ、死人の頭(かしら)一つあり。明くる朝(あした)になほこれを見るに、かの髑髏(どくろ)の目の穴より薄(すすき)なん一本(ひともと)生(お)ひ出でたりける。その薄の風に靡(なび)く音のかく聞こえければ、あやしく思えて、あたりの人に、このことを問ふ。ある人、語りていはく、『小野小町、この國に下りて、この所して命終りにけり。すなはち、かの頭、これなり』と言ふ。ここに業平、哀れに悲しく思えければ、涙を抑へつつ、下の句を付けけり。

 小野とはいはじ薄生ひけり

とぞ続けける。その野をば『玉造(たまつくり)』と、男(をのこ)、言ひけり」とぞ侍る。

 玉造の小町・小野小町と、同じ人かあらぬ者かと、人々、おぼつかなき事に申(まうし)て爭ひ侍りし時、人の語り侍りしなり。

   *

後の「愚見抄」(鎌倉時代の歌論書。作者不詳(伝藤原定家))に出るが、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」とは「秋風が吹くたびごとに! ああ、目が痛い! 目が痛いわ!」の意で、応じた業平の下の句「小野とはいはじ薄生ひけり」は表は「『小野』(美しい野)とは呼べるまい、かくも薄がさわに生い茂ってしまっているのだから」であるが、裏は「小野小町も最早、絶世の美女ではない、かくも薄の生い茂った荒涼とした場所に髑髏となって埋もれてしまっているからには」の謂い。因みにこの伝承は、後の謡曲「通小町(かよいこまち)」の元ネタとなる。同類の話は、「無明草子」(鎌倉初期の物語形式を採った随筆或いは最古の文学評論書。作者は通説では藤原俊成の娘越部禅尼(こしべのぜんに)とされ、建久七(一一九六)年から建仁二(一二〇二)年頃の成立と推定されている)にも載るので、そこを引いておく。但し、そこでも奇体な夢を見るのは藤原実方ではなく、同時代人の藤原道信(天禄三(九七二)年~正暦五(九九四)年:公家で歌人。従四位上・左近衛中将)とする説を添えている

   *

それにつけても、憂(う)き世の定めなき思ひ知られて、あはれにこそはべれ。屍(かばね)になりて後(のち)まで、

 秋風の吹くたびごとにあな目あな目小野とは言はじ薄(すすき)生(お)ひけり

など詠みてはべるぞかし。廣き野の中に薄の生ひてはべりける、かく聞こえたるなりけり。いとあはれにて、その薄を引き捨てはべりける夜(よ)の夢に、かの頭(かしら)をば、『小野小町と申す者の頭なり。薄の、風に吹かるるたびごとに、目の痛くはべるに、引き捨てたまひたるなむ、いとうれしき。この代はりには、歌をいみじく詠ませ奉らむ』と見えて侍りけるとかや。

 かの夢に見たる人は、道信の中將と人の申し侍るは、まことにや。

 誰(たれ)かは、さることあるな。色をも香をも心に染(し)むとならば、かやうにこそあらまほしけれ。

   *

「誰(たれ)かは、さることあるな」の部分は「新潮日本古典集成」では、『〔小町以外の〕誰がこれほど徹し得ようか』と訳があり、「かやうにこそあらまほしけれ」の部分は『死後もこのようにありたいものですね』とする。

「愚見(クケン)抄」先の注を参照。私は所持しないので、ここに出る原文を紹介出来ない。

「二條の后(きさき)」藤原長良の娘で、清和天皇の女御で後に皇太后となった藤原高子(たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)。言わずと知れた、業平と恋愛関係にあったが、入内のために引き裂かれたとされる、「伊勢物語」のかの「芥川」の段の鬼に喰われる女のモデルである。

「おかし」「犯し」。略奪し。

「斗(はかり)ことに」「謀事(はかりごと)」が露見したため「に」、の謂いであろうか。

「出家せしか」出家して髪を断髪したが。無論、業平が出家した事実など、ない。高子の一件で、憤激した彼女の兄弟らに襲われ、髪を切り落とされたとも言われるから、それをかく言ったものであろう。

「髮をはやさん爲に」落語みたような理由づけで思わず笑ってしまう。

「陸奧の國八十嶋(やそしま)」不詳。現在の宮城県の塩竃或いは松島附近か。

「壒囊鈔(あいなうせう)」室町時代の僧行誉作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明する。「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて七百三十七条とした「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」二十巻(編者不詳。享禄五・天文元(一五三二)年成立)があり、近世に於いて「壒囊鈔」と言った場合は後者を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。

「古事」「故事」。

「先」「まづ」。

「目より薄は生出(おひいで)にけり」「物夫(もののふ)の野邊に射失(スツ)る破(ヤレ)かふら」南北朝時代に撰集された連歌集「莬玖波集(つくばしゅう)」の「巻第十九 雑体連歌」に素暹(そせん)法師(これは法名で、俗名は東胤行(とうのたねゆき ?~文永一〇(一二七三)年?或いは弘長三(一二六三)年?:鎌倉時代の武将で歌人。源実朝に仕えた。承久の乱の功によって下総東荘(とうのしょう)の領主から美濃郡上郡山田荘の地頭となった。定家の子藤原為家に和歌を学び、その娘婿となって二条流の歌人として知られた)の作として載る。但し、

 

  目より薄の生出でにけり

 狩人の野へにいすつるわれかふら

 

の表記である(国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認)。「狩人」をも「もののふ」と訓ずるのはルビ無しでは至難の業。

「十佛」鎌倉末期から南北朝期の連歌師坂十仏(さかじゅうぶつ 弘安三(一二八〇)年或いは翌年頃か?~?)。「密伝抄」によれば「日本一和漢才学の者」とし、和歌にも堪能で、「新後拾遺和歌集」に入集、また、足利尊氏に「万葉集」を講じてもいる。医術を修得した医僧としても著名である。花下(はなのもと/地下)連歌の指導者善阿(ぜんな:「菟玖波集」に三十二句が入集(にっしゅう)しており、同集の編者救済(ぐさい)も彼の弟子である)の弟子であり、知的で巧妙な付合を得意とした。

「無下に」風流もなくひどい状態で。

「難しける」「難じける」。批難したという。

「小のゝ小町か集(しふ)に」「秋風の吹(ふく)につけてもあな目あな目小野とはいはし薄生(おひ)けり」神宮文庫蔵本「小野小町集」(奥書のクレジットは慶長十二年(一六〇七年))の本文の終わりは

   *

 

 人のこゝろうらみ侍りける、比もさにやとそ

 

心にもかなはさりける世中を うき世にへしとおもひける哉

 

 おなし比、みちの國へくたる人に、いつはか

 りとひしかは、けふあすものほらんといひし

 は

 

みちのくはよをうき島も有といふを 關こゆるきのいそかさるらん

 

 なといひてうせにけり。のちを、いかにもす

 る人やなかりけん、あやしくてまろひありき

 けり

 あはてかたみにゆきてける人の、おもひもか

 けぬ所に、歌よむこゑのしけれは、おそろし

 なから、より、きけは

 

秋風のふくたひことにあなめあなめ をのとはいはてすゝきおひけり

 

 ときこえけるに、あやしとて、草の中をみれ

 は、小野小町かすゝきのいとをかしうまねき

 たてりける、それとみゆるしるしはいかゝ有

 けん

 冬、みちゆく人の、いとさむけにてもあるか

 な、よこそはかなけれといふをきゝて、ふと

 

手枕のひまの風たにさむかりき 身はならはしのもにそありける

 

   *

で終わっており(底本は所持する昭和四八(一九七三)年明治書院刊「私家集大成第1巻 中古Ⅰ」の一部を補正して示した)、この髑髏伝承の一首が載っている。「日本国語大辞典」の「あなめ」の項は、『小野小町の髑髏(どくろ)の目に薄が生え、「あなめあなめ」と言ったという伝説から)ああ目が痛い。また、ああたえがたい。あやにくだ。*小町集「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ小野とはなくし(てカ)薄おひけり」*江家次第―一四・御即位付后官出車「在五中将〈略〉到陸奥国、向八十島、求小野小町尸、夜宿件島、終夜有ㇾ声曰、秋風之吹仁付天毛阿部目阿部目、後朝求ㇾ之、髑髏目中有野蕨、在五中将涕泣曰、小野止波不成薄出計理、即斂葬」*袖中抄―一六「顕昭云、あなめあなめとはあな目いたいたと云也」*俚言集覧「あなめ〈略〉あなにくもあなめ、も如レ同の言故に重ねて義訓せるなり」』とある。「江家次第」では髑髏の目を抜けて生えるのは「薄」ではなく、「蕨」(わらび)であることが判る。私は蕨の方がより印象的な絵になる気がする。

『「古今(こきん)」の註にて、『「悲々」と書(かき)て「アナメアナメ」と讀(よむ)』と註せり』『「是は彼(かの)小町、死(しし)て後(のち)、よめる歌なり」とあり』孰れも引用原典不詳であるが、一つの可能性として『「古今(こきん)」の註』というのは、現在、九州大学蔵の中世の「古今和歌集序秘注」という書物を指しているのかも知れない。小田幸子氏の論文「変貌する小町」(グーグルブックスので視認した)によれば、この書は謡曲「卒塔婆小町」のモチーフの元となった記載があるとし、そこでは古い卒塔婆に腰掛けた小町を弘法大師が説教するというブットビの内容らしい。

「平安誌」京都の地誌らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。

「市原野ゝ出(いで)はつれに」市原野を抜け出た外れの辺りに。

「小野ゝ小町が乞喰(こつじき)せしおりの枕石とて有りし」「乞喰(こつじき)」は「乞食」と同じで物乞い。小町への「百夜通い」の伝説で知られる深草少将は、九十九日目の夜、大雪の中で凍死してしまうが、その後、小町は少将の怨霊にとり憑かれて物狂いとなり、乞食の老女となったとする伝承がある(これを受けた謡曲が「卒都婆小町」・「通小町」である)。「枕石」は不詳だが、現在の京都府京都市左京区静市市原町附近にあったのであろう。ここには小野小町終焉の地と伝える、天台宗補陀洛寺、通称「小町寺」がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『市原野に「あなめ塚」といふあり』この呼称は今はない模様だが、前の補陀洛寺には、現在、小町の供養塔や小町姿見の井戸などの遺跡、さらには亡骸(なきがら)から生えたという薄(!)まである(ここでは問題の薄髑髏伝説のロケーションはまさにこの寺にセットされてあるのである)と観光案内にはあるから、この境内の供養塔附近か、寺周辺にあった古墳を指したのであろう。

「關寺」(せきでら)は「世喜寺」とも書き、かつて近江国逢坂関の東(現在の滋賀県大津市逢坂二丁目付近)にあった寺。ウィキの「関寺」によれば、現在は廃絶してないが、現在、長安寺(ここ(グーグル・マップ・データ))という寺は、その跡地に建てられているとする説がある。『創建年次は不明であるが』、貞元元(九七六)年の『地震で倒壊したのを』、『源信の弟子である延鏡が、仏師康尚らの助力を得て』万寿四(一〇二七)年に『再興した。その時、清水寺の僧侶の寄進によって用いられた役牛の』一『匹が迦葉仏の化現であるとの夢告を受けたとする話があり、その噂を聞いた人々が件の牛との結縁を求めて殺到し、その中に藤原道長・源倫子夫妻もいたという。そして、その牛が入滅した際には源経頼が遭遇したことが』「左経記」(万寿二年六月二日の条)に見え、その後、菅原師長が「関寺縁起を『著した(なお、長安寺には牛の墓とされる石造宝塔が残されて』いる)。『また、倒壊前には老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり』、これが謡曲「関寺小町」として『伝えられている。また、同寺に安置されていた』五丈の『弥勒仏は「関寺大仏」と呼ばれ、大和国東大寺・河内国太平寺(知識寺)の大仏と並び称された。南北朝時代に廃絶したと言われている』とある(下線やぶちゃん)。

「おはる迄身をは身こそは思ひしれみつからしつる野邊の野送り」伝承歌の類い。整序すると、

 

 終はるまで身をば身こそは思ひ知れ自らしつる野邊の野送り

 

か。小町の辞世と伝えるものは他に、

 

 あはれなりわが身の果てや淺綠(あさみどり)つひには野べの霞と思へば

 

 我死なば焼くな埋づむな野にさらせ瘦せたる犬の腹を肥やせよ

 

最後のトンデモない一首を凄絶として称揚する者がネットには多いようだが、野狐禪のなまぐさ坊主か、底の浅い武将の下手な辞世みたようで、私は反吐が出るほど厭だ。寧ろ、このおぞましいそれは「九相詩絵巻」を長歌と見立てた、糞坊主の所産と見た。三坂の引くそれも下の句の「自らしつる野邊の野送り」が夢幻を今一つ捩じっていていいが、上の句が観念的なのが残念だ。一首の全体が自然の中に溶け込んで原子にまで分解して消えていく映像の体(てい)として私は「あはれなり」の一首を採る。

「弘法大師、此野に分入(わけいり)、此歌をみて」この伝承では空海は小野小町の後の世に生きている点でパラレル・ワールド! いやいや、空海は今も高野山で生きているんでしたね、はい。

「世の中に秋風たちぬ花薄まねかはゆかむ野へも山へも」整序すると、

 世の中に秋風立ちぬ花薄(はなすすき)招かば行かむ野へも山へも

と、弘法大師さまでもお怒り遊ばすであろう、採りどころの滓もない如何にもな近世人しか詠みそうにない超駄歌である。

「さかし」「探し」。

「とくろ」「髑髏(どくろ)」。

「ひろい」「い」はママ。「拾ひ」。

「なき人のいかなる草のかけにおりて今うちならす鐘をきくらん」整序すると、

 亡き人の如何なる草の蔭に下(お)りて今打ち鳴らす鐘を聽くらむ

分解した各句の表現は西行の歌句にはあっても、この一首総体は西行の歌にはないと思う。

「十八、九斗(ばかり)の女、あらはれ、この歌をよみ、失せける」伝承や「玉造小町壮衰記」やら謡曲なんどで、彼女を醜怪な老婆や髑髏に変じさせるのには飽き飽きしている。三坂が最後にかく映像を出してくれたことに私は感謝している。

「聞そとよ此野ゝ草の影にをりて今打(うち)ならすかねの一こゑ」初句は「きけぞとよ」と読むか。和歌嫌いの私には判らぬ。識者の御教授を乞う。]

2017/09/24

老媼茶話 宣室志(ありがたい声明(しょうみょう)……実は……)

 

     宣室志

 

 太原の商人に石憲といふ者あり。長慶二年の夏の頃、雁門關に行くに、暑(しよ)、盛(さかん)なるにつかれて、大木のもとに、ふしたり。

 夢に一僧あり。

 石憲にいわく、

「我(わが)庵の南に冷水あり。玄浴地となつく。檀越(だんをつ)、われに偕(トモナフ)てあそふへし。」

憲、僧とともに行(ゆく)に、窮林積水(キウリンセキスイ)あ

 群僧(グンソウ)、水中に、あり。

 憲、是を見て、深く怪しむ。

 僧の曰、

「檀越、梵音(ぼんいん)を聞(きか)んと欲するか。」

 憲、是を、

「然り。」

とす。

 群僧、水中に有つて、同音に聲を合(あはせ)て噪(ハツカ)し。

 一僧あり、憲か手を取(とり)て、ともに浴す。

 其(その)冷事、甚し。

 驚(おどろき)て寤(サム)るとき、衣、ことことく、しめる。

  明日(みやうじつ)、行(ゆき)つから、道に池有りて、蛙、鳴(なく)事、甚たし。夜夢にみし處に、たかわす。池に群蛙(ぐんあ)あり。儼(ゲン)として、きのふの僧のことし。

 

[やぶちゃん注:この話、確かに「宣室志」の第一巻に「石憲」として見出せるが、三坂の訳は肝心要の凄惨なコーダを略してしまった結果、珍しく、台無しの尻切れトンボの失敗作になってしまっている

   *

有石憲者、其籍編太原、以商為業、常行貨於代北。

長慶二年夏中於鴈門關行道中、時暑方盛、因偃於大木下。忽夢一僧、蜂目、被褐衲、其狀甚異、來憲前謂曰、「我廬於五臺山之南、有窮林積水、出塵俗甚遠、實群僧清暑之地。檀越幸偕我而遊乎。卽不能、吾見檀越病熱且死、得無悔於心耶。」。憲以時暑方盛、僧且以禍福語相動、因謂僧曰、「願與師偕往。」。於是、其僧引憲西去。且數里、果有窮林積水。見群僧在水中。憲怪而問之、僧曰、「此玄陰池。故我徒浴於中、且以蕩炎燠。」。於是引憲環池行。憲獨怪群僧在水中、又其狀貌無一異者。已而天暮、有一僧曰、「檀越可聽吾徒之梵音也。」。於是憲立池旁、群僧即於水中合聲而噪。僅食頃、有一僧挈手曰、「檀越與吾偕浴於玄陰池、慎無懼。」。憲卽隨僧入池中、忽覺一身盡冷、噤而戰。由是驚悟。見己臥於大木下、衣盡濕、而寒慄且甚。時已日暮、卽抵村舍中。

至明日、病稍愈。因行於道。聞道中忽有蛙鳴、甚類群僧之梵音、於是逕往尋之。行數里、見窮林積水、有蛙甚多。其水果名玄陰池者、其僧乃群蛙爾。憲曰、「此蛙能幻形以惑於人、豈非怪之尤者乎。」。於是盡殺之。

   *

主人公はただの一介の商人である。やはり、原作通り、あまりの気味悪さから、「此れ、蛙、能く形を幻じて、以つて人を惑はすは、豈に怪の尤もなる者に非ずや!」と叫んで、「是に於いて、之れを殺し盡す」と終わらねば、本当の唐代伝奇とは言えないと私は思う。

「太原」現在の山西省の省都太原市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長慶二年」「長慶」は唐代穆宗(ぼくそう)の治世の年号。同二年は西暦八二二年。

「雁門關」別名「西陘関(さいけいかん)」とも称し、山西省北部の代県の西北にある雁門山(別名「勾注山(けいちゅうざん)」)の中にある古えからの関所。北方異民族の侵入に対抗するための防衛拠点で、数多くの戦いが繰り広げられてきた場所として知られる。太原の北約百四十八キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「なつく」「名づく」。

「檀越(だんをつ)」梵語で「施主」の意の「ダナパティ」の漢訳。寺や僧に布施をする信者。檀那。檀家。読みは「だんおち」「だんえつ」等があるが、私は響きの好悪から習慣的に「だんおつ」で詠むことにしている。

「偕(トモナフ)て」「伴ふて」。

「窮林積水(キウリンセキスイ)」「窮林」は「深い林」の意、「積水」は「満々と湛えられた水」で高原の大きな湖である。

「梵音(ぼんいん)」一般には現在は「ぼんおん」「ぼんのん」と読まれる。単に読経のことも指すが、ここは声明(しょうみょう)の一種で、清浄な音声で仏法僧の徳を讃える偈頌(げじゅ)。四箇(しか)法要(仏教儀式の部分名で、「唄(ばい)」・「散華(さんげ)」・「梵音」・「錫杖(しゃくじょう)」の四種の声明から成る。宗派を越えて広くいろいろな法会に用られる)で二番目に唱えられる、それと採る。

を聞(きか)んと欲するか。」

「噪(ハツカ)し」この漢字では「騷(さは)がし」で「人が喧しく騒ぎ立てる」の意であるが、「はつかし」の読みの方だと、これは「恥づかし」で、「こちらが気恥ずかしくなるほどに相手が立派だ、優れている」の謂いとなるように私は思う。前の「梵音」を音楽的に優れた声明(しょうみょう)のそれと採るなら、意味は後者で採るべきであり、原話で石憲が騙されたと憤慨して蛙を皆殺しにするのは、ここで有り難い天人の声を聴いた(実際には蛙(ぎゃわず)のけたたましい鳴き声)ように感じたからに他ならないと私は読む。原典もこの漢字を用いているから、原作者は真相の伏線として騒ぐ声としたものを、或いは三坂はルビでそれと逆の効果を出そうしたものかも知れぬ。大方の御叱正を俟つものではある。

「冷ル事」「ひゆること」。その冷たさに「驚(おどろき)て」目覚める(寤(サム)る)のである。展開としては上手い手法である。なお、この目覚めた時、後の謂い(「夜夢にみし處に」)から、既に夜になっていたのである。

「ことことく」「悉く」。

「しめる」「濕る」。暑い盛りであるというのに、衣服はずぶずぶに水に濡れていた。

「行(ゆき)つから」「つ」は助動詞「つ」が変化した接続助詞で、活用語の連用形につく動作の従属性を示すそれであろうが、ここは「行き」を名詞化する働きがあるように思われる。さすれば「から」は恐らくは通過する地点を示す体言につく格助詞であろう。「行く途中に於いて」の意である。「行く道すがら」の「がら」と採ってもよいか。

「たかわす」「違(たが)はず」。

「儼(ゲン)として」「厳かな感じで」であるが、どうも訳がおかしいし、ここで立ち切れては意味が判らぬ原話を見ると、歩いて行くうちに、夢の中で聴いたのと同じ、有り難い厳かな「梵音」のようなものが聴こえて来たので、それを目安に道を辿って、尋ねて行ったところが……あらマッちゃん、出ベソの宙返り! それは僧の声明なんかなじゃあなかった! 忌まわしい蛙(ぎゃわず)の鳴き声だったではないか! と続いてこそ! である。]
 

老媼茶話 廣五行記(病原の妖魚・瘧を噛み殺した絵の獅子)

 

      廣五行記

 

 唐(もろこし)に僧あり。膈噎(カクイツ)の病(やまひ)を愁(うれへ)、すへて食をくたさす、數年にして命をはらむとす。其弟子に告(つげ)て曰、

「我(わが)氣、絶(たえ)て後(のち)、吾(わが)むねをさき、のんどをひらき見よ。いつれの物か、病となりたる。其根本をたゝせよ。」

と云(いひ)て、終(つひ)に死せり。

 弟子、則(すなはち)、むねをさきひらくに、一物を得たり。

 形、魚に似て、兩の頭あり。遍體(へんたい)ことことく、是(これ)、肉鱗(にくりん)なり。

 鉢のうちに入るゝに、おとりて止(し)す。諸味の食を致すに、くろふと見へすして、須臾(しゆゆ)に化して水と成(なる)。

 又、もろもろの毒藥を入るゝに、皆、消(きえ)て水となる。

 時、夏の中、藍(アイ)の熟したるを、水にもみ出し、靛(テイ)となして、少し鉢の中へ傾入(いれ)たるに、此むし、大きにおそれて、鉢のうちを走り𢌞り、しはらくの内に、化して、水となる。

 是より、世に傳えて、靛水(ていすい)を以て噎(カツ)を治すといへり。

 

 唐土(もろこし)に、おこりを煩ふ人、年を越(こえ)ておちす。いろいろと百針(ひやくしん)すれとも、しるしなし。

 其頃、顧光寶(ココウホウ)といふ、當時、無雙(ぶさう)の繪師、獅子をゑ書(かき)て、戸外に、かけおく。

 其夜、戸外、さわかしき物音、あり。

 夜明(よあけ)てみれは、繪かく所のしゝの口中およひ胸板(むないた)、皆、血に染(そ)み、戸外にも爰(ここ)かしこに、血、あり。

 おこりわつらふ人、病、すなわち、いへたり。

 

[やぶちゃん注:二部に分かれるので、一行空けた。

「廣五行記」明の李時珍の博物書「本草綱目」にも引用されるが、佚書。「太平廣記」の「醫三」に「廣五行記」を出典として「絳州僧」(こうしゅうそう)で前半が以下のように載る。

   *

永徽中、絳州有一僧病噎、都不下食。如此數年、臨命終、告其弟子云。吾氣絶之後、便可開吾胸喉、視有何物、欲知其根本。言終而卒。弟子依其言開視、胸中得一物、形似魚而有兩頭、遍體悉是肉鱗。弟子致鉢中。跳躍不止。戲以諸味致鉢中。雖不見食、須臾、悉化成水。又以諸毒藥内之、皆隨銷化。時夏中藍熟。寺衆於水次作靛。有一僧往。因以少靛致鉢中。此蟲恇懼。遶鉢馳走。須臾化成水。世傳以靛水療噎疾。

   *

後半の話は同じく「太平廣記」の「畫一」に「顧光寳」として以下のように見出せるが、これはそこでは「八朝畫錄」(或いは「八朝窮怪錄」)を出典としている。

   *

顧光寶能畫。建康有陸、患瘧經年。醫療皆無効。光寶常詣引見於臥前。謂光曰。我患此疾久、不得療矣、君知否。光寶不知患、謂曰。卿患此、深是不知。若聞、安至伏室。遂命筆、以墨圖一獅子、令於外牓之。謂曰。此出手便靈異、可虔誠啓心至禱、明日當有驗。命張外、遣家人焚香拜之。已而是夕中夜、外有窣之聲、良久、乃不聞。明日、所畫獅子、口中臆前、有血淋漓、及於外皆點焉。病乃愈、時人異之。

   *

「膈噎(カクイツ)」漢方では「噎」は「食物が喉を下りにくい症状」を指し、「膈」は「飲食物を嚥下出来ないこと」「一度は喉を通っても後で再び嘔吐する症状」を指す。精神的な嚥下不能から喉の炎症、アカラシア(achalasia:食道アカラシア。食道の機能障害の一種で、食道噴門部の開閉障害若しくは食道蠕動運動の障害或いはその両方によって飲食物の食道通過が困難となる疾患)や咽頭ポリープによるもの、更には食道狭窄症や逆流性食道炎、重いものでは咽頭癌・食道癌や噴門部癌や胃癌も含まれると思われる。

「すへて食をくたさす」「總(すべ)て食を下(くだ)さず」。あらゆる食物を嚥下することが出来ず。恐らくは悪性の食道癌と思われる。食道癌と診断された人は診断時点で七十四%の患者が嚥下困難を訴え、十四%の人に嚥下痛がある。食道癌は現在でも消化器系癌の中では予後が極めて悪い(これはリンパ節転移が多いことと、食道が他の消化器系臓器と異なり、漿膜(外膜)を有していないために周囲に浸潤しやすいことによるとされる)。食道癌全体の五年生存率は現在でも十四%ほどである。以上はウィキの「食道癌」に拠った。

「我(わが)氣、絶(たえ)て後(のち)」この「氣」は生気で、気絶や仮死状態ではない、完全に絶命したと断定出来る状態を指している。

「むねをさき」「胸を裂き」。

「のんど」「喉(のんど)」。

「ひらき」「開き」。

「いつれの物か病(やまひ)となりたる」「か」は疑問の係助詞(「たる」で係り結び。僧の強い思いから言えば、ここは句点ではなく、下に続く読点としたいが、それでは結びにならないので、涙を呑んで底本通りの句点とした)。孰(いづ)れの物がこの宿痾の原因であったものか。

「たゝせよ」「糺(ただ)せよ」。

「遍體(へんたい)」全身。

「ことことく」「悉(ことごと)く」。

「肉鱗(にくりん)」肉芽で出来た鱗(うろこ)。形状はまさに実際の進行した癌の感じに酷似しているのが不気味である。

「おとりて」「躍りて」。踊り入って。

「止(し)す」魚の形をしているくせに、泳ぐことなく、鉢の中で凝っとして動かずに静止しているのであろう。鉢底か、鉢の中央かは判らぬが、映像的には後者がよい。

「諸味の食を致すに」いろいろな種類の餌を試みに与えて見たが。

「くろふと見へすして」「喰(くろ)ふと見えずして」。摂餌する様子は全く見せない。ところが! と後に続く。

「須臾(しゆゆ)に」僅かの間に。

「もろもろの毒藥を入るゝに、皆、消(きえ)て水となる」そう現認出来るからには、透明でない色つきの毒物を複数、試みたのであろう。

「夏の中、藍(アイ)の熟したるを、水にもみ出し、靛(テイ)となして」タデ目タデ科イヌタデ属アイ Persicaria tinctoria から染料を製する手法で、その完成した染料を濃い藍色の顔料を中国で「靛(テイ)」と称する。所謂、暗青色の染料インジゴ(Indigo)である。ウィキの「アイ(植物)」によれば、本邦へは草体としての「アイ」は六『世紀頃に中国から伝わり、藍色の染料を採る為に広く栽培された』。『藍染めは奈良時代から続く歴史があり、藍による染色を愛好する人もいる。海外では“Japan Blue”、藍色を指して“Hiroshige Blue”と呼ばれることもある。染色には生葉染め、乾燥葉染め、すくも染めがある。生葉染めには、最も古い方法である布に生葉をそのまま叩きつけて染める叩き染めか、すり潰した汁で染める方法があるが、濃く染まらない、葉が新鮮なうちでなければ染色できない(インジカンがインジゴに変化して利用できなくなるため)といった欠点がある』。『乾燥葉染めは、アイ葉を乾燥させたものを用いる方法。そのままでは色素が繊維に沈着しないので、還元反応を行って色素の沈着ができるようにしなければならない。生葉に比べて無駄なく染色でき、時期もあまり選ばない』。『すくも染めは、乾燥したアイ葉を室のなかで数ヶ月かけて醗酵させて』「すくも」と呼ぶもの『を造り、更にそれを搗き固めて藍玉を作り、これを利用する方法である。生産に高度な技術と手間を必要とするため、現在では徳島以外で日本産のすくもを見ることはほぼない。染色には、藍玉(すくも)を水甕で醗酵させてから行う(醗酵すると水面にできる藍色の泡を「藍の華」と呼び、これが染色可能な合図になる)ので、夏の暑い時期が最適である。すくもの利点は、いつでも醗酵させて染色できること、染料の保存が楽なこと、木綿にも濃く染められることなどが挙げられる』とある(下線やぶちゃん)。この本文では「夏の中、藍(アイ)の熟したるを、水にもみ出し」とあるから、二番目の「乾燥葉染め」か「すくも染め」であろうが、「熟す」というのは発酵に最もふさわしいし、季節も「夏の中」(夏真っ盛り)で、まさにその「藍玉」を「水に」揉(も)「み出し」て藍の顔料を溶かした水を作ってそれを試してみたのだと読むなら、その製造過程もすこぶる鮮やかで映像的に映える

「傳えて」ママ。

「靛水(ていすい)」「靛」を溶かしこんだ水。

「噎(カツ)」読みはママ。この字の音は「イツ」(但し、慣用音)以外には「エチ」(呉音)「エツ」(漢音)があるが、「カツ」はない。先に「膈噎(カクイツ)」で正しくルビしているから、原作者はその「カクイツ」を誤って頭の「カ」と後の「ツ」を繫げてしまったもののように私には思われる。

「おこり」「瘧(おこり)」。音は「ギヤク(ギャク)」。数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫 Plasmodium sp. で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカ Anopheles sp. 類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum・三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax・四日熱マラリア原虫 Plasmodium malariae・卵形マラリア原虫 Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

「おちす」「落ちず」。病気が治らないことをかく言う。

「百針(ひやくしん)」いろいろな経絡に鍼(はり)治療を施すこと。ウィキの「によれば、鍼術(しんじゅつ)は元は石器時代の古代中国において既に発明されたとする。『砭石(へんせき)もしくは石鍼(いしばり、石針とも書く)とよばれるこの鍼の元は主に膿などを破って出すのに使われた。これが後に動物の骨を用いて作られた骨針、竹でできた竹針(箴)、陶器の破片でできた陶針などになっていった。現在使われる金属の鍼は戦国時代頃に作られ始めたといわれる。この鍼が黄河文明で発展した経絡の概念や臓腑学(ぞうふがく)、陰陽論(いんようろん)などと結びついて鍼治療が確立していく。黄帝内経(こうていだいけい)と呼ばれる最古の中医学理論のテキストの中に、当時使われていた鍼を特徴で』九『つに分類した古代九鍼が紹介されている』とある。

「顧光寶(ココウホウ)」不詳。

「ゑ書(かき)て」「繪畫きて」。描いて。

「かけおく」「掛け置く」。

「さわかしき」「騷(さはがし)き」。

「すなわち」ママ。

「いへたり」ママ。]

老媼茶話 聞奇錄(項から龍)



     聞奇錄

 

 もろこしの金州に水陸院といふ寺あり。文淨といふ僧あり。夏の頃雨ふりたるに、雨たれ、落(おち)て、文淨かうなしに、かゝる。其跡、終(つひ)にかさに成(なり)て、年經て、愈(いえ)す。漸々に、はれて、大なる桃のことし。文、五月に及(および)、雨、ふり、大雷(だいらい)なりて、はれたる處、俄(にはか)に穴に成て、甚(はなはだ)いたみ出(いで)たり。人にみせしむるに、その穴のうちに、一物あり。わたかまれる龍のかたち、陰々として動(うごき)、晝夜、甚、いためり。日を經て、また、雨ふり、雷鳴りて、庭中に落たり。黑雲、其室に入(いる)。項(ウナシ)の穴より、もの、あり、脱(ぬけ)いてゝ、雲にのり、そらへ、のほり去る。白龍のかたち、長さ弐丈斗(ばかり)に見へ、是より、文淨かうなし、いたみ、止(やむ)。穴も又、平ふくして痕(アト)なし。

 

[やぶちゃん注:「聞奇錄」于逖(うてき)撰になる唐代伝奇の一つ。一巻。以上は「太平廣記」の「雷二」に「聞奇錄」を出典として「僧文淨」で載る。

   *

唐金州水陸院僧文淨、因夏屋漏、滴於腦、遂作小瘡。經年、若一大桃。來五月後、因雷雨霆震、穴其贅。文淨睡中不覺、寤後唯贅痛。遣人視之、如刀割、有物隱處、乃蟠龍之狀也。

   *

「金州」複数ある古い地方名であるが、恐らくは現在の西安の南方近くの、陝西省安康市一帯と思われる。(グーグル・マップ・データ)。

「雨たれ」「雨だれ」。

「文淨かうなしに」「文淨が項(うなじ)に」。

「かさ」「瘡」。この場合は腫れ物。

「愈(いえ)す」「癒えず」。

「はれて」「脹れて」。

「五月に及(および)」とある年の五月のこと。

「はれたる處」その項の「脹れたる」ところが。

「俄(にはか)に穴に成て」急に陥没して穴が出来て。

「甚(はなはだ)いたみ出(いで)たり」今までに感じたことがない、激しい痛みが感じられた。

「わたかまれる」「蟠(わだかま)れる」。蜷局(とぐろ)を巻いた。

「陰々として」薄暗い中に妖しい感じで。

「弐丈斗(ばかり)」唐代の一丈は三・一一メートルであるから、二丈は六メートル二十二センチに相当する。

「平ふく」「平復」。平癒。]

老媼茶話 二程全書十九(人、石となる)

 

     二程全書十九

 

 伊川(いせん)の曰、「それかし、南中にありし時に、きけり。石をとる人、有(あり)。石、落(おち)て、つひに、石中にあり。幸に、死せす。うゆること甚し。たゝ、石膏をとつて、是を、くろふ。幾としといふ事をしらす。のちに、別人の復(また)來つて、石をとるあり。此人の、石中にあるを見て、是を引出(ひきいだ)し、漸(やうやう)、身の硬(コハキ)を覺ゆ。はつかに、いてゝ、身の風にあたる、則(すなはち)、化して、石になれり」。

 

[やぶちゃん注:「二程全書」北宋の思想家程顥(ていこう:号を「明道」と称した)と程頤(ていい:号を「伊川」と称した)兄弟(この二人をして「二程子」と称した)の全集。朱熹(しゅき)が編纂した「程氏遺書」(二程子の語録集)・「外書」(「程氏遺書」の補遺)に,「明道文集」・「伊川文集」・「伊川易伝」・「経説」・「粋言」を合刻して刊行したもの。明代以来、数種の刊本が出されたが、清の呂留良(晩村)のものが最良とされる。和刻本は明の徐必達の刊本を翻刻したものであるが、本邦では二程子の言葉を部門別に再編成した明の唐伯元編の「二程類語」がよく読まれた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「南中」現在の雲南省周辺で、古くは南方のミャンマー北部をも含んだ地方名。

「石中にあり」大きな落石があり、一緒に落ちたが、石の有意な隙間に落ちてその上に、岩石が積み重なって、埋まったものの、死ぬことはなく、そこで何年(「幾とし」)も生きていたというのである。

「うゆる」「餓ゆる」。

「くろふ」「喰らふ」。

「身の硬(コハキ)を覺ゆ」救い出されて地上に出ると、直に自分の体が硬くなってゆくのを覚えた。というか、救い出してくれた者にそう告げたのである。

「はつかに」僅かの間に。

「いてゝ」「凍てて」。水が凍るように固まっしまいて。

「身の風にあたる、」底本は読点ではなく、句点であるが、ここは「身の風にあたる」「やいないや」の意味であるから、私は読点とすべきであると思う。地下の世界から出て、大気の象徴たる風が身に当たるや。

「則(すなはち)」即座に。]

老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)

 

     茅亭客話

 

 虎、酒に醉たる人を傷(やぶ)らす。

 この頃、ひとりの村夫、有。市に出て醉(ゑひ)て歸るとて、きしに望みて醉(ゑひ)ふしたり。虎あり、來つて、是をかぐ。とらの髭、たまたま、醉てふしたるものゝはなのうちへ入る。醉(ゑふ)者、大きに噴嚔(フンテイ/クサメ)す。虎、思ひかけされは、おとろきて、ふみはつし、岸より落(おち)て死ゝけり、となり。

 

[やぶちゃん注:「茅亭客話」(ぼうていかくわ)は、黄休復なる人物が、五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもので、全十巻。以上は、同書の巻八の掉尾にある以下の「李吹口」の最後の部分(下線太字で示した)である。

   *

永康軍太平興國中虎暴失蹤、誤入市。市人千餘叫譟逐之。虎爲人逼弭耳、矚目而坐、或一怒則跳身咆哮。市人皆顛沛。長吏追善捕獵者。李吹口失其名、衆雲李吹口至矣、虎聞忙然竄入市屋下匿身。李遂以戟刺之、仍以短刃刺虎心、前取血升餘、飲之。休復雍熙二年成都遇李、因問、「向來飲虎血何也。」。李云、「飮其血以壯吾誌也。」。又云、「虎有威、如乙字、長三寸許、在脅兩傍皮下。取得佩之、臨官而能威衆、無官、佩之無憎疾者。凡虎視隻以一目放光、一目看物。獵人捕得、記其頭藉之處、須至月黑、掘之尺餘、方得如石子色琥珀狀、此是虎目精魄、淪入地而成。「琥珀」之稱因此、主療小兒驚癇之疾。凡虎鬚拔得者將劄牙、無復疼痛。凡虎傷者、人衣服器杖乃至巾鞋皆摺疊置於地上、倮而復僵。蓋虎能役使所殺者人魂也。凡爲虎傷死及溺水死者、魂曰倀鬼。凡月暈虎必交也。凡虎食狗必醉。狗、虎之酒也。凡虎不傷醉人頭。有一村夫入市醉歸、臨崖而睡、有虎來嗅之、虎鬚偶入醉者鼻中、醉者大噴啑、其聲且震、虎驚躍落崖而斃。此事皆聞李吹口者。

 

この直前部、「犬を喰らうと虎は必ず酔う。犬は、虎にとっての酒である」とあるのが面白い。

「傷(やぶ)らす」「傷らず」で、傷つけることはない、の意である。原文を見よ。]

 

老媼茶話 酉陽雜俎曰(ナゾの殺人生物出現!)

 

     酉陽雜俎曰

 

 溫會(ヲンクハイ)といふ人、江州(がうしう)にありし時、客とつれて漁子(アマ)の水に入(いり)て魚をとるを見るに、壹人の漁子(アマ)、忽(たちまち)に岸にのほり、くるひ走る。溫會、是をとふに、但(タヽ)、手をかへして、背中にゆひさして、物言(ものいふ)事、あたはす。漁者のせなか、黑し。細細(こまこま)是をみれは、背中に物ありて、取(とり)つく。色(イロ)、黃(クチ)葉のことく、大(おほい)さは壹尺餘ありて、其上に、あまねく、眼あり。かみ入りて、とるに、はなれす。溫、是をやかしむ。燒落(やきおと)すをみれは、一眼の裏ことに、嘴(ハシ)あり、針のことく、刺(サシ)入(いり)けり。漁子、血を出す事、數升にして死す。何蟲といふ事を識るものなし。

 

[やぶちゃん注:短文ながら、個人的に非常に惹かれる話である(私は有毒・危険動物のフリークで、その方面の十数冊の学術的専門書も所持している)。この奇怪な人を死に至らせる危険生物は、

・淡水産生物である(「江州」(後注参照)というロケーションから)。但し、動物か植物か藻類かは不明である。

・それは単体の群体らしい生物である。

・体色は単体はくすんで黄色であるが、離れて見ると、群体は全体に黒く見える。但し、原文は「漁者色黑」で、これは漁師は肌の色が黒かったで、日焼けした漁師の肌色全体を指しているように見え、寧ろ、そこにその奇怪生物の朽ち葉色の暗い黄色が目立った、と読むのが正しいようにも思われる

・その大きさ(張り付いた生物の長径であろう)は一尺余りであった。唐代(「酉陽雑俎」は唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる志怪録)の一尺は三十一・一センチメートルである。

・表面には無数の眼のように見える付属器がある。これを私は取り敢えず、この生物群体の「単体」の器官或いは組織と見る

・漁師の背中に張り付いて人力を以ってしても剝すことが出来なかった。そこで、火(薪(たきぎ)であろう)をもって、張り付いた外側を焼いたところ、剥がれ落ちた。

・剥離したその生物群体の裏側(漁師の背中に張り付いた側)を見ると、先の眼様器官の一つずつの裏に対応して、一本ずつ、釘の様な(三坂は「針の如く」と書いているが、後に示した原典には、もっと太い動物の「觜」(ハシ/くちばし)の如き「釘」のようなものとあるのである)器官が付随していて、それが漁師の背中に非常に深く噛み付くように刺さっていたことが判った。後でこの被害者は二升という多量出血(但し、唐代の一升は〇・五九四四リットルしかないので、三升で一・七八、六升三・五六リットルである。それでも一升瓶一、二本に相当する)しているから、この針の数にもよるものの、刺さった深さは剝し得なかったことからみても、人体表皮の数ミリどころではなく、一センチ以上で、真皮や血管まで突き通していたと読むべきである。剝し得なかったことから、その釘状の器官はただ尖った針釘状のものではなく、鉤(かぎ)状にカエシを持っていたことが深く疑われる

・被害者の漁師は、その多量出血直後に亡くなった。ネット情報を見ると、例えば、体重六十キロの人の場合、約五リットルが全体の血液量となり、出血性ショックに陥るのは一リットルを超えたぐらいが目安となり、命に危険が及ぶ量は一・六リットルを超えたぐらいからとされるから、まずは、この漁師は時代と職業から見て体重は五十キロ前後と推定され、その「數升」という出血量を過少に見積もっても、一般的出血危険量を遙かに越えており、漁師の死因は大量出血死と考えるのが妥当であろう。但し、この生物が有毒物質をその針を以って人体に注入した可能性も充分に考え得ることではある。

・それが何という名の虫かは、現地の人間も誰も知らない。ということは、現地の人間もその奇怪生物をその時、初めて見たということになる。

 

この生物は一体、何だろう?

正直、該当しそうな淡水産生物は存在しないと私は思う。

ただ、一読、「形状はあれが潰れたみたいなもんに近かろうな」と思った動物はある。苔虫(コケムシ)の一種、

外肛動物門掩喉(えんこう)(苔虫)綱掩喉目ヒメテンコケムシ科オオマリコケムシ属オオマリコケムシ Pectinatella magnifica

である。多分、御存じない方が多いであろうから、ウィキの「オオマリコケムシを引いておく。下線は私が引いた。それはこの「酉陽雜俎」の奇怪生物の属性に似た部分があるという意味で引いた。『池や沼などの淡水域に棲み、寒天質を分泌して巨大な群体を形成する』。『アメリカ合衆国ペンシルベニア州のフィラデルフィア郊外で発見・記載された北アメリカ東部原産の生物で』、一九〇〇『年頃に中央ヨーロッパに持ち込まれた。日本では』一九七二『年に山梨県の河口湖で発見されて以来』、翌一九七三年には『同県精進湖でも多数の群体が出現、その後外来種として分布を広げている』。『現在では日本各地の湖沼で普通に見られる。奇妙で大きな外見から、度々話題になることがある』。『オオマリコケムシは群体を形成して肉眼的な大きさになる生物であるが、これを構成する個虫は非常に小さい。時に小型で分散性の休芽が作られて群体から放出され、これが悪条件への耐久や分布を広げる役目を担う。群体の表面には特徴的な多角形の模様が見られ、この模様と群体の形状が手まりを思わせることから「オオマリコケムシ」の名が付いた』。『群体中の個虫は体腔を共有するとともに細胞外に寒天質を分泌してこれに埋没する。個虫が寒天質を分泌しながら水草や岩に付着して増殖するために群体という形をとるものと考えられている』。『群体は球形から分厚い円盤状の形をしており、内部には寒天質が詰まり、表面に個虫が並んでいる。発達すると群体塊は房状に増殖して一畳にも達する大きさになる。長さでは』二・八メートル『に達したという報告もある』。『大きな群体塊となると付着物から離れていったん沈むが寒天質中にガスが溜ってやがて浮遊してくる』。『群体は夏から晩秋にかけて、』一ヶ月で『倍増するほどの速度で成長するが、冬季には低温によって表面の個虫が死滅し、ただの寒天質の塊になってしまう』。『オオマリコケムシの越冬は後述する休芽の状態で行われる』。『個虫のポリプ体(虫体、polypide)は体長』一・五ミリメートル『ほどで、肉眼では寒天(ポリプ体と区別して虫室(zooecium)とも呼ばれる)塊表面の黒色の点として認識できる』。『虫体は群体の外側へ向けて馬蹄形の触手冠を持ち、その中央に口がある。消化管はU字型をしており、肛門は触手冠の外側に開口する』。『摂食の様式は濾過摂食であり、水中の微生物やデトリタスをこの触手冠で濾し取って食べる。口の側にある口上突起(epistome)の近傍には赤い色素がある』。『また、触手冠の両先端部の下面、および虫体と寒天質が接する部分の肛門側には、上皮線からの分泌物の乳白色の塊がある』。『他の外肛動物と同様に循環器系は無いが、代わりに胃緒(funicles)と呼ばれる紐状の間充織のネットワークが体内を充たしている』。『オオマリコケムシは雌雄同体であり、生活環には有性生殖と無性生殖の両方が見られる』。『いずれの場合も』一『個体から新たな群体を形成する過程を含むが、そのような最初の個虫は初虫 ancestrula)と呼ばれる』。『有性生殖では体腔内の卵巣で受精が起こった後、親個虫の胚嚢(表皮直下の空嚢)の中で幼生の胚発生が進行する。幼生はほぼ発生が完了してから親個虫の外に放出される』。『幼生は繊毛によって遊泳し、適当な基物に着生して初虫となる』。『オオマリコケムシの無性生殖は二通りある。一つは群体中の個虫が増殖する際の出芽である。前述の有性生殖によって独立した幼生は、着生後に出芽を繰り返して個体数を増やし、群体を形成してゆく』。『もう一つの無性生殖は休芽(スタトブラスト、statoblast)と呼ばれる耐久性の構造を経るものである。休芽は発生初期の段階の個虫が強靭なキチン質の殻に包まれたもので、この状態で低温や(ある程度の)乾燥といった環境ストレスに耐える。休芽は丸みを帯びたいびつな多角形で、直径は約』一ミリメートル『(突起含まず)である。休芽は丈夫な殻に覆われており、この殻には錨型の棘が十数本ある』。『休芽は個虫の胃緒で無性的に形成され、完成すると寒天質を周囲にまとって放出される。この寒天質は放出後数週間持続するが後に消滅する。

休芽は温度や光条件により発芽する』。『休眠状態の発芽は低温に晒されると静止状態に移行し、その後適温』(摂氏十七~二十五度)『になると発芽する』。『この仕組みにより、オオマリコケムシは群体の生育に適した春期に発芽することができる。適温に置かれた休芽は、一日目に細胞層の陥入によって消化管の形成が始まる』。二『日目にはU字型の消化管の形成が完了し、触手冠の原基も作られる』三~四『日目には虫体がほぼ完成』し、五『日ほどで初虫となる個体が殻からハッチ』(hatch:孵る・孵化する)『してくる』。『琵琶湖や霞ヶ浦、雄蛇ヶ池など、日本各地の湖沼で時々』、『大発生する。水質が悪化した水域で多く見られる傾向がある。積極的に害をおよぼす例は知られていないが、取水口などに詰まって取水の物理的な障害となる場合がある』。『また本種の分布域拡大とともに、同じ生態的地位を占める在来種であるカンテンコケムシ』(オオマリコケムシ属カンテンコケムシ Pectinatella gelatinosa:無色透明の寒天質の中に塊状の群体をつくる。群体は普通長径 一・五~二センチメートルの楕円形を成し、個虫は共通した体腔内に並ぶ。一個虫には七十本から百本に及ぶ触手がある。休芽は暗褐色で直径一・三ミリメートル内外の円形を呈し、周縁には非常に小さな錨形の鉤が並んでいる。若い群体は移動する性質を持ち、関東地方以西の池沼・用水池に棲息しており、ときに大発生することがある。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『やヒメテンコケムシ』(ヒメテンコケムシ属ヒメテンコケムシ Lophopodella carteri 。日本各地の池沼などに見られる。塊状の長径一・五センチメートルほどの薄い外皮に包まれた群体を形成する。個虫は共通の体腔内にあって、馬蹄形の総担を持ち、その上に七十本から八十本の触手をもつ。長さ一ミリメートル内外の楕円形で両端に棘のある暗褐色の休芽を形成する。休芽は乾燥すると水に浮び,水鳥などによって運ばれる。ここも同じく「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『が減少しており、これらの生物の脅威となっていると考えられている』。『食べても毒はないが、ふつうオオマリコケムシは食用にはならない』とある。グーグル画像検索「Pectinatella magnificaをリンクさせておく。ブニュブニュ系が苦手な人は見ない方がよいとは思う。中国にこの淡水産のコケムシ類が棲息しているかどうかは分らぬが、いないはずはない。但し、言わずもがな、これらは人間の皮膚に刺さって出血を起こさせたり、毒を注入したりする生物ではないしかし、この叙述形状は私は淡水産のコメムシ類の群体にかなり似ていると思う。特に群体の個虫を「眼」と比喩するのは私にはよく納得出来るのである。

 三坂が訳したのは、「酉陽雜俎」の「卷十七 廣動植之二」にある以下である。

   *

異蟲 溫會在江州、與賓客看打魚。漁子一人、忽上岸狂走。溫問之、但反手指背、不能語。漁者色黑、細視之、有物如黃葉、大尺餘、眼遍其上、齧不可取、溫令燒之落。每對一眼、底有觜如釘、漁子出血數升而死、莫有識者。

   *

「江州」は現在の中華人民共和国江西省北部にある九江(きゅうこう)市の古称。(グーグル・マップ・データ)。]

老媼茶話 潜確居類書曰(布団の下の阿房宮賦を詠ずる声)

 

     潛確居類書曰

 

 揚州の蘇陰といふ人、夜日、ふして聞(きく)は、我被(フスマ)の下にて數人有(ありて、ひとしく阿房宮の賦をとなうる聲、甚た急に、ほそし。被(フスマ)をひらいて是をみれは、化(け)の物、なし。只、蝨(シラミ)數拾(すうじふ)を得たり。其大(おほい)豆のことし。是を殺して、其後(そののち)に聲を、きかす。

 

[やぶちゃん注:この話、私は一読、怪異ではなく、偏愛する絵巻「病草紙」の、精神病の一種か、熱性マラリアによる幻覚かと思われる〈小法師の幻覚を見る男〉を思い出した。同図の添書きを示す(句読点を附した)。

   *

なかごろ、持病もちたるおとこ、ありけり。やまひ、おこらむとては、たけ四、五寸ばかりある法師の、かみきぬきたる、あまたつれだちて、まくらにあり、と、みえけり。

   *

この蘇陰なる人物もそうした病者ではなかったか? 「夜」だけでなく、昼間も寝ていることがあるという意味かと思われる「日夜」にそれを強く感じた。

「潜確居類書」「潛確類書」とも。明代の学者陳仁錫(ちんじんしゃく 一五八一年~一六三六年)が編纂した類書(百科事典)。但し、中文サイトで多様な検索を試みたが、同書内には当該文を見出せなかった。しかし、「中國哲學書電子化計劃」で「仙雜記」なる書の「卷七」中に、「淸異志」からの引用として、

   *

虱念阿房宮賦揚州蘇隱、夜臥、聞被下有數人齋念「阿房宮賦」、聲緊而小。急開被、視之無他物。惟得虱十餘、其大如豆、殺之卽止。

   *

を見出せた。「雲仙雜記」は唐の馮贄(ひょうし)撰。「淸異志」は不詳。唐から五代にかけての小説集で陶穀の撰になる「淸異錄」のことかと思ったが、違う。識者の御教授を乞う。

「夜日、ふして」「夜日」読み不詳。「やじつ」か「よるひる」と「日」に当て訓するか。「夜を日に継ぐ」の謂いで、昼夜の別なく、橫になると必ず、の謂いではあろう。

「被(フスマ)」「衾(ふすま)」。夜具。蒲団。ここは敷布団。

「阿房宮の賦」晩唐の名詩人杜牧(八〇三年~八五三年)の名作。原田俊介氏のサイトのこちらに原文及び阿房宮(始皇帝が建てようとした大宮殿で、咸陽の東南、渭河を越えた現在の陝西省西安市西方の阿房村に遺跡が残る。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡によって未完のままに終わった)の解説(ウィキの「宮」への嵌め込みリンク。前の解説もそれを用いた)や現代語訳もある。

「甚た急に、ほそし」「甚だ急に(にして)細し」。非常に速い調子で詠み、しかも非常に小さな声である。]

2017/09/23

老媼茶話 宣室志(柳将軍)

 

      宣室志

 

 東洛に故宅あり。むなしく鎖(トサ)して年久し。

 唐の貞元年中に盧處(ロシヨ)ぬきんせられて御史(ぎよし)となる。是によつて、その故宅を資て住(ぢゆう)せんとす。

 或人の曰、

「此宅は怪物有(あり)て、住(すむ)事、あたわす。故に久敷(ひさしく)空閑荒廢の宅となれり。」

盧かいわく、

「吾よく是を弭(ヲサメム)。」

とて、一夕(いつせき)、盧處と從吏と、只、弐人、其堂に、いねたり。

 僕にめいして、堅く鎖して人の出入をとゝむ。

 從吏は武勇にして能(よく)弓をゐる。則(すなはち)、矢を執(とり)て軒ちかく座す。

 夜半、門をたゝくものあり。從吏とへは、

「柳將軍の使なり。書を盧侍御に奉る。」

といふて、一幅の書を軒下に投(トウ)す。

 盧處、是を見るに曰、

「吾、爰(ここ)に家たる事、とし、有(あり)。堂奧軒級(トウオクケンキウ)、皆、我(わが)居(きよ)なり。門の神戸(しんと)の靈は、皆、我(わが)隷(ヤスコ)なり。しかるに君、我(わが)室に突入(トツニウ)する事、豈(あに)其理あらん哉(や)。よろしくすみやかに去るへし。はつかしめをまねく事、なかれ。」

と讀(よみ)おはれは、其書、ひらひらとして、よもにくだけちりたり。

 又、聞(きく)に、柳將軍、來り、

「盧御史にまみゑん。」

と。

 身の長(たけ)數丈にして庭上(ていじやう)に立(たちて)て、手に一瓢(いつへう)を握る。

 從吏、則引ためて放

 手に持(もち)たるふくべに當る。

 則しりそき去り、又、來りて軒に附(つき)て首をうつふして、堂を伺ふ。

 其かたち、はなはた異相なり。

 又、是を射るに、其むねにあたる。

 退き去りぬ。

 盧處、其跡をきわむるに、ひかしの空地に至りて、柳の樹の高百餘丈なるに、矢の、其上を射てつらぬきて、あり。

 これ、所謂、柳將軍なり。是より恙(つつが)なかりしと也。

 

[やぶちゃん注:「宣室志」(唐の張読の撰になる伝奇小説集。もとは十巻あったと考えられるが、散逸し、後代の幾つかの作品に引用されて残る)の「第五巻」に「盧虔」(ロケン)(本条の「盧處」は誤り)として載る

   *

東洛有故宅、其堂奧軒級甚宏特、然居者多暴死、是以空而鍵之且久。

故右散騎常侍萬陽盧虔、貞元中、爲御史分察東臺、常欲貿其宅而止焉。或曰、「此宅有怪、不可居。」。虔曰、「吾自能弭之。」

後一夕、虔與從吏同寢其堂、命僕使盡止於門外。從吏勇悍善射、於是執弓矢坐前軒下。夜將深、聞有叩門者、從吏即問之、應聲曰、「柳將軍遣奉書於盧侍御。」。虔不應。已而投一幅書軒下、字似濡筆而書者、點畫纖然。虔命從吏視、其字云、「吾家於此有年矣。堂奧軒級、皆吾之居也。門神、皆吾之隸也。而君突入吾舍、豈其理耶。假令君有舍、吾入之可乎。既不懼吾、甯不愧於心耶。君速去、匆招敗亡之辱。」。讀既畢、其書飄然四散、若飛燼之狀。俄又聞有言者、「柳將軍願見盧御史。」。已而有大厲至、身長數十尋、立庭、手執一瓢。其從吏卽引滿而發、中所執。其厲遂退、委其瓢。久之又來、俯軒而立、挽其首且窺焉、貌甚異。從吏又射之、中其胸。厲驚、若有懼、遂東向而去。

至明、虔命窮其跡、至宅東隙地、見柳高百餘尺、有一矢貫其上、所謂柳將軍也。虔伐其薪。自此其宅居者無恙。後歳餘、因重構堂室、於屋瓦下得一瓢、長約丈餘、有矢貫其柄、卽將軍所執之瓢也。

   *

これも岡本綺堂が「中国怪奇小説集」の中で「柳将軍の怪」の題で訳している。「青空文庫」のこちらで読める。

「御史」監察御史。古代中国の官名。古くは君主に近侍する史官であったが、秦代以後には主として官吏の監察に当たった。

「資て」原典で判る通り、「貿」の誤り。「貿て」ならば、「かひて」で、「買ひて」となる。

「弭(ヲサメム)」この字は動詞で「止(や)める」「止む」の意。「その怪を止めさせよう」の意。

「侍御」皇帝に直接仕える高官の尊称。

「とし、有(あり)」「とし」は「年」で、年久しい、の意。

「堂奧軒級(トウオクケンキウ)」歴史的仮名遣では「ダウアウケンキフ」が正しい。家屋の奥まったところ(一般に主人の妻及び二人の閨房)や軒廂(のきびさし)や階段に至るまで屋敷内総ての意。

「門の神戸(しんと)の靈」中国の仏教寺院や道教道観だけでなく、一般住宅などの建物の入口に立ち、門番の役目をするとされた門神(もんしん)。参照したウィキの「によれば、『検閲を司り、悪鬼から門を守るとの伝えから春節に中国各地の門戸に貼られる』。『観音開きの木戸が多いため、左右の扉の外に面した側に一対の門神が貼られる、または描かれるのが普通。中国においては、民間伝説としてよく知られている秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)が対で描かれるか、一枚扉の場合は、魏徴または鍾馗が描かれることが多い』。『門神の歴史は古く、前身は「桃符」または「桃板」と呼ばれる木であった。古代中国において桃木は「五木の精」であり、邪気を避けることができると考えられた。このため、漢代には、魔除けとして飾ることが始まった。桃木には文字や模様を刻む場合もあり、これが対聯や年画の原型となった』。『南北朝時代以降、紙が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。神荼と鬱塁を描いて貼ることが流行した。梁(南朝)の宗懍の『荊楚歳時記』には、元日に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。唐代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた』とある。

「隷(ヤスコ)」「隷」は下級の召使いであるから、判るが、ルビの「ヤスコ」は不詳。「養い子」或いは養って「増やす子」か? 識者の御教授を乞う。

「よもにくだけちりたり」「四方(よも)に碎け散りたり」。

「數丈」唐代の一丈は三・一一メートル。再来襲した際、「軒に附(つき)て首をうつふして堂を伺ふ」とあり、正体の柳の樹も「百餘丈」もある(これは誇張に過ぎるが)というのだから、十数メートルは有に越える巨人と読んだ方が面白い。

「ふくべ」「瓢」。

「しりそき」「退き」。

「ひかし」東。]

老媼茶話 酉陽雜俎曰(樹怪)

 

      酉陽雜俎曰

 

[やぶちゃん注:「曰」はママ。「に曰(いは)く」であるが、標題とするなら、初めから総てに附すべきであるが、この前の三条にはない。この後にも三条に附されてある。この注は以下、略す。]

 

 洛陽の臨湍(リンセン)寺の僧知通、常に法花經を誦し、座禪行道(ぎやうだう)す。好(このみ)て閑靜の地をもとむ。人跡至らさる處、年をへて、おこたらす。

 或夜、人有(あり)、庵室をめくりて、知通を呼ふ。知通、答(こたへ)て、

「我をよふは何ものそ。入來ていふべし。」

 怪物の長六尺あまりありて、面色、靑く、目を見はり、口、大にして、耳際(みみぎは)まて裂(さけ)たるか、僧の前に立(たち)て合掌す。

 知通かいわく、

「なんし、さふきや。この火につひて、身をあたゝめよ。」

といふ。

 ばけもの、座につゐて火に向ひ、一言を、ましえず。

 妖物、火に醉(ゑひ)て口をひらき、目をふさぎ、爐によりて、ふして、鼾(いびき)をかく。

 知通、則(すなはち)、香匙(ケウシ)を以て灰火(アツハイ)をあけて、口の内埋(うづ)み入(いれ)たり。

 妖物、大にさけひ起て、はしり出(いづ)るに、つまつき、倒れたる聲、あり。

 知通、そのつまつきたる處へ行てみるに、木の皮、壱片を得たり。

 是を取(とり)て、山にのほり、尋ぬるに、大なる桐の木有り。

 其木のもと、くほみて、あらたにそげたる跡あり。木の皮を附(つけ)て見るに、合(あひ)て違(たが)ひなし。

 木のこしに、きず、あり。落入たる事、六、七寸。蓋し、妖物(ばけもの)の口にして灰火(アツハイ)、其うちにあり。久しく奕(エキ)々螢(ケイ)々たり。

 知通、火を以て燒倒(やきたふ)すに、妖物なかりし、となり。

 

[やぶちゃん注:これは既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」』に出、その注で原典も紹介したのでそちらを参照されたい。なお、三坂は主人公「智通」を「知通」に誤まり、寺の名を「臨湍寺」と誤り(「臨湍」(別本では「臨瀨」)は地名であって寺の名は示されていない)、「香匙」の読みを「ケウシ」と誤っている。後者は正しくは、呉音なら「カウジ(コウジ)」、漢音なら「キヤウジ(キョウジ)」でなくてはならないなお、これも岡本綺堂が「中国怪奇小説集」の中で「怪物の口」の題で訳している。「青空文庫」のこちらで読める。

「さふきや」「寒きや」。「寒いか?」。

「つひて」「就て」。寄って。

「ましえず」「申(ま)し得ず」。

「香匙(ケウシ)」仏事に於いて香(こう)を火にくべるために掬う匙(さじ)。

「灰火(アツハイ)」暖房用の炉の中の消え残っている埋もれ火を含んだ灰炭(はいずみ)。

「奕(エキ)々螢(ケイ)々」(エキエキケイケイ)は光り輝くさま。]

老媼茶話 廣異記(山魈その2)

 

     廣異記

 

 山魈(サンセウ)は嶺南にあり。獨足(どくそく)にして、踵(キビス)、うしろに向ふ。手足ともに三ッゆひなり。天寶年中、北地の商人、嶺南に至り、山中にて、忽ち、牝(ヲンナ)山魈に逢ふ。再拜して脂粉(シフン/ベニヲシロイ)をあたふ。山魈、甚(はなはだ)よろこんて曰、

「此樹下に安寢(あんしん)せよ。われ、よく、まもらん。」

といふ。

 中夜(ちうや)に、ふたつの虎、來れり。山魈、乃(イマ)し、手を以て、虎の頭を撫(なで)て曰、

「斑子(ハンシ)去。わが客、います。」

と。ふたつの虎、耳をすへて去

 夜明けて、辭謝してわかれされり、といへり。

 山魈、其牝(ヒン/ヲンナ)は脂粉(ベニヲシロイ)を好み、其牡(ヲ)は金錢を求むといふ。

 

[やぶちゃん注:これは「廣異記」の「八」にある一塊りの「山魈」譚からの抜粋である。

   *

山魈者、嶺南所在有之。獨足反踵、手足三歧、其牝好傅脂粉。於大樹空中作窠、有木屏風帳幔、食物甚備。南人山行者、多持黃脂鈆粉及錢等以自隨。雄者謂之「山公」、必求金錢、遇雌者謂之「山姑」、必求脂粉。與者能相護。

唐天寶中、北客有嶺南山行者、多夜懼虎、欲上樹宿、忽遇雌山魈。其人素有輕齎、因下樹再拜、呼「山姑」。樹中遙問、「有何貨物。」。人以脂粉與之。甚喜、謂其人曰、「安臥無慮也。」。人宿樹下、中夜、有二虎欲至其所。山魈下樹、以手撫虎頭曰、「斑子、我客在、宜速去也。」。二虎遂去。明日辭別、謝客甚謹。其難曉者、每中與人營田、人出田及種、餘耕地種植、並是山魈。穀熟則來喚人平分、性質直、與人分、不取其多。人亦不敢取多、取多者遇天疫病。

天寶末、劉薦者爲嶺南判官。山行、忽遇山魈、呼爲「妖鬼」。山魈怒曰、「劉判官、我自遊戲、何累於君、乃爾罵我。」。遂於下樹枝上立、呼、「班子。」。有頃、虎至、令取劉判官。薦大懼、策馬而走、須臾爲虎所攫、坐下。魈乃笑曰、「劉判官、更罵我否。」。左右再拜乞命。徐曰、「可去。」。虎方捨薦。薦怖懼幾絶、扶歸、病數日方愈。薦每向人其事。

   *

「嶺南」中国南部の「五嶺」(越城嶺・都龐(とほう)嶺(掲陽嶺とも称す)・萌渚(ほうしょ)嶺・騎田嶺・大庾(だいゆ)嶺の五つの山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当し、部分的には華南とも重なっている。更に、かつて中国がベトナムの北部一帯を支配して紅河(ソンコイ河)三角州に交趾郡を置くなどしていた時期にはベトナム北部も嶺南に含まれていた。

「獨足(どくそく)」一本足。本書の「山魈」の注を参照されたい。

「踵(キビス)、うしろに向ふ」これおかしくね? 踵は後ろに向いているよ、三坂殿。ここは「踵(キビス)、前に向ふ」でしょ?

「三ッゆひ」「三つ指」。前肢(と言っても足は一本だから三肢)の指がそれぞれ三本しかないことを謂う。

「天寶」唐の玄宗の治世の後半七四二年から七五六年まで。先に出た「開元の治」の反対で、唐王朝の危機の時期。元年には玄宗お気に入りの安禄山が平盧節度使となり、三年には安禄山は范陽節度使を兼任、楊太真が玄宗の後宮に入って(因みに、この年から唐王朝は年次表記を「年」から「載」に改めている)、翌年、彼女は貴妃の位を賜って楊貴妃となっている。同十四載に安史の乱が勃発し、洛陽から玄宗以下が蒙塵し、安禄山に占拠されてしまう。翌十五載の六月に玄宗の子の粛宗が即位して、至徳と改元されている(以上はウィキの「天宝に拠った)。

「北地」華北。

「牝(ヲンナ)山魈」「ヲンナ」は「牝」の左ルビ。

「中夜(ちうや)」夜半。

「乃(イマ)し」丁度、その時、すかさず。

「「斑子(ハンシ)」虎の異名。ここは愛称のように聴こえて、何だか、すこぶる納得。

「耳をすへて」「据えて」。獣類の大人しくするさま。]

老媼茶話 述異記(山魈)

 

     述異記

 

 もろこしに王宇窮といふもの、川のなかれに蟹の落(おつ)るをとらん爲、簗(ヤナ)をつくりて、をく。あしたに行みるに材頭(サイトウ/サイモクキリカブ)壱長(たけ)弐尺はかり、是(これ)かために、簗(ヤナ)やふれて、蟹(カニ)、皆、いづ。則(すなはち)、簗をつくろひ、材頭をかたはらに捨て歸。あくるあした、往(ゆき)て見る。材頭、又、簗のうちにありて、やふるゝ事、前のことし。又、修治(ツクロイ)して、次のあした、行みるに、初めのことし。

 王宇窮、是を疑ふ。

「此(この)材頑は、何樣(いかさま)、妖(ハケ)物也。」

とおもひ、蟹のかごにとり納め、家へかへる。

「まさに割(わり)て火にやくへし。」

と。

 家ちかくに成(なり)て、籠のうち、動轉して、しつ(窣)しつの聲あり。是を見るに材頭、變して一物となる。人のおもて、猿の身也。手壱、足壱あり。

 宇窮に語て曰、

「我、うまれて蟹をこのむ。まことに水中に入り、簗を損する罪ありといへとも、今、是をゆるし、籠をひらき、我をいたさは、相むくふて、蟹を多くとらしめん。我は是(これ)、山の神なり。」

といふ。

 宇窮か曰、

「汝、山の神にてあらはあれ、前後已犯す所、壱度にあらす。つみゆるすへからす。」

 此もの、ねんころに、

「放していだすへし。」

とわびるといへとも、王宇窮、ゆるさす。

 其(その)性名をとへとも、宇窮、答へすして、家、いよいよ近つく。

 其物いはく、

「既に我をゆるさす、其性名をとへとも答へす。われ、はかり事なし。只、死につくのみ。」

 宇窮、則、家にかへりて、燒火(たきび)を以て是をやくに、寂(セキ)として、こよなる事なし。

 王宇窮、すへき樣(やう)なく、ゆるしてかへらしむといへり。

 土俗の曰、

「是、山魈(さんせう)と名つく。人の性名をしれは、能く是にあたりて、人をそこのふ。またよく蟹を喰。」

といへり。

 

[やぶちゃん注:これは「太平廣記」が「述異記」から引くとする、「鬼八」の中の以下の「富陽人」である。

   *

宋元嘉初、富陽人姓王、于窮瀆中作蟹。旦往視、見一材頭、長二尺許、在裂開、蟹出都盡、乃修治、出材岸上。明往看之、見材復在中、敗如前。王又治、再往視、所見如初。王疑此材妖異、乃取納蟹籠中、繫擔頭歸、云。至家當破燃之。未之家三里。聞中倅倅動。轉顧、見向材頭變成一物、人面猴身、一手一足、語王曰。我性嗜蟹。此寔入水破若蟹。相負已多、望君見恕。開籠出我、我是山神、當相佑助。使全大得蟹。王曰。汝犯暴人、前後非一、罪自應死。此物轉頓、請乞放、又頻問君姓名爲何、王囘顧不應答。去家轉近、物曰。既不放我、又不告我姓名、當復何計、但應就死耳。王至家、熾火焚之、後寂無復異。土俗謂之山魈、云、知人姓名、則能中傷人、所以勤問、正欲害人自免。

   *

であるが、三坂は読み違えて、姓名として「王于窮」としてしまっているが、「于」は場所を示す助字であり、「窮」は単字ではなく「窮瀆」(キュウトク)であって、川の小さな浅瀬の意であるから、主人公は、ただ「王」である。「蟹」(カイダン)は蟹を獲るための竹製の籠のこと。なお、「太平廣記」には別に「妖怪二」に「搜神記」からの引用として殆んど変わらない話を「富陽王氏」として載せている。但し、現在の「搜神記」にはこの話は載らない。なお、岡本綺堂が本話を「中国怪奇小説集」の中で「山𤢖」(さんそう)の題で訳している。「青空文庫」のこちらで読める。

「簗(ヤナ)」本邦では狭義には、川の瀬に杭などを八の字形に並べて打ち込んでおいて、水を堰き止めて一ヶ所だけを開けておき、そこに簀棚(すだな:簀子(すのこ)で出来た高くした棚)を設けて、流れてくる魚をそこで受けて捕獲する仕掛けを指すが、簀棚の代わりに竹製の筌(うけ:外側が網状になっており、漏斗状に形作った口から入ってきた魚介類を閉じこめて捕獲する漁具)を用いた筌簗(うけやな)もあり(或いは筌のみを単独でも用いる)、ここは、それ。

「材頭(サイトウ/サイモクキリカブ)」「サイトウ」が原典の右ルビ、「サイモクキリカブ」が左ルビ。以下、同じなのでこの注は略す。

「弐尺はかり」「はかり」は「許(ばか)り」。「述異記」は南朝梁の任昉(じんぼう)の撰とされる志怪小説集であるから、当時(東晋期)の一尺は二十四・二五センチメートルしかないので、四十八・五センチメートルであるから、約五十センチメートル弱。

「やふれて」「破れて」。

「しつ(窣)」「窣」は原典の「しつ」への振漢字(前と同様に以下ではこの注は略す)で、:「窣」(音「ソツ・ソチ」)は、軽いものや薄いものが触れ合う時に出る小さな音で「カサカサ・ガサガサ・サラサラ・ゴソゴソ・カサコソ」等のオノマトペイア。ここは籠が大きく転び動くのであるから、「ガザゴソ」がよかろう。

「人のおもて、猿の身也」人面にして、猿の身体(からだ)である。

「手壱ッ、足壱ッあり」手も足も一本しかないことを言う。

「我をいたさは」「我れを致さば」。この「致す」は補助動詞の丁寧語の用法か。私を(そのように許して)呉れましたならば。

「山の神にてあらはあれ」「あらはあれ」は「あらばあれ」。「山の神だろうが、何だろうが、な、この野郎!」といった怒り心頭の喝破である。

「壱度にあらす」「一度にあらず」。

「ねんころに」「懇ろに」。心を籠めて(いるよう)に丁寧に。

「放していだすへし」どうか許してお解き放ち下され。

「其(その)性名をとへとも」「その姓名を問へども」

「はかり事なし」どうしようもない。

「寂(セキ)として、こよなる事なし」「王宇窮、すへき樣(やう)なく、ゆるしてかへらしむ」「こよなる」は底本のママで、底本では「よ」の横に「と」と編者が訂正注する。「異なる事なし」である。ここは全体が三坂のトンデモ誤読であると私は思う。「太平廣記」の原典を見ると「後寂無復異」であって、これは「後、寂として復た、異(い)無し」で、岡本綺堂などは「寂(せき)としてなんの声もなかった」と同時空間的エンディングとするのであるが、どうもシークエンスのキマリ文句としては尻が落ち着かぬこれは寧ろ、志怪小説によくある、「その後は、簗の破れることもなくなり、すっかり奇異なことは起こらなくなった」と読むべきであろう。事実、明治書院の「中国古典小説選2」(二〇〇六年刊)の訳もそのようになっている。何より、「王宇窮、すへき樣(やう)なく、ゆるしてかへらしむ」というシーンは原話にもなく、三坂自身も、どうにも据わりの悪いラスト・シーン(の誤訳)に窮して、敷衍して蛇足したものと私には読めるのである。

「山魈(さんせう)」現代仮名遣では「さんしょう」。中国古代の山中に棲む一本足の妖怪の名。綺堂の訳の「山𤢖」(さんそう)とは恐らくは元は異なるのではないかと私は思うが、ウィキの「によれば、中国の古書「神異経」には、『西方の深い山の中に住んでおり、身長は約』一『丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気にかかるという。食習慣や、殺めた人間が病気になるといった特徴は、同じく中国の山精(さんせい)にも見られる』とあり、そのウィキの「を見ると、『中国河北省に伝わる妖怪』『山鬼(さんき)とも』称し、「和漢三才図会』」では『中国の文献が引用した解説が載っている。それによると、安国県(現在の中国の安国市)に山精はおり、身長は』一尺或いは三~四尺で、一本だけ『生えている足は』、『かかとの向きが前後逆についており』(本書の次条「廣異記」を参照)、『山で働く人々から塩を盗んだり、カニやカエルをよく食べたりする。夜に現れて人を犯すが、「魃」(ばつ)の名を呼ぶと彼らは人を犯すことが出来なくなるという』(本話の最後に語られる内容を逆手にとった人間の方から先に「言上げ」することによる絶対的な神怪の退治法)。また、『人の方が山精を犯すと、その人は病気になったり、家が火事に遭ったりするという。また』、「和漢三才図会」に於いては『「山精」という字には「片足のやまおに」という訓がつけられている』とし、再び、ウィキの「に戻ると、やはり「和漢三才図会」には『山𤢖(さんそう)に対して「やまわろ」の訓が当てられている。「やまわろ」という日本語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた』とある。その辺りは、どうぞ、私の寺島良安和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類の「山𤢖(やまわろ)」及び「山精(かたあしのやまおに)」等をじっくりとお読み戴きたいし、本邦の「やまわろ」や「山男」についても、本「怪奇談集」の「想山著聞奇集 卷の貮 𤢖が事」等々で散々っぱら電子化注してきたので、これくらいにしておく。因みに、現代中国語の「山魈」は実在する生物種、かの哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科マンドリル属マンドリル Mandrillus sphinx の漢名である。

「人の性名をしれは、能く是(ここ)にあたりて、人をそこのふ」「是(ここ)にあたりて」とは「人の姓名を知ることによって、ある強いパワーを現実の対象物にぶつけ当てて」の謂いで、その結果として「人をそこのふ」、「損なう」、傷つけるのである。相手の姓名を名指すこと(言上げすること)によってその相手を支配したり、征服したり、傷つけ、果ては殺すことが出来るというのは、まさに中国に於いて真正な本名に纏わる、というよりも、言霊(ことだま)に関わる汎世界的な呪術の最たるものである。]

老媼茶話 松風庵寒流(三坂春編(はるよし))始動 / 序・太平廣記(生きた胴体)

 

[やぶちゃん注:三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」のオリジナル電子化注に入る。本書の読みは現代仮名遣で「ろうおうちゃわ」「ろうおうちゃばなし」などの読みで紹介されているものもあるが、私は底本序文の編者による現代仮名遣のルビ「ろうおうさわ」を採用するものである。

 作者松風庵寒流、三坂春編は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている。これは三好想山の「想山著聞奇集 卷の參の「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事(リンク先は私の電子化注)に載る割注に、

   *

此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後[やぶちゃん注:後裔。]、寛保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。[やぶちゃん注:「零本」:完全に揃っている本を完本と称するのに対し、半分以上が欠けていて、残っている部分が少ない場合を「零本」という。零は「はした・少し」の意で「端本(はほん)」に同じい。]

   *

にあること、後に示す「續帝國文庫」の「近世奇談全集」の序の後に附された「後人附記」等によりほぼ確定と言える。

 底本は一九九二年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫26 近世奇談集成[一]」を用いたが、例によって恣意的に漢字を概ね正字化した。また、底本の凡例には編者が振仮名を附したとあるだけで、その仮名遣については附言がない。ところが本文を見ると、編者の追加した平仮名の振仮名(原典にはカタカナの振仮名の他、若干の平仮名のもの及び振漢字があり、それは本電子化で採用した)は歴史的仮名遣ではなく、現代仮名遣であり、原典の本文や振り仮名と混合されると、私には頗る気持ちが悪い。そこで、ここでは追加する読みは、私が必要と判断した箇所に限り、しかも歴史的仮名遣で、ストイックにオリジナルに附すこととした。これは同時に底本の編集権を侵害せず(私は基本的に編集権侵害なるものは丸ごとその本を無断で複製すること以外にはないと考えているので実際には微塵もそう思ってはいないのだが)、全体がオリジナルな、しかも原典(私は底本の親本である写本の宮内庁書陵部本を無論、見たこともないし、本作が載る明治三六(一九〇三)年刊の正字本の「續帝國文庫」の「近世奇談全集」(柳田國男・田山花袋編・校訂)も所持しないが)に近いものとなると信ずる。二行割注は【 】で示した。句読点及び記号を一部でオリジナルに除去・変更・追加し、一部に改行を施した。踊り字「〱」は正字化した。字配りはブログ公開を考え、底本に従ってはいない。

 実は、私は既に本作の中の最上級の怪談の一篇である「入定の執念」を自己サイトで電子化訳注している。それだけ、思い入れの深い怪奇談集である。但し、最初の第一巻は主に中国の志怪小説や怪奇談随筆のごく短い紹介短文であって、実はそれらに親しんでいる私にはあまり面白いとは思われないのであるが、恐らく、三坂はこれらを示すことで、自身の怪奇談をそれらに比すべきものたらんと叱咤する覚悟の表われであり、オリジナリティの表明ともとれる。

 目次は以下に示す序文の後に続くが、それは全電子化を終えた後に附すこととする。【2017年9月23日始動 藪野直史】]

 

 

老媼茶話

 

 

     序

 

 山里は、常さへひとめまれなるに、神無月廿日あまり、時雨ふりあれて淋しきゆふへゆうへ、近くの老媼・村老の夜の長さをくるしみ、夜每に我草庵におとつれ來て、爐をめくり、茶を煮て、をのかとち、さまさま、ものかたりなしぬるを、予はかたはらに聞居て、つれつれのあまり書集めしに、いつとなく十六册になりぬ。もとよりいやしき村老や姥の茶番かたりなれは、虛妄の説のみにして十に壱もとる所なしといへとも、心有(こころある)人に見すへきにしもあらす、只をさなきはらへの耳をよろこはしめむと、しるして「老媼茶話」と名つくるもの也。

 

 于時寛保二年十月廿二日

           邊隅幽栖柴扉散人

                松風庵寒流

 

 さみしさにおなしこゝろの友もかな雨にふけゆくねやの灯

 

[やぶちゃん注:「ひとめまれなるに」「人目稀なるに」。

「ふりあれて」降り荒れて」。

「ゆふへゆうへ」「夕べ夕べ」。

「めくり」「巡り」。

「をのかとち」「己がどち」。自分ら同郷の仲間内(うち)にて。

「茶番かたり」「茶番語り」。茶を呑み交わす際の底の見え透いた下手な馬鹿げた物語り。謙辞。

「はらへ」童(わらべ)。

「于時」普通は「ときに」と訓じて、「今現在」の意。

「寛保二年」寛保二年壬戌(みづのえいぬ)。一七四二年。第八代将軍徳川吉宗の治世。

「邊隅幽栖柴扉散人」「へんぐういうせいさいひさんじん」と音読みしておく。「松風庵寒流」(同じく「しようふうあんかんりう」と読んでおく)とともに三坂吉編の号と思われる。]

 

 

老媼茶話卷之壱

 

     太平廣記

 

 淸河の崔廣宗(さいこうそう)といふもの、もろこし開元年中、法をおかして刑に逢ふて、首をはねられて、獄門にかけられたり。しかれとも、むくろは死せさりしかは、家人、かきて、家へかへりしに、うえたる時は、卽ち、地にゑかきて、「うゆる」といふ文字を、ゆひにて、かく。家人、則(すなはち)、食をすりくすにして、首刎(はね)たる跡の穴に入るゝに、あけば、「止」といふ字を、かく。家人、罪あれは、其罪の次第を書(かき)あらはして、いましむ。只、言語なし。三、四年過(すぎ)て、ひとり、男兒、うましむ。ある日、地に書していわく、

「明日かならす死せんまゝ、葬禮の具をそなへしめよ」

と。果して翌日、死したり。

 

[やぶちゃん注:これは「太平廣記」の「妖怪九」に「廣古今五行記」(唐の竇維(とうい)の撰になる志怪小説集)から引くとする「崔廣宗」。

   *

淸河崔廣宗者、開元中爲薊縣令。犯法、張守珪致之極刑。廣宗被梟首、而形體不死。家人舁歸。每飢、卽畫地作「飢」字。家人遂層食於頸孔中。飽卽書「止」字。家人等有過犯、書令決之。如是三四、世情不替。更生一男。於一日書地云。後日當死、宜備凶具。如其言也。

   *

「淸河」複数ある地名であるが、底本の編者による「せいか」という清音ルビや、歴史的な事実と薊県(現在の天津市薊州区)の県令であったとする辺りから推すと、現在の河北省邢台(けいだい)市清河(せいか)県か((グーグル・マップ・データ))。

「開元年中」七一三~七四一年。玄宗の治世の前半で、楊貴妃に惑わされる以前の彼が善政を行った「開元の治」の時期で、唐の絶頂期とされる。

「むくろは死せさりしかは」首を刎(は)ねられた胴体は不思議なことに死ななかったために。

「かきて」「舁きて」。担いで。

「うえたる時は」首のない生きた胴体だけの崔廣宗が餓えを覚えた時には。

「ゆひ」「指」。

「すりくす」「擂(す)り屑(くず)」。細かく砕いた状態。首がないので噛むことが出来ないからぐちゃぐちゃにすり砕いた食物を切断された首の食道部に押し入れたのである。荒唐無稽な中にあって妙にリアルであるところが猟奇的であると同時に面白い。

「あけば」「飽けば」。首のない生きた胴体だけの崔廣宗が充分に食って食い飽きたと感じた際には。

「家人、罪あれは、其罪の次第を書(かき)あらはして、いましむ」家人の中で罪を犯した者があれば、その処罰の内容を指で地に書いて諫めた。

「ひとり、男兒、うましむ」驚くべきことに、首のない生きた胴体だけの崔廣宗は、妻と交合もしていたのである。これはブッ飛んだ猟奇と言える。]

2017/09/22

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)

 

和漢三才圖會卷第五十四

   濕生類

 


Hikigaeru

 

ひきかへる  𪓰 蚵

 䗇鼁 𪓰𪓿

       苦 癩叚蟇

蟾蜍

       【和名比木】

唐音
チエンチエイ

本綱蟾蜍【辛凉徴毒】其皮汁甚有毒在人家下濕處形大背上

多痱磊鋭頭皤腹促睂濁聲不解鳴行極遲緩不能跳躍

吐生擲糞自其口出也或取之反縛着密室中閉之明且

視自解者

抱朴子云蟾蜍千歳頭上有角腹下丹書名曰肉芝能食

山精人得食之可仙術家取用以起霧祈雨辟兵自解縛

今有技者聚蟾爲戯能聽指使物性有靈於此可推

蟾有三足者而龜鼈皆有三足則蟾之三足非怪也蓋蟾

蜍土之精也上應月魄而性靈異穴土食蟲又伏山精制

蜈蚣故能入陽明經退虛熱行濕氣殺蟲𧏾而爲疳病癰

疽諸瘡要藥五月五日取東行者陰乾用

土檳榔 蟾蜍屎也下濕處往往有之亦能主疾

△按蟾蜍實靈物也予試取之在地覆桶於上壓用磐石

明旦開視唯空桶耳又蟾蜍入海成眼張魚多見半變

――――――――――――――――――――――

蟾酥

    蟾蜍眉間白汁謂之蟾酥其汁不可入

    人目令人赤腫盲以紫草汁洗點卽消

 取蟾酥法以手捏眉稜取白汁於油紙上及桑葉上挿

 背陰處一宿卽自乾安置竹筒内盛之或以蒜及胡椒

 等辣物納口中則蟾身白汁出以竹箆刮下麪和成塊

 乾之味甘辛温有毒主治疳疾及疔惡腫

△按蟾酥倭不製之用自中華來者正黒色如墨而平圓

 是麪和成塊者矣【辛微苦微甘】畧似阿仙藥氣味而帶辛

 

ひきがへる  𪓰〔(きよしう)〕 蚵〔(かは)〕

       䗇鼁〔(きくきよ)〕 𪓰𪓿〔(しうし)〕

       苦〔(くらう)〕 癩叚蟇〔(らいがま)〕

蟾蜍

       【和名、「比木〔(ひき)〕」。】

唐音
チエンチエイ

「本綱」蟾蜍【辛、凉、徴毒。】其の皮汁、甚だ毒有り。人家〔の〕下濕の處に在り。形、大に〔して〕、背の上に痱-磊〔(ひらい)〕多く、鋭〔き〕頭、皤(しろ)き腹、促(みぢか)き睂(まゆ)、濁れる聲、鳴くこと、解せず。行くこと、極めて遲く緩やかにして、跳び躍〔(はね)〕ること、能はず。吐生〔(とせい)〕して擲〔(なげう)〕つ。糞、其口より出だすなり。或いは之れを取りて反-縛(しば)りて密室の中に着きて之れを閉〔じ〕、明くる且(あさ)視るに、自〔(おのづから)〕解く者なり。

「抱朴子」に云はく、蟾蜍、千歳すれば、頭の上に、角、有り、腹の下に丹書〔(たんしよ)〕有り。名づけて「肉芝〔(にくし)〕」と曰ふ。能く山精を食ふ。人、得て、之れを食ふ。仙術家に取〔り〕用〔ふ〕べし。以つて霧を起し、雨を祈り、兵を辟〔(さ)〕け、自〔(おのづか)〕ら縛(しば)れるを解く。今、技者(げいしや)有りて、蟾を聚めて、戯と爲〔(な)すに〕、能く指使〔(しし)〕を聽く。物性の靈有ること、此に於いて推〔(お)〕すべし。

蟾、三足の者、有り。而〔れど〕も、龜・鼈〔(すつぽん)〕にも、皆、三足有るときは、則ち、蟾の三足も怪しむに非ざるなり。蓋し、蟾蜍は土の精なり。上〔は〕月-魄〔(つき)〕に應じて、性、靈異〔たり〕。土に穴して蟲を食ふ。又、山精を伏し、蜈蚣(むかで)を制す。故に、能く陽明經〔(ようめいけい)〕に入りて虛熱を退け、濕氣を行(めぐら)し、蟲𧏾〔(ちゆうじつ)〕を殺す。而して、疳病・癰疽〔(ようそ)〕・諸瘡の要藥と爲す。五月五日、東へ行く者を取りて、陰乾しにして用ふ。

土檳榔〔(どびんらう)〕 蟾蜍の屎〔(くそ)〕を〔いふ〕なり。下濕の處に、往往、之れ、有り。亦た、能く、疾を主〔(つかさど)〕る。

△按ずるに、蟾蜍は實〔(まこと)〕に靈物なり。予、試みに之れを取りて地に在(を)き、桶を上に覆ひて、壓(をしもの)に磐石〔(ばんじやく)〕を用ゆる。明旦、開き視れば、唯、空桶のみ。又、蟾蜍、海に入りて眼張(めばる)魚と成る。多く半〔ば〕變〔ずる〕を見る。

――――――――――――――――――――――

蟾酥(せんそ)

蟾蜍の眉間〔(みけん)〕の白汁、之れを「蟾酥」と謂ふ。其の汁、人の目に入るるべからず。人〔の目〕をして赤〔く〕腫〔らせ〕て盲〔(めしひ)〕ならしむ。紫草の汁を以つて洗〔ひ〕點ずれば、卽ち、消ゆ。

蟾酥を取る法 手を以つて眉の稜(かど)を捏(ひね)り、白汁を油紙の上及び桑の葉の上に取り、背陰(かげうら)の處に挿すこと、一宿すれば、卽ち、自〔(おのづか)〕ら乾く。竹筒の内に安置〔して〕之れを盛る。或いは、蒜〔(ひる)〕及び胡椒等の辣〔(から)〕き物を口中に納〔(い)〕るれば、則ち、蟾、身(みづか)ら、白汁を出だす。竹箆(〔たけ〕べら)を以つて刮-下(こそげ)、麪〔(むぎこ)〕に和し、塊(かたま)りと成し、之れを乾〔(ほ)〕す。味、甘く辛、温。毒、有り。疳疾及び疔(ちやう)・惡腫を治することを主〔(つかさど)〕る。

△按ずるに、蟾酥、倭〔(わ)〕に之れを製せず。中華より來たる者を用ふ。正黒色、墨のごとくにして平圓〔(へいゑん)〕。是〔れ〕、麪〔(むぎこ)〕に和して塊りを成す者か【辛、微苦。微甘。】。畧〔(ほぼ)〕、阿仙藥の氣味に似たり。辛(から)みを帶ぶ。

 

[やぶちゃん注:ヒキガエル類は怪奇談にしばしば妖怪の一種として出現し、私の「耳囊」カテゴリ「怪奇談集」にも沢山出てきたため、実はもの凄い数の注を私は過去に附してきた。ここでは生物学的に厳密なその決定注として示したいのであるが、まずは、

脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae に属するヒキガエル類

である。これは本稿の大分が中国本草書の引用であるから、どうしても最初はここで留めておく必要があるのである。ウィキの「ヒキガエル科」によれば、『四肢が比較的短く、肥大した体をのそのそと運ぶ。水掻きもあまり発達していない』。『後頭部にある大きな耳腺から強力な毒液を出し、また、皮膚、特に背面にある多くのイボからも、牛乳のような白い有毒の粘液を分泌する。この毒によって外敵から身を守り、同時に、有害な細菌や寄生虫を防いでいる。不用意に素手でふれることは避けるべきで、ふれた場合は後でよく手洗いする必要がある。耳腺の毒液は勢いよく噴出することもあるので、これにも注意を要する。この毒液には心臓機能の亢進作用、即ち強心作用があるため、漢方では乾燥したものを蟾酥(せんそ)と呼んで生薬として用いる。主要な有効成分はブフォトキシン』(bufotoxin:激しい薬理作用を持つ強心配糖体の一種。主として心筋(その収縮)や迷走神経中枢に作用する)『などの数種類の強心ステロイドで、他に発痛作用のあるセロトニン』(serotonin:血管の緊張を調節する。ヒトでは生体リズム・神経内分泌・睡眠・体温調節など重要な機序に関与する、ホルモンとしても働く物質である)『のような神経伝達物質なども含む』とある。

 さて問題は良安の記述及び本邦での「ひきがえる」であるが、これは一般的には、現在は本邦固有種と考えられている(以下の記載はウィキの「ニホンヒキガエル」に拠る)、

ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus

と同定してよいであろう(他にもヒキガエル類はいるが、ここでは、これで代表させて問題ない)。その体色は褐色・黄褐色・赤褐色などで、白・黒・褐色の帯模様が入る個体もおり、変異が大きく、体側面に赤い斑点が入る個体が多く、背にも斑点が入る個体もいる。但し、さらに言えば、厳密には現在、このニホンヒキガエルはさらに以下の二亜種に分けられている

亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus

(本邦の鈴鹿山脈以西の近畿地方南部から山陽地方・四国・九州・屋久島に自然分布する。体長は七~十七・六センチメートル。鼓膜は小型で、眼と鼓膜間の距離は鼓膜の直径とほぼ同じ

亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus

(本邦の東北地方から近畿地方・島根県東部までの山陰地方北部に自然分布する。体長六~十八センチメートル。鼓膜は大型で、眼と鼓膜間の距離よりも鼓膜の直径の方が大きい

なお、本来、本種が存在しなかった北海道への移入については、引用元を参照されたい。

 以下、ウィキの「ニホンヒキガエル」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『四六のガマと呼ばれるが、前肢の指は四本、後肢の指は五本。繁殖期のオスにはメスを抱接する際に滑り止めとして後肢にコブ(婚姻瘤)ができるためそれを六本目の指と勘違いしたと』も言われる(引用元には要出典要請が掛けられてあるが、私は複数の書物でこの説を読んでおり、疑問視する必要はないと考える)『の亜種とされていたが、分割され』て『独立種となった。ヘモグロビンの電気泳動法による解析では、両亜種の解析結果がナガレヒキガエル』(ヒキガエル属ナガレヒキガエル Bufo torrenticola:日本固有種で北陸地方から紀伊半島にかけて自然分布し、体長はで七~十二・一センチメートル、で八・八~十六・八センチメートル)『とは類似するものの』、『ヨーロッパヒキガエルとは系統が異なる(近縁ではない)と推定されている』。『低地から山地にある森林やその周辺の草原などに生息し、農耕地、公園、民家の庭などにも広く生息する。本種は都市化の進行にも強い抵抗力を示し、東京の都心部や湾岸地域でも生息が確認されている』。『夜行性で、昼間は石や倒木の下などで休む。ヤマカガシは本種の毒に耐性があるようで好んで捕食する。ヤマカガシの頚部から分泌される毒は、本種の毒を貯蓄して利用していることが判明している』。『本種を含め、ヒキガエル類は水域依存性の極めて低い両生類である。成体は繁殖の際を除いて水域から離れたまま暮らしており、とりわけ夏季には夜間の雑木林の林床や庭先等を徘徊している姿がよくみられる。体表のイボや皺は空気中における皮膚呼吸の表面積を最大化するためと考えられている。また後述のように、繁殖に必要とする水域規模もまた、相対的に小さくて済むようになっている』。『食性は動物食で、昆虫、ミミズなどを食べる』。『繁殖形態は卵生。繁殖期は地域変異が大きく南部および低地に分布する個体群は早く(屋久島では九月)、北部』及び『高地に分布する個体群は遅くなる傾向があり(立山や鳥海山では七月)。池沼、水たまり、水田などに長い紐状の卵塊に包まれた千五百~一万四千個(基亜種』で『六千~一万四千個、亜種アズマヒキガエル』で『千五百~八千個)の卵を産む。多数個体が一定の水場に数日から一週間の極めて短期間に集まり繁殖する(ガマ合戦、蛙合戦)。南部個体群は繁殖期が長期化する傾向があり、例として分布の南限である屋久島では日本で最も早い九月の産卵例、十一月の幼生の発見例(十月に産卵したと推定されている)、一~三月の繁殖例、三~四月の産卵例がある。繁殖期のオスは動く物に対して抱接しようとし、抱接の際にオスがメスを絞め殺してしまうこともある。幼生は一~三か月で変態する』。『先着のオスが発する、またはオスがメスと思って上に乗っかると「グーグー(おれはオスだ。さっさと降りろ!)」のリリース・コールという特別な鳴き声によって弱いオスは離れ、通常一対一のペアで産卵が行われる』(ここと次の部分には要出典要請が掛けられており、)。『背中のオスの抱きつく力が刺激になって産卵を誘発するといわれ、紐状の卵塊を長時間にわたって産み出すために、産卵後のメスは体力を使い果たして、産み落とした卵の側で休む事が多い』。『大柄な姿に反してヒキガエルの幼生期間は短く、仔ガエルに変態した時の体長はわずか五〜八ミリメートルである。これは、水の乏しい地域で短期間しか存在しない水たまり等でも繁殖できるよう進化がすすんだためと考えられている』。『形態や有毒種であることからか忌み嫌われることもある。しかし民家の庭等に住みつくこともよくあり、人間の身近で生活する動物とも言える。一番身近な生物の一つ』である(私の家にも一九九〇年に新築した直後から、猫の額ほどの庭とも言えぬ庭の隅の狭苦しい水道受けの下に十五センチを超える一匹が実に十年近く棲んでいたのを思い出す)。『本種の皮膚から分泌される油汗をガマの油と称して薬用にしたとされる。しかし実際に外傷に対し』、『薬として用いられたのは馬油や植物のガマの方であるとも言われているが、実際のところは不明である。二〇一六年現在に於いて種村製薬から発売されている商品は、その配合も含めて第二次世界大戦後に作られた物である。』但し、『「ガマの油」とは別に、ヒキガエルの耳下腺分泌物には薬効があり、それを小麦粉で練ったものは蟾酥といい、強心や抗炎症などに用いた』とある。

 なお、「がまがえる」と「ひきがえる」は、本邦では「大きな蛙」の代名詞のように汎用化されて同一生物種とされてしまい、「蟇(蛙)」「蟾蜍」と両方に全く同じ漢字名が使用され(それぞれを漢字変換すると、ワード・プロセッサ自体が混用していることがお判り戴けるはずである)、全く同種として認識されているのであるが、次項の出る「蝦蟇」(がま:無尾(カエル)目アカガエル科ヌマガエル亜科ヌマガエル Fejervarya limnocharis)と、このヒキガエル科の「蟾蜍」は生物学的には全く異なる種であるので、くれぐれも注意されたい

「癩叚蟇〔(らいがま)〕」これのみ、東洋文庫の読みを参照した。他は総て、今まで通り、独自に音を調べ、歴史的仮名遣で記してある。

「痱-磊〔(ひらい)〕」当初は「いぼ」と当て訓しようと思った(「痱」は現代中国語「痱子」で「あせも」を意味し「磊」は文字通り、「石がゴロゴロと多く積み上っている」の意)が、「いぼ」では隆々突兀たる背部のイメージが出ないので敢えて音読みした。東洋文庫版は『ぶつぶつ』とルビするが、これはショボ過ぎるし、古文の訓読としては馴染まないので採らない。

「鋭〔き〕」私は「とき」と訓じたい。

「皤(しろ)」「白」に同じい。

「促(みぢか)き睂(まゆ)」「短き眉」。

「鳴くこと、解せず」その鳴き声は明瞭に音写することが出来ない、の謂いと採る。

「吐生〔(とせい)〕して擲〔(なげう)〕つ」意味を採り難いが、本巻は「湿生類」で湿気から生ずる生物と認識された生物群である。即ち、これは突如、口から自分の子を吐き、そのまま飼育せずに放置するという意味である。しかも「糞、其口より出だすなり」とくるのは、異形の彼らとは言え、時珍先生、あんまりです!

「反-縛(しば)りて」底本では「縛」の右に「シハリテ」と振るのであるが、「反」を上手く読めないので、二字でかく読ませた。「反縛」という熟語は漢語で「両の手を反りかえして縛り上げること」を意味するように思われるから、或いは四肢を背の側に反らせて繩で縛り上げ、絶対に這えぬようにすることを言っているのではないかと私は推測する。

「着きて」(動けぬように)しっかりと据え置いて。

「自〔(おのづから)〕解く者なり」常に何故か絶対の解けぬように縛ったはずの繩が自然に解けてしまっているのである、の意。ここで大事なのは、後で良安が実験した時のように(これは怪奇談の中にしばしば出る。例えば私の「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」を見よ)、密室の中で消えていなくなっている「怪」として書かれているのではない点である。都合よく、そう読んではいけない。そうしてこれなら、非常に柔軟な体を持つヒキガエルならば、繩を抜けても少しもおかしくないことが判る。さればこそ、時珍のこの記載は決して読む物を怖がらせるような超常怪奇現象として書いているのでは決してなく、観察上の事実を書いているのである。彼は当時の立派な博物学者なのである。

「抱朴子」(ほうぼくし)は晋の道士葛洪(かっこう:彼は「道教は本、儒教は末」という儒・道二教を併用する思想の保持者であった)の号であると同時に彼の仙道書の書名。 元は全百六篇とされるが、現存するそれは内篇二十・外篇五十・自叙二篇である。三一七年の成立。内篇は仙人の実在を主張し、仙薬製造法・修道法・道教教理などを論じて道教の教義を組織化したものとして後代の道教のバイブルの一つとされ、外篇は儒教の立場からの世事・人事に関する評論が載る。私の偏愛書の一つである。但し、以下は「抱朴子」の原書(「仙藥」の章にある)からの引用ではなく、良安は「太平御覧」(宋初期に李昉らの奉勅撰によって九七七年から九八三年頃に成立した類書(百科事典)の一つ。同時期に編纂された「太平広記」・「冊府元亀」・「文苑英華」と合わせて四大書と称される)の「巻九百四十九 蟲豸部六」の「蟾蜍」の記載その他を元に書いたのではないかと思われ、しかもここ以下は、そこから安易に繋ぎ合せて引いた(良安の悪い癖である)ために、「抱朴子」ではない、他の「玄中記」や靈憲」等の記載も含まれてしまっているように見える。以下に「太平廣記」のそれを示すので確認されたい(下線やぶちゃん)。

   *

「抱朴子」曰、蟾蜍壽三千。又曰、肉芝者、謂萬歳蟾蜍頭上有角、領下有丹書「八」字再重。以五月五日日中時取之、陰乾、百日、以其足畫地、卽爲流水。帶其左手於身、辟五兵。若敵人射已者、弓弩矢皆反還自向也。又曰、辟兵法、或以月蝕時刻三歳蟾蜍喉下有『八』字者血、以書所持之刀劍。「玄中記」曰、蟾蜍頭生角、得而食之、壽千歳。又能食山精。張衡「靈憲」曰、羿請不世之藥於西王母、娥竊之以奔月。遂托身於月、是爲蟾蜍。「淮南子」同。

   *

「千歳」原典の「抱朴子」でも「三千歳」であり、上記の通り、「肉芝」は「萬歳」を経た蟾蜍で、「千歳」は「玄中記」の数値であることが判る。

「山精」(さんせい)は、ここでは古代中国で広範なアニミズムの山川草木に対する精霊崇拝から生じた山の霊・神怪及びそれが零落した化け物を指す語であったと思われる。後に擬人化して一本足の鬼の怪物として描かれるのであるが(良安自身が描いて解説している。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山精」を参照されたい)、幾らなんでも、ちんまいヒキガエルがこの「一本だたら」めいたそれを食うという情景は中国であっても考えにくい。あくまで魑魅魍魎や木霊(こだま)のような人間の目には見えない妖気から成り立っている精霊(すだま)を想起するのがよい。後に出る「山精を伏し」もそう採ってこそ、すんなりと読める。

「兵を辟〔(さ)〕け」武器の難を避け。

「自〔(おのづか)〕ら縛(しば)れるを解く」捕縛された場合にそのきつく絞まった繩をいとも簡単に自然に解(ほど)いてしまう。

「技者(げいしや)」読みはママ。技芸者。業者(わざもの)。この場合は、ヒキガエルを用いて芸をさせるために調教する大道芸人のような生業(なりわい)の者を指すのであろう。

「戯と爲〔(な)すに〕」芸をを仕込むに。

「能く指使〔(しし)〕を聽く」よくその調教師の指図を弁えてその通りにする。

「物性」人以外の動植物の基本的属性。

「推〔(お)〕すべし」推察することが出来る。

「蟾、三足の者、有り」これは後足が一本の前足とで三本の蛙のことを指す。捕食されて欠損したものや奇形で幾らも自然界に実在はするが、中国では蝦蟇仙人(がませんにん)が使役する「青蛙神(せいあしん)」という霊獣(神獣)がこの三足だとされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれて、一本足で大金を掻き集める金運の福の神として現在も信仰されている。それを形象した置物も作られて売られている。

「龜・鼈〔(すつぽん)〕にも、皆、三足有る」これも欠損や奇形で説明は出来るが、私の好きな中国古代のトンデモ地理書「山海経」の「中山経」には、「其陽狂水出焉、西南流注于伊水、其中多三足龜、食者無大疾、可以已腫」とあって、伊水という川に三足亀が多く棲む、これを食べる者は大病かそうでないかなどは無関係に腫瘍を治すことが出来る、とする。東晉の郭璞(かくはく)の「江賦」には「有鱉三足、有龜六眸」と出、この「鱉」(音「ゲツ・ケツ」)はまさにスッポンのことである。

「ときは」ここは「ことを考えれば」の意。

「蟾蜍は土の精なり」この場合は巣籠もりする土という具体的な「土(つち)」も勿論乍ら、五行の元素(エレメント)としての、万物を育成・保護するという性質や季節の変わり目の象徴でもある「土行(どぎょう)」の含みも添えていよう。

「月-魄〔(つき)〕に應じて」「淮南子(ゑなんじ)」の「覧冥訓」に、羿(げい)が不死の薬を西王母に求めたところ、羿の妻嫦娥(じょうが)が、これを窃(ぬす)んで月に奔(はし)ったことが見え、嫦娥は月中の蟾蜍(せんじょ)となって月の精となったとあり(これは「楚辞」の「天問」にも歌われているが、そこでは兎となったとされるから、観察される月表面の模様にヒキガエルを見たことが推理される。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。東洋文庫の注にも、『蟾蜍は月に住むという。『淮南子』(精神訓)に、日の中には踆烏(しゅんう)あり、月の中には蟾蜍がいる、とある』とある。

「山精を伏し」魑魅魍魎を降伏(こうぶく)し。

「蜈蚣(むかで)を制す」ヒキガエルは実際にムカデを捕食するが、ここで言っているのには、やはり陰陽五行説による相克説や蜈蚣と蟾蜍の中国での民俗学的関係があるように私には思われる。はっきり書けるように資料が集められたら、追記したいと思っている。

「陽明經〔(ようめいけい)〕」人体を巡っている十二経絡の一つで、手に流れる大腸経や足に流れる胃経の総称。

「蟲𧏾〔(ちゆうじつ)〕」「𧏾」は「人を刺す虻(あぶ)や蚊(か)の類」或いは「虫に刺されたり噛まれたりして病むことを意味する。東洋文庫はあっさりと「蟲𧏾」の二字で『むし』とルビする。その方が判りはよい。

「疳病」は「癇の虫」と同じで、「ひきつけ」などの多分に神経性由来の小児病を指す。

「癰疽〔(ようそ)〕」感染性の腫れ物や腫瘍。「癰」は浅く大きくもの、「疽」は深く狭いものを差す。

「諸瘡」皮膚のできものや腫れ物及び外傷。

「土檳榔〔(どびんらう)〕」「檳榔」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu であるがここはその実である檳榔子(びんろうじ)のことであろう。「酉陽雑俎」の「巻十 物異」に、

   *

土檳榔 狀如檳榔。在孔穴間得之。新者猶軟、相傳蟾蜍矢也。不常有之、主治惡瘡。

   *

とあるのがそれ。「矢」は「屎」の意。但し、原典の叙述から見て、実際には「ヒキガエルの糞」ではないようで、「採取されるところではそう言い伝えられている」とある。地面の穴の中から採取され、新しいものは柔らかで、滅多になく、悪性腫瘍に効く、とする辺りからは、稀種のキノコの類のように私には思われる

「疾を主〔(つかさど)〕る」病いを療治する。

「磐石〔(ばんじやく)〕」重く大きな岩石。

「蟾蜍、海に入りて眼張(めばる)魚と成る。多く半〔ば〕變〔ずる〕を見る」脊椎動物亜門条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属 Sebastes の、あの魚のメバルである。驚く人も多かろうが、実はこの「ヒキガエルがメバルに変ずるというトンデモ変異譚(メタモルフォーゼ)」は、以外にも江戸時代には全国的にポピュラーなものであった。私の「谷の響 二の卷 六 變化」を是非、参照されたい。そこで私流のこの伝承の見解も注で附してあるからである。

「蟾酥(せんそ)」ウィキの「蟾酥から引く。生薬の一つで、アジアヒキガエル(ヒキガエル属アジアヒキガエル Bufo gargarizans:朝鮮半島及び中華人民共和国東部・日本(南西諸島)・ロシア南東部に分布)やヘリグロヒキガエル(ヒキガエル属ヘリグロヒキガエル Bufo melanostictus:インド及び東南アジア・中国南部・台湾・ネパール・パキスタン等に分布。本邦には棲息しない)の『耳腺分泌物、皮膚腺分泌物を集め、乾燥させたもの』である。『漢字の「蟾」はヒキガエル、「酥」は牛や羊の乳から取る脂肪や、それに類似するものをいう』。『主な有効成分は強心性ステロイドでブファリン(bufalin)、レジブフォゲニン(resibufogenin)、シノブファギン(cinobufagin)、ブフォタリン(bufotalin)、シノブフォタリン(cinobufotalin)、ガマブフォタリン(gamabufotalin)等』、『またインドール塩基のセロトニン(serotonin)等を含む。有効成分はアルコールや油脂に溶解するので、粉砕してエタノールや白酒に浸し、溶解して用いる』。『中国の『中華人民共和国薬典』に収載。日本薬局方では毒薬とされている』。常用量は一日二~五ミリグラム、極量は一日十五ミリグラムと規定されている。『生薬としては、多くはやや艶のある赤褐色から黒褐色で、上面が凸レンズ状にふくれ、下面が凹んだ円盤状に成型され、団蟾酥と称する。中央に穴をあけ麻紐を通し』五個ほどを一連として『吊るしていることが多かった。他に板状に乾かした後、不規則なフレーク状に割ったものもあり、片蟾酥と称する。表面に水滴をたらすと、水分を含んで乳白色に変化する』。『味は、はじめは甘く刺激性があり、後に持続性の麻痺感を生ずる』。『臭いはあまり無いが、わずかに生臭さがある』。『皮膚、粘膜などに長く接触すると、痛みを感じ、発泡する』。『生産地は、中華人民共和国の江蘇省、河北省、遼寧省、山東省などの各地。多くは夏と秋にアジアヒキガエルやヘリグロヒキガエルを捕獲、または養殖して洗浄し、白い分泌物を集める』。『薬理作用は、強心作用、血圧降下作用、冠血管拡張作用、胃液分泌抑制作用、局所麻痺作用、抗炎症作用等がある』。『蟾酥を用いた和漢薬には六神丸などがある』。『なお、民間薬で傷薬として用いられる「蝦蟇の油」は、実際は本品でなく、動物の脂肪から取った油、もしくは植物のガマの油であったとされる』とある。

「紫草」シソ目ムラサキ科ムラサキ属ムラサキ Lithospermum erythrorhizon か。ウィキの「ムラサキによれば、同種の根は生薬で「紫根(シコン)」と呼ばれ、「日本薬局方」にも収録されている。抗炎症作用・創傷治癒の促進作用・『殺菌作用を持ち、紫雲膏などの漢方方剤に外用薬として配合される。最近では、日本でも抗炎症薬として、口内炎・舌炎の治療に使用される』とあり、中文ウィキはこれを「紫草」という漢名で出す。

「背陰(かげうら)の處に挿す」陰干しする。

「一宿すれば」一晩で。

「竹筒の内に安置〔して〕之れを盛る」最後の「之れを盛る」がよく判らぬ。「保存する」なら「安置」があるから屋上屋である。「熟成させる」の意だろうか? 識者の御教授を乞う。

「蒜〔(ひる)〕」ここは特定種ではなく、ネギ・ニンニク・ノビルなどの食用とする単子葉植物綱ユリ目ユリ科 Liliaceae の多年草類の古名。

「胡椒」コショウ目コショウ科コショウ属コショウ Piper nigrum から製した香辛料。同種の実の収穫のタイミングや製法の違いによって黒・白・青・赤の胡椒が製品としては別に存在する。

「刮-下(こそげ)」こそぎ落とし。

「麪〔(むぎこ)〕」小麦粉。

「疔(ちやう)」面疔(めんちょう)。顔面に発生した癤(せつ:毛包組織の化膿性病変。広義の「おでき」の一つであるが、重症化すると根治が難しく、合併症によって生命に危険をもたらこともある)。口の周囲・額・鼻などに発生し易く、近代以前では、炎症が頭蓋内に及んで脳膜炎などを起こすことが頻繁にあり、非常に恐れられた病気である。

「倭〔(わ)〕」日本。

「平圓〔(へいゑん)〕」平たい円盤状。

「是〔れ〕、麪〔(むぎこ)〕に和して塊りを成す者か」これが前に記した「麪に和し、塊(かたま)りと成し、之れを乾す」とある最終精製物なのであろうか?

「阿仙藥」先行する、訳の分らぬ項立て第五十二 蟲部 阿仙藥の本文及び私の注を参照されたい。結論だけを言うと、「阿仙薬」とは被子植物門双子葉植物綱アカネ目アカネ科カギカズラ属ガンビールノキ Uncaria gambir の葉及び若枝を乾燥させて加水し、そこから抽出した精製エキスのことで、当該エキスは、強い活性酸素抑制能力により、「生活の質」(QOL:quality of life)の向上・過酸化脂質の無毒化・心筋梗塞の発生抑制・細菌性食中毒の予防・身体機能の「恒常性」(Homeostasis:ホメオスタシス)を健康な状態に保つ・健胃整腸機能その他の効果があるとされる。詳しくはリンク先の私の注を、どうぞ。]

2017/09/21

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 菊虎(きくすい) / 第五十三 化生類~了

Kikusui

きくすひ

菊虎

       【木久須比】

キヨツ フウ

 

△按菊虎農政全書云喜食菊葉小蟲也蓋淸明以後出

 食嫩葉如不防則喰盡矣芒種後無之其蟲大二分許

 黒色頸邊畧黃而最美也其來也必二隻若其雌雄者

 矣聞人音則速飛去故早旦潜窺視可捕去之或夜提

 燈取之常則竄于根下土不見

 

 

きくすひ

菊虎

       【「木久須比」。】

キヨツ フウ

 

△按ずるに、菊虎、「農政全書」に云はく、喜びて菊の葉を食ふ小蟲なり。蓋し、淸明の以後、出でて、嫩(わか)葉を食ふ。如〔(も)〕し防(ふせ)がざれば、則ち、喰〔らひ〕盡くす。芒種の後、之れ、無し。其の蟲、大いさ、二分許り。黒色、頸の邊〔り〕、畧〔(ほ)〕ぼ黃にして、最も美なり。其の來るや、必ず、二隻。若〔(も)〕し〔や〕、其れ、雌雄なる者か。人音を聞けば、則ち、速かに飛び去る。故に、早旦、潜かに窺〔ひ〕視て、之れを捕〔り〕去るべし。或いは、夜、燈を提〔(さ)〕げて之れを取る。常は、則ち、根の下の土に竄〔(かく)〕れて見へず。

 

[やぶちゃん注:コメツキムシ上科ジョウカイボン科 Cantharidae のジョウカイボン類(但し、次のジョウカイボン以外は「ボン」を和名から外す)か、本邦産の一般種であるジョウカイボン属ジョウカイボン Athemus suturellus のことを指しているように思われる。ウィキの「ジョウカイボン科」によれば、『ジョウカイボン科の昆虫は、細長い体に糸状の長い触角を持ち、見かけではカミキリムシ科』(多食亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae)『の昆虫に』、或いは、寧ろ、『カミキリモドキ科』(多食亜目カミキリモドキ科 Oedemeridae)『の昆虫に似ている。しかし分類的にはそれらとは遠く、ホタル科などとともにホタル上科に属する。この群は甲虫としては非常に柔らかな体をしている』(私は上の分類はこれに従っていない)。『食性は肉食で、成虫、幼虫ともに小型の昆虫などを捕食している。成虫は草の上や花などに見られることが多く、幼虫は地上性』。この和名の『意味、由来については不明である』。『英名はSolider beetle であるが、これはイギリスの軍服に似た色彩(赤・黄色・黒)の種にちなんでとのこと』。『小型から中型の甲虫で、小さいものは三ミリメートル程度から、二センチメートル『を越えるものまである』。『全体に細長く、腹背にやや扁平ながら、ほぼ円筒形のプロポーションである。全体に柔らかく、特に前翅が柔らかい』。『頭部は前胸に比べて狭くなく、その点で頭部の幅が狭く、往々に前胸に隠れるホタル科やベニボタル科とは異なる。触角は糸状で細長いものが多い。大顎は鋭く噛む形で、上唇は薄くて認めがたい』。『前翅は基部が特に幅広くなく、ほぼ同じ幅で伸びる。ただし、一部の種では退化して短くなる』。『幼虫はやや腹背に扁平なイモムシ状、胸部に三対の短い歩脚を持つ。体表はビロード状で、頭部は幅広く、短い触角と頑丈な顎を持つ』。『胸部と腹部はキチン化が弱く、柔らかい』。『成虫は花や葉の上に見られ、小型の昆虫などを捕食する。特に一部の種は花によく見られ、花粉等も食べる』とあるから、菊に好んで飛来する種もあっておかしくはない(下線やぶちゃん)。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のジョウカイボン Athemus suturellus のページによれば(冒頭の分類はこちらを採用させて戴いた)、ウィキが不明とする和名について(コンマを読点に代えた)、『「ジョウカイボン」という珍妙な名前は、平清盛の法名である「浄海」に由来し、「坊」をボンと呼んだという説が知られています。平清盛が熱病で死去したのと、触れると炎症を起こすカミキリモドキの毒とをかけたもので、本種をカミキリモドキと混同したため、このような名前になったということです。本種はカミキリモドキのような毒を分泌することはありません。定説では無いので,真偽の程は分かりませんが,比較的納得のいく仮説だと思います』とある。カミキリモドキ類は前に示した、ヒトの皮膚や粘膜に炎症を起こす毒物カンタリジンを分泌する種が含まれる。

 

「農政全書」明の暦数学者として知られた徐光啓(一五六二年~一六三三年)によって纏められた農書。ウィキの「農政全書」によれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したさつまいもについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)技術を踏まえた水利についての言及もなされている』。刊行は彼の死後六年後の一六三九年である。

「淸明」二十四節気の第五で、旧暦の二月後半から三月前半。太陽暦では四月五日頃に当たる。期間としては次の「穀雨」(太陽暦で四月二十二日頃)前までとなる。

「芒種」二十四節気の第九で、旧暦四月後半から五月前半。太陽暦では六月六日頃に当たる。期間としては次の「夏至」(太陽暦で六月二十一日頃)前まで。

「其の來るや、必ず、二隻。若〔(も)〕し〔や〕、其れ、雌雄なる者か」これは非常に気になる。何故なら、本種の中には、前に示した通り、カンタリジンを含む別種とよく形状が似ているものが含まれるからで、何度も述べた通り、類感的援用によって、本種も二匹いればそれは雌雄、さすれば、そこには催淫性の呪力や媚薬効果があるなどとと考えられたのではないかと、強く疑うからである。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 守瓜(うりばえ)


Uribae

うりはへ    【音權】 【音含】

守瓜

        【和名宇利波閉

        瓜蠅】

シウ クハア

 

爾雅云注輿父黃甲小蟲喜食瓜葉又名守瓜

△按桑蟲又瓜蟲食瓜桑者也蓋與一類二種乎其

 大如犬蠅而黃色甲下有翅速飛喜食瓜葉以蟲眼鑑

 視之黑眼露與蠅不同

 

 

うりばへ    〔(けん)〕【音、權。】 〔(かん)〕【音、含。】

守瓜

        【和名、「宇利波閉」。瓜の蠅なり。】

シウ クハア

 

「爾雅注」に云はく、『・輿父〔(よほ)〕は黃なる甲の小さき蟲にて、喜んで瓜の葉を食ふ。又、守瓜と名づく。』〔と〕。

△按ずるに、は桑の蟲、又、瓜の蟲。瓜・桑を食ふ者なり。蓋し、と一類二種か。其の大いさ、犬蠅〔(いぬばへ)〕のごとくにして、黃色、甲の下に翅〔(つば)〕さ有りて、速く飛〔ぶ〕。喜んで瓜の葉を食ふ。蟲眼鑑(〔むし〕めがね)を以つて之れを視れば、黑き眼、露(あら)はにして、蠅と同じからず。

 

[やぶちゃん注:甲を有すること、瓜を好むとすること、複眼が突き出ていること、及び、最後で良安が観察したところ、蠅とは似ていないとするところから、良安の観察したのは、本邦で俗に「ウリバエ」(瓜蠅)とも呼ばれる、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ハムシ上科ハムシ科ヒゲナガハムシ亜科 Luperini Aulacophorina亜族ウリハムシ属ウリハムシ Aulacophora femoralis 或いはその記念種と比定したい。ウィキの「ウリハムシによれば、『頭部はやや幅が狭く、胸部はそれよりやや幅広い。全身が黄色で、腹部は黒い』。『成虫越冬で、浅い土中で越冬する。春にウリ科の苗に来訪し、周囲の土の表面や浅い土中に産卵する。幼虫はウリ科の根を食害し、また地上に果実などがあるとこれも食うことがある。蛹化は土中で行われる。成虫は』七『月以降に出現する』。『春から夏にかけて主にキュウリ等のウリ科植物に出現する。幼虫は根を食い荒らし、成虫は葉を食い荒らすので害虫となっている』。『キュウリやカボチャなどの作物によくつくこと、多数が集まってよく飛ぶことなど目立つ点が多く、ハムシ類ではもっともよく知られているものの一つである』とある。

 

〔(けん)〕」不詳。

〔(かん)〕」不詳。

「輿父〔(よほ)〕」不詳。東洋文庫は割注で『の別名』とする。これらは上記のハムシ類の近縁かその仲間とは推定されるものの、大陸の記載でしかも古いものであるから軽々にそう比定は出来ぬ。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蓑衣蟲(みのむし)


Minomusi

みのむし 結草蟲 木螺

     壁債蟲

蓑衣蟲

     【俗云美乃無之】

 

△按諸木嫩葉漸舒老葉間有卷中生小蟲其蟲喰取枯

 葉吐絲用作窠長寸許婆裟形如撚艾炷毎縋于枝其

 蟲赤黒色有皺假而首尖時出首喰嫩葉動其首貌彷

 彿蓑衣翁故名之俗説秋夜鳴曰秋風吹兮父戀焉然

 未聞鳴聲蓋此蟲以木葉爲父爲家秋風既至則邇零

 落矣人察之附會云爾耳其鳴者非喓聲乃涕泣之義

  契りけん親の心も知らすして秋風たのむみの虫のこゑ 寂蓮

 枕草子に云風の音を聞き知りて八月はかりになれは父よ父よとはかなけに鳴くいみじくあはれなり

羅山文集詩蓑袂蠢然唯恠哉恰如釣叟立江隈曾開戰

蟻避風雨今見微蟲撲雪來

 

 

みのむし 結草蟲 木螺〔(ぼくら)〕

     壁債蟲〔(へきさいちゆう〕

蓑衣蟲

     【俗に「美乃無之」と云ふ。】

 

△按ずるに、諸木の嫩(わか)葉、漸く舒〔(の)〕び、老葉〔(らうえう)〕、間(まゝ)、卷くこと有り。中に小蟲を生ず。其の蟲、枯葉を喰取〔(くひと)り〕て絲を吐き、用ひて窠〔(す)〕を作る。長さ、寸許り、婆裟(ばしや)として、形、撚〔(ね)〕りたる艾-炷(もぐさ)のごとし。毎〔(つね)〕に枝に縋(ぶらさが)る。其の蟲、赤黒色、皺叚(しわきだ)有りて、首、尖り、時に首を出だして嫩葉を喰ふ。其の首を動かす貌〔(さま)〕、蓑(みの)衣(き)たる翁に彷彿(さもに)たり。故に之れを名づく。俗説に「秋の夜、鳴きて、曰く、『秋風 吹けば 父戀し』と。然れども、未だ鳴き聲を聞かず。蓋し、此の蟲、木の葉を以つて父と爲し、家と爲し、秋風、既に至れば、則ち、零落、邇(ちか)し。人、之れを察して、附會して爾(しか)云ふのみ。其の「鳴く」とは、喓(すだ)く聲に非ず、乃〔(すなは)ち〕、涕泣の義〔なり〕。

   契りけん親の心も知らずして秋風たのむみの虫のこゑ 寂蓮

「枕草子」に云ふ、『風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「父よ父よ」と、はかなげに鳴く、いみじくあはれなり。』〔と〕。

「羅山文集」の詩。

 

蓑袂蠢然唯恠哉

恰如釣叟立江隈

曾聞戰蟻避風雨

今見微蟲撲雪來

 

 蓑の袂 蠢然〔(しゆんぜん)〕として 唯 恠〔(くわい)〕かな

 恰も 釣(つり)する叟(をきな) 江の隈(くま)に立つがごとし

 曾つて聞く 戰蟻 風雨を避〔(さへぎ)〕ると

 今見る 微蟲 雪を撲〔(う)ち〕て來たるを

 

[やぶちゃん注:林羅山の七絶は句で改行し、前後を一行空け、後に訓読を示した。]

 

[やぶちゃん注:我々が親しく「蓑虫」と呼んでいるのは、有翅昆虫亜綱新翅下綱 Panorpida上目鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ヒロズコガ上科ミノガ科 Psychidae に属するの蛾(日本には二十種以上が棲息する)の幼虫を含んだ棲管であるが、本邦ではその中でも最も大きな蓑を形成する(当然、内部の幼虫も大きい)であるオオミノガ(ミノガ科オオミノガ亜科 Acanthopsychini Eumeta 属オオミノガ(ヤマトミノガ)Eumeta japonica)の幼虫を指すことが多い。参照したウィキの「ミノムシ」によれば、『成虫が「ガ」の形になるのは雄に限られる。雄は口が退化しており、花の蜜などを吸うことはできない。雄の体長は』三~四センチメートルに達する。『雌は無翅、無脚であり、形は小さい頭に、小さな胸と体の大半以上を腹部が占める形になる(また、雄同様口が退化する)。したがって「ガ」にはならず、蓑内部の蛹の殻の中に留まる(性的二形)』。『雄は雌のフェロモンに引かれて夕方頃』、『飛行し、蓑内の雌と交尾する。この時、雄は小さな腹部を限界近くまで伸ばし蛹の殻と雌の体の間に入れ、蛹の殻の最も奥に位置する雌の交尾孔を雄の交尾器で挟んで挿入器を挿入して交尾する。交尾後、雄は死ぬ。その後、雌は自分が潜んでいた蓑の中の蛹の殻の中に』一千『個以上の卵を産卵し、卵塊の表面を腹部の先に生えていた淡褐色の微細な毛で栓をするように覆う。雌は普通は卵が孵化するまで蛹の殻の中に留まっていて、孵化する頃にミノの下の穴から出て地上に落下して死ぬ』。二十『日前後で孵化した幼虫は蓑の下の穴から外に出て、そこから糸を垂らし、多くは風に乗って分散する。葉や小枝などに到着した』一『齢幼虫はただちに小さい蓑を造り、それから摂食する』。六『月から』十『月にかけて』七『回脱皮を繰り返し、成長するにつれて蓑を拡大・改変して小枝や葉片をつけて大きくし、終令幼虫』(八令幼虫)『に達する。主な食樹は、サクラ類、カキノキ、イチジク、マサキなど』。『秋に蓑の前端を細く頸って、小枝などに環状になるように絹糸をはいてこれに結わえ付けて越冬に入る。枯れ枝の間で蓑が目立つ。越冬後は普通は餌を食べずにそのまま』四月から六月にかけて蛹化し、六月から八月に『かけて羽化する』。『日本列島(本州、四国、九州、対馬、屋久島、沖縄本島、宮古島、石垣島、西表島)』『に分布する。本種は東南アジアに広く分布する Eumeta variegata と同じ種であるという説も有力である』。『近年は後述する外来種のヤドリバエ』双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ヒツジバエ上科ヤドリバエ科 Tachinidae『による寄生により生息個体が激減しており、各自治体のレッドリストで絶滅危惧種に選定されるようになってきている』。『オオミノガを初めとして、日本ではミノムシは広く見られる一般的な昆虫であったが』、一九九〇『年代後半からオオミノガは激減している。原因は、オオミノガにのみ寄生する外来種の』ヤドリバエ科Nealsomyia 属オオミノガヤドリバエ Nealsomyia rufella の侵入よるもので、『オオミノガヤドリバエは、主にオオミノガの終令幼虫を見つけると、摂食中の葉に産卵し、卵は葉と共に摂食される。口器で破壊されなかった卵はオオミノガの消化器に達し、体内で孵化する。(さらに、オオミノガヤドリバエ自体に寄生する寄生蜂が見つかっている)』とある。そういえば、確かに、蓑虫を見なくなったなぁ……確かに。……小学生の時、箱の中で色とりどりの毛糸で蓑を作らせたのを思い出した……

 

「嫩(わか)葉」若葉。新芽の葉。

「舒〔(の)〕び」伸び。

「窠〔(す)〕」「巣」に同じい。

「婆裟(ばしや)」東洋文庫訳の割注に『しおれて垂れ下がるさま』とある。

「撚〔(ね)〕りたる艾-炷(もぐさ)」灸に使用される、ヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の葉の裏にある繊毛を精製した「艾炷〔(もぐさ)〕」であろう。「炷」は音「シユ(シュ)」で灸に用いるための「もぐさ」の灯心状のものの一本分を指す語である。

「皺叚(しわきだ)」この「叚」(音「カ」)は「瑕」(「瑕疵(かし)」で判るように疵(きず)の意)に通ずるから、皺や傷のような襞を指している。読みの「きだ」は「段」の謂いと私は読む(「段(きだ)」は布や田畑の面積を測る単位として普通に使われる読みである)。まさにここはそのまま「段々(だんだん)になっている」の意で、蓑の中の幼虫は実際、前頭部部分が鎧上で以下の体節もかなりくっきりと段々に分かれており、この謂いはまさに納得出来るのである。

「彷彿(さもに)たり」いい当て訓だ!

「秋の夜、鳴きて」蓑虫も親の成虫の蛾も発声器官を持たないので当然、鳴かない。しかし、清少納言は鳴くと言い、芭蕉も、

 

 蓑蟲の音を聞きに來よ草の庵(いほ)

 

の一句がある(「続虚栗」。「蕉翁句集」に貞享四(一六八七)年の作とする)。今も「蓑虫鳴く」は秋の季語である。では、何の音声を蓑虫が鳴いていると誤認したものだろうと探りたくなる。その見当になるのは、まずは、良安も引く清少納言の記した鳴き声である。彼女は「虫尽くし」の冒頭で偏愛するそれとして、『鈴蟲。ひぐらし。蝶。松蟲。きりぎりす。はたおり。われから。ひをむし[やぶちゃん注:蜉蝣。]。螢』と羅列列挙した直後、述懐本文の冒頭にそれを挙げているのである。

   *

 蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て、これも恐ろしき心あらむとて、親の、あやしき衣ひき着せて、

「今、秋風吹かむをりぞ、來むとする。待てよ。」

と言ひ置きて、逃げて去(い)にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、

「ちちよ、ちちよ。」

とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり。

   *

「チチヨ、チチヨ」である。私は実はこれを、昔から、私の偏愛する、

「鉦叩き」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科カネタタキ科 Ornebius 属カネタタキ Ornebius kanetataki

であると勝手に思い込んでいる。事実、通常、彼らは「チッチッチッチッ」という小さな声で鳴くのである。また、ウィキの「カネタタキ」によれば、『同士が近接状態になると普段と鳴き方が変わり、「チルルチルル!チルチル!チルルルルルル!」という競い鳴きをする』ともある。You Tube で後者を探し出して聴いてみた(これ)。このウィキの後者の音写がそれに相応しいかどうかは別として、私はやはりカネタタキの声こそが「ちちよ、ちちよ」に最もふさわしいとする考えを変える気持ちはない

 さて、今日、これを調べるうちに、世の中には、私のようなフリークな、しかも稀有なことに、アカデミストがいたことが判った! 国文学者平島成夫氏(昭和二(一九二七)年~平成五(一九九三)年)である。平島氏は一九八九年発行の「高松短期大学紀要」(第十九号)の「日本文芸のリアリズム 枕草子『鳴くみの虫』考(PDF)でこれを文学的民俗学的生物学的に大真面目に探求されておられるのである。

 その追跡は執拗且つ緻密であるが、残念なことに、平島氏の結論は私の結論とは一致しない氏は所謂、蚯蚓と同じく、この〈鳴く蓑虫〉の正体を、長いドライブの末、

ケラ直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis

に最も相応しいとされている。非常な敬意を表するところの優れた論文であるが、この結論は私にはいただけないのである。ケラは大きく「ジ…………」或いは「ビー…………」という強い連続性を持ったものであって、三音で切れず、捨てられた鬼の娘が父を恋う声などには、決して比喩出来ないからである(少し遠くで聴く分には私は嫌いではない)。孰れにせよ、平島氏の論文は必読である。ともかく何より、面白いのである!!

「零落」落魄(おちぶ)れること。或いは草木の枯れ落ちることも意味するから、ここは良安、ちょっと洒落て、化生生物の終末期に一種の掛詞を用いたとも採れる。

「邇(ちか)し」「近し」。

「附會して爾(しか)云ふのみ」こじつけて言ってみたに過ぎぬ。しかし、やはりこういうところ、良安は時に本文に和歌なんぞを引くものの、極めて非文学的人種と読める。だから以下の分かり切った蛇足の一文『其の「鳴く」とは、喓(すだ)く聲に非ず、乃〔(すなは)ち〕、涕泣の義〔なり〕』(その場合の「なく」というのは、「鳴く」、虫が沢山集まって「鳴く」のその声の謂いではないのであって、則ち、強い人間的感情に牽強付会した悲しみによって声をあげて涙を流す「涕泣」という意味なのである)とまで大真面目に言わんでもいいことまで言い添えてしまうのである

「契りけん親の心も知らずして秋風たのむみの虫のこゑ 寂蓮」「夫木和歌抄」所収。読み易く整序すると、

 

 契りけむ親の心も知らずして秋風賴む蓑蟲の聲

 

である。

「蠢然〔(しゆんぜん)〕」小さな虫の蠢くさま。転じて、取るに足らぬ者が騒ぐさま。

「恠〔(くわい)〕」「怪」に同じい。東洋文庫版は「恠なるかな」と「なる」を送るが、原典にはなく、従えない。

「釣(つり)する叟(をきな) 江の隈(くま)に立つがごとし」私はm羅山はかく詠んだ時、彼の脳裏には私の偏愛する柳宗元の五絶の名品「江雪」が想起されていたと信ずる。

   *

 

 千山鳥飛絶

 萬徑人蹤滅

 孤舟蓑笠翁

 獨釣寒江雪

 

  千山 鳥(とり)飛ぶこと 絶え

  萬徑(ばんけい) 人蹤(じんしよう) 滅す

  孤舟 蓑笠(さりふ)の翁

  獨り 寒江の雪に釣るを

 

   *

私は「獨り」「寒江の雪に釣」りする「孤舟」「蓑笠の翁」とは、「楚辞」の「漁父之辭」の道家的な孤高の思想者であると思うし、たとえ彼がそうであったとしても、私は、必ずしも、屈原に言ったのと同じように、「滄浪之水淸兮 可以吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」(滄浪の水 淸(す)まば 以つて 吾が纓(えい)を濯ふべし 滄浪の水 濁らば 以つて吾が足を濯ふべし)とばかり嘯いてはいないと思う人種である。だからこそ「曾つて聞く 戰蟻 風雨を避〔(さへぎ)〕ると」「今見る 微蟲 雪を撲〔(う)ち〕て來たるを」という羅山の覚悟が詠めてくるように思うのである。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 ※(のみ)


Nomi

のみ  蚤 【並同字】

     【和名乃美】

𧎮【音早】

 

ツア◦ウ

 

説文𧎮人跳蟲六書正譌云𧎮蟲省叉聲葢蚤則得

之緩輒失之辨之在蚤故爲早暮之早又云叉者古爪字

万寶全書云五月五日午時採石菖蒲晒乾爲末放蓆下

則蚤永無矣

五雜組云以桃葉煎湯澆之則蚤盡死

△按蚤赤色肥身小首六足能跳夏月人家生於濕熱氣

 而自在牝牡其大者牝腹有白子成小蚤牡者却小故

 謂婦大於夫者稱蚤婦夫稱矣凡𧒂螽莎雞蟋蟀螽斯

 之類亦雄小而不好鳴雌大而善鳴也如鶯雲雀山雀

 等小鳥雄大而善囀雌小而不能囀上下各別也

 

 

のみ  蚤 〔(さう)〕【並びに同字。】

     【和名「乃美」。】

𧎮【音、早。】

 

ツア

 

「説文」、𧎮人を囓りて跳ぶ蟲。「六書正譌〔(りくしよせいか)〕」に云はく、『「𧎮」、「蟲」の省くに从〔(したが)ひ〕て、「叉(さ)」の聲〔(せい)〕なり。葢〔(けだ)〕し、「蚤(はや)」きときは、則ち、之れを得〔れども〕、緩〔(ゆる)〕きときは、輒〔(すなは)〕ち、之れを失ふ。之れ、辨ずること、「蚤(あした)」に在り。故に「早暮(あさゆく)」の「早〔さう〕」と爲す。又、云ふ、「叉」は古への爪(つめ)の字なり〔と〕。

「万寶全書〔(ばんはうぜんしよ)〕」に云はく、五月五日午の時、石菖蒲〔(せきしやうぶ)〕を採りて、晒し乾し、末と爲〔し〕、蓆(むしろ)の下に放ち〔おけば〕、則ち、蚤、永く無し。

「五雜組」に云はく、桃〔の〕葉の煎〔じ〕湯を以つて之れに澆(そゝ)げば、則ち、蚤、盡く死す。

△按ずるに、蚤、赤色、肥えたる身、小首、六足にして、能く跳ぶ。夏月、人家〔にて〕、濕熱の氣より生じて、自〔(おのづか)〕ら、牝牡〔(ひんぼ)〕在り。其の大なる者は牝〔(めす)〕、腹に白き子有りて小蚤〔(このみ)〕と成る。牡は却つて小さし。故に、婦、夫より大なる者を謂ひて、「蚤の婦夫(めをと)」と稱す。凡そ、𧒂螽(いなご)・莎雞(きりぎりす)・蟋蟀(こほろぎ)・螽斯(はたをり)の類、亦、雄は小さくして好く鳴かず。雌、大にして善く鳴くなり。鶯・雲雀・山雀・等のごとき小鳥は、雄は大にして善く囀〔(さえず)〕り、雌は小にして能く囀(さへづ)らず。上〔(う)〕へ・下、各別なり。

 

[やぶちゃん注:本文は人を刺しているので、隠翅(ノミ)目ヒトノミ科 Pulicidae のヒトノミ属ヒトノミ Pulex irritans に比定し得るが、実は本邦では衛生環境の向上によってヒトノミは殆んど存在しなくなっており、その代わり、イヌノミ属 Ctenocephalides のネコノミ Ctenocephalides felis やイヌノミ Ctenocephalides canis による人への刺傷ケースが増えている(ネコノミのケースが多い)。私は大学一年の時、二階の三畳の下宿で、大家が飼っていた猫のネコノミに刺された経験があるが、ハンパなく痒い。

 

「六書正譌〔(りくしよせいか)〕」東洋文庫の書名注に、『五巻。元の周伯琦撰。『説文』によって説明し、また自説によって考察したもの。隷字・俗字も併記している』とある。

『「蟲」の省くに从〔(したが)ひ〕て』虫の一部を省略し、そこに別字を入れることで、新たに作った字(この場合は、意味も違うもので異体字ではない)であることを示す。

『「叉(さ)」の聲〔(せい)〕なり』古い中国音なので一致しないが、「蚤」の音「サウ」の「サ」の反切として誤魔化しておこう。なお、「叉」には「刺す」の意があるから、意味上のそれもあろうとは思う。

『「蚤(はや)」きときは』「蚤」には生物種のノミが第一義乍ら、「早い・速い」の意が第二義にある。ここは人が素早くノミを捕えようとする時は、の意。

「緩〔(ゆる)〕きとき」ゆっくりとそれを行っては。

「之れを失ふ」ノミを捕えられない。

「之れ、辨ずること」この字義を解説するならば。

「蚤(あした)」読みはママ。「あした」は直に来る「明日」或いは「早朝」で、以下に「早暮(あさゆく)」とあるように、現在の「早晩」であり、もともとは「早いことと遅いこと」の謂い乍ら、現在、「近いうちにきっと」の意で用いられるように、この前の「早〔さう〕」の意をのみ採る語であるから、「早い」=「速い」=すばしっこいの謂いとなるのであろう。

『「叉」は古への爪(つめ)の字なり』実は「蚤」は「爪」に通ずると漢和辞典にあり、「蚤」と同字である「」の字も音通ながら、イメージとしては「刺す」ことを「爪で引っ掻く」の意に通じさせたようにも感じさせる字である。

「万寶全書〔(ばんはうぜんしよ)〕」東洋文庫の書名注に、『無名氏撰。清の毛煥文増補の『増補万宝全書』がある。三十巻。百科事典のたぐい』とある。

「石菖蒲〔(せきしやうぶ)〕」単子葉植物綱 ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。本邦では端午の節句の菖蒲湯はショウブ(ショウブ属ショウブ変種ショウブ Acorus calamus var. angustatus)を使用しているが、少なくとも中国や漢方に於いてはショウブではなく、このセキショウを指す。ショウブは中国では白菖(蒲)とする。

「末」粉末。

「桃〔の〕葉」漢方では中国原産のバラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica 或いはノモモ(Amygdalus persica var. davidiana)の葉を用いる。モモの葉にはタンニンやニトリル配糖体が含まれており、鎮咳作用やボウフラ殺虫作用が知られており、漢方でも殺虫の効能があり、頭痛・関節痛。湿疹などにも用いる。

「其の大なる者は牝〔(めす)〕、腹に白き子有りて小蚤〔(このみ)〕と成る。牡は却つて小さし。」現認し易いネコノミを例にとると、で体長は二~三・五ミリメートルであるのに対して、は一・五~二・五ミリメートルであり、特には腹部が大きく、三ミリ以上あれば、である。

𧒂螽(いなご)莎雞(きりぎりす)蟋蟀(こほろぎ)螽斯(はたをり)の類、亦、雄は小さくして好く鳴かず。雌、大にして善く鳴くなり」各種(群)は総て既出項。種(群)同定その他は私の注を参照されたい(特異的に本文部にリンクさせた)。性的二型の部分は概ね正しい(有意にが大きいものが多いが、有意には違わない種もあることはある)ものの、鳴くのは殆んどがが鳴く種もある)であり、誤りであるが鳴くのは、例えば、キリギリス科ツユムシ亜科 Ducetia 属セスジツユムシ Ducetia japonica やキリギリス科ツユムシ亜科クダマキモドキ属サトクダマキモドキ Holochlora japonica などである。「図鑑.net モバイルブログ」の松沢千鶴氏の「雌(メス)が鳴く種もいる? 鳴く虫たち」を読まれたい)。

「鶯」スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone の体長はで十六センチメートル、メスで十四センチメートル。♀♂ともによく鳴くが、のみが囀る点で正しい

「雲雀」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、ヒバリはも体長は十七センチメートルほどで、見分けがつかない。従って、ここに挙げるのは不適切である。は冠羽を立たせていることが多いという記載もあるが、もよく立てるとする否定記載もある。縄張指示や繁殖期にはが有意によく鳴く

「山雀」スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius も、♂♀ともに体長は十三~十五センチメートルで、見分けがつかない。これも大きさでは不適切。但し、やはりの方がよく鳴く

「上〔(う)〕へ・下、各別なり」自然空間の「上」部である空を主たる行動空間とする「鳥」と、「下」部の地面及びその近接域を棲息域とする「虫」とでは、それぞれ、生態習性が全く異なるのである。]

2017/09/20

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 ※蠓(まくなぎ) 附 蠁子(さし)


Makunagi

かつをむし 醯雞

まくなき

𧓡

      【和名加豆乎蟲

       又云末久奈木】

モツ モン

 

三才圖會云小蟲生酒及食醯亂飛者也列子云生朽壤

之上因雨而生覩陽而死

爾雅注云飛磑則風舂則天雨言將風則旋飛如磑一上

一下如舂則雨

△按𧓡蠓腐肉食醯溝泥中多有之形似蠅而小翅身皆

 灰色背窄其大婦過一分

――――――――――――――――――――――

さし

蠁子

 和名抄引蔣魴切韻云蠁子【和名佐之】酒醋上小

 飛虫也

△按蠁子醬醋腐肉中初生蛆羽化爲小蠅身黒羽灰黃

 色大不過一分以蟲眼鏡視此與蠅無異然非蠅子而

 一類二種【卵生化生】爲異

 

 

かつをむし 醯雞〔(けいけい)〕

まくなぎ

𧓡

      【和名、「加豆乎蟲」。又、「末久奈木」と云ふ。】

モツ モン

 

「三才圖會」に云はく、小さき蟲。酒及び食-醯〔(す)〕に生じて、亂れ飛ぶ者なり。「列子」に云はく、『朽壤〔(きうじやう)〕の上に生じ、雨に因りて生じ、陽〔(ひ)〕を覩(み)て死す。』〔と〕。

「爾雅」の注に云はく、『飛びて、磑(うすひ)く〔ときは〕、則ち、風、ふく。舂(うすつ)くときは、則ち、天、雨ふる。言(いふこころ)は、將に風ふかんと〔せば〕、則ち、旋(めぐ)り飛びて、磑(〔うす〕ひ)くがごとく、一〔(ひと)〕つ上り、一〔(ひとつ)〕は下りて、舂(〔うす〕つ)くごとき〔とき〕は、則ち、雨ふる。』〔と〕。

△按ずるに、𧓡蠓〔(まくなぎ)〕は、腐りたる肉・食-醯(す)・溝泥の中に多く之れ有り。形、蠅に似て、小さく、翅・身、皆、灰色。背、窄(すぼ)く、其の大いさ、一分に過ぎず。

――――――――――――――――――――――

さし

蠁子

「和名抄」に蔣魴〔(しやうばう)〕が「切韻」を引きて云はく、『蠁子【和名「佐之」。】酒・醋の上、小にして、飛ぶ虫なり。』〔と〕。

△按ずるに、蠁子は醬〔ひしほ)〕・醋〔(す)〕・腐肉の中、初め、蛆(うじ)を生じ、羽化して、小蠅と爲る。身、黒く、羽、灰黃色。大いさ、一分に過ぎず。蟲眼鏡(むしめがね)を以つて視るに、此れ、蠅と異なること、無し。然れども、蠅の子に非ず、一類にして二種【卵生・化生。】、異と爲す。

 

[やぶちゃん注:「まくなぎ」は一般に小さな羽虫の総称である。他に「めまとひ」「めまわり」「めたたき」などとも呼ぶのは蚊柱由来である。「まくなぎ」は「日本書紀」に既に虫として用例が出るもので、「ま」は「目」で、彼らが眼の前を群れを成して飛び交うために思わず「瞬く」ことから出来た語とも、目先が「目暗(メクラミ)」「目眩み」するから生じたとする説があるようだ。しかし、「くなぐ」(古形は「ぐなぐ」)が動詞なら、これは断然、「男女が交合する」の意の動詞「婚(くな)ぐ」だろう。古形が「まぐなき」ならますます「まぐはひ」に近い。そう思ってネットを調べてみると、高野ムツオ氏のサイト「小熊坐」のこちらで、『糠蚊が目に入ることを、「くなぐ」と見たという説もあるが』、蚊柱として『蚊が一塊になるのはオスとメスの交接のためだから、小さな蚊の性の饗宴を、「くなぐ」と言ったのかも知れない』とあるのを見つけた。この解釈も(古人が蚊柱を性の競演と認識したかどうかは別として)、また、洒落た一興ではないか。

 さて、前にも注したが、これらは、主に蚊柱を立てる、現在のヌカカ(ユスリカ上科ヌカカ科 Ceratopogonidae:糠蚊で糠のように小さい意。が激しく吸血する)や、刺さないユスリカ(蚊柱の様から「揺り蚊」)及びガガンボダマシの類に相当する。ここは特に吸血を特筆していないので、広義のそれらで採るのがよいか

と思ったのであるが、しかし、である。どうも、おかしい。

内部別項で後に立てた「蠁子(さし)」(因みに、東洋文庫版では、これに「きょうし」とルビを振るが、原典ははっきりと「さし」と振っており、完全な誤りである。三省堂の「大辞林」も「さし」の見出しに「蠁子」で漢字を当て、「①魚の頭などで人工的に繁殖させたキンバエの幼虫。釣りの餌(えさ)に用いる」「②糠味噌(ぬかみそ)・酒粕(さけかす)などにつく小さい蛆(うじ)。ショウジョウバエの幼虫」とする)では、珍しく虫眼鏡を持ちだした良安先生が、はっきりと「外形上は蠅と何ら異なるところがない」と言い切っている。採取する際にも刺されたり、それを警戒した風もさらさらない。さらに「まくなぎ」も含めてその発生場所を見るに、これにはまさに正しい蠅、それも有意に小さな蠅、ほれ、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミギワバエ上科ショウジョウバエ科 Drosophilini族ショウジョウバエ属 Drosophila のショウジョウバエ類が主に含まれている見るべき

なのではなかろうか? ウィキの「ショウジョウバエ」を見ても、『ショウジョウバエ属は』『十七亜属に分類され、日本には』七『亜属が生息する。多くの種は体長』三ミリメートル『前後と小さく、自然界では熟した果物類や樹液およびそこに生育する天然の酵母を食料とする。酵母は果実や樹液を代謝しアルコール発酵を行うため、ショウジョウバエは酒や酢に誘引されると考えられる。大半の種は糞便や腐敗動物質といったタイプの汚物には接触しないため、病原菌の媒体になることはない』(本文には「腐肉」「溝泥」とも必ず添えられるが、これは普通の蠅の蛆からの敷衍憶測であって正確な観察ではないと考えてよい)。『ショウジョウバエの和名は、代表的な種が赤い目を持つことや酒に好んで集まることから、顔の赤い酒飲みの妖怪「猩々」にちなんで名付けられた日本では一般には俗にコバエ(小蝿)やスバエ(酢蝿)などとも呼ばれる。学名の Drosophila は「湿気・露を好む」というギリシャ語』『(drosos) + 』『(phila) にちなむ。これはドイツ語での通称が「露バエ」を意味する Taufliegen (Tau + Fliegen) であることによる。英語では俗に fruit fly (果実蝿)、 vinegar fly (酢蝿)、 wine fly (ワイン蝿)などと呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあるから、ますます、決まりだぁね!

 

「醯」酢。

「かつをむし」「日本国語大辞典」に「和名類聚抄」(十巻本)を引用して糠蚊の古名とするが、何故「かつを」なのかは不明である。識者の御教授を乞うものである。

「食-醯〔(す)〕」食酢。

「列子」「朽壤の上に生じ、雨に因りて生じ、陽〔(ひ)〕を覩(み)て死す」「列子」の「湯問第五」に『朽壤之上有菌芝者、生於朝、死於晦。春夏之月有蠓蚋者、因雨而生、見陽而死。』(朽されたる壤(つち)の上に菌芝(きんし)なる者、有り、朝(あした)に生じて、晦(ゆふべ)に死(か)る。春・夏の月、蠓蚋(まうぜい)なる者、有り、雨に因りて生じ、陽を見て死す。)とある。「菌芝」は茸(きのこ)の名。「死(か)る」は「枯る」。「蠓蚋」は𧓡蠓に同じい。

「飛びて、磑(うすひ)く〔ときは〕、則ち、風、ふく。舂(うすつ)くときは、則ち、天、雨ふる。言(いふこころ)は、將に風ふかんと〔せば〕、則ち、旋(めぐ)り飛びて、磑(〔うす〕ひ)くがごとく、一〔(ひと)〕つ上り、一〔(ひとつ)〕は下りて、舂(〔うす〕つ)くごとき〔とき〕は、則ち、雨ふる」彼らが群れ飛んで臼を挽くように、空間内で回転して飛ぶ時は、風が吹く前兆であり、その群れが、回転ではなく、臼を搗くように有意に空間を上下する時は、雨が降る前兆である、と言っているのである。

『蔣魴〔(しやうばう)〕が「切韻」』不詳。「切韻」は隋の陸法言が撰した作詩家のために提供された、反切法による韻引きのための辞書。六〇一年序。六朝時代の韻書の集大成であるが、現在では失われた中国に於ける中古音を再現するための不可欠な資料となっている。東洋文庫の書名注にも『不詳』とする。要するに、確かに「和名類聚抄」には「切韻」として知られた陸法言のそれ以外に、孫愐なる人物の「切韻」とか東宮の「切韻」なるものが登場するものの、その正体は既に判らなくなってしまっているということである。知られた「切韻」は増補改訂されており、その間に原本を含め、散逸したものが多数あるから、その中の断片を指しているものとは思われる。

・「醬〔ひしほ)〕」嘗め味噌の一種。大豆・麦・麹・塩などから作る。また、その中に茄子や瓜などを漬け込んでお新香を作った。

「一類にして二種【卵生・化生。】」姿形は全く同じなのに、蠅は卵生でも、蠁子は化生だと言い張る良安先生なのであった。単に小さいのは観察するのが面倒だから、みんな十把一からげに化生にしているんじゃありませんか? 先生?!]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 竹蝨(やぶじらみ)


Yabujirami

やぶじらみ 竹佛子

      天厭子

竹蝨

      【俗云 藪蝨】

チヨ スヱツ

 

本綱生竹及草木上初生如粉點久能動百千成簇形大

如蝨蒼灰色或云濕熱氣化或云蟲卵所化

 

 

やぶじらみ 竹佛子

      天厭子

竹蝨

      【俗に「藪蝨」と云ふ。】

チヨ スヱツ

 

「本綱」、竹及び草木の上に生ず。初生、粉を點ずるかごとく、久しくして能く動き、百千、簇〔(むれ)〕を成す。形ち、大きく、蝨〔(しらみ)〕のごとく、蒼灰色。或いは云ふ、濕熱の氣化、或いは云ふ、蟲の卵の化する所なり。

 

[やぶちゃん注:極めて小さいこと、爆発的な繁殖力を有することから見て、節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目ケダニ亜目ハダニ上科 Prostigmata 或いはその下位のハダニ科 Tetranychidae に属する種と思われる(ハダニ上科には他にヒメハダニ科 Tenuipalpidae とケナガハダニ科 Tuckerellidae がある)。ただ、こうした植物摂餌性のハダニ類は多くが摂餌対象植物を特化しており、挿絵が竹の葉に附着したそれを描いており、本文もまず「竹」とするのが気になり、調べて見たところ、ハダニ科ナミハダニ亜科ナミハダニ族 Tetranychini にスゴモリハダニ属 Stigmaeopsisがあり、そこにササ・タケ類を食害する「タケスゴモリハダニ」なる種を見出せた(但し、学術論文を縦覧すると、分類学上、ここに属させて Stigmaeopsis celarius とする記載と、新属としてタケスゴモリハダニ属タケスゴモリハダニ Schizotetranychus celarius とする二様の記載が見出せた)。さらに「日本応用動物昆虫学会」の運営する「むしコラ」の斉藤裕氏の福建省タケ害虫問題の顛末を読むと、学名は不明ながら、高級竹材である孟宗竹を枯死させる到る種としてナンキンスゴモリハダニ・イトマキハダニ(これは恐らくは現在、「イトマキヒラタハダニ」に改称されたナミハダニ亜科ヒロハダニ族ヒラハダニ属イトマキヒラタハダニ Aponychus corpuzae)及びタケトリハダニ、さらにハダニ類に近縁のフシダニの名が挙げられてある。ただ、やや気になるのは「蒼灰色」とある体色であるが、ウィキの「ハダニには、『ハダニ類の体色には黄色、黄緑、赤、橙など様々な色のものがある。また、食物の摂取状態や季節によっても色が変わり、見た目が全く異なることがある』とあるから、青みを帯びた灰色もアリか。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)


Buyu

ぶと  蜹【同】 蟆子

    【俗云布止】

蚋子

 

ナ ツウ

 

本綱蚋子小蚊也又小而黒者爲蟆子微不可見與塵相

浮上下者爲浮塵子皆巣巴蛇之鱗中能透衣入人肌膚

囓成瘡也惟搗楸葉傅之則出

按蟆子夏月在山谷中似蚊而小脚亦短黒色晝多出

 螫人腫痛最烈和名抄以蜹訓太仁者非【太仁者壁蝨也見卵生下】

 

 

ぶと  蜹【同。】 蟆子〔(まくし)〕

    【俗に「布止〔(ぶと)〕」と云ふ。】

蚋子

 

ナ ツウ

 

「本綱」、蚋子は小さき蚊なり。又、小さくして黒き者を「蟆子(まくし)」と爲す。微にして見るべからず。塵と相ひ浮きて上下する者を「浮塵子〔(ふじんし)〕」と爲す。皆、巴蛇〔(はだ)〕の鱗〔(うろこ)の〕中に巣〔(すく)ふ〕。能く衣を透(とほ)して人の肌膚〔(はだへ)〕に入りて囓(か)み、瘡を成すなり。惟だ、楸葉〔(ひさきば)〕を搗(つ)き、之れを傅〔(つ)く〕れば、則ち、出づ。

按ずるに、蟆子(ぶと)、夏月、山谷の中に在り。蚊に似て、小さく、脚、亦、短く、黒色。晝、多く出でて人を螫す。腫れ痛むこと、最も烈(はげ)し。「和名抄」に「蜹」を以つて「太仁〔(だに)〕」と訓ずるは非なり【太仁は「壁蝨〔(へきしつ)〕」なり。卵生下に見ゆ。】

 

[やぶちゃん注:吸血性の双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidaeの昆虫の総称ウィキの「より引く。『関東ではブヨ、関西ではブトとも呼ばれる』。『成虫は、イエバエの』四分の一ほどの小ささ(約三~五ミリメートル)で『透明な羽を持ち、体は黒っぽく丸まったような形をしているものが多い。天敵はトンボなど。日本では約』六十『種ほどが生息しており、主に見られるアシマダラブユ』(ブユ科ブユ亜科ブユ族アシマダラブユ属Simulium亜属アシマダラブユ Simulium japonicum)『は全国各地に、キアシオオブユ』(オオブユ族 ProsimuliumProsimulium yezoense)『は北海道、本州、九州に分布する』。『春に羽化した成虫は交尾後、水中や水際に卵塊を産み付ける。卵は約』十『日で孵化し、幼虫は渓流の岩の表面や水草に吸着し』、三~四『週間で口から糸を吐きそのまま水中で蛹になり、約』一『週間ほどで羽化する。成虫になると基本的に積雪時を除き一年中活動するが、特に春から夏』(三月~九月)『にかけて活発に活動する。夏場は気温の低い朝夕に発生し、昼間はあまり活動しない。』但し、『曇りや雨など湿気が高く日射や気温が低い時は時間に関係なく発生する。また、黒や紺などの暗い色の衣服や雨合羽には寄ってくるが、黄色やオレンジなどの明るい色の衣服や雨合羽には比較的寄ってこない』。『上記のようにブユの幼虫は渓流で生活しているため、成虫は渓流の近くや山中、そうした自然環境に近いキャンプ場などで多く見られる。また、幼虫は清冽な水質の指標昆虫となるほど水質汚染に弱いため、住宅地などではほとんど見られない』。『カやアブと同じくメスだけが吸血するが、それらと違い』、『吸血の際は皮膚を噛み切』って『吸血するので、多少の痛みを伴い、中心に赤い出血点や流血、水ぶくれが現れる。その際に唾液腺から毒素を注入するため、吸血直後はそれ程かゆみは感じなくても、翌日以降に(アレルギー等、体質に大きく関係するが)患部が通常の』二~三『倍ほどに赤く膨れ上がり激しい痒みや疼痛、発熱の症状が』一~二『週間程現れる(ブユ刺咬症、ブユ刺症)。体質や咬まれた部位により腫れが』一ヶ月以上『ひかないこともままあり、慢性痒疹の状態になってしまうと』、『完治まで数年に及ぶことすらある。多く吸血されるなどした場合はリンパ管炎やリンパ節炎を併発したり』、『呼吸困難などで重篤状態に陥ることもある』(私はワンダーフォーゲル部の引率で丹沢で刺されたことがある。三ヶ月近く痕が消えず、女生徒の中には無数に手足を刺されて長く痛々しい姿であったのを思い出す)。『予防に関しては、一般的なカ用の虫除けスプレー等は効果が薄いので、ブユ専用のものを使うことが有効である(ハッカ油の水溶液でもよい)。また長袖や長ズボン、手甲や脚絆などを身につけ、素肌を露出させないことも重要である。吸血された場合は傷口から毒を抜いてステロイド系の薬(ステロイド外用薬)を塗る。また、掻くと腫れが一向に引かなくなり(結節性痒疹)、治ったあともシミとして残るので、決して傷口を触らないこと』が肝要である、とある。

「微にして見るべからず」あまりに微小であるために視認することが出来ない。

「浮塵子〔(ふじんし)〕」本邦ではこの熟語は普通、カメムシ目ヨコバイ亜目 Homoptera の属するウンカ類(群)に当てる。ウィキの「ウンカによれば、『カメムシ目ヨコバイ亜目の一部のグループで、アブラムシ、キジラミ、カイガラムシ、セミ以外の、成虫の体長が5mm程のものである。そのような範疇の昆虫のいわば典型の一つがウンカであるため、この仲間にはウンカの名を持つ分類群が非常に多い。なお、「ウンカ」という標準和名を持つ生物はいない』とし、『遠く東南アジア方面から気流に乗って毎年飛来する。時に、大発生して米の収穫に大打撃を与えるだけでなく、ウイルスなどの伝播の媒体ともなる。江戸時代に起きた享保の大飢饉や天保の大飢饉の原因とされ、稲作文化圏では忌避される』。『ウンカ類を餌とする小型のトンボ類は益虫とされている』。半翅目同翅亜目頸吻群(Auchenorrhyncha)ハゴロモ上科ウンカ科 Sogatella 属セジロウンカSogatella furcifera・ウンカ科 Nilaparvata 属トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ウンカ科 Laodelphax 属ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus『などがイネの害虫である。これらはいずれも良く跳びはね、また良く飛ぶ虫である。しかし翅多型をあらわし、定着時には羽根の短いいわゆる短翅型がでる。これは繁殖力が強く、その周辺一帯で大発生を起こすため、水田には丸く穴が空いたように枯れた区画を生じる。これを俗に「坪がれ」と呼ぶ』。『また、アブラムシ同様に排泄物がすす病を引き起こすことが多い』。これら三種のうちで、『ヒメトビウンカは寒さに強いため』、『日本の冬を越すことが可能で、他のイネ科植物にも寄生できる。なおかつ』、『イネ縞葉枯病、イネ黒すじ萎縮病などのウイルス病を媒介するので一番』、『問題となる』、。『対策としては、ネオニコチノイドなどの殺虫剤や、油を使って窒息死させる物理的駆除が行われる。江戸時代には、鯨油を水田に張り』(一アールにつき、二、三滴というごく少量)、『ウンカを叩き落して駆除する手法が筑前地方から広まっていった』とある。あまり知られているとは思われないので附言しておくと、ウンカやヨコバイ類(頸吻群セミ型下目ツノゼミ上科ヨコバイ科Cicadellidae)は、しばしば、人を刺す。無論、彼らは植物吸汁性であって、その習性を、人の皮膚上でたまたま起こすに過ぎず、吸血しないものの、口針を挿入した際に唾液が人体に注入され、これにより体質によっては大変な痒みを生じ、黒い痣となって一年以上も完治しないことがある(最後の部分は(株)今村化学工業白蟻研究所公式サイト内の記載に拠った)。従って、この「蚋子」の項にウンカが入っていても、何ら問題がないのである。

「巴蛇〔(はだ)〕」伝説上の大蛇。「黒蛇(こくだ)」「黒蟒(こくぼう)」とも称する。ウィキの「(はだ)によれば、『『山海経』海内南経によると、大きなゾウを飲み込み』、三『年をかけてそれを消化したという。巴蛇が消化をしおえた後に出て来る骨は「心腹之疾」』『の薬になるとも記されている。また、『山海経』海内経の南方にある朱巻の国という場所の記述には「有黒蛇 青首 食象」とあり、同じよう大蛇が各地に存在すると信じられていた。『山海経』の注には「蛇(ぜんだ)吞鹿、鹿已爛、自絞於樹腹中、骨皆穿鱗甲、間出、此其類也」とあってゾウの話は蛇(大蛇)がシカなどを飲み込むような事を示したものであろうと書いている』『『聞奇録』には、山で煙のような気がたちのぼったのを見た男があれは何かとたずねたら「あれはヘビがゾウを呑んでるのだ」と答えられたという話が載っている』。『ゾウ(象)を食べるというのはウサギ(兔)という漢字との誤りから生じたのではないかとの説もある』。とあって、最後には『『本草綱目』では蚋子(蚊の小さいもの)は巴蛇の鱗の中に巣をつくる、と記している』とここに挙がる一節も出されてある。

「楸葉〔(ひさきば)〕」「楸」(「ひさぎ」とも)はキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus のこと。その葉は「野梧桐葉(やごどうよう)」として「日本薬局方」に記載の生薬で、漢方サイトによれば、葉を搗き砕いて貼ると、種々の腫物・乳腺炎・痔・湿疹・頭瘡・あせも・かぶれ・痒み止めに効果があるとある。

「則ち、出づ」という表現から見ると、刺した蚋が傷口から侵入して中にそのまま巣食っていると考えたものか。

「太仁〔(だに)〕」節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目 Acari に属するダニ類。但し、次注参照

「壁蝨〔(へきしつ)〕」なり。卵生下に見ゆ」先行する壁蝨を参照されたい。そこで私は鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidaeのマダニ類を考証の射程に入れつつも、この「壁蝨」を、最終的には、吸血性寄生昆虫である、所謂、ナンキンムシ、半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ下目トコジラミ科トコジラミ属トコジラミ Cimex lectularius に比定した。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 孑孓(ぼうふりむし)


Bouhura

ぼうふりむし 蛣 蜎蠉

       赤蟲 釘倒蟲

       【俗云棒振蟲

 

三才圖會云夏秋間積水惡濁則生之其身既短好聳腰

而上群浮水際遇人暫下其行一曲一直獨以腰爲力若

人無臂故曰孑【孑人無右臂也人無左臂也】經日稍久則蛻而爲蚊

△按孑溝泥中濕熱相感生小蟲長二三分灰黑色微

 似科斗形而常一曲一直如振棒狀故名之經日羽化

 爲蚊

五雜俎云𧓡蠓之育於醯醋芝櫺之産於枯木蛣之滋

於泥淤翠蘿之秀於松枝彼非四時所創匠也皆因物成

形自無而生有耳

 

 

ぼうふりむし 蛣〔(きつけつ)〕 蜎蠉〔(けんけん)〕

       赤蟲〔(あかむし)〕 釘倒蟲〔(ていたうちゆう)〕

       【俗に「棒振蟲」と云ふ。】

 

「三才圖會」に云はく、『夏・秋の間、積水、惡濁〔して〕、則ち、之れを生ず。其の身、既に短くして、好く腰を聳へて上り、群(むらが)り、水際(きは)に浮かぶ。人に遇へば、暫く下り、其の行くこと、一曲一直、獨り、腰を以つて力と爲す。人の臂〔(ひじ)〕の無きがごとし。故に「孑」と曰ふ【「孑」は人〔の〕右の臂無きなり。「」は人〔の〕左の臂無きなり。】日を經ること、稍〔(やや)〕久しきときは、則ち、蛻〔(もぬけ)〕して、蚊と爲る』〔と〕。

△按ずるに、孑は、溝泥の中、濕熱、相感して、小蟲を生〔ぜるもの〕。長さ、二、三分、灰黑色。微〔(かすか)に〕科斗(かいるのこ)の形に似て、常に一曲一直、棒を振る狀のごとし。故に之れを名づく。日を經て、羽化して蚊と爲る。

「五雜俎」に云はく、『𧓡蠓(まくなぎ)、醯-醋(す)に育(そだ)ち、芝櫺(れいし)の枯木に産(は)へ、蛣(ぼうふりむし)の泥-淤(どろ)に滋(しげ)る。翠-蘿(つた)の松枝〔(まつがえ)〕に秀(ひい)づる。彼、四時の創匠する所に非ず。皆、物に因りて形を成し、無よりして有を生ずるのみ。

 

[やぶちゃん注:前項の双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidae に属する蚊類(亜科はオオカ亜科 Toxorhynchitinae・ナミカ亜科 Culicinae・ハマダラカ亜科 Anophelinae に分かれる)の水棲幼虫である「ボウフラ」良安が、連続させるとは言え、全くの別項として立てるのは、今までも見て来た通り、彼がトンデモ化生説の熱烈な信望者だからである。則ち、彼はここで述べているように、「ぼうふら」は汚ない汚水の溜まった溝泥の中で湿気と熱気が相感応して忽然と生じた生物であり、それが日を経ると、また、忽然と羽化して「蚊」になると信じているからである。何故、成虫の蚊が水際や水面に産卵したものが、「ぼうふら」を経て、蛹(オニボウフラ)となって、成虫の蚊となる、という筋道を外の虫のように辿れないのかは判らぬ。或いは、良安は目が悪く、蚊の微小な卵を観察出来なかったからかも知れぬ。というより、彼の論理の系の中では基本的には完全変態の生活環を認めることに強い違和感があり続けたとするのが正しいのかも知れない。なお、ウィキの「によれば、『蚊の幼虫のボウフラは水中の有機物を分解し、バクテリアを食す。バクテリアも有機物を分解するが、排泄物で水を汚すため、バクテリアが増えすぎると水中の酸素が少なくなり』、『生物が住めなくなってしまう場合がある。ボウフラはバクテリアを食べ、呼吸は空気中から行うことで、水環境を浄化する作用がある』とある。ここに出るボウフラの運動については、ミリ波氏のブログ「プロムナード」の夏休みの自由研究ボウフラ観察のススメがよい。それによれば、彼らはかなり巧緻な『重力センサーを体内に持っている』と思われ、その一見、『無駄な動きのように見える彼等のクネクネ運動』(本文の「一曲一直」)も、実は『意味のある』精緻な『運動情報として遺伝子上にプログラミングされ、代々に渡って伝承されているという』とある。まさに、たかがボウフラ、されどボウフラ、である。

 

「孑」「孑」は音「ケツ・ケチ・キチ・キツ・(慣用音)ゲツ」で、」(音「ケツ・クワチ(カチ)・キヨウ(キョウ)・ク・クツ・クチ)は「孒」が正字と思われる。「廣漢和辭典」によれば、孰れも象形で、「孑」は『子の右ひじを欠き、いとけないひとりの意を表す』とし、「孒」は『子どもの左うでを切りとった形にかたどる』とする。ウィキシュナリーの「には『奴隷階級の子供を逃さないように、腕を切り取ったものか』という驚くべき説が載る。

「赤蟲」これは刺さない蚊で、蚊柱を作ることで知られる、カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae のユスリカ類の幼虫を指している。ウィキの「ユスリカによれば、『幼虫はその体色からアカムシまたはアカボウフラと呼ばれるが、カの幼虫である本来のボウフラとは形状が大幅に異なる。通常細長い円筒形で、本来の付属肢はない。頭は楕円形で、眼、触角、左右に開く大腮や、そのほか多くの付属器官があり、これらの微細な形態が幼虫の分類に使われる。口のすぐ後ろには前擬脚と呼ぶ』一『つの突起があり、その先端には多くの細かい爪があって付属肢の様に利用する。腹部末端にも』一『対の脚があり、やはり先端に爪があり体を固定したりするのに役に立っている。また通常、体の後端には数対の肛門鰓をもっており』、ユスリカ亜科ユスリカ属Chironomus『など一部のグループには腹部にも血鰓(けっさい:血管鰓とも言う)を有するものもある』とあり、また、『非常に種類が多く、世界で』約一万五千種、本邦では約二千種ほどが『記載されて』おり、これは『水生昆虫の中で』も一『科で擁する種数が最も多いものの一つである』とある。

「蛻〔(もぬけ)〕」脱皮。読みは先行の本文ルビに拠った。

「科斗(かいるのこ)」蝌蚪(おたまじゃくし)。しかし……あんまり似てるとは思わんがなぁ……

𧓡蠓(まくなぎ)」小さな羽虫。現在のヌカカ(ユスリカ上科ヌカカ科 Ceratopogonidaeが激しく吸血する。私は山や海でさんざん刺された。後から異様に痒くなり、傷の治りも悪いのを特徴とする。次の次に独立項として出る)や、刺さない先に挙げたユスリカ及びガガンボダマシ(糸角(カ)亜目ガガンボダマシ科ガガンボダマシ属 Trichocera。「ダマシ」で判る通り、形状は似ているものの糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae とは縁遠い。ガガンボは春から夏に見られるのに対し、ガガンボダマシは主に冬に出現する)の類に相当する。

「芝櫺(れいし)」ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ(茘枝)Litchi chinensis か、或いはモクレン目バンレイシ科バンレイシ属バンレイシ(蕃茘枝)Annona squamosa か。「櫺」の字は櫺窓(れんじまど:連子格子の窓)のそれで、そのゴッツさからは後者のように思われるものの、枯れ木に実るという意味がよく判らぬ。

「翠-蘿(つた)」 これは蔓性植物の蔦類ではなく、緑色で「松の枝に秀(ひい)」でるような形状ととるなら、「蘿(かげ)」という別称を持つ、広義のシダ植物(但し、巨大な苔のように見える)で、近くで見ると、松の花のようにも見える、ヒカゲノカズラ植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属ヒカゲノカズラ Lycopodium clavatum ではなかろうか? ウィキの「ヒカゲノカズラの画像を参照されたい。

「彼」彼ら。

「四時の創匠する所に非ず」自然の運行たる四季の変化が創出した産物ではない。

「物に因りて形を成し、無よりして有を生ずるのみ」ある対象或いは現象が契機となってそれに感応して形状を成し、全くの無から忽然と有を生じたものに過ぎない。化生説である。]

2017/09/19

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚊(か) 附 蚊母鳥(ヨタカ?)


Ka

か     暑※ 白鳥

      【和名加】

【音文】

      ※𧉬蚊蚉

ウヱン   皆同字

[やぶちゃん注:「※」=「螽」-「冬」+「民」。以下、同じ。]

 

本綱蚊冬蟄夏出晝伏夜飛細身利喙人膚血大爲人

害化生于木葉及爛灰中産子于水中爲孑蟲仍變爲

蚊也龜鼈畏之螢火蝙蝠食之故煑鼈入數枚卽易爛也

三才圖會云長喙如針性惡烟以艾燻之則潰其生艸中

者尤利而足有文彩號豹脚蚊字亦以有文也

    【堀川百首】蚊遣火の煙うるさき夏の夜はしつのふせやに假り寢をばせし 師賴

△按※以昏時出入故字从昬省蓋産子于水中爲孑

 冬蟄夏出之説竝非也其孑濕生而汚水爲熱感所

 生者也羽化爲蚊四月始生九月盡終也晝隱昬出羣

 飛上下如舂以翅鳴人血痕脹甚痒也其毒烈於蚤

――――――――――――――――――――――

豹脚【俗云藪蚊】 竹木葉濕熱所蒸生小蟲亦羽化爲蚊大倍

 常蚊足有班文又有一種小而黑者此二種寺院藪林

 多有之晝亦出不鳴嚙人最猛

 凡避蚊燻榧鋸屑可也然蜈蚣喜榧香來爾雅所謂菖

 蒲去蚤蝨而來蛉窮之類也五月五日午時書儀方二

 字粘屋柱則避蚊又灌酒篠葉挿傍隅則蚊皆集其篠

 凡蚊至深秋喙拆瑯琊代醉曰古諺云霧滃蠏螯枯露

 下而蚊喙拆月虛而魚腦減

嶺南有蚊子木葉如冬青實如枇杷熟則蚊出

塞北有蚊母草葉中有血蟲化而爲蚊

江東有蚊母鳥毎吐蚊一二升【見于水禽部】

 

せうめい

蟭螟

ツヤ◦ウ ミン

 

三才圖會云江浦之間有麼蟲巣蚊睫再乳而

蚊不覺毎生九卵伏成九子俱去蚊不知列子

云海上有蟲集蚊睫離朱子羽望之不見形𧣾

愈師曠聽之不聞其聲【此四人古聰明者然不得視之聞之】

△按春秋所謂齋景公與晏子極細者之問答蟭螟是也

 莊子所謂大者鯤魚鵬鳥小者蟭是也恐皆寓言

 

 

か     暑※〔(しよぶん)〕 白鳥〔(はくちよう)〕

      【和名、「加」。】

【音、文〔(ぶん)〕。】

      ※〔(ぶん)〕・𧉬〔(ぶん)〕・蚊〔(ぶん)〕・蚉〔(ぶん)〕、皆、同字なり。

ウヱン

[やぶちゃん注:「※」=「螽」-「冬」+「民」。以下、同じ。]

 

「本綱」、蚊は、冬は蟄〔(あなごもり)〕し、夏、出づ。晝、伏〔(ふく)〕し、夜、飛ぶ。細き身、利〔(と)〕き喙〔(くちばし)〕、人の膚の血を〔(す)〕ふ。大いに人の害を爲す。

木の葉及び爛灰〔(らんばひ)〕の中に化生して、子を水中に産む。「孑蟲(ぼうふりむし)」と爲る。仍つて變じて蚊と爲るなり。龜・鼈〔(すつぽん)〕、之れを畏る。螢火〔(ほたる)〕・蝙蝠(かはもり)、之れを食ふ。故に鼈を煑るに數枚を入るれば、卽ち、爛れ易し。

「三才圖會」に云はく、長き喙、針のごとく、性、烟〔(けぶり)〕を惡〔(にく)〕む。艾〔(もぐさ)〕以つて之れを燻ずるときは、則ち、潰(つ〔ひ〕)ゆる。其れ、艸〔(くさ)〕の中に生ずる者、尤も利(と)くして、足に文彩〔(もんさい)〕有り。「豹脚〔(へうきやく)〕」と號(な)づく。「蚊」の字〔も〕亦、文〔(もん)〕有(あ)るを以つてす。

【「堀川百首」】蚊遣火〔(かやりび)〕の煙(けぶり)うるさき夏の夜はしづのふせやに旅寢をばせじ 師賴

[やぶちゃん注:一首は最終句に誤まりがあるので、特異的に訓読で訂した。誤りは「假り寢」の部分で「旅寢」が正しい。

△按ずるに、※〔(か)〕は昏時〔(くれどき)〕を以つて出入〔り〕す。故に字、「昬〔(コン/ゆふべ)〕」の省くに从〔(したが)〕ふ。蓋し、『子を水中に産みて、「孑(ぼうふり)」と爲〔(な)〕る』、『冬、蟄〔(あなごもり)〕し、夏、出づる』といふの説、竝〔(とも)〕に非なり。其孑は濕生にして、汚水、熱の爲めに感じて所生する者なり。羽化して蚊と爲る。四月、始めて生じ、九月、盡〔(ことごと)〕く終る。晝は隱れ、昬〔(ゆふ)〕べに出でて、羣飛して、上〔(のぼ)〕り、下り、舂(うすつ)くごとし。翅を以つて鳴き、人の血をふ。痕(あと)、脹〔(は)〕れて、甚だ痒し。其の毒、蚤(のみ)より烈〔(はげ)〕し。

――――――――――――――――――――――

豹脚【俗に「藪蚊」と云ふ。】 竹木の葉、濕熱に蒸されて小蟲を生ず。亦、羽化して蚊と爲る。大いさ、常の蚊に倍す。足に班文〔(はんもん)〕有り。又、一種、小にして黑き者、有り。此の二種、寺院・藪・林に多く之れ有り。晝も亦、出でて、鳴かずして人を嚙む。最も猛し。

凡そ、蚊を避くる、榧〔(かや)〕の鋸屑(をがくず)を燻(ふす)べて可〔(よ)〕し。然れども、蜈蚣〔(むかで)〕、榧の香、喜んで來〔(きた)る〕。「爾雅」、所謂(いはゆ)る、『菖蒲〔(しやうぶ)〕、蚤・蝨〔(しらみ)〕を去れども、蛉窮(げぢげぢ)を來(き)たす』といふの類〔(たぐひ)〕なり。五月五日、午〔(うま)〕の時、「儀方」の二字を書きて屋柱〔(やばしら)〕に粘(は)れば、則ち、蚊を避く。又、酒を篠(ささ)の葉に灌(そゝ)ぎ、傍隅(かたすみ)に挿(さ)せば、則ち、蚊、皆、其の篠に集まる。凡そ、蚊、深秋に至れば、喙〔(くちばし)〕、拆(くじ)く。「瑯琊代醉(ろうやだいすゐ)」に曰く、『古〔き〕諺に云はく、「霧、滃(こまやか)にして、蠏〔(かに)〕の螯(はさみ)、枯れ、露、下〔(お)〕りて、蚊の喙、拆け、月、虛にして、魚、腦、減〔(げん)〕ず」といふ』〔と〕。

嶺南に「蚊子木〔(ぶんしぼく)〕」有り。葉、冬青(まさき)のごとく、實、枇杷〔(びは)〕のごとし。熟すれば、則ち、蚊、出づ。

塞北〔(さいほく)〕に「蚊母草〔(ぶんもさう)〕」有り。葉の中に、血蟲(けつちゆう)有り。化して蚊と爲る。

江東に蚊母鳥〔(ぶんもてう)〕有り。毎〔(つね)〕に蚊を吐くこと、一、二升【水禽〔(すいきん〕の部の部を見よ。】

 

せうめい

ツヤウ ミン

 

「三才圖會」云はく、『江浦の間に麼蟲〔(バチユウ/こまかきむし)〕有り。蚊の睫(まつげ)に巣(すく)ふ。再たび、乳〔(う)めども〕、蚊、覺えず。毎〔(つね)〕に九卵を生み、伏〔(ふく)〕して、九子、成〔らば〕、俱に去りて、蚊、知らず。』〔と〕。「列子」に云はく、『海上に蟲有り、蚊の睫に集まる。離朱・子羽、之れを望むれども、形を見ず、𧣾愈〔(ちゆ)〕・師曠〔(しくわう)〕之れを聽けども、其の聲を聞かず』【此の四人は、古〔(いにし)〕へ、聰明なる者にして、然れども、之れを視、之れを聞くことを得ず。】〔と。〕

△按ずるに、「春秋」に所謂〔(いはゆ)〕る、齋の景公と晏子〔(あんし)〕と、極細なる者の問答の「蟭螟」、是れなり。「莊子」に所謂る、大なる者、鯤魚・鵬鳥、小なる者、「蟭螟」、是れなり。恐らくは、皆、寓言〔(ぐうげん)〕なり。

 

[やぶちゃん注:双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidae に属する蚊類。亜科はオオカ亜科 Toxorhynchitinae・ナミカ亜科 Culicinae・ハマダラカ亜科 Anophelinae に分かれるが、良安は人から吸血するものと限定しているから、も吸血行動をとらないオオカ亜科 Toxorhynchitinae は外れる。御存じのことと思うが、吸血するのはだけで、は植物の蜜や果汁などの糖分を含む液体を吸っている

 

「白鳥〔(はくちよう)〕」蚊の別名。「本草綱目」の「蜚〔(ひばう)〕」(キンイロアブ Tabanus sapporoensis が形態的には近い)の「附録」の条に「蚊子」があり、そこに『一名白鳥也』とある。

「蟄〔(あなごもり)〕し」音読み(「チツ」)してもよかったが、一読で判り易さを考え、東洋文庫版の訳のルビを援用した。

「利〔(と)〕き喙〔(くちばし)〕」鋭い口吻。

人の膚の血を〔(す)〕ふ。大いに人の害を爲す。

「爛灰〔(らんばひ)〕」時間が経って熱が去り、焼け残った物の腐敗が進んだ汚れた灰。

「孑蟲(ぼうふりむし)」蚊の幼虫。漢字はママ。ウィキの「カ」によれば、『幼虫は全身を使って棒を振るような泳ぎをすることから、古名の「棒振り」「棒振り虫」が訛ってボウフラ(孑孒、『広辞苑』によれば孑孑でもよい)となった』。『地方によってはボウフリの呼称が残る。ボウフラは定期的に水面に浮上して空気呼吸をしつつ、水中や水底で摂食活動を行う。呼吸管の近くにある鰓は呼吸のためではなく、塩分の調節に使われると考えられている』。

「螢火〔(ほたる)〕」下の「蝙蝠(かはもり)」(コウモリ)との釣り合いから、二字で「ほたる」と読んでおいた。但し、ホタルの成虫が蚊を摂餌するというのはどうだろう? 何故なら、ウィキの「ホタル」には、『多くの種類の成虫は、口器が退化しているため、口器はかろうじて水分を摂取するぐらいしか機能を有していない。このため』、ほぼ一~二週間の『間に、幼虫時代に蓄えた栄養素のみで繁殖活動を行うことになる』とあるからである。しかしその直後に『海外の種の中には成虫となっても他の昆虫などを捕食する種類がいる』とあるから、中国産の中には蚊を捕食する種がいるのかも知れぬ。識者の御教授を乞う。

「枚」数詞。匹。

「艾〔(もぐさ)〕」これは灸に使用されるヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の葉の裏にある繊毛を精製した「艾炷〔(もぐさ)〕」であろう(「炷」は音「シユ(シュ)」で灸に用いるための「もぐさ」の灯心状のものの一本分を指す)。

「潰(つ〔ひ〕)ゆる」全滅する。

「尤も利(と)くして」最も口吻の針が鋭くて。

「足」脚。

「文彩〔(もんさい)〕」模様。

「豹脚〔(へうきやく)〕」ここについては、中国の記載であるから、ナミカ亜科ヤブカ属 Aedes や、同じ様に紋を持つハマダラカ亜科 Anophelinae 類を含むとしておくのがよいが、まあ、我々にとってお馴染みのそれは、後の良安の説明に出るところの「豹脚」はヤブカ属シマカ亜属ヒトスジシマカ Aedes (Stegomyia) albopictus である。

「蚊遣火〔(かやりび)〕の煙(けぶり)うるさき夏の夜はしづのふせやに旅寢をばせじ」読み易く整序すると、

 

 蚊遣火の煙五月蠅(うるさ)き夏の夜は賤(しづ)の伏屋(ふせや)に旅寢をばせじ

 

である。言わずもがなであるが「旅寢をばせじ」は「旅寝なんぞは、これ、するものではない」の意。

「師賴」源師頼(もろより 治暦四(一〇六八)年~保延五(一一三九)年)は平安後期の公卿で歌人。正二位大納言。「小野宮大納言」と号した。和歌の速読を得意としたらしい。

「昏時〔(くれどき)〕」日暮れ時。

「昬〔(コン/ゆふべ)〕」「昏」の異体字。

「蓋し、『子を水中に産みて、「孑(ぼうふり)」と爲〔(な)〕る』、『冬、蟄〔(あなごもり)〕し、夏、出づる』といふの説、竝〔(とも)〕に非なり。其孑は濕生にして、汚水、熱の爲めに感じて所生する者なり。羽化して蚊と爲る」良安の悪い癖である化生説をブチ上げてしまい、折角の王圻(おうき)の「三才図会」の生物学的に正しい観察を否定してしまっている。残念至極。

「其の毒、蚤(のみ)より烈〔(はげ)〕し」これはちょっと大袈裟に見える。蚤の方が痒い。なお、当時の日本には未だ蚊が媒介するマラリアが本邦にも流行っていたのであるが、マラリアが蚊(ハマダラカ亜科 Anophelini 族ハマダラカ属 Anopheles のハマダラカ類)の媒介する感染症であることが判明するのは近代(一九〇二年・明治三十五年)のことだから、この「毒」をマラリアの症状を指すととるわけには残念ながら、いかない。

「竹木の葉、濕熱に蒸されて小蟲を生ず。亦、羽化して蚊と爲る」くどいね、誤りもここまで繰り返されると、ムッとしてきますぜ、良安センセ!

「晝も亦、出でて、鳴かずして人を嚙む」これは夜の静けさの中で羽音がよく聴こえることによる錯覚と思われる。

「榧〔(かや)〕裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera。カヤ材は碁盤や将棋盤の最高級品とされる。

「蜈蚣〔(むかで)〕、榧の香、喜んで來〔(きた)る〕」ホンマかいな?!

「菖蒲〔(しやうぶ)〕、蚤・蝨〔(しらみ)〕を去れども、蛉窮(げぢげぢ)を來(き)たす」同前。これらって、恐らくは陰陽五行説辺りで牽強付会させたもので、信じない方がいい部類の話である。

『五月五日、午〔(うま)〕の時、「儀方」の二字を書きて屋柱〔(やばしら)〕に粘(は)れば、則ち、蚊を避く』当時は一般に知られた端午の節句の習慣で、紙に「儀方」の二字を書いて壁や柱などに貼れば蚊をよせつけないとされた。仲夏の季語に「儀方書く」がある。

「瑯琊代醉(ろうやだいすゐ)」東洋文庫の書名注に、『瑯琊代酔編』として『四十巻。明の張鼎(てい)思編。経史の考証や雑事を漫然と記した随筆の類』とある。「瑯琊」は中国の古地名。

「蚊、深秋に至れば、喙〔(くちばし)〕、拆(くじ)く」蚊は晩秋になると、口吻が折れてしまう。ホンマかいな?!

「霧、滃(こまやか)にして、蠏〔(かに)〕の螯(はさみ)、枯れ、露、下〔(お)〕りて、蚊の喙、拆け、月、虛にして、魚、腦、減〔(げん)〕ず」これも陰陽五行の知ったかぶりの捏造であろう。

「嶺南」中国南部の「五嶺」(越城嶺・都龐(とほう)嶺(掲陽嶺とも称す)・萌渚(ほうしょ)嶺・騎田嶺・大庾(だいゆ)嶺の五つの山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当し、部分的には華南とも重なっている。更に、かつて中国がベトナムの北部一帯を支配して紅河(ソンコイ河)三角州に交趾郡を置くなどしていた時期にはベトナム北部も嶺南に含まれていた。

「蚊子木〔(ぶんしぼく)〕」現行、漢名(中文名)で「蚊母樹」があり、これを蚊子木と同義とし、ユキノシタ目マンサク科イスノキ属イスノキ Distylium racemosum を指す

「冬青(まさき)」現行、「冬青」と漢字表記するのは、バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa である。「まさき」、則ち、ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus はニシキギ目 Celastrales で共通するものの、目レベルでは近縁とは言えない。イスノキの葉はソヨゴと似ているが、マサキとは似ていないと私には思われる。

「實、枇杷〔(びは)〕のごとし」イスノキの実は表面が黄褐色の毛で覆われており、先端に雌蘂が二裂した突起として突き出て、枇杷の実に似ていないとは言えない

「熟すれば、則ち、蚊、出づ」出ません! 但し、イスノキにはしばしばアブラムシ類(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea)の寄生によって虫癭(ちゅうえい)が出来るから、それを誤って伝えたものか?

「塞北〔(さいほく)〕」現在の中国の北部中央域の古い呼称。中文ウィキの「塞北」で確認されたい。

「蚊母草〔(ぶんもさう)〕」現行、これはシソ目オオバコ科クワガタソウ属ムシクサ Veronica peregrina を指す。これもまた、時に虫癭(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科ゾウムシ科ゾウムシ亜科ムシクサコバンゾウムシGymnetron miyoshii の寄生に拠る)が出来ることから「虫草」の名がついたとされる点に私は注目する。ここに出る「血蟲」(けつちゅう)というのもその幼虫を見誤ったものではないか?

「江東」長江下流域南岸域。

「蚊母鳥〔(ぶんもてう)〕」「水禽〔(すいきん〕の部の部を見よ」この名は昆虫類を捕食するヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ亜科ヨタカ属 Caprimulgus の総称として生きている。この電子化注が鳥類に及ぶのはまだまだ先なので、この際、水禽部の「蚊母鳥(ぶんもちやう)」(「ちやう」は原典のママ。歴史的仮名遣は「てう」が正しい)を電子化する。

    ★

Bunnmotyou

ぶんもちやう 吐蚊鳥

       鷆【音田】

蚊母鳥

 

ウエン モウ ニヤ◦ウ

 

本綱蚊母鳥江東多之生池澤茄蘆中大如鷄黑色其聲

如人嘔吐毎吐出蚊一二升夫蚊乃惡水中蟲羽化所生

而江東有蚊母鳥塞北有蚊母樹嶺南有母草此三物

異類而同功也

蚊母鳥【郭璞曰似烏𪇰大黃白襍文鳴如鴿聲異物志云吐蚊鳥大如青鷁大觜食魚物】時珍曰

有數説也豈各地之
異耶

△按二説所比𪇰鷁並鸕鷀之種類而與雞不甚遠者也

 此圖據三才圖會

 

 

ぶんもちやう 吐蚊鳥〔(とぶんてう)〕

       鷆〔(てん)〕【音、田。】

蚊母鳥

 

ウエン モウ ニヤ

 

「本綱」、蚊母鳥、江東に多し。之れ、池澤〔の〕茄蘆〔(かろ)の〕中に生ず。大いさ、鷄のごとく、黑色。其の聲、人の嘔吐するがごとし。毎〔(つね)〕に、蚊、一、二升ばかりを吐き出だす。夫〔(そ)〕れ、蚊は、惡水の中にある蟲、羽化して生〔ずる〕所にして、而〔(しか)〕も江東には蚊母鳥有り、塞北には蚊母樹有り、嶺南には母草〔(ばうもさう)〕有り。此の三物、異類〔にして〕而〔(しか)〕も功(わざ)を同じくすと。

蚊母鳥【郭璞〔(かくはく)〕曰く、『烏𪇰〔(うぼく)〕に似て、而も大きく、黃白〔の〕襍文〔(しふもん)ありて〕鳴けば鴿〔(いへばと)〕の聲のごとし』〔と〕。「異物志」に云はく、『吐蚊鳥〔(とぶんちやう)〕、大〔いさ〕、青鷁〔(せいげき)〕のごとく、大〔なる〕觜〔(はし)あり〕、魚物〔(ぎよぶつ)〕を食ふ。』〔と〕。】時珍、曰く、『數説有〔るも〕、豈に、各地の差〔(さんさ)〕、異〔(こと)〕なるや。』〔と〕。

△按ずるに、二説に比する所の、𪇰〔ぼく〕・鷁〔げき〕並〔びに〕鸕鷀(う)の種類にして、而も、雞〔(にはとり)〕と甚だ遠からざる者なり。此の圖、「三才圖會」に據る。

   ★

以下、簡単に「蚊母鳥」に注しておく。

・「茄蘆」不詳。取り敢えず音読みしただけ。東洋文庫訳は『あかねぐさ』とルビするが、どうも従えない。これはキク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi の別称であろうが、池や沢の近くに生えるとする本文とどうも相性が悪いように感ずるからである。識者の御教授を乞う。

・「其の聲、人、嘔吐するがごとし」先に同定したヨタカはウィキの「ヨタカ」によれば、『鳴き声は大きく単調な「キョキョキョキョ、キョキョキョキョ」。鳴き声からキュウリキザミやナマスタタキ、ナマスキザミなどの別名もある』とあるが、嘔吐の音には似ていない。

・「塞北には蚊母樹有り、嶺南には母草〔ばうもさう)〕有り。此の三物、異類〔にして〕而〔(しか)〕も功(わざ)を同じくすと」「功(わざ)を同じくす」というのは、生きた蚊を多量に吐き出し、この世に送り込んでくるという習性・性質を指している。ここに東洋文庫では注を附して、「本草綱目」(虫部・化生類・蜚蝱)に『次のようにある。「嶺南には蚊子木がある。葉は冬青(もちのき)のようで實は枇杷に似ている。熟すと蚊が出てくる。塞北には蚊母草がある。葉中に血があり、虫が化して蚊となる」また、木は木葉の中から出てくる。飛んでよく物を囓(かじ)る。塞北にもいるが、嶺南には極めて多い、ともある』。しかし既に私の電子化でも見たように、『とはあぶのことである。良安の文はこれらを混同したものであろうか』としている。確かに、ここの部分、おかしい。なお、「冬青」に「もちのき」とルビするのには従えない。

・「烏𪇰〔(うぼく)〕」東洋文庫の注に、『水鳥で』(サギ類か)『に似ていて短頭。腹と翅は紫白。背は緑色、という』ある。同定不能。中文サイト「百度百科」を見ると、これは「𪇰」と同じであって、郭璞は(東洋文庫の注はそれを不完全に引いたものである)水鳥の一種でに似ているが、頸が短く、腹と翅は紫白、背の上が緑色であり、江東では「烏𪇰」と呼ぶ、とあった。

・「襍文」「(しふもん)」「襍」は「入り混じる」の意。東洋文庫訳では『雑文(いりまじったもよう)』と裏ワザのようなルビが振られてある。

・「鴿〔(いへばと)〕」東洋文庫のルビに従った。普通に我々が「ハト」と呼んでいるハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia のこと。カワラバトとヨタカなら鳴き声は似ていないこともない

・「異物志」東洋文庫書名注に、『一巻。漢の楊孚(ようふ)撰。清の伍元薇編輯『嶺南遺書』の中に収められている。嶺南地方の珍奇な生物などについて書いたもの』とある。

・「青鷁〔(せいげき)〕」不詳。「鷁」は想像上の水鳥で、白い大形の鳥。風によく耐えて大空を飛ぶとされ、船首にその形を置いて飾りとしたことで知られるから、実在する鳥に比定すること自体が無理である。鷁の羽色の青みを帯びたものとしか言いようがない。

・「數説有〔るも〕、豈に、各地の差〔(さんさ)〕、異〔(こと〕な)るや」時珍が「本草綱目」で珍しく不満をぶつけている部分。東洋文庫訳では『数説あるが、どうして各地でこのような差異があり得ようか、と李時珍』『は言っている』となっている。

・「鸕鷀(う)」これは実在する海鳥、カツオドリ目ウ科 Phalacrocoracidae の鵜類を指す。

 では、「蚊」の注に戻る。

 

「蟭螟(せうめい)」以下にまことしやかに書いている、蚊の睫毛に巣を作り、そこで子を生むという想像上の微細な虫の名。

「麼蟲」「こまかきむし」の訓は私が東洋文庫のルビ『こまかいむし』を元に「細かい虫」の意で添えたもの。

「乳〔(う)めども〕」卵を生んでも。

「蚊、覺えず」そもそも見えないぐらいにごく小さな虫なんだから、その卵なんぞが判ろうはずがなかろうが!

「伏〔(ふく)〕して」東洋文庫訳は『抱き伏して』と訳しているが、私は親がその卵と一所に睫毛の中に「潜伏して」の意で採る。

「蚊、知らず」蚊自身にさえ判らんものが、何で、人に判るんじゃい?!

『「列子」に云はく……』以下は「湯問第五」に出る。

「離朱」東洋文庫の注によれば、伝説時代の黄帝の治世の人で『百歩離れたところからでも、ごく細い毛末を見ることができたという、目のよい人』とある。

「子羽」東洋文庫の注によれば、『春秋時代の人。目がよくきいた』とある。

𧣾愈〔(ちゆ)〕」東洋文庫の注によれば、『耳のよく聞こえた人』とある。

「師曠〔(しくわう)〕東洋文庫の注によれば、『春秋時代の晋(しん)の平公の楽師。音律に明るかった』とある。

「春秋」「晏子春秋」。は、中国春秋時代の斉において、霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった抜群の記憶力を持った合理主義者晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)に関する言行を後人が編集した書。単に「晏子」とも呼ぶ。編者未詳。全八巻。儒教の他、墨家的思想も含まれる。以下は東洋文庫の注に『「公曰。天下有極細乎。安子對(コタエテ)曰。有。東海有ㇾ蟲。巣於※睫。再乳再飛而※不爲驚。臣嬰不ㇾ知其名。而東海漁者。命(ナヅケテ)曰焦冥」(『安子春秋』巻四外篇)』とある(「※」=「螽」-「冬」+「民」)。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 䖟(あぶ)


Abu

あぶ   蝱【同】 魂常

【音萠】

マン

 

本綱從木葉中出卷葉如子形圓著葉上破之初出如白

蛆漸大子化折破便飛卽能牛馬血謂之木

【蜚飛也】 小於木如蜜蜂腹凹褊微黃綠色能飛

 牛馬血

鹿【一名牛】 小者大如蠅囓牛馬亦猛又南方溪澗中多

 水蛆長寸餘色黒夏末變爲螫人甚毒

 

 

あぶ   蝱【同。】 魂常〔(こんじやう)〕

 

【音、萠〔(ばう)〕。】

 

マン

 

「本綱」、木の葉の中より出でて、葉を卷き、子のごとくして、形、圓く葉の上に著〔(つ)〕く。之れを破れば、初〔め〕出〔づるに〕白〔き〕蛆のごとし。漸〔(やうや)〕く大にして、子、化〔し〕、折破〔(せつぱ)〕して、便〔(すなは)〕ち、飛び、卽ち、能く牛馬の血を(す)ふ。之れを「木〔(もくばう)〕」と謂ふ。

〔(ひばう)〕【「蜚」は「飛」なり。】 木より小さく、蜜蜂のごとく、腹、凹(なかくぼ)に褊(ひらた)く、微〔かに〕黃綠色。能く飛び牛馬の血をふ。

鹿〔(ろくばう)〕【一名、「牛〔(ぎうばう)〕」。】 小さき者、大いさ、蠅のごとく、牛馬を囓むこと、亦、猛し。又、南方、溪澗(たに)の中に、水蛆〔(すいしよ)〕、多し。長さ寸餘、色、黒。夏の末、變じてと爲り、人を螫〔(さ)〕す。甚だ、毒あり。

 

[やぶちゃん注:現在、広義には双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目 Brachycera のミズアブ下目 Stratiomyomorpha・キアブ下目 Xylophagomorpha・アブ下目 Tabanomorpha 及びハエ下目 Muscomorpha の中の一部を指す。実際には、これらの中で人や獣類を刺して吸血するアブ(吸血するのは総て)は凡そ三十種である。因みに、吸血性のハエ類は本邦ではハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans・イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族ノサシバエ属ノサシバエ Haematobia irritans の二種である(私の愛読書である学研の「危険・有毒生物」(二〇〇三年刊)の記載に拠る)。

 

「木の葉の中より出でて、葉を卷き、子のごとくして、形、圓く葉の上に著〔(つ)〕く」この時珍の叙述は葉を巻いて蛆虫のような形に成して、それが子となると読めてしまい、トンデモ化生説のように読めてしまうが、「著く」がミソで、これはそこに産卵して附着させるという謂いとも読める。なお、後に「水蛆」とあるようにアブ類の幼生は水棲のものも多い。

「初〔め〕出〔づるに〕白〔き〕蛆のごとし」アブ類の幼虫は画像検索をかけると判るが、かなり特異な形状を成すものが多い。中でも既に出た蟲部 天漿子し)(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini に属するナミハアナブ類の幼虫で、通称「尾長蛆」と呼ばれるもの)が尾を持っていて面白い。

「折破〔(せつぱ)〕」完全変態の一過程であるところの脱皮・羽化。

「能く牛馬の血を(す)ふ」人獣類を襲って吸血する種は、アブ下目アブ上科アブ科アブ亜科ツナギアブ属イヨシロオビアブ Hirosia iyoensis・アブ属キンイロアブTabanus sapporoensis・アブ属ウシアブ Tabanus trigonus ・アブ属ヤマトアブ Tabanus rufidens・ニッポンシロフアブ Tabanus nipponicus 及びスズメバチ類にそっくりなアブ属アカウシアブ Tabanus chrysurus やアブ亜科ゴマフアブ属ゴマフアブ Haematopota pluvialis等が代表格であろう。イヨシロオビアブは「オロロ」(刺された時のうろたえるさまを形容する名らしい)とも呼称し、私は栃木県日光市川俣の加仁湯の露天の休憩所で蠅叩きを用いて多量に叩き殺し、湯守の方からコップ酒一杯を献呈された経験がある(譚海 卷之一 羽州深山つなぎ蟲の事の「つなぎむし」というのも恐らくそれである)。ウシアブは土中や水田にいる幼虫も人を刺す。なお、調べてみると、刺されて最も痛いのはアカウシアブのようである。

「木〔(もくばう)〕」時珍の記載なので、軽々に同定は出来ない。良安は略しているが、「本草綱目」の以上の記載は「集解」の中の陳蔵器の見解部分で、最初の「別録」という所からの引用では『生漢中川澤』とあって、この記載だと、幼虫は水棲となり、食い違うことになる。

「蜚〔(ひばう)〕」先に示したキンイロアブ Tabanus sapporoensis が形態的には近い。

「鹿〔(ろくばう)〕」「「牛〔(ぎうばう)〕」名前からは前掲のウシアブ Tabanus trigonus に比定したくはなるが、寧ろ、「小さき者」で「蠅のごとく」とすれば、やはり前掲した狭義のハエの一種で無数に牛馬にとりつくサシバエ Stomoxys calcitrans やノサシバエ Haematobia irritans のを挙げたくなる。後者は画像で見たが、その群がり方は半端なく強烈である。

「南方、溪澗(たに)の中に、水蛆〔(すいしよ)〕、多し。長さ寸餘、色、黒。夏の末、變じてと爲り、人を螫〔(さ)〕す。甚だ、毒あり」不詳。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚉蚉(ぶんぶんむし)


Bunbunnmusi

ぶんぶんむし 正字未詳

蚉蚉

 

△按蠅之屬形如蠅而大圓肥黃黒色屎蟲脱化成此蟲

 夏月蕪菁花開時多有之草花露無螫嚙之害以翼

 鳴其聲如曰蚉蚉

 

 

ぶんぶんむし 正字未だ詳かならず

蚉蚉

 

△按ずるに、蠅の屬。形、蠅のごとくして、大〔きく〕圓〔く〕肥〔え〕、黃黒色なり。屎蟲(くそむし)、化して脱(ぬ)け、此の蟲と成る。夏月、蕪菁(なたね)の花の開〔く〕時、多〔く〕之れ有り。草花の露を(す)ふ。螫嚙〔(せきがう)〕の害、無し。翼を以つて鳴く。其の聲、「蚉蚉(ぶんぶん)」と曰ふがごとし。

 

[やぶちゃん注:名前から察するならば、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科ハナムグリ亜科カナブン族カナブン亜族カナブン属 Rhomborrhina(又は PseudotorynorrhinaRhomborrhina 亜属カナブン Rhomborrhina japonica(又は Pseudotorynorrhina (Rhomborrhina) japonica

であるが、良安は「蠅の屬」と断定し、しかも「形、蠅のごとくして」と二重に既定、そうして、大きくて丸く肥えており、黄黒色を呈しており、便所の蛆が幼虫とするからには、金属光沢を呈する大型の、

双翅(ハエ)目ヒツジバエ上科クロバエ科キンバエLucilia Caesar

が挙げられる。しかし、私は「ぶんぶん」という羽音の大きさ及び花の蜜を吸うという点に着目する。そうして、その姿が蠅のようにも見えぬこともない、しかし巨大で丸々として、花粉を体に附着させるためにしばしば黄黒色を呈するところの、

細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa

熊蜂(私は「クマンバチ」と呼称する)の類を想起するのである。但し、良安の「螫嚙〔(せきがう)〕の害、無し」(人間に対して刺したり、噛み付いたりすることがない)という断定はこれを否定する。クマバチ類は非常に性質が大人しく、通常では人を刺すことはないないが(毒針を有するのは♀のみ)、不用意に巣に近寄ったり、♀個体を強く握ったりすれば刺すからである。しかし、私自身は六十年生きてきて、クマンバチに刺されたとする知人を知らない。印象的な出来事は、小学校六年生の時、母が干していた毛糸の靴下の中に、二匹の大きなクマンバチが潜りこんでいて、それを知らずに触れた母がひどく驚いたことである、しかし、その時も母は刺されなかった。私は私の母の思い出とともに、これをクマンバチに比定したい欲求を強く持っている。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 叩頭蟲(こめふみむし)


Kometukimusi

こめふみむし 叩頭蟲

       【和名沼加

        豆木無之】

       【俗云米踏】

叩頭蟲

 

ぬかつきむし

 

本綱蟲大如斑蝥而黒色按後則叩頭有聲能入人耳灌

 以生油則出又云咒令叩頭又令吐血皆從所教殺之

 不祥佩之令人媚愛

△按狀如吉丁蟲而小純黒頸下背上有折界毎點頭作

 聲音如言保知保知其貌似踏碓者故俗曰米踏蟲如

 仰之輒乍跳反俛飛則甲擴翅開翅下黃赤色也額突

 者稽首也低頭形似稽首故名之

 

 

こめふみむし 叩頭蟲〔(こうとうちゆう)〕

       【和名、「沼加豆木無之〔(ぬかづきむし)〕。】

       【俗に「米踏」と云ふ。】

叩頭蟲

 

ぬかつきむし

 

「本綱」、蟲の大いさ、斑蝥のごとくにして、黒色。後〔(しり)〕へを按〔(お)〕せば、則ち、頭を叩く聲有りて、能く人の耳に入る。灌〔(そそ)〕ぐに生油を以つてすれば、則ち、出づ。又、云はく、咒して頭を叩かしめ、又、血を吐かせしむ。皆、教ふる所に從ふ。之れを殺せば、不祥なり。之れを佩〔(お)〕ぶれば人をして媚愛(かはゆ)からしむ。。

△按ずるに、狀、吉丁蟲(たまむし)のごとくにして、小さく、純黒。頸の下・背の上に折界(をれめ)有り。毎〔(つね)〕に點頭(うちうなづ)いて聲を作〔(な)〕す。音、「保知保知〔(ぽちぽち)〕」と言ふがごとし。其の貌〔(かたち)〕、碓(からうす)を踏む者に似たり。故に、俗、「米踏蟲」と曰ふ。如〔(も)〕し之れを仰(あふのけにす)れば、輒〔(すなは)〕ち、乍〔(たちま)〕ち跳び反〔(かへ)り〕て俛(うつむ)く。飛ぶときは、則ち、甲、擴(ひろ)げ、翅、開く。翅の下、黃赤色なり。額突(ぬかづき)とは稽首〔(けいしゆ)〕なり。頭を低(たる)ゝ形、稽首に似たる故、之れ、名づく。

[やぶちゃん注:オノマトペイア「保知保知〔(ぽちぽち)〕」の部分は原典では二箇所の「保」の右上に破裂音記号のような「◦」が打たれているだけであるが、以上のように読みを振った。なお、東洋文庫訳でも『ぽちぽち』と振っている。]

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属するもので、仰向けにすると、自ら跳ねて元に戻る能力を有する小型の甲虫の総称(但し、以下に記すように、そうした行動をあまりとらない種もいるようである)であって、和名を単に「コメツキムシ」とする種は存在しない。現在の和称は米を搗く動作に似ていると見たことに由来する。ウィキの「コメツキムシ」によれば、『コメツキムシには普段は草や低木の上などに住む種が多い。石の下に住むものもいる。天敵に見つかると足をすくめて偽死行動をとる(世に言う「死んだふり」)。その状態で、平らな場所で仰向けにしておくと跳びはね、腹を下にした姿勢に戻ることができる。(胸-腹の関節を曲げ、胸を地面にたたきつけると誤解されるが、頭-胸を振り上げている。地面に置かず手に持つことで確認できる』。『この時はっきりとパチンという音を立てる。英語名の Click beetle はクリック音を出す甲虫を意味する』。『天敵などの攻撃を受けてすぐに飛び跳ねる場合もある。これは音と飛び跳ねることによって威嚇していると考えられている。この行動をとらないコメツキムシ科の種も存在する』とある。各属はリンク先を参照されたい。

 なお、御存じの通り、清少納言も、かの「枕草子」の「虫尽くし」の章段で、

   *

額(ぬか)づき虫、また、あはれなり。さる心地(ここち)に道心(だうしん)起して、つきありくらむよ。思ひかけず、暗き所などに、ほとめき步(あり)きたるこそ、をかしけれ。

   *

と綴っている。私は虫嫌いであるが、このルナールの「博物誌的記載には強く共感する(リンク先は私の古い仕儀である岸田国士訳の附原文+やぶちゃん補注版)。

 

「斑蝥」ここは「本草綱目」の記載あるから、現行、本邦で呼ぶ真正の「ハンミョウ」類ではなく、鞘翅(コウチュウ)目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類である。有毒昆虫として、またハナバチ類(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ亜)目ミツバチ上科 Apoidea に属するハナバチ(Anthophila)の類)の巣に寄生する特異な習性を持つ昆虫類で、ツチハンミョウ亜科Meloe属マルクビツチハンミョウ Meloe corvinusなどが知られる。触ると偽死をして、この際、脚の関節から黄色い液体を分泌する。この液には毒成分カンタリジン(cantharidinが含まれる。カンタリジンはエーテル・テルペノイドに分類される有機化合物の一種で、カルボン酸無水物を含む構造を持つ毒物であり、含有する昆虫が属する鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ジョウカイボン(浄海坊:平清盛の出家名に由来するという)科(Cantharidae)に因んで命名され、一八一〇年に初めて単離された。昇華性がある結晶で、水には殆んど溶けず、皮膚に附着すると痛みを感じ、水疱が生じる。中国では暗殺に用いられたともされる。一方で、微量を漢方薬としても用い、イボ取り・膿出しなどの外用薬や、利尿剤などの内服薬とされた歴史がある本邦に棲息するツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科マメハンミョウ族マメハンミョウ属マメハンミョウ Epicauta gorhamiもカンタリジンを持ち、その毒は忍者も利用したとされ、ツチハンミョウ・ジョウカイボン類の他、鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ゴミムシダマシ上科カミキリモドキ科Oedemeridaeのカミキリモドキ類・多食(カブトムシ)亜目アリモドキ科 Anthicidae のアリモドキ類・多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科 Staphylinidaeハネカクシ類などの甲虫類が分泌する体液に含まれ、本邦での事故は夜間に灯火に飛来する甲虫目カミキリモドキ科ナガカミキリモドキ属アオカミキリモドキ Xanthochroa waterhousei による水疱性皮膚炎による事故が多い。ヨーロッパに分布するゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科 Lyttini 族ミドリゲンセイ属スパニッシュフライ Lytta vesicatoria は乾燥した虫体を服用すると、含まれているカンタリジンが尿中に排泄される過程で、尿道附近の血管を拡張させて充血を引き起こし、これが性的興奮に似ることから、西洋では古くから催淫剤として用いられてきた歴史があり、「スパニッシュフライ」はそうした媚薬(及び暗殺事件及び自殺事件の毒物)としても、その名をよく見かける(先行する斑猫を参照。ここではそのハンミョウに形が似ていると言っているだけなのであるが、私は、どうもそれは、加えて別な意味を持っているとも読むのである。後注参照)。

「後〔(しり)〕へを按〔お)〕せば、則ち、頭を叩く聲有りて、能く人の耳に入る。灌〔(そそ)〕ぐに生油を以つてすれば、則ち、出づ」この部分、東洋文庫訳は『後(しりえ)をおさえれば頭を上下させてぬかずく。鳴き声は人の耳に聞こえる。生油をそそぐと出てくる』とするのだが、これはおかしくはないか? 「灌〔(そそ)〕ぐに生油を以つてすれば、則ち、出づ」というのが、この訳では続かないからである。これ、小学生が考えても、虫が耳の中に入り込んでしまったのを、油を注いで引き出すという療法を述べているとしか私には読めないコメツキムシが耳の中に入るのはヘンだってか? おう! それじゃ、訳注「 卷之四 耳へ虫の入りし事を読んでもらおうじゃあねえか! どうでぇい!

「咒〔(じゆ)〕して頭を叩かしめ、又、血を吐かせしむ」「咒して」は呪文を唱えて。ここ、よく判らないが、或いはこれも、耳にコメツキムシが入った時の、中国の民間療法の別処方なのではあるまいか? コメツキムシを耳から追い出す呪文があり、それを咒した後に耳にコメツキムシの入った者の頭を叩かせる、すると、耳から出血(人間の方の、である)が起こり、その血と一緒にコメツキムシが耳から出てくるというのではないか? やや私の都合のよい訳し方のようにも見えるが、そうしないと、またしてもあとが続かないからである。ここも東洋文庫はコメツキムシを主語(主体)として訳しており、『咒文(じゅもん)を唱えて頭を叩(ぬかず)かせ、また血を吐かせる』とあるだけで、呪文によって米搗き運動をやらせて、コメツキムシに血を吐かせるというのだ。何だ? この悪戯は?! では、この訳者に聞きたい。コメツキムシが血を吐いたら死ぬ危険はないか? 死ぬだろう! だのに直後に「之れを殺せば、不祥なり」とあるのはなんだ?! 是非ともお答え戴きたい!!!

「皆、教ふる所に從ふ」民間ではコメツキムシが耳に入った場合の処方としては、この孰れかに従がうの意で採る。何故なら、殺して取り出すのは「不祥」だからさ!

「之れを佩〔(お)〕ぶれば、人をして、媚愛(かはゆ)からしむ」これは、或いは先に形状が「斑蝥」(ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類)に似ていることからの類感呪術ではないか? 則ち、カンタリジンの媚薬効果を持つそれに似ているから、このコメツキムシにも催淫・媚薬的呪力があると考えられたという私の解釈である。そうでなければ、もっと即物的に考えてもいいぞぅ! コメツキムシのバッキンバッキンという運動を男根の勃起運動に擬えたというのも一興じゃて! さても、私の猥雑なる解釈、大方の御叱正を俟つものではある。

「吉丁蟲(たまむし)」前の同項を参照されたい。

「折界(をれめ)」折れ目。

「碓(からうす)」搗き臼の一種である唐臼(からうす)。ウィキの「唐臼によれば、『臼は地面に固定し、杵をシーソーのような機構の一方につけ、足で片側を踏んで放せば、杵が落下して臼の中の穀物を搗く。米や麦、豆など穀物の脱穀に使用した。踏み臼ともいう』。

「輒〔(すなは)〕ち、乍〔(たちま)〕ち」後者も「すなはち」と訓読出来るが、かく読んでおいた。]

2017/09/18

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 金龜子(こがねむし)


Koganemusi

こがねむし  【音別】 蟥

金龜子

       【俗金蟲】

キンクイツウ

[やぶちゃん注:「龜」は原典では「亀」の中央の一本の縦画を二本にしたものであるが、本文注のそれは正字である。]

 

本綱此亦吉丁蟲之類媚藥也大如刀豆頭靣似鬼其甲

黒硬如龜狀四足二角身首皆如泥金裝成蓋亦蠹蟲所

化者五六月生草蔓上行則成雙死則金色隨滅故以粉

養令人有媚也

 

 

こがねむし  【音、別。】 蟥〔(くわうへい)〕

金龜子

       【俗、金蟲(こがねむし)。】

キンクイツウ

 

「本綱」、此れも亦、吉丁蟲(たまむし)の類。媚藥なり。大いさ、刀豆(なたまめ)のごとく、頭靣〔(とうめん)〕、鬼に似たり。其の甲、黒く硬(かた)くして、龜の狀〔(かたち)〕のごとし。四足、二角。身首〔(しんしゆ)〕、皆、泥金(でいきん)を裝(かざ)り成(な)せるがごとし。蓋し、亦、蠹蟲(きくひむし)の化する所〔の〕者〔なり〕。五、六月、草蔓〔(さうまん)〕上に生じ、行くときは、則ち、雙〔(さう)〕を成し、死するときは、則ち、金の色、隨ひて滅す。故に粉を以つて養ひて、人をして媚〔(び)〕有らしむなり。

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科 Scarabaeidae の属する広汎なコガネムシ類を指すが、狭義のそれはスジコガネ亜科コガネムシ属コガネムシMimela splendens である(外見上は前肢基節間に前胸突起があることで広義のコガネムシ類と区別出来る)。但し、やや気になるのは、本邦に棲息するコガネムシMimela splendens(他に東シベリア・朝鮮半島・中国・台湾・ミャンマー等に分布する。体長は十七~二十三ミリメートル)は強い金属光沢は持つが、多くは金緑色(時に赤紫色を帯び、稀に赤紫色や黒紫色を呈する個体もある)で、「本草綱目」の明記する「泥金(でいきん)を裝(かざ)り成(な)せる」(「泥金」は金泥(きんでい)に同じい。金粉を膠(にかわ)の液で泥のように溶かした金色の顔料。日本画・装飾・写経等で用いられる)ような色、「金の色」というのと必ずしも合致しない。寧ろ、本邦で純粋に黄金色をしたコガネムシ類に出逢うことは、実は稀であるとも言える。ただ、全然いないわけではない。星谷仁氏のブログの「黄金色(こがねいろ)のコガネムシ」に載る個体の画像は緑色を含むものの、確かに黄金(こがね)色と言える固体である(二〇一四年八月東京での撮影で、星谷氏はコガネムシ科スジコガネ亜科サクラコガネ Anomala daimiana に『似ている気もするが』、『正確なところはわからない』と述べておられる)。本記載は「本草綱目」のものであるから、中国産で黄金色の種を示すのが最も確度が高くなるのだが、上手く探せないのであきらめた(Scarabaeida(コガネムシ科)で中国語のみの検索設定にし、画像検索で黄金色の個体画像を載せるページを縦覧したのだが、それは世界中のコガネムシを蒐集している中国人のインセクタのページであってお手上げであった)。因みに、私の知る限りでは、本当に金で細工したように見える種群は中南米産のコガネムシ科プラチナコガネ族プラチナコガネ属 Plusiotisなどのプラチナコガネ類(現生種は約六十種)が挙げられる。例えば、キンイロコガネ Plusiotis resplendens で画像検索して見れば、私の謂いが大袈裟でないことが判る。なお、この手の明確にゴールドの個体を本邦で見つけたとする記事や画像もあるにはあるが(視認は神奈川県内などが挙がっている)、どうもそれらは現代の人為的に持ち込んでしまった外来種のようである。

 コガネムシの記載は「日本大百科全書」のそれが詳しいので、以下に引用しておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。まず、狭義のコガネムシ Mimela splendens について(体長や分布は前に記した)。『卵形で六~七月に現れ、クヌギ、ナラ、サクラなどの広葉樹の葉を食べる。幼虫は地中にすみ、木の根を食べ、卵から成虫まで一、二年かかる』。『コガネムシ科Scarabaeidaeは、およそ二万五千種が知られており、世界中に広く分布しており、日本にも約三百種が産する。この科の甲虫は、体長二ミリメートルほどの微小なものから、ヘラクレスオオカブト』(コガネムシ科カブトムシ亜科ヘラクレスオオカブト属ヘラクレスオオカブト Dynastes hercules)『の十六センチメートルまでさまざまな大きさの種類があり、卵形から楕円(だえん)形のものが多いが、円形や長い円筒形の種類もある。触角は八~十節、先端の三~七節は片側に長く伸びていて互いに密着でき、えら状か球状。腹部は六節認められ、背部先端の尾節板は大きくて強く傾斜し垂直のことも多く、上ばねから露出することが多い。脚(あし)の跗節(ふせつ)は五節である』。『この類は、大別して食糞類(しょくふんるい)と食葉類(しょくようるい)に分けられ、後者が植物質を食としているのに対して、前者は主として動物の糞や死肉に集まり、幼虫は地中で成虫によって運ばれた糞塊や肉塊を食べて育つが、キノコや腐植土を食べるものや、朽ち木の皮下、草の根際、アリ、シロアリの巣にすみ特殊化したものなどがある』。「食糞類」の項。『この類には次の二亜科が含まれる』。まず、一つが『ダイコクコガネ亜科』(Scarabaeinae)で、『糞球を転がすので有名なタマオシコガネ』『の類、雄の頭胸背部に角(つの)や突起をもつダイコクコガネ』(ダイコクコガネ亜科ダイコクコガネ族ダイコクコガネ属ダイコクコガネ Copris ochus)・『ツノコガネ』((タマオシコガネ亜科とも)ツノコガネ族ツノコガネ属 Liatongus phanaeoides・『エンマコガネ』(ダイコクコガネ族エンマコガネ属Caccobius)『の類など典型的な糞虫がここに属し、ナンバンダイコク属Heliocoprisのような大きい種類もある』。二つ目が『マグソコガネ亜科』Aphodiinae で、『小形で円筒形の種類が多く、糞に多いが、枯れ木の皮下やアリ、シロアリの巣にすむものもあり、ニセマグソコガネ』(Aegialia nitida)『の類は川岸の砂地などにみられる』。以下、「食葉類」の項。『この類には六亜科が含まれ、すべて植物質を食べるので人目につく種類が多い』。(一)『カブトムシ亜科』Dynastinae 『カブトムシ』(真性カブトムシ族カブトムシ属カブトムシ Trypoxylus dichotomus)をはじめとして、『ヘラクレスオオカブト』や『アトラスオオカブト』(真性カブトムシ族アトラスオオカブト属アトラスオオカブト Chalcosoma atlas)『など大形種を含むが、クロマルコガネ』(クロマルコガネ族クロマルコガネ属クロマルコガネ Alissonotum pauper)『のような十ミリメートル前後のものもある。幼虫は朽ち木や腐植質を食べて育つ』。(二)『コフキコガネ亜科』Melolonthinae 『長形の種類が多く、植物の葉を食べる。ヒゲコガネ』(コフキコガネ族コフキコガネ亜族ヒゲコガネ属ヒゲコガネ Polyphylla(Gynexophylla) laticollis laticollis)・『シロスジコガネ』(ヒゲコガネ属シロスジコガネ Polyphylla(Granida) albolineata)『のように白い模様のある種類もあるが、一般には褐色から黒色のクロコガネ』(コフキコガネ族クロコガネ亜族クロコガネ属クロコガネ Holotrichia kiotoensis)『の類のように単色のものが多い。成虫は灯火によく集まり、幼虫は地中にいて木の根を食べている』。(三)『ビロードコガネ亜科』Sericinae 『卵形から長卵形の小形の種類が含まれ、背面の光沢が鈍く、ビロード様の感じを与えるものが多い。草木の葉を食べるが夜間活動し、灯火にもよくくる。幼虫は地中で根を食べている』。(四)『スジコガネ亜科』Rutelinae 『夜間灯火に集まる金属光沢をもつ卵形の種類で』、最初に掲げた狭義のコガネムシをはじめとして、『ドウガネブイブイ』(スジコガネ族スジコガネ亜族スジコガネ属ドウガネブイブイ Anomala cupera。私の好きな和名で漢字では「銅鉦蚉蚉」と書く)・『スジコガネ』(スジコガネ属スジコガネ Anomala testaceipes)・『ヒメコガネ』(スジコガネ属ヒメコガネ Anomala rufocuperea)『などがこの類に属する』。(五)『ハナムグリ亜科』Cetoniinae 『四角張った体でよく飛ぶ。ハナムグリ』(ハナムグリ族ハナムグリ亜族ハナムグリ属ハナムグリ亜属 (独立属とすることもある)ハナムグリ Catonia (Eucetonia) pilifera)・『カナブン』(カナブン族カナブン亜族カナブン属 Rhomborrhina(又は PseudotorynorrhinaRhomborrhina 亜属カナブン Rhomborrhina japonica(又は Pseudotorynorrhina (Rhomborrhina) japonica)『など花や樹液に集まるものが多く』アフリカに棲息する『巨大なゴライアス』ハナムグリ類(ハナムグリ亜科オオツノハナムグリ属 Goliathus)『もこの類である。トラハナムグリ』(トラハナムグリ亜科トラハナムグリTrichius japonicus)・『ヒラタハナムグリ』(ヒラタハナムグリ亜科ヒラタハナムグリ Nipponovalgus angusticollis)『も花に集まるが、それぞれ別亜科とされることが多く、ヒゲブトハナムグリ』(ヒゲブトハナムグリ亜科ヒゲブトハナムグリ Amphicoma pectinata)等も『別亜科または別科とされる』。(六)『テナガコガネ亜科』Euchirinae 『沖縄のヤンバルテナガコガネ』(テナガコガネ属ヤンバルテナガコガネ Cheirotonus jambar)『は、日本最大種として有名』。以下、「民俗」の項。ファーブルの「昆虫記」で『知られるスカラベ・サクレ(タマオシコガネの一種)』(コガネムシ科ダイコクコガネ亜科 Scarabaeini 族タマオシコガネ属ヒジリタマオシコガネScarabaeus sacer。本種は「昆虫記」のベストセラーとともに「タマオシコガネ」や「フンコロガシ」という和名が当てられて紹介されて本邦でも有名となったが、その後、「サクレ」はファーブルの誤同定であったことが判明し、和名もヒジリタマオシコガネへ改められている。ここはウィキの「スカラベ」に拠った)『は、古代エジプト人にとって神聖な昆虫であった。土の中に入り、のちにまるで生き返ったように現れる生態から、この虫は不死の象徴となり、ミイラに添えて葬られた。この習俗の起源はきわめて古く、先王朝期』(紀元前三五〇〇年以前)『の墓からも発見されている。花崗岩(かこうがん)や宝石をこの虫の形に刻んだ御守りもあり、それには、魂の裁判のとき神々が敵意をもたないことを願う文字が彫られているものもある。ヘリオポリスの人々によって祀(まつ)られた神ケプリ(ケペリ)は、この虫の神格化で頭部を虫の形にした男、あるいは顔の部分を虫にした男、頭上に虫をのせた男などの姿で描かれ、一匹の虫の形で表現されることもある。ケプリという語には、「スカラベ・サクレ」と同時に「自ら生成するもの」という意味があり、生命の更新を表す神として崇拝された。太陽を運行する神とも考えられ、この虫が玉を転がすように、巨大な虫の姿で太陽を転がしているとも想像された。特定の甲虫類を御守りにする習俗は世界各地にあった。ヨーロッパではシレジア人が、季節の最初のコフキコガネ属』(コフキコガネ族クロコガネ亜族クロコガネ属 Holotrichia)『の一種をとらえ、小さな布袋に縫い込んで発熱の際の御守りにした。中国では愛される呪(まじな)いに甲虫類を飼う習俗があり、コガネムシの一種も用いたらしい。日本では、よくコガネムシの胴を糸で結び子供のおもちゃにした』。江戸後期の心学者布施松翁の「松翁道話」(文化一一(一八一四)年成立)には、『平安後期の盗賊熊坂長範(くまさかちょうはん)が子供のとき糸につけて遊んでいたコガネムシが銭箱に入ったので引き上げると銭をつかんできた、それが盗みの始めであると書かれてある。金銭にしがみつく人間を例えてコガネムシともいう。日本では一般にコガネムシは珍重されなかった。ヒメコガネなどコガネムシ類を集め、干してニワトリの餌(えさ)にした地方もある』とある。

 なお、本項は「本草綱目」の引用(実は同書でも独立項でなく、先の「𧒂螽」(本邦産はイナゴに同定)の附録にあるという場違いな出現法で示されてある。しかも良安のこれは、珍しくも、『金龜子 時珍曰、此亦吉丁之類、媚藥也。大如刀豆、頭面似鬼、其甲黑硬如龜狀、四足二角、身首皆如泥金裝成、蓋亦蠹蟲所化者。段公路「北戸錄」云、金龜子、甲蟲也。出嶺南。五、六月生草蔓上、大如楡莢。背如金貼、行則成雙。死則金色隨滅。故以養粉令人有媚也。』という部分をほぼ丸ごとそのまま引いている(良安の「本草綱目」の引用はそのままであることは実は稀であって、かなり恣意的に取捨選択したり、大胆に省略したりしており、時には大事な所をカットしてしまったために意味が通じなくなっていたり、誤った叙述に変形しているものさえある)。但し、原書では後にまだ二倍ほどの引用が続く)だけで、良安が評言を附さない点で特異点である。本邦にいない種ならばまだしも、これは甚だ不審ではある。

 最後に。

 以下は四年前に私がブログ記事としたことがあることである。

 誰もが知っている野口雨情作詞で中山晋平作曲の童謡「黄金虫」があるが、近年、この「コガネムシ」は真正の「コガネムシ」ではなく、「チャバネゴキブリ」(オオゴキブリ亜目チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ亜科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリ Blattella germanica)だという説が出た。当初、それを読んだ時には「なるほど!」と膝を叩いたものだったが、やっぱりどうも、チャバネゴキブリでは、キモくて、絵本で絵にならないので、直に「しょぼん……となり、憂鬱にもなった。ところが、そのすぐ後で、先に挙げた星野氏のブログの中の、童謡『黄金虫』の謎を読むや、「すっきり!」とし「快哉!」と思わず、叫んだのであった。それによれば、あの童謡「コガネムシ」とはの玉虫(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Elateriformia 下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae に属する種群。狭義にはタマムシ(ヤマトタマムシ)Chrysochroa fulgidissima)だったのである!

 

「吉丁蟲(たまむし)」前項参照。

「刀豆(なたまめ)」マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiataウィキの「ナタマメ」によれば、「鉈豆」とも書き、「刀豆」は「とうず」「たちまめ」(太刀豆)、「帯刀(たてはき)」とも呼ばれた。古くから『漢方薬として知られており、近年では健康食品、健康茶としても一般的に知られるようになった』。『アジアかアフリカの熱帯原産とされ、食用や薬用として栽培される。日本には江戸時代初頭に清から伝わった。特に薩摩では江戸時代は栽培が盛んで、NHK大河ドラマ『篤姫』のワンシーンでも長旅の無事を祈る餞別として送られていた』。『夏に白またはピンク色の花を咲かせる。実の鞘は非常に大きく』、三十~五十センチメートルほどになる、とある。

「蠹蟲(きくひむし)」現行の昆虫学では狭義には昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する「木喰虫」を指すが、本書では既出で、そこでは木質部や紙を有意に食害する多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」の仲間や書物を食害するとされた昆虫綱シミ目 Thysanura の「紙魚」(実際には顕在的な食害は認められないのが事実である)の仲間をも含んでいる語と踏んでいるが、ここはそれらの総称ではなく、それが「化する所の者なり」と言っている通り、所謂、土中のコガネムシ類の幼虫類を指していると考えるべきである。あまり知られていないが、コガネムシ類は幼虫も成虫も庭園の草木類や栽培果樹類の有意な食害虫である。

「草蔓〔(さうまん)〕」草本類や蔓性植物。

「雙〔(さう)〕を成し」雌雄で対を成し。摂餌で群がる性質をかく言ったか。

「死するときは、則ち、金の色、隨ひて滅す。故に粉を以つて養ひて、人をして媚〔(び)〕有らしむなり」「粉」は何の粉なのかは不明。ともかくも玉虫同様の媚薬(催淫或いは恋愛成就の呪(まじな)い)効果としてのそれは、この「金の色」にこそある、と考えていることが判る。だからこそ粉をもって飼って生かしておき、いざという時に、金色の失せぬうちに、服用するか、呪術に用いるということを述べているのであろう。]

2017/09/17

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 吉丁蟲(たまむし)


Tamamusi_2

たまむし 【俗云玉蟲】

吉丁蟲

 

キッテイン チヨン

 

本綱甲蟲也背正緑有翅在甲下人取帶之令人喜好相

愛媚藥也

△按俗云玉蟲是也江州及城州山崎攝州有馬多有之

 婦女納鏡奩以爲媚藥用白粉汞粉藏之歷年不腐雄

 者全體正綠光色縱有二紅線腹亦帶赤色潤澤可愛

 長一寸二三分頗似蟬形而扁小頭其頸有切界露眼

 六足也雌者長一寸許全體黒光澤帶金色縱有同色

 筋脈數行蓋雄者多雌少

    【新六】花咲は露よりけなる玉虫のからを留めて筐とやみん 知家

 

 

たまむし 【俗、「玉蟲」と云ふ。】

吉丁蟲

 

キッテイン チヨン

 

「本綱」、甲蟲なり。背、正緑。翅、有りて、甲の下に在り。人、取〔りて〕之れを帶〔(お)〕ぶ。人をして好相〔(がうさう)〕を喜〔ばし〕、媚藥(こび〔のくすり〕)を愛せしむ。

△按ずるに、俗に云ふ「玉蟲」、是れなり。江州及び城州の山崎・攝州の有馬に、多く之れ有り。婦女、鏡の奩(いへ)に納(い)れて、以つて媚藥と爲す。白粉〔(おしろひ)〕・汞粉(はらや)を用ひて之れを藏(をさ)むれば、年を歷て〔も〕腐ちず。雄は、全體、正綠色に光り、縱(たつ)に二〔(ふたつ)〕の紅線(べにすぢ)有り。腹にも亦、赤色を帶びて、潤澤、愛しつべし。長さ一寸二、三分。頗〔(すこぶ)〕る蟬の形に似て、扁〔(ひらた)〕く、小さき頭〔(かしら)〕、其の頸(くびすぢ)に切界(きれと)有り。露(あらは)なる眼〔(まなこ)〕、六足なり。雌は長さ一寸許り、全體、黒くして、光澤、金(こがね)色を帶ぶ、縱(たつ)に同色の筋脈〔(すぢ)〕數行〔(すうぎやう)〕有り。蓋し、雄は多く、雌は少なし。

【「新六」】はかなさは露よりけなる玉虫のからを留めて筐〔(かたみ)〕とやみん 知家

[やぶちゃん注:「雄は、全體、正綠色に光り、」の部分は原典は「雄者全-體正--色」となっているが、これでは読めないので、敢えて書く読み変えてみた。因みに、東洋文庫の訳は『雄は全体に正緑色で光り、』となっており、私の読み変えたものと同じように訓読したものと思われる。また、最後の和歌は「新撰和歌六帖」(一首の作者である藤原知家が定家の没後に定家の次男藤原為家や家良・光俊らとともに寛元元(一二四三)年に詠んだもの。全部で二千六百三十五首に昇り、所収する知家の詠歌は五百を超える)の「第六」の「虫」にあるが、調べてみると、初句が「花咲は」ではなく、「はかなさは」であるので、特異的に訂した。]

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Elateriformia 下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae に属する種群を広く指すが、中でも、美しい外見を持つことから古来より珍重されてきたのはタマムシ(ヤマトタマムシ)Chrysochroa fulgidissima である。ウィキの「タマムシによれば、『細長い米型の甲虫で、全体に緑色の金属光沢があり、背中に虹のような赤と緑の縦じまが入る。天敵である鳥は、「色が変わる物」を怖がる性質があるため、この虫が持つ金属光沢は鳥を寄せ付けない』とあり、『上翅と下翅のサイズ、面積が大きく違わず、翅を閉じる際には下翅を折りたたむことなく上翅の下に収納する。また、下翅を展開する必要がない分だけ、翅を開いてから飛び立つまでに要する時間も短くて済む』とある。また、媚薬の話はないものの、『この種の上翅(鞘翅)は構造色によって金属光沢を発しているため、死後も色あせず、装身具に加工されたり、法隆寺宝物「玉虫厨子」の装飾として使われたりしている。加工の際には保存性を高める為にレジン』(樹脂)『に包む事もある』とあり、また、『日本には「タマムシを箪笥に入れておくと着物が増える」という俗信がある』と記す。

 なお、次の
「金龜子(こがねむし)」の冒頭注の終りも! 必ず! お読みかれし!! 中には大いにびっくりする人もいるだろう。

……玉虫厨子……ああ……小学校の教科書で読んだ「玉虫の厨子の物語」(平塚武二作)……主人公は「若麻呂」だった……また、読みたくなったなぁ……

 

「好相〔(がうさう)〕」相好(そうごう)に同じい。顔つき・表情。但し、ここは特に男女の戯れを指すようである。

「媚藥(こび〔のくすり〕)」原典では「こび」が「媚」の横に打たれているのでかく読むしかなかったが、まあ、意味では「媚薬(びやく)」ととって良かろう。特にこの場合は、具体的な交合するための精力剤を指しているようである。

「江州」近江国。

「城州」山城国。

「山崎」現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「攝」摂津国。

「有馬」有馬温泉のある現在の兵庫県神戸市北区有馬町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奩(いへ)」鏡を仕舞い置く(入れて蓋をする)匣(こばこ)・容器。元「奩」(音「レン」)は漢代の化粧用具の入れ物(青銅製或いは漆器)で身と蓋とから成り、方形や円形を呈する。この中に鏡や小さな香合に詰めた白粉・紅・刷毛・櫛などを入れた。

「以つて媚藥と爲す」これは先の精力剤ではなく、呪的なそれで、その虹色の光りで以って、女性の顔に男性を誘う媚(こび)、一種のオーラを与えると信じられたのであろう。

「汞粉(はらや)」おしろいの一種で、水銀に明礬・塩・にがり等を加えて加熱して得られる昇華物(塩化第一水銀の白色粉末)。十三世紀頃から、主に伊勢国飯南郡射和村で生産されたため、「伊勢白粉(いせおしろい)」の通称が知られた。白粉以外にも利尿剤・下剤或いは梅毒の治療薬としても用いられた。有毒な水銀ならば、殺菌作用はあるから、玉虫の翅が「年を歷ても腐ち」ないというのはあり得る話ではある。

「縱(たつ)」「縦(たて)」に同じい。

「潤澤」虹色の潤ったような輝きを指す。

「一寸二、三分」三センチ七ミリから約四センチメートル。

「蟬の形に似て」私は全然、似ていると思わない。分類学上も半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea で遙かに縁遠い。

「切界(きれと)」読みの「きれと」は「切戸」で有意な溝状の切れ目のこと。

「露(あらは)なる眼〔(まなこ)〕」眼が飛び出していることを指す。

「筋脈〔(すぢ)〕」私は敢えて二字に「すぢ」と当て訓した。東洋文庫訳は『きんすじ』とするが、その重箱読みは気持ち悪い。私はしたくない。

「雄は多く、雌は少なし」んなこたぁ、ねえ。♂♀が判別し難いだけだべ。判別法は腹部先板の形状の違いで、は交尾器を出すために、先の表面が腹側に凹んでいる

「知家」藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年)は公家・歌人。藤原北家魚名流。正三位・中宮亮。「大宮三位入道」などとも呼ばれた。新三十六歌仙の一人に選ばれている。藤原定家に師事したが、死後、「新撰和歌六帖」でともに詠唱した、定家の後を継いだ藤原為家と不仲となり、反御子左(みこひだり)派の立場に立つようになった。藤原為家の判詞に反論して「蓮性(れんしょう)陳状」(蓮性は彼の法号)を著わした。勅撰集には実に百二十首が入る。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 鑣蟲(くつわむし)


Utuwamusi

くつわむし 轡蟲【俗字】

      【正字未考】

鑣蟲【音標】 

 

△按此蟲莎雞之類翅青腹黃色前脚長疾走跳毎出入

 於穴故多難獲秋鳴聲似馬鑣音因以名之蓋松蟲鈴

 蟲鑣蟲等世賞之而本草不載之唯羅山文集云一蟲

 號轡大無幾誰知鞭策是蒲葦恰似蒼蠅附驥來但在

 口吻不在尾【夫木】駒とめて梺ののへを尋ぬれはをくらにすたくくつわ虫哉 匡房

 

 

くつわむし 轡蟲【俗字。】

      【正字、未だ考へず。】

鑣蟲【音、標。】

△按ずるに、此の蟲、莎雞(きりぎりす)の類。翅、青、腹、黃色。前脚、長く、疾〔(はや)〕く走り跳ぶ。毎〔(つね)〕に穴に出入〔す〕。故に多〔くは〕獲り難し。秋、鳴く。聲、馬の鑣(くつわ)の音を似〔す〕。因りて以つて之れを名づく。蓋し、松蟲・鈴蟲・鑣蟲等は世に之れを賞す。而るに、「本草」之れを載せず。唯、「羅山文集」に云〔はく〕、

 

 一蟲號轡大無幾

 誰知鞭策是蒲葦

 恰似蒼蠅附驥來

 但在口吻不在尾

  一蟲 轡(くつは)と號す 大いさ 幾(いくばく)も無く

  誰か知らん 鞭策〔(へんさく)〕 是れ 蒲葦〔(ほゐ)〕なるを

  恰か〔(あたか)〕も 蒼蠅〔(さうやう)〕 驥〔(き)〕に附きて來たるに似たり

  但だ 口吻に在りて 尾に在らず

 

〔と〕。

【「夫木」】駒とめて梺〔(ふもと)〕ののべを尋ぬればをぐらにすだくくつわ虫哉 匡房

[やぶちゃん注:読み易くするために、林羅山の七絶は前後を空け、各句を白文で、まず、示し、その後に原典の訓点に従った書き下し文を配した。]

 

[やぶちゃん注:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス上科キリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis。鳴き声は別名ともなっている「ガチャガチャ」が一般的なオノマトペイアであるが、私はこの激しい五月蠅い印象の擬音語には幼少期から抵抗がある。私にはクツワムシの鳴き声は「シャッカシャッカシャッカシャッカ」或いは「ジッカジッカジッカジッカ」時に「ジッジッジッジッ」「ジカジカジカジカ」を、ギュッと圧縮して続けたような感じに聴こえる。私の書斎の下の崖には彼らの好物である葛(くず)が繁茂しており、よく鳴いているが、まあ、確かに、松虫や鈴虫のようにずっと聴いていたい部類の鳴き声ではなく、ちょっと五月蠅いと思わないこともない。

「翅、青、腹、黃色」ウィキの「クツワムシ」によれば、クツワムシは『体色の個体変異が大きく、緑色の個体(但し、の背面にある発音器付近は褐色を帯びる)と褐色の個体がある。保護色と考えられるが、両者は同所的に混在し、生息フィールドごとに同じ色の個体群が安定して棲んでいるわけではない』とある。

「本草」「本草綱目」。

『「羅山文集」に云〔はく〕』東洋文庫版の割注に『『詩集』巻五十七、十二虫、轡虫』とある。

「轡(くつは)と號す」ここの「くつは」のルビはママ。轡の歴史的仮名遣は「くつわ」が正しい

「大いさ 幾(いくばく)も無く」本邦のクツワムシは直翅目の中では相対的に大型の部類で(体長は五~六センチメートルほどで、キリギリス科ササキリ亜科カヤキリ属カヤキリ Pseudorhynchus japonicus の七センチメートル弱に次ぐ)、特に体高が高くてずんぐりとしているために、その体側の面積は日本の剣弁(キリギリス)亜目 Ensifera 中では最大である。

「鞭策〔(へんさく)〕」漢詩なので音読みしておいた。東洋文庫訳ではこの二字に『むち』とルビしている。「策」も警策で判る通り、「鞭・杖」の意がある。

「蒲葦〔(ほゐ)〕」東洋文庫訳では『蒲(がま)や葦(あし)なるを』と訓読(ここは和歌などと同じく原典をある程度尊重してある)しているが、これはやり過ぎで、私は従えない。

「蒼蠅〔(さうやう)〕」青蠅(あおばえ)。双翅(ハエ)目ヒツジバエ上科クロバエ科 Calliphoridae のハエ類の中で緑色や青色を呈した種群の俗総称。キンバエLucilia Caesar(以前にも注したが、間違えてはいけないのは、この「金」とは「ゴールド」の意味ではなく、「金」属光沢の蠅の謂いである)が代表格。

「驥〔(き)〕」駿馬。ちょっと意味がとり難いが、轡虫をまさに轡から馬に擬え、鎧を付けたような「蒼蠅」をそれにとまらせた映像を思い浮かべて騎乗の武士に譬えたものであろう。

「但だ 口吻に在りて 尾に在らず」「ただね、馬の轡は口に嚙ませるせるんだから、口の所にあって「がちゃがちゃ」と鳴るのであって、轡虫のように尾の方(前述した通り、♂の発音器は背面にある)にはないぜ」と洒落たのである。可笑し味のなかに羅山の細かな観察力の一端が窺える。

「駒とめて梺〔(ふもと)〕ののべを尋ぬればをぐらにすだくくつわ虫哉」読み易く整序すると、

 駒止めて麓の野邊(のべ)を尋ぬれば小倉に集(すだ)く轡蟲かな

である。「小倉」現在の京都市右京区嵯峨亀ノ尾町にある小倉山(標高二百九十六メートル)。(グーグル・マップ・データ)。「集(すだ)く」は「虫などが多く集まって鳴く」の意の動詞。

「匡房」大江匡房(長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は公卿・儒学者で優れた歌人としても知られた。正二位権中納言。江帥(ごうのそつ)と号した。平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較されたという。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 金鐘蟲(すずむし)


Suzumusi

すゝむし 金鐘蟲

     月鈴兒

金鐘蟲

     【俗云鈴蟲】

 

△按此亦蟋蟀之類眞黒似松蟲而首小尻大脊窄腹黃

 白色夜鳴聲如振鈴言里里林里里林其優美不劣於

 松蟲

    【夫木】 振立てならし㒵にて聞ゆなる神樂の𦊆の鈴虫のこゑ 範光

 

 

すゞむし 金鐘蟲

     月鈴兒

金鐘蟲

     【俗に「鈴蟲」と云ふ。】

 

△按ずるに、此れも亦、蟋蟀(こほろぎ)の類。眞黒なり。松蟲に似て、首、小さく、尻、大きく、脊、窄(すぼ)く、腹、黃白色なり。夜鳴く聲、鈴を振るがごとく、「里里林〔(りりりん)〕、里里林」と言ふ。其の優美(やさし)さ、松蟲に劣らず。

【「夫木」】 振り立〔て〕てならし㒵〔(かほ)〕にぞ聞ゆなる神樂〔(かぐら)〕の𦊆〔(をか)〕の鈴虫のこゑ 範光

[やぶちゃん注:和歌の上句中七は原典は前の通り、「ならし㒵にて」であるが、「夫木和歌抄」(「巻十四」の「秋五」)を調べると、「に」ではなく「ぞ」が正しいので、訓読文では特異的に訂した。]

 

[やぶちゃん注:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus

 コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus との逆転説についてはこれを私は採らない詳細は前項「松蟲」の私の冒頭注を必ず参照されたい

 

「窄(すぼ)く」すぼまって細い。先の方に向かって細くなっているさま。

「腹、黃白色なり」スズムシの翅の下の腹部の上面は黄白色に見える。

「振り立ててならし㒵〔(かほ)〕にぞ聞ゆなる神樂〔(かぐら)〕の𦊆〔(をか)〕の鈴虫のこゑ」読み易く整序すると、

 

 振り立ててならし顏にぞ聞こゆなる神樂の岡の鈴蟲の聲

 

で、「神樂〔(かぐら)〕の𦊆〔(をか)〕」は地名で神楽岡(かぐらおか)。京都市左京区南部の、吉田神社の東方直近にある吉田山(標高百五メートル)の古称である。ここ(グーグル・マップ・データ)。「ならし顏」というのは恐らく「狎(馴・慣)らし顏」で、「狎れ過ぎて相手を侮る・横柄になる」の意の「ならす」を形容詞風にして顏と結合させた名詞で、鈴虫が沢山、遠慮せずに五月蠅い程に(これ見よ(聴け)勝ちに)鳴き立てている様子を指しているものと私は読む。さらにこの歌、「振り立てて」「ならし」(鳴らし)「聞こゆ」「神樂」「鈴」が縁語である上に、「鈴蟲」の「鈴」を山名の「神樂」から実際の神楽舞(かぐらまい)を舞う際に巫女が手に持って振り鳴らす巫女「鈴」・神楽「鈴」に掛けてもあるのであろう。但し、技巧に過ぎていい感じはしない。

「範光」藤原範光(仁平四(一一五四)年~建暦三(一二一三)年)は公卿。従二位権中納言・民部卿・東宮権大夫。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲


Matumusi

まつむし  正字未考

      【末豆無之】

松蟲

 

△按松蟲蟋蟀之類褐色而長髭腹黃在野草及松杉籬

 夜振羽鳴聲如言知呂林古呂林甚優美也凡松蟲鈴

 蟲晝難得夜照燈則慕光來捕之畜于蟲籠用竹筒盛

 水投鴨跖草二三葉毎旦新換水及草掃糞其屎如胡

[やぶちゃん注:「旦」は「且」であるが、意味が通らないので特異的に訂した。]

 麻大暑以後始鳴九十月止

    【古今】 栬葉の散てつもれる我宿に誰を松虫こゝら鳴くらん 無名

 

 

まつむし  正字、未だ考へず。

      【「末豆無之〔(まつむし)〕」。】

松蟲

 

△按ずるに、松蟲は蟋蟀(こほろぎ)の類、褐色にして、長き髭、腹、黃、野草及び松・杉の籬(かき)に、夜、羽を振〔るひ〕て鳴く。聲、「知呂林〔(ちろりん)〕、古呂林〔ころりん)〕」と言ふがごとく、甚だ、優美なり。凡そ松蟲・鈴蟲、晝、得難し。夜、燈を照らせば、則ち、光を慕(した)ひて來る。之れを捕へて、蟲籠(むしこ)に畜〔(か)〕ふ。竹の筒を用ひて水を盛り、鴨跖草(つゆくさ)二、三葉を投〔じ〕、毎旦、新たに水及び草を換(か)へ、糞を掃(はら)ふ。其の屎〔(くそ)〕、胡麻〔(ごま)〕のごとし。大暑以後、始めて鳴く。九、十月、止む。

【「古今」】 栬葉〔(もみぢば)〕の散りてつもれる我〔(わが)〕宿に誰〔(たれ)〕を松虫こゝら鳴くらん 無名

 

[やぶちゃん注:ズバリ、結論、から言おう。これは図及び鳴き声から見て、正しく、現在の、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus

である。高校の古文の教科書の注には、まことしやかに(或いは十把一絡げに)平安時代(国文学者の「源氏物語」「古今和歌集」の注釈や「広辞苑」の記載等)、或いは、もっと広げて、江戸時代以前は現在のマツムシはスズムシ(コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus)であったとし、一部の近現代の教養書籍類では、明治時代にそれぞれの当該種に和名を与える際に逆に命名してしまったという〈トンデモ真相〉を鼻高々に掲げてあったりする。かく言う私も、かつてそう授業で言い続けて来た付和雷同の凡百の一人であるのだが、例えば、この「和漢三才図会」のこの記載を見るにつけ、

現在の私は、この説はほぼ完全に誤りであると断言したい

のである。

 まず、一部の古典籍に於いて、両者に混同があったという記載は確かにある。これに就いては幾つかのネット記載が解説を記しているが、私は個人サイト「タコツボ通信」の中の「文学にでてくる昆虫 古典編」の『「松虫」と「鈴虫」の呼称について』が最も判り易く、優れたものであると感じている(なお、フェイスブックの「古典一般」という方のこちらの記載に平安期の逆転肯定説(国文学者今西祐一郎氏のもの。但し、「広辞苑」に載る逆転説を『試案』と留保しての肯定)をうまくコンパクトに纏めた「平安時代、鈴虫はなんと鳴いたか」もある)。この「タコツボ通信」の方は、私と同じく、逆転などしていないという結論を提示されている。そこで、逆転説の有力な証左の一つとして、江戸末期の松浦静山の随筆「甲子夜話」の一節(百巻の第三話の後半。因みに私は「甲子夜話」の電子化注も手掛けている。全然、進まないが)の梗概を現代語訳されておられるが、ここは私が原典を引いておくこととする。底本は東洋文庫を用いたが、恣意的に漢字を正字化し、二重鍵括弧は鍵括弧に代えてある。踊り字「〱」「〲」は正字に変えた。但し、この「松虫鈴虫の弁」というのは静山の文章ではなく、成嶋勝雄(本条の前半はその父成嶋道筑の和歌が主体)なる人物の文章の引用であるので注意されたい。下線太字は私が附した。

    *

  松蟲鈴蟲の辨

物の名などおぼつかなきを、しゐてあなぐりもとめんこそ、いとものぐるをしけれ。俊成卿のしのゝ藥草、いかなるものぞともさだかならねど、たゞその名のゑんにやさしければ、ちらすなよとはよませられけん、ゆくにうるはしき道のをしへなるべき。されど又登蓮法師がまそほしの薄とみに尋ゆきけんも、さるかたにすきたる心のやうゐありてまたおかし。このほどそれの御つぼねより、都にしては松むしといへるは色くろく、鈴むしはあかきをいへり。あづまの人はおほくそのとなへたがひたり。いづれかいつれか、そのよしわきまへよとあれど、武さし野のかぎりなきおろかさにして、いかでそのなのりのたがひめわきまへ侍らん。なれどしゐていなみがたくて、をのづからさることや見出るとて、ふづくえのあたり所せきまで、ふみどもひもときちらしぬ。抑蟲のねをことにめでおはしましけるは、堀河院の御時にして、藏人頭以下を嵯峨野に逍遙せさせて、松蟲、鈴蟲を奉らしめ給へるよし、順德院の「禁祕抄」に見え、「公事根元」にもむしゑらみの事同じ如くしるさる。又「堀河院次郎百首」の題にも松蟲、鈴蟲を出され、松蟲は「古今集」に貫之の人まつ蟲とよめるによりて、俊賴、忠房その餘の人々も皆野原の夜寒によせ、常盤山の麓のさびしさにつけて侘ぬるよしを詠じ、鈴蟲は、はしたかの尾ぶさの鈴かと聞まがふよしを顯仲よみ、驛路の鈴かとおぼめしなど仲實のよまれける。その外世々の撰集、あるは順の「和名」をはじめ、「袖中抄」「八雲御抄」「藻鹽草」などにも、まつといひ鈴といふ、ゆかりにつきたることのはのみあまたあつめて、これがすがたのかうやうにして、そのなくこゑのかくこそはなけと、さだかにしるせしはつやつや見る所なし。まいて漢がたのふみには、「本草綱目」よりはじめ、きりぎりす、はたをりのうへのみあきらかにしるし置て、この二蟲の事は露あらはさず。近き比の陳淏子(チンカウシ)が「花鏡」に、金鐘兒燈(トウ)稜々(リヤウリヤウ)となき小鐘のごとしとかけるを、平賀といへるがまつむしといへる訓をつけし。こや都の手ぶりにならひしなるべし。白石といへりし人の「東雅」といへるふみには、螽斯のたぐひといへるのみしるし、貝原篤信といへる翁が、しきしまの『やまと本草』には、松むしはきりぎりすに似てひげあり。鈴蟲はそのさま西瓜といへるものゝ種のごとく、黒くひらひらして、首さゝやかに、ひげなかば白く二條ありといへり。翁は筑前の人にて都よりはじめ東のはてまでもあまねくあそびありきて、かゝるものゝ上もひろく見、せちにあきらめたる翁ぞかし。これやあづまうどのいへるにかなひたるらんと覺ゆ。こゝに「源氏物語」のすゞむしの卷に、六條院のことばにいへらく。聲々聞えたる中に鈴蟲のふり出たるほど、はなやかにおかし。秋の蟲の聲いづれとなき中に松蟲のなんすぐれたるとて、中宮のはるけき野邊を分て、いとわざと尋とりつゝ、はなたせ給へる、しるくなきつたふがこそすくなかなれ、名にはたがひて、命のほどはかなきむしにぞあるべき。心に任て人きかぬおく山はるけき野の松原に、聲おしまぬもいとへだて心ある蟲になん有ける。鈴蟲は心やすく、いまめひたるこそらうたけれとかけり凡松蟲は人げ遠き所にひとり心ぼそげに鳴おれるより、人まつ名にたちそめ、鈴蟲はをのが名を聲にふり出たるなるべし。さればいさゝか此ものがたりに、此むしどものこゑのやうをしなわかたれしを證とし、かの貝原翁が説にしたがひ、しばらくあづまうどのいひつぎのまゝに心うべきにや。猶ものさだめのはかせに、とほまほしくこそ。

   *

この内容の冒頭の部分の下線太字だけを見ると、「たこつぼ通信」氏が纏める通り、松虫と鈴虫は『江戸時代には京都と東京で呼称が逆になってしまっ』ていたということになり、『当然ながら、前提として京都の呼称が伝統的に正しいと考えるから』、本来の松虫と鈴虫は『今と逆だったという結論になる』ことになってしまうのである。

 以下、「たこつぼ通信」氏はそれぞれの鳴き声のオノマトペイアの表記記載や体色を主として、江戸(鈴虫と松虫の逆転を語るものが多い)から平安の「源氏物語」まで遡って行かれるているのである(引用したい強い欲求にかられるが、多くの書籍を渉猟され、考証なさっておられ、軽々に引用することが私には憚られる(それほど素晴らしい)。その過程はリンク先をじっくりとお読み戴きたい)。

 それでは逆転説の濫觴とも言える「源氏物語」ではどう書かれてあるか? 「たこつぼ通信」氏は実に逆に逆転説を否定するために「鈴虫」の帖を引くのである。その前後の「源氏物語」の原典を大幅に引いて以下に示す。光(院)が出家した正妻女三の宮(尼)のために六条院の彼女の屋形のそばに庭を新造し(『秋頃、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせ給へり』)、彼女を誘うために、『この野に蟲ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、 渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたま』ふたが、固辞するという前段を経て、光が八月十五夜、逆に三の宮がその庭を眺めつつ、誦経をするところに光が訪れる。台詞の頭に人物を示した。下線太字は私が附した。

   *

十五夜の夕暮に、佛の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦し給ふ。若き尼君達二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏(あかつき)の音(おと)、水のけはひなど聞こゆる、さま變はりたる營みに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡り給ひて、

光「蟲の音(ね)、いと繁(しげ)う亂るる夕(ゆふべ)かな。」

とて、我れも忍びてうち誦(ずん)じ給ふ阿彌陀の大呪(だいず)、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、聲々聞こえたる中に、 鈴蟲のふり出でたるほど、はなやかにをかし。

光「秋の蟲の聲、孰(いづ)れとなき中に、松蟲なむ優れたるとて、中宮の、遙けき野邊を分けて、いと、わざと、尋ね取りつつ、放たせ給へる、しるく鳴き傳ふるこそ少なかなれ。 名には違(たが)ひて、命のほど、はかなき蟲にぞあるべき。心にまかせて、人聞かぬ奧山、遙けき野の松原に、聲惜しまぬも、いと隔(へだ)て心ある蟲になむありける。鈴蟲は、心易く、今めいたるこそ、らうたけれ。」

などのたまへば、宮、

 

 おほかたの秋をば憂しと知りにしを

       ふり棄てがたき鈴蟲の聲

 

と忍びやかにのたまふ、いとなまめいて、あてにおほどかなり。

光「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ。」

とて、

 

 心もて草の宿りを厭へども

       なほ鈴蟲の聲ぞふりせぬ

 

など聞こえ給ひて、琴(きん)の御琴(おほんこと)召して、珍しく彈き給ふ。宮の御數珠(ずず)、引き怠り給ひて、御琴(こと)に、なほ、心入れ給へり。

   *

「たこつぼ通信」氏はこの下線太字部分の幾つかから、そこで優れていると光が言う「松虫」について、

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部に字間を入れたり、除去したりさせて貰った。]

1 遠くの野辺まで特別に探して採って来た

2 生命力の弱いはかない虫

 これは現在の松虫そのものではないか。

 鈴虫は家庭で誰もが簡単に飼える生命力の強い虫だから明らかにここに述べられた虫とは違う。

 松虫は今でも飼育に成功した人はほとんどいない。庭に放しても殖えることはない。

 結論=源氏物語のころの鈴虫松虫は今と同じものを指していた。ただし、一般庶民はどちらがどう鳴くかなどほとんど興味はなく、鈴虫なら縁語として「ふる」「なる」などを用い、松虫なら「待つ」と掛け詞にして使うという詞の上のイメージだけは共通していた。

   《引用終了》

と述べておられるのである。激しく同感した。私は向後、国語教科書から、かの逆転断言注は断然、排除すべし! と訴えておく。「広辞苑」も「とする説がある」と附記すべきである!

 最後に一言言っておくと、実は現在はもっと面倒なことが起こっている。それは全然別種で、姿(全身が鮮やかな緑一色(但し、は背中部が褐色を呈する)で体型は紡錘形を成す)も鳴き声も異なる、しかも明治期の外来侵入種と推定されているコオロギ科マツムシモドキ亜科マツムシモドキ族 Truljalia 属アオマツムシ Truljalia hibinonis なる輩が都市部を中心に爆発的に繁殖しており、現在ではこれもマツムシと混同されてしまっているおいう呆れ果てた事実があるのである。

 

「鴨跖草(つゆくさ)」単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ツユクサ亜科ツユクサ属ツユクサ Commelina communis。この表記(「おうせきそう」現代仮名遣)は漢名で、本邦では主に本種を天日乾燥させた生薬名として用いられるようである。花の色が鳥のカモ(鴨)の頭に似ていることに由来する。現在、一般には圧倒的に「露草」で知られるが、ウィキの「ツユクサによれば、『朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説がある。英名の Dayflower も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持つ。また「鴨跖草(つゆくさ、おうせきそう)」の字があてられることもある。ツユクサは古くは「つきくさ」と呼ばれており、上述した説以外に、この「つきくさ」が転じてツユクサになったという説もある。「つきくさ」は月草とも着草とも表され、元々は花弁の青い色が「着」きやすいことから「着き草」と呼ばれていたものと言われているが、『万葉集』などの和歌集では「月草」の表記が多い。この他、その特徴的な花の形から、蛍草(ほたるぐさ)や帽子花(ぼうしばな)、花の鮮やかな青色から青花(あおばな)などの別名がある』とある。私は、昔、臼 で搗いて染料としたとも聞くから「搗き草」だと思っていた。

「大暑」二十四節気の第十二。通常は旧暦六月の内で、ここは期間としてのそれであるから、陽暦に換算すると、七月二十三日頃から立秋(旧暦では六月後半から七月前半)の前日八月六日までとなる。

「栬葉〔(もみぢば)〕の散りてつもれる我〔(わが)〕宿に誰〔(たれ)〕を松虫こゝら鳴くらん 無名」「古今和歌集」の「巻第四」の「秋歌上」に出る詠み人知らずの一首(二〇三番歌)。「栬」は「紅葉」(もみじ)と同義。老婆心乍ら言っておくと、「こゝら」は場所ではない。副詞で「こんなに多く・頻りに」の意である(昔、試験によく出した)。男が訪ねてこなくなった女が来ぬ男を「待つ」悲愁を詠ったもの。]

2017/09/16

「河童曼荼羅」火野葦平画河童図二葉 / ブログ・アクセス1000000突破記念として火野葦平「河童曼荼羅」をこれにて完遂とする

[やぶちゃん注:既に「後書」の注で述べた通り、底本国書刊行会による復刻版に敬意を表するため、同書に挿入された全部の火野の河童の絵や詩篇・揮毫類を画像化することは敢えてしない。ご自分で金を払って購入されたい。ここでは私が特に気に入っている冒頭の挿絵群の最初の一枚「河童孤獨」と最後の一枚「河童合戰圖」を示して、取り敢えず、二〇一二年七月二十一日に開始した、カテゴリ『火野葦平「河童曼荼羅」』は終りとしたい。この二枚に就いては画像補正を加えていない。或いは、気が向いたら、手書きの詩篇や戯文は活字電子化するかも知れぬ。……五年か……長いようで、短かったな……]


Kappakodoku

Kappakassenzu


火野葦平「河童曼荼羅」敘   佐藤春夫

 

Orikutisinobukappa

 

[やぶちゃん注:標題頁左下に配された折口信夫の河童の絵。池田彌三郎蔵品。後書」を参照されたい。]

 

 火野葦平は才情を兼ね備へて多藝多能な文人である。その人重厚にして放膽、朴訥にして任俠の風あり襟度の大なる僕の最も欽慕するところ。檀一雄が彼の爲人を稱して戲れに九州の大統領と呼ぶも亦故なきに非ず。

[やぶちゃん注:「襟度」(きんど)とは、立場や考えなどが異なる人を受け入れるだけの心の広さのこと。「度量」と同義。

「欽慕」(きんぼ)とは、敬い慕うこと。「敬慕」に同じい。

「爲人」老婆心乍ら、「ひととなり」と訓ずる。]

 彼の奔放不羈超凡の詩想は世上低俗の人情風俗を爲すを以って足れりとせず、假るに河童のローマン的生態を以つてして人生を寓し、また胸中の磊塊を遣る。

[やぶちゃん注:最初の「以って」の拗音はママ。

「奔放不羈」(ほんぱうふき(ほんぽうふき))の「羈」は「馬を繫ぐ」の意で、「不羈」は、そこから転じて、束縛を受けずに自由なことを指すから、常識や規範にとらわれずに、自分の思うままに振る舞うことを指す。

「磊塊」は「らいかい」と読み、「磊嵬」「磊磈」等とも表記する。見て通り、「多くの石が積み重なっていること」の意で、転じて、胸中に積み重なった不平を指す。]

 芥川龍之介のカッパはその知性によって成る人間生活の諷刺であったが、火野の河童はひとり知性のみの産物ではなく、その情意を傾けて成る。その人の相違は自ら文の差となって現はれ、火野の河童の生態が芥川が白眼を以って見たるものと異るは言を俟たぬ當然であるが、僕が芥川の白眼に見たるカッパを喜ばず寧ろ火野が靑眼を以つて河童を見るを愛好するのは、僕が火野とともに南國の田舍者として、その性情の芥川に遠く火野に近いものがあるためか。その故は自らも未だつまびらかにしないが、火野川の河童の芥川のそれに優るとも劣らぬ詩美のあるは疑はぬところである。

[やぶちゃん注:「僕が」「南國の田舍者」佐藤春夫は和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)生まれである。]

 僕、一昨年筑後野に櫨紅葉を探つて一日、火野らの導くがままに博多の旅亭の水炊きに名を得たる水樓に赴くに、席上、火野が描くところの水墨河童合戰圖の衝立があつた。傍人の私語によれば、火野の初戀びとが現にこの樓に來り働いてゐるため、火野はしげしげと足をここに運んで酒を呼び、杯を重ねて興の到る每に河童の軍勢を少しつつ描き添へ寫し加へて終にこの兩軍雲霞の大兵の混戰となると、蓋し敗戰昔時の鬱懷を屁のカツパとここにこの戲畫を成したのであらう。宴酣に及んで火野は僕をしてこの圖に贊をせしめた。僕も醉餘の惡筆を捧つて卽興の戲詩を題するを辭しなかつた。

[やぶちゃん注:「櫨紅葉」「はぜもみぢ」と読む。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の葉は秋美しく紅葉する。

「水樓」湖水や河川に臨んで立つ楼閣。後書」にあるように、鶏の水炊きで知られる「新三浦」。現在の福岡県福岡市博多区石城町の御笠川川畔にある。

「酣」老婆心乍ら、「たけなは(たけなわ)」と読む。]

 今また彼の河童曼荼羅の成らんとするに當つて敍文を僕に徴するも亦、先年、河童合戰衝立に惡詩を題せしめた因緣のつづきであらうと、禿筆を一呵してここに不文を敢て辭退せぬ所以である。

 

   昭和丙申秋はじめ

                  信州北佐久山中延壽城にて

                          佐藤春夫話す

 

[やぶちゃん注:「禿筆」(とくひつ)は穂先の擦り切れた(ちびた)筆で、転じて、自分の文章や筆力を謙遜していう語。

「昭和丙申」丙申(かのえさる)は昭和三一(一九五六)年。本書刊行は翌年五月。

 以下、「目錄」が続くが省略する。但し、その標題左下に配された宇野浩二の河童図を最後に示しておく。]

 

Unokoujinopkappa

 

「河童曼荼羅」 後書 河童獨白   火野葦平

 

 

Marukisuma

[やぶちゃん注:以上は標題頁の左下に添えられた丸木スマ(明治八(一八七五)年~昭和三一(一九五六)年)の絵。彼女は七十歳を過ぎてから絵を描き始め、以下の本文で火野が言うように、実際に「おばあちゃん画家」として有名になった女性画家。かの「原爆の図」で知られる画家丸木位里の母で、彼とその妻俊の勧めで絵筆を執った。原爆の図丸木美術館公式サイト内の「丸木スマ」によれば、『長く家業の船宿や野良仕事をしながら』、『子どもを育ててきたスマは、以来、八十一歳で『亡くなるまでに』、七百点を『超える厖大な数の絵を描』いた。『「そんなに描いたら疲れるでしょう」と俊がいうと、「畑の草取りにくらべたら遊んでいるようなものだ」と答えた』といい、『その天衣無縫で奔放な作風は画壇に認められ』、昭和二六(一九五一)年に『初めて日本美術院展に入選』し、その二年後には『院友に推挙され』た、とある。] 

 

   後書 河童獨白

[やぶちゃん注:「河童曼荼羅」の後書き。なお、この後に、出版当時、葦平の秘書であった仲田美佐登氏の「跋 編集覺書」(クレジット:昭和三二(一九五七)年四月一日)が載るが、恐らく氏の著作権は存続しているものと思われるので、電子化しない。その後に「畢」と書かれたページがあり、その次(白紙)の次が奥付となる。奥付に捺された印は『河伯淵主』と読める。その右には筆者の家紋か(火野の本名は玉井勝則)「橘紋」が印刷されてある。

 本篇中には多くの人名・地名・書名及び河童の異名が出るが、それら総てに注をしているとエンドレスになるので、原則、私が全く知らないもののみに限った。失礼乍ら、私も実は河童フリークであり、通常の方よりは河童に詳しいので、悪しからず。] 

 

 あなたは何の年ですかときかれると、私はカツパの年だと答へることにしてゐる。「カツパの年なんてありますか」「ありますとも。ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、ミ、カツパ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、ヰ」もつとも、私は干支(えと)なんて信用してゐないし、易(えき)でいふやうに、人間の性格や運命が生まれ年のエトによつて左右されるなどと考へたこともないから、なんの年だつてかまはない。しかし世間には案外十干十二支にこだはつてゐる人たちが多いし、よくたづねられるので、カツパの年と答へることにしてゐるわけである。私は明治三十九年十二月三日生、いはゆる丙午(ヒノエウマ)である。だから、カツパをミとヒツジの問にしてゐるのである。しかし、私は正式な戸籍面では明治四十年一月二十五日生になつてゐる。なぜさうなつてゐるかは、「花と龍」といふ小説に詳述したので、ここでは繰りかへさない。

[やぶちゃん注:「花と龍」昭和二七(一九五二)年四月から翌年五月まで『読売新聞』に連載された長編小説。明治中期から太平洋戦争後の北九州を舞台とした著者の父玉井金五郎(若松(現在の福岡県北九州市若松区)の沖仲仕で玉井組組長)と妻のマンの夫婦を主人公とした実録に近い大河小説で葦平自身の自伝性も強い。以上はウィキの「花と竜」を参照した。但し、私は未読なので、生年が異なる理由は知らない。]

 

 また、私にむかつて、よく、カツパは實際にゐるものですかときく人も多い。私がカツパを主人公にした作品をたくさん書き、酒席などで興がいたるとやたらにカツパの繪を描きちらすからであらう。しかし、この質問ほど私を當惑させるものはない。仕方なく、私は、どうぞ私の作品を讀んで下さいと答へる。すこしおどけて、作家は眞實を語るものであるから、作品にあらはれてゐるとほりですといふ。さういへば、私もこれまでずゐぶんカツパ作品を書いて來たものだ。今ここに集めてみて、ためいきのやうなものを感じる。最近はカツパブームとやらがはびこつてゐるさうだが、無論、私のカツパはそんなブームや流行とはすこしも關係がない。私はどんな場合でも流行や風潮やオポチユニズムからは背をむけてゐたいと考へてゐる。カツパが跳梁(てうりやう)するのは、たいてい亂世か、上に惡い政府や大臣がをり、これが愚劣な政治家たちといつしよになつて、國民を苦しめてゐる惡政の時代といはれてゐるから、現在のカツパの跋扈(ばつこ)はそのためにちがひない。私が最初のカツパ作品「石と釘」を書いたのは昭和十五年であつた。これは古くから私の郷里の街、九州若松に傳はつてゐる話に多少の潤色を加へたものだが、背中にカツパ封じの釘を打たれた石地藏は、現在でも、高塔山(たかたふやま)の頂上にある。高塔山は海拔わづか四百尺、若松市街地の背後にそびえてゐるが、丘の親分ほどの高さなので、散步にはちやうどよく、この頂上からの見晴らし、特に夜景は東洋一だと私はすこし冗談めかしていく度も作品のなかに書いたことがある。數年前から、祇園の夏祭といつしよにカツパ火祭といふ行事がはじまつた。町内でそれぞれ獨創的なカツパ人形を作り、コンクールをやるのである。夜は八時くらゐから、數千本の炬火(たいまつ)をかざした群衆が列をなし、列中にカツパ人形を加へて高塔山に登る。この火の行進は美しい。公園になつてゐる頂上では、「石と釘」の傳説にちなんで、山伏たちやカツパの群がページュントをやり、炬火は全部燒いてしまふ。別に祭壇をしつらへて、中央にカツパ大明神を安置し、皿用特級水の一升びんや胡瓜を獻じて、祭文を奏上する。このカツパ祭文を私が讀む。去年のは、カツパの神通力とヒユーマニズムとをもつて、この地球上から原水爆と戰爭の恐怖を驅逐(くちく)してもらひたいといふ意味のものであつた。冥土の芥川龍之介や佐藤垢石老から花環が來たり、關門海映の女カツパ頭目海御前(あまごぜ)から挨拶狀が來たりする趣向である。古くからカツパ祭をやつてゐるのは、大分の下毛郡(しもげぐん)下郷(しもがう)や、日田(ひだ)の八幡神社、久留米(くるめ)水天宮などをはじめ少くない。カツパはかうして私たちのなかに生きてゐる。小學生のころ、母たちに、川や海に行くときには、カツパに尻を拔かれないやうにといつも注意された。どこの誰それはカツパに引かれたといふ話もきかきれた。その時分から、すこしづつカツパは私の體内に棲みこむやうになつたのかも知れない。全國にあるさまざまのカツパの傳説を調べることは、私の樂しみの一つになつた。カツパの話を古老にきくために、わざわざ出かけたことも一皮や二度ではない。そして、この瓢逸な傳説の動物のよろこびや悲しみや怒りやが、しだいに私自身のよろこびや悲しみや怒りと合致する氣配を感じるやうになつたとき、カツパは私の宿命となつたのである。もともと私は妖怪變化のたぐひが好きであつたが、カツパのやうに、私の身内深く入りこんで來たものはなかつたし、カツパのやうに、私の救ひになつたものもない。詩と小説との間を彷徨(ほうこう)しながら苦しんでゐたとき、私にむかつて灯をさしだしてくれたのがほかならぬカツパであつた。しかし、それが作品の形になつてあらはれたのは、前述したとほり、「石と釘」が最初である。その同じ年「魚眼記」を着いた。これは昭和十五年十一月號の「文藝」に發表されたものだが、同じ月の「改造」には、「幻燈部屋」が載つてゐる。私はこのむづかしい作品で苦吟してゐる最中に、「魚眼記」を書いたのである。詩と小説との結び目ににじみでる憂愁のかげりがカツパの形を借りたのかも知れない。かういふ風にして、戰爭中にも、「白い旗」「千軒岳にて」などのカツパ作品を次々に書いた。長い恐しい戰爭が敗北に終つても、私の愛するカツパは幸にして生きのこつた。そして、戰後も機會あるごとに、私はカツパを書きつづけて來たのであるが、いま集めてみると、最近作「花嫁と瓢簞」まで、長短あはせて四十三篇、四百字詰め原稿紙にして千枚を超えてゐる。もつとも十五年間に書いたものとすれば、さうおどろくほどの量ではなく、むしろ少いといへるかも知れない。もつとカツパに夢中になつてゐたならば、百篇を超え、枚故も三千枚に達してゐたであらう。しかし、これらの作品は私が小記を書く片手間仕事だと人々に思はれ、私自身もそんなにカツパばかりを書いてゐることはできなかつた。けれども私はけつしてカツパを片手間に書いたわけではなく、どんな短い作品にも打ちこんで取り組んだし、すこし大仰にいへば、一つのカツパ作品ができあがることは、五百枚の長篇が完成されると異らないほどのよろこびであつた。そして、いま思ふのである。毀譽褒貶(きよはうへん)はともあれ、これはたしかに、私のライフ・ワークの一つである、と。

[やぶちゃん注:本段落内で語られている祭りは現在も「若松みなと祭り」の中の「高塔山火まつり」として行われている。若松区の公式サイト内のこちらを見られたい。また、筆者が高塔山の夜景を推奨しているので、グーグル画像検索「高塔山 夜景」をリンクさせておく。私は残念ながら、修学旅行の引率や乗換えの待ち時間のために福岡駅周辺に足を降ろしたきりである。]

 十五年間の世のうつりかはりに、私のカツパもさまぎまの影響を受けた。しかもこの十五年間は平和の時代とはちがつてゐたために、私のカツパもよろこびよりも悲しみの方が深かつたやうに思はれる。私のカツパ作品の悲しさや重苦しさを批評家に指摘されたこともある。しかし、カツパがいつもよろこびや樂しさをうしなふまいとし、美しいもののためにはどんな獻身をもいとはなかつたことも認められなければならない。また、カツパは正義と信義と眞實とをも愛してゐる。カツパが現實と象徴との問題を解明する一つの役を果さうとしたこともあらう。さういふカツパの眞摯な姿は、外目には滑稽や道化やとぼけたものに映りがちだが、そして、それがどんなにをかしからうとも、カツパがまじめであることに變りはない。暗愚なるものはカツパであるといはれても、その暗愚さこそがカツパの生命なのである。しかし、私はカツパを觀念化して、無理に諷刺(ふうし)の具にしたくなかつた。結果においてなにかの諷刺になつたとしても、血肉の通つたカツパそれ自體の喜怒哀樂を、自然のままに放置することをつねに心がけた。つまり、あまり鹿爪らしい屁理屈をカツパ作品にこじつけまいと考へたわけである。私は芥川龍之介の「河童」を愛讀はしたけれども、あんな風にカツパを諷刺のみのために踊らせることは好まなかつた。私のカツパは混亂してゐるかも知れない。しかし、それでよいのだと思つてゐる。ただ、次々に書いて行きながら、その形式、スタイルやレトリツクには多少の工夫をこころみた。このため、小説、散文詩、物語、對話、獨白、演説、手紙、芝居、などとさまざまな形になり、一人稱、二人稱、三人稱と、必然的に、これも數とほりに分れた。十五年間を經てゐるので、文章や文字の使ひかたにも統一を缺いてゐるし、出來不出來もあるが、それは改めないことにした。一つ一つ、そのときどきの思ひ出があり、書いたときの氣分があらはれてゐるので、それを尊重したのである。ただ、假名づかひだけは舊假名に統一した。なにも歷史的假名づかひにこだはるものではないが、新舊入りまじつてゐてはみつともないからである。作品の配列は製作年代順によらず、同じスタイルのものが重複しないやうに目次を作つた。また、一つ一つが獨立した短篇ではあるけれども、多少は連關したり、續いたりしてゐるものもあるので、それは前後しないやうにした。とはいつても、詩集のやうに、どこから讀んでもらつてもかまはないのである。むしろ、氣まぐれに開いたところを好手に讀んでもらつた方が、カツパの變幻自在さにかなふものかも知れない。ただ、作者としては、自分の才能のまづしさが眞にカツパの變幻自在な本領を書きつくし得なかつたことを悲しむのみである。

 カツパの傳説は全國いたるところにある。古い文獻の中にもカツパはいくらでも探しだすことができる。「和漢三才圖會」「甲子夜話」「水虎義略」「物類稱呼」「利根川圖志」「本草綱目釋義」「善庵隨筆」「倭訓栞」「本朝食鑑」「ありのまま」「筑庭雜錄」「本朝俗諺誌」「閑窓自語」その他のなかには、いろいろなカツパが紹介されてゐる。また、カツパは日本だけではなく、西洋にも、ニクゼン、ワツセルロイテといふカツパに似た水中動物がゐるといふし、中國には、あきらかに、水虎や河伯がゐる。水蘆、水唐、水もカツパの一族にちがひない。「西遊記」で、三藏法師のお伴をして行く孫悟空、猪八戒、沙悟淨のうち、悟淨はカツパといはれてゐるし、五朝小説の「神異經」のなかには、赤い鬣(たてがみ)のある白馬にまたがり、十二人の家來をしたがへて、風のごとく水上を疾走して行く河伯が書かれてゐる。「酉陽雜俎」には、馬でなくて二頭だての龍を駁して行く河伯が活躍し、「事文類聚」には、女に惚れてこれを女房にしようとしたが、まんまと逃げられた助平カツパのことが出てゐる。私は「兀然堂(きつぜんんだう)」のカツパといふ張子人形を持つてゐるから、朝鮮にもゐるにちがひない。琉球でも、川にゐるカーガタモ、ガジユマルの樹に棲むキジムナー、火をもてあそぶ喜如嘉(きじよか)のブナガヤなど、カツパの類と思はれる。しかし、カツパは日本において、(琉球もむろん九州の沖繩縣ではあるが)もつとも獨特で溌溂とした存在になつたのである。しかし、各地方で生態はすこしづつちがひ、名辭も異つてゐる。私たちの北九州では、カツパといつてゐるが、南九州に行くと、鹿兒島では、ガラツパ、宮崎では、ヒヨウスンボ、大分では、カワノトノ、佐賀ではヒヨウスへといふところがある。橫山隆一君の話によると、土佐ではシバテンと稱するさうだ。ガアツパ、ガタロ、ガワラ、川小僧、川太郎、カワコ、ガゴ、ミヅシ、エンコウ、ガソ、コマヒキ、ゴンゴウ、ネネコ、など、地方によつて、さまざまに呼ばれる。そして、概して北方のカツパは孤獨で思索的であり、南方のカツパは集團をなして行動的であるやうだが、頭に皿があり、これが生命力の根源で、皿に水のあるときは強いけれども、水がなくなると弱くなる點はどこも共通してゐるやうだ。宮崎地方のカツパについては、中村地平さんがよく書いてゐるが、ヒヨウスンボは空を飛び、樵夫(きこり)の小屋を打ちほがしたり、風呂に入つたりするらしい。秋口になると、集團をなして烏のやうに鳴きながら川をくだるといふ。また、全國いたるところに、カツパから傳授されたといふ傷膏藥があり、カツパの手と稱するものや、カツパの詫證文も、方々に殘つてゐる。カツパは古くから文獻にもあらはれてゐるから、江戸時代の浮世繪にも多く描かれてゐる。歌麿にも面白いカツパの繪がある。私は嘗て、西田正秋氏(藝術大學教授)の家をおとづれて、その豐富なカツパ繪と文獻の蒐集におどろいたことがあるが、カツパを愛する人は昔からたくさんあつた。小川芋錢、佐藤垢石、芥川龍之介、淸水崑といふやうな人たちは、カツパによつてユニークな藝術境をひらいたものといへよう。特に、芋錢子の「カツパ百態」は私をうならせる。芋錢はカツパの實在を信じきつてゐたといふから、そのカツパには不思議な迫眞力がある。美しいのはいふまでもない。最近、名取春仙畫伯のきもいりで、私も芋錢のカツパ七枚を手に入れ、時折とりだしては悦に入つてゐる。長崎の旅亭「菊本」にある芥川龍之介の「河童晩歸の圖」には肌を冷えさせるやうな鬼氣がある。銀屛風に墨一色でかかれた瘦せ細つたカツパは、日暮れてどこへ歸るのであらうか。私にはどうも地獄へのやうに思はれ、芥川龍之介の文學の悲劇を象徴してゐるやうで、見てゐるのが息苦しい。明朗潤達なのは淸水崑君のカツパだ。最近は女カツパにすさまじい色氣さへ出て來た。しかし、昆君はへソと耳とをわざとかかないことによつて、エロチシズムの節操を保つてゐる。私はこれまで、カツパ作品を集めた本を數册出してゐるが、早川書房版「河童」(昭和二十四年刊)には、淸水君が二十數葉の插繪をかいてくれた。ところが、その繪は簡單にできたのではない。本文はとつくに刷りあがり、出版社はただ繪の完成を待つばかりになつてゐたのに、崑君がなかなかかかない。ほつたらかしてゐるわけではなく、苦心慘憺してゐる樣子だつた。本屋の方は鎌倉に行つて泊りこみ、となりの部屋でがんばつてゐるが、崑ちやんはかいては破り、破つてはかき、一向にすすまない。たうとう繪のために出版が半年おくれてしまつた。しかし、できあがつたカツパの繪はすばらしかつた。それから、淸水君は急に自信がついたやうに猛烈にカツパをかきだし、現在のやうに、カツパといへば崑ちやんみたいになつてしまつたのだが、その直接の動機が私の本のためなので、いまでも、淸水君は私をカツパの親分などといふのである。むろん私がゐなくたつて淸水君はカツパをかいたであらうし、私のためでもなんでもないのだが、カツパにおいては淸水君と私との因緣が淺くないことはたしかである。しかし、淸水君のカツパも天下に流行するにいたつてずゐぶん變化した。愛されるカツパになつたのである。戰爭中にも、カツパ作品集「傳説」(小山書店阪・昭和十八年刊)を出した。このときは、中川一政畫伯にみごとな挿繪を九枚かいてもらつた。かうしてみると、私のカツパの歷史も長く、幾變遷を經てゐるが、いま、これまでに書いたカツパ作品四十三篇が一册に集められて刊行されることに對しては、いひあらはしがたいよろこびにつつまれてゐる。自分の本の出版にこれほどのうれしさと樂しさとを感じたことはめつたにはない。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會」私の電子化注「卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎」を参照。

「ありのまま」「有の儘」。芳宜陸可彦著・飯田備編・雪仙春嶺画になる随筆。全四巻。文化四(一八〇七)年刊。

「ニクゼン」これは石田栄一郎「河童駒引考」の第二章の頭書「ゲルマン族 水の雄牛」の部分に出るイギリスの『水精ニックス Nix』のことか。三瀬勝利氏のこちらデータPDF)によれば(石田氏の当該書を基礎とした叙述とするが、引用元はトンデモ本飛鳥昭雄・三神たける共著『「失われた異星人グレイ河童」の謎』なので確度は留保する)、『世界の河童類としては、チェコスロバキアのウッコヌイ、インドのバインシャースラ、ハンガリーの水魔、フィンランドのネッキ、ロシアのヴォジャノイ、スコットランドのケルピー、スペインのドゥエンデ、ディルガディン、ドイツのワッセル、ロイテ、ニッケルマン、ブラジルのサシペレレ、エジプトのドギルが知られている』が、『なかでも、日本の河童に似ているのが、ヨーロッパの水の精「ニクス」で』水精『ニクスは、ドイツ』や『イギリスなどに棲んでいた先住民ケルト人の間で信じられていた妖精で、女性の姿をしたものを「ニクシー」と呼ぶ』。『ニクスは人の姿をしているが、皮膚の色は緑色。男ニクスは、緑の歯に緑の帽子』。『女ニクシーは、金髪巻き毛の美人。言葉を理解するが、人間にとっては危険な存在である』。『なにせ、川の近くを通りかかった人間をいきなり襲い、水の中に引き込んでしまう』。『ことニクシーは男性を誘惑し、一緒にダンスを踊り、そのまま一緒に水中に入ってしまう』。『当然ながら、水中に引き込まれたら、最後。人間は、お陀仏である』。『妖精とはいっているが、日本でいえば、ほぼ間違いなく河童と呼ばれるといっても過言でない』とはある。

「ワツセルロイテ」不詳。前注の資料では「ドイツのワッセル、ロイテ」と分離されてあるから、二種或いは二様の呼び名のようにも見えるのだが、“Wasser” はドイツ語で「水」であり、ドイツ語の辞書を引くと、似たような発音のものには“Wasserratte”(ヴァッサァ・ラッテ:川鼠(ヌートリの類か)・比喩で「水泳の上手な人」の意)があり、河童のドイツ語版を見ると、“Wasserchlange”(ヴァッサァ・シュランゲ:伝説上の怪物である海蛇)の文字を見出せるから一語である。やはり「ワッセルロイテ」で一語である。善意で解釈すれば「ワッセル、ロイテ」は「ワッセル・ロイテ」のつもりなのであろう。

「水虎や河伯」御存じの方も多いと思うが、言っておくと、これらは本来は河童とは別な中国の妖怪或いは神(神怪)である。「水虎」はウィキの「水虎によれば、『湖北省の川にいたという妖怪』で、『外観は』三、四『歳の児童のようで、体は矢も通さないほどの硬さの鱗に覆われている』。『普段は水中に潜っており、虎の爪に似た膝頭だけを水上に浮かべている』。『普段はおとなしいが』、『悪戯をしかけるような子供には噛みつき返す』。『この水虎を生け捕りにすることができれば、鼻をつまむことで使い走りにすることができるという』とある。ここ様態は中国で食用や薬用とされる哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のそれによく似ているように私には思われ、ウィキにも妖怪絵巻でとみに知られる鳥山石燕も「今昔画図続百鬼」で以上の『記述を引用しており、水虎の鱗をセンザンコウにたとえて表現している』とある。『日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが』、『中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている』。『日本では水虎は河童によく似た妖怪』『もしくは河童の一種とされ』、『河童同様に川、湖、海などの水辺に住んでいるとされる』。『体は河童よりも大柄かつ獰猛で』、『人の命を奪う点から、河童よりずっと恐ろしい存在とされる』などとして、以下、殊更に河童との差別化叙述をウィキはしているが、私は賛同出来ない。「河伯」もウィキの「河伯」から引いておく。中国語では Hébó(ホーポー)で『中国神話に登場する黄河の神』の名である。『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こ』とされ、『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』。古く「史記」の二十九巻「河渠書第七」にも、『「爲我謂河伯兮何不仁」と「河伯許兮薪不屬」と言う記述があ』り、「楚辞」「九歌」にも『河伯の詩がある』。『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六世紀末から七世紀『にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』。以下、ウィキにも書かれている通り、火野が言っている「西遊記」の沙悟浄も、日本では専ら、河童として語られたり、描かれたりしているけれども、中国ではこの神怪としての「河伯」と認識されているので、安易にそれをイコールとするのは私は正しいと思っていない

「水蘆」不詳。一部のネット記載では中国で河童様妖怪の呼称とするが、怪しい。

「水唐」不詳。同前。

「水」日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、辻雄二「キジムナーの伝承-その展開と比較-」『日本民俗学』第百七十九号(平成元(一九八九)年八月日本民俗学会発行。但し、それも文献引用で東洋文庫「南島雑話」(昭和五九(一九八四)年刊)を引用元とする)を出典として、読みは『スイイン』とし、他に「カワタロ」「ヤマワロ」「ケンモン」を併置する(当漢字は現在では使用される頻度の著しく低い字であるから、寧ろ、音読みのそれで呼ばれることはないであろう)。採集地は沖縄県恩納村で『水(カワタロ、山タロ)は好んで相撲をとる。その姿をみたものはすくないが、きこりについていって木を負うなど加勢をするという。人家をみれば逃走する』とある。ケンムンなら私はよく知っており、沖繩の妖怪の中でも「キジムナー」と並んで好きな一人であるので、長くなるが、例外的にウィキの「ケンムン」を引いておく。『ケンムンまたはケンモン(水)とは、奄美群島に伝わる妖怪。土地ごとに相違があるものの、概ね河童や沖縄の妖怪であるキジムナーと共通する外観や性質が伝えられている』。『古くは』江戸末期の文献である「南島雑話」に「水(けんもん)」として記述されてある。『相撲好きで人に逢えば挑戦するとされ(河童と共通)、画では頭に皿があって河童と同様な姿である』。『かつては人害を及ばさず』、『木こりや薪拾いが運ぶのを手伝う、目撃はまれで人家や人っ気の多いところから退散する、と記される』。『別名「カワタロ」「山ワロ」との付記もみえ、ケンムンの一種に宇婆があるとしている』。『昔と今では、ケンムンの概念の変遷が生じている。すでに幕末の頃から、有益無害だという伝承は失われつつあった』が、『時代を経るにつれ、ケンムンは一転して危険で忌避すべき存在となった。木運びを手伝うなどの伝承は語り継がれなくなっている』。『ケンムンは、河童の原型が核となっている。金久正』(昭和三八(一九六三)年)『によって収集された伝承でも、河童的要素が色濃いと評されている。また、本土の河童伝承が加わった部分も否めない』。『ケンムンはしかし、水の精でもあるが、同時に木の精でもあり』、『沖縄に伝わる木の精キジムナーとも多くの共通性がみられる』。『すなわち、海にも山にも目撃される。これは季節によって生息場所を変えるためといわれる』。『まず形状に限って言えば』、『体と不釣合いに脚』(腕も含まれるケースがある)『が細長く(膝を立てて座ると頭より膝の方が高くなるほどあり』『)先端が杵状だといわれ、頭の皿に力水』(或いは油ともする)『を蓄えている』。『しかも姿を変える能力を持っており、見た相手の姿に変化したり、馬や牛に化けたりする』。『周囲の植物などの物に化けたり、姿を消して行方をくらますこともできるとも言われる』。『ケンムンは発光する、または怪しい灯りをともす、といわれる。これは涎が光るためだとも、指先に火をともすためだともいう』。『または頭の皿が光るか』、『頭上の皿の油が燃えるのだとも、説明される』。『海にも山にも現れるケンムン火は、ケンムンマチ(ケンムン[]マツ)とも呼ばれている』。『一部で伝わるところによれば、大きさは子供の身の丈のほどで』、『顔つきは犬、猫、猿に似ている』とし、『目は赤く鋭い目つきで、口は尖ってい』て、『涎は悪臭を放ち、涎が青光るのは燐成分によるという』。『髪は黒または赤のおかっぱ頭。肌は赤みがかった色で』、『全身に猿のような体毛がある』。『体臭は山芋の匂いに似ている』。『ガジュマルの木を住処としており、木の精霊ともいわれる』。『この木を切ると、ケンマンに祟られると恐れられる』。『ケンマンに祟りの遭うと、目を病んでしまう(目を突かれてように腫れ上がってしまい、失明寸前になることもある』『)、または命を落とすこともある』。『魚や貝を食料としており、漁が好きで、夜になると海辺に現れ、(指に)灯りをともし岩間で漁をする』。『夜に漁に出た人間が鉢合わせすることもある』。『特に魚の目玉を好む(キジムナーと同様)。漁師が魚を捕りに行くとなぜか魚がよく捕れたが、どの魚も目玉を抜かれていたということもある』。『カタツムリ、ナメクジも食べる。カタツムリは殻を取って餅のように中身を丸めて食べる』。『ケンムンの住んでいる木の根元にはカタツムリの殻や貝殻が大量に落ちているという』。『蛸とギブ(シャコガイ)を嫌う』。『ケンムンを追い払うには蛸を投げつけるか、虚偽でも何か別の物を蛸と称して投げるか、投げると脅すと効果がある』。『なお』、『キジムナーも蛸が嫌いである』。『相撲好きな習性は河童やキジムナーと共通する』。『河童同様に皿の水が抜けると力を失う。相撲を挑まれた際に逆立ちをしたり礼をしてみせると、ケンムンもそれを真似るので、皿の中身がこぼれて退散する』。『悪口を言われることが嫌いで、体臭のせいか、山の中で「臭い」といったり、屁のことを話すことも嫌っている』。『ケンムンは本来は穏健な性格で、人に危害を与えることはない。薪を運んでいる人間をケンムンが手伝った話や、蛸にいじめられているケンムンを助けた漁師が、そのお礼に籾を入れなくても米が出てくる宝物をもらったという話もある。加計呂麻島では、よく老人が口でケンムンを呼び出して子供に見せたという』。『しかし河童と同じように悪戯が好きな者もおり、動物に化けて人を脅かしたり、道案内のふりをして人を道に迷わせたりする』。『食べ物を盗むこともあり、戦時中に空襲を避けた人々がガジュマルの木の下に疎開したところ、食事をケンムンに食べられたという話が良く聞かれた。その際のケンムンは姿を消しており、カチャカチャと食器を鳴らす音だけが聞こえたという』。『石を投げることも悪戯の一つで、ある人が海で船を漕いでいたところ、遥か彼方の岸に子供のような姿が見えたと思うと、船のそばに次々に巨大な石が投げ込まれたという話がある』。『山中で大石の転がる音や木が倒れる音を立てることもある』。『さらに中には性格の荒い者もおり、子供をさらって魂を抜き取ることがある。魂を抜かれた子供はケンムンと同じようにガジュマルの木に居座り、人が来ると木々の間を飛び移って逃げ回る。このようなときは、藁を鍋蓋のような形に編んでその子の頭に乗せ、棒で叩くと元に戻るという。大人でも意識不明にさせられ、カタツムリを食べさせられたり、川に引き込まれることもある』。『これらの悪戯に対抗するには、前述のように蛸での脅しや、藁を鍋蓋の形に編んでかぶせる他、家の軒下にトベラの枝や豚足の骨を吊り下げる方法がある』。但し、『ケンムンの悪戯の大部分は、人間たちから自分や住処を守ろうとしての行動に過ぎないので、悪戯への対抗もケンムンを避ける程度に留めねばならず、あまりに度が過ぎると逆にケンムンに祟られてしまう』。『ケンムンの由来伝説は多々あり、以下の』の『「蛸」の例のほか、福田晃が挙げた』四『タイプがある』。

「蛸にいじめられて樹上生活者となったとする説」

『月と太陽のあいだに生まれたケンムンは、庶子だったので天から追放され、はじめ岩礁に住まわされた。しかし蛸にいじめられたので、太陽に新しい住処を求めたところ、密林のなかで暮らせと諭され、ガジュマルの木(や同属のアコウの木)に住まいを求めるようになった』。

「藁人形の化身説」

『ある女性が、この地の大工の神であるテンゴ(天狗)に求婚された。女性は結婚の条件として』、六十『畳もの屋敷を』一『日で作ることを求めた。テンゴは二千体の藁人形に命を与え、屋敷を作り上げた。この藁人形たちが後に山や川に住み、ケンムンとなった』。

「人間の化身――殺人者が罰せられた姿とする説」

『ネブザワという名の猟師が仲間の猟師を殺し、その妻に求愛した。しかし真相を知った妻は、計略を立てて彼を山奥へ誘い込み、釘で木に打ちつけた。ネブザワは神に助けられたが、殺人の罰として半分人間・半分獣の姿に変えられた。全身に毛が生え、手足がやたら細長い奇妙な姿となった彼は、昼間は木や岩陰の暗がり隠れ、夜だけ出歩くようになった。これがケンムンの元祖だという』。

「孤児の姉弟説」

『ノロ神の姪・甥が孤児が、山へススキ刈りに行かされ難儀していたところ、老人が通りかかり、海で貝を取って暮らせと勧めた。冬の海は寒く、山に舞い戻ってくると、こんどは老人が来て』、『山・川・海に季節ごとに暮らせと指示し、姉弟をケンムンと名付けた』。

「虐げられた嫁説」

『嫁いびりに』遭って、『五寸釘でガジュマルの木に打ち付けられた女性がなった』。

『第二次世界大戦以後は、ケンムンはそれまでに比べてあまり目撃されなくなったが、その大きな要因は近年の乱開発によってガジュマルなどの住処を失ったためといわれている』。『GHQの命令で奄美大島に仮刑務所が作られる際、多くのガジュマルが伐採されたが、島民はケンムンの祟りを恐れ「マッカーサーの命令だ」と叫びながら伐採した。後にマッカーサーがアメリカで没した際、島民は「ケンムンがいなくなったのは、アメリカに渡ってマッカーサーに祟っていたためだ」と話した。しばらく後にまた』、『ケンムンが現れ始め』、『「ケンムンがアメリカから帰って来た」と噂がたったそうである』。『ケンムンの名は「化け物」「怪の物」の訛りとされ、得体の知れない霊的な存在を意味している』。『沖永良部島では、ヒーヌムン(木の者)と呼ぶ』。『別名としてクンモン、クンム、ネブザワともいう。また一説によれば、本来この妖怪の名は仮名では正しく表記できない発音であるため、仮にケンムンという表記を当てているともいう』とある。

「事文類聚」中国の類書(百科事典)。全百七十巻。宋の祝穆(しゅくぼく)の編。一二四六年成立。先行する「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新集三十六巻と外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻をこれに追加して、現行のものは総計二百三十六巻に及ぶ。

「兀然堂(きつぜんんだう)」不詳であるが、直後に「朝鮮にもゐるにちがひない」とするから、朝鮮半島製であることは間違いない。「兀」は通常は「コツ・ゴツ」と読む。不審。朝鮮語の音か?

「カーガタモ」不詳。このような沖繩の妖怪は知らないが、「カー」は沖繩方言で「川」であり、「ガタモ」は本土でも河童の異称として「ガタロ」(河太郎)によく似ている。或いは「川(カー)の方(ガタ:方面の。領域の。)の者(モん)」の略かも知れぬ。

「喜如嘉(きじよか)」地名。現在の沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ブナガヤ」大宜味村公式サイト内のこちらの「ブナガヤの素顔」より引く。その特徴は、『からだ全体が赤くて、子供のように小さい』。『赤い髪をたらしている』。『赤い火を出したり、火のように飛んだりする』。『山や川や木の上でみかける』。『漁が上手で、魚やカニを食べる(魚は目玉だけ)』。『すもうをとるのが好きである』。『木(薪)を持つなど人の加勢はするが、里には入らない』。『人なつっこく、自ら人に害を加えることはしない』。『祈願によって追い払うことができる』とある。次に「ぶながやと友達になる法」。『ぶながやの世界の要素である山や川や海や木や土や風や水や動物が好きであること』。『ぶながやは自然そのものであるが、雷や嵐は恐がるし、大きな音はきらいであるので、大きな音はたてないこと』。『ぶながやの心は清純そのものであるので、悪ふざけをしたり、何かの目的に利用しないこと(すればたちまちいなくなる)』。『ぶながやは人の心を直観でき、心が優しいので童心でつき合うこと』。『ぶながやは威張ったり、いい身なりをしたりはしないし、特に力があるのでもないが、どこかで出会ったら、顔笑みをなげかけるか、できたら手を差し出して握手をすること。同情する必要はない。そうすれば友達になれる』。『ぶながやと友達になったら、邪心や策心や偽心や威心を捨てて真に豊かな発想を楽しむこと。そうすればぶながやは逃げたりはしない』。『ぶながやの得意な漁を一緒に楽しむのもよい。また、取った魚をくれたりするので喜んでもらい、たまには一緒に食事をすると』、『なお』、『よい』。ウィキの「ブナガヤ」によれば、『人間の子供が誤ってブナガヤの手を踏んでしまうと、その』子の『手にブナガヤ火(ブナガヤび)と呼ばれる火をつける。また』、ブナガヤの『足を踏むと、同じようにブナガヤ火によって火傷させる。このブナガヤ火は通常の火と異なり、青みがかった色をしているという。かつてはブナガヤ火で子供が火傷をすると、土地の年寄りたちが呪文を唱えて火傷を消したという話もある』。『沖縄本島北部の大宜味村では戦後まで、旧暦』八『月頃に巨木の上や丘の上に小屋を立てて』、『ブナガヤの出現を夜通し待つ「アラミ」という風習が行われていたという』。『人間と関わった数少ない事例では、大正』七、八『年頃、砂糖を作る農民の元に毎晩来ていたブナガヤを捕まえて、サーターグルマ(砂糖車)の圧搾口へ押し込んだら、潰れたらしく、血まみれになったという話がある』とある。但し、所持する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」の沖繩県の「ブナガ」の項には、『本島で木に宿る怪をい』い、『国頭地方でいうキジムン』(キジムナーと同じ)『と似たモノ』で、『ボージマヤともいう。大宜味間切高里村の某家の主人としかしくなった』が、『後に主人が交際を絶とうと烏賊をぶつけたら驚いて逃げ』(先のケンムンが蛸を嫌うのとよく似る)『二度と現われなかった』とする一方、折口信夫の「沖繩採訪記」からとして、『大宜味村ではキジムンそのもののこと。ブナガルは髪を振り乱すの意』とする。

「中村地平」酒の害についてで既注。

「歌麿にも面白いカツパの繪がある」私が思い浮かぶのは喜多川歌麿の春画(水中で海女が二匹の河童に強姦されているもの)である。ネット上でも見られるが、猥褻なのでリンクしない。

「西田正秋」(明治三四(一九〇一)年~昭和六三(一九八八)年)は人体美学(美術解剖学)者。大正一五(一九二六)年から東京美術学校で「西田式美術解剖学」の講義を行った。]

 

 さらに、このよろこびを助長させてくれたのは、諸先輩、友人知己の厚情だ。特に、武者小路實篤先生が題字を書いて下さり、佐藤春夫先生はありがたい序文を下さつた。ともに私が中學生時代から畏敬してゐた大先達なので、私は夢のやうな心地である。文學をやらうと心に定めて、大正十二年春、早稻田第一高等學院に入學したとき、私の文學の偶像は佐藤春夫であつた。大學に進み、田畑修一郎、中山省三郎、寺崎浩、丹羽文雄などと、同人雜誌「筏」をはじめたとき、私が發表した作品はことごとく佐藤春夫の影響を受けてゐた。昭和三年、學校をやめるとともに、私は勞働運動に沒頭し、しばらく文學から遠ざかつた。そして、昭和十三年、思ひがけなく、「糞尿譚」で芥川賞を受けたとき、審査員佐藤春夫先生の批判を胸をとどろかせて讀んだ。その後、「麥と兵隊」を書いてから、はじめて先生にお逢ひしたとき、僕の作品から出發して、かういふ境地をひらいたことをよろこぶといはれて、淚の出る思ひを味はつた。その佐藤先生から、「河童曼陀羅」に序文をいただける日が來ようとは夢想だにしなかつたことである。また、その序文が過分のもので、身體がすくむ心地である。先年、檀一雄君とともに先生のお伴をして、柳川に白秋遺跡をたづねたとき、先生は、僕は中學時代はカツパといふ綽名をつけられてゐたといつて笑はれた。その歸途、博多の水だき屋「新三浦」で、私がカツパをかいた衝立(ついたて)に、贊をして下さつたのである。さらに、この本のために、私は諸先輩に奇妙奇手烈なお願ひをした。四十三篇をそれぞれ異つた人たちのカツパ・カツトで飾りたかつたからである。これまで一度もカツパをかいたことのない人たちが多かつたにちがひないし、多分、私の依賴は突飛で變てこな無理難題であつたであらう。それにもかかはらず、承諾して下さつた方々が次々にカツパのカツトを寄せられ、私を狂氣させた。特に、つけ加へておきたいのは、お婆さん畫家丸木スマきんのカツパが入つたことである。八十數歳で繪をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、畫集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマきんが、火野さんはカツパ好きだからといつて、生まれてはじめてといふカツパの繪を彩色入りでかいて下さつた。ところが、そのスマさんは、氣の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カツパの繪が形見みたいになつてしまつた。また、折口信夫先生の河童圖は、特に池田彌三郎氏から拜借願つたものである。折口先生も今は鬼籍に入られた。しかし、この二人の故人のカツパは溌溂としてゐて生きてゐるやうである。それぞれの人のそれぞれのカツパ、それこそが眞に絢爛(けんらん)たるカツパ・マンダラといへやうか。どんなに感謝しても感謝しきれない氣持である。ありがたうございました。

[やぶちゃん注:「田畑修一郎」(明治三六(一九〇三)年~昭和一八(一九四三)年)は島根県出身の小説家。早稲田大学英文科に入学するも中退し、後、宇野浩二に師事した。大学在学中、火野が述べている通り、彼らと同人誌『街』を創刊している。代表作は昭和八(一九三三)年に発表した「鳥羽家の子供」で、芥川賞候補にもなった。死因は病死と思われる(ウィキの「田畑修一郎に拠る)。

「中山省三郎」(明治三七(一九〇四)年~昭和二二(一九四七)年)は詩人でロシア文学の翻訳家として知られた人物。茨城県生まれ。ウィキの「中山省三郎によれば、同郷の詩人『横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌をやり、ロシア文学を翻訳・研究し、他に詩を書き、長塚節研究などをした』。死因は『持病の喘息の発作』であった。私は彼のツルゲーネフの作品の訳を心朽窩館」で多量に公開している

「寺崎浩」(明治三七(一九〇四)年~昭和五五(一九八〇)年)出生地は岩手県盛岡市であるが、出身は秋田とする詩人・小説家。早稲田大学文学部仏文科中退。大学在学中に火野らと『街』を創刊、また、西條八十に師事して同人詩誌で小曲風の象徴詩も発表している。昭和三(一九二八)年頃から横光利一に師事し、昭和十年文壇にデビューした。以後は小説に専念した。代表作に短編集「祝典」、長編「女の港」、「情熱」、詩集「落葉に描いた組曲」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)

『博多の水だき屋「新三浦」』現存する。明治四三(一九四三)年創業の鶏の水炊き屋。公式サイトはこちら

「折口信夫先生の河童圖」この後で電子化する佐藤春夫の「敘」に添えられたもの。後で掲げる。]

 

 この本には、私の繪も添へた。繪かきでない私の繪など恥かしい思ひであるが、專門家でない故に笑つて見ていただけるかも知れない。亡友中山省三郎の家に、私の畫集四卷がある。中山は私が九州から上京するたび、畫帖に一枚づつ繪をかかせてゐたが、それが昭和十五年以後、昭和二十二年、彼が聖ヨハネとして昇天するまで、「徂徠(そらい)集」「矢音(しおん)集」「愛日集」と三春たまつた。彼の沒後はそのことば跡絶(とだ)えてゐたが、富士子未亡人が夫がゐなくてもつづけて欲しいといふので、最近また帖をおこし、「遊魚集」として四册目をかきはじめてゐる。この本の卷頭にのせた繪のうち、「河童果物皿登之圖」「河童龍乘之圖」「河童竹林遊魚之圖」の三枚は、中山家の畫帖から撰んだものである。あとはこの本のために、新に描いた。私は死ぬまでカツパから脱れられないと觀念してゐるので、これからも折にふれて、カツパの繪は描きたいと考へてゐる。いや、多分、かかずにはをられないであらう。因果なことである。

[やぶちゃん注:ここで火野が挙げている三枚の絵は電子化しない。それはせめても、底本国書刊行会による復刻版に敬意を表するためである。底本はなかなか高かった(一万六千二百円)。私も大枚をはたいて買ったのだから、どうしてもその絵を見たいという人は是非とも買って戴きたい。調では、在庫もあるようだ。]

 

 最後になつたが、この本の出版について、多大の犧牲をはらひ、豪華本の完成に全力をそそいで下さつた四季社の社長松本國雄氏、編集長藤崎斐虎張氏に、多大の謝意を表さなくてはならない。また、編集や校正等の面倒な仕事をいとはずにやつてくれた仲田美佐登さんにも禮をのべなくてはならない。三氏の熱情がなかつたならば、このやうな美しい本はできあがらなかつたであらう。ともあれ、この「河童曼荼羅」は私の數多くの著書のうち、もつとも私をよろこばせたもので、私の生涯の記念になるかも知れない。うれしさのあまりか、つい後書が長たらしくなつてしまつた。

   昭和三十二年一月二十五日

            釣魚庵主人葦平記

[やぶちゃん注:「藤崎斐虎張」名前の読み方は不詳。識者の御教授を乞う。

奥付によれば、原本の発行は昭和三二(一九五七)年五月十日である。因みに、私は同年二月十五日生まれである。]

河童音頭 火野葦平

 

[やぶちゃん注:底本「河童曼荼羅」の本文掉尾。十二番まである。太字は底本では傍点「ヽ」。]

 

 

小雨(こさめ)降る宵春の雨

なかなしむや川太郎

ひとり音〆(ねじめ)の爪(つま)びきに

ふるへて靑し絲柳

 

[やぶちゃん注:「音〆(ねじめ)」は本来は三味線・琴などの弦を締めて、音調を整えることを指すが、ここはそこから派生したもので、三味線の音(ね)の冴えや音色を謂う。]

 

 

ここの館(やかた)に棲むものは

世の常ならぬ川太郎

色とりどりの酒の味

空靑きを戀ふるなれ

 

 

びいどろびんのレッテルに

とぢこめられてこの月日

胡瓜(きうり)ひときれ口にやせぬ

レッテル悲し空戀し

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「口にやせぬ」は「口にゃせぬ」と唄う。]

 

 

しよせんしがない河童ゆゑ

逢うてうれしいひとときも

岩の衾(しとね)が身につまり

苔の靑さに吐息つく

 

 

口のへらずが怪我のもと

八方眼(はつぽうまなこ)も盲とさ
耳の敏(さとい)も聾なら

見まい聞くまい語るまい

 

 

蓮の行燈(あんど)の水あぶら

筆のはこびもよどみがち

百本千本つぶて文

書いて瘦せればしよんがいな

 

 

たかが河郎(かむろ)の分際で

繪をかき詩をかき歌うたひ

果ては女に惚れるとは

身のほど知らぬ橫道者(わうどもの)

 

 

浮かれ女の尻子玉(しりこだま)

拔いて食べての腹くだし

草津のお湯でもなほりやせぬ

醫者に見しようも恥かしい

 

 

かうといつたん決(き)めたらば

どうでも取らねば氣がすまぬ

沼に落ちたる月ひとつ

靑い目のよな月ひとつ

 

 

眼(まなこ)光らし腕ふつて

かたる言葉はみだるとも

酒と戀とが命なら

いつ果てるぞやこの宴(うたげ)

 

 

手に手に葦の太刀(たち)かざし

ほむらに乘れる者の群(むれ)

數は百萬風のごと

ひようひようひようと鳴つてゆく

 

 

われもと雲の性(さが)なれば

かかる塵(ちり)の世なんであろ

いざ胸をはり風に乘り

空のかなたに去(い)なむかな

宮澤賢治「心象スケッチ 春と修羅・第二集」 一六六 薤露青 一九二四、七、一七 末尾

 
 
  ……あゝ いとしくおもふものが
   そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
   なんといふいゝことだらう……
 
かなしさは空明から降り
黑い鳥の鋭く過ぎるころ
秋の鮎のさびの模樣が
そらに白く數條わたる
 
 

2017/09/15

ブログ・アクセス1000000突破記念 火野葦平 妖術者




[やぶちゃん注:底本「河童曼荼羅」では、この後に「河童音頭」全十二編番が配されて、本文が終わっている。

 本篇は戯曲であるので表記が相応の配置となっているが、ブログのブラウザでの不具合を考え、ト書きは特定字数で改行した。また、台詞が二行以上に渡る場合、底本では、二行目以降が一字下げとなっているが、無視した。なお、台詞内の丸括弧のト書きを含め、ト書きは総てややポイント落ちであるが、本文と同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字とした。

 文中に出る「がんがさ」は「雁瘡」で、慢性湿疹或いは痒疹(ようしん)の一種で難治性の非常に掻痒性の皮膚疾患。雁の来る頃に起こり、去る頃に治るところから称するという。

 「シンデリイラ」はママ。無論、シンデレラのこと。

 本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百万アクセスを突破した記念として公開する。【2017年9月15日 藪野直史】]

 

 

 妖術者

 

 

 登場人物 三角帽をかぶつた妖術者のほか、

      大勢の河童たち。

 舞  臺 水邊。靑空と、樹と、草と、花と

      を、幻想的に。中央に岩。

 

   幕あくとだれもゐない。蛙、蟬、鳥の聲。

 

   二匹の河童、右手から登場。一匹は老河

   童、眼鏡、蕗(ふき)の菜の鞄をぶら下

   げてゐる。醫者である。一匹は跛(びつ

   こ)をひきひき、ときどき頭に手をやる。

 

河童醫 これこれ、そんなに觸(さは)つてはいけないつてば。なんど言うたら、わかるんぢや。

河童一 どうも、ひりひりしましてな。

河童醫 痛むのは仕方がないよ。でも、がまんせんことにや、手の毒でもはいつて、敗血症でもおこしたら、どうする?

河童一 おどろきましたな。あんなことは、生まれてはじめてですよ。ほんとに、おどろいた。皿が腐るやうなことはないでせうな?

河童醫 わしの腕を信用せんといふのかな?

河童一 いえ、あなたの醫者としての名聲を疑ふわけではないのですが、……どうも、頭の具合がただごとでありませんでな。ひりひりするうへに、かう、まんなかのところが、はち割れるやうな氣がしますんでな。氣分も惡いんですよ。だいぶん、ひどい故障ができとりますか。

河童醫 なに、大したことはない。ぢき、なほるよ。

河童一 さうですか。わたしを安心させようと、輕くいひなさつとるのとちがひますか。わたしにや、どうも、取りかへしのつかぬ、飛んでもないことがおこつとるやうな氣がして、仕方がないんですが……

河童醫 よい藥が塗つてあるから大丈夫ぢや。

河童一 たいそうしみる藥ですが、どんな妙藥です?

河童醫 うるさい患者だな。さつぱり醫者を信用しをらん。お前さんの皿に塗つたのは、わしの祖先から傳はつた家傳の特效藥でな、ゼラチンとカストリとをねりあはせたもんぢや。萬々まちがひはないと思ふが、そんなに心配なら、念のため、もうひとつ療法を教へとくから、おぼえときなさい。三日も經つて、ひりつくのがやまなんだり、變色する氣配があつたら、ええかな、金魚藻を石でくだいてな、その綠いろの汁を皿にすりこむんぢや。ぢやが、けつして、ぢかに手でやつてはいかん。熊笹の葉でやるんぢや。

河童一 金魚藻を石でくだいて、熊笹の葉で、皿に、……わかりました。それで安心しました。……だが、おどろいたな。あんな馬鹿なことつて、あるもんぢやない。畜生、生意氣なおたまじやくし奴が!

河童醫 おたまじやくし?

河童一 さうですよ。おたまじやくしが天から降つて來やがつたんだ。そんなことつて、ありますか。わたしは水から首を出して、ぼんやりしてたんだ。ぼんやり、(にやつと笑つて)ぢやなくて、考へごとしてたんだ。

河童醫 ふん、また、あの娘(こ)のことぢやらう。

河雲 勿論ですよ。あの娘(こ)のこと以外に、考へることがありますか。あの娘はすばらしいな。あの美しい皿、まるで牡丹の花のやうぢやないか。あの娘の皿のやうにすばらしい皿をもつた女が、この沼のどこにゐますか。太陽にあたつたら、きらつきらつと、金いろに光る。朝陽、夕陽で、まるきりダイヤモンドのやうにかがやく。さうでせう。こんなすばらしい天氣の日に、彼女のことを思ふのは、われわれ靑年の特權でせう。それは靑春の歌だ。わたしは水面に浮かんで、彼女の夢を見てゐたんだ。そして、きつと、彼女もわたしのことを考へてゐるにちがひない、さう思つて、うつとりしてたんだ。なんたることか。靑天の霹靂(へきれき)とはこのことだ。天から、なにかが降つて來て、わたしの瞑想(めいさう)をぶつこはしたんだ。そればかりぢやない。大事な皿を破壞してしまつた。こんな馬鹿なことがありますか。……ああ、痛い、痛い。また、ひどく疼きだした。……打ちあけますが、情なくて、泣きたいのですよ。皿が割れたことは、わたしの靑春の破壞なんだ。こんなぶざまな恰好になつて、どうして、二度と、あの娘に會へますか。ああ、俺はもう駄目だ。戀人をあいつにとられる。あいつも狙つてるんだ。畜生、おたまじやくし奴!……だが、變だな、おたまじやくしが天から降るなんて? ぴつくりして見たら、ただ一匹のおたまじやくしが、ちよろちよろ泳いでゐるだけなんだ。爆彈でも落ちて來たかと思つたのに……

河童醫 (笑ひだす)

河童一 なにがをかしいんです?

河童醫 そりや、お前さん、森靑蛙(もりあをがへる)だよ。

河童一 森靑蛙?

河童醫 頭のうへに、木の枝が出てゐなかつたかい?

河童一 さういへば、出てゐた。

河童醫 廣い葉つぱはなかつたかい?

河童一 ありました。

河童醫 そんなら森靑蛙にちがびない。森靑蛙は、木のうへに卵を生むんだよ。しかも、水のうへにさし出してゐる枝にな。本能的に知つてゐるんだな。そして、おたまじやくしになつてから、水のなかへ落ちるんぢや。單なる動物の生態にすぎんよ。自然現象にすぎんよ。その眞下にゐたお前さんが、運が惡かつただけだ。

河童一 とぼけちやいけませんよ。そんなことぢやないですよ。わたしには、ちやんとわかつてるんだ。陰謀だ。あいつの陰謀だ。あの娘を狙つてるあいつが、戀敵(ライバル)の俺を不具者にしようとしたんだ。畜生、負けるもんか。……あいた、あいた。やけに疼きやがる。……まちがひないでせうな。熊笹を石でくだいて、その汁を、金魚藻で……

河童醫 あべこべだよ。

河童一 うん、あべこべだ。ちよつと、まちがつてみたんだ。金魚藻、熊笹、……金魚藻、熊笹……

 

    河童一、左手に去る。

 

河童醫 どうもこのごろの連中はひねくれてゐる。まともな心をどこかに忘れてしまつた。なにかの墮落がはじまつてゐる。でなかつたら、おたまじやくしくらゐで、負傷する筈がない。おまけに、賤しうなりをつて、昔なかつたやうな下品な病氣ばかりしをる。内臟だけならよいが、不潔な皮膚病が流行するには閉口だ。がんがさ、ひぜん、たむし、風眼、兎唇(みつくち)、梅毒、水むし、……ああ、きたない、きたない。

 

    呟きつつ左手に去る、蛙、蟬、鳥の

    聲。左手から、三角帽をかぶつた河

    童、蓮の葉の大きな袋をもつて出て

    來る。あたりをうかがひ、中央の岩

    石のうへにそれをひろげる。中から、

    多くの首。ならべる。

    そこらを步きながら、長い葦笛を喇

    叭(らつぱ)のやうに、四方へ鳴ら

    す。

    大勢の河童左右から登場。

 

三角帽 さあさ、皆さん、お立らあひ。よく、お集り下きつた。わが輩も本望。わが輩は香具師(やし)ではありません。ごらんのとほり、わが輩も諸君の眷族(けんぞく)、この沼に籍のある者ではないが、遠からぬところの他にすむ同族の河童です。機を得ず、諸君とはいまだ面識がなかつた。そのわが輩が、このたび、わざわざ諸君の沼へやつて參りましたのは、やむにやまれぬわが輩の義俠心、道義心、同情心、美へのあこがれ、靑春への讚歌、眷族の幸福をねがふ博愛心、つまり、實にロマンチシズムの精神の然らしむるところなのであります。わが輩は晦澁(くわいじふ)なことをいつて、諸君を困惑せしむるものではない。諸君の顏に、あきらかにあらはれてゐるその疑念をといてください。わが輩はきはめて、簡明直截な用件で參つたものだ。つまり、諸君を美しくするために、やつて來たのです。

 

    河童たち、おたがひの顏や姿を見あ

    つて、動搖。

 

三角帽 (聽衆を見まはしながら、大仰に)聞きしにまさる慘狀だ。これほどまでとは思はなかつた。まるで、化物屋敷ぢやないか。いや、失禮、お氣にさはつたらお許しくだきい。諸君を輕蔑したわけではない。率直にわが輩のおどろきと感想を述べたまでです。それにしても、ひどいものですな。まつたく、同情にたへない。わが輩は生涯を美にささげてゐる者です。美とともに生命はある。然るに、この沼は、諸君の慘狀は、全然美とは隔絶してゐる。それは、生命と絶緣してゐるといふことだ。お氣にさはつてもしかたがない。怒られてもよいです。お世辭にも、その諸君のざまを見て、美しいなどとはいへないぢやないですか。もつとも美しいと思へる顏だつて、さうですな、この顏と(一つの首をとりあげる)くらべたら、古いたとへだが、まるきり月とすつぽんですな。種も仕掛けもない。諸君の眼がしかと見てゐるとほりです。ところが、ごらんください。この顏は、わが輩がここにならべた首のなかでは、もつとも最下等でせう。どうです、これらの首のかがやくばかりの美しさは? まるで、巨大な寶石をならべたやうではありませんか? いや、あわてないでください。わが輩は諸君をなぶりに來たのではない。諸君を救ひに來たのです。わが輩の目的は、諸君を美しくするにある。美こそ、生命です。(思はせぶりに、ならべた首の頭の毛を櫛でなでつけたりしながら)それにしても、諸君はひどいですな。もはや哀れといふやうなものではない。さつきから諸君の顏を見てゐたら、嘔氣(はきけ)をもよほして來ましたよ。はじめは乞食ばかり集つたのかと思つた。かさかき、眼くされ、面瘍(めんちやう)、兎唇(みつくち)、ひびわれ皿、田蟲、しらくも、口ゆがみ、拔け毛、禿、耳だれ、にきび、鼻まがり、……醜惡むざん、まるきり、疫病(えきびやう)の展覽會ぢやないか。この沼には、智者はゐないと見えますな。智者がゐたとしても、これぢや匙(さじ)をなげるほかはあるまい。多少の治療はできようが、根本的な療治は到底むつかしい。まして、どんな名醫でも、金輪際(こんりんざい)、手に負へぬことがある。若さ、これです。老衰はとどめようがない。諸君のなかにも、相當おいぼれたのが見える。齒も拔け、嘴も折れ、眼もかすんでゐるらしい。死期も遠くはないでせう。ああ、見るに耐へぬ。待つてください。わが輩の心もせいて來ました。美こそ生命、何度でもいひます。若さこそ、永遠の幸福、たれが疑ふ者がありませう。この臺のうへを見てください。すべて、若さと美、靑春の豐饒(ほうぜう)さ、かがやかしい生命力の充實、橫溢(わういつ)、……いえ、この贈りものを諸君にさしあげます。……まあ、まあ、そんなに、あわてないで。……もはや、諸君の顏は醫學の及ぶどころではない。整形術の限界をはみだしてゐる。首をすげかへる以外に、絶對に方法はないです。ここにある首は、わが輩の精根こめた作品です。これによつて、諸君を美と若さの幸福のなかへみちびき入れてあげる。……これこれ、そんなにあわてなさんなといふに……

少年河童 小父ちやん、その首、どうしてこしらへたの?

三角帽 いやいや、さやうなことは輕々しくは申されんな。わが輩のみの祕傳だからな。また、諸君には用のないことだ。諸君に必要なことは、この美しい首がここにあるといふこと、そして、やがて、諸君のそのうすぎたない首と交換するといふことだけだ。

少女河童 その首、眼をつぶつてるわね。盲目とちがふの?

三角帽 (得意氣にけらけら笑つて)なるほど、もつともだ。眼をつぶつてる。(一個とりあげる)ほらごらん。(頭をさういひながら、ばんとたたく。眼、ぽちつとひらく。感歎のつぶやき。)どうです。ぱつちり澄んだ眼をひらいた。どれ、まづ、これを孃ちやんにあげるかな。なんと、孃ちやんの顏はきたないなう。そのただれ眼はどうしたんだ。眼やにがうんこのやうにたまつとる。可哀さうに、食べものが惡いんで、榮養失調だな。顏色が靑くて、毛に艷がない。鼻もまがつとるぢやないか。諸君、いま、わが輩が最初の實驗を行ふ。ことはつておくが、わが輩は最初に述べたやうに、香具師(やし)ではない。商賣人ではない。美と生命の使徒、藝術家、救世主、ロマンチシストだ。代價など貰はうとは思はない。商取引などは、考へても蟲唾(むしず)がはしる。だが、お待ちなさい。わが輩もこれだけの作品をものするには、若干の實費を要してをる。奇特の士あつて、應分の喜捨をたまはらば、辭退するものではない。(三角帽のさしだす蓮の葉に、皆、あらそつて金錢、品物を投げる。)これはこれは、多大の志、ありがたく頂戴いたす。(置く。)さて、では、孃ちやん、もつと、こつちへ。おう、臭いこと。虱もわいとるな。よくもまあ、こんなみつともない首を、がまん強うこれまでつけとつたもんだ。さ。(とりかへる。皆感歎のつぶやき。)おう、立派になつたぞ。まるで、お伽噺(とぎばなし)のお孃さまだ。シンデリイラもかなはぬぞ、すばらしい、すばらしい。

老河童 わしも、ひとつ顧みます。

三角帽 やあ、これは、なんとよぼよぼ爺さん、もう、棺桶に半分足を入れてござつとるな。

老河童 さやう、今年、六百七十三歳になるでな。

三角帽 それぢや、餘命いくばくもない。ひとつ、若がへりと行きますかな。

老河童 うんと若いところをな。

三角帽 さて、このあたりかな。

老河童 もつと、若いの、賴みてえな。

三角帽 うふん、爺さん、若がへつて、もう一ぺん娘つ子口説(くど)くといふ算段とみえる。よろしからう。靑春の快復だ。生命の讚歌だ。これにするかな。(老河童の首と靑年河童の首とかへる)ほう、これはどうだ。わが輩が娘つ子なら、ひと目でふるひつくぞ。

河童一 僕も願ひたいですが……

三角帽 やあ、あんたの皿はどうなさつた?

河童一 なにね、油斷してて、おたまじやくし奴にやられましてね。

三角帽 おたまじやくしに? ほう、それは御災難、奇妙な膏藥張つてなさるが……

河童一 ゼラチンとカストリの混合液を塗つたんです。それでもひりつくのがなほらんので、さつき、金魚藻を石でくだいて、熊笹の葉で……

三角帽 馬鹿な! たれがそんな阿呆な療法を教へたのだ。籔醫者がをるとみえるな。よろしい、よろしい。そんな手間ひまはいらん。すこぶる健康、美的な皿のある首ととりかへてあげる。……これ、よろしいか。

河童一 結構です、結構です。(おしいただいて泣く)ありがたい。

三角帽 ほれ、(首、とりかへる)やあ、二十世紀のダンデイ、ドン・ファン。

婆河童 わたくしにも、ひとつ……

三角帽 なんかいうたですかな? 齒が拔けとるで、なにいうとるのかわからんわ。

婆河童 たのみまつする。(拜む)

三角帽 さつぱりわからん。だが、首をかへてくれといふんだらう。なんと、この婆さんの皺くちやぶりはどうだ。まるきり、しなびた冬瓜(とうがん)だ。わかつた、わかつた。思ひきり若くしてあようワ。(若い娘の首とかへる)ほう、すばらしい美人になつた。わが輩が惚れたくなつたぞ。靑春の復歸だ。これから、思ふ存分、戀を語りなさるがよい。

 

    三角帽、心配げに、臺上の首をしら

    べる。見物と首との數を見くらべて、

    小首をかたむける。

 

三角帽 (さりげない風で)諸君、わが輩の美の實驗は、眼のあたり、ごらんのとほりだ。もはや、わが輩をうさんくさい眼で見る者はあるまい。わが筆が諸君の救世主であることはわかつただらう。ところで、諸君は、いづれも、首のとりかへを望まれるか。

群集 勿論。あたしも。俺も。わしも。賴む。どうぞ。ぜひ……(などと異口同音に)

三角帽 希望者は手をあげてください。(皆、手をあげる)はて、全部ですな。(首をひねつて、しばらく考へる振り)どうも、困つた。……弱つたな。名案が浮かばぬ。……諸君、諸君の熱望に、わが輩も大いに感動しました。全部の諸君の期待に添ひたい思ひは山々なのだが、……ごらんのとほり、さつきから數へてゐるのだが、どうも、首の數が足りない。(群衆に動搖がおこる。)わが輩もうかつでした。もつと作つてくればよかつたのだが、今となつては……

 

    にはかにどよめいた群衆は、われさ

    きに臺上におしよせて、勝手に首を

    とらうとする。

 

三角帽 これこれ、そんな亂暴な、……諸君、……おい、諸君、無茶せんで、わが輩のいふことを……

 

    群衆はきき入れず、めいめい首をと

    つて、自分でつけかへる。臺上は古

    い首と新しい首とが入りみだれ、血

    迷つた河童たちはもう首を選擇して

    ゐる餘裕がない。ただ、とりかへれ

    ばよいといふあわてかたで、古い首

    でもなんでもつけかへる。混亂の後、

    左右へ散つて、誰もゐなくなる。い

    つの間にか、岩のうしろ側にかくれ

    てゐた三角帽の河童が、頸を出す。

    散らばつてゐる首を蓮の葉につつみ、

    石のおもりをつけて沼の底へ沈める。

    [やぶちゃん注:ここは改行。]

    三角帽河童、中央に出て來て、岩石

    に腰をおろし、けらけらと奇妙な聲

    をたてて、長いこと、笑ふ。岩のう

    しろへ姿を消す。

    蛙、蟬、鳥の聲。

    一匹の女河童そはそはと右手から出

    て來る。あたりを見まはしながら、

    木かげに來て、沼のなかへ、立小便

    をする。

    その左手から、河童一、出て來る。

 

河童一 (おそるおそる)もしもし、たいへん失禮ですが、御婦人の方が立小便なさるのは、どうかと思ひますな。

女首河童 御婦人? たれが?

河童一 あなたですよ。

女首河童 冗談いつちや困るよ。僕は男ですよ。立小便はわるかつたが、つい、癖だもんだから、……君は警官ぢやないでせう。

河童一 警官ぢやないが、……をかしいな。……さうか。あなたもまちがつたのだ。

女首河童 なにが?

河童一 鏡を見ましたか。

女首河童 鏡なんか見ないよ。

河童一 見てごらんなさい。

女首河童 (沼に顏をうつしに行つて)あつ、大變だ。女の首だ。

河童一 美人には美人だが、首だけぢや……

女首河童 いつたい、こりやどうなるんだ。俺は男か、女か?

河童一 わたしも弱つてるんです。わたしはあの三角帽の男にちやんとかへて貰つたんで、まちがひはなかつたんですが、わたしの惚れてゐたあの娘がゐなくなつてしまつたんです。あの娘に氣に入られたいばかりに、首をとりかへて貰つたのに、あの娘がどこに行つたかわからなくなつた。なんのためかわからないんだ。きつと、あの娘も首をとりかへたんだ。

女首河童 ひとのことなんかどうだつていい。俺はどうなるんだ。俺は男か、女か?

 

    頭をかかへて右手にかけ去る。

    入れちがひに、ひとりの婆河童出て

    來る。

 

婆首河童 ここにいらしたわ。うれし。(河童一にとびかかる)

河童一 あなたはどなたです?

婆首河童 ひどいわ、あたしよ。あたしがわからないの?

河童一 あなたのやうなお婆さんには……

婆首河童 お姿さんですつて……

河童一 (氣づく)あつ、……(慄然として、左手へ逃げだす)

婆首河童 どうして逃げるの? とうなさつたの? 待つてよ、待つてよ。

 

    追つて入る。

    ひとりの少女河童、泣きながら左手

    から出て來る。

 

少女河童 母ちやんがわからない。母ちやんがわからない。母ちやんがゐなくなつた。母ちやん、母ちやん……

 

    右手に入る。

    若い男河童、左手から出て來る。

 

男河童 僕はほんたうに幸福に思ひます。こんなうれしいことはないです。あなたのやうな美しいひとは、生まれて一度も見たことがありません。

女河童 まあ、お上手ばつかり。それはあたしの申しあげることですわ。あたし、もう、あなたのおそばにゐるだけで、太陽を仰いでゐるやうにまぶしくて……

男河童 あなたは虹です。あなたにお會ひしたとき、僕は明瞭に七色のかがやかしい色彩が、眼のなかに流れこんで來るのを感じました。もう僕の網膜にやきついたあなたの映像は、永久に消えません。永久に、さうです。永久にです。僕の申しあげる意味がおわかりでせうか。

女河童 わかりますわ。あたし、……もう、あなたのためなら……

男河童 どんなことでも聞いてくれますか。

女河童 はい。

男河童 僕は生活のあらたな勇氣がわきました。あなたとなら、どんな苦難にも耐へて、永久に、さうです。何度でもいひます。永久に、暮してゆける自信ができました。僕たちのかたい結ばれを信じてもよろしいですね。

女河童 ええ。

男河童 僕たちの戀愛は淸純です。ロミオとジュリエット、太陽と虹との絢爛(けんらん)たる結合です。なんといふすばらしいことか。僕たちは靑春をあらんかぎり滿喫するんだ。(二人、すこしづつ寄り添ふ)すべてを、あなたは許して下さいますね。

女河童 ええ。

男河童 接物も……

女河童 ええ。

男河童 それから、……あの、……あれも……

女河童 (恥かしさうに、うつむいて、うなづく)

男河童 僕は幸福で卒倒しさうです。唇がふるへて、うまく言葉が出ない。しかし、僕たらはもう餘計な言葉はいらないのだ。もはや、すべてを許しあつたのだ。(あたりを見まはし)幸ひ、ここには誰もゐない。もう、僕はがまんができない。

 

    男河童、女河童をひきよせる。兩方か

    ら、同時に、びつくりして飛びはなれ

    る。

 

男河童 (おののきながら)なんたることか。ああ、心臟が止まるやうだ。(女河童の身體を見、自分の身體をつくづく見て身ぶるひする)なんといふ老ひさらぼうた身體か。若さなんかどこにもない。乾からびた、しなびた手足、胸、腰、からからだ。うすぎたなく、ふき出ものまで出てゐる。ああ、恐しい。ぞつとする。首だけいくらとりかへても駄目だ。顏は二十歳でも身體は六官歳だ。靑春の快復なんか、どこにあるか。あの女、顏は虹のやうに美しいのに、身體は、……身體は……俺と同じだ。爺と婆だ。靑春の血などてんで湧きはしない。冷たい骸(むくろ)だ。ああ、畜生、精神と肉體の分裂だ。新しい苦惱の誕生だ。

女河童 さよなら。

 

    右手へ駈け去る。

    男河童、働突する。よろめきながら、沼に投身する。その昔。

    右手から爺河童、登場。そのあとを、婆河童、追つて來る。

 

婆河童 たうとう、見つけた。こんなとこ、うろうろしくさつて。なんちゆう不精たらしい爺さんぢやろか。(後首をつかむ)

爺河童 これこれ、なにしなさる?

婆河童 なにするもないもんぢや。わしがあれだけいひつけといたのに、どうして、胡瓜の芋葉煮(いもばに)を作りなさらん? もう出來たころと思うて、歸つてみりや、まあだ皮もむいてない。どうする氣ぢや。

爺河童 變ないひがかりつけなさんな。胡瓜の芋葉煮なんて、わしの知つたことか。

婆河童 しぶとい爺さんぢやなう。朝から五へんも六ペんも念押してあるぢやないか。知らん振りをしようとて、今日は許さん。わしばかり仕事させて、それでよう氣が安まるこつちやなう。さあ、とつとと歸つて……

爺河童 こら、離せ。どこの糞婆か知らんが、なんちゆう因念つけるか。蹴とばしてくれるぞ。

 

    そこへ右手から、一匹の婆河童來る。

    爺河童左手へ去る。婆河童同志、顏

    見あつて、しばし無言。

 

婆河童 おや、あんたはわしではないか。

婆河童 なにをいひなさる? わしがあんたであるもんか。

婆河童 いんや、あんたはわしにちがはん。わしがどこに行つたかわからんで、探しまはつとつたのに、こんなとこにをつた。さあ、あんたはわしで、わしはあんたぢやから、早う家に歸んなさい。

婆河童 わしがあんたなんて、あんたとわしがどんな關係があるか。わしはあんたなんか知らんがな。わしはわしぢやよ。

婆河童 わからんわしぢやなう。あんたはわしといふとるのに、何べんいや、わかるか。わしのことをわしが勝手にするのに、誰からも文句はいはせん。こら、わし、わしのところへ歸れ。

婆河童 わしはわしぢやが。なんの、わしがあんたぢやろか。離しておくれ。

婆河童 わしよ、わしについて來い。

 

    ぐんぐん右手へひきずつで行つてし

    まふ。

    蛙、蟬、鳥の聲。

    左右から、大勢河童が出て來て、誰

    が誰やらわからず、口口にわめきあ

    ひ、からみあひ、なぐりあひする。

    めちやめちやである。

    左右へ散つてしまつたあと、岩石の

    かげから、三角帽の河童姿をあらは

    す。退屈でたまらぬやうに、長い欠

    伸(あくび)をする。木かげから、

    醫者河童とびだす。

 

河童醫 貴樣、俺たちをたぶらかしやがつて、貴樣、ほんたうに俺たちの眷族か? 河童か? 惡魔ぢやないのか? 皿があるかないか、見せろ! その三角帽をぬいでみろ!

 

    醫者河童、帽子に手をかける。三角

    帽は抵抗しないで、岩の向かふから、

    身體を前方に曲げる。

    帽子がとりはらはれると、頭に皿は

    なく、二本の角が出る。

    その角から、もうもうと靑い煙が出

    て、舞臺中にひろがる。醫者河童、

    尻餅をつく、

[やぶちゃん注:読点はママ。]

    煙につつまれて見えなくなつたなか

    で、三角帽河童の奇妙な笑ひ聲の、

    長々しくひびくなかに。

 

                   幕

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟿螽(はたはた)


Hatahata

はたはた  螇蚸

蟿螽

      【俗波太波太】

 

△按蟿螽卽𧒂螽之屬長三四寸身甚瘦方首兩額有眼

 目上有二髭翅灰赤色黒點腹下白善跳難捕本艸綱

 目謂似螽斯而細長曰蟿螽者是也

 

 

はたはた  螇蚸〔(けいれき)〕

蟿螽

      【俗に「波太波太」。】

 

△按ずるに、蟿螽は、卽ち、𧒂螽(いなご)の屬。長さ三、四寸。身、甚だ瘦(や)せて、方なる首、兩の額に、眼、有り。目の上に二〔つ〕の髭、有り。翅、灰赤色、黒點あり。腹の下、白く、善く跳びて捕へ難し。「本艸綱目」に『螽斯(はたをり)に似て細長〔(ほそなが)〕を蟿螽と曰ふ』と謂ふ者(〔も〕の)、是れなり。

 

[やぶちゃん注:短い叙述なのに悩ましい。まず、挿絵を見ると、立派なバッタだ。それも所謂、泰然自若とどっしりとした、雑弁亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria 然としたそれで、疑いようがない。考えてみると、私はここまで、孰れも実はトノサマバッタと比定同定していないから、もってこいだ。

 ところが、だ。

 これ、その本文を虚心坦懐に読むと、その確信安堵の様相が一変するのである。本種の属性は、

・身体が非常に瘦せている。トノサマバッタは大名のように鱈腹喰うて太った印象であって、少なくともこうは絶対に表現しない。以下で良安は概ね前面から対象昆虫を観察している。トノサマバッタの顔は、寧ろ、デブって丸くなった殿様顔である。

・首は方形である。「方」は対象が四角いことであるが、これは、その属性としての角張っていることをも指し、必ずしも四角形や箱形であらねばならないわけではない。寧ろ、前提で「非常に痩せている」としている以上、体幅が有意にある四角なのではなく、異様にスマートで角稜がくっきりと出ている頭胸部である、或いは、顔つきをしているという意味でとった方がしっくりくる

・両方の額に眼が存在し、その直上に一対の髭がある。この「兩額」というのは注意する必要がある。トノサマバッタのような前面が人の顔のようにのっぺりとした一平面としてある場合、その「額」を「兩」とは表現しない。我々額を「右の額と左の額」としてまず区別しないのと同じである。トノサマバッタを正面から観察すると、人の顔に譬えた場合、確かに眼は左右にあると言え、その上に一対の髭はあるものの、「額」は左右二つ、「兩額」ではなく、人間のそれと同じで前面に「額」があるのであって、左右「兩」面に分離した「額」が存在するとは私なら表現しない。では、「兩額」に眼があるとはどのような形状を指すか? 言わずもがな、「額」が前面からはないように見え、左右に「額」が分離して存在するようにしか見えず、そこに眼が左右に――前面からはっきりは見えず、ほぼ完全に「左右」に――あるように見え、しかも、そのすぐ真上から一対の触覚がすっくと伸びているのである。

・翅は灰赤色で黒点を有する。これのみは、かなりトノサマバッタっぽくはある。

・腹の下が白い。

・非常に高く強く跳び、捕えるのが難しい。以上の三点はトノサマバッタ類に認められるものであるが、ではトノサマバッタに特異的であるかというと、そうではない。これは寧ろ、バッタ類の多くの種或いは体色変異個体に広く認められるものである。

・「本草綱目」にさえ「螽斯」(はたをり)=直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis キリギリス類「に似て」いるが、有意に「細長」く、異様にスマートだというのである。繰り返すが、トノサマバッタを私はスマート、いやさ、瘦せてガリガリだなどとは逆立ちしても言わない

 もう、お判りであろう。

 これらの叙述の属性を殆んど総て(敢えて言うと、「翅は灰赤色で黒点を有する」というのはによく見られる褐色個体で前半はクリアー出来ても、「黒点」はちょっと無理か)保有する、ぴったりくる種は唯一つ既に蠜螽(ねぎ/しょうりょうばった)出た

有翅昆虫亜綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea

(或いは性的二形で大型の同種の以外にはいないと私は断言出来るのである。

 附言すれば、「はたはた」「蟿螽」「螇蚸〔(けいれき)〕」、特に「はたはた」と「螇蚸」は古くから現代に至るまで、広義にはイナゴやバッタの総称であったが(「螇蚸」を「ばった」或いは「はたはた」と読ませるケースは俳句などで非常に多い)、その中でも有意に狭義に「ショウリョウバッタの異名」として好んで用いられてきた経緯があるのである。

 「本艸綱目」と珍しくフル・ネームで出し、しかも何時ものように先には出さず、自身の評言のみで項立てしたこの特異点の項目「はたはた」は、そろそろ、「似たようなものばかり並んで、正直、飽きたわ」という良安先生の内心がキチキチ、基、ヒシヒシと私には伝ってくるのである。

 因みに、「本草綱目」の「螽斯(はたをり)に似て細長〔(ほそなが)〕を蟿螽と曰ふ」というのは、「𧒂螽」(本電子化中の𧒂螽」は本邦ではイナゴ類に限定同定した)の「集解」の中に記されてある。]

2017/09/14

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蝗(おほねむし)


Oonemusi

おほねむし

      【和名於保

       祢無之】

【音黃】

ハアン

 

本綱蝗亦螽類大而方首首有王字沴氣所生蔽天飛性

畏金聲一生八十一子其子未有翅者名蝮一名蝝【音延】

不因牝牡腹中陶冶而自生故曰蝮

爾雅集註云蝗怱名也食苗心曰螟食葉曰𧊇【當作𧈩並同

[やぶちゃん字注:「」は原典では「虫」を「貝」上に上げ、「代」と並べた字体。後も同じ。

食節曰根曰蝥【當作𧐙字蟊亦同

[やぶちゃん注:「𧐙」は原典では「虫」の上に「務」。

三才圖會云枉法令卽多螟乎言其姦冥冥難知也吏乞

貸則生言假貸無厭也吏抵冒取民財則生蟊

桃李中蠹赤頭身長而細

唐書云太宗貞觀二年有蝗害田帝捕蝗曰天若罪我汝

能害我黎民何罪祝畢呑之蝗果不害

五雜組云江南無蝗過江卽有之此理之不可暁者當其

盛時飛蔽天日雖所至禾黍無復孑遺然間有留一二頃

獨不食者

△按蝗之屬甚多而首有王字者甚希也蓋蝗害苗者未

 有之如爲害則災也但六七月霖雨不晴雖霽冷則生

 蟲大如蚇蠼綿蟲屬而微黒食苗心所謂螟者是乎

 

 

おほねむし

      【和名、「於保祢無之」。】

【音、黃。】

ハアン

 

「本綱」、蝗も亦、螽(しう)の類。大にして、方なる首。首に「王」の字、有り。沴氣〔(れいき)〕生〔ずる〕所、天を蔽ひて飛ぶ。性、金聲〔(きんせい)〕を畏〔(おそ)〕る。一たび、八十一の子を生む。其の子、未だ翅有らざる者、「蝮〔(ふうたう)〕」と名づく。一名、「蝝」【音、延。】。牝牡〔(めすおす)〕に因らず、腹中にて陶冶して、自〔(おのづか)〕ら生〔(しやう)〕ず。故に「蝮〔(ふくたう)〕」と曰ふ。

「爾雅集註」に云く、『蝗は怱名なり。苗の心を食ふを「螟〔(めい)〕」と曰ひ、葉を食へるを「𧊇(とく)」と曰ふ【當に「〔(たい)〕」の字に作るべし。「」〔と〕「𧈩」〔とは〕並びに同じ。】。節(ふし)を食ふを「〔(そく)〕」と曰ひ、根を食ふを「蝥〔(ぼう)〕」と曰ふ【當に「𧐙」の字作るべし。「蟊〔(ぼう)〕」も亦、同じ。】。』〔と〕。

[やぶちゃん字注:「」は原典では「虫」を「貝」上に上げ、「代」と並べた字体。後も同じ。「𧐙」は原典では「虫」の上に「務」。]

「三才圖會」に云く、『法令を枉(ま)ぐるときは、卽ち、「螟〔(めい)〕」多し。言ふこころは、其の姦(かたま)しきこと、冥冥として知り難き〔なれば〕なり。吏、貸〔(たい)〕を乞へば、則ち、「」を生ず。言ふこころは、貸を假〔(か)〕りて厭はず〔なれば〕なり。吏、抵冒〔(ていばう)〕して民の財を取るときは、則ち、「蟊」を生ず。「」は、形、桃李の中の蠹〔(きくひむし)〕に似て、赤頭、身、長くして細し。』〔と〕。

「唐書」に云く、『太宗の貞觀二年、蝗〔(こう)〕、有りて、田を害す。帝、蝗を捕へて曰く、「天、若〔(も)〕し、我れを罪〔(つみ)〕せば、汝、能く我を害せよ。黎民〔(れいみん)〕、何の罪かある。」〔と〕。祝し畢〔(おは)〕りて、之れを呑む。蝗、果して害をせず。』〔と〕。

「五雜組」に云く、『江南には、蝗、無く、江を過ぐれば、卽ち、之れ有り。此の理〔(ことわり)〕をして、之れ、暁(さと)すべからざる者なり。其の盛んなる時に當りて飛び、天日を蔽ふ。至る所の禾黍〔(かしよ)〕、復た孑遺(のこす)こと無しと。然〔りと〕雖も、間(まゝ)、一、二頃〔(けい)〕、留〔(とど)〕めて、獨り、食はざる者、有り。』〔と〕。

△按ずるに、蝗〔(おほねむし)〕の屬、甚だ多し。而〔れども〕、首に「王」の字有る者、甚だ希〔(まれ)〕なり。蓋し、蝗の、苗を害〔せる〕者、未だ之れ有らず。如〔(も)〕しし、害を爲すは、則ち、災〔ひ〕なり。但し、六、七月、霖雨、晴れず、霽〔(は)〕るゝと雖も、冷〔(ひゆ)〕れば、則ち、蟲を生ず。大いさ、蚇蠼(しやくとり〔むし〕)・綿の蟲の屬のごとくにして、微〔(かすかに)〕黒く、苗の心を食ふ。所謂、「螟」といふ者、是れか。

 

[やぶちゃん注:この「蝗(おほねむし)」「螽」(しゅう)の仲間というのは、逆転の繰り返しとなるが、今度は、前項の「𧒂螽」(本邦の直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目イナゴ科 Catantopidae(イナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae)に属するイナゴ類ではなく

中国やアフリカで大群で穀類を襲う「飛蝗(ひこう)」として恐れられる、ワタリバッタ類(雑弁亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科 Acrididae のバッタ類の内、サバクトビバッタ(バッタ科 Schistocerca属サバクトビバッタ Schistocerca gregaria:アフリカ大陸呼び中東、アジア大陸に棲息するが、本邦にはいない)やトノサマバッタ(バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria:無論、本邦に普通に棲息するそれであるが、群体相を示すことはまずない)のように、大量発生などによって相変異を起こして群生相となったもの

を指す。これら、一部のワタリバッタ類の群体相が大群を成して集団移動する現象を「飛蝗」これによる穀類の、時に壊滅的ともなる草体部の食害を「蝗害」と呼ぶのである。

 従って、良安が引く中国の書の記載は、中国での「飛蝗」、本邦にいないか種或いは個体、或いは、いても群体相化しないそれらバッタ類を指しており、しかも古い記載である上に非生物学的であり、沢に出てくる虫偏の類は同定すること自体、少なくとも本邦では(或いは私のこの電子テクストに於いては)、労多くして益なきものであることは言を俟たない(私が中国の博物学史家や昆虫類の研究者であるのならば、それをする意義は大いにあるとは言える)。されば、それらの注は附さない。良安の評言が、今一、何時ものようにパンチがないが、彼もこの虫偏の漢字やそこに記載された生態・習性等に、正直、困った感じを抱いているからだろうと私は踏んでいるのである。

 

「大にして、方なる首」これで褐色を呈すれば、まさにワタリバッタ類の群体相の形態にそっくりである。

『首に「王」の字、有り』挿絵にもはっきり描かれてある。ワタリバッタ類のラテン語学名で画像を見てみたが、何せ、生態写真の殆んどは、側面からのものばかりで、背部が明白に写されてあるものが、実は少ないため、「王」の字を見出だすことは出来なかった。ヨーロッパ・ロシア地域で頻繁に目撃されたUFO(未確認飛行物体)の船底に「王」の字を刻んだ円盤のあったことは、よう、知っとるんやけど、なあ……

「沴氣〔(れいき)〕生〔ずる〕」中国語の文語(古語)表現で「沴」には「悪しき気・不健康な空気」、動詞で「損なう・傷つける」の意がある。東洋文庫訳では『自然の気が乱れる』とある。腑に落ちる。

「金聲〔(きんせい)〕」東洋文庫訳では『金属の音声』とする。そういえば、古えの中国の飛蝗襲来の際に盛んに鉦(かね)を叩くというシーンを何かの伝奇の中で読んだ記憶がある気がする。

「一たび、八十一の子を生む」例えば「飛蝗」のチャンピオン、サバクトビバッタでは成虫は四日間隔で卵を産むが、砂の中に尻尾を差し込むようにして一度に五十から百個ほどを纏めて産卵するとあるから、この数値は平均値として見るならば非科学的ではない。ただ、群体(群生)相では卵の数は孤独相の時よりも少なく、その代わりに大きな卵を産むと専門研究者前野ウルド浩太郎氏についての記載の中にあったNational Geographic のこちらの記事内(複数ページに及ぶ)。

「牝牡〔(めすおす)〕に因らず、腹中にて陶冶して」「陶冶」に東洋文庫訳は『そだてて』とする。も卵を体内で形成するというのは、無論、あり得ない

「爾雅集註」中国最古の類語辞典・語釈辞典である「爾雅」(著者不詳・紀元前 二〇〇年頃成立)を南北朝の梁(五〇二年~五五七年)の沈璇(しんせん)が注した「爾雅沈璇集注」。

「怱名」(そうめい)は総称のこと。

「心」芯。茎の蕊(ずい)の部分。

「螟〔(めい)〕」誤り。これは昆虫綱 Panorpida上目チョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目メイガ上科メイガ科 Pyralidae に属するニカメイガ(二化螟蛾)Chilo suppressalis の幼虫など、水稲などの茎や芯葉に食入して食害する害虫を指す(食害されると枯死したり、不稔になったり、米が小さくなったりする)。和名は年二回発生(二化)することに由来する。本邦のイナゴ類の幼虫も同様の寄生をして食害することはあるが、ニカメイガの比ではないと私は思う。この辺りから、稲の茎を食害する多種の幼虫を「蝗」類とする誤りが展開し、その摂餌対象が苗の蕊か葉か、成長したものの節か根かで分類して漢名をつけて別種として分類してしまうという中国本草学のトンデモ分類学にまで至ってしまうのである。何をか注せんや、という感じである。

「三才圖會」王圻(おうき)とその次男思義によって編纂された絵を主体とした中国の類書(百科事典)。明の一六〇七年に完成し、二年後に出版された。全百六巻。「三才」とは「天・地・人」を指し、「万物」を意味する。世界の様々な事物を天文・地理・人物・時令・宮室・器用・身体・衣服・人事・儀制・珍宝・文史・鳥獣・草木の大項目十四部門に分けて説明しており、各項目に図が入る。本「和漢三才図会」は本書に触発されて編著されたものではあるが、ここまでお付き合い下さると判る通り、本草部(動植物類)のパートは殆んどの主記載が李時珍の「本草綱目」に拠っている。

「法令を枉(ま)ぐるときは、卽ち、「螟〔(めい)〕」多し」載道的な自然現象解読。儒教的道徳律でそれらを説明しようとしている。

「其の姦(かたま)しきこと、冥冥として知り難き〔なれば〕なり」そうした邪悪で非道な行為が、民や国王・皇帝に分らぬように竊かに暗々裏(「冥冥」)に遂行されるために、人の目につき難いからである。その悪しき気を天が察して「螟」を多量に発生させるのだと言うのである。

「貸〔(たい)〕」東洋文庫訳では、この字に『(金品の用立て)』と割注する。無辜の人民から役人がプライベートに必要なものを税金としてではなく、全く以って不当に吸い上げ、それを提出させることを無理強いすることといった感じであろう。但し、それは表向きはあくまで合法的に「借りる」(貸借の字は互換性がある)のであって、後の略奪とは異なる(結果は略奪なのだが)。

「貸を假〔(か)〕りて厭はず〔なれば〕なり」東洋文庫訳では、『貸を仮(か)りて厭(いと)わないという意味あいである』という半可通な訳になっている。前注の私の謂いを参照。

「吏、抵冒〔(ていばう)〕して民の財を取るときは」東洋文庫訳では『役人が民の財を侵奪すれば』と訳す。実務レベルで実行支配する民の物は俺たちの物的発想の確信犯という意味であろう。

「唐書」「新唐書」北宋の欧陽脩らの奉勅撰になる唐代に関わる正史書。全二百二十五巻。一〇六〇年成立。五代の後晋の劉昫(りゅうく)の手になる「旧唐書」(くとうじょ)と区別するために「新唐書」と呼ぶが、単に「唐書」とも呼ぶ。「旧唐書」は唐末五代の頃の戦乱の影響によって、武宗以後の皇帝の実録部分に欠落があるなど、史料不足による不備が大きかったことから、宋代になって新出の豊富な史料に拠ってその欠を補った書である。以下は同書の「五行志第二十六 五行三」に載る。

   *

貞觀二年六月、京畿旱、蝗。太宗在苑中掇蝗祝之曰、「人以穀爲命、百姓有過、在予一人、但當蝕我、無害百姓。」。將吞之、侍臣懼帝致疾、遽以爲諫。帝曰、「所冀移災朕躬、何疾之避。」。遂吞之。是歳、蝗不爲災。

   *

「太宗の貞觀二年」ユリウス暦六二八年。太宗は第二代皇帝李世民(六二六年~六四九年)のこと。無論、ここで「蝗」を飲み下したのも彼である。

「黎民〔(れいみん)〕」「黎」は「諸々・多い」の意で人民・庶民の意。

「祝し」咒(まじない)をして。

「五雜組」既注であるが、再掲しておく。明の謝肇淛(しゃちょうせい)の十六巻からなる随筆集であるが、殆んど百科全書的内容を持ち、日本では江戸時代に愛読された。書名は五色の糸で撚(よ)った組紐のこと。以下は同書の「卷九」に、

   *

江南無蝗、過江卽有之、此理之不可曉者。當其盛時、飛蔽天日、雖所至禾黍無復孑遺、然間有留一二頃、獨不食者、界畔截然、若有神焉。然北人愚而惰、故不肯捕之。此蟲赴火如歸、若積薪燎原、且焚且瘞、百里之内、可以立盡。江南人收成後、多用火焚一番、不惟去穢草、亦防此等種類也。

   *

の前半部。

「此の理〔(ことわり)〕をして、之れ、暁(さと)すべからざる者なり」東洋文庫訳では『この理由をあきらかにすることができない』とある。

「禾黍〔(かしよ)〕」食用とする稲と黍(きび)。

「孑遺(のこす)」「孑遺」は音「げつい」で「僅かに残るもの」の意。

「獨り」は限定の意。

「一、二頃〔(けい)〕」これは田の面積の単位で一頃(けい)は百畝で九千九百十七平方メートル弱であるから、一万から一万九千八百三十平方メートルに相当する。野球のグラウンドで一つか二つ分に相当する。

「食はざる者、有り」「者」は「物」で敷地を指す。

「害を爲すは、則ち、災〔ひ〕なり」良安はそのような大規模な本邦産のイナゴの食害を見たことがないから、それは想像を絶した虫害である、と言っているのである。

「六、七月、霖雨」梅雨及び秋雨の長雨。

「蚇蠼(しやくとり〔むし〕)」既注であるが、狭義には鱗翅目シャクガ(尺蛾)科 Geometridae に属するガの幼虫の通称「尺取虫」類等を指す。「蝗」とは全く無縁。

・「蝥〔(ねきりむし)〕」同じく既注であるが、「根切り虫」は鱗翅目ヤガ科モンヤガ亜科 Agrotis 属カブラヤガ Agrotis segetum・同属タマナヤガ Agrotis ipsilon など、茎を食害するヤガ(夜蛾:ヤガ科 Noctuidae)の幼虫の総称で、一見すると、根を切られたように見えることから、かく呼ばれているようである。同じく「蝗」とは全く無縁。

「綿の蟲」半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科コナカイガラムシ科 Pseudococcidae のことか。しかし黒いとあり「苗の心を食ふ」というのは本種とは思われない。別種か? コナカイガラムシだとして、やはり「蝗」とは全く無縁。

「所謂、「螟」といふ者、是れか」だからね、良安先生、それはニカメイガだっつうの!]

演じてみたい役 追加

 

僕が今もベケットの「クラップ最後のテープ」を演じてみたいことは以前にも何度も書いたが、昨夜、寝しなにふと、
 
「あれなら――是非やりたい。急にやりたくなったのだ。」
 
と思った役があったのだ。
 
漱石の「こゝろ」の「ある役」だ。
 
「先生」では無論、ない。もう「先生」の年齢の倍近く生きてしまったからね(「先生」を爺さんだと思っている愚かな連中がいっぱいいるが、先生が自殺したのは満で35歳ぐらいだよ。私の論考を見給え)。だから「K」も「私」も無理だ。「私」の「父」も魅力ない。
 
もういないだろうって?
 
いや、僕の年でもやれる役がある。しかも頗る魅力的なのだ。
 
多分、誰も当たらない。台詞もないチョイ役だからだ。
 
でも無性にやりたいと思ったのだ。
 
僕の初出の電子化から引こう。例の雑司ヶ谷で「私」が「先生」に再会するシークエンスに登場する「彼」だ――
 
   *

 
  先生の遺書

 
      (五)
 
 私は墓地の手前にある苗畠(なへばたけ)の左側(ひだりかは)ら這入つて、兩方に楓を植ゑ付けた廣い道を奧の方へ進んで行つた。すると其(その)端(はづ)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て來た。私は其人の眼鏡の縁が日に光る迄近く寄て行つた。さうして出拔(だしぬ)けに「先生」と大きな聲を掛けた。先生は突然立ち留(ど)まつて私の顏を見た。
 
 「何うして‥‥、何うして‥‥」
 
 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。其言葉は森閑とした晝の中(うち)に異樣な調子をもつて繰り返された。私は急に何とも應へられなくなつた。
 
「私の後を跟(つ)けて來たのですか。何うして‥‥」
 
 先生の態度は寧ろ落付いてゐた。聲は寧ろ沈んでゐた。けれども其表情の中には判然(はつきり)云へない樣な一種の曇りがあつた。
 
 私は私が何うして此處へ來たかを先生に話した。
 
 「誰の墓へ參りに行つたか、妻が其人の名を云ひましたか」
 
 「いゝえ、其んな事は何も仰しやいません」
 
 「さうですか。――さう、夫は云ふ筈がありませんね、始めて會つた貴方に。いふ必要がないんだから」
 
 先生は漸く得心したらしい樣子であつた。然し私には其意味が丸で解らなかつた。
 
 先生と私は通(とほり)へ出やうとして墓の間を拔けた。依撒伯拉(いさべら)何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのといふ傍(かたはら)に、一切衆生悉有佛生(いつさいしゆじやうしつうふつしやう)と書いた塔婆などが建てゝあつた。全權公使何々といふのもあつた。私は安得烈(あんどれ)と彫(ほ)り付けた小さい墓の前で、「是は何と讀むんでせう」と先生に聞いた。「アンドレとでも讀ませる積でせうね」と云つて先生は苦笑した。
 
 先生は是等の墓標が現す人(ひと)種々(さまざま)の樣式に對して、私程に滑稽もアイロニーも認めてないらしかつた。私が丸い墓石だの細長い御影(みかげ)の碑だのを指して、しきりに彼是云ひたがるのを、始めのうちは默つて聞いてゐたが、仕舞に「貴方は死といふ事實をまだ眞面目に考へた事がありませんね」と云つた。私は默つた。先生もそれぎり何とも云はなくなつた。
 
 墓地の區切(くき)り目に、大きな銀杏(いてう)が一本空を隱すやうに立つてゐた。其下へ來た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。此木がすつかり黄葉して、こゝいらの地面は金色(きんいろ)の落葉(おとば)で埋まるやうになります」と云つた。先生は月に一度づゝは必ず此木の下を通るのであつた。
 
 向ふの方で凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。私達は其處から左へ切れてすぐ街道へ出た。
 
 是から何處へ行くといふ目的(あて)のない私は、たゞ先生の歩く方へ歩いて行つたた。先生は何時もより口數を利かなかつた。それでも私は左程の窮窟を感じなかつたので、ぶら/\一所に歩いて行つた。
 
 「すぐ御宅へ御歸りですか」
 
 「えゝ別に寄(よる)所もありませんから」
 
 二人は又默つて南の方へ坂を下(おり)た。
 
 「先生の御宅(おたく)の墓地はあすこにあるんですか」と私が又口を利き出した。
 
 「いゝえ」
 
 「何方の御墓があるんですか。―御親類の御墓ですか」
 
 「いゝえ」
 
 先生は是以外に何も答へなかつた。私も其話しはそれぎりにして切り上げた。すると一町程歩いた後で、先生が不意に其處へ戻つて來た。
 
 「あすこには私の友達(ともたち)の墓があるんです」
 
 「御友達(ともたち)の御墓へ毎月御參りをなさるんですか」
 
 「さうです」
 
 先生は其日是以外を語らなかつた。
 
   *
 
そうだ。
 

雑司ヶ谷の墓地の中で「凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男」だ。「鍬の手を休めて」「私」と「先生」を凝っと見つめている男だ。
 
あれを演じたい。

何故かって? 僕はね、やっぱり彼は「Kの亡靈」だと思うからだよ(それは確信犯で僕のフェイク小説「こゝろ佚文」にも登場させたんだからね)、「Kの亡靈」なら、六十の爺でいいんだ、いや、寧ろ、六十の爺の方がいいんだよ…………

北越奇談 巻之六 人物 其十一(安平、海中より大金を得る)・其十二(京極為兼と初君このと)・其十三(雑)/「北越奇談」~了

 

    其十一

 

Yasuheikawazaihuwohirohu

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎最後(同時に「北越奇談」の最後の)の絵。キャプション「捨身して 安平 海中に 金を得たり」。]

 

 村松濱に安平(やすへい)と云へる者あり。家、貧しくして、漁(すなどり)、藻鹽垂(もしほた)れて、その日を送りぬ。

 一年(ひとゝせ)、春、和波(なぎ)の豐かなるに至り、女房に向(むかつ)て云へるは、

「我れ、年久しく參宮の志願(しぐはん)あれども、錢(ぜに)の乏しきを以(もつて)果たさず。今年は、少し、世の業(わざ)も緩やかなれば、道すがらは、人々に手の中(うち)の助けをも得て、伊勢に參るべし。五十日は待(また)すべからず。」

とて、独(ひとり)、藁苞(わらづと)に旅裝(たびよそほ)ひして、遂に、遙々(はるばる)と艱難を得て、伊勢山田御師(おんし)某が元(もと)に着(つ)きぬ。

 扨、かの地、參詣の群聚(ぐんじゆ)、その繁花、云はん方(かた)なく、中にも、太太(だいだい)の講中(かうぢう)、その勢ひ、侯家(こうけ)のごとく、花美(くはび)量(はかり)なきを見て、安平、甚だこれを羨み、

アヽ、とても參宮の志(こゝろざし)あらん者は、かゝる大祭(たいさい)を行ひてこそ目出たかるべけれ、世に貧(ひん)ほど悲しきはあらじ。」

と、つくづく頭(かしら)を低(たれ)て思ひ入(いり)たる折節、御師(おんし)の手代(てだい)、來りて、安否を問ふ。

 安平、云ふ。

「太太神樂(だいだいかぐら)を上(あげ)候には、金子(きんす)、何(なに)ほどかゝり候事ぞ。」

と問ふ。手代、云(いふ)。

「一人にして七(しち)両二分候。」

荅(こた)ふ。

 安平、頭(かしら)を撫でて、

「金あらば、我も太太を行(おこなは)んものを。」

と、打笑(うちわら)ひば、手代の云(いふ)。

「御志(こゝろざし)候はゞ、甚(はなはだ)安きことに候。金子(きんす)は、只今、無しとも、苦しからず。秋中(あきぢう)、御(おん)國元へ參り候節(せつ)、返濟有ㇾ之(これある)に於ゐては、取替(とりかへ)可ㇾ申(まうすべし)。」

と云ふにぞ、何の思慮もなく、

「さらば、太太打(うち)可レ申(まうすべし)。」

と云へば、俄(にはか)に御師より、衣服を出(いだ)し、坐を改め、其(その)馳走(ちそう)、誠に「三日長者」とも云(いつ)つべし。

 扨、奉幣(ほうへい)・宮巡(みやめぐ)り・名所見物等(とう)相濟(あいす)み、又、元(もと)の破笠(やぶれがさ)に出立(いでた)ち、遂に國元へ立帰(たちかへ)りけるが、もとより貧しき業(なりは)ひに打ち紛れて、其事(そのこと)となく、忘れ居(ゐ)けるが、何時(いつ)しか、秋の末に至りて、伊勢より、御師(おんし)の手代、村長(むらをさ)の家に來り、

「此村に安平と申(まうす)人、當寺參宮いだされ、太太の金子七両二分取替(とりかへ)たれば、請(うけ)取りたし。」

と申

 村長、大に驚き、

「貧窮の安平、何として、太太打ち候ことぞ。さらさら、訝(いぶか)しく候。」

とて、安平を召す。

 安平、心なく、出來り、手代の顏を見て、初めて驚くと雖も、如何ともすること、なし。

 村長、安平に其故を問(とふ)。

 安平、隱すこと能(あた)はず、

「如何樣(いかさま)、七両二分、借用致し、太太、打(うち)候。」

と荅ふ。

 村長、甚(はなだだ)感賞(かんせう)し、

「扨々、其方(そのほう)、貧困の身として、太太打つ手段(しゆだん)あらんとは、此(この)老(おひ)に至(いたつ)て、猶、知らず。誠に羨しき男かな。」

とて、家に帰す。

 安平、立帰り、つくづく思ひけるは、

「我れ、百錢をさへ、不ㇾ得(えず)。まして、太太、何としてか、誤りけん。所詮、返金せざれば、神罪(しんばつ)、逃れがたし。又、家を賣(うる)とも、猶、七金(しちきん)は不ㇾ可ㇾ得(うべからず)。これ、即(すなはち)、神明(しんめい)の、我に死を給ふ時なるべし。」

と、覺悟しけるが、

「とてもの名殘(なごり)に、手代・村長にも一飯(いつはん)の麁膳(そぜん)を振舞(ふるまへ)、わが生前(しようぜん)の思ひ出にせばや。」

と、一子(いつし)を村長の家に使(つかは)せしめ、女房に向(むかつ)て、

「我れは海邊(かいへん)に到り、魚(うほ)にても、鮑(あわび)にても、取來(とりきた)るべし。汝は飯(めし)炊(た)き、膳の用意して待つべし。」

とて、釣竿・網など携へ、独(ひとり)、海邊(かいへん)に出(いで)て、彼方此方(あなたこなた)と、網、下げ、釣を下(くだ)すと雖も、魚一尾(いちび)をも得ることなく、又、海底を潛(くゞ)り、岩間(いはま)・汐瀨(しほせ)の辨(わきま)へなく、尋ね求(もとむ)れども、蠣(かき)・蛤(はまぐり)の一ツをだに、得ることなし。

 女房は、内にありて、何の理由(わけ)とも知らず、膳椀など隣に借(かり)、飯を炊(か)しぎ、汁ばかり幾度(いくたび)か煮立てゝ、日の暮(くるゝ)まで、待てども待てども、帰り來らず。

 かの手代・村長は腹を押(おし)、口を鳴らして待つと雖も、いまだ、其沙汰なし。

 然るに、安平、日の暮るゝまで心力(しんりよく)を盡くして尋ね求(もとむ)れども、終(つゐ)に一物(いちもつ)の得る所なし。

 安平、つくづく思ひけるは、

「扨も。是、皆、我(わが)積悪(せきあく)の成る故に、神明の捨(すて)給へるなるべし。今日已に暮(くれ)て、一物の得ることなく、何を以つてか、家に歸ることを得ん。とても、天命の盡(つく)る所。身を沈めて死すべし。」

と、覺悟を極め、海岸、尤(もつとも)深(ふかい)所に至り、可ㇾ憐(あはれむべし)、終(つゐ)に白波の底に飛入(とびいり)たり。

 扨、千尋(ちひろ)の深き岩間に沈みたれども、身に重石(おもり)なきが故に、又、浮(うか)み出んとす。自(みづから)、

「浮むまじ。」

と岩角(いはかど)にとり付きたれば、忽(たちまち)、其岩角と共に波上(はしよう)に浮み出たり。

 安平、一息つきて、かの取付(とりつき)たる岩角と思ひし物を見れば、岩にはあらで、古き皮財布(かはざいふ)なり。

 安平、驚き、もとの岸に上がり、これを開き見るに、黄金(わうごん)、數百(すひやく)あり。

 あまりの嬉しさに、夢路のごとく飛帰(とびかへ)り、物をも不ㇾ言(いはず)、家に入れば、女房は、頻りにいらち喚(わめ)くを、靜(しずか)に制し、

「早く、村長の家に到りて、客(かく)人を迎ひ來(きた)るべし。」

とて押出(おしいだ)し、扨、膳を見るに、飯あるのみ、さらに一菜(いつさい)の用意なし。

 安平、竊(ひそ)かに膳を備(そな)ひて待つに、已にして、両人、出來り。

 一義(いちぎ)にも及ばず、膳に着(つ)き、飯を食(しよく)し、扨、汁の蓋(ふた)をとれば、金(きん)一兩、在(あり)。

 平(ひら)の蓋をとれば、又、金あり。

 坪(つぼ)を開けば、同じく、金あり。

 皆々、大に驚き、其故を問ふ。

 安平、淚を流し、始末、盡(ことごと)く、是を語り、悦び合(あへ)り、と。

 今、猶、其家、富榮(とみさかへ)て繁昌せり。

 誠に、一奇の果報と云ふべし。

 

[やぶちゃん注:「村松濱」現在の新潟県胎内市村松浜。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藻鹽垂(もしほた)れて」塩を採るために海藻に海水をかけて。歌語としては「泣く」の意の「しほたる」と掛けて多く用いられる。本話の安平の最後の死を決した危機一髪のシークエンスの伏線とも言えよう。

「世の業(わざ)も緩やかなれば」世の中の景気も悪くないので。

「道すがらは、人々に手の中(うち)の助けをも得て、伊勢に參るべし」伊勢参宮の者には道中にて参詣者に対し、途中の民草が結縁のために、宿や食及び介抱などの施しをするのが通例であった。

「五十日は待(また)すべからず」当時の新潟からの伊勢参りの往復の日数が、これで知れる。

「藁苞(わらづと)」藁を束ねて中へ物を包むようにした旅行用の携帯具としての入れ物。また、その苞(つと)で包んだ土産物・贈り物を指すから、ここは伊勢神宮へのささやかな奉納品(金)をも含まれていよう。

「伊勢山田」三重県伊勢市山田(やまだ)地区。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば、『伊勢神宮外宮の鳥居前町として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とある。

「御師(おんし)」神社(当時は神仏習合であるから神寺)の参詣や祈禱等を手助けすることを業務とした者を指し、一般には身分の低い神職や社僧が兼務した。熊野三山・伊勢神宮・阿夫利神社・江ノ島などでは、宿坊の経営や参詣人の案内を兼ね、信仰の普及にも寄与した。伊勢以外では通常は「おし」であるが、伊勢では特別に「おんし」と称する。野島出版補註には、『神社の祈禱師の敬称。大神宮、石清水、春日神社等にある。大神宮の下級の神人の』何々「太夫」と称した者を『いう。年々御祓箱を国々の人家に配り、初穂を求め、各地より参宮する時は、宇治、山田に在る其御師の家に宿泊する例であった』とある。

「太太(だいだい)の講中(かうぢう)」「伊勢太太講・伊勢代代講」のこと。室町時代以後に生じた無尽講(一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期に掛け金を払い込ませて抽選や入札により金品を給付する民間の扶助組織)のような仕組みで、交代で伊勢参りをして「伊勢太太神楽(だいだいかぐら)」を奉納する費用を積み立てた組合。江戸時代に盛行した。「伊勢講・太太講」とも略した。野島出版補註には、『伊勢大神宮へ庶民が奉る神楽を太太という。この神楽を奉る組合仲間を講中という』とある。

「侯家(こうけ)」大名のこと。

「御師(おんし)の手代(てだい)、來りて、安否を問ふ」この場合の手代は、御師の下で雑務や客との直接交渉(ここに見るように全国を行脚して営業も行った)や世話を勤めた役の者。安平の愁鬱な様子を見て、相談に乗ったのある。

「七(しち)両二分」「北越奇談」刊行当時の江戸後期とするなら、一両は現在の五万円ほどで、「一分」はその一両の四分の一であるから、三十七万五千円ほどとなる。但し、野島出版補註では、『二分金は文政元年鋳造したもので二枚で両にあたる。一両を今の二万円とすれば七両二分は十五万円となる』ともっと安く見積もっている。江戸時代の貨幣価値は変動著しく、換算対象で激しく変わるので、この解説を最低額と見て、二者の平均で二十六万円前後を示しておくこととする。

「取替(とりかへ)」立て替え。

「黄金(わうごん)、數百(すひやく)」後で膳椀の中に金一両宛入れているから、数百両と採ってよかろう。「數」(私は六掛けを基本とするが)を少なく見積もって三百両としても、先の五万円換算なら一千五百万円、野島出版版補註の換算値二万円としても六百万円となり、最後に「其家、富榮(とみさかへ)て繁昌せり」というには充分な値である。

あり。

「いらち喚(わめ)く」野島出版補註には「いらだち」『の誤記であろう。気が烈しくなる。甚だしく急ぐ。わめくは大声を出す。どなる。叫ぶ』とあるが、これは「苛(いら)つ」(自動詞タ行四段活用)で「いらいらする・いらだつ」の意で誤りでも何でもない。

「一義(いちぎ)にも及ばず」「一議に及ばず」で、「あれこれ議論するまでもなく・ある対象を問題にするまでもなく」の意。ここは手代も村長も、異様に長く待たされたことに対してこれといって文句や不満を言うこともなく、の謂いであろう。]

 

 

 

    其十二

 

 初君(はつぎみ)、寺泊の遊女なり。古(こ)冷泉(れいぜい)□□□爲兼(ためかね)卿(きよう)を送奉るの和歌、皆、世の知る所なり。其碑、今、寺泊堺町(さかひまち)と云へる、人家の傍(かたは)らにあり。

「玉葉集」 物思ひ越路が浦の白波も立(たち)かへるならひありとこそきけ

 

[やぶちゃん注:「□□□」は底本の脱字を再現した。野島出版版にはない。元が何であるかは不詳。或いは何か誤り(事実、「冷泉」は実は誤りである。後注参照)を差し替えるために版木を削って彫り直した際、誤って字を入れ損なって空欄となっただけかも知れない。

「初君(はつぎみ)」野島出版補註に、『寺泊の遊女であると書いたものが多い(崑崙もそう書いている)。しかし』、『所謂』、『遊女が身分の高い為兼卿のお相手をして歌など読める筈がない』。これは誤伝であって、恐らくは『良家の娘で五十嵐家』(寺泊の豪族)『に頼まれてお給仕した娘であったのだろう』とある。詳しくは次注を参照されたい。

「古(こ)」「いにしへ」の意か。

「冷泉(れいぜい)」「爲兼(ためかね)」野島出版脚注に鎌倉後・末期の公卿で歌人の『京極為兼卿の誤であろう』とする。ウィキの「京極為兼」によれば、京極為兼(建長六(一二五四)年~元徳四/元弘二(一三三二)年)は『名前の読みを「ためかぬ」とする説もある』とする。藤原定家の曾孫。『京極家の祖・京極為教の子に生まれる。幼少時の初学期から従兄の為世とともに祖父為家から和歌を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕えた。為兼の「兼」は実兼からの偏諱であると考えられている』。建治二(一二七六)年には『亀山院歌会に参会し、為兼和歌の初見となっている』弘安三(一二八〇)年には『東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから』、永仁六(一二九八)年に『佐渡国に配流となった』。嘉元元(一三〇三)年に『帰京が許されている。勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て』、正和元(一三一二)年に「玉葉和歌集」を『撰集している』。翌正和二年、『伏見上皇とともに出家して法号を蓮覚』、『のちに静覚と称した』。しかし二年後の正和四(一三一五)年十二月二十八日のこと、『得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁』されてしまい、翌正和五年正月十二日、『得宗が守護、安東氏が守護代であった土佐国に配流となり、帰京を許されないまま』、『河内国で没した』。二度の『流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある』。『歌風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ』。「玉葉和歌集」「風雅和歌集」に『和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる』とある(下線やぶちゃん)。もし、この条のそれが事実とすれば、永仁六(一二九八)年から嘉元元(一三〇三)年の間ではなく、配流された際の途次、或いは赦免されて京に戻る際のエピソードとなろうから、このそれぞれの年の孰れかと考えるのが自然であり、前の野島出版補註及び次の注の現在の碑の解説板に従うならば、前者、即ち、永仁六(一二九八)年に佐渡へ向かう前に土地の豪族五十嵐家に逗留し、そこで初君と邂逅、相聞歌を交わしたことになる。更に、個人サイトと思われる「新潟県:歴史・観光・見所」の「長岡市:初君旧歌碑」には、為兼が佐渡配流の折り、『寺泊に風待ちの為に』、『一月余り滞在し』、『そこで出会ったのが初君(寺泊の才色兼備の遊女)で、玉葉和歌集に載っている初君の和歌』、

 

 もの思ひ越路の浦のしら浪もたちかへるならひありとこそ聞け

 

は、『この時為兼に贈られたと考えられてい』るとし、『天候が回復し』て、『佐渡島に旅立つ日』、『為兼は初君に対し』、

 

 逢ふことをまたいつかはと木綿(ゆふ)たすきかけしちかひを神にまかせて

 

『と詠み、その返答として』初君は上記の『和歌を詠んだとされ』ていると記す(下線やぶちゃん)。「木綿(ゆふ)」たすき」は「木綿(ゆう:木綿ではないので注意。楮(こうぞ)の木の皮を剥いで蒸した後、それを水に晒して白色にした繊維)で作った襷。その白さから清浄なものとされ、神事に奉仕する際、肩から掛けて袖をたくし上げるのに用いたのが最初。和歌では「かく」を導く序詞ともする。ここもそれ。

「其碑、今、寺泊堺町(さかひまち)と云へる、人家の傍(かたは)らにあり」野島出版脚注に、『初君の碑は前にあったものが火事に焼けたので、更に享和二年(一八〇二)の秋、聖徳寺の住職円雅が建てたのが今の碑である。これには、国上寺の客僧、万元の碑文や初君の歌などが刻まれている。磯町愛宕神社の傍に在る』とある。若槻武雄氏のサイト「蝦夷(えみし)・陸奥(みちのく)・歌枕」のこちらのページに三種の初君関連の碑の画像があり、キャプションでは、『寺泊は佐渡遠流(島流し)の風待ちの地である』。『藤原(京極)為兼と遊女初君の別れの歌碑がある』。『もの思ひ 越路の浦の しら浪も たちかへるならひ ありとこそ聞 初君』とあり(野島出版補註にも「北越奇談」本文の「越路が浦」の「が」は「越路の浦」の誤りであるとある)、また『あふことを 又いつかはと ゆうだすき かけし誓いを 神にまかせて 為兼』とし、五年後に『許されて都へ還った為兼の勅撰集である玉葉和歌集に彼女の歌を載せたのである』(下線やぶちゃん)。『越後の人で勅撰集の載せられたのは彼女一人である(説明板)』とある(前注参照)。

「玉葉集」「玉葉和歌集」はこの京極為兼の撰になる鎌倉後期の第十四勅撰和歌集。全二十巻。応長元(一三一一)年に為兼に伏見院の院宣が下り、翌正和元年奏覧の上、改訂されて正和二年に完成した。収録歌数は二千八百一首。伏見院・藤原定家・西園寺実兼・従二位為子(ためこ:為兼の姉)・藤原俊成・西行・藤原為家,永福門院,為兼らがおもな採録歌人で、「万葉」時代と「新古今」時代及び為兼の同時代の作品を重視して採っている。歌風は、叙景歌は客観的・写生的で、恋歌などの抒情歌は心理的・観念的傾向が著しい。声調よりも印象の清新さを狙っており、後の名歌集「風雅和歌集」(室町時代の第十七勅撰集。貞和四(一三四八)年までに成立)とともに、「十三代集」の中では異彩を放ち、後世、「玉葉・風雅歌風」などと呼ばれる。宮廷歌壇の対立を反映して、反対派の二条派から「歌苑連署事書」などの論難書が発表されたが、近年は高く評価されている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」の記載に拠った)。

「物思ひ越路が浦の白波も立(たち)かへるならひありとこそきけ」既に示した通り、「越路が浦」の「が」は「越路の浦」の誤り。野島出版補註には、さらに、『「玉葉集」上は「読人知らず」となって居り、初君の名は出ていない』とある(下線やぶちゃん)。]

 

 

    其十三

 

 柏崎中濱村の産(さん)、宦女(くはんじよ)辰子ノ傳、幷ニ水原堤村(つつみむら)百姓某(それがし)、入宮門(きうもんにいる)話等(とう)は、今、聊(いさゝ)か憚(はゞか)るところあれば、略ㇾ之(これをりやくす)。

 

[やぶちゃん注:以上を以って「北越奇談」の本文は終わっている。

「柏崎中濱村」現在の新潟県柏崎市中浜。(グーグル・マップ・データ)。

「宦女」「官女」に同じい。

「辰子」不詳。ただの官女なので「たつこ」と訓じおく。識者の御教授を乞う。

「水原堤村(つつみむら)」現在の妙高市の附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「入宮門(きうもんにいる)話」百姓が、あろうことか、何かの理由で宮中に参内したということであろうが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

北越奇談巻之六 大尾

――――――――――――――――――――――

橘崑崙茂世著

            古器 産物 名所旧跡

  北越奇談後編 續出 山勝 海絶 奇事

             其外諸話夛く集む

――――――――――――――――――――――

 同

              寫木彩色

  同郡縣地理山川路程全圖 六尺八尺

     附佐州之図     大圖 一枚出来

 

 

 

  北越 橘崑崙茂世著述 ㊞

  東都 柳亭 種彦挍閲 ㊞

  同  葛飾 北齋補畫 ㊞

[やぶちゃん注:㊞はそれぞれ「崑崙」、「柳亭」、「雷辰」。北斎のそれは沢山あった彼の号の一つである。]

 

[やぶちゃん注:最後の奥付と、そこに挟まる形の関連広告(書名は原典では有意に大きい)のみを電子化した。]

北越奇談 巻之六 人物 其十(蜂のもたらした夢を買って大金を得た仁助)

 

   其十

 

Nikitigousei_2

[やぶちゃん注:北斎の挿絵。キャプション「仁助 大蜂の夢を買て 樹根に金を得る」。放射する金光の白抜きに残したそれが素晴らしい。左右を合成する際には、専ら、その光線の具合をのみ考慮した。その合成の違和感を軽減させるために、上部の枠を恣意的に除去してある。] 

 

 間瀨(ませ)の濱(はま)は、伊夜日子山(いやひこやま)、海磯(かいぎ)に浸(ひた)りて、絕巖露根(ぜつがんろこん)、引連(ひきつらな)、一望(いつぼう)數(す)十里、佐州の遠山(ゑんざん)、波上(はしよう)に浮(う)かみて、景色(けいしよく)はかりなき地なり。漁樵(ぎよせう)、凡(およそ)三百余家(か)、冬、暖(あたゝか)に、夏、凉し。

 爰(こゝ)に仁助と云へる壯年の者あり。家貧しく、父母老(おひ)たれども、いまだ、妻(さい)を不ㇾ迎(むかへず)、富家(ふか)某(それがし)の下(もと)に身を賣(うり)、漸(やうや)くにして父母を孝養せしが、ある夏の末、朋輩の男と、後(うしろ)なる山に柴を刈(かり)てありけるが、あまりの暑(あつさ)に、

「いざ、凉(すゞみ)なん。」

とて、木蔭(こかげ)に立寄(たちより)、松根(しやうこん)を枕として、朋輩の男は遂眠(ねふ)れり。

 かの仁助は、眠ること能(あた)はず、海面(うみづら)遙かに詠(なが)め居(ゐ)たりしに、忽(たちまち)、佐州の方より、赤き大蜂(おほばち)一ツ、飛來(とびきた)りて、かの眠れる男の鼻の上に止(とま)り、二、三度、左右へ𢌞(めぐ)りけるが、その蜂、鼻の穴の中(なか)へ跂入(はいり)たり。

 仁助、是を見て驚き、呼び起さんと思ひども、あまりによく眠れる故、

「今に、かの蜂の刺したるならば、などか目を覺(さま)さゞらん。」

と打詠(うちながめ)たるに、やゝ半時(はんじ)ばかりにして、其蜂、鼻の穴より跂出(はへいで)、又、鼻の上に登り、二、三遍(べん)、左右に𢌞(めぐ)りて、忽(たちまち)、羽(は)を振るひ、海上(かいしよう)遙(はるか)に、飛去(とびさ)りぬ。

 されども、かの男、いまだ不ㇾ覺(さめず)。

 仁助、たまり兼ねて、搖すり起し、

「扨も、よく眠る男哉(かな)。汝、頻りに鼾(いびき)高く、寐語(ねごと)せしが、何ぞ、夢は見ずや。」

と、問ふ。

 かの男、漸々(やうやう)起上がり、目を擦(す)り擦り、

「莫迦(ばか)な夢を見しことかな。」

と云ふ。仁助、

「いかなる夢ぞ。」

と問ふ。彼(かの)男、

「いやとよ。赤き衣(ころも)着たる老僧一人來りて、

『我は佐州榎木谷(えのきだに)正光寺(しやうくはうじ)と云へる僧なり。佛殿の前に榎の大木(たいぼく)あり。其根下(ねのした)に金(かね)あり。是を汝に授(さづ)くるほどに、早く來りて掘(ほる)べし。遲き時は、他人の手に渡るべきぞ。』

と、言捨(いひすて)て歸りたり。夢妄想(ゆめまうぞう)とは此(この)ことならん。」

と云ふ。

 仁助、聞(きゝ)て、

「そんな莫迦な夢は、早く人に賣(うる)がよい。」

と云へば、かの男、

「誰(たれ)が夢を買(かふ)ものぞ。」

と答ふ。仁助、

「我れ、買ふべし。」

と云ふ。かの男、

「しからば、錢(ぜに)を出せ。賣(うる)べきぞ。」

と。

 爰(こゝ)に於て、酒二升に約し、遂に、仁助、村の酒店(しゆてん)に至り、二斤(きん)の酒を求め、山に歸り來り。夢を買(か)ふかの男、大に喜び、終(つゐ)に、両人、是を吞盡(のみつく)して歸る。

 扨、仁助、主人に暇(いとま)を乞(こひ)、親の元(もと)に立帰り、一年の許しを得て、江戸に出(いで)稼(かせ)ぎて見たき由(よし)を願ひ、已に旅立(たびたち)の裝(よそほひ)を成し、村を離れ、密かに新泻の湊より便舟(びんせん)して、佐州に渡り、榎木村と云へるを尋(たづ)ぬるに、

「水津(すいつ)より、三里、北山(きたやま)の中(うち)にあり。」

とて、直ぐに其所(そのところ)に到り見れば、正(まさ)しく正光寺と云へる禪院、在(あり)。

 仁助、即(すなはち)、寺に奉公せんことを求む。和尙、喜び、

「幸ひ、近頃、僕(ぼく)に暇(いとま)やりて、人を抱(かゝ)へんと思ふ折節なり。」

とて、遂に是を許す。

 扨、仁助、精心を盡(つ)くし、給仕して、其樣子を窺ひ見るに、門前に、大なる榎木ありて、中庭、皆、蔭(かく)す。

 一日(いちじつ)、和尙に謂(いつ)て曰(いはく)、

「此(この)大樹(たいじゆ)、半(なかば)朽(くち)て、良材になるべからず。地(ち)、蔭(かげり)て、苔(こけ)、厚し。只、切(きつ)て薪(たきゞ)と成(なせ)ば、よろしからんか。」

と問ふ。和尙、是を許す。仁助、

「人を雇ふに不ㇾ及(およばず)。我(われ)よりより、是を根より掘倒(ほりたを)し切(きら)ん。」

と。

 日を經て、根の周(まは)り、盡(ことごと)く土を穿(うがち)、大木、倒(たを)るゝばかりにして、扨、打捨置(うちすておく)事、又、數日(すじつ)、ある日、和尙始(はじめ)、寺中(じちう)、皆、出(いで)て不ㇾ居(おらず)、仁助獨り、留主居(るすゐ)して、人無きを窺ひ、急(いそぎ)、かの大樹を掘りて引倒(ひきたを)すに、忽(たちまち)、盤囘(ばんくわい)の根下(こんか)、一壺(いつこ)の金光(きんくはう)、燦然として、仁助、密(ひそか)に是を納(おさむ)。

 時に、和尙、歸り來りて、大樹を伐(き)りたることを勞(ねぎら)ふ。

 仁助、僞(いつわ)つて曰(いはく)、

「父、重病の由(よし)にて、今日、人を以つて、我を召す。願(ねがは)くは、三月(みつき)の暇(いとま)を得、歸りたし。」

と乞ふ。

 和尙、其孝を感じて許す。

 仁助、又、曰、

「父、常に砂糖を好めども、家、貧にして、飽(あか)しむること、能(あた)はず。願くは、給銀(きうぎん)を以つて求めたし。」

と請ふ。

 和尙、又、是を許す。

 仁助、卽(すなはち)、砂糖一壺(いつこ)を求め、かの金(かね)の壺と取替(とりかへ)て荷作り、遂に、便船して國に歸る。

 是より、家富榮(とみさかへ)て、今、猶、繁昌せり。

 

[やぶちゃん注:日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちら(夢・蜂)によれば、柳田國男「初夢と昔話」(昭和一二(一九三七)年二月発行『旅と傳說』第百十号所収・但し、この論文、所持する「ちくま文庫」版全集には所収しない)に(以下は日文研の要約)『九州のほうでは、日向の外録の金山を開いた三弥大蓋という人の出世譚として伝えられている。越後では間瀬村の仁助という長者の話だといい、夢の峰はすなわち、四十九里の波の上を渡って佐渡の榎木谷の正光寺の庭で黄金の壷を捜しあてたことになっている』とあり、本邦に外に酷似した伝承があることが判る。話柄としては唐代伝奇辺りに濫觴を求められそうな匂いがするように私は思う。なお、個人サイト「西蒲原怪奇研究所」のこちらによれば、一九九六年刊の小山直嗣「新潟県伝説集成 下越篇」からとして、この仁助は『寺から持ち帰った金でたくさんの田畑を買い、御殿のような家を建てて住んだ。人々は仁助を「間瀬の長者」と呼んで敬ったという』ともある。最後の、仁助が佐渡から金子の入った壺を持ち出すに際しての砂糖壺との取り替えの謀略などは、明らかに西欧或いは中国の説話等の臭気がプンプンして、却って作り話臭く、私は厭味な気がした。

「間瀨(ませ)の濱(はま)」現在の新潟県新潟市西蒲区間瀬(まぜ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。佐渡島を正面に見据える。

「伊夜日子山」多数既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山のこと。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。間瀬の南南東四・五キロメートル弱。

「海磯(かいぎ)に浸(ひた)りて」海浜や磯の水面に映って。

「絕巖露根(ぜつがんろこん)」切り立った絶壁で巨岩がその根を露わにしているさま。

「漁樵(ぎよせう)」漁師と木樵(きこり)・杣人(そまびと)。

凡(およそ)三百餘家(か)、冬、暖(あたゝか)に、夏、凉し。

「跂入(はいり)たり」正確には「はひいりたり」と読むのが正しい。「跂」(音「キ・ギ」)は「這(は)う・這って歩く」の意。

「半時(はんじ)」現在の一時間相当。

「跂出(はへいで)」読みはママ。

「佐州榎木谷(えのきだに)正光寺(しやうくはうじ)」不詳。まず、現在の佐渡に「榎木谷」或いは「榎谷」「榎」の地名或いはその痕跡を見出せない。また、現在の新潟県佐渡市羽吉(はよし)ここ(グーグル・マップ・データ)。大佐渡の両津の北直近)にかつて羽黒山正光寺という寺は存在したが、ここは水津(現在の両津の東方、小佐渡北端の姫崎の灯台の段丘下にある天然の良港。ここ(グーグル・マップ・データ))からは確かに有に「三里」(以上)はあるものの、元は天台宗で、上杉景勝の佐渡入府によって真言宗に改宗するも、寛永一七(一六四〇)年に寛永寺末寺となって天台宗に復帰、明治の初めに廃寺となっていて(ブログ「佐渡広場」の本間氏のこちらの記載に拠る)、「禪院」ではない。なお、本文では「北山」とあるが、佐渡でこう呼称するのは、金北山(きんぽくさん:大佐渡山地のほぼ中央に位置する標高一一七一・九メートルの島内で最も高い山。古くは「北山(ほくさん)」と呼ばれていたが、江戸初期に佐渡金山が発見されてより、現在の名で呼ばれるようになった。ここ(グーグル・マップ・データ))で、羽吉地区はちょっと東にずれる。但し、山号にもなっている同地区の羽黒山ここ(グーグル・マップ・データ))は金北山の五キロ東北東にあって「北山」を中心とする大佐渡山地の中の一ピークであるから、「北山(きたやま)の中(うち)にあり」は表現としてはおかしくはない。問題はやはり「禪院」である。佐渡は偏愛する地であるので(特にカテゴリでの「佐渡藻鹽草」の完全電子化注によってドップリはまってしまった)、今少し探索して見ようとは思うが、この寺、今はまだ比定同定出来ない。但し、正直言うと、寧ろ、類似伝承が濫觴であることを意識した架空の寺のようにも思われる。別に禅宗の正光寺が佐渡にあった事実があるのであれば、是非、御教授あられたい。

「二斤(きん)の酒」何故、こう書き変えているか分らぬ。二升(体積単位。一升=一・八リットル)と二斤(重量単位。一斤=六百グラム)は酒では一致しない。ルビもそれぞれちゃんと区別してつけてあるのだが、「升」は崩した場合、「斤」と見間違い易い。ここも「二升」が正しいのではなかろうか。

「夢を買(か)ふかの男」「買」はママ。売った男の方を指す。当時、「売買」という語は互換性があり、これは誤りではない。

「盤囘(ばんくわい)」周囲を廻り繞(めぐ)ること。]

2017/09/13

北越奇談 巻之六 人物 其九(徳人百姓次郎兵衞一家)

 

    其九

 

 正直は殊に夛(おほ)きものなれども、罸(ばつ)は擧(こぞつ)て是を論じ、賞(しよう)は隱れて傳へざるものなり。

 爰に、蒲原郡中才村百姓次郎兵衞(じろべゑ)と云へる者、天性の正直にして、近郷遍(あまね)く是を知る所なれども、其(その)先、僅か四斗前(しとまへ)の田地を父兄より分(わか)ち得て、夫婦、農事を營むこと、他の人に倍せり。

 常に田畑を耕して歸る時、復(また)來(きた)るべき所には、鍬・鎌なんど、皆、捨置(すておけ)り。人、其(その)失(うしなは)んことを氣遣ふ。次郎兵(じろべゑ)へ[やぶちゃん注:「へ」は崑崙独特の衍字めいたダブり。以下、同じ。]云(いふ)、

「何ぞ、人の物を取る心掛(が)けの者、あらんや。」

とて、更に不ㇾ疑(うたがはず)。

 又、人の求(もとむ)る處あれば、己(おのれ)が用を省(はぶき)ても、是を與(あた)ふ。

 一日(いちじつ)、大豆六斗を馬(むま)付(つけ)て、市(いち)に賣る。其價(あたひ)、二貫文を得て、袋に入(いれ)、鞍に結(ゆ)ひ付(つけ)、自(みづか)ら、馬に乘(のり)て歸る。家の前に至り、馬より下(お)り、かの錢(ぜに)を見れば、巳に失(しつ)して、なし。家人、早く立戻(たちもどり)て、其(その)遺(おとしたる)錢を尋求(たづねもとめ)んことを催促(さいそく)す。次郎兵へ、即(すなはち)、もとの道に尋ね戾りしが、一丁ばかりにして、やがて、立歸(たちかへ)りぬ。家人、問ふ、

「遺錢(ゆいせん)ありしや。」

と。次郎兵の曰(いはく)、

「錢(ぜに)なしと雖も、我(われ)、是を失(うしな)ふて愁へば、人、是を拾得(ひろひえ)て喜ぶべし。」

とて、又、尋(たづぬ)る心、なし。家人も、是(これ)を然りとして、止(やみ)ぬ。

 又、ある日、米十余俵(ひよう)をもて、三條の商人(あきびと)に賣(うる)。時過(ときすぎ)て、商人、來り、云ふ。

「米直段(こめねだん)、此比(このごろ)、殊の外、引下(ひきさげ)て、先(さき)、買得(かひえ)し米、大に損あり。」

と告ぐ。次郎兵への曰(いはく)、

「それは氣の毒なり。損あらば、此方(こなた)より、償(つぐの)へ參らすべし。」

と。商人(あきびと)、辭して不ㇾ受(うけず)。又、云(いふ)。

「公(こう)等(ら)は、賣買の利を以つて世渡(よわた)る者が、損ありては、不ㇾ叶(かなはざる)こと也。是非、償(つぐの)へ遺(つかは)し可ㇾ申(まうすべし)。」

と、相爭ふて不ㇾ止(やまず)、終(つゐ)に俵(たはら)を作り替(かへ)て、其損を補ふ。

 其余(そのよ)、徳行(とくこう)、擧げて云(いふ)べからず。

 子四人あり。皆、正直至孝、長子五郎次(ごらうじ)、妻を迎(むか)ひて、子、なし。二男八郎に嫁(めと)る。家内、皆、孝貞和順(こうていわじゆん)、鷄犬猫子(けいけんめうし)に至るまで、皆、相和して不ㇾ爭(あらそはず)。食を共にし、地を同(おなじう)して眠(ねふ)る。

 五郎次、犬を好(このん)で四(し)疋を養(やしな)ふ。五郎次、外(ほか)に出(いづ)る時は、四犬(しけん)、相送(あいおくつ)て、二ツは川を越(こえ)て隨ひ行(ゆき)、二ツは家に帰る。又、更に他(た)の犬と相争ふこと、なし。皆、相馴(あいなれ)て遊ぶ。歸るに及(およん)で、二ツの犬、已に路(みち)に出迎(いでむか)ふ。如ㇾ此(かくのごとき)事、其(その)常なり。

 其徳化(とくくは)、又、艸木(さうもく)に及(およぼ)して、年每(としごと)の耕作、其穀を得ること、他(た)に倍せり。

 故に、家、富(とみ)て、父次郎兵へ一代の間(あいだ)に、十二石の祿を殖(ふや)しぬ。

 過(すぎ)し年、其徳行を聞慕(きゝした)ひ、かの家に尋ね到り、相見るに次郎兵へなる者、鶴髮松姿童顏(くわくはつせうしどうがん)、眞(しん)の仙客(せんかく)を見るがごとく、年壽(ねんじゆ)已に八十二歳とぞ。

 誠に羨ましき人と云ふべし。

 

[やぶちゃん注:「蒲原郡中才村」現在の新潟県新潟市西区新通仲才(なかさい)か。(グーグル・マップ・データ)。

「四斗前(しとまへ)」十升=百合=一斗で約十五キロ、四斗=四十升=四百合=一俵で約六十キロであるが、当時の感覚ではこれよりも有意に少なく、しかも「前」というのは未満という意味と採れるから、一俵に見るからに足りないほどの米しかとれないほどの面積の田という意味であろう。

「六斗」前の米換算なら、九十キログラムだが、大豆の場合は、信頼出来るサイト(醸造器具メーカーの大豆換算表を確認)によると七十八キログラムである。

「二貫文」江戸後期、一両は十貫文で、これが現在の金額に換算して五万円相当とするサイトがあるから、凡そ一万円相当となる。

「一丁」百九メートル。

「孝貞和順(こうていわじゆん)」野島出版補註に『孝は孝行、貞は心が正しく惑わない。和はおだやか。順は目上の人にしたがう』とある。

「十二石」一石は十斗であるから、二トン二百五十キログラム相当となる。

「鶴髮松姿童顏」野島出版補註に『鶴髪は髪の毛の白いこと。松姿は松の木が常緑で色をかえないことから長寿の姿をいう。童顔は児童のような顔』とある。]

北越奇談 巻之六 人物 其八(悲劇の孝子新六)

 

    其八

 

 蒲原郡釈迦塚村、新六と云へる貧民あり。

 母に仕へて至孝實直類(たぐひ)なしと雖も、家、貧なるが故に、身を賣りて、谷江氏(たにゑうぢ)に仕ふ。

 妻を不ㇾ迎(むかへず)、母一人、家にあり。新六、日々、農事を營み、寸隙(すこしひま)ある時は、即(すなはち)、母のもとに行(ゆき)て安否を問ふ。風雪炎暑といへ共、母を不ㇾ問(とはず)と云ふこと、なし。

 母、常に雷(らい)を恐る。もし、雷電(らいでん)する時は、如何なる暗夜(あんや)・暴雨と雖も、起出(おきいで)て、母の家に至り、傍(かたはら)に侍す。

 又、其身、貧乏に苦しむといへ共、貪慾の心、一点も、なし。主人の家を出(いで)て外(ほか)に遊ぶ時は、先(まづ)、主人並(ならび)ニ朋輩の見る前にて、自(みづか)ら衣(ころも)を脱ぎ、塵を拂ひなどして、且、着て、出去(いでさる)。其意、偏(ひと)へに人の疑はんことを憚るのみ。

 後、母、病(やん)で目盲(めしゆ)。

 依ㇾ之(これによつて)、主人に暇(いとま)を請受(こひうけ)、家に歸り、母を介抱す。又、僅かに耕作を營み、朝(あした)に出(いで)て、暮に歸る。其一日の努(つと)むる所、皆、以(もつて)、母に談(かた)り、慰(なぐさ)む。

 又、母、盲なるが故に、新六が勞(らう)する所を知らず、不時(ふじ)に酒食魚肉等(とう)を求む。即、風雨・暗夜・日暮を不ㇾ論(ろんぜず)。今町(いままち)の市(いち)に走(はしり)て是を買ふ。其行程(ぎやうてい)、凡(およそ)二十余丁也。且、家貧なるが故に、價(あたひ)、僅か十錢(じつせん)に不ㇾ過(すぎず)と雖も、其勞を厭はず。

 後に、母、亡(ほろ)ぶ。

 新六、悲泣して不ㇾ止(やまず)、終(つゐ)に如ㇾ狂(くるふがごとく)、依(よつ)て農事を努(つと)めず、家、益々、困乏(こんぼう)、自(みづか)ら、人に寄りて、食を求む。又、雇れて食(しよく)す。

 如ㇾ此(かくのごとき)こと、三年、病(やん)で茅屋に臥す。

 只、谷江氏、爲ㇾ之(これをがために)、食を贈るのみ。

 不日(ふじつ)にして、卒(そつ)す。

 誠に可ㇾ愍(あはれむべし)。

 過(すぎ)し頃、其孝直(こうちよく)を聞(きゝ)、相尋(あいたづぬ)るに、已に沒して、子孫なし。涕淚(ているい)すれども、不ㇾ及(およばず)。

 於ㇾ此(こゝにおいて)、一(ひとつの)論、あり。

 前(さき)の春松(はるまつ)は、孝を以つて、一日千金(いちじつせんきん)の富(とみ)を得、此(この)新六は、至孝正直(せいちよく)にして、困乏、餓死す。

 アヽ 天 孝子を愍(あはれむ)とならば 何ぞ 此新六を困(こん)せる

 悼(いたま)しいかな 新六 惜(おし)いかな 新六

 

[やぶちゃん注:人間崑崙の悲憤慷慨は司馬遷が「史記」伯夷・叔斉の悲劇の生涯に投げかけた最後の言葉、「天道是邪非邪」(天道、是か非か)を想起させるほど、激しく私の胸を打つ。それを受け、詠ずるように、最後は句読点を恣意的に打たなかった。

「蒲原郡釈迦塚村」現在の新潟県見附市釈迦塚町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「谷江氏」この人物、の章に登場する人物である。崑崙の知人であったのである。

「先(まづ)、主人並(ならび)ニ朋輩の見る前にて、自(みづか)ら衣(ころも)を脱ぎ、塵を拂ひなどして、且、着て、出去(いでさる)」言わずもがな乍ら、主家から一銭の金さえも持ち出していないことを示すための仕草である。

「今町(いままち)」現在の新潟県見附市今町であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。釈迦塚の北、直線で二・五キロメートルほど

「二十余丁」二十四町で二・六キロメートル

「不日(ふじつ)にして」日を経ずして。

「前(さき)の春松(はるまつ)」七」の孝子春松。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「狐の化け損ね」

 

 狐の化け損ね

 

 狐の化け損つた話で最も愛敬のあるのは、「寓意草」の中の一話であらう。鳥取の士坂川彦左衞門が雉子打ちに出た時、松原の中から現れたのを見ると、下僕の形をしながら顏は狐であつた。今日は御狩でございますか、私も暇でございますからお供を致しませう、といふので、鐡砲を持たせることにした。知人の門に來て、その狐に雉子を見張つて居れと命じ、自分は中に入り、今をかしなやつが來るが實はぬやうに、と注意して置いた。錢砲持ちの狐はやがてやつて來て、鳥はどこにも見えません、と云ふ。家の人も心得て笑はずに茶を出す。私は水をいたゞきたいと云ふので、その通り水を注いだ茶碗を差出したが、その水にうつる顏を一瞥するなり、狐はあわてふためいて逃げ出した。居合せた人はどつと笑ふ。坂川彦左衞門は翌日も雉子打ちに出たところ、草むらの中から彦左衞門の名を呼び、昨日はをかしうございました、と云つて笑ふ者がある。化け損ねの狐にきまつてゐるが、姿は遂に見せなかつた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左下段)から視認出来る。それを読むと、不審に思った「雉子を見張つて居れ」の箇所が合点した。原話では坂川は『いで奴雉子のありやなしやみをりてのこれ』(いで、奴(やつこ)、雉子(きじ)のありや、なしや、見居りて殘れ)で、「さあ、従者(ずさ)よ、獲物に出来る雉子がいるかいないか、ここに暫く残って探索しおれ。」と命じたのである。]

 

 筑前國福岡の城下を一里餘り離れた岡崎村といふところに、高橋彌左衞といふ馬乘りが住んで居り、夕方から用事で城下まで出かけたが、夜になると間もなく歸つて來た。妻女はいさゝか不審を懷き、どうして早くお歸りなされたかと尋ねると、いや、先方の家の近くまで行つたら、用事は濟んだといふ使ひの者に出逢つたので、直ぐ引返した、と云ふ。何しろ疲れたからと直ぐ臥所に入り、供に連れた下僕も食事を濟まして寢てしまつた。その時年久しく使はれてゐる老婆が妻女の袖を引いて、旦那樣のお眼が違つて居ります、とさゝやいた。高橋は片眼盲(めし)ひて居つたが、それは右眼であるのに、今歸つたのは左眼だといふのである。妻女も驚いたけれど、しかと見極めた上にしたいといふので、婆が急に腹痛を起しました、藥を飮ませて下さい、と云つて起した。こんなに疲れてゐるのに、とぶつぶつ云ひながら目をさましたのを見れば、成程左眼が潰れてゐる、最早妖怪に紛れもないと、雨戸をさし固め、脇差を咽喉に當て、老婆はうしろから續け樣に撲り付け、こんこんくわいくわいと鳴いたところを突き殺した。供に化けた狐は家來どもに殺された。――「新著聞集」にあるこの話は、主人に化けて家族をたぶらかすつもりだつたのであらうが、うつかり眼を取り違へた爲に一命を失つたのである。狐が化けるに當り眼を取り違へた話は、他にも例がないことはない。

[やぶちゃん注:「岡崎村」不詳。

「高橋彌左衞」以下に見る通り、「高橋彌左衞門」の誤り

「こんこんくわいくわい」底本では「くわい」の後半のみに踊り字「〱」があり、これでは「こんこんくわいくわいこんこんくわいくわい」となるが、以下の原典に従い、「くわい」のみを繰り返した。

 以上は「新著聞集」の「第十七 俗談篇」の冒頭に置かれた以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○鈍狐害をかふむる

筑前福岡の城下より、一里あまり過て、岡崎村に、馬乘の高橋彌左衞門といふ者あり。用事有て、入相のころより、城下に出ゆきしが、夜に入とひとしく歸りしかば、いかで早く歸りたまふと、妻のとひしに、されば、道今すこしになりて、かの方より、用も足れりとてとめ侍りし。餘りにつかれたるとて、閨に入り、供の僕は物くふて臥りぬ。此家に、年おひたる婆ありけるが、妻の袖をひき、主人、常は右の目、盲たまへるに、只今は、左の目、盲たるこそいぶかしと告げければ、妻おどろき、さらば、少し出し見んとて、姥が俄に腹痛しぬ。藥をあたへられよといひしかば、かく疲れていねたるにとつぶやき、漸くに出しをみれば、左の目盲たり。さては疑もなき妖ものなりしかば、妻かいがいしくも、最早婆も快く侍りしまゝ、いねさせよとて、ねやの戸をしめ、四方のかこみを、嚴しくたてこめ、脇指を、臥たる上より咽にあて、姥は後より、たゝみかけ打ければ、こんこんくわいくわいと鳴し所を、つき殺しける。又家來の老共は、供の狐をたゝき殺しけり。未熟の狐にや。妖け損じけるこそおかしかりし。

   *]

 

「文化祕筆」に出てゐるのだから、時代は大分後である。豐後國岡といふところの或人が、鐡砲を持つて山へ出かけ、狐を一疋打つて歸つた。然るに四五日ばかりして殿樣より使ひがあり、その方去る何日何山に於て狐を打つた由であるが、右の狐は殿樣御祕藏のものである。不屆の次第につき切腹仰せ付けられる、といふことであつた。君命は如何ともしがたい。畏りました、然らば家内の者に暇乞ひを致し、その用意を仕りまするから、暫時御猶豫下されい、と答へ、勝手に行つて母親に委細を話した。母親の云ふのには、狐を一疋殺したぐらゐの事で切腹仰せ付けられるのは、何分合點が往きかねる、一つ御使ひの樣子を見屆けよう、とあつて唐紙の隙から窺つて見た。使ひに來た大目付の何某は右の片眼である筈なのに、左の片眼であるのみならず、左に差すべき大小を右に差してゐる。心を落ち著けて見たらよからうと云はれ、自分も覗いて見ると正にその通りである。これは狐の仕業に相違ないと思つたから、刀を拔いて唐紙を押し開いた。狐は忽ち正體を現し、塀を飛び越して逃げるところを斬り付けたが、遂に取り逃したといふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:「豐後國岡といふところの或人」同国直入(なおいり)郡竹田(現在の大分県竹田市)に藩庁をおいた外様藩岡藩の藩士であろう。

「文化祕筆」著者不詳。所持しないので提示出来ない。]

 

 その人の特徴である片眼を捉へて化けながら、左と右とを取り違へるなどは、やはり爭はれぬ獸の智慧で、狐の顏のまゝ鐡砲を持つて供をした鳥取の狐と兄たり難く弟たり難いものであらう。智慧の點では遙かに狐を上𢌞つてゐるつもりの人間にしても、凌雲院の名を騙つて松江侯の玄關に乘り込む芝居の河内山が、高頰の黑子といふ特徴を閑却してゐるやうなもので、由來化けるといふことは、かうした手落ちを伴ひ勝ちのものなのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「凌雲院の名を騙つて松江侯の玄關に乘り込む芝居の河内山」「天保六花撰」と称されたアウトローたちの生き様を描く歌舞伎の世話物の傑作「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」。河竹黙阿弥作で初演は明治一四(一八八一)年。私は歌舞伎が嫌いなので、の梗概をどうぞ。

「高頰」頬の高くなった部分。複数の諸解説を読むと、芝居では河内山宗俊が自分のトレード・マークである黒子を隠し忘れてしまい、凌雲院大僧正に化けて松江出雲守をうまく騙すのであるがが、最後の最後にその黒子でばれるという設定だそうである。]

 

「窓のすさみ」にある話は、延寶頃といふから、今まで擧げた中では一番古い。これは疱瘡の藥を作るために狐の生き肝(ぎも)を取るといふ一條があるので、狐の恨みを買ふ度合も強いわけであるが、その家第一の重臣である中川某が物頭の許(もと)に乘り込んで、一通の書付けを示した。その内容は狐などには關係なく、物頭が靑年時代より壯年に至る間に犯した過失を書き上げたものであつた。物頭は全部見了つて、これは血氣時代の仕損じでござる、只今の事でないからと申して、申し開きの致しやうはござらぬ、と答へるに、然らば切腹候へ、と申し渡された。「文化祕筆」と同じ成行きである。家族にその旨を告げ、家の中は俄かに滅入つてしまつたが、切腹に先立つて沐浴すべき湯を沸かしてゐた下僕が、ひよいと亭の庭を見たところ、塀の上に多くの狐が頭を竝べて覗いて居り、まだかまだかと云ふのに、供の士が手を振つて、まだと答へた。この事を主人にさゝやいたので、そんな事もあらうと思つた、この上は使者を斬り捨て、もし間違つたならば、その時こそ切腹して果てよう、と決心して亭へ出て來たら、早くもその氣を悟つたと見えて、狐は一疋もゐなくなつてしまつた。

[やぶちゃん注:「延寶」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱及び徳川綱吉の治世。

「物頭」「ものがしら」と読む。諸藩に於いては、歩兵である足軽や同心などから編成された槍(長柄(ながえ))組・弓組・鉄砲組などの頭たる「足軽大将」を指し、侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)に次ぐ地位にあった。

「窓のすさみ」以前に述べた通り、所持しないので原典は示せない。]

 

 この話には左右の眼を取り違へるといふやうな破綻はない。重臣に化けた狐は、過去の失策を算へ立てた書付けを持參し、それに對し申開きは出來ないと云つたのだから、八九分通り成功したものと見てよからう。最後の一段に至つて失敗に導いたのは、塀の上に頭を竝べた腹心の狐どもである。同じ話を何遍も例に引くやうだが、最後に革袋に入つてアリ・ババの邸内に運ばれた三十七人の盜賊が、悉くモルギアナのために返り討ちに遭ふのも、袋の中から聲を出して、もう飛び出してもいゝかどうかを尋ねたからであつた。塀の上の狐はそれほどへまを演じたわけではないけれど、とにかく彼等の擧動によつて狐の一黨であることを看破され、主人は切腹すべき刀を以て使者を斬らうとする逆轉作用を見るに至つた。こゝまで破綻なしに詰め寄せながら、最後の一段に至つてやり損ふところに、化けることのむづかしさがあるわけであらう。

[やぶちゃん注:NHK「アリババと40人の盗賊」 アラビアンナイト(語り:戸川京子)の「scene06 三十七このかめ」でシークエンスが判る。盗賊の頭と女奴隷モルギアナを勘違いし、隠れていた手下が「おかしら、もうじかんですかい」と声を発してしまい、ばれるのある。]

芥川龍之介 手帳7 (2) 孔子廟・文天祥祠

 

○大成門 赤 靑綠金天井 南側 石鼓あり 大理石段 欄も然り 碑に李鴻章の物あり 支那人教ふ 黃瓦 赤壁 白石階

[やぶちゃん注:ここからは雍和宮の東直近にある孔子廟の描写。大成門はその第一の主殿門。サイト「www.naturalright.org」(日本語)が判り易く、大きな画像も豊富。

「李鴻章」既出既注。]

 

○大成殿 同洽大道(黎元洪)黑へ金 (柱朱)(□壇 朱)至聖先師孔子神位(朱へ金) 左右に四聖賢〔亞孟子 宗曾子 復顏子 述聖孔子(子思)〕 床に棕櫚氈 梁 天井 金綠 靑銅鼎1 燭架2 花瓶2 (大理石臺)

[やぶちゃん注:「同洽大道」大成殿内の正面中央の孔子像上部に掲げられた額であるが、但し、これは芥川の記載の誤りである。前に出したサイトの画像(サムネイルの右から十二コマ目)で判るが、「道洽大同」である。Tサイト「中国耽美紀行大成殿も参照されたい。

「黎元洪」既注

「顏子」孔門十哲の一人で、孔子が自らの後継者と見なしていた顔回のこと。

「棕櫚氈」棕櫚(しゅろ)で織った敷物。シュロの樹皮は強靭で湿気に強い。]

 

○乾隆玉座 雅誦於樂(御筆)黑ニ金 ○道流仰鏡(咸豐帝)藍ニ金 ○誦詠聖涯(蓮光亭)黑ニ金 ○國橋教澤(大理石)丹壁 ○御碑亭(白大理石 綠黃瓦) ○辟雍 大理石欄 ○康熈大學石刻 ○十三經石刻 ○石時計

[やぶちゃん注:「御碑亭」先のサイト「www.naturalright.orgの孔子廟の画像によって大成殿前の左右に多数の碑亭があることが判る。画像には廟内配置図もあり、それで数えると、現在は十一の碑亭と思われるものがある。]

 

○木 柏のみ 槐二三 朱 黃瓦 綠藍彫

[やぶちゃん注:先のサイト「www.naturalright.orgの孔子廟の画像の、右から三コマ目と四コマ目に木肌が瘤のように突出した異形の古木のアップがある。芥川龍之介もこの木肌を眺めたに違いない。]

 

○古誼忠肝の額 文天祥像 朱と金 宋丞相信國公文公之神位 陶燭臺2 陶香爐一 鐵香爐一 埃滿堂

[やぶちゃん注:「古誼忠肝」は「こぎちゅうかん」で「誼」は「義」「意」と同義であるから、恐らくは「忠肝義胆(ちゅうかんぎたん)」(主君や国家に忠誠を尽くして忠節を守り正義を貫こうとする固い決意)と同義かと思われる。

「文天祥」(一二三六年~一二八三年)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。一度は下野したが、一二七六年に復帰し、『右丞相兼枢密使とな』なっ『て元との和約交渉の使者とされるが、元側の伯顔との談判の後で捕らえられ』てしまう。しかも彼が『捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落し、張世傑・陸秀夫などは幼帝を奉じて抵抗を続けていた。文天祥も元の軍中より脱出し』、『各地でゲリラ活動を行い』、二年以上に亙って『抵抗を続けたが』、一二七八年に『遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。『その後は死ぬまで獄中にあり、厓山に追い詰められた宋の残党軍への降伏勧告文書を書くことを求められ』たが、「過零丁洋」という『詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ」と』いった内容の詩篇であった。『宋が完全に滅んだ後も』、『その才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受ける。この時に文天祥は有名な』「正気の歌(せいきのうた)」を詠んだ(ウィキソースで全篇が読める)。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れ』ず、『朝廷でも文天祥の人気は高く』、『隠遁することを条件に釈放しては』という『意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし』、『文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり』、『南(南宋の方角)に向かって拝して』、『刑を受けた。享年』四十七。『クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた』。『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、その「正気の歌」は『多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が』「靖献遺言」に評伝を載せ、『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などは』、それぞれが自作の「正気の歌」を『作っている』とある。なお、芥川龍之介は「北京日記抄」の「五 名勝」でこの文天祥祠を訪れ、以下のように感懐を綴っている。『文天祥祠(ぶんてんしようし)。京師(けいし)府立第十八國民高等學校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信國公文公之神位(そうじようしやうしんこくこうぶんこうのしんゐ)なるものを安置す。此處も亦塵埃の漠漠たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(らうゆかう)か何か作る所ならん。僕は勿論發句一つ出來ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は氣の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし』。サイト版「北京日記抄 附やぶちゃん注釈に教え子が撮った文天祥祠の写真を公開している。祭壇「古誼忠肝」扁額が見られる。なお、芥川龍之介が「楡」と言っているのは「棗」の誤認(芥川龍之介は「?」としているから批難には値しない)である。これが古木であり、の写真である。教え子のこの写真で初めて明らかになった事実で、誰もこの誤りにはそれまで気づいていなかったものと思われる。]

 

○右ニ碑 衣帶ノ賛を上書せし文公像 ○劉崧(明) 壁桃色

[やぶちゃん注:「衣帶ノ賛を上書せし」所謂、「衣帯中(いたいちゅう)の賛(さん)」の故事。文天祥が処刑されるに際し、衣服帯の中に残した文章のこと。文天祥の帯の中には死に臨む賛の文章が残されていたといい、転じて仁義や忠節を守り通すことを指す語となった。像は写真を参照。

「劉崧」(りゅうすう 一三二一年~一三八一年)は元末明初の詩人で官僚。江右派の代表詩人。

2017/09/12

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅴ) 多聞院 木曾塚 他 /「新編相模國風土記稿卷之九十八」~了

 

[やぶちゃん注:今回より、句読点は底本のものではなく(底本には句点はない)、読み易さを考え、私の判断で自由に変更・追加することとした。]

○多聞院 天衞山福壽寺と號す〔山之内村瓜ケ谷に、觀蓮寺屋舗と唱る白田あり、當寺の持とす。觀蓮は、蓋、當寺の舊號にや。〕。古義眞言宗〔手廣村靑蓮寺末。〕本尊毘沙門〔長三尺、弘法作。〕。

[やぶちゃん注:古義真言宗で現在は大覚寺派で、正式には天衛山(てんえいさん)福寿寺多聞院と称する。本尊毘沙門天。北方を守護する神将毘沙門天は多聞天とも称するので、寺名の由来はそれ。ウィキの「多聞院(鎌倉市)」では、寺伝によれば、『多聞院は鎌倉市山ノ内瓜ヶ谷にあった観蓮寺が前身で、永享の乱』(永享一〇(一四三八)年に鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、翌年、持氏は自害した)『で衰えた際に甘粕長俊』(玉繩北条氏家臣。後に出る「甘糟」氏と同じ。甘粕一族は相模平氏の出である)『が現位置に移転して名を改め、南介僧都を迎えて』天正七(一五七九)年に『創建したと伝えられている』。ここに記されているように、元は『鎌倉市手広の青蓮寺の末寺』であったが、昭和二五(一九五〇)年に『青蓮寺の前住職である草繋全宜』(くさなぎぜんぎ)『が京都大覚寺の門跡』(初代官長)『となったため、同寺の末寺となった』とある。東京堂出版の白井永二編「鎌倉事典」では、寺の創建以降の近世までの沿革は不分明であるとする。隣接する明治の神仏分離までは隣接する熊野神社の別当寺あった。この熊野社は前の『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅲ) 大船山 離山 他』に出ており、その冒頭に『村の鎭守なり。束帶の木像を安ず〔座像長八寸許。古は畫像を安ぜしと云ふ。其像は今舊家小三郎の家に預り藏す。〕。臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は、則、小三郎が祖なり。〕』とあるように、実はこの神社も、というかこの熊野社が先に永く甘粕家の篤い信仰を受けて栄え、それを管理する寺として多聞院が創建されたと考える方が自然なように思われる『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)』の「能勢靭負佐」の注で出したが、再掲しておくと、「神奈川県神社庁」公式サイトの熊野神社の由緒のところに、『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐、村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』(下線やぶちゃん)とある。

「白田」「はくでん」畑(はたけ)のこと。「白」は「水がなく乾いている」の意で、そもそもが「畠」という漢字は、この「白田」を合わせて合字として作られた国字である。]

○地藏堂 運慶の作佛を安ず〔長二尺餘。〕。村持。下同。

[やぶちゃん注:同寺には巣鴨(曹洞宗萬頂山高岩寺。本尊地蔵菩薩(延命地蔵))から移したとされる「とげぬき地蔵」木造地蔵菩薩立像が知られるが、造立は江戸時代であり、経緯から見ても、これではあるまい。他に木造地蔵菩薩半跏像と木造地蔵菩薩立像があるが孰れも江戸時代であるからこれも外れる(これらの仏像類のデータはウィキの「多聞院(鎌倉市)」に拠った)。これらとは別に木造地蔵菩薩立像(延命地蔵尊)があり、これは室町時代の造立と推定されているから、ここに示されたのはこれであろう。]

○不動堂 弘法の作佛を置〔長三尺餘。〕。

[やぶちゃん注:現在、多聞院には年代不詳の木造不動明王像と江戸時代の造立になる木造不動明王及び両脇侍立像(三体一組)がある。前者か。]

○觀音堂 十一面觀音を置。運慶の作なり〔長三尺。享保四年に記せる緣起に據に、染屋太郎太夫時忠の兒、三才の時、鷲に※搏せられ、其喰餘の骨を、此地に落せしかば、菩提のため、觀音を彫刻し、殘骨を御首中に納む。後、回祿に罹り、御首のみ燼餘に得しを、運慶、其模像を刻し、彼御首を胎中に納むとなり。是に鎌倉塔辻の故事に基き、作意せしなり。〕。祐天の名號一幅を藏す。

[やぶちゃん注:「※」「爴」の左右を逆転させた字。音「カク」で「摑(つか)む・攫(さら)う」の意。「搏」も「手で打って取る・対象に手を当てて素早く摑む」の意。「カクハク」と音読みしておく。なお、現在、同寺には木造十一面観音菩薩坐像及び木造十一面観音立像があるが、孰れも江戸時代の造立である。不審。

「據に」「よるに」。

「喰餘」「くひあまり」。或いは「くらひのこし」か。

「燼餘」「じんよ」。燃え残り。

「享保四年」一七一九年。縁起がこの年に書かれたものとすると、実はそれ以前(江戸初期)に造立されたものに縁起を合わせたとも考えられる(とすれば前の不審は解消するし、本書の作者も割注からそう考えていることが判る)。さすれば、前の疑問は解ける。但し、「かまくら子ども風土記」(平成二一(二〇〇九)年刊第十三版)の「多聞院」の項には、本尊毘沙門天の『脇には、山ノ内にあった岡野観音といわれる十一面観音があり、由井の長者の染屋太郎大夫時忠(そめやたろうたゆうときただ)の子の遺骨を納めたといわれてい』るとあり、岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳」の同寺の記載には、『由井の長者といわれた染屋時忠の娘が大きな鷲にさらわれ、その後、娘の残骨が六国見山の南で発見されたため、時忠は』、そ『の地に岡野観音堂を建立し、その菩提を葬ったと伝えられている』。『その堂に安置されていたのが胎内に娘の骨を埋めたという十一面観音』であったとし、『明治の神仏分離により多聞院に安置された』と移転経緯を記す。『染屋時忠の娘に関する伝説は』鎌倉の各地に散在し、来迎寺・魔の淵の地蔵(鎌倉宮参道の右側に現存。同サイト内の当該の地蔵の解説によれば、横を流れる川が嘗て「魔の淵」と呼ばれており、『青黒い水が流れ、多くの人がここに住む魔物の餌食になったため、杉本寺の住職の発願でここにお地蔵さまを安置したのだと』するが、別の『一説には、染谷時忠の娘が鷲にさらわれたとき、その血がしたたり落ちていた場所ともいわれている』ともある)・辻の薬師堂・妙法寺・六国見山及び塔ノ辻(本文にもこれを挙げるように、この場所が最も知られる染屋長者伝承地であると私は思っている)等『にも残されている』とある。

「染屋太郎大夫時忠」鎌倉の始祖的な人物として伝承される人物で、由比長者とも呼称され、藤原鎌足四代の子孫に当たるとされる。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」には、華厳宗の僧で東大寺開山の良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年)~宝亀四(七七四)年)の父とあるが、現在伝えられるものの中には逆転して、染屋時忠「の父」が良弁とするものが多々見受けられる。何れにせよ、全国に散在する長者伝説の域を出ない。原鎌倉地方を支配していた豪族がモデルであろう。良弁は相模国の柒部(漆部)氏の出身とも、近江国の百済氏の出身とも言われるが、後者の伝承では、赤子の時、野良に出ていた母が目を離した隙に鷲に攫われ、奈良二月堂前の杉の木に引っかかっているのを、法相宗の高僧義淵に拾われて弟子として養育されたとも伝えられる。これは時忠と思しい由比長者の伝承の中に、子どもを鷹に攫われて殺され、その屍骸の落ちた鎌倉の複数の箇所に供養の塔を建てたという「塔の辻」伝承と結構が類似するから、そこから派生した類型伝承の派生連が認められるように思われる。

「祐天」(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)浄土宗大本山増上寺第三十六世法主で、江戸のゴーストバスターとしても、とみに知られた人物。この寺、経緯や寺宝にいろいろな宗派が錯綜していて面白い。]

 

○木曾塚 義高の舊塚なり〔高さ二尺、周徑三尺餘。〕。上に五輪の頽碑あり。塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん。常樂寺の條、併見るべし〔此塚より少許を隔て、五輪の頽碑あり。由來を傳へず。〕。

[やぶちゃん注:常楽寺の裏山粟船山に残る木曾冠者義高の塚と伝えるもの。「五輪の頽碑」はかろうじて一部の残欠が残り、割注のある不詳の五輪塔もあるにはある。サイト「テキトーに鎌倉散歩」(名称で侮ってはいけない。どうして凡百有象無象の鎌倉案内サイトなどは足元にも及ばぬ非常に優れたサイトである)の「常楽寺」が勘所を押さえた画像も豊富にあって現状を確認するに最適である。必見。以下に注で示すように、ここは江戸時代につくられたもので、本当の義高の首塚ではない

「塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん」義高は政子によって逃がされたものの、入間川河原で捕えられて、首は鎌倉に送られ、常楽寺の南西三百メートルほどの位置にあった田圃の中の塚に葬られた。この経緯は私の「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」に詳しい。是非、読まれたい。先に挙げた「かまくら子ども風土記」によれば、延宝八(一六八〇)年(徳川家綱が死去して綱吉が将軍となった年)に、『ある村人がこの塚』(元の塚の附近)『を掘ったところ、人骨の入った青磁(せいじ)の瓶(かめ)が出てきたので、常楽寺境内に塚を築き、これを納めた』と伝え、『これが現在の「木曾義高の墓」と呼ばれているもので』あるとし、『「木曾塚」と呼ばれた元の塚は周囲が』三メートル『ほどで、一本のエノキが植えられていたそうで』、『場所は大船中学校の東側にある栄町公園のあたりで』あったが、昭和一三(一九三八)年から翌年頃に『埋め立てられて、何も残ってい』ないとある。ここ(グーグル・マップ・データ。一画面に常楽寺と現在の木曾義高の墓が入るようにした)。]

 

○兒塚 六國見の南方山上にあり。上に石碑を建〔半は地中に陷入れり。面に悉曇の字、仄かに見ゆ。〕。染屋太郎大夫時忠が兒の墳なりと傳ふ。

[やぶちゃん注:宝篋印塔の基礎と笠だけの欠損した石塔が残る。

「陷入れり」「おちいれり」。

「悉曇の字」梵字の種字。]

 

○最藏坊塚 村北、白田間にあり。塚上に石人を置〔高四五尺。〕。鶴岡の職掌鈴木主馬が祖先の墓なりと云〔鈴木家傳を按ずるに、祖鈴木左近重安、治承中、鶴岡の職掌となり、戰國の間、永享中、當村に移住し、鶴岡社役を兼帶し、最藏坊と唱へ、村内熊野社神職を勤めし、となり。故に今も熊野社の神職を兼ぬ。〕。

[やぶちゃん注:現在は多聞院境内に石塔らしきものは移されている個人サイト「小さな旅のアルバム」のこちらで画像が見られるが、見るも無残な状態で、「石人」なるものも現認出来ない。

「鈴木左近重安」詳細不詳。

「治承」一一七七年~一一八一年。

「永享」一四二九年~一四四一年。]

 

○北條泰時亭跡 【東鑑】仁治二年十二月の條に泰時巨福禮の別居と載す〔曰、十二月三十日前武州渡御于山内巨福別居。〕。巨福禮は、卽、隣村小袋谷なり。されど、彼村内に其舊跡を傳へず。當村大船山上に平衍の地あり〔濶八段餘。〕、亭跡のさま、彷彿たり。又、其東方、小名、大明神の田間に古井あり、近きあたりに檜垣・御壺谷と云小名あれば、此二所の内、泰時の邸跡なるべし。

[やぶちゃん注:以上の「吾妻鏡」は仁治二(一二四一)年十二月三十日の条。

   *

卅日癸未。前武州、參右幕下・右京兆等法花堂給。又、獄囚及乞食之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後、渡御于山内巨福禮別居。秉燭以前令還給云々。

   *

卅日癸未(みづのとひつじ)。前武州、右幕下(うばくか)・右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚(ごくしう)及び乞匃(こつがい)の輩(ともがら)に施行(せぎやう)等、有り。三津藤二(みつのとうじ)、奉行たり。其の後、山内(やまのうち)巨福禮(こぶくれ)の別居に渡御、秉燭(へいしよく)以前に還らしめ給ふと云々。

   *

以上の「前武州」は北條泰時、「右幕下」は源頼朝、「右京兆」は北條義時のこと。「乞匃」は乞食。「秉燭以前に」灯を点すよりも前に。暗くなる前に。

「平衍」「へいえん」と読む。平らで有意に広いこと。

「濶八段餘」「ひろさ、はつたんあまり」。「段」は「反」に同じい。約七千九百三十四平方メートル以上。

「小名」「こな」で地名の小字(こあざ)のこと。

「大明神」位置も名も不詳。識者の御教授を乞う。

「檜垣」「ひがき」。檜の薄板を網代に編んで造った垣根で、これは普通の民間人の家には見られない高級なそれであるから挙げたものであろう。常楽寺の東方では御家人らの住居があったとも聞かない。同前。

「御壺谷」鎌倉であるから「おつぼがやつ」と読んでおく。「御壺」は通常、御所などの貴人の屋敷に設けられた中庭である。同前。]

 

○舊家小三郎 里正なり。甘糟を氏とす。先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏に屬せしと云へど、口碑のみにして、家系舊記等を傳へず。唯、家に舊き木牌を置けり。一は土佐守淸忠〔面に、道本禪門、背に、甘糟土佐守平朝臣淸忠、文明九丁酉天二月十一日と刻す。〕、一は備後守淸長〔面に月廣道順禪門、背に甘糟備後守平朝臣淸長、永正二乙巳天七月八日と刻す。按ずるに、【上杉家將士列傳】に、甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし。〕、一は佐渡守長俊〔面に、隨岫寶順禪定門、背に、甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午天三月十三日と刻す。〕等なり。長俊、始、太郎左衞門と稱せり。卽、永祿十年、常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕、天正七年鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕。是等、最古を徴するに足れり。又、玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり。此家の傳へに、大永六年十二月、北條氏綱が兵と、里見義弘、戸部川の邊に戰ひ、北條勢三十五人、討死す。かりて其首級を合せ堙し、榎を植て、標とす。此家の祖先某、其一にして、且、其魁たり。故に甘糟塚の名ありと云ふ。其名諱を傳へざれど、年代をもて推考するに、備後守淸長が男なるべし。又、天正十三年閏八月、圓覺寺廓架再興助力人の列に、甘糟外記の名あり。是も祖先のうちなりと云へど、系傳を失ひたれば、詳にし難し。古鞍一背を藏す。是、上杉氏授與の物と云ふ〔一通は天正九年、北條氏より、當村代官・百姓中に與へし物なり。全文は村名の條に註記す。其餘の數通は永仁・正和・應安・康曆・應永・永享等の文書、及、上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり。傳來の由來、詳ならず。〕。

[やぶちゃん注:古鞍の図が載る。以下は国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミングした。下部の居木(いぎ:鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)を繫ぐ部品)と思われるものの左端には「永祿五年三月日」(永禄五年は一五六二年)の記銘が視認出来る。輪(恐らく前輪)の山形の海の中央にある紋は笹とは見えるものの、「上杉笹」のようには見えない。現物が見たいものだ。「二寸四分」は七センチ強で、これは書かれた位置から、輪の中央の楕円状に繰り抜かれた部分(州浜或いは鰐口と呼ぶ)の下部の間隙(左右幅)を指していると思われる。中央右手にあるのは花押のように見えるが、その手の知識を持たないので誰のものか判読は出来ない。識者の御教授を乞う。なお、「甘糟」は「甘粕」とも書き、「あまがす」「あまかす」二様に読む資料があるので、これらは皆、同一である。

「里正」(りせい)本来は律令制下に於いて霊亀元(七一五)年に施行された郷里(ごうり)制の下に於ける「里」の長を指す(国・郡・郷・里の四段階に変更したが、天平一二(七四〇)年には里が廃されて郷制となった。近世には「里正」は庄屋や村長をかく称した)。孰れにせよ、「先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏」(無論、扇谷上杉氏及び後北条氏である)「に屬せし」とあるからには土着の有力豪族である。

「家」現在、「甘糟屋敷」が大船宮前地区にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらに現在の訪問記が画像入りである。それに『甘糟家が大船に館を構えたのは、室町時代で当時上杉管領に仕えていた甘糟土佐守平朝臣清忠という人で、当時拝領した上杉家の家紋入りの鞍が保存されてい』るとあるから、ここに描かれた鞍は現存することが判る。『江戸時代には医者を輩出しており、江戸後期には大船村名主となり、当地では一番の資産家で駅へ行くのに他人の土地を通らずに行けたと云われて』おり、『現当主の小三郎氏は工学博士で甘糟株式会社社長を』務め、東京在住とある(平成一六(二〇〇四)年の記載)。この条の柱は「舊家小三郎」であるが、この現当主の名も「小三郎」である。

「文明九丁酉天二月十一日」一四七七年。「天」は日付の謂いであろう。この年は山内上杉氏の関東管領上杉顕定(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)が有力家臣であった長尾景春が古河公方と結んで離反、五十子(いらこ/いかご)の戦いで大敗退を喫し、古河から撤退せざるを得なくなった年である(道長尾景春の乱は文明一二(一四八〇)年に扇谷上杉家上杉定正の家宰であった名将太田道灌の活躍によって鎮圧され二年後の文明十四年には古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立し、三十年近くに及んだ享徳の乱が終息したが、山内家の上杉顕定の主導で進められたこの和睦に定正は不満があり、さらに道灌の名声が高まったことから忠臣であった彼に猜疑を抱くに至り、遂には主君定正によって道灌は暗殺されてしまう)。

「甘糟備後守平朝臣淸長」不詳。

「永正二」一五〇五年。

「甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし」これは越後上杉氏の家臣で越後上田衆の一人、甘糟景継(天文一九(一五五〇)年~慶長一六(一六一一)年)のことと思われる。彼は晩年に「清長」と改名しているからである。

「隨岫寶順禪定門」「ずいしゅうほうじゅんぜんじょうもん」(現代仮名遣)と読んでおく。

「甘糟佐渡守平朝臣長俊」先の「鎌倉手帳」の「高野の切通」に、『甘糟氏は玉縄北条氏に仕えた一族で、大船の鎮守熊野神社を勧請したのは甘糟家の祖先の甘糟長俊と伝えられている』とある。

「天正十壬午」一五八二年。

「永祿十年」一五六七年。

「常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕」ウィキの「常楽寺(鎌倉市)」に、『木造文殊菩薩坐像』とあり、『鎌倉時代の作で神奈川県の重要文化財に指定されている。秘仏として文殊堂に安置されており、毎年』一月二十五日『に行われる文殊祭の時以外は開帳されない』あって、その後に永禄十年に『甘粕長俊によって修理が施された』とある。

「天正七年、鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕」冒頭注参照。

「是等、最古を徴するに足れり」これらの記載は最も古い時代の甘糟氏の事蹟を引き出しており、これらの事実の証拠とする足るものである。

「玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり」現在の岡本の戸部橋の近くの、六体の地蔵と古い五輪塔などが祀ってある「玉繩首塚」のこと。史跡碑文「玉縄首塚由來」を電子化して示す。こちらの画像を視認させて貰った。最後の二人の記名は判読出来ないので近いうちに、現場に行って確認した上で追記する。但し、この碑文、重大な複数の誤りがある(後述)

   *

今を距る四百四十餘歳 大永六年(一五二六)十一月十二日南總の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち 府内に亂入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫) 豪士大船甘糟  渡内福原両氏と俱に里見の軍勢を此處戸部川畔に邀擊し合戰數合之を潰走せしめ鎌府を兵燹より護る この合戰に於て甘糟氏以下三十有五人は戰禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その數を知らず  干戈收て後城主氏時彼我の首級を交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷關死守の靈を慰め怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 經云我觀一切普皆平等

   昭和四十二年八月 玉縄史跡顯彰會

   *

「距る」は「へだつる」或いは「へだてる」。「里見義弘」は父里見義堯(よしたか 永正四(一五〇七)年~天正二(一五七四)年)の誤り。嫡男義弘(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)は大永(たいえい)六(一五二六)年にはまだ生まれていない。義堯は安房の戦国大名で安房里見氏第五代当主。上杉謙信や佐竹義重等と結び、後北条氏と関東の覇権を巡って争い続けた。房総半島に全体に勢力を拡大し、里見氏の全盛期を築き上げた人物である。「北條氏時」(?~享禄四(一五三一)年)は早雲(伊勢盛時)の「孫」ではなく、子である。初代玉繩城主。ウィキの「北条氏時等によれば、享禄二(一五二九)年八月十九日附文書が残っており、それは『相模国東郡二伝寺(藤沢市)』(私の家のすぐ裏山である)『宛てのもので』、『この時には玉縄城主になっていたこと』が判るとある。大永六年十一月十二日(一五二六年十二月十五日)に『安房国の里見義豊』(義堯の兄。兄とともに参戦した。これは「鶴岡八幡宮の戦い」(或いは「大永鎌倉合戦」)と称するが、これは当初、里見軍が玉繩城を目標としたものの、まさにこの場所で激しい抵抗を受け、逆走して鎌倉に突入、その兵火が鶴岡八幡宮に燃え移って焼失したことに由来する)『が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされて』おり、この戦闘の直後、両陣営は『首を交換し』(碑文の「交易」はそれ)、『それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている』とある。……こう、書かれてあるが、ごく直近の私の得た情報では(私は現在、植木町内会の役員をしている)「首塚まつり」の方は、実は実行委員会の内紛によって存続が風前の灯らしい……いやはや……首級の泣き声が聴こえるようだ…………。「渡内ノ福原」「氏」は有力な土豪。私の毎日のアリスとの散歩コースに当たる場所に現在も子孫の方々が沢山住んでおられる。「邀擊」「えうげき(ようげき)」と読む。迎え撃つこと。迎撃。「兵燹」「へいせん」と読む。「燹」は「野火」の意。戦争による火災。兵火。「干戈收て」「くわんかをさまりて(かんかおさまりて)」で「干」は「楯(たて)」と「戈」は「矛(ほこ)」の意で武器・武力から、転じて「戦争」の意。「郷關」郷里。「怨親平等」敵も味方も等しく同じく扱うこと。「資養」人が自分自身の心を養うこと。死者の供養という点では恩讐による差はあってはならないという捉え方。「經」法華経。「我觀一切普皆平等」「がくわんいつさいふかいびやうどう」。「妙法蓮華経薬草喩品第五」に出る。「我、一切を観ること、普(あまねく)く皆、平等なり」の意。

「かりて」ママ。別本も見たが、同じ。「かくて」の誤りではあるまいか?

「堙し」音「イン」。土を被せて見えなくする。

「榎」現在も大きなエノキが聳えている。

「標」「しるべ」。

「其一」「そのひとり」と訓じておく。

「其魁」「そのかしら」と当て訓しておく。頭領。

「名諱」「メイヰ」と音読みしておく。通称や俗名及び「諱(いみな)」死後の称号或いは戒名。

「備後守淸長が男」清長の子。

「天正十三年」一五八五年。

「廓架」境内を区切る外壁のことか。

「甘糟外記」不詳。この資料元も不詳。少なくとも「鎌倉市史」資料編の円覚寺関連文書を縦覧してみたが、見当たらなかった。

「百姓中」「中」は「うち」で等(ら)の意であろう。

「全文は村名の條に註記す」「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)の本文に出る。

「永仁」一二九三年~一二九八年。鎌倉時代。甘糟氏族の古さが判る。また「多く鶴岡に關係するもの」とあるから、甘糟氏が古くから鶴岡八幡宮寺と強い関係を持っていたことが推測される。

「正和」一三一二年~一三一七年。これも鎌倉時代。

「應安」一三六八年~一三七五年。南北朝の北朝の元号。

「康曆」一三七九年~一三八一年。これも北朝の元号。

「應永」一三九四年~一四二八年。室町時代。

「永享」一四二九年~一四四一年。

「上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり」「を」はママ。別本も同じ。しかしこの助詞は繋ぎが悪い。或いは「(ニ)シテ」の約物の判読の誤りではなかろうか?]

 

Amagasukekura

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十八〕終

 

2017/09/11

北條九代記 卷第十一 城介泰盛誅戮

 

      ○城介泰盛誅戮

同四月に、北條貞時を相摸守に任ぜらる。父時宗の世に替らず、執權相勤め、道を正しく禮を專(もつぱら)とし、仁慈を以て惠(めぐみ)を施し、政理(せいり)を行ふに、私欲を省き給ひければ、諸方の貴賤、その德に歸し、靡かぬ草木もなく、世は淳厚(じゆごう)の風に隨ひ、人は正直の心を勵(はげま)す所に、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛は、外祖の威を假(かつ)て、恣(ほしいまゝ)に勢(いきほひ)に誇り、榮耀(ええう)に飽盈(あきみ)ちて、奢(おごり)を極め、諸侍に向ひては、目銛(みぎら)を立て、百姓を責虐(せきぎやく)して、貪(むさぼり)を逞(たくまし)く、欲を深くして、「世の憤(いきどほり)、人の怨(うらみ)、誠に亂根(らんこん)の萠(きざし)なり」と、心ある輩は彈指(つまはじき)をしてぞ、疎(うと)みける。相摸守貞時の御内(みうち)に、管領(くわんれい)平左衞門尉賴綱と云ふものあり。泰盛が行跡(ありさま)を目醒(めざま)しく思ひければ、その事とはなくして、中(なか)、不和に快らず、權(けん)を爭ひて、勢(いきほひ)に乘らんとす。泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景は、父に勝りて大に驕(おご)り、世を世とも思はぬ躰にて、山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹・逍遙に法令を破り、式目に背き、我儘を振舞ふこと、諸人の目にも餘りけり。「今、見よ、世の中の大事は、この家よりぞ起らんずらめ」と、危き中にも惡(にく)まぬ人はなし。家運の傾(かたぶ)く習(ならひ)、非道の行(おこなひ)、重疊(ぢうでふ)して、あらぬ心も付く物にや、奢(おごり)の餘(あまり)に、「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」とて、先祖より相續しける藤原の姓を改めて、源氏になり、家中の作法、偏(ひとへ)に執權の如し。馬・物具(もののぐ)の用意、既に分際に過ぎて多く拵へ、腕立(うでだて)・力量ある溢者(あぶれもの)共、數百人を招集(まねきあつ)め、軍事・兵法の稽古を致す事、日比に替りて聞えけり。左衞門尉賴綱は、泰盛父子が缺目(けぢめ)を伺ひ、「少の子細もあれかし」と、内々、工(たく)みける事なれば、此有樣を見聞くより、「究竟(くつきやう)の事こそあれ」と思ひ、潛(ひそか)に相摸守に訴へけるやうは、「泰盛父子、逆心を企(くはだて)候事、粧(よそほひ)、色にあらはれ候。その故は、先祖數代相續せし藤原の姓を改めて、源氏になり候。是は偏(ひとへ)に鎌倉を傾(かたぶ)け、將軍に成(なり)て世を持(たも)たんとの結構なるべし。弓矢、馬、物具の用意夥しく、力量逞しく腕立を好む溢者共數百人を集め、非常の行跡(ふるまひ)、是、只事にあらず。諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候。國家の大事、起(おこ)り立ち候はぬ中(うち)に、憚りながら、御思案も候へかし」とぞ申しける。貞時、熟々(つくづく)と打聞きて、「實(げ)にも」と思はれ、「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」とて、同十一月八日、潛(ひそか)に人數を揃へて、殿中に隱置(かくしお)かれたり。泰盛父子は露計(つゆばかり)も思寄(おもひよ)らざる事なれば、出仕の威儀を刷(かいつくろ)うて、參られし所を、「ひしひし」と搦捕(からめと)りて、誅せらる。その館(たち)へは、また、人數を遣(つかは)し、家中悉く追捕(つゐふ)し、一味同類を聞出し、召捕(めしと)りて誅戮(ちうりく)せられけり。俄(にはか)の事にてはあり、女・童(わらは)・老いたる者共、周章慌忙(あはてふため)き、啼叫(なきさけ)びて、逃げ出でたりければ、傍(あたり)近き、地下(ぢげ)・町人ばら、「こは、そも、何事ぞ」とて、上を下に騷立(さはぎた)て、資財雜具(ざふぐ)を持運(もちはこ)びける程に、遠近(ゑんきん)、共(とも)に肝を消(け)し、魂(たましひ)を失(うしな)うて、騷動しけれども、事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり。是より、左衞門尉賴綱一人、愈(いよいよ)、威を振ひ、勢(いきほひ)高くなりけるが、「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず」と云ふことを思ひけるにや、同十二月二十七日に剃髮して、法名果圓(くわゑん)とぞ號しける。北條修理亮兼時は、相摸守時賴の六男宗賴の嫡子にて、今年、京都に上洛して、六波羅の南の方にぞ成られける。世の中、今は京都・鎌倉、物靜(しづか)なるやうにて、諸國の有樣(ありさま)は、政道、行足(ゆきた)らざる事あり。「堯・舜も猶、病めり」とは是等をや申すべき。

[やぶちゃん注:「同四月」弘安八(一二八五)年。前章准后貞子の九十の慶賀の式は弘安八年に行われており、第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年:北条時宗嫡男)は執権就任(弘安七(一二八四)年四月四日。未だ満十三歳であった)から一年後の弘安八年四月十八日に左馬権頭から相模守に遷任している。

「淳厚(じゆごう)」普通は「じゆんこう(じゅんこう)」。「醇厚」とも書く。人柄が素朴で人情にあついこと。

「秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八年十一月十七日(一二八五年十二月十四日))のこと。「秋田城介」(北辺鎮衛司令官の官職名)は彼の官位。安達義景の三男。彼は源頼朝の流人時代からの側近であった有力御家人の筆頭であった安達盛長の直系の曾孫である(これが後の「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」の謂いとなる)。妻は北条重時の娘。邸宅は鎌倉の甘繩にあった。建長五(一二五三)年に引付衆、翌年に秋田城介を継ぎ、康元元(一二五六)年には引付頭人及び評定衆となって第五代執権北条時頼を補佐した。父義景の死の前年(建長四(一二五二)年)に産まれた異母妹(覚山尼)を猶子として養育して、彼女を弘長元(一二六一)年に時宗に嫁がせ(正室で潮音院殿とも呼び、貞時の母である)、北条得宗家との関係を強固なものとした(本文の「外祖」とはこれを指す。話柄内現在の執権貞時の外祖父(事実上は伯父)に当たる)。弘長三(一二六三)年に時頼が没すると、時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった北条政村や北条実時とともに得宗時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となっていった。文永元(一二六四)年から同四年までは新設の越訴(おっそ)方(訴訟担当機関)の主力を勤め、同九年以降の官位は没するまで肥後国守護であった。著名な「蒙古襲来絵詞」の中で竹崎季長の訴えを鎌倉の邸宅で聴くシーンは建治元(一二七五)年の恩賞奉行の時の姿(四十四歳)である(一部参照にしたウィキの「安達泰盛」にこの絵巻の部分画像が有る)。文永三年の将軍宗尊親王追放の合議に加わっており、弘安年間(一二七八年~一二八八年)にはそれまで北条氏が占有していた陸奥守にあったことから判る通り、幕府の中枢に位置していた。これとともに、安達一族が引付衆・評定衆に進出、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていったことが、後の「霜月騒動」の遠因とも言える。源家相伝の名剣を保持し、実朝の後室八条禅尼から京都西八条遍照心院の保護を委ねられるなど、実際、源家との繋がりが深かった。弓馬に優れ、御所昼番衆の番文を清書するなど、書も達者であり、世尊寺経朝から「心底抄」を伝授されたことは、鎌倉の書風が世尊寺流書道へと流れてゆくの契機となったとされる。宗教面では高野山の檀越の有力な一人として参詣道整備等を積極的に援助し、奥院に後嵯峨天皇供養の石碑を建立、高野版の開板事業も行っている。信仰面では弘安三年に甘縄無量寿院で法爾上人から伝法灌頂を受けて同七年に出家したが、対立する平頼綱(後注)の讒言により、同八年の霜月騒動で一族諸共、滅ぼされた。この霜月騒動により、鎌倉末期の得宗専制体制が固定して行くこととなる(以上はおもに主文を「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。「北條九代記」の筆者は狡猾な人物として叙述しているが、これはかなり悪辣な粉飾である。

「目銛(みぎら)を立て」不詳。底本(有朋堂文庫)頭書には『苛察なるをいふ』とある。「苛察」は「細かい点にまで立ち入って厳しく詮索すること」を指す語である。

「亂根(らんこん)」世が乱れるその種。

「御内(みうち)」御内人は北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の通称。この頼綱の辺りから特に「内管領」(うちかんれい)とも呼ばれるようになる。但し得宗家の執事、得宗被官である御内人の筆頭という「得宗家の家政を司る長」の意であって、幕府の役職名ではない。鎌倉末期には概ねこの内管領が権勢を持ち(特に頼綱の一族である長崎高綱(円喜))、得宗家を凌駕するまでになるのである。

「平左衞門尉賴綱」(?~永仁元(一二九三)年)は北条泰時・時頼の侍所所司で得宗被官御内人であった盛綱或いは盛時孰れかの子とされる。得宗時宗の侍所所司で内管領として「天下の棟梁」(日蓮書状)と目され、幼い執権貞時の乳母の夫として勢力を得た。弘安八(一二八五)年、幕政の実権を握っていた安達泰盛の子宗景が謀反を企てていると讒言し、その一族を滅ぼした(霜月騒動)。幕政での優位を確立した得宗勢力を背景に、諸人が恐れおののく専制的な政治を行ったが、永仁元(一二九三)年、次男の飯沼資宗(助宗)を将軍にしようと企てている、と嫡男宗綱から密訴され、貞時が差し向けた討手に攻められて鎌倉経師谷(きょうじがやつ)の屋敷で一族諸共、自害した(平頼綱の乱)。密告した宗綱は佐渡に配流されたが、後に内管領に復帰し、その後、概ね、同族であった長崎氏が鎌倉末期まで内管領の地位を占有した(ここまでは同じく「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。ウィキの「霜月騒動」によれば、貞時が『執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って』安達泰盛と平頼綱『両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令である「新御式目」を発布した。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威の発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので』、『得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった』とし、ウィキの「安達泰盛」によれば、ここに記されてあるように、頼綱は泰盛の子『宗景が源姓を称した事をもって将軍になる野心ありと執権・貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得』。弘安八年十一月十七日、『この日の午前中に松谷の別荘に居た泰盛は、周辺が騒がしくなった事に気付き、昼の』正午『頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出向き、貞時邸に出仕した』ところ、そこで『待ち構えていた御内人らの襲撃を受け、死者』三十名、負傷者十名『に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所は延焼』午後四時頃に『合戦は得宗方の先制攻撃を受けた安達方の敗北に帰し、泰盛とその一族』五百『名余りが自害して果てた。頼綱方の追撃は安達氏の基盤であった上野・武蔵の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された』とある。

「泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景」(正元(一二五九)年~弘安八(一二八五)年)は安達泰盛嫡男。秋田城介を継いでいた。ウィキの「安達宗景」によれば、父泰盛二十九歳の時の子で、第八代執権『北条時宗より偏諱を受けて宗景と名乗』った。建治三(一二七七)年二月に検非違使に任官し、弘安四(一二八一)年に引付衆、翌年には『泰盛が陸奥守に任官するのを機に』二十四『歳の若さで評定衆とな』った。弘安六年に秋田城介に就いた。翌年四月に『執権北条時宗の死去に伴って泰盛が出家しているので、この時に宗景が家督を継承したと見られ、泰盛が長年務めた五番引付頭人も引き継いでいる』。同年五月に『高野山から幕府に宛てた報告書の宛名は宗景となっており、時宗の嫡子貞時が』七『月に執権職に就くまでの空白期に宗景が執権職を代行していた』ことが判るという。弘安八(一二八五)年の霜月騒動で死亡、享年二十七であった。「保暦間記」によれば、『霜月騒動の原因は、宗景が曾祖父の安達景盛が源頼朝の落胤であると称して源氏に改姓したところ、平頼綱が執権貞時に「宗景が謀反を企て将軍になろうとして源氏に改姓した」と讒言したためとしている』とある。

「山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹」山野での狩猟及び海上での水魚類の漁獲及び鵜飼や鷹狩り。

「逍遙」物見遊山。

「法令を破り、式目に背き」殺生戒を無制限に破っていることを指す。

「あらぬ心も付く物にや」教育社の増淵勝一氏の訳では『とんでもない(謀反の)心が取つ付くものなのであろうか』とある。

「物具(もののぐ)」武具。

「缺目(けぢめ)」足をすくえるところの致命的な欠陥・誤りの意。

「少の子細もあれかし」「ちょっとでもよいから致命的な結果を招き得るしくじりをしてくれればよいぞ」の意。

「工(たく)みける」企んでいた。

「究竟(くつきやう)の事こそあれ」「すこぶる都合がよいことではないか!」。

「色」現実の行動・様態。

「諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候」増淵氏の訳は『人々の取沙汰や世間の評判も皆(泰盛父子の行為を危ぶむ点で)一致しております』とある。

「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」増淵氏の訳は『そういうわけなら』、『なんとか』、安達一族を滅ぼす『計画を練りたい』とある。

「追捕(つゐふ)」犯罪者と見做した者を追いかけて捕えること。

「地下」ここは下級官人の意。

「遠近(ゑんきん)」鎌倉御府内の周縁は勿論、それより有意に隔たった地域。

「魂(たましひ)を失(うしな)うて」非常に驚いて。

「事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり」騒動はあっという間に治まったのであった。

「大名(たいめい)」高名(こうみょう)。この前後の頼綱寄りのいい話は全く事実ではないウィキの「頼綱によれば、霜月騒動で安達一族を滅ぼした後の『頼綱は、泰盛が進めた御家人層の拡大などの弘安改革路線を撤回し、御家人保護の政策をとりながら、暫くは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが』、弘安一〇(一二八七)年に第七代『将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け京都へ追放するための準備であるという)。権力を握っていても、御内人はあくまでも北条氏の家人であり、将軍の家人である御家人とは依然として身分差があり、評定衆や引付衆となって幕政を主導する事ができない頼綱は、幕府の諸機構やそこに席をおく人々の上に監察者として望み、専制支配を行ったのである』とし、『頼綱は得宗権力が強化される施策を行ったが、それは頼綱の専権を強化するものであり、霜月騒動の一年後には』、『それまで重要政務の執事書状に必要であった得宗花押を押さない執事書状が発給されている。若年の主君貞時を擁する頼綱は公文所を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として寄合衆をも支配し、騒動から』七『年余りに及んだその独裁的権力は「今は更に貞時は代に無きが如くに成て」という執権をも凌ぐものであった。頼綱の専制と恐怖による支配は幕府内部に不満を呼び起こすと共に貞時にも不安視され、ついに』正応六(一二九三)年四月、『鎌倉大地震の混乱に乗じて経師ヶ谷の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し、次男飯沼資宗ら一族は滅ぼされた。これを平禅門の乱という。頼綱の専制政治は、都の貴族である正親町三条実躬が日記に「城入道(泰盛)誅せらるるののち、彼の仁(頼綱)一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候」と記しており』、『恐怖政治であったことを伝えている』。『晩年は次男資宗が得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。資宗の検非違使任官の頃、頼綱とその妻に対面した後深草院二条が記した』「とはずがたり」に拠れば、『将軍御所の粗末さに比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであった。大柄で美しく、豪華な唐織物をまとった妻に対し、小走りにやってきた頼綱は、白直垂の袖は短く、打ち解けて妻の側に座った様子に興ざめしたという』。『頼綱滅亡後、一族である長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となっている。鎌倉幕府最末期に権勢を誇ったことで知られる長崎円喜は光綱の子である』とある。因みに、『室町時代に禅僧の義堂周信』(正中二(一三二五)年~元中五年/嘉慶二(一三八八)年:土佐国高岡(現在の高知県高岡郡津野町)生まれの名僧。義堂は道号で、周信は法名。空華道人とも号した。当初は台密を学んだが、後に禅宗に改宗して上京、夢窓疎石の門弟となった。延文四(一三五九)年に室町幕府が関東の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向、康暦二(一三八〇)年まで滞在した。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務め、公明正大にして厳正中立な人格者として賞讃された。その後に帰京して第三代将軍足利義満の庇護の下、相国寺建立を進言し、建仁寺や南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。春屋妙葩や絶海中津と並ぶ中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧として知られる。ここはウィキの「義堂周信に拠った)『が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」このように頼綱の死後』八十『年以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた』のであった、と記す。この「北條九代記」の筆者の頼綱贔屓は歴史上の事実に全くそぐわず、特異的に極めて不快であると言っておく。

「北條修理亮兼時」(文永元(一二六四)年~永仁三(一二九五)年)は北条時宗異母弟北条宗頼の子。ウィキの「北条によれば、弘安三(一二八〇)年に『長門探題であった父の死に伴い』、『長門国守護となる。翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴』き、弘安の役から三年後の弘安七(一二八四)年、『摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた』(下線やぶちゃん)。正応六(一二九三)年一月に『探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来で再び蒙古襲来の危機が高まったため、同年』三『月、執権北条貞時の命を受け、軍勢を引き連れて九州に下向した。兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もある。兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり』、五月三日『に事件を報ずる早馬が博多に到着し、九州の御家人達が博多につめかけ、兼時はその対応に追われた』。翌永仁二(一二九四)年三月、兼時は異国用心のために『筑前国と肥前国で九州の御家人達と』「とぶひ(狼煙)」『の訓練を行い、軍勢の注進、兵船の調達などを行って異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、兼時は』、永仁三(一二九五)年四月二十三日に『鎮西探題職を辞して』、『再び鎌倉に帰還した』(『翌年には北条実政が鎮西探題に派遣され』ている)。その後、『兼時は評定衆の一人に列せられて幕政に参与したが、鎌倉帰還の』五ヶ月後の九月十八日に死去した。享年三十二。

「今年、京都に上洛して」誤り。霜月騒動の前の弘安七年である。筆者の表現上の美味しい辻褄合わせが深く疑われる。その辺りがやはり、実作者を浅井了意と非常に深く疑わせる。

「物靜(しづか)なるやうにて」意味は最後は逆接。「なるやうなれども」。

「堯舜も猶、病めり」。増淵氏訳は、中国の天下を太平とさせたとする伝説上の『堯や舜のような偉大な聖帝もやはり広く天下の人々を救うことは困難としていた』とされる。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(25) 禮拜と淨めの式(Ⅲ)

 

 公然に行ふ奉祭の性質は、神々の位に從つて相違して居る。供物と祈禱とはすべての神神に捧げられたのてあるが、大きな神々は非常な儀式を以て禮拜された。今日では通例供物は、食物と酒と、昔から風習として供へられて居た高價な織物を表はす象徴的の品物から成つて居る。又儀式には行列、音樂、歌謠及び舞踊が入つて居る。極小さな社では儀式も少い――只だ食物が供へられるのみてある。併し大きな神社には神官と女の神官(巫女)――通例神官の娘である――との一團の司祭があり、儀式も念が入り嚴肅である。かかる儀式の古風な趣を尤も都合よく研究し得るのは、伊勢の大廟(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)か、出雲の大社に於ててある。佛敎の大波は、一時古い信仰を殆ど葬り去つたのであるが、それにも拘らず、この伊勢と出雲とに於ては、何十世紀以前のままに萬事が殘つて居る、――この特別な聖い境內にあつては、神仙談の中にある魔の宮殿に於けるが如く、過ぎ行く時も眠つて居たのかと思はれるやうである。建築の形そのものが、不思議に高く聳え、その見なれない姿で、人の目を驚かす。この社の內にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。奧にあるそれ等の御幣の數に依つて、その場所に捧げてある神々の數を知る事が出來る。其處には空間と、緘默と、過去の暗示との外、何も人の心を動かすものはない。最奧の神壇には幕がかかつて居る、恐らくその內には、靑銅の鏡と古い劍と、八重に包まれて居る何か他の品があるのであらう。それだけである。蓋しこの信仰は諸〻の偶像よりも古いのであるから、人の姿などを要しないのである。其神は亡靈である。そしてその社の何もない靜けさは、耳目に觸れ得る代表物に依つて起こされうるよりも、遙かに深い嚴肅の感を起させる。少くとも西洋人の眼には、其奉祭、禮拜の型、神聖なる品物の形は、いづれも甚だ異樣に感じられる。神火は決して近代式の方を以て點ぜられるのではない――神々の食物を料理するその火は、それは木をもつて作つた火を發しさせる錐のやうなものを以て尤も古い仕方で默火される。神官の長は神聖な色――白――の上衣を着、今日では他所には見られない形の頭の裝をつける、――昔の大公、王子等の着けた高い帽子である。その補助の人達はその位に應じて各種の色をつける。そしていづれの人の顏も全く髯を剃つたのはない――或る人はすつか顎髯を生やし、また或るものは口髯のみを生やして居る。この種の敎僧の行動も、態度も、威嚴を備へて居るが、而も一寸文字にあらはせない程に古風な處がある。その身の動かし方は、一々古くからの傳統に依つて定められてあるので、神主たる職務を十分に行ふには、長い準備の訓練が要せられるのである。この職務は父子相傳で、その訓練は少年の時代に始まる。そしてやがてその感情を表現しない樣子が習得されるのであるが、それは實際驚くべきものである。その職を行つて居る神主は、人間といふよりも、むしろ立像のやうに見える、――目に見えない何物かに依つて動かされて居る姿である――そして神と同じく神主は目ばたきをしない……。嘗て長い神道の行列に際し、多くの日本の友人と共に、私は、どれ位長い間、若い神主が目ばたきをしないで居られるかを見ようと思つて、その馬上の姿を注目して居た。而も私共の一人も、吾々が見て居た間に、神主の馬が止つてしまつたに拘らず、その眼若しくは眼瞼の最小の運動たりとも發見したものはなかつた。

[やぶちゃん注:「高價な織物を表はす象徴的の品物」所謂、「幣帛(へいはく)」である(但し、これには広義には前に出る食物と酒も含まれる)。本来は織り上げた衣服・漉いた和紙及び農耕具などを飾った。ここで言うのは「布帛(ふはく)」で絹を主として古くは木綿や麻でできた布地(きれじ)であったが、実際にはこれが本文でも述べている通り、シンボル化して幣(ぬさ)となったものである。今の日本人のどれだけの者が、御幣が、そうした具体な供物の象徴物の変形したものであると知っているだろうか? 我々は素直に小泉八雲の足下に跪かねばならないと私は思う。

「(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)」これは訳が不全である。原文は“(where, down to the fourteenth century the highpriestess was a daughter of emperors)”であるから(この“highpriestess” “High Priestess”で「女教皇」「女祭司長」の意)、「ここでは、十四世紀末に於いては、その最高位の司祭長としての巫女(みこ)は天皇の娘であった」という意味であり、この「十四世紀末」(頃まで)「に於いては」がないと、事実として非常おかしくなる。所謂、「斎宮」(いつきのみや)のことである。ウィキの「斎宮」によれば、『平安時代末期になると、治承・寿永の乱(源平合戦)の混乱で斎宮は一時途絶する。その後』、『復活したが(もう一つの斎王であった賀茂斎院は承久の乱を境に廃絶)、鎌倉時代後半には卜定』(ぼくじょう:先代の斎宮が退下(たいげ)すると、未婚の内親王又は女王から候補者を亀卜(きぼく:亀の甲を火で焙って出来た罅で判断する卜占)により新たな斎宮を定めたことを指す)『さえ途絶えがちとなり、持明院統の歴代天皇においては置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎宮祥子内親王(後醍醐天皇皇女)が群行』(狭義には斎宮が任地伊勢国へ下向することを指す語)『せずに野宮』(ののみや:斎宮や斎院に卜定された後に一定期間籠る施設で、宮城内に設けられた)『から退下したのを最後に途絶した』(退下は建武三(一三三六)年)とある。八雲の「十四世紀末」の謂いはかなり正確であると言える。

「この社の內にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。」原文は“Within, ail is severely plain and pure : there are no images, no ornaments, no symbols visible — except those strange paper-cut-tings (gohei), suspended to upright rods, which are symbols of offerings and also tokens of the viewless.”。「目に見えないものの不思議な御幣」は、日本語として生硬で、よくない(但し、全体を読むと言わんとする意味は解る)。平井呈一氏の訳は、『社殿の内部は、これまた万事が峻厳なくらいに簡素で、純潔で、神の像だの、装飾など、目に見える象徴物などは何一つなく、ただまっすぐな木の棒に、白い紙を切った奇妙な物(御幣)が下がっているだけで、この御幣が供え物をかたどったもので、目に見えない物のしるしとなっている。』と訳しておられ、非常に、自然に神社の屋内の情景が髣髴としてくるのである。戸川秋骨の訳のまずい部分は、正確に訳そうとする結果、やや英単語の逐語的意味に拘り過ぎ、実際に小泉八雲が描こうとしている実景を再現するという基本的立ち位置を忘れてしまっている点にあると私は思っている。

「其神は亡靈である」確かに原文は“its gods are ghosts ;”ではある。あるが、しかし、やはりしっくりこない。この“ghosts”は「亡くなった人の霊」である。私はやはり平井氏の『その神とは、御霊』(みたま)『である』が、しっくりくるのである。

「其奉祭」「其の奉祭」で、その、神を奉って供物を捧げる祭儀全体のこと。]

明恵上人夢記 55

 

55

 同年二月十五日、所存有るに依りて出でず。其の夜、聊か眠り入る。夢に云はく、覺嚴(かくごん)法師、數多の人數を具して來りて、予に教訓せしめむと欲す。予、教訓せざれば、人皆興無し。仍りて佛事を他所へ移さむとす。即ち涅槃會を移さむとすと覺ゆ。

 同十六日後朝に、前の正月の夢を思ひ合するに、卽ち此の二月十五日に出でざる事を見る也。卽ち前年の夢想と同じと云々。此の年、潤(うるふ)二月あり。仍りて行じて之に入るべしと云々。

[やぶちゃん注:「同年」建保七(一二一九)年。

「覺嚴(かくごん)法師」不詳。底本の他注では明恵の庇護者の一人とするが、夢の内容から見ると、必ずしも明恵の親しんでいる(好ましく思っている)僧ではないように夢の中では存在しているように思われる。なお、高山つい解説ページに、嘉禎二(一二三六)年、『明恵の遺徳を偲び、覚厳は十三重塔を建立する』とある。明恵は寛喜四年一月十九日(一二三二年二月十一日)没であるから、入寂から四年後のことである。

「涅槃會」釈迦入滅の日とされる陰暦二月十五日に釈迦の徳を讃えて行う法会。涅槃図を掲げて遺教経(ゆいききょうぎょう)を読誦する。因みに現在は三月十五日に行われる。「更衣(きさらぎ)の別れ」などとも呼ぶ。

「後朝」「こうてう」と音読みしておく。但し、これは単なる翌朝ではなく、涅槃会を行った翌朝の謂いである。

「前の正月の夢」これは直前にある建保七年正月の「54」を指していると考えてよい。但し、「54」のどこがこの夢と絡み合い、或いは次の注で示す通り、〈予知夢〉であるのかは、残念なことに私には分らない

「此の二月十五日に出でざる事を見る也」意味がとりにくい。一つ、冒頭にある「所存有るに依りて出でず」という事実を受けているとするならば、正月の夢は涅槃会の日にある強い思いがあったために寺から出なかったことの予知夢であったという意味で採れる。明恵はしばしば予知夢(或いはそう彼が解釈した夢)を見ていることから、そう解釈しておく。

「前年の夢想「51」「52」「53」が建保六年の夢と思われるが、これらのどれかを指している確証はない。本「夢記」は後人による断章の寄せ集めであり、ここで指している夢はこれらとは限らないからで、寧ろ、これらではないと私は感ずる。

「此の年、潤(うるふ)二月あり」「潤」は底本の用字。建保七年には閏二月がある。因みにこの建保七年は四月十二日に承久に改元されている。

「仍りて行じて之に入るべし」意味がとりにくい。まず文脈上は「仍りて」は唐突に語られる、この年には閏二月がある、という事実を指して「仍りて」であることを指すとしか読めないことである。とすれば、これは涅槃会が一ヶ月後に今一度あることを指していると採れるように思う。だから、その事実をよく認識してこれより一ヶ月の間(この年の二月は小(因みに閏二月も小)であるから、それぞれの十五日を数に入れるとかっきり三十日となる)修法を堅固に「行じて」その観想の中にしっかりと貫入せねばならぬ、という自戒なのではなかろうか? 大方の御叱正を俟つ。]

□やぶちゃん現代語訳

55

 同じ建保七年二月十五日、ある強い思いがあったによって、一日(いちじつ)、寺から一歩も出なかった。

 其の夜、聊(いささ)か眠りに落ちた。

 而してこんな夢を見た。

 

……覚巌(かくごん)法師が、数多(あまた)の人々を伴にして来たって、私に教訓を垂れんとした。

 私は、俄然、その教訓を受け入れなかったため、その場にいた人々は、皆、不興となって私を責めるような目つきでいた。

 覚巌法師とその与(くみ)する一党は、そこで、仏事を他所へ移して行おうとするのであった。

 即ち、涅槃会の会場を、私のこの寺から別の所へ強いて移そうとするのであった……

 

というところで、覚醒した。

 同年二月十六日、即ち、涅槃会の明けた翌日のこと、以前、本年正月に私が見た夢と今回の夢を思い合わせて解釈してみたところが、即ち、正月の夢はまさに、この前日の涅槃会の二月十五日に、私がある覚悟から、寺に籠って一歩も出なかったという事実を予知している夢であったと読めたのである。即ち、前年にあった予知夢の夢見と同じ現象であったのであると判ったと……。この年は閏二月がある。だから、これより一月(ひとつき)の間は修法を堅固に行じて、その観想の中にしっかりと貫入せねばならぬ、と知ったのであると……。

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅶ) 昭和五(一九三〇)年三月・四月

 

[やぶちゃん注:昭和五年二月の日記には詩歌はない。]

 

 三月三日 月曜 

 

◇地理學者に知られてゐない國がある。

  そこ王樣は木乃伊だといふ。

 

 

 

 三月十一日 火曜 

 

◎格言を日記にいくつ書き止めて

  けふなまけたる罪をつぐなふ

 

 

 

 三月十六日 日曜 

 

◇手や足は消耗品と聞くからに

  いよいよ赤し製鐡所の空

 

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

◇世界は平たい。世界の涯はホンタウに

  泥海ですよと燕等は云ふ。

 

 

 

 三月十九日 水曜 

 

◇自殺した女の死骸に云つて遣る

  お前の虛榮に俺は敗けたと

 

 

 

 三月二十日 木曜 

 

◇デパートの倉庫の鍵を俺は持つてゐる

  賣子女の貞操の鍵を

 

◇彼女を殺した短劒を埋めて

  その上に彼女の好きな花を埋めておく

 

 

 

 三月二十八日 金曜 

 

◇心中をする馬鹿せぬ馬鹿出來ぬ馬鹿

  なんかと云( )氣取る大馬鹿

 

[やぶちゃん注:丸括弧空欄は底本のママ。これは判読不能字ではなく、実際に日記にこのように記されてある。「へば」「ふと」「ひて」などを考えあぐんだ空欄か。]

 

 

 

 四月三日 木曜 

 

◇慈善鍋に十戔玉を投げ込んで

  すこし行つてから冷笑をする

 

◇小父さんの顏によく似た樫の樹の

  瘤が小雨に眼をつぶつてゐる

 

 

 四月五日 土曜 

 

人間の顏によく似た木の瘤が

 ある夜ひそかに眼をあけてみる

 

[やぶちゃん注:四月三日のそれを改稿したもの。この対象素材は気に入っていたことが判る。]

 

 

 

 四月九日 水曜 

 

◇酒を飮んで氷の海を沖の方へ

  どこまでも行くと氣持ちよく死ぬ

 

[やぶちゃん注:これはもう言わずもがな、私の偏愛する夢野久作の小説「氷の涯」(リンク先は私のオリジナル全電子化注のPDF縦書版。本ブログ・カテゴリ「夢野久作」でも分割公開(二〇一五年六月二十七日から七月六日までの二十二回)してある)のエンディング・イメージである。しかし、同作の公開は昭和八(一九三三)年二月刊の『新靑年』であるから、実におよそ三年前には本作の構想があったものと考えて良かろう。

 

 

 

 四月十日 木曜 

 
 
◇教會入口をヂツと見てゐると

  ダンダン惡魔の顏に似てくる

 

[やぶちゃん注:「ダンダン」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 四月十四日 月曜 

 

◇ポンペイのまだ掘り出されぬ十字路に

  惡魔の像が舌出してゐる

 

 

 

 四月十九日 土曜 

 

春の夜のそこはかとなき隈々に

 黑きもの動くわが心かも

 

 

 

 四月二十日 日曜 

 

にんげんの牡と牝とが政権を

 爭ふといふ世も末なれや

 

[やぶちゃん注:これは恐らく、この七日後の昭和五(一九三〇)年四月二十七日に市川房枝らが尽力して開催された「第一回全日本婦選大会」(当時は未だ婦人参政権はなかった)や、同年、婦人参政権(公民権)付与の法案が衆議院で可決されるも、貴族院の反対で実現に至らなかった事実を受けた感懐であろう。]

 

 

 

 四月二十五日 金曜 

 

◇米國には惡魔の塔があるといふ

  冨士山しか無き日の本あはれ

 

[やぶちゃん注:「冨」の字は底本の用字。

「惡魔の塔」スティーヴン・スピルバーグ(Steven Allan Spielberg 一九四六年~)の映画「未知との遭遇」(Close Encounters of the Third Kind:「第三種接近遭遇」。一九七七年公開。本邦公開は翌年)で異星人の宇宙船が降下する場所として知られる、ワイオミング州北東部に存在する岩山、通称「デビルスタワー」(Devils Tower)のことであろう。ウィキの「デビルズタワー」によれば、『地下のマグマが冷えて固まり、長年の侵食によって地表に現れた岩頸と呼ばれる地形で』標高は千五百五十八メートルであるが、麓からの比高は三百八十六メートル程度である。頂上は九十一×五十五メートルの広さがあるという。『アラパホ族など先住民族が主に熊信仰の対象として様々な呼び名を付けていた。アメリカ先住民族の口承によると、デビルスタワーの縦筋はグリズリーベア』(Grizzly bear:食肉目イヌ亜目クマ下目クマ小目クマ上科クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種ハイイログマ Ursus arctos horribilis)『によって付けられたものという。この地を探検した米国軍人の通訳が初め「悪神のタワー」と誤訳したことで、後にデビルスタワーと呼ばれるようになった。近年、名称変更の動きがあったが、政府は観光客減少による地域経済への影響から変更に反対した』という(アメリカ・インディアンの聖地をかく名付けるアメリカ人は如何にも「野蛮」であると私は思う。今も元の意味に近い「ベア・ロッジ・ビュート」(Bear Lodge Butte:「ビュート」は米国西部の平原に孤立する周囲の切り立った丘」を指す語)や「グリズリー・ベア・ロッジ」(Grizzly bear lodge)と呼ぶ人もあるというではないか(英語版ウィキや後のリンク先等を参照))。ここはアメリカで最初に国定記念物に指定されたスポットでもある。サイト「スピリチュアブレス」の「悪魔の塔と呼ばれる聖地! デビルズタワーを満喫するポイント5選」がよく書かれてあり、写真も美しい。]

 

◇うゝつなきうつゝとなりて眼に殘る

  息づまり行く吾が兒の泣き聲

 

 

 

 四月二十六日 土曜 

 

眼を閉ぢて寢返りすれば

 あの寶石が闇にズラリと並ぶ

 

 

 

 四月二十八日 月曜 

 

◇吾が居ねば兒等と一所に草摘みて

  夕餉を作る吾妻いとしも

 

◇遠ざかる舟の行く手を見守りて

  吾れとしもなくぬる吾が心

 

[やぶちゃん注:後者の下の句は用語法が上手くない。]

 

 

 

 四月二十九日 火曜 

 

◇豆腐菩薩豆で四角でやわらかに

  白くおはせどアクで固まる

 

[やぶちゃん注:「やわらかに」はママ(次歌も同じ)。底本では「ま」が右に転倒しているが、誤植と見て特異的に訂した。]

 

◇豆腐菩薩豆で四角でやわらかに

  年寄りの齒をすくひたまふや

北越奇談 巻之六 人物 其七(孝子春松)

 

    其七

 

 孝子門左衞門は荒川村【新發田に近し。】百姓丑之助が男(なん)なり。上(うへ)より其(その)至孝を賞せられて、白銀(はくぎん)七(しち)枚を賜ふ。世の美談あるによつて傳を略す。

 近來、葛塚に豆腐を賣(うつ)て業(なりはひ)とする者、春松(はるまつ)と云へる者あり。家、貧して、老父【多助と云ふ。】、足痿(なへ)て久しく不ㇾ起(たゝざる)に事(つか)へて孝なり。初め、妻を迎ひ、一子を産して死す。春松、又、後の妻を不ㇾ迎(むかへず)。幼児を背負(せおひ)ながら業を營み、父を介抱し、二便(にべん)の用に至るまで、盡(ことごと)く其手を離るゝことなしと雖も、露ばかりも疎(うと)ましき色、面(おもて)に表はるゝことなく、益(ますます)孝養を盡(つ)くして、又、近隣と善(よし)。然(しか)れば、其至孝を賞すること、東都(とうど)に達しぬるより、過(すぎ)し文化二ツの年か、忽(たちまち)、上命(しようめい)ありて、忝(かたじけな)くも白銀三枚を下(くだ)し給(たまは)りしより、貴となく賎となく、其孝を賞しあやかりて、金(こがね)を贈(おくり)、錢(せん)を贈る者、幾千万と云ふことを知らず。誠に是、至孝の徳、天の然らしむる所、誰(たれ)か羨(うらやみ)思はざらん。も過(すぎ)し年、其家に訪ね至り、徳を賞し、幸(さいはひ)を祝し、且、其人を見るに、即(すなはち)、昨日(きのふ)の貧(まずしき)を忘れず。賤しき業(わざ)して、父と小児とを介抱し居れり。

 

[やぶちゃん注:「孝子門左衞門」野島出版補註は『不詳』とする。

「荒川村」現在の新潟県新発田市荒川であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「白銀七枚」「白銀」は銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形したものを紙に包んだもので、多くは贈答用として用いられた。通用銀の三分(ぶ)に相当する。「一分銀」は四枚で一両であるから、二両弱、現在の九万円ほどの換算になる。

「葛塚」既出既注。現在も一部が残る福島潟(既出既注)の西方、新潟県新潟市北区葛塚周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「春松」野島出版補註は『不詳』とする。

「二便」大小便。

「盡(ことごと)く其手を離るゝことなし」常時、付っきりの介護が必要であることを言っている。

「東都(とうど)」「ど」は原典のママ。江戸。

「文化二ツの年」一八〇五年。本書の刊行は文化九(一八一二)年春であるが出版にかなりの時間がかかっていることを考慮すると、当時としては、本書の崑崙の叙述が、かなりアップ・トゥ・デイトものであったことが判る。]

2017/09/10

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第七章 生存競爭(1) 序・一 競爭の避くべからざること

 

    第七章 生存競爭

 

 自然界は常に略々平均を保つて、或る一種の動植物だけが盛に增加することはなかなか出來ぬやうになつて居るが、動植物各種の實際に子を生む數は甚だ多いのが普通である。而して、自然界の平均が保たれて居るのは、全く一對の動物からは、平均二疋の子、一本の草からは、平均僅に一粒だけの種が生存して、たゞ親が自然界に占領して居た位置を受け繼いで守るの結果であるから、殘餘のものは無論每囘實際に死に絶えて居るので、我々が之に心附かぬは單に注意の行屆かぬためである。

 

 假に雀が十年間每年十個づゝの卵を生むと考へても、一生涯には百疋の子を生ずるが、年々歳々雀の數に著しい變化のないのを見れば、その中平均九十八疋ずつは何かの理由によつて死んでしまふに相違ない。他の動植物とても之と同じ理窟で、一生涯に數百萬も卵を生む魚類なども、先づその中から平均二疋だけが生き殘つて、他は悉く死んでしまふが、このものがどうして死ぬかと考へるに、之には種々の原因がある。例へば寒暑・風雨の如き氣候上の關係から死ぬものも澤山ある。水に溺れて死ぬものもあれば、浪に揉(も)まれ、岩に碎けて死ぬものもある。また他の動植物のために直接に命を奪はれるものも澤山にあり、食物が足らぬために死ぬものも無數にある。

 

     一 競爭の避くべからざること

 

 地球上には動植物各種をして自由に增加せしむべき餘地は少しもない。その所へ動稙物の各種が遠慮なしに多數の子を生むのであるから、互の間に劇しい競爭の起るは見易い道理ではあるが、その有樣を詳しく論ずるには、先づ諸生物の生活する有樣から考へてかゝらなければならぬ。

 

 動物の中には獅子・虎・狐・狸のやうに肉を食ふものもあれば、牛・馬・羊・鹿の如くに草を食ふものもあるが、獅子・虎等の餌となるものはやはり草を食ふ動物故、動物の食物は直接にか間接にか必ず植物より取るの外はない。また海産の動物を取つて見るに、三尺の魚は一尺の魚を食ひ、一尺の魚は三寸の魚を食ひ、三寸の魚は一寸の蟲を食ひ、一寸の蟲は三分の蟲を食ふといふやうな具合で、どれもこれも皆肉食動物ばかりのやうであるが、最も小さな蟲類は大洋の表面全體に浮いて生活する無限の微細藻類を餌とするから、この場合にも動物の食物の根元はやはり植物界にある。然らば植物は何を食ふかといふに、陸上の植物ならば空中より炭酸瓦斯を取り、地中より水と鹽類とを取り、水中の植物ならば水中より總べての養分を取り、孰れも日光の力を借りて之を自分の體質に造り換へ、生長し繁殖するのである。それ故、綠色を呈する植物は全世界の生物總體に對し、食物供給の役を務めるものといつて宜しい。

 

 斯くの如き有樣故、植物なしには草食動物は生きて居られず、草食動物なしには肉食勤物は生きて居られぬ。草を食はなければ生命が保てぬのが草食動物の天性であるから、草食動物を飼ふ人は初より每日若干の草を犧牲に供する積りでなければならず、また他の動物を食はなければ生命が保てぬのが肉食動物の天性であるから、肉食動物を飼ふ人は初より日々若干の動物を殺す覺悟でなければならぬ。草と草食動物と肉食動物とが相竝んで互に犯さず、共に生存して行くといふことは到底出來ぬことである。

 

 昔、釋迦が印度の山中で難行苦行をして居られる處へ、惡魔が試(ため)しに來た話がある。先づ鳩に化けて飛んで來て、「お釋迦樣、今鷹が私を捕つて食はうと追ひ掛けて來ます。どうか憐れと思うて御肋け下さい」といつたので、釋迦は直に鳩を懷に入れて隱してやつた。所へ、また惡魔が直に鷹に化けて飛んで來て、「お釋迦樣、私は久しく物を食はず、非常に腹が減つて居ります。今追ひ掛けて來た鳩を食はなければ必ず直に餓死します。どうぞ憐れと思うて今の鳩を出して下さい」といつたから、釋迦はどうしたら宜しからうと思案した後、自分の腿の肉を少し殺(そ)ぎ取つて之を鷹に與へ、遂に鳩をも鷹をも助けられたといふことである。素より之は苛も慈悲忍辱を旨とするものはこの心掛けでなければならぬといふ譬で、教訓としては最も妙であるが、實際この方法で鳩も鷹も助けられるかといふに、なかなかさやうには行かぬ。若し世の中に鳩も一疋、鷹も一疋よりなく、之を僅に一日だけ助けるのならば、この方法で差支はないが、總べての鳩と總べての鷹とを兩方ともに何時までも助けることは決して出來ぬ。幸ひ惡魔が一囘だけより鳩と鷹とに化けて來なかつたから宜しいやうなものの、若し根氣よくこの試しを何囘も繰り返し、また鳩に化けて來て隱して貰ひ、また鷹に化けて來て腿の肉を殺いで貰つたらば、一度に半斤づゝとしても、十囘には五斤となつて、今度は釋迦が死んでしまふ。

[やぶちゃん注:ここに示された、釈迦と鳩と鷲の物語は、元はインドの叙事詩「マハーバーラタ」に登場するシビ王の物語である。ウィキの「シビによれば、この構成は『多くの仏典に取り入れられ』、シビ王とは『釈迦が過去世において菩薩として檀(布施)波羅蜜を修行していた時の名とされた。漢訳経典では「尸毘」、「尸毘迦」と音訳される。「シビ王の捨身」「シビ王と鷹と鳩」などの物語で知られる』。『シビ族にウシーナラという高徳な王がいた。雷神インドラ(帝釈天)と火神アグニは彼を試すために、インドラは鷲に変身し、アグニは鳩に変身した。アグニは鷲から逃げた鳩を演じ、ウシーナラ王のもとに庇護を求めた。 鷲は王に言った。「諸王はあなたのことを法(ダルマ)を本性とするものと言っている。なぜ法に背くことをするのか?」 王は鷲に言った。「この鳩は庇護を求めて来たのだ。この鳩を守らねば、非法(アダルマ)となるだろう。この鳩は震え、救いを求めて私のもとに来た。助けなければ私は非難されるだろう。」 鷲は言った。「すべての生き物は食べ物によって生きている。人は財物を失っても生きるが、食事を捨てたら生きられない。食べ物を奪われたら俺は死ぬ。俺が死ぬと息子や妻も死ぬだろう。あなたがこの鳩を保護すれば多くの生命を殺すことになる。それは法ではなく悪法だ。何ものをも妨げることなき法が真の法だ。」 王は言った。「お前は法をよくわきまえている。しかし庇護を求めてきたものを捨てることは正しいだろうか。お前の目的は食べ物を得ることだが、他の方法によっても、もっと多くの食べ物を得ることができる。牛や猪や鹿や水牛、何でもお前のために用意してやろう。」 鷲は言った。「俺は猪や鹿や水牛なぞ食わぬ。俺のために鳩を放せ。鷲は鳩を食うものなのだ。もしあなたが道理を知っているなら、バナナの幹に登ってはならない(道理に背いてはならない)。」 王は言った。「お前が望むなら、シビ族の王国を統治してもよい。お前の望むものは何でもやろう。しかし庇護を求めて来たこの鳩をやるわけにはいかぬ。私にできることがあったら言ってくれ。」 鷲は言った。「そんなに鳩が愛しいなら、自分の肉を切って、秤にかけて鳩と同じ重さの肉を俺にくれ。俺はそれで満足する。」 王は言った。「今すぐ自分の肉を秤にかけてお前にやる。」 そして、王は自分の肉を切って、鳩とともに秤にのせた。しかし秤の上の鳩はだんだん大きくなっていった。王は自分の肉をさらに切り続け、ついに鳩とつり合う肉が無くなってしまうと、王は自ら秤に乗った。 すると鷲は告げた。「私はインドラで鳩はアグニだ。我々は今日、法に関して汝を試すためにやって来たのだ。自分の身体から肉を切り取るとはすばらしい。この世で汝の名声は永遠に存続するだろう」』というのが「マハーバーラタ」の話であるが、正確にはこれは『実はシビの父ウシーナラの物語であるが、写本によってはシビ自身の話としても収められている』という。『この話は、後世、仏の布施を称賛する比喩として』「大智度論」・「賢愚経」・「仏本行経」・「十住毘婆沙論」・「六度集経」など、『多数の漢訳仏典に好んで引用された』。「ジャータカ」・「大智度論」など『では、シビ自身の話となっている』とある。

「慈悲忍辱」「じひにんにく」と読む。「慈悲」は「慈しみ深い心」、「忍辱」は「苦難を耐えて忍ぶ」ことで、情け深く、如何なる苦難も耐えて忍ぶことを指す。

「半斤」一斤は六百グラムだから三百グラムで、「五斤」は三キログラムとなる。]

 

 また長閑な春の日に野外に散步して見ると、草木の靑々と茂り、花の美しく咲いて居る處に、蝶が面白さうに飛び廻り、小鳥が樂しさうに歌うて居る。詩人は之を詩に作り、畫家は之を繪に畫いて、ともにこの世の樂しさを賞め讃へるが、之は極めて皮相な感じで、少し丁寧に考へて見たらば、世の中は決して斯く無事平穩なものではない。鳥が斯く歌うて居られるのは今日までに數千萬の蟲を食ひ殺した結果で、歌ひながらも尚蟲の命を取らうと探して居る。また蝶が斯く舞うて居られるのも幼蟲の頃に澤山の菜類を食ひ枯らした結果である。而してあそこの樹の枝には蝶を捕へて殺し食はうと蜘蛛が巧に網を張つて待つて居り、こゝの樹の頂上には小鳥を捕へて殺し食はうと鷹が鋭い目を張つて狙つて居るから、蝶の命も、小鳥の命も、殆ど風前の燈の如く、一つ油斷すれば忽ち食ひ殺されてしまふので、なかなか氣樂に遊んでばかりは居られぬ。動植物は總べて斯くの如く相殺し相食つて、自然界の平均を保つて居るのである。

 

 斯かる所へ、年々歳々動植物の各種が夥しく子を産むのであるから、その多數は無論他の動物のために餌として食ひ殺され、生き殘るものも餌を得るために甚しく相爭はなければならぬ。動植物の增加力は前にも述べた通り實際無限であるが、それは代々生れる子が悉く生存し繁殖するものと假定した上のことで、現在の如く每囘生れる側(そば)から他の動物にその大部分を食はれてしまふ場合には、素より著しい增加の出來る筈がない。尚その上に一地方に於ける各種の動物の食物の總量には常に制限があつて、生き殘つたものを皆養ふことは到底出來ぬが、假に兎が一疋居るのを大が二疋で見附けたとしたならば、先に兎を捕へた大は飽食し、後れた方は餓死せねばならぬ譯故、如何なる動物も食ふための競爭は免れぬ。また兎の二疋居る所へ犬が一疋來れば、速く逃げた兎は生き殘り、遲い方は食はれてしまふ譯故、大抵の動物は食はれぬための競爭も避けることは出來ぬ。動植物ともに各自皆食ふやうに、食はれぬやうに、殺すやうに、殺されぬやうにと競爭して居るのが實際の狀態である。

 

 英國のマルサスといふ經濟學者は「人口論」といふ書物を著したので有名な人であるが、この書の要旨は略々下の如く、「凡そ國の人口は幾何級數の割合で增加するが、之に對する食物その他の需要品は多く見積つても算術級數の割合よりかは殖えぬ。それ故、必ず近い内に食物の不足する時が來る。その時には營養不良のために身體は弱くなり、隨つて病氣も殖え、生活の困難なるために強盜・竊盜・詐欺その他總べての罪惡が劇しく蔓延つて、如何とも出來ぬ世の中となる。これを防ぐには今より結婚を制限し、獨身生活を奬勵し、子の生れる數を減ずる工夫をするより外には致し方がない」といふのである。ダーウィンもこの書を讀んで、動植物はどうであるかと考へ、自然淘汰の理に氣が附いたといつて居るが、自然淘汰説はつまりマルサスの「人口論」を廣く動植物界に當て嵌めたやうなものである。尤もこの書の始めて出版になつたのは今より百何年も前のことで、その中には根據のないことや、實際と違つたことが幾らもある。倂し、人口の增加の急劇なるベきこと、隨つて生存のために競爭が起らざるを得ぬといふだけは、誰も眞理と認めねばならぬ。動植物は前にも述べた如く現在既にこの有樣に達して居るのであるから、如何なる種類と雖も、苛も生存して居る間は決して競爭以外に立つことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:『マルサスといふ經濟學者は「人口論」といふ書物を著した』イングランドのサリー州ウットン出身の、古典派経済学を代表する経済学者トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus 一七六六年~一八三四年)が一七九八年に発表したAn Essay on the Principle of Population(「人口の原理に関する一考察」:この時の初版は小冊子で匿名であったが、一八〇三年には大幅な訂正増補を加え、著者名を付して第二版を出版、以後、版を重ねるごとに増補を加え、一八二六年に出した最後の第六版では初版の約五倍の語数に達した)。参照したウィキの「人口論によれば、まず、『マルサスは基本的な二個の自明である前提を置くことから始める』。それは『第一に食糧(生活資源)が人類の生存に必要である』という命題で、『第二に異性間の情欲は必ず存在する』である。『この二つの前提から導き出される考察として、マルサスは人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する、という帰結を導く』(太字はママ)。而して『次にマルサスは』、『このような人口の飛躍的な増加に対する制限が、どのような結果をもたらすかを考察している。動植物については本能に従って繁殖し、生活資源を超過する余分な個体は場所や養分の不足から死滅していく。人間の場合には動植物のような本能による動機づけに加えて、理性による行動の制御を考慮しなければならない。つまり経済状況に応じて人間はさまざまな種類の困難を予測していると考える。このような考慮は常に人口増を制限するが、それでも常に人口増の努力は継続されるために人口と生活資源の不均衡もまた継続されることになる。人口増の制限は人口の現状維持であり、人口の超過分の調整ではない』。『このような事実から人口増の継続が、生活資源の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。なぜなら人口が多いために労働者は過剰供給となり、また食料品は過少供給となるからである』。これは現状の必然的帰結であり、社会制度の改良によっては回避され得ないとした。これを一般には「マルサスの罠」と呼ぶ。『このような状況で結婚することや、家族を養うことは困難であるために人口増はここで停滞することになる。安い労働力で開墾事業などを進められることで、初めて食料品の供給量を徐々に増加することが可能となり、最初の人口と生活資源の均衡が回復されていく。社会ではこのような人口の原理に従った事件が反覆されていることは、注意深く研究すれば疑いようがないことが分かるとマルサスは述べている』。『このような変動がそれほど顕著なものとして注目されていないことの理由は』、『歴史的知識が社会の上流階級の動向に特化していることが挙げられる。社会の全体像を示す、民族の成人数に対する既婚者数の割合、結婚制度による不道徳な慣習、社会の貧困層と富裕層における乳児の死亡率、労賃の変化などが研究すべき対象として列挙できる。このような歴史は人口の制限がどのように機能していたのかを明らかにできるが、現実の人口動向ではさまざまな介在的原因があるために不規則にならざるをえない』とする。こうしたマルサスの思想は産児制限で最貧困層を救おうとする考えに発展し、そうしたものを「マルサス主義」と称するようになって、マルサスは一躍、有名人となった。ウィキの「トーマス・ロバート・ルサによれば、「人口論」は『次のような命題につながる。人口の抑制をしなかった場合、食糧不足で餓死に至ることもあるが、それは人間自身の責任でありこれらの人に生存権が与えられなくなるのは当然のことである』。『戦争、貧困、飢饉は人口抑制のためによい』。『これらの人を社会は救済できないし、救済すべきでないとマルサスは考えた』。『これらマルサスによる生存権の否定は、ジャーナリストのウィリアム・コベット』(William Cobbett 一七六三年~一八三五年:マルサスと同じサリー州のファーナム出身)『などから人道に反すると批判を受けた』。『人口を統計学的に考察した結果、「予防的抑制」と「抑圧的抑制」の二つの制御装置の考え方に到ったが、この思想は後のチャールズ・ダーウィンの進化論を強力に支える思想となった』(ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)が進化論を明確に主張した「種の起源」(原題On the Origin of Species」)は一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)の出版)。『特に自然淘汰に関する考察に少なからず影響を与えている』。『すなわち、人類は叡智があり、血みどろの生存競争を回避しようとするが、動植物の世界にはこれがない。よって』、『マルサスの人口論のとおりの自然淘汰が動植物の世界には起きる。そのため、生存競争において有利な個体差をもったものが生き残り、子孫は有利な変異を受け継いだ』、『とダーウィンは結論したのである』。『またマルサスは救貧法について、貧者に人口増加のインセンティブ』(incentive:欲求の動機付け)『を与えるものであり、貧者を貧困にとどめておく効果があるとし、漸進的に廃止すべきであると主張していた』ともある。なお、『マルサスの悲観的な予言にも拘らず、マルサスの』主張以降、『人口爆発が起こっており、特に先進国では食糧不足も起こっていないため、マルサスの予言は外れたようにみえる』。『このような結果をもたらしたのは科学技術の発展により、農作物の生産量やその輸送方法が劇的に改善したからであ』り、『なかでも、ハーバー・ボッシュ法』(ドイツの、物理学者フリッツ・ハーバー(Fritz Haber 一八六八年~一九三四年)と化学者カール・ボッシュ(Carl Bosch 一八七四年~一九四〇年:後に百五十年の歴史を持つ、かの世界最大の総合化学メーカーBASFの代表となった)が一九〇六年に開発した「ハーバー=ボッシュ法」(Haber–Bosch process)。鉄を主体とした触媒上で水素と窒素を高温・高圧状態に置き、直接反応させてアンモニアを生産する工業法。所謂、大気中の遊離窒素を取入れて窒素化合物を生成させる「空中窒素固定」(fixation of atmospheric nitrogen)の画期的技法である)『などによって化学肥料が発明された事の役割がきわめて大きい』とある。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 飛ぶ島(ラピュタ)(3) 「變てこな人たち」(Ⅲ) /「變てこな人たち」~了

 

 私の服がみすぼらしいといふので、私の世話人が、翌朝、洋服屋を呼んで來ました。ところが〔、〕その洋服屋のやり方が、ヨーロッパの寸法の取り方とは、まるで違ふのでした。彼は定規とかコンパスで〔私の身躰をはかり、〕いろんな數學■〔學上のけい算〕を紙に書きとめました。〔■〕 〔■は〕〔そして服は〕六日目に出來上つて〔りま〕したが、その恰好はてんでなつていないのでした。なんでも計算の數字を間違へたのださうです。〔し〕かし、そんな間違はいつもあることで、誰も気にするものはないといふこと〔の〕で、私も少し安心しました。

 私は病氣で五六日引き籠つてゐましたが、その間に〔、〕だいぶこの國の言葉を勉強しました。それでその次に宮廷へ行つた時には、国王のいふこともわかれば、〔私も〕いくらか返事をすることもできたのです。[やぶちゃん注:現行版はここで改行。]陛下は、〔この〕島を〔、〕北東東にに進ませて、ラガード(下の大地にあるこの国の首都)の上にもつてゆくよう〔、〕お命じになりました。ラガードは約九十リーグであるから、四百三十四キロ五百二十メートルとなる。]ほど離れてゐたので、この航空〔旅行〕には四日半かかりました。〔そして〕旅行中、この島が空中を進行してゐるやうな氣配はちよつとも感じられないのです。〔でした。〕三日目の朝、十一時頃、國王は自ら貴族、廷臣、役人どもを從へられ、それぞれ樂器の調子を整へると、それから三時間、休みなしに演奏されました。私はもう耳が聾になりさうでした。

[やぶちゃん注:「北東東にに」の「にに」はママ。衍字。また、現行版では最後の一文の頭には「騷々しくて、」が挿入されてある。

「ラガード(下の大地にあるこの国の首都)」この丸括弧内は、原稿では当初、丸括弧なしで、「ラガード」の前に書かれてあったものを、丸括弧を追加した上で「ラガード」の下に矢印で移行記号が書かれてある。校正記号のように全体が囲まれていないから、移行には丸括弧が生きる。

「約九十リーグ」以前に注した通り、「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」であるから、四百三十四キロ五百二十メートルである。]

 首都ラガードへ行〔く途〕中、陛下は〔、〕ところどころの町や村の上に〔、〕〔この〕島をとめるよう〔、〕お命じになりました。これは〔、〕それぞれ〔、〕人民の訴へごとを、おききになるためでした。小さい錘のついた紐が〔、〕〔この〕島から〔おろ〕されると、下にゐる人民はそれに請願書〔手紙〕を括りつけます。そして〔そして〕紐は〔すぐ〕また吊上げられるのです〔ます〕。丁度、子供が凧の絲のはしに、紙片を結びつけるやうなものです。時には〔、〕下から〔持つてくる〕酒や食料〔が〕〔、〕滑車で引上げられることもあります。

 彼等の〔この國の人たちは、〕家の作り〔方が〕非常に下手です。壁は歪み、どの室も直角になつてゐません。彼等は定規や鉛筆で〔する〕紙の上の仕事は大変もつともらしいのですが、實際のやりかたでは〔地にやらしてみると〕、この國の人間ぐらゐ下手で不器用な人間はゐません。ただ 〔彼等は〕 數樂と音樂 に〔は〕熱 中して、〔心ですが〕その〔ただ數學と音樂は別ですが、〕他のことが〔問題→に〕まるで■〔駄目なのです。〕なると、これくらゐ、ものわかりの悪い、出鱈目な人間は〔あり〕ません。理窟を言はせれば、さつぱり筋が通らないし、〔むやみに〕反対ばかりします。彼等〔は〕頭〔のなかにも〕も心〔も〕も[やぶちゃん注:衍字。]、數學と音樂しかわからないのです。

[やぶちゃん注:推敲が混乱しているさまが見てとれるように示した。現行版ではここは、

   *

 この国の人たちは、家の作り方が非常に下手です。壁はゆがみ、どの室も直角になっていないのです。彼等は、定規や鉛筆でする紙の上の仕事は大へんもっともらしいのですが、実地にやらしてみると、この国の人間ぐらい、下手で不器用な人間はいません。彼等は数学と音楽には非常に熱心ですが、そのほかの問題になると、これくらい、ものわかりの悪い、でたらめな人間はありません。理窟を言わせれば、さっぱり筋が通らないし、むやみに反対ばかりします。彼等は頭も心も、数学と音楽しかわからないのです。

   *

と整序されている。]

 それにこの國の人たちは、いつも何か心配してゐるのです。〔て、〕〔そのために心は〕一分間も心が 落着てゐること〔心は安らかで〕〔→が〕ないのですが、その不安の原因といふの 実は彼等〕〔その不安〕他の人間から見たら〔それはそれは〕何でもないことを心配してゐる〔わけな〕のでした→す〕。

[やぶちゃん注:「〔その不安〕」の挿入は生きているが、下と続かない。現行版は、

   *

 それに、この国の人たちは、いつも何か心配していて、そのために一分間も心は安らかでないのですが、他の人間から見たら、それは何でもないことを心配しているのでした。

   *

となっている。]

 その心配の種といふのは、天に何か変つたことが起きはすまいかといふことから〔です。〕です。たとえば〔、〕地球は絶えず太陽に向つて近づいてゐるのだから、今に吸込まれるか、呑み込まれてしまふだらう〔、〕とか、〔あるひは〕〔、〕太陽の表面には〔、〕ガスがだんだんかたまつて來て〔、〕今に光がなくな〔地球を■らさ〕陽がささなくなる時が來はすま いか〔るだらう〕〔、〕〔と〕〔、〕とか[やぶちゃん注:衍字の連続。]、この前の彗星の時は、地球は星の尻尾に撫でられないで助かつたが、今度、三十一年後に現れるはずの〔に〕彗星では〔が現れると、〕たぶん、われわれも〔、〕いよいよ滅する〕〔ぼされる〕だらう〔、〕とかいふいふ心配なの→いふ〕のです。さうかと思へば〔、〕太陽は毎日光線を出してゐるので、やがては〔、〕蠟燭のやうに溶けて無くなるだらう、さうすると〔、〕地球も月もみんな無くなつてしまふだらう、などといふ〔心配〕でした。

[やぶちゃん注:この段落の頭は一字空けでないが、この部分が改頁となっている点、前の原稿14の加筆末尾から考えて、ここは改行と考えて一字空けを施した。なお、現行版も改行している。

「この前の彗星の時は、地球は星の尻尾に撫でられないで助かつたが、今度、三十一年後に彗星が現れると、たぶん、われわれも、いよいよ滅ぼされるだらう」これは思わずハレー彗星のことだろうと思ってしまう。ハレー彗星は約七十六年周期であるが、「ガリヴァー旅行記」の初版は一七二六年、その前のハレー彗星の接近は一六八二年九月十五日でスウィフトは一六六七年で十五歳、イギリスの天文学者エドモンド・ハレー(Edmond Halley 一六五六年~一七四二年)が“Synopsis Astronomia Cometicae”(「彗星天文学概論」)でハレー彗星の存在とその回帰性を主張し、再び一七五七年地球に接近するという予言を含めて発表したのは一七〇五年、実際の再来最接近はハレーの予言よりも二年ずれた一七五九年三月十三日であったが、ここで「ガリヴァー旅行記」の初版発行の一七二六年三十一年足すと、一七五七年となることに気づく。これは確かにあのハレー彗星のことを言っているのである。]

 彼等は朝から晩まで〔、〕こんなふうなことを考へて〔、〕ビクビクしてゐます。夜も〔、〕よく眠れないし、この世のたのしみを味はうともしないのです。朝、人にあつて、第一にする〔挨〕拶は、[やぶちゃん注:「■」は「挨」の字を書こうとして気に入らず、書き直しただけと思われる。]

 「太陽の工合はどうでせう。日の入、日の出に、変りはございませんか」

 「今度、彗星がやつて來たら〔、〕どうしたものでせうか 助かなんとかして助かりたいものですな〔あ〕」

とこんなことを云ひ合ふのです。それは丁度、子供が幽靈やおばけの話が怖くて寢れないくせに聞きたがるやうな気持でした。

 私は一月もたつと〔、〕この國の言葉がかなりうまくなりました。国王の前に出ても〔、〕質問は大概答へることができました。陛下は〔、〕私の見た國々の法律、政治、風俗などのことは少しも聞きたがりません。その質問といへば、數學のことばかりでした。私が申上げる説明を、時々〔、〕たたき役の助けをかりて聞かれ〔ながら〕、いかにも〔、〕つまんなさうな顏つきでゐられました。

[やぶちゃん注:この後の行間上罫外に「>」で「三章」とあるが、現行版にはない。]

 私は〔、〕この島のいろいろ珍しいものを見せてもらひたいと〔、〕陛下にお願ひしました。早速、お許しが出て、私の先生が一緒に行つてくれることになりました。私はこの島の樣々の運動が何の原因によるものなのか、それが知りたかつたのです。

 この飛島は〔、〕直徑約四マイル半の〔まん〕円い島なのです。面積は〔、〕一万エーカー、島の厚さは三百ヤードあります。一番〔島の一番〕底は滑らかな石の板になつてゐて、その上に、鑛物の層があり、そのまた上に土が蔽さつてゐます。

[やぶちゃん注:段落冒頭は一字下げがないが、空けた。

「四マイル半」七キロ二百四十二メートル弱。

「一万エーカー」六十・六四八平方キロメートル。

「三百ヤード」二百七十四・三二メートル。]

 島の中心には〔、〕直徑五十ヤードばかりの裂け目が一つあります。ここから、天文學者たちが〔下り→洞穴(ほらあな)へ〕へ下りて行きます。それで天文學

[やぶちゃん注:「五十ヤード」四十五・七二メートル。]

 〔その〕洞穴の中には〔、〕二十箇のランプが〔、〕いつもともつてゐます。そこには、望遠鏡や〔天体〕觀測器や〔、〕その他、天文學の器械が備なへてあります。

[やぶちゃん注:段落冒頭は一字下げがないが、空けた。]

 この島の運命をつかさどつてゐるのは〔、〕一つの大きな磁石です。磁石のまんなかに心棒があつて、〔誰れでも〕、ぐるぐる𢌞すことが出來るやうになつてゐます。

 この磁石の力によつて、島は〔、〕上つたり下つたり、一つ場所から〔、〕他の場所へ〔、〕動いたりするのです。〔つい〕 〔といふのは〕磁石の一方のはしは、〔島の〕下の領土に対して、とおざかる力をもち、もう一方のはしは、近寄らうとする力を〔も〕つてゐます。[やぶちゃん注:現行版はここで改行する。]もし近寄らうとする力を下にすれば、島は下つてゆきます。〔その〕反対にすれば、島は上つてゆきます。斜にすれば、島は斜に動きます。〔そして〕磁石を土〔面〕と水平にすれば、島はとまつてゐます。

[やぶちゃん注:抹消字「」は恐らく「持」という漢字を書こうとして(てへん)だけを書いて消したものではないかと推定する。

「斜」は二箇所とも現行版では「斜め」と「め」を送っている。]

 この磁石を預かつてゐるのは〔、〕天文學者たちで、彼等は王の命令で、時時、磁石を動かすのです。

[やぶちゃん注:現行版では「預かつてゐるのは」の箇所が「あずかっているのは」とおかしな表記になっている。不審。]

 もし、〔この島の〕下の都市が謀

 もし〔、下の〕都市が謀叛を起したり、税金を納めない場合には、国王は、その都市の眞上に〔、〕この島を持つて來ます。〔かう〕すると〔、〕下では陽もあたらず雨も降らないので〔、〕住民達は苦しんでしまひます。[やぶちゃん注:改行記号らしきものがあるので、改行した。現行版は以下が続いている。]

 また、場合によつては、下の都市に〔上からどしどし〕大石を〔都市めがけて〕落します。これには〔かうされては、〕住民たちは、地下室に引込んでゐるよりほかはありません。それにも

 だが、それでもまだ王の命令にしたがはないと、最後の手段〔を〕取ります。それは〔この〕島を彼等のまうへから→頭のまうへに〕うへに、ぢかにおとしてしまふのです。かうすれば家も人もなにもかも一ぺんに潰されてしまひます。[やぶちゃん注:現行版はここで改行。]しかしこれはよくよくの場合で、〔滅多に〕こんなことになる せん。はしま→はなりません。〕[やぶちゃん注:ここで最初は改行し、「 それは この島をこの都市」と書いて以上のように結果的に全抹消し、以下を改行せずに前に続けて書き足している。]王もこのやり方は喜んでゐません。それにもう一つ、これには困ることがあるのです。つまり都市には高い塔や柱などが立ちならんでゐるので、その上に島をおとすと、島の底の石が割れるおそれがあります。もし底の石が割れたりすると、磁石の力〔が〕なくなつて、忽ち島は地上に落つこちてしまふことをです。

[やぶちゃん注:最後の一文は現行版では、『もし底の石が割れたりすると、磁石の力がなくなって、たちまち島は地上に落っこちてしまうことになるのです。』である。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(6) 対立する神々の祟り

 

 此例はまだいくらもある。中でも珍しいのは日次記事の三月の條に、京都の西の松尾の人は紀州の熊野へ參らず、熊野の人も松尾明神には參詣してはならぬ。此禁を破れば必ず祟があるとある。畏多いことであるが、伊勢の大廟にも、在原姓の者は參宮をしなかつたと云ふ話がある。其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた。京都粟田口明神社の坊官鳥居小路氏の如きは卽ち其家で、參宮が成らぬ故に別に此宮を建てたと粟田地誌漫錄に見え、上州群馬郡の和田山極樂院の院主も、先祖の長野右京亮が在五中將の末であつた爲に、今に至るまで伊勢大神宮に參詣かなはずと山吹日記と云ふ紀行にある。此外守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に信濃の善光寺に詣ずれば災あり、佐野氏の人は田原藤太の後と云ふことで神田明神の祭に逢ふと惡いと云ふ話が、松屋筆記卷五十に出て居り、その平將門の子孫と傳ふる今の相馬子爵の先祖が、奧州から江戸へ參覲する道で、常陸の土浦を通る日は必ず風雨又は怪異があつたのは、將門に殺された叔父國香の墓が此町に在つて、國香明神と祭られて居たからだと新治郡案内にあるが如き、或は東京西郊の柏木村の人は、鎧大明神の氏子で其神は將門の鎧を御神體とすると傳ふる故に、敵の田原藤太秀郷の護持佛だつたと云ふ成田の不動へは參らなかつたと山中共古翁の日錄にあるが如き、何れも謎の如く又下手(へた)な歷史の試驗問題のやうであるが、實は皆此系統の話である。此頃出來た奈良縣高市郡志料に、此郡眞菅村の宗我神社は蘇我氏の祖神を祀つたかと思はれるが、俗には入鹿宮と稱して氏子等は今尚多武峯に參らぬ者が多いとある。是は多武峯には藤原鎌足の廟が有る爲であるが、更に注意すべきは此山から五六里も東、大和と伊勢の國境の高見山に、蘇我入鹿の首が飛んで來て神に祭つたと云ふ言傳へのあることである。此山の神を信心する者は多武峯に參ることの成らぬは勿論、卽事考と云ふ書の卷一には、鎌を持つて登つてさへ、必ず怪我をするか又は山が鳴るとある。是などは明白に山の爭が神の爭となつた一つの證據で、此近邊で秀でゝ居るのは此の二つの山のみである所から、多武峯の競爭者なら高見山は入鹿と云ふことになつたのであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「日次記事」「ひなみきじ」と読む。江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。十二巻。儒学者で医師であった黒川道祐(くろかわどうゆう)の編で、延宝四(一六七六)年の林鵞峰(はやしがほう)の序がある。月ごとに日を追って、節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、行事の由来や現況を解説してある。

「松尾」「松尾明神」現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。ここに記された禁忌に就いて柳田は子供向けに書かれた「日本の傳説」の「神いくさ」の中で以下のように、その禁忌の意味を分かり易く記している。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

[やぶちゃん注:前略。]昔の人は氏神といつて、殊に自分の土地の神樣を大切にしてをりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お參りをするやうになつても、信心をする神佛(かみほとけ)は土地によつて定まり、どこへ行つて拜んでもよいといふわけには行かなかったやうであります。同じ一つの神樣であつても、一方では榮え他(ほか)の一方では衰へることがあつたのは、つまりは拜む人たちの競爭であります。京都では鞍馬の毘沙門樣へ參る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があつて、もとはこれを福惜(ふくを)しみの毘沙門などといつてをりました。せつかく鞍馬に詣(まゐ)つて授かつて來た福を、惜しんで奪ひ返されるといつて、鞍馬參詣の人はこの堂を拜まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るやうにしてゐたといひます。同じ福の神でも祀つてある場所がちがふと、もう兩方へ詣ることは出來なかつたのを見ると、仲の善くないのは神樣ではなくて、やはり山と山との背競(せくら)べのやうに、土地を愛する人たちの負け嫌ひが元でありました。松尾のお社(やしろ)なども境内に熊野石があつて、こゝに熊野の神樣がお降(くだ)りなされたといふ話があり、以前はそのお祭りをしてゐたかと思ふにも拘らず、こゝの氏子は紀州の熊野へ參つてはならぬといふことになつてゐました。それから熊野の人もけつして松尾へは參つて來なかつたさうで、このいましめを破ると必ずたゝりがありました。これなども多分双方の信仰が似てゐたために、かへつて二心(ふたごころ)を憎まれることになつたものであらうと思ひます。(都名所圖會拾遺。日次記事)

   *

「其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた」「伊勢物語」の第六十九段に、「齋宮(いつきのみや)なりける人」という呼称で登場し、業平らしき男と禁断の悲恋をする女性は、実在した第三十一代伊勢斎宮となった恬子内親王(てんし/やすらけいこ/やすこ 嘉祥元(八四八)年)頃?~延喜一三(九一三)年:父は文徳天皇で同母兄弟に惟喬親王がいる)。彼女は貞観元(八五九)年に清和天皇の即位に伴って斎宮に卜定され、貞観三(八六一)年に伊勢に下った。貞観八(八六六)年二月、母親の静子が亡くなったが、斎宮退下(たいげ)の宣勅は下らず、十年後の同十八年に清和天皇が陽成天皇に譲位したことによって、ようやく退下している。ここはウィキの「恬子内親王」を参照した。リンク先には「伊勢物語」のその箇所の梗概も載る。

「京都粟田口明神社」現在の京都市東山区粟田口鍛冶にある粟田神社(ここ(グーグル・マップ・データ))の末社である大神宮のこと。「粟田神社」公式サイト内の「神社案内」によれば、『大神宮は元々、青蓮院の坊官である鳥居小路家の旧宅地の鎮護神でしたが、勧請された時期は不明です。鳥居小路家の先祖は高階師尚と云い、師尚の母が伊勢の斎宮であったときに在原業平と密通してできた子供でした。この為お伊勢さんのお怒りに触れてその子孫が伊勢に参宮しようとしても、途中で病気になったり、災難にあったりして参宮することができませんでした。そこで大神宮を宅地内に奉斎して参詣するようになったとのことです。その後、明治になって当社の境内に遷座されました』とあるから、旧来の鎮座位置は恐らく、南西直近の青蓮院門跡の近くであったと考えられる。なお、この『高階師尚』については、先のウィキの「恬子内親王」に、「伊勢物語」では、「狩の使」(内親王の従姉(紀有常女)の夫であり、平城天皇の孫でもあった在原業平と考えられている)の男『と「斎宮なりける人」はついに逢瀬を遂げることは出来なかったことになっている。が、「斎宮なりける人」を恬子内親王とみて、この一夜の契りにより』、『内親王が懐妊、前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮が、生まれた子供を伊勢権守で斎宮頭だった高階峯緒の子、茂範の養子とし、それが後の高階師尚であるということが、古来流布されており、後の藤原行成の』「権記」『によると、行成は一条天皇から立太子について、定子皇后腹の敦康親王と彰子中宮腹の敦成親王(後の後一条天皇)のどちらにすべきかについて意見を聞かれた時、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と定子皇后の母が高階家出身ということを理由に敦成親王を立太子すべきと奏上したとある。事実かどうかは別として、その後の尊卑分脈にもそのように記されている』とある。

「粟田地誌漫錄」不詳。

「上州群馬郡の和田山極樂院」現在の高崎市箕郷町にあった修験道の寺院で明治初めに廃寺となったが、それまでは時の権力者から「上野国年行事職」(上野国で寺院を統括する役職)に任命されるほど、上野国の中心的な寺院であった。「群馬県立文書館」のこちらの資料(PDF)に拠った。

「在五中將」業平の別称。在原氏の五男(彼は天長三(八二六)年、平城天皇第一皇子父阿保親王の上表によって臣籍降下して兄行平らとともに在原朝臣姓を名乗った)であったことに由来する。

「山吹日記」幕臣で塙保己一門の国学者奈佐勝皐(なさ かつたか 延享二(一七四五)年~寛政一一(一七九九)年:国学研究の拠点として塙が幕府に建議して作った和学講談所の初代会頭)が天明六(一七八七)年四月十六日に江戸を出発、五月二十三日まで武蔵・上野・下野の三国を旅し、名所旧跡の見学・探訪・調査を記した日記。

「守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に信濃の善光寺に詣ずれば災あり」奈良県大和郡山市番条町にある「中谷酒造」の公式サイト内の「第23 物部氏と善光寺 【アラカン社長の徒然草vol.31】」によれば、物部氏は丁未(ていび)の乱(五八七年)で蘇我氏に滅ぼされるが、その最後の当主が物部守屋であった。この守屋の霊魂は祟ったらしく、鎮魂のために特別な施設が必要とされて、善光寺が建てられたという説があるとする。『本堂一番奥の内々陣と呼ばれる祭壇の中心は守屋の霊魂が宿る守屋柱で』『その左側に本尊、右側に本田善光家族像があ』るが、『現代の参拝者の多くはその事実を知らず、ただ阿弥陀如来の御利益を求めているのが実態で』あると記す。これは善光寺公式サイトウィキの「善光寺」にも記されていないが、柳田のこの一節はそれをよく補完するものと読める。秘かに成された怨霊封じの寺にその封じられた人物の末裔が参っては、トンデモないことが出来(しゅったい)することは明らかであろう。これを読まれた守屋姓の方、ゆめゆめ善光寺をお参りすることなかれ。

「佐野氏の人は田原藤太の後と云ふことで神田明神の祭に逢ふと惡い」神田明神は承平五(九三五)年に乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られ、この社の近くに葬られたことから、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受け、嘉元年間(十四世紀初頭)に疫病が流行した際、これが将門の祟りであるとされて供養が行われ、延慶二(一三〇九)年には当社の相殿神「平将門命」として祀られて現在に至っている。「田原藤太」秀郷は将門追討軍の将であった。

「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)が文化末年(一八一八年)から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に亙り、古今の書物の記事を抜き書きして考証・論評などを加えたもの。著江戸後期の随筆。元は全百二十巻であったが、現存は八十四巻。

「相馬子爵」本書「一目小僧その他」は昭和九(一九三四)年六月刊であるが、本稿「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月発行の『女学雑誌』であるから、これは旧陸奥相馬中村藩(陸奥国標葉(しめは)郡から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部相当)を治めた藩で、藩庁は中村城(相馬市。ここ(グーグル・マップ・データ))主で、当時、子爵家となっていた相馬家。初出当時の当主は旧相馬(陸奥)中村藩藩主相馬充胤の四男で、相馬家第三十代当主相馬順胤(ありたね 文久三(一八六三)年~大正八(一九一九)年二月一三日)。彼は精神疾患を患った中村藩の末代(第十三代)藩主であった異母兄相馬誠胤を不当に監禁したとして(病死後の再告発では毒殺したとする)、旧相馬中村藩士錦織剛清(にしごりたけきよ)により告発された精神病患者の扱いの問題を含んだスキャンダラスな「相馬事件」の当事者(順胤は錦織を逆に誣告罪で訴えた)でもあった。詳しくはウィキの「相馬事件」を参照されたい。ウィキの「相馬氏」によれば、相馬氏初代の相馬師常は鎌倉初期の名将『千葉常胤の次男で、師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部で、松戸から我孫子にかけての一帯)を相続されたことに始まる』が、『師常は常胤の子でありながら、「胤」の字を継承していない。伝承によると』、『師常は平将門の子孫である信田師国の養子で、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする』。『しかし、将門の本拠地はもっと北の岩井で、支配圏は豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかない』と疑義を呈している。ただ、相馬氏は家紋として「九曜紋」の他に「繋ぎ馬紋」も持っており、『この繋ぎ馬紋は今日でも築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾などに用いられている』ものである(下線やぶちゃん)。

「參覲」「さんきん」。参勤交代。

「國香」平安中期の武将平国香(たいらのくにか ?~承平五(九三五)年)。。桓武天皇の孫(或いは曾孫)平高望の長男で常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。別名(初名か)は平良望(よしもち)。ウィキの「平国香」によれば、寛平元(八八九)年、宇多天皇の勅命により、姓を賜与され、『臣籍降下し、上総介に任じられ父の高望とともに昌泰元』(八九八)年『に坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)』(ここ(グーグル・マップ・データ))『を本拠地とした。源護』(みなもとのまもる 生没年未詳:ウィキの「源護」によれば、『常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持っていたといわれ、真壁を本拠にしていたと伝わる。この領地と接していた平真樹と境界線をめぐ』って『度々争って』おり、『真樹はこの争いの調停を平将門に頼み』、『将門はこれを受ける。一説によるとこの調停の為に常陸に向かっていた将門を』、護の息子扶(たすく)らが『野本にて待ち伏せて襲撃したと言われて』おり、『この戦いが平将門の乱の中の最初の合戦であり始まりであるといえる』とある)『の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護より』、『その地位を受け継ぎ』、『坂東平氏の勢力を拡大、その後』、『各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた』。『舅である護の子扶に要撃された甥の平将門』(国香の弟(平良望三男)良将が将門の父)が、承平五年二月四日に反撃に出た際、居館石田館を焼かれて死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し』、『将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼』(平良望の次男。国香の弟で良将の次兄)『に批判・説得されて将門に敵対する事となり、承平天慶の乱の発端となった』とある。

「常陸の土浦」茨城県土浦市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「國香明神」個人ブログ「将門ブログ」のこちらに、『【八幡神社(平国香の墓)】土浦市田中町』とあって、亀城公園から西四百メートルのところに「八幡神社」があり、『かつてここに「国香明神社」があり、そこにあった小五輪塔が平国香の墓といわれてい』たとし、『現在は、「八幡神社」の社殿内に一対の石造燈籠(外から拝見できます)があり、これが平国香の墓だと』されているという記載がある。恐らくここ(グーグル・マップ・データ)。

「新治郡案内」茨城県新治(にいはり)郡協賛会編明四四(一九一一)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で当該記載を視認出来る。

「柏木村」「鎧大明神」東京都新宿区北新宿にある鎧神社(よろいじんじゃ)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。この地区には広く「柏木」の地名が残ることがリンク先の地図から判る。新宿は江戸時代は江戸の西の果てであったから、ここは「東京西郊」と言ってもおかしくはない。同神社は醍醐帝の治世(八九八年~九二九年)に円照寺という寺が創建され、寺の鬼門鎮護の神祀として鎧大明神創建されたと推定され、天暦(元年は九四七年)の初めに平将門の鎧を埋めたという伝承があるとウィキの「鎧神社」にある。

「山中共古翁の日錄」「共古日錄」既出既注であるが、再掲する。山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年 本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「奈良縣高市郡志料」奈良県高市郡編・大正四(一九一五)年奈良県高市郡刊。当該記載を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る。

 

「眞菅村」「ますがむら」と読む。文庫版全集にもルビはないが、これはルビ無しでは誤読する。

「宗我神社」「宗我」は「そが」と読む。現在の奈良県橿原市曽我町にある、正しくは宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ/そがにいますそがつひこ/そがのそがつひこ)神社。通称を今も「入鹿宮(いるかのみや)」と称し、古代豪族の蘇我氏に関係する神社として知られ、祭神も曾我都比古神(そがつひこのかみ/宗我都比古神)・曾我都比売神(そがつひめのかみ/宗我都比売神)である。ウィキの「宗我坐宗我都比古神社」によれば、『創建は不詳』であるが、「五郡神社記」では『推古天皇』(在位:五九三年~六二八年)『の時に、蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建したとする』。『一方で社伝では、持統天皇』(在位:六九〇~六九七年)『が蘇我氏の滅亡をあわれみ、蘇我倉山田石川麻呂の次男である徳永内供には紀氏を継がせるとともに、内供の子の永末には祖神を祀るための土地を与えて社務・耕作を行わせたことをもって創建とする』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「多武峯には藤原鎌足の廟が有る」多武峰(とうのみね)は現在の奈良県桜井市南部にある山とそれに付随して一帯に嘗て存在した寺院群を指す。その山頂は御破裂山(ごはれつざん)と称し、標高は六百十九メートルウィキの「多武峰によれば、「日本書紀」には、『飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が』、『「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」と』あり、また「日本三代実録」には天安二(八五八)年『「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている』とある。また、ここにある談山(たんざん)神社の祭神は中臣鎌足(談山大明神・談山権現)である(明治の神仏分離より前はここは寺で多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)と称した)。参照したウィキの「談山神社によれば、『鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇』七(六七八)年、『長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇』九(六八〇)年『に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した』。大宝元(七〇一)年には『十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が』、大化元(六四五)年五月に『大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる』とある。言わずもがなであるが、大化の改新で蘇我入鹿が暗殺され、蝦夷が自殺したことによって、蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家は滅亡した(蘇我氏が亡ぼされたわけではないので注意)。

「高見山」奈良県吉野郡東吉野村と三重県松阪市(旧飯南郡飯高町)との境界にある標高千二百四十八・四メートルの山(グーグル・マップ・データ。中央付近に談山神社を位置させた)。三重県側の麓の松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔も存在するTetsuda氏のブログ「どっぷり!奈良漬」の入鹿の首はどこまで飛んだ?(産経新聞「なら再発見」第105回)で五輪塔の画像も見られる。筆者露木基勝氏の記事が全文引用されてあるが、入鹿の首が飛んだ場所として、まず、先の宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が挙げられており、昭和八(一九三三)年『発行の「大和の伝説」には、「昔、鎌足に打たれた入鹿の首は、現在の曾我の東端“首落橋”の附近にある家のあたりに落ちた。それで、その家を“おつて家”と呼ぶ」と記されている。地元の方の話では、曽我町の伊勢街道沿いに今もある民家の屋号が「おつて屋」で、かつてはその横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという』と記した後、ここの『すぐ隣の小綱(しょうこ)町には、入鹿神社がある。入鹿神社のあたりに幼少時の入鹿の住まいがあったとの伝承があり、昔から入鹿びいきの土地柄である。小綱町の住民が、鎌足を祀(まつ)る談山(たんざん)神社へ行くと腹痛がおこるとの言い伝えが残っている』というまさにここの柳田好みの例が記されてある(下線やぶちゃん。以下同じ)。『入鹿の首が飛んだ場所は、県内にとどまらない。奈良県と三重県の県境にある高見山の三重県側の麓、松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がある。一説には、高見山まで飛んできた入鹿の首が力尽きて落ちてきたのを祀ったのが、その五輪塔だという』。『地元には面白い伝承が残っている。高見山に登る時には「鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破って鎌を持っていくと必ずけがをする―とか。また、「五輪塔に詣(もう)でると頭痛が治る」などといわれたようだ(柳田が「即事考」から引用したものと同じ)。『五輪塔の場所から、少し高見山側に登っていくと、能化庵(のうげあん)と書かれた案内板が立っている。入鹿の妻と娘が入鹿を供養し首塚を守るため、尼となって住んでいた寺院跡だという』。『飯高町郷土史は、「この五輪塔が蘇我入鹿の怨霊を鎮めるためのものなのか、あるいは全く無関係なものなのかは不明」としながらも、「“火の気のない所に煙は立たない”のことわざ通り、蘇我氏とは何らかの因縁をもつ土地であったのだろう。怨霊が再び都へ舞い戻らぬためにも、高見山の裏側の舟戸の地へ鎮魂することは考えられなくもない」と記している』とある。

「卽事考」竹尾善筑の文政四( 一八二一)年の随筆。同記載は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。]

2017/09/09

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 𧒂螽(いなご)


Inago

いなご  負蠜 蚱

     【和名以奈

      古萬呂

𧒂

     【俗云以奈古

       但下畧也】

フヱウチヨン 

 

本綱、𧒂螽【蠉同】總名也有數種在草上者草螽【負蠜】在土

中者曰土螽【蠰螇】似草螽而大者曰螽斯【蚣蝑】似螽斯而

細長者曰蟿螽【螇蚚】數種皆類蝗而大小不一方首長角

修股善跳有青黒班數色亦能害稼五月動股作聲至冬

入土穴中夷人炙食之辛有毒其類乳于土中深埋其卵

至夏始出詩云喓喓草蟲趯趯𧒂螽陸佃云草蟲鳴于上

風蚯蚓鳴于下風因風而化性不忌而一母百子【忌嫉也】

△按𧒂螽方首形似莎雞而小青白色生田稻夜在株朝

 上於梢呑稻露故名稻子取之炙食味甘美如小蝦

 形同而灰色在田野而跳地者卽土螽也其大者灰皁

 色班而大於莎雞跳作聲如曰吉吉【似螽斯聲而不清也】陳藏噐

 所謂𧒂螽狀如蝗有黒班者與蚯蚓異類同穴爲雌雄

 得之可入媚藥者是矣生尋常草者名草螽

 凡𧒂螽在田稻呑露而無爲害稻如不茂盛則螽亦少

 然則雖多有不厭也劉歆云負蠜性不食穀食穀爲災

 

 

いなご  負蠜〔(ふはん)〕 蚱〔(さくばう)〕

     【和名、「以奈古萬呂〔(いなごまろ)〕」。】

𧒂

     【俗に「以奈古」と云ふ。但し、下畧なり。】

フヱウチヨン 

 

「本綱」、「𧒂螽」【「蠉〔(けん)〕」に同じ。】は總名なり。數種有り。草の上に在る者を「草螽〔(さうしゆう〕」【「負蠜」。】、土中に在る者、「土螽」【「蠰螇〔(じやうけい〕」。】と曰ふ。草螽に似て大なる者、「螽斯(はたをり)」【「蚣蝑〔(しようせい)〕」。】と曰ふ。螽斯〔(はたをり)〕に似て、細長き者を「蟿螽(はたはた)」【「螇蚸〔(けいれき〕」。[やぶちゃん注:原典は先の通り、「蚚」であるが、これは穀象の類(甲虫(コウチュウ)目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属 Sitophilus)を指す漢語であり、おかしい。国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目」の当該箇所画像を視認したところ、「螇蚸」となっているので訂した。]と曰ふ。數種、皆、蝗〔(いなご)〕に類して、大小、不一〔おなじ)〕からず。方なる首、長き角、修〔なる〕股。善く跳(は)ねる。青・黒・班〔(まだら)〕の數色有り。亦、能く稼〔(いね)〕を害(そこな)ふ。五月、股を動かして聲を作〔(な)〕し、冬に至りて、土穴の中に入る。夷人(ゑびす)、炙りて之れを食ふ。辛く、毒、有り。其類、土中に乳(こう)む[やぶちゃん注:「子産む」。]。深く其卵を埋〔(うづ)〕む。夏に至りて、始めて出づ。「詩」に云ふ、『喓喓〔(えうえう)〕たる草蟲〔(さうちゆう)〕、趯趯〔(てきてき)〕たる𧒂螽〔(ふしう)〕』〔と〕。陸佃〔(りくでん)〕が云はく、『草蟲は上風〔(じやうふう)〕に鳴き、蚯蚓(みゝづ)は下風に鳴く。風に因つて化す。性、忌(ねたま)ずして、一母、百子〔なす〕【「忌」は「嫉」なり。】。

△按ずるに、𧒂螽は方なる首、形〔(かた)〕ち、莎雞(きりぎりす)に似て、小さく、青白色。田〔の〕稻に生じ、夜は株(かぶ)に在り、朝は梢に上(のぼ)り、稻の露を呑(の)む。故に「稻子(いなこ)」ろ名づく。之れを取りて炙り食ふ。味、甘美〔にして〕小蝦のごとし。

形、同じくして、灰色、田野に在りて地を跳ぶ者、卽ち、「土螽」なり。其の大なる者、灰皁色〔(かいこくしよく)〕、班〔(まだら)〕にして莎雞より大きく、跳ねて聲を作〔(な)〕〔すに〕、「吉吉〔きちきち〕」と曰ふがごとし【螽斯の聲に似て而〔も〕清〔(きよ)らかなら〕ざるなり。】陳藏噐〔(ちんざうき)〕が謂ふ所の、『𧒂螽、狀、蝗のごとく、異班〔(いはん)〕有る者[やぶちゃん注:原典は前の通り、「黒」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目」の当該箇所画像を視認したところ、「異」となっているので訂した。]、蚯蚓と類を異〔とするも〕、同穴〔し〕、雌雄を爲〔(な)〕す。之れを得て、媚藥に入るるべし』と云ふは、是なり。尋常の草に生ずる者を「草螽」と名づく。

凡そ、𧒂螽、田〔の〕稻に在るは、露を呑みて、害を爲すこと無し。如〔(も)〕し、稻、茂盛〔(もせい)〕せざれば、則〔ち〕、螽〔も〕亦、少なし。然れば、則〔ち〕、多く有りと雖も、厭(いと)はざるなり。劉歆〔(りゆうきん)〕が云はく、『負蠜、性〔(しやう)〕、穀を食はず。穀を食へば災ひと爲〔な〕る』〔と〕。

[やぶちゃん注:これは正しく我々が本邦で呼んでいる「いなご」、即ち、
 
直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目イナゴ科
Catantopidae(イナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae)に属するイナゴ類

のことである。
 
 なお、中国で大群で穀類を襲う「飛蝗」として恐れられたそれは実はイナゴではない。ウィキの「イナゴ」によれば、『漢語の「蝗」(こう)は、日本で呼ばれるイナゴを指すのではなく、ワタリバッタ』類(雑弁亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科
Acrididae のバッタ類の内、サバクトビバッタ(バッタ科 Schistocerca属サバクトビバッタ Schistocerca gregaria:アフリカ大陸呼び中東、アジア大陸に棲息するが、本邦にはいない)やトノサマバッタ(バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria:無論、本邦に普通に棲息するそれであるが、後述するような群体相を示すことはまずない。但し、南西諸島や嘗ての北海道などで本種が「飛蝗」化し、植物や農作物に甚大な被害が出たことはある。後の引用を参照のこと)のように、大量発生などによって相変異を起こし、群生相となる種群を総称する名称)『が相変異』(個体群密度の変化によって有意に異なった姿と行動形態を生じること。飛蝗では孤独相から移動(群体・群生)相となることを指す。詳しくはウィキの「相変異」を参照されたい。下線はやぶちゃん。以下同じ)『を起こして群生相となったものを指し』、『これが大群をなして集団移動する現象を飛蝗、これによる害を蝗害と呼ぶ。日本ではトノサマバッタが「蝗」、すなわち群生相となる能力を持つが、日本列島の地理的条件や自然環境ではほとんどこの現象を見ることはない。わずかに明治時代、北海道で発生したもの』、昭和六一(一九八六)年に『鹿児島県の馬毛島で起きたものなどが知られるくらいである』(私は映像でこの大隅諸島馬毛島(まげしま)(鹿児島県西之表市に含まれ、種子島の北の西方十二キロメートルの東シナ海上にある。面積は八・二平方メートル)の映像を当時見たが、鎧のような形状変化と体色変化及び凶暴性はなかなかにクるものがあった)。『日本人にとってほとんど実体験のない「蝗」が漢籍によ』って『日本に紹介された』際、まったくの誤解によって『「いなご」の和訓が与えられ、またウンカやいもち病による稲の大害に対して「蝗害」の語が当てられた』のであり、また『聖書にはしばしば蝗害が描かれており、これを引き起こすワタリバッタが日本語では「いなご」「蝗(いなご)」と訳されることが』多く、アポカリプス的黙示映画でも安易にイナゴだと思い込んで日本人が見てしまうことも、この故なき誤認に拍車を掛けていると言えると私は強く思っている。この真相はあまり知られているとは思われないので、特に記しておきたい。無論、イナゴ類は本邦でも稲の害虫であり、古くからの虫送りの対象生物でもあったことは事実ではある。しかし、あくまで、本邦の彼らは稲の葉を食害するのであって、稲を食うのではない。無論、それによって米の歩留まりが有意に悪くなったり、幼虫は稲の株内にも産みつけられ、幼虫も葉を食害するから、枯死したりすることもあろう。しかし、米を喰らい、飛蝗のように完全に食い尽くされると勘違いしている高校生を私は何人も見てきたので特に謂い添えておきたいのである。本邦のイナゴの実際の稲の食害状況については「やまがたアグリネット」のこちらに詳しい。是非、御一読戴ければ、〈凶悪にして暴悪な悪魔の使い的イナゴ〉のイメージは幾分か、正しい方向に理解されるものと存ずる。本邦産の狭義のイナゴは、

イナゴ科イナゴ亜科 Oxyini 族イナゴ属コバネイナゴ Oxya yezoensis

イナゴ属ハネナガイナゴ Oxya japonica

イナゴ科ツチイナゴ亜科ツチイナゴ属ツチイナゴ Patanga japonica

イナゴ属エゾイナゴOxya yezoensis(北海道・東北地方に分布)

イナゴ属コイナゴOxya hyla intricata(琉球諸島以南に分布)

などが知られる。

 なお、次の項の「蝗(おほねむし)」の中国の本草書からの引用に出るそれは、まさに「飛蝗」を体現させるワタリバッタ類と読める。そこでは正直、良安も困ったという感じである。

「本綱……」以下、

イナゴ(但し、中国のそれであるから、ここでの「イナゴ」は本邦での「イナゴ」類を指していない点に注意されたい)の総称としての𧒂螽」「蠉」

とし、

・草の上に棲息する種を「草螽」(そうしゅう)=「負蠜」(ふはん)

と称し(これは本邦の狭義の「イナゴ」っぽくはある)、

・土の中に棲息する種を「土螽」(どしゅう)=「蠰螇」(じょうけい)

と称するとする。これはまず、既出の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類だろう。しかも、その

・「草螽」に似ているが、有意に大きい種を「螽斯(はたをり)」=「蚣蝑」(しょうせい)、即ち、既出既注のそれで、現在の本邦産種としては直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri(本州西部(近畿・中国)及び四国・九州に分布)とヒガシキリギリス Gampsocleis mikado(青森県から岡山県(淡路島を含む)に分布し、近畿地方ではニシキリギリスを取り巻くように分布)の二種に代表される種

と同定出来る。次に、

・螽斯(はたをり)に似ていて、体が細長い種を「蟿螽」(はたはた)=「螇蚸」(けいれき、即ち、これも既出既注の直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea 或いはそのより有意に大型)と本邦ならば同定出来る

ことになる。即ち、時珍の言う「數種、皆、蝗〔(いなご)〕に類して、大小、不一〔おなじ)〕からず」という総論は本邦では全く通用しないトンデモ説ということを認識しなくてはならぬ。しかしそれは、時珍の罪なのではなく、中国に於いて「蝗」の古義がそうした広汎なバッタ類或いはバッタのように見える虫類を指す語であったのを、イナゴに限定してしまった我が邦の誤認にこそ大きな咎はあるということである。

「股を動かして聲を作〔(な)〕し」誤り。イナゴは鳴かない。但し、群体相の羽音は凄まじいから、それをかく表現したとしてもおかしくはない。

「夷人(ゑびす)」引用は「本草綱目」であるから、中国古代における東方の異民族の総称。日本人も当然含まれ、実際に本邦のイナゴ類は今も食べている。

「毒、有り」誤り。無毒。

其類、土中に乳(こう)む[やぶちゃん注:「子産む」。]。深く其卵を埋〔(うづ)〕む。夏「詩」「詩経」の「召南」の遠征した夫を思う夫人の詩「草蟲(さうちゆう)」で、引用はその冒頭の二句。但し、「𧒂螽」は「阜螽」。これについて昭和五〇(一九七五)年明治書院刊の乾一夫著「中国名詞観賞 1 〈詩経〉」では、『いなご。「阜」は「𧌓」の省借で、「阜螽」は同義の連言熟語』とある。

「喓喓〔(えうえう)〕」盛んに鳴く虫の声(ね)の形容語。

「草蟲」前掲書で乾先生はキリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis と推定比定している。

「趯趯〔(てきてき)〕」前掲書で乾先生は『ピョンピョンと飛びはねることを形容する語』で、『「趯」は「躍」と同声の通用字』とされる。

「陸佃」(一〇四二年~一一〇二年)北宋末の文人政治家越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身。神宗・哲宗・徽宗に仕え、官は尚書左丞に昇った。王安石の門人であったが、彼のの新法改革には必ずしも賛成でなかった。しかし、改革が失敗に終わった後も忠誠を尽くした。南宋の政治家で詩人としてとみに知られる陸游はこの陸佃の孫に当たる。以下の引用は、彼の書いた主に動植物について説明した博物学的辞典「埤雅(ひが)」(全二十巻)から。ウィキの「埤雅」によれば、『陸佃の没後、子の陸宰によって』一一二五年に書かれた同書の序文によれば、陸佃は「詩経」中の『動植物に関する深い知識があった。北宋の神宗が熙寧年間に科挙の改革を行い、試験範囲から詩賦を除いて経学を主とするようになって以降、陸佃の講義は人気が高まった。陸佃はその内容を書物にすることを提案し、まず』、「説魚」・「説木」の二『篇を神宗に進上した』。当初、この書は「物生門類」という標題で『あったが、完成前に神宗が崩御し』たため、陸佃はそれより四十年をかけて書物を改訂、中国最古の辞書「爾雅」(著者未詳・全三巻。紀元前二〇〇年頃成立)の『補佐となる書物という意味で』「埤雅」と名づけたという。以下は「巻三」からの引用。

「上風〔(じやうふう)〕」雰囲気から見ると、本邦の古語「上風(うはかぜ)」、草木などの上を吹き渡る風と同義と見てよかろう。

「蚯蚓(みゝづ)は下風に鳴く」「下風」は同じく本邦の「したかぜ」と同義とするならば、樹木などの下の方、地面の近くを吹く風を指す。良安が既に真相を明らかにしているように、これは既出の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類の鳴き声の誤認である。

「風に因つて化す」よく判らぬ。イナゴは上風で孵化すると考えたものか。

「性、忌(ねたま)ずして、一母、百子〔なす〕【「忌」は「嫉」なり。】」意味がよく判らぬ。一匹のが多数のと交尾して百の卵を産むという意味か。しかし、複数のと交接するからと言って「忌(ねたま)ず」「嫉」妬しないというのもヘン。なお、イナゴは通常、三十から四十個ほどの卵を含むカマキリのような泡状の卵塊を産むから、そこからぞろぞろ孵化するさまは「百子」と言うには相応しかろうとは思う。

「味、甘美〔にして〕小蝦のごとし」ウィキの「イナゴ」の「利用」によれば、『日本では昆虫食は信州(長野県)など一部地域を除き一般的ではないが、イナゴに限ってはイネの成育中または稲刈り後の田んぼで、害虫駆除を兼ねて大量に捕獲できたことから、全国的に食用に供する風習があった。調理法としては、串刺しにして炭火で焼く、鍋で炒る、醤油や砂糖を加えて甘辛く煮付けるイナゴの佃煮とするなど、さまざまなものがある。イナゴは、昔から内陸部の稲作民族に不足がちになるタンパク質・カルシウムの補給源として利用された。太平洋戦争中や終戦直後の食糧難の時代を生きた世代には、イナゴを食べて飢えをしのいだ体験を持つ者も多い』。また、『長野県阿智村などでは、「イナゴを黒焼にして食用油と練り湿疹治療薬」「黒焼粉を喉に吹きつけ、扁桃腺を治す」という民間療法があった』。実は本邦に限らず、『イナゴを食べる民族は多』く、知られたフランスの画家アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa 一八六四年~一九〇一年)はLa Cuisine de Monsieur Momo(「モモ氏の料理」:ロートレック本人が残したレシピを親友モーリス・ジョワイヤン(Maurice Joyant)が編集して一九三〇年に発行された料理本)の中で「イナゴの網焼き」を挙げ、『「洗礼者ヨハネ風」』『と命名し、茶色でも黄色でもなく、ピンク色のイナゴがよいとしている』とある。糞をちゃんと抜かないと臭いが、実際にエビのような味である。但し、私はあのトゲトゲの脚が口内に刺さる一点に於いて忌まわしく、好んでは食わない。

「形、同じくして、灰色、田野に在りて地を跳ぶ者、卽ち、「土螽」なり。其の大なる者、灰皁色〔(かいこくしよく)〕、班〔(まだら)〕にして莎雞より大きく、跳ねて聲を作〔(な)〕〔すに〕、「吉吉〔きちきち〕」と曰ふがごとし【螽斯の聲に似て而〔も〕清〔(きよ)らかなら〕ざるなり。】」この後者の部分は、鳴いている点やその体色から、バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria を指しているように見える。トノサマバッタは体長が三・五~六・五センチメートルと大型で(よりの方が大きい)。個体によって色に差があり、緑色型と褐色型の二つのタイプがあるからであり、トノサマバッタはイナゴと異なり、後脚を前翅に擦って「シリシリシリ……」といった音を出すからである。

「陳藏噐」(生没年未詳)は唐の玄宗期の本草家で医師。彼の著した「本草拾遺」(七三九年成立)は「本草綱目」にもよく引かれている。以下も、そこから引いたもの。しかし、これはやはり本邦のイナゴではなく、ミミズと共生するとあるところから、これはミミズを捕食対象の一つとする先の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類である可能性が非常に高い。例えば、ここにはそれは「異班〔(いはん)〕」を持つとあるが、ケラの背部形状は、羽根が短く頭部の背面部に独特の斑(まだら)があって、そのスコップ上の前脚といい、ぱっと見、かなり異形(いぎょう)の部類に属するからでもある。

「劉歆〔(りゆうきん)〕」(?~二三年)前漢末から新にかけての学者。劉向(りゅうきょう)の子で、幼少の頃より、好学の人として知られ、第十一代皇帝成(せい)帝の時、父とともに漢王室の図書整理に参加する。父の没後は、その事業を継いで六芸(りくげい)の群書を類別した「七略」を完遂させた。「七略」の原書は散逸してしまったが、「漢書」の「芸文志(げいもんし)」にそのまま取り込まれ、今日に伝えられている。これは中国における経籍目録の最初のもので、彼はこの作業に従事することで古文学を修得、「春秋左氏伝」「詩経」などを公許の学問にせんとして古文顕彰運動を起こし、今文(きんぶん)派の儒者と激しく争った。当時の実力者王莽(おうもう)は以前、ともに黄門郎として勤務したこともあり、新王朝を興した後は、彼を重用して国師の地位をも与えている。新王朝の制度は「周礼」に拠っており、古文学者としての彼に立法その他で依拠するところが大きかったからであった。しかし、王莽に三子を殺されたのを恨んで謀反を企てて失敗、自殺した。「漢書」に伝記が載る(以上は「日本大百科全書」に拠る)。以下の引用は恐らく「漢書」の『劉歆以爲負蠜也、性不食穀、食穀爲災、介蟲之孽』に拠るものであろう。「介蟲」は「甲殻で身を守っている虫類」で現行では水棲の甲殻類を指すが、ここはもっと広義のカブトムシのような外骨格を持った昆虫類を広く指すものと思われる。「孽」(音「ゲツ・ゲチ」には「禍い」の意がある。]

カテゴリ「怪談集」は「怪奇談集」に変更

怪談集以外の実録奇談も多く含まれる結果となったことから、先日、名称を変更した。既存の過去記事中の注で使用した同カテゴリ名は変更が面倒なのでそのままとする。悪しからず。

北越奇談 巻之六 人物 其六(孝女百合)

 

    其六

 

 孝子は殊に稀なるものにして、富貴の人は、其名、現はれず。又、貴賎となく、人の善を賞すること少(すくな)きは、近世の人情なる。古(いにしへ)に村上の小次郎(こしらう)・新發田(しばた)の菊女(きくじよ)・頸城郡に僧知良(ちりやう)、皆、世の舌賞に残れり。

 其後(のち)、孝女百合と云へるは、三島郡村田村百姓伊兵ヱ(いべゑ)が女(むすめ)にして、同(おなじく)、出雲崎尼瀨町(あませまち)大工、作太夫に嫁(か)し、姑母(しゆうとめ)に仕(つか)へて孝なること、世に知れる所なれども、一年(とせ)、夫(おつと)作太夫、業(なりはひ)のために遠く出(いで)て歸らざること、久し。家、貧にして、朝夕の咽(けふり)絶へ絶(だ)へなる中に、昼は山に樵(きこり)、或は人に雇(やとは)れ、夜(よる)は、紡績(うみつむき)の手業(てわざ)に明かし暮して、姑母を孝養し、一(ひとつ)として其(その)求むる所に背くこと、なし。殊に姑母、其性(せい)、甚だ慳貪(けんどん)にして、見る所、聞く處、怒り罵(のゝしる)と雖も、面(おもて)にも心惡(こゝろあ)しき色を表はすことなく、他(た)の人に對して、假初めにも姑母の暴惡を謗(そし)ること、なし。

 近憐、皆、其孝心を憐(あはれ)み、且、姑母の邪見を憎みて、密(ひそか)に百合女(じよ)に告(つげ)て曰(いはく)、

「夫作太夫、出(いで)て久しく不ㇾ帰(かへらず)。是、必ず、汝を捨(すて)たる也。汝獨り、豈(あに)苦辛(くしん)してかゝる暴惡の姑母を養ふの理(り)あらんや。早く、父母(ふぼ)の家に帰りて、他(た)に嫁(かせ)ば、又、安穩(あんおん)なるべし。」

と、勸め諭(さと)しけるに、百合女、答云(こたへていふ)、

「夫、たとへ、我を捨(すて)て歸らずとも、姑母は、即(すなはち)、我が母なり。我れ、今、去(さら)ば、姑母、又、誰(たれ)を力に老(おひ)を養ひ給ふべき。我身、生涯、夫なしとも、是、又、前世の宿業(しゆくごう)と思ひば、恨(うらみ)なし。」

と、遂に不ㇾ用(もちひず)。

 いよいよ孝を盡(つく)し、身の勞苦を厭(いと)はず。

 後(のち)五年にして、夫、帰り來れり。

 其孝貞、如ㇾ此(かくのごとし)。一々(いちいち)記(しる)すに遑(いとま)あらず。

 

[やぶちゃん注:「村上の小次郎(こしらう)」野島出版補註は『不詳』とする。

「新發田(しばた)の菊女(きくじよ)」同前。

「頸城郡に僧ノ知良(ちりやう)」同前。

「舌賞」実際に口に出して褒めちぎること。

「孝女百合」野島出版補註には以下の詳細注が載る。

   《引用開始》

 百合が夫の留守に二人の子供を育て、よく養母に孝養を尽しくしたことは本文の通りであるが、なお、参考となるべき資料は次の如くである。[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げであるが、引き上げて示す。]

一、百合が表彰された年は三十二才で、女児が十一才、男児が五才、十五年以前から中風で身体不自由の養母は七十九才であった。

一、寛保元年[やぶちゃん注:一七四一年。本「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年であるから、実に七十年前の出来事で、作者崑崙橘茂世の生まれは宝暦一一(一七六一)年頃と推定されるから、彼が生まれる二十年前のことである。]、牧野民部少輔忠周[やぶちゃん注:「ただちか」と読む。越後長岡藩第五代藩主。第四代藩主忠寿(ただかず)の次男(兄は夭折)。享保六(一七二一)年生まれで明和九(一七七二)年没。享保二〇(一七三五)年に父の死去によって十四歳で家督を継いだが、生来、病弱であっため、藩政はその全てを家臣任せにしていたといわれる。延享三(一七四六)年四月四日、僅か二十五歳で病気を理由として養嗣子忠敬に家督を譲って隠居、以後は江戸藩邸で暮らした。以上はウィキの「牧野忠周」に拠った。]の臣、田中平作泰長が命を受けて米五俵を与えた。

一、寛保二年壬戌[やぶちゃん注:一七四二年。]四月上申、五月廿五日神谷志摩守久敬が台命を伝えて銀二百両を賜わった。

一、寛保壬戌夏六月、経筵講官(大学頭)林愿が撰した「越後孝婦伝」がある。[やぶちゃん注:寛保二年当時の大学頭(だいがくのかみ)は林榴岡(はやしりゅうこう 天和元(一六八一)年~宝暦八(一七五八)年)である(享保八(一七二三)年に大学頭就任、翌年に林家第四代を継いでいる)が、彼の名や号等に「愿」(漢音「グヱン(ゲン)」/慣用音「グワン(ガン)」))はない。しかも「越後孝婦伝」は彼の作ではなく、彼の子である林家五代の林鳳谷(ほうこく 享保六(一七二一)年~安永二(一七七四)年)著である。彼の大学頭就任は宝暦八(一七五八)年のことであり、無論、「愿」とも無縁である。

一、現存する「孝婦碑」は、文政十一年戊子歳[やぶちゃん注:一八二八年] 野口猛が建立したもので、碑文は桑名、広瀬典撰、石井卓幹書、題字は、白川楽翁公[やぶちゃん注:松平定信の隠居後の号。彼は既に三十五年前の寛政五(一七九三)年に失脚しており、この題字を認めた翌年に死去している。]が特筆している。

一、牧野民部少輔御預所

 越後の国三島郡出雲崎尼瀬町

    大工作太夫

 銀弐拾枚 女房

右之者儀姑へ就孝行書面之通被下之候間

其段可被申渡候

志摩守殿別而被仰聞候は軽き者の事に候へば御褒美の祝儀杯と申無益々遣捨不申末々まで作太夫女房が助力にも相成候様に御預所役人中可被取計事の由呉々被仰聞候以上

   寛保二戌年五月廿五日

一、此外出雲崎上下の割元へ、麻上下二具町年寄へ金百疋づつ、五人組へ青銅五貫文を賜わる。

   《引用終了》

最後に出る「割元」(わりもと)は地方行政組織で、代官や郡代と、各村落(群)の庄屋の中間の地位にあった。数ヶ村から数十ヶ村を一括して支配し、年貢・諸役等の割り振り及び命令指示伝達などを行った。身分は士分に準じた。「越後孝婦伝」の不審が引っ掛かるので、調べて見たところ、「新潟県立文書館」公式サイト内「越後佐渡ヒストリア」の[第19話]幕府から表彰された孝婦ゆりの伝記に同書が林鳳谷の著であることが明記されてあることから(他の書誌データでも確認済み)、恐らくは父である大学頭林榴岡に命ぜられて、彼(当時は従五位下図書頭(ずしょのかみ)であったと思われる)が著わしたものと推定される。なお、リンク先によれば、孝女百合は宝暦九(一七五九)年に四十九歳で『没し、尼瀬の善勝寺に葬られました。その後善勝寺の境内には孝婦碑が建てられ、良寛もゆりの姿に感動して「孝婦の碑を読む」という詩を残しています』とあるから、数えとすれば百合は宝永八(一七一一)年生まれとなる。

「三島郡村田村」現在の新潟県長岡市村田か(ここ(グーグル・マップ・データ))。海岸沿いを五キロメートルほど南西に行くと尼瀬地区がある。

「出雲崎尼瀨町(あませまち)」現在の新潟県三島郡出雲崎町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「樵(きこり)」動詞。と言っても、無論、本格的な木を伐採するそれではなく、薪(たきぎ)採りをすることである。先の[第19話]幕府から表彰された孝婦ゆりの伝記を参照。

「紡績(うみつむき)」原典は「うみつむき」で平仮名。綿や繭を錘(つむ:糸を紡(つむ)ぎながら巻き取る器具)にかけて繊維を引き出し、縒(よ)りをかけて糸にすること。

「慳貪(けんどん)」「吝嗇(けち)で欲深いこと」或いは「思いやりのないこと・邪慳なこと」で、ここは後者である。]

2017/09/08

北越奇談 巻之六 人物 其五(力士)

 

    其五

 

Rikisigyoukouji

 

[やぶちゃん注:北斎画。キャプションは「行光寺の住僧 両牛の争ひを止む」。「止む」は「とどむ」と訓じていよう。]

 

 力士は【相撲(すまふ)の。】「越の海」・「鷲が濱」【新泻の人。】・「九紋龍(くもんりやう)」【今町(いままち)の人。】・「関の戸」【次第濱の人。】・其外、頸城郡「中野善右衞門」、立石村「長兵衞」、蒲原郡三條「三五右衞門」、皆、無双(ぶそう)の大力(だいりき)なり。今時(こんじ)、又、力士、夛(おほ)し。其内、鎧泻(よろひがた)の邊(へん)、横戸村(よことむら)「長徳寺」と云へるは、勇力(ゆうりき)の聞えありて、凡(およそ)何十人の力(りき)と云ふことを、知らず。

「生涯、只、三度、力を出(いだ)したり。」

と、常々、人に物談(ものがた)りぬ。

 其一(そのいち)、三條本願寺掛所(かけしよ)に詣ふでける時、堂上僧(どうしやうそう)、その強力(ごうりき)を試(こゝろみ)んことを請ふ。「長徳寺」、戲れに鐘(つりがね)【髙七尺三寸、徑(わたり)三尺一寸。】を両手に差し上げ、

「獨(ひとり)、是を懸(かけ)外(はづ)しするなんどは常にして、珍らしからず。」

とて、堂前に大なる石の手水鉢ありけるに、水を入(いれ)、是を兩手に輕々(かるがる)と提(さ)げ、遙かに、堂を巡り、奧庭に持行(もちゆき)きて、緣先に是を据(す)ゆるに、水、一点(いつてん)を不ㇾ落(おとさず)。

 其石鉢(いしばち)、今、見るに、高(たかさ)二尺余(よ)、長(ながさ)五尺ばかりもあらんか。

 三十余人、漸く是を吊り持(もち)て、本(もと)に送り返す。

 誠に項羽が鼎を上げし力(ちから)も、何ぞ、是に異ならん。

 弱冠の頃、かの寺に至り、其勇力を見んことを請ふ。

 時に老僧、年、巳に八十餘りて、尤(もつとも)、清壯(せいそう)、に對して曰(いはく)、

「老(おひ)、去(さつ)て、力も又、減じたれども、望(のぞみ)にまかせざらんも本意(ほんゐ)なし。」

とて、一銅銭(いつどうせん)【背(うしろ)に文(ぶん)の字あり。】を、左の片手【人食。】二本の指の背(せ)に乘せ、中指一本をもて、上より是を押すに、忽(たちまち)、其錢、ニツに折れて、地に落(おつ)。

 誠に驚歎する餘りあり。

「其力(ちから)、女子(じよし)に傳(つたへ)て、今、已に力僧(りきそう)、不ㇾ出(いでず)。」

と云へり。

 又、谷根村(たにねむら)「行光寺(ぎやうくわうじ)」と云へるは、怪力(くはゐりよく)の名ありて、

「生涯、其力の極(きはむ)る所を知らず。」

と常に是を恨(うらみ)とす。殊に步行(ほこう)、甚(はなはだ)速(すみやか)にして、日々に行(ゆく)事、三十五、六里なり。

 好(このん)で肉食(にくしよく)す。たまたま、魚肉、難ㇾ得(えがたき)時は、一簞(いつたん)を腰にし、履(げた)を付(はき)て出雲崎の海濱に至り、魚肉を求め、飯(はん)を喫(きつ)し、晝過(すぎ)る頃、濱を出(いで)て歸る。家に至る時、日、未ㇾ沒(おちず)、行程往還(ぎやうていわうくはん)、凡(およそ)二十四里なり。

 扨、ある日、松ノ山温泉に浴し、逗留の徒然(とぜん)、柏崎に行(ゆき)しが、一貫目の大魚肉(たいぎよにく)を食(くら)ひ盡くし、一斤(いつきん)の酒を、殘らず飮終(のみおはつ)て、快然と醉(よひ)に乘じ、一步は高く、一步は低く、獨(ひとり)山路(やまぢ)を過(すぎ)て歸るに、塩を負(お)ふせたる牛一ツ、先に立(たち)て行(ゆき)しが、又、向ふより、何か擔(にな)ふたる牛一ツ、行違(ゆきちがは)んとして、忽(たちまち)、兩牛(りやうぎう)、怒(いかり)を發し、互に額(ひたゐ)を合(あは)せ、角(つの)を絡みて戰ふありさま、龍虎(りやうこ)の勢(いきほひ)に異ならず。

 左右の牧人(うしかひ)、大(おほき)に驚き、声を勵まして引(ひく)と雖も、更に近寄るべくもあらず。其内、近き邊(あた)りの農夫・樵者(きこり)など集まりて、

「梯(はしご)よ、長木(ながき)よ。」

と騷動すれども、如何ともすることなし。

 爰(こゝ)に「行光寺」、つくづく見物して居(ゐ)たりけるが、不ㇾ思(おもはず)、一身の力(ちから)、現はれ出(いで)て、滿身、汗をなせり。

 此時、「行光寺」、つかつかと近付寄(ちかづきよ)り、兩牛の角を左右の手に、

「しつか。」

と握り、

エイヤ。」

と聲を出して押分(おしわけ)れば、流石(さすが)の猛牛(あらうし)、片手の怪力(くはいりよく)

に、たぢたぢと尻込(しりごみ)する所を、大勢、集り、長木なんどを入(いれ)て、角を結び付(つけ)、漸々(やうやう)に引分(ひきわけ)たりしが、人々、

「これぞ。天狗にておはすらん。」

とて恐敬(きやうけい)しける。

「此時、其力、盡(ことごと)く皮肉の間(あいだ)に高く、塊(かたまり)を成して、十日餘り、疼痛せし。」

とぞ。

 是、武松(ぶしよう)が一擧(いつきよ)に虎を打(うち)し勢(いきほひ)ありて、尤(もつとも)奇なり。

 密(ひそか)に思ふに、此兩力士をして一相撲(ひとすまふ)なさしめば、これ、又、一大快事ならん。

 

[やぶちゃん注:「越の海」野島出版補註に『頸城郡今町の人。身長五尺八寸余。宝暦、明和の頃、其の右に出ずる者なし』とある。宝暦から明和は一七五一年から一七七二年。橘崑崙は宝暦一一(一七六一)年頃の生まれであるから、知っていたとしても、幼少期の記憶である(本書の刊行は文化九(一八一二)年)。「今町」は現在の新潟県上越市住吉町附近の旧地名と思われる。この附近(グーグル・マップ・データ)。「五尺八寸百余」は百七十六センチメートルほど。

「鷲が濱」野島出版補註に『新潟新地の漁夫。身長六尺三寸。寛政二庚戌年三月吉辰の番付によれば、鷲が浜音右ヱ門は小結である。久留米侯のおかかえ力士となり、後』、『改めて、玉垣と云ったが、寛政年中江戸に歿した』とある。六尺三寸は二メートル四センチ。「寛政」は一七八九年から一八〇一年。

「九紋龍(くもんりやう)」野島出版補註に『同上番付によれば、九紋竜清吉は関脇に出ている。頸城郡荒井の人。身長六尺八寸、晩年郷里に帰り、寛政年中残した』とある。「六尺八寸」二メートル六センチ。前の「鷲が濱」とともに二メートル超えは凄い。

「関の戸」野島出版補註に『同上番付によれば、関の戸八郎治は前頭二枚目に出ている。荒井浜の人。身長六尺余、老いて郷里に帰り、乙村に住し、寛政年中に殺した』とある。「六尺余」百八十二センチ超え。「荒井浜」は現在の新潟県胎内市のここ(グーグル・マップ・データ)。

「次第濱」新潟県北蒲原郡聖籠町次第浜(じだいはま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中野善右衞門」野島出版補註に『不詳』とする。

「立石村」現在の新潟県三島郡出雲崎町立石か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長兵衞」不詳。

「三五右衞門」野島出版補註に『不詳』とする。

「鎧泻(よろひがた)」総面積約九平方キロメートルに及ぶ新潟平野の中西部の信濃川下流左岸にかつて存在した潟。干拓によって現在は痕跡すら残らない。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓事業が開始され、明治末期までに半分が耕地となった。第二次世界大戦後には国営事業として干拓が続行、一九六七年に全面干拓された。現在の西蒲区巻(まき)町・潟東(かたひがし)村・西川(にしかわ)町に跨る水田地帯が跡地である。ここ(グーグル・マップ・データ)の中央付近に相当する。「新潟」の語源説の一つでもあるらしい。

『横戸村(よことむら)、「長徳寺」』現在の新潟県新潟市西蒲区横戸(よこど)であるが、ここではそこの僧の四股名として記されてあるけれども、本文を読み進めると判る通り、実際の寺の名でもあり、同地区に現存する浄土真宗の寺院である(ここ(グーグル・マップ・データ))。この怪力の僧はこの寺の住持であった。野島出版補註に『西蒲原郡潟東村大字横戸長徳寺は真宗大谷派の寺院。力持ちの住職は同寺第五代目釈智恩、天明四年五月十九日死去行年七十一才と過去帳に記載されている。奇談の本文に「老僧年巳に八十あまりて尤清壮」とあるのは、少し過ぎた感がある。村里の伝説によると、「気にいらぬ事があると、隣寺の釣り鐘を独りではづした」という』とある。天明四年は一七八四年だから、生まれは正徳四年(一七一四)年となる。崑崙が二十歳の頃に逢ったとするならば、崑崙は宝暦一一(一七六一)年頃の生まれであるから、安永九(一七八〇)年前後となる。その頃の「長徳寺」は数えで六十七歳前後であるから、これは確かにおかしい。おかし過ぎる。或いは珍しく崑崙は脚色を加えたものか。確かに、八十の老僧の指一本の銅銭割りの方がインパクトはある。

「生涯、只、三度、力を出(いだ)したり」実在した真宗僧とはっきりしているだけに「其一」を出すだけで、後の二度が記されていないのは至極、残念。

「三條本願寺掛所(かけしよ)」「掛所」は以前にも注したが、浄土真宗の寺院で地方に設けられた別院。後には別院の支院を呼ぶようにもなった。これは現在の三条市本町二丁目にある、浄土真宗大谷派三条別院のこと。東本願寺十六世一如が宗義の紛争を統一するために元禄三(一六九〇)年に創建されたもので、現在は米山以北の大谷派寺院を統括している。ここ(グーグル・マップ・データ)。長徳寺からはほぼ南に直線で十六キロメートルほどの位置にある。

「七尺三寸」二メートル二十一センチメートル。

「徑(わたり)三尺一寸」約九十四センチメートル。

「高(たかさ)二尺余(よ)、長(かがさ)五尺ばかり」高さ六十一センチメートル余り、長さ一メートル五十二センチメートル弱。

「清壯(せいそう)」清々しい雰囲気で、しかも、力強さが漲っていること。

 

「老(おひ)、去(さつ)て、力も又、減じたれども、望(のぞみ)にまかせざらんも本意(ほんゐ)なし。」

「一銅銭(いつどうせん)【背(うしろ)に文(ぶん)の字あり。】」新寛永通宝(そこから通称も「文銭(ぶんせん)」)がそうだが、この銭は明治まで現役で使用されていたから、崑崙が知らないのはおかしいので、違う。古銭に詳しい方の御教授を乞う。

「左の片手【人食。】二本の指の背(せ)に乘せ、中指一本をもて、上より是を押すに、忽(たちまち)、其錢、ニツに折れて、地に落(おつ)」分かり難いが、「人食」は人指し指(「食」は「食指が動く」の「食」で「食指」は人差し指と同義であるから、これは左手の「二本」目の「人差し指」の背に銅銭を置き、同じ左手の中指を左からすり被せて中指と人差し指の二本だけを使って一瞬にして折り割ったと解釈する。

「其力(ちから)、女子(じよし)に傳(つたへ)て、今、已に力僧(りきそう)、不ㇾ出(いでず)。」彼は浄土真宗の僧であるから、江戸時代を通じて、唯一、妻帯が公儀から許されていたから、彼の子が女性で、その娘がこれまた、とんでもない怪力女であったということであろう。

「谷根村(たにねむら)」新潟県柏崎市谷根地区と思われるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、「行光寺(ぎやうくわうじ)」という寺は見当たらない。但し、野島出版脚注に『米山山中谷根村に在り。安永、天明年間の住僧某、膏力あり云々其の他、本文の如し(越後野志)』とあって、この地区は米山の東北直近に当たるから間違いない。廃寺となったか? ガッツリ肉食(にくじき)をしているから、この寺も浄土真宗である。

「常に是を恨(うらみ)とす」自分の持つ怪力やそのための暴飲暴食を自身の力で制御出来ないことが、却って悩みの種であったということであろう。

「三十五、六里なり」約百三十八~百四十一キロメートル。通常、強脚の者で一日に歩ける距離は五十キロメートルほど、走らずに二十四時間(間に休憩を挟んで)歩いても七十五~八十キロメートルが限界かと思われる。

「一簞(いつたん)」一つの瓢箪に水を入れたもの。

「二十四里」九十四キロメートル強。

「松ノ山温泉」現在の新潟県十日町市松之山にある松之山温泉。同地区は(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「松之山温泉によれば、『開湯伝説によれば、約』七百『年前の南北朝時代に鷹が温泉で傷を癒していたところを発見したとされ』、『上杉謙信の隠し湯とも言われている。江戸時代の諸国温泉功能鑑にも記されている』とある。

「柏崎」松之山温泉からは北へ直線で三十二キロメートルほどある。

「一貫目」三・七五キログラム。

「一斤」「斤」は重量単位で六百グラムであるから、酒はアルコール分が少ないので六百ミリリットルに換算してよい。一升瓶三分の一。

「一步は高く、一步は低く」千鳥足の形容であろう。

「梯(はしご)」時代劇の捕り手で判るように、それで追い込みや防禦のための柵として用いる。「長木(ながき)」も同様の制圧するための長い棒。北斎の絵では、生木らしいものが左手に竹製のそれが右手に描かれている。

「武松(ぶしよう)が一擧(いつきよ)に虎を打(うち)し」武松は「水滸伝」の登場人物。ウィキの「より引く。『天傷星の生まれ変わりで、序列は梁山泊第十四位の好漢。渾名は行者(ぎょうじゃ)で、修行者の姿をしていることに由来』。『鋭い目と太い眉をもつ精悍な大男で、無類の酒好き。拳法の使い手であり、行者姿になってからは』二『本の戎刀も用いた。実兄は武大。嫂(あによめ)は潘金蓮。宋江、張青、孫二娘、施恩とは義兄弟』。第二十三回から十回分に亙って主人公として活躍し、この十回は特に『「武十回」と呼ばれ、四大奇書の一つである『金瓶梅』は、この「武十回」をさらに詳しく描いた作品である。また、孟州到着までとその後で性格が変化していることから、元々は主人公も別の異なる話を組合わせて作られたとされ、『水滸伝』が様々な説話を集合させて作られたという説明の引き合いに出される事が多い』。『酒のため』、『誤って役人を殺したという理由で柴進の屋敷に身を寄せ隠れていた。そこで逃亡してきた宋江と出会い義兄弟の契りを結ぶ。その後、殺したと思っていた役人が実は失神しただけということが判明し、故郷の清河県へ帰る途中で、景陽岡の人食い虎を退治したことにより、陽穀県の都頭に取り立てられる。更にその街で働いていた兄・武大と再会したが、武大は武松が出張している間に嫂の潘金蓮とその情夫・西門慶によって毒殺される。兄の死に疑問を持った武松は奔走して確かな証拠を掴み、兄の四十九日に潘金蓮と西門慶を殺害して仇討ちを果たし、その足で県に自首し孟州に流罪となった』(下線やぶちゃん)。『護送中、立ち寄った酒屋(張青、孫二娘夫婦が経営)で振る舞われた酒に一服盛られるが、感づいてかかった振りをして倒れ、肉饅頭にしようとした張青夫婦を逆に懲らしめた。孟州に入ると、典獄の息子であり』、『盛り場の顔役であった施恩の世話となる。ところが、施恩と盛り場を巡り対立していた張団練配下の蒋門神(蒋忠)を叩きのめしたことにより恨みを買い、孟州に赴任した張団練の一族である総督の張蒙方に冤罪を着せられて再度流罪となった。さらに護送中に刺客に襲われたことにより激怒し、刺客や護送役人を返り討ちにし、蒋門神と張団練と張蒙方一家を皆殺しにすると、今度は自首せず逃亡』、『その途中、張青夫婦と再会し、魯智深や楊志がいる青州二竜山へとの入山を勧められ向かうこととなる。なお、その際に追手から逃れるため』『修行者に変装し、これが渾名の由来となった。二竜山へ入山後は、後に合流した施恩、曹正、張青、孫二娘らと共に青州で一大勢力を築く』。『梁山泊の攻略に失敗した呼延灼が青州で再起を図り桃花山を攻めた際に再登場し、青州三山と梁山泊合同軍での青州攻めに加わった後そのまま梁山泊へと入山。歩兵軍の頭領の一人として活躍したが、方臘討伐の際に敵の道士・包道乙と交戦中に片腕を失い、凱旋途中に駐屯した杭州六和寺で、中風で倒れた林冲の看病の為に残った。林冲は半年後に死去したが、武松はその後も寺男として留まり』八十『歳で天寿を全うした』とある。

「此兩力士」四股名「長徳寺」関と「行光寺」関の浄土真宗僧二人を指す。]

甲子夜話卷之四 18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事

 

4-18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事

享保中、小金原にて鹿狩し玉ひし時、松平乘邑、其御用掛りにて御供なり。松平能登守乘賢は西の御附なりしが、後年西にて御狩あらんときの心得に、見置べしとの御旨にて、これも從行せり。御場に堀切したる所へ至らせ玉ひし時、此堀越せと御諚ありければ、乘邑御言下に馬を乘戾し、引返して一さんに堀を超したる體の花やかなるに、有合人々、我知らず聲を出して感ぜり。乘賢は立たる馬を其儘に堀を超させけり。そのとき能登が馬はよく仕込たる馬よと上意あり。その實は、馬術は乘賢の方よほど優りけるとぞ。然れども、時に取て乘邑の騎法目ざましくして、大にはへたりとなり。兩人の氣性、風度の違ひ、多くは此類にて、文質亦かくの如くなりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「乘邑」複数回既出既注であるが、たまには再掲しておこう。松平左近将監乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。

「乘賢」「のりかた」と読むが、これは「父子」が正しいとするなら、乗邑の三男、美濃岩村藩第三代藩主で岩村藩大給松平家第四代松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の誤りである。彼は岩村藩の世嗣乗恒が早世したために、第二代藩主松平乗賢の養子となり、寛保元(一七四一)年十二月に従五位下美作守に叙位任官され、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任している。因みに、美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。彼は乗政系大給松平家で、乗邑の曽祖父である乗寿の代に分かれた家系で、父子関係にはない。しかし乍ら、以下の「西の御附」から見ると、後者と採れ(後注参照)、静山の記憶の齟齬が感じられる。

「享保」一七一六年から一七三六年。

「小金原」江戸幕府が現在の千葉県北西部の下総台地に軍馬育成のために設置した放牧場小金牧(こがねまき)のことで、これは徳川吉宗が享保一〇(一七二五)年と翌年の二回、ここで行った鹿・猪等を狩った大規模な鹿(しし)狩りである「小金原御鹿狩(こがねはらおししかり)」の孰れかでのエピソードである。ウィキの「小金原御鹿狩によれば、『享保の改革を進めた吉宗にとっては、指揮体制の強化、新田開発の視察の意味もある。小金牧は江戸の西に比べ平坦で、家康や家光が狩を行った東金方面や同じ幕府の牧の佐倉牧より江戸に近く、農耕地に囲まれたながら農耕地でない小金牧は、大規模な鹿狩の場所として適していた』。第一回目は享保十年三月二十七日に行われており、これがここでの『確実な記録のある最初の大規模な鹿狩であるが、翌年の本格的実施に向けての準備の意味合いか、記述は少ない。丑の刻に江戸城を出て、両国橋で乗船、小菅で上陸、小金の牧に入った』。鹿八百余頭、猪三頭、狼一頭、雉子十羽を『獲った。生類憐れみの令以降の鹿の増加が伺える』。二度目のそれは丁度、一年後の享保十一年三月二十七日で、先立つ二月十八日に『狩の責任者任命の記録がある。前年と同じ闇夜での移動であり、満月の晩より鍛錬の効果は大きい。記録は前年より詳細である。伊達羽織を着た供を連れ』、丑の刻(午前二時前後)に出立、『松戸宿で休息、先に来ていた家臣等が出迎え、狩場の牧に入った。当日は紫の紗をかけた笠等、富士山麓で狩を行った源頼朝に習った服装であった』。『狩場では御立場を拠点として狩を行った』。御立場は高五丈(約十五メートル)、方百八十間(約三百二十メートル)の『台状に土を盛った山で、将軍の居場所にふさわしい調度品が』既に配されてあった。この時は鹿四百七十頭、猪十二頭、狼一頭を獲って、鷹狩も行っている。未の刻(午後二時前後)に『狩は終わり、来た道を通』って『千住大橋から舟で両国橋』を経て、戌の刻(午後八時前後)に帰城している。「東葛飾郡誌」掲載の「下総国小金中野牧御鹿狩一件両度之書留」には、この時、同行した九人の名前のほかに騎馬二百四人、幕府の七百九十四人を含め、徒歩千三十六人と記されてある、とある。とんでもない規模の鹿狩りであることが判る。

「西の御附」徳川家重の御附き。私が先に誤りとした松平乗賢ならば、享保九(一七二四)年にまさに西丸(長福丸。後の徳川家重附)若年寄になっており、これを正しいとすると、「父子」が誤りということになる(乗賢も能登守であった)。私の認識に誤りがあるのか? 識者の御教授を乞う。

「見置べし」「みおくべし」。参考に供するために見学しておくように。

「堀切」「ほりきり」。牧馬のためのテキサス・ゲート用の堀であろう。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。

「御言下に」「おんげんか」。仰せの言葉を賜ったその直後に。「言下に否定する」

「體」「てい」。

「有合」「ありあふ」。居合わせている。

「立たる馬を其儘に堀を超させけり」「立(たて)たる馬」は、馬を前脚を上げさせて真っ直ぐに立ち上がらせる「棹(竿)立ち」「棒立ち」にさせ、後ろ脚だけで跳躍させて、助走をつけずに堀を一気に乗り越したのである。

「はへたり」歴史的仮名遣は誤り「映(榮)えたる」。

「風度」ここは名詞で「ふうど」。態度容姿など、その人の様子。人品。風采。風格。

「文質」「ぶんしつ」。「文」は「飾り」の意で、外見の美と内面の実質。表に現れた優れた学識・態度・容貌等と、内面の素朴な人柄を指す。

譚海 卷之二 檢校勾當放逸に付御仕置の事

 檢校勾當放逸に付御仕置の事

○同七年十月盲人檢校勾當の輩高利金子貸し候て、證文には廿兩壹步(ぼ)の書付を取(とり)、内々にて嚴敷(きびしく)返金をはたりし事露顯し、盲人數輩入牢に處せられ、僞(いつはり)をかまへ高利金子を貸し、人に難儀かけし事御吟味きびしく、浪人のるい高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し、召(めし)とられ究問(きうもん)あり。八丁堀住居(すまひ)吉田主裞(ちから)、神田佐久間町住居細川下野(しもつけ)などいふ浪人も入牢せられたり。過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども也。鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたりといへり。都(すべ)て壹兩年已來檢校勾當のくつわやにあそぶ事平日の樣に成(なり)、公然として人の目を憚らず、松の內・五節句・月見等まで、おほかたは座頭の客人なりといひあへり。後皆々家財居宅御取上追放あり、一時に寥々(れうれう)となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ。

[やぶちゃん注:「同七年十月」前条の伊豆大島三原山の安永の大噴火を受けるので、安永六(一七七七)年の十月である。

「檢校勾當」それぞれ盲官(視覚障碍を持った公務員)の階位。「卷之二 座頭仲間法式の事」の私の「檢校」の注を参照のこと。

「盲人檢校勾當の輩高利金子貸し」底本の竹内氏の補註によれば、『いわゆる座頭金で、江戸時代は盲人の生活保護の意味で、盲人の金貸には返済その他に』(返済者側に厳しく、視覚障碍者である貸主に有利な)『特別の規制があった。そのため盲人の貸業は一般化し、こうした暴利をむさぼるものもでてきたのであ』った、とある。

「證文には廿兩壹步の書付を取」一例としての高額貸金を挙げたものであろう。江戸後期の一両を平均として現在の五万円と換算するとしても百万円相当、その日歩(にちぼ)でこれを現行のように百分率ととるならば一日一万円(これを金額に対する実金額の利息と採るならば、「一分(ぶ)金」と採れ、その場合は一両の四分の一相当で一万二千五百円に相当する)となり、とんでもない高利となる。

「はたりし」既出既注であるが、「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「かまへ」「構へ」。企んで。証文の偽造操作や牽強付会の詐欺的解釈による恐喝などを指すのであろう。

「浪人のるい」「浪人の類」。

「高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し」「連及」は「関連して関わり合うこと」であるから、証文偽造など詐欺的行為の中では被害者である借り主までも連座して捕縛取り調べが行われたのである。

「過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども」これは直前の「浪人」を指すのではなく、暴利を貪った盲官であろう。幾らなんでも浪人が高利の金を借りて、贅沢の限りを尽くした豪勢な屋敷を造って住んだというのでは意味が通らぬからである。但し、この八丁堀の吉田主税や神田佐久間町の細川下野(しもつけ)などいった浪人らが、借り主ではなく、そうした盲官の手下として借金利息の取り立ての際の恐喝などを行っていたというのならば、相応に金儲けして私腹を肥やしていたというのなら判らぬでもないが、にしても浪人の身で「普請奢侈を極」めることは当時としては、まず考えられないからである。但し、敷地家屋の名義をその盲官の所有としていた場合は絶対ないとは言えないが、すぐ後で鳥山検校の屋敷の奢侈が語られている以上、そうは絶対に採れない。

「鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたり」ウィキの「検校によれば、『官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本らに金を貸し付けて暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両など多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた』。元禄七(一六九四)年には『八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』(下線やぶちゃん)とあり、古くから読ませて戴いている高木元氏のサイト「ふみくら」の「江戸読本の研究-十九世紀小説様式攷-」の「第二章 中本型の江戸読本 第四節 鳥山瀬川の後日譚」事件事実と後日談その後の文芸化の様相が余すところなく検証されている。必読!(本「譚海」の条も載る) それによれば、「瀨川」は吉原松葉屋の妓女で五代目瀬川とし、見請けは安永四(一七七五)年で、鳥山の処罰は安永七年とする。

「くつわや」既出既注であるが、再掲する。轡屋(くつわや)で遊女屋を指す。特に、揚屋(太夫・格子などの上級遊女を呼んで遊ぶ家。江戸では宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に廃れた)に対して遊女を抱えておく置屋(おきや)を指した。語源に就いては「日本国語大辞典」には三説を載せ、①『京都三筋町のい遊女町を開いた原三郎兵衛はもと秀吉の馬の口取りで、異名を轡といわれたので、遊女屋へ行くことを隠語で轡がもとへ行こうと言いなれたところから〔異本洞房語園・大言海〕』、②『伏見撞木町の町割が十字割で、轡の形をしていたので轡町と呼んだところから』〔俚言集覧〕及び同様に『大橋柳町に女郎屋があった時、十字割の町割をして轡丁と呼ばれたところから〔吉原大全〕』、③『遊女屋の亭主が遊女を使うのは、馬に轡をかけて使うように自在であるから〔類聚名物考〕』とある。

「松の內」正月、松飾りを飾って祝う期間。多くは正月七日又は十五日までを指すことが多い。正月七日までの松の内を「松七日」とも称する。因みに、吉原には正月元旦は登楼出来ない。当日、楼店は総て休日であったからである。また、前者の七日までの「松の内」の間は吉原では御祝儀の特異点として「紋日(もんび)」と呼び、この間は「揚げ代」が倍額となる特別高額期間であって、実際には客足が遠退き、その不利益分はそのすべてを各遊女たちが自腹で負担しなければならなかったとされる。されば、ここも七日までと採るべきである。ここは弥生屋氏のブログ「猫侍のつれづれ草~弥生屋書林ぶろぐ~」の「2017年を迎えて~吉原の御正月~」の記載を参照した。

「五節句」人日(じんじつ:一月七日)・上巳(じょうし:三月三日)・端午(五月五日)・七夕(しちせき:七月七日)・重陽(ちょうよう:九月九日)の各節気。諸資料を見るに、これらの日の揚げ代は前注の「紋日」と同額である。

「月見」ウィキの「によれば、各月の十五日は勿論のこと、特に旧暦八月十五夜の「中秋の名月」以外にも、「後(のち)の月」と呼ばれる九月十三夜(豆名月(まめめいげつ)・栗名月(くりめいげつ)とも呼ぶ)があり、その後、一年の収獲の終わりを告げるとされた「十月十日夜の月」(或いは「三の月」とも呼ぶ)の月見があった。特に江戸の遊里に於いては『十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行なうために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった』とある。これも妓女の巧妙な一連の定期収入として欠かせない日であったことが判る。

「おほかたは座頭の客人なりといひあへり」揚げ代が倍額となって通常の大通も二の足を踏む時節なれば、彼らの想像を絶した莫大な蓄財が想像出来よう。

「一時に寥々となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ」最後がまた、山椒が利いている。]

2017/09/06

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蠜螽(ねぎ/しょうりょうばった)


Syouryoubatta

ねぎ   春黍

     【和名以祢豆岐

        古萬呂】

蠜螽

      【俗云祢宜】

 

△按蠜螽似螽斯而小長一寸許青色尖首兩眼間廣但

 螽斯兩眼間狹以之爲異耳其首似社人着立烏帽子

 狀故俗呼曰祢宜小兒捕兩足則伸身俯仰首似舂稻

 狀故和名曰稻春【古萬呂者螽類和訓總名】其翅

 下有淡紫色

 

ねぎ   春黍〔(しゆんしよ)〕

     【和名、「以祢豆岐古萬呂〔(いねつきこまろ)〕。」】

蠜螽

      【俗に、「祢宜〔(ねぎ)〕」と云ふ。】

 

△按ずるに、蠜螽、螽斯(はたをり)に似て、小さく、長さ一寸許り。青色、尖りたる首、兩眼の間、廣(ひろ)し。但し、螽斯は兩眼の間、狹〔(せば)〕し。之れを以つて、異と爲〔(す)〕るのみ。其の首、社人、立烏帽子〔(たてえぼし)〕を着たる狀〔(かたち)〕に似たる故、俗、呼びて「祢宜〔(ねぎ)〕」と曰ふ。小兒、兩足を捕ふれば、則〔ち〕、身を伸(のば)して、首を俯(うつむ)き仰(あをむ)け、稻を舂〔つ〕く狀に似たり。故に、和名、「稻春(いねつき)」と曰ふ【「古萬呂」は螽〔(しゆう)〕類の和訓の總名。】其の翅の下、淡(うす)紫色有り。

 

[やぶちゃん注:有翅昆虫亜綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea

バッタ下目 Acrididea・バッタ上科 Acridoidea のタクソンの学名で既に使用される属名「アクリダ」は荒俣宏氏によれば、ギリシャ語でバッタ・イナゴ・コオロギの『類を指す akris に由来』するとあり(荒俣宏「世界大博物図鑑 1 蟲類」の「バッタ」)、これはまさに良安が「古萬呂(こまろ)」は螽(しゅう)類(この「螽」は中国では第一義としては「蝗(いなご)」(但し、これは狭義のイナゴ類を指すのを一般とするも、これ自体がバッタ類の総称とする説もある)、第二義で「螽斯(きりぎりす)」を指す)の「和訓の總名」とするのと偶然にも一致すること、それよりなにより、実は本種が属するショウリョウバッタ属 Acrida 自体が現代の生物学上でもバッタ科 Acrididae のタイプ属である点など、博物学的認識に於けるバッタ類の汎世界性が窺われて面白いではないかウィキの「ショウリョウバッタによれば、和名を(丸括弧内の補説は私のオリジナル)、

「ショウリョウバッタ(精霊蝗虫)」(「蝗」の字が当てられている点に着目されたい)

「ショウジョウバッタ」(名の由来は後述。但し、私はそれとは別な認識を持っている

「キチキチバッタ」(限定的には鳴かないことから)

「コメツキバッタ」(主に

「ハタオリバッタ」(主に以上の二者をウィキがと限定するのは、以下に示すように本種が強い性的二型を示し、有意にが大きく、その運動性能が目立つ(機織(はたお)り・米搗きの動作との疑似性)は、よりに相応しいからであろう)

とする。『日本に分布するバッタの中では最大種で、斜め上に尖った頭部が特徴である』。『オスの成虫は体長』五センチメートル』『前後で細身だが』、の成虫は体長が八~九センチメートルにも及び、『全長(触角の先端から伸ばした後脚の先端まで)は』実に十四~十八センチメートルほどにも達して、よりも『体つきががっしりしている』。は『日本に分布するバッタでは最大で』、性的二型を呈すること、即ち、の『大きさが極端に違うのも特徴である』。『頭部が円錐形で斜め上に尖り、その尖った先端に細い紡錘形の触角が』二『本つく。他のバッタに比べると』、『前後に細長いスマートな体型をしている。体色は周囲の環境に擬態した緑色が多いが、茶褐色の個体も見られる。また』、の『成虫には目立った模様がないが』、の『成虫は体側を貫くように黒白の縦帯模様が入ることが多い』『幼虫は成虫とよく似るが、幼虫には翅がない』(バッタ類は不完全変態の代表例である)。『ユーラシア大陸の熱帯から温帯に分布し、日本でも全国で見られる。ただし北海道に分布するようになったのは』二十『世紀後半頃からと考えられている』。『成虫が発生するのは梅雨明け頃から晩秋にかけてで、おもに背の低いイネ科植物が生えた明るい草原に生息する。都市部の公園や芝生、河川敷などにも適応し、日本のバッタ類の中でも比較的よく見られる種類である。食性は植物食で、主に』イネ科植物(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)の葉を食べる(単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ホテイアオイ属ホテイアオイ Eichhornia crassipes)も摂餌する)。棲息地に踏み入ると、の『成虫が「キチキチキチッ」と鳴きながら飛行する。これは飛行する際に前後の翅を打ち合わせて発音することによる』。は大きな割りには『殆ど飛ばないが、昼間の高温時に希に飛翔することもある。幼虫は飛行せず、後脚でピョンピョンと跳躍して逃げる』。羽化後、『間もない若い成虫は灯火に来ることもある』。『成虫は秋に産卵すると死んでしまい、卵で越冬する。卵は翌年』五~六月『頃に孵化し、幼虫はイネ科植物の葉や双子葉植物の花を食べて急速に成長』、六『月中旬から』七『月の梅雨明けにかけて羽化し』、十一月頃まで棲息を続けている。

 以下、「名前の由来」の項。俗説で、八月の『旧盆(精霊祭)の時季になると姿を見せ、精霊流しの精霊船に似ることから、この名がついたと言われる(同様の命名にショウリョウトンボ』(概ね、蜻蛉(トンボ)目 Epiprocta 亜目 Anisoptera 下目トンボ上科トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ属ウスバキトンボ Pantala flavescens を指すことが多く、本種の異名ともされる)がいる)。また、性差が非常に激しいため、『別の名前が付くくらい違って見える』『「天と地ほども違う」という意味の「霄壤」』(しょうじょう:「霄」は「天・空」(訓で「そら」とも読む)、「壤」は「地」の意味で、これで比較にならないほどに違い過ぎることを指す。「雲泥の差」の雲泥(うんでい)と同義)『から、ショウジョウバッタ(霄壤バッタ)と呼ばれる』(私はこの説にやや違和感を覚える。まず、恐らくは「しょうじょう」は「精霊(しょうりょう)」の音転訛とも考えられること、しかし、寧ろ、私は、これは「猩々」であって、しばしば見られる茶褐色個体に依る命名のように感じられるのである)。は『飛ぶときに「チキチキチ……」と音を出すことから「チキチキバッタ」とも呼ばれる。特に』『は捕らえやすく、後脚を揃えて持った際』、『身体を縦に振る動作をすることから「コメツキバッタ」(米搗バッタ)もしくは「ハタオリバッタ」(機織バッタ)という別名もある』。『「精霊飛蝗」とも表記される』が、本来、「飛蝗」とは、相(そう)変異して攻撃的で、体色や形態さえも変化した『群生相となったサバクトビバッタ』(バッタ科 Schistocerca 属サバクトビバッタ Schistocerca gregaria)やトノサマバッタ(バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria)を『指し、このバッタに似つかわしくない名前である。日本でいうところのバッタは「蝗」一文字である(中国語では蝗蟲)。日本では一般に「蝗」はイナゴ(稲蝗)を意味するが』、『イナゴとバッタを区別しない地域もあり』、『統一的ではない』。「精霊飛蝗」も『単に「盆になると出現するよく飛ぶバッタ」として作られた当て字の可能性もあり』、それを以って和名として』不適切であるとは云い難いと言える。なお、漢名で「長頭蝗」と書けば、『ショウリョウバッタ属 Acrida を指す』。なお、荒俣宏氏は前掲書で「精霊」の別説として『精霊祭で使う竹灯の形に似ているいるからともいう』とある。また、台湾では広く『バッタは死んだ人の化した姿だといい伝えられ』ており、『誰かが死んだ家のまわりにこの虫がいると』、『死んだ人が家恋しさに戻ってきたのだと言い』、『殺すことを忌む』(出典は国分直一「台湾の民俗」)と記しておられる。。私はここで荒俣氏の言っておられるショウリョウバッタに似た「竹灯」というものを想起出来ないでいるが、寧ろ、私はお盆にある種の地方で用いられる「がらがら」「御膳」と呼ばれる器具と似ているように感じている。個人ブログ「かまがや散歩」の千葉県白井市平塚で目にしたもので画像が見られる。

 『ショウリョウバッタと同様に頭が前方に尖るバッタにはオンブバッタ』(バッタ下目 Pyrgomorphoidea 上科オンブバッタ科オンブバッタ亜科 Atractomorphini 族オンブバッタ属オンブバッタ Atractomorpha lata:『ショウリョウバッタよりずっと小型で、おもに草丈の高い畑やクズ群落などに』棲息し、『成虫に翅はある』ものの、飛ばない)『とショウリョウバッタモドキ』(バッタ下目バッタ上科バッタ科ヒナバッタ亜科 Gonista 属ショウリョウバッタモドキ Gonista bicolor:『姿や分布・出現時期がショウリョウバッタに似るが、小型であること、頭部が斜め上でなくまっすぐ前に尖ること、背中が褐色であること、後脚が短いこと、草丈の高い湿った草原を好むことなどで区別できる』)『がいるが、生息環境や体の大きさが異なる』(私は、例えば、本種も古くから大きな「ショウリョウバッタ」群の中に認識され、その褐色から前に私が主張したように、これらを「猩々(ショウジョウ)バッタ」として呼称していたのではなかったかと思うのである。幼少期、褐色のショウリョウバッタは特別なもの(或いは強いと誤認)と、私を含めた多くの子ども達が思っていたことを忘れないのである)。『食べることができ、エビに似た味がする。食用に適さない羽や後足を取り除いた上で焼くなどして調理する』ともある。私は残念なことに食したことがない。

 

「蠜螽」「蠜」(音「ハン・ヘン)は蝗類や稲を食害するとされる稲虫の総称。「螽」も同様。

「祢宜〔(ねぎ)〕」後で良安が解説するように神官の禰宜(ねぎ)の立烏帽子(たてえぼし)を冠した姿に比喩した謂い。

「螽斯(はたをり)」狭義には本邦では、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri(本州西部(近畿・中国)及び四国・九州に分布)とヒガシキリギリス Gampsocleis mikado(青森県から岡山県(淡路島を含む)に分布し、近畿地方ではニシキリギリスを取り巻くように分布)の二種を指す。螽斯を参照。

「螽斯は兩眼の間、狹〔(せば)〕し。之れを以つて、異と爲〔(す)〕るのみ」これは承服し難い不審である。ショウリョウバッタの眼は左右体側に分かれてあり、キリギリスのずんぐりした頭部と接近した眼球とは大きく異なるばかりでなく、頭部は突出して尖っており、体全体の形状もキリギリスとは全く異なるからである。緑色をしたバッタ類に対する、個別形状認識が江戸時代の人間には欠落していたものか?]

2017/09/05

北越奇談 巻之六 人物 其四(儒者 他)

 

    其四

 

 北越の耻(はづ)る所は儒なり。只、北海【新泻の人】、松貞吉【高田藩中。】岑子陽(しんしよう)【地藏堂の人。「古今人物志(ここんじんぶつし)」に見る。】。其余(そのよ)、赤城(せきじよう)【加納の人。】、東郭【水原の人。】、穀山(こくざん)【頸城の人。】、雲洞(うんとう)和尚【詩を善くす。】。此餘(このよ)、今時(こんじ)の人、未ㇾ知(しらざる)之(の)子(し)、可レ多(おほかるべし)。和歌・俳諧・琴棊(きんき)・茶道・立花(りつか)・音曲(おんぎよく)等(とう)の人、一々(いちいち)擧(あぐ)遑(いとま)あらず。醫家、又、相(あい)同じ。画(ぐは)には越後法眼(ほうげん)、呉俊明、信雪(しんせつ)等、其余、今時、猶、此道(みち)、流行して數(す)十百人なるべし。書も又、如ㇾ此(かくのごとし)。只シ、古(いにしへ)に名ある人も、今、流行に合はずとして、採らず。今時、名を得る人も、又、後世の流行には廢(すた)れなん。書画は其人々の好む所に依(よつ)て光彩を益(ます)のみ。

 

[やぶちゃん注:「儒」野島出版脚注に『儒者。漢学者』とある。

「北海」江戸中期の儒者で漢詩人片山北海(ほっかい 享保八(一七二三)年~寛政二(一七九〇)年)。ウィキの「片山北海によれば、京都の江村北海、江戸の入江北海とともに「三都の三北海」と称された。『名を猷、字は孝秩、通称を忠蔵、号は北海の他に堂号でもある孤松館がある。大坂で混沌詩社などを興して、頼春水、尾藤二洲、古賀精里、木村蒹葭堂など多くの優れた門弟を輩出した』。『越後国弥彦村(現』在の『新潟県西蒲原郡弥彦村)の農家に生まれる。父は黙翁といい、母は三浦氏の出自。この村が日本海に面していたことから長じた後に北海と号することになる』。十『歳になるまでに四書などの教えを受けるが、非凡な才能を示したため、周囲の大人はこの子に学問を仕込もうとした。しかし辺縁の地にて師が見つからず、長岡、新発田、高田などに遊学させるも相応しい師を見つけられずにいた』。十八『歳になると京都に出て、師を探し求めたが』、『敬服に値する人物になかなか出会うことができずにいた。北海が初心より志が高かったことが伺われる』。

元文五(一七四〇)年、漸く、意中の師『宇野明霞に出会い入門する。北海は師を敬い、その学説を慕った。また師』『明霞も北海の器を見抜き、信任が篤かった。この師弟関係は』六『年続いたが、明霞が死去するに及んで』、『起居する家を失うことになる。加えて息子の出世を期待して身を寄せていた父親と貧困生活を強いられてしまう。しかし、親孝行をしながら苦学して学問を続けた』。『明霞の門弟に大坂の富商の者がいて、北海と知己であったことで、大坂に招かれて開塾することとなった。北海は言葉少なく、優しい人柄で知られ、身分によって人を差別することがなかった。また政治的な野心を持つことなく、しかも儒者として時宜にかなった実践的な学を説いた。世間の評判はたちまち高まり、三十数年の間で延べ』三千『人以上の門弟がいたといわれる。和泉岸和田藩の岡部候など多くの諸侯が北海の評判を知り、藩儒として招聘するが』、『すべて固辞している』。『淀橋横町の居宅には一本の老松があったため』、ここを「孤松館」と『称した。多くの文人墨客がここに集い、酒を飲みながら詩作に耽り、政治談義などをした。北海は酒を嗜まなかったが、これにつきあい』、『倦むことがなかったという。若き日の尾藤二洲が服部南郭の詩について議論しようとしたが、北海はこれに応えず』、『平然と煙草を吹かしていた。面倒な文学論などせず』、『自由で気楽な雰囲気が伝わってくる逸話である。また横笛の名手でもあり、煎茶を嗜む風流人でもあった』。明和元(一七六四)年、『混沌詩社が創立され』、『北海はその盟主に推されるが、たちまち大坂で最も盛んな詩社となった』。『北海は生涯、著作を著すことを好まず、生前刊行されるものはなかったが、没後に門人によってその詩編が編集され出版されている』とある。

「松貞吉」村松貞吉(享保一六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)。野島出版補註に『字は子永、通称与右ヱ門、蘆溪は其の号。中頸城郡山直海村の人。世々農を業とす。貞吉、学を好み』、『二十一才』の時に『江戸に遊び』、『服部南郭の門に入り、刻苦多年、学大いに進んだ。後、国に帰り』、『榊原侯に仕えて儒臣となった。時に』宝暦四(一七五四)年であった。『著書多し(「北越名流遺芳」第二集、「北越詩話」上巻、「越後野志」下巻等より)』とある。

「岑子陽」前条既出既注。

「地藏堂」複数回既出で既注。現在の新潟県燕市中央地蔵堂(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「古今人物志(ここんじんぶつし)」江戸中期奥村意語が書いた「諸家人物志」の併題。国立国会図書館デジタルコレクションので画像を視認出来るが、縦覧してみたものの、発見出来なかった。

「見る」「みゆる」か。

赤城(せきじよう)」野島出版補註に『不詳。「越後野志」によれば、「刈羽郡加納村の人、博覧にして五経に通じ、諸郡の生徒、多く往きて業を学ぶ」とある(原漢文)』と記す。

「東郭」野島出版補註に『不詳』とある。ありがちな号で幾つかを見出したが、同定不能。

「水原」「すいばら」と読む。現在の阿賀野市水原町(すいばらまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「穀山(こくざん)」江戸中期の儒学者小田穀山(元文四(一七三九)年~文化元(一八〇四)年)。本姓は佐藤氏、名は煥章、字は子文、通称定右衛門、穀山と号した。元来、越後頸城郡竹直村(現在の新潟県中頸城郡吉川町)の名主であったが、家人を残して江戸へ出奔、儒学、中でも漢・唐の古注家として家塾を営んだ。豪放にして弄世諧謔を好み、経学の傍ら、越後の民謡に、あたかも「詩経」を解するが如き、謹厳な漢文の訓詁注釈を施した「越風石臼歌」を刊行したりしている。民間俗言の本義を追究した「邇言解」(じげんかい)では、例えば、「嫉妬」を考察しつつ、次第に夫婦喧嘩での罵倒語を「畜生」・「性悪」・「ハリツケ」・「モモンジイ」などと二十二語も開陳するといった、冗談か本気か分からぬエンターテインメント性を発揮している。大田南畝らとも気脈を通じ、近世中後期を代表する奇人とされる。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。実に面白い解説である。

「雲洞(うんとう)和尚」不詳。ただ、現在の新潟県南魚沼市雲洞に曹洞宗金城山雲洞庵(うんとうあん)があるから、この第何世であろうかとも思われる。

「琴棊(きんき)」琴(こと)と碁(ご:囲碁)。「琴棋書画」という四字熟語もあり、昔、中国で「四芸」と称して風流な人々の芸術的な遊びとされた四芸を指す。また、これは画題としても描かれたりした。

「立花(りつか)」華道。

「越後法眼(ほうげん)」生没年未詳の室町時代の画家。野島出版補註に『何処の人なるか明らかでない。その姓名も伝わらない。雪舟に師事して画を学び、文明八』(一三七六)『年三月二十八日、坂本田中村に於いて、雪舟より画家の秘本』「君台観左右帳記」(くんだいかんそうちょうき)を『受けたという。或は巨勢家の画風を伝え』、最も『仏像を描くに妙を得たともいう。門下に盛雲がある。享禄二』(一五二九)『年二月十日、之に』雪舟から伝授された先の秘伝書を『授けたという(「北越名流遺芳」第一集より)』。『「温古の栞」に、越後法眼は中頸城郡国府の人、文明年中の画家にして馬を画くに巧なり。故に世人は馬法眼と称ふ。身を雲水に委ね、常に駑馬に跨り、馬を画きし旗を背にして諸国を漫遊す。折しも戦国の際なれど、之を見るもの敢て誰何せしことなかりしと云ふ。云々とある』と記す。

「呉俊明」野島出版補註に『新潟の人、名は安倍、字は方篤』、後に『方徳に改む。孤峰また穆翁と号し、竹軒(けん)の別号もある。元禄十三』(一七〇〇)『年に生まれ、本姓は佐野氏であったが、幼少の時孤児となり、五十嵐氏に養われた。三十才の時』、『江戸に出て狩野長信に就いて画を学んだ。更に宋の階梁明の張平山の画風を慕うて一家を成した。山水人物何れも善くし、法眼に叙せられて京都に居ること十四年、当時の名流とも交遊した。年六十に及び、公卿藤大納言より姓呉氏を与えられて呉浚明と云ったが、七十才の讐た五十嵐姓に復した。浚明は竹内式部に就いて闇斎派の儒学を修め、宇野士新と交り』、『深く詩を能くした』が、天明元(一七八一)年『八月十日没した。年八十二(「北越名流遺芳」第一集、「越後野志」下巻、「北越詩話」上巻より)』とある。

「信雪(しんせつ)」不詳。野島出版補註も『不詳』とする。]

北越奇談 巻之六 人物 其三(僧 良寛 他)

 

    其三

 

[やぶちゃん注:改行はほぼ原典に従ったが、良寛(ここでは「了寛」とする)の事蹟部分は万元和尚に続いているのを、私が恣意的に改行した。弘智法印の辞世歌は前後を一行空けた。]

 

 玄翁(げんおう)和尚、伊夜日子(いやひこの)山下(さんか)、箭矧村(やはぎむら)の産なり。野州奈須野ヶ原(なすのがはら)殺生石を咒(しゆ)して、打碎(うちくだき)たる各僧にして、世(よ)、普(あまね)くこれを知る。

 僧(そうの)友梅(ゆうばい)【百鳥郷の人。】。逆水(ぎやくすい)和尚【頸城郡の人。】。宗(ぜつさう)和尚[やぶちゃん注:「」=「絶」の「糸」を「彳」に代えた字。]【古志の人。只シ、此二僧は近世也。】。弘智法印【即身佛と稱す。】、野積濱(のづみのはま)海雲山(かいうんざん)岩坂(いはさか)に寂す。

 

  辭世 岩坂のあるじは誰(たそ)と人問(とは)ばすみ繪にかきしまつ風(かせ)の音

 

 万元(まんげん)和尚、是は越國(ゑつこく)の産にあらずと雖も、雲上山國上寺中興にして、即(すなはち)、此山に寂す。實(じつ)は皇都の産にして、やんごとなき御種(みたね)にわたらせたまふよし。即、自述(じじゅつ)に「旅の寢覺(ねざめ)」と云へる書あり。其始にあらましを記し給へり。甚(はなはだ、麗雅なる文躰(ぶんてい)にして、奇説、尤(もつとも)多しと雖も、入寂の後(のち)、誰(たれ)ありて、梓(あづさ)に上(のぼ)する者もあらず。誰渠(たれかれ)がもとに、其草稿の写(うつし)のみ殘れり。が家にも、即(すなはち)、元(げん)和尚自筆の草稿一册を祕藏せり。追(おつ)て書林にあらはさんと欲す。扨、元和尚、博學大徳(だいとく)、詩を賦し、和歌を詠し、且、滑稽を好んで狂哥俳諧を、よくす。生涯の奇事、甚(はなはだ)、多し。即(すなはち)、國上山阿弥陀堂を建立し、山中淸寥(せいりやう)の地を撰(えら)んで隱居せり。名付(なつけ)て「五合庵」と稱す。松竹(しようちく)、綠(みどり)を交(あじ)へ、石徑(せきけい)、苔厚く、遙(はるか)に人跡を隔(へだて)て、誠に遠公(えんこう)・支遁(しとん)が興(きよう)、可ㇾ知(しるべし)。

 扨(さて)、かの五合庵に近頃、一奇僧を住(じう)す【了寛道僧(りやうくわんどうそう)と号す。】。人、皆、其(その)無欲、淸塵外施俗(せいじんぐはいせぞく)の奇を賞する所なり。即(すなはち)、出雲崎(いづもざき)橘氏(たちばなうじ)某(それがし)の長子にして、家、富(とみ)、門葉(もんよう)、廣し。始【名は文孝(ぶんこう)。】、其(その)友【富取・笹川・彦山。】等(とう)と共に、岑子陽(しんしやう)先生に學ぶこと、總(すべ)て六年、後(のち)、禪僧に隨(したがつ)て、諸國に遊歴す。その出(いづ)る時、書を遺して中子(ちうし)に家祿を讓り去つて、數年(すねん)、音問(おんもん)を絶す。後、海濱、郷本(さともと)と云へる所に空菴(くうあん)ありしが、一夕(いつせき)、旅僧(りよそう)一人、來つて隣家(りんか)に申し、彼(かの)空菴に宿(しゆく)。翌日、近村に托鉢して、其日の食に足る時は、即、歸る。食、餘る時は、乞食(こつじき)・鳥獸(ちやうじう)に分かち與ふ。如ㇾ此(かくのごとき)事、半年(はんねん)、諸人(しよにん)、其奇を稱し、道徳を尊(たつと)んで衣服を送る者あり。即(すなはち)、受けて餘るもの、巷(ちまた)の寒子(かんし)に與ふ。其居(きよ)、出雲崎を去ること、纔(わづか)に三里。時に、知る人、在(あり)、「必(かならず)、橘氏某(それがし)ならん」ことを以(もつて)、が兄、彦山(ひこやま)に告ぐ。彦山、即(すなはち)、郷本(さともと)の海濱に尋(たづね)て、かの空菴を窺ふに、不ㇾ居(おらず)。只、柴扉(さいひ)、鎖(とざす)ことなく、薛羅(へきら)、相纏(あひまと)ふのみ。内に入(い)りて是を見れば、机上(きしよう)、一硯筆(いつけんひつ)、炉中(ろちう)土鍋一あり。壁上(へきしやう)、皆、詩を題しぬ。これを讀(よむ)に、塵外仙客(じんぐはいせんかく)の情(じよう)、自(おのづか)ら胸中(きようちう)清月(せいげつ)の想(おも)ひを生ず。其筆跡、紛(まが)ふ所なき文孝なり。然(しか)ば、是を隣人に告(つげ)て歸る。隣人、即(すなはち)、出雲崎に言(こと)を寄(よす)。爰に家人(かじん)、出て來り、相伴ひ歸らんとすれども、了寛、不ㇾ隨(したがはず)。又、衣食を贈れども、「用ゆる所なし」として、其餘りを返す。後(のち)、行く所を知らず。年を經て、かの五合庵に住す。平日の行ひ、皆、如ㇾ此(かくのごとし)。實(じつ)に近世の道僧なるべし。

 

[やぶちゃん注:「玄翁(げんおう)和尚」源翁心昭(げんのうしんしょう 元徳元(一三二九)年~応永七(一四〇〇)年)は南北朝時代の名(禅)僧。源翁能照・玄翁玄妙とも称した。法王(翁)大寂禅師と号した。越後西蒲原郡弥彦村矢作(やはぎ)の住人加茂太郎左衛門尉義連の子(源義綱(平安後期の武将源頼義の次男で八幡太郎義家の実弟であったが彼と対立し,京都で合戦に及ぼうとして朝廷を驚かせた。天仁二(一一〇九)年に彼の三男義明が義家の子義忠殺害の罪で追討され、長男義弘らは自殺。義綱は佐渡に流され、長承三(一一三四)年(一説に元年)に追討を受けて自殺した)の末裔とされる)で五歳で寺に入り、十六歳で剃髪、十八歳(一説に十九歳)の時、能登の曹洞宗総持寺にあった道元の高弟峨山韶碩(がざんじょうせき)に学び、その法を嗣いだ。正平一二/延文二(一三五七)年、伯耆八橋(やはし)郡に保長氏の援助で退休寺を開き、三年後には下野那須郡に泉渓寺を、建徳二/応安四(一三七一)年に下総結城に結城朝光の助力を得て安穏寺(あんのんじ)を、更にその三年後には会津耶麻(やま)郡に慶徳寺を、翌年には白河に常在院を開いたりなどした。また、その後の元中二/至徳二(一三八五)年八月には、人畜を害するとされた那須の殺生石を破砕して妖怪を去らせたと伝える。この功績によって翌年に後小松天皇より先の号を賜ったとされる。建長五(一二五三)年に帰郷、父の菩提を弔うために一寺を建立、後、安穏寺て示寂した(以上は「日本大百科全書」や野島出版補注他に拠った)。

「伊夜日子(いやひこの)山下(さんか)、箭矧村(やはぎむら)」弥彦山から南東の一帯で、現在は新潟県西蒲原郡弥彦村矢作(やはぎ)地区及び燕市の一部。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「友梅(ゆうばい)」鎌倉末から南北朝にかけての臨済宗の禅僧雪村友梅(せっそんゆうばい 正応三(一二九〇)年~貞和二(一三四七)年)。ウィキの「雪村友梅」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『父は越後の土豪・一宮氏(源姓)、母は信濃須田氏(藤姓)。正応三年(一二九〇年)越後白鳥にて生まれる。幼少の頃、鎌倉に出て建長寺の一山一寧に侍童として仕える。元朝からの帰化僧である一寧から唐語や彼の地の様子を教えられたと思われる。のち比叡山戒壇院で受戒、つづいて京都建仁寺に入門した』。『まもなく徳治二年(一三〇七年)十八歳の時、渡海して元へ赴く。二年ほど大都(北京)周辺を見て回り、元叟行端・虚谷希陵・東嶼徳海・晦機元煕・叔平隆などに参ずる。しかし日元関係の悪化に伴い、日本留学僧は間諜(スパイ)と見なされたため』、『獄に繋がれ』、『叔平も雪村を匿った罪で逮捕され、獄死した。雪村も危うく処刑されかけたが、とっさに無学祖元の臨剣頌を唱えたため、気圧された処刑官が、死罪を延期し、処刑を免れた。以後、江南地域ではこの臨剣頌が、祖元ではなく雪村の作であると伝わったということが、数十年後』、『同地を訪れた中巌円月によって記録されている』。『死一等を免ぜられて長安に流され、三年後には四川の成都に改めて流謫され、その地で十年を過ごす。この間、さまざまな経書・史書などを学び、一度暗記したページはちぎって河へ捨てたという。 大赦により許された後、長安に戻り』、『そこで三年を過ごす。この頃より帰国の念が募ったが、請われて長安南山翠微寺の住職となり、元の朝廷から「宝覚真空禅師」の号を特賜された』。『元の天暦二年(日本では元徳元年、一三二九年)五月、商船に便乗して博多へ帰朝。新たに日本へ来朝した明極楚俊・竺仙梵僊らや、同じく帰朝した天岸慧広・物外可什らと同船していた。その後鎌倉へ戻り、翌年には師一山の塔である建長寺玉雲庵の塔主となる』。『その後元徳二年(一三三一年)、信濃諏訪神社の神官で豪族である金刺満貞に招かれ、信濃へ赴く。また同地の神為頼に請われて徳雲寺開山となる。さらに翌年には京都の小串範秀という武士に招かれ、嵯峨の西禅寺住職となる。また建武元年(一三三四年)には豊後大友氏に招かれ、府内の万寿寺に転じ、三年住した。ふたたび京都へ上り栂尾に隠棲したが、播磨守護赤松円心が小串範秀の推薦を受け、円心が建立した法雲寺の開山として招く。紅葉に映える千種川の清流をかつて幽囚されていた蜀(成都)の錦江になぞらえ、山号を金華山とした』。『暦応三年(一三四〇年)足利尊氏・直義兄弟は、京都の万寿寺の住職として雪村を招請したが、雪村は病気(中風)により再三固辞する。しかし数年にわたる円心の熱心な願いに折れ、康永二年(一三四三年)八月』、『ついに万寿寺の住持となった。ただしわずか一年で辞し、翌年には東山の清住庵に移り住んだ。この頃より中風の症状が重くなり、摂津有馬温泉で療養している』。『しかし、貞和元年(一三四五年)二月、今度は朝廷によって建仁寺の住持を命じられ、就任。盛大な入山式が執り行われ、雪村の名声により宗儀は大いに振るった。翌年十一月』、『法兄の石梁仁恭の十三回忌法会の導師を務めるが、楞厳呪第五段の焼香三拝に至って右半身不随となる(脳卒中による麻痺か)。朝廷や武家が派遣した医師や薬をすべて断り、十二月二日』、『遺偈を左手で書こうとしたが、うまく字にならず、怒って筆を投げつけ、周囲が墨だらけになる中、示寂した。享年五十七』。『五山文学の最盛期にあって中枢となった僧であり、詩文集としては、在元時代の詩偈を編んだ「岷峨集」や帰朝後の詩文・語録集として「宝覚真空禅師語録」がある』とある。

「百鳥郷」野島出版補註によれば、彼の出生地は三島郡関原町(せきはらまち)字白鳥(しらとり)とする。現在の新潟県長岡市白鳥町。ここ(グーグル・マップ・データ)。原典はルビが黒く潰されていることなどから、「白鳥」の誤記であろう。

「逆水(ぎやくすい)和尚」野島出版補註は『不詳』とするが、禅文化研究所刊「近古禅林叢談」(一九八六年刊)のこちらの目次に「逆水和尚」の名を見出せる。また、「つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉」の「洞流」の項に、生年を天和四(一六八四)年とし、明和三(一七六六)年没とする江戸時代に曹洞宗の優れた学僧で、号は逆水、名は洞流。禅戒や清規、衣法の参究史に名を残すとあり、出身地を越後国、俗姓を水島氏とし、『越後に生まれた逆水は、香積寺の大濤寛海の下で剃髪出家』、享保九(一七二四)年に『大乗寺で首座を務めた。法を智灯照玄に嗣ぐと』、享保一三(一七二八)年『に勅を奉じて永平寺にて瑞世している』。享保十五年には『香積寺の住持となると、近江覚伝寺、武蔵竜淵寺、三河渭信寺などに住し』、寛延三(一七五〇)年の『春、大乗寺の住持として開堂している』。五年住持をした後、宝暦七(一七五七)年『夏、越後観音院に住すると、翌年には徳泉寺を草創し、晩年には信濃護国庵に退院して、その地で示寂した』とある。この僧であろう

宗(ぜつさう)和尚」(「」=「絶」の「糸」を「彳」に代えた字)同前で、同書の目次に「絶宗和尚」の名ならばある現在の新潟県五泉市五十嵐新田にある曹洞宗瑞祥寺は安永三(一七七四)年に無学絶宗(むがくぜっしゅう)和尚を開山としており、他の記載を見ると、曹洞宗では有名な僧で越後出身とあるから、恐らくはこの禅僧であろうと思われる。

「弘智法印【即身佛と稱す。】」既出既注であるが、改めて注しておく。弘智(?~貞治二/正平一八(一三六三)年)は十四世紀の行者で、現存する最古の即身仏(木乃伊)として知られる。新潟県寺泊町野積の西生寺(ここ(グーグル・マップ・データ))に祀られており、下総国山桑村(現在の千葉県八日市場市)で生まれ、高野山で学んだ後、故郷大浦の蓮花寺に住した。後、諸国行脚の旅に出て、西生寺に草庵を結んだ。最期は死骸を埋めないよう遺言し、草庵で入定して即身仏となった(鈴木牧之「北越雪譜」の「巻之四」の「弘智法印」の条に即身仏の図とともに記載がある)。弘智は、後の江戸時代の出羽湯殿山の即身仏のように生きながら土中に入って断食死したというような土中入定伝説を持たない点で、高野山の空海入定伝説の影響が強い存在である(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「野積濱(のづみのはま)海雲山(かいうんざん)岩坂(いはさか)」野島出版補註に弘智は『高野山に密観をこらすこと数年、更に幽寂の地をもとめて行脚中』、たまたま『野積の地を卜して、奥の院、不動滝岩坂という処に、草坊を建てゝ養智院と号し、ひたすら禅定をこらされたが、長治二年十月十二日(二〇五年)入定された』とある。

「万元(まんげん)和尚」国上寺五合庵境内に墓のある、同寺中興の名僧萬元慧海(万治二(一六五九)年~享保三(一七一八)年)。野島出版補註に『俗姓は広橋氏、和泉国、吉野郡宮上部郷の人』とし、『吉野朝忠臣の後裔で、母は佐野氏、高貴の御種とも伝えられている。十六才』で『比叡山に登り、僧正憲海に投じて出家した。後』、『越後に来て国上寺の荒廃をなげき、寝食を忘れてその復興に尽くした。万元は国上寺の住職ではなくて一客僧だったので』、貞享四(一六八七)年、万元の労に報いるため、寺は小庵を建てて彼に贈り、日に米五合を給したことから、万元はこの庵を「五合庵」と名付けたという(ここはこちらのページを参照した)。後、巡錫中の『新潟の信徒町田津右ヱ門方に』於いて『示寂した』とある。六十才。本文に出る国上寺阿弥陀堂落慶の二ヶ月前のことであったという(後に出すTohgaku Nakamura 氏のサイト「良寛様のゆかり」の「国上 五合庵境内万元上人之墓(墓碑)」の案内板電子化に基づく。この本堂(阿弥陀堂)を建立している間、長きに亙って本尊阿弥陀如来及び脇侍等を安置していた大師堂を「御仮堂」とも称したが、野島出版補註は、その『御仮堂の棟札には、宝永八年次辛卯仲夏大吉辰 敬白と書いてあるから、建立はその頃であろう。約二百五十年前である』と記されてある。宝永八年は一七一一年であるから、本堂完成にはそれからまだ七年がかかったことが判る)。国上寺公式サイト内のこちらの「戦国時代と万元和尚」には(アラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)、

   《引用開始》

戦国時代、織田信長が延暦寺を焼き討ちしたように、当寺も何度か焼き討ちにあいました。万元和尚は大和国吉野郡の出身で、比叡山延暦寺で天台宗の修行を終え、二十六、二十七歳で諸国行脚に出て佐渡に渡ろうとしましたが海が荒れて断念し、旧知であった国上寺良長住職を訪ねておいでになりました。

そこで万元和尚が目にしたものは、無残にも荒れ果てた境内でした。本堂も焼け落ちていたそうです。見かねた万元和尚は「私に協力させてほしい」と願い出て、越後の隅から隅まで三十年という年月をかけて托鉢しました。その間に住んでいたのが五合庵です。五合庵は良寛で有名となりましたが、初代住人は万元和尚なのです。

現在の本堂は四度目の再建で、万元和尚が托鉢した浄財を元に建設したものです。

万元和尚は新潟へ托鉢に向かう途中で病に倒れ、本堂の完成を見ることなく亡くなりました。没後、故人の遺志でお墓を五合庵脇に建立しました。

旧分水町石港の新信濃川右岸の「夕暮れの岡」に祠と万元和尚の歌碑があります。

「忘れずは 道行きぶりの 手向けをも ここを瀬にせよ 夕暮れの岡」 

万元和尚は国上寺の中興の祖といわれております。御本尊参拝の折はその遺徳をお偲びください。

   《引用終了》

とある。日に五合は一般人のそれにしても、況や、禅僧の糧食の量としても多過ぎる。Tohgaku Nakamura 氏のサイト「良寛様のゆかり」の「国上 五合庵境内万元上人之墓(墓碑)」の解にも、毎日、米五合という量は、現在の度量衡からすると少なくはない。そのため、「万元和尚が生きた時代の五合は現在の十分の一であった」と説明されることがあるようだが、万元が生きた時代と現在の度量衡には十倍の差はないから、『何か別の趣意があって』『万元は「五合庵」と名付けたのではないかと』『考えたい』と記しておられる。同感である。なお、同ページには万元は『公卿の御落胤とも伝えられる』ともある。

「旅の寢覺(ねざめ)」野島出版補註では、貞享四(一六八七)年の著作とし、『半生の回顧録、諸国の奇蹟、異風、人情、人物など。四〇〇字詰原稿にして二十八枚』とある。また、外に万元の『著書の主なるもの』として、「寝寤物語」「吾妻の通の記」「野路の杖」「春の日の永物語」「春の夜の独り言」「末の露」「越の雪」「形見道中記」を挙げてあり、万元の文才が窺われる。先に示したサイト「良寛様のゆかり」の「国上 五合庵境内万元上人之墓(墓碑)」に載る案内板の電子化にも、万元は国上寺中興に心血を注ぐ一方で、『民政の調停にも意を注ぎ』、また、『「野路の杖」などを著して地方文運の興隆に資する面も多かった』とある。

「追(おつ)て書林にあらはさんと欲す」やはり、残念ながら存在しない。崑崙の著作はこの「北越奇談」全六巻のみしか知られていない。実に惜しい。

「元和尚」万元和尚。

「五合庵」野島出版補註に(踊り字は正字化した)、『国上寺の所蔵。敷地百三十八坪、建坪四坪五合。大正三年七月二十三日、古文書を参考にして、国上寺住職故石橋門阿師が改築したのが現在の建物である』。『万元和尚の書いた「題五合庵壁並引」によれば(原漢文)、『前略久賀美寺の貫主良長僧都は、幸にして知己の老僧なり。故に吾がけいけいけつけつを見て哀憐益々深く親しく飯を分ち、衣を省き、慰養すること玆に年あり。貞享の末、蕉蘆を寺院の傍に修し、吾をして之れに居らしめ、毎日、粗米五合を寄せて頭陀の労を扶く仍って以て号となす』とあり、『室の広さを万元和尚は』、『筵は八畳にして膝を容れて広く、棟は尋尺にして首豈に障らんや』と記しているとあるから、この謂いからはやはり「五合」は扶持米のことのごとく読めるが、まず、或いは、その身を縮めて入れるだけの広さ(狭さ)の「五合」、一・三二平方メートルを言っているのではあるまいか? 無論、皮肉ではない。禅の無一物無尽蔵から言えば、その狭い空間こそが、真の自身のこの世の在り所という謂いでである。大方の御叱正を俟つ。

「遠公(えんこう)」先行する巻之三 玉石 其二十三(廬山石)の「虎溪(こけい)」で注した中国仏教界の中心人物の一人である東晋期の廬山に住んだ高僧慧遠(えおん 三三四年~四一六年)。雁門郡楼煩県(現在の山西省寧武県)出身。ウィキの「慧遠(東晋)」によれば、二十一歳の頃に『釈道安の元で出家した。道安に随って各地を転々としたが、襄陽に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて南下し、湖北省の荊州上明寺に移った』。『その後、江西省の潯陽に至って廬山に入り、西林寺、のち東林寺に住した。それ以後』三十『年余り、慧遠は一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる』(先行する「巻之三 玉石 其二十三(廬山石)」の「虎溪」の注を参照されたい)。ここはまさに、その結界と同時に、「虎渓三笑」のような自在な風狂の一面をも言ったものであろう。

「支遁(しとん)」(三一四年~三六六年)は同じく東晋の名僧。格義仏教の代表的人物。ウィキの「支遁」によれば、『父祖の代からの仏教徒であり、幼い頃に已に西晋末の華北の動乱を避け、江南に移り住んでいたが』、二十五歳で出家し、「道行般若経」などの『教理研究に専心した。また、老荘思想や清談にも精通しており』、「荘子」の「逍遥遊篇」に注釈を加えて、独自の見解を述べてもいる。『その後、江蘇の支山寺に入ったが、王羲之の要請によって会稽(浙江省)の霊嘉寺に移った。以後も、各地で仏典の講説を行い、弟子百人あまりを率いていた。哀帝の招きにより、都の建康に出て、東安寺で』「道行般若経」を『講ずるなどした。王羲之のほか、孫綽・許詢・謝安・劉恢らの東晋一流の文人らと交遊した』。彼は『「即色遊玄論」「聖不弁知論」「道行旨帰」「学道誡」「釈朦論」「切悟章」「弁三乗論」等を残したと、梁の慧皎の』「高僧伝」『では伝えている。また、彼の文集として「文翰集」』十巻があったという、とある。学究肌の高僧で、文人との交流があり、「荘子」の独自解釈をするなどという辺りに万元を擬えたか。

「了寛」良寛の誤り。言わずもがな、江戸後期の曹洞宗の僧で歌人・漢詩人であった知られた良寛(宝暦八(一七五八)年~天保二(一八三一)年)。越後出雲崎の名主橘屋山本左門泰雄(伊織。号は以南)の長男として生まれた(名は栄蔵、後に文孝。字は曲(まがり))。安永四(一七七五)年或いは同九年に出家し、大愚良寛と名乗った。曹洞宗光照寺から備中玉島の円通寺に行き、国仙和尚のもとで十二年ほど修行し、国仙の死後、諸国行脚をして帰国。国上山五合庵、国上山麓の乙子神社境内の草庵などを転々としつつ、和歌に親しんだ。歌風は平明率直な万葉調で、約千二百首が残えい、長歌も知られる。中央歌壇との交渉がなく、生前は一般には知られなかったが、近代(特に明治末期から大正期)、遅まきながら、評価が高まった。和歌の他、漢詩や書にも優れた。老衰のため、三島郡島崎村(現在の長岡市島崎)の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受け、文政九(一八二六)年には、若い貞心尼が弟子入りし、師弟の交情厚く、贈答歌も多く、没するまで密接な交遊があった。天保二年正月六日、そこで没した。以上はアカデミストのために諸辞書の記載を参照して記したが、ウィキの「良寛」も詳しい。

「淸塵外施俗(せいじんぐはいせぞく)」意味不詳。「塵外にありて淸たり」(塵埃に満ちた俗世間を完全に外に離れたような清い世界に生き)而してそれを「俗に施(おこな)ふ」(巷間に現前させている)の意か? 識者の御教授を乞う。

「橘氏(たちばなうじ)」前に記した通り、屋号。崑崙の姓は「橘」であるが、無関係と思われる。

「文孝(ぶんこう)」野島出版脚注に『良寛は少年時代、地蔵堂町に漢学塾を開いていた大森子陽の門下生となった。文孝はその頃の名。崑崙の兄彦山(げんざん)は同門であったので、其の名を知っていた』(底本では「文孝」に「」傍点)とある。

「富取」野島出版脚注に『富取(とみとり)は地蔵堂町大庄屋』『富取武左ヱ門』。『号』は『正誠』とある。

「笹川」野島出版脚注に『笹川は……』とのみあるので、不詳らしい。

「彦山」野島出版脚注に『崑崙の長兄』とある。野島出版版の最後の解説は、大森子陽や良寛との関係について、非常に詳しく書かれている。必読。

「岑子陽(しんしやう)先生」大森子陽(元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は思文閣「美術人名辞典」によれば、『江戸中・後期の儒者。越後の人。北越四大儒の一人。良寛の師。諱は楽、号は狭川、時に姓を森、又は岑と称した。』初め、『永安寺大舟和尚に』、後、『江戸に出て』、『山口藩儒滝鶴台・細井平洲等多くの儒者に学ぶ。帰国して郷里西浦郡地蔵堂に学塾三峰館を開く。良寛はここで漢学の基礎を学んだ。のち羽前鶴岡にも学塾を開き、士族庶民を問わず子弟を教育し、有能な士を数多く輩出した』とある。野島出版補註によれば、『明和四年(一七六七)父の病重きため』、『帰郷して地蔵堂に開塾。良寛が子陽門下となったのは明和五年(十一才)から安永二年(十六才)に至る六年間と推定される』とある。

「中子(ちうし)」野島出版補註に『二男由之(ゆうし)』とある。

「郷本(さともと)」野島出版補註に『郷本は寺泊の南約一里、日本海の沿岸。空庵の跡は、同地曹洞宗玄徳寺の下、県道の西方海中十メートルの処にある』とある。新潟県公式サイトの「郷本空庵跡によれば、『当時の海岸線は現在よりもだいぶ沖合に延びていたので、良寛の利用した塩焚き小屋も空庵跡の碑よりも』五十メートル『ほど先の砂浜にあった』とある。同サイト内の案内マップ(PDF)から推測すると、中心辺り(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「半年(はんねん)……後(のち)、行く所を知らず。年を經て、かの五合庵に住す」野島出版補註はこの「半年」の部分に注する形で、『良寛の帰国は寛政七年秋と推定される。半年過ぎた年は寛政八年の春に当たる。此の年から五合庵に入ったことになるから重要な記録である』(寛政七年は一七九五年)とするのであるが、これは本文からはそうは読めない郷本の苫屋の庵から姿を消して暫く行方不明となり、それから有意に「年を經て」後にまた飄然と国上寺に現われ、「かの五合庵に」現われて住したのである。これは二、三年は言うに及ばず、最低でも五年以上は経過している謂いであろう。因みにウィキの「良寛によれば、良寛の五合庵入庵は四十八歳とし、これは文化二(一八〇五)年に当たるから、寛政七年からは実に十五年、実に表現に相応しいではないか。

「寒子(かんし)」野島出版補註に『貧乏人』とある。

「薛羅(へきら)」野島出版補註に蔦(つた)や蔓(かづら。或いは「葛」)とある。

「塵外仙客(じんぐはいせんかく)」野島出版補註に『俗世間から遠ざかった仙人』とある。

「其筆跡、紛(まが)ふ所なき文孝なり」野島出版補註に『彦山は子陽の下で』一緒『に居たから、文孝の筆跡がわかったのである』とある。

「家人(かじん)」出家前の良寛の親族を指す。]

2017/09/04

北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)

 

    其二

 

 酒轉(しゆてん)童子、蒲原郡砂子塚村(すなごづかむら)の産、今、猶、屋敷跡あり。卽(すなはち)、雲上山國上寺(うんしようざんこくしようじ)の行(ぎよう)法印に給侍せ兒童なり。世、皆、知ㇾ之(これをしる)。

 彌三郞が老婆【伊夜日子山(いやひこやま)の鬼女なり、】、世人、皆、知れる所なれば、傳を略す。只シ、別傳一册あり。追(おつ)て上梓すべし。

[やぶちゃん注:改行は原典に従った。野島出版版はベタ一段落。

「酒轉(しゆてん)童子」酒呑童子のこと。野島出版脚注には、通説を以下のように載せる。『酒転童子は、西漂部分水町大字砂子塚の人。胎内に在ること十六ケ月で普通の子どもよりは大きかった。少年(八才という)の頃、和納の楞厳寺』(りょうごんじ:現在の新潟県新潟市西蒲区和納(わのう)にある。現在は曹洞宗)『に学んだが』、『乱暴で致し方がないので、国上寺へ小僧にやられた。成長して身長が八尺になった。こゝでも不良性を発揮して止まないので寺を逐い払われた。暫らく国上山中の東稲場の洞穴に住居して居たが、各地に飛びあるき、地方の乱暴者を引きつれて』、『丹波大江山の岩窟に立てこもり、近郷に掠奪して遂に京都に及んだ。丹波の藤原保友、丹後の藤原経教なども如何ともすることが出来ないので』、『朝廷に鎮圧方を奏上した。そこで、一条天皇の勅命をうけて、源頼光はその臣渡辺綱、酒田公時、碓井貞光、卜部季武、平井保昌等と兵を合わせて、正暦元寅年』(「しょうりゃく」と読む。ユリウス暦九九〇年)『正月廿五日洒転童子の一党をみな殺しにして鎮定したということである(「越後野志」、「温古の栞」等より)』とある。次の次の注も参照されたい。

「蒲原郡砂子塚村(すなごづかむら)」現在の新潟県燕市砂子塚附近。(グーグル・マップ・データ)。弥彦山や国上寺の東南直近。

「雲上山國上寺(うんしようざんこくしようじ)」複数回、既出既注であるが、酒呑童子に絡んだ、北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十四 「風穴」)に載せたものを一部、再掲しておく。現在の新潟県燕市国上(くがみ)にある、和銅二(七〇九)年、越後一の宮弥彦大神の託宣によって建立されたとされる、越後最古の古刹とする真言宗雲高山(うんこうざん)国上寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。山号は誤り(同寺北のピークである山は寺名と同じ国上山)。詳しい沿革は同寺の公式サイト内のこちらが詳しいが、慈覚大師円仁・源義経・上杉謙信及び良寛(晩年の三十年間、ここの五合庵に住み、最晩年はこの麓の乙子神社境内社務所へ、最後は島崎村(現在の長岡市)木村元右エ門の邸内に移った)所縁の寺でもある。さらに調べてみると、面白いことが判った。何と、この寺は、かの酒呑童子(のモデルというべきか)が少年の頃、この寺で過ごし、修行をしたというのである。地元の民草は彼を鬼と見做し、彼らが棲む「穴」を「鬼穴」と称したという伝承がkeiko氏のブログ「自分に還る。」の『酒呑童子~越後から大江山へ●国上寺「酒呑童子絵巻」から』に載っている。この題名にもある通り、国上寺には「大江山酒呑童子繪卷」とともに寺の縁起が残されており、そこには酒呑童子の生い立ちがくわしく記されているという。「能面ホームページ」のこちらによれば、『恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来たとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊網が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられ』た。『外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された』が、『外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ』、『煙にまかれて気を失』ってしまう。『しばらくして気がついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわってしま』っており、遂に『外道丸は身をおどらせ』、『戸隠山の方へ姿を』消し、後に『丹波の大江山に移り』住んだとあるという。

「行法印」名であるが、不詳。

「彌三郞が老婆」「鬼女」野島出版脚注に『西蒲原部分水町大字中島』(現在の新潟県燕市中島。(グーグル・マップ・データ)。後の「牧ヶ花」はその東直近。(同前))『より牧ヶ花に通ずる旧道の傍に古来より弥三郎が邸地の跡とて』、『畑中方三間程』、『耕作を除き』、『老樹(榎)を存す。伝説によれば、弥三郎が母、夜毎、外に出て奇怪の悪業をなし、人を悩ますとの風評ありけれど、それとも知らず年月を経たりしに、ある暗の夜、弥三郎は鳥を捕えんとて、網を』使い『に出けるが、心持常ならざる故、家に帰らんとせし路に、突然』、『弥三郎が頸の骨をつかみ』、『引立て往かんとす。元来』、『豪勇の弥三郎、早くも腰に帯びたる鎌にて其の腕をかき切り、家に帰りしに、母は腹の痛むとて一ト間に臥し居たり。偖』(さ)『て翌朝』、『安否を問わんと一ト間へ往きけるに、母は居らず、寝所たりし外面』(とのも)『に鮮血を引し痕あり、之をたずねて往くに、前夜怪事にあいし処に至る。弥三郎は始めて母の鬼女なしことを知り、大いに驚嘆しける。其の後、母は国中の山野村里を横行して悪事をなせしに、同郡岩室村大字石瀬村青龍寺の住職某、彼の母に妙多羅天女と云う戒名を与えて済度ありしより』、『気質も柔和になりしとかや。其の終焉の地を知らず。今』、『木像が弥彦神社僻の宝光院に安置されている。中蒲原部村松の奥、安出村に弥三郎が後裔があると伝えられ、又古志郡蓮潟村の飛地で芹川村の前に、凡そ千坪の弥三郎が邸地の跡と伝えられる処があるという(温古の栞 第八篇による)』とある。彼女については、新潟地方に類話が多数散在しており、「ヤサブロバサ」という妖怪として認知されてもいる。幸い、高橋郁子ヤサブロバサをめぐる一考察という優れたページが存在する。是非、読まれたい。サイト「福娘童話集」の鬼女になった、弥三郎の母は、この妖怪が佐渡にまで渡った話となっており、やはり読まれんことをお薦めする。

「伊夜日子山(いやひこやま)」既出既注の弥彦山。国上寺寄りにある。

「別傳一册あり。追(おつ)て上梓すべし」「北越奇談」の続編とは別にこうした出版も崑崙は予定していたらしいが、残念ながら続編同様、存在しない。]

北越奇談 巻之六 人物 (緒言)

 

北越奇談巻之六

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    人物

 

 古今の名將、忠信勇武の士は、諸軍談に審(つまびらか)なれば略ㇾ之(これをりやくす)。

 只、上杉家の實事は「長上正言記(てうしようせいげんき)」に委(くは)し。

 板額女(はんがくじよ)は加治明神山(かぢみやうじんやま)の城主、長(おさの)太郎・越後守祐森(すけもり)が室、古志郡(こしごほり)の産なり。勇力(ゆうりき)武巧の名、世に知る所なり。

 

[やぶちゃん注:最終巻。改行は原典のママ。野島出版版は総て繋げて、一段落となっている。

「長上正言記(てうしようせいげんき)」不詳。上杉氏関連の歴代名将実記の誤記であろうかと思い、似たような書名を調べて見たが、見当らない。不審。野島出版脚注にも『不詳』とするのみ。

「板額女(はんがくじよ)」時に巴午前と並称される平安末から鎌倉初期を生きた、百発百中の射芸を持った実在した剛腕の、私の好きな女傑。越後の豪族武将城(じょうの)資国の娘。兄であった城長茂(ながもち ?~建仁元(一二〇一)年:後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を請うたが、聞き入れられず、幕府軍に吉野で誅伐された)の反乱に呼応して、正治三(一二〇一)年に甥の城資盛とともに挙兵、幕府軍と戦った。奮戦したが、捕らえられ、後に甲斐源氏浅利与一の妻となった。「坂額」とも書き、敬称の「御前」を附すことも多い。私の「北條九代記 卷第三 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇」及び「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」の本文及び私の注も参照されたい。ここではウィキの「板額御前より引いておく。その名は「吾妻鏡」(『現存する、当該人物が登場するおそらく唯一の一次資料』)『では「坂額」とされていたが、のちに古浄瑠璃などの文学作品で「板額」と表記され、現代では辞書も含めほぼすべてでこれに準じている』。ほかに飯角とも。城資国の娘。兄弟に城資永、城長茂らがいる。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)と知られてきた』。『城氏は越後国の有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる』。「吾妻鏡」の建仁元(一二〇一)年には、『越後国において板額の甥に当たる城資盛(資永の子)の挙兵が見える(建仁の乱)。これは板額の兄の長茂(資茂とも)の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた』。『板額は、反乱軍の一方の将として奮戦し』、「吾妻鏡」では『「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。 中たるの者死なずと云うこと莫し」と書かれている』(ここは私の「北條九代記 卷第三 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇」の私の注で原文と訓読を示してあるので是非お読み頂きたい)。しかし、『最終的には藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。板額は鎌倉に送られ』、二『代将軍・源頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の一族で山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾された』(ここも私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」の注で「吾妻鏡」の原文と訓読を示してあるので是非お読み頂きたい)。『板額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において生涯を過ごしたと伝えられている。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚がある』。「吾妻鏡」では『「但し顔色に於いては、ほとほと陵園の妾に配すべし(但於顏色殆可配陵薗妾』〔「陵園の妾」とは『古代中国において懲罰のため』に監禁され、『帝の墓陵に奉仕』した『官女。白居易の漢詩を下地とした表現で(囚われの身の/哀れな)美女が就く』とされた)『)」「件の女の面貌宜しきに似たりと雖(いえど)も心の武(たけ)きを思えば」、すなわち美人の範疇に入ると表現されているが、『大日本史』など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。これは、美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されたためと解釈される』。一説には身長六尺二寸(約百八十八センチメートル)の大女とされ、『のちに浄瑠璃・歌舞伎上の人物となった。また、江戸時代以降、醜女』(しこめ)『の蔑称ともなった』(ここも私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」の注を是非読まれたい)。

「加治明神山(かぢみやうじんやま)」不詳。新潟県魚沼市に同名の山(標高七百六十メートル)はあるが、城塞跡は調べ得なかった。寧ろ「加治明神」に着目するなら、新潟県新発田市東宮内(ここ(グーグル・マップ・データ))に藤戸神社があるが、ここは古くは加治明神と称したこと、ここは平安末期、後に城資盛・板額御前の反乱制圧を命じられることとなる幕府御家人佐々木盛綱が加治荘の地頭職となって、文治五(一一八九)年に東に聳える要害山に築城した際にここに祖先を祀ったのを創祀とするとサイト「玄松子の記録」の「藤戸社」にあるのを考えると、崑崙はあろうことか、彼らを征伐した佐々木盛綱(加治盛綱とも名乗った)の城と間違えているのではあるまいか? なお、板額とともに反乱を起こした甥の資盛が拠ったのは現在の新潟県胎内市にあった鳥坂城(とっさかじょう)であるが、ここは「加治」とか「明神山」とは無縁で比定出来ない。筆者或いは伝承の混乱があるとするとどうにもならぬが、取り敢えず、識者の御教授を乞うものである。

「長(おさの)ノ太郎・越後守祐森(すけもり)が室」不詳。そもそも板額御前が幕府に反旗を翻した際に、夫を持っていたとは「吾妻鏡」には記されていないから、これは崑崙の錯誤か、後代にデッチ上げられた偽説に基づくか。しかしそれより、『「長(おさ)」の』は一字姓という特異点であること、音読みすれば「ちようの(ちょうの)」で「城(じやうの(じょうの))」に発音がかなり似ていること、「太郎」はその族長の嫡男の通称であること、「越後守」を位として持って名乗れる越後第一の有力豪族であること、「祐森(すけもり)」が板額の長兄資永の子の、鎌倉幕府に反旗を翻した甥「城資盛」(すけもり)と同音であること等からみて、この「祐森が室」は板額の父「資國が女(むすめ)」の誤伝か崑崙の誤りか(資国は城氏の後述するように棟梁であるから、「太郎」「越後守」も自然である)、或いは「長(おさの)ノ太郎・越後守」は総て無効とした上で「資盛(すけもり)が姨」(板額は資盛の叔母に当たる)の誤伝か崑崙の誤りかと私は思っている。なお、城氏は、サイト「風雲戦国史」の「越後 城氏」によれば、桓武平氏の一流で、平安中期の武将平維茂の『子繁成が出羽(秋田)城介であったことから、その子の貞成以降』、『城氏を称した』、とある。『城氏が越後に勢力を伸ばした事情は明かではないが』、文久五(一一一七)年五月の『検非違使庁下文に「越後住人平永基」と見え、ほぼ』十一『世紀末には越後に入っていたと』推定され、『その後、奥山太郎・豊田二郎・加地三郎など、当時、北越後にあった荘園の名称を通称とした一族がいるので』、十二『世紀半ばには北越後に勢力を拡大していたものと考えられる。嫡流は、永基の』後にこの九郎資国が継いでいる、とある。]

2017/09/03

北越奇談 卷之五 怪談 其十四(大樹) /北越奇談 卷之五~了

 

    其十四

 

 河内谷(かはちだに)、里の宮社内(しやない)、樫の大老樹(たいぼく)あり。一木、兩俣に分(わか)れ、高さ(たかさ)十余丈【一股(いつこう)朽ちて無し。】。過(すぎ)し年、大風(たいふう)ありて、其一股を折る。内朽(くち)て空(うつぼ)也。故に是を材木の商人(あきびと)に見せて賣(うら)んことを欲す。然(しか)れども、數(す)十百人、是を見て、價(あたひ)を定むること、不ㇾ能(あたはず)。皆、默して去。爰にが隣家の某(それがし)たるもの、其(その)折(おれ)たる一股の枝を買ふ。價、十三金を以つてす。其枝、切口、經(わたり)一丈九尺五寸、空(うつぼ)の所、經九尺、杣(そま)・木挽(こびき)等(ら)、總て十余人、皆、其空穴(くうけつ)に住居(すまゐ)して、以つて數日(すじつ)、是を引分(ひきわく)るに、其よろしき所、六間の大差物(さしもの)數十挺(すじつてう)、其中(ちう)なる所、板巾(いたはゞ)五、六尺にして、數(す)百枚、其(その)下(げ)なる所、大舂(うす)百七十二あり。誠に未曾有(みぞう)の大樹(たいぼく)と云ふべし。

 柏崎鵜川(うかは)明神の社(やしろ)の木、又、是に次ぐ。囘(めぐ)り六丈二尺五寸。

 高田瀧寺(たきでら)溫泉の上【大同元年開基。毘沙門堂あり。】、大樫樹(おほかしのき)三根(こん)あり、又、これに次ぐ。

 只、大樹(たいぼく)・古根(ふるね)の跡(あと)、大なるもの、桂ケ関【貝付挾川渡の下。】桂川古根、經六間余。河内谷天狗杉、根の經二間三尺。靑籠(あをかご)の観音【新發田眞野西。】杉の古根、また、これに次ぐ。 

 

北越奇談卷之五終

[やぶちゃん注:「河内谷」既出既注。新潟県五泉市川内。この附近(グーグル・マップ・データ)と私は推定する。

「里の宮」不詳。

「十余丈」三十メートル超。

「一股(いつこう)朽ちて無し」本文とこの割注がダブるのは不審。

「切口、經(わたり)一丈九尺五寸」空洞部を含めた全体の直径が五メートル七十七センチメートル。洞(ほら)の部分の最大直径は「九尺」、二メートル七十三センチメートル弱と、とんでもない太さであるが、まあ、それぐらいないと、中に人が十余人も入って数日間そこで生活し続けて、同時に作業を行うなどということは到底出来まい。しかし、これが一股なのであるから、この樫の大木の総体は驚くべきものであることになる。残念ながら、諸データを見ても、現存はしない模様である。

「六間」十メートル九十一センチメートル弱。

「大差物(さしもの)」通常、「差物」(指物)は、板を差し合わせて作くられた家具や器具を指す語であるが、ここはどうも、最大長で有意な幅を持つ大型の材木(角材)を指しているようである。それが「數十挺(すじつてう)」(本)採れたというのある。

「五、六尺」一メートル五十二センチから一メートル八十二センチメートル弱。中程度でこれだとすると、前の「大差物」は二メートルを有に越える想像絶する幅を持った材木であるということになる。

「大舂(うす)」大臼。通常なら五升餅を搗ける二尺臼であろう。直径六十一センチメートルほどか。

「柏崎鵜川(うかは)明神」野島出版脚注に『鵜川神社。祭神 鵜甘部首。姓氏録云、鵜甘部首武内宿祢男己西男柄宿祢之後也。刈羽郡鵜川荘琵琶島に在り、今所祭八特大神、(中略)社地に周囲三丈余と、二丈余の槻の大樹あり云々(越後野志)』とある。現在の新潟県柏崎市新道(しんどう)にある。(グーグル・マップ・データ)。サイト「にいがた観光ナビ」の鵜川神社の大ケヤキによれば、全国第八位の大きさを誇る欅で、樹齢は約千年と推定され、根周り約十四メートル、目通り(目の高さに相当する部分の木の幹の見かけ上の平均的太さ)約十一・五メートル、樹高約二十メートルで、現在は地上約三メートル付近で大きな四本の枝に分かれている。嘗ては『直立した主幹の上の部分があ』っ『たが、現在は枯れて腐食し、なくなってい』るとある。リンク先に画像がある。

「六丈二尺五寸」十九・四八メートル。現在のそれよりデカ過ぎる。

「高田瀧寺(たきでら)温泉の上【大同元年開基。毘沙門堂あり。】」現在の新潟県上越市滝寺地区の東にある滝寺毘沙門堂のことと思われる。(グーグル・マップ・データ)。

「桂ケ関【貝付挾川渡の下。】」野島出版版は「貝付」を「目付」とするが誤判読である。これは新潟県村上市貝附附近であろう((グーグル・マップ・データ))。そこを流れる荒川の東(上流)に「桂の関温泉」という施設名を現認出来るからである。

「河内谷天狗杉」先の河内谷から南西へ五キロ弱の位置の五泉市蛭野にある慈光寺に県指定天然記念物の杉並木があり、によれば、その中の二本立ちのそれは幹周が十・九メートルあり、樹高は四十メートルもあったというから、これは「天狗杉」の名に相応しい気はする(二〇〇五年に二本ともに伐採)。気がするだけで、これに同定しているわけではない。しかし、ここに出る以下の数値より遙かにデカい

「二間三尺」四メートル五十五センチメートル弱。

「靑籠(あをかご)の観音【新發田眞野西。】」幾つかの地名と語句から推して、現在の新潟県北蒲原郡聖籠町(せいろうまち)諏訪山にある真言宗宝積院のことである。同寺の本尊は十一面観世音菩薩で通称「観音寺」とも呼ばれているようであるぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡巡り」のこちらでは、はっきりと真言宗智山派観音寺宝積院と記されてあるからであり、しかも現在、この寺の東直近には「聖籠観音の湯
ざぶーん」という施設も現認出来るからである。]

北越奇談 巻之五 怪談 其十三(妖狐)

 

    其十三

 

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[やぶちゃん注:北斎画。キャプション「青山の老狐 村長藤次右衞門をあざむく」(村長(むらおさ)の名は「とうじえもん」(現代仮名遣))背後の柳の樹のうねりを見ると、この時期の彼が曲線の持つところの立体的で動的な求心力や遠心力を確信犯で用いていることが判る。]

 

 新泻砂山の間(あいだ)に、靑山狐(あをやまぎつね)とて、人に妖をなすこと勝れて、奇談、多く、名に負ふ老狐(らうこ)あり。

 爰に赤沙日と云へる所の村長藤次右ヱ門なる者、一とせ、夏の末つ頃、新泻のに公用の歸さ、砂山を通り、かの靑山にかゝりし時は、昼過(すぐ)る頃にて、暑さ、堪(たへ)難く、少しの木陰にやすらひ、彼(かの)狐の臥(ふし)たるとも知らず、草村(くさむら)に小便しけるが、狐、驚(おどろき)て走り出(いで)、後(あと)を、

「キ。」

見返りて立(たち)ければ、藤次右ヱ門、大に驚き、

「扨は。彼(かの)名に負ふ妖狐なるべきに麁相(そさう)なることを仕出(しいだ)したるものかな。」

と後悔し、狐に向(むかつ)て申(まうし)けるは、

「狐どの、狐どの、其許(そこ)の昼寐し給へるをも知らず、疎忽(そこつ)に小便して驚(おどろか)し申したること、定(さだめ)て腹立(はらたち)申さるべけれど、此方(こなた)にも、ゆめゆめ、知らざるより起(おこり)しことなれば、必ず、必ず、恨(うらみ)給ふべからず。構へて、構へて、我を妖(だま)し給ふな。」

ナド返す返(がへ)す事を詫(わび)つゝ、後(あと)に付(つき)て行(ゆく)ほどに、彼(かの)狐、立止(たちどま)り、後(あと)振返(ふりかへ)り見たりけるが、路(みち)の傍(かたはら)に石地藏の立(たち)たる蔭に隱れ、やがて、其地藏を背に負ひ、草の葉を摑みて立上(たちあ)がれば、忽(たちまち)、女の小児を負ひ、手には風呂敷下たるに妖(ばけ)たり。

 藤次右ヱ門、大に驚き、聲をかけ、

「扨々、狐どの、狐どの、お手並のほどは驚入(おどろきいり)候へど、先刻より御(おん)詫び申(まうす)通り、重々、謝り入(いり)候ぞや。必(かならず)、必、我を迷(まよは)し給ふな。」

と言(い)ひば、かの女、後(あと)へ振り向き、

「此(この)お人は、何ごとを申され候や。わが身(み)ことは、此先の村より新泻へ緣づきたる者にて、只今、親里(おやざと)へ參るに候。あまり、おかしきことを、宣ふぞや。」

ナド打笑(うちわら)ひて、小児の泣(なく)を、搖(ゆす)り、搖り、先に立(たち)て行(ゆく)。

 藤次右ヱ門、愈(いよいよ)、氣味惡く、さまざま詫ぶれども、何の答(いら)ひもなく、足早に行くほどに、何時(いつ)となく、日の暮かゝりて、漸(やうや)く一ツの村端(むらはし)に至れば、かの女、立止(たちどま)り、藤次右ヱ門に向かひ、

「扨も。此家(このや)が私(わたくし)の里に候。是(これ)にて御別(わかれ)申べし。日も暮れたれば、早く歸り給へかし。」

と云ひ捨(すて)、内に入(いり)ぬ。

 内には、男女(なんによ)の聲して、

「やれ、娘よ。今來たりしか。此頃より、今日は、今日は、と待(まち)暮したるぞ。孫は成人せしか。」

など、口々に笑ひ語りて、さらに疑ふべくもあらざる親里と見ゆ。

 藤次右ヱ門、思ひけるは、

「扨も、不思義なることかな。かの狐、我をこそ妖(だま)し侍るべきに、謀(はか)らざる此家内(かない)を迷(まよは)しぬることよ。何(いづ)れにもせよ、此事(このこと)、主人(あるじ)に知らせばや。」

と思ひ、門(かど)に佇(たゝず)み、内の樣子を窺ひ居(ゐ)る所に、家の主人(あるじ)と覺へて、年頃、五十ばかりの男、何か、用あるさまにて、門へ出(いづ)るを、手招きして、傍へ誘(いざな)ひ、

「扨、只今、此内へ入(いり)候女は真(まこと)の人にては、これ、なし。今日、かやうかやうのことにて、靑山の狐、石地藏を背負(せおふ)て女に妖(ばけ)たる也。必々(かならずかならず)、油斷し給ふな。」

と申しければ、亭主、以(もつて)の外、興を醒まし、

「扨々、妖しきことを聞(きゝ)申ことかな。あの女は拙者の娘にて、去年、新泻へ緣付(えんづけ)、當春(たうはる)、孫も出來(いでき)たれば、連來(つれきた)りて見せよがしと、折々(おりおり)言傳(ことづて)して、漸(やうや)く、只今、來(きた)れる也。何ぞ狐にて候はんや。」

藤次右ヱ門、又、云(いふ)。

「然(しか)らず、目の當たり、彼(かの)狐が妖(ばけ)たるを見て、跡に付(つき)て來りたるぞや。あたら、娘子(むすめご)の待設(まちもう)けを、狐に喰(くは)れ給ふな。」

ナド言(いひ)つのりければ、亭主、

「さらば、疑ふ所なし。兄よ、弟(おとゝ)よ。」

と呼ぶほどに、

「何事ぞ。」

と出來(いできた)るを竊(ひそか)しかじかの樣子を示し合(あは)せ、内に入(いり)て、俄(にはか)に火を盛んに焚立(たきたて)、物をも云はず、彼(かの)女を捕(とら)ひ、手取(てとり)、足取(あしどり)、持ち來り、猛火の上に、尻を焙(あぶ)れば、女は高く泣叫(なきさけ)び、母と祖母(ばゝ)とは立騷(たちさは)ぎ、

「何ごとをするぞ。」

とて、驚き詫(わ)ぶれども、男等(ら)は、更に聞(きゝ)入れず、

「今に尾を出だして見せんずるぞ。」

など、頻りに焙るほどに、終(つゐ)に、苦しみて、死(しゝ)たり。

 然(しかれ)ども、更に、尾、出さず。

「扨は。其(その)曲者(くせもの)、赦(ゆる)すな。」

と、門(かど)に窺(うかゞ)ひ居(ゐ)たる藤次右ヱ門を捕(とら)ひ、高手小手(たかてこて)に縛り上げ、組合村長(くみあいむらおさ)に屆け、夫(それ)より領主へ訟(うつた)ひ出、

「諸役人立合(たちあひ)、吟味・白狀、明濟(めいさい)の上は。」

とて、終(つゐ)に、川原(かはら)へ引出(ひきいだ)され、首を、

タ。」

打落(うちおと)しぬ。

 扨も、藤次右ヱ門は、首、打落され、夢ともなく、現(うつゝ)ともなく、渺々(びやうびやう)たる砂原の仄暗(ほのぐら)き所に、出たり。

 藤次右ヱ門、思ひらく、

「扨は、是ぞ、かの冥土黄泉(めいどくはうせん)の旅とは、此所なるべし。何卒(なにとぞ)して極樂の道に尋ね當たらばや。」

と、足にまかせて行(ゆく)ほどに、次第に薄明りて、遙(はるか)に鐘の聲、聞へければ、

「扨こそ。極樂も程近きと覺(おぼへ)たり。一時(いちじ)も早く行かばや。」

と、鐘の聲を導(しるべ)に、辿(たど)り付(つき)たれば、細き流(ながれ)に橋ありて、大なる精舍(しようじや)の堂上(どうしよう)に讀經の聲聞へて、切(しきり)に感淚、袖を絞り、門前は老若男女(らうにやくなんによ)、參詣群集(ぐんじゆ)のさま、殊勝(しゆしよう)、云ふべからず。

 扨、傍(かたはら)に池ありて、紅白の蓮花(れんげ)、盛(さか)りに開(ひら)けたり。

 藤次右ヱ門、心中に思ひけるは、

「我(わが)乘(のる)べき蓮(はちす)は孰(いづ)れならん。先(まづ)、乘りて見ばや。」

と、池の中へ、

「ざんぶ。」

と飛入(とびいり)、一莖(いつきよう)の蓮(はちす)に足をかくれば、

「ホ。」

折れて、乘るべからず。

 又、一花(いつくは)に足をかくれば、

「ホ。」

折れて、池の中ヘ、

「どふ。」

と倒れたり。

 參詣の男女、是を見て、

「それ、氣違ひよ、狂人よ。」

と呼(よば)はるほどに、寺中(じちう)よりも、大勢、驅け出、漸く池の中より引上(ひきあ)げ、

「さて其方(そのほう)は何者ぞ。」

と問へば、

「さればにて候。私(わたくし)、娑婆にありし時は、赤沙日村庄屋藤次右ヱ門と申(まうす)者にて候。」

と、震(ふる)ひ、震ひ、申(まうし)ければ、皆々、大に笑ひ、

「扨は、狐付(きつねつき)ならん。」

と云はれて、漸々(やうやう)心づき、見れば、新泻の寺町なりけり。

 

[やぶちゃん注:私の好きな話である。

「新泻砂山」この「砂山」は固有名詞かと思っていたが、どうも新潟の砂丘地帯を指しているらしい。諸情報から、ここに出る狐を祀る「青山御幣稲荷神社」が現在の新潟県新潟市西区青山に存在し(ここ(グーグル・マップ・データ))、その地図を見て貰えば判る通り、ここから海岸線一帯が「青山」という地名であること、画像を航空写真に替えると、その海岸一帯(小針浜海水浴場等)が砂丘であることが判る。のみ氏のブログ「馬の会長日記」の『初めてのお散歩「青山の五平狐」』(リンク先には完全ではないが、本話の現代語での訳も載っている)によれば、この神社は『かつては砂丘の上にあ』ったが、昭和三九(一九六四)年の『新潟地震の際に砂丘が整地され』、『この場所に移った』という。また、創建は万治四・寛文元(一六六一)年とも、一説には建久四(一一九三)年とも言われる、とある。なお、全文の逐語的訳としては、ずっと昔から好きなサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学の壺」に「青山狐」がお薦めである。但し、この程度の古文を古文で味わえないというのは、日本人として大いに恥ずかしいことだと私は感ずる人種である。

「赤沙日」原典は後の二箇所ともにルビが黒く潰されている。野島出版版は『あかさび』と振る。この漢字表記では現在地名は見出せないが、幾つかの候補は挙がった。その中で、新潟に行き、帰りにこの青山地区を通過して帰るという条件に合うものとしては、現在の新潟市西蒲区赤鏥(あかさび)が挙げられる。ここ(グーグル・マップ・データ)。違っていれば、御教授願いたい。青山からは南西に直線で十八キロメートルほどある。

「草村(くさむら)」叢。

「麁相(そさう)なること」「粗相」に同じい。原義は「不注意から起こす失敗・軽率な過ち・しくじり」の意であるが、現在でも子供などが「大小便を洩らすこと」に限定的に使うから、ここは小便を妖狐にひっかけるというところの面白みをこの語が倍加させると言える。

「疎忽(そこつ)」「軽はずみなこと・注意や思慮が足りないこと」「不注意なために起こったあやまち・粗相」「失礼・無礼」の意。

「高手小手(たかてこて)」両手を後ろに回させ、首から繩を掛け、二の腕から手首までをみっちりと厳重に縛り上げること。

「組合村長(くみあいむらおさ)」この熟語では私は見かけたことがない(「日本国語大辞典」にも載らない)。各村の村長(里長)は名主(なぬし)・庄屋・村長(むらおさ)などがなったが、近隣の幾つかの村に関わって重大な事件が発生した場合などには代表して公儀や領主に訴え出る村長が予め決まっており、それをかく呼んだのかも知れない。「日本大百科全書」の「組合村」の最初の解説(二つ目のそれは文政の改革で関東取締りのために行われた文政一〇(一八二七)年に発令された「組合村」の設定を解説してある。これは関東一円に領主の異同に関係なく、近隣三~五箇村からの小組合と、さらに十近い小組合を結集して大組合を編成し、これを改革組合村の一単位としたもので、この大・小組合村にそれぞれ組合村役人を名主のなかから任命したのであるが(それは、まさに「組合村長」であろうが)、本書刊行より後のことであり、しかも場所も異なるから違う)によれば、近世の農村で『水利や林野の維持・管理のために周辺の村々が結集した組織。用水組合や林野組合などがある。また、助郷(すけごう)組合村や大庄屋(おおじょうや)管下の村々の行政的組合村があり、年貢徴収や触書(ふれがき)の伝達などを任務とした』とあるから、家族を誑かして娘を殺させたというゆゆしき重罪であり、現場は「青山」の村落地区でも、殺された娘は「新潟」の何れかの町内の者であり、犯人はずっと離れた「赤沙日村」のしかも「庄屋」であるからして、広域に亙る重大猟奇事件であるからして、ここは大庄屋管下の村々の行政的組合村としての村長に届け出たと考えてよいであろう。

「明濟(めいさい)」逐一はっきりと検証証明され尽くすこと。

「新泻の寺町」現在の新潟市西堀通りには四十三ヶ寺もの寺が並び、新潟約五百年の歴史を忍ばせ、現在でもこの辺りを「寺町」と通称している。新潟市公式サイト内の「新潟の町 坂道めぐり 寺町あるき」マップ1」(PDF)を参照されたい。恐らくはこの中の何れかの寺であろう。それにしても、妖狐に騙されて主人公はもと来た新潟へと五キロ近くも戻されたことになる。]

2017/09/02

北越奇談 巻之五 怪談 其十二(老狐の怪)

 

    其十二

 

 蒲原郡押付村(おしつけむら)に㚑驗著(いちゞ)るき稲荷明神あり。社地は、即(すなはち),西川堤(にしかはづゝみ)の下、百姓吉右ヱ門と云へる者の建立(こんりう)せる所也。社殿の下に住居(すみゐ)せる穴あり。常には小狐出て遊び、戯れ居(ゐ)ると雖も、人をも恐れず、犬なんども、さらに是を不ㇾ追(おはず)。尤(もつとも)祈願ある人は其社前に詣ふでゝ、小豆(あづき)の飯(めし)・油煮(あぶらに)の豆腐、如ㇾ例(れいのごとく)供物供へて歸ることなり。扨、翌朝(よくてう)、疾(と)く行(ゆき)て、社頭を拜するに、祈願成就すべきには、必(かならず)、其供物を食(くら)ひ盡くし、不成(ふじやう)の願(ぐはん)には一ツも食(しよく)すること、なし。是、尤、一奇なり。別して盗賊のために失へる物を祈るに、十にして八、九は不ㇾ出(いでず)と云ふことなし。

 此先祖、吉右ヱ門と云へるは、既に百二、三十年前(ぜん)のことなるべし、春の雪のむら消(ぎえ)なる頃、畑(はた)に出(いで)て蓑笠を傍(かたへ)に脱ぎ捨(すて)、獨り、畝作(うねづく)り、耕(たがや)しけるに、何處(いづく)より、來(きた)るともなく、尾と頭(かしら)と、半(なかば)白き老狐(らうこ)、身を潛(ひそ)めて走り來るあり。

 吉右ヱ門、驚き、見返れば、大なる鷲一ツ、箭(や)を突くごとくに飛來(とびきた)る。

「あはや。」

と見るうち、かの老狐、吉右ヱ門が捨置(すておき)たる簑笠の下に身を隱せり。

 かゝる折しも、田畑に群がり居(お)れる若き者共、三、四人、

「それ狐よ。」

とて、鍬・鋤なんど、振りかたげて、追ひ來(きた)るにぞ、かの鷲は狐をば見失ひぬ。其(その)人人の騷ぎにや驚きけん、遙(はるか)の天外に飛去(とびさり)たり。

 扨、若者ども、集まりて、かの老狐を殺さんとす。

 吉右ヱ門、深く是を憐み、酒一斤(きん)を約して、遂に四人を歸らしめ、即(すなはち)、かの老狐を蓑に包み、己(おのれ)が家に歸りて、食物(しよくもつ)など與へけるに、此老狐、吉右ヱ門が傍(かたはら)を離れず、種々(しゆじゆ)の奇をなして、衆人の目を驚かす。

 一年(ひとゝせ)、吉ヱ門、家、貧にして、味噌の大豆(まめ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を煮ること、能(あた)はず。家内(かない)、以(もつて)、是を愁ふ。しかるに、翌朝(よくてう)、起出(おきいで)て見れば、味噌大豆(みそまめ)を煮て丸めたる「玉(たま)」と云へる物、家の中に滿ち滿ちたり。

 吉右ヱ門、驚き、近隣に告(つげ)しむるに、村の寺にて煮たる味噌玉(みそだま)、悉(ことごと)く盜まれて、なし、と云ふ。

 吉右ヱ門、大に怒り、

「是、必(かならず)、老狐の業(わざ)らん。」

とて、かの老狐に向ひ、

「早々、寺へ返すべし。」

と云へりければ、又、其夜(よ)のうちに盡(ことごと)く運び返しぬ。

 其余(そのよ)、吉右ヱ門、訴訟の事ありて出入(でいり)に勝(かち)たる話(わ)、三國峠(みくにとふげ)にて盗賊に出合(であい)、非力(ひりき)の吉右ヱ門、自然に術(じゆつ)を得て、盗賊、四、五人を打伏(うちふ)せたる話(わ)、皆、老狐の利驗(りげん)なること、種々(しゆじゆ)奇談ありと雖も、事長(ことなが)きを以つて是を畧す。

 其後(そのゝち)、稲荷大明神と祭奉(まつりたてまつ)りて、國人(くにうど)の尊信、又、少(すくな)からず。

 

[やぶちゃん注:「蒲原郡押付村(おしつけむら)」現在の新潟市西蒲区押付。(グーグル・マップ・データ)。現在の同地区は西北が西川の右岸にごく近い。同地区内の西のはずれに「鎧八幡太神宮」を、その西北直近の矢島地区内に神明宮を見出せはする(拡大グーグル・マップ・データ)が、これ等の何れかであるか、或いは合祀されているか、或いは消滅してしまったかは不明である。

「尤(もつとも)祈願ある人」この「尤」は「特に」の意。

「百二、三十年前(ぜん)」本書刊行は文化九(一八一二)年春であるから、延宝八(一六八〇)年前後から元禄三(一六九〇)年より前となろう。

「雪のむら消(ぎえ)」初春の頃、雪が斑(まだら)に消え残ること。

「振りかたげて」「傾けて持つ・傾けて構える」の意の「傾げる」、「肩に載せる・担(にな)う・担(かつ)ぐ」の意の「擔(担)げる」の意が考えられる。後者で採る。

「酒一斤(きん)」「斤」は重量単位で六百グラムであるから、酒はアルコール分が少ないので六百ミリリットルに換算してよい。一升瓶三分の一。
 
利驗(りげん)」利益(りやく)に同じい。

北越奇談 巻之五 怪談 其十一(貧福論)

 

    其十一

 

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[やぶちゃん注:北斎画。キャプションは「假設氏 大樹の下に やどりて 神人の物語を 聞」。]

 

 神(かみ)は人の敬するによつて、其威力を益(ます)と云へり。

 實(げ)にさも在(あら)んか、爰(こゝ)に假設齋(かせつさい)と云へる豪富の人あり。數世(すせい)の後(のち)、家勢、次第に衰微して、産業、正に乱(みだれ)んとす。爰に於て、假設齋、過(すぎ)し頃、當國一ノ宮伊夜日子明神に、百日參籠して、家勢を中興せんことを祈るに、百日の祈願、已に滿(みち)なんとする夜(よ)、夢ともなく、幻ともなく、環鬢(くわんびん)、端正(たんせう)の童子一人、枕の上(ほとり)に立(たち)て、かの假設齋に告(つげ)て曰(いはく)、

「汝、丹精を拔きんで、家事をわれに祈ること、尤(もつとも)愛惽(あいみん)する所なり。然りと雖も、『禍福、有ㇾ門(もんあり)、人の招く所に至る』と。われ、又、是を如何ともすること、なし。汝が家、從來、耕田(かうでん)、百余石、蒼頭(さうとう)奴碑(ぬひ)、百余人、貢納(くなう)の小民、一千余家、依然として、皆、食すべし。然るに、近世の風俗、上(かみ)の好(このむ)所、下(しも)、必(かならず)、是を學ぶの倣(なら)ひ、衣服・器財の華美、飮食の珍味、異國山海(いこくさんかい)を盡して求(もとむ)る所、なきがごとし。其主(しゆ)、已に酒食に耽り、遊興に荒(すさ)む。是、又、汝が衰(すい)の一なり。家僕、又、是に效(なら)ひ、間(かん)を偸(ぬす)み、勤(つとめ)を省(はぶ)きて、給ふ所の扶持(ふち)、半年(はんねん)の費(つゐい)に不ㇾ滿(みたず)。是、又、汝が衰の二なり。地を借り、耕すの小民、自然に、又、其奢(おごり)を學んで、自(みづか)ら耘(くさぎり)耕(たがやす)ことなく、僕(ぼく)を抱(かゝ)へ、人を雇ふて、是を扶(たす)く故、得る所、少(すくな)し。貢納(くなう)の時に至(いたつ)て、又、是を減少するに、年の災異(さいい)を名(な)とす。是、又、汝が衰の三なり。故に、上(かみ)、費(つゐい)多く、下(しも)、收(おさむ)ること、少(すくなき)を以(もつて)、上(かみ)は下(しも)を責(せめ)、掠(かす)め、下は上を僞(いつは)り、恨む。今、此三ノ衰事(すいじ)、又、改むるによしなし。われ、又、如何ともすること、なし。只、汝が不徳を恨(うら)め。只、世の盛衰を恨むべし。只、其吉凶はあざなへる繩のごとし。禍福、必(かならず)、双連(そうれん)す。」

と言竟(いひおはつ)て、夢、忽(たちまち)、覺(さめ)ぬ。

 こゝに、假設齋、感淚止(とゞ)め難く、すごすごと神殿を立出(たちいで)、家に歸らんとするに、夜(よ)、いまだ明(あけ)ず。足にまかせて行くほどに、山路(やまぢ)を失(しつ)し、深林に分入(わけいり)、何處(いづく)ともなく辿(たど)りけるに、忽然と、大樹下(たいじゆか)に一小社(ほこら)あるを見る。

 假設齋、思ひらく、

「此ところにやすらひ、天明(よあけ)て歸るべし。」

と、即(すなはち)、小社を拜し、大樹の後ろに到りて、暫く佇(たゝず)み、息(いこ)ふ。

 折節、忽(たちまち)、表の方(かた)に、淸麗(せいれい)なる轡(くつわ)の音して、馬(むま)に乘(のり)、來(きた)る者あり。

 假設齋、竊(ひそか)に是を窺ひ見れば、白衣(はくい)髙冠(かうくはん)の神人(しんじん)、已に小社(ほこら)の前に至(いたり)て、馬より下(おり)、即(すなはち)、呼(よん)で曰(いはく)、

「愚神(ぐしん)、内(うち)に在(あ)りや。」

と。

 爰に、又、小社の中より松姿(しようし)鶴髮(かくはつ)麁服(そふく)葛巾(かつきん)の神人(しんじん)、立出(たちいで)て、大樹の南に坐(ざ)す。白衣の神人も、即、樹下の北坐せり。

 葛巾の神(しん)、問(とふ)て曰、

「公(こう)、今、何(いづ)くより來(きた)れるや。」

白衣の神、答(こたへ)て曰(いはく)、

「吾、今夜、一ノ宮内殿勤番に相當(あいあたり)て、今、正(まさ)に歸(かへら)んとす。」

葛巾の曰、

「何の珍事かある。」

白衣の曰、

「假設氏(し)、産業の衰(すい)を以つて中興せんことを祈る。然(しか)りと雖も、世の盛衰、神力(しんりよく)の及難(およびがた)きことを示し給ふなり。」

葛巾の曰、

「公等(ら)、何ぞ告(つぐ)るに齊家(せいか)の術を以つてし給はざる。」

白衣、笑(わらつ)て曰、

「治國齊家は、上古の聖賢だも、皆、難(かた)しとす。況(いはん)や、汝が貧愚、何の説(とく)所あつてか、此言(げん)をなすや。」

葛巾、慷然(かうぜん)として荅(こた)へて曰、

「公、不ㇾ聞(きかず)や、『麟駒(りんく)は、瘦(やせ)たるを以(もつて)、馬師(ばし)、是を謬(あやま)り、名士は、其貧なるを以つて、吏部郎(しふらう)、是を誤る』[やぶちゃん注:「吏部郎(しふらう)」はママ。]と云へり。我、今、其一二を述(のべ)ん。只、齊家の術、其時により、其所により、其風俗よりて、以(もつて)計(はかりごと)を施すべし。上古は地に画(ゑがき)て、民(たみ)、服し、琴(こと)を調(しら)べて、國、治(おさま)る。蕭何(しようか)は刑を三章に省(はぶ)き、諸葛(しよかつ)は刑を六條に增(ます)。是、皆、其世と時と風俗なり。我、今、假設氏(し)が爲に是を計(はか)らんに、只、富(とみ)を用ゆべし。即(すなはち)、是、近世の風俗に據(よ)ればなり。」

と。

 白衣、又、大に笑(わらつ)て曰、

「汝、今、富を云へども、其富、得べくんば、假設氏、万石(まんこく)の田(でん)、數(す)十の僕(ぼく)、一千の小民、以(もつて)、富を難(かた)しとせんや。富、實(じつ)に得難し。汝、是を如何(いかん)がせん。」

葛巾の曰、

「富、甚だ妥(やす)しと雖も、其道を以つてせずんば強(しゆ)る共、豈(あに)及(およば)んや。古人、云へることあり。『農は不ㇾ如ㇾ工(こうにしかず)、工は不ㇾ如ㇾ商(しようにしかず)』と。其れ、陶朱公(とうしゆこう)・白圭(はくけい)・子貢(しこう)が富、其道を得たるなり。其余(そのよ)、古今數千(ここんすせん)の商(しよう)、其道を得る者、少(まれ)なり。一度(たび)、其道を得ば、家勢、忽(たちまち)、盛(さかん)にして、恩沢、奴僕(ぬぼく)までに及ぶ時は、小民も又、貢(みつぎ)の責(せめ)を免(まぬ)かるゝことを得て、郡縣、已に豐かなるべし。郡邑(ぐんゆう)豐かなる則(とき)は、小民、自(おのづか)ら上(かみ)を尊(たつと)ぶ。爰に於て、上下、和(くはす)也。故に不謂(いはず)や、『人、富(とん)で、仁義、足(た)る』と。」

白衣、又、勃然として怒(いかつ)て曰、

「汝、しかも其富を致すの術あらば、何ぞ如ㇾ此(かくのごとき)一小社(いつせうしや)の中(うち)に寓(ぐう)して、人の是を祭ることなく、祈(いのる)に驗(しるし)あることなきは、なんぞや。」

葛巾の曰く、

「韓信、漂母(ひようぼ)に食を求めし時は愚(ぐ)にして、元帥となるに至(いたつ)て智あるにあらず。呂商(りよしよう)は、年(とし)八旬に滿(みち)て、一鄙妾(いつひしよう)が愚(ぐ)を教(おし)ゆること能(あた)はずと雖も、其(その)用(もちゆ)る所に及んでは、天下、只、一智(いつち)なり。是、皆、用る人なきと、其智の施す所あらざるを以つてなり。神力(しんりよく)は、只、人の敬するに據(よ)る。吾は、いまだ、その敬する人を不ㇾ得。假設氏、又、其人を不ㇾ得。」

と云ふて、忽(たちまち)、小社(ほこら)の中(うち)に入ると見えしが、二神(じしん)、あとなく、飛去(とびさり)て、林風(りんふう)、只、蕭颯(しようさつ)たるを聞くのみ

 

 誠に此(この)一事、小児の昔物語を聞(きく)がごとしといへ共、神國(しんこく)の奇、今、猶、㚑詫(れいたく)の明かなること、如ㇾ此(かくのごとし)。

 是を以(もつて)按ずるに、富は、それ、難く(かた)して、又、安きか。

 先年、平賀源内と云へる奇才あること、皆人(みなひと)の知る所なれども、平賀、常々、人に對して、万(よろづ)のこと、分別の知を用(もちふ)るに、只、者を致すこと、尤(もつとも)、安しと云へるを聞(きけ)り。さも在(あら)んか。然りと雖も、人、各(おのおの)、其分量あつて、百錢(せん)の力(ちから)は百錢の音をなすに不ㇾ過(すぎず)、千錢(せんせん)の力は千錢の富をなすに不ㇾ過。

 弱冠の頃、相法(そうほう)を少し學び得て、今、是を按ずるに、下賤(かせん)の奴僕(ぬぼく)、たまたま貴相あることありと雖も、是、則(すなはち)、奴僕中(ちう)にして其貴(き)を得るのみ。又、貧困乞食(こつじき)の輩(ともがら)、まれに福相あることあり。是、又、貧中(ひんちう)の福を得る者にして、所謂(いはゆる)、駑馬(どば)に麒麟の一毛(もう)なる物なり。是、皆、其分量ある所にして、百錢の分量、豈(あに)、よく千金の富をなすことを得んや。

 平賀氏(うぢ)、初め、家、貧にして胸中の智を盡くすこと、不ㇾ能(あたはず)。一日、東武に遊(あそん)で富家(ふか)に身を賣(うら)んことを求む。其給銀(きうぎん)、凡(およそ)十八貫目、三年を限(かぎり)す。諸家、皆、不ㇾ肯(うけがはず)。依ㇾ之(これによつて)、京師(けいし)に出(いづ)ると雖も、如ㇾ始(はじめのごとし)。終(つゐ)に去(さつ)て浪華(らうくは)に出。即(すなはち)、始めのことを以(もつて)、諸家に申す。爰に某(それがし)の豪富、其詞(ことば)の奇なるを以(もつて)、是を赦(ゆる)し、即(すなはち)、給銀十八貫目を與(あた)ふ時に、平賀氏、これを得て、隨意(こゝろまゝ)に遊行漫興(ゆうかうまんきやう)して、更に家事を勤(つとめ)ざること、二年、一日、忽(たちまち)、來つて、主人に告(つげ)て曰、

「君が知遇の恩、今、正(かさ)に報ぜんとす。」

。爰に於て商(あきなひ)ものす。忽、其利、三千金、以、主人に呈して去(さる)と云へり。

 これ、誠に平賀氏(うぢ)の一大奇智なり、以、因(ちなみ)に擧ぐ。

 

[やぶちゃん注:後半の崑崙の評言部の前を恣意的に一行空けた。これは最早、怪談ではなく、役者に神を演じさせて登場させた崑崙の考える貧富論である。そもそもが家の再興を願う主人の名の「假設齊」(仮設斉)は如何もヘンな雅号である。「仮に設けた」ところの名、誰でもよい、あんたかも知れぬ、いやいや、この読者みんな(「齊」は「等しく皆」の意がある)だ、という見え見えの「設」定なわけだ。

「一ノ宮伊夜日子明神」既出既注。現在の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦(やひこ)にある彌彦(いやひこ)神社。

「環鬢(くわんびん)」野島出版脚注に『環鬢は上代男子十七、八才以上の髮型、全髮を頭上の中央より左右に分け、各一束にして兩束邊に垂』らして輪のようにしたもの、とある。

「端正(たんせう)の童子」後に出る当番の神は成人である。それでは視覚的にしょぼいので童子に変じて出現したものであろう。この辺りから以下の二人の神のキャラクターや衣装から見て、私は崑崙はこれらをかなり意識的にアイロニックに描出しているように思う。以前にも述べたが、彼は必ずしも神道を尊んでいない人物であったのではないかと私は思うのである。

「愛惽(あいみん)」「惽」は「愍」(「憐憫」の「憫」に同じい)と同義。いつくしみ憐れむこと。

「禍福、有ㇾ門(もんあり)、人の招く所に至る」「春秋左氏伝」の「襄公二十三年」にある以下の一節を引こうとして崑崙が誤まったもの

   *

禍福無門。唯人所召。

(禍福は、門、無し。唯、人の召く所たり。)

   *

野島出版脚注もここを引いて、『災福は、人が、自ら招くので』あって、『その来る所に一定の門戸はない』『という意味』とあり、さらに崑崙が「有」『としたのは記憶ちがいであろう』と記す。

「蒼頭(さうとう)」原義は、昔、中国で兵卒が青い頭巾を被ったところから「兵卒・雑兵(ぞうひょう)」の意であるが、転じて、「僕(しもべ)・下男」の意ともなった。ここは、無論、後者。

「奴碑(ぬひ)」下男と下女。召使。

「貢納(くなう)の小民」年貢を納める義務を担った小作人等。

「上(かみ)の好(このむ)所、下(しも)、必(かならず)、是を學ぶの倣(なら)ひ」野島出版脚注に、「孟子」の「勝文公篇」に『「上、好む者あれば、下、必これより甚だしきものあり」とある』とあり、「淮南子」にも『「上の好む所、下尤も甚し」などの句がある』とある。

「異國山海(いこくさんかい)」他国(ここは日本国内の自国以外のところの意。ロケーションに即すなら越後国以外の他国に当たる)の山海の珍味や景勝地。

「扶持(ふち)」例えば、江戸時代の武士の給与の最少単位とされた正規の「一人扶持」は、一人一日当たり五合の飯米の支給であった。野島出版脚注ではここに注して、大抵は『四合だったと云う』とあり、ここは民間人の平均を述べているのであるから、四合の方がより正確であろう。

「費(つゐい)」読みはママ。

「年の災異(さいい)を名(な)とす」その年の天候(旱魃や水害)のせいにする、かこつけて弁解する。

「吉凶はあざなへる繩のごとし」「禍福は糾(あざな)へる繩の如し」で、「史記」や「漢書」などに基づく故事成句。「糾(あざな)ふ」は「糸を縒り合わせる・縄を綯(な)う」を幸福と不幸は表裏一体のものであり、より合わせて作った繩の目のように、代わる代わるやって来るもの、人智を以ってしても量り難いほどに目まぐるしく変化するものであるという譬え。「人間万事塞翁が馬」の如く、不幸だと思ったことが福に転じたり、幸せだと思っていたことが禍いに転じたりすることをも指す。

「一小社(ほこら)」原典は三文字にルビするように見える。野島出版版は「小社」のみにルビする。原典は本文の数字には一般に読みを振っていない。

「松姿(しようし)」野島出版脚注に、松の木が長寿で経年や寒暑『にも色を変えざるところから松姿は老人』を指すとある。

「鶴髮(かくはつ)」鶴の羽のような白髪。

「麁服(そふく)」粗末な衣服。

「葛巾(かつきん)」葛布(くずふ:葛の茎の繊維を緯(よこ)糸に用いて織った布。水に強く丈夫である)の頭巾(ずきん)。

「白衣の神人も、即、樹下の北坐せり」言わずもがな、「君子、南面す」で彼が遙かに地位が高いことを示す。彼に冒頭から「愚神」と屈辱的に呼ばれた神が坐した「南」(北面)は君臣の位置に当たる。

「吾、今夜、一ノ宮内殿勤番に相當(あいあたり)て、今、正(まさ)に歸(かへら)んとす」彌彦(いやひこ)神社では複数の上級神が輪番制で「神」業務に従事していたという設定が小気味よく面白いではないか。因みに同神社の祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)である。神武天皇の大和国平定後、勅命を受けて越国を平定、開拓に従事してここで没した人物と伝える。但し、祭神大彦命(第八代孝元天皇の第一皇子で第十一代垂仁天皇の外祖父)等とする説もある。

「齊家(せいか)」野島出版脚注に『家庭をよくととのえおさめる』とある。

「治國齊家」野島出版脚注に『「大学」に、「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先づ其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉』(ととの)『う。其の家を斉えんと欲する者は先づ其の身を修む」云々の言葉がある』とある。

「況(いはん)や、汝が貧愚、何の説(とく)所あつてか、此言(げん)をなすや」「そもそもがだ! お前さんのような貧しく愚かな低級神が、何の拠るところのあって、そんな偉そうなことを我らと対等に話そうとするんじゃ!」。

「慷然(かうぜん)として」威厳を持った感じで。厳(おごそ)かで犯し難い様子で。野島出版脚注に『いきどおりなげく。』とするが、採らない。それでは「憤然」である。

「麟駒(りんく)」「麟」は想魚上の神獣である麒麟のことだが、ここは特別な比喩用法で、馬(後を参照)の中でも稀な優れた個体を指していよう。「駒」は野島出版脚注によれば、『馬の少壯なるもの』を指し、『五尺以上は駒といい、六尺以上は馬ともいう』とある。

「馬師(ばし)」馬の調教師にして鑑定家。

「吏部郎(しふらう)」原典のルビは「し」であるが、漢字は明らかに「吏」である。吏部郎(りぶらう(りぶろう))が正しい。中国に於ける官吏登用の際の担当官を指す。人の才能を見出して登用する人事担当の官職のこと。野島出版版は本文を「史部郎」としてしまい、脚注も『書物を分類して之を司る役人』としてしまっている。これでは前の名馬の馬師の対句にならず、そもそもが意味が通らない。

「地に画(ゑがき)て」野島出版脚注に『境界を立てる。土地を分ける』とある。聖王がさっとただ地面に境界の線を引いただけで、総ての民はそれに従い、誰も文句を言わず、争いも起こらず、天下は治まったというのである。

「琴(こと)を調(しら)べて、國、治(おさま)る」前と同様で、聖王がただ美し琴を弾き鳴らした、その演奏が聴こえてくるだけで、民は世の太平を心から楽しんだというのである。所謂、「鼓腹撃壌」(聖王尭(ぎょう)の時代に一老人が腹鼓(はらつづみ)を打ちつつ大地を踏み鳴らして、太平の世への満足の気持ちを歌ったという「十八史略」などに見える故事)である。

「蕭何(しようか)」(?~紀元前一九三年)は秦末から前漢初期にかけての政治家で、劉邦の天下統一を輔けた漢の三傑(他は張良と後に出る韓信)の一人。

「刑を三章に省(はぶ)き」これは漢の高祖劉邦が秦を滅ぼした直後(紀元前二〇六年)に定めた規約「法三章」のこと。「世界大百科事典」などによれば、①人を殺す者は死刑、②人を傷つける者、及び、③盗む者はそれぞれ重罰に処するとしただけで、他の秦の煩瑣な法律は総て廃止して人心を鎮静させたという。但し、これは反秦の将軍劉邦が旧秦の首都圏に当たる関中の人々に対して発布した応急の約束、軍令の類いであって、これのみでは姦悪な行為を防止出来ず、国家統治の法律としては十分でなかったことから、漢初にこの蕭何は秦の法の中から時勢にかなったものを選んで、「九章律」を策定したと言われる、とある。

「諸葛」字(あざな)の孔明で知られる三国時代の蜀漢の丞相であった諸葛亮(一八一年~二三四年)。劉備に仕え、赤壁の戦いで魏の曹操を破った。劉備の没後、その子劉禅を補佐、「出師(すいし)の表」を奉って漢中に出陣、五丈原で魏軍と対陣中、没した。

は刑を六條に增(ます)。是、皆、其世と時と風俗なり。我、今、假設氏(し)が爲に是を計(はか)らんに、只、富(とみ)を用ゆべし。即(すなはち)、是、近世の風俗に據(よ)ればなり。」

「汝、今、富を云へども、其富、得べくんば、假設氏、万石(まんこく)の田(でん)、數(す)十の僕(ぼく)、一千の小民、以(もつて)、富を難(かた)しとせんや。富、實(じつ)に得難し。汝、是を如何(いかん)がせん」やや分かり難い発言であるが、ここで仮設斉に元来持っていた「万石の田」と「數十の僕」及び「一千の小民」を結果的に得られるようにしたとならば、彼は果たして、その嘗てと等量のそれを「富」としてしみじみ感じ、「富とはまっこと得ることの難しいものなのだなあ」と心底、改心し、嘗てのような奢侈に耽らないだろう? いか、きっとそんな風に感ずることは微塵もなく、元の木阿弥に違いなかろうよ、と言うのであろう。

「富、甚だ妥(やす)しと雖も、其道を以つてせずんば強(しゆ)る共、豈(あに)及(およば)んや」これも分かり難い(私には)。「確かに、そのようにしたら、仮設斉は富を得ることはた易いことだと感ずるでしょうが、結果的に富を与える形の処方を彼にとってやらず、現在のまま、急速に零落するばかりの状態に強いて置かせるよりは、遙かにマシでしょうに?!」の意で採っておく。

「陶朱公(とうしゆこう)」春秋時代の越の政治家・軍人である范蠡(はんれい 生没年不詳)が自ら後半生で称した名。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされる。ウィキの「范蠡」によれば、『范蠡は』、勾践が『夫差の軍に』、『一旦』、敗れた時、『夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り』、『夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた』(范蠡は同僚の信頼していた勾践の家臣『文種への手紙の中で「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています』。『越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた』という)。『越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は』「名が上がり過ぎるのは不幸の元だ」と言って、『財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては』、「史記」の「貨殖列伝」に描かれているとある(下線やぶちゃん)。

「白圭(はくけい)」(生没年未詳 紀元前四〇〇年前後か)はやはり「史記」の「貨殖列伝」に紹介されている戦国時代の周の商人で、中国史の中で商業の祖師ともされる。参照した「名古屋E&J法律事務所」ブログのこちらの記事によれば、彼について、司馬遷は『「飲み食いはそまつにして、欲望をこらえ、衣服も質素にして、はたらく下男たちと苦しみも楽しみも同じにし、時期をにがさぬことは、猛獣やはやぶさが飛びかかるようにする」と書いて』おり、『こんなことを言っているらしい』として、『「私が商売をするのは、伊尹(いいん)や呂尚の政略、孫子、呉子のいくさのかけひき、商鞅(しょうおう)の厳罰政治と同じことだ。そういうわけで時勢の変化をみぬく知力の足らぬもの、決断する勇気が足りぬもの、取ったり与えたりする仁徳に欠けるもの、きめたことをやりとおす意思の力の欠けたもの、そういうひとたちには、私のやりかたを学びたいと思っても、決して教えないのだ。」』とある(下線やぶちゃん)。

「子貢(しこう)」(紀元前五二〇年~紀元前四四六年)は孔門十哲の一人。孔子より三十一歳年少であった。。ウィキの「子貢」によれば、『弁舌に優れ衛、魯でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の』「史記」によれば、『子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる』。『商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った』とある。孔子の有力な資金援助上でのパトロンでもあった。『春秋左氏伝には、国難に際して子貢が呉、斉などへ、外交官として使わされていることが散見している。(春秋左氏伝では子贛とも表記されている。同一人物とされる)また、魯の大臣が外交の場で失敗して、子贛がいれば失敗しなかったのに、と残念がっている表現や、斉国から成という城市を取り戻していること、答えに窮した正使を助けていることなどの言動から、かなり有能であったことがわかるし、孔子にも勝る』、『と一部で評価されるのも理解できる』。また、「史記」の『記述によれば、魯を救うために越、呉、斉、晋に使いし後の縦横家顔負けの弁舌をふるって魯を救い、呉を滅ぼし、越を覇者たらしめ、斉を弱めて晋を守ったとされ』、『このような功績から、魯衛の宰相になったといわれる』。その上、彼は「史記」の「貨殖列伝」に載る『ほどの人物で、その伝には、子貢は魯と曹の国で物資を売り買いして莫大な富を築いたとされる。また各国諸侯とも交際し、孔子の名が広まったのは子貢が弟子にいたからだ、と書かれている』。『子貢の商才を讃えて、後世、財界に大成のあった方への贈る言葉として、「端木遺風」は使われていたという』(子貢の本名は端木賜(たんぼくし))。『一部の言い伝えでは、子貢は財神(ざいじん。金運を高め、財運を呼び込む強力な力を持つ神様)として尊崇されている』。但し、『孔子は彼の能力の使い方に難色を示していた。しかし彼の才気煥発さを愛し、厳しく反省を促しながらも時に励まし、愛情のこもった指導をしている』ともある(下線やぶちゃん)。

「勃然として」怒った表情を表わして。如何にもムッとした様子で。

「韓信」(?~前一九六年)漢初の武将。当初は項羽に従ったが、後に劉邦 の将に寝返り、華北を平定、斉王次いで楚王に封ぜられたが、後、淮陰侯に左遷され、最後は反逆の疑いで劉邦の后呂后りょこう)に処刑された。

「漂母(ひようぼ)に食を求めし時」「漂母」晒しや洗濯などを生業(なりわい)としている婦人の意。野島出版脚注に『水中で綿を打つ老母が』、遊侠無頼の生活を送って放浪していた若き日の『韓信の職に乏しきを憐んで食を与えたことが「蒙求」』(もうぎゅう)『に出ている』とある。なお、この故事から「漂母」は広く慈悲心から「他者に食を恵む老女」の意で用いられるようになった。

「呂商(りよしよう)」太公望呂尚(りょしょう)の誤りであろう。紀元前十一世紀頃の周の軍師。後に斉の始祖となった。

「年(とし)八旬」八十歳。呂の生没年は未詳だが、例の周の文王が釣りをしている彼にに逢った時には既に彼は八十であったとするものが多い。

「一鄙妾(いつひしよう)が愚(ぐ)を教(おし)ゆること能(あた)はず」一人の田舎女の愚かなことを諭し教えることも出来なかった、という意味らしいが、その内容は私は知らない。或いはこれ、呂が周に仕官する前、ある女と結婚していたが、呂は仕事もせず、本ばかり読んでいたために離縁された。ところが、いざ、呂が斉に封ぜられると、元妻は彼に復縁を申し出た。そこで呂は水の入った盆(小さな木製の鉢型食器)を持ってきて、その水を床にみな溢(こぼ)した上、「この水を元の盆の上に戻してみよ。」と言った。女はやってみたが、当然出来なかった。太公望はそれを見て、「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻ることはない。それと同じように、私とお前との間も元に戻ることはありえないのだ。」と復縁を断ったという話(後秦の王嘉が編した「拾遺記」に収録されている説話で「覆水盆に返らず」の語源)と関係があるか。とすれば、呂のその譬えは彼女に通じなかったということになるのだが?

 

「其(その)用(もちゆ)る所に及んでは、天下、只、一智(いつち)なり。是、皆、用る人なきと、其智の施す所あらざるを以つてなり」この言葉もよく判らぬ。「その処方を用いるべき場面に対峙したとならば、それに有効な正しい処方はたった一つであり、それは正統なただ一つの智によって導き出されたものなのである。ところが、そうなって然るべきなのに、そうならないというのは、これ、みな、そうした正しい唯一の処方を用いることの出来る人がこの世に存在しないからであると同時に、その唯一正統なる智を施すべき大切な対象がこの世に現存在しないからに他ならないのだ。」という意味で私は採る。これは強烈な面前の上級神の能力や処置(ここでは仮設斉への)に対する指弾であると言ってよい。その神の論争が頂点に達したからこそ、ここで突如、話柄は截ち切れるとも言えるのではなかろうか?

「蕭颯(しようさつ)」もの淋しく秋風が吹くさま。

「平賀源内」(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)は江戸中期の本草家で戯作者。本姓は白石。元は讃岐高松藩の蔵番であったが、江戸で田村藍水に学び、藍水とともに日本初の物産会を開いた。「火浣布」(かかんぷ:石綿製の耐火布)・寒暖計・摩擦起電器「エレキテル」の製作や鉱山開発などに従事し、また、戯作などの著作物でも才能を発揮した。博物学書「物類品隲(ひんしつ)」(全六巻・宝暦一三(一七六三)年刊)は優れた薬剤書である。誤って人を殺(あや)め、その入牢中に病死(破傷風とされる)したとされる(詳細事蹟は後注参照)。幕府密偵説や死亡報知は嘘で後にまで生存したという説もあるが、本書刊行(文化九(一八一二)年)は死亡したとされる年から三十二年後であるから、崑崙が本章を執筆した当時は既に死んでいたと考えてよいが、崑崙の謂い方は、まるで生きている人間のことを書いているようにも感じられるのが面白い。

「万(よろづ)のこと、分別の知を用(もちふ)るに、只、者を致すこと、尤(もつとも)、安し」出典は不詳であるが、これは物の道理を窮め、知的判断力を高める意で、理想的な政治を行うための基本的条件ともされた古代中国における思想史上の術語「格物致知(かくぶつちち)」の考え方であろう。以下の崑崙の主張は物理的な現実主義と相対性を考慮した厳密な意味での対象把握にあることが判る。

「弱冠」数え二十歳。

「相法(そうほう)」。人相・家相・地相などを見て、その吉凶・運命などを判断する方法。観相法。ここは特に人相見。

「駑馬(どば)」脚ののろい馬。比喩的に才能の鈍い人の意でも用いる。

「麒麟の一毛(もう)なる物なり」伝説上の聖獣麒麟を思わせるような名馬の閃きを思わせるような一瞬が、その短い生涯の中には一瞬間はあるような類いのことに過ぎない。

「百錢の分量、豈(あに)、よく千金の富をなすことを得んや」反語。百銭の金の分量で、どうして、よく千両と全く相同の「富」の持つ有意に持続する感覚、エクスタシーを感ずることが出来ようか、いや、出来ない相談だ。

「平賀氏(うぢ)、初め、家、貧にして胸中の智を盡くすこと、不ㇾ能。……」以下は何に基づいて書いた事蹟か不明。識者の御教授を乞う(特に大坂の富豪の最後の一件)。ウィキの「平賀源内によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文五(一五三六)年十一月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている』。『幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で十三歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元(一七四八)年に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦二(一七五二)年頃に一年間』、『長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する』。『大坂、京都で学び、さらに宝暦六(一七五六)年には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。二回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦一一(一七六一)年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。宝暦九(一七五九)年には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦一一(一七六一)年に江戸に戻るため再び辞職する』。この時、『「仕官お構い」(奉公構)となり、以後、幕臣への登用を含め』、『他家への仕官が不可能となる。宝暦一二(一七六二)年には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する』。『宝暦一三(一七六三)年には「物類品隲」を刊行、オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和三(一七六六)年から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永二(一七七三)年には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える』。『安永五(一七七六)年には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する』。『安永八(一七七九)年夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁二人を殺傷したため、十一月二十一日に投獄され、十二月十八日に破傷風により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。享年五十二。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次』乃至は『故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない』とある。

「十八貫目」六十七・五キログラム。江戸中期の銀のこの重量では、現在の二千四百万円相当となる

「三千金」当時の三千両は現在の金額に換算すると、実に豪商が先払いした二千四百万円とぴったり一致する。確かにこれは正しく「一大奇智」と言えるであろう。]

2017/09/01

感懷



蟲聲一際高而處士更憂

 

北越奇談 巻之五 怪談 其十(霊の訪れ その四)

 

    其十

 

 磯谷村(いそだにむら)百姓某(それがし)兄弟二人、過(すぎ)し秋、東武に行(ゆき)て奉公せしが、春に至り、農事を營む頃には、必(かならず)、國に歸るべしと同郷の友に約せり。

 然(しか)るに、弟(おとゝ)なる者、病(やまひ)に臥して歸ること、能(あた)はず。

「愈(いゆ)るを待(まち)て、後(あと)より歸るべし。」

と知る人に看病を賴み置(おき)て、兄なる者は同郷の友一両人同道して歸りけるが、已に我家に着(つき)ぬべき日に至り、朝より赤き馬(むま)の荷も負(おは)ざるが、一丁(いつてう)ばかり先に立(たち)て行(ゆき)、或は見へ、或は見へず。是を追ひば、走りて去(さる)。終(つゐ)に家の前に至れば、かの馬、一走(ひとはしり)にして内へ飛び入ぬ。家人、皆、驚きて立騷(たちさは)ぐ。

 其馬、又、行所(ゆくところ)を知らず。

 兄も又、馬に續きて内に入しが、父母(ふぼ)、悦(よろこん)で、

「弟(おとゝ)は如何に。」

と問ふ。

 即(すなはち)、告(つぐ)るに、病(やまひ)あるを以(もつて)東武に殘せしことを語る。

 父母、大に嘆(なげき)て、

「赤馬(せきば)の怪、必、弟(おとゝ)、死せるならん。」

とて、急ぎ、人を東武に遣はして、其安否を問(とは)しむるに、弟(おとゝ)は、病(やまひ)、愈(いへ)て、其人と共に、歸り來れり。

 又、奇なるかな。

 凡(およそ)近世流行の戯作復讐者(げさくふくしゆうもの)數(す)百編、盡(ことごと)く、死㚑(しれう)の怪、なきはあらず。又、古(いにしへ)より、幽㚑の話は多くあることなれども、信じ難きことのみ多し。豈(あに)、陰鬼(いんき)、陽人(ようじん)に向(むかつ)て形を顯(あらは)し、能(よく)言語(げんぎよ)することを得んや。爰(こゝ)に於て、是を採らず。只、目(ま)の當たり見聞(みきゝ)たる、生魂夢遊(せいこんむゆふ)の話(わ)のみを記(しる)せり。

 

[やぶちゃん注:生霊譚三連投。赤い馬に変じた生霊とは面白い(但し、やや中国の伝奇小説の中にありそうな話柄ではある)。しかもこれも明白なハッピー・エンドで、本邦の怪談としては至って珍しいものと思う。さらにここで最後に崑崙は自説を展開している。即ち、彼は陰の気のみから成り立っているはずの死者の霊(「陰鬼」)が、陽気によって現存在している人間に向かってこの世で人間と同じ時空間で姿を現わしたり、人間と全く同じ言語を操ることなど、到底、出来るはずはないと一刀両断するのである。そして、これらを敢えて事実あった怪奇談として殊更にチョイスしているのは、「生魂夢遊(せいこんむゆふ)」、即ち、生きた人間の魂(或いは心)は現実の肉体から離脱することが出来、それは本人が意識していることもあれば、全く意識していない場合(「其八」のケース)もある、生霊現象は真実である、ということを崑崙は胸を張って主張しているのである。

 しかし、「では」と、私は続けて崑崙に反論したくなるのである。

「崑崙先生、あなたの信じておられる、人間の眼には見えない鬼神、死気から生じたとするその鬼神とは、どのような元素によって構成されているのか、どのようにして見えぬながらにこの世界に出現し、現実世界や我々が物理的に触れられる物質類と巧妙にアクセスすることが出来るのですか!? 石鏃」のところであなたが言っておられる鬼神は、明らかにあなたが翌朝また立った場所に、数時間前にいたのであり、或いはその時も共時的にいたのであり、しかも新たな物質としての造りかけの石鏃やその破片を現に置いて行っているのですよね?」

と、である。

「磯谷村(いそだにむら)」不詳。

「戯作復讐者」戯作復讐物。死霊が生きた人間に怨念を持ってダイレクトに復讐し、死に至らしめるという展開を持った戯作類。]

北越奇談 巻之五 怪談 其九(霊の訪れ その三)

 

    其九(く)

 

Hebi

 

[やぶちゃん注:北斎画。キャプションは「小女の夢 蛇と化して 衆人を驚かす」。「小女」は「こむすめ」と読んでおく。「夢」の「」は「魂」の異体字で「むこん」。因みに、野島出版版のカバーはこれを着彩したものを使用している。この野島出版社(新潟県三条市)版(私の所持するものは平成二(一九九〇)年発行の第五版)は新書サイズで九百五十円(税込)で、当時(結婚三ヶ月後で、買ったのは、今はない鎌倉小町通りの本屋の地方出版物の棚の隅であったことを妙に覚えている)、いい買い物をしたと歓喜雀躍したものだったが、ネットで調べてみると、どうも今は手に入らぬらしい。実に惜しい気がする。

 

 地藏堂、何某の娘、久しく病(やみ)て不ㇾ起(たゝず)。

 近隣・友の娘どち、春の事始めとて、大勢、相招(あひまねき)て、料理など振舞(ふるまひ)けるに、かの娘も其使(つかひ)を得て、頻りに行(ゆか)んことを欲(ほつす)れども、

「病中なれば。」

とて、父母(ふぼ)、これを許さず。

 かの娘、泣(なき)て不ㇾ止(やまず)。終(つゐ)に眠れり。

 扨、振舞の家には大勢の女、老若(らうにやく)うち交(まじり)て、或は謠ひ、或は踊(おどり)、琴よ、三味線(さみせん)よ、と笑ひさゞめきけるに、忽(たちまち)、家(いへ)、

「ひし。」

と鳴渡(なりわた)りて、二階の上より、大一尺周(まは)りほどならん、黄(き)なる蛇の、頭(かしら)、長く、さし出(いだ)せり。

 女共、大に驚き、

ッ。」

叫び、立騷(たちさはぐ)にぞ、人々、

「何事なるや。」

と騷動するに、其蛇、已に去(さつ)て見へず。

「是(これ)、如何なる怪事ならん。」

と、其夜の興は止(やみ)にけり。

 扨、彼(か)の病(やめ)る娘、翌朝(よくちやう)、人に談(かたつ)て云(いはく)、

「我、昨夜、夢に振舞の家に行きて見れば、あまり、座敷の賑(にぎやか)なる音せし故、竊(ひそか)にさし覗きたれば、皆の衆が立騷ぎ給へる故、終(つゐ)、面白き夢の覺(さめ)たり。」

と物語れり。

 

[やぶちゃん注:「地藏堂」複数回既出で既注。現在の新潟県燕市中央地蔵堂である(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「春の事始め」古く東国で陰暦二月八日に農事等の最初の雑事を始めることを祝って行なった「御事始(おことはじ)め」のことであろう。]

北越奇談 巻之五 怪談 其八(霊の訪れ その二)

 

    其八

 

 鬼木村(おにきむら)何某(なにがし)、業(なりはひ)のため、女房小児一人を家に殘し、東武に出(いで)て奉公せしが、兎角に不仕合(ふしあはせ)打續(うちつゞ)き、家に歸ること、能(あた)はず。已に三年を歴(ふ)れども、音信(いんしん)を絶(たえ)たりければ、自(みづか)ら思ひらく、

「國に殘せし妻子も、今は我を見限り、他(た)の家(いへ)に嫁(か)せしならん。」

と、終(つゐ)に裏店(うらだな)のかすかなる所を借住居(かりずまゐ)して、其冬、新たに妻を迎ひけるが、ある夜(よ)、忽(たちまち)、國に殘せし本妻、來たりて、枕のもとに立てり。

 かの男、驚きて、是を見れば、面(おもて)靑く、髮を亂(みだ)し、眼(まなこ)光り、暗夜(あんや)を貫き、怒れるありさま、身の毛もよだちて、更に声を出(いだ)すこと不ㇾ能(あたはず)。即(すなはち)、かの化物、手を伸(の)べて、夫婦が髮を握り引上(ひきあ)げしが、

ッ。」

声を立(たえ)たれば、忽(たちまち)、消(きえ)て、あとなくなりぬ。

 其引(ひき)し髮のあと、強く痛(いたみ)て、終に夫婦とも、髮拔けて、已に半(なかば)を減ず。

 其妻、是を愁(うれひ)て去(さる)。

 彼(かの)男も又、苦愁(くしう)の餘り、僧となりて、諸國に巡礼し、㚑佛(れいぶつ)に詣(ま)ふでて、七年と云へるに、本國に歸り、己(おのれ)が昔の家に至り、密(ひそか)に其樣子を窺ひ見れば、一人の女、衣(ころも)を洗(あらひ)て井の邊(ほとり)にあり。家の内を覗けば、十才ばかりの童(わらべ)、三、四人、戯れ遊ぶ。

 かの男、思ひらく、

「是(これ)、如何なる人か。我家(わがいへ)を買得(かひえ)て住(すめ)るならん。」

と聞(きかま)ほしく、已に近付(ちかづき)、寄りて、衣を洗(あらふ)女の後(うしろ)に立ち、法謝(ほうしや)を乞ふ。

 かの女、後(あと)へ振り向きたる顏を見れば、己が本(もと)の妻なり。あまりに打驚(うちおどろ)き、物をも云はず、立(たち)たれば、女も不審さうに立上(たちあ)がり、よくよく見れば、夫なり。共に驚きて、其故(ゆへ)を問ふ。

 其妻なる者は、十年の貧苦をも不ㇾ厭(いとはず)、貞(てい)を守り、一子を養育して更に恨(うらむ)る所なしとぞ。

 是、又、如何なる奇怪ぞや。

 

[やぶちゃん注:前話に引き続き、生霊譚であるが、これは本人が全く以って怨念を意識していない点、元の鞘に収まるハッピー・エンド(と思われる終曲)でも特異点の奇怪談と言える。

「鬼木村(おにきむら)」現在の新潟県三条市鬼木。(グーグル・マップ・データ)。]

北越奇談 巻之五 怪談 其七(霊の訪れ)

 

    其七

 

 茨曾根(いばらそね)、永安禪寺に、一とせ、近村より、童子(わらべ)一人伴ひ來り、手習ひ・物讀(ものよみ)なんど、教へ給はるべし、と和尚に賴み置きしが、その童(わらべ)が祖母(ばゝ)なる者、深く憐み慕(した)ふて、三日に一度は、必(かならず)、尋來(たづねきた)り、その安否を問ふ。如ㇾ此(かくのごとき)事、春より夏に至る。

 然るに、時過ぎて來り訪(とは)ざること、十日餘り、和尚始め、堂中、皆、是を怪しみ、かの童に戯(たはむ)れて、

「汝が祖母、已に死(しゝ)たるべし。死せば、必、汝が方へ、㚑魂(れいこん)、見舞(ま)はるべきぞ。」

など、物語りて、堂上に打寄(うちより)、月に向(むかへ)て凉み居(ゐ)しが、二更の頃、忽(たちまち)、山門の邊(ほと)りに、人の徘徊する影見へて、石徑(せきけい)を登り、靜かに步行(あゆみ)來たる者あり。

 よくよく是を見れば、かの童が祖母(ばゝ)なり。

 いかにも勞れたるさまにて、杖に縋(すが)り、六地藏の前に暫く休居(やすみゐ)しが、又、そろそろ、庫裏(くり)の方(かた)へ步み來(きた)る。

 忽、犬、是を見て、頻りに長く吠(ほい)て不ㇾ止(やまず)。

 爰(こゝ)に祖母、即(すなはち)、路を返(か)へて、靜かに立歸(たちかへ)るさまなり。

 和尚是を見て曰(いわく)、

「祖母、此夜中(やちう)、遙々(はるばる)の所を來りながら、犬を恐れて歸ると見へたり、早く出(いで)て、犬を追(おふ)べし。」

と。

 即、人々、出(いで)、犬を退(しりぞ)け、且、其祖母を尋(たづ)ぬれども、終(つゐ)に行衞(ゆくゑ)を知らず。

 和尚、深く怪しみ、翌日、童子(わらべ)を相伴ひて、其家に至り、問ふに、祖母、病(やみ)て不ㇾ起(たゝざる)こと、十日餘りなり、と。

 童子を見て、大に悦び、云、

「我、昨夜、夢に汝を訪ね行(ゆき)しが、犬の吠(ほい)るが恐ろしさに、寺へ入りかねたる中(うち)、夢、覺(さめ)たり。」

と物語れり。

[やぶちゃん注:ネタバレにならぬように、表題を配慮した。
 
「茨曾根(いばらそね)、永安禪寺」野島出版脚注に『今、白根市字茨曾根にあり。曹洞宗。宝暦、明和の頃の住職大舟は古岸と号し、智徳共に高く、内外典に通じ最も詩書を善くした。良寛の師、大森子陽、新飯田の有願などの師であった。天明七年五月歿。年八十二。』とあるが、現在、この寺の住所は政令指定都市移行によって新潟県新潟市南区茨曽根となっている(リンク先はグーグル・マップ・データの同寺)。宝暦・明和の頃は一七五一年から一七七二年までに当たる。本「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年であり、本文中にこの出来事が宝暦・明和の頃のこととは出ないから、この話の中の和尚がこの大舟であると断定は出来ないので注意されたい。但し、大森子陽は崑崙の同族の後裔であること、「巻五 人物」には特に良寛を挙げていることなどを考え合わすと、この大舟でないとも言えないとは言える。少なくとも、野島出版の脚注者は暗にこの「和尚」を彼と同定してる感じはする。

「賴み置きし」寺に預けて本格的に読み書きを習わせたのである。

「かの童に戯(たはむ)れて……」この童子が出家僧見習いとして預けられたならともかく、そうではないのであるから、この冗談は禅僧の謂いとしても度が過ぎる(修行僧に対してならばあり得る謂いではある)。寧ろ、この言葉は和尚のものではなく、童子の心も配慮出来ない、軽率な若い一人の修行僧の悪い冗談であるととるべきであろう。

「二更」およそ現在の午後九時又は午後十時から二時間を指すが、禅宗では解定(かいちん:就寝)は午後九時頃であるから、月見も終わった九時前頃ととらねばおかしい。

「石徑(せきけい)」石を打ちこんだ坂の小道。

「吠(ほい)て」読みは方言。

「云」「いはく」と読んでおく。]

北越奇談 巻之五 怪談 其六(縛り地蔵・不思議な石)

 

    其六

 

 池(いけ)の端(はたむら)に古き石地藏あり。

 村の若(わかき)者ども、是を高くさし上(あげ)て、各(おのおの)その力を試し、終(つゐ)に誤まつて地(ち)に落し、地藏の頭(かしら)半分を打割(うちわ)りたり。村の老姥(ばゞ)ども集まりて是を嘆き、その頭の欠(かけ)たるを合(あは)せつくのへ、堂を建(たて)て祭る。一年(ひととせ)餘りにして、其欠、もとのごとく付(つけ)、今、猶、微(かす)かに痕(あと)あり。

 此地藏、㚑驗(れいげん)、甚(はなは)だ著(いちじる)しく、若(もし)、人、有(あり)て、瘧(ぎやく)を病(やむ)時は、細繩五尺を持ちて、地藏の前に到り、繩にて、かの地藏を縛り、祝(しゆく)して曰(いはく)、

「地藏、能(よく)救人病苦(ひとのびやうくをすくふ)。願(ねがは)くは、瘧を截(きり)給へ。瘧、落つる時は、可ㇾ獻供物(くもつをけんずべし)。若(も)し、瘧、不落(おちざるときは)、則(すなはち)、此繩を不ㇾ解(とかず)。」

と。即(すなはち)、翌日、其瘧、影もなく落(おつ)るなり。

 石の地藏、㚑ありて、人の願(ねがひ)を滿(みつ)るか、瘧の小鬼(しようき)、地藏の供物を貪(むさぼら)んとて去(さる)か。訝(いぶか)し。

 信川の邊(ほと)り、裏與野村(うらよやむら)、社地の中(うち)に、石一ツ、あり。大尺計りならん。甚だ重く、漆黑(しつこく)なり。小児(しように)等(ら)、戯れに其石を以(もつて)堀の中(うち)に投ずれば、翌朝(よくてう)、即(すなはち)、元の所に上がる。幾度(たび)も又、かくのごとし。其堀、泥水(どろみづ)深くして、中々、一人の力にては取揚(とりあげ)がたき所也。最も怪しむべし。

 

[やぶちゃん注:「池(いけ)の端(はたむら)」複数回既出で既注。崑崙がかつて住んでいた場所で、現在の新潟県新発田市池ノ端(いけのはた)(ここ(グーグル・マップ・データ))。長く不明だったものが、つい二日ほど前、未知の方の御指摘によって明らかとなった。その詳細は「巻之一 鬪龍」に追加注してあるので、必ず参照されたい。なお、現在、同地区内に「池ノ端延命地蔵尊」があるが、これがその地蔵であるかは不明である。リンク先はグーグル・マップ・データの画像附き地図である。

「つくのへ」原典では「く」の右に点らしきものが見え、「ぐ」とも見えるが、一点で、ただの汚れかも知れぬ。「弁償する・罪や過ちの埋め合わせをする」の意の「つぐのふ」(償ふ)は室町頃までは清音ではあった。その場合、「つぐのひ」が正しいが、今までの崑崙の用法では、方言なのか、こうした語尾変化を示す表記が頗る多い。「つぐ」と採って割れた箇所を「接ぐ」の意ともとれぬこともないが、そうすると、後の「のふ」が宙に浮くので無理か。或いは「のふ」を「縫ふ」の音変化とすることも可能かも知れぬが、まず、対象が霊験あらたかな地蔵であるからして、罰当たりなことを「償ふ」で採るのが無難であろう。

「瘧(ぎやく)」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫 Plasmodium sp. で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカ Anopheles sp. 類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫 Plasmodium falciparum三日熱マラリア原虫 Plasmodium vivax・四日熱マラリア原虫 Plasmodium malariae・卵形マラリア原虫 Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

「繩にて、かの地藏を縛り」祈願のために地蔵等の仏体を縛ったり、悪しきものを封じるために釘を打ったりする俗信は、意外なことに日本各地で見られる。例えば、東京都葛飾区東水元にある天台宗業平山(なりひらさん)南蔵院(山号にある通り、在原業平所縁の寺である)「しばられ地蔵」は著名である。同寺公式サイトを参照されたい。画像があるが、その縛られようはハンパない。また、河童封じのために背中に釘を打った「河童地蔵尊」が福岡県北九州市若松区修多羅の高塔山公園内に現存する。この由来は私の火野葦平小説石と釘(ブログ・カテゴリ火野葦平河童曼荼羅」内)及び私の注を参照されたい。

「祝(しゆく)して」言祝(ことほ)ぐ。言葉を述べて幸運を祈る。しかし、これは「祈る」というよりも、実態は地蔵を脅迫している。まあ、脅されても衆生を救う大慈大悲の大願を持って地獄に自ら赴いた地蔵ならでは、とも言えよう。

「石の地藏、㚑ありて、人の願(ねがひ)を滿(みつ)るか、瘧の小鬼(しようき)、地藏の供物を貪(むさぼら)んとて去(さる)か。訝(いぶか)し」崑崙は必ずしも仏教に親和的ではなく(禅宗は智的には好みであるらしくは見える)、彼がその存在を信ずるのは鬼神であるから、暗に後者が妥当と思っている節が私には感じられる。

「信川(しんせん)」信濃川。

「裏與野村(うらよやむら)」野島出版版は本文で『裏興野村』とし、ルビも『うらこうやむら』とする。原典に従ったが、これは野島出版版の誤りではなく、補正であって「裏興野村」が正しい。即ち、これは原典の誤りなのである。この地名は、現在、新潟県三条市興野というのがある。(グーグル・マップ・データ)で、現在のその地区は信濃川の右岸近くにあるから、この附近と見てよいか。同地区内には稲荷神社を認めるが、そこかどうかは不詳。]

北越奇談 巻之五 怪談 其五(すっぽん怪)

 

    其五

 

Spponkatusika

 

[やぶちゃん注:北斎描く鼈(べつ)怪。キャプションは「龜六 泥龜の怪を見て 僧となる」。但し、北斎は爺(じじい)の龜六だけが襲われるのでは面白くないと思ったのであろう、話柄と異なり、女房の婆(ばば)も襲われている。ちと、サービス過剰。右手の取り込んだ灯籠看板には「千客萬來」と「すつぽん」の文字が書かれ、主人の背後の転倒した屏風には大津絵で最も人気のある、私も好きな「鬼の寒念仏」が張られてある。その横は誰かから贈答された揮毫らしいが、縁起物の「鶴龜」を逆に洒落た「龜鶴」だろう。]

 

 新泻に泥龜(どろがめ)を料理家業となす龜(かめ)六と云へる者あり。凡(およそ)諸江河より買集(かひあつ)めて是を切(きる)事、日々、數(す)百なり。龜六、今、已に五十才に到りて、氣力、正に衰ひたるに及び、一夜(いちや)、忽(たちまち)、身、重く、寒(さむき)事、水に入(いり)たるごとく、戰慄して聲を出すこと能(あた)はず。漸(やうや)く手を以つて邊(あた)りを探り見れば、數百の泥龜(すつぽん)、夜着(よぎ)の上に重なり、頸の下(もと)に集まり寄る。驚きて、

ッ。」

叫ぶ。

 女房、起上(おきあ)がり、

「何ごとぞ。」

と問(とふ)。

 龜六、目を開き、これを見れば、一物(いちもつ)もなし。

 それより、夜々(よよ)、如ㇾ此(かくのごとし)。

少し、眠(ねふら)んとすれば、即(すなはち)、泥龜(すつぽん)、身邊(しんへん)に集まり來(きた)る。

 爰(こゝ)に其罪を悔(くひ)て僧となりぬ。

 

[やぶちゃん注:「泥龜(どろがめ)」鼈(すっぽん)。爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensisウィキの「スッポンによれば、『古代中国の書『周礼』によれば、周代にはすっぽんを調理する鼈人という官職があり、宮廷で古くからすっぽん料理が食されて』おり、本邦では、『滋賀県に所在する栗津湖底遺跡において縄文時代中期のスッポンが出土しているが、縄文時代にカメ類を含む爬虫類の利用は哺乳類・鳥類に比べて少ない』。『弥生時代にはスッポンの出土事例が増加する』。スッポンは『主に西日本の食文化であったが』、『近世には関東地方へももたらされ、東京都葛飾区青戸の葛西城跡では中世末期から近世初頭の多数の』スッポン『が出土している』とある。なお、越後新潟は食文化では関西・関東両様の影響下にあるが、西廻り海運(北前船)の影響などを考えると、江戸よりも早い時期にスッポン食は入ってきたのではないかと私は推測する(挿絵は北斎画であるが、滋賀の大津絵が張られているのは関西圏を暗示させる)。]

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