老媼茶話巻之弐 惡人(承応の変始末)
惡人
慶安四年秋七月、油井正雪・丸橋(まるばし)忠彌が餘類、悉(ことごとく)、刑罪に行はる。其節、改元有(あり)て承應元年と成る。頃日(このごろ)、又、別木(べつき)庄右衞門・林戸右衞門(はやしべゑもん)・三宅平六・藤江文十郎・土岐與左衞門といふ浪人共、打寄(うちより)、徒黨の結(ゆ)ひをなし、忍び忍びに正雪・忠彌が殘黨を集(あつめ)、天下をくつがへすべき事を、なす。已(すで)に、一味の者共、大勢なりければ、件(くだん)のものども、密かに道灌山の麓に寄合(よりあひ)、しめし合せけるは、
「此度(このたび)、大猷院樣御法事、增上寺にて有之間(これあるあひだ)、この折を得て、增上寺の風上、二、三ケ所より火を放(はなち)て燒立(やきたて)、万部(まんぶ)の布施物(ふせもつ)の金銀をうばひ取(とり)、是を以(もつて)、此度(このたび)、武具・馬具をかい求(もとめ)、すべて用金にあてべし。その外、徒黨のものども、二、三百人、江戸町中、爰(ここ)かしこに火を付け、江戸一面に燒立ん。然らば、老中、火を消さんとて出(いで)給はゞ、愛宕の邊り、四、五所に待伏(まちぶせ)して、鐵抱を以(もつて)打落(うちおと)し、其(その)外、目立(めだち)し大名を撰(えらみ)、打(うち)、遠矢に打殺(うちころ)し、江戸水道の水上(みなかみ)に毒を流し、御城(おしろ)の焰焇(えんしやう)ぐらへ、火矢をいかけて燒落(やきおと)し、天下の變を見るべし。若(もし)、其(その)謀計、叶わずば、四國西國のはてへ落行(おちゆき)、跡をくらまし、又、時節の至るを待(まつ)べし。增上寺御法事、來(きたる)九月十五日より初(はじま)る也。十八、九日頃、手筈を合(あはせ)、一度にむほんを起すべし。」
とて、各(おのおの)、私宅江歸りける。
爰に城半左衞門家來長嶋刑部左衞門、是も一味の者也しが、忽(たちまち)、志を改(あらため)、九月十三日夜、松平伊豆守殿宅江來り、悉(ことごとく)かの物共が企(くはだて)を、ちうしんす。伊豆守殿、悉く相尋(あひたづね)、彼等が居所、書付(かきつけ)、細(こまか)に上聞に達しければ、則(すなはち)、今夜、彼(かの)黨の棟梁をからめ取(とり)、きびしく拷問可仕(つかまつるべき)由被仰出(おほせいだされ)、町奉行石谷(いしがや)將監(しやうげん)・神尾(かんを)備前守に被仰付(おほせつけられ)、阿部豐後守殿は、此度、御法事に付、增上寺に相詰居(あひつめゐ)玉ひけるに、兩町奉行、豐後守殿宿坊へ來り、此事をひそかに内談有(あり)。すべての樣子、御法事御用と違ひければ、寺僧を始め、人、皆、是をあやしみける。豐後守殿、石谷將監・神尾備前守同道にて宿坊を立出(たちいで)、本堂の前なる小松原に暫(しばらく)立留(たちどま)り、豐後守殿、被申(まうされ)けるは、
「只今、各(おのおの)へ相談仕(つかまつる)施行(せぎやう)の場所、彌(いよいよ)此所可然(しかるべく)候哉(や)。」
と被申ける。
兩町奉行、答(こたへ)て、
「尤(もつとも)。此所宜敷(よろしく)候べし。非人ども、山門より入(いり)て裏門へ通りぬけにさせば、混亂、仕(つかまつる)まじ。」
と申さるゝ。
豐後守殿、
「此(この)義、可然候。」
と云(いひ)て、夫より、三人打連(うちつれ)、本堂江被歸(かへられ)ける間、寺僧共、三人の家來ども初(はじめ)、密談の程を不審しけるが、只今の評定を聞(きき)て、
「扨(さて)は施行(せぎやう)の場所の事にて有(あり)ける。」
と心得ける。
今夜は、風、烈敷(はげしく)吹荒(ふきあれ)、物そらぞら敷(しき)夜なれば、增上寺の番所番所江加番を添(そへ)、寺中・寺外に至(いたる)迄、大勢の足輕、櫛のはを引(ひく)ごとく、打𢌞り、打𢌞り、嚴敷(きびしく)警固し、夜を明(あか)し、石谷將監・神尾備後守は、其夜、寅の刻、與力・同心、召連(めしつれ)、門前の町、二町目に向ひ、三宅平六・土岐與左衞門借宅(しやくたく)江押込(おしこみ)て平六が上下弐人、召取(めしと)ル。此間に、與左衞門、逐電す。平六は大に働き、將監が組の同心笹岡源右衞門と云(いふ)もの、痛手、負(おひ)たり。別木庄右衞門・林戸右衞門・藤岡又十郎をば、札の辻に有(あり)とて、平六を生捕(いけどり)て、兩町奉行、芝の辻へ引(ひき)ける。
其折節、別木・林・藤岡、打寄、取々に評義して、
「我等、若(もし)志を得る事あらば、別木は關東を領シ、昔北條氏康がごとく、たらむ。」
と云。林は、
「西國を一圓に領せん。」
といふ。藤岡は、
「奧州五十四郡をたもつて阿部の賴任がごとく、榮花をひらくべし。」
と言(いひ)て、何心なく酒飮(のみ)、たはむれ有けるが、何方(いづかた)ともなく、三宅・土岐、むほん、顯れ、召捕(めしとら)れける由、傳聞(つたへきき)、大きに驚き、
「急ぎ先(まづ)西國へ落行(おちゆか)ん。」
とて、取物(つるもの)も取(とり)あへず、辻を立出(たちいで)けるに、石谷・神尾が取手の者に、はしたなく行逢(ゆきあひ)たり。三人の者共、兩町奉行の大勢を見て、棚下(たなした)へかくれける。與力・同心、是をみて、
「何ものぞ。夜更て我々をみて隱るゝ、名乘(なのれ)。」
と云。
別木與左衞門、林・藤岡に先達(せんだつ)けるが、
「是は阿部豐後守家來也。此度、御法事御用にて罷通(まかりとほり)候。」
と云。
「豐後守家來、何しに隱るゝぞ。面(おもて)を見よ。」
と立寄(たちよる)所を、別木、刀を拔(ぬき)て切懸(きりかか)る。
「すは、痴(クセ)もの、あますな。」
とて、大勢、押懸(おしかか)りける内に、神尾備前守、同心橋本喜兵衞、一番に飛(とび)なして懸るを、林戸右衞門、刀を拔(ぬき)て拔打(ぬきうち)に切(きり)すへける。取手の同心、いやが上に、おりかさなり、別木・藤岡をば生捕(いけどり)たり。
はやし戸右衞門、大力強勢の男、そのうへ、劍術の名人にて、三尺五寸、藤嶋友重が打(うつ)たる刀を拔(ぬき)て散散に切𢌞(きりまは)る。將監組のうち、同心赤羽與左衞門・堀江喜左衞門・湯淺半左衞門・成瀨彌五右衞門・吉江六太夫、神尾組の同心岩瀨庄左衞門・横澤勘六、以上九人は、くつきやうの者共なれど、林壱人に切立(きりたて)られ、三人は手負(ておひ)たり。去共(されども)、同心共、いやが上におり重(かさな)り、石谷・神尾、頻りに下知し給へば、林も終(つひ)に生捕(いけどら)れ、かくて未明に石谷・神尾は豐後守殿宿坊へ來り、
「林・藤岡・三宅・別木、生捕し徒黨の内、土岐與左衞門は逐電仕(つかまつり)候。」
よし被申(まうさる)。
明(あく)る十四日、四人の者ども、拷問し、徒黨の意趣、同類の輩、被尋(たづねられ)、白狀に隨ひ、同類與黨の輩(やから)が一類緣者、印(しる)す。
「水野美作守(みまさかのかみ)家人(けにん)石橋源右衞門【三百石領ス。】。此者、今度、徒黨棟梁たる。」
よし、別木、申(まうす)に付(つき)、美作守へ被仰遣(おほせつかはさる)。弟(おとと)又次郎兄弟、召込置(めしこみおく)。
阿部豐後守家人山木兵部【二百石。】。彼は武田家の軍師山本勘介賴純が孫也。是も同類のよし也。
松平但馬守家人町田安齋【三十人扶持。】。かれは別木が親なり。
同家中町田兵庫【三百石。】。別木か兄也。
松平遠江守家人町田甚兵衞、別木が兄也【弐百石。】。
阿部豐後守家人千手八左衞門【弐百石。】。石橋源右衞門姉聟(あねむこ)也。
北條出羽守家人永田九郎兵衞、幷(ならびに)養仙と云(いふ)醫師、土岐與左衞門弟也。このものども嚴しく召捕へさし置く。
十六日朝、今度の徒黨人(とたうにん)土岐與左衞門、爰かしこと、隱れ𢌞りけるが、天網のがるゝ所なく、一夜の宿かすものなかりければ、增上寺裏門切通しにて腹切(はらきり)、吭(のど)を、かく。然共(しかれども)、深手にて無之(これなき)故、死せさりしを、所のもの、見付、公義へ訟(うつたへ)ける間、公儀より外科を付(つけ)、養生せさせられけれども、十七日の曉(あかつき)、終に相果けるみぎり、辭世、
立歸る煙は同じ世の中を名にかへし身の惜しからめやは
廿一日、彼黨が謀反の與黨、嚴敷(きびしく)御詮義の上、罪科、極(きまは)り、淺草に於て、林・藤岡・三宅・石橋・別木・町田、六人の者共、はりつけにおこなはれ、六人の親兄弟、同日、淺草にて首をはねられける。
誠に愚成(おろかな)る哉(かな)、蚊蜂(ぶんはう)、針を以(もつて)富士をくづさんとし、とうらう、車をさへぎるの假(たとへ)より、なを及びなき天下を望(のぞみ)、斯淺間敷(かくあさましき)死をとぐるは、其身の心からなり。
露程(つゆほど)も知らざる親族迄、御仕置(おしおき)に行なわれ、骸(かばね)の上の恥をさらす事こそ、あさましけれ。
[やぶちゃん注:今回の本文は一部で底本に示された、右に附された原典の異本校合跡の方を読み易さ・理解し易さを考慮して本文採用した箇所がある。そこはいちいち明記しなかった。疑義のあられる場合は、底本を見られたい。
慶安四(一六五一)年四月から七月にかけて起こった「慶安の変」に続いて、翌慶安五年九月十三日(グレゴリオ暦一六五二年十月十五日)に発生した、浪人集団による老中暗殺を含む江戸テロ未遂事件である「承応(じょうおうのへん)の変」の実録物。まず、ウィキの「慶安の変」より引く。「由比正雪の乱」「由井正雪の乱」「慶安事件」とも呼ばれる。『主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義』。『由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた』。『この頃、江戸幕府では』三代将軍徳川家光(慶長九(一六〇四)年~慶安四(一六五一)年四月二十日:丁度、この事件の勃発の月、満四十六の若さで病死した。死因は胃癌や高血圧症からの脳出血などが疑われている))『の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。浪人の中には、武士として生きることをあきらめ、百姓・町人に転じるものも少なくなかった。しかし、浪人の多くは、自分たちを浪人の身に追い込んだ御政道(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた』。『正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった』。『そのような情勢下』で『家光が』病死し、後を未だ十一歳の長男『家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし』、『これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐する。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、全国の浪人たちを味方に付け、幕府を支持する者たちを完全に制圧する、という作戦であった』。『しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしま』い、慶安四年七月二十三日に、まず、『丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である』七月二十二日『に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま』、七月二十五日、『駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌』二十六日『早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後』、七月三十日『には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害』、八月十日『に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した』。『駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力』二十『余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげた』。『江戸幕府では、この事件とその』一『年後に発生した承応の変』(後述)『を教訓に、老中・阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、正雪らの掲げた理念に沿った世になるに至った』とある。
次にウィキの「承応の変」から引く。慶安五年九月十三日に発生した浪人騒動。『主な首謀者は別木庄左衛門、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門』。「承応事件」或いはと別木は戸次とも書くことから「戸次庄左衛門の乱」とも称する。『牢人の別木庄左衛門が、同士数人とともに』徳川秀忠の正妻であった崇源院(お江(ごう)の方)の二十七回忌が『増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、江戸幕府老中を討ち取ろうと計画した』。『しかし、仲間の』一『人が老中・松平信綱に密告したため、庄左衛門らは捕らえられ、処刑された。また、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も、計画を打ち明けられていながら』、『幕府に知らせなかったという理由で、ともに磔刑に処せられている。更に、老中・阿部忠秋の家臣である山本兵部が庄左衛門と交際があったということで、信綱は忠秋に山本の切腹を命じている』(下線やぶちゃん)。『慶安の変同様、それまでの武断政治の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。以後、幕府は文治政治へ政治方針を転換した』。なお、これが「承応の変」「承応事件」と呼ばれるのは、事件の五日後の九月十八日に承応元年に改元されたこと、事件の後処理を含め、決着がついたのが改元後であったためである。
「油井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年~慶安四(一六五一)年)ウィキの「由井正雪」より引く。『江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者で』、『名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある』。『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎』(「樟紀流花見幕張」くすのきりゅうはなみのまくはり)き:「丸橋忠弥」「慶安太平記」の異称もある。全六幕。明治三年三月(一八七〇年四月)に東京守田座で初演)では、慶長十年に『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたと』し、『治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出』、『軍学者の楠木正辰の弟子とな』って『軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚』、『婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』(以下、「慶安の変」の記載は略す)。『首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する』。
「丸橋忠彌」(?~慶安四(一六五一)年)は、ウィキの「丸橋忠弥」より引く。『江戸時代前期の武士(浪人)』。『出自に関しては諸説あり、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説(『望遠雑録』)、出羽国出身とする説など定かではない。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべもりずみ)と設定されている』。『友人の世話で、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開く。その後、由井正雪と出会い、その片腕として正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門が密告したため幕府に計画が露見。そのため捕縛され、磔にされて処刑された』。『辞世の歌は』、
雲水のゆくへも西のそらなれや願ふかひある道しるべせよ
『墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺』。『一説に』、『新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進は、忠弥の血筋だという』とある。
「其節、改元有(あり)て承應元年と成る」この謂い方はおかしい。これではあたかも由井正雪らによる「慶安の変」の直後に改元があったようにしか読めない。実際には前注通り、以下に語られる「承応の変」自体が「慶安」から改元される直前に起った事件である。
「別木(べつき)庄右衞門」(?~承応元(一六五二)年)は江戸前期の浪人。姓は「戸次」とも表記される。元は越前国大野藩士で二百石を領したが、浪人となって江戸に出て、軍学を講じていた(ウィキの「別木庄左衛門」に拠る)。小学館「日本大百科全書」には、軍学を山本勘助の孫山本兵部、また、石橋源右衛門に学んだとする。本文にある通り、この二人の師も連座して斬罪となっている。
「林戸右衞門」本文で振った通り、ネット記載を縦覧する限りでは(実際には読みを振ったものは極めて殆んどない)これは「林」が姓で「はやしべゑもん」と読むようである。詳細事蹟不詳。
「三宅平六」詳細事蹟不詳。以下の「藤江文十郎」・「土岐與左衞門」も同じ。
「結(ゆ)ひ」結束の誓い。
「道灌山」現在の東京都荒川区西日暮里四丁目付近の高台。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「大猷院樣御法事」「大猷院」は家光の諡号で、これでは彼の法要となり、誤り。事実は故家光の母である徳川秀忠の正妻崇源院(お江の方)の二十七回忌法要である。
「万部(まんぶ)の」多量の。
「あてべし」ママ。「あつべし」。底本にも編者により、「つ」の訂正注が「て」の右にある。
「打(うち)、遠矢に打殺(うちころ)し」この前の「打」は「討ち」で、「急襲し」の意であろう。
「江戸水道の水上(みなかみ)」当時の江戸の上水は神田上水のみ。井之頭池(現在の三鷹市井の頭の井の頭公園内)を水源とする。
「焰焇(えんしやう)ぐら」焔硝蔵(えんしょうぐら)。火薬庫。当時の江戸城の焔硝蔵がどこにあったか私は知らないが、非常に危険施設であるから、城内にはなかったのではないかと思ったりもする。こちらの幕府職の解説一覧の「鉄砲玉薬奉行」の項に、『現在の杉並区永福寺の東の和泉にあった焔硝蔵と四ツ谷の紀伊藩下屋敷と永井遠江守下屋敷の間にあった焔硝蔵』とあるのが目にとまった。識者の御教授を乞う。
「增上寺御法事、來(きたる)九月十五日より初(はじま)る也。十八、九日頃、手筈を合(あはせ)、一度にむほんを起すべし」この日程も誤りと思われる。「備陽史探訪の会」のブログの小林定市氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」によれば、崇源院の二七回忌法会は、『九月五日より』『行なわれ』『十五日に終る』とあるからである。それ『を待って、風の烈しい夜増上寺の周辺数ヶ所に火を放ち、寺に乱入して財宝や香奠の金銀を奪い取る。その際、火消の指揮をとるため出動する老中を待伏し、鉄砲又は遠矢で打落すと府内は大騒動となるから、その虚に乗じて天下の変を窺わんとするものであった』とある。
「城半左衞門」前注の小林氏のそれに『普譜奉行城半左衛門朝茂』とある。
「長嶋刑部左衞門」前注の小林氏のそれには『朝茂の』家来『長島刑部左衛門』とし、その後に『長島は幕府が放ったスパイだった』とある。「町人思案橋・クイズ集」の「承応(しょうおう)の変を密告した武士。どんな対応が待っていたの?」では、彼を特に密偵であったとはしないが、事件後、彼は密告によって幕府転覆計画を未然に防いだ褒賞として、五百石『という高禄で幕府の御家人として採用された』とあり、因みに、『前年に起きた慶安の変も密告者によって計画は潰(つい)えてい』るが、やはり、この時の『直接の密告者である奥村八左衛門(はちざえもん)とその従弟奥村七郎右衛門(しちろうえもん)』も三百石の『御家人として召し抱えられたらし』く、他に『林理左衛門(りざえもん)という人物も密告した』ようで、こちらも五百石で『召し抱えられた』ようであると記す。
「九月十三日夜」先の小林氏の記載から、この密告の日付は正しい。
「松平伊豆守」松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵国忍(おし)藩主(寛永一〇(一六三三)年~寛永一六(一六三九)年)・同川越藩初代藩主(事件当時)で老中(本事件当時は老中首座)。幕藩体制完成期の中心人物の一人。慶安の変の際も密告者は彼に密告している。なお、ウィキの「松平信綱」には、先の『慶安の変で丸橋忠弥を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから』、『捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の』二『階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという(『名将言行録』)』とある。
「ちうしん」「注進」。歴史的仮名遣は「ちゆうしん」でよい。
「石谷將監(しやうげん)」石谷貞清(いしがやさだきよ 文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)は旗本。ウィキの「石谷貞清」によれば、慶長一四(一六〇九)年十六歳で徳川秀忠に召し出されて大番となり、慶長二十年の『大坂夏の陣においては、土岐定義の指揮下に入って江戸城の守備をするように命じられたが、命令を破り徳川秀忠の行軍に徒歩侍として付き従った。この行動は軍規違反ではあったが、徳川秀忠は貞清が若い事やその志に感じるものがあったのか、軍規違反を許し、逆に金子三枚を褒美として与えている。合戦に及んでは、秀忠本陣にて斥候を務めたという』。その後、領地を与えられ、腰物持・徒歩頭・御目付と昇進、寛永一〇(一六三三)年には千石の加増を受けて、合計千五百石を領した。寛永十四年の「島原の乱」では上使板倉重昌の副使を務めたが、『板倉・石谷両氏は諸大名に比べて身分が低いために軽視され、諸大名はその命令に従わなかったとされる。また、城方の守備も堅く幕府方は多数の死傷者を出して敗走した。重昌及び貞清は諸卒を督戦したが効果が無く、焦燥した重昌は翌寛永』十五年一月一日、『自ら先頭となって城方に突撃』するも、『鉄砲の弾に当たって戦死している。貞清も同様に突撃し』て『奮戦したが』。『負傷して後退した。この際、貞清の従士』三『名が討死し』、『幕府側に多数の死傷者が出たと言う。この日の幕府側の損害があまりに大きかったため』、『城方が夜襲をしてくる可能性を考慮し、貞清は負傷に堪えて各陣所を巡見』、『警戒態勢を整えた。また、細川忠利、黒田忠之、島津家久に援軍を依頼し、合わせて戦況を江戸に報告した。板倉重昌の戦死に伴い』、『総大将は松平信綱に代わったが、同月』二十八日『に貞清は板倉重矩』(故板倉重昌の長男)『と供に島原城に突入し奮戦している』。同年三月五日『に駿府へ凱旋したが、軍令違反に抵触したことを咎められ、一時』、『蟄居した』が、同年十二月三十一日『には蟄居処分を解かれている』。慶安四(一六五一)年、『江戸北町奉行に就任し』、『従五位下左近将監に叙任された』。「明暦の大火」(一六五七年)の際には』、『伝馬町牢屋敷の囚人を解放してその命を救ったと』される。因みに、『貞清は元来、柳生宗矩や沢庵宗彭、小堀政一と親交があり、彼らの茶会派閥の一員であった』ともある。
「神尾(かんを)備前守」神尾元勝(かんおもとかつ 天正一七(一五八九)年~寛文七(一六六七年)は旗本で茶人。ウィキの「神尾元勝」によれば、『江戸時代の歴代町奉行の中で、もっとも長期間奉行職を務めた。通称は五郎三郎。官位は内記、従五位下備前守。剃髪後に宗休と号』した。『岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で、後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った』。慶長一一(一六〇六)年に『家康に登用されて徳川秀忠に拝謁、書院番士に選出される。その後』、『小姓番、使番、作事奉行と累進し』、、寛永一一(一六三四)年『に長崎奉行に就任』、寛永十八年『には殉職した加賀爪忠澄の後任として南町奉行に就任した』。寛永二十一年に浪人四人と力士一人が『吉原で狼藉を起こした際、同心を率いてこれを鎮圧し』、『彼らに死罪を下し、由井正雪による幕府転覆計画の折にも石谷貞清と共に鎮圧するなど、奉行として江戸の治安維持に尽力し、寛文元』(一六六一)年『に致仕するまで、足掛け』二十『年近くに渡り』、『奉行を勤めた。玉川上水を開削する際、推進した玉川兄弟の案を幕府に献策するなど、便宜を図ったのも元勝だという』とある。
「阿部豐後守」阿部忠秋(慶長七(一六〇二)年~延宝三(一六七五)年)は下野壬生藩・武蔵忍藩主(先の松平信綱の後で寛永一六(一六三九)年より没年までであるから事件当時もこの地位)・老中。ウィキの「阿部忠秋」によれば、徳川家光・家綱の二代に亙って老中を務めた。『慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代の歴史家竹越与三郎より「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)と高く評価された。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。関ヶ原の戦いを扱った歴史書』「関原日記」(全五巻)『の編者でもある』。『忠秋は「細川頼之以来の執権」と評せられ』、『責任感が強く、また、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった』。『阿部忠吉(阿部正勝の次男)の次男。母は大須賀康高の娘。長兄の夭折により』、『家督を相続』、『初名は正秋であったが、寛永三(一六二六)年に『徳川秀忠の偏諱を拝領し、忠秋と名乗った。正室は稲葉道通の娘、継室は戸田康長の娘。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部政澄(重次の兄)の子の正令(後に正能と字を改める)を養子として迎えた』。元和九(一六二三)年に豊後守に叙任、寛永一〇(一六三三)年三月に「六人衆」(松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次。後の「若年寄」に相当する江戸幕府初期の職名)の一人となり、同年十月二十九日に老中に任ぜられた。由比正雪の乱が起こった後、松平信綱や大老酒井忠勝らは、『江戸から浪人を追放することを提案し、他の老中らもその意見に追従したが、ただ一人忠秋のみは、江戸に浪人が集まるのは仕事を求めるゆえであって、江戸から浪人を放逐したところで根本的な問題の解決にはならないと、性急な提案に真っ向から反対し、理にかなった忠秋の言い分が最終的には通った』とある。リンク先には先に出た老中松平信綱との逸話が記されているので、彼の人となりを知るために引いておくと、『ある寺の僧侶が他国の寺院へ転属する命令を頑として受け入れないため、松平信綱と』二『人で説得に出かけた。最初に信綱が理路整然と僧侶に転属の理由を述べて説得したが、ますます反発』して「他の方が適任だ」『と言う始末であった。次に忠秋が』「どうしても行きたくないのか」と訊ねると、「お咎めを受けても行きません」『と僧侶は答えたので』、「では咎めとして転属を申し付ける」『と忠秋が言ったとたん、僧侶は』、「知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手ですね(知恵がある)」『と笑いながら申し付けを受け入れたと言う』。また、正保二(一六四五)年十月のこと、『家光が神田橋外の鎌倉河岸へ鴨狩りに出かけ』、『家光は鴨を飛び立たせるために小石を投げるように命じたが、手ごろな石が無かった。そのため、魚屋から蛤を持ち帰らせて小石の代わりにした。翌日、この顛末を聞いた松平信綱は「上様のお役に立った魚屋は幸せ者であり、蛤の代金を取らせる事はあるまい」と言った。しかし同席していた忠秋は、「上様のお役に立ったのは名誉に違いないが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。上様のなさったことで町人に損失を与えては御政道の名折れである」と反論し、代金を支払わせたという。(『寛明日記』より)』とある。
「只今、各(おのおの)へ相談仕(つかまつる)施行(せぎやう)の場所、彌(いよいよ)此所可然(しかるべく)候哉(や)。」「ただ今、御両人へ相談致した施行(せぎょう)のやり方は、以上のような形でよろしゅう御座るか?」といった意味か。施行とは僧や貧しい人々の救済のために物を施し与えることで、崇源院の法要の中で既に決められていた次第の中の一部であったものと考えられる。さすれば、後の「非人ども、山門より入(いり)て裏門へ通りぬけにさせば、混亂、仕(つかまつる)まじ」も腑に落ちる。当時、賤民として差別されていた非人は貧者であり、まさに施行を受けるに相応しく、非人は葬列や埋葬にも関与したから、増上寺でのそれを受ける資格があったと考えられるからである。
「寺僧共、三人の家來ども初(はじめ)、密談の程を不審しけるが、只今の評定を聞(きき)て「扨(さて)は施行(せぎやう)の場所の事にて有(あり)ける」「と心得ける」実際にはとんでもないテロ行為の計画があることを両奉行は内密に報告したのであるが、それが彼ら三人の家来や増上寺の僧らが知れば大変なパニックを起こすし、或いは、彼らの三人の家来や寺関係者の中に謀略集団と内通している者がいると情報が洩れて問題となると考えた、三人の一芝居なのであろう。事実、まさにこの阿部忠秋の家臣山木兵部(先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」では「山本」とあるし、本文もかの軍師山本勘助の孫だと書いてある)がこのテロリスト別木と交友があって、事件後に阿部から切腹を命ぜられている。兵部は本文にも捕縛者の名として出、先の阿部忠秋の引用でも見た。他に本文では「千手八左衞門」なる人物(石橋源右衛門の姉の婿。事蹟不詳)がやはり忠秋の家臣である。
「物そらぞら敷(しき)」不詳。なんとなくはっきりしない、いや~な感じのする、の謂いか。
「加番」追加の警護兵員。
「櫛のはを引(ひく)ごとく」「櫛の齒を挽く如く」。櫛の歯は一つ一つ鋸で挽いて作ったところから、「物事が絶え間なく続く」さまを比喩する。
「寅の刻」午前四時の前後二時間に相当する。
「上下弐人」謀議の徒党の中の主犯格クラス(群)と共犯(従犯)格クラスの謂いか。どちらがどっちかは判らぬが、前とここの記述順序の従うなら、三宅平六が前者で、土岐与左衛門が後者であったものか。
「笹岡源右衞門」不詳。
「藤岡又十郎」先に出た藤岡又十郎の別姓か、単なる誤りであろう。
「札の辻」一般名詞では高札を立てた道辻(街道や宿場町など往来の多い場所を選んだ)を指すが、ここは地名で、江戸の正面入口として芝口門が建てられていた、現在の田町駅の南西の『「札の辻」交差点』附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。増上寺の一・五キロメートルほど北に当たる。
「芝の辻」江戸地誌には冥いので不詳。識者の御教授を乞う。
「阿部の賴任」安倍貞任・宗任兄弟の父で陸奥国奥六郡を治めた俘囚長安倍頼時(?~天喜五(一〇五六)年)と子らの名を混同した誤りであろう。
「棚下(たなした)」「店下(たなした)」であろう。商家の軒先。
「是は阿部豐後守家來也」嘘をつくにも太ッ腹だわ!
「あますな」「取り逃がすな!」。
「橋本喜兵衞」不詳。
「すへける」「据へける」。
「いやが上に」「彌が上に」副詞。なおその上に。ますます。「嫌が上に」と書くのは誤り。
「三尺五寸」一メートル六センチメートル。異様に長い刀である。
「藤嶋友重」室町前期に始まる刀工の一派。初代は名刀工来国俊の門であったという。
「將監組」石谷貞清配下。
「赤羽與左衞門」不詳。以下、「堀江喜左衞門・湯淺半左衞門・成瀨彌五右衞門・吉江六太夫」及び「神尾組の同心岩瀨庄左衞門・横澤勘六」も同前としておく。
「くつきやう」「屈強」。
「下知」指図。叱咤・命令。
「林・藤岡・三宅・別木、生捕し徒黨の内、土岐與左衞門は逐電仕(つかまつり)候。」
「印(しる)す」「記名した」ともとれるが、形容詞「著(しる)し」(はっきり判る・明白である)の動詞化で、「すっかり判明した」の意と私は採る。
「水野美作守」備後福山藩第二代藩主で水野宗家第二代の水野勝俊(慶長三(一五九八)年~承応四(一六五五)年)。ウィキの「水野勝俊」によれば、『初代藩主・水野勝成の長男』。慶長三(一五九八)年、当時、『放浪の身であった父・勝成が身を寄せていた三村親成知行の備中国成羽城下にて生まれ』、『幼少から勝成に従い』、慶長一四(一六〇九)年に十一歳で『「美作守」に叙任され』ている。慶長一九(一六一四)年『には大坂の役に参加し、翌年の夏の陣では特に軍功を挙げた』。元和五(一六一九)年に『勝成の福山入封に同行するが、福島正則の築いた鞆の鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため』、『「鞆殿」と呼ばれたという』。寛永九(一六三二)年の『熊本藩加藤忠広の改易に際しては、勝成と共に熊本城受け取りの任に当た』っており、寛永一五(一六三八)年の『島原の乱では父・勝成に従い、息子(水野勝貞)と伴に参陣し、総攻撃で原城への一番乗りを果たした』。翌年、四十二歳で『勝成から家督を譲られ』、以後、十六年余り、『藩主を務め、父・勝成の事業を継続し、新田開発や領地の整備に奔走した』とある。彼と承応の変のテロリストらは何らの関係もなかったが、「家人(けにん)」(家臣)から幕府転覆に関与した者を出してしまったからにはただではすまない。先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」によれば、『承応事件をきっかけとして、領主勝俊の苦心は始まる。当時幕府は権力強化を計り、大名の廃絶を推進していた。幕府転覆に加担した家臣を出した大名家は譜代と雖も法律的理由により何時でも取漬される状況にあった』とあり、『取潰しを避けるため、勝俊は早急に徳川家に対して恭順の意を表わす必要に迫られた』。『最も効果があると考えられたのは、大猷院(徳川家光)を鄭重に祀ることであった』が、『当時水野家の財政状況は』『極度に悪化していた』(引用元には具体的な逼迫内容が書かれてある)。『苦心の末』に『案出されたのが奈良屋町の明王院と草戸村の常福寺を合併させて、領内随一の大寺を創出し、先代の徳川将軍を祀ることであった』とある(実は引用元はこれに関わる遡った水野勝成署名の下知状が偽作であることを証明したものである)。
「石橋源右衞門」(?~承応元(一六五二)年)は備後福山藩士で兵法家。彼は承応の変の首謀者戸次(別木)庄左衛門らから、武装蜂起の相談を受けていた。彼は計画を通報しなかった咎により同年九月二十一日に切腹した、と講談社「日本人名大辞典」にある。先の小林氏の「承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)」には、別木らは、最初の『取調べで、石橋が課叛の張本人であると名指していたことから』、事件の六日後の九月十九日、『評定所において尋間があり、別木らは、石橋に挙兵の方法を尋ねた後、陰謀を打ち明け』、『二百余名の連判状を示して石橋の判形を求めた』が、『石橋は驚き』、『「今御静謐の御代を乱さんとは、須弥山に長競』(たけくら)べ(須弥山(しゅみせん)は古代インドの世界観の中で全宇宙の中心に聳えるとする架空の途方もなく高い山のこと)、『石を抱いて渕に入るに等し、先年』、『由井正雪無道の徒党を企だて』、『忽に誅せられ、骸の上に恥を曝す、前車の覆るは後車の戒めなるべし」と応じなかった』。『その後』、『別木は石橋の宅を三度も訪間するが、何れも留守と称して対面を回避した』。『しかし、別木らの謀反を聞きおき乍』ら、『主人美作守勝俊に押し隠し』、『報告しなかったことを咎められ、判決は主謀者と同罪と決まり、取調べから二日後の』二十一『日に断罪が下され、石橋源右衛門を含め』、『六人の主謀者は浅草において傑刑、石橋源右衛門の弟又次郎(十五才)と、子息の兵部左衛門(五才)も同日浅草において斬罪となった』(下線やぶちゃん)とある。
「松平但馬守」越前木本藩主・越前勝山藩主・越前大野藩初代藩(事件当時は大野藩主)主松平直良(なおよし 慶長九(一六〇五)年~延宝六(一六七八)年)。
「町田安齋」事蹟不詳。後の記載から、別木の親族として斬罪に処せらている。以下「町田兵庫」「町田甚兵衞」他も概ね(「親兄弟」に関しては確実に)同じと読んでよかろう。
「松平遠江守」遠江掛川藩第二代藩主・信濃飯山藩初代藩主(事件当時は飯山藩主)松平忠倶(ただとも 寛永一一(一六三四)年~元禄九(一六九六)年)。
「北條出羽守」下総岩富藩第二代藩主・下野富田藩主・遠江久野藩主・下総関宿藩主・駿河田中藩主・遠江掛川藩主(事件当時は掛川藩主)北条氏重(文禄四(一五九五)年~万治元(一六五八)年)。
「蚊蜂(ぶんはう)」蚊(か)や蜂(はち)。
「とうらう」「蟷螂」。カマキリ。
「なを」「猶」。
「露程(つゆほど)も知らざる親族迄、御仕置(おしおき)に行なわれ」先に示した通り、石橋源右衛門の弟又次郎十五歳、源右衛門の子の兵部左衛門五歳も一緒に斬罪とされているのは涙を誘う。
「骸(かばね)の上の恥をさらす」石橋源右衛門が別木らを諫めた手紙の文章(先の引用の下線部)を三坂が用いていることが判る。]