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« 河童音頭 火野葦平 | トップページ | 火野葦平「河童曼荼羅」敘   佐藤春夫 »

2017/09/16

「河童曼荼羅」 後書 河童獨白   火野葦平

 

Marukisuma

 

[やぶちゃん注:以上は標題頁の左下に添えられた丸木スマ(明治八(一八七五)年~昭和三一(一九五六)年)の絵。彼女は七十歳を過ぎてから絵を描き始め、以下の本文で火野が言うように、実際に「おばあちゃん画家」として有名になった女性画家。かの「原爆の図」で知られる画家丸木位里の母で、彼とその妻俊の勧めで絵筆を執った。原爆の図丸木美術館公式サイト内の「丸木スマ」によれば、『長く家業の船宿や野良仕事をしながら』、『子どもを育ててきたスマは、以来、八十一歳で『亡くなるまでに』、七百点を『超える厖大な数の絵を描』いた。『「そんなに描いたら疲れるでしょう」と俊がいうと、「畑の草取りにくらべたら遊んでいるようなものだ」と答えた』といい、『その天衣無縫で奔放な作風は画壇に認められ』、昭和二六(一九五一)年に『初めて日本美術院展に入選』し、その二年後には『院友に推挙され』た、とある。]

 

   後書 河童獨白

 

[やぶちゃん注:「河童曼荼羅」の後書き。なお、この後に、出版当時、葦平の秘書であった仲田美佐登氏の「跋 編集覺書」(クレジット:昭和三二(一九五七)年四月一日)が載るが、恐らく氏の著作権は存続しているものと思われるので、電子化しない。その後に「畢」と書かれたページがあり、その次(白紙)の次が奥付となる。奥付に捺された印は『河伯淵主』と読める。その右には筆者の家紋か(火野の本名は玉井勝則)「橘紋」が印刷されてある。

 本篇中には多くの人名・地名・書名及び河童の異名が出るが、それら総てに注をしているとエンドレスになるので、原則、私が全く知らないもののみに限った。失礼乍ら、私も実は河童フリークであり、通常の方よりは河童に詳しいので、悪しからず。]

 

 

 あなたは何の年ですかときかれると、私はカツパの年だと答へることにしてゐる。「カツパの年なんてありますか」「ありますとも。ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、ミ、カツパ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、ヰ」もつとも、私は干支(えと)なんて信用してゐないし、易(えき)でいふやうに、人間の性格や運命が生まれ年のエトによつて左右されるなどと考へたこともないから、なんの年だつてかまはない。しかし世間には案外十干十二支にこだはつてゐる人たちが多いし、よくたづねられるので、カツパの年と答へることにしてゐるわけである。私は明治三十九年十二月三日生、いはゆる丙午(ヒノエウマ)である。だから、カツパをミとヒツジの問にしてゐるのである。しかし、私は正式な戸籍面では明治四十年一月二十五日生になつてゐる。なぜさうなつてゐるかは、「花と龍」といふ小説に詳述したので、ここでは繰りかへさない。

[やぶちゃん注:「花と龍」昭和二七(一九五二)年四月から翌年五月まで『読売新聞』に連載された長編小説。明治中期から太平洋戦争後の北九州を舞台とした著者の父玉井金五郎(若松(現在の福岡県北九州市若松区)の沖仲仕で玉井組組長)と妻のマンの夫婦を主人公とした実録に近い大河小説で葦平自身の自伝性も強い。以上はウィキの「花と竜」を参照した。但し、私は未読なので、生年が異なる理由は知らない。]

 また、私にむかつて、よく、カツパは實際にゐるものですかときく人も多い。私がカツパを主人公にした作品をたくさん書き、酒席などで興がいたるとやたらにカツパの繪を描きちらすからであらう。しかし、この質問ほど私を當惑させるものはない。仕方なく、私は、どうぞ私の作品を讀んで下さいと答へる。すこしおどけて、作家は眞實を語るものであるから、作品にあらはれてゐるとほりですといふ。さういへば、私もこれまでずゐぶんカツパ作品を書いて來たものだ。今ここに集めてみて、ためいきのやうなものを感じる。最近はカツパブームとやらがはびこつてゐるさうだが、無論、私のカツパはそんなブームや流行とはすこしも關係がない。私はどんな場合でも流行や風潮やオポチユニズムからは背をむけてゐたいと考へてゐる。カツパが跳梁(てうりやう)するのは、たいてい亂世か、上に惡い政府や大臣がをり、これが愚劣な政治家たちといつしよになつて、國民を苦しめてゐる惡政の時代といはれてゐるから、現在のカツパの跋扈(ばつこ)はそのためにちがひない。私が最初のカツパ作品「石と釘」を書いたのは昭和十五年であつた。これは古くから私の郷里の街、九州若松に傳はつてゐる話に多少の潤色を加へたものだが、背中にカツパ封じの釘を打たれた石地藏は、現在でも、高塔山(たかたふやま)の頂上にある。高塔山は海拔わづか四百尺、若松市街地の背後にそびえてゐるが、丘の親分ほどの高さなので、散步にはちやうどよく、この頂上からの見晴らし、特に夜景は東洋一だと私はすこし冗談めかしていく度も作品のなかに書いたことがある。數年前から、祇園の夏祭といつしよにカツパ火祭といふ行事がはじまつた。町内でそれぞれ獨創的なカツパ人形を作り、コンクールをやるのである。夜は八時くらゐから、數千本の炬火(たいまつ)をかざした群衆が列をなし、列中にカツパ人形を加へて高塔山に登る。この火の行進は美しい。公園になつてゐる頂上では、「石と釘」の傳説にちなんで、山伏たちやカツパの群がページュントをやり、炬火は全部燒いてしまふ。別に祭壇をしつらへて、中央にカツパ大明神を安置し、皿用特級水の一升びんや胡瓜を獻じて、祭文を奏上する。このカツパ祭文を私が讀む。去年のは、カツパの神通力とヒユーマニズムとをもつて、この地球上から原水爆と戰爭の恐怖を驅逐(くちく)してもらひたいといふ意味のものであつた。冥土の芥川龍之介や佐藤垢石老から花環が來たり、關門海映の女カツパ頭目海御前(あまごぜ)から挨拶狀が來たりする趣向である。古くからカツパ祭をやつてゐるのは、大分の下毛郡(しもげぐん)下郷(しもがう)や、日田(ひだ)の八幡神社、久留米(くるめ)水天宮などをはじめ少くない。カツパはかうして私たちのなかに生きてゐる。小學生のころ、母たちに、川や海に行くときには、カツパに尻を拔かれないやうにといつも注意された。どこの誰それはカツパに引かれたといふ話もきかきれた。その時分から、すこしづつカツパは私の體内に棲みこむやうになつたのかも知れない。全國にあるさまざまのカツパの傳説を調べることは、私の樂しみの一つになつた。カツパの話を古老にきくために、わざわざ出かけたことも一皮や二度ではない。そして、この瓢逸な傳説の動物のよろこびや悲しみや怒りやが、しだいに私自身のよろこびや悲しみや怒りと合致する氣配を感じるやうになつたとき、カツパは私の宿命となつたのである。もともと私は妖怪變化のたぐひが好きであつたが、カツパのやうに、私の身内深く入りこんで來たものはなかつたし、カツパのやうに、私の救ひになつたものもない。詩と小説との間を彷徨(ほうこう)しながら苦しんでゐたとき、私にむかつて灯をさしだしてくれたのがほかならぬカツパであつた。しかし、それが作品の形になつてあらはれたのは、前述したとほり、「石と釘」が最初である。その同じ年「魚眼記」を着いた。これは昭和十五年十一月號の「文藝」に發表されたものだが、同じ月の「改造」には、「幻燈部屋」が載つてゐる。私はこのむづかしい作品で苦吟してゐる最中に、「魚眼記」を書いたのである。詩と小説との結び目ににじみでる憂愁のかげりがカツパの形を借りたのかも知れない。かういふ風にして、戰爭中にも、「白い旗」「千軒岳にて」などのカツパ作品を次々に書いた。長い恐しい戰爭が敗北に終つても、私の愛するカツパは幸にして生きのこつた。そして、戰後も機會あるごとに、私はカツパを書きつづけて來たのであるが、いま集めてみると、最近作「花嫁と瓢簞」まで、長短あはせて四十三篇、四百字詰め原稿紙にして千枚を超えてゐる。もつとも十五年間に書いたものとすれば、さうおどろくほどの量ではなく、むしろ少いといへるかも知れない。もつとカツパに夢中になつてゐたならば、百篇を超え、枚故も三千枚に達してゐたであらう。しかし、これらの作品は私が小記を書く片手間仕事だと人々に思はれ、私自身もそんなにカツパぱかりを昔いてゐることはできなかつた。けれども私はけつしてカツパを片手間に書いたわけではなく、どんな短い作品にも打ちこんで取り組んだし、すこし大仰にいへば、一つのカツパ作品ができあがることは、五百枚の長篇が完成されると異らないほどのよろこびであつた。そして、いま思ふのである。毀譽褒貶(きよはうへん)はともあれ、これはたしかに、私のライフ・ワークの一つである、と。

[やぶちゃん注:本段落内で語られている祭りは現在も「若松みなと祭り」の中の「高塔山火まつり」として行われている。若松区の公式サイト内のこちらを見られたい。また、筆者が高塔山の夜景を推奨しているので、グーグル画像検索「高塔山 夜景」をリンクさせておく。私は残念ながら、修学旅行の引率や乗換えの待ち時間のために福岡駅周辺に足を降ろしたきりである。]

 十五年間の世のうつりかはりに、私のカツパもさまぎまの影響を受けた。しかもこの十五年間は平和の時代とはちがつてゐたために、私のカツパもよろこびよりも悲しみの方が深かつたやうに思はれる。私のカツパ作品の悲しさや重苦しさを批評家に指摘されたこともある。しかし、カツパがいつもよろこびや樂しさをうしなふまいとし、美しいもののためにはどんな獻身をもいとはなかつたことも認められなければならない。また、カツパは正義と信義と眞實とをも愛してゐる。カツパが現實と象徴との問題を解明する一つの役を果さうとしたこともあらう。さういふカツパの眞摯な姿は、外目には滑稽や道化やとぼけたものに映りがちだが、そして、それがどんなにをかしからうとも、カツパがまじめであることに變りはない。暗愚なるものはカツパであるといはれても、その暗愚さこそがカツパの生命なのである。しかし、私はカツパを觀念化して、無理に諷刺(ふうし)の具にしたくなかつた。結果においてなにかの諷刺になつたとしても、血肉の通つたカツパそれ自體の喜怒哀樂を、自然のままに放置することをつねに心がけた。つまり、あまり鹿爪らしい屁理屈をカツパ作品にこじつけまいと考へたわけである。私は芥川龍之介の「河童」を愛讀はしたけれども、あんな風にカツパを諷刺のみのために踊らせることは好まなかつた。私のカツパは混亂してゐるかも知れない。しかし、それでよいのだと思つてゐる。ただ、次々に書いて行きながら、その形式、スタイルやレトリツクには多少の工夫をこころみた。このため、小説、散文詩、物語、對話、獨白、演説、手紙、芝居、などとさまざまな形になり、一人稱、二人稱、三人稱と、必然的に、これも數とほりに分れた。十五年間を經てゐるので、文章や文字の使ひかたにも統一を缺いてゐるし、出來不出來もあるが、それは改めないことにした。一つ一つ、そのときどきの思ひ出があり、書いたときの氣分があらはれてゐるので、それを尊重したのである。ただ、假名づかひだけは舊假名に統一した。なにも歷史的假名づかひにこだはるものではないが、新舊入りまじつてゐてはみつともないからである。作品の配列は製作年代順によらず、同じスタイルのものが重複しないやうに目次を作つた。また、一つ一つが獨立した短篇ではあるけれども、多少は連關したり、續いたりしてゐるものもあるので、それは前後しないやうにした。とはいつても、詩集のやうに、どこから讀んでもらつてもかまはないのである。むしろ、氣まぐれに開いたところを好手に讀んでもらつた方が、カツパの變幻自在さにかなふものかも知れない。ただ、作者としては、自分の才能のまづしさが眞にカツパの變幻自在な本領を書きつくし得なかつたことを悲しむのみである。

 カツパの傳説は全國いたるところにある。古い文獻の中にもカツパはいくらでも探しだすことができる。「和漢三才圖會」「甲子夜話」「水虎義略」「物類稱呼」「利根川圖志」「本草綱目釋義」「善庵隨筆」「倭訓栞」「本朝食鑑」「ありのまま」「筑庭雜錄」「本朝俗諺誌」「閑窓自語」その他のなかには、いろいろなカツパが紹介されてゐる。また、カツパは日本だけではなく、西洋にも、ニクゼン、ワツセルロイテといふカツパに似た水中動物がゐるといふし、中國には、あきらかに、水虎や河伯がゐる。水蘆、水唐、水もカツパの一族にちがひない。「西遊記」で、三藏法師のお伴をして行く孫悟空、猪八戒、沙悟淨のうち、悟淨はカツパといはれてゐるし、五朝小説の「神異經」のなかには、赤い鬣(たてがみ)のある白馬にまたがり、十二人の家來をしたがへて、風のごとく水上を疾走して行く河伯が書かれてゐる。「酉陽雜俎」には、馬でなくて二頭だての龍を駁して行く河伯が活躍し、「事文類聚」には、女に惚れてこれを女房にしようとしたが、まんまと逃げられた助平カツパのことが出てゐる。私は「兀然堂(きつぜんんだう)」のカツパといふ張子人形を持つてゐるから、朝鮮にもゐるにちがひない。琉球でも、川にゐるカーガタモ、ガジユマルの樹に棲むキジムナー、火をもてあそぶ喜如嘉(きじよか)のブナガヤなど、カツパの類と思はれる。しかし、カツパは日本において、(琉球もむろん九州の沖繩縣ではあるが)もつとも獨特で溌溂とした存在になつたのである。しかし、各地方で生態はすこしづつちがひ、名辭も異つてゐる。私たちの北九州では、カツパといつてゐるが、南九州に行くと、鹿兒島では、ガラツパ、宮崎では、ヒヨウスンボ、大分では、カワノトノ、佐賀ではヒヨウスへといふところがある。橫山隆一君の話によると、土佐ではシバテンと稱するさうだ。ガアツパ、ガタロ、ガワラ、川小僧、川太郎、カワコ、ガゴ、ミヅシ、エンコウ、ガソ、コマヒキ、ゴンゴウ、ネネコ、など、地方によつて、さまざまに呼ばれる。そして、概して北方のカツパは孤獨で思索的であり、南方のカツパは集團をなして行動的であるやうだが、頭に皿があり、これが生命力の根源で、皿に水のあるときは強いけれども、水がなくなると弱くなる點はどこも共通してゐるやうだ。宮崎地方のカツパについては、中村地平さんがよく書いてゐるが、ヒヨウスンボは空を飛び、樵夫(きこり)の小屋を打ちほがしたり、風呂に入つたりするらしい。秋口になると、集團をなして烏のやうに鳴きながら川をくだるといふ。また、全國いたるところに、カツパから傳授されたといふ傷膏藥があり、カツパの手と稱するものや、カツパの詫證文も、方々に殘つてゐる。カツパは古くから文獻にもあらはれてゐるから、江戸時代の浮世繪にも多く描かれてゐる。歌麿にも面白いカツパの繪がある。私は嘗て、西田正秋氏(藝術大學教授)の家をおとづれて、その豐富なカツパ繪と文獻の蒐集におどろいたことがあるが、カツパを愛する人は昔からたくさんあつた。小川芋錢、佐藤垢石、芥川龍之介、淸水崑といふやうな人たちは、カツパによつてユニークな藝術境をひらいたものといへよう。特に、芋錢子の「カツパ百態」は私をうならせる。芋錢はカツパの實在を信じきつてゐたといふから、そのカツパには不思議な迫眞力がある。美しいのはいふまでもない。最近、名取春仙畫伯のきもいりで、私も芋錢のカツパ七枚を手に入れ、時折とりだしては悦に入つてゐる。長崎の旅亭「菊本」にある芥川龍之介の「河童晩歸の圖」には肌を冷えさせるやうな鬼氣がある。銀屛風に墨一色でかかれた瘦せ細つたカツパは、日暮れてどこへ歸るのであらうか。私にはどうも地獄へのやうに思はれ、芥川龍之介の文學の悲劇を象徴してゐるやうで、見てゐるのが息苦しい。明朗潤達なのは淸水崑君のカツパだ。最近は女カツパにすさまじい色氣さへ出て來た。しかし、昆君はへソと耳とをわざとかかないことによつて、エロチシズムの節操を保つてゐる。私はこれまで、カツパ作品を集めた本を數册出してゐるが、早川書房版「河童」(昭和二十四年刊)には、淸水君が二十數葉の插繪をかいてくれた。ところが、その繪は簡單にできたのではない。本文はとつくに刷りあがり、出版社はただ繪の完成を待つばかりになつてゐたのに、崑君がなかなかかかない。ほつたらかしてゐるわけではなく、苦心慘憺してゐる樣子だつた。本屋の方は鎌倉に行つて泊りこみ、となりの部屋でがんばつてゐるが、崑ちやんはかいては破り、破つてはかき、一向にすすまない。たうとう繪のために出版が半年おくれてしまつた。しかし、できあがつたカツパの繪はすばらしかつた。それから、淸水君は急に自信がついたやうに猛烈にカツパをかきだし、現在のやうに、カツパといへば崑ちやんみたいになつてしまつたのだが、その直接の動機が私の本のためなので、いまでも、淸水君は私をカツパの親分などといふのである。むろん私がゐなくたつて淸水君はカツパをかいたであらうし、私のためでもなんでもないのだが、カツパにおいては淸水君と私との因緣が淺くないことはたしかである。しかし、淸水君のカツパも天下に流行するにいたつてずゐぶん變化した。愛されるカツパになつたのである。戰爭中にも、カツパ作品集「傳説」(小山書店阪・昭和十八年刊)を出した。このときは、中川一政畫伯にみごとな挿繪を九枚かいてもらつた。かうしてみると、私のカツパの歷史も長く、幾變遷を經てゐるが、いま、これまでに書いたカツパ作品四十三篇が一册に集められて刊行されることに對しては、いひあらはしがたいよろこびにつつまれてゐる。自分の本の出版にこれほどのうれしさと樂しさとを感じたことはめつたにはない。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會」私の電子化注「卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎」を参照。

「ありのまま」「有の儘」。芳宜陸可彦著・飯田備編・雪仙春嶺画になる随筆。全四巻。文化四(一八〇七)年刊。

「ニクゼン」これは石田栄一郎「河童駒引考」の第二章の頭書「ゲルマン族 水の雄牛」の部分に出るイギリスの『水精ニックス Nix』のことか。三瀬勝利氏のこちらデータPDF)によれば(石田氏の当該書を基礎とした叙述とするが、引用元はトンデモ本飛鳥昭雄・三神たける共著『「失われた異星人グレイ河童」の謎』なので確度は留保する)、『世界の河童類としては、チェコスロバキアのウッコヌイ、インドのバインシャースラ、ハンガリーの水魔、フィンランドのネッキ、ロシアのヴォジャノイ、スコットランドのケルピー、スペインのドゥエンデ、ディルガディン、ドイツのワッセル、ロイテ、ニッケルマン、ブラジルのサシペレレ、エジプトのドギルが知られている』が、『なかでも、日本の河童に似ているのが、ヨーロッパの水の精「ニクス」で』水精『ニクスは、ドイツ』や『イギリスなどに棲んでいた先住民ケルト人の間で信じられていた妖精で、女性の姿をしたものを「ニクシー」と呼ぶ』。『ニクスは人の姿をしているが、皮膚の色は緑色。男ニクスは、緑の歯に緑の帽子』。『女ニクシーは、金髪巻き毛の美人。言葉を理解するが、人間にとっては危険な存在である』。『なにせ、川の近くを通りかかった人間をいきなり襲い、水の中に引き込んでしまう』。『ことニクシーは男性を誘惑し、一緒にダンスを踊り、そのまま一緒に水中に入ってしまう』。『当然ながら、水中に引き込まれたら、最後。人間は、お陀仏である』。『妖精とはいっているが、日本でいえば、ほぼ間違いなく河童と呼ばれるといっても過言でない』とはある。

「ワツセルロイテ」不詳。前注の資料では「ドイツのワッセル、ロイテ」と分離されてあるから、二種或いは二様の呼び名のようにも見えるのだが、“Wasser” はドイツ語で「水」であり、ドイツ語の辞書を引くと、似たような発音のものには“Wasserratte”(ヴァッサァ・ラッテ:川鼠(ヌートリの類か)・比喩で「水泳の上手な人」の意)があり、河童のドイツ語版を見ると、“Wasserchlange”(ヴァッサァ・シュランゲ:伝説上の怪物である海蛇)の文字を見出せるから一語である。やはり「ワッセルロイテ」で一語である。善意で解釈すれば「ワッセル、ロイテ」は「ワッセル・ロイテ」のつもりなのであろう。

「水虎や河伯」御存じの方も多いと思うが、言っておくと、これらは本来は河童とは別な中国の妖怪或いは神(神怪)である。「水虎」はウィキの「水虎によれば、『湖北省の川にいたという妖怪』で、『外観は』三、四『歳の児童のようで、体は矢も通さないほどの硬さの鱗に覆われている』。『普段は水中に潜っており、虎の爪に似た膝頭だけを水上に浮かべている』。『普段はおとなしいが』、『悪戯をしかけるような子供には噛みつき返す』。『この水虎を生け捕りにすることができれば、鼻をつまむことで使い走りにすることができるという』とある。ここ様態は中国で食用や薬用とされる哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のそれによく似ているように私には思われ、ウィキにも妖怪絵巻でとみに知られる鳥山石燕も「今昔画図続百鬼」で以上の『記述を引用しており、水虎の鱗をセンザンコウにたとえて表現している』とある。『日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが』、『中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている』。『日本では水虎は河童によく似た妖怪』『もしくは河童の一種とされ』、『河童同様に川、湖、海などの水辺に住んでいるとされる』。『体は河童よりも大柄かつ獰猛で』、『人の命を奪う点から、河童よりずっと恐ろしい存在とされる』などとして、以下、殊更に河童との差別化叙述をウィキはしているが、私は賛同出来ない。「河伯」もウィキの「河伯」から引いておく。中国語では Hébó(ホーポー)で『中国神話に登場する黄河の神』の名である。『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こ』とされ、『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』。古く「史記」の二十九巻「河渠書第七」にも、『「爲我謂河伯兮何不仁」と「河伯許兮薪不屬」と言う記述があ』り、「楚辞」「九歌」にも『河伯の詩がある』。『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六世紀末から七世紀『にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』。以下、ウィキにも書かれている通り、火野が言っている「西遊記」の沙悟浄も、日本では専ら、河童として語られたり、描かれたりしているけれども、中国ではこの神怪としての「河伯」と認識されているので、安易にそれをイコールとするのは私は正しいと思っていない

「水蘆」不詳。一部のネット記載では中国で河童様妖怪の呼称とするが、怪しい。

「水唐」不詳。同前。

「水」日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、辻雄二「キジムナーの伝承-その展開と比較-」『日本民俗学』第百七十九号(平成元(一九八九)年八月日本民俗学会発行。但し、それも文献引用で東洋文庫「南島雑話」(昭和五九(一九八四)年刊)を引用元とする)を出典として、読みは『スイイン』とし、他に「カワタロ」「ヤマワロ」「ケンモン」を併置する(当漢字は現在では使用される頻度の著しく低い字であるから、寧ろ、音読みのそれで呼ばれることはないであろう)。採集地は沖縄県恩納村で『水(カワタロ、山タロ)は好んで相撲をとる。その姿をみたものはすくないが、きこりについていって木を負うなど加勢をするという。人家をみれば逃走する』とある。ケンムンなら私はよく知っており、沖繩の妖怪の中でも「キジムナー」と並んで好きな一人であるので、長くなるが、例外的にウィキの「ケンムン」を引いておく。『ケンムンまたはケンモン(水)とは、奄美群島に伝わる妖怪。土地ごとに相違があるものの、概ね河童や沖縄の妖怪であるキジムナーと共通する外観や性質が伝えられている』。『古くは』江戸末期の文献である「南島雑話」に「水(けんもん)」として記述されてある。『相撲好きで人に逢えば挑戦するとされ(河童と共通)、画では頭に皿があって河童と同様な姿である』。『かつては人害を及ばさず』、『木こりや薪拾いが運ぶのを手伝う、目撃はまれで人家や人っ気の多いところから退散する、と記される』。『別名「カワタロ」「山ワロ」との付記もみえ、ケンムンの一種に宇婆があるとしている』。『昔と今では、ケンムンの概念の変遷が生じている。すでに幕末の頃から、有益無害だという伝承は失われつつあった』が、『時代を経るにつれ、ケンムンは一転して危険で忌避すべき存在となった。木運びを手伝うなどの伝承は語り継がれなくなっている』。『ケンムンは、河童の原型が核となっている。金久正』(昭和三八(一九六三)年)『によって収集された伝承でも、河童的要素が色濃いと評されている。また、本土の河童伝承が加わった部分も否めない』。『ケンムンはしかし、水の精でもあるが、同時に木の精でもあり』、『沖縄に伝わる木の精キジムナーとも多くの共通性がみられる』。『すなわち、海にも山にも目撃される。これは季節によって生息場所を変えるためといわれる』。『まず形状に限って言えば』、『体と不釣合いに脚』(腕も含まれるケースがある)『が細長く(膝を立てて座ると頭より膝の方が高くなるほどあり』『)先端が杵状だといわれ、頭の皿に力水』(或いは油ともする)『を蓄えている』。『しかも姿を変える能力を持っており、見た相手の姿に変化したり、馬や牛に化けたりする』。『周囲の植物などの物に化けたり、姿を消して行方をくらますこともできるとも言われる』。『ケンムンは発光する、または怪しい灯りをともす、といわれる。これは涎が光るためだとも、指先に火をともすためだともいう』。『または頭の皿が光るか』、『頭上の皿の油が燃えるのだとも、説明される』。『海にも山にも現れるケンムン火は、ケンムンマチ(ケンムン[]マツ)とも呼ばれている』。『一部で伝わるところによれば、大きさは子供の身の丈のほどで』、『顔つきは犬、猫、猿に似ている』とし、『目は赤く鋭い目つきで、口は尖ってい』て、『涎は悪臭を放ち、涎が青光るのは燐成分によるという』。『髪は黒または赤のおかっぱ頭。肌は赤みがかった色で』、『全身に猿のような体毛がある』。『体臭は山芋の匂いに似ている』。『ガジュマルの木を住処としており、木の精霊ともいわれる』。『この木を切ると、ケンマンに祟られると恐れられる』。『ケンマンに祟りの遭うと、目を病んでしまう(目を突かれてように腫れ上がってしまい、失明寸前になることもある』『)、または命を落とすこともある』。『魚や貝を食料としており、漁が好きで、夜になると海辺に現れ、(指に)灯りをともし岩間で漁をする』。『夜に漁に出た人間が鉢合わせすることもある』。『特に魚の目玉を好む(キジムナーと同様)。漁師が魚を捕りに行くとなぜか魚がよく捕れたが、どの魚も目玉を抜かれていたということもある』。『カタツムリ、ナメクジも食べる。カタツムリは殻を取って餅のように中身を丸めて食べる』。『ケンムンの住んでいる木の根元にはカタツムリの殻や貝殻が大量に落ちているという』。『蛸とギブ(シャコガイ)を嫌う』。『ケンムンを追い払うには蛸を投げつけるか、虚偽でも何か別の物を蛸と称して投げるか、投げると脅すと効果がある』。『なお』、『キジムナーも蛸が嫌いである』。『相撲好きな習性は河童やキジムナーと共通する』。『河童同様に皿の水が抜けると力を失う。相撲を挑まれた際に逆立ちをしたり礼をしてみせると、ケンムンもそれを真似るので、皿の中身がこぼれて退散する』。『悪口を言われることが嫌いで、体臭のせいか、山の中で「臭い」といったり、屁のことを話すことも嫌っている』。『ケンムンは本来は穏健な性格で、人に危害を与えることはない。薪を運んでいる人間をケンムンが手伝った話や、蛸にいじめられているケンムンを助けた漁師が、そのお礼に籾を入れなくても米が出てくる宝物をもらったという話もある。加計呂麻島では、よく老人が口でケンムンを呼び出して子供に見せたという』。『しかし河童と同じように悪戯が好きな者もおり、動物に化けて人を脅かしたり、道案内のふりをして人を道に迷わせたりする』。『食べ物を盗むこともあり、戦時中に空襲を避けた人々がガジュマルの木の下に疎開したところ、食事をケンムンに食べられたという話が良く聞かれた。その際のケンムンは姿を消しており、カチャカチャと食器を鳴らす音だけが聞こえたという』。『石を投げることも悪戯の一つで、ある人が海で船を漕いでいたところ、遥か彼方の岸に子供のような姿が見えたと思うと、船のそばに次々に巨大な石が投げ込まれたという話がある』。『山中で大石の転がる音や木が倒れる音を立てることもある』。『さらに中には性格の荒い者もおり、子供をさらって魂を抜き取ることがある。魂を抜かれた子供はケンムンと同じようにガジュマルの木に居座り、人が来ると木々の間を飛び移って逃げ回る。このようなときは、藁を鍋蓋のような形に編んでその子の頭に乗せ、棒で叩くと元に戻るという。大人でも意識不明にさせられ、カタツムリを食べさせられたり、川に引き込まれることもある』。『これらの悪戯に対抗するには、前述のように蛸での脅しや、藁を鍋蓋の形に編んでかぶせる他、家の軒下にトベラの枝や豚足の骨を吊り下げる方法がある』。但し、『ケンムンの悪戯の大部分は、人間たちから自分や住処を守ろうとしての行動に過ぎないので、悪戯への対抗もケンムンを避ける程度に留めねばならず、あまりに度が過ぎると逆にケンムンに祟られてしまう』。『ケンムンの由来伝説は多々あり、以下の』の『「蛸」の例のほか、福田晃が挙げた』四『タイプがある』。

「蛸にいじめられて樹上生活者となったとする説」

『月と太陽のあいだに生まれたケンムンは、庶子だったので天から追放され、はじめ岩礁に住まわされた。しかし蛸にいじめられたので、太陽に新しい住処を求めたところ、密林のなかで暮らせと諭され、ガジュマルの木(や同属のアコウの木)に住まいを求めるようになった』。

「藁人形の化身説」

『ある女性が、この地の大工の神であるテンゴ(天狗)に求婚された。女性は結婚の条件として』、六十『畳もの屋敷を』一『日で作ることを求めた。テンゴは二千体の藁人形に命を与え、屋敷を作り上げた。この藁人形たちが後に山や川に住み、ケンムンとなった』。

「人間の化身――殺人者が罰せられた姿とする説」

『ネブザワという名の猟師が仲間の猟師を殺し、その妻に求愛した。しかし真相を知った妻は、計略を立てて彼を山奥へ誘い込み、釘で木に打ちつけた。ネブザワは神に助けられたが、殺人の罰として半分人間・半分獣の姿に変えられた。全身に毛が生え、手足がやたら細長い奇妙な姿となった彼は、昼間は木や岩陰の暗がり隠れ、夜だけ出歩くようになった。これがケンムンの元祖だという』。

「孤児の姉弟説」

『ノロ神の姪・甥が孤児が、山へススキ刈りに行かされ難儀していたところ、老人が通りかかり、海で貝を取って暮らせと勧めた。冬の海は寒く、山に舞い戻ってくると、こんどは老人が来て』、『山・川・海に季節ごとに暮らせと指示し、姉弟をケンムンと名付けた』。

「虐げられた嫁説」

『嫁いびりに』遭って、『五寸釘でガジュマルの木に打ち付けられた女性がなった』。

『第二次世界大戦以後は、ケンムンはそれまでに比べてあまり目撃されなくなったが、その大きな要因は近年の乱開発によってガジュマルなどの住処を失ったためといわれている』。『GHQの命令で奄美大島に仮刑務所が作られる際、多くのガジュマルが伐採されたが、島民はケンムンの祟りを恐れ「マッカーサーの命令だ」と叫びながら伐採した。後にマッカーサーがアメリカで没した際、島民は「ケンムンがいなくなったのは、アメリカに渡ってマッカーサーに祟っていたためだ」と話した。しばらく後にまた』、『ケンムンが現れ始め』、『「ケンムンがアメリカから帰って来た」と噂がたったそうである』。『ケンムンの名は「化け物」「怪の物」の訛りとされ、得体の知れない霊的な存在を意味している』。『沖永良部島では、ヒーヌムン(木の者)と呼ぶ』。『別名としてクンモン、クンム、ネブザワともいう。また一説によれば、本来この妖怪の名は仮名では正しく表記できない発音であるため、仮にケンムンという表記を当てているともいう』とある。

「事文類聚」中国の類書(百科事典)。全百七十巻。宋の祝穆(しゅくぼく)の編。一二四六年成立。先行する「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新集三十六巻と外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻をこれに追加して、現行のものは総計二百三十六巻に及ぶ。

「兀然堂(きつぜんんだう)」不詳であるが、直後に「朝鮮にもゐるにちがひない」とするから、朝鮮半島製であることは間違いない。「兀」は通常は「コツ・ゴツ」と読む。不審。朝鮮語の音か?

「カーガタモ」不詳。このような沖繩の妖怪は知らないが、「カー」は沖繩方言で「川」であり、「ガタモ」は本土でも河童の異称として「ガタロ」(河太郎)によく似ている。或いは「川(カー)の方(ガタ:方面の。領域の。)の者(モん)」の略かも知れぬ。

「喜如嘉(きじよか)」地名。現在の沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ブナガヤ」大宜味村公式サイト内のこちらの「ブナガヤの素顔」より引く。その特徴は、『からだ全体が赤くて、子供のように小さい』。『赤い髪をたらしている』。『赤い火を出したり、火のように飛んだりする』。『山や川や木の上でみかける』。『漁が上手で、魚やカニを食べる(魚は目玉だけ)』。『すもうをとるのが好きである』。『木(薪)を持つなど人の加勢はするが、里には入らない』。『人なつっこく、自ら人に害を加えることはしない』。『祈願によって追い払うことができる』とある。次に「ぶながやと友達になる法」。『ぶながやの世界の要素である山や川や海や木や土や風や水や動物が好きであること』。『ぶながやは自然そのものであるが、雷や嵐は恐がるし、大きな音はきらいであるので、大きな音はたてないこと』。『ぶながやの心は清純そのものであるので、悪ふざけをしたり、何かの目的に利用しないこと(すればたちまちいなくなる)』。『ぶながやは人の心を直観でき、心が優しいので童心でつき合うこと』。『ぶながやは威張ったり、いい身なりをしたりはしないし、特に力があるのでもないが、どこかで出会ったら、顔笑みをなげかけるか、できたら手を差し出して握手をすること。同情する必要はない。そうすれば友達になれる』。『ぶながやと友達になったら、邪心や策心や偽心や威心を捨てて真に豊かな発想を楽しむこと。そうすればぶながやは逃げたりはしない』。『ぶながやの得意な漁を一緒に楽しむのもよい。また、取った魚をくれたりするので喜んでもらい、たまには一緒に食事をすると』、『なお』、『よい』。ウィキの「ブナガヤ」によれば、『人間の子供が誤ってブナガヤの手を踏んでしまうと、その』子の『手にブナガヤ火(ブナガヤび)と呼ばれる火をつける。また』、ブナガヤの『足を踏むと、同じようにブナガヤ火によって火傷させる。このブナガヤ火は通常の火と異なり、青みがかった色をしているという。かつてはブナガヤ火で子供が火傷をすると、土地の年寄りたちが呪文を唱えて火傷を消したという話もある』。『沖縄本島北部の大宜味村では戦後まで、旧暦』八『月頃に巨木の上や丘の上に小屋を立てて』、『ブナガヤの出現を夜通し待つ「アラミ」という風習が行われていたという』。『人間と関わった数少ない事例では、大正』七、八『年頃、砂糖を作る農民の元に毎晩来ていたブナガヤを捕まえて、サーターグルマ(砂糖車)の圧搾口へ押し込んだら、潰れたらしく、血まみれになったという話がある』とある。但し、所持する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」の沖繩県の「ブナガ」の項には、『本島で木に宿る怪をい』い、『国頭地方でいうキジムン』(キジムナーと同じ)『と似たモノ』で、『ボージマヤともいう。大宜味間切高里村の某家の主人としかしくなった』が、『後に主人が交際を絶とうと烏賊をぶつけたら驚いて逃げ』(先のケンムンが蛸を嫌うのとよく似る)『二度と現われなかった』とする一方、折口信夫の「沖繩採訪記」からとして、『大宜味村ではキジムンそのもののこと。ブナガルは髪を振り乱すの意』とする。

「中村地平」酒の害についてで既注。

「歌麿にも面白いカツパの繪がある」私が思い浮かぶのは喜多川歌麿の春画(水中で海女が二匹の河童に強姦されているもの)である。ネット上でも見られるが、猥褻なのでリンクしない。

「西田正秋」(明治三四(一九〇一)年~昭和六三(一九八八)年)は人体美学(美術解剖学)者。大正一五(一九二六)年から東京美術学校で「西田式美術解剖学」の講義を行った。]

 さらに、このよろこびを助長させてくれたのは、諸先輩、友人知己の厚情だ。特に、武者小路實篤先生が題字を書いて下さり、佐藤春夫先生はありがたい序文を下さつた。ともに私が中學生時代から畏敬してゐた大先達なので、私は夢のやうな心地である。文學をやらうと心に定めて、大正十二年春、早稻田第一高等學院に入學したとき、私の文學の偶像は佐藤春夫であつた。大學に進み、田畑修一郎、中山省三郎、寺崎浩、丹羽文雄などと、同人雜誌「筏」をはじめたとき、私が發表した作品はことごとく佐藤春夫の影響を受けてゐた。昭和三年、學校をやめるとともに、私は勞働運動に沒頭し、しばらく文學から遠ざかつた。そして、昭和十三年、思ひがけなく、「糞尿譚」で芥川賞を受けたとき、審査員佐藤春夫先生の批判を胸をとどろかせて讀んだ。その後、「麥と兵隊」を書いてから、はじめて先生にお逢ひしたとき、僕の作品から出發して、かういふ境地をひらいたことをよろこぶといはれて、淚の出る思ひを味はつた。その佐藤先生から、「河童曼陀羅」に序文をいただける日が來ようとは夢想だにしなかつたことである。また、その序文が過分のもので、身體がすくむ心地である。先年、檀一雄君とともに先生のお伴をして、柳川に白秋遺跡をたづねたとき、先生は、僕は中學時代はカツパといふ綽名をつけられてゐたといつて笑はれた。その歸途、博多の水だき屋「新三浦」で、私がカツパをかいた衝立(ついたて)に、贊をして下さつたのである。さらに、この本のために、私は諸先輩に奇妙奇手烈なお願ひをした。四十三篇をそれぞれ異つた人たちのカツパ・カツトで飾りたかつたからである。これまで一度もカツパをかいたことのない人たちが多かつたにちがひないし、多分、私の依賴は突飛で變てこな無理難題であつたであらう。それにもかかはらず、承諾して下さつた方々が次々にカツパのカツトを寄せられ、私を狂氣させた。特に、つけ加へておきたいのは、お婆さん畫家丸木スマきんのカツパが入つたことである。八十數歳で繪をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、畫集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマきんが、火野さんはカツパ好きだからといつて、生まれてはじめてといふカツパの繪を彩色入りでかいて下さつた。ところが、そのスマさんは、氣の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カツパの繪が形見みたいになつてしまつた。また、折口信夫先生の河童圖は、特に池田彌三郎氏から拜借願つたものである。折口先生も今は鬼籍に入られた。しかし、この二人の故人のカツパは溌溂としてゐて生きてゐるやうである。それぞれの人のそれぞれのカツパ、それこそが眞に絢爛(けんらん)たるカツパ・マンダラといへやうか。どんなに感謝しても感謝しきれない氣持である。ありがたうございました。

[やぶちゃん注:「田畑修一郎」(明治三六(一九〇三)年~昭和一八(一九四三)年)は島根県出身の小説家。早稲田大学英文科に入学するも中退し、後、宇野浩二に師事した。大学在学中、火野が述べている通り、彼らと同人誌『街』を創刊している。代表作は昭和八(一九三三)年に発表した「鳥羽家の子供」で、芥川賞候補にもなった。死因は病死と思われる(ウィキの「田畑修一郎に拠る)。

「中山省三郎」(明治三七(一九〇四)年~昭和二二(一九四七)年)は詩人でロシア文学の翻訳家として知られた人物。茨城県生まれ。ウィキの「中山省三郎によれば、同郷の詩人『横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌をやり、ロシア文学を翻訳・研究し、他に詩を書き、長塚節研究などをした』。死因は『持病の喘息の発作』であった。私は彼のツルゲーネフの作品の訳を心朽窩館」で多量に公開している

「寺崎浩」(明治三七(一九〇四)年~昭和五五(一九八〇)年)出生地は岩手県盛岡市であるが、出身は秋田とする詩人・小説家。早稲田大学文学部仏文科中退。大学在学中に火野らと『街』を創刊、また、西條八十に師事して同人詩誌で小曲風の象徴詩も発表している。昭和三(一九二八)年頃から横光利一に師事し、昭和十年文壇にデビューした。以後は小説に専念した。代表作に短編集「祝典」、長編「女の港」、「情熱」、詩集「落葉に描いた組曲」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

『博多の水だき屋「新三浦」』現存する。明治四三(一九四三)年創業の鶏の水炊き屋。公式サイトはこちら

「折口信夫先生の河童圖」この後で電子化する佐藤春夫の「敘」に添えられたもの。後で掲げる。]

 この本には、私の繪も添へた。繪かきでない私の繪など恥かしい思ひであるが、專門家でない故に笑つて見ていただけるかも知れない。亡友中山省三郎の家に、私の畫集四卷がある。中山は私が九州から上京するたび、畫帖に一枚づつ繪をかかせてゐたが、それが昭和十五年以後、昭和二十二年、彼が聖ヨハネとして昇天するまで、「徂徠(そらい)集」「矢音(しおん)集」「愛日集」と三春たまつた。彼の沒後はそのことば跡絶(とだ)えてゐたが、富士子未亡人が夫がゐなくてもつづけて欲しいといふので、最近また帖をおこし、「遊魚集」として四册目をかきはじめてゐる。この本の卷頭にのせた繪のうち、「河童果物皿登之圖」「河童龍乘之圖」「河童竹林遊魚之圖」の三枚は、中山家の畫帖から撰んだものである。あとはこの本のために、新に描いた。私は死ぬまでカツパから脱れられないと觀念してゐるので、これからも折にふれて、カツパの繪は描きたいと考へてゐる。いや、多分、かかずにはをられないであらう。因果なことである。

[やぶちゃん注:ここで火野が挙げている三枚の絵は電子化しない。それはせめても、底本国書刊行会による復刻版に敬意を表するためである。底本はなかなか高かった(一万六千二百円)。私も大枚をはたいて買ったのだから、どうしてもその絵を見たいという人は是非とも買って戴きたい。調では、在庫もあるようだ。]

 最後になつたが、この本の出版について、多大の犧牲をはらひ、豪華本の完成に全力をそそいで下さつた四季社の社長松本國雄氏、編集長藤崎斐虎張氏に、多大の謝意を表さなくてはならない。また、編集や校正等の面倒な仕事をいとはずにやつてくれた仲田美佐登さんにも禮をのべなくてはならない。三氏の熱情がなかつたならば、このやうな美しい本はできあがらなかつたであらう。ともあれ、この「河童曼荼羅」は私の數多くの著書のうち、もつとも私をよろこばせたもので、私の生涯の記念になるかも知れない。うれしさのあまりか、つい後書が長たらしくなつてしまつた。

 

   昭和三十二年一月二十五日

            釣魚庵主人葦平記

 

[やぶちゃん注:「藤崎斐虎張」名前の読み方は不詳。識者の御教授を乞う。

奥付によれば、原本の発行は昭和三二(一九五七)年五月十日である。因みに、私は同年二月十五日生まれである。]

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