和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 𧒂螽(いなご)
いなご 負蠜 蚱蜢
【和名以奈
古萬呂】
𧒂螽
【俗云以奈古
但下畧也】
フヱウチヨン
本綱、𧒂螽【蠉同】總名也有數種在草上者草螽【負蠜】在土
中者曰土螽【蠰螇】似草螽而大者曰螽斯【蚣蝑】似螽斯而
細長者曰蟿螽【螇蚚】數種皆類蝗而大小不一方首長角
修股善跳有青黒班數色亦能害稼五月動股作聲至冬
入土穴中夷人炙食之辛有毒其類乳于土中深埋其卵
至夏始出詩云喓喓草蟲趯趯𧒂螽陸佃云草蟲鳴于上
風蚯蚓鳴于下風因風而化性不忌而一母百子【忌嫉也】
△按𧒂螽方首形似莎雞而小青白色生田稻夜在株朝
上於梢呑稻露故名稻子取之炙食味甘美如小蝦
形同而灰色在田野而跳地者卽土螽也其大者灰皁
色班而大於莎雞跳作聲如曰吉吉【似螽斯聲而不清也】陳藏噐
所謂𧒂螽狀如蝗有黒班者與蚯蚓異類同穴爲雌雄
得之可入媚藥者是矣生尋常草者名草螽
凡𧒂螽在田稻呑露而無爲害稻如不茂盛則螽亦少
然則雖多有不厭也劉歆云負蠜性不食穀食穀爲災
*
いなご 負蠜〔(ふはん)〕 蚱蜢〔(さくばう)〕
【和名、「以奈古萬呂〔(いなごまろ)〕」。】
𧒂螽
【俗に「以奈古」と云ふ。但し、下畧なり。】
フヱウチヨン
「本綱」、「𧒂螽」【「蠉〔(けん)〕」に同じ。】は總名なり。數種有り。草の上に在る者を「草螽〔(さうしゆう〕」【「負蠜」。】、土中に在る者、「土螽」【「蠰螇〔(じやうけい〕」。】と曰ふ。草螽に似て大なる者、「螽斯(はたをり)」【「蚣蝑〔(しようせい)〕」。】と曰ふ。螽斯〔(はたをり)〕に似て、細長き者を「蟿螽(はたはた)」【「螇蚸〔(けいれき〕」。[やぶちゃん注:原典は先の通り、「蚚」であるが、これは穀象の類(甲虫(コウチュウ)目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属 Sitophilus)を指す漢語であり、おかしい。国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目」の当該箇所画像を視認したところ、「螇蚸」となっているので訂した。]】と曰ふ。數種、皆、蝗〔(いなご)〕に類して、大小、不一〔おなじ)〕からず。方なる首、長き角、修〔なる〕股。善く跳(は)ねる。青・黒・班〔(まだら)〕の數色有り。亦、能く稼〔(いね)〕を害(そこな)ふ。五月、股を動かして聲を作〔(な)〕し、冬に至りて、土穴の中に入る。夷人(ゑびす)、炙りて之れを食ふ。辛く、毒、有り。其類、土中に乳(こう)む[やぶちゃん注:「子産む」。]。深く其卵を埋〔(うづ)〕む。夏に至りて、始めて出づ。「詩」に云ふ、『喓喓〔(えうえう)〕たる草蟲〔(さうちゆう)〕、趯趯〔(てきてき)〕たる𧒂螽〔(ふしう)〕』〔と〕。陸佃〔(りくでん)〕が云はく、『草蟲は上風〔(じやうふう)〕に鳴き、蚯蚓(みゝづ)は下風に鳴く。風に因つて化す。性、忌(ねたま)ずして、一母、百子〔なす〕【「忌」は「嫉」なり。】。
△按ずるに、𧒂螽は方なる首、形〔(かた)〕ち、莎雞(きりぎりす)に似て、小さく、青白色。田〔の〕稻に生じ、夜は株(かぶ)に在り、朝は梢に上(のぼ)り、稻の露を呑(の)む。故に「稻子(いなこ)」ろ名づく。之れを取りて炙り食ふ。味、甘美〔にして〕小蝦のごとし。
形、同じくして、灰色、田野に在りて地を跳ぶ者、卽ち、「土螽」なり。其の大なる者、灰皁色〔(かいこくしよく)〕、班〔(まだら)〕にして莎雞より大きく、跳ねて聲を作〔(な)〕〔すに〕、「吉吉〔きちきち〕」と曰ふがごとし【螽斯の聲に似て而〔も〕清〔(きよ)らかなら〕ざるなり。】陳藏噐〔(ちんざうき)〕が謂ふ所の、『𧒂螽、狀、蝗のごとく、異班〔(いはん)〕有る者[やぶちゃん注:原典は前の通り、「黒」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目」の当該箇所画像を視認したところ、「異」となっているので訂した。]、蚯蚓と類を異〔とするも〕、同穴〔し〕、雌雄を爲〔(な)〕す。之れを得て、媚藥に入るるべし』と云ふは、是なり。尋常の草に生ずる者を「草螽」と名づく。
凡そ、𧒂螽、田〔の〕稻に在るは、露を呑みて、害を爲すこと無し。如〔(も)〕し、稻、茂盛〔(もせい)〕せざれば、則〔ち〕、螽〔も〕亦、少なし。然れば、則〔ち〕、多く有りと雖も、厭(いと)はざるなり。劉歆〔(りゆうきん)〕が云はく、『負蠜、性〔(しやう)〕、穀を食はず。穀を食へば災ひと爲〔な〕る』〔と〕。
[やぶちゃん注:これは正しく我々が本邦で呼んでいる「いなご」、即ち、
直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目イナゴ科 Catantopidae(イナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae)に属するイナゴ類
のことである。
なお、中国で大群で穀類を襲う「飛蝗」として恐れられたそれは実はイナゴではない。ウィキの「イナゴ」によれば、『漢語の「蝗」(こう)は、日本で呼ばれるイナゴを指すのではなく、ワタリバッタ』類(雑弁亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科 Acrididae のバッタ類の内、サバクトビバッタ(バッタ科 Schistocerca属サバクトビバッタ Schistocerca gregaria:アフリカ大陸呼び中東、アジア大陸に棲息するが、本邦にはいない)やトノサマバッタ(バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria:無論、本邦に普通に棲息するそれであるが、後述するような群体相を示すことはまずない。但し、南西諸島や嘗ての北海道などで本種が「飛蝗」化し、植物や農作物に甚大な被害が出たことはある。後の引用を参照のこと)のように、大量発生などによって相変異を起こし、群生相となる種群を総称する名称)『が相変異』(個体群密度の変化によって有意に異なった姿と行動形態を生じること。飛蝗では孤独相から移動(群体・群生)相となることを指す。詳しくはウィキの「相変異」を参照されたい。下線はやぶちゃん。以下同じ)『を起こして群生相となったものを指し』、『これが大群をなして集団移動する現象を飛蝗、これによる害を蝗害と呼ぶ。日本ではトノサマバッタが「蝗」、すなわち群生相となる能力を持つが、日本列島の地理的条件や自然環境ではほとんどこの現象を見ることはない。わずかに明治時代、北海道で発生したもの』、昭和六一(一九八六)年に『鹿児島県の馬毛島で起きたものなどが知られるくらいである』(私は映像でこの大隅諸島馬毛島(まげしま)(鹿児島県西之表市に含まれ、種子島の北の西方十二キロメートルの東シナ海上にある。面積は八・二平方メートル)の映像を当時見たが、鎧のような形状変化と体色変化及び凶暴性はなかなかにクるものがあった)。『日本人にとってほとんど実体験のない「蝗」が漢籍によ』って『日本に紹介された』際、まったくの誤解によって『「いなご」の和訓が与えられ、またウンカやいもち病による稲の大害に対して「蝗害」の語が当てられた』のであり、また『聖書にはしばしば蝗害が描かれており、これを引き起こすワタリバッタが日本語では「いなご」「蝗(いなご)」と訳されることが』多く、アポカリプス的黙示映画でも安易にイナゴだと思い込んで日本人が見てしまうことも、この故なき誤認に拍車を掛けていると言えると私は強く思っている。この真相はあまり知られているとは思われないので、特に記しておきたい。無論、イナゴ類は本邦でも稲の害虫であり、古くからの虫送りの対象生物でもあったことは事実ではある。しかし、あくまで、本邦の彼らは稲の葉を食害するのであって、稲を食うのではない。無論、それによって米の歩留まりが有意に悪くなったり、幼虫は稲の株内にも産みつけられ、幼虫も葉を食害するから、枯死したりすることもあろう。しかし、米を喰らい、飛蝗のように完全に食い尽くされると勘違いしている高校生を私は何人も見てきたので特に謂い添えておきたいのである。本邦のイナゴの実際の稲の食害状況については「やまがたアグリネット」のこちらに詳しい。是非、御一読戴ければ、〈凶悪にして暴悪な悪魔の使い的イナゴ〉のイメージは幾分か、正しい方向に理解されるものと存ずる。本邦産の狭義のイナゴは、
イナゴ科イナゴ亜科 Oxyini 族イナゴ属コバネイナゴ Oxya yezoensis
イナゴ属ハネナガイナゴ Oxya japonica
イナゴ科ツチイナゴ亜科ツチイナゴ属ツチイナゴ Patanga japonica
イナゴ属エゾイナゴOxya yezoensis(北海道・東北地方に分布)
イナゴ属コイナゴOxya hyla intricata(琉球諸島以南に分布)
などが知られる。
なお、次の項の「蝗(おほねむし)」の中国の本草書からの引用に出るそれは、まさに「飛蝗」を体現させるワタリバッタ類と読める。そこでは正直、良安も困ったという感じである。
「本綱……」以下、
イナゴ(但し、中国のそれであるから、ここでの「イナゴ」は本邦での「イナゴ」類を指していない点に注意されたい)の総称としての「𧒂螽」「蠉」
とし、
・草の上に棲息する種を「草螽」(そうしゅう)=「負蠜」(ふはん)
と称し(これは本邦の狭義の「イナゴ」っぽくはある)、
・土の中に棲息する種を「土螽」(どしゅう)=「蠰螇」(じょうけい)
と称するとする。これはまず、既出の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類だろう。しかも、その
・「草螽」に似ているが、有意に大きい種を「螽斯(はたをり)」=「蚣蝑」(しょうせい)、即ち、既出既注のそれで、現在の本邦産種としては直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri(本州西部(近畿・中国)及び四国・九州に分布)とヒガシキリギリス Gampsocleis mikado(青森県から岡山県(淡路島を含む)に分布し、近畿地方ではニシキリギリスを取り巻くように分布)の二種に代表される種
と同定出来る。次に、
・螽斯(はたをり)に似ていて、体が細長い種を「蟿螽」(はたはた)=「螇蚸」(けいれき、即ち、これも既出既注の直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea 或いはその♀(♂より有意に大型)と本邦ならば同定出来る
ことになる。即ち、時珍の言う「數種、皆、蝗〔(いなご)〕に類して、大小、不一〔おなじ)〕からず」という総論は本邦では全く通用しないトンデモ説ということを認識しなくてはならぬ。しかしそれは、時珍の罪なのではなく、中国に於いて「蝗」の古義がそうした広汎なバッタ類或いはバッタのように見える虫類を指す語であったのを、イナゴに限定してしまった我が邦の誤認にこそ大きな咎はあるということである。
「股を動かして聲を作〔(な)〕し」誤り。イナゴは鳴かない。但し、群体相の羽音は凄まじいから、それをかく表現したとしてもおかしくはない。
「夷人(ゑびす)」引用は「本草綱目」であるから、中国古代における東方の異民族の総称。日本人も当然含まれ、実際に本邦のイナゴ類は今も食べている。
「毒、有り」誤り。無毒。
其類、土中に乳(こう)む[やぶちゃん注:「子産む」。]。深く其卵を埋〔(うづ)〕む。夏「詩」「詩経」の「召南」の遠征した夫を思う夫人の詩「草蟲(さうちゆう)」で、引用はその冒頭の二句。但し、「𧒂螽」は「阜螽」。これについて昭和五〇(一九七五)年明治書院刊の乾一夫著「中国名詞観賞 1 〈詩経〉」では、『いなご。「阜」は「𧌓」の省借で、「阜螽」は同義の連言熟語』とある。
「喓喓〔(えうえう)〕」盛んに鳴く虫の声(ね)の形容語。
「草蟲」前掲書で乾先生はキリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis と推定比定している。
「趯趯〔(てきてき)〕」前掲書で乾先生は『ピョンピョンと飛びはねることを形容する語』で、『「趯」は「躍」と同声の通用字』とされる。
「陸佃」(一〇四二年~一一〇二年)北宋末の文人政治家越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身。神宗・哲宗・徽宗に仕え、官は尚書左丞に昇った。王安石の門人であったが、彼のの新法改革には必ずしも賛成でなかった。しかし、改革が失敗に終わった後も忠誠を尽くした。南宋の政治家で詩人としてとみに知られる陸游はこの陸佃の孫に当たる。以下の引用は、彼の書いた主に動植物について説明した博物学的辞典「埤雅(ひが)」(全二十巻)から。ウィキの「埤雅」によれば、『陸佃の没後、子の陸宰によって』一一二五年に書かれた同書の序文によれば、陸佃は「詩経」中の『動植物に関する深い知識があった。北宋の神宗が熙寧年間に科挙の改革を行い、試験範囲から詩賦を除いて経学を主とするようになって以降、陸佃の講義は人気が高まった。陸佃はその内容を書物にすることを提案し、まず』、「説魚」・「説木」の二『篇を神宗に進上した』。当初、この書は「物生門類」という標題で『あったが、完成前に神宗が崩御し』たため、陸佃はそれより四十年をかけて書物を改訂、中国最古の辞書「爾雅」(著者未詳・全三巻。紀元前二〇〇年頃成立)の『補佐となる書物という意味で』「埤雅」と名づけたという。以下は「巻三」からの引用。
「上風〔(じやうふう)〕」雰囲気から見ると、本邦の古語「上風(うはかぜ)」、草木などの上を吹き渡る風と同義と見てよかろう。
「蚯蚓(みゝづ)は下風に鳴く」「下風」は同じく本邦の「したかぜ」と同義とするならば、樹木などの下の方、地面の近くを吹く風を指す。良安が既に真相を明らかにしているように、これは既出の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類の鳴き声の誤認である。
「風に因つて化す」よく判らぬ。イナゴは上風で孵化すると考えたものか。
「性、忌(ねたま)ずして、一母、百子〔なす〕【「忌」は「嫉」なり。】」意味がよく判らぬ。一匹の♀が多数の♂と交尾して百の卵を産むという意味か。しかし、複数の♂と交接するからと言って「忌(ねたま)ず」「嫉」妬しないというのもヘン。なお、イナゴは通常、三十から四十個ほどの卵を含むカマキリのような泡状の卵塊を産むから、そこからぞろぞろ孵化するさまは「百子」と言うには相応しかろうとは思う。
「味、甘美〔にして〕小蝦のごとし」ウィキの「イナゴ」の「利用」によれば、『日本では昆虫食は信州(長野県)など一部地域を除き一般的ではないが、イナゴに限ってはイネの成育中または稲刈り後の田んぼで、害虫駆除を兼ねて大量に捕獲できたことから、全国的に食用に供する風習があった。調理法としては、串刺しにして炭火で焼く、鍋で炒る、醤油や砂糖を加えて甘辛く煮付けるイナゴの佃煮とするなど、さまざまなものがある。イナゴは、昔から内陸部の稲作民族に不足がちになるタンパク質・カルシウムの補給源として利用された。太平洋戦争中や終戦直後の食糧難の時代を生きた世代には、イナゴを食べて飢えをしのいだ体験を持つ者も多い』。また、『長野県阿智村などでは、「イナゴを黒焼にして食用油と練り湿疹治療薬」「黒焼粉を喉に吹きつけ、扁桃腺を治す」という民間療法があった』。実は本邦に限らず、『イナゴを食べる民族は多』く、知られたフランスの画家アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa 一八六四年~一九〇一年)は“La Cuisine de Monsieur Momo”(「モモ氏の料理」:ロートレック本人が残したレシピを親友モーリス・ジョワイヤン(Maurice Joyant)が編集して一九三〇年に発行された料理本)の中で「イナゴの網焼き」を挙げ、『「洗礼者ヨハネ風」』『と命名し、茶色でも黄色でもなく、ピンク色のイナゴがよいとしている』とある。糞をちゃんと抜かないと臭いが、実際にエビのような味である。但し、私はあのトゲトゲの脚が口内に刺さる一点に於いて忌まわしく、好んでは食わない。
「形、同じくして、灰色、田野に在りて地を跳ぶ者、卽ち、「土螽」なり。其の大なる者、灰皁色〔(かいこくしよく)〕、班〔(まだら)〕にして莎雞より大きく、跳ねて聲を作〔(な)〕〔すに〕、「吉吉〔きちきち〕」と曰ふがごとし【螽斯の聲に似て而〔も〕清〔(きよ)らかなら〕ざるなり。】」この後者の部分は、鳴いている点やその体色から、バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria を指しているように見える。トノサマバッタは体長が三・五~六・五センチメートルと大型で(♂より♀の方が大きい)。個体によって色に差があり、緑色型と褐色型の二つのタイプがあるからであり、トノサマバッタはイナゴと異なり、後脚を前翅に擦って「シリシリシリ……」といった音を出すからである。
「陳藏噐」(生没年未詳)は唐の玄宗期の本草家で医師。彼の著した「本草拾遺」(七三九年成立)は「本草綱目」にもよく引かれている。以下も、そこから引いたもの。しかし、これはやはり本邦のイナゴではなく、ミミズと共生するとあるところから、これはミミズを捕食対象の一つとする先の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類である可能性が非常に高い。例えば、ここにはそれは「異班〔(いはん)〕」を持つとあるが、ケラの背部形状は、羽根が短く頭部の背面部に独特の斑(まだら)があって、そのスコップ上の前脚といい、ぱっと見、かなり異形(いぎょう)の部類に属するからでもある。
「劉歆〔(りゆうきん)〕」(?~二三年)前漢末から新にかけての学者。劉向(りゅうきょう)の子で、幼少の頃より、好学の人として知られ、第十一代皇帝成(せい)帝の時、父とともに漢王室の図書整理に参加する。父の没後は、その事業を継いで六芸(りくげい)の群書を類別した「七略」を完遂させた。「七略」の原書は散逸してしまったが、「漢書」の「芸文志(げいもんし)」にそのまま取り込まれ、今日に伝えられている。これは中国における経籍目録の最初のもので、彼はこの作業に従事することで古文学を修得、「春秋左氏伝」「詩経」などを公許の学問にせんとして古文顕彰運動を起こし、今文(きんぶん)派の儒者と激しく争った。当時の実力者王莽(おうもう)は以前、ともに黄門郎として勤務したこともあり、新王朝を興した後は、彼を重用して国師の地位をも与えている。新王朝の制度は「周礼」に拠っており、古文学者としての彼に立法その他で依拠するところが大きかったからであった。しかし、王莽に三子を殺されたのを恨んで謀反を企てて失敗、自殺した。「漢書」に伝記が載る(以上は「日本大百科全書」に拠る)。以下の引用は恐らく「漢書」の『劉歆以爲負蠜也、性不食穀、食穀爲災、介蟲之孽』に拠るものであろう。「介蟲」は「甲殻で身を守っている虫類」で現行では水棲の甲殻類を指すが、ここはもっと広義のカブトムシのような外骨格を持った昆虫類を広く指すものと思われる。「孽」(音「ゲツ・ゲチ」には「禍い」の意がある。]
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