小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(25) 禮拜と淨めの式(Ⅲ)
公然に行ふ奉祭の性質は、神々の位に從つて相違して居る。供物と祈禱とはすべての神神に捧げられたのてあるが、大きな神々は非常な儀式を以て禮拜された。今日では通例供物は、食物と酒と、昔から風習として供へられて居た高價な織物を表はす象徴的の品物から成つて居る。又儀式には行列、音樂、歌謠及び舞踊が入つて居る。極小さな社では儀式も少い――只だ食物が供へられるのみてある。併し大きな神社には神官と女の神官(巫女)――通例神官の娘である――との一團の司祭があり、儀式も念が入り嚴肅である。かかる儀式の古風な趣を尤も都合よく研究し得るのは、伊勢の大廟(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)か、出雲の大社に於ててある。佛敎の大波は、一時古い信仰を殆ど葬り去つたのであるが、それにも拘らず、この伊勢と出雲とに於ては、何十世紀以前のままに萬事が殘つて居る、――この特別な聖い境內にあつては、神仙談の中にある魔の宮殿に於けるが如く、過ぎ行く時も眠つて居たのかと思はれるやうである。建築の形そのものが、不思議に高く聳え、その見なれない姿で、人の目を驚かす。この社の內にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。奧にあるそれ等の御幣の數に依つて、その場所に捧げてある神々の數を知る事が出來る。其處には空間と、緘默と、過去の暗示との外、何も人の心を動かすものはない。最奧の神壇には幕がかかつて居る、恐らくその內には、靑銅の鏡と古い劍と、八重に包まれて居る何か他の品があるのであらう。それだけである。蓋しこの信仰は諸〻の偶像よりも古いのであるから、人の姿などを要しないのである。其神は亡靈である。そしてその社の何もない靜けさは、耳目に觸れ得る代表物に依つて起こされうるよりも、遙かに深い嚴肅の感を起させる。少くとも西洋人の眼には、其奉祭、禮拜の型、神聖なる品物の形は、いづれも甚だ異樣に感じられる。神火は決して近代式の方を以て點ぜられるのではない――神々の食物を料理するその火は、それは木をもつて作つた火を發しさせる錐のやうなものを以て尤も古い仕方で默火される。神官の長は神聖な色――白――の上衣を着、今日では他所には見られない形の頭の裝をつける、――昔の大公、王子等の着けた高い帽子である。その補助の人達はその位に應じて各種の色をつける。そしていづれの人の顏も全く髯を剃つたのはない――或る人はすつか顎髯を生やし、また或るものは口髯のみを生やして居る。この種の敎僧の行動も、態度も、威嚴を備へて居るが、而も一寸文字にあらはせない程に古風な處がある。その身の動かし方は、一々古くからの傳統に依つて定められてあるので、神主たる職務を十分に行ふには、長い準備の訓練が要せられるのである。この職務は父子相傳で、その訓練は少年の時代に始まる。そしてやがてその感情を表現しない樣子が習得されるのであるが、それは實際驚くべきものである。その職を行つて居る神主は、人間といふよりも、むしろ立像のやうに見える、――目に見えない何物かに依つて動かされて居る姿である――そして神と同じく神主は目ばたきをしない……。嘗て長い神道の行列に際し、多くの日本の友人と共に、私は、どれ位長い間、若い神主が目ばたきをしないで居られるかを見ようと思つて、その馬上の姿を注目して居た。而も私共の一人も、吾々が見て居た間に、神主の馬が止つてしまつたに拘らず、その眼若しくは眼瞼の最小の運動たりとも發見したものはなかつた。
[やぶちゃん注:「高價な織物を表はす象徴的の品物」所謂、「幣帛(へいはく)」である(但し、これには広義には前に出る食物と酒も含まれる)。本来は織り上げた衣服・漉いた和紙及び農耕具などを飾った。ここで言うのは「布帛(ふはく)」で絹を主として古くは木綿や麻でできた布地(きれじ)であったが、実際にはこれが本文でも述べている通り、シンボル化して幣(ぬさ)となったものである。今の日本人のどれだけの者が、御幣が、そうした具体な供物の象徴物の変形したものであると知っているだろうか? 我々は素直に小泉八雲の足下に跪かねばならないと私は思う。
「(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)」これは訳が不全である。原文は“(where, down to the fourteenth century the highpriestess was a daughter of emperors)”であるから(この“highpriestess” は“High Priestess”で「女教皇」「女祭司長」の意)、「ここでは、十四世紀末に於いては、その最高位の司祭長としての巫女(みこ)は天皇の娘であった」という意味であり、この「十四世紀末」(頃まで)「に於いては」がないと、事実として非常おかしくなる。所謂、「斎宮」(いつきのみや)のことである。ウィキの「斎宮」によれば、『平安時代末期になると、治承・寿永の乱(源平合戦)の混乱で斎宮は一時途絶する。その後』、『復活したが(もう一つの斎王であった賀茂斎院は承久の乱を境に廃絶)、鎌倉時代後半には卜定』(ぼくじょう:先代の斎宮が退下(たいげ)すると、未婚の内親王又は女王から候補者を亀卜(きぼく:亀の甲を火で焙って出来た罅で判断する卜占)により新たな斎宮を定めたことを指す)『さえ途絶えがちとなり、持明院統の歴代天皇においては置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎宮祥子内親王(後醍醐天皇皇女)が群行』(狭義には斎宮が任地伊勢国へ下向することを指す語)『せずに野宮』(ののみや:斎宮や斎院に卜定された後に一定期間籠る施設で、宮城内に設けられた)『から退下したのを最後に途絶した』(退下は建武三(一三三六)年)とある。八雲の「十四世紀末」の謂いはかなり正確であると言える。
「この社の內にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。」原文は“Within, ail is severely plain and pure : there are no images, no ornaments, no symbols visible — except those strange paper-cut-tings (gohei), suspended to upright rods, which are symbols of offerings and also tokens of the viewless.”。「目に見えないものの不思議な御幣」は、日本語として生硬で、よくない(但し、全体を読むと言わんとする意味は解る)。平井呈一氏の訳は、『社殿の内部は、これまた万事が峻厳なくらいに簡素で、純潔で、神の像だの、装飾など、目に見える象徴物などは何一つなく、ただまっすぐな木の棒に、白い紙を切った奇妙な物(御幣)が下がっているだけで、この御幣が供え物をかたどったもので、目に見えない物のしるしとなっている。』と訳しておられ、非常に、自然に神社の屋内の情景が髣髴としてくるのである。戸川秋骨の訳のまずい部分は、正確に訳そうとする結果、やや英単語の逐語的意味に拘り過ぎ、実際に小泉八雲が描こうとしている実景を再現するという基本的立ち位置を忘れてしまっている点にあると私は思っている。
「其神は亡靈である」確かに原文は“its gods are ghosts ;”ではある。あるが、しかし、やはりしっくりこない。この“ghosts”は「亡くなった人の霊」である。私はやはり平井氏の『その神とは、御霊』(みたま)『である』が、しっくりくるのである。
「其奉祭」「其の奉祭」で、その、神を奉って供物を捧げる祭儀全体のこと。]