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2017/09/17

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲


Matumusi

まつむし  正字未考

      【末豆無之】

松蟲

 

△按松蟲蟋蟀之類褐色而長髭腹黃在野草及松杉籬

 夜振羽鳴聲如言知呂林古呂林甚優美也凡松蟲鈴

 蟲晝難得夜照燈則慕光來捕之畜于蟲籠用竹筒盛

 水投鴨跖草二三葉毎旦新換水及草掃糞其屎如胡

[やぶちゃん注:「旦」は「且」であるが、意味が通らないので特異的に訂した。]

 麻大暑以後始鳴九十月止

    【古今】 栬葉の散てつもれる我宿に誰を松虫こゝら鳴くらん 無名

 

 

まつむし  正字、未だ考へず。

      【「末豆無之〔(まつむし)〕」。】

松蟲

 

△按ずるに、松蟲は蟋蟀(こほろぎ)の類、褐色にして、長き髭、腹、黃、野草及び松・杉の籬(かき)に、夜、羽を振〔るひ〕て鳴く。聲、「知呂林〔(ちろりん)〕、古呂林〔ころりん)〕」と言ふがごとく、甚だ、優美なり。凡そ松蟲・鈴蟲、晝、得難し。夜、燈を照らせば、則ち、光を慕(した)ひて來る。之れを捕へて、蟲籠(むしこ)に畜〔(か)〕ふ。竹の筒を用ひて水を盛り、鴨跖草(つゆくさ)二、三葉を投〔じ〕、毎旦、新たに水及び草を換(か)へ、糞を掃(はら)ふ。其の屎〔(くそ)〕、胡麻〔(ごま)〕のごとし。大暑以後、始めて鳴く。九、十月、止む。

【「古今」】 栬葉〔(もみぢば)〕の散りてつもれる我〔(わが)〕宿に誰〔(たれ)〕を松虫こゝら鳴くらん 無名

 

[やぶちゃん注:ズバリ、結論、から言おう。これは図及び鳴き声から見て、正しく、現在の、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus

である。高校の古文の教科書の注には、まことしやかに(或いは十把一絡げに)平安時代(国文学者の「源氏物語」「古今和歌集」の注釈や「広辞苑」の記載等)、或いは、もっと広げて、江戸時代以前は現在のマツムシはスズムシ(コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus)であったとし、一部の近現代の教養書籍類では、明治時代にそれぞれの当該種に和名を与える際に逆に命名してしまったという〈トンデモ真相〉を鼻高々に掲げてあったりする。かく言う私も、かつてそう授業で言い続けて来た付和雷同の凡百の一人であるのだが、例えば、この「和漢三才図会」のこの記載を見るにつけ、

現在の私は、この説はほぼ完全に誤りであると断言したい

のである。

 まず、一部の古典籍に於いて、両者に混同があったという記載は確かにある。これに就いては幾つかのネット記載が解説を記しているが、私は個人サイト「タコツボ通信」の中の「文学にでてくる昆虫 古典編」の『「松虫」と「鈴虫」の呼称について』が最も判り易く、優れたものであると感じている(なお、フェイスブックの「古典一般」という方のこちらの記載に平安期の逆転肯定説(国文学者今西祐一郎氏のもの。但し、「広辞苑」に載る逆転説を『試案』と留保しての肯定)をうまくコンパクトに纏めた「平安時代、鈴虫はなんと鳴いたか」もある)。この「タコツボ通信」の方は、私と同じく、逆転などしていないという結論を提示されている。そこで、逆転説の有力な証左の一つとして、江戸末期の松浦静山の随筆「甲子夜話」の一節(百巻の第三話の後半。因みに私は「甲子夜話」の電子化注も手掛けている。全然、進まないが)の梗概を現代語訳されておられるが、ここは私が原典を引いておくこととする。底本は東洋文庫を用いたが、恣意的に漢字を正字化し、二重鍵括弧は鍵括弧に代えてある。踊り字「〱」「〲」は正字に変えた。但し、この「松虫鈴虫の弁」というのは静山の文章ではなく、成嶋勝雄(本条の前半はその父成嶋道筑の和歌が主体)なる人物の文章の引用であるので注意されたい。下線太字は私が附した。

    *

  松蟲鈴蟲の辨

物の名などおぼつかなきを、しゐてあなぐりもとめんこそ、いとものぐるをしけれ。俊成卿のしのゝ藥草、いかなるものぞともさだかならねど、たゞその名のゑんにやさしければ、ちらすなよとはよませられけん、ゆくにうるはしき道のをしへなるべき。されど又登蓮法師がまそほしの薄とみに尋ゆきけんも、さるかたにすきたる心のやうゐありてまたおかし。このほどそれの御つぼねより、都にしては松むしといへるは色くろく、鈴むしはあかきをいへり。あづまの人はおほくそのとなへたがひたり。いづれかいつれか、そのよしわきまへよとあれど、武さし野のかぎりなきおろかさにして、いかでそのなのりのたがひめわきまへ侍らん。なれどしゐていなみがたくて、をのづからさることや見出るとて、ふづくえのあたり所せきまで、ふみどもひもときちらしぬ。抑蟲のねをことにめでおはしましけるは、堀河院の御時にして、藏人頭以下を嵯峨野に逍遙せさせて、松蟲、鈴蟲を奉らしめ給へるよし、順德院の「禁祕抄」に見え、「公事根元」にもむしゑらみの事同じ如くしるさる。又「堀河院次郎百首」の題にも松蟲、鈴蟲を出され、松蟲は「古今集」に貫之の人まつ蟲とよめるによりて、俊賴、忠房その餘の人々も皆野原の夜寒によせ、常盤山の麓のさびしさにつけて侘ぬるよしを詠じ、鈴蟲は、はしたかの尾ぶさの鈴かと聞まがふよしを顯仲よみ、驛路の鈴かとおぼめしなど仲實のよまれける。その外世々の撰集、あるは順の「和名」をはじめ、「袖中抄」「八雲御抄」「藻鹽草」などにも、まつといひ鈴といふ、ゆかりにつきたることのはのみあまたあつめて、これがすがたのかうやうにして、そのなくこゑのかくこそはなけと、さだかにしるせしはつやつや見る所なし。まいて漢がたのふみには、「本草綱目」よりはじめ、きりぎりす、はたをりのうへのみあきらかにしるし置て、この二蟲の事は露あらはさず。近き比の陳淏子(チンカウシ)が「花鏡」に、金鐘兒燈(トウ)稜々(リヤウリヤウ)となき小鐘のごとしとかけるを、平賀といへるがまつむしといへる訓をつけし。こや都の手ぶりにならひしなるべし。白石といへりし人の「東雅」といへるふみには、螽斯のたぐひといへるのみしるし、貝原篤信といへる翁が、しきしまの『やまと本草』には、松むしはきりぎりすに似てひげあり。鈴蟲はそのさま西瓜といへるものゝ種のごとく、黒くひらひらして、首さゝやかに、ひげなかば白く二條ありといへり。翁は筑前の人にて都よりはじめ東のはてまでもあまねくあそびありきて、かゝるものゝ上もひろく見、せちにあきらめたる翁ぞかし。これやあづまうどのいへるにかなひたるらんと覺ゆ。こゝに「源氏物語」のすゞむしの卷に、六條院のことばにいへらく。聲々聞えたる中に鈴蟲のふり出たるほど、はなやかにおかし。秋の蟲の聲いづれとなき中に松蟲のなんすぐれたるとて、中宮のはるけき野邊を分て、いとわざと尋とりつゝ、はなたせ給へる、しるくなきつたふがこそすくなかなれ、名にはたがひて、命のほどはかなきむしにぞあるべき。心に任て人きかぬおく山はるけき野の松原に、聲おしまぬもいとへだて心ある蟲になん有ける。鈴蟲は心やすく、いまめひたるこそらうたけれとかけり凡松蟲は人げ遠き所にひとり心ぼそげに鳴おれるより、人まつ名にたちそめ、鈴蟲はをのが名を聲にふり出たるなるべし。さればいさゝか此ものがたりに、此むしどものこゑのやうをしなわかたれしを證とし、かの貝原翁が説にしたがひ、しばらくあづまうどのいひつぎのまゝに心うべきにや。猶ものさだめのはかせに、とほまほしくこそ。

   *

この内容の冒頭の部分の下線太字だけを見ると、「たこつぼ通信」氏が纏める通り、松虫と鈴虫は『江戸時代には京都と東京で呼称が逆になってしまっ』ていたということになり、『当然ながら、前提として京都の呼称が伝統的に正しいと考えるから』、本来の松虫と鈴虫は『今と逆だったという結論になる』ことになってしまうのである。

 以下、「たこつぼ通信」氏はそれぞれの鳴き声のオノマトペイアの表記記載や体色を主として、江戸(鈴虫と松虫の逆転を語るものが多い)から平安の「源氏物語」まで遡って行かれるているのである(引用したい強い欲求にかられるが、多くの書籍を渉猟され、考証なさっておられ、軽々に引用することが私には憚られる(それほど素晴らしい)。その過程はリンク先をじっくりとお読み戴きたい)。

 それでは逆転説の濫觴とも言える「源氏物語」ではどう書かれてあるか? 「たこつぼ通信」氏は実に逆に逆転説を否定するために「鈴虫」の帖を引くのである。その前後の「源氏物語」の原典を大幅に引いて以下に示す。光(院)が出家した正妻女三の宮(尼)のために六条院の彼女の屋形のそばに庭を新造し(『秋頃、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせ給へり』)、彼女を誘うために、『この野に蟲ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、 渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたま』ふたが、固辞するという前段を経て、光が八月十五夜、逆に三の宮がその庭を眺めつつ、誦経をするところに光が訪れる。台詞の頭に人物を示した。下線太字は私が附した。

   *

十五夜の夕暮に、佛の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦し給ふ。若き尼君達二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏(あかつき)の音(おと)、水のけはひなど聞こゆる、さま變はりたる營みに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡り給ひて、

光「蟲の音(ね)、いと繁(しげ)う亂るる夕(ゆふべ)かな。」

とて、我れも忍びてうち誦(ずん)じ給ふ阿彌陀の大呪(だいず)、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、聲々聞こえたる中に、 鈴蟲のふり出でたるほど、はなやかにをかし。

光「秋の蟲の聲、孰(いづ)れとなき中に、松蟲なむ優れたるとて、中宮の、遙けき野邊を分けて、いと、わざと、尋ね取りつつ、放たせ給へる、しるく鳴き傳ふるこそ少なかなれ。 名には違(たが)ひて、命のほど、はかなき蟲にぞあるべき。心にまかせて、人聞かぬ奧山、遙けき野の松原に、聲惜しまぬも、いと隔(へだ)て心ある蟲になむありける。鈴蟲は、心易く、今めいたるこそ、らうたけれ。」

などのたまへば、宮、

 

 おほかたの秋をば憂しと知りにしを

       ふり棄てがたき鈴蟲の聲

 

と忍びやかにのたまふ、いとなまめいて、あてにおほどかなり。

光「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ。」

とて、

 

 心もて草の宿りを厭へども

       なほ鈴蟲の聲ぞふりせぬ

 

など聞こえ給ひて、琴(きん)の御琴(おほんこと)召して、珍しく彈き給ふ。宮の御數珠(ずず)、引き怠り給ひて、御琴(こと)に、なほ、心入れ給へり。

   *

「たこつぼ通信」氏はこの下線太字部分の幾つかから、そこで優れていると光が言う「松虫」について、

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部に字間を入れたり、除去したりさせて貰った。]

1 遠くの野辺まで特別に探して採って来た

2 生命力の弱いはかない虫

 これは現在の松虫そのものではないか。

 鈴虫は家庭で誰もが簡単に飼える生命力の強い虫だから明らかにここに述べられた虫とは違う。

 松虫は今でも飼育に成功した人はほとんどいない。庭に放しても殖えることはない。

 結論=源氏物語のころの鈴虫松虫は今と同じものを指していた。ただし、一般庶民はどちらがどう鳴くかなどほとんど興味はなく、鈴虫なら縁語として「ふる」「なる」などを用い、松虫なら「待つ」と掛け詞にして使うという詞の上のイメージだけは共通していた。

   《引用終了》

と述べておられるのである。激しく同感した。私は向後、国語教科書から、かの逆転断言注は断然、排除すべし! と訴えておく。「広辞苑」も「とする説がある」と附記すべきである!

 最後に一言言っておくと、実は現在はもっと面倒なことが起こっている。それは全然別種で、姿(全身が鮮やかな緑一色(但し、は背中部が褐色を呈する)で体型は紡錘形を成す)も鳴き声も異なる、しかも明治期の外来侵入種と推定されているコオロギ科マツムシモドキ亜科マツムシモドキ族 Truljalia 属アオマツムシ Truljalia hibinonis なる輩が都市部を中心に爆発的に繁殖しており、現在ではこれもマツムシと混同されてしまっているおいう呆れ果てた事実があるのである。

 

「鴨跖草(つゆくさ)」単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ツユクサ亜科ツユクサ属ツユクサ Commelina communis。この表記(「おうせきそう」現代仮名遣)は漢名で、本邦では主に本種を天日乾燥させた生薬名として用いられるようである。花の色が鳥のカモ(鴨)の頭に似ていることに由来する。現在、一般には圧倒的に「露草」で知られるが、ウィキの「ツユクサによれば、『朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説がある。英名の Dayflower も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持つ。また「鴨跖草(つゆくさ、おうせきそう)」の字があてられることもある。ツユクサは古くは「つきくさ」と呼ばれており、上述した説以外に、この「つきくさ」が転じてツユクサになったという説もある。「つきくさ」は月草とも着草とも表され、元々は花弁の青い色が「着」きやすいことから「着き草」と呼ばれていたものと言われているが、『万葉集』などの和歌集では「月草」の表記が多い。この他、その特徴的な花の形から、蛍草(ほたるぐさ)や帽子花(ぼうしばな)、花の鮮やかな青色から青花(あおばな)などの別名がある』とある。私は、昔、臼 で搗いて染料としたとも聞くから「搗き草」だと思っていた。

「大暑」二十四節気の第十二。通常は旧暦六月の内で、ここは期間としてのそれであるから、陽暦に換算すると、七月二十三日頃から立秋(旧暦では六月後半から七月前半)の前日八月六日までとなる。

「栬葉〔(もみぢば)〕の散りてつもれる我〔(わが)〕宿に誰〔(たれ)〕を松虫こゝら鳴くらん 無名」「古今和歌集」の「巻第四」の「秋歌上」に出る詠み人知らずの一首(二〇三番歌)。「栬」は「紅葉」(もみじ)と同義。老婆心乍ら言っておくと、「こゝら」は場所ではない。副詞で「こんなに多く・頻りに」の意である(昔、試験によく出した)。男が訪ねてこなくなった女が来ぬ男を「待つ」悲愁を詠ったもの。]

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