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2017/09/26

老媼茶話 太平記評判 平家物語琵琶法師傳

 

     太平記評判 平家物語琵琶法師傳

 

 あわちの國の住人、淡路の冠者よし久は六條判官爲よしの末子(ばつし)なり。平家の大將能登守教經のため、生(いけ)とられ、首を獄門にかけ晒(さら)さる。冠者よし久かおとゝに、讚岐蜜嚴(ミツゴン)寺の住侶(じゆうりよ)義專坊(ぎせんばう)といふもの、是をふかく憤(イキトヲ)り、白峯(しらミネ)の崇德(ストク)院の御廟にとちこもり、

「昔のあた、報わせ給はん。御方人(みかたびと)にくわゝりなん教經か首を、生前に見せさせ玉へ。」

と祈願しけるこそおそろしけれ。一向、斷食にて、一七日(ひとなぬか)、行ひまんする夜は壽永三年二月六日。其夜は身もかるく、心も空になり、飛上(とびあが)るへくなりにける時、讀(よめ)る。

  さこ神のさこねもやらす住(すみ)わたる天飛(あまとぶ)鳥の心地こそすれ

 御殿、鳴動(メイトウ)して、

  我もまた飛(とぶ)さにつれよさこ神の天の戸わたる世さわりをせん

と、あさやかに詠し給ふとひとしく、天(あま)の羽車(はぐるま)に乘(のり)て、崇德院とうちつれ奉り、一谷(いちのたに)に來り、軍(いくさ)の始終、見物して、火の手の上るを扇立(おほぎたつ)るとそ覺へける。

 案のことく、教經、六日の夜より、氣、違ひ、物くるわしく、氣、相替(あひかは)り、軍(いくさ)の下知をもしたまわす、鎧、ぬきすて、小袖・はら卷きに長刀(なぎなた)引(ひつ)さけ、さまさまのたわことを言(いひ)て、

「是は、天狗酒宴の舞の手の第壱、旋風樂(せんぷうらく)といふもの。」

と一さしかなてらるゝありさま、つねならす。まして敵ふせくへき心、ましまさす。

 七日の辰の下刻に、北の陣屋より、火焰、覆ひかゝるかと思へは、戌亥(いぬゐ)の風、吹出(ふきいだ)し、強く焰(ほのほ)をうつまき、なりとよむ聲、夥(おびただ)し。諸軍勢、亂立(みだれたち)て、濱手濱手へ、かけ出(いづ)る。其紛れに、のりつねは、ゆくへなく、なり給ふ。

 爰に、能登守殿の郎等(らうどう)に讚岐の六郎經時も西をさして落行(おちゆき)しに、大藏(おほくら)か谷(たに)の邊りに唐綾(からあや)の鉢卷したる男、長刀、持(もち)なから、倒れふせり。みれは、能登守殿の御死骸(おんしがい)、疵(きず)もつかす、いまた、あたゝかなり。引立(ひつたて)んとするに、大男なれは、力、およはす、跡を歸り見るに、源氏の大勢、つゝきたり。是非なく、打捨て、あかしのかたへ落延(おちのび)たり。能登守殿の死首をは、安田遠江守よし定の家の子、田原の源吾といふ者、とりて、首帳(くびちやう)にしるし、都にのほせ、七條河原に獄門にかけさらせり、とあり。下(しも)、略之(これをりやくす)。

[やぶちゃん注:「太平記評判」江戸時代に広まった「太平記」の注釈書「太平記評判秘伝理尽鈔」のことか? ウィキの「太平記評判秘伝理尽鈔」によれば、これは『近世初期に日蓮宗の僧侶、大運院陽翁がまとめたものとみられるもので、「太平記」本文に沿って奥義を伝授する体にしたもので、「伝」(本文にない異伝)と「評」(軍学・治世などの面から本文を論評した部分)から成るとある。原書に当たることが出来ないので不詳しておく。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、私のパソコンでは表示に驚くほど時間がかかり、しかも当該画像本には目録もないため、諦めた。同書に「平家物語琵琶法師傳」なる条があるかないかだけでもお教え願えると助かる。さすれば、ただの「不祥」のみに留められるからである。にしても、略があって、どうしてこれが「平家物語琵琶法師傳」なのか、全く分らぬというのは、消化に頗る悪いぞ!

「淡路の冠者よし久は六條判官爲よしの末子(ばつし)なり」「平家物語」の流布本(ここでは高橋貞一校注講談社文庫版(昭和四七(一九七二)年刊)を用いたが、恣意的に漢字を正字化した)の「六箇度合戰」の冒頭に、

   *

さる程に平家福原へ渡り給ひて後は、四國の者ども一向隨ひ奉らず。中にも阿波讚岐の在廳等(ら)、皆平家を背いて、源に心を通はしけるが、さすが昨日今日まで、平家に隨ひ奉る身の、今日始めて源氏の方へ參りたりとも、よも用ひ給はじ。平家に矢一つ射懸け奉つて、それを表にして參らんとて、門脇(かどわきの)平中納言教盛、越前三位通盛、能登守教經父子三人、備前國下津井にましますと聞いて、兵船(ひやうせん)十餘艘でぞ寄せたりける。能登殿、大きに怒つて、「昨日今日まで、われらが馬の草(くさ)剪(きつ)たる奴ばらが、いつしか契りを變ずるにこそあんなれ。その儀ならば、一人(いちにん)も洩らさず討てや」とて、小船ども押浮べしに追はれにければ、四國の者ども、人目計りに矢一つ射て、退(の)かんとこそ思ひしに、能登殿に餘りに手痛う攻られ奉つて、叶はじとや思ひけん、遠負(とほま)けにして引退(ひきしりぞ)き、淡路國福良(ふくら)の泊(とまり)に著きにけり。その國に源氏二人(ににん)ありと聞こえけり。故六條判官爲義が末子(ばつし)、賀茂冠者(かものくわんじや)義嗣(よしつぎ)、淡路(あはぢの)冠者義久(よしひさ)と聞えしを、大將に賴(たの)うで、城郭を構へて待つ處に、能登殿押寄せて散々に攻め給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負うて、虜(いけどり)にこそせられけれ

   *

と名が出る(下線はやぶちゃん)。「新潮日本古典集成」の水原一校注の「平家物語」の同条には、この「賀茂冠者」と「淡路冠者」についての特別注がある。長いが、概ね全文を引用させて戴く。傍点は太字に代えた。

   《引用開始》

 六条判官為義は保元の乱で処刑されたが、生前源氏の天下を夢みつつ血縁を諸国に派遣していた[やぶちゃん注:中略。]。賀茂の冠者・淡路の冠者は、再起した平家のために攻め滅ぼされはしたが、そうした為義の布石の一角だったと言える。しかしその系譜の位置づけには、系図や平家諸本の間でまちまちで、明確には説明しがたい。賀茂の冠者は名を諸本で義継・末秀・為清(底本は淡路の冠者が為清)等種々に伝える。広本系及び南都本は為義五男掃部助(かもんのすけ)頼仲(保元の乱後処刑)の子で掃部冠者とし、中院本等には為義末子とする。「清和源氏系図」(続群書類従)には為義末子に「義次〈賀茂冠者、義久ジクㇾ誅〉」とあるが、『尊卑分脈』には、賀茂冠者は見えず、為義第七子に「為義(母賀茂成宗女)」とあるのが注意される。淡路の冠者は諸本により「義久・為信」ともある。広本系に為義四男四郎左衛門尉頼賢の子とし、南都本は掃部冠者と同じく頼仲の子とする。中院本に賀茂冠者と同じく為義末子とする。「清和源氏系図」に「義久〈淡路冠者、於熊野被ㇾ誅畢ヲハンヌ〉」とあり、『尊卑分脈』に為義第十一子に「為家(淡路冠者、猶子)」とある。混乱して定めがたいが、源氏沈淪(ちんりん)の世にひそかに生き永らえ、時節の到来にも日の目を見ることもなくつかの間に滅びた、いわば歴史の捨石であるために、系譜も謎(なぞ)に覆われたのであろう。

   《引用終了》

とあり、粉飾とも思われない節もある。事実、為義には子が多かった。

「能登守教經」清盛の異母弟平教盛の次男で、私の好きな猛将平教経(永暦元(一一六〇)年~寿永三(一一八四)年二月七日或いは元暦二(一一八五)年三月二十四日)は実は最期が明らかでない。「吾妻鏡」では一ノ谷の戦いで甲斐源氏の一族安田義定の軍に討ち取られて京都で獄門になったと記し、本条はこれを採用した内容となっている。「吾妻鏡」の壽永三年二月七日の条の最後に(以下、太字はやぶちゃん)、

   *

七日丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。著于一谷後山【號鵯越】。[やぶちゃん注:中略]其外薩摩守忠度朝臣。若狹守經俊。武藏守知章。大夫敦盛。業盛。越中前司盛俊。以上七人者。範賴。義經等之軍中所討取也。但馬前司經正。能登守教經。備中守師盛者。遠江守義定獲之云々。

   *

七日丙寅(ひのえとら)。雪、降る。寅の尅[やぶちゃん注:午前四時頃。]、源九郎主(ぬし)、先づ殊(しゆ)なる勇士七十餘騎を引き分かちて、一の谷の後ろの山【鵯越(ひよどりごえ)と號す。】に著く。[やぶちゃん注:中略。]其の外、薩摩守忠度朝臣・若狭守經俊・武藏守知章・大夫敦盛・大夫業盛・越中前司盛俊、以上七人は、範賴・義經等の軍中、討ち取る所也。但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は、遠江守義定、之れを獲ると云々。

   *

続く、六日後の二月十三日の条。

   *

十三日壬申。平氏首聚于源九郎主六條室町亭。所謂通盛卿。忠度。經正。教經。敦盛。師盛。知章。經俊。業盛。盛俊等首也。然後。皆持向八條河原。大夫判官仲賴以下請取之。各付于長鎗刀。又付赤簡【平某之由。各注付之。】。向獄門懸樹。觀者成市云々。

   *

十三日壬申(みづのえさる)。平氏の首を源九郎主の六條室町亭に聚(あつ)む。所謂、通盛卿・忠度・經正・教經・敦盛・師盛・知章・經俊・業盛・盛俊等の首なり。然る後、皆、八條河原に持ち向ふ。大夫判官仲賴以下、之れを請け取り、各々、長鎗刀に付け、又、赤簡(あかふだ)【平某(たいらのなにがし)の由、各々、之れを注し付く。】を付け、獄門に向ひて樹に懸く。觀る者、市を成すと云々。

   *

しかし、一方で、「玉葉」や「醍醐雑事記」などの別な一次史料では一ノ谷で生き残ったとする記載もあり、中には平家滅亡後に落人として現在の徳島県祖谷(いや)に落ち延び、そこを開拓したとする伝承さえもある。しかしやはり私は「平家物語」の、かの壇ノ浦の戦いで、大童となって凄絶な最後を遂げる彼にひどく惹かれる。思い出を恍惚に繋げて、私の記憶の私だけの「平家物語」(これは私の中だけのリズムの詞章であり、どこかのデータをコピー・ペーストしたものではない。実はどの伝本にも忠実でないものである)のシークエンスを綴ってみたい。

   *

 凡そ、能登殿の矢先に𢌞る者こそなかりけれ。教經は、今日を最期とや思はれけん、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からやおど)しの鎧着て、鍬形打つたる甲(かぶと)の緒を締め、嚴物(いかもの)作りの大太刀佩き、二十四差(さ)いたる切斑(きりふ)の矢負ひ、滋藤(しげどう)の弓持つて、差しつめ引きつめ、散々に射給へば、者ども多く手負ひ射殺さる。矢種皆盡きれば、黑漆の大太刀、白柄の大長刀(おほなぎなた)、左右に持つて、散々に薙(な)いで𢌞り給ふに面を合する者ぞなき、多の者ども討たれにけり。

 新中納言、使者を立てて、

「能登殿、いたう罪な作り給ひそ。さりとてよき敵か。」

との給ひければ、

「さては大將軍に組めごさんなれ。」

と心得て、打ち物、莖短(くきみじか)に取つて、源氏の船に乘り移り乘り移り、をめき叫んで攻め戰ふ。

 判官を見知り給はねば、物の具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ𢌞る。

 判官も先に心得て、表に立つやうにはしけれども、とかう違へて、能登殿には組まれず。

 されどもいかがしたりけん、判官の船に乘り當たり、

「あはや。」

と目を懸けて、飛んでかかる。

 判官、かなはじ、とや思はれけん、長刀、脇にかい挾(はさ)み、味方の船の二丈ばかり退(の)きたりけるに、ゆらりと飛び乘り給ひぬ。

 能登殿は、早業や劣られたりけん、やがて續いても飛び給はず。

 今はかうとや思はれけん、太刀・長刀、海へ投げ入れ、甲も脱いで、捨てられけり。鎧の草摺(くさずり)かなぐり捨て、胴ばかり着て、大童になり、大手(おほて)を廣げて立たれたり。

 およそあたりを拂つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。

 能登殿、大音聲(だいおんじやう)をあげて、

「われと思はん者は、寄つて教經に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下り、兵衞佐(ひやうゑのすけ)に會うて、もの一言(ひとこと)謂はんと思ふぞ。寄れや、寄れ。」

とのたまへども、寄る者一人も、なかりけり。

 ここに、土佐國の住人安藝郷を知行しける安藝大領實康(あきのだいりやうさねやす)が子に安藝太郎實光とて、三十人が力持つたる大力(だいぢから)の剛(かう)の者あり。われにちつとも劣らぬ郎等(らうどう)一人(いちにん)、弟(おとと)の次郎も普通には勝れたるし兵(つはもの)なり。安藝太郎、能登殿を見奉つて申しけるは、

「いかに猛(かけ)うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひ、長(たけ)十丈の鬼なりとも、などか從へざるべき。」

とて、主從三人小舟に乘つて、能登殿の船に押し雙(なら)べ、

「えい。」

と言ひて乘り移り、甲の錣(しころ)を傾け、太刀を拔いて、一面に打つて懸かる。

 能登殿、ちつとも騷ぎ給はず、まづ先に進んだる安藝太郎が郎等を、裾を合はせて、海へ、どうど、蹴入(けい)れ給ふ。

 續いて寄る安藝太郎を、弓手(ゆんで)の脇に取つて挾み、弟の次郎をば、馬手(めて)の脇に搔い挾み、ひと締め、締めて、

「いざ、うれ、さらば、おのれら、死出の山の供せよ。」

とて、生年(しやうねん)二十六にて、海へ、つつ、とぞ入り給ふ。

   *

 

「讚岐蜜嚴(ミツゴン)寺」現在の徳島県徳島市不動本町にある真言宗降魔山蜜厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。大宝年間(七〇一年~七〇四年)に行基が不動の尊像を刻んで、この地に安置したのを創建と伝える。

「義專坊」不詳。

「白峯(しらミネ)の崇德(ストク)院の御廟」崇徳院が荼毘にふされた、現在の香川県坂出市青海町にある真言宗綾松山白峯寺(しろみねじ)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在、崇徳天皇白峯陵が直近にある。

「あた」「讎」。

「報わせ」「わ」はママ。

「一向」副詞で「ひたすらに・一途に」。

「行ひまんする夜」「行ひ」の「滿ずる夜」。断食修法七日七夜の満願の当夜。

「壽永三年二月六日」「吾妻鏡」で「一ノ谷の戦い」で討死したとする寿永三(一一八四)年二月七日の前日の夜。

「飛上(とびあが)るへくなにける時に」「へく」は「べく」。飛び上れるような気持ちになれた、その時に。

「讀(よめ)る」「詠める」。

「さこ神のさこねもやらす住(すみ)わたる天飛(あまとぶ)鳥の心地こそすれ」類型歌を私は知らない。一・二句目が不詳。「さこ神」「さこね」が判らぬ。「さこ」は「谷」「迫」で「山の尾根と尾根の間の小さな谷」か? だとすれば、「さこね」は「谷の根」となる。奥深い山の谷の精霊(すだま)たる谷神(こくしん:老子の謂う、「玄牝(げんぴん)」、宇宙全体の創造神であると同時に完全な破壊を齎す神、所謂、「原母」、ユングの謂う、全的創造神であると同時に全的破壊たるところの「グレート・マザー」か?)の謂いか? それに「雑魚寝もやらず」(何も成すこと出来ずにいい加減に無為に雌伏していることから解放されて)の謂いか? 識者の御教授を乞う。それで整序するなら、

 迫神(さこがみ)の雜寢もやらずすみ渡る天(あま)飛ぶ鳥の心地こそすれ

で、

――復讐を遂げるために、天馬空を飛ぶが如くに自由自在に空を駈けわたれるような気持ちが、今、身に満ち満ちている気がする!――

ということか?

「我もまた飛(とぶ)さにつれよさこ神の天の戸わたる世さわりをせん」やはり、類型歌を私は知らない。しかし、前注のように解釈すると、崇徳院の怨霊が答えた歌のように、響いてはくる。整序すると、「飛ぶさ」の「さ」は接尾語で、名詞に付いて「方向」を表す名詞を作るもの、「さわる」を「障る」と採れば、

 我れもまた飛ぶさに連れよさこ神の天(あま)の戸(と)亙る世障(さは)りをせん

となって、

――我れ(御霊(ごりょう)のチャンピオンたる崇徳院の怨霊)もまた、一緒にそなたの飛ばんとする彼方(恨み骨髄の平教経のいる一の谷の方)へともに連れて行け! あらゆるこの世の創造と破壊を司る「さこ神」として、その封印たる「天の戸」を完全に開き切って、このおぞましき憎き世に大いなる致命的な「障り」(大厄災・カタストロフ)を起してやろうぞ!――

という呪詛歌であろうか? 大方の御叱正を乞う。

「あさやかに」「鮮やかに」。

「詠し」「えいじ」。

「天(あま)の羽車(はぐるま)」天(あま)驅ける翅の生えた車。

「扇立(おほぎたつ)る」扇を開いてやんややんやと讃賞する気持ちであろう。

「物くるわしく」「わ」はママ。

「氣、相替(あひかは)り」態度が異様に変じて。

「さまさまのたわこと」「樣々の譫語(たはごと)」。

「天狗」よく知られたことであるが、ウィキの「崇徳院の記載を使用させて貰うと、崇徳院は(「保元物語」に拠る)配流された讃岐国での軟禁生活の中、極楽往生を願って五部大乗経(「法華経」・「華厳経」・「涅槃経」・「大集経」・「大品般若経」)の写本作り、権力抗争のために戦死した者らへの供養にと、それを京の寺院に収めて貰うことを朝廷に求めたが、後白河院はそれに呪詛が込められているのではと疑って拒否し、写本を送り返してしまった。これに激怒した崇徳院は、舌を噛み切ってその血を以って『写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と』『書き込み、爪や髪を伸ばし続け』、『夜叉のような姿になり、後に生きながら』にして天狗になった『とされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また』、『崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めてるのにも関わらず』、『血が溢れてきたと言う』辺りと、よく一致するように描かれている。本書よりも後の作であるが、上田秋成の私の好きな「雨月物語」冒頭の、復讐の鬼となった崇徳院を諫める西行の面前で院が烏天狗と語る「白峯」を持ち出すまでもなかろう。

「旋風樂(せんぷうらく)」不詳。

「かなてらるゝありさま」「奏でらるる有樣」。

「つねならす」「常ならず」。

「敵ふせくへき心」「敵防ぐべき心(構へ)」。

「ましまさす」「御座(ましま)さず」。

「辰の下刻」現在の午前八時二十分頃から午前九時頃まで。

「戌亥(いぬゐ)」北西。

「うつまき」「渦卷き」。

「なりとよむ」「鳴り響(とよ)む」。

「讚岐の六郎經時」島津久基の「義経伝説と文学」()によれば、彼は教経の替え玉となったとする説が、「鎌倉実記」(巻一三)や後の浄瑠璃「義経千本桜」「弓勢智勇湊」(ゆんぜいちゆうのみなと:福内鬼外(平賀源内)の変名)等に出るとする(但し、「弓勢智勇湊」では「七郎義範」と変名されてあるとある)。

「大藏(おほくら)か谷(たに)」現在の兵庫県明石市大蔵。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「つゝきたり」「續きたり」。

「安田遠江守よし定」安田義定(長承三(一一三四)年~建久五(一一九四)年)は甲斐源氏武田義清の子。頼朝の挙兵に甲斐で呼応し、「富士川の戦い」の功で遠江守護となった。源義仲の追討やこの一ノ谷の戦いなどで活躍したが、後に謀反の疑いで殺された。先の「吾妻鏡」の引用を参照されたい。

「田原の源吾」不詳。

「首帳(くびちやう)」「しるしちやう」とも訓じた。戦場で討ち取った敵の首及びそれを討ち取った者の氏名を記した帳簿。「首目録」「首注文」とも称した。

「下(しも)」以下。]

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