甲子夜話卷之四 18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事
4-18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事
享保中、小金原にて鹿狩し玉ひし時、松平乘邑、其御用掛りにて御供なり。松平能登守乘賢は西の御附なりしが、後年西にて御狩あらんときの心得に、見置べしとの御旨にて、これも從行せり。御場に堀切したる所へ至らせ玉ひし時、此堀越せと御諚ありければ、乘邑御言下に馬を乘戾し、引返して一さんに堀を超したる體の花やかなるに、有合人々、我知らず聲を出して感ぜり。乘賢は立たる馬を其儘に堀を超させけり。そのとき能登が馬はよく仕込たる馬よと上意あり。その實は、馬術は乘賢の方よほど優りけるとぞ。然れども、時に取て乘邑の騎法目ざましくして、大にはへたりとなり。兩人の氣性、風度の違ひ、多くは此類にて、文質亦かくの如くなりしと云。
■やぶちゃんの呟き
「乘邑」複数回既出既注であるが、たまには再掲しておこう。松平左近将監乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。
「乘賢」「のりかた」と読むが、これは「父子」が正しいとするなら、乗邑の三男、美濃岩村藩第三代藩主で岩村藩大給松平家第四代松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)の誤りである。彼は岩村藩の世嗣乗恒が早世したために、第二代藩主松平乗賢の養子となり、寛保元(一七四一)年十二月に従五位下美作守に叙位任官され、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任している。因みに、美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)は享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。彼は乗政系大給松平家で、乗邑の曽祖父である乗寿の代に分かれた家系で、父子関係にはない。しかし乍ら、以下の「西の御附」から見ると、後者と採れ(後注参照)、静山の記憶の齟齬が感じられる。
「享保」一七一六年から一七三六年。
「小金原」江戸幕府が現在の千葉県北西部の下総台地に軍馬育成のために設置した放牧場小金牧(こがねまき)のことで、これは徳川吉宗が享保一〇(一七二五)年と翌年の二回、ここで行った鹿・猪等を狩った大規模な鹿(しし)狩りである「小金原御鹿狩(こがねはらおししかり)」の孰れかでのエピソードである。ウィキの「小金原御鹿狩」によれば、『享保の改革を進めた吉宗にとっては、指揮体制の強化、新田開発の視察の意味もある。小金牧は江戸の西に比べ平坦で、家康や家光が狩を行った東金方面や同じ幕府の牧の佐倉牧より江戸に近く、農耕地に囲まれたながら農耕地でない小金牧は、大規模な鹿狩の場所として適していた』。第一回目は享保十年三月二十七日に行われており、これがここでの『確実な記録のある最初の大規模な鹿狩であるが、翌年の本格的実施に向けての準備の意味合いか、記述は少ない。丑の刻に江戸城を出て、両国橋で乗船、小菅で上陸、小金の牧に入った』。鹿八百余頭、猪三頭、狼一頭、雉子十羽を『獲った。生類憐れみの令以降の鹿の増加が伺える』。二度目のそれは丁度、一年後の享保十一年三月二十七日で、先立つ二月十八日に『狩の責任者任命の記録がある。前年と同じ闇夜での移動であり、満月の晩より鍛錬の効果は大きい。記録は前年より詳細である。伊達羽織を着た供を連れ』、丑の刻(午前二時前後)に出立、『松戸宿で休息、先に来ていた家臣等が出迎え、狩場の牧に入った。当日は紫の紗をかけた笠等、富士山麓で狩を行った源頼朝に習った服装であった』。『狩場では御立場を拠点として狩を行った』。御立場は高五丈(約十五メートル)、方百八十間(約三百二十メートル)の『台状に土を盛った山で、将軍の居場所にふさわしい調度品が』既に配されてあった。この時は鹿四百七十頭、猪十二頭、狼一頭を獲って、鷹狩も行っている。未の刻(午後二時前後)に『狩は終わり、来た道を通』って『千住大橋から舟で両国橋』を経て、戌の刻(午後八時前後)に帰城している。「東葛飾郡誌」掲載の「下総国小金中野牧御鹿狩一件両度之書留」には、この時、同行した九人の名前のほかに騎馬二百四人、幕府の七百九十四人を含め、徒歩千三十六人と記されてある、とある。とんでもない規模の鹿狩りであることが判る。
「西の御附」徳川家重の御附き。私が先に誤りとした松平乗賢ならば、享保九(一七二四)年にまさに西丸(長福丸。後の徳川家重附)若年寄になっており、これを正しいとすると、「父子」が誤りということになる(乗賢も能登守であった)。私の認識に誤りがあるのか? 識者の御教授を乞う。
「見置べし」「みおくべし」。参考に供するために見学しておくように。
「堀切」「ほりきり」。牧馬のためのテキサス・ゲート用の堀であろう。
「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。
「御言下に」「おんげんか」。仰せの言葉を賜ったその直後に。「言下に否定する」
「體」「てい」。
「有合」「ありあふ」。居合わせている。
「立たる馬を其儘に堀を超させけり」「立(たて)たる馬」は、馬を前脚を上げさせて真っ直ぐに立ち上がらせる「棹(竿)立ち」「棒立ち」にさせ、後ろ脚だけで跳躍させて、助走をつけずに堀を一気に乗り越したのである。
「はへたり」歴史的仮名遣は誤り「映(榮)えたる」。
「風度」ここは名詞で「ふうど」。態度容姿など、その人の様子。人品。風采。風格。
「文質」「ぶんしつ」。「文」は「飾り」の意で、外見の美と内面の実質。表に現れた優れた学識・態度・容貌等と、内面の素朴な人柄を指す。