老媼茶話 化佛(ばけぼとけ) / 老媼茶話巻之壱~了
化佛(ばけぼとけ)
淺野彈正少弼(だんじやうせうひつ)長政の步士(かち)、伊勢に使(つかひ)に行(ゆき)ける道に、墓はらのあり。夜半はかりに此所を通りけるに、變化(へんげ)のもの、いてたり。身に火焰有(あり)て、不動明王のかたちの如し。火光の中に、其おもてをみれは、
「にかり。にかり。」
と打笑(うちわらひ)て來(きた)る。步士、刀をぬき、走りかゝりて、是を、きる。
火光、忽(たちまち)、消(きえ)て、暗夜(アンヤ)となりぬ。
それより、伊勢に行て、明日、歸路に右の所をみれは、苔むしたる石佛のかうべより、血、流れいて、切先(きつさき)はつれにきつたる跡あり。是をとりて歸り、人にかたらんも誠(まこと)しからねは、したしき友にひそかにかたりて、其刀を見せけるに、刃(やいば)は血つきて、石のひきめあれとも、刃、かけす。
淺野長政、是を聞(きき)て、秀吉の聽に、たつす。
秀吉、彼(かの)刀(かたな)をめしよせ、一覽あるに、備中靑江の作にて、貳尺五寸有(あり)。
「是(これ)、名物なり。」
といふて、「にかり」と異名(いみやう)して祕藏せらる。
そのゝち、京極若狹守忠高家に傳われり。
老媼茶話卷之壱終
[やぶちゃん注:本話、出典未詳。識者の御教授を乞う。
「淺野彈正少弼(だんじやうせうひつ)長政」(天文一六(一五四七)年~慶長一六(一六一一)年)。
「步士(かち)」「徒士」「徒」とも書き、徒侍(かちざむらい)のこと。主君の外出時等に徒歩で身辺警護を務めた下級武士。
「いてたり」「出でたり」。
「流れいて」「流れ出で」。
「切先(きつさき)はつれにきつたる跡あり」刀の切っ先が外れて斬ったと思しい痕があった。
「是をとりて歸り」ちょっとここが不審。「是」(これ)は当然、その石仏としか読めないのであるが、以降にはその石仏の話は出ず、専ら、斬った刀の話のみで石仏は出てこない。まあ、血を吹き出した石仏を担いで帰る武士も、なかなか、キョワイ。いや、或いは、滑稽かも?
「誠(まこと)しからねは」真実とは到底、思って貰えそうもない事実であるので。
「石のひきめあれとも」明らかに石を引き斬ったような痕跡や石屑が刃の表面に附着していたが。
「かけす」「缺けず」。
「めしよせ」「召し寄せ」。
「備中靑江」刀工集団である青江派。平安時代後期から南北朝期にかけて備中国(現在の岡山県西部)で栄えた。開祖は青江守次。
同派は時代ごとに三分割されており、鎌倉時代中期以前を「古青江(こあおえ)」、鎌倉中期から南北朝初期を「中青江(ちゅうあおえ)」、南北朝中期以降室町初期までを「末之青江(すえのあおえ)」と称する。
「貳尺五寸」七十五・七五センチメートル。短いと思われる向きもあるかも知れぬが、江戸時代の武士が好んだ刀の平均長は二尺三寸前後、六十九・六九センチメートル、約七十センチメートルで、これは長めの部類である。
「京極若狹守忠高」(文禄二(一五九三)年~寛永一四(一六三七)年)は江戸前期の大名。出雲国松江藩主。若狭国小浜藩主高次の子で京都生まれ。若狭守、後に左近衛権少将。慶長一四(一六〇九)年に父の遺領を継いだ。元和元(一六一五)年の大坂の陣に出陣している。寛永一一(一六三四)年、出雲・隠岐二十六万四千石余に転封、松江に居城を置いた。忠高の母は第二代将軍徳川秀忠の室崇源院の姉であったことから、徳川氏の縁戚として処遇された。江戸で死去したが、嗣子がなく、甥を末期養子に立てたが、その時点での領地は没収された(以上は概ね「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。その継いだ甥の高和には播磨龍野に六万石の所領が与えられて大名として存続は許された(ここはウィキの「京極忠高」に拠る)。]