老媼茶話 宣室志(柳将軍)
宣室志
東洛に故宅あり。むなしく鎖(トサ)して年久し。
唐の貞元年中に盧處(ロシヨ)ぬきんせられて御史(ぎよし)となる。是によつて、その故宅を資て住(ぢゆう)せんとす。
或人の曰、
「此宅は怪物有(あり)て、住(すむ)事、あたわす。故に久敷(ひさしく)空閑荒廢の宅となれり。」
盧かいわく、
「吾よく是を弭(ヲサメム)。」
とて、一夕(いつせき)、盧處と從吏と、只、弐人、其堂に、いねたり。
僕にめいして、堅く鎖して人の出入をとゝむ。
從吏は武勇にして能(よく)弓をゐる。則(すなはち)、矢を執(とり)て軒ちかく座す。
夜半、門をたゝくものあり。從吏とへは、
「柳將軍の使なり。書を盧侍御に奉る。」
といふて、一幅の書を軒下に投(トウ)す。
盧處、是を見るに曰、
「吾、爰(ここ)に家たる事、とし、有(あり)。堂奧軒級(トウオクケンキウ)、皆、我(わが)居(きよ)なり。門の神戸(しんと)の靈は、皆、我(わが)隷(ヤスコ)なり。しかるに君、我(わが)室に突入(トツニウ)する事、豈(あに)其理あらん哉(や)。よろしくすみやかに去るへし。はつかしめをまねく事、なかれ。」
と讀(よみ)おはれは、其書、ひらひらとして、よもにくだけちりたり。
又、聞(きく)に、柳將軍、來り、
「盧御史にまみゑん。」
と。
身の長(たけ)數丈にして庭上(ていじやう)に立(たちて)て、手に一瓢(いつへう)を握る。
從吏、則チ引ためて放ツ。
手に持(もち)たるふくべに當る。
則チしりそき去り、又、來りて軒に附(つき)て首をうつふして、堂を伺ふ。
其かたち、はなはた異相なり。
又、是を射るに、其むねにあたる。
退き去りぬ。
盧處、其跡をきわむるに、ひかしの空地に至りて、柳の樹の高サ百餘丈なるに、矢の、其上を射てつらぬきて、あり。
これ、所謂、柳將軍なり。是より恙(つつが)なかりしと也。
[やぶちゃん注:「宣室志」(唐の張読の撰になる伝奇小説集。もとは十巻あったと考えられるが、散逸し、後代の幾つかの作品に引用されて残る)の「第五巻」に「盧虔」(ロケン)(本条の「盧處」は誤り)として載る。
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東洛有故宅、其堂奧軒級甚宏特、然居者多暴死、是以空而鍵之且久。
故右散騎常侍萬陽盧虔、貞元中、爲御史分察東臺、常欲貿其宅而止焉。或曰、「此宅有怪、不可居。」。虔曰、「吾自能弭之。」
後一夕、虔與從吏同寢其堂、命僕使盡止於門外。從吏勇悍善射、於是執弓矢坐前軒下。夜將深、聞有叩門者、從吏即問之、應聲曰、「柳將軍遣奉書於盧侍御。」。虔不應。已而投一幅書軒下、字似濡筆而書者、點畫纖然。虔命從吏視、其字云、「吾家於此有年矣。堂奧軒級、皆吾之居也。門神戶靈、皆吾之隸也。而君突入吾舍、豈其理耶。假令君有舍、吾入之可乎。既不懼吾、甯不愧於心耶。君速去、匆招敗亡之辱。」。讀既畢、其書飄然四散、若飛燼之狀。俄又聞有言者、「柳將軍願見盧御史。」。已而有大厲至、身長數十尋、立庭、手執一瓢。其從吏卽引滿而發、中所執。其厲遂退、委其瓢。久之又來、俯軒而立、挽其首且窺焉、貌甚異。從吏又射之、中其胸。厲驚、若有懼、遂東向而去。
至明、虔命窮其跡、至宅東隙地、見柳高百餘尺、有一矢貫其上、所謂柳將軍也。虔伐其薪。自此其宅居者無恙。後歳餘、因重構堂室、於屋瓦下得一瓢、長約丈餘、有矢貫其柄、卽將軍所執之瓢也。
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これも岡本綺堂が「中国怪奇小説集」の中で「柳将軍の怪」の題で訳している。「青空文庫」のこちらで読める。
「御史」監察御史。古代中国の官名。古くは君主に近侍する史官であったが、秦代以後には主として官吏の監察に当たった。
「資て」原典で判る通り、「貿」の誤り。「貿て」ならば、「かひて」で、「買ひて」となる。
「弭(ヲサメム)」この字は動詞で「止(や)める」「止む」の意。「その怪を止めさせよう」の意。
「侍御」皇帝に直接仕える高官の尊称。
「とし、有(あり)」「とし」は「年」で、年久しい、の意。
「堂奧軒級(トウオクケンキウ)」歴史的仮名遣では「ダウアウケンキフ」が正しい。家屋の奥まったところ(一般に主人の妻及び二人の閨房)や軒廂(のきびさし)や階段に至るまで屋敷内総ての意。
「門の神戸(しんと)の靈」中国の仏教寺院や道教道観だけでなく、一般住宅などの建物の入口に立ち、門番の役目をするとされた門神(もんしん)。参照したウィキの「門神」によれば、『検閲を司り、悪鬼から門を守るとの伝えから春節に中国各地の門戸に貼られる』。『観音開きの木戸が多いため、左右の扉の外に面した側に一対の門神が貼られる、または描かれるのが普通。中国においては、民間伝説としてよく知られている秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)が対で描かれるか、一枚扉の場合は、魏徴または鍾馗が描かれることが多い』。『門神の歴史は古く、前身は「桃符」または「桃板」と呼ばれる木であった。古代中国において桃木は「五木の精」であり、邪気を避けることができると考えられた。このため、漢代には、魔除けとして飾ることが始まった。桃木には文字や模様を刻む場合もあり、これが対聯や年画の原型となった』。『南北朝時代以降、紙が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。神荼と鬱塁を描いて貼ることが流行した。梁(南朝)の宗懍の『荊楚歳時記』には、元日に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。唐代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた』とある。
「隷(ヤスコ)」「隷」は下級の召使いであるから、判るが、ルビの「ヤスコ」は不詳。「養い子」或いは養って「増やす子」か? 識者の御教授を乞う。
「よもにくだけちりたり」「四方(よも)に碎け散りたり」。
「數丈」唐代の一丈は三・一一メートル。再来襲した際、「軒に附(つき)て首をうつふして堂を伺ふ」とあり、正体の柳の樹も「百餘丈」もある(これは誇張に過ぎるが)というのだから、十数メートルは有に越える巨人と読んだ方が面白い。
「ふくべ」「瓢」。
「しりそき」「退き」。
「ひかし」東。]