芥川龍之介 手帳7 (2) 孔子廟・文天祥祠
○大成門 赤 靑綠金天井 南側 石鼓あり 大理石段 欄も然り 碑に李鴻章の物あり 支那人教ふ 黃瓦 赤壁 白石階
[やぶちゃん注:ここからは雍和宮の東直近にある孔子廟の描写。大成門はその第一の主殿門。サイト「www.naturalright.org」(日本語)のこちらが判り易く、大きな画像も豊富。
「李鴻章」既出既注。]
○大成殿 同洽大道(黎元洪)黑へ金 (柱朱)(□壇 朱)至聖先師孔子神位(朱へ金) 左右に四聖賢〔亞孟子 宗曾子 復顏子 述聖孔子(子思)〕 床に棕櫚氈 梁 天井 金綠 靑銅鼎1 燭架2 花瓶2 (大理石臺)
[やぶちゃん注:「同洽大道」大成殿内の正面中央の孔子像上部に掲げられた額であるが、但し、これは芥川の記載の誤りである。前に出したサイトの画像(サムネイルの右から十二コマ目)で判るが、「道洽大同」である。T氏のサイト「中国耽美紀行」内の「大成殿」も参照されたい。
「黎元洪」既注。
「顏子」孔門十哲の一人で、孔子が自らの後継者と見なしていた顔回のこと。
「棕櫚氈」棕櫚(しゅろ)で織った敷物。シュロの樹皮は強靭で湿気に強い。]
○乾隆玉座 雅誦於樂(御筆)黑ニ金 ○道流仰鏡(咸豐帝)藍ニ金 ○誦詠聖涯(蓮光亭)黑ニ金 ○國橋教澤(大理石)丹壁 ○御碑亭(白大理石 綠黃瓦) ○辟雍 大理石欄 ○康熈大學石刻 ○十三經石刻 ○石時計
[やぶちゃん注:「御碑亭」先のサイト「www.naturalright.org」の孔子廟の画像によって大成殿前の左右に多数の碑亭があることが判る。画像には廟内配置図もあり、それで数えると、現在は十一の碑亭と思われるものがある。]
○木 柏のみ 槐二三 朱 黃瓦 綠藍彫
[やぶちゃん注:先のサイト「www.naturalright.org」の孔子廟の画像の、右から三コマ目と四コマ目に木肌が瘤のように突出した異形の古木のアップがある。芥川龍之介もこの木肌を眺めたに違いない。]
○古誼忠肝の額 文天祥像 朱と金 宋丞相信國公文公之神位 陶燭臺2 陶香爐一 鐵香爐一 埃滿堂
[やぶちゃん注:「古誼忠肝」は「こぎちゅうかん」で「誼」は「義」「意」と同義であるから、恐らくは「忠肝義胆(ちゅうかんぎたん)」(主君や国家に忠誠を尽くして忠節を守り正義を貫こうとする固い決意)と同義かと思われる。
「文天祥」(一二三六年~一二八三年)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。一度は下野したが、一二七六年に復帰し、『右丞相兼枢密使とな』なっ『て元との和約交渉の使者とされるが、元側の伯顔との談判の後で捕らえられ』てしまう。しかも彼が『捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落し、張世傑・陸秀夫などは幼帝を奉じて抵抗を続けていた。文天祥も元の軍中より脱出し』、『各地でゲリラ活動を行い』、二年以上に亙って『抵抗を続けたが』、一二七八年に『遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。『その後は死ぬまで獄中にあり、厓山に追い詰められた宋の残党軍への降伏勧告文書を書くことを求められ』たが、「過零丁洋」という『詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ」と』いった内容の詩篇であった。『宋が完全に滅んだ後も』、『その才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受ける。この時に文天祥は有名な』「正気の歌(せいきのうた)」を詠んだ(ウィキソースのこちらで全篇が読める)。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れ』ず、『朝廷でも文天祥の人気は高く』、『隠遁することを条件に釈放しては』という『意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし』、『文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり』、『南(南宋の方角)に向かって拝して』、『刑を受けた。享年』四十七。『クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた』。『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、その「正気の歌」は『多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が』「靖献遺言」に評伝を載せ、『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などは』、それぞれが自作の「正気の歌」を『作っている』とある。なお、芥川龍之介は「北京日記抄」の「五 名勝」でこの文天祥祠を訪れ、以下のように感懐を綴っている。『文天祥祠(ぶんてんしようし)。京師(けいし)府立第十八國民高等學校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信國公文公之神位(そうじようしやうしんこくこうぶんこうのしんゐ)なるものを安置す。此處も亦塵埃の漠漠たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(らうゆかう)か何か作る所ならん。僕は勿論發句一つ出來ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は氣の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし』。サイト版「北京日記抄 附やぶちゃん注釈」に教え子が撮った文天祥祠の写真を公開している。主祭壇上の「古誼忠肝」の扁額が見られる。なお、芥川龍之介が「楡」と言っているのは「棗」の誤認(芥川龍之介は「?」としているから批難には値しない)である。これがその古木であり、その実の写真である。教え子のこの写真で初めて明らかになった事実で、誰もこの誤りにはそれまで気づいていなかったものと思われる。]
○右ニ碑 衣帶ノ賛を上書せし文公像 ○劉崧(明) 壁桃色
[やぶちゃん注:「衣帶ノ賛を上書せし」所謂、「衣帯中(いたいちゅう)の賛(さん)」の故事。文天祥が処刑されるに際し、衣服帯の中に残した文章のこと。文天祥の帯の中には死に臨む賛の文章が残されていたといい、転じて仁義や忠節を守り通すことを指す語となった。像は前注の写真を参照。
「劉崧」(りゅうすう 一三二一年~一三八一年)は元末明初の詩人で官僚。江右詩派の代表詩人。]
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