老媼茶話 保曆間記(源頼朝の幻視と死)
保曆間記
[やぶちゃん注:これより、和書の移行する。本書の怪奇談集の真骨頂へのプレ部分である。]
建久九年の冬、右大將殿、相模川橋供養にいてゝ歸り給ひけるに、八的(やまと)か原といふ所にて、亡(ほろぼ)されし源氏、よし廣・義つね・行家以下の人々あらはれて、より朝に目を見合(みあはせ)たり。是をは、打捨過(うちすてすぎ)玉ひけるか、いなむらが崎の海上に、十歳はかりなる童子のあらわれて、
「汝を、此程、隨分と、うらなひつるに、今こそ見付(みつけ)たれ。我を誰(たれ)とか見つる。西海に沈(しづみ)し安德天皇なり。」
とて失(うせ)玉ひぬ。
其後(そののち)、かまくらに入(いり)玉ひて、則(すなはち)、病(やみ)つき給ひけり。
次のとし、正月十三日に、うせ玉ふと云々。
[やぶちゃん注:「保曆間記」(ほうりゃくかんき)は南北朝期に成立した歴史書。作者不明ながら、足利方の武士と推定されている。成立は延文元(一三五六)年以前。ウィキの「保暦間記」によれば、保元元(一一五六)年の保元の乱に始まって、暦応二(一三三九)年の『後醍醐天皇崩御までを記述し、この「保元から暦応まで」が書名の由来となっている』。不完全な「吾妻鏡」の記載が終わっている文永三(一二六六)年『以降の鎌倉時代に起こった事件の概要を研究するうえで貴重な史料であり、「和田合戦」、「承久の乱」、「宝治合戦」、「二月騒動」、「霜月騒動」など、現在使用されている鎌倉時代の事件名称の多くは本書の記述に由来する』。特に「右大將」『源頼朝の死について』、ここに出るように、『相模川橋』(現在は神奈川県茅ヶ崎市下町屋にある「旧相模川橋脚」(ここ(グーグル・マップ・データ))がその橋の跡とされるが、ここにあった橋であったかどうかは定かではない)『供養の帰路、八的ヶ原(現在の辻堂および茅ヶ崎の広域名)で源義経らの亡霊を、稲村ヶ崎海上に安徳天皇の亡霊を見て、鎌倉で気を失い病に倒れたと記しているが、実際の死因については諸説ある』(下線はやぶちゃん)ことは言うまでもないが、その実際の死因及びここに出るような亡霊群の幻視症状については、「北條九代記 右大將賴朝卿薨去」の私の注を参照されたい。私は、同書を所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで(左上の真ん中辺りから)で視認出来る。
「建久九年」一一九八年。この前後の「吾妻鏡」は存在せず、十四年も経った第三代将軍実朝「巻二十」の建暦二(一二一二)年二月二十八日の条に頼朝急逝の記事は出現する。
*
二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋數ケ間朽損。可被加修理之由。義村申之。如相州。廣元朝臣。善信有群議。去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結緣之。故 將軍家渡御。及還路有御落馬。不經幾程薨給畢。重成法師又逢殃。旁非吉事。今更強雖不有再興。何事之有哉之趣一同之旨。申御前之處。仰云。故將軍家薨御者。執武家權柄二十年。令極官位給後御事也。重成法師者。依己之不義。蒙天譴歟。全非橋建立之過。此上一切不可稱不吉。有彼橋。爲二所御參詣要路。無民庶往反之煩。其利非一。不顚倒以前。早可加修復之旨。被仰出云々。
*
二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋、數ケ間(すうかけん)、朽ち損ず。修理を加へらるべの由、義村、之れを申す。相州、廣元朝臣、善信(ぜんしん)のごとき、群議、有り。
去る建久九年、重成法師[やぶちゃん注:稲毛重成。]、之れを新造す。供養を遂ぐるの日、之れと結緣(けちえん)の爲に、故將軍家、渡御す。還路に及びて、御落馬有りて、幾程(いくほど)を經ずして薨(こう)じ給ひ畢(おは)んぬ。
重成法師、又、殃(わざはひ)に逢ふ。旁(かたがた)、吉事に非にあらず。
今更、強(あなが)ちに再興有らずと雖も、
「何事か、之れ、有らんや。」
の趣き、一同するの旨(むね)、御前[やぶちゃん注:源実朝。]に申すの處、仰せて云はく、
「故將軍家、薨御は、武家の權柄(けんぺい)を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり。重成法師は、己(おの)が不義に依つて、天譴(てんけん)を蒙むるか。全く橋建立の過(とが)に非ず。此の上は、一切(いつさい)、不吉と稱すべからず。彼(か)の橋有ること、二所御參詣の要路たり。民庶、往反(わうばん)の煩ひ無し。其の利、一(いつ)に非ず。顚倒(てんたう)せざる以前に、早く修復を加ふべし。」
の旨、仰せ出さると云々。
*
「義村」は三浦義村。彼は三浦介で、同職は相模国の実務支配の立場にあったことから上申したものと思われる。「相州」は執権北條義時。「廣元朝臣」は大江(正確にはこの時はまだ中原姓)広元。この時は一時的に政所別当を退いていたが、事実上の最高権力者の一人であった(建保四(一二一六)年に大江姓の勅許を受け、同年には政所別当に復職した)。「善信」問注所執事三善康信の法号。稲毛重成(?~元久二(一二〇五)年)は桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり))を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。建久九(一一九八)年に重成は亡き妻のために相模川に橋を架けたが、ここにある通り、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬、それが元で死去している。その後、元久二(一二〇五)年六月二十二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したと指弾されて(これが実朝が言っている「己が不義」である)、翌二十三日には早々に殺害されている。なお、同日、彼の親族らを討ったのは、まさにここに出る三浦義村であった(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。私の「北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡」も参照されたい。「結緣」は法要の功徳を共有することを指す。
「よし廣」源義広(?~元暦元(一一八四)年)。源為義三男で頼朝の父義朝の弟。志田三郎先生(しださぶろうせんじょう)の名でも知られる。平家の天下の時期の動静はあまりよく判っていない。甥頼朝の挙兵直後に頼朝と対面しているが、合流はしなかった。逆に寿永二(一一八三)年二月に鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことに反発、下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合して、二万の兵を集めて頼朝討滅を掲げ、常陸国から下野国へと進軍した。しかし、鎌倉攻撃の動きは頼朝方に捕捉され、下野国で頼朝軍に迎え撃たれる形となり、結果的に本拠地を失った(野木宮合戦)。その後、同母の次兄義賢(よしかた)の子であった信濃の木曾義仲の軍に参加し、義仲とともに北陸道を進んで入洛、入京後に信濃守に任官された。元暦元(一一八四)年正月の「宇治川の戦い」で源義経軍との戦いで防戦に加わったものの、「粟津の戦い」で義仲が討ち死にし、敗走、義広もまた逆賊として追われた。同年五月四日、伊勢国羽取山(現在の三重県鈴鹿市の服部山)に籠って抵抗を試みたが、幕府の追討軍との合戦の末、斬首された(以上はウィキの「源義広(志田三郎先生)」に拠った)。
「義つね」源義経。
「行家」源行家(永治元(一一四一)年から康治二(一一四三年)頃~文治二(一一八六)年)。源為義十男。前の義広の末弟。初名は義盛。保元の乱で父が殺された後は熊野に潜んでいたが、治承四(一一八〇)年に源頼政の召に応じて名を行家と改め、以仁王の挙兵に伴って諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した人物として知られる。養和元(一一八一)年、美濃に拠って、平重衡らと墨俣川で戦って敗れ、鎌倉の源頼朝を頼って所領を求めたが、拒まれたため、兄義広とともに源義仲と結んだ。入洛後、従五位下備前守となったが、後に義仲と対立して紀伊に退いた。平氏滅亡後は頼朝と対立した義経に協力して頼朝追討の院宣を得、さらに四国の地頭に補せられたものの、結局、頼朝に追われ、和泉に隠れ住んでいたところを捕われて殺された(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「是をは」「これをば」。
「いなむらが崎」「稻村ヶ崎」。
「うらなひつるに」「占ひつるに」であるが、どうもピンとこない。先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を見るに「うらみつるに」(恨みうつるに)とある。その意で採る。
「次のとし、正月十三日に、うせ玉ふ」建久十年一月十三日。ユリウス暦一一九九年二月九日。享年五十三、満五十一歳であった。]