明恵上人夢記 55
55
同年二月十五日、所存有るに依りて出でず。其の夜、聊か眠り入る。夢に云はく、覺嚴(かくごん)法師、數多の人數を具して來りて、予に教訓せしめむと欲す。予、教訓せざれば、人皆興無し。仍りて佛事を他所へ移さむとす。即ち涅槃會を移さむとすと覺ゆ。
同十六日後朝に、前の正月の夢を思ひ合するに、卽ち此の二月十五日に出でざる事を見る也。卽ち前年の夢想と同じと云々。此の年、潤(うるふ)二月あり。仍りて行じて之に入るべしと云々。
[やぶちゃん注:「同年」建保七(一二一九)年。
「覺嚴(かくごん)法師」不詳。底本の他注では明恵の庇護者の一人とするが、夢の内容から見ると、必ずしも明恵の親しんでいる(好ましく思っている)僧ではないように夢の中では存在しているように思われる。なお、こちらの高山寺についての解説ページに、嘉禎二(一二三六)年、『明恵の遺徳を偲び、覚厳は十三重塔を建立する』とある。明恵は寛喜四年一月十九日(一二三二年二月十一日)没であるから、入寂から四年後のことである。
「涅槃會」釈迦入滅の日とされる陰暦二月十五日に釈迦の徳を讃えて行う法会。涅槃図を掲げて遺教経(ゆいききょうぎょう)を読誦する。因みに現在は三月十五日に行われる。「更衣(きさらぎ)の別れ」などとも呼ぶ。
「後朝」「こうてう」と音読みしておく。但し、これは単なる翌朝ではなく、涅槃会を行った翌朝の謂いである。
「前の正月の夢」これは直前にある建保七年正月の「54」夢を指していると考えてよい。但し、「54」夢のどこがこの夢と絡み合い、或いは次の注で示す通り、〈予知夢〉であるのかは、残念なことに私には分らない。
「此の二月十五日に出でざる事を見る也」意味がとりにくい。一つ、冒頭にある「所存有るに依りて出でず」という事実を受けているとするならば、正月の夢は涅槃会の日にある強い思いがあったために寺から出なかったことの予知夢であったという意味で採れる。明恵はしばしば予知夢(或いはそう彼が解釈した夢)を見ていることから、そう解釈しておく。
「前年の夢想」「51」・「52」・「53」が建保六年の夢と思われるが、これらのどれかを指している確証はない。本「夢記」は後人による断章の寄せ集めであり、ここで指している夢はこれらとは限らないからで、寧ろ、これらではないと私は感ずる。
「此の年、潤(うるふ)二月あり」「潤」は底本の用字。建保七年には閏二月がある。因みにこの建保七年は四月十二日に承久に改元されている。
「仍りて行じて之に入るべし」意味がとりにくい。まず文脈上は「仍りて」は唐突に語られる、この年には閏二月がある、という事実を指して「仍りて」であることを指すとしか読めないことである。とすれば、これは涅槃会が一ヶ月後に今一度あることを指していると採れるように思う。だから、その事実をよく認識してこれより一ヶ月の間(この年の二月は小(因みに閏二月も小)であるから、それぞれの十五日を数に入れるとかっきり三十日となる)修法を堅固に「行じて」その観想の中にしっかりと貫入せねばならぬ、という自戒なのではなかろうか? 大方の御叱正を俟つ。]
□やぶちゃん現代語訳
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同じ建保七年二月十五日、ある強い思いがあったによって、一日(いちじつ)、寺から一歩も出なかった。
其の夜、聊(いささ)か眠りに落ちた。
而してこんな夢を見た。
……覚巌(かくごん)法師が、数多(あまた)の人々を伴にして来たって、私に教訓を垂れんとした。
私は、俄然、その教訓を受け入れなかったため、その場にいた人々は、皆、不興となって私を責めるような目つきでいた。
覚巌法師とその与(くみ)する一党は、そこで、仏事を他所へ移して行おうとするのであった。
即ち、涅槃会の会場を、私のこの寺から別の所へ強いて移そうとするのであった……
というところで、覚醒した。
同年二月十六日、即ち、涅槃会の明けた翌日のこと、以前、本年正月に私が見た夢と今回の夢を思い合わせて解釈してみたところが、即ち、正月の夢はまさに、この前日の涅槃会の二月十五日に、私がある覚悟から、寺に籠って一歩も出なかったという事実を予知している夢であったと読めたのである。即ち、前年にあった予知夢の夢見と同じ現象であったのであると判ったと……。この年は閏二月がある。だから、これより一月(ひとつき)の間は修法を堅固に行じて、その観想の中にしっかりと貫入せねばならぬ、と知ったのであると……。
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