北越奇談 巻之六 人物 其六(孝女百合)
其六
孝子は殊に稀なるものにして、富貴の人は、其名、現はれず。又、貴賎となく、人の善を賞すること少(すくな)きは、近世の人情なる。古(いにしへ)に村上の小次郎(こしらう)・新發田(しばた)の菊女(きくじよ)・頸城郡に僧ノ知良(ちりやう)、皆、世の舌賞に残れり。
其後(のち)、孝女百合と云へるは、三島郡村田村百姓伊兵ヱ(いべゑ)が女(むすめ)にして、同(おなじく)、出雲崎尼瀨町(あませまち)大工、作太夫に嫁(か)し、姑母(しゆうとめ)に仕(つか)へて孝なること、世に知れる所なれども、一年(とせ)、夫(おつと)作太夫、業(なりはひ)のために遠く出(いで)て歸らざること、久し。家、貧にして、朝夕の咽(けふり)絶へ絶(だ)へなる中に、昼は山に樵(きこり)、或は人に雇(やとは)れ、夜(よる)は、紡績(うみつむき)の手業(てわざ)に明かし暮して、姑母を孝養し、一(ひとつ)として其(その)求むる所に背くこと、なし。殊に姑母、其性(せい)、甚だ慳貪(けんどん)にして、見る所、聞く處、怒り罵(のゝしる)と雖も、面(おもて)にも心惡(こゝろあ)しき色を表はすことなく、他(た)の人に對して、假初めにも姑母の暴惡を謗(そし)ること、なし。
近憐、皆、其孝心を憐(あはれ)み、且、姑母の邪見を憎みて、密(ひそか)に百合女(じよ)に告(つげ)て曰(いはく)、
「夫作太夫、出(いで)て久しく不ㇾ帰(かへらず)。是、必ず、汝を捨(すて)たる也。汝獨り、豈(あに)苦辛(くしん)してかゝる暴惡の姑母を養ふの理(り)あらんや。早く、父母(ふぼ)の家に帰りて、他(た)に嫁(かせ)ば、又、安穩(あんおん)なるべし。」
と、勸め諭(さと)しけるに、百合女、答云(こたへていふ)、
「夫、たとへ、我を捨(すて)て歸らずとも、姑母は、即(すなはち)、我が母なり。我れ、今、去(さら)ば、姑母、又、誰(たれ)を力に老(おひ)を養ひ給ふべき。我身、生涯、夫なしとも、是、又、前世の宿業(しゆくごう)と思ひば、恨(うらみ)なし。」
と、遂に不ㇾ用(もちひず)。
いよいよ孝を盡(つく)し、身の勞苦を厭(いと)はず。
後(のち)五年にして、夫、帰り來れり。
其孝貞、如ㇾ此(かくのごとし)。一々(いちいち)記(しる)すに遑(いとま)あらず。
[やぶちゃん注:「村上の小次郎(こしらう)」野島出版補註は『不詳』とする。
「新發田(しばた)の菊女(きくじよ)」同前。
「頸城郡に僧ノ知良(ちりやう)」同前。
「舌賞」実際に口に出して褒めちぎること。
「孝女百合」野島出版補註には以下の詳細注が載る。
《引用開始》
百合が夫の留守に二人の子供を育て、よく養母に孝養を尽しくしたことは本文の通りであるが、なお、参考となるべき資料は次の如くである。[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げであるが、引き上げて示す。]
一、百合が表彰された年は三十二才で、女児が十一才、男児が五才、十五年以前から中風で身体不自由の養母は七十九才であった。
一、寛保元年[やぶちゃん注:一七四一年。本「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年であるから、実に七十年前の出来事で、作者崑崙橘茂世の生まれは宝暦一一(一七六一)年頃と推定されるから、彼が生まれる二十年前のことである。]、牧野民部少輔忠周[やぶちゃん注:「ただちか」と読む。越後長岡藩第五代藩主。第四代藩主忠寿(ただかず)の次男(兄は夭折)。享保六(一七二一)年生まれで明和九(一七七二)年没。享保二〇(一七三五)年に父の死去によって十四歳で家督を継いだが、生来、病弱であっため、藩政はその全てを家臣任せにしていたといわれる。延享三(一七四六)年四月四日、僅か二十五歳で病気を理由として養嗣子忠敬に家督を譲って隠居、以後は江戸藩邸で暮らした。以上はウィキの「牧野忠周」に拠った。]の臣、田中平作泰長が命を受けて米五俵を与えた。
一、寛保二年壬戌[やぶちゃん注:一七四二年。]四月上申、五月廿五日神谷志摩守久敬が台命を伝えて銀二百両を賜わった。
一、寛保壬戌夏六月、経筵講官(大学頭)林愿が撰した「越後孝婦伝」がある。[やぶちゃん注:寛保二年当時の大学頭(だいがくのかみ)は林榴岡(はやしりゅうこう 天和元(一六八一)年~宝暦八(一七五八)年)である(享保八(一七二三)年に大学頭就任、翌年に林家第四代を継いでいる)が、彼の名や号等に「愿」(漢音「グヱン(ゲン)」/慣用音「グワン(ガン)」))はない。しかも「越後孝婦伝」は彼の作ではなく、彼の子である林家五代の林鳳谷(ほうこく 享保六(一七二一)年~安永二(一七七四)年)著である。彼の大学頭就任は宝暦八(一七五八)年のことであり、無論、「愿」とも無縁である。]
一、現存する「孝婦碑」は、文政十一年戊子歳[やぶちゃん注:一八二八年] 野口猛が建立したもので、碑文は桑名、広瀬典撰、石井卓幹書、題字は、白川楽翁公[やぶちゃん注:松平定信の隠居後の号。彼は既に三十五年前の寛政五(一七九三)年に失脚しており、この題字を認めた翌年に死去している。]が特筆している。
一、牧野民部少輔御預所
越後の国三島郡出雲崎尼瀬町
大工作太夫
銀弐拾枚 女房
右之者儀姑へ就孝行書面之通被下之候間
其段可被申渡候
志摩守殿別而被仰聞候は軽き者の事に候へば御褒美の祝儀杯と申無益々遣捨不申末々まで作太夫女房が助力にも相成候様に御預所役人中可被取計事の由呉々被仰聞候以上
寛保二戌年五月廿五日
一、此外出雲崎上下の割元へ、麻上下二具町年寄へ金百疋づつ、五人組へ青銅五貫文を賜わる。
《引用終了》
最後に出る「割元」(わりもと)は地方行政組織で、代官や郡代と、各村落(群)の庄屋の中間の地位にあった。数ヶ村から数十ヶ村を一括して支配し、年貢・諸役等の割り振り及び命令指示伝達などを行った。身分は士分に準じた。「越後孝婦伝」の不審が引っ掛かるので、調べて見たところ、「新潟県立文書館」公式サイト内「越後佐渡ヒストリア」の「[第19話]幕府から表彰された孝婦ゆりの伝記」に同書が林鳳谷の著であることが明記されてあることから(他の書誌データでも確認済み)、恐らくは父である大学頭林榴岡に命ぜられて、彼(当時は従五位下図書頭(ずしょのかみ)であったと思われる)が著わしたものと推定される。なお、リンク先によれば、孝女百合は宝暦九(一七五九)年に四十九歳で『没し、尼瀬の善勝寺に葬られました。その後善勝寺の境内には孝婦碑が建てられ、良寛もゆりの姿に感動して「孝婦の碑を読む」という詩を残しています』とあるから、数えとすれば百合は宝永八(一七一一)年生まれとなる。
「三島郡村田村」現在の新潟県長岡市村田か(ここ(グーグル・マップ・データ))。海岸沿いを五キロメートルほど南西に行くと尼瀬地区がある。
「出雲崎尼瀨町(あませまち)」現在の新潟県三島郡出雲崎町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「樵(きこり)」動詞。と言っても、無論、本格的な木を伐採するそれではなく、薪(たきぎ)採りをすることである。先の「[第19話]幕府から表彰された孝婦ゆりの伝記」を参照。
「紡績(うみつむき)」原典は「うみつむき」で平仮名。綿や繭を錘(つむ:糸を紡(つむ)ぎながら巻き取る器具)にかけて繊維を引き出し、縒(よ)りをかけて糸にすること。
「慳貪(けんどん)」「吝嗇(けち)で欲深いこと」或いは「思いやりのないこと・邪慳なこと」で、ここは後者である。]