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« 北越奇談 巻之六 人物 其十(蜂のもたらした夢を買って大金を得た仁助) | トップページ | 演じてみたい役 追加 »

2017/09/14

北越奇談 巻之六 人物 其十一(安平、海中より大金を得る)・其十二(京極為兼と初君このと)・其十三(雑)/「北越奇談」~了

 

    其十一

 

Yasuheikawazaihuwohirohu

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎最後(同時に「北越奇談」の最後の)の絵。キャプション「捨身して 安平 海中に 金を得たり」。]

 

 村松濱に安平(やすへい)と云へる者あり。家、貧しくして、漁(すなどり)、藻鹽垂(もしほた)れて、その日を送りぬ。

 一年(ひとゝせ)、春、和波(なぎ)の豐かなるに至り、女房に向(むかつ)て云へるは、

「我れ、年久しく參宮の志願(しぐはん)あれども、錢(ぜに)の乏しきを以(もつて)果たさず。今年は、少し、世の業(わざ)も緩やかなれば、道すがらは、人々に手の中(うち)の助けをも得て、伊勢に參るべし。五十日は待(また)すべからず。」

とて、独(ひとり)、藁苞(わらづと)に旅裝(たびよそほ)ひして、遂に、遙々(はるばる)と艱難を得て、伊勢山田御師(おんし)某が元(もと)に着(つ)きぬ。

 扨、かの地、參詣の群聚(ぐんじゆ)、その繁花、云はん方(かた)なく、中にも、太太(だいだい)の講中(かうぢう)、その勢ひ、侯家(こうけ)のごとく、花美(くはび)量(はかり)なきを見て、安平、甚だこれを羨み、

アヽ、とても參宮の志(こゝろざし)あらん者は、かゝる大祭(たいさい)を行ひてこそ目出たかるべけれ、世に貧(ひん)ほど悲しきはあらじ。」

と、つくづく頭(かしら)を低(たれ)て思ひ入(いり)たる折節、御師(おんし)の手代(てだい)、來りて、安否を問ふ。

 安平、云ふ。

「太太神樂(だいだいかぐら)を上(あげ)候には、金子(きんす)、何(なに)ほどかゝり候事ぞ。」

と問ふ。手代、云(いふ)。

「一人にして七(しち)両二分候。」

荅(こた)ふ。

 安平、頭(かしら)を撫でて、

「金あらば、我も太太を行(おこなは)んものを。」

と、打笑(うちわら)ひば、手代の云(いふ)。

「御志(こゝろざし)候はゞ、甚(はなはだ)安きことに候。金子(きんす)は、只今、無しとも、苦しからず。秋中(あきぢう)、御(おん)國元へ參り候節(せつ)、返濟有ㇾ之(これある)に於ゐては、取替(とりかへ)可ㇾ申(まうすべし)。」

と云ふにぞ、何の思慮もなく、

「さらば、太太打(うち)可レ申(まうすべし)。」

と云へば、俄(にはか)に御師より、衣服を出(いだ)し、坐を改め、其(その)馳走(ちそう)、誠に「三日長者」とも云(いつ)つべし。

 扨、奉幣(ほうへい)・宮巡(みやめぐ)り・名所見物等(とう)相濟(あいす)み、又、元(もと)の破笠(やぶれがさ)に出立(いでた)ち、遂に國元へ立帰(たちかへ)りけるが、もとより貧しき業(なりは)ひに打ち紛れて、其事(そのこと)となく、忘れ居(ゐ)けるが、何時(いつ)しか、秋の末に至りて、伊勢より、御師(おんし)の手代、村長(むらをさ)の家に來り、

「此村に安平と申(まうす)人、當寺參宮いだされ、太太の金子七両二分取替(とりかへ)たれば、請(うけ)取りたし。」

と申

 村長、大に驚き、

「貧窮の安平、何として、太太打ち候ことぞ。さらさら、訝(いぶか)しく候。」

とて、安平を召す。

 安平、心なく、出來り、手代の顏を見て、初めて驚くと雖も、如何ともすること、なし。

 村長、安平に其故を問(とふ)。

 安平、隱すこと能(あた)はず、

「如何樣(いかさま)、七両二分、借用致し、太太、打(うち)候。」

と荅ふ。

 村長、甚(はなだだ)感賞(かんせう)し、

「扨々、其方(そのほう)、貧困の身として、太太打つ手段(しゆだん)あらんとは、此(この)老(おひ)に至(いたつ)て、猶、知らず。誠に羨しき男かな。」

とて、家に帰す。

 安平、立帰り、つくづく思ひけるは、

「我れ、百錢をさへ、不ㇾ得(えず)。まして、太太、何としてか、誤りけん。所詮、返金せざれば、神罪(しんばつ)、逃れがたし。又、家を賣(うる)とも、猶、七金(しちきん)は不ㇾ可ㇾ得(うべからず)。これ、即(すなはち)、神明(しんめい)の、我に死を給ふ時なるべし。」

と、覺悟しけるが、

「とてもの名殘(なごり)に、手代・村長にも一飯(いつはん)の麁膳(そぜん)を振舞(ふるまへ)、わが生前(しようぜん)の思ひ出にせばや。」

と、一子(いつし)を村長の家に使(つかは)せしめ、女房に向(むかつ)て、

「我れは海邊(かいへん)に到り、魚(うほ)にても、鮑(あわび)にても、取來(とりきた)るべし。汝は飯(めし)炊(た)き、膳の用意して待つべし。」

とて、釣竿・網など携へ、独(ひとり)、海邊(かいへん)に出(いで)て、彼方此方(あなたこなた)と、網、下げ、釣を下(くだ)すと雖も、魚一尾(いちび)をも得ることなく、又、海底を潛(くゞ)り、岩間(いはま)・汐瀨(しほせ)の辨(わきま)へなく、尋ね求(もとむ)れども、蠣(かき)・蛤(はまぐり)の一ツをだに、得ることなし。

 女房は、内にありて、何の理由(わけ)とも知らず、膳椀など隣に借(かり)、飯を炊(か)しぎ、汁ばかり幾度(いくたび)か煮立てゝ、日の暮(くるゝ)まで、待てども待てども、帰り來らず。

 かの手代・村長は腹を押(おし)、口を鳴らして待つと雖も、いまだ、其沙汰なし。

 然るに、安平、日の暮るゝまで心力(しんりよく)を盡くして尋ね求(もとむ)れども、終(つゐ)に一物(いちもつ)の得る所なし。

 安平、つくづく思ひけるは、

「扨も。是、皆、我(わが)積悪(せきあく)の成る故に、神明の捨(すて)給へるなるべし。今日已に暮(くれ)て、一物の得ることなく、何を以つてか、家に歸ることを得ん。とても、天命の盡(つく)る所。身を沈めて死すべし。」

と、覺悟を極め、海岸、尤(もつとも)深(ふかい)所に至り、可ㇾ憐(あはれむべし)、終(つゐ)に白波の底に飛入(とびいり)たり。

 扨、千尋(ちひろ)の深き岩間に沈みたれども、身に重石(おもり)なきが故に、又、浮(うか)み出んとす。自(みづから)、

「浮むまじ。」

と岩角(いはかど)にとり付きたれば、忽(たちまち)、其岩角と共に波上(はしよう)に浮み出たり。

 安平、一息つきて、かの取付(とりつき)たる岩角と思ひし物を見れば、岩にはあらで、古き皮財布(かはざいふ)なり。

 安平、驚き、もとの岸に上がり、これを開き見るに、黄金(わうごん)、數百(すひやく)あり。

 あまりの嬉しさに、夢路のごとく飛帰(とびかへ)り、物をも不ㇾ言(いはず)、家に入れば、女房は、頻りにいらち喚(わめ)くを、靜(しずか)に制し、

「早く、村長の家に到りて、客(かく)人を迎ひ來(きた)るべし。」

とて押出(おしいだ)し、扨、膳を見るに、飯あるのみ、さらに一菜(いつさい)の用意なし。

 安平、竊(ひそ)かに膳を備(そな)ひて待つに、已にして、両人、出來り。

 一義(いちぎ)にも及ばず、膳に着(つ)き、飯を食(しよく)し、扨、汁の蓋(ふた)をとれば、金(きん)一兩、在(あり)。

 平(ひら)の蓋をとれば、又、金あり。

 坪(つぼ)を開けば、同じく、金あり。

 皆々、大に驚き、其故を問ふ。

 安平、淚を流し、始末、盡(ことごと)く、是を語り、悦び合(あへ)り、と。

 今、猶、其家、富榮(とみさかへ)て繁昌せり。

 誠に、一奇の果報と云ふべし。

 

[やぶちゃん注:「村松濱」現在の新潟県胎内市村松浜。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藻鹽垂(もしほた)れて」塩を採るために海藻に海水をかけて。歌語としては「泣く」の意の「しほたる」と掛けて多く用いられる。本話の安平の最後の死を決した危機一髪のシークエンスの伏線とも言えよう。

「世の業(わざ)も緩やかなれば」世の中の景気も悪くないので。

「道すがらは、人々に手の中(うち)の助けをも得て、伊勢に參るべし」伊勢参宮の者には道中にて参詣者に対し、途中の民草が結縁のために、宿や食及び介抱などの施しをするのが通例であった。

「五十日は待(また)すべからず」当時の新潟からの伊勢参りの往復の日数が、これで知れる。

「藁苞(わらづと)」藁を束ねて中へ物を包むようにした旅行用の携帯具としての入れ物。また、その苞(つと)で包んだ土産物・贈り物を指すから、ここは伊勢神宮へのささやかな奉納品(金)をも含まれていよう。

「伊勢山田」三重県伊勢市山田(やまだ)地区。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば、『伊勢神宮外宮の鳥居前町として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とある。

「御師(おんし)」神社(当時は神仏習合であるから神寺)の参詣や祈禱等を手助けすることを業務とした者を指し、一般には身分の低い神職や社僧が兼務した。熊野三山・伊勢神宮・阿夫利神社・江ノ島などでは、宿坊の経営や参詣人の案内を兼ね、信仰の普及にも寄与した。伊勢以外では通常は「おし」であるが、伊勢では特別に「おんし」と称する。野島出版補註には、『神社の祈禱師の敬称。大神宮、石清水、春日神社等にある。大神宮の下級の神人の』何々「太夫」と称した者を『いう。年々御祓箱を国々の人家に配り、初穂を求め、各地より参宮する時は、宇治、山田に在る其御師の家に宿泊する例であった』とある。

「太太(だいだい)の講中(かうぢう)」「伊勢太太講・伊勢代代講」のこと。室町時代以後に生じた無尽講(一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期に掛け金を払い込ませて抽選や入札により金品を給付する民間の扶助組織)のような仕組みで、交代で伊勢参りをして「伊勢太太神楽(だいだいかぐら)」を奉納する費用を積み立てた組合。江戸時代に盛行した。「伊勢講・太太講」とも略した。野島出版補註には、『伊勢大神宮へ庶民が奉る神楽を太太という。この神楽を奉る組合仲間を講中という』とある。

「侯家(こうけ)」大名のこと。

「御師(おんし)の手代(てだい)、來りて、安否を問ふ」この場合の手代は、御師の下で雑務や客との直接交渉(ここに見るように全国を行脚して営業も行った)や世話を勤めた役の者。安平の愁鬱な様子を見て、相談に乗ったのある。

「七(しち)両二分」「北越奇談」刊行当時の江戸後期とするなら、一両は現在の五万円ほどで、「一分」はその一両の四分の一であるから、三十七万五千円ほどとなる。但し、野島出版補註では、『二分金は文政元年鋳造したもので二枚で両にあたる。一両を今の二万円とすれば七両二分は十五万円となる』ともっと安く見積もっている。江戸時代の貨幣価値は変動著しく、換算対象で激しく変わるので、この解説を最低額と見て、二者の平均で二十六万円前後を示しておくこととする。

「取替(とりかへ)」立て替え。

「黄金(わうごん)、數百(すひやく)」後で膳椀の中に金一両宛入れているから、数百両と採ってよかろう。「數」(私は六掛けを基本とするが)を少なく見積もって三百両としても、先の五万円換算なら一千五百万円、野島出版版補註の換算値二万円としても六百万円となり、最後に「其家、富榮(とみさかへ)て繁昌せり」というには充分な値である。

あり。

「いらち喚(わめ)く」野島出版補註には「いらだち」『の誤記であろう。気が烈しくなる。甚だしく急ぐ。わめくは大声を出す。どなる。叫ぶ』とあるが、これは「苛(いら)つ」(自動詞タ行四段活用)で「いらいらする・いらだつ」の意で誤りでも何でもない。

「一義(いちぎ)にも及ばず」「一議に及ばず」で、「あれこれ議論するまでもなく・ある対象を問題にするまでもなく」の意。ここは手代も村長も、異様に長く待たされたことに対してこれといって文句や不満を言うこともなく、の謂いであろう。]

 

 

 

    其十二

 

 初君(はつぎみ)、寺泊の遊女なり。古(こ)冷泉(れいぜい)□□□爲兼(ためかね)卿(きよう)を送奉るの和歌、皆、世の知る所なり。其碑、今、寺泊堺町(さかひまち)と云へる、人家の傍(かたは)らにあり。

「玉葉集」 物思ひ越路が浦の白波も立(たち)かへるならひありとこそきけ

 

[やぶちゃん注:「□□□」は底本の脱字を再現した。野島出版版にはない。元が何であるかは不詳。或いは何か誤り(事実、「冷泉」は実は誤りである。後注参照)を差し替えるために版木を削って彫り直した際、誤って字を入れ損なって空欄となっただけかも知れない。

「初君(はつぎみ)」野島出版補註に、『寺泊の遊女であると書いたものが多い(崑崙もそう書いている)。しかし』、『所謂』、『遊女が身分の高い為兼卿のお相手をして歌など読める筈がない』。これは誤伝であって、恐らくは『良家の娘で五十嵐家』(寺泊の豪族)『に頼まれてお給仕した娘であったのだろう』とある。詳しくは次注を参照されたい。

「古(こ)」「いにしへ」の意か。

「冷泉(れいぜい)」「爲兼(ためかね)」野島出版脚注に鎌倉後・末期の公卿で歌人の『京極為兼卿の誤であろう』とする。ウィキの「京極為兼」によれば、京極為兼(建長六(一二五四)年~元徳四/元弘二(一三三二)年)は『名前の読みを「ためかぬ」とする説もある』とする。藤原定家の曾孫。『京極家の祖・京極為教の子に生まれる。幼少時の初学期から従兄の為世とともに祖父為家から和歌を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕えた。為兼の「兼」は実兼からの偏諱であると考えられている』。建治二(一二七六)年には『亀山院歌会に参会し、為兼和歌の初見となっている』弘安三(一二八〇)年には『東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから』、永仁六(一二九八)年に『佐渡国に配流となった』。嘉元元(一三〇三)年に『帰京が許されている。勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て』、正和元(一三一二)年に「玉葉和歌集」を『撰集している』。翌正和二年、『伏見上皇とともに出家して法号を蓮覚』、『のちに静覚と称した』。しかし二年後の正和四(一三一五)年十二月二十八日のこと、『得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁』されてしまい、翌正和五年正月十二日、『得宗が守護、安東氏が守護代であった土佐国に配流となり、帰京を許されないまま』、『河内国で没した』。二度の『流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある』。『歌風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ』。「玉葉和歌集」「風雅和歌集」に『和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる』とある(下線やぶちゃん)。もし、この条のそれが事実とすれば、永仁六(一二九八)年から嘉元元(一三〇三)年の間ではなく、配流された際の途次、或いは赦免されて京に戻る際のエピソードとなろうから、このそれぞれの年の孰れかと考えるのが自然であり、前の野島出版補註及び次の注の現在の碑の解説板に従うならば、前者、即ち、永仁六(一二九八)年に佐渡へ向かう前に土地の豪族五十嵐家に逗留し、そこで初君と邂逅、相聞歌を交わしたことになる。更に、個人サイトと思われる「新潟県:歴史・観光・見所」の「長岡市:初君旧歌碑」には、為兼が佐渡配流の折り、『寺泊に風待ちの為に』、『一月余り滞在し』、『そこで出会ったのが初君(寺泊の才色兼備の遊女)で、玉葉和歌集に載っている初君の和歌』、

 

 もの思ひ越路の浦のしら浪もたちかへるならひありとこそ聞け

 

は、『この時為兼に贈られたと考えられてい』るとし、『天候が回復し』て、『佐渡島に旅立つ日』、『為兼は初君に対し』、

 

 逢ふことをまたいつかはと木綿(ゆふ)たすきかけしちかひを神にまかせて

 

『と詠み、その返答として』初君は上記の『和歌を詠んだとされ』ていると記す(下線やぶちゃん)。「木綿(ゆふ)」たすき」は「木綿(ゆう:木綿ではないので注意。楮(こうぞ)の木の皮を剥いで蒸した後、それを水に晒して白色にした繊維)で作った襷。その白さから清浄なものとされ、神事に奉仕する際、肩から掛けて袖をたくし上げるのに用いたのが最初。和歌では「かく」を導く序詞ともする。ここもそれ。

「其碑、今、寺泊堺町(さかひまち)と云へる、人家の傍(かたは)らにあり」野島出版脚注に、『初君の碑は前にあったものが火事に焼けたので、更に享和二年(一八〇二)の秋、聖徳寺の住職円雅が建てたのが今の碑である。これには、国上寺の客僧、万元の碑文や初君の歌などが刻まれている。磯町愛宕神社の傍に在る』とある。若槻武雄氏のサイト「蝦夷(えみし)・陸奥(みちのく)・歌枕」のこちらのページに三種の初君関連の碑の画像があり、キャプションでは、『寺泊は佐渡遠流(島流し)の風待ちの地である』。『藤原(京極)為兼と遊女初君の別れの歌碑がある』。『もの思ひ 越路の浦の しら浪も たちかへるならひ ありとこそ聞 初君』とあり(野島出版補註にも「北越奇談」本文の「越路が浦」の「が」は「越路の浦」の誤りであるとある)、また『あふことを 又いつかはと ゆうだすき かけし誓いを 神にまかせて 為兼』とし、五年後に『許されて都へ還った為兼の勅撰集である玉葉和歌集に彼女の歌を載せたのである』(下線やぶちゃん)。『越後の人で勅撰集の載せられたのは彼女一人である(説明板)』とある(前注参照)。

「玉葉集」「玉葉和歌集」はこの京極為兼の撰になる鎌倉後期の第十四勅撰和歌集。全二十巻。応長元(一三一一)年に為兼に伏見院の院宣が下り、翌正和元年奏覧の上、改訂されて正和二年に完成した。収録歌数は二千八百一首。伏見院・藤原定家・西園寺実兼・従二位為子(ためこ:為兼の姉)・藤原俊成・西行・藤原為家,永福門院,為兼らがおもな採録歌人で、「万葉」時代と「新古今」時代及び為兼の同時代の作品を重視して採っている。歌風は、叙景歌は客観的・写生的で、恋歌などの抒情歌は心理的・観念的傾向が著しい。声調よりも印象の清新さを狙っており、後の名歌集「風雅和歌集」(室町時代の第十七勅撰集。貞和四(一三四八)年までに成立)とともに、「十三代集」の中では異彩を放ち、後世、「玉葉・風雅歌風」などと呼ばれる。宮廷歌壇の対立を反映して、反対派の二条派から「歌苑連署事書」などの論難書が発表されたが、近年は高く評価されている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」の記載に拠った)。

「物思ひ越路が浦の白波も立(たち)かへるならひありとこそきけ」既に示した通り、「越路が浦」の「が」は「越路の浦」の誤り。野島出版補註には、さらに、『「玉葉集」上は「読人知らず」となって居り、初君の名は出ていない』とある(下線やぶちゃん)。]

 

 

    其十三

 

 柏崎中濱村の産(さん)、宦女(くはんじよ)辰子ノ傳、幷ニ水原堤村(つつみむら)百姓某(それがし)、入宮門(きうもんにいる)話等(とう)は、今、聊(いさゝ)か憚(はゞか)るところあれば、略ㇾ之(これをりやくす)。

 

[やぶちゃん注:以上を以って「北越奇談」の本文は終わっている。

「柏崎中濱村」現在の新潟県柏崎市中浜。(グーグル・マップ・データ)。

「宦女」「官女」に同じい。

「辰子」不詳。ただの官女なので「たつこ」と訓じおく。識者の御教授を乞う。

「水原堤村(つつみむら)」現在の妙高市の附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「入宮門(きうもんにいる)話」百姓が、あろうことか、何かの理由で宮中に参内したということであろうが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

北越奇談巻之六 大尾

――――――――――――――――――――――

橘崑崙茂世著

            古器 産物 名所旧跡

  北越奇談後編 續出 山勝 海絶 奇事

             其外諸話夛く集む

――――――――――――――――――――――

 同

              寫木彩色

  同郡縣地理山川路程全圖 六尺八尺

     附佐州之図     大圖 一枚出来

 

 

 

  北越 橘崑崙茂世著述 ㊞

  東都 柳亭 種彦挍閲 ㊞

  同  葛飾 北齋補畫 ㊞

[やぶちゃん注:㊞はそれぞれ「崑崙」、「柳亭」、「雷辰」。北斎のそれは沢山あった彼の号の一つである。]

 

[やぶちゃん注:最後の奥付と、そこに挟まる形の関連広告(書名は原典では有意に大きい)のみを電子化した。]

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