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2017/09/05

北越奇談 巻之六 人物 其四(儒者 他)

 

    其四

 

 北越の耻(はづ)る所は儒なり。只、北海【新泻の人】、松貞吉【高田藩中。】岑子陽(しんしよう)【地藏堂の人。「古今人物志(ここんじんぶつし)」に見る。】。其余(そのよ)、赤城(せきじよう)【加納の人。】、東郭【水原の人。】、穀山(こくざん)【頸城の人。】、雲洞(うんとう)和尚【詩を善くす。】。此餘(このよ)、今時(こんじ)の人、未ㇾ知(しらざる)之(の)子(し)、可レ多(おほかるべし)。和歌・俳諧・琴棊(きんき)・茶道・立花(りつか)・音曲(おんぎよく)等(とう)の人、一々(いちいち)擧(あぐ)遑(いとま)あらず。醫家、又、相(あい)同じ。画(ぐは)には越後法眼(ほうげん)、呉俊明、信雪(しんせつ)等、其余、今時、猶、此道(みち)、流行して數(す)十百人なるべし。書も又、如ㇾ此(かくのごとし)。只シ、古(いにしへ)に名ある人も、今、流行に合はずとして、採らず。今時、名を得る人も、又、後世の流行には廢(すた)れなん。書画は其人々の好む所に依(よつ)て光彩を益(ます)のみ。

 

[やぶちゃん注:「儒」野島出版脚注に『儒者。漢学者』とある。

「北海」江戸中期の儒者で漢詩人片山北海(ほっかい 享保八(一七二三)年~寛政二(一七九〇)年)。ウィキの「片山北海によれば、京都の江村北海、江戸の入江北海とともに「三都の三北海」と称された。『名を猷、字は孝秩、通称を忠蔵、号は北海の他に堂号でもある孤松館がある。大坂で混沌詩社などを興して、頼春水、尾藤二洲、古賀精里、木村蒹葭堂など多くの優れた門弟を輩出した』。『越後国弥彦村(現』在の『新潟県西蒲原郡弥彦村)の農家に生まれる。父は黙翁といい、母は三浦氏の出自。この村が日本海に面していたことから長じた後に北海と号することになる』。十『歳になるまでに四書などの教えを受けるが、非凡な才能を示したため、周囲の大人はこの子に学問を仕込もうとした。しかし辺縁の地にて師が見つからず、長岡、新発田、高田などに遊学させるも相応しい師を見つけられずにいた』。十八『歳になると京都に出て、師を探し求めたが』、『敬服に値する人物になかなか出会うことができずにいた。北海が初心より志が高かったことが伺われる』。

元文五(一七四〇)年、漸く、意中の師『宇野明霞に出会い入門する。北海は師を敬い、その学説を慕った。また師』『明霞も北海の器を見抜き、信任が篤かった。この師弟関係は』六『年続いたが、明霞が死去するに及んで』、『起居する家を失うことになる。加えて息子の出世を期待して身を寄せていた父親と貧困生活を強いられてしまう。しかし、親孝行をしながら苦学して学問を続けた』。『明霞の門弟に大坂の富商の者がいて、北海と知己であったことで、大坂に招かれて開塾することとなった。北海は言葉少なく、優しい人柄で知られ、身分によって人を差別することがなかった。また政治的な野心を持つことなく、しかも儒者として時宜にかなった実践的な学を説いた。世間の評判はたちまち高まり、三十数年の間で延べ』三千『人以上の門弟がいたといわれる。和泉岸和田藩の岡部候など多くの諸侯が北海の評判を知り、藩儒として招聘するが』、『すべて固辞している』。『淀橋横町の居宅には一本の老松があったため』、ここを「孤松館」と『称した。多くの文人墨客がここに集い、酒を飲みながら詩作に耽り、政治談義などをした。北海は酒を嗜まなかったが、これにつきあい』、『倦むことがなかったという。若き日の尾藤二洲が服部南郭の詩について議論しようとしたが、北海はこれに応えず』、『平然と煙草を吹かしていた。面倒な文学論などせず』、『自由で気楽な雰囲気が伝わってくる逸話である。また横笛の名手でもあり、煎茶を嗜む風流人でもあった』。明和元(一七六四)年、『混沌詩社が創立され』、『北海はその盟主に推されるが、たちまち大坂で最も盛んな詩社となった』。『北海は生涯、著作を著すことを好まず、生前刊行されるものはなかったが、没後に門人によってその詩編が編集され出版されている』とある。

「松貞吉」村松貞吉(享保一六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)。野島出版補註に『字は子永、通称与右ヱ門、蘆溪は其の号。中頸城郡山直海村の人。世々農を業とす。貞吉、学を好み』、『二十一才』の時に『江戸に遊び』、『服部南郭の門に入り、刻苦多年、学大いに進んだ。後、国に帰り』、『榊原侯に仕えて儒臣となった。時に』宝暦四(一七五四)年であった。『著書多し(「北越名流遺芳」第二集、「北越詩話」上巻、「越後野志」下巻等より)』とある。

「岑子陽」前条既出既注。

「地藏堂」複数回既出で既注。現在の新潟県燕市中央地蔵堂(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「古今人物志(ここんじんぶつし)」江戸中期奥村意語が書いた「諸家人物志」の併題。国立国会図書館デジタルコレクションので画像を視認出来るが、縦覧してみたものの、発見出来なかった。

「見る」「みゆる」か。

赤城(せきじよう)」野島出版補註に『不詳。「越後野志」によれば、「刈羽郡加納村の人、博覧にして五経に通じ、諸郡の生徒、多く往きて業を学ぶ」とある(原漢文)』と記す。

「東郭」野島出版補註に『不詳』とある。ありがちな号で幾つかを見出したが、同定不能。

「水原」「すいばら」と読む。現在の阿賀野市水原町(すいばらまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「穀山(こくざん)」江戸中期の儒学者小田穀山(元文四(一七三九)年~文化元(一八〇四)年)。本姓は佐藤氏、名は煥章、字は子文、通称定右衛門、穀山と号した。元来、越後頸城郡竹直村(現在の新潟県中頸城郡吉川町)の名主であったが、家人を残して江戸へ出奔、儒学、中でも漢・唐の古注家として家塾を営んだ。豪放にして弄世諧謔を好み、経学の傍ら、越後の民謡に、あたかも「詩経」を解するが如き、謹厳な漢文の訓詁注釈を施した「越風石臼歌」を刊行したりしている。民間俗言の本義を追究した「邇言解」(じげんかい)では、例えば、「嫉妬」を考察しつつ、次第に夫婦喧嘩での罵倒語を「畜生」・「性悪」・「ハリツケ」・「モモンジイ」などと二十二語も開陳するといった、冗談か本気か分からぬエンターテインメント性を発揮している。大田南畝らとも気脈を通じ、近世中後期を代表する奇人とされる。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。実に面白い解説である。

「雲洞(うんとう)和尚」不詳。ただ、現在の新潟県南魚沼市雲洞に曹洞宗金城山雲洞庵(うんとうあん)があるから、この第何世であろうかとも思われる。

「琴棊(きんき)」琴(こと)と碁(ご:囲碁)。「琴棋書画」という四字熟語もあり、昔、中国で「四芸」と称して風流な人々の芸術的な遊びとされた四芸を指す。また、これは画題としても描かれたりした。

「立花(りつか)」華道。

「越後法眼(ほうげん)」生没年未詳の室町時代の画家。野島出版補註に『何処の人なるか明らかでない。その姓名も伝わらない。雪舟に師事して画を学び、文明八』(一三七六)『年三月二十八日、坂本田中村に於いて、雪舟より画家の秘本』「君台観左右帳記」(くんだいかんそうちょうき)を『受けたという。或は巨勢家の画風を伝え』、最も『仏像を描くに妙を得たともいう。門下に盛雲がある。享禄二』(一五二九)『年二月十日、之に』雪舟から伝授された先の秘伝書を『授けたという(「北越名流遺芳」第一集より)』。『「温古の栞」に、越後法眼は中頸城郡国府の人、文明年中の画家にして馬を画くに巧なり。故に世人は馬法眼と称ふ。身を雲水に委ね、常に駑馬に跨り、馬を画きし旗を背にして諸国を漫遊す。折しも戦国の際なれど、之を見るもの敢て誰何せしことなかりしと云ふ。云々とある』と記す。

「呉俊明」野島出版補註に『新潟の人、名は安倍、字は方篤』、後に『方徳に改む。孤峰また穆翁と号し、竹軒(けん)の別号もある。元禄十三』(一七〇〇)『年に生まれ、本姓は佐野氏であったが、幼少の時孤児となり、五十嵐氏に養われた。三十才の時』、『江戸に出て狩野長信に就いて画を学んだ。更に宋の階梁明の張平山の画風を慕うて一家を成した。山水人物何れも善くし、法眼に叙せられて京都に居ること十四年、当時の名流とも交遊した。年六十に及び、公卿藤大納言より姓呉氏を与えられて呉浚明と云ったが、七十才の讐た五十嵐姓に復した。浚明は竹内式部に就いて闇斎派の儒学を修め、宇野士新と交り』、『深く詩を能くした』が、天明元(一七八一)年『八月十日没した。年八十二(「北越名流遺芳」第一集、「越後野志」下巻、「北越詩話」上巻より)』とある。

「信雪(しんせつ)」不詳。野島出版補註も『不詳』とする。]

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