老媼茶話 事文類聚【後集二十】(小町伝説逍遙)
事文類聚【後集二十】
[やぶちゃん注:「事文類聚」(じぶんるいじゅう)は宋の祝穆(しゅくぼく)の編になる中国の類書(百科事典)。一二四六年成立。全百七十巻。「芸文類聚」(げいもんるいじゅう)(唐の高祖(李淵)の勅命で、欧陽詢らが撰した類書。六二四年成立。全百巻。天・歳時・地・山などの全四十六部に物事を分類、それぞれに関連する詩文を配したもの。本邦にも早くから伝わって影響を与えた)の体裁に倣い、古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新集三十六巻・外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻を追加して総計で全二百三十六巻の大著に膨れ上がった。この条は三坂の叙述の最初の特異点で、「事文類聚」の「後集第二十巻」の「髑髏」の部からの訓読引用(原典標題は「草生髑髏」(草、髑髏に生ず)で「述異記」からの引用とするもの)は最初の段落のみで、それを契機として、作者三坂が登場、膨大な和書から、奇怪な小野小町髑髏伝承から自在な小町伝説を引用証明の形で語る形式を採る。また、その採集は、三坂の博覧強記がタダモノのそれではないことを明確に印象附けるものともなっている。なお、「事文類聚」の当該本文は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。それを見ると、婢の名は確かに「興進」であり、この読みは「コウシン」でなくてはならぬ。「興」を「輿」或いは「與」と見誤ったものであろう。また、原典そのままの完全訓読ではなく、三坂が翻案した箇所があることも判る。以下に視認したそれを白文(句読点や鍵括弧を独自に(和刻本の訓点の一部には従えない箇所がある)附した)で翻刻しておく(国立国会図書館デジタルコレクションのそれは和刻本で訓点がある)。
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草生髑髏
陳留周氏婢、名興進、入山取樵。夢見一女語之曰、「近在汝頭前。目中有刺、煩。拔之、當是有厚報。」。牀頭果有一朽棺。頭穿壞、髑髏堕地、草生目中。便、爲拔草内着棺中、以甓塞穿。卽、髑髏處、得一雙金指環【桓冲之「述異紀」。】。
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これは「太平御覧」の第四百七十九巻に、
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桓冲之「述異紀」曰、陳留周氏婢、名興進、入山取樵。夢見一女語之曰、「近在汝目前。目中有刺、煩。爲拔之、當有厚報。」有見一朽棺。頭穿壊、髑髏墮地、草生目中。便、爲抜草内着棺中、以甓塞穿。卽、於髑髏處、得一雙金指環。
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また、「太平広記」の「巻第二百七十六 夢一」に「述異記」を出典とする「周氏婢」で、
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陳留周氏婢入山取樵、倦寢。忽夢一女子、坐中謁之曰、「吾目中有刺、願乞拔之。」。及覺、忽、見一棺中有髑髏、眼中草生、遂與拔之。後於路旁得雙金指環。
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とある話である。原文の「甓」(音「ヘキ」)は焼成した煉瓦のこと(「塼・専・磚」(音「セン」)とも書き、古えより土木建築の基本材として多方面に使われてきた)。この条はやや長いので、冒頭だけここに注した。]
陳留の周氏か婢に興進(ヨシン)と云しもの、山に入(いり)て樵(キコリ)し、勞(ロウ)して、ふして、夢みらく、ひとりの女あり。是(ここ)に語(かたり)ていはく、
「我、近く、汝か頭(かうべ)のほとりにあり。目の内に刺(サシ)ありて煩し。是をぬかば、まさに厚く報すへし。」
ゆめ覺(さめ)て、皈(かへり)て、我(わが)をるゆかのほとりをほるに、はたして壹ツのくちたる棺あり。頭(カウベ)、そこね、髑髏(トクロウ)、地に落(おち)て、草(くさ)、目のうちに生す。則(すなはち)、此草をぬき、棺を補(ヲキナ)ひ、ふさぎて置(おけ)り。則、髑髏の處におゐて、壱雙の金指環(キンシクハン)を得たり。
是、本朝の小野ゝ小町かことに相似たり。實方(さねかた)中將、奧羽にあそひ、小野ゝ小町か髑髏の草をぬく事は、「袖中鈔」・「無明鈔」、其外にも見へたり。
「愚見(クケン)抄」に、
或説に、左中將【なりひら】、二條の后(きさき)をおかし奉らん斗(はかり)ことに出家せしか、そのゝち、髮をはやさん爲に、陸奧の國八十嶋(やそしま)に至りて、小野ゝ小町が髑髏の、
秋風のふくにつけてもあなめあなめ
なりひら、是を見るに、しやれかうべの目の穴より、すゝき、生拔(はへぬけ)たる、風に吹(ふか)るゝおとのかく聞へける。左中將、哀(あはれ)に覺へて、
小野とはいはしすゝき生(おひ)けり
と下の句を附(つけ)しといへり。
「壒囊鈔(あいなうせう)」に曰、
目より薄の生出(おひいづ)る事、去ル古事(こじ)、侍るにや、先ツ、近頃の連歌に、
目より薄は生出(おひいで)にけり
といふ難句(なんく)のありけるに、
物夫(もののふ)の野邊に射失(スツ)る破(ヤレ)かふら
と付たり。名譽の秀句といへるを、十佛は、「さしもの古事を無下(むげ)に付(つけ)たり」と難しける。たとへは小のゝ小町か集(しふ)に、
秋風の吹(ふく)につけてもあな目あな目小野とはいはし薄生(おひ)けり
「あなめ」、「古今(こきん)」の註にて、『「悲々」と書(かき)て「アナメアナメ」と讀(よむ)』と註せり。「是は彼(かの)小町、死(しし)て後(のち)、よめる歌なり」とあり。
「平安誌」に、
「市原野ゝ出(いで)はつれに、小野ゝ小町が乞喰(こつじき)せしおりの枕石とて有りし」となり。
市原野に「あなめ塚」といふあり。小野ゝ小町、としよりて、關寺にて死(しに)ける折、艸庵に、辭世、書殘(かきのこ)せり。
おはる迄身をは身こそは思ひしれみつからしつる野邊の野送り
弘法大師、此野に分入(わけいり)、此歌をみて、
世の中に秋風たちぬ花薄まねかはゆかむ野へも山へも
と口すさみ、過玉(すぎたま)へは、いつくともなく、
秋風のふくにつけてもあなめあなめ小野とはいはし薄生けり
大師ふしき思召(おぼしめし)、野邊をさかし見玉へは、しろく晒(さらし)たるとくろの眼の穴より、薄(すす)き、生たるあり。此白骨を、ひろい、うづめ、此石塚を建玉(たてたま)ふと也。又、西行法師、此前を過(すぐ)るとて、誦經念佛し、入相(いりあひ)のかねを聞(きき)て、
なき人のいかなる草のかけにおりて今うちならす鐘をきくらん
とよみて過(すぎ)給ひけるに、あとより、十八、九斗(ばかり)の女、あらはれ、この歌をよみ、失せける。
聞そとよ此野ゝ草の影にをりて今打(うち)ならすかねの一こゑ
[やぶちゃん注:「小野ゝ小町」生没年未詳にして出自・身分も不詳。「古今和歌集」の代表的歌人で恋愛歌に秀で、六歌仙・三十六歌仙の一人。交渉を持った人物などによって承和から貞観中頃(八三四年~八六八年頃)が活動期と考えられ、仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)両天皇の後宮に仕えた官女と推定されてはいる。
「實方(さねかた)中將」藤原実方(?~長徳四(九九九)年)は公家で歌人。従四位上・左近衛中将。三十六歌仙の一人。ウィキの「藤原実方」によれば、左大臣藤原師尹の孫で、侍従藤原定時の子であったが、父が早逝したため、叔父の大納言済時の養子となった。天禄四(九七三)年、『従五位下に叙爵し』、二年後の天延三(九七五)年には『侍従に任ぜられる。その後は、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と武官を歴任する傍ら』、『順調に昇進』し、正暦四(九九三)年には『従四位上、翌』年、『左近衛中将に叙任され』、『公卿の座を目前に』したが、長徳元(九九五)年正月、突如、陸奥守に左遷させられてしまう。同年の三月から六月にかけて、『養父の大納言・藤原済時を始めとして、関白の藤原道隆と道兼の兄弟、左大臣・源重信、大納言・藤原朝光、大納言・藤原道頼ら多数の大官が疫病の流行などにより次々と没するが、養父・済時の喪が明けた』九『月に陸奥国に出発した』。『左遷を巡っては、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生』、『このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある』(本条で三坂が「奧羽にあそひ」(遊び)とするのはこの伝承に洒落た感じがする)。『しかし、実方の陸奥下向に際して天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。さらにこの逸話では、口論に際し』、取り乱すことなく、『主殿司に冠を拾わせ』て『事を荒立てなかった行成が、一条天皇に気に入られて蔵人頭に抜擢されたとされるが、実際の任官時期は同年』八月二十九日で、実方の任官と八ヶ月も『開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙ともされることから』、『逸話と事実に不整合がある。これらのことから、後世都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話(後述の死後亡霊となった噂や、スズメに転生した話も含め)の形成につながったとも考えられる』。長徳四年十二月(九九九年一月)、『任国で実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した(名取市愛島に墓がある)。没時の年齢は』四十歳ほどであったとされる。彼は『藤原公任・源重之・藤原道信などと親し』く、『風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも』二十『人以上の女性との交際があったと言われ』、『光源氏のモデルの一人とされることもある』。『死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの噂が流れたとされ』、『また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)』とある。ただ、三坂は小町の髑髏の草を抜いてやるという説話の主人公がこの実方であるというのを最初に押し出しているのであるが、それを実方とする知られた文献は有意には多くない。私の調べた限りでは、歌僧顕昭(けんしょう 大治五(一一三〇)年?~承元元(一二〇九)年?)の「古今集序註」(ここの情報)や、江戸中期の儒学者新井白蛾(正徳五(一七一五)年~寛政四(一七九二)年)の「牛馬問」(巻之一「小野小町」。私の昔から好きなサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典の壺」のこちらに現代語訳が載る。但し、そこではその小野小町というのは小野正澄(私は不詳)の娘であって、我々の知る小野小町ではないとし、我々の知っているそれは「小野良實」(後述)の娘であるとする。それを受ける形で、滝沢馬琴は「兎園小説」の第五集で乾斎なる人物が報告する「小野小町の辨」もある。以下に所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化、記号や読みを加えて示す。
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小野小町の事、「牛馬問」に委しく辨じ置けり。却て小町を一人と思ふより紛れたる説多し。實方朝臣、陸奥へ下向之時、髑髏の眼穴より薄の生ひ出でゝ、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とはいはじすゝき生ひけり」と有りし歌の小町は、小野の正澄の娘の小町なり。康秀の三河椽(じよう)と成りて下向の時、「詫びぬれば身を浮草の根をたえて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ」と詠みしは、高雄国分の娘の小町なり。「思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましを」の歌、又、出羽郡司小野良実が娘の小野の小町なり。高野大師の逢ひ給ふ小町は、常陸国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならざる異説ある而已(のみ)。中にも良實が娘の小町は美人にて、和歌も勝れたればひとり名高く、凡(すべ)て一人の樣(やう)傳へ來るのみ。かゝる類(たぐひ)、万事に多し。暫く記して疑を存し、亦、以て博雅君子に問ふ。
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これは所謂、複数の小野小町が実在したことの主張である。ここで白蛾と乾斎の言う「小野良實」というのは「小野良眞」のことであろう(「實」と「眞」は誤り易い字ではある)。我々の知っている美女小野小町の出自説の一つに、「尊卑分脈」で小野篁の息子である出羽郡司「小野良眞」の娘とされているからである(但し、小野良真の名はこの「尊卑分脈」にしか載らず、他の史料には全く見当たらないこと、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長二(八二五)年から
昌泰三(九〇〇)年の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)を考えると、篁の孫とするには年代が合わない。なお、他に小野篁自身の娘とする説もある。ここはウィキの「小野小町」に拠った)。さて、複数の小町の追跡というのは本条の主旨とは微妙にずれてしまうし、美形でない別人の小町には読者の食指もイマイチ動かぬであろうからして、ここらで留めおくこととする。
「袖中鈔」顕昭の著になる平安末期(文治年間(一一八五年~一一九〇年)頃成立)の歌学書。全二十巻。「万葉集」から「堀河百首」辺りまでの歌集・歌合せから約三百の難解な歌語を抄出して解釈したもの。私は所持しないので、当該箇所は紹介出来ない。
「無明鈔」「無明抄」。鴨長明の歌論書。全二巻。承元四(一二一〇)年頃の成立か。当該話は「業平本鳥きらるる事」と続く「をのとはいはじといふ事」。但し、そこでは藤原実方ではなく、在原業平である。
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ある人いはく、「業平朝臣、二條の后の、未だ、ただ人におはしましけるとき、盜み取りて行きけるに、兄人(せうと)たちに取り返されたるよし、いへり。この事、また『日本記式』にあり。ことざまは、かの物語にいへるがごとくなるにとりて、迎ひ返しけるとき、兄人たち、その憤りを休め難くて、業平の朝臣の髻(もとどり)を切りてけり。しかあれど、誰(た)がためにもよからぬ事なれば、人も知らず、心一つにのみ思ひて過ぎけるに、業平朝臣、『髮生(お)ほさん』とて、籠りて居たりけるほど、『歌枕ども見ん』と數寄(すき)にことよせて東(あづま)の方(かた)へ行きにけり。陸奧國(みちのくに)に至りて、『かそしま』といふ所に宿りたりける夜、野の中に歌の上の句を詠ずる聲あり。その詞にいはく、
秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
と言ふ。あやしく思えて、聲を尋ねつつ、これを求むるに、さらに人なし。ただ、死人の頭(かしら)一つあり。明くる朝(あした)になほこれを見るに、かの髑髏(どくろ)の目の穴より薄(すすき)なん一本(ひともと)生(お)ひ出でたりける。その薄の風に靡(なび)く音のかく聞こえければ、あやしく思えて、あたりの人に、このことを問ふ。ある人、語りていはく、『小野小町、この國に下りて、この所して命終りにけり。すなはち、かの頭、これなり』と言ふ。ここに業平、哀れに悲しく思えければ、涙を抑へつつ、下の句を付けけり。
小野とはいはじ薄生ひけり
とぞ続けける。その野をば『玉造(たまつくり)』と、男(をのこ)、言ひけり」とぞ侍る。
玉造の小町・小野小町と、同じ人かあらぬ者かと、人々、おぼつかなき事に申(まうし)て爭ひ侍りし時、人の語り侍りしなり。
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後の「愚見抄」(鎌倉時代の歌論書。作者不詳(伝藤原定家))に出るが、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」とは「秋風が吹くたびごとに! ああ、目が痛い! 目が痛いわ!」の意で、応じた業平の下の句「小野とはいはじ薄生ひけり」は表は「『小野』(美しい野)とは呼べるまい、かくも薄がさわに生い茂ってしまっているのだから」であるが、裏は「小野小町も最早、絶世の美女ではない、かくも薄の生い茂った荒涼とした場所に髑髏となって埋もれてしまっているからには」の謂い。因みにこの伝承は、後の謡曲「通小町(かよいこまち)」の元ネタとなる。同類の話は、「無明草子」(鎌倉初期の物語形式を採った随筆或いは最古の文学評論書。作者は通説では藤原俊成の娘越部禅尼(こしべのぜんに)とされ、建久七(一一九六)年から建仁二(一二〇二)年頃の成立と推定されている)にも載るので、そこを引いておく。但し、そこでも奇体な夢を見るのは藤原実方ではなく、同時代人の藤原道信(天禄三(九七二)年~正暦五(九九四)年:公家で歌人。従四位上・左近衛中将)とする説を添えている。
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それにつけても、憂(う)き世の定めなき思ひ知られて、あはれにこそはべれ。屍(かばね)になりて後(のち)まで、
秋風の吹くたびごとにあな目あな目小野とは言はじ薄(すすき)生(お)ひけり
など詠みてはべるぞかし。廣き野の中に薄の生ひてはべりける、かく聞こえたるなりけり。いとあはれにて、その薄を引き捨てはべりける夜(よ)の夢に、かの頭(かしら)をば、『小野小町と申す者の頭なり。薄の、風に吹かるるたびごとに、目の痛くはべるに、引き捨てたまひたるなむ、いとうれしき。この代はりには、歌をいみじく詠ませ奉らむ』と見えて侍りけるとかや。
かの夢に見たる人は、道信の中將と人の申し侍るは、まことにや。
誰(たれ)かは、さることあるな。色をも香をも心に染(し)むとならば、かやうにこそあらまほしけれ。
*
「誰(たれ)かは、さることあるな」の部分は「新潮日本古典集成」では、『〔小町以外の〕誰がこれほど徹し得ようか』と訳があり、「かやうにこそあらまほしけれ」の部分は『死後もこのようにありたいものですね』とする。
「愚見(クケン)抄」先の注を参照。私は所持しないので、ここに出る原文を紹介出来ない。
「二條の后(きさき)」藤原長良の娘で、清和天皇の女御で後に皇太后となった藤原高子(たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)。言わずと知れた、業平と恋愛関係にあったが、入内のために引き裂かれたとされる、「伊勢物語」のかの「芥川」の段の鬼に喰われる女のモデルである。
「おかし」「犯し」。略奪し。
「斗(はかり)ことに」「謀事(はかりごと)」が露見したため「に」、の謂いであろうか。
「出家せしか」出家して髪を断髪したが。無論、業平が出家した事実など、ない。高子の一件で、憤激した彼女の兄弟らに襲われ、髪を切り落とされたとも言われるから、それをかく言ったものであろう。
「髮をはやさん爲に」落語みたような理由づけで思わず笑ってしまう。
「陸奧の國八十嶋(やそしま)」不詳。現在の宮城県の塩竃或いは松島附近か。
「壒囊鈔(あいなうせう)」室町時代の僧行誉作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明する。「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて七百三十七条とした「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」二十巻(編者不詳。享禄五・天文元(一五三二)年成立)があり、近世に於いて「壒囊鈔」と言った場合は後者を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。
「古事」「故事」。
「先ツ」「まづ」。
「目より薄は生出(おひいで)にけり」「物夫(もののふ)の野邊に射失(スツ)る破(ヤレ)かふら」南北朝時代に撰集された連歌集「莬玖波集(つくばしゅう)」の「巻第十九 雑体連歌」に素暹(そせん)法師(これは法名で、俗名は東胤行(とうのたねゆき ?~文永一〇(一二七三)年?或いは弘長三(一二六三)年?:鎌倉時代の武将で歌人。源実朝に仕えた。承久の乱の功によって下総東荘(とうのしょう)の領主から美濃郡上郡山田荘の地頭となった。定家の子藤原為家に和歌を学び、その娘婿となって二条流の歌人として知られた)の作として載る。但し、
目より薄の生出でにけり
狩人の野へにいすつるわれかふら
の表記である(国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認)。「狩人」をも「もののふ」と訓ずるのはルビ無しでは至難の業。
「十佛」鎌倉末期から南北朝期の連歌師坂十仏(さかじゅうぶつ 弘安三(一二八〇)年或いは翌年頃か?~?)。「密伝抄」によれば「日本一和漢才学の者」とし、和歌にも堪能で、「新後拾遺和歌集」に入集、また、足利尊氏に「万葉集」を講じてもいる。医術を修得した医僧としても著名である。花下(はなのもと/地下)連歌の指導者善阿(ぜんな:「菟玖波集」に三十二句が入集(にっしゅう)しており、同集の編者救済(ぐさい)も彼の弟子である)の弟子であり、知的で巧妙な付合を得意とした。
「無下に」風流もなくひどい状態で。
「難しける」「難じける」。批難したという。
「小のゝ小町か集(しふ)に」「秋風の吹(ふく)につけてもあな目あな目小野とはいはし薄生(おひ)けり」神宮文庫蔵本「小野小町集」(奥書のクレジットは慶長十二年(一六〇七年))の本文の終わりは、
*
人のこゝろうらみ侍りける、比もさにやとそ
心にもかなはさりける世中を うき世にへしとおもひける哉
おなし比、みちの國へくたる人に、いつはか
りとひしかは、けふあすものほらんといひし
は
みちのくはよをうき島も有といふを 關こゆるきのいそかさるらん
なといひてうせにけり。のちを、いかにもす
る人やなかりけん、あやしくてまろひありき
けり
あはてかたみにゆきてける人の、おもひもか
けぬ所に、歌よむこゑのしけれは、おそろし
なから、より、きけは
秋風のふくたひことにあなめあなめ をのとはいはてすゝきおひけり
ときこえけるに、あやしとて、草の中をみれ
は、小野小町かすゝきのいとをかしうまねき
たてりける、それとみゆるしるしはいかゝ有
けん
冬、みちゆく人の、いとさむけにてもあるか
な、よこそはかなけれといふをきゝて、ふと
手枕のひまの風たにさむかりき 身はならはしのもにそありける
*
で終わっており(底本は所持する昭和四八(一九七三)年明治書院刊「私家集大成第1巻 中古Ⅰ」の一部を補正して示した)、この髑髏伝承の一首が載っている。「日本国語大辞典」の「あなめ」の項は、『小野小町の髑髏(どくろ)の目に薄が生え、「あなめあなめ」と言ったという伝説から)ああ目が痛い。また、ああたえがたい。あやにくだ。*小町集「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ小野とはなくし(てカ)薄おひけり」*江家次第―一四・御即位付后官出車「在五中将〈略〉到二陸奥国一、向二八十島一、求二小野小町尸一、夜宿二件島一、終夜有ㇾ声曰、秋風之吹仁付天毛阿部目阿部目、後朝求ㇾ之、髑髏目中有二野蕨一、在五中将涕泣曰、小野止波不成薄出計理、即斂葬」*袖中抄―一六「顕昭云、あなめあなめとはあな目いたいたと云也」*俚言集覧「あなめ〈略〉あなにくもあなめ、も如レ同の言故に重ねて義訓せるなり」』とある。「江家次第」では髑髏の目を抜けて生えるのは「薄」ではなく、「蕨」(わらび)であることが判る。私は蕨の方がより印象的な絵になる気がする。
『「古今(こきん)」の註にて、『「悲々」と書(かき)て「アナメアナメ」と讀(よむ)』と註せり』『「是は彼(かの)小町、死(しし)て後(のち)、よめる歌なり」とあり』孰れも引用原典不詳であるが、一つの可能性として『「古今(こきん)」の註』というのは、現在、九州大学蔵の中世の「古今和歌集序秘注」という書物を指しているのかも知れない。小田幸子氏の論文「変貌する小町」(グーグルブックスのここで視認した)によれば、この書は謡曲「卒塔婆小町」のモチーフの元となった記載があるとし、そこでは古い卒塔婆に腰掛けた小町を弘法大師が説教するというブットビの内容らしい。
「平安誌」京都の地誌らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。
「市原野ゝ出(いで)はつれに」市原野を抜け出た外れの辺りに。
「小野ゝ小町が乞喰(こつじき)せしおりの枕石とて有りし」「乞喰(こつじき)」は「乞食」と同じで物乞い。小町への「百夜通い」の伝説で知られる深草少将は、九十九日目の夜、大雪の中で凍死してしまうが、その後、小町は少将の怨霊にとり憑かれて物狂いとなり、乞食の老女となったとする伝承がある(これを受けた謡曲が「卒都婆小町」・「通小町」である)。「枕石」は不詳だが、現在の京都府京都市左京区静市市原町附近にあったのであろう。ここには小野小町終焉の地と伝える、天台宗補陀洛寺、通称「小町寺」がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
『市原野に「あなめ塚」といふあり』この呼称は今はない模様だが、前の補陀洛寺には、現在、小町の供養塔や小町姿見の井戸などの遺跡、さらには亡骸(なきがら)から生えたという薄(!)まである(ここでは問題の薄髑髏伝説のロケーションはまさにこの寺にセットされてあるのである)と観光案内にはあるから、この境内の供養塔附近か、寺周辺にあった古墳を指したのであろう。
「關寺」(せきでら)は「世喜寺」とも書き、かつて近江国逢坂関の東(現在の滋賀県大津市逢坂二丁目付近)にあった寺。ウィキの「関寺」によれば、現在は廃絶してないが、現在、長安寺(ここ(グーグル・マップ・データ))という寺は、その跡地に建てられているとする説がある。『創建年次は不明であるが』、貞元元(九七六)年の『地震で倒壊したのを』、『源信の弟子である延鏡が、仏師康尚らの助力を得て』万寿四(一〇二七)年に『再興した。その時、清水寺の僧侶の寄進によって用いられた役牛の』一『匹が迦葉仏の化現であるとの夢告を受けたとする話があり、その噂を聞いた人々が件の牛との結縁を求めて殺到し、その中に藤原道長・源倫子夫妻もいたという。そして、その牛が入滅した際には源経頼が遭遇したことが』「左経記」(万寿二年六月二日の条)に見え、その後、菅原師長が「関寺縁起を『著した(なお、長安寺には牛の墓とされる石造宝塔が残されて』いる)。『また、倒壊前には老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり』、これが謡曲「関寺小町」として『伝えられている。また、同寺に安置されていた』五丈の『弥勒仏は「関寺大仏」と呼ばれ、大和国東大寺・河内国太平寺(知識寺)の大仏と並び称された。南北朝時代に廃絶したと言われている』とある(下線やぶちゃん)。
「おはる迄身をは身こそは思ひしれみつからしつる野邊の野送り」伝承歌の類い。整序すると、
終はるまで身をば身こそは思ひ知れ自らしつる野邊の野送り
か。小町の辞世と伝えるものは他に、
あはれなりわが身の果てや淺綠(あさみどり)つひには野べの霞と思へば
我死なば焼くな埋づむな野にさらせ瘦せたる犬の腹を肥やせよ
最後のトンデモない一首を凄絶として称揚する者がネットには多いようだが、野狐禪のなまぐさ坊主か、底の浅い武将の下手な辞世みたようで、私は反吐が出るほど厭だ。寧ろ、このおぞましいそれは「九相詩絵巻」を長歌と見立てた、糞坊主の所産と見た。三坂の引くそれも下の句の「自らしつる野邊の野送り」が夢幻を今一つ捩じっていていいが、上の句が観念的なのが残念だ。一首の全体が自然の中に溶け込んで原子にまで分解して消えていく映像の体(てい)として私は「あはれなり」の一首を採る。
「弘法大師、此野に分入(わけいり)、此歌をみて」この伝承では空海は小野小町の後の世に生きている点でパラレル・ワールド! いやいや、空海は今も高野山で生きているんでしたね、はい。
「世の中に秋風たちぬ花薄まねかはゆかむ野へも山へも」整序すると、
世の中に秋風立ちぬ花薄(はなすすき)招かば行かむ野へも山へも
と、弘法大師さまでもお怒り遊ばすであろう、採りどころの滓もない如何にもな近世人しか詠みそうにない超駄歌である。
「さかし」「探し」。
「とくろ」「髑髏(どくろ)」。
「ひろい」「い」はママ。「拾ひ」。
「なき人のいかなる草のかけにおりて今うちならす鐘をきくらん」整序すると、
亡き人の如何なる草の蔭に下(お)りて今打ち鳴らす鐘を聽くらむ
分解した各句の表現は西行の歌句にはあっても、この一首総体は西行の歌にはないと思う。
「十八、九斗(ばかり)の女、あらはれ、この歌をよみ、失せける」伝承や「玉造小町壮衰記」やら謡曲なんどで、彼女を醜怪な老婆や髑髏に変じさせるのには飽き飽きしている。三坂が最後にかく映像を出してくれたことに私は感謝している。
「聞そとよ此野ゝ草の影にをりて今打(うち)ならすかねの一こゑ」初句は「きけぞとよ」と読むか。和歌嫌いの私には判らぬ。識者の御教授を乞う。]
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