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2017/09/05

北越奇談 巻之六 人物 其三(僧 良寛 他)

 

    其三

 

[やぶちゃん注:改行はほぼ原典に従ったが、良寛(ここでは「了寛」とする)の事蹟部分は万元和尚に続いているのを、私が恣意的に改行した。弘智法印の辞世歌は前後を一行空けた。]

 

 玄翁(げんおう)和尚、伊夜日子(いやひこの)山下(さんか)、箭矧村(やはぎむら)の産なり。野州奈須野ヶ原(なすのがはら)殺生石を咒(しゆ)して、打碎(うちくだき)たる各僧にして、世(よ)、普(あまね)くこれを知る。

 僧(そうの)友梅(ゆうばい)【百鳥郷の人。】。逆水(ぎやくすい)和尚【頸城郡の人。】。宗(ぜつさう)和尚[やぶちゃん注:「」=「絶」の「糸」を「彳」に代えた字。]【古志の人。只シ、此二僧は近世也。】。弘智法印【即身佛と稱す。】、野積濱(のづみのはま)海雲山(かいうんざん)岩坂(いはさか)に寂す。

 

  辭世 岩坂のあるじは誰(たそ)と人問(とは)ばすみ繪にかきしまつ風(かせ)の音

 

 万元(まんげん)和尚、是は越國(ゑつこく)の産にあらずと雖も、雲上山國上寺中興にして、即(すなはち)、此山に寂す。實(じつ)は皇都の産にして、やんごとなき御種(みたね)にわたらせたまふよし。即、自述(じじゅつ)に「旅の寢覺(ねざめ)」と云へる書あり。其始にあらましを記し給へり。甚(はなはだ、麗雅なる文躰(ぶんてい)にして、奇説、尤(もつとも)多しと雖も、入寂の後(のち)、誰(たれ)ありて、梓(あづさ)に上(のぼ)する者もあらず。誰渠(たれかれ)がもとに、其草稿の写(うつし)のみ殘れり。が家にも、即(すなはち)、元(げん)和尚自筆の草稿一册を祕藏せり。追(おつ)て書林にあらはさんと欲す。扨、元和尚、博學大徳(だいとく)、詩を賦し、和歌を詠し、且、滑稽を好んで狂哥俳諧を、よくす。生涯の奇事、甚(はなはだ)、多し。即(すなはち)、國上山阿弥陀堂を建立し、山中淸寥(せいりやう)の地を撰(えら)んで隱居せり。名付(なつけ)て「五合庵」と稱す。松竹(しようちく)、綠(みどり)を交(あじ)へ、石徑(せきけい)、苔厚く、遙(はるか)に人跡を隔(へだて)て、誠に遠公(えんこう)・支遁(しとん)が興(きよう)、可ㇾ知(しるべし)。

 扨(さて)、かの五合庵に近頃、一奇僧を住(じう)す【了寛道僧(りやうくわんどうそう)と号す。】。人、皆、其(その)無欲、淸塵外施俗(せいじんぐはいせぞく)の奇を賞する所なり。即(すなはち)、出雲崎(いづもざき)橘氏(たちばなうじ)某(それがし)の長子にして、家、富(とみ)、門葉(もんよう)、廣し。始【名は文孝(ぶんこう)。】、其(その)友【富取・笹川・彦山。】等(とう)と共に、岑子陽(しんしやう)先生に學ぶこと、總(すべ)て六年、後(のち)、禪僧に隨(したがつ)て、諸國に遊歴す。その出(いづ)る時、書を遺して中子(ちうし)に家祿を讓り去つて、數年(すねん)、音問(おんもん)を絶す。後、海濱、郷本(さともと)と云へる所に空菴(くうあん)ありしが、一夕(いつせき)、旅僧(りよそう)一人、來つて隣家(りんか)に申し、彼(かの)空菴に宿(しゆく)。翌日、近村に托鉢して、其日の食に足る時は、即、歸る。食、餘る時は、乞食(こつじき)・鳥獸(ちやうじう)に分かち與ふ。如ㇾ此(かくのごとき)事、半年(はんねん)、諸人(しよにん)、其奇を稱し、道徳を尊(たつと)んで衣服を送る者あり。即(すなはち)、受けて餘るもの、巷(ちまた)の寒子(かんし)に與ふ。其居(きよ)、出雲崎を去ること、纔(わづか)に三里。時に、知る人、在(あり)、「必(かならず)、橘氏某(それがし)ならん」ことを以(もつて)、が兄、彦山(ひこやま)に告ぐ。彦山、即(すなはち)、郷本(さともと)の海濱に尋(たづね)て、かの空菴を窺ふに、不ㇾ居(おらず)。只、柴扉(さいひ)、鎖(とざす)ことなく、薛羅(へきら)、相纏(あひまと)ふのみ。内に入(い)りて是を見れば、机上(きしよう)、一硯筆(いつけんひつ)、炉中(ろちう)土鍋一あり。壁上(へきしやう)、皆、詩を題しぬ。これを讀(よむ)に、塵外仙客(じんぐはいせんかく)の情(じよう)、自(おのづか)ら胸中(きようちう)清月(せいげつ)の想(おも)ひを生ず。其筆跡、紛(まが)ふ所なき文孝なり。然(しか)ば、是を隣人に告(つげ)て歸る。隣人、即(すなはち)、出雲崎に言(こと)を寄(よす)。爰に家人(かじん)、出て來り、相伴ひ歸らんとすれども、了寛、不ㇾ隨(したがはず)。又、衣食を贈れども、「用ゆる所なし」として、其餘りを返す。後(のち)、行く所を知らず。年を經て、かの五合庵に住す。平日の行ひ、皆、如ㇾ此(かくのごとし)。實(じつ)に近世の道僧なるべし。

 

[やぶちゃん注:「玄翁(げんおう)和尚」源翁心昭(げんのうしんしょう 元徳元(一三二九)年~応永七(一四〇〇)年)は南北朝時代の名(禅)僧。源翁能照・玄翁玄妙とも称した。法王(翁)大寂禅師と号した。越後西蒲原郡弥彦村矢作(やはぎ)の住人加茂太郎左衛門尉義連の子(源義綱(平安後期の武将源頼義の次男で八幡太郎義家の実弟であったが彼と対立し,京都で合戦に及ぼうとして朝廷を驚かせた。天仁二(一一〇九)年に彼の三男義明が義家の子義忠殺害の罪で追討され、長男義弘らは自殺。義綱は佐渡に流され、長承三(一一三四)年(一説に元年)に追討を受けて自殺した)の末裔とされる)で五歳で寺に入り、十六歳で剃髪、十八歳(一説に十九歳)の時、能登の曹洞宗総持寺にあった道元の高弟峨山韶碩(がざんじょうせき)に学び、その法を嗣いだ。正平一二/延文二(一三五七)年、伯耆八橋(やはし)郡に保長氏の援助で退休寺を開き、三年後には下野那須郡に泉渓寺を、建徳二/応安四(一三七一)年に下総結城に結城朝光の助力を得て安穏寺(あんのんじ)を、更にその三年後には会津耶麻(やま)郡に慶徳寺を、翌年には白河に常在院を開いたりなどした。また、その後の元中二/至徳二(一三八五)年八月には、人畜を害するとされた那須の殺生石を破砕して妖怪を去らせたと伝える。この功績によって翌年に後小松天皇より先の号を賜ったとされる。建長五(一二五三)年に帰郷、父の菩提を弔うために一寺を建立、後、安穏寺て示寂した(以上は「日本大百科全書」や野島出版補注他に拠った)。

「伊夜日子(いやひこの)山下(さんか)、箭矧村(やはぎむら)」弥彦山から南東の一帯で、現在は新潟県西蒲原郡弥彦村矢作(やはぎ)地区及び燕市の一部。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「友梅(ゆうばい)」鎌倉末から南北朝にかけての臨済宗の禅僧雪村友梅(せっそんゆうばい 正応三(一二九〇)年~貞和二(一三四七)年)。ウィキの「雪村友梅」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『父は越後の土豪・一宮氏(源姓)、母は信濃須田氏(藤姓)。正応三年(一二九〇年)越後白鳥にて生まれる。幼少の頃、鎌倉に出て建長寺の一山一寧に侍童として仕える。元朝からの帰化僧である一寧から唐語や彼の地の様子を教えられたと思われる。のち比叡山戒壇院で受戒、つづいて京都建仁寺に入門した』。『まもなく徳治二年(一三〇七年)十八歳の時、渡海して元へ赴く。二年ほど大都(北京)周辺を見て回り、元叟行端・虚谷希陵・東嶼徳海・晦機元煕・叔平隆などに参ずる。しかし日元関係の悪化に伴い、日本留学僧は間諜(スパイ)と見なされたため』、『獄に繋がれ』、『叔平も雪村を匿った罪で逮捕され、獄死した。雪村も危うく処刑されかけたが、とっさに無学祖元の臨剣頌を唱えたため、気圧された処刑官が、死罪を延期し、処刑を免れた。以後、江南地域ではこの臨剣頌が、祖元ではなく雪村の作であると伝わったということが、数十年後』、『同地を訪れた中巌円月によって記録されている』。『死一等を免ぜられて長安に流され、三年後には四川の成都に改めて流謫され、その地で十年を過ごす。この間、さまざまな経書・史書などを学び、一度暗記したページはちぎって河へ捨てたという。 大赦により許された後、長安に戻り』、『そこで三年を過ごす。この頃より帰国の念が募ったが、請われて長安南山翠微寺の住職となり、元の朝廷から「宝覚真空禅師」の号を特賜された』。『元の天暦二年(日本では元徳元年、一三二九年)五月、商船に便乗して博多へ帰朝。新たに日本へ来朝した明極楚俊・竺仙梵僊らや、同じく帰朝した天岸慧広・物外可什らと同船していた。その後鎌倉へ戻り、翌年には師一山の塔である建長寺玉雲庵の塔主となる』。『その後元徳二年(一三三一年)、信濃諏訪神社の神官で豪族である金刺満貞に招かれ、信濃へ赴く。また同地の神為頼に請われて徳雲寺開山となる。さらに翌年には京都の小串範秀という武士に招かれ、嵯峨の西禅寺住職となる。また建武元年(一三三四年)には豊後大友氏に招かれ、府内の万寿寺に転じ、三年住した。ふたたび京都へ上り栂尾に隠棲したが、播磨守護赤松円心が小串範秀の推薦を受け、円心が建立した法雲寺の開山として招く。紅葉に映える千種川の清流をかつて幽囚されていた蜀(成都)の錦江になぞらえ、山号を金華山とした』。『暦応三年(一三四〇年)足利尊氏・直義兄弟は、京都の万寿寺の住職として雪村を招請したが、雪村は病気(中風)により再三固辞する。しかし数年にわたる円心の熱心な願いに折れ、康永二年(一三四三年)八月』、『ついに万寿寺の住持となった。ただしわずか一年で辞し、翌年には東山の清住庵に移り住んだ。この頃より中風の症状が重くなり、摂津有馬温泉で療養している』。『しかし、貞和元年(一三四五年)二月、今度は朝廷によって建仁寺の住持を命じられ、就任。盛大な入山式が執り行われ、雪村の名声により宗儀は大いに振るった。翌年十一月』、『法兄の石梁仁恭の十三回忌法会の導師を務めるが、楞厳呪第五段の焼香三拝に至って右半身不随となる(脳卒中による麻痺か)。朝廷や武家が派遣した医師や薬をすべて断り、十二月二日』、『遺偈を左手で書こうとしたが、うまく字にならず、怒って筆を投げつけ、周囲が墨だらけになる中、示寂した。享年五十七』。『五山文学の最盛期にあって中枢となった僧であり、詩文集としては、在元時代の詩偈を編んだ「岷峨集」や帰朝後の詩文・語録集として「宝覚真空禅師語録」がある』とある。

「百鳥郷」野島出版補註によれば、彼の出生地は三島郡関原町(せきはらまち)字白鳥(しらとり)とする。現在の新潟県長岡市白鳥町。ここ(グーグル・マップ・データ)。原典はルビが黒く潰されていることなどから、「白鳥」の誤記であろう。

「逆水(ぎやくすい)和尚」野島出版補註は『不詳』とするが、禅文化研究所刊「近古禅林叢談」(一九八六年刊)のこちらの目次に「逆水和尚」の名を見出せる。また、「つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉」の「洞流」の項に、生年を天和四(一六八四)年とし、明和三(一七六六)年没とする江戸時代に曹洞宗の優れた学僧で、号は逆水、名は洞流。禅戒や清規、衣法の参究史に名を残すとあり、出身地を越後国、俗姓を水島氏とし、『越後に生まれた逆水は、香積寺の大濤寛海の下で剃髪出家』、享保九(一七二四)年に『大乗寺で首座を務めた。法を智灯照玄に嗣ぐと』、享保一三(一七二八)年『に勅を奉じて永平寺にて瑞世している』。享保十五年には『香積寺の住持となると、近江覚伝寺、武蔵竜淵寺、三河渭信寺などに住し』、寛延三(一七五〇)年の『春、大乗寺の住持として開堂している』。五年住持をした後、宝暦七(一七五七)年『夏、越後観音院に住すると、翌年には徳泉寺を草創し、晩年には信濃護国庵に退院して、その地で示寂した』とある。この僧であろう

宗(ぜつさう)和尚」(「」=「絶」の「糸」を「彳」に代えた字)同前で、同書の目次に「絶宗和尚」の名ならばある現在の新潟県五泉市五十嵐新田にある曹洞宗瑞祥寺は安永三(一七七四)年に無学絶宗(むがくぜっしゅう)和尚を開山としており、他の記載を見ると、曹洞宗では有名な僧で越後出身とあるから、恐らくはこの禅僧であろうと思われる。

「弘智法印【即身佛と稱す。】」既出既注であるが、改めて注しておく。弘智(?~貞治二/正平一八(一三六三)年)は十四世紀の行者で、現存する最古の即身仏(木乃伊)として知られる。新潟県寺泊町野積の西生寺(ここ(グーグル・マップ・データ))に祀られており、下総国山桑村(現在の千葉県八日市場市)で生まれ、高野山で学んだ後、故郷大浦の蓮花寺に住した。後、諸国行脚の旅に出て、西生寺に草庵を結んだ。最期は死骸を埋めないよう遺言し、草庵で入定して即身仏となった(鈴木牧之「北越雪譜」の「巻之四」の「弘智法印」の条に即身仏の図とともに記載がある)。弘智は、後の江戸時代の出羽湯殿山の即身仏のように生きながら土中に入って断食死したというような土中入定伝説を持たない点で、高野山の空海入定伝説の影響が強い存在である(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「野積濱(のづみのはま)海雲山(かいうんざん)岩坂(いはさか)」野島出版補註に弘智は『高野山に密観をこらすこと数年、更に幽寂の地をもとめて行脚中』、たまたま『野積の地を卜して、奥の院、不動滝岩坂という処に、草坊を建てゝ養智院と号し、ひたすら禅定をこらされたが、長治二年十月十二日(二〇五年)入定された』とある。

「万元(まんげん)和尚」国上寺五合庵境内に墓のある、同寺中興の名僧萬元慧海(万治二(一六五九)年~享保三(一七一八)年)。野島出版補註に『俗姓は広橋氏、和泉国、吉野郡宮上部郷の人』とし、『吉野朝忠臣の後裔で、母は佐野氏、高貴の御種とも伝えられている。十六才』で『比叡山に登り、僧正憲海に投じて出家した。後』、『越後に来て国上寺の荒廃をなげき、寝食を忘れてその復興に尽くした。万元は国上寺の住職ではなくて一客僧だったので』、貞享四(一六八七)年、万元の労に報いるため、寺は小庵を建てて彼に贈り、日に米五合を給したことから、万元はこの庵を「五合庵」と名付けたという(ここはこちらのページを参照した)。後、巡錫中の『新潟の信徒町田津右ヱ門方に』於いて『示寂した』とある。六十才。本文に出る国上寺阿弥陀堂落慶の二ヶ月前のことであったという(後に出すTohgaku Nakamura 氏のサイト「良寛様のゆかり」の「国上 五合庵境内万元上人之墓(墓碑)」の案内板電子化に基づく。この本堂(阿弥陀堂)を建立している間、長きに亙って本尊阿弥陀如来及び脇侍等を安置していた大師堂を「御仮堂」とも称したが、野島出版補註は、その『御仮堂の棟札には、宝永八年次辛卯仲夏大吉辰 敬白と書いてあるから、建立はその頃であろう。約二百五十年前である』と記されてある。宝永八年は一七一一年であるから、本堂完成にはそれからまだ七年がかかったことが判る)。国上寺公式サイト内のこちらの「戦国時代と万元和尚」には(アラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)、

   《引用開始》

戦国時代、織田信長が延暦寺を焼き討ちしたように、当寺も何度か焼き討ちにあいました。万元和尚は大和国吉野郡の出身で、比叡山延暦寺で天台宗の修行を終え、二十六、二十七歳で諸国行脚に出て佐渡に渡ろうとしましたが海が荒れて断念し、旧知であった国上寺良長住職を訪ねておいでになりました。

そこで万元和尚が目にしたものは、無残にも荒れ果てた境内でした。本堂も焼け落ちていたそうです。見かねた万元和尚は「私に協力させてほしい」と願い出て、越後の隅から隅まで三十年という年月をかけて托鉢しました。その間に住んでいたのが五合庵です。五合庵は良寛で有名となりましたが、初代住人は万元和尚なのです。

現在の本堂は四度目の再建で、万元和尚が托鉢した浄財を元に建設したものです。

万元和尚は新潟へ托鉢に向かう途中で病に倒れ、本堂の完成を見ることなく亡くなりました。没後、故人の遺志でお墓を五合庵脇に建立しました。

旧分水町石港の新信濃川右岸の「夕暮れの岡」に祠と万元和尚の歌碑があります。

「忘れずは 道行きぶりの 手向けをも ここを瀬にせよ 夕暮れの岡」 

万元和尚は国上寺の中興の祖といわれております。御本尊参拝の折はその遺徳をお偲びください。

   《引用終了》

とある。日に五合は一般人のそれにしても、況や、禅僧の糧食の量としても多過ぎる。Tohgaku Nakamura 氏のサイト「良寛様のゆかり」の「国上 五合庵境内万元上人之墓(墓碑)」の解にも、毎日、米五合という量は、現在の度量衡からすると少なくはない。そのため、「万元和尚が生きた時代の五合は現在の十分の一であった」と説明されることがあるようだが、万元が生きた時代と現在の度量衡には十倍の差はないから、『何か別の趣意があって』『万元は「五合庵」と名付けたのではないかと』『考えたい』と記しておられる。同感である。なお、同ページには万元は『公卿の御落胤とも伝えられる』ともある。

「旅の寢覺(ねざめ)」野島出版補註では、貞享四(一六八七)年の著作とし、『半生の回顧録、諸国の奇蹟、異風、人情、人物など。四〇〇字詰原稿にして二十八枚』とある。また、外に万元の『著書の主なるもの』として、「寝寤物語」「吾妻の通の記」「野路の杖」「春の日の永物語」「春の夜の独り言」「末の露」「越の雪」「形見道中記」を挙げてあり、万元の文才が窺われる。先に示したサイト「良寛様のゆかり」の「国上 五合庵境内万元上人之墓(墓碑)」に載る案内板の電子化にも、万元は国上寺中興に心血を注ぐ一方で、『民政の調停にも意を注ぎ』、また、『「野路の杖」などを著して地方文運の興隆に資する面も多かった』とある。

「追(おつ)て書林にあらはさんと欲す」やはり、残念ながら存在しない。崑崙の著作はこの「北越奇談」全六巻のみしか知られていない。実に惜しい。

「元和尚」万元和尚。

「五合庵」野島出版補註に(踊り字は正字化した)、『国上寺の所蔵。敷地百三十八坪、建坪四坪五合。大正三年七月二十三日、古文書を参考にして、国上寺住職故石橋門阿師が改築したのが現在の建物である』。『万元和尚の書いた「題五合庵壁並引」によれば(原漢文)、『前略久賀美寺の貫主良長僧都は、幸にして知己の老僧なり。故に吾がけいけいけつけつを見て哀憐益々深く親しく飯を分ち、衣を省き、慰養すること玆に年あり。貞享の末、蕉蘆を寺院の傍に修し、吾をして之れに居らしめ、毎日、粗米五合を寄せて頭陀の労を扶く仍って以て号となす』とあり、『室の広さを万元和尚は』、『筵は八畳にして膝を容れて広く、棟は尋尺にして首豈に障らんや』と記しているとあるから、この謂いからはやはり「五合」は扶持米のことのごとく読めるが、まず、或いは、その身を縮めて入れるだけの広さ(狭さ)の「五合」、一・三二平方メートルを言っているのではあるまいか? 無論、皮肉ではない。禅の無一物無尽蔵から言えば、その狭い空間こそが、真の自身のこの世の在り所という謂いでである。大方の御叱正を俟つ。

「遠公(えんこう)」先行する巻之三 玉石 其二十三(廬山石)の「虎溪(こけい)」で注した中国仏教界の中心人物の一人である東晋期の廬山に住んだ高僧慧遠(えおん 三三四年~四一六年)。雁門郡楼煩県(現在の山西省寧武県)出身。ウィキの「慧遠(東晋)」によれば、二十一歳の頃に『釈道安の元で出家した。道安に随って各地を転々としたが、襄陽に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて南下し、湖北省の荊州上明寺に移った』。『その後、江西省の潯陽に至って廬山に入り、西林寺、のち東林寺に住した。それ以後』三十『年余り、慧遠は一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる』(先行する「巻之三 玉石 其二十三(廬山石)」の「虎溪」の注を参照されたい)。ここはまさに、その結界と同時に、「虎渓三笑」のような自在な風狂の一面をも言ったものであろう。

「支遁(しとん)」(三一四年~三六六年)は同じく東晋の名僧。格義仏教の代表的人物。ウィキの「支遁」によれば、『父祖の代からの仏教徒であり、幼い頃に已に西晋末の華北の動乱を避け、江南に移り住んでいたが』、二十五歳で出家し、「道行般若経」などの『教理研究に専心した。また、老荘思想や清談にも精通しており』、「荘子」の「逍遥遊篇」に注釈を加えて、独自の見解を述べてもいる。『その後、江蘇の支山寺に入ったが、王羲之の要請によって会稽(浙江省)の霊嘉寺に移った。以後も、各地で仏典の講説を行い、弟子百人あまりを率いていた。哀帝の招きにより、都の建康に出て、東安寺で』「道行般若経」を『講ずるなどした。王羲之のほか、孫綽・許詢・謝安・劉恢らの東晋一流の文人らと交遊した』。彼は『「即色遊玄論」「聖不弁知論」「道行旨帰」「学道誡」「釈朦論」「切悟章」「弁三乗論」等を残したと、梁の慧皎の』「高僧伝」『では伝えている。また、彼の文集として「文翰集」』十巻があったという、とある。学究肌の高僧で、文人との交流があり、「荘子」の独自解釈をするなどという辺りに万元を擬えたか。

「了寛」良寛の誤り。言わずもがな、江戸後期の曹洞宗の僧で歌人・漢詩人であった知られた良寛(宝暦八(一七五八)年~天保二(一八三一)年)。越後出雲崎の名主橘屋山本左門泰雄(伊織。号は以南)の長男として生まれた(名は栄蔵、後に文孝。字は曲(まがり))。安永四(一七七五)年或いは同九年に出家し、大愚良寛と名乗った。曹洞宗光照寺から備中玉島の円通寺に行き、国仙和尚のもとで十二年ほど修行し、国仙の死後、諸国行脚をして帰国。国上山五合庵、国上山麓の乙子神社境内の草庵などを転々としつつ、和歌に親しんだ。歌風は平明率直な万葉調で、約千二百首が残えい、長歌も知られる。中央歌壇との交渉がなく、生前は一般には知られなかったが、近代(特に明治末期から大正期)、遅まきながら、評価が高まった。和歌の他、漢詩や書にも優れた。老衰のため、三島郡島崎村(現在の長岡市島崎)の豪商能登屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受け、文政九(一八二六)年には、若い貞心尼が弟子入りし、師弟の交情厚く、贈答歌も多く、没するまで密接な交遊があった。天保二年正月六日、そこで没した。以上はアカデミストのために諸辞書の記載を参照して記したが、ウィキの「良寛」も詳しい。

「淸塵外施俗(せいじんぐはいせぞく)」意味不詳。「塵外にありて淸たり」(塵埃に満ちた俗世間を完全に外に離れたような清い世界に生き)而してそれを「俗に施(おこな)ふ」(巷間に現前させている)の意か? 識者の御教授を乞う。

「橘氏(たちばなうじ)」前に記した通り、屋号。崑崙の姓は「橘」であるが、無関係と思われる。

「文孝(ぶんこう)」野島出版脚注に『良寛は少年時代、地蔵堂町に漢学塾を開いていた大森子陽の門下生となった。文孝はその頃の名。崑崙の兄彦山(げんざん)は同門であったので、其の名を知っていた』(底本では「文孝」に「」傍点)とある。

「富取」野島出版脚注に『富取(とみとり)は地蔵堂町大庄屋』『富取武左ヱ門』。『号』は『正誠』とある。

「笹川」野島出版脚注に『笹川は……』とのみあるので、不詳らしい。

「彦山」野島出版脚注に『崑崙の長兄』とある。野島出版版の最後の解説は、大森子陽や良寛との関係について、非常に詳しく書かれている。必読。

「岑子陽(しんしやう)先生」大森子陽(元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は思文閣「美術人名辞典」によれば、『江戸中・後期の儒者。越後の人。北越四大儒の一人。良寛の師。諱は楽、号は狭川、時に姓を森、又は岑と称した。』初め、『永安寺大舟和尚に』、後、『江戸に出て』、『山口藩儒滝鶴台・細井平洲等多くの儒者に学ぶ。帰国して郷里西浦郡地蔵堂に学塾三峰館を開く。良寛はここで漢学の基礎を学んだ。のち羽前鶴岡にも学塾を開き、士族庶民を問わず子弟を教育し、有能な士を数多く輩出した』とある。野島出版補註によれば、『明和四年(一七六七)父の病重きため』、『帰郷して地蔵堂に開塾。良寛が子陽門下となったのは明和五年(十一才)から安永二年(十六才)に至る六年間と推定される』とある。

「中子(ちうし)」野島出版補註に『二男由之(ゆうし)』とある。

「郷本(さともと)」野島出版補註に『郷本は寺泊の南約一里、日本海の沿岸。空庵の跡は、同地曹洞宗玄徳寺の下、県道の西方海中十メートルの処にある』とある。新潟県公式サイトの「郷本空庵跡によれば、『当時の海岸線は現在よりもだいぶ沖合に延びていたので、良寛の利用した塩焚き小屋も空庵跡の碑よりも』五十メートル『ほど先の砂浜にあった』とある。同サイト内の案内マップ(PDF)から推測すると、中心辺り(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「半年(はんねん)……後(のち)、行く所を知らず。年を經て、かの五合庵に住す」野島出版補註はこの「半年」の部分に注する形で、『良寛の帰国は寛政七年秋と推定される。半年過ぎた年は寛政八年の春に当たる。此の年から五合庵に入ったことになるから重要な記録である』(寛政七年は一七九五年)とするのであるが、これは本文からはそうは読めない郷本の苫屋の庵から姿を消して暫く行方不明となり、それから有意に「年を經て」後にまた飄然と国上寺に現われ、「かの五合庵に」現われて住したのである。これは二、三年は言うに及ばず、最低でも五年以上は経過している謂いであろう。因みにウィキの「良寛によれば、良寛の五合庵入庵は四十八歳とし、これは文化二(一八〇五)年に当たるから、寛政七年からは実に十五年、実に表現に相応しいではないか。

「寒子(かんし)」野島出版補註に『貧乏人』とある。

「薛羅(へきら)」野島出版補註に蔦(つた)や蔓(かづら。或いは「葛」)とある。

「塵外仙客(じんぐはいせんかく)」野島出版補註に『俗世間から遠ざかった仙人』とある。

「其筆跡、紛(まが)ふ所なき文孝なり」野島出版補註に『彦山は子陽の下で』一緒『に居たから、文孝の筆跡がわかったのである』とある。

「家人(かじん)」出家前の良寛の親族を指す。]

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