老媼茶話 鬼九郎左衞門事(蛟を仕留める)
鬼九郎左衞門事
天文のころ、大内家の士に世良(せら)九郎左衞門といふ大力量の武士有(あり)。其頃、長門國わたり河といふ所に住す。
その渕に大成渕といふ、ふち有。或とき、其渕、血になりて、水底(すいてい)に、うめく聲あり。
「何樣(なにさま)、大蛇なるへし。」
と人民、群集(ぐんじゆ)せり。世良、思へらく、
『吾、大力武勇の名を傳(つたへ)て、ふちの底なる聲をたゝさすは、人、嘲(あざけ)りも有るへし。』
とて、刀を拔(ぬき)て渕へ飛入けれは、大蛇、紅(くれなゐ)の舌を出(いだ)し呑(のま)んとす。
九郎左衞門、二(ふた)太刀さして水上にうかみいで、息をつき、こしに綱を付(つけ)て、又、水裡(みづのうち)へ入、大蛇にゆひ付くがより、引揚(ひきあげ)見るに、五十間はかりの大蛇、手あし、四ツ有、血をはく事、やます。
仍(よつ)て、すたすたにきり、はらのうちをみれは、人を呑たりとみへて、白骨、少々殘り、にくは、なし。
刀と脇差、有、刀、さやを拔(ぬけ)て、背中江つき通り、脇さしも拔て、みつから、はらはたを突(つき)やふりて有けり。
其刀は來國俊(らいくにとし)の名劍なり。
則(すなはち)、大内よしたか公へたてまつりけれは、「大蛇國俊」と號せられ、重寶となる。
世良にはろく給りて、
「蛇をとるものは鬼より外(ほか)有まし。」
とのたまひて、則、鬼九郎左衞門と受領せられけり。
[やぶちゃん注:前話の「釜渕川猿」とロケーションも近く、しかも戦った相手は淵の妖獣、その褒美に貰ったのも来派の名剣で、内容も強い親和性を持っている。これは確信犯で連関して並べていることが一目瞭然であり、三坂の連続性を期した編集方針が見てとれる。出典は不詳。
「鬼九郎左衞門」「世良(せら)九郎左衞門」不詳。
「天文」一五三二年~一五五五年。但し、大内義弘(次注参照)の存命中であるから、天文年間であるなら、天文二十年九月一日(義弘没日)よりも以前となる。
「大内家」後に出る通り、室町時代末期の大名大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)。享禄元(一五二八)年父義興から家督を継ぎ。周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の七ヶ国の守護を兼任、少弐・大友・尼子氏らと戦って勢力を張り、天文五(一五三六)年には彼の献資によって後奈良天皇は即位式を上げ得た(その功によって大宰大弐に補任されている)。また対明・対鮮交易に努め、貿易の利を得る一方で、「一切経」「朱氏新註」などの書物や文化財を蒐集し、それらを大内版として開版した。京都の難を避けた公家・僧侶を保護・厚遇し、同十九、二十年には渡来したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許し、西洋文化の輸入に努めるなど、文化の発展にも大いに貢献した。しかし、家臣陶晴賢(すえはるかた)の反乱によって長門深川の大寧寺で自害すた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「長門國わたり河」「わたり河」は渡川で、現在の山口県阿武郡阿東町生雲東分と推定される(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここには大内氏の山城渡川城があった。
といふ所に住す。
「大成渕」「おほなりぶち」と訓じておく。
「たゝさすは」「糺さずば」。
「水裡(みづのうち)」私の推定訓読。
「ゆひ付くがより」「結ひ付くがより」。「より」は格助詞で「~するやいなや」の意。
「五十間はかり」約九十一メートルほど。蟒蛇(うわばみ)である。しかも手足四肢を備えているというのだから、龍の一種、蛟(みずち)と見える。
「すたすたにきり」「ずたずたに斬り」。
「はらのうちをみれは」腹の内を見れば」。
「にくは、なし」肉はすっかり消化されてなかった。
「みつから」自ら。ここは自発。
「はらはた」「腸(はらわた)」。
「來國俊(らいくにとし)」鎌倉末期の刀工。ウィキの「来派」によれば、先行する作物に「國俊」と二字のみを彫る物があるが、別人と推定されている。始祖国行や二字「圀俊」の作物に比べ、細身の穏やかな作が多い。『来国俊以降、短刀の作を多く見る』。『刃文は直刃を主体とし』、『穏健な作風のものが多』い。『現存作は太刀、短刀ともに多く、薙刀や剣もある』。『正応から元亨』(一二八八~一三二四年)に至る在銘作があり、この間』、同名(「來國俊」)の二『代があるとする説もある。徳川美術館には「来孫太郎作」銘の太刀があるが、銘振りから「来孫太郎」は来国俊の通称とされている』とある。
「ろく」「祿」。
「受領」(武勇を讃えた名の)拝領。]
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