北越奇談 巻之六 人物 其七(孝子春松)
其七
孝子門左衞門は荒川村【新發田に近し。】百姓丑之助が男(なん)なり。上(うへ)より其(その)至孝を賞せられて、白銀(はくぎん)七(しち)枚を賜ふ。世の美談あるによつて傳を略す。
近來、葛塚に豆腐を賣(うつ)て業(なりはひ)とする者、春松(はるまつ)と云へる者あり。家、貧して、老父【多助と云ふ。】、足痿(なへ)て久しく不ㇾ起(たゝざる)に事(つか)へて孝なり。初め、妻を迎ひ、一子を産して死す。春松、又、後の妻を不ㇾ迎(むかへず)。幼児を背負(せおひ)ながら業を營み、父を介抱し、二便(にべん)の用に至るまで、盡(ことごと)く其手を離るゝことなしと雖も、露ばかりも疎(うと)ましき色、面(おもて)に表はるゝことなく、益(ますます)孝養を盡(つ)くして、又、近隣と善(よし)。然(しか)れば、其至孝を賞すること、東都(とうど)に達しぬるより、過(すぎ)し文化二ツの年か、忽(たちまち)、上命(しようめい)ありて、忝(かたじけな)くも白銀三枚を下(くだ)し給(たまは)りしより、貴となく賎となく、其孝を賞しあやかりて、金(こがね)を贈(おくり)、錢(せん)を贈る者、幾千万と云ふことを知らず。誠に是、至孝の徳、天の然らしむる所、誰(たれ)か羨(うらやみ)思はざらん。予も過(すぎ)し年、其家に訪ね至り、徳を賞し、幸(さいはひ)を祝し、且、其人を見るに、即(すなはち)、昨日(きのふ)の貧(まずしき)を忘れず。賤しき業(わざ)して、父と小児とを介抱し居れり。
[やぶちゃん注:「孝子門左衞門」野島出版補註は『不詳』とする。
「荒川村」現在の新潟県新発田市荒川であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「白銀七枚」「白銀」は銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形したものを紙に包んだもので、多くは贈答用として用いられた。通用銀の三分(ぶ)に相当する。「一分銀」は四枚で一両であるから、二両弱、現在の九万円ほどの換算になる。
「葛塚」既出既注。現在も一部が残る福島潟(既出既注)の西方、新潟県新潟市北区葛塚周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「春松」野島出版補註は『不詳』とする。
「二便」大小便。
「盡(ことごと)く其手を離るゝことなし」常時、付っきりの介護が必要であることを言っている。
「東都(とうど)」「ど」は原典のママ。江戸。
「文化二ツの年」一八〇五年。本書の刊行は文化九(一八一二)年春であるが出版にかなりの時間がかかっていることを考慮すると、当時としては、本書の崑崙の叙述が、かなりアップ・トゥ・デイトものであったことが判る。]
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