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2017/09/08

譚海 卷之二 檢校勾當放逸に付御仕置の事

 檢校勾當放逸に付御仕置の事

○同七年十月盲人檢校勾當の輩高利金子貸し候て、證文には廿兩壹步(ぼ)の書付を取(とり)、内々にて嚴敷(きびしく)返金をはたりし事露顯し、盲人數輩入牢に處せられ、僞(いつはり)をかまへ高利金子を貸し、人に難儀かけし事御吟味きびしく、浪人のるい高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し、召(めし)とられ究問(きうもん)あり。八丁堀住居(すまひ)吉田主裞(ちから)、神田佐久間町住居細川下野(しもつけ)などいふ浪人も入牢せられたり。過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども也。鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたりといへり。都(すべ)て壹兩年已來檢校勾當のくつわやにあそぶ事平日の樣に成(なり)、公然として人の目を憚らず、松の內・五節句・月見等まで、おほかたは座頭の客人なりといひあへり。後皆々家財居宅御取上追放あり、一時に寥々(れうれう)となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ。

[やぶちゃん注:「同七年十月」前条の伊豆大島三原山の安永の大噴火を受けるので、安永六(一七七七)年の十月である。

「檢校勾當」それぞれ盲官(視覚障碍を持った公務員)の階位。「卷之二 座頭仲間法式の事」の私の「檢校」の注を参照のこと。

「盲人檢校勾當の輩高利金子貸し」底本の竹内氏の補註によれば、『いわゆる座頭金で、江戸時代は盲人の生活保護の意味で、盲人の金貸には返済その他に』(返済者側に厳しく、視覚障碍者である貸主に有利な)『特別の規制があった。そのため盲人の貸業は一般化し、こうした暴利をむさぼるものもでてきたのであ』った、とある。

「證文には廿兩壹步の書付を取」一例としての高額貸金を挙げたものであろう。江戸後期の一両を平均として現在の五万円と換算するとしても百万円相当、その日歩(にちぼ)でこれを現行のように百分率ととるならば一日一万円(これを金額に対する実金額の利息と採るならば、「一分(ぶ)金」と採れ、その場合は一両の四分の一相当で一万二千五百円に相当する)となり、とんでもない高利となる。

「はたりし」既出既注であるが、「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「かまへ」「構へ」。企んで。証文の偽造操作や牽強付会の詐欺的解釈による恐喝などを指すのであろう。

「浪人のるい」「浪人の類」。

「高利金子かし候ものまで連及(れんきふ)し」「連及」は「関連して関わり合うこと」であるから、証文偽造など詐欺的行為の中では被害者である借り主までも連座して捕縛取り調べが行われたのである。

「過分の普請奢侈(しやし)を極(きはめ)候ものども」これは直前の「浪人」を指すのではなく、暴利を貪った盲官であろう。幾らなんでも浪人が高利の金を借りて、贅沢の限りを尽くした豪勢な屋敷を造って住んだというのでは意味が通らぬからである。但し、この八丁堀の吉田主税や神田佐久間町の細川下野(しもつけ)などいった浪人らが、借り主ではなく、そうした盲官の手下として借金利息の取り立ての際の恐喝などを行っていたというのならば、相応に金儲けして私腹を肥やしていたというのなら判らぬでもないが、にしても浪人の身で「普請奢侈を極」めることは当時としては、まず考えられないからである。但し、敷地家屋の名義をその盲官の所有としていた場合は絶対ないとは言えないが、すぐ後で鳥山検校の屋敷の奢侈が語られている以上、そうは絶対に採れない。

「鳥山檢校と云もの、遊女瀨川といふを受出し、家宅等の侈(おご)りも過分至極せるより事破れたり」ウィキの「検校によれば、『官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本らに金を貸し付けて暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両など多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた』。元禄七(一六九四)年には『八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』(下線やぶちゃん)とあり、古くから読ませて戴いている高木元氏のサイト「ふみくら」の「江戸読本の研究-十九世紀小説様式攷-」の「第二章 中本型の江戸読本 第四節 鳥山瀬川の後日譚」事件事実と後日談その後の文芸化の様相が余すところなく検証されている。必読!(本「譚海」の条も載る) それによれば、「瀨川」は吉原松葉屋の妓女で五代目瀬川とし、見請けは安永四(一七七五)年で、鳥山の処罰は安永七年とする。

「くつわや」既出既注であるが、再掲する。轡屋(くつわや)で遊女屋を指す。特に、揚屋(太夫・格子などの上級遊女を呼んで遊ぶ家。江戸では宝暦(一七五一年~一七六四年)頃に廃れた)に対して遊女を抱えておく置屋(おきや)を指した。語源に就いては「日本国語大辞典」には三説を載せ、①『京都三筋町のい遊女町を開いた原三郎兵衛はもと秀吉の馬の口取りで、異名を轡といわれたので、遊女屋へ行くことを隠語で轡がもとへ行こうと言いなれたところから〔異本洞房語園・大言海〕』、②『伏見撞木町の町割が十字割で、轡の形をしていたので轡町と呼んだところから』〔俚言集覧〕及び同様に『大橋柳町に女郎屋があった時、十字割の町割をして轡丁と呼ばれたところから〔吉原大全〕』、③『遊女屋の亭主が遊女を使うのは、馬に轡をかけて使うように自在であるから〔類聚名物考〕』とある。

「松の內」正月、松飾りを飾って祝う期間。多くは正月七日又は十五日までを指すことが多い。正月七日までの松の内を「松七日」とも称する。因みに、吉原には正月元旦は登楼出来ない。当日、楼店は総て休日であったからである。また、前者の七日までの「松の内」の間は吉原では御祝儀の特異点として「紋日(もんび)」と呼び、この間は「揚げ代」が倍額となる特別高額期間であって、実際には客足が遠退き、その不利益分はそのすべてを各遊女たちが自腹で負担しなければならなかったとされる。されば、ここも七日までと採るべきである。ここは弥生屋氏のブログ「猫侍のつれづれ草~弥生屋書林ぶろぐ~」の「2017年を迎えて~吉原の御正月~」の記載を参照した。

「五節句」人日(じんじつ:一月七日)・上巳(じょうし:三月三日)・端午(五月五日)・七夕(しちせき:七月七日)・重陽(ちょうよう:九月九日)の各節気。諸資料を見るに、これらの日の揚げ代は前注の「紋日」と同額である。

「月見」ウィキの「によれば、各月の十五日は勿論のこと、特に旧暦八月十五夜の「中秋の名月」以外にも、「後(のち)の月」と呼ばれる九月十三夜(豆名月(まめめいげつ)・栗名月(くりめいげつ)とも呼ぶ)があり、その後、一年の収獲の終わりを告げるとされた「十月十日夜の月」(或いは「三の月」とも呼ぶ)の月見があった。特に江戸の遊里に於いては『十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行なうために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった』とある。これも妓女の巧妙な一連の定期収入として欠かせない日であったことが判る。

「おほかたは座頭の客人なりといひあへり」揚げ代が倍額となって通常の大通も二の足を踏む時節なれば、彼らの想像を絶した莫大な蓄財が想像出来よう。

「一時に寥々となり、金子かしかり不自由になり、世間のさしつかへにも成(なり)けるとぞ」最後がまた、山椒が利いている。]

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