老媼茶話卷之弐 山寺の狸
[やぶちゃん注:第一巻は底本本文に従ってきたが、濁点の殆んどないそれは若い読者でなくても、かなり読み難く、何より、老婆心から無駄な注を附さざるを得なかったので、第二巻より濁点を恣意的に追加することとする。これは原典にある読み等にも適応する(例えば、次の「山寺の狸」の原典のカタカナ・ルビである「イタズラ」の「ズ」や「食求(ヒダルク)」の「ダ」。底本は「イタスラ」「ヒタルク」)。但し、私が、本来は清音であり、ここもそのままがよく、そのままで充分に通用すると判断したものは濁音化していない(例えば、次の「山寺の狸」の「懲らさずは」の内の「は」。底本は「懲らさすは」。この「ずは」(原典「すは」)は打消の助動詞「ず」の連用形に係助詞「は」の付いたもので、打消の順接の仮定条件を表わす(もし~ないとならば)が、「ずは」の「は」は本来、かく清音であったが、後に発音が「ずわ」に転じ、更に「ずば」「ずんば」の形も生じた(因みに近世口語では「ざあ」や「ざ」へも変じている)。されば、「ずば」でもよいのだが、本書原典が異様に濁音を避ける傾向にあるのは(例えば、次の「山での狸」では底本で原典本文に濁点表記が出現するのは「こり果させずんば」の「ば」が最初である)、作者三坂春編(はるよし)は当時の時点に於ける「文語」を尊重していたことが一つの理由であろうと思われることからして、ここは「ずば」ではなく、古形の「ずは」が三坂の主旨に沿うものと考えた。同じことはその後にある「たそかれ」(「黄昏(たそがれ)」。原義は「誰(た)れそ彼(かれ)は」である)も同じである)。また、かく変更したことは原則、注記しない。]
老媼茶話卷之弐
山寺の狸
奧州磐崎(ばんさき)の郡(こほり)三坂の城主越前守隆景の家士に濱田喜兵衞とて近國に隱れなき大力の者有。幼き時は牛太郞(うしたらう)と云(いふ)。
牛太郞、五ツ、六ツの年より、京道(きやうみち)五、六里斗(ばかり)は獨(ひとり)往來せり。
牛太郞十一の年、白鷄(にはとり)を祕藏し飼置(かひおき)けるを、隣家の犬、此鷄(にはとり)を喰殺(くひころ)しける。牛太郞、怒(いかつ)て、犬をとらへ、下腮(したあご)江足を懸(かけ)、上腮(うはあご)江兩手をかけて、口を引裂(ひきさき)、殺さんとす。
牛太郞乳母、是を見付、
「其犬、必(かならず)、殺し玉ふな。鷄をば、幾ツも今の間に調へ進ずべし。」
と云。
牛太郞、聞(きか)ず。
乳母、重(かさね)て曰、
「今度斗(ばかり)は我(わが)云(いふ)事を聞給ひて、犬の命、助け給へ。さもなくば前度からの徒(イタヅラ)を母へ不殘(のこらず)告(つぐ)べし。」
といふ。
牛太郞、用ひずして犬を殺しける。
乳母、腹を立(たて)、急ぎ内へ入(いり)、右の荒增(あらまし)、こまやかに母に告る。
母、此(この)事を聞(きき)て大(おほき)に驚ひて、
「十や十一の小童の徒に、犬の口を引裂(ひきさく)なんど、並々の所行にあらず。强くいましめ懲(こら)さずは、末々の大惡人に成るべし。」
とて、牛太郞を呼寄(よびよせ)て大きに呵(しかり)、家を追出(おひいだ)す。
牛太郞、母に呵られ、裏へ逃(にげ)て、柹の木に登り、柹を喰(くひ)て、飢(うゑ)を助(たす)く。
日もたそかれに及びし頃、乳母、心に哀(あはれ)を思ひ、
「おさなき心にて、便(たよ)るべき母には嚴敷(きびしき)折艦に逢ひ、我とは中(なか)をたがひ給ふ。嘸(さぞ)、心に便りなく、かなしく思ひ給ふらん。」
と思ひかへし、裏の柹の木のもとへ行(ゆき)、
「此(これ)以後、母御(ははご)と我(われ)、言(いふ)事を能(よく)聞(きき)、徒(いたづら)をし給はずは、隨分、母御へ御詫(おわび)して中を直すべきか。」
といふ。
牛太郞も、日は暮(くる)る、食求(ヒダルク)は成る、差(さし)もの徒者(いたづらもの)も、こりたると見へて、
「いかにも、此(この)末は母と汝が云(いふ)事を能聞て、徒をすまじ。母御へ詫言し、中を直し吳(くれ)よ。」
と、たのむ。乳母、是を聞、牛太郞、母に詫言をす。
母、聞(きか)ずして、呵聲(しかりごゑ)にていふ樣、
「牛が徒(いたづら)を、よの常の子共(こども)の仕業(しわざ)と思ふと見へたり。此節、こり果(はて)させすんば、正直の人には成(なり)ましきぞ。子の、あく人となる事は父母の恥といへり。とも角(かく)、こよひは內へよせざるそ。何方(いづかた)へも出(いで)て行(ゆけ)。」
と、あららかにいふて、戶を堅くしめたり。
牛太郞、詫言の叶はざるを聞て、大に母を恨めしく思ひ、
『しからば、伯母を賴み、暫(しばし)、彼所(かしこ)にあるべし。』
と思ひ、柹の木より、おり、壱里斗(ばかり)へだゝりし山里の伯母を賴みに行(ゆき)ける。
折柄、秋更(ふけ)て、山路、物淋しく、木の葉散みだれ、物凄きたそかれに、壱人の坊主、勢高く骨ふときが、淺黃(あさぎ)の平包(ひらづつみ)、筋違(すぢかひ)に首にかけ、肩肌脫(かたはだぬぎ)になり、大ひ成(なる)樫の棒を杖に、つひて來りける。牛太郞を見て立止り、
「小童(ワツハ)、日暮るゝに何方(いづかた)へ行(ゆく)ぞ。此先の村は何と云(いふ)所ぞ。」
と云。
牛太郞、聞て、
「侍を小童(わつぱ)と云(いふ)は慮外のやつめ。」
と、坊主を、しかる。
坊主、聞て、目を見出し、
「いや、小賢(コザカ)しき禿童(カブキロ)め。何をいふぞ。己(おのれ)、天窓(アタマ)張(はり)ひしぎくれん。」
と臂(ヒジ)を延(ノベ)、拳(こぶし)を握り、牛太郞にちかづく。
牛太郞、
「心得たり。」
といふざま、備前兼光弐尺三寸の刀を拔(ぬき)、のび上り、坊主が左の目の上より、橫面(よこつら)半分、頰骨をかけ、筋違(すぢかひ)に切落す。
首は谷へ落ち、骸(むくろ)は道に橫たはれる。平包は首より脫(ぬげ)て岸陰(きしかげ)に留(とどま)る。
牛太郞、平包を取上げ、ひらき見れば、淨土數珠(ずず)壱連・かながきの阿彌陀經壱卷・永樂錢百文・古衣(ふるぎ)・ふるゆかたを包(つつみ)たり。取(とり)て肩に懸(かけ)、壱丁程過行(すぎゆき)けるが、牛太郞、思ひけるは、
『坊主は手向ひせし間、止事不得(やむことえず)して切殺したり。人を殺害(せつがい)して此平包を取(とる)時は、切取(きりどり)也。』
と思ひ、又、木の所へ立歸り、坊主が死骸のそばへ。平包をなげ捨て、伯母が方へ行(ゆく)。
折節、伯母が方には家內の男女、數多(あまた)召集(めしあつめ)、夜業(よわざ)に大豆を打(うた)せ賑(にぎやか)に閙敷(さはがしく)有(あり)けるが、牛太郞唯(ただ)壱人(ひとり)來(きた)るを見て、おどろき、
「汝、人をもつれずして、日暮(ひぐれ)て獨(ひとり)來(きたる)ぞ。」
といふ。
牛太郞、つゝまず、右の事ども、悉(ことごと)く語りければ、伯母、聞て、
「汝、又、何とて、鷄を取たればとて、隣(トナリ)の犬をば殺しけるぞ。母が呵りしも、尤(もつとも)道理也。此(これ)已後(いご)、かゝる徒(いたづら)、な、せそ。隨分、伯母が詫言して、母が怒りをなだむべし。母は我(わが)妹也といへども、心たけき女也。此頃は此里、狼(おほかみ)のあれて、山より里へ下り、往來の人をなやます故、日暮て通る人、なし。禁(いま)しめの爲ならば、呵(しか)る事は呵るとも、幼きものを唯獨り遙々(ハルばる)の山道を遣(つかは)す事、汝が母がひが事也。夕飯、既に過(すぎ)たり。求食(ヒダルク)はあらざるか。」
と樣々に寵愛しける。
牛太郞、伯母か懇(ネンゴロ)なる志を得て、母の心の難面(ツレナキ)を恨む。
暫(しばらく)有(あり)て、伯母、牛太郞が衣裳の血に染(そみ)たるを見付、あやしみ、其故を、とふ。
牛太郞、僞(いつはり)て、
「日は暮るゝ、山道を急ぐとて、誤(あやまつ)て、石に、つまづき、倒れ、鼻を打(うつ)て、鼻血、出(いで)候。其血の懸りたるにて候。」
といふ。
伯母、誠として疑(うたがは)ず。
午太郞、夫(それ)より宿へ不歸(かへらず)、四、五年、伯母の方に有ける。
牛太郞、十三に成(なり)ける春、在所に狼籍者弐人有て、人、四、五人、切殺し、大勢に手を負(おは)せ、淸閑寺といふ在所の小寺に缺込(かけこ)み、住持を追出(おひいだ)し、戶・障子堅く〆(しめ)て取籠居(とりこもりゐ)たり。村のものども、大勢、寺を取卷有(とりまきあり)けれども、只、ひた訇(ののし)り鬩(せめ)ぐ斗(ばかり)にて、誰壱人(たれひとり)にても、内へ入(いる)者、なし。
牛太郞、折節、在所の童共(わらはども)と山へ遊びに行(ゆき)けるが、此騷動を聞て走來り、刀を拔(ぬき)て垣を躍越(をどりこ)へ、戶を蹴放(けはな)し、内へ入(いる)。狼籍者、
「子共(こども)也。」
と見て、さのみ驚かず。
壱人の男、眼(まなこ)を見出し、
「餓鬼め、何しに來(きた)る。」
と、刀に手をかけるを、午太郞、雷光のごとく飛懸(とびかか)り、何の手もなく、大袈裟に切殺(きりころ)す。
殘る男、
「是は。」
と云(いひ)て立上(たちあが)り、刀をふり上(あぐ)る。
太刀下を、くぐり、後(うしろ)へ拔(ぬけ)、首、水もたまらず、打落(うちおと)す。
所の者共、此働(はたらき)をみて、大きに驚き、
「むかし、鞍馬山に牛若丸とておはしけると語り傳へしが、その牛若丸にもおとるまじ。」
と、是より、馳走(ちそう)・崇敬(すうけい)せり。
牛太郞、成人して後、喜兵衞と云。
喜兵衞、天性、碁を打(うつ)事を好み、碁勢、甚(はなはだ)强くして、近國に敵する者なし。
爰(ここ)に岩城の山寺の住僧、是も碁勢强くして、碁を打事を好み、相手だにあれば、終日終夜に打(うち)あかす。
或人、是を難(なん)じて曰、
「圍碁は戰場を表し、生死をあらそふ『しゆら・とうじやう』を學ぶと申(まうす)。御僧の甚すき好み給ふは、よからざる事に候はずや。」
といふ。
僧、笑(わらひ)て曰く、
「我、碁を好む事、菩提成佛の緣(ゆかり)也。黑石の死する時は黑業煩惱(こくごふぼんなう)の失(しつ)する事を悅び、白石の死する時は白法善根(びやくはうぜんこん)の滅する事を恐(おそれ)て、無上菩提を觀念する便(たより)となれり。俗人の好(このむ)とは、又、格別にあらずや。」
と、いへり。
喜兵衞、是を聞て、わざわざ、岩城の山寺へ尋行(たづねゆき)、住僧と碁を打ち、終日(ひねもす)、互に勝負をあらそふ。
折節、秋の雨降(ふり)て、寂莫(じやくまく)と、もの淋しく、其夜も、いたく更ければ、住僧の曰、
「夜(よ)も深更に及びたり。此所(ここ)に止(とま)り玉へ。夜明(よあけ)て御目にかゝるべし。緩々(ゆるゆる)休み玉へ。」
とて、住僧は內に入(いり)、喜兵衞、只壱人、客殿に伏(ふし)たりけるに、いづくより來るともなく、喜兵衞が枕元へ、犬子(いぬのこ)、弐、三疋、來り、枕のあたり、夜着の上、躍(をど)り越(こし)、はね步行(ありき)、やかましくして眠られず。
『さもあれ、屛風、立𢌞(たてまは)し、狗子(いぬのこ)の可入(いるべき)隙(ひま)もなし。不思義さよ。』
と思ひなから、犬子をつかんで、屛風の外へ抛出(なげいだ)せば、其儘(そのまま)、歸り來(きた)る。
かくする事度々(たびたび)に、狗の子の數、ふえて、拾疋餘りに成(なり)たり。
喜兵衞、枕を上ゲ、有明の灯にて能く見れば、狗子にてはあらずして、兒法師(ちごはうし)・女の首、いくらともなく、枕元を、躍(をどり)ありく。
喜兵衞、興をさまし、起直(おきなほ)り、一々取(とつ)て庭へ抛捨(なげす)て、又々、眠らんとせしが、頻りに腹痛(はらいた)して、大便、きざしける間(あひだ)、立て障子を開き、緣へ立出(たちいで)、星月夜の小暗(おぐら)きに、ふみ石をつたへ行(ゆき)、見れば、遙成(はるかな)る築山(つきやま)の陰に、雪隱(せつちん)有(あり)て、大き成る松・杉、生茂(おひしげ)り、眞闇(まつくら)にして、いぶせき所也。
便用(べんよう)して出(いで)んとするに、外より戶を押(おさ)へ、明(あけ)させず。
壁の隙(ひま)より覗(ノゾ)きみれば、勢高く、瘦枯(ヤセガレ)たる姥(うば)、兩手を以(もつて)、戶を、おさへ居(ゐ)たり。
喜兵衞、脇指を拔(ぬき)、姥が胸板を壁越(かべごし)に、
「ぐさ」
と、つく。
太刀先、働き、戶は、なんなく開き、姥も、行方、しれず。
座敷へ上り、灯、かき立(たて)、切先(きつさき)を見るに、骨引(ほねびき)有(あり)て、血、染(そみ)たり。
脇差の血を押のごひ居(をり)たりけるに、暫(しばらく)有(あり)て、西の方より、光物(ひかりもの)、飛來(とびきた)り、緣先へ落(おち)たり。
喜兵衞、刀(かたな)おつ取(とり)、障子、引(ひき)あけてみれば、件(くだん)の姥、雨落(あまおち)に立(たち)、内の樣子を窺居(うかがひゐ)たりけるが、喜兵衞を見て、一文字に飛懸(とびかか)りけるを、拔打(ぬきうち)に、
「礑(はた)」
と切(きる)。姥、切(きら)れて取(とつ)て返し、表の方へ、かけ出(いで)けるを、喜兵衞、續(つづき)て、追(おひ)かけける。
俄(にはか)に、空、かき曇り、雨ふり、稻光(いなびかり)して、深夜の闇と也(なり)ければ、喜兵衞、内へ歸り入(いる)。
程なく、夜も明(あけ)ければ、緣へ立出(たちいで)、是を見るに、緣先より雨落の踏石迄、血、夥敷(おびただしく)こぼれ、それよりは、雨に打(うた)れて、血色、薄く消(きえ)て、姥が行方、尋(たづぬ)べき樣もなし。
和尙に逢(あひ)、夕べの事共(ことども)をかたりければ、和尙の曰、
「此所(ここ)、人里遠く、山深き地なればにや、斯(かか)る怪敷(あやしき)事、まゝ有(あり)。過(すぎ)し春も、我(われ)獨(ひとり)、學窓に籠り、灯に對し、書をひらき、見居(みゐ)たるに、夜更(よふけ)、人(ひと)靜(しづま)りて後(のち)、學窓の元に、人の彳(たたず)む音あり。靜(しづか)に我(わが)名をよぶ。『諫曉(かんげう)々々。淋しくはなきか』と云。我、答(こたへ)ずして有(あり)ければ、窓より毛のはへたる手を出(いだ)し、我(わが)面(つら)を撫(なで)んとす。我、その腕を强く握り、其腕首を切取(きりとる)。怪物、逃去(にげさり)、行方なし。見るに、年ふる狐の手なり。然るに、此山奧に塚原、有(あり)、古杉・老松、隙(ひま)なく生茂り、晝さへ日のめも見へず、常に深々朦々たる所、有(あり)。此所に古狸・老狐、數多(あまた)、土窟(どくつ)を構へ住(すみ)候。里人の申(まうす)には、常に異成(ことなる)獸(けもの)、三疋あり。其壱ツは、面瘦(もやせ)て、眼(まなこ)赤く、胴、細長(ほそながく)して、手足、ふとく、馬の大きなる狸あり。その鳴聲、高くひゞきて、鐘を打(うつ)ごとし。其弐ツには、面(おも)丸く、鼻柱、とがりて、斑成(まだらな)る狸の、片目、つぶれし、有(あり)。其三ツには、耳、大(おほき)く、眼、丸く、頰、とがり、口、廣く、其形、老大にして、右の腕首なき狐、有(あり)。里人の申(まうす)に、『此狐は、定(さだめ)て、過(すぎ)し春、我に腕を切られし老狐なるべし。』と沙汰致し、是等、極(きはめ)て妖怪をなし、人を迷(まよは)し殺(ころし)候。月白く、風淸く、松風颯々(さつさつ)たる夕べには、老狐・古狸、子(こ)を携へ、類を集(あつめ)、をのが土窟を出(いで)て、月にうそぶき、終夜(よもすがら)、腹つゞみを打(うち)、樂(たのしむ)、といへり。近くの里人、遠く笛・皷(つづみ)の音(ね)を聞(きく)事、度々(たびたび)也。其音色、さはやかにして面白(おもしろく)、感情を催(もよほす)といへり。是、世俗に申傳(まうしつたへ)候、狸の腹鼓(はらつづみ)、是(これ)なるべし。古人曰、夫(それ)、獸は一氣にして偏(へん)なるもの也。狐狸、千歲(せんざい)を經て怪をなす。狸の年經たる、能(よく)雷雨を起し、人の死骸(むくろ)をさらひ取(とる)。是を、人、『化者(くわしや)』といふといへり。夕べの化者(ばけもの)も必(かならず)、此者の所爲なるべし。」
と語られける。
喜兵衞、歸りし夕方、和尙、日沒の務(つとめ)をなし、念佛申(まうし)おはせしに、忽然として、五十斗(ばかり)の片目なる女、十斗の小女をつれ、和尙の前へ來り、泣(なき)て申(まうし)けるは、
「我等は此御寺近くに住(すみ)侍る嬬女(ヤモメ)にて候が、夕べ、我姊(あね)を狂人の爲に殺害(せつがい)せられ候間、向(むかひ)の山の塚原へ、今宵、姊の死骸を埋葬仕(つかまつり)候。乍御大義(ごたいぎながら)、和尙を引導の師に賴(たのみ)奉る。此由、申さんとて參り候。」
と云。
和尙は、
『件(くだん)の片目狸の化(ばけ)たるならん。』
と思ひければ、傍(かたはら)に有る竹箆(シツヘイ)を押取(おしとり)、是をうたんとし玉ふに、女も小女も、かきけす樣に、みへずなりたり。
其夜、牛(うし)みつ過(すぐ)る頃、寺の向の塚原へ、燒松(たいまつ)、數多(あまた)灯(とも)し、人、大勢、經讀・念佛申(まうし)、鉦(ドラ)・鐃(ニヨウ)・鉢(ハチ)たゝき、立て、人を埋葬(はうふりうづむ)體(てい)にみへ、暫(しばらく)有(あり)て燒松の火も消(きえ)、人音(ひとおと)も靜(しづま)りけり。
和尙、明(あく)る日、人を遣し、見せ玉ふに、土、うづ高く、物を埋(うづめ)たる跡あり。
掘返(ほりかへ)し、是を見るに、小牛のごとく成る古狸、首より立割(たてわり)に切(きり)さかれたる、其死骸を埋(うづめ)たる也。
「定(さだめ)て是は、夕べ、喜兵衞に切られたる狸なるべし。」
と、人、皆、申(まうし)ける。
其後、三坂の城は奧州仙臺の城主伊達左京太夫輝宗の爲に責落(せめおと)さる。此節、濱田喜兵衞は、金の大半月の前立(まへだて)に塗鉢(ぬりばち)の冑(かぶと)、朱具足(しゆぐそく)を着(き)、黑の馬に打乘(うちのり)、大長刀(おほなぎなた)、水車(みづぐるま)に𢌞し、聲を懸(かけ)、馬、一さんに、新田常陸之助が三千斗(ばかり)にて扣(ひか)へたる敵の眞中へ乘入、十方へかけ散じ、八方へ追靡(おひなびき)、能(よく)、武者十四、五騎、切殺し、敵味方の目を驚かし、いさぎ能(よく)、討死せり。
三坂の城跡、今、三坂山に石垣、纔(わづか)に殘れり。
三坂の家の子、長山越中・遠藤越後・吾妻甚平・吉田大藏。是等、近國に名をしられたる武勇の者共也。
その子孫枝葉、上三坂・下三坂その外、所々に零落して、其四家の類族、今に有(あり)と申(まうし)侍る。
奧州磐崎郡(いはさきのこほり)三坂村曹洞宗久長山耕山寺は、三坂氏代々の墳墓(フンボ)の道場也。三坂村の内、捨石、寺領とす。
幸山院殿重嚴壁公禪門
俗名三坂越前守隆景、此寺、三坂合戰の節、兵火(ひやうくは)の爲に囘祿して、本尊阿彌陀佛・十王堂・地藏堂・寺寶の舊記までも悉く燒失せり。依之(これによつて)古(いにしへ)をかんがへ印(するす)べき先記(せんき)なし。其後、又、此寺、自火(じか)の災あり。夫よりは誰(たれ)取立(とりたて)る者もなく、物、替り、星、ふり、今、纔(わづか)の小寺と成(なり)ぬ。近頃、耕山寺の祖玄といふ僧、あらたに地藏の緣起を作る。しかれ共、其文言(もんごん)、拙(つたな)くして虛妄の說のみ多(おほく)、用(もちふ)るに不足(たらず)。只、里俗、語傳(かたりつたふ)るを以(もつて)、印(しるし)とゞむ斗(ばかり)也。今に至る迄、御代々三坂氏菩提所耕山寺へ
將軍樣より 御朱印被成下
大猷院樣 御朱印
地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事、任二先規一令二奇附一之訖。可收納。幷於當所別當耕山寺中門前山林竹木諸役等免除、如有來永不可有相違者也
慶安元年七月十一日
[やぶちゃん注:この部分は注で訓読を試みる。]
老媼茶話弐終
爰に油井正雪・丸橋忠彌が一件有共(あれども)、「慶安太平記」に悉く有之(これある)故、略之(これをりやくす)。
[やぶちゃん注:ママ。実際には終わっていない(「卷之弐」は本条を含めて全八篇から成る)。というか、現行では、二巻目は。まだ続く。これを見るに、「老媼茶話」の祖本は十六巻本であったものが(本底本(宮内庁書陵部本)は七巻に拾遺一巻が附く。多量の増補が加えられてしまった哲学堂本は逆に二十巻もある)早期に散佚したというのが、よく判る錯文とも見える。]
[やぶちゃん注:この話、注を附すのに、異様に苦労した。その理由の一つは私が戦国史に極めて冥いからに他ならない。しかし、注を概ね附し終わりそうになったところで、私はあることに気づいた。それに基づいて、既に記した私の以下の注を全面的に書き直すことも考えたのだが、逆に、私の半可通で不完全な推理が、全くの的外れではないことにも同時に気づいた。されば、変則的であるが、そうした「不詳」とした注や不全な推理の跡をそのままにしておいて、注の最後にある決定打を示すことと決した。そこを御理解の上、読み進めて戴けると幸いである。但し、怪談部分は、本書よりちょっと後を時制とする(寛延二(一七四九)年)「稲生物怪録」ばりに面白いぞう!
「奧州磐崎(ばんさき)の郡(こほり)三坂」これは現在の福島県いわき市三和上三坂。ここ(グーグル・マップ・データ)。戦国時代にこの地方を治めた岩城氏の重要拠点とされ、三坂城(三倉(さのくら)城)があった。
「越前守隆景」室町時代から戦国時代にかけての武将で陸奥国大館城主で岩城氏第十一代当主であった岩城氏の全盛期を築き上げた岩城常隆(?~永正七(一五一〇)年又は天文一一(一五四二)年)の弟に岩城(車)隆景がいるが、彼は小川姓でないし、越前守でもないようだし、そもそも後に出る実録資料等を考えると、生存時間が有意に前のように思われるから彼ではないのか? しばしば中世の廃城でお世話になる余湖氏のサイトの「三坂城」のページに『天正~文禄年間』(一五七三年から一五九六年)『には小川越前守隆景が城主となっていたという』とある人物であろう。この小川越前守隆景は恐らく、この当時、同地方を支配していた小川氏の一族の嫡流の一人と思われる。ただ、非常に気になることがある。それは、この「三坂」という地名であり、本電子化の最初に紹介した三好想山の「想山著聞奇集 卷の參」の「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」(リンク先は私の電子化注)の割注の記載である。煩瑣を厭わず再掲すると、
*
此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後(のち)、寬保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。
*
で、実に、本書の作者三坂春編(はるよし)こそが、ここに出る三坂城主であった(三坂)越前守隆景なる人物の後裔だと述べているのである。底本の高田衛氏の解説を見ると、この人物は作者の三坂家の始祖で、岩城平の城主である岩城常隆に仕えたとあるのである(因みに、この隆景の主君岩城常隆(永禄一〇(一五六七)年~天正一八(一五九〇)年)は陸奥磐城大館城主で、佐竹義重に従い、達政宗と戦い、天正十八年には豊臣秀吉の小田原攻めに加わって所領を安堵されたものの、その帰途、鎌倉で二十四歳の若さで死去している)。さて? 先の「小川越前守隆景」と「三坂越前守隆景」は同一人物なのか、それとも全くの別人なのだろうか? しかし、こんなに近接した時機に、こんなにそっくりな名を持つ人物が、同じ場所に別人として存在していたというのは考えにくい。う~む、困った。但し、注の最後に決定打を示すこととする。
「濱田喜兵衞」不詳。但し、やはり注の最後に決定打を示すこととする。
「京道(きやうみち)」三十六町(約三千九百二十四メートル)を一里とする現在の一里の路程距離のこと。呼称は「西国道」「上道」等が一般的で、「大道(おおみち)」「大里」などとも読んだ。「坂東道(ばんどうみち)」(別称「東道」「小道」「小里」「田舎道」)に対する路程距離スケールの区別名称である。
「五、六里斗(ばかり)は獨(ひとり)往來せり」満四、五歳でこの距離は異様で、恐るべき脚力と言わねばならぬ。
「白鷄(にはとり)」二字へのルビ。
「あららかに」底本では後の「ら」の箇所は踊り字「〱」である。これは別本によって補訂されたもので、底本親本は『あらかに』となっているらしい。しかしこの二字以上の繰り返しを意味する踊り字をそのまま正字化してしまうと、「あらあらかに」となっておかしいため、敢えてかく、した。無論、「荒らかに」である。
「勢高く」「背(せい)高く」。
「平包(ひらづつみ)」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。
「小童(ワツハ)」の読みは原典のママ。「わつぱ」(わっぱ)。小童(こわっぱ)。
「禿童(カブキロ)」底本のルビは『カフキロ』。これは当てるなら、少年の卑称の「がき」を指す「かぶろ」であろうが、ガキのくせに、偉そうな「かぶいた」奴の謂いを含むと思われるので、敢えて「カブキロ」とした。実際には私はこのような語を知らない。
「天窓(アタマ)」二字へのルビ。
「張(はり)ひしぎくれん」「ひしぐ」は「拉ぐ」で「押して潰す・圧迫を加えて勢いを弱める・押さえつける・押しやる」の意であるから、「頭を地面に張り倒して呉れるわ!」の謂い。
「備前兼光」鎌倉後期に備前国に住したとされる名刀工備前長船住兼光。ウィキの「備前長船兼光」によれば、「備前長船兼光」を称した刀工は何人かいるが、『一般には南北朝時代に活躍した刀工を指すことが多く、また室町時代の兼光の作刀はほとんど見られない』とする。始祖と目される備前長船兼光は文永年間(一二六四年~一二七五年)頃の刀工で、『岡崎五郎入道正宗の正宗十哲とされる』が、『年代的にみて疑問視する説もある』。次に南北朝の延文年間(一三五六年~一三六一年)頃、応永年間(一三九四年~一四二八年)頃、長禄年間(一四五七年~一四六一年)頃、天文年間(一五三二年~一五五五年)頃に同名の刀工がいるが、ただ兼光と言った場合は最初の二人、特に二人目の延文年間の兼光を指すことが多い。ともかくも、少年の彼が自分の刀としてこのような名物を持っていることから、彼が相当な家柄の子であることが判る。
「弐尺三寸」六十九・六九センチメートル。
「岸陰(きしかげ)」切り岸(ここは道の上の方に切り立った崖)の隅。
「淨土數珠(ずず)」浄土宗の数珠にはは一般檀家・信徒用の「日課数珠」、僧侶用の本式のそれには、通常の「日課数珠」の他に儀式用の「荘厳(しょうごん)数珠」がある。孰れも念仏の数を数えられる形式になっているが、本式の数珠でも百八玉はない。本式数珠は二つの輪を交差させた独特の形状を成し、両方の輪にそれぞれ親玉と主玉があり、一方の輪には主玉の間に副玉と呼ばれる小さな玉が入って、交互に並んでいる。その副玉が入っている方の輪に、金属製の輪が大小二つと房が繋がっている。現行では男性用・女性があり、玉数や大きさは異なるが、同じ形式で作られている。男性用のそれは「三万浄土」、女性用それは「六万浄土」と呼称されるが、これは念仏を唱える際に決められた形式で数珠の玉数に沿って数えていくと、男性用は三万二千四百回、女性用は六万四千八百回、唱えることが出来るようになっていることに由来するという。参照した京都の数珠専門店「はな花」のこちらのページで実物の形式図や実物画像が見られる。この数珠形式が何時決まったものかは不明であるが、ここは取り敢えず、男が僧であるから、男性用の「三万浄土」の「荘厳数珠」ととっておく。普通の数珠より複雑であるから、一見して区別出来るので、このシーンには相応しかろう。
「壱丁」約百九メートル。
「切取(きりどり)なり」牛太郎は、武士として侮辱されたことへの遺恨討ちであったが、これを持ち去ったのでは、捕まれば、結果的に、斬り殺して金品を奪った強盗殺人の罪を犯したことになってしまう、と考えたのである。
「閙敷(さはがしく)」底本は『いそがしく』とルビするが、これは編者によるものであり、採らない。閙(音「ネウ(ニョウ)・ダウ(ドウ)」)は第一義が「騒ぐ・騒がしい」の意であるからである。
「牛太郞、十三に成(なり)ける春、在所に狼籍者弐人有て」前のエピソードが十一の時で、それより「四、五年、伯母の方に有」ったのだから、ここで言う「在所」は実家ではなく、寄せて貰っている伯母の「在所」である。
「淸閑寺」不詳。現在のいわき市に同名の寺はない模様。
「ひた」副詞。ひたすら。
「鬩(せめ)ぐ」底本は清音「せめく」で、この語は古くは清音であったから、そのままでもよい、但し、古語としての「せめぐ(せめく)」の原義は「互いに憎み争う」「責め苦しめる」の謂いで、今一つ、ピンとこない(敷衍して「批難する」でもしっくりこない)。鬩(音ケキ・キヤク・ゲキ(慣用))には他に「恐れる」・「鳴く」・「静かなさま」(これは通音の別字の逆意用法)があるから、ここは「恐れ戦(おのの)く」の意で採ればよかろう。
「大袈裟に切殺(きりころ)す」刀を大上段に振りかぶって、一気に一方の肩から他方の腋へかけて斬り下げて斬り殺した。
「水もたまらず」「水も溜まらず」。刀剣で以って鮮やかに素早く斬るさま。
「馳走(ちそう)」饗応。
「生死」僧を諫めているのであるから、「しやうじ(しょうじ)」と読むのがよいと思う。
「しゆら・とうじやう」「修羅・鬪諍」。
「黑石の死する時は、黑業煩惱(こくごふぼんなう)の失する事を悅び、白石の死する時は白法善根(びやくはうぜんこん)の滅する事を恐(おそれ)て無上菩提を觀念する便(たより)となれり」まず、「黑業(こくごふ)」(こうごう)とは仏語で「悪い行為・悪い果報を受ける悪い行い」としての「業(ごう)」を謂い、その対義語として「白業(びやくごふ」(びゃくごう)、「よい果報を受ける善い行い」、「善業( ぜんごう)」という語があることを押さえるならば、この和尚の謂いは、
「――黒石(くろいし)の死ぬ瞬間には、即ち、絶対の悪しき因縁としての悪業(あくごう)や煩悩(ぼんのう)が雲散霧消することの機縁として、これに喜悦し――白石が死ぬ瞬間には、純白にして無垢の正法(しょうぼう)に至る善根、絶対の善なる属性が完全に滅してしまうことの悪因縁の教えとして、これを心から畏れ、さても、孰れの場合にても、これ、無上の大慈大悲の菩提を観想する方便となって、私の中にあっては格別に作用しておるのじゃて。」
という意味と採れると私は思う。
「雪隱(せつちん)」底本は『せついん』と編者ルビする。確かに本来の読みはそうではある。しかし、私はここで今時、そう発音する人が少ない中、ここは普通に「せっちん」と読みたいのである。
「なんなく」「難無く」。
「行方」底本は編者により『ゆきかた』とルビするが、「ゆくゑ」と読んではいけない意味が判らぬので(私はそう読みたい)ルビを振らなかった。
「骨引(ほねびき)有(あり)て」肉を切っただけでなく、骨をも引き斬った痕がありありと残っていて。骨片の細片でも附着していたのであろう。
「雨落(あまおち)」雨垂れの落ちる所を広く指すが、後で「雨落の踏石」とあるから、雨落(あまお)ち石(いし)、雨垂れで地面が窪んでしまうのを防ぐために軒下に置き並べた石(「雨垂れ石」とも呼ぶ)の謂いで私は読んだ。
「礑(はた)」「はた」は副詞で、唐突に物を打ったり、ぶつけたりするさま。漢字「礑」(音「トウ」)も同義。私はここは一種のオノマトペイアとして採りたい。
「學窓」ここは書斎の謂いか。
「諫曉(かんげう)」一般名詞として「諫曉」(かんぎょう)は仏語に存在し、「諫め、諭すこと」を指す。中でも「信仰上の誤りについてそうすること」を謂う。もし、そういう意味で採るなら、ここは妖魔が来りて、「お前には悪しき因縁があるぞ!」と逆に諫めていることになる。『聖アントニウスの誘惑みたようなもんだ! 「淋しくはなきか」がその誘惑を物語ってるぞ』なんどと、迂闊な私は最初、独り合点してしまって読んでいた。しかし、それではどうにも「淋しくはなきか」と繋がりが頗るつきで、悪い。そうして、よく見ると、直前で和尚は「靜(しづか)に我(わが)名を」呼ぶ、と言って、この台詞が出るのである以上、この「諫曉(かんげう)」とは和尚の法名と読むしかないのである。そうしてこそ「淋しくはなきか」が腑に落ちるのである。それで採る。
「深々朦々」霧や闇などが深く一面に立ち籠めているさま。
「土窟(どくつ)」土中の洞穴。
「馬の大きなる狸あり」意味不明。「馬の(如く)大きなる狸あり」の意でとっておく。
「颯々(さつさつ)」風の吹くさま。風が音を立てるさま。
「一氣にして偏(へん)なるもの」ある契機を得ると、瞬時にして、片寄った、正当でない、禍々しいものになる属性をもっているもの、の謂いか。
「化者(くわしや)」底本では編者によって右に振漢字で『火車』とする。ウィキの「火車(妖怪)」から引く。『火車、化車(かしゃ)は、悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪』。『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・甲府市、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』。「奇異雑談集」の「越後上田の庄にて、葬りの時、雲雷きたりて死人をとる事」によれば、『越後国上田で行なわれた葬儀で、葬送の列が火車に襲われ、亡骸が奪われそうになった。ここでの火車は激しい雷雨とともに現れたといい、挿絵では雷神のように、トラの皮の褌を穿き、雷を起こす太鼓を持った姿として描かれている』(リンク先に画像有り)。「新著聞集」の「第五 崇行篇」の「音誉上人自ら火車に乗る」には、文明一一(一四七九)年七月二日、『増上寺の音誉上人が火車に迎えられた。この火車は地獄の使者ではなく』、『極楽浄土からの使者であり、当人が来世を信じるかどうかにより、火車の姿は違ったものに見えるとされている』。同じ「新著聞集」の「第十 奇怪篇」の「火車の来るを見て腰脚爛れ壊る」には、『武州の騎西の近くの妙願寺村。あるときに、酒屋の安兵衛という男が急に道へ駆け出し、「火車が来る」で叫んで倒れた。家族が駆けつけたとき、彼はすでに正気を失って口をきくこともできず、寝込んでしまい』、十『日ほど後に下半身が腐って死んでしまったという』。やはり同じ「第十 奇怪篇」の「葬所に雲中の鬼の手を斬とる」には、『松平五左衛門という武士が従兄弟の葬式に参列していると、雷鳴が轟き、空を覆う黒雲の中から火車が熊のような腕を突き出して亡骸を奪おうとする。刀で切り落としたところ、その腕は恐ろしい』 三『本の爪を持ち、銀の針のような毛に覆われていたという』とあり、またまた同書の「第十四 殃禍篇」の「慳貪老婆火車つかみ去る」では、『肥前藩主・大村因幡守たちが備前の浦辺を通っていると、彼方から黒雲が現れ「あら悲しや」と悲鳴が響き、雲から人の足が突き出た。因幡守の家来たちが引きおろすと、それは老婆の死体だった。付近の人々に事情を尋ねたところ、この老婆はひどいケチで周囲から忌み嫌われていたが、あるとき』、『便所へ行くといって外へ出たところ、突然』、『黒雲が舞い降りて連れ去られてしまったのだという。これが世にいう火車という悪魔の仕業とされている』とある。「茅窓漫録」の「火車」には、『葬儀中に突然の風雨が起き、棺が吹き飛ばされて亡骸が失われることがあるが、これは地獄から火車が迎えに来たものであり、人々は恐れ恥じた。火車は亡骸を引き裂いて、山中の岩や木に掛け置くこともあるという。本書では火車は日本とともに中国にも多くあるもので、魍魎という獣の仕業とされており、挿絵では「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている』(リンク先に画像有り)。かの名著「北越雪譜」にも「北高和尚」の中に、『天正時代。越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』と古典籍を挙げる。また、『火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがあ』り、例えば、『岩手県遠野ではキャシャといって、上閉伊郡綾織村(現・遠野市)から宮守村(現・同)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りこして食べてしまうといわれた。長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされた』。『山形県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられる。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される』とあり、『群馬県甘楽郡秋畑村(現・甘楽町)では人の死体を食べる怪物をテンマルといい、これを防ぐために埋葬した上に目籠を防いだという』。『愛知県の日間賀島でも火車をマドウクシャといって、百歳を経た猫が妖怪と化すものだという』。『鹿児島県出水地方ではキモトリといって、葬式の後に墓場に現れたという』。以下、「考察」の項。『日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また中世日本の説話物語集『宇治拾遺物語』では、獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる』。『河童が人間を溺れさせて尻を取る(尻から内臓を食べる)という伝承は、この火車からの影響によって生じたものとする説もある』。『また、中国には「魍魎」という妖怪の伝承があるが、これは死体の肝を好んで食べるといわれることから、日本では死体を奪う火車と混同されたと見られており』、『前述の『茅窓漫録』で「魍魎」を「クハシヤ」と読んでいることに加えて、根岸鎮衛の随筆『耳袋』巻之四「鬼僕の事」では、死体を奪う妖怪が「魍魎といへる者なり」と名乗る場面がある』とある。最後の話なら、私が「耳囊 卷之四 鬼僕の事」で全訳注をしている。「耳囊」の中でも私の好きな一条である。是非、読まれたい。なお、私には、ここで「化者」を「くはしや」と読んで、「ばけもの」と読まないのは、名前をずらして、敢えて普通の読みをしないことによって、その難を避ける意図が、まず、あるように思われる。さらに謂い添えておくと、「化者」=「火車」という正体説は、単なる漢字の音通からの、安易な妖怪認識の薄っぺらな解釈説に過ぎず、大いに眉唾であるとさえ感じている。ただ、そうした誤認や拡大解釈が、以降の妖怪世界をとめどなく広げたことは認めなくてはならないとは言える。
「竹箆(シツヘイ)」(しっぺい)は禅宗で師家(しけ:禅の指導者)が修行者を指導するために用いる仏具。長さは六十センチメートルから一メートル、幅は三センチメートルほどで、割り竹を弓の形に曲げ、籐(とう)を巻き、漆を塗って作る(武具の弓を切って製することもある)。古く唐宋時代の禅僧が使用したことが知られるが、現在では修行者のなかの第一座(首座(しゅそ))が住持の命によって禅問答を取り交わす法戦式(ほっせんしき)の折りに用いられる(以上は小学館の「日本大百科全書」に拠る)。既にプンプンしていたが、この「淸閑寺」が禅寺であり、この僧が禅僧であることがこれで明らかになる。
「牛(うし)みつ」「丑滿つ時」。一般に午前二時から二時半頃。午前三時から三時半とする場合もあり、ここは「過(すぐ)る頃」であるから、後者で採っても問題ない。
「燒松(たいまつ)」「松明(たいまつ)」。
「鐃(ニヨウ)」読みは原典のママ。歴史的仮名遣としては「ネウ」が正しい。現代仮名遣で「にょう」である。仏式で用いる打楽器の一つ。シンバル型の金属製の銅鑼(どら)。単品を紐で下げ、桴(ばち)で打ったり、まさにシンバル同様に二枚を以って鳴らすこともある。
「伊達左京太夫輝宗」(天文一三(一五四四)年~天正一三(一五八五)年)。戦国大名で達氏第十六代当主。伊達晴宗の次男。ウィキの「伊達輝宗」によれば、『長兄の親隆は母方の祖父である岩城重隆の養子となっていたため、次男の輝宗が世子とな』った。天文二四(一五五五)年三月、『元服し、将軍・足利義輝の偏諱を受けて輝宗と名乗る』。永禄七(一五六四)年、『末頃に父・晴宗より家督を譲り受けた』が、『この時点では、家中の実権を、隠居の晴宗と天文の乱に際して家中最大の実力者となった中野宗時・牧野久仲父子に握られていた。そのため、家中の統制を図った輝宗は』永禄一三(一五七〇)年四月に『中野宗時に謀反の意志有りとして牧野久仲の居城・小松城を攻め落とし、中野父子を追放する。この際に輝宗に非協力的であったとして、小梁川盛宗・白石宗利・宮内宗忠らが処罰されている。同年、義姫の実家・最上家でも、義守・義光父子の間で抗争が始まると、輝宗は義守に与して義光を攻めたが、義姫が輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた』。『家中の実権を掌握した輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停した。また幅広い外交活動を展開し』、天正三(一五七五)年七月『には中央の実力者である織田信長に鷹を贈ったのをはじめとして、遠藤基信に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した』。天正六(一五七八)年『に上杉謙信が没し』、『御館の乱が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・亘理元宗に一任し、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に上杉景虎方として参戦したが、乱は上杉景勝方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は新発田長敦・重家兄弟の奮闘に阻まれて得るところが無かった。しかし、御館の乱における論功行賞において新発田勢の軍功が蔑ろにされ、さらには仲裁を図った安田顕元が自害するに及んで』、天正九(一五八一)年『に重家が景勝に叛旗を翻すと、輝宗は盛氏の後継・蘆名盛隆と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。このため新発田の乱は泥沼化し』七『年にもわたる長期戦となった。
一方、対相馬戦においては、相馬盛胤・義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが』、天正七(一五七九)年『には田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図り』、天正一〇(一五八二)年『には小斎城主・佐藤為信の調略に成功すると』天正一一(一五八三)年五月、『ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・丸森城の奪還に成功し』、翌年一月『には金山城をも攻略した』。『伊具郡全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年』五『月に祖父・稙宗隠居領のうち』、『伊具郡を伊達領、宇多郡を相馬領とすることで和平が成立した。ここに至って伊達家は稙宗の頃の勢力圏』十一『郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。このことは』天正一一(一五八三)年四月『の賤ヶ岳の戦いで盟友・柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて滅亡したことを受け』同年六月五日、『付の甥・岩城常隆に宛てた書状の中で、秀吉の勢力が東国に及ぶような事態に至れば奥羽の諸大名を糾合してこれに対抗する意思を示している』『ことからもうかがえる』。天正一二(一五八四)年十月六日、『蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後わずか』一『ヶ月で当主となった盛隆の子・亀王丸の後見となる。輝宗はこれを期に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した舘山城に移った。以後自らは越後介入に専念するつもりであったという。ところが、家督を継いだ政宗は上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上による共同での越後介入策を放棄したため、蘆名家中において伊達家に対する不信感を増大させるに至った』。翌天正十三年『春に、政宗は岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光・岩城常隆・伊達成実らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして』、『定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年』四『月に大内氏に対する討伐命令を下した。定綱は蘆名盛隆未亡人(輝宗妹・彦姫。亀王丸の母)にとりなしを求めたものの、政宗は』五『月に突如として蘆名領に侵攻し(関柴合戦)、これに失敗すると』、『定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった』。同年十月、『義継は政宗に降伏を申し入れ、輝宗と伊達実元の斡旋により五カ村を除く領地召し上げの厳しい条件で和睦した。同月』八『日に義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れたが、面会が終わり出立する義継を玄関において見送ろうとした輝宗は、義継とその家臣に刀を突きつけられ』、『捕えられた。伊達成実の著作とされる『成実記』および伊達家の公式記録である『伊達治家記録』によると、同席していた成実と留守政景が兵を引き連れて遠巻きに追ったが、二本松領との境目にあたる阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗が「自分を気にして家の恥をさらすな。わしもろともこ奴を撃て」と叫び、それが合図となって伊達勢は一斉射撃を行ったという。この銃撃で輝宗と義継を始めとする二本松勢は全員が死亡し、鷹狩中であった政宗が一報を受け』、『現場に到着したのは既に全てが終わってからであったとしている』(下線やぶちゃん)。長々と引いたのには理由がある。それは先に推定比定した主人公「濱田喜兵衛」の君主小川「越前守隆景」は天正~文禄年間(一五七三年から一五九六年)の三坂城城主であったという事実と、ここで輝宗によって三坂城が「責落(せめおと)さ」れたという記載とがやや矛盾するようにも思われるからである。私の読みの推定比定や読み方が誤っているのか、或いは、事実とは異なった設定で三坂が本話を書いているのか、私にはまるで判らない。お手上げである。戦国史に御詳しい方の御教授を乞うものであるが、やはり、注の最後に決定打を示すこととする。
「水車(みづぐるま)に𢌞し」水車が回るように自由自在に、ぶん回して。
「新田常陸之助」天正一三(一五八五)年の時点で、実在した輝宗の有力家臣の武将として名が見える。
「長山越中」下は越中守であろうが、不詳。三好氏の有力家臣団には長山姓を見出せない。
「遠藤越後」下は越後守であろうが、不詳。以下、同前。
「吾妻甚平」不詳。以下、同前。
「吉田大藏」不詳。以下、同前。
「上三坂」現在の福島県いわき市三和町(みわまち)上三坂(かみみさか)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「下三坂」現在の上三坂の東北直近の三和町下三坂附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「奧州磐崎郡(いはさきのこほり)三坂村曹洞宗久長山耕山寺」現在の福島県いわき市三和町上三坂字中町地内に現存。後に出る通り、兵火と自家出火による火災によって、悉く焼失してしまい、寺の由緒が不明であるとする。ネットでも、めぼしい情報はない。
「捨石」不詳。
「幸山院殿重嚴壁公禪門」見る通り、浜田喜兵衛の主君「三坂越前守隆景」の法名。以下はその三坂氏菩提寺である耕山寺の略歴。
「三坂合戰」不詳。但し、注の最後に決定打を示すこととする。
「星、ふり」幾「星」霜を「經り」。
「近頃、耕山寺の祖玄といふ僧、あらたに地藏の緣起を作る。しかれ共、其文言(もんごん)、拙(つたな)くして虛妄の說のみ多(おほく)、用(もちふ)るに不足(たらず)」ひどい書かれように見えるが、筆者の三坂春編が隆景の後裔であるという事実を考えるなら、何となく判らんでもない。
「御代々三坂氏菩提所耕山寺へ」底本に従い、最後に句読点を打たなかった。これは、当時の筆録法に従ったもので、貴人を示す文字(ここは「將軍樣より」)が出る場合に改行して行頭へ持って行ったものである。
「御朱印被成下」「御朱印、成し下さる」。
「大猷院」第三代将軍徳川家光の諡号。
「地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事」恐らくはこれが朱印状の標題で「地藏堂領陸奧國磐崎郡三坂村内拾石事」であると思われる。されば、次の訓読文に前の部分も含めて推定で附してみた。
「任二先規一令二奇附一之訖。可收納。幷於當所別當耕山寺中門前・山林竹木・諸役等免除、如有來永不可有相違者也」底本の読みを参考に(一部、従っていない)書き下してみる。
*
御朱印、成し下さる。
大猷院樣〔御朱印〕
地藏堂領、陸奧國磐崎郡三坂村の内、拾石の事
先規(せんき)に任せ、奇附(きふ)せしめ、之れを訖(おは)んぬ。收納すべし。幷びに、當所(たうしよ)別當(べつたう)に於いて、耕山寺中(じちう)・門前・山林竹木・諸役等(とう)免除し、有り來たるごとく、永く相違有るべからざる者なり。
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「慶安元年七月十一日」一六四八年八月二十九日(この年は正保五年二月十五日(一六四八年四月七日)に慶安に改元している)。
「油井正雪・丸橋忠彌」次の「惡人」の条で頭に名が出るので、そこで注する。
「慶安太平記」史書ではないので注意。慶安四(一六五一)年に浪人由比正雪・丸橋忠弥らが幕府転覆を図った、慶安事件(慶安の変)を扱った実録本・講談・歌舞伎などの題名または通称。由来は正雪が楠流の軍学者で、「太平記」の主要人物である楠木正成の子孫と称したという巷説から。
以下、予行通り、最終注を附す。
モデル人物の隔靴掻痒の注を附しながら……それとは別に……この怪談……どうも……いつか昔……読んだことがある気がしてきていた……そうして……人物探索のためにいろいろな通称を掛け合わせて検索している中……見つけた! 「あっつ! あれか!!」と思わず、叫んだのである。
これは綱淵謙錠(大正一三(一九二四)年~平成八(一九九六)年)氏の怪異譚集「怪(かい)」に載っていたのだ!
私がそれ(昭和五七(一九八二)年中公文庫刊)を読んだのは、実に三十五年前、教員になって三年目のことだった。
先程、書棚に発見した。
当該小説集は「あとがき」によれば、所収する十篇の半分の五篇が、まさに「老媼茶話」に取材したものであった。
本話を素材にしたものは、まさしく小説集の題である「怪」であった。
当該作は、再度してみたが、ただの現代語訳ではなく、それぞれのシークエンスに深みがあり、途中に別な話柄を挟み込んだ、粋な時代怪奇小説に仕上がっている。
一綱淵氏はその一番最後のパートを、原話のように浜田喜兵衛関連の事蹟と、その最期を叙述して締めくくっておられる。それを引いて、私の半可通の注に箔を添えたいと思う。綱淵氏の著作権は存続しているが、最終パートはそれほど長くないし、私としては、どうしてもここに掲げたい内容で、あの世の綱淵氏もお許し下さるように思うのである。
《引用開始》
浜田喜兵衛の仕えた三坂越前守隆景は岩城(いわき)氏に臣属し、会津の蘆名氏に加勢して、伊達氏に反抗していた。
当時の伊達氏は独眼竜政宗の父輝宗の時代で、蘆名氏と奥州を二分し、米沢に本拠を置き、三春の田村氏と盟約を結んで勢力を拡大しようとしていた。世は元亀・天正の戦国末期、食いつ食われつの明け暮れのなかに、三坂城は二人の豪勇の士で、その堅陣を誇っていた。
一人は吾妻(あづま)八郎教為(のりため)であり、もう一人が浜田喜兵衛景之(かげゆき)であった。世人は二人を〈三坂の双壁〉とたたえ、竜虎並んで城を出づれは三坂勢に敵なし、と恐れられた。
ところが吾妻八郎教為は、あるとき山伏を殺害し、その怨霊に取り憑かれて悶死して果てたため、三坂城の命運はいつに浜田喜兵衛の双肩にかかることになった。
天正八年六月、蘆名盛氏(もりうじ)が死んだのを境として、蘆名の盛運は次第に下降線をたどり、伊達との勢力の均衡は破れて、天正十三年十月、三坂城は伊達・田村連合軍の攻略するところとなった。
このとき浜田喜兵衛は金の大半月の前立物(まえだてもの)を打った塗鉢(ぬりはち)の兜をいただき、朱具足の鎧を着け、八寸(やき)(四尺八寸)[やぶちゃん注:地面から跨る背部までの高さが一メートル四十四センチメートルあまりの馬。馬は「四尺」が標準。]にあまる黒馬にまたがって大薙刀を水車のように振り廻し、手勢百人を引きつれて、押し寄せた新田常陸介(ひたちのすけ)の軍勢三千人の真ツ只中めがけて魚鱗懸(ぎょりんがか)かり[やぶちゃん注:陣形の名称。中心が前方に張り出し、両翼が後退した陣形。△の形に兵を配する。]に駈け入って、主従相互に大声を掛け合い、十方に駈け散らし、八方に追い靡かせ、ひた物狂いに敵を追い返けること三回。「鬼神も三舎を避けよう」と、敵味方その勇猛ぶりを賞嘆せぬ者はなかった、という。[やぶちゃん注:「三舎を避く」は、元来は「辞退したり、しりごみをすること」であるが、転じて、謙遜して相手に一目置くことを指す。中国の故事で「三舎の距離を退く」というのが原義。「一舎」は三十里(本邦の概ね約五里)に相当する単位で、古代中国の軍隊が一日行軍して宿舎したことに由来する。三舎は三日分もの行程に当たるので、この語は元が「戦意のないさま」の形容であった。]
そのうちに三坂勢は全軍城門を押し開いて打って出で、乱軍[やぶちゃん注:「みだれいくさ」と訓じておく。]となって城中に火の手が挙がり、黒煙万丈、数刻後には全員討死して落城の悲運を迎えた。
その間に浜田書兵衛は〈能武者十四五騎切殺し、敵味方の目をおどろかし、潔く討死せり〉と旧記は語っている。
この三坂合戦のさいの出火で、三坂家の菩提寺であった曹洞宗の久長山耕山寺も類焼し、本尊の阿弥陀仏、十王堂、地蔵堂、寺宝の旧記までも、ことごとく焼失した。そのため当時の史実を探るべき先記は全く存在しない、という。
ただわずかに三坂山に残る石垣のみが三坂の城あととして、長いあいだ往事を語りつづけて来たが、その石垣の上の松籟に、遠いつわものどもの雄たけびや勝鬨をしのぶ人もいた。そして月の明るい晩など、その松籟にまじって、鼓の音が遠く近く聞える、といわれた。だれか風流人の手すさびででもあったのであろうが、ある本は、浜田喜兵衛の死を喜ぶ狸の腹鼓である、と書き伝えている。もっとも、それをまことと信じる人間がこの世に存在しなくなって久しい。
《引用終了》
私の注の疑問は、かなり、この綱淵氏の文章で明解にされていると思う。細かな不分明部分はあるが、私のは、怪奇談の電子化注であって、注は戦国史を正確に明らかにすることにあるのではないから、この辺りで、お許し願いたく存ずる。明確な誤りは御指摘頂ければ訂正する。]
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