老媼茶話 齊地記(始皇帝、石橋を架けんとす)
齊地記
始皇帝以テㇾ術ヲ召ㇾ石ヲ自-行。至ㇾ今ニ皆東ニセリㇾ首ヲ。
[やぶちゃん注:「齊地記」(せいちき)は斉の秀才で、晏嬰の子孫と思われる尚書郎晏謨(あんも)の撰になる斉(現在の山東省)の地誌。全二巻。唐志地理類に入っているらしいが、捜し得なかった。しかし、中文サイトで「欽定四庫全書」内の唐の徐堅の撰になる「初学記」の「巻二」の「天部」の一節、橋の架橋(舟を並べた浮橋を含む)について記した中に(下線太字は私が附した)、
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秦都咸陽渭水貫都造渭橋及橫橋南渡長樂宮漢作便橋以趨茂陵【對便門作橋故亦謂之便門橋】並跨渭以木爲梁漢又作覇橋以石爲梁【長安又有飲馬橋洛陽魏晉以前跨洛有浮橋洛北富平津跨河有浮橋卽杜預所建又有車馬橋鄂坂有黃橋吳有朱雀橋歷晉逮王敦反後改爲乘雀橋又有枝橋羅落橋張侯橋張昭所造故名之又有赤欄橋白虎橋雞鳴橋蜀有七橋一冲里橋二市橋三江橋四萬里橋五夷里橋六笇橋七長升橋云李氷造上應七星又有鴈橋漢安橋廣一里半又有隂平橋升仙橋相如題者襄陽有木蘭橋一名豬蘭橋雀鼠谷有魯班橋上方有鬼橋陜城有鴨橋淸河有呂母橋章安有赤蘭橋上虞有百官橋仇池冇博山橋覆津橋鹿角橋泗水有石橋張良遇黃石公處也東海有石橋秦始皇造欲過海也後涼有通順橋在燉煌後燕有五丈橋此皆晉魏已前昭昭尤著也】事對造舟 鞭石【造舟事已見上叙事中齊地記曰秦始皇作石橋欲渡海觀日出處舊説始皇以術召石石自行至今皆東首隱軫似鞭撻瘢勢似馳逐】飛洛 浮河【成公綏洛禊賦曰飛橋浮濟造舟爲梁春秋後傳曰赧王三十八年秦始作浮橋于河】
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とあるのを見出した。本文を訓読しておくと(一部に送り仮名を〔 〕で補塡した)、
始皇帝、術を以つて石を召〔すに〕、自行(じぎやう)す。今に至〔るまで〕、皆、首を東にせり。
三坂の本文では、ただ、
始皇帝は、道術を以って石それ自身を能動的に動かさせて何かを作ろうとした。(が、それは完成せず、)今に至るまで、その動かした石は、皆、悉く、その運動の跡を東方に向けている。
と読めるのみである。しかし、前条の「註千字文」の始皇帝に命じられて蓬莱を求めて東海に旅立った徐福の話の後に配されてあること、さらに以上の「初学記」の最後の部分を見ることで、これは、「ガリヴァ―旅行記」のラピュタのように東海洋上に浮いているともされた仙境蓬莱山へ、始皇帝が石に術をかけ、大陸から東海へ、蓬莱山へ、夢の浮橋を架けるように指示した(「鞭石」とは鞭で東を指して行くようにさせた石、或いは、その先導を仰せつかった石の意ではないか?)が、徐福の任務不履行によって、それを果たせず(架け渡すべき蓬莱山の位置を特定出来ないのだから当然)、始皇帝は亡くなり、それらの石は、皆、東を指して向いたまま、今も転がっているばかりだ、と読めるように思うのであるが、如何?]
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