北越奇談 巻之五 怪談 其八(霊の訪れ その二)
其八
鬼木村(おにきむら)何某(なにがし)、業(なりはひ)のため、女房並小児一人を家に殘し、東武に出(いで)て奉公せしが、兎角に不仕合(ふしあはせ)打續(うちつゞ)き、家に歸ること、能(あた)はず。已に三年を歴(ふ)れども、音信(いんしん)を絶(たえ)たりければ、自(みづか)ら思ひらく、
「國に殘せし妻子も、今は我を見限り、他(た)の家(いへ)に嫁(か)せしならん。」
と、終(つゐ)に裏店(うらだな)のかすかなる所を借住居(かりずまゐ)して、其冬、新たに妻を迎ひけるが、ある夜(よ)、忽(たちまち)、國に殘せし本妻、來たりて、枕のもとに立てり。
かの男、驚きて、是を見れば、面(おもて)靑く、髮を亂(みだ)し、眼(まなこ)光り、暗夜(あんや)を貫き、怒れるありさま、身の毛もよだちて、更に声を出(いだ)すこと不ㇾ能(あたはず)。即(すなはち)、かの化物、手を伸(の)べて、夫婦が髮を握り引上(ひきあ)げしが、
「アッ。」
ト声を立(たえ)たれば、忽(たちまち)、消(きえ)て、あとなくなりぬ。
其引(ひき)し髮のあと、強く痛(いたみ)て、終に夫婦とも、髮拔けて、已に半(なかば)を減ず。
其妻、是を愁(うれひ)て去(さる)。
彼(かの)男も又、苦愁(くしう)の餘り、僧となりて、諸國に巡礼し、㚑佛(れいぶつ)に詣(ま)ふでて、七年と云へるに、本國に歸り、己(おのれ)が昔の家に至り、密(ひそか)に其樣子を窺ひ見れば、一人の女、衣(ころも)を洗(あらひ)て井の邊(ほとり)にあり。家の内を覗けば、十才ばかりの童(わらべ)、三、四人、戯れ遊ぶ。
かの男、思ひらく、
「是(これ)、如何なる人か。我家(わがいへ)を買得(かひえ)て住(すめ)るならん。」
と聞(きかま)ほしく、已に近付(ちかづき)、寄りて、衣を洗(あらふ)女の後(うしろ)に立ち、法謝(ほうしや)を乞ふ。
かの女、後(あと)へ振り向きたる顏を見れば、己が本(もと)の妻なり。あまりに打驚(うちおどろ)き、物をも云はず、立(たち)たれば、女も不審さうに立上(たちあ)がり、よくよく見れば、夫なり。共に驚きて、其故(ゆへ)を問ふ。
其妻なる者は、十年の貧苦をも不ㇾ厭(いとはず)、貞(てい)を守り、一子を養育して更に恨(うらむ)る所なしとぞ。
是、又、如何なる奇怪ぞや。
[やぶちゃん注:前話に引き続き、生霊譚であるが、これは本人が全く以って怨念を意識していない点、元の鞘に収まるハッピー・エンド(と思われる終曲)でも特異点の奇怪談と言える。
「鬼木村(おにきむら)」現在の新潟県三条市鬼木。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
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