北越奇談 巻之五 怪談 其十三(妖狐)
其十三
[やぶちゃん注:北斎画。キャプション「青山の老狐 村長藤次右衞門をあざむく」(村長(むらおさ)の名は「とうじえもん」(現代仮名遣))背後の柳の樹のうねりを見ると、この時期の彼が曲線の持つところの立体的で動的な求心力や遠心力を確信犯で用いていることが判る。]
新泻砂山の間(あいだ)に、靑山狐(あをやまぎつね)とて、人に妖をなすこと勝れて、奇談、多く、名に負ふ老狐(らうこ)あり。
爰に赤沙日と云へる所の村長藤次右ヱ門なる者、一とせ、夏の末つ頃、新泻のに公用の歸さ、砂山を通り、かの靑山にかゝりし時は、昼過(すぐ)る頃にて、暑さ、堪(たへ)難く、少しの木陰にやすらひ、彼(かの)狐の臥(ふし)たるとも知らず、草村(くさむら)に小便しけるが、狐、驚(おどろき)て走り出(いで)、後(あと)を、
「キツ。」
ト見返りて立(たち)ければ、藤次右ヱ門、大に驚き、
「扨は。彼(かの)名に負ふ妖狐なるべきに麁相(そさう)なることを仕出(しいだ)したるものかな。」
と後悔し、狐に向(むかつ)て申(まうし)けるは、
「狐どの、狐どの、其許(そこ)の昼寐し給へるをも知らず、疎忽(そこつ)に小便して驚(おどろか)し申したること、定(さだめ)て腹立(はらたち)申さるべけれど、此方(こなた)にも、ゆめゆめ、知らざるより起(おこり)しことなれば、必ず、必ず、恨(うらみ)給ふべからず。構へて、構へて、我を妖(だま)し給ふな。」
ナド返す返(がへ)す事を詫(わび)つゝ、後(あと)に付(つき)て行(ゆく)ほどに、彼(かの)狐、立止(たちどま)り、後(あと)振返(ふりかへ)り見たりけるが、路(みち)の傍(かたはら)に石地藏の立(たち)たる蔭に隱れ、やがて、其地藏を背に負ひ、草の葉を摑みて立上(たちあ)がれば、忽(たちまち)、女の小児を負ひ、手には風呂敷下ゲたるに妖(ばけ)たり。
藤次右ヱ門、大に驚き、聲をかけ、
「扨々、狐どの、狐どの、お手並のほどは驚入(おどろきいり)候へど、先刻より御(おん)詫び申(まうす)通り、重々、謝り入(いり)候ぞや。必(かならず)、必、我を迷(まよは)し給ふな。」
と言(い)ひば、かの女、後(あと)へ振り向き、
「此(この)お人は、何ごとを申され候や。わが身(み)ことは、此先の村より新泻へ緣づきたる者にて、只今、親里(おやざと)へ參るに候。あまり、おかしきことを、宣ふぞや。」
ナド打笑(うちわら)ひて、小児の泣(なく)を、搖(ゆす)り、搖り、先に立(たち)て行(ゆく)。
藤次右ヱ門、愈(いよいよ)、氣味惡く、さまざま詫ぶれども、何の答(いら)ひもなく、足早に行くほどに、何時(いつ)となく、日の暮かゝりて、漸(やうや)く一ツの村端(むらはし)に至れば、かの女、立止(たちどま)り、藤次右ヱ門に向かひ、
「扨も。此家(このや)が私(わたくし)の里に候。是(これ)にて御別(わかれ)申べし。日も暮れたれば、早く歸り給へかし。」
と云ひ捨(すて)、内に入(いり)ぬ。
内には、男女(なんによ)の聲して、
「やれ、娘よ。今來たりしか。此頃より、今日は、今日は、と待(まち)暮したるぞ。孫は成人せしか。」
など、口々に笑ひ語りて、さらに疑ふべくもあらざる親里と見ゆ。
藤次右ヱ門、思ひけるは、
「扨も、不思義なることかな。かの狐、我をこそ妖(だま)し侍るべきに、謀(はか)らざる此家内(かない)を迷(まよは)しぬることよ。何(いづ)れにもせよ、此事(このこと)、主人(あるじ)に知らせばや。」
と思ひ、門(かど)に佇(たゝず)み、内の樣子を窺ひ居(ゐ)る所に、家の主人(あるじ)と覺へて、年頃、五十ばかりの男、何か、用あるさまにて、門へ出(いづ)るを、手招きして、傍へ誘(いざな)ひ、
「扨、只今、此内へ入(いり)候女は真(まこと)の人にては、これ、なし。今日、かやうかやうのことにて、靑山の狐、石地藏を背負(せおふ)て女に妖(ばけ)たる也。必々(かならずかならず)、油斷し給ふな。」
と申しければ、亭主、以(もつて)の外、興を醒まし、
「扨々、妖しきことを聞(きゝ)申スことかな。あの女は拙者の娘にて、去年、新泻へ緣付(えんづけ)、當春(たうはる)、孫も出來(いでき)たれば、連來(つれきた)りて見せよがしと、折々(おりおり)言傳(ことづて)して、漸(やうや)く、只今、來(きた)れる也。何ぞ狐にて候はんや。」
藤次右ヱ門、又、云(いふ)。
「然(しか)らず、目の當たり、彼(かの)狐が妖(ばけ)たるを見て、跡に付(つき)て來りたるぞや。あたら、娘子(むすめご)の待設(まちもう)けを、狐に喰(くは)れ給ふな。」
ナド言(いひ)つのりければ、亭主、
「さらば、疑ふ所なし。兄よ、弟(おとゝ)よ。」
と呼ぶほどに、
「何事ぞ。」
と出來(いできた)るを竊(ひそか)ニしかじかの樣子を示し合(あは)せ、内に入(いり)て、俄(にはか)に火を盛んに焚立(たきたて)、物をも云はず、彼(かの)女を捕(とら)ひ、手取(てとり)、足取(あしどり)、持ち來り、猛火の上に、尻を焙(あぶ)れば、女は高く泣叫(なきさけ)び、母と祖母(ばゝ)とは立騷(たちさは)ぎ、
「何ごとをするぞ。」
とて、驚き詫(わ)ぶれども、男等(ら)は、更に聞(きゝ)入れず、
「今に尾を出だして見せんずるぞ。」
など、頻りに焙るほどに、終(つゐ)に、苦しみて、死(しゝ)たり。
然(しかれ)ども、更に、尾、出さず。
「扨は。其(その)曲者(くせもの)、赦(ゆる)すな。」
と、門(かど)に窺(うかゞ)ひ居(ゐ)たる藤次右ヱ門を捕(とら)ひ、高手小手(たかてこて)に縛り上げ、組合村長(くみあいむらおさ)に屆け、夫(それ)より領主へ訟(うつた)ひ出、
「諸役人立合(たちあひ)、吟味・白狀、明濟(めいさい)の上は。」
とて、終(つゐ)に、川原(かはら)へ引出(ひきいだ)され、首を、
「ハタ。」
ト打落(うちおと)しぬ。
扨も、藤次右ヱ門は、首、打落され、夢ともなく、現(うつゝ)ともなく、渺々(びやうびやう)たる砂原の仄暗(ほのぐら)き所に、出たり。
藤次右ヱ門、思ひらく、
「扨は、是ぞ、かの冥土黄泉(めいどくはうせん)の旅とは、此所なるべし。何卒(なにとぞ)して極樂の道に尋ね當たらばや。」
と、足にまかせて行(ゆく)ほどに、次第に薄明りて、遙(はるか)に鐘の聲、聞へければ、
「扨こそ。極樂も程近きと覺(おぼへ)たり。一時(いちじ)も早く行かばや。」
と、鐘の聲を導(しるべ)に、辿(たど)り付(つき)たれば、細き流(ながれ)に橋ありて、大なる精舍(しようじや)の堂上(どうしよう)に讀經の聲聞へて、切(しきり)に感淚、袖を絞り、門前は老若男女(らうにやくなんによ)、參詣群集(ぐんじゆ)のさま、殊勝(しゆしよう)、云ふべからず。
扨、傍(かたはら)に池ありて、紅白の蓮花(れんげ)、盛(さか)りに開(ひら)けたり。
藤次右ヱ門、心中に思ひけるは、
「我(わが)乘(のる)べき蓮(はちす)は孰(いづ)れならん。先(まづ)、乘りて見ばや。」
と、池の中へ、
「ざんぶ。」
と飛入(とびいり)、一莖(いつきよう)の蓮(はちす)に足をかくれば、
「ホキ。」
ト折れて、乘るべからず。
又、一花(いつくは)に足をかくれば、
「ホキ。」
ト折れて、池の中ヘ、
「どふ。」
と倒れたり。
參詣の男女、是を見て、
「それ、氣違ひよ、狂人よ。」
と呼(よば)はるほどに、寺中(じちう)よりも、大勢、驅け出、漸く池の中より引上(ひきあ)げ、
「さて其方(そのほう)は何者ぞ。」
と問へば、
「さればにて候。私(わたくし)、娑婆にありし時は、赤沙日村庄屋藤次右ヱ門と申(まうす)者にて候。」
と、震(ふる)ひ、震ひ、申(まうし)ければ、皆々、大に笑ひ、
「扨は、狐付(きつねつき)ならん。」
と云はれて、漸々(やうやう)心づき、見れば、新泻の寺町なりけり。
[やぶちゃん注:私の好きな話である。
「新泻砂山」この「砂山」は固有名詞かと思っていたが、どうも新潟の砂丘地帯を指しているらしい。諸情報から、ここに出る狐を祀る「青山御幣稲荷神社」が現在の新潟県新潟市西区青山に存在し(ここ(グーグル・マップ・データ))、その地図を見て貰えば判る通り、ここから海岸線一帯が「青山」という地名であること、画像を航空写真に替えると、その海岸一帯(小針浜海水浴場等)が砂丘であることが判る。のみ氏のブログ「馬の会長日記」の『初めてのお散歩「青山の五平狐」』(リンク先には完全ではないが、本話の現代語での訳も載っている)によれば、この神社は『かつては砂丘の上にあ』ったが、昭和三九(一九六四)年の『新潟地震の際に砂丘が整地され』、『この場所に移った』という。また、創建は万治四・寛文元(一六六一)年とも、一説には建久四(一一九三)年とも言われる、とある。なお、全文の逐語的訳としては、ずっと昔から好きなサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典文学の壺」に「青山狐」がお薦めである。但し、この程度の古文を古文で味わえないというのは、日本人として大いに恥ずかしいことだと私は感ずる人種である。
「赤沙日」原典は後の二箇所ともにルビが黒く潰されている。野島出版版は『あかさび』と振る。この漢字表記では現在地名は見出せないが、幾つかの候補は挙がった。その中で、新潟に行き、帰りにこの青山地区を通過して帰るという条件に合うものとしては、現在の新潟市西蒲区赤鏥(あかさび)が挙げられる。ここ(グーグル・マップ・データ)。違っていれば、御教授願いたい。青山からは南西に直線で十八キロメートルほどある。
「草村(くさむら)」叢。
「麁相(そさう)なること」「粗相」に同じい。原義は「不注意から起こす失敗・軽率な過ち・しくじり」の意であるが、現在でも子供などが「大小便を洩らすこと」に限定的に使うから、ここは小便を妖狐にひっかけるというところの面白みをこの語が倍加させると言える。
「疎忽(そこつ)」「軽はずみなこと・注意や思慮が足りないこと」「不注意なために起こったあやまち・粗相」「失礼・無礼」の意。
「高手小手(たかてこて)」両手を後ろに回させ、首から繩を掛け、二の腕から手首までをみっちりと厳重に縛り上げること。
「組合村長(くみあいむらおさ)」この熟語では私は見かけたことがない(「日本国語大辞典」にも載らない)。各村の村長(里長)は名主(なぬし)・庄屋・村長(むらおさ)などがなったが、近隣の幾つかの村に関わって重大な事件が発生した場合などには代表して公儀や領主に訴え出る村長が予め決まっており、それをかく呼んだのかも知れない。「日本大百科全書」の「組合村」の最初の解説(二つ目のそれは文政の改革で関東取締りのために行われた文政一〇(一八二七)年に発令された「組合村」の設定を解説してある。これは関東一円に領主の異同に関係なく、近隣三~五箇村からの小組合と、さらに十近い小組合を結集して大組合を編成し、これを改革組合村の一単位としたもので、この大・小組合村にそれぞれ組合村役人を名主のなかから任命したのであるが(それは、まさに「組合村長」であろうが)、本書刊行より後のことであり、しかも場所も異なるから違う)によれば、近世の農村で『水利や林野の維持・管理のために周辺の村々が結集した組織。用水組合や林野組合などがある。また、助郷(すけごう)組合村や大庄屋(おおじょうや)管下の村々の行政的組合村があり、年貢徴収や触書(ふれがき)の伝達などを任務とした』とあるから、家族を誑かして娘を殺させたというゆゆしき重罪であり、現場は「青山」の村落地区でも、殺された娘は「新潟」の何れかの町内の者であり、犯人はずっと離れた「赤沙日村」のしかも「庄屋」であるからして、広域に亙る重大猟奇事件であるからして、ここは大庄屋管下の村々の行政的組合村としての村長に届け出たと考えてよいであろう。
「明濟(めいさい)」逐一はっきりと検証証明され尽くすこと。
「新泻の寺町」現在の新潟市西堀通りには四十三ヶ寺もの寺が並び、新潟約五百年の歴史を忍ばせ、現在でもこの辺りを「寺町」と通称している。新潟市公式サイト内の「新潟の町 坂道めぐり 寺町あるき」の「マップ1」(PDF)を参照されたい。恐らくはこの中の何れかの寺であろう。それにしても、妖狐に騙されて主人公はもと来た新潟へと五キロ近くも戻されたことになる。]
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