北越奇談 巻之六 人物 其九(徳人百姓次郎兵衞一家)
其九
正直は殊に夛(おほ)きものなれども、罸(ばつ)は擧(こぞつ)て是を論じ、賞(しよう)は隱れて傳へざるものなり。
爰に、蒲原郡中才村百姓次郎兵衞(じろべゑ)と云へる者、天性の正直にして、近郷遍(あまね)く是を知る所なれども、其(その)先キ、僅か四斗前(しとまへ)の田地を父兄より分(わか)ち得て、夫婦、農事を營むこと、他の人に倍せり。
常に田畑を耕して歸る時、復(また)來(きた)るべき所には、鍬・鎌なんど、皆、捨置(すておけ)り。人、其(その)失(うしなは)んことを氣遣ふ。次郎兵(じろべゑ)へ[やぶちゃん注:「へ」は崑崙独特の衍字めいたダブり。以下、同じ。]云(いふ)、
「何ぞ、人の物を取る心掛(が)けの者、あらんや。」
とて、更に不ㇾ疑(うたがはず)。
又、人の求(もとむ)る處あれば、己(おのれ)が用を省(はぶき)ても、是を與(あた)ふ。
一日(いちじつ)、大豆六斗を馬(むま)ニ付(つけ)て、市(いち)に賣る。其價(あたひ)、二貫文を得て、袋に入(いれ)、鞍に結(ゆ)ひ付(つけ)、自(みづか)ら、馬に乘(のり)て歸る。家の前に至り、馬より下(お)り、かの錢(ぜに)を見れば、巳に失(しつ)して、なし。家人、早く立戻(たちもどり)て、其(その)遺(おとしたる)錢を尋求(たづねもとめ)んことを催促(さいそく)す。次郎兵へ、即(すなはち)、もとの道に尋ね戾りしが、一丁ばかりにして、やがて、立歸(たちかへ)りぬ。家人、問ふ、
「遺錢(ゆいせん)ありしや。」
と。次郎兵の曰(いはく)、
「錢(ぜに)なしと雖も、我(われ)、是を失(うしな)ふて愁へば、人、是を拾得(ひろひえ)て喜ぶべし。」
とて、又、尋(たづぬ)る心、なし。家人も、是(これ)を然りとして、止(やみ)ぬ。
又、ある日、米十余俵(ひよう)をもて、三條の商人(あきびと)に賣(うる)。時過(ときすぎ)て、商人、來り、云ふ。
「米直段(こめねだん)、此比(このごろ)、殊の外、引下(ひきさげ)ケて、先(さき)キ、買得(かひえ)し米、大に損あり。」
と告ぐ。次郎兵への曰(いはく)、
「それは氣の毒なり。損あらば、此方(こなた)より、償(つぐの)へ參らすべし。」
と。商人(あきびと)、辭して不ㇾ受(うけず)。又、云(いふ)。
「公(こう)等(ら)は、賣買の利を以つて世渡(よわた)る者が、損ありては、不ㇾ叶(かなはざる)こと也。是非、償(つぐの)へ遺(つかは)し可ㇾ申(まうすべし)。」
と、相爭ふて不ㇾ止(やまず)、終(つゐ)に俵(たはら)を作り替(かへ)て、其損を補ふ。
其余(そのよ)、徳行(とくこう)、擧げて云(いふ)べからず。
子四人あり。皆、正直至孝、長子五郎次(ごらうじ)、妻を迎(むか)ひて、子、なし。二男八郎に嫁(めと)る。家内、皆、孝貞和順(こうていわじゆん)、鷄犬猫子(けいけんめうし)に至るまで、皆、相和して不ㇾ爭(あらそはず)。食を共にし、地を同(おなじう)して眠(ねふ)る。
五郎次、犬を好(このん)で四(し)疋を養(やしな)ふ。五郎次、外(ほか)に出(いづ)る時は、四犬(しけん)、相送(あいおくつ)て、二ツは川を越(こえ)て隨ひ行(ゆき)、二ツは家に帰る。又、更に他(た)の犬と相争ふこと、なし。皆、相馴(あいなれ)て遊ぶ。歸るに及(およん)で、二ツの犬、已に路(みち)に出迎(いでむか)ふ。如ㇾ此(かくのごとき)事、其(その)常なり。
其徳化(とくくは)、又、艸木(さうもく)に及(およぼ)して、年每(としごと)の耕作、其穀を得ること、他(た)に倍せり。
故に、家、富(とみ)て、父次郎兵へ一代の間(あいだ)に、十二石の祿を殖(ふや)しぬ。
過(すぎ)し年、其徳行を聞慕(きゝした)ひ、かの家に尋ね到り、相見るに次郎兵へなる者、鶴髮松姿童顏(くわくはつせうしどうがん)、眞(しん)の仙客(せんかく)を見るがごとく、年壽(ねんじゆ)已に八十二歳とぞ。
誠に羨ましき人と云ふべし。
[やぶちゃん注:「蒲原郡中才村」現在の新潟県新潟市西区新通仲才(なかさい)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「四斗前(しとまへ)」十升=百合=一斗で約十五キロ、四斗=四十升=四百合=一俵で約六十キロであるが、当時の感覚ではこれよりも有意に少なく、しかも「前」というのは未満という意味と採れるから、一俵に見るからに足りないほどの米しかとれないほどの面積の田という意味であろう。
「六斗」前の米換算なら、九十キログラムだが、大豆の場合は、信頼出来るサイト(醸造器具メーカーの大豆換算表を確認)によると七十八キログラムである。
「二貫文」江戸後期、一両は十貫文で、これが現在の金額に換算して五万円相当とするサイトがあるから、凡そ一万円相当となる。
「一丁」百九メートル。
「孝貞和順(こうていわじゆん)」野島出版補註に『孝は孝行、貞は心が正しく惑わない。和はおだやか。順は目上の人にしたがう』とある。
「十二石」一石は十斗であるから、二トン二百五十キログラム相当となる。
「鶴髮松姿童顏」野島出版補註に『鶴髪は髪の毛の白いこと。松姿は松の木が常緑で色をかえないことから長寿の姿をいう。童顔は児童のような顔』とある。]
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