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2017/09/25

老媼茶話 註千字文【畧之】(始皇帝と徐福)

 

     註千字文【畧之】

 

 秦の始皇帝、徐ふくに命して、ほう來宮へ行(ゆか)しめ、不老不死の藥を、もとむ。徐ふく、童男女五百人ともなひ、船にのり、ほう來宮至る。

 待期(マツゴ)過(すぎ)ても、かへらす。

 始皇帝、人をつかわし、仙藥の事を、とはしむ。

 徐福かいはく、

「海底に蛟龍(みづち)あり。ほう來に至る事、あたわす。」

といふ。

 始皇帝、則(すなはち)、大あみをつくり、大蛟龍を取(とり)、是をころす。

 魚の長さ、三拾里。

 始皇帝、これより、やまふを受て、たゝす。

 終(つひ)に沙丘に崩し玉ふと云々。

 

[やぶちゃん注:「千字文」(せんじもん)は子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために作られたられた、一千字の総て異なった文字を使って作られた漢文の長詩を広く指す。ウィキの「千字文によれば、南朝の梁 (五〇二年~五四九年)の『武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣』『に文章を作らせたものである。周興嗣は、皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え、皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。王羲之の字ではなく、魏の鍾繇の文字を使ったという異説もあるが、有力ではない。完成当初から非常に珍重され、以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した』。内容は『「天地玄黄」から「焉哉乎也」まで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた』、四字を一句と『する』二百五十『個の短句からなる韻文で』、『全体が脚韻により』九『段に分かれている』。『注釈本も多数出版され』ている。ここで三坂が採用した「註千字文」なるものは梁周興嗣撰他になる「纂圖附音増廣古注千字文」(全三巻)である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して、当該部を発見したここ)。「昆池碣石」部分の註釈の中間部であるが、一部を省略してある。それが標題下の割注「之れを畧す」の意味であろう。

「徐ふく」「徐福」。ウィキの「徐福」より引く。『斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)』出身の方士。司馬遷の「史記」の『巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け』、三千『人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり』、『戻らなかったとの記述がある』(リンク先に原文有り)。『東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山については』後に日本でも広く知られるようになり、「竹取物語」でも『「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる』。『瀛州はのちに日本を指す名前となった』。同じ「史記」の『「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている』。「日本における伝承」の項。『青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県出水市、いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である』。『徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。 丹後半島にある新井崎神社に伝わる』「新大明神口碑記」という古文書には『徐福の事が記されている』。『徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から』二千二百『年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅』一・五キロメートル『のところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている』。『徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある』。『徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し』、『徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である』。『富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群』「富士文献」は『漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している』ものであるが、この「富士文献」は『徐福が編纂したという伝承があ』る。しかし、それらは『文体・発音からも』、『江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない』。『北宋の政治家・詩人である欧陽脩』の七言詩「日本刀歌」には、「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(其の先(せん) 徐福 秦の民を詐(たばか)り/藥を採ると淹留(えんりう)して 丱童(くわんどう) 老いたり/百工 五種 之れとともに居り/今に至るまで 器玩(きぐわん) 皆 精巧)『(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する』とある。

「待期(マツゴ)」予定していた帰国の時期を待って、それを「過(すぎ)ても」「かへらす」「歸らず」。

「つかわし」ママ。「遣(つかは)す」。

「あたわす」「能はず」。

「大あみ」「大網」。

「蛟龍(みづち)」ウィキの「蛟龍」によれば、『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』。『日本では、「漢籍や、漢学に由来する蛟〔コウ〕・蛟竜〔コウリュウ〕については、「みずち」の訓が当てられる。しかし、中国の別種の竜である虬竜〔キュウリュウ〕(旧字:虯竜)や螭竜〔チリュウ〕もまた「みずち」と訓じられるので、混同も生じる。このほか、そもそも日本でミズチと呼ばれていた、別個の存在もある』(ここで言う本邦での「みずち」(古訓は「みつち」)は水と関係があると見做される竜類或いは伝説上の蛇類又は水神の名である。「み」は「水」に通じ、「ち」は「大蛇(おろち)」の「ち」と同源であるともされ、また、「ち」は「霊」の意だとする説もある。「広辞苑」では「水の霊」とし、古くからの「川の神」と同一視する説もあるという)。『ことばの用法としては、「蛟竜」は、蛟と竜という別々の二種類を並称したものともされる。また、俗に「時運に合わずに実力を発揮できないでいる英雄」を「蛟竜」と呼ぶ。言い換えれば、伏竜、臥竜、蟠竜などの表現と同じく、雌伏して待ち、時機を狙う人の比喩とされる』。荀子勧学篇は、『単に鱗のある竜のことであると』し、述異記には『「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜となる」とある。水棲の虺』は、一説に蝮(まむし)の一種ともされる。「本草綱目」の「鱗部・龍類」によれば(以下、最後まで注記番号を省略した)、『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられたとされている。長さ一丈余』(約三メートル)『だが、大きな個体だと太さ数囲(かかえ)にもなる。蛇体に四肢を有し、足は平べったく盾状である。胸は赤く、背には青い斑点があり、頚には白い嬰』(えい:白い輪模様或いは襞(ひだ)或いは瘤の謂いか?)『がつき、体側は錦のように輝き、尾の先に瘤、あるいは肉環があるという』。但し、蛟は有角であるとする「本草綱目」に反して、「説文解字」の『段玉裁注本では蛟は「無角」であると補足』して一定しない。「説文解字」の小徐本系統の第十四篇によれば、「蛟竜屬なり、魚三千六百滿つ、すなわち、蛟、これの長たり、魚を率いて飛び去る」(南方熊楠の「十二支考 蛇に關する民俗と傳説」から私が改めて引用した)『とある。原文は「池魚滿三千六百』『」で、この箇所は、<池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟竜がボス面をしてやってきて、子分の魚たちを連れ去ってしまう、だが「笱」』(コウ/ク:魚取り用の簗(やな)のこと)『を水中に仕掛けておけば、蛟竜はあきらめてゆく>という意』が記されてあるそうである。「山海経」にも『近似した記述があり、「淡水中にあって昇天の時を待っているとされ、池の魚が二千六百匹を数えると蛟が来て主となる」とある。これを防ぐには、蛟の嫌うスッポンを放しておくとよいとされるが、そのスッポンを蛟と別称することもあるのだという』。更に時珍は「本草綱目」で『蛟の属種に「蜃」がいるが、これは蛇状で大きく、竜のような角があり、鬣(たてがみ)は紅く、腰から下はすべて逆鱗となっており、「燕子」を食すとあるのだが、これは燕子〔つばくろ〕(ツバメ)詠むべきなのか、燕子花〔カキツバタ〕とすべきなのか。これが吐いた気は、楼のごとくして雨を生み「蜃楼」(すなわち蜃気楼)なのだという』。『また、卵も大きく、一二石を入れるべき甕のごと』きものである、とする。

「三拾里」「千字文」とこの古註が書かれたのは東晋期に当たるので、当時の一里は四百四十メートルしかない。従って、十三キロ二百メートルに相当する。「荘子」的、というか、中国的スケールである。

「これより、やまふを受て、たゝす」「やまふ」は「病ひ」、「たゝす」は「立たず」(立てなくなった)。「これより」とあるから、蛟龍を獲り殺したことがその病いの原因であり、少なくとも三坂はそれが遠因となって始皇帝は崩御し、秦も滅ぶこととなったと言いたい感じである。

「沙丘」地名。始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年)は七月の暑い最中(さなか)、巡幸中の沙丘の平台(現在の河北省平郷。ここ(グーグル・マップ・データ))で亡くなった。]

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