北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)
其二
酒轉(しゆてん)童子、蒲原郡砂子塚村(すなごづかむら)の産、今、猶、屋敷跡あり。卽(すなはち)、雲上山國上寺(うんしようざんこくしようじ)の行(ぎよう)法印に給侍せ兒童なり。世、皆、知ㇾ之(これをしる)。
彌三郞が老婆【伊夜日子山(いやひこやま)の鬼女なり、】、世人、皆、知れる所なれば、傳を略す。只シ、別傳一册あり。追(おつ)て上梓すべし。
[やぶちゃん注:改行は原典に従った。野島出版版はベタ一段落。
「酒轉(しゆてん)童子」酒呑童子のこと。野島出版脚注には、通説を以下のように載せる。『酒転童子は、西漂部分水町大字砂子塚の人。胎内に在ること十六ケ月で普通の子どもよりは大きかった。少年(八才という)の頃、和納の楞厳寺』(りょうごんじ:現在の新潟県新潟市西蒲区和納(わのう)にある。現在は曹洞宗)『に学んだが』、『乱暴で致し方がないので、国上寺へ小僧にやられた。成長して身長が八尺になった。こゝでも不良性を発揮して止まないので寺を逐い払われた。暫らく国上山中の東稲場の洞穴に住居して居たが、各地に飛びあるき、地方の乱暴者を引きつれて』、『丹波大江山の岩窟に立てこもり、近郷に掠奪して遂に京都に及んだ。丹波の藤原保友、丹後の藤原経教なども如何ともすることが出来ないので』、『朝廷に鎮圧方を奏上した。そこで、一条天皇の勅命をうけて、源頼光はその臣渡辺綱、酒田公時、碓井貞光、卜部季武、平井保昌等と兵を合わせて、正暦元寅年』(「しょうりゃく」と読む。ユリウス暦九九〇年)『正月廿五日洒転童子の一党をみな殺しにして鎮定したということである(「越後野志」、「温古の栞」等より)』とある。次の次の注も参照されたい。
「蒲原郡砂子塚村(すなごづかむら)」現在の新潟県燕市砂子塚附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。弥彦山や国上寺の東南直近。
「雲上山國上寺(うんしようざんこくしようじ)」複数回、既出既注であるが、酒呑童子に絡んだ、「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十四 「風穴」)」に載せたものを一部、再掲しておく。現在の新潟県燕市国上(くがみ)にある、和銅二(七〇九)年、越後一の宮弥彦大神の託宣によって建立されたとされる、越後最古の古刹とする真言宗雲高山(うんこうざん)国上寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。山号は誤り(同寺北のピークである山は寺名と同じ国上山)。詳しい沿革は同寺の公式サイト内のこちらが詳しいが、慈覚大師円仁・源義経・上杉謙信及び良寛(晩年の三十年間、ここの五合庵に住み、最晩年はこの麓の乙子神社境内社務所へ、最後は島崎村(現在の長岡市)木村元右エ門の邸内に移った)所縁の寺でもある。さらに調べてみると、面白いことが判った。何と、この寺は、かの酒呑童子(のモデルというべきか)が少年の頃、この寺で過ごし、修行をしたというのである。地元の民草は彼を鬼と見做し、彼らが棲む「穴」を「鬼穴」と称したという伝承がkeiko氏のブログ「自分に還る。」の『酒呑童子~越後から大江山へ●国上寺「酒呑童子絵巻」から』に載っている。この題名にもある通り、国上寺には「大江山酒呑童子繪卷」とともに寺の縁起が残されており、そこには酒呑童子の生い立ちがくわしく記されているという。「能面ホームページ」のこちらによれば、『恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来たとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊網が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられ』た。『外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された』が、『外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ』、『煙にまかれて気を失』ってしまう。『しばらくして気がついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわってしま』っており、遂に『外道丸は身をおどらせ』、『戸隠山の方へ姿を』消し、後に『丹波の大江山に移り』住んだとあるという。
「行法印」名であるが、不詳。
「彌三郞が老婆」「鬼女」野島出版脚注に『西蒲原部分水町大字中島』(現在の新潟県燕市中島。ここ(グーグル・マップ・データ)。後の「牧ヶ花」はその東直近。ここ(同前))『より牧ヶ花に通ずる旧道の傍に古来より弥三郎が邸地の跡とて』、『畑中方三間程』、『耕作を除き』、『老樹(榎)を存す。伝説によれば、弥三郎が母、夜毎、外に出て奇怪の悪業をなし、人を悩ますとの風評ありけれど、それとも知らず年月を経たりしに、ある暗の夜、弥三郎は鳥を捕えんとて、網を』使い『に出けるが、心持常ならざる故、家に帰らんとせし路に、突然』、『弥三郎が頸の骨をつかみ』、『引立て往かんとす。元来』、『豪勇の弥三郎、早くも腰に帯びたる鎌にて其の腕をかき切り、家に帰りしに、母は腹の痛むとて一ト間に臥し居たり。偖』(さ)『て翌朝』、『安否を問わんと一ト間へ往きけるに、母は居らず、寝所たりし外面』(とのも)『に鮮血を引し痕あり、之をたずねて往くに、前夜怪事にあいし処に至る。弥三郎は始めて母の鬼女なしことを知り、大いに驚嘆しける。其の後、母は国中の山野村里を横行して悪事をなせしに、同郡岩室村大字石瀬村青龍寺の住職某、彼の母に妙多羅天女と云う戒名を与えて済度ありしより』、『気質も柔和になりしとかや。其の終焉の地を知らず。今』、『木像が弥彦神社僻の宝光院に安置されている。中蒲原部村松の奥、安出村に弥三郎が後裔があると伝えられ、又古志郡蓮潟村の飛地で芹川村の前に、凡そ千坪の弥三郎が邸地の跡と伝えられる処があるという(温古の栞 第八篇による)』とある。彼女については、新潟地方に類話が多数散在しており、「ヤサブロバサ」という妖怪として認知されてもいる。幸い、高橋郁子氏の「ヤサブロバサをめぐる一考察」という優れたページが存在する。是非、読まれたい。サイト「福娘童話集」の「鬼女になった、弥三郎の母」は、この妖怪が佐渡にまで渡った話となっており、やはり読まれんことをお薦めする。
「伊夜日子山(いやひこやま)」既出既注の弥彦山。国上寺寄りにある。
「別傳一册あり。追(おつ)て上梓すべし」「北越奇談」の続編とは別にこうした出版も崑崙は予定していたらしいが、残念ながら続編同様、存在しない。]