北越奇談 巻之六 人物 其八(悲劇の孝子新六)
其八
蒲原郡釈迦塚村、新六と云へる貧民あり。
母に仕へて至孝實直類(たぐひ)なしと雖も、家、貧なるが故に、身を賣りて、谷江氏(たにゑうぢ)に仕ふ。
妻を不ㇾ迎(むかへず)、母一人、家にあり。新六、日々、農事を營み、寸隙(すこしひま)ある時は、即(すなはち)、母のもとに行(ゆき)て安否を問ふ。風雪炎暑といへ共、母を不ㇾ問(とはず)と云ふこと、なし。
母、常に雷(らい)を恐る。もし、雷電(らいでん)する時は、如何なる暗夜(あんや)・暴雨と雖も、起出(おきいで)て、母の家に至り、傍(かたはら)に侍す。
又、其身、貧乏に苦しむといへ共、貪慾の心、一点も、なし。主人の家を出(いで)て外(ほか)に遊ぶ時は、先(まづ)、主人並(ならび)ニ朋輩の見る前にて、自(みづか)ら衣(ころも)を脱ぎ、塵を拂ひなどして、且、着て、出去(いでさる)。其意、偏(ひと)へに人の疑はんことを憚るのみ。
後、母、病(やん)で目盲(めしゆ)。
依ㇾ之(これによつて)、主人に暇(いとま)を請受(こひうけ)、家に歸り、母を介抱す。又、僅かに耕作を營み、朝(あした)に出(いで)て、暮に歸る。其一日の努(つと)むる所、皆、以(もつて)、母に談(かた)り、慰(なぐさ)む。
又、母、盲なるが故に、新六が勞(らう)する所を知らず、不時(ふじ)に酒食魚肉等(とう)を求む。即、風雨・暗夜・日暮を不ㇾ論(ろんぜず)。今町(いままち)の市(いち)に走(はしり)て是を買ふ。其行程(ぎやうてい)、凡(およそ)二十余丁也。且、家貧なるが故に、價(あたひ)、僅か十錢(じつせん)に不ㇾ過(すぎず)と雖も、其勞を厭はず。
後に、母、亡(ほろ)ぶ。
新六、悲泣して不ㇾ止(やまず)、終(つゐ)に如ㇾ狂(くるふがごとく)、依(よつ)て農事を努(つと)めず、家、益々、困乏(こんぼう)、自(みづか)ら、人に寄りて、食を求む。又、雇れて食(しよく)す。
如ㇾ此(かくのごとき)こと、三年、病(やん)で茅屋に臥す。
只、谷江氏、爲ㇾ之(これをがために)、食を贈るのみ。
不日(ふじつ)にして、卒(そつ)す。
誠に可ㇾ愍(あはれむべし)。
予過(すぎ)し頃、其孝直(こうちよく)を聞(きゝ)、相尋(あいたづぬ)るに、已に沒して、子孫なし。涕淚(ているい)すれども、不ㇾ及(およばず)。
於ㇾ此(こゝにおいて)、一(ひとつの)論、あり。
前(さき)の春松(はるまつ)は、孝を以つて、一日千金(いちじつせんきん)の富(とみ)を得、此(この)新六は、至孝正直(せいちよく)にして、困乏、餓死す。
アヽ 天 孝子を愍(あはれむ)とならば 何ぞ 此新六を困(こん)せる
悼(いたま)しいかな 新六 惜(おし)いかな 新六
[やぶちゃん注:人間崑崙の悲憤慷慨は司馬遷が「史記」伯夷・叔斉の悲劇の生涯に投げかけた最後の言葉、「天道是邪非邪」(天道、是か非か)を想起させるほど、激しく私の胸を打つ。それを受け、詠ずるように、最後は句読点を恣意的に打たなかった。
「蒲原郡釈迦塚村」現在の新潟県見附市釈迦塚町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「谷江氏」この人物、古鏡の章に登場する人物である。崑崙の知人であったのである。
「先(まづ)、主人並(ならび)ニ朋輩の見る前にて、自(みづか)ら衣(ころも)を脱ぎ、塵を拂ひなどして、且、着て、出去(いでさる)」言わずもがな乍ら、主家から一銭の金さえも持ち出していないことを示すための仕草である。
「今町(いままち)」現在の新潟県見附市今町であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。釈迦塚の北、直線で二・五キロメートルほど。
「二十余丁」二十四町で二・六キロメートル。
「不日(ふじつ)にして」日を経ずして。
「前(さき)の春松(はるまつ)」前条「其七」の孝子春松。]
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