老媼茶話 宇治拾遺 海の恆世(相撲取海恒世の話)
宇治拾遺 海の恆世
後一條の御宇に、丹波の國にうみの恆世(ツネヨ)といふ角力取(すまひとり)の大力有。
恆世か家の傍に大沼有り。岸に、大木古木、生しけり、木陰、いと冷(すず)しかりけり。
ある夏、炎天、もゆるかことく、凌(しのぎ)かたかりしかは、恆世、かたひらはかりきて、あしたをはき、鐵棒をつき、小童壱人、めしつれ、件(くだん)のきし陰の大木に腰をかけ、扇ひらき、つかひ、暑(あつき)を凌き居たりけるに、俄(にはか)に、川水、みなきりて、泡立(あはだち)、きしの笆(ませがき)・あし・こも、ゆるきいて、大きなる蛇、水中より頭(かしら)をさしいたし、口をひらき、舌を出し、恆世をまもり居たるか、又、水に沈み、むかうのきしへ、およきわたり、松の大木を七重八重にまとひつき、尾斗(ばかり)、こなたゑさし越(こし)、きしに立(たち)たる恆世か足に、二重(ふたへ)三重に卷着(まきつき)ける。
恆世、兼てより、「かく此蛇のはかる」とは知(しり)たりけれと、『何ほとのことかあらん』と思ひ、少(すこし)も、さわかす。
蛇、力をいたし、しきりに強く引(ひく)。
恆世も、
「きつ。」
と踏張(ふんばり)、
「引とられし。」
と、こらへける。
蛇、あまりにつよく引しかは、胴中より、
「ふつつ。」
と引切(ひきき)れ、沼水、あけの血染(ちぞめ)となる。
恆世、あしをからみたる蛇の尾を引ほとき、水にて洗ひけれとも、へびのからみたる跡、うせさりける。
「酒にてあらふものなり。」
と兼々聞置(きこき)けれは、酒を取よせ、能々(よくよく)あらひけれは、其跡、常のことく成(なり)にけり。
きれたる蛇のきれ口の大きさを見るに、渡り壱尺斗(ばかり)あり。蛇のかしらの方は、猶、大木を、數返(すへん)、まとひいたりけるを、打殺しける。
近きあたりの人々、より集り、
「大蛇の引たるはいか斗(ばかり)の力そ。ためし見るへし。」
とて、大勢、繩をつけ、拾人斗にて引(ひき)けれとも、
「猶、たらす。」
と云けり。次第に人を增し、六拾人斗にて引ける時、
「蛇の力、是程ならん。」
と云ける。これらを以(もつて)、恆世か力をはかるに、百人力には越(こえ)たるへし。
此恆世、そのゝちの角力(すまひ)のせつ、陸奧の國の住人眞髮(マカミ)のなりむらと取(とり)ける時、頭(かしら)をつね世か胸につけ、つよく押(おし)たるを、恆世、引よせて、仰(ノケ)さまに、なけ付(つけ)たり。
つね世、相撲には勝(かち)けれとも、大ちからに胸ををされ、むねの骨、をれくたけ、本國江下るとて、はりまの國にて、むなしくなれり。
[やぶちゃん注:大蛇退治譚で前条と直連関。さて、問題は出典で三坂は表題で「宇治拾遺物語」とするのであるが、実はほぼ相同の話が先行する「今昔物語集」にあり、しかも三坂が主人公とする「恆世」は後者に明記されるものである(前者は「經賴(つねより)」で発音は似ていても、「恆世」と書き誤まる可能性は低い。或いは三坂が参考としたものは「今昔物語集」の話を誰かが合わせて纏めたものであったのかも知れぬ)。また、「宇治拾遺物語」をそのまま引いているわけでもない。そこで、まず、「今昔物語集」のものを示した上で、「宇治拾遺物語」版を提示しておく。
「今昔物語集」のそれは、巻第二十三の「相撲人海恆世會蛇試力語第廿二」(相撲人(すまひびと)海恆世(あまのつねよ)、蛇(へみ)に會ひて地からを試む語(こと)第二十二)である。
*
今は昔、丹後の國に海の恆世と云ふ右[やぶちゃん注:右衛門府方に所属した相撲取り。宮中行事の相撲(すまい)の節会(せちえ)に従事した公務員である。]の相撲人(すまひびと)、有りけり。
其の恆世が住みける家の傍らに舊河(ふるかは)有りけるが、深き淵にて有りける所に、夏の比(ころあひ)、恆世、其の舊河の汀(みぎは)近く、木景(こかげ)の有りけるに、帷(かたびら)[やぶちゃん注:裏を付けない(「袷(あわせ)の「片ひら」の意)衣服。単(ひとえ)物。]許りを着て、中(なか)結ひて[やぶちゃん注:裾が乱れぬように腰を帯や紐で結ぶことをいう。]、足駄(あしだ)を履きて、杈杖(またぶりづゑ)[やぶちゃん注:尖端が二つに分かれている杖。]と云ふ物を突きて、小童(こわらは)一人許りを共に具して、此彼(ここかしこ)冷(すず)み行(あり)きける次(つい)でに、其の淵の傍らの木の下(もと)に行きけり。
淵靑く恐しげに、底も見へず。葦や薦(こも)など生(お)ひたりけるを見て、立てりけるに、淵の彼方の岸の、三丈[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]許りは去りたらむと見ゆるに、水のみなぎりて、此方樣(こなたざま)に來たりければ、恆世、
「何の爲(す)るにか有らむ。」
と思ひて見る程に、此方の汀近く成りて、大きなる蛇(へみ)の水より頭(かしら)を指し出でたりければ、恆世、此れを見て、
「此の蛇の頭の程を見るに、大きならんかし。此方樣に上(のぼ)らんずるにや有らん。」
と見立てりける程に、蛇の、顏を指し出でて、暫く、恆世を守りければ、恆世、
「我を此の蛇は何にか思ふにか。」[やぶちゃん注:「我らを、この蛇めは、どうしようと考えておるのか?」。]
と思ひて、汀、四、五尺許り去(の)きて、動かで立ちて見ければ、蛇、暫し許り、守り守りて、頭を水に引き入れてけり。
其の後(のち)、彼方(あなた)の岸樣(きざま)に、水、みなぎると見る程に、亦、卽ち、此方樣に、水浪(みづなみ)、立ちて來たる。其の後、蛇の尾を水より指し上げて、恆世が立てる方樣に指し寄せける。
「此の蛇、思ふ樣(やう)の有るにこそ有りけれ。」
と思ひて、任せて見立てるに、蛇の尾を指し遣(おこ)せて、恆世が足を二返許り纏ひてけり。
「何(いか)にせむと爲るにか有らむ。」
と思ひ立てる程、纏ひ得て、
「きしきし。」
と引いければ、
「早う、我を河に引き入れむと爲るにこそ有りけれ。」
と思ふ。
其の時に、踏み強(つよ)りて立てるに、
「極じく強く引く。」
と思へるに、履きたる足駄の齒、踏み折りつ。
「引倒されぬべし。」
と思へけるを、構へて踏み直りて立てるに、強く引くと云へば愚かなりや、引き取られぬべく思へけるを、力を發して足を強く踏み立てければ、固き土に五、六寸許り、足を踏入れて立てるに、
「吉(よ)く強く引くなりけり。」
と思ふ程に、繩などの切るる樣に、
「ふつ。」
と切るるままに、河の中に、血、浮び出づる樣に見へければ、
「早う切れぬるなり。」
と思ひて、足を引きければ、蛇の引かされて、陸(くむが)に上ぼりにけり。其の時に、足に纏ひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、其の蛇の卷きたりつる跡、失せざりけり。
而る間、從者(じゆしや)共、數(あまた)來りけり。
「酒を以つて其の跡を洗ふ。」
と、人、云ひければ、忽ちに、酒、取りに遣りて、洗ひなどして後、從者共を以つて、其の蛇の尾の方を引き上げて見ければ、大きなりと云へば愚かなり、切口の大きさ、一尺許りは有らむとぞ見へける。頭(かしら)の方(かた)の切(きれ)を見せに[やぶちゃん注:見させるために]、河の彼方(かなた)に遣りたりければ、岸に大きなる木の根の有りけるに、蛇の頭を數(あまた)返り纏ひて、尾を指さ遣(おこ)せて、先づ、足を纏ひて引きけるなりけり。其れに[やぶちゃん注:逆接の接続詞。ところが。]、蛇の力の恆世に劣りて、中より切れにけるなり。我が身の切るるも知らず、引きけむ蛇の心は奇異(あさま)しき事なりかし。
其の後、
「蛇の力の程、人何(いく)ら許りの力にか有けると試みむ。」
と思ひて、大きなる繩を以つて蛇の卷きたりける樣に恆世が足に付けて、人、十人許りを付けて引かせけれども、而(しかも)、
「彼(か)れ許りは無し。」
とて、三人寄せ、五人寄せなど付(つけ)つ引かせたれども、
「尚、足らず。」
「足らず。」
と云ひて、六十人許り、懸りて引けきる時になむ、
「此許(かばかり)ぞ、思へし。」
と恆世、云ひけり。
此れを思ふに、恆世が力は、百人許りが力を持ちたりけるとなむ思ゆる。
此れ、希有(けう)の事なり。昔は此(かか)る力(ちから)有る相撲人(すまひびと)も有りけり、となむ語り傳へたるとや。
*
次に「宇治拾遺物語」のそれは、「經賴(つねより)、蛇に逢ふ事」である。
*
むかし、經賴(つねより)といひける相撲(すまひ)の家の傍らに、古川(ふるかは)のありけるが、深き淵なる所ありけるに、夏、その川の近く、木陰のありければ、帷(かたびら)ばかりきて、中結ひて、足駄はきて、またふり杖といふ物つきて、小童(こわらは)一人(ひとり)供に具して、とかくありきけるが、
「涼まん。」
とて、その淵の傍らの木陰に居(ゐ)にけり。
淵、靑く、恐ろしげにて、底も見えず。蘆・菰(こも)などいふ物、生ひ茂りけるをみて、汀(みぎは)近く立てりけるに、あなたの岸は、六、七段(たん)[やぶちゃん注:一段は六間であるから、六十六~七十六メートル強でとんでもない大河になってしまう。何かの間違いであろう。]斗りは、退(の)きたるらんとみゆるに、水のみなぎりて、こなたざまにきければ、
「何(なに)のするにかあらん。」
と思ふ程に、この方の汀近く成りて、蛇(くちなは)の頭(かしら)をさし出でたりければ、
「此蛇(くちなは)、大きならんかし。外(と)ざまにのぼらんとするにや。」
と見立てりける程に、蛇、頭をもたげて、つくづくとまもりけり。
「いかに思にかあらん。」
と思ひて、汀一尺ばかり退(の)きて、端(はた)近く立ちて見ければ、しばしばかりまもりまもりて、頭を引き入てけり。
さて、あなたの岸ざまに、水、みなぎる、と見ける程に、又、こなたざまに、水波、立ちてのち、蛇の尾を汀よりさし上げて、わが立てる方ざまにさし寄せければ、
「此蛇、思ふやうのあるにこそ。」
とて、まかせて見立てりければ、猶、さし寄せて、經賴が足を三返り、四返りばかり、まとひけり。
「いかにせんずるにかあらん。」
と思ひて、立てる程に、まとひ得て、
「きしきし。」
と引きければ、
「川に引き入れんとするにこそありけれ。」
と、そのをりに知りて、踏み強(つよ)りて立てりければ、
「いみじう強く引く。」
と思ふ程に、はきたる足駄の齒を踏み折りつ。
引き倒されぬべきを、かまへて踏み直りて立てれば、強く引くとも、おろかなり。引き取られぬべく覺ゆるを、足を強く踏み立てければ、かたつらに、五、六寸斗り、足を踏み入れて立てりけり。
「よく引くなり。」
と思ふ程に、繩などの切るるやうに切るるままに[やぶちゃん注:とともに。]、水中に血の、
「さ。」
と沸き出づるやうに見えければ、
「切れぬるなりけり。」
とて、足を引きければ、蛇(くちなは)、引きさして[やぶちゃん注:引くのを止めて。]、上ぼりけり。
その時、足にまとひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、蛇の跡、失せざりければ、
「酒にてぞ洗ふ。」
と人の言ひければ、酒とりにやりて、洗ひなどして、後に從者(ずさ)ども呼びて、尾の方(かた)を引き上げさせたりければ、大きなりなどもおろかなり。切口の大きさ、徑(わたり)一尺ばかりあるらんとぞ見えける。頭(かしら)の方(かた)の切れを見せにやりければ、あなたの岸に大きなる木の根のありけるに、頭の方を、あまた返りまとひて、尾をさしおこして、足をまとひて引くなりけり。力の劣りて、中より切れにけるなんめり。我あ身の切るるをも知らず引きけん、あさましきことなりかし。
其の後、
「蛇(くちなは)の力のほど、幾人(いくたり)ばかりの力にかありしと試みん。」
とて、大きなる繩を蛇の卷たる所に付けて、人、十人斗りして引かせけれども、
「猶、たらず。猶、たらず。」
と言ひて、六十人斗りかかりて引きける時にぞ、
「かばかりぞ覺えし。」
と言ひける。
それを思ふに、經賴が力は、さは[やぶちゃん注:それならば。]、百人斗りが力を持ちたるにやと覺ゆるなり。
*
これを見るに、三坂の叙述の最後の段落部分は「宇治拾遺物語」は勿論、「今昔物語集」にもないが、実はこれは「今昔物語集」の同話の三話後の「相撲人成村常世勝負語第廿五」(相撲人(すまひびと)成村、常世と勝負する語(こと)第廿五)を三坂が独自に圧縮して附したものである。後で当該原文を示す。
「後一條の御宇」長和五(一〇一六)年~長元九(一〇三六)年。上記の通り、こんな特定時間設定は原典にはない(以下の注で示す識者の考証によるモデル候補とはやや(あくまで「やや」である)合うとは言い得る)。根拠不詳で大いに不審。
「丹波の國」現在の京都府中部と兵庫県東部に跨る地方名。古くは「たには」と称した。「宇治拾遺物語」は主人公経頼の出身の記載はない。「今昔物語集」は「丹後」とする。現在の京都府北部に当たる。和銅六(七一三)年に丹波国から分国したものであり、丹波とは近隣ではあるものの、不審ではある。
「うみの恆世(ツネヨ)といふ角力取(すまひとり)」この人物と同一人物と思われる者が同巻の第二十五話(に出るのであるが、小学館の日本古典全集の「今昔物語集三」の頭注によれば、それらから、この「海の恆世」人物は丹後を生国とし、村上天皇の治世(天慶九(九四六)年~康保四(九六七)年)の末より相撲人として召され、十世紀末から十一世紀初めにかけて、右の最手(ほて:相撲節会で相撲人中の最高位。現在の横綱相当)となり、永観二(九八四)年に没した人物ということになる。当時の現実の相撲取りで「つねよ」と名乗った人物が「越智常世」(「常代」「経世」とも)と「公候常節」(「恒世」とも)が実在はしたが、姓・生国・没年とも一致しないので、モデルであったかも知れぬが、同定比定は無理である旨の記載がある。
「もゆるかことく」「燃ゆるが如く」。
「かたひらはかりきて」「帷子(かたびら)ばかり着て」。
「あしたをはき」「足駄を履き」。
「きし陰」大沼の「岸蔭」。
「みなきりて」「漲りて」。ぼこぼこと沸き上がるようになって。
「笆(ませがき)」「籬・籬垣(まがき)」に同じく、これらも「ませがき」と訓じ得る。目の粗い低い垣根で、通常は庭の植え込みの周りなどに設けるが、ここは沼の岸の柵か。
「ゆるきいて」「搖(動)るぎ出で」。
「さしいたし」「差し出だし」。
「まもり居たるか」凝っと見つめていたが。
「兼てより」先程来。
「かく此蛇のはかる」「かくして、この大蛇、我らを襲わんとするための謀り事をしているのだ。或いは」「襲うための間合いを測っているだ。」の謂いであろう。
「引とられし」「引き取られじ」。
と、こらへける。
蛇、あまりにつよく引しかは、胴中より、
「ふつつ。」
と引切(ひきき)れ、沼水、あけの血染(ちぞめ)となる。
恆世、あしをからみたる蛇の尾を引ほとき、水にて洗ひけれとも、へびのからみたる跡、うせさりける。
「酒にてあらふものなり。」
「渡り」「徑(わたり)」。直径。一尺だと、この蛇の胴回りは約九十五センチメートルにも達する。
「まとひいたりける」「い」はママ。
「此恆世、そのゝちの角力(すまひ)のせつ、陸奧の國の住人眞髮(マカミ)のなりむらと取(とり)ける時、頭をつね世か胸につけ、つよく押(おし)たるを、恆世、引よせて、仰(ノケ)さまに、なけ付(つけ)たり」「つね世、相撲には勝(かち)けれとも、大(だい)ちからに胸ををされ、むねの骨、をれくたけ、本國江下るとて、はりまの國にて、むなしくなれり」先に述べた通り、三坂の附言。元は「今昔物語集」の「相撲人成村常世勝負語第廿五」(相撲人(すまひびと)成村、常世と勝負する語(こと)第廿五)である。やや長いが、当時の相撲の節会の様子や取組の前後の描写が実にリアルなので、全文を引いておく。□は欠字或いは予想される欠文。
*
今は昔、圓融院天皇の御代に、永觀(やうぐわん)二年[やぶちゃん注:九八四年。]と云ふ年の七月□日、堀川院にして相撲(すまひ)の節(せち)、有りける。
而るに、拔手(ぬきで)ノ日(ひ)[やぶちゃん注:事前試合の勝者による選抜試合。]、左の最手(ほて)・眞髮(まかみ)の成村(なりむら)、右の最手・海(あま)の常世(つねよ)、此れを召し合はせらる。
成村は常陸國の相撲なり。村上の御時より取り上ぼりて手(て)[やぶちゃん注:先の「最手」の略か。]に立ちたるなり。大きさ・力、敢へて並ぶ者無し。
恆世は丹後の相撲なり。其れも村上の御時の末つ方より出で來たりて、取り上ぼりて最手に立ちたるなり。勢ひは成村には少し劣りたれども、取り手の極めたる上手にて有りけるなり。
今日召し合はせらるれば、二人乍ら、心※(こころにく)くて[やぶちゃん注:「※」「」+「忄」+「惡」。互いに好敵手として一目置いていおり。]、久く成りたる者共なれば、勝負の間、誰(た)が爲にも極(いみ)じく糸惜(いとほし)かりぬべし[やぶちゃん注:結果的に孰れにとっても残念なものとなってしまうに違いない。]。況んや、成村は恆世よりは久く成りたる者なれば、若(も)し打たれむには極めて糸惜しかりぬべし。
然(さ)て成村は六度まで障(さは)りを申す。
恆世も障りをこそ申さねども、成村は、我よりは久しく成りにたる者なれば、忽ちに取らむ事も糸惜しく思へて、強ひて勝負せむとも思はずは、亦、力極めて強くて取り合ふとも輒(たやす)く打ち難し。
然れば、成村、六度まで障りを申すとて、離るる度(たび)每(ごと)にぞ放ちける。
七度と云ふ度、成村、泣々、障りを申すに、免(ゆる)されざれば、成村、嗔(いか)りて起つままに、只、寄せに寄せて取り合ひぬ。
恆世は頸を懸けて、小脇をすけり。[やぶちゃん注:片手を常村の首に回し懸けて、一方の手で腰を差した。]
成村は前俗衣(まへのたふさき)[やぶちゃん注:陰部を覆う布。]と喬(そば)の俗衣のかは[やぶちゃん注:現在の「まわし」の体側部。]とを取りて、恆世が胸を差して、只絡(ひたからみ)に絡めば[やぶちゃん注:ただがむしゃらに引きつけたので。]、恆世、密かに、
「物に狂ひ給ふか。此(こ)は何(い)かにし給ふぞ。」
と云へども、成村、聞きも入れずして、強く絡みて引き寄せて外懸けに懸くるを待ち、内がらみにからんで、引き覆ひて、仰樣(のけざま)に棄つれば、成村、仰樣に倒れぬ。
其の上に、恆世は横樣になむ、倒れ懸りたりける。
其の時に、此れを見る上中下(かみなかしも)の諸人(しよにん)、皆、色を失ひてなむ有りける。
相撲の勝ちたるには、負くる方をば、手を扣(たた)きて咲(わら)ふ事、常の習ひなり。
其れに[やぶちゃん注:逆接の接続詞。しかし。]、此れは事の大事なればにや有りけむ、密音(しのびね)も爲ずして、[やぶちゃん注:声も立てずに。]
「ひしひし。」[やぶちゃん注:ひそひそ。]
と云ひ合たりける。
其の後、次の番の出づべきに、此の事を云ひ繚(あつか)はれける程に[やぶちゃん注:この勝負の判定に対していろいろな意見や論議がなされ、もめているうちに。]、日も漸く暮れにけり。
成村は起きて走しり上がりて、相撲屋(すまひのや)に入るままに、狩衣袴(かりぎぬばかま)を打ち着て、卽ち、出でにけり。軈(やが)て其の内に下りにけり。[やぶちゃん注:即座に、その日のうちに国元の常陸へと下向してしまった。]
恆世は、成村は起きぬれども、上がらずして臥せりければ、方(かた)の相撲長(すまひのをさ)[やぶちゃん注:相撲の節会の恆世の配されていた右方の世話役。]共、數(あまた)寄りて救ひ上げて、弓場殿(ゆばどの)[やぶちゃん注:相撲の節会は紫宸殿の前庭で興行されていたから、ここ紫宸殿の西にあった校書(きょうしょ)殿の北側東廂の先にあった弓射場を指す。]の方に將(ゐ)て行きて、殿上人の居たる□[やぶちゃん注:「を」か。]引き出だして、其(そ)が上になむ臥せたりける。
其の時に、方(かた)の大將にて、大納言藤原淸時[やぶちゃん注:諸本では実在した藤原濟時の誤りとされる。]、階下(はしのした)[やぶちゃん注:紫宸殿の階下の座。]より下坐して、下襲(したがさね)[やぶちゃん注:束帯の内着(うちき)で、半臂(はんぴ)または袍(ほう)の下に着用する衣。裾を背後に長く引いて歩く。]、脱ぎて、被(かつ)げてけり。將(すけ)共[やぶちゃん注:参列していた近衛の中将や少将。]、寄りて、恆世に、
「成村は何(いか)が有つる。」
と問ひければ、只、
「手。」[やぶちゃん注:「良き最手(ほて)」の「手」であろう。]
と許り、答へてける。
其れより相撲屋樣(ざま)に、相撲の長(をさ)共に救ひ上げられて、我れにも非らで有る者[やぶちゃん注:常世を指す。身体も動かせず、意識さえ朦朧としているから「我にもあらで」なのである。]を、押し立て、將(すけ)共、有る限り、物脱ぎてなむ被(かつ)げける。墓々(はかばか)しく衣(きぬ)だに□□□[やぶちゃん注:ろくに衣を着用することさえもとろくに出来ず、その後云々、といった欠文が想定される。]。
播磨國にて死にけり。
胸の骨を差し折られて死ける、とぞ異(こと)[やぶちゃん注:他(ほか)の。]相撲共は云ひける。
成村は其の後、十餘年、生きたりけれども、
「恥見(はぢみ)つ。」
と云ひて、上ぼらざりける程に、敵(かたき)に罸(う)たれて死にけり。
成村と云ふは、只今有る最手(ほて)、爲成(ためなり)が父なり。
左右(さう)の最手、勝負する事、珍き事に非ず。常の事なり。而るに、天皇の其の年の八月(はづき)に位を去らせ給ひければ、「左右の最手、勝負しては忌(いむ)」と云ふ事を云ひ出でて、其より後には勝負する事、無し。此れ、心得ぬ事なり。更に其れに依るべからず。
亦、正月十四日の踏歌(たふか)[やぶちゃん注:中国伝来の民間行事が日本固有の歌垣と結びついて形成された宮中行事。足で地を踏み鳴らしながら調子をとって祝歌を歌う集団歌舞。持統朝頃から記録があり、平安時代には年中行事化した。正月十四日に男踏歌(おとうか)、同十六日の女(め)踏歌に分かれて、踏歌節会(とうかのせちえ)となったが、ここに記したような風聞によって男踏歌の方は廃されてしまった。]、昔より每年(としごと)の事として行はるるを、大后(おほきさき)[やぶちゃん注:醍醐天皇の后、藤原穏子(仁和元(八八五)年~天暦八年一月四日(九五四年二月九日))。]の、正月(むつき)の四日(よか)、失せ給へれば、御忌日(おほむきにち)[やぶちゃん注:喪の期間の誤りか。]なるに依りて行はれぬを、怪しく人の心を得で、「踏歌は后の御爲に忌む事」と云ひ出でて、今は行はれぬなり。此れも心得ぬ事なりかし。
尚、成村、恆世、勝負する事は有るまじかりける事也なりとぞ、世の人、謗(そし)り申しけるとなむ語り傳へたるとや。
*]