北越奇談 巻之五 怪談 其七(霊の訪れ)
其七
茨曾根(いばらそね)、永安禪寺に、一とせ、近村より、童子(わらべ)一人伴ひ來り、手習ひ・物讀(ものよみ)なんど、教へ給はるべし、と和尚に賴み置きしが、その童(わらべ)が祖母(ばゝ)なる者、深く憐み慕(した)ふて、三日に一度は、必(かならず)、尋來(たづねきた)り、その安否を問ふ。如ㇾ此(かくのごとき)事、春より夏に至る。
然るに、時過ぎて來り訪(とは)ざること、十日餘り、和尚始め、堂中、皆、是を怪しみ、かの童に戯(たはむ)れて、
「汝が祖母、已に死(しゝ)たるべし。死せば、必、汝が方へ、㚑魂(れいこん)、見舞(ま)はるべきぞ。」
など、物語りて、堂上に打寄(うちより)、月に向(むかへ)て凉み居(ゐ)しが、二更の頃、忽(たちまち)、山門の邊(ほと)りに、人の徘徊する影見へて、石徑(せきけい)を登り、靜かに步行(あゆみ)來たる者あり。
よくよく是を見れば、かの童が祖母(ばゝ)なり。
いかにも勞れたるさまにて、杖に縋(すが)り、六地藏の前に暫く休居(やすみゐ)しが、又、そろそろ、庫裏(くり)の方(かた)へ步み來(きた)る。
忽、犬、是を見て、頻りに長く吠(ほい)て不ㇾ止(やまず)。
爰(こゝ)に祖母、即(すなはち)、路を返(か)へて、靜かに立歸(たちかへ)るさまなり。
和尚是を見て曰(いわく)、
「祖母、此夜中(やちう)、遙々(はるばる)の所を來りながら、犬を恐れて歸ると見へたり、早く出(いで)て、犬を追(おふ)べし。」
と。
即、人々、出(いで)、犬を退(しりぞ)け、且ツ、其祖母を尋(たづ)ぬれども、終(つゐ)に行衞(ゆくゑ)を知らず。
和尚、深く怪しみ、翌日、童子(わらべ)を相伴ひて、其家に至り、問ふに、祖母、病(やみ)て不ㇾ起(たゝざる)こと、十日餘りなり、と。
童子を見て、大に悦び、云、
「我、昨夜、夢に汝を訪ね行(ゆき)しが、犬の吠(ほい)るが恐ろしさに、寺へ入りかねたる中(うち)、夢、覺(さめ)たり。」
と物語れり。
[やぶちゃん注:ネタバレにならぬように、表題を配慮した。
「茨曾根(いばらそね)、永安禪寺」野島出版脚注に『今、白根市字茨曾根にあり。曹洞宗。宝暦、明和の頃の住職大舟は古岸と号し、智徳共に高く、内外典に通じ最も詩書を善くした。良寛の師、大森子陽、新飯田の有願などの師であった。天明七年五月歿。年八十二。』とあるが、現在、この寺の住所は政令指定都市移行によって新潟県新潟市南区茨曽根となっている(リンク先はグーグル・マップ・データの同寺)。宝暦・明和の頃は一七五一年から一七七二年までに当たる。本「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年であり、本文中にこの出来事が宝暦・明和の頃のこととは出ないから、この話の中の和尚がこの大舟であると断定は出来ないので注意されたい。但し、大森子陽は崑崙の同族の後裔であること、「巻五 人物」には特に良寛を挙げていることなどを考え合わすと、この大舟でないとも言えないとは言える。少なくとも、野島出版の脚注者は暗にこの「和尚」を彼と同定してる感じはする。
「賴み置きし」寺に預けて本格的に読み書きを習わせたのである。
「かの童に戯(たはむ)れて……」この童子が出家僧見習いとして預けられたならともかく、そうではないのであるから、この冗談は禅僧の謂いとしても度が過ぎる(修行僧に対してならばあり得る謂いではある)。寧ろ、この言葉は和尚のものではなく、童子の心も配慮出来ない、軽率な若い一人の修行僧の悪い冗談であるととるべきであろう。
「二更」およそ現在の午後九時又は午後十時から二時間を指すが、禅宗では解定(かいちん:就寝)は午後九時頃であるから、月見も終わった九時前頃ととらねばおかしい。
「石徑(せきけい)」石を打ちこんだ坂の小道。
「吠(ほい)て」読みは方言。
「云」「いはく」と読んでおく。]
« 北越奇談 巻之五 怪談 其六(縛り地蔵・不思議な石) | トップページ | 北越奇談 巻之五 怪談 其八(霊の訪れ その二) »