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2017/10/31

北條九代記 卷第十一 伏見院御卽位

 

      ○伏見院御卽位

 

同十年六月に、將軍惟康を中納言に任ぜられ、右大將を兼給ふ。同月十七日、北條彈正少弼業時(なりとき)は、職を辭して入道せらる。左近將監宣時は、時房には孫にて、武蔵守朝直(ともなほ)の三男なりけるを、文才優美の人なりければ、業時の替(かはり)として、貞時、舉(きよ)し申され、執權の加判せらる。北條泰村は京都六波羅の職を止めて、鎌倉に下向あり。同十月、將軍惟康に親王の宣下有りて、二品(ほん)に叙せらる。同月二十一日、京都には主上御讓位の御事あり。主上、今年、僅(わづか)二十一歳に成らせ給ふ。龜山の新院も、只今の御讓位は餘(あまり)に早速(さうそく)の御事なれば、未だ遲からず、御殘(おんのこり)多く思召(おぼしめ)し、主上も本意ならずと聞えさせ給へども、後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし、只、疾(とく)御位を讓らせ給はんは、然るべき太平比和(たいへいひわ)の御基(もとゐ)たるべき旨、關東より奏し申せば、御心の儘ならず、俄に御讓位有りて、東宮熈仁(ひろひと)、御位に卽(つか)せ給ふ。軈(やが)て院號奉りて、後宇多天皇とぞ申しける。改元有りて、正應と號す。御卽位の主上は、是、後深草院第二の皇子、御母は玄輝門院と稱す。山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)公の御娘とぞ聞えし。東宮二十三歳にて御位に卽き給へば、二條左大臣師忠(もろただ)公、關白たり。この時に當りて、後深草、龜山、後宇多天皇にて、太上天皇、三人まで、おはします。後深草院、政(まつりごと)を知召(しろしめ)す。是を一院とも又は本院とも申し奉る。龜山院は中院(なかのゐん)と稱し、後宇多を新院と號す。昔に引替へて、何事に付きても天下の政道は露程(つゆほど)も綺(いろ)ひ給はず、打潛(うちひそ)みたる御有樣にて、其方樣の人々は、自(おのづから)、影もなきやうにぞ見えける。正應元年六月、西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘、入内あり。是等の事までも皆、關東より計(はかり)申して、萬(よろづ)、御心にも任せ奉らず。榮枯、地を換(かふ)るとは見えながら. 誠には賴難(たのみがた)き世の中なりと、高きも賤しきも、思はぬ人はなかりけり。

 

[やぶちゃん注:「同十年六月」前話「城介泰盛誅戮」(霜月騒動)の最終時制は弘安八(一二八五)年であるから、誤り將軍惟康親王が中納言に任ぜられ、右近衛大将兼任となるのは、弘安一〇(一二八七)年 六月六日である。惟康親王は当時、満二十三歳。

「同月十七日、北條彈正少弼業時は、職を辭して入道せらる」既注であるが、再掲しておく。北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には北条重時の四男であったが、年下の異母弟北条義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。但し、出家の日付は十八日の誤り。この八日後の六月二十六日に享年四十七で逝去している。

「左近將監宣時」(暦仁元(一二三八)年~元亨三(一三二三)年)この時、執権北条貞時の連署(「加判」)となった。和歌にも優れ、また、何より彼は「徒然草」第二百十五段での、第五代執権北条時頼との若き日のエピソードによって、実は誰もが知っている人物なのである。

   *

 平(たひらの)宣時朝臣(あそん)、老の後(のち)、昔語りに、

「最明寺入道、或宵の間(ま)に呼ばるる事ありしに、

『やがて。』

と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくて、とかくせしほどに、また、使(つかひ)、來りて、

『直垂などの候はぬにや。夜(よる)なれば、異樣(ことやう)なりとも、疾(と)く。』

とありしかば、萎(な)えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子(てうし)に土器(かはらけ)取り添へて持て出でて、

『この酒を獨り食(たう)べんがさうざうしければ、申しつるなり。肴(さかな)こそなけれ、人は靜まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ。』

とありしかば、紙燭(しそく)さして、隅々を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出でて、

『これぞ求め得て候ふ。』

と申ししかば、

『事足りなん。』

とて、心よく數献(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか。」

と申されき。

   *

「武蔵守朝直(ともなほ)」(建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)は時房の四男であったが、長兄時盛が佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は、突然、出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世し、北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けた。但し、寄合衆には任ぜられてはいない。北条大仏(おさらぎ)流の祖。

「貞時」第九代執権。

「北條泰村」「北條時村」の誤り。既注であるが、これも再掲しておく。北条時村(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は第七代執権北条政村の嫡男。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』、この弘安一〇(一二八七)年に『鎌倉に呼び戻されて引付衆の一番頭人に任じられ』た。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし」自分の子である熈仁(ひろひと:即位して伏見天皇(文永二(一二六五)年~文保元(一三一七)年)の即位を、である。

「太平比和(たいへいひわ)」天下泰平と、後深草上皇(持明院統)と後宇多天皇(大覚寺統)の二流の和睦。

「俄に御讓位有りて、東宮、御位に卽(つか)せ給ふ」即位は弘安十年十月二十一日。

「後宇多天皇」誤り。「天皇」ではなく「上皇」である。

「改元有りて、正應と號す」改元は翌弘安十一年四月二十八日。

「玄輝門院」洞院愔子(とういんいんし 寛元四(一二四六)年~元徳元(一三二九)年)。

「山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)」洞院実雄(承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)は公卿で洞院家の祖。従一位左大臣。娘三人がそれぞれ三人の天皇(亀山・後深草天皇・伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、三人の天皇(後宇多・伏見・花園)の外祖父ともなった(ウィキの「洞院実雄に拠る)。

「二條左大臣師忠(もろただ)」(建長六(一二五四)年~興国二/暦応四(一三四一)年)は関白二条良実の三男。兄道良の早世により二条家を継いだ。この直前の弘安一〇(一二八七)年八月、関白・氏長者となっている。彼は正応二(一二八九)年に関白を辞し、永仁二(一二九四)年に出家しているが、その後も実に南北朝期まで長生きした。

「綺(いろ)ひ給はず」関与なさらず。

「西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘」伏見天皇中宮西園寺鏱子(さいおんじしょうし 文永八(一二七一)年~興国三/康永元(一三四二)年)。従一位太政大臣西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)の長女。正応元(一二八八)年六月二日に入内、同月八日、女御、さらに同年八月二十日には中宮となった。参照したウィキの「西園寺鏱子によれば、『実子は生まれなかったが、典侍五辻経子が生んだ東宮胤仁(のちの後伏見天皇)を猶子とし、手許で育てた』とあり、また、『伏見天皇の東宮時代から京極為兼が仕えていたことから、歌を京極為兼に師事し、為兼や伏見天皇を中心とする京極派の歌人として』「玉葉和歌集」「風雅和歌集」等に多くの歌を残している、とある。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) あとがき 附 詩篇「誰と諍ふべきか」~全篇電子化完遂!

 

   あとがき

 

 本書は、謂はば傳統的ともいふべき『散文詩』Stikhotvoryeniye v proeye なる標題の下に、『散文詩』及ぴ『散文詩拾遺』の二つの部分を含ませたものである。この二つの部分の成り立ちに就いては、それぞれ異つた歷史がある。その第一部は、普通SENILIAと呼び慣はされてゐるもので、現在五十一篇を含んでゐる。これに、最近發見された第二部の三十一篇、また更に後段に述べる他の一篇を加へて、總計八十三篇が、現在知られてゐる「散文詩」の總数である。

[やぶちゃん注:Stikhotvoryeniye v proeye」本書の原題(ロシア語)「Стихотворение в прозе」のラテン文字転写。原語をカタカナ音写すると「シチハトヴァリエーニイ・フ・プロジェ」(прозеが「散文」の意)。]

 この SENILIA といふ別題の意味は「老いたる」、つまり「老いたる言葉」とも解すべきかと思ふが(事實、鷗外漁史は「月草」の中でこれに觸れて、「耄語」として居られる)[やぶちゃん注:「月草」は明二九(一八九六)年春陽堂刊の森鷗外の評論・随筆集であるが、この言及部分は現在、私には確認し得ない。当該書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。発見し次第、追記する。]、これはまた原稿發送の包紙の上に、作者がおそらくふとした自嘲、または嗟嘆の気持で記した文字であつて、果して彼がどこまでこの題名に執着があつたかは疑問である。ここではただ美しい傍題と解して置いた。「散文詩」といふ呼名こそトゥルダーネフがこの種の作品に冠すべく意圖したもので、明かにボードレールの Petits poèmes en prose あたりの暗示から来てゐるが、ロシヤ文學にも元來この傳統はあつたのである。その最も著名でもあり、同時にロシヤに於ける散文詩のプロトティプとも看倣されるのはゴーゴリが『死せる魂』の第一部の終段に持出した、あの象徴的な「ロシヤのトロイカ」の數行であらう。トゥルゲーネフの長短の小説になると、殊にこの種の象徴的な觀照を寓した個所が多かつた。例へば旱く一八五七年に書かれた短篇『森林地帶の旅』 Poezdka v Polesie [やぶちゃん注:原題「Поездка в Полесье」。但し、現行ではラテン文字転写は「Poezdka v Polesyeである。]の中で、ふと梢の先にとまつた蜻蛉を見る條に――

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げでポイント落ち。前後を一行空けた。これ以降も同じであるが、この注は略す。]

 

 ……長いあひだ、一時間あまりも、私は眼を離さずにそれを見つめてゐた。總身を日の光に透き徹らせ、蜻蛉はじつと動かずに、ただ時々首を左右に𢌞し、薄翅を上げて顫はせた。……それだけである。その姿を見てゐるうちに、私には急に自然界の生活の意味――少しの疑を挾む餘地もない程明瞭でありながら、多くの人々にはまだ隱されてゐる意味が、解るやうに思はれた。靜かに緩やかな生氣、感覺と生命力の悠々として逼らぬ營み、個々の生き物に籠る健康さの危ふげのない平衡感……これこそ、自然界の生活の礎をなすものなのだ。その不易の法則であり、その依つて立ち、且つ維持される基なのだ。……

 

 と言ひ、また『その前夜』 nakanune [やぶちゃん注:原題は「Накануне」。]――の終を結ぶところに、

 

 人生はなんと早く過ぎてしまつたのだ。死はなんと間近に迫つて來たのだ。死は、魚を捕へた網を暫く水の中に放つて置く漁夫に似てゐる。魚はまだ泳いでゐる。だが綱が既にその身を圍んでゐる。そして漁夫は、いりでも攫み出せるのだ。

 

 とある風な觀照は、彼の作の隨所に散見して、當時彼が祭り込まれてゐた所謂リアリズムなる稱號とは何かしら別な、時に瞑想的、時に優雅、時に田園詩風な趣を與へてゐたものである。ここに收錄された八十二の散文詩も形式の上から見るとき、亦このやうな觀照なり印象なりを個々に獨立させたものと見ることができる。その或るものは、後により展開させ發展させて、小説の題材乃至はその一節に使ふ氣持もあつたと思へるが(『めぐりあひ』の註參照)、身近に迫る死の意識が彼にこの意圖を抛棄させて、その形のままの發表を決心させたのでもあつたらう。從つてまた見逃せぬことは、そこに痛々しい老年の歌が盛られてゐることである。

[やぶちゃん注:「『めぐりあひ』の註」こちら。]

 いま「散文詩」に就いて語るとき、特に強調して置きたいのは、それが決して、作者の秩序ある詩想に貫かれら一卷の詩集ではないことである。上田博士の『みをつくし』以來、わが國の讀書界は殆ど自らの傳統のやうにして、この「散文詩」のすぐれた飜譯に豊富であつた一方には、或ひは小説家トゥルゲーネフの「すさび」として、その美しさや優しさなどが強調され、或ひは文書學の一種の軌範として珍重され、何かの意圖された統一が強ひられ、その故に不當の讚仰を呼び、また不當の貶黜や冷遇を招いて來はしなかつたか。何かそこにないものを幻想し、あるものからは知らず識らず眼を外らしがちではなかつたであらうか。……再び言ふ、ここに盛られてゐるのは、痛々しい老年の歌である。その歌聲は落着きある統一的なものとよりは、著しく分裂的である。その光は生命の中心に向つて聚一的であるとよりは、寧ろ深まりゆく生命の中心から逆に放射しがちである。そしてこの放射光のうちに、まざまざと私達の眼前に浮び上るものは、トゥルゲーネフの謂はば「裸にされた魂」の姿である。

[やぶちゃん注:「上田博士の『みをつくし』」明治三四(一九〇一)年文友館刊上田敏の訳詩集。ツルゲーネフの本「散文詩」中の「田舍世界」以下、「戰はむ哉」の全十篇の訳を収録する。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。なお、上田は翌年の『明星』に「一僧」「あすは、明日は」「露西亞の言葉」三篇も訳出しており、現在、これらは岩波文庫の「上田敏全訳詩集」で読める。これら十三篇は近い将来、電子化する。]

 この意味から、『散文詩』は爭ひ難い明瞭な危機の産物であつて、決して澄みかへつた老成の心境が生んだものではない。だからこそこれは、その眞摯さ、率直さ、力強さに依つて、あの『獵人記』 Zapiski okhotnika と照應しつつトウルゲーネフの二つの代表作を形成するものと言へる。『獵人記』が正の方向への出發であつたとすれば、『散文詩』は明かに負の方向への出發であり動搖であつた。その響きは正しく悲劇的である。それを否定することはできないが、然しこれとて、屢〻謬られるやうに、絶望や締觀の響と見ることは到底できない。事實は寧ろ正反對であつて、そこに夥しい數を占めて、常々ある程度の貴族的な衿持を彼に見慣れて來た私達を驚かすのは、何より先づ苛立たしい刺笑(『好敵手』、「ふた兒』)ではあるまいか。これが更に一步を進めて、殆ど粗々しくまた子供つぽい毒舌(『阿房』、『スフインクス』)・となつて、衰へてゆく生命の激しい反撥の力を示す反面に、靜かな肯定的の沈潜を見せて母國の自然、その力に對する信念(『村』、『ロシヤ語』)ともなり、轉じて人間生活への溫い讚美の歌(『乞食』、『マーシャ』、『ほどこし』)に、更には愛に懸ける深い信賴(『雀』、『二兄弟』、『航海』)ともなる。その單調なあらはれを透しても、トゥルゲーネフの内心悲劇の複雜性、その單なる絶望諦觀の境との乖離の度合を彷徨し得るのであるが、更に致命的な悲劇は、生きようとする者の欲望を蹂躙り、その欲望が強けれぱ強いだけ執拗に身近に迫る肉體の死の氣配(『老婆』、『犬』、『砂時計』)、またそれに伴ふ精神の深いおびえ(『獨り居のとき』)にある。好んで『夢』の形式で物語られるこの最後の主題は、恐らく全篇を通じての最も印象強いものであり、更にこれは、意外なほどに生々しい血を滴らす老年の滿たされぬ愛の懺悔――苦澁な執着の告白(『薔薇』、『岩』、『めぐりあひ』)で彩られる。時に生の途に起き上らうとする老人の激發的な努力(『なほも闘ふ』)によつて、愈々研ぎ澄まされるこれらの悲劇は、その奥底に於いてなんの絶望的な要素をも擔つてはゐるものではない。寧ろ、絶望諦觀の境に堕し得ぬ、また堕する事を欲せぬ人の必死の苦鬪の、餘りにも歷々たる表出に過ぎない。

[やぶちゃん注:「『獵人記』「狩人日記」(Zapiski okhotnika私も「散文詩」とともに偏愛する作品。私はちらで中山中山省三郎氏の訳他(タイトル十二篇十五種)を公開している。]

 つまりトゥルゲーネフの『散文詩』は叙上の幾つかの主要な分光に自ら分裂しつつ、更にそれが内心外界の樣々な印象觀照を衝いて、無數の散光となつて相交錯する所に捉へられた生命の危機の歌であつて、決して死の歌ではないのだ。もし單に後者であつたとすれば、その刃發表後既に五十年を經た今日、果して幾何の命脈を保ち得たであらうか。事實、絶望乃至諦觀の歌と目すべきもの(『老人』、『私は憐れむ』)は、極めて小さい部分を占めてゐるに過ぎないのである。要約的に言へば彼の悲劇は、生命の深い力を内藏し、生きようとする嚴しい熱意と誠實に燃えながら感じ、觀照し、思想しつつ、しかも肉體の力に裏切られ、死の急湍に押流されてゆく所に胚胎してゐる。觀念の悲劇の前を肉體の悲劇がすり拔けて走つてゐる點に懸つてゐる。

[やぶちゃん注:以下、底本は一行空けであるが、引用の前後と区別するために二行空けた。]

 

 

 所謂“SENILIA”五十一篇が發表された契機は、頗る偶然的なものであつた。それは一八八二年の夏、彼の死の一年ほど前に、雜誌『ヨーロツパ報知』 Vestnik Europy[やぶちゃん注:原語「Вестника Европы」。]の主幹スタシュレーヴィチ(M.  M.  Stasjulevich)[やぶちゃん注:Стасюлевич Михаил Матвеевич(一八二六年~一九一一年)。がトゥルゲーネフを巴里に訪問した折、偶然その幾枚かの草稿が、「いはば畫家が大作に役立てる爲にするヱスキース、エチュードのやうなもの」といふ前置きつきで、彼の前に積み上げられたことを機緣としてゐる。しかし既に大作を企てる氣力のなかつた彼は、その死後の發表をスタシュレーヴィチに托さうとしたが、終にその熱心な勸めを容れて、五十篇を選んで發表を諾したものである。殘る一篇はすなはち『しきゐ』であつて、それの數奇な運命に就いては『註』に記して置いたから此處では言はない[やぶちゃん注:こちら。]。かうしてこれらの詩篇は、同年十二月の『ヨーロッパ報知』に、次のやうな編輯者の言を附して發表された。――

 イヴァン・セルゲーヴィチ・トゥルゲーネフは吾々の請を容れて、最近五ケ年間に於けるその個人的また社會的生活に得られたあれこれの印象のままを紙片に記しとどめられた折節の觀察、思念、心像などを、いま直ちに本誌の讀者に分たれることになつた。それは孰れも、他の數多の斷片と同じく、既に公にされた完成作中に收容されなかつたものであつて、別に一集を形作りてゐる。作者は今の所、その中から五十の斷片を選ばれた。

 原稿に添へて本誌に寄せられた書簡の末段に、トゥルゲーネフは次のことを述べてをられる。――

 

 『讀者よ、この散文詩を[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]、一息には讀み給ふな。一息に讀めば恐らくは退屈して、この書は空しく君の手を落ちよう。今日はこれ、明日はあれと、氣の向くままに讀み給へ。そのとき、中の何れかは、ふと君の心に觸れるかも知れぬ。……』

 原稿には題が附せられてゐない。作者は包紙の上に SENILIA――老人の語、と記されたが、吾々は作者が前掲の書簡の中にふと漏された『散文詩』なる言葉の法を選び取つて總題とした。吾々の見る所ではこの標題は、人生の諸問題に對する敏感と多樣さとを以て鳴る作者の魂に、この種の觀察を齎した源泉を十分に表現してゐると同時に、讀者の「心に觸れて」喚び起すべき感銘の豐富さをも、よく表出してゐるものと思はれる。(下略)

 

 すなはち、ここに明かに語られてゐる如く、それはトゥルゲネフが草稿として持つてゐた散文詩の全部ではないのであつて、五十篇の抄出に當つては「私生活に渉るものは嚴格に除外」(同年九月ポロンスキイ宛の手紙)された。また彼は、「私的なもの、自傳的なものは、私の日記と共に破毀さるべきものであるから、悉く除外した」(同年十二月グレゴローヴィチ宛の手紙)と言つてゐるが、除外された散文詩の運命がどんなものであつたか、又その幾つが破毀されずに、後に發見された三十一篇の中に殘つたかは、全く推測を許さない。とまれ、トゥルゲーネフと親しかつた女優サーヴィナM. G.  Savina)[やぶちゃん注:Ма́рья Гаври́ловна Са́вина (一八五四年~一九一五年)。]が、一八八一年の夏、彼の郷里スパスコエに客となつたたきの囘想などは、その幾篇かが燒却されたことを明かに物語つてゐる。以下はサーヴィナの囘想をベリャーエフといふ人が綴つたものである。――

 

 それは一八八一年に、サーヴィナか夏のあひだ客になつたスパスコエ・ルトヴィノヴォでのことである。暑い一日が終つて凉しくなると、トゥルゲーネフは自分の部屋からバルコンに出て來て、彼女に言ふのだつた、「さあ、懺悔を伺ひませう。」

 懺悔といふのは二人の間の通り言葉で、サーヴィナはその時になると、本當に坊さんの前で懺悔でもする樣子になつて、それが夜更けまで續くことも珍しくなかつた。暗い庭の後から大空に浮び出た三日月にも、池の方から吹寄せて來る濕氣にも、もう大分前から部屋にはいつて、しゆんしゆん鳴つてゐるサモワルに向ふべき時が來ていゐるのにも氣づかず、一心に語りつづけるこのロシヤ女優の物語に、トゥルゲーフは半ば眼を閉ぢて、變らぬ微笑を湛へながら聽入つた。

 或る晩、やはりこのやうな長い、心からの告白のあとで、トゥルゲーネフはひどく心を動かされた見え、急に立上るとサーヴィナの手を取つて言つた、『書齊へ行きませう。これまで誰の前でも讀んだことのないものを、貴女に讀んで上げたい。……』

 書齊にはいると、トゥルゲーネフは書卓の抽斗から一册の手帳を出して、サーヴィナを肘懸椅子に掛けさせて言つた、「これは私の散文詩です。ただ一つ、決して發表はしないことにしてゐるのを除けば、あとは皆スタシュレーヴィチに送つてやりました。(勿論これはサーヴィナの記憶の誤であるが)……』

 『散文詩つて、なんでせう』とサーヴィナは好奇の眼を上げた。

 『今それを讀んで上げます。本當は散文なんかぢやないのですよ。……これは本當の詩で、『彼女に』といふ題です。」

 さう言て、感動に顫へる聲で、彼はこの陰氣なエレジイ風の「人に寄せる歌」を讀み上げた。

 「今でも覺えてゐます」とサーヴィナは語る、「その詩には、思ひの通はぬ戀が描いてありました。一生のあひだの長い長い戀が。……『御身は私の花をみな摘み取つた』と書いてありました、『だのに私の墓を訪れもしない。』……」

 朗讀が濟むと、トゥルゲーネフは暫く默つてゐた。

 「この詩はどうなさるの」と、サーヴィナは堪らなくなつて聞いた。

 「燒いてしまふのです。……とても發表はできません。だつてこれは非難、墓場からの非難ですから。そんなことはできない。とてもできない。」

 

 これはただ一つの詩に關する運命ではなく、そのほかにも空しく火中へ投ぜられた詩篇は、或ひはかなりの數に上つてゐるであらう。このやうな運命とは別に、偶然に湮滅を免れた詩が一つあつて、もしこれを算入するなら、『散文詩』(SENILIA の部分)は五十二篇になる譯である。――

[やぶちゃん注:以下は全体が一字下げとなっているが、無視した。この後は一行空けとなっているので、前後を二行空けた。]

 

 

  誰と諍ふべきか

 

――自分よりも賢い人と諍へ。彼は君を負かすだらう。だが君の敗北から、君は自らの利益を抽き出せる。

――賢さの同じ人と諍へ。よし孰れが勝たうとも、君は少くも鬪ひの悦びを味ふ。

――賢さの劣れる人と諍へ。勝利をめあてでなしに諍へ。とにかく君は、彼の利益になつてやれる。

――愚人とさへも諍へ。名譽も利益も手にはいらぬが、人は時に、嬉戲すベきではないか。

――ただ、ヴラヂーミル・スターソフとだけは諍ふな。

             一八七八年六月

 

 

 これは一八八二年十月、スタシュレーヴィチ宛の私信の中に、「君の一笑を買はんがために」と前置きして記されたものであるが、其後一八八八年になつて、これがスターソフ自身の手で發表された所を見ると、或ひは彼の許にも送られてゐたのかも知れない。このスターソフV. V.  Stasov,  1824―1906)といふのは、美術音樂の著名な批評家で、トゥルゲーネフとは交友の殘からぬ人であつた。

[やぶちゃん注:「ヴラヂーミル・スターソフ」はロシアの芸術評論家ウラディーミル・ヴァシーリエヴィチ・スターソフВлади́мир Васи́льевич Ста́сов:ラテン文字転写:Vladimir Vasilievich Stasov)。ィキウラディーミル・スターソフによれば、存命中は、恐らくロシアで最も尊敬される批評家であったという。ツルゲーネフは一八一八年生まれであるから、彼より六歳年上であった。因みにツルゲーネフは一八八三年九月三日に六十四歳で没している。]

 『散文詩拾遺』と題した三十一篇は、巴里のヴィアルドオ家の書庫で最近見された草稿の中にあつた八十三篇の散文詩から、前述の五十二篇を引去つた殘りである。もともとトゥルゲーネフは、『ヨーロッパ報知』に第一囘分の五十篇を發表したのち、もし反響が好まましかつたなら、更に五十篇を選んで發表する豫定であつた。この素志は遂に果されなかつたが、新に發見された三十一篇は、二三の所謂「私的なもの」の混入してゐるのを除けば、殆どみな第二次の發表に充てらるべきものだつたことは疑ひを容れない。この部分はコレージュ・ド・フランスの André Mazon  教授の手で校訂され、『新散文詩』と題して  Charles Salomon  の佛譯とともに一九三〇年巴里で限定出版された。

 以上のやうな成立ちを有する「散文詩」は、従つて異本に富んでゐる。更にトゥルゲーネフ自身が發表の後に屢〻草稿に手を入れた個所を考へに入れると、いづれを正本とすべきかは、かなり迷はされる問題である。この譯者の底本にはレニンラード“ACADEMIA”版(一九三一年)を用ひた。

 

                  譯者

 

[やぶちゃん注:「ヴィアルドオ」既注であるが、再掲しておくと、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)。彼の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったのが、ルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)であった。

「コレージュ・ド・フランス」(Collège de France)はフランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立の特別高等教育機関。

André Mazon」(一八八一年~一九六七年)はロシア語・ロシア文学者。

Charles Salomon」(一八六二年~一九三六年)。フランス語サイトを見る限りでは、本業は医師のようである。

 この後が奥附となるが、省略する。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶬鷄(おほとり)〔ケリ?〕


Tageri

大とり   鶬鴰 麋鴰

      鴰鹿 麥鷄

鶬鷄

      【俗云於保鳥】

ツアン キイ

本綱鶬鷄食于田澤洲渚之間狀如鶴大而青蒼色亦有

灰色者頂無丹兩頰紅長頸高脚羣飛可以候霜

肉【氣味】甘温

△按此亦鶴之種類俗稱大鳥

 

 

大〔(おほ)〕とり 鶬鴰〔(さうくわつ)〕

         麋鴰〔(びくわつ)〕

         鴰鹿〔(くわつろく)〕

         麥鷄〔(ばくけい)〕

鶬鷄

   【俗に「於保鳥〔(おほとり)〕」と云ふ。】

ツアン キイ

「本綱」、鶬鷄、田・澤・洲・渚の間に食ふ。狀、鶴の大〔なる〕ごとくにして、青蒼色。亦、灰色の者、有り。頂、丹、無し。兩の頰、紅く、長き頸、高き脚。羣飛〔して〕以つて霜〔(しもふる)〕を候〔(あ)る〕を〔しる〕べし。

肉【氣味】甘、温。

△按ずるに、此れも亦、鶴の種類〔なり〕。俗に「大鳥〔(おほとり)〕」と稱す。

 

[やぶちゃん注:当初、「本草綱目」の記載も良安の附言も鶴の仲間らしく書いているので、その辺りを生態から探ろうと思ったが、記載が少なく、行き詰った。そこで方法を変え、時珍の並べた異名(本項の項目下に並ぶそれら)を調べてみた。すると、この内の最後の「麥鷄」に目が止まった。これは現在、中国語の鳥類の学術名で Vanellus 漢名だからである(リンク先は中文ウィキ。簡体字「麦」とは「麦鷄属」で、則ち、これは「麥鷄屬」と同じある。例えば、チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ(田鳧)属 Vanellus ズグロトサカゲリ Vanellus miles 中文版をご覧あれ。「白頸麥雞」と書いてある(「雞」は「鷄」の別字。但し、中国で古来、ニワトリを指す一般的字体は「鷄」ではなくこの「雞」であった)。さすれば、この「鶬鷄」はツル科 Gruidae のツル類なんぞではなく、チドリ目 Charadriiformes チドリ亜目 Charadrii チドリ科 Charadriidae タゲリ属 Vanellus に属するタゲリ類に比定してよかろう。その模式種であるタゲリ Vanellus vanellus を挙げたくなるのであるが、同種は頭頂に黒い冠羽が発達するので、挿絵や記載にそれがないのは、本種ではないと考えるべきで、ここは寧ろ、タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を比定候補とすべきかも知れぬ。ウィキの「ケリを引いておく。『モンゴル、中国北東部、日本で繁殖する。冬には東南アジア、中国南部などに渡るものもいる。日本においては留鳥として、かつては主に東北地方に分布していたが』、『現在』『では中部地方、関西地方を中心とした近畿以北』から『中国地方・北部九州など西日本でも繁殖が確認され始め』ているという。

全長は約三十四センチメートルで『雌雄同色。くちばしは短く、黄色で先端が黒い。足は長くて黄色。目は赤橙色で黄色のアイリングがある。また。嘴の付け根には黄色い肉垂がある。雌雄同色』。『翼の小翼羽付近には爪があり、爪の大きさや色から雌雄の見当をつけることができる。成鳥の夏羽は頭部から胸上部が灰青色で、体上面は灰褐色で、体下面は白い。胸上部と体下面の境目には黒い胸帯がある。翼は先の方が黒く、基半部は白色と灰褐色で、飛ぶときこれらのコントラストが目立つ。尾は白色で黒い帯が入る。冬羽は頭部からの灰青色がやや褐色を帯びている。雛は淡褐色の綿羽に覆われている。若鳥は頭部からの胸部にかけて灰色でやや褐色を帯びる。胸帯は薄い。また目は褐色で、アイリング・肉垂とも小さく目立たない』。『水田、畑、河原、干潟、草原などに生息』し、『食性は主に動物食で、昆虫類、ミミズ、カエルなどを捕食する。稀に穀類も食べる』。『繁殖期は』三月から七月で、抱卵は三月『初旬から中旬に始まり、抱卵・ヒナ養育それぞれ約』一『ヶ月ほどかかる。クラッチサイズ』(clutch size:鳥の♀一個体が一回当りで孕む標準的な卵の個数。「一腹卵数」「一巣卵数」などと訳される)は四卵で、時に三卵、稀に一卵から五卵が『確認される。巣は水田内や畦などの地面に藁を敷き作る。よって農作業による影響が著しく大きい。繁殖期中は時にテリトリーを変えるなどして最大』三『回営巣を試みる。非常に警戒心が強く、テリトリーにトビやカラス、人間などの外敵が近付くと、鳴きながら激しく威嚇し、追い払う。その為、夜でも鳴き声が聞こえてくる場合がある』。『非繁殖期には小群で行動する』。『甲高い声で鳴き、「キリッ、キリッ」、「ケリッ」、「ケケッ」というふうに聞こえる。この鳴き声からケリという名がついたといわれる』とある。ただ、ここに記された視覚上の形状と実際のケリの画像を見ても、幾つかの点で本記載や挿絵とは有意に異なる(「鶴の大〔なる〕ごとく」ではなく鶴より小さい。「兩の頰」は「紅く」ない(胸は褐色を帯びるが、ここを頬と見誤ることはあり得ない)。「羣飛」するのは繁殖時であり、「霜」の降る季節の前ではない)ことは言っておかねばなるまい

 

「大とり」項見出しのそれ(漢字見出し「鶬鷄」の和訓)はママ。ここに漢字が用いられるのは本書の中では頗る特異点である。

「羣飛〔して〕以つて霜〔(しもふる)〕を候〔(あ)る〕を〔しる〕べし」意味は解るのだが、二箇所の「ヲ」の送り仮名に疑問があり、訓読に苦労した。「この鳥が沢山の群れを作って飛ぶのを見た時には、霜が降りるのが近いことを知ることが出来る」の意である。]

2017/10/30

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴

 

和漢三才圖會卷第四十一

      攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編

  水禽類Turu

つる   仙禽 胎禽

     【龢名豆留】

唐音 ポ

本艸綱目云鶴狀大於鵠長三尺餘喙長四寸丹頂赤目

赤頰青脚修頸凋尾粗膝纖指白羽黑翎亦有灰色蒼色

者嘗以夜半鳴【雞知將旦鶴知夜半】聲唳雲霄【高亮聞八九里】雄鳴上風雌

鳴下風聲交而孕亦啖蛇虺聞降眞香烟則降其糞能化

石皆物類相感也羽族之宗仙人之驥也陽鳥而遊于陰

行必依洲渚止不集林木二年落子毛易黑點三年産伏

又七年羽翮具又七年飛薄雲漢又七年鳴中律又七年

大毛落氄毛生或白如雪或黑如漆須六十年雌雄相視

而孕千六百年形始定飮不食乃胎化也故名胎禽【謂鶴不卵

生者誤也】

△按有眞鶴丹頂鶴黑鶴白鶴之四種【右所説者卽丹頂鶴】

丹頂鶴 極大而頰埀亦長其頂丹故名

眞鶴  高四五尺長三尺許項無丹頰赤全體灰白色

 但翮端尾端保呂端共黑而本皆白謂之鶴本白以造

 箭羽或爲羽帚賞之肉味極美故名眞鶴

黑鶴  高三四尺長二三尺白頸赤頰騮脚其余皆黑

 肉味亦佳一種同黑鶴而色淡者名薄墨

白鶴   赤頰玄翎赤脚其余皆白其肉可入藥用

 凡鶴觜皆青白色羽數四十八尾羽數十二

鶴肉血【氣味】甘鹹有香臭【與他禽不同】中華人不爲食品本朝以

 爲上撰其丹頂者肉硬味不美故食之者少但官家養

 庭池之間有作巣者聲交而乳其乳恐膝脚之損傷而

 輕輕折膝立時亦然竟巣于野叢性有智育卵於池島

 避狐犬之害雄雌代護之初欲生卵之時雄先卜其処

 以啄刺地寸寸試之不使蟲蛇伏于地中然後雌生卵

 大如椰子而一孕生四五或八九子其雛初黃毛白嘴

 短翼長脛而淺蒼色漸長者謂雛鶴

 徃昔賴朝公所放鶴今亦來徃駿遠之田澤偶有觀之

 者謂翼間有金札記年號焉

 凡諸禽血生羶不能啜惟鶴血入溫酒啜甚良

鶴骨 爲笛甚清越也今俗用脛骨揩磨造噐最宜婦人

 之笄能解諸蟲毒又采聚鶴骨和鹽黑燒謂之黑鹽以

 治血暈及金瘡折傷之氣絶

     古今難波かた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る

 凡鶴食餌每一啄一粒也故物委曲譬鶴之拾粟

つる   仙禽 胎禽

     【龢名〔(わめい)〕「豆留」。】

唐音 ポ

「本艸綱目」に云く、鶴、狀〔(かたち)〕、鵠(はくちやう)より大にして、長さ、三尺餘り。喙〔(くちばし)〕の長さ、四寸、丹(あか)き頂〔(うなじ)〕、赤き目、赤き頰、青き脚、修(のゐ)たる頸、凋(しぼ)める尾、粗(あら)き膝、纖(ほそ)き指、白き羽、黑き翎〔(かざきり)あり〕。亦、灰色・蒼色の者、有り。嘗て夜半を以つて鳴き【雞は將に旦〔(あ)けん〕とするを知り、鶴、夜半を知る。】、聲、雲霄〔(うんしやう)〕に唳〔(とど)〕く【高亮〔(こうりやう)〕〔として〕八、九里に聞こゆ。】。雄は上風に鳴き、雌は下風に鳴く。聲を交へて而〔して〕孕〔(はら)〕む。亦、蛇(へび)・虺(まむし)を啖らふ。降眞香〔(かうしんかう)〕の烟〔(けぶり)〕を聞くときは、則ち、降〔(お)〕る。其の糞、能く石に化す。皆、物類の相感なり。羽族の宗、仙人の驥(のりもの)なり。陽鳥にして陰に遊ぶ。行くときは、必ず、洲(す)・渚(なぎさ)に依り、止〔(とど)〕るに、林木に〔は〕集らず。二年にして、子毛〔(しまう)〕を落して黑點に易(か)ふ。三年にして産伏す。又、七年にして、羽-翮(はがい)、具〔(そな)〕はり、又、七年にして飛びて、雲漢〔(あまのがは)〕に薄(せま)る。又、七年にして、鳴くこと、律に中〔(あた)〕る。又、七年にして、大(ふと)き毛、落ち、氄毛(にこげ)、生ず。或いは白くして、雪のごとく、或いは黑くして漆のごとし。〔百〕六十年を須〔(ま)ちて〕、雌雄(めを)、相ひ視て、孕む。千六百年にして、形、始めて定まり、飮みて食はず。乃〔(すなは)〕ち、「胎化(たいくわ)」なり。故に「胎禽」と名づく。【「鶴、卵生せず」と謂ふは誤りなり。】〔と〕。

△按ずるに、眞鶴(まなづる)・丹頂鶴・黑鶴・白鶴の四種有り【右〔に〕説く所〔の〕者は、卽ち、丹頂鶴なり。】。

丹頂鶴は 極めて大にして、頰の埀(たれ)も亦、長く、其の頂き、丹〔(あか)〕し。故に名づく。

眞鶴(まなづる)は 高さ、四、五尺、長さ、三尺許り。項に、丹、無し。頰、赤く、全體、灰白色。但し、翮〔(はねもと)〕の端、尾の端、保呂〔(ほろ)〕の端、共に黑くして、本〔(もと)〕は皆、白〔たり。〕之れを「鶴の本白〔(ほんしろ)〕」と謂ふ。以つて箭〔(や)〕の羽に造(は)ぐ。或いは、羽帚〔(はねはうき)〕に爲(つく)る。之れを賞す。肉の味、極めて美なり。故に「眞鶴」と名づく。

黑鶴〔(こくつる)〕は  高さ、三、四尺、長さ、二、三尺。白き頸、赤き頰、騮(ぶち)の脚、其の余は皆、黑く、肉の味、亦、佳なり。一種、黑鶴に同じくして、色、淡(あさ)き者を「薄墨(うす〔ずみ〕)」と名づく。

白鶴〔(はくつる)〕は   赤き頰、玄〔(くろ)〕き翎〔(かざきり)〕、赤き脚、其の余は皆、白し。其の肉、藥用に入るべし。

凡そ、鶴の觜〔(くちばし)〕は皆、青白色。羽の數、四十八。尾の羽數、十二あり。

鶴の肉・血 【氣味】、甘、鹹。香臭〔(かうしう)〕有り【他〔の〕禽と〔は〕同じからず。】。中華の人、食品と爲さず。本朝には以つて上撰と爲す。其の丹頂は、肉、硬(こは)く、味、美ならず。故に之れを食ふ者、少しなり。但し、官家、庭池の間に養ひて、巣を作る者、有り。聲を交えて乳(つる)む。其の乳むに、膝脚〔(ひざあし)〕の損傷せんことを恐る。輕輕と〔して〕膝を折り、立つ時も亦、然り。竟〔(つひ)〕に野叢に巣〔(すく)〕ふ。性、智、在りて、卵を池島に育てて、狐・犬の害を避く。雄雌、代(かはるがはる)之れを護る。初め、卵を生まんと欲するの時〔は〕、雄、先づ、其の処を卜〔(ぼく)〕し、以つて地を啄(つゝ)き刺(さ)し、寸寸に之れを試む。蟲・蛇、地中に伏せしめざらしめ、然る後、雌、卵を生ず。大いさ、椰子のごとくにして一孕〔(ひとはらみ)〕に四、五を、或いは、八、九子を生〔(う)む〕。其の雛(ひな)、初め、黃なる毛、白き嘴、短き翼、長き脛〔(すね)〕にて、淺蒼色なり。漸く長ずる者を「雛鶴」と謂ふ。

徃昔〔(むかし)〕、賴朝公の放(はな)つ所の鶴、今も亦、駿遠〔(すんえん)〕の田澤に來徃す。偶々、之れを觀る者有り。謂く、「翼の間に金札有りて、年號を記せり」〔と〕。

凡そ、諸禽の血、生-羶(なまぐさ)くして、啜(すゝ)ること、能はず。惟だ、鶴の血は溫酒に入れて啜るに、甚だ良し。

鶴骨〔(かくこつ)〕 笛に爲(つく)り〔て〕甚だ清越〔(せいえつ)〕なり。今、俗、脛の骨を用ひて、揩(す)り磨〔(ま)して〕、噐〔(うつは)〕に造る。最も婦人の笄(かんざし)に宜〔(よろ)〕し。能く諸蟲の毒を解す。又、鶴の骨を采聚〔(さいしゆ)〕して、鹽に和(ま)ぜ、黑燒す。之れを「黑鹽」と謂ひ、以つて血暈〔(けつうん)〕及び金瘡・折傷の氣、絶ち、治す。

「古今」難波がた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る

 凡そ、鶴、餌を食ふに、每〔(つね)に〕一啄〔(たく)〕一粒〔(りふ)〕なり。故に、物の委曲なることを「鶴の粟を拾ふ」に譬〔(たと)〕ふ。

[やぶちゃん注:動物界 Animalia脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata鳥綱 Avesツル目 Gruiformesツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearicaツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に分かれる。本文に頭の鶴総論部では丹頂鶴を基本として記しているとあるから、ここにはツル属タンチョウ Grus japonensis を挙げておく必要がある。但し、これは文字通りに採ってはいけないことが、以下の引用(下線太字部)で判るウィキの「タンチョウ」によれば(下線太字やぶちゃん)、『日本(北海道東部)、ロシア南東部、中華人民共和国、大韓民国北部、朝鮮民主主義人民共和国』に分布で観察出来るが、本来、同種は『アムール川流域で繁殖し、冬季になると江蘇省沿岸部や朝鮮半島ヘ南下し越冬する』のが基本であった。『日本では北海道東部に周年生息(留鳥)し、襟裳岬以東の太平洋岸・根室海峡沿岸部・オホーツク地区』で、一九八二年『以降は国後島や歯舞諸島』で、二〇〇四年『以降は宗谷地区でも繁殖している』。『越冬地は主に釧路湿原周辺だったが、近年は十勝平野西部や根室地区での越冬例が確認・増加している』。『日本で最も有名な生息地は釧路湿原一帯であるが』、ごく『稀に石狩平野の上空を飛来することがあり、鳴き声が聞かれる』。二〇一五年五月三十一日には『札幌上空で飛来が確認され』ている。全長は百二~百四十七センチメートル、翼長六十四~六十七センチメートル、翼開長は二メート四十センチメートルにも及び、体重は四~一〇・五キログラムで、『全身の羽衣は白』く、『眼先から喉、頸部にかけての羽衣は黒い』。『頭頂には羽毛がなく、赤い皮膚が裸出する』漢名・和名の『タン(丹)は「赤い」の意で、頭頂に露出した皮膚に由来する』。『虹彩は黒や暗褐色』、『嘴は長く、色彩は黄色や黄褐色。後肢は黒い』。『次列風切や三列風切は黒い』。『気管は胸骨(竜骨突起)の間を曲がりくねる』。『湿原、湖沼、河川などに』棲息し、『冬季には家族群もしくは家族群が合流した群れを形成する』。『日本の個体群と大陸産の個体群は鳴き交わしに差異がある』。『食性は雑食で、昆虫やその幼虫、エビ類・カニ類などの甲殻類、カタツムリ類・タニシ類などの貝類、ドジョウ類・コイ・ヤチウグイ・ヌマガレイなどの魚類、エゾアカガエルなどのカエル、アオジ・コヨシキリなどの鳥類の雛、ヤチネズミ類などの哺乳類、セリ・ハコベなどの葉、アシ・スゲ・フキなどの芽、スギナの茎、フトモモ・ミズナラなどの果実などを食べる』。『繁殖様式は卵生。繁殖期に』一~七『平方キロメートルの縄張りを形成』し、『湿原(北海道の個体群は塩性湿原で繁殖した例もあり)や浅瀬に草や木の枝などを積み上げた直径』百五十センチメートル、高さ三十センチメートル『に達する皿状の巣を作り、日本では』二『月下旬から』四『月下旬に』一~二『個の卵を産む』。『日本では大規模な湿原の減少に伴い、河川改修によってできた三日月湖や河川上流域にある小規模な湿地での繁殖例が増加している』。『雌雄交代で抱卵』を行い、『抱卵期間は』三十一日から三十六日で、『雛は孵化してから約』百『日で飛翔できるようになる』。本邦では崇徳天皇の治世であった長承二(一一三三)年の『詩序集が丹頂という名称の初出と推定されている』。『奈良時代以降は他種と区別されず』、『単に「たづ・つる」とされ、主に「しらたづ・しろつる」といえば本種を差していたが』、『ソデグロヅル』(ツル属ソデグロヅル Grus leucogeranus:額から眼先・顔にかけて羽毛が無く、赤い皮膚が裸出し、嘴も淡赤色や暗赤色・灰赤褐色で、後肢も淡赤色を呈する)『も含んでいたと推定されている』。『江戸時代には白鶴は主にソデグロヅルを指すようになったが、本種が白鶴とされる例もあった』。『江戸時代の草本学でも、現代と同様に鶴といえば』、『本種を指す例が多かった』。寛文六(一六六六)年(第四代将軍)徳川家綱の治世)の「訓蒙図彙」では『鶴(くわく)の別名として「つる、たづ、仙禽」が挙げられ』、「仙禽」は『本種の漢名であること、不審な点はあるものの』、『図から鶴といえば』、『主に本種を差していたと推定されている』。一方で、それから二十九年後の元禄八(一六九五)年の「頭書増補訓蒙図彙」では、『図は変わらないものの、本種ではなく』、『ソデグロヅルかマナヅル』(ツル属マナヅル Grus vipio:眼の周囲から嘴の基部にかけて羽毛が無く、赤い皮膚が裸出し、後肢も淡赤色・暗赤色を呈する)『を差したと思われる』「本草網目」『からの引用・訳文と推定される解説(頬や後肢が赤い)が付け加えられている』。さらにそれから九十四年後の天明九(一七八九)年(第十一代将軍家斉の治世)の「頭書増補訓蒙図彙大成」では、『解説は変わらないものの』、『図が新たに描きおこされ、たんてう(丹頂)の別名も追加され』ている。「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年刊)では、鶴は「和名類聚抄」にある『葦鶴(あしたづ)であるとして俗称は丹頂であると紹介している』。本「和漢三才図会」の完成は正徳二(一七一二)年頃であるから、認識の錯誤は微妙であるものの、「頭書増補訓蒙図彙」が最も直近であり、無批判に「本草網目」を引いている点などからは、ソデグロヅル(本邦への冬鳥としての飛来は稀)かマナヅル(九州南西部の鹿児島県出水(いずみ)市の出水平野が飛来地としてよく知られる)を良安がタンチョウと誤認している可能性もあるが、良安の附言は少なくともマナヅルとを明確に区別しているので、一応、タンチョウを正しく認識しているとしてよかろう。以下、ウィキでも『古くはより広域に分布し』、『一般的であったか、後述するように縁起物や芸術作品といった造形物を目にする機会が多かったことから』、『鶴といえば本種という認識が定着していったと考えられている』ともある。但し、『一方で』、『古くは現代よりも広域に分布していたとはいえ』、『日本全体では本種を見ることはまれであり、実際には鶴はマナヅルを差していたという反論もある』ともある(しかし、後に江戸の飛来地の話も出るので、この反論をそのまま受け入れることは躊躇される)。『地域差もあり』、備後国・周防国・長門国の『文献では鶴の別名を「マナツル」としており、これらの地域では鶴はマナヅルを指していたと推定されている』。紀州国では『特徴(頭頂が白く頬が赤い)から鶴(白鶴)はソデグロヅルを指していたと推定され、紀産禽類尋問誌(年代不明)では丹頂は飛来しないとする記述がある』。宝永五(一七〇八)年(徳川綱吉の治世末期)の「大和本草」には『頭頂が赤く後肢が黒い松前(北海道)に分布する「丹鳥」という鳥類の記述があるが、色は黒いとされている』。小野蘭山の寛政一三(一八〇一)年の「大和本草批正」では、『「丹頂」と「丹鳥」を区別し、「丹鳥」は「玄鶴」であるとしている』。但し、『玄鶴に関しては定義が不明瞭なため同定は困難で』『複数の説がある』『「丹鳥」を本種とする考えもあり』、『「丹鳥」を「丹頂」に書き換える例も多く見られるが、古くは「丹鳥」は複数の定義をもつ語であったと考えられ』、「大戴礼記」・「壒嚢鈔」・「和爾雅」では昆虫の『ホタルの別名』とし、「本草網目目録啓蒙」では鳥の『キンケイを指す語であったと推定されている』。『アイヌ語では「サロルンカムイ」と呼ばれ』、『「葦原の神」の意』で、『縁起物や芸術作品のモチーフとされることもあった』。本種タンチョウは一九六四年に『北海道の道鳥に指定されている』。現生地であった『アムール川流域では』、『野火による植生の変化や巣材の減少により』、また、『中華人民共和国では』、『農地開発による繁殖地の破壊などにより』、『生息数は減少している』。本邦でも、実は大正一三(一九二四)年に『釧路湿原で再発見されるまでは絶滅したと考えられていた』。現在、北海道での生息数は増加しているものの、『人間への依存度が高くなり、生息数増加に伴う繁殖地の不足が問題となっている』。『生息環境の悪化、他種の鳥類も含む過密化による感染症などのおそれ、電柱による死亡事故・車両や列車との交通事故・牛用の屎尿溜めへの落下事故の増加などの問題も発生して』おり、『餌づけの餌目当てに集まるキタキツネ・エゾシカ・オジロワシ・オオワシなどと接する機会が増えるが、これらのうち』、『捕食者に対しては餌付け場で捕食されることはないものの』、『見慣れることで警戒心がなくなってしまうこと』や、『イヌやシカについては』、『湿原の奥地まで侵入』することから、『繁殖への影響が懸念されている』。日本では北海道庁がいち早く明治二二(一八八九)年に狩猟を禁止し、三年後の明治二十五年には日本国内でのツル類の狩猟が全面的に禁止されている。昭和一〇(一九三五)年、『繁殖地も含めて国の天然記念物』となり、昭和二七(一九五二)年、『「釧路のタンチョウ」として繁殖地も含めて特別天然記念物、一九六七年には』『地域を定めず』、『種として特別天然記念物に指定され』、一九九三年に『種の保存法施行に伴い』、『国内希少野生動植物種に指定されている』。北海道での二〇〇四年に於ける生息数は千羽以上、二〇一二年における確認数は千四百七十羽で生息数は千五百羽『以上と推定されている』。『江戸時代には、江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた』。『タンチョウは』毎年十月から三月に『かけて見られたとい』い、『幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた』。『給餌の際は』、『ささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという』。『タンチョウは』午後六時頃から朝六時頃までは『どこかへ飛び去るので、その間は矢来内に入ることを許された』。『近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという』。一方で、『こうした鶴御飼附場では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた』。『東アジアにおいては古くから、タンチョウはその清楚な体色と気品のある体つきにより特に神聖視され、瑞鳥とされ』、『ひいては縁起のよい意匠として、文学や美術のモチーフに多用されてきた』。『また、「皇太子の乗る車」を指して「鶴駕(かくが)」と呼ぶ』『ように、高貴の象徴ともされた』。『道教的世界観の中ではとくに仙人、仙道と結びつけられ、タンチョウ自体がたいへんな長寿であると考えられた』『ほか、寿星老人』(本邦で七福神の一人である福禄寿と同一視される)『が仙鶴に乗って飛来するとか』、『周の霊王の太子晋が仙人となって白鶴に乗って去った』『といった説話が伝えられている』。『なお、古来の日本で「花」といえば梅を指したのと同じように、伝統的には、中国や日本で単に「鶴」と言えばタンチョウを指しているのが通常である』。本邦では八『世紀の皇族・長屋王の邸宅跡地からはタンチョウらしき鶴の描かれた土器が出土しており、これが現在知られている中で最古のタンチョウを描いた文物で』、一般的な鶴(古名「たづ」)は、『平安時代から室町時代にかけては鏡の装飾に鶴文(つるもん)が多く使われた』。『鶴ほど広範囲にさまざまな意匠に用いられているモチーフは他に例がなく』、『鎌倉時代の太刀や笈(おい)、紀貫之の用いた和歌料紙、厳島神社の蒔絵小唐櫃、日光東照宮陽明門の丸柱、仁阿弥の陶器、海の長者の大漁祝い着、沖縄の紅型染め、久留米の絵絣、修学院離宮の茶室に見られる羽子板形の七宝引手、光琳の群鶴文蒔絵硯箱、江戸の釜師・名越善正の鋳た鶴に亀甲菊文蓋の茶釜など、その実例を挙げるにおよんでは枚挙にいとまがない』。『室町時代に入る前後から』、『宋・元時代の中国から花鳥画の習俗が日本へ入ってくると、優美な姿のタンチョウは好んで描かれるモチーフのひとつとなり、伊藤若冲のような画風の異なるものも含め、多くの画家によって現在まで多数の作品が描かれている』。『通俗的には、「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と能曲『鶴亀』や地唄にも謡われるように、鶴と亀はいずれも長寿のシンボルとされ、往々にしてセットで描かれてきたほか、また花鳥画以来の伝統として松竹梅などとあわせて描かれることも多い。花札の役札「松に鶴」などもこうした流れのものであるということができる』。『アイヌ民族の間にはタンチョウの舞をモチーフにした舞踊なども伝えられている』。『中国で最も初期の鶴を象った文物といえば春秋戦国時代の青銅器「蓮鶴方壺(中国語版)」がよく知られているが、さらに古い殷商時代にも墳墓から鶴を象った彫刻が出土しているという』。また、『道教では、前述のとおり、タンチョウは仙人の象徴、不老長寿の象徴とされ珍重された』一方、『俗信としては、タンチョウの頭頂部からは猛毒の物質が採れるとされ、「鶴頂紅」「丹毒」などと呼ばれることがあった』とある(水銀(丹)との類感呪術であろう)。

「鵠(はくちやう)」古語「くぐひ」。白鳥のこと。鳥綱カモ目 Anseriformes カモ科 Anatidae Anserinae亜科のハクチョウ類。

「翎〔(かざきり)あり〕」推定訓。明らかに羽の中の特定の部位を指している読んで、「風切り羽(ば)」と採った。鳥の翼の後縁を成す、長く丈夫な羽。飛翔 に用いられ、この部分の羽は骨から生えており、外側から内側へ向かって初列・次列・三列と区分が出来、特に初列風切り羽は、羽ばたく際の推力を発生させる重要な部位である。

「雲霄〔(うんしやう)〕」雲の浮かぶ空の高いところ。

「唳〔(とど)〕く」届く。達する。

「高亮〔(こうりやう)〕」通常、志高く行いの正しいことを指す。ここは陽気の王である鶴の一声の毅然とのびやかでよく通ることを形容した。

「上風」草木の上を吹き渡る風。或いは風上。

「下風」草木の下、地面近くを吹き渡る風。或いは風下。雌雄で天然自然の上下双方向に闡明する能力を示すものであろうから、どちらかを採る必要を私は全く感じない。

「聲を交へて而〔して〕孕〔(はら)〕む」声のみで交尾を行い、雌がそれで卵を孕むというのである。まさに神仙の鳥に相応しい美しいコイツスではないか!

「降眞香〔(かうしんかう)〕」中国やタイなどで産する香木から作る香料。サイト「健康食品辞典」の「降真香」によれば、現在の「降真香」の基原植物には中国名「降香黄檀」マメ目マメ科ニオイシタン(匂紫檀/ダルベルギア・オドリフェラ)Dallbergia odorifera(高級香木として知られるマメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ツルサイカチ属 Dalbergia の紫檀とは同じマメ科ではあるが、全く関係がないので注意)の根の心材を用いる場合と、:ムクロジ目ミカン科 Rutaceaeミカン科オオバゲッケイ Acronychia oedunculata の心材や根を用いる場合とがあるとある。『降真檀は中国の広東省の海南島、広西省に分布し、栽培される』十~十五メートルにも『達する高木である。薬材は紅褐色ないし紫褐色でつやがあり、硬くてよい匂いがし、焼くと強い芳香がする。かつて降真香としてインド産のインド黄檀(D.sisoo)や海南黄檀(D.hainanensis)なども用いていたが、これらは表面が淡黄色から黄褐色である』。『漢方では理気・活血・健脾の効能があり、足腰の痛みや心痛、胃痛、打撲傷などに用いる。打撲や捻挫などには乳香・没薬などと配合して服用する。外傷には止痛・止血を目的として粉末を外用する。現在、マメ科の降真香は中国政府により輸出が禁止されている』とある。

「物類の相感なり」陰陽五行説に於ける、特殊特別な属性を持つもの同士が惹かれたり、本来の性質が予期せず、別な性質や別な物質にメタモルフォーゼする現象。

「羽族の宗」羽根を持つ生物、鳥の本源的鳥。

「驥(のりもの)」乗り物。

「陽鳥にして陰に遊ぶ」陽に満ちた鳥でありながら、自由自在に、陰気に満ちた時空間でも悠々と飛び遊ぶ事が出来る。

 

「子毛〔(しまう)〕を落して黑點に易(か)ふ」子鶴であった頃の毛を生え変わらせて、黒い模様のついた白羽に変える。

「産伏」生殖行動がとれるようになることであろう。

「羽-翮(はがい)」歴史的仮名遣は正しくは「はがひ」。狭義には、鳥の左右の羽の畳んだ際に重なる部分を指すが、ここは全体の羽の謂いでよかろう。

「雲漢〔(あまのがは)〕」東洋文庫訳を参考にした。銀河の天の川である。

「薄(せま)る」「迫る」。肉薄する。

「律に中〔(あた)〕る」妙なる楽曲の正しい音律と一致するようになる。

「大(ふと)き」「大」はママ。

「氄毛(にこげ)」「柔毛」「和毛」。柔らかい毛。また赤ん坊の時のような産毛に戻るのである。まさに仙鳥としての若返りの極みである。

「〔百〕六十年」次が「千六百年」なのに妙にショボいと思い、「本草綱目」を見たら、「百六十年」となっていたので、挿入した。

「須〔(ま)ちて〕」「待ちて」。

「雌雄(めを)」ルビはママ。

「相ひ視て、孕む」声の次はなんと! 視線を見交わすだけでコイツス完了! 羨ましい限りではないか!!!

「飮みて食はず」東洋文庫訳では『水だけ飲んで食事はしなくなる』とある。

「胎化(たいくわ)」胎内回帰!!!

「黑鶴」ツル属クロヅル Grus grus 。『ヨーロッパ北部のスカンジナビア半島からシベリア東部のコリマ川周辺にいたるユーラシア大陸で繁殖し、ヨーロッパ南部、アフリカ大陸北東部、インド北部、中国などで越冬する』。『日本には、毎冬少数が鹿児島県の出水ツル渡来地に渡来するが、その他の地区ではまれである』。『過去、鹿児島県のほかには、北海道、茨城県、静岡県、山口県、徳島県、沖縄県本島』、『埼玉県、兵庫県、鳥取県、島根県、新潟県佐渡、香川県、福岡県、長崎県、熊本県』、『奄美大島での記録がある』。全長百十~百二十五センチメートル、翼開長百八十~二百センチメートル、翼長五十五~六十三センチメートル、体重はで五・一~六・一キログラムでメスはやや軽い。『雌雄同色。成鳥の頭頂は赤く裸出し、まばらに黒く細い毛状の羽毛が生え』、『後頭から眼先、喉から頸部前面の羽衣は黒く、頭部の眼の後方から頸部側面にかけては白い』。『胴体の羽衣は淡灰褐色または灰黒色』で、『和名は全体的に黒っぽいことに由来する』とある。詳しくは引用したウィキの「クロヅル」を参照されたい。

「白鶴」「シロヅル」という和名を持つ種は現行はいない。ツル属アメリカシロヅル Grus Americana  はいるが、本種は日本に棲息しないし、「アメリカ」の取れた和名のそれも見当たらない。良安の言っているのは、タンチョウやマナヅルの、幼体か子供か若い個体或いは完全なアルビノ個体ではなかろうか。

「頰の埀(たれ)」露出した肌の誤認。

「翮〔(はねもと)〕」マナヅルの写真を見ての推定訓。「翮」は狭義には「羽根の茎」「羽根の生えている根元」の謂いであるからである。

「保呂〔(ほろ)〕」「保呂羽(ほろば)」鳥の両翼の下にある羽。

「造(は)ぐ」「矧(は)ぐ」。矢竹に羽をつけて矢を作る。

「賞す」食用として喫する。

「騮(ぶち)」東洋文庫訳のルビに従った。斑(ぶち)。

「羽の數、四十八。尾の羽數、十二あり」これが正しいかどうかは、分らん。識者の御教授を乞うしかない。

「香臭〔(かうしう)〕」「香」を頭に冠しているからには、それなりに良い香りが含まれているものと思われる。だから「他〔の〕禽と〔は〕同じからず」と言っているのである。

「中華の人、食品と爲さず」かの中国人が食べないということはないと思うが、先のウィキの引用から考えると、タンチョウを始めとする鶴の類は、神聖な瑞鳥で、縁起がよく、高貴の象徴であり、道教の神仙世界とのアクセスする存在、同時に長寿の象徴であるから、そういう意味で、民俗社会に於いて食べることが憚られたとは言えるであろう。

「輕輕と〔して〕」なるべくゆっくりと。

「竟〔(つゐ)〕に野叢に巣〔(すく)〕ふ」高官の屋敷の庭園で買っていても結局は野の叢に巣を作りに出て行ってしまう、と受けた表現であろう。

「池島」池の中の孤立した島。

「卜〔(ぼく)〕し」占って。ゆっくりとした歩き方や餌をつつく様子は、確かに道家の方士の呪術的歩行法である「禹步(うほ)」のようにも見えなくはない。

「賴朝公の放(はな)つ所の鶴……」私は不勉強にして、この話を知らなかったが、静岡県磐田市の「中遠広域事務組合」公式サイト内の「中遠昔ばなし」の中の鶴ヶ池(磐田市)に、この話が載っていた。「磐田昔ばなし」よりとある。

   《引用開始》

 1195年の10月のこと。鎌倉に幕府をつくった源頼朝は、諸国を統一したあと、東海道を通って京都へ上がることになりました。

 その頃の幕府の役人が記した道中日誌に、四日間の空白があります。この間に頼朝は、兄の朝長の墓を供養(放生会)したと伝えられています。

 朝長の墓があるのが、今の袋井市(友永)の積雲院門前。京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした兄の墓へ詣でて供養したのです。

 供養のための放生会は、近くの池のほとりで大々的に行われ、黄金の札をつけた数多くの鶴が放たれました。以来、人々は、この池を鶴ヶ池と呼ぶようになったということです。鶴の寿命は千年。江戸時代、羽に札をつけた鶴を捕まえた人が、「おそらくは、頼朝が放生会で放った鶴だろう。」と言ったという話が、幕末期の随筆に書かれています。

   《引用終了》

「駿遠〔(すんえん)〕」駿河国と遠江国。

「金札」放生会(ほうじょうえ)で放した鳥であることを示し、獲ってもそれで知れて、放すことを目指した、金で出来た小さな札。前の伝承を参照。

「年號」放生のために放った折りの年号。先の伝承から考えると、建久六年となる。

「生-羶(なまぐさ)く」「腥く」。生臭い。

「溫酒」燗酒。

「清越〔(せいえつ)〕」音(ね)がこの上もなく清らかで澄んでいること。

「噐〔(うつは)〕」そんなに太い骨ではないから、盃のようなものか。

「采聚〔(さいしゆ)〕」採り集め。

「血暈〔(けつうん)〕」東洋文庫訳割注は『めまい』とする。

「氣、絶ち、治す」東洋文庫訳は上記の障害『による気絶を治す』とするが採らない。原典には送り仮名の「チ」がはっきりと送られてあるからである。されば、私は貧血性の眩暈(めまい)・刃物による創傷・開放或いは単純骨折による悪心(おしん)を絶って、治す、と採る。

「難波がた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る」「古今和歌集」の「巻第十七 雑歌上」の、「読み人知らず」の海辺での詠歌二十首の第四(九一三番歌)。整序すると、

 難波潟潮(しほ)滿ち來らし海人衣(あまごろも)田蓑(たみの)の島に田鶴(たづ)鳴き渡る

で、「田蓑」は田圃仕事をする蓑に島の名としての田蓑島を掛けているとするが、この名の島は不明(一説に大阪市天王寺辺りにあった島ともされる)。

「物の委曲なること」「委曲を尽くす」こと。検証や説明などを詳しくして、細かいところまで目を行き届かせること。]

和漢三才圖會 禽類 始動 総論部及び「目録」

寺島良安「和漢三才図会」の「卷四十一」から「卷四十四」に至る「禽部」(私が日常的に観察する生物の中で最も個体識別を苦手とする鳥類である)の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 禽類」を起して始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、私が生理的に最も苦手とする虫類、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は「卷三十七 畜類」「卷三十八 獸類」「卷三十九 鼠類」と、この「卷四十一 水禽類」「卷四十二 原禽類」「卷四十三 林禽類」「卷四十四 山禽類」のみとなった。

 思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは「卷第四十七 介貝部」で、それは実に九年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエール故であった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない補塡字は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した(読みは注を極力減らすために本文で意味が消化出来るように恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合も特に断らない)。ポイントの違いは一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。「蟲類」同様、ゆっくらと、お付き合い戴ければ幸いである。【2017年10月30日始動 藪野直史】

 

和漢三才圖會卷第四十一目録

    禽部

時珍曰凡二足而羽曰禽飛禽總名曰鳥羽蟲三百六十

毛恊四時色合五方○山禽岩棲○原鳥地處○林鳥朝

○水鳥夜○山禽咮短而毛修水禽咮長而尾促矣

其交也或以尾臎或以睛睨或以聲音或合異類【雉與蛇交之類】

其生也或以翼孚卵或以同氣變【鷹化鳩之類】或以異類化生

【田鼠化鴽之類】或變入無情【雀入水爲蛤之類】噫物理萬殊若此其可不

致知乎○天産作陽羽之類則陽中之陽也

周禮庖人掌六禽六畜六禽者鴈鶉鷃雉鳩鴿是也六畜

者馬牛未豕犬雞是也【雞則鳥而可以豢養故爲畜類】

 

 

「和漢三才圖會卷第四十一」目録

    禽部

時珍曰く、『凡そ二足にして羽あるを、「禽〔(きん)〕」と曰ふ。「飛禽」の總名を「鳥」と曰ふ。羽ある蟲〔(ちゆう)〕、三百六十。毛は四時に恊(かな)ひ、色は五方に合ふ。「山禽」は岩に棲(す)み、「原鳥」は地に處〔(よ)〕る。「林鳥」は朝に嘲(な)き、水鳥は夜に(な)く。「山禽」は咮(くちばし)短くして、毛、修(なが)く、「水禽」は咮長くして、尾、促(ちゞ)まる。其れ、交(つる)むや、或いは尾・臎(しりばね)を以つてし、或いは睛-睨(ひとみ)を以つてし、或いは聲音を以つてし、或いは異類に合ふ【雉と蛇と交むの類ひ。】其の生(こをう)むや、或いは翼を以つて卵(たまご)を孚(かへ)し、或いは同氣を以つて變ず【鷹、鳩に化すの類ひ。】。或いは異類を以つて化生〔(けしやう)〕す【田鼠〔(もぐらもち)〕の鴽〔(ふなしうづら)〕に化する類ひ。】或いは變じて無情に入る【雀、水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲るの類ひ。】。噫(あゝ)、物理萬殊、此くのごとし。其れ、知ることを致さざらんや。天産を陽と作〔(な)〕し、羽あるの類は、則ち、陽中の陽なり。』〔と〕。

「周禮」、『庖人〔(はうじん)〕、六〔(りく)〕禽六畜を掌(つかさど)らしむ』〔と〕。「六禽」とは鴈〔(かり)〕・鶉〔(うづら)〕・鷃〔(ふなしうづら)〕・雉・鳩・鴿〔(いへばと)〕、是れなり。「六畜」とは、馬・牛・未・豕〔(ぶた)〕・犬・雞〔(にはとり)〕、是れなり【雞は、則ち、鳥なれども、以つて豢養〔(かんやう)〕すべき故に、畜類と爲す。】

 

[やぶちゃん注:動物界 Animalia    脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 鳥綱 Aves の鳥類の総論部。

 

「時珍曰く」以下の引用は無論、何時もの通り、「本草綱目」から。「禽部」の巻四十七の目録部分からの引用。

「毛は四時に恊(かな)ひ」羽毛は四季に合わせて適切に変化適応し。「恊」は「協」と同じで「適(かな)う」の意。

「色は五方に合ふ」それぞれの種の毛や体色は、悉く「五方」(東西南北と中央の空間位置)にぴったりと適合している。前の四季との附合と合わせて、ここは上辺の視覚上のことを言っているのではなくて、陰陽五行説に完全に適った、生物界選り優りの優等生たる「陽」の生物であることを説明しているのである。でなくてどうして、最後に「天産」(自然が生み出した産物。東洋文庫訳は割注で『動物』とするが、従えない。ここは自然界を一般的に尋常に構成している生物群全般(道家的本草学的には、ある種の生物や魑魅魍魎の類いには例外的に陰気のみの存在もある)を指す)を陽と作〔(な)〕し、羽あるの類は、則ち、陽中の陽なり」とまで賞揚しない。

「原鳥」野原をテリトリーとする鳥類。

「交(つる)むや」交尾行動に際しては。

「異類に合ふ」鳥類でない別な生物と交合する。

「雉と蛇と交むの類ひ」本邦の国鳥ともされる鳥綱キジ目 Galliformes キジ科 Phasianidaeキジ属 Phasianus キジ Phasianus versicolor は鳥類の中では成体の蛇を好んで摂餌することで知られる。そうした現場を見て、交尾行動と見誤ったのであろう。

「(こをう)む」「子を産む」。

「同氣を以つて」同じ強力な陽気を持った広義の同じ「鳥類」としての不思議な影響力。

「田鼠〔(もぐらもち)〕」: 脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱 Mammalia トガリネズミ形目 Soricomorpha モグラ科 Talpidae のモグラのこと。

「鴽〔(ふなしうづら)〕」ここは東洋文庫訳のルビを参考にした。フナシウズラは「鶕」鳥綱チドリ目 Charadriiformesミフウズラ(三斑鶉)科 Turnicidaeミフウズラ属 Turnixミフウズラ Turnix suscitator の旧名。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみ。

「無情」通常は、仏教に於いて精神や感情などの心の働きを有しないと考えられた下等生物及び物質及び観念的存在。

「雀、水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲る」ハマグリの殻の模様がスズメに似ていることが誤認の濫觴と思う。

「物理萬殊」この宇宙を支配している絶対真理による形態的生態的変容(メタモルフォーゼ)。

「其れ、知ることを致さざらんや」反語。この時珍の言いは、そうした宇宙の生成運行消滅(存在と虚無)を支配する絶対的根本原理の核心は人間には、到底、窺い知ることは出来ないという考え方は、すこぶる道家的である。

 以下目録が続くが、原典では罫線入り三段組の縱順列(縦三段を読んで左へ移る順列)であるが、一段で示した。また、幾つかの漢字と訓は現行の呼び方一致しないが、それは各項で考証する。まあ、ご覧あれ。一つ残らず即座に現行の鳥類種に比定出来る方は、超達人クラスであると私は思う。ここでは目録のみの提示とし注は附さない。「鸂鶒(大おしどり)」のルビ内の「大」はママ。「おほおしどり」(大鴛鴦)である。]

 

  卷第四十一

   水禽類

鶴(つる)

鶬鷄(おほとり)

鸛(こふ) 【しりくろ】

(とつしう)

䴌䴀(もうどう)

鴈(かり) 【がん】

鴻(ひしくひ)

鵞(たうがん)

鴇(のがん)

天鵞(はくちやう)

鶩(あひろ)

鳬(かも)

鸍(こがも) 【たかべ】

味鳬(あぢかも)

鵜鶘(がらんちやう)

鸕鷀(う) 【しまつとり】

鷁(げき)

鴗(かはせび)

鸊鷉(かひつぶり) 【にほ】

鴛鴦(おしどり)

𪄪(大おしどり)

鵁鶄(ごいさぎ)

旋目鳥(ほしごい)

(おすめどり) 【みおぞごい】

鷺(さぎ)

白鶴子(だいさぎ)

蒼鷺(あをさぎ)

朱鷺(つき) 【とき】【唐がらす】

箆鷺(へらさぎ)

鸀鳿(がくさく)

鷗(かもめ)

善知鳥(うとう)

蚊母鳥(ぶんもてう)

鷭(ばん)

河鴉(かはがらす)

計里鳥(けり)

水雞(くひな)

鵠(くぐひ)

鶺鴒(せきれい)

鴴(ちどり)

割葦鳥(よしはらすゞめ)

都鳥(みやこどり)

鷸(しぎ)

嗽金鳥(さうきんちやう)

2017/10/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「化鳥退治」

 

 化鳥退治

 

 源三位賴政の鵺(ぬえ)退治などは改めて説くまでもないが、話の順序だから「平家物語」の記載を擧げることにする。近衞院の御宇に、主上夜な夜なおびえさせ給ふ事があり、東三條の方から一むらの黑雲が押して來て、御殿を蔽ふと思はれる時、愈々おびえさせ給ふとわかつた。山門南都の貴僧高僧に大法祕法を修せしめられたのは云ふまでもないが、同時に武士を以ても警固すべしとあつて、源平兩家のつはものを召されることになつた。當時兵庫頭であつた賴政が、南殿に祗候して世間の樣子を窺つてゐると、果して夜半に及ぶ頃、例の黑雲が御殿の上に五丈ばかりたなびいた。雲の中に姿ある者が見えるので、賴政尖り矢をつがへてひようと射る。矢に中つて庭上に落ちたのが「かしらは猿、むくろはたぬき、尾はくちなは、足手は虎の如くにて、鳴聲鵺にぞにたりける」といふ怪物であつた。賴政の名が天下に聞えたのはこの時である。その後二條院の御宇にも、鵺が夜な夜な啼いて宸襟を惱ましたことがあつた。賴政は前例により召されて南殿に祗候したが、折ふし五月雨のかきくらす空に、化鳥(けてう)は一聲啼いたきりだから見當が付かぬ。賴政先づ鏑矢(かぶらや)を放ち、鵺がその音に驚いて飛び𢌞るところを、小鏑を執つて射落した。これは前のやうな怪物ではなかつたので、二度目の化鳥退治は第一囘ほど喧傳されてゐない。

[やぶちゃん注:「源三位賴政」(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)は平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては、突出した従三位に叙せられたことから「源三位(げんざんみ)」と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし、馬場頼政(ばばのよりまさ)と称した。白河院以来、朝廷に仕え、兵庫頭に至る。摂津源氏渡辺党を率いて、保元の乱では天皇方に属して功あり、平治の乱では平氏方に属した。平氏政権下で宮廷・京都の警衛に任ぜられ、三位に至って内昇殿を許された。しかし、平氏の専制、源氏の衰勢を憤って、治承四(一一八〇)年、後白河上皇の皇子以仁(もちひと)王を奉じて平氏打倒の兵をあげたが、平氏に討たれて五月二十六日(ユリウス暦一一八〇年六月二十日)、宇治平等院で戦死した。しかし、この時に諸国の源氏に配布された以仁王の令旨は、源氏再興の原動力となった。頼政は射芸の達人として名があり、また和歌において当時の第一流に属し、今日に「源三位頼政集」を伝えるほか、多数の和歌を残している。墓所は終焉の地、現在の京都府宇治市の平等院最勝院にある。(以上は小学館の「日本大百科全書」及びウィキの「源頼政」をカップリングした)。

「鵺」ウィキの「鵺」により記載する。鵼・恠鳥・夜鳥・奴延鳥などとも書く。妖怪(妖獣。一説に雷獣とも)で、「平家物語」などに登場し、『サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある』。「源平盛衰記」では『背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニワトリと書かれた資料もある』。『描写される姿形は、北東の寅(虎)、南東の巳(蛇)、南西の申(猿)、北西の乾(犬とイノシシ)といった干支を表す獣の合成という考えもある』。『「ヒョーヒョー」という、鳥のトラツグミ』(スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera daumanagagutsukun2氏のYou Tube の音声)『の声に似た大変に気味の悪い声で鳴いた、とされる』。『平安時代後期に出現したとされるが、平安時代のいつ頃かは、二条天皇の時代、近衛天皇の時代、後白河天皇の時代、鳥羽天皇の時代など、資料によって諸説ある』。『元来、鵺(や)はキジに似た鳥』『とされるが』、『正確な同定は不明である。「夜」は形声の音符であり、意味を伴わない。鵼(こう・くう)は怪鳥』『とされる』。『日本では、夜に鳴く鳥とされ』、必ずしも妖怪としてではなく、夜鳴く鳥としては「古事記」「万葉集」に既に名は見られる』『この鳴き声の主は、鳩大で黄赤色の鳥』『と考えられたが、現在では、トラツグミとするのが定説である』。『この鳥の寂しげな鳴き声は平安時代頃の人々には不吉なものに聞こえたことから凶鳥とされ、天皇や貴族たちは鳴き声が聞こえるや、大事が起きないよう祈祷したという』。注意すべき点はこの「平家物語」で語られる妖怪は『あくまで「鵺の声で鳴く得体の知れないもの」で名前はついていなかった。しかし現在ではこの怪物の名前が鵺だと思われ、そちらの方が有名』となってしまったという経緯である(但し、百二十句本(平仮名本)「平家物語」のみには以下に示すように「五海女(ごかいじょ)」という不思議な名が記されてある。また、頼政の二回目のケースでは後に見るように「鵺(ぬえ)」と出るが、これは声のみであるから、妖怪(あやかし)の化鳥(けちょう)としての鵺の声であったことを指しているだけで、前回のようなハイブリッドのキマイラの実体的妖獣の名ではないのである)。『この意が転じて、得体の知れない人物を』比喩的に呼んだりもする。「平家物語」「摂津名所図会」などによれば、『鵺退治の話は以下のように述べられている。平安時代末期、天皇(近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった』。『側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある』『)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した』。『その時』、『宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという』。『これにより』、『天皇の体調もたちまちにして回復』、『頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した』(同刀とされるものは現存する)。『退治された鵺のその後については諸説あ』り、「平家物語」などに『よれば、京の都の人々は鵺の祟りを恐れて、死体を船に乗せて鴨川に流した。淀川を下った船は大阪東成郡に一旦漂着した後、海を漂って芦屋川と住吉川の間の浜に打ち上げられた。芦屋の人々はこの屍骸をねんごろに葬り、鵺塚を造って弔ったという』。『鵺を葬ったとされる鵺塚は』、「摂津名所図会」では『「鵺塚 芦屋川住吉川の間にあり」とある』。『江戸初期の地誌である』一無軒道冶著「芦分船」に『よれば、鵺は淀川下流に流れ着き、祟りを恐れた村人たちが母恩寺の住職に告げ、ねんごろに弔って土に埋めて塚を建てたものの』、『明治時代に入って塚が取り壊されかけ、鵺の怨霊が近くに住む人々を悩ませ、慌てて塚が修復されたという』。一方、「源平盛衰記」や「閑田次筆」によると、『鵺は京都府の清水寺に埋められたといい、江戸時代にはそれを掘り起こしたために祟りがあったという』。『別説では鵺の死霊は』一『頭の馬と化し、木下と名づけられて頼政に飼われたという。この馬は良馬であったため』、『平宗盛に取り上げられ、それをきっかけに頼政は反平家のために挙兵してその身を滅ぼすことになり、鵺は宿縁を晴らしたのだという』鵺からの報復伝承も存在する。また、『静岡県の浜名湖西方に鵺の死体が落ちてきたともいい、浜松市北区の三ヶ日町鵺代、胴崎、羽平、尾奈といった地名はそれぞれ鵺の頭部、胴体、羽、尾が落ちてきたという伝説に由来する』という。さらに驚くべきことに、『愛媛県上浮穴郡久万高原町には、鵺の正体は頼政の母だという伝説もある。かつて平家全盛の時代、頼政の母が故郷のこの地に隠れ住んでおり、山間部の赤蔵ヶ池という池で、息子の武運と源氏再興をこの池の主の龍神に祈ったところ、祈祷と平家への憎悪により母の体が鵺と化し、京都へ飛んで行った。母の化身した鵺は天皇を病気にさせた上、自身を息子・頼政に退治させることで手柄を上げさせたのである。頼政の矢に貫かれた鵺は赤蔵ヶ池に舞い戻って池の主となったものの、矢傷がもとで命を落としたという』(太字下線はやぶちゃん)。最後の伝承は、何か、しんみりする。

「近衞院の御宇」近衛天皇(保延五(一一三九)年~久寿二(一一五五)年)の在位は永治元(一一四二)年~久寿二(一一五五)年七月まで。次代は後白河天皇。

「東三條」大内裏の南東。

「祗候」(しこう)は「伺候」に同じい。貴人のおそばに奉仕すること。

「五丈」十五メートル強。

「二條院の御宇」後白河天皇第一子であった二条天皇(康治二(一一四三)年~永万元(一一六五)年)。在位は後白河の後で、保元三(一一五八)年~永万元(一一六五)年八月まで。

「宸襟」(しんきん)は天子の御心。

 以上の「平家物語」のそれは「卷第四 鵼」の一節。以下。

   *

 この賴政、一期(いちご)の高名とおぼえしは、近衞の院の時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。大法、祕法を修せられけれども、しるしなし。人申しけるは、

「東三條のもとより黑雲(くろくも)ひとむらたち來たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ。」

と申す。

「こはいかにすべき。」

とて、公卿、僉議(せんぎ)あり。

「所詮、源平の兵(つはもの)のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし。」

とさだめらる。

 寛治のころ、堀河の天皇、かくのごとくおびえさせ給ふ御ことありけるに、そのときの將軍、前の陸奧守源の義家を召さる。義家は、香色(かういろ)の狩衣に、塗籠藤(むりごめどう)の弓持ちて、山鳥の尾にてはぎたる[やぶちゃん注:製した。]とがり矢二すぢとりそへて、南殿の大床に伺候す。御惱(ごなう)のときにのぞんで、弦(つる)がけすること三度、そののち、御前(ごぜん)のかたをにらまへて、

「前の陸奧守、源の義家。」

と高聲(かうじやう)に名のりければ、聞く人、みな、身の毛もよだつて、御惱もおこたらせ給ひけり。

 しかれば、

「すなはち、先例にまかせ、警固あるべし。」

とて、賴政をえらび申さる。そのころ、兵庫頭と申しけるが、召されて參られけり。

「わが身、武勇(ぶよう)の家に生れて、なみに拔け、召さるることは家の面目なれども、朝家に武士を置かるる事、逆叛(ぎやくほん)の者をしりぞけ、違勅(ゐちよく)の者をほろぼさんがためなり。されども、目に見えぬ變化(へんげ)のものをつかまつれとの勅定(ちよくじやう)こそ、しかるべしともおぼえね。」

とつぶやいてぞ出でにける。

 賴政は、淺葱(あさぎ)の狩衣に、滋藤(しげどう)の弓持ちて、これも山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、賴みきりたる郎等、遠江の國の住人、猪(ゐ)の早太(はやた)といふ者に黑母衣(くろぼろ)[やぶちゃん注:黒い鷹の羽。]の矢負はせ、ただ一人ぞ具したりける。

 夜ふけ、人しづまつて、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ、人の言ふにたがはず、東三條の森のかたより、例のひとむら雲、出で來たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。雲のうちにあやしき、ものの姿あり。賴政、

「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無歸命頂禮(なむきみやうちやうらい)、八幡大菩薩。」

と心の底に祈念して、鏑矢を取つてつがひ、しばしかためて、

「ひやう。」

ど射る。手ごたへして、

「ふつつ。」

と立つ。やがて矢立ちながら、南の小庭にどうど落つ。早太、

「つつ。」

と寄り、とつて押さへ、五刀(いつかたな)こそ刺したりけれ。

 そのとき、上下の人々、手々(てで)に火を出だし、これを御覽じけるに、かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇(くちなは)、足、手は虎のすがたなり。鳴く聲は、鵺(ぬえ)にぞ似たりける。「五海女(ごかいぢよ)」といふものなり。

 主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御劍を賴政に下し賜はる。賴長の左府これを賜はり次いで、賴政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二聲、三聲おとづれて過ぎけるに、賴長の左府、

  ほととぎす雲居に名をやあぐるらん

と仰せかけられたりければ、賴政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をそば目にうけ[やぶちゃん注:月を斜めに見上げて。]、弓、わきばさみて、

  弓張り月のいるにまかせて

とつかまつりて、御劍を賜はつてぞ出でにける。

「弓矢の道に長ぜるのみならず、歌道もすぐれたりける。」

と、君(きみ)も臣も感ぜらる。

 さて、この變化のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。

 賴政は、伊豆の國を賜はつて、子息仲綱受領し、わが身は丹波の五箇の庄、若狹の東宮川知行して、さてあるべき人の、よしなき事を思ひくはだて、わが身も子孫もほろびぬるこそあさましけれ。賴政はゆゆしうこそ申したれども、遠國は知らず、近國の源氏だにも馳せ參らず、山門さへかたらひあはれざりしうへは、とかう申すにおよばず。 

 

 また、去んぬる應保[やぶちゃん注:二条天皇の元号。一一六一年から一一六二年。]のころ、二條の院御在位のときに、鵺(ぬえ)といふ化鳥(けてう)、禁中に鳴いて、しばしば宸襟を惱ますことありき。

 先例をまかせ、賴政を召されけり。

 ころは五月二十日あまりのまだ宵のことなるに、鵺、ただ一聲おとづれて、二聲とも鳴かず。めざせども知らぬ闇ではあり、すがたかたちも見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。

 賴政、はかりごとに、まづ大鏑をとつてつがひ、鵺の聲しつるところ、内裏のうへにぞ射あげたる。鏑の音におどろいて、虛空にしばしはひめいたり。二の矢を小鏑とつてつがひ、

「ふつ。」

と射切つて、鵺と鏑とならべてまへにぞ落したる。

 禁中ざざめいて、御感ななめならず、御衣(ぎよえ)をかづけさせ給ひけるに、そのときは大炊の御門の右大臣公能公、これを賜はり次いで、賴政にかづけさせ給ふとて、

「むかしの養由(やういう)[やぶちゃん注:養由基。中国の戦国時代の弓の名人。]は、雲のほかの雁を射にき。いまの賴政は、雨のうちに鵺(ぬえ)を射たり。」

とぞ感ぜられける。

  五月闇(さつきやみ)名をあらはせるこよひかな

とおほせられたりければ、賴政、

  たそがれどきも過ぎぬと思ふに

とつかまつり、御衣を肩にかけて退出す。そののち伊豆の國を賜はり、子息仲綱受領になし、わが身三位しき。

   *] 

 

「かしらは猿、むくろはたぬき、尾はくちなは」云々といふやうな怪物は前後に例がないかと思ふと、「後崇光院御記」の應永二十三年五月の條に次のやうな記事がある。北野の社の二叉(ふたまた)の杉に怪鳥が現れ、その聲大竹をひしぐが如く、社頭を鳴動するほどであつたので、參詣通夜の人は肝を治した。宮仕への一人が弓を以て射落したのを見れば、頭は猫、身は雞、尾は蛇の如く、眼大にして光りあり、希代の怪鳥なりと記されてゐる。賴政時代と鷹永年間とでも大分間隔があるが、賴政の最初の事件が卯月十日餘り、その次が五月二十日餘りで、應永のも五月だから、化鳥の出現には季節の關係があるらしい。賴政の射落した怪物は、うつぼ船に入れて西の海に流された。應永の化鳥も川に流すべき旨、室町殿が沙汰せられたといふことで、すべての規模が小さくなつてゐることは爭はれぬ。

[やぶちゃん注:「後景光院御記」「ごすくわうゐんぎよき(ごすうこういんぎょき)」と読む。室町時代の皇族で世襲親王家の一つである伏見宮三代目当主であった伏見宮貞成親王(後崇光院)(応安五(一三七二)年~康正二(一四五六)年)の日記。

「應永二十三年五月」一四一六年。この年の五月一日はグレゴリオ暦に換算すると六月五日に相当する。

「雞」「にはとり」。鶏。

「室町殿」当時の室町幕府第四代将軍足利義持。]

 

 賴政の鵺退治に就いて連想に上る支那の話は「搜神記」の李楚賓である。靑山に住する董元範の母、常に病患に染み、晝の間は安靜であるが、夜になると非常に苦しむ。その痛みは刀で背を刺され、且つ毆打されるが如くである。病んでより已に一年、醫藥針灸の手段を盡しても更に效驗が見えぬ。たまたま易(えき)をよくする朱邯なる者、元範の母の三更に至つて叫喚するのを耳にし、何の病ひであるかを問うた。元範には無論答へることが出來ない。朱邯は卦を置いた結果、今日の午後二時に、あなたは弓矢を持つた人に出遇ふ筈だ、その人に敬意を表し、再三引き留めて一宿を乞ふがよろしい、母堂の御病氣を救ひ、苦痛の根源も明かになるでせう、と告げて去つた。元範がその時刻に道路に出て待つてゐると、成程弓矢を携へた男が來る。これが李楚賓なので、平生狩獵を好み、出づる每に大いに獲ざることなしといふ名人であつた。元範は進んで恭しく挨拶し、本日は柾げて弊舍へお立ち寄りを願ひたう存じます、と懇願した。楚賓は遊獵の途中でまだ一物も獲てゐない、日も高い事ではあるし、今からお寄りするわけに往かぬ、と云ふ。こゝに於てつぶさに母の病苦を述べ、或人の教へにより、御尊來を仰ぎさへすれば母の病ひは必ず癒えるといふことでありますので、斯の如く歎願に及ぶ次第でございます、と云つたところ、楚賓も遂に承知して元範の家に一宿することになつた。元範は懇ろに楚賓をもてなし、東房に臥牀(ふしど)を設けて、どうぞ御ゆるりとお寛(くつろ)ぎ下さい、と云つた。その夜は晝の如き月明であつたが、楚賓は夜の十時頃になると、房門を出てその邊を徘徊してゐる。忽ち一羽の大鳥が飛んで來て、母親の寢てゐる房の上に止り、嘴で屋根をつゝきはじめると同時に、室内から堪へがたい苦しみの聲が起る。この鳥が妖魅に違ひないと悟つた楚賓は、直ちに房中より弓矢を取り出し、失繼ぎ早に數箭を射た。鳥はどこへか飛び去り、室内の痛聲も聞えなくなつた。翌朝楚賓は元範に向び、もう母堂の疾患は除き去りました、御安心なさい、と云つたけれど、元範は腑に落ちぬ樣子で、どういふ風にしてお除きになりましたか、と問ふ。賓は拙者が戸を出てぶらぶら步いてゐましたところ、滿身朱色で兩眼金の如き大鳥が飛んで來て、屋上を啄(ついばみ)みはじめたら母堂の痛聲が聞えるのです、それから弓矢を持ち出して射かけたら、鳥はゐなくなつて痛聲もやみました、もう大丈夫です、と説明したので、元範は大いによろこび、楚賓と共に家の周圍を𢌞つて搜して見た。痕跡らしいものは何もなかつたが、柱に二本の矢が立つて居り、鏃(やじり)には血が付いてゐる。元範直ちにこれを燒き棄て、母の狀態は全く舊に復した。乃ち深く楚賓の恩を感謝し、絹一束を贈つたけれど、楚賓は受けずして去つた。

[やぶちゃん注:これは柴田の勘違いで「搜神記」ではなく、「集異記」の誤りではないかと思われる。「太平廣記」の「精怪二 李楚賓」に「集異記」を出典として、以下のように出るからである。

    *

李楚賓者、楚人也。性剛傲、惟以畋獵爲事。凡出獵、無不大獲。時童元範家住靑山、母嘗染疾、晝常無苦、至夜卽發。如是一載、醫藥備至、而絶無瘳減。時建中初、有善易者朱邯歸豫章、路經範舍、邯爲筮之。乃謂元範曰、「君今日未時、可具衫服、於道側伺之、當有執弓挾矢過者。君能求之斯人、必愈君母之疾、且究其原矣。」。元範如言、果得楚賓、張弓驟馬至。元範拜請過舍、賓曰、「今早未有所獲、君何見留。」。元範以其母疾告之、賓許諾。元範備飲膳、遂宿楚賓於西廡。是夜、月明如晝。楚賓乃出戸、見空中有一大鳥、飛來元範堂舍上、引喙啄屋、卽聞堂中叫聲、痛楚難忍。楚賓揆之曰、「此其妖魅也。」。乃引弓射之、兩發皆中。其鳥因爾飛去。堂中哀痛之聲亦止。至曉、楚賓謂元範曰、「吾昨夜已爲子除母害矣。」。乃與元範遶舍遍索、俱無所見。因至壞屋中、碓桯古址、有箭兩隻、所中箭處、皆有血光。元範遂以火燔之、精怪乃絶。母患自此平復。

   *

「靑山」これだけでは不詳。なお、大きな地区としては、まず、現在の湖北省武漢市に青山区はある。] 

 

「平家物語」には一むらの黑雲が押して來て御殿を蔽ふ時、主上愈々おびえさせ給ふとある。怪物の所作は雲につゝまれてわからぬが、この時恐らく元範の屋根を啄むのに似た動作があるのであらう。李楚賓は數箭を放つただけで、怪鳥を斃し得なかつたに拘らず、晝の如き月明に惠まれて、全身朱色の鳥をはつきり見屆けてゐる。相手の正體の見えた方が、矢を放つのに便宜なことは云ふまでもない。朱邯の豫言は母の患を救ひ、その苦の源を驗せんといふに在つたのだから、楚貿の一宿を乞うた目的は十分に達せられたわけである。

[やぶちゃん注:「驗せん」「げんせん」或いは「けんせん」と読んでいよう。この場合の「験」とは、証拠によって確かめる・試すの意である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) わたしの樹


Watasinoki

   わたしの樹

 

 大學時代の友達から、領地に遊びに來いと言つて來た。この男は貴族で、また富裕な地主でもあつた。

 その彼が久しい前からの病氣で、盲らになつた上、中風で步行もできないことは、私も承知してゐた。私は會ひに行つた。

 行つて見ると彼は、廣大な庭の中の並木路にゐた。夏の盛りなのに毛皮の外套を着こみ、瘦せこけた身體を手押車に乘せて、立派な仕著せを着た二尺の從僕に押させてゐた。

 「ようこそ來て下さつた」と、彼は墓の底から吹いてくるやうな聲で言つた、

 「わたしの先祖代々の土地に、わたしの千年の樹の下に。」

 彼の頭の上には、本當に千年もたつたかと見える檞の大樹が、うつさうと枝をひろげてゐる。

 私は心のなかでつぶやいた、「聞いたか、千古の巨人。死にかけた蛆蟲が、お前の根元を這ひ𢌞つて、お前を自分の樹と呼ぶのを。」

 そのとき風が渡つて、大樹の葉並がさらさらと鳴るつた。その音はなんとなく、檞の老樹が私の考や病人の自讃にこたへた穩やかな返事、あるひは寛大な笑聲のやうな氣がした。

           一八八一一年十一月

 

Edd

 

[やぶちゃん注:本詩篇を以って底本の「散文詩」本文は終わっている。

「檞」本字は通常「かしわ」と訓読し、「柏」と同義で用いる。その場合、本邦産の双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentata、英名Daimyo Oakを指す。原文は“дуб”(ドゥープ)で、これは英語のオーク“ork”、樫(かし)や楢(なら)の類を広く言う語である。以下、興味深い記述が現われるので以下にウィキの「オーク」の一部を引用する。『オーク(英:Oak)はブナ科コナラ属 (学名:Quercus)の総称。模式種のヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク、イングリッシュオーク、コモンオーク Common Oak、学名:Quercus robur)が代表的。なお』、『アカガシ亜属 Quercus Cyclobalanopsis)は別属とすることがあるが、オークには含まれる』。『広葉樹で、その多くが落葉樹だが、常緑樹もあり、あわせて数百種以上ある。日本語では落葉樹の種群はナラ(楢)、常緑樹の種群はカシ(樫)と呼ばれる。亜熱帯から亜寒帯まで、北半球に広く分布する。西欧でいうオークには日本ならナラとなる落葉樹が多いが、そのようなものでも』、『しばしば翻訳家が日本語訳で「樫」の訳語を一律に当てていることがあるので、注意を要する。常緑のオークはライヴオーク(live oak)と呼ばれる』とある。実は、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版の当該詩「わたしの木(こ)だち」では、まさに『かしの木』と訳されてある。ちなみに、ロシア語口語ではこれは「でくのぼう・とんま・まぬけ」の意味でも用いられるのは、偶然か。

 最後に、中山版でにはないが、一九五八年岩波文庫「散文詩」版にある、本文の終りの後に配された挿絵を附しておいた。ロシア語で「КОНЕЦ」(カニェーツ:「終り」の意)の文字が見てとれる。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 無心の聲


Osanagono

   無心の聲

 

 私はその頃スヰスに居た。靑春の自負に燃え、しかも孤獨で、喜びのない憂鬱な日を送つてゐた。人生の味も知らぬうちから既に倦み疲れ、苛立たしかつた。この世の事はみな平凡な下らぬものに見え、靑年の例しに漏れず、自殺を思つて私かに愉しんだ。

 「見てゐろよ、復讐してやるから……」と私は思つた。だが、何を見ろと言ふのか、なんの復讐をするのか、自分にも分らなかつた。栓を固くした壺の酒のやうに、身うちの血が騷ぐだけで、兎に角この酒を、外へ迸らせてやらればならぬと思はれた。今こそ窮屈な壺を碎く時だと思つた。私の偶像はバイロンだつた。私の英雄はマンフレッドだつた。

 終にある夕暮、私はマンフレッドのやうに、山巓を極めようと決心した。氷河を越え人界を離れて、植物さへも生えぬ所へ、無生の巖のみ磊々と累なる所へ、寂として、瀑布の響も絶える所へ。……

 そこへ行つて、何をする積りだつたかは知らない。多分、死ぬ積りだつたのだらう。

 私は家を出た。

 步いてゆくうちに道は漸く狹くなり、胸を衝く山徑(やまみち)になつた。道はどこまでも登る。最後の山小屋、最後の樹立を見棄てて、もう分時がたつた。見渡すかぎりの、一面にそそり立つ巖、間近に逼る雪はまだ眼に見えないが、冷氣は既にしんしんと膚をつく。夜闇の影が、黑い渦をなして押寄せる。

 私は步みを止めた。

 怖ろしい靜寂。

 死の王領。

 身の程を知らぬ悲哀と絶望と侮蔑とを抱いて、佇み息づく人間は私一人。生を逃れ、生を欲せず、しかも意識あり生ある人間は私一人。……故知れぬ畏怖が私の血脈を凍らせる。

 だが私は、なほも自らの大を信じてゐた。

 マンフレッド。それで充分ではないか。

 「一人だ、一人きりだ」と、私はくり返した、「一人で死の面前にゐるのだ。……さあ時だ。さよなら、哀れな地球よ。どれお前を、後足に蹴返してやらう。」

 そのとき、ふと耳に聞いた不思議な響は、直ぐにそれとは覺れなかつたが、正しく生ある人間の聲だつた。私は身顫ひをして耳を欹てた。聲は再び起つた。

 今は疑ふ餘地はない。それは子供の、赤子の泣く聲だつた。永遠に生の息吹きの絶えたと見た、この山巓の荒涼の中に、子供の泣く聲を聞かうとは。

 驚きは忽ち消えて、息も詰まる喜びがこれに代つた。私は道も選ばずに、一目散に走り出した。徴かに悲しげなその聲、しかも私に取つては救ひの聲をめざして。

 間もなく、行手に瞬く燈火が見えた。なほ步を急がせると、數瞬ののちに、地を摺るばかりの低い山小屋に行當つた。平屋根の下に壓伏せられたこれらの石小屋は、アルプスの牧人達が幾週間かを過す隱れ家である。

 半開きの戸口から、私はその小屋に轉び入つた。死に追詰められた者のやうに。

 見ると若い女が一人、腰掛の上で赤子に乳を含ませてゐる。その夫と見える牧人が、女と並んで腰掛けてゐる。二人はじつと私を見上げた。しかし私は何も言へずに、纔かに徴笑みながら頷いた。……

 バイロンよ、マンフレッドよ、はた自殺の夢、思上つた自負の心よ。今それらは、何處にある。

 赤子は泣き歇まぬ。私はその子を、母親を、父親を、心の底から祝福した。

 生れたばかりの人間の、火の附くやうな泣聲。私を救つたのはお前だ。私を癒して呉れたのはお前だ。

            一八八二年十一月

 

[やぶちゃん注:「私かに」「ひそかに」。

「マンフレッド」Manfred)はイギリスのロマン主義詩人バイロン(George Gordon Byron  一七八八年~一八二四年)が一八一七年に書いた同名の長大な劇詩の主人公の青年の名。マンフレッドはかつて恋人を死に追いやってしまった罪の記憶を抱えて悩む。神霊と交感する能力を会得している彼は精霊を呼び出し、その記憶の「忘却」を求めるが、精霊は不可能と答える。「会得」は自在であっても「喪失」は思うままにならないことを知った彼は、「喪失」の最上の形態としての「死」に立ち向かうため、アルプスの山中を彷徨い続けた末、遂にその恋人の霊と再会を果たし、許しを乞うと共に自らも息絶えるのであった。なお、前出の呪ひも参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 轢れて


Kurumanihikarete

   轢れて

 

 「その呻き聲はなんだ。」

 「苦しいのだ、とても苦しいのだ。」

 「岩に碎けるせせらぎの音を、聞いたことがあるかね。」

 「ああ、あるさ。だがなぜそんな事を聞くのだ。」

 「なぜつて、君の呻きと水のせせらぎとは、どちらも所詮は音に過ぎないからさ。尤も水のせせらぎは、人の耳を樂しますこともあらうが、君の呻きに哀れを催す人はあるまい。なに、今さら止めなくてもいいさ。ただ忘れずに居給へ。――そんなものはみな音だ。音に過ぎない。」

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:中山版では挿絵がないが、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはあるので、それを附した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) この上の惱みはあらじ


Nmd

   この上の惱みはあらじ

 

 青い空、綿毛のやうな雲、花の勾ひ。若者らの快い叫び。大いなる美術の工(わざ)の、光り輝く麗しさ。やさしい女の頰には幸福の笑ひ、魅するばかりのその眸。……それらみな、なんのために。

 二時間ごとの、役にも立たぬ苦い藥の一匙――私の用はそれだけだ。

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『この上の惱みはあらじ』 原題は NESSUN MAGGIOR DOLORE である。『神曲』地獄篇第五歌一二一行以下、すなはちダンテが地獄の第二圏に至り、フランチエスカ・ダ・リミニに行逢つて語る條に、

  女いふ、「まがつ日のもと

  幸みてる日をかへりみる

  この上の惱はあらじ……」

とあるに基く。なほはじめはこの詩は『嗟嘆』STOSZSEUFZER と題された。

   *

註に出る「NESSUN MAGGIOR DOLORE」という題名は実際にはダンテの原文ではNessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.と続き、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」といった意味である。シチュエーションは次の注を参照されたいが、昭和六二(一九八七)年集英社刊寿岳文章訳「神曲」の訳では、地獄の苦界の只中にいる彼女がダンテの『フランチェスカよ、あなたの苦患(くげん)は、悲しさと憐れみゆえに、私の涙をひき出す。/だがまず語りたまえ。甘美なためいきの折ふし、何より、どんなきっかけで、定かでない胸の思いを恋とは知れる?』という問いに対する答えの冒頭で、『みじめな境遇に在(あ)って、しあわせの時を想いおこすより悲しきは無し。』と訳される。以下、フランチェスカはパオロ・マルテスタとのなれそめを語る。なお、特にこの台詞について寿岳氏は以下の注を附している。『ダンテは多くの古典をふまえてこれらの言葉を書いたと考えられるが、ポエティウス(四八〇-五二四)の『哲学の慰め』二の四、三-六行とのかかわりは最も深い。』。「フランチエスカ・ダ・リミニ」についても寿岳文章訳「神曲」の脚注を引用しておく。ダンテがヴィルジリオに『つねに離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える、あの二人とこそ語りたい。』の「二人」に附された注である。『フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マルテスタ。北イタリアのラヴェンナ城主グイド・ミノーレ・ポレンタの娘フランチェスカは隣国の城主で狂暴かつ醜男ジャンチオット・マラテスタと一二七五年頃政略結婚させられた。初めジャンチオットは結婚の不成立をおそれ、眉目秀麗の弟パオロを身代わりに立てたが、婚後事実を知ったフランチェスカのパオロに対する恋情はいよいよつのり、フランチェスカにはジャンチオットとの間にできた九歳の娘が、そしてパオロにも二人の息子があったにもかかわらず、一二八五年頃のある日、ジャンチオットの不在を見すまして密会していたところ、不意に帰宅したジャンチオットにより、二人は殺された。フランチェスカはダンテがラヴェンナで客となっていたグイド・ノヴェロの伯母なので、特に親近の感が強かったに違いない。(後略)』。次に「STOSZSEUFZER」であるが、これはドイツ語で、正しくはエスツェットを用いて「Stoßseufzer」(シュトース・ゾイフツァ)と綴る。「深いため息」「危急の際の短い祈り」という意味である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 鷓鴣(しやこ)


Syako

   鷓鴣(しやこ)

 

 執念深い痼疾に惱みながら、私は寢床の中で思つた、「これはなんの報いだらう。なぜ私が、他ならぬこの私が罰せられるのだ。不公平だ。どう考へても不公平だ。」

 收穫の濟んだ後の切株の繁みに、二十羽ほどの鷓鴣が群れてゐた。互ひに身を摺寄せて、愉しげに軟かな土を啄む。

 そのとき遙かに犬が吠えかかる。鷓鴣は仲好く、一齊に飛立つ。途端に響く銃聲。翼を射拔かれた一羽の鷓鴣が、傷みに堪へず落ちる。やつとの事で足を引摺つて、蓬の叢に身をかくす。

 犬が嗅ぎ𢌞つてゐるあひだ、不運なその鷓鴣も矢張り思ふに違ひない、「仲間は二十羽だつたのに、なぜ私が、この私だけが射落されて、死んで行かねばならないのか。私が番に當る譯でもあるのか。いやいや、どうしても不公平だ。」

 寢ておいで、病人よ、死が嗅ぎつけるまで。

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:中山版では挿絵がないが、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはあるので、それを附した。

「鷓鴣」詠まれた年からロケーションはパリ近郊と推定されることから、フランス北西部に棲息する鳥綱キジ目キジ科ヤマウズラ属ヨーロッパヤマウズラの地方亜種 Perdix perdix armoricata に同定しておく。胸の上がより赤い。本種群は古くから狩猟の対象とされている。ツルゲーネフも小説「狩人日記」を読むと、ロシア時代に彼ら(ロシア産は地方亜種 Perdix perdix robsta)を銃で狩りした。例えば、ホーリとカリーヌィチを見よ(リンク先は私の中山省三郎訳の古い電子テクスト)。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 眞理と正義


Sinnri

   眞理と正義

 

 「なぜあなたは、靈魂不滅をそんなに尊重されるのですか。」

 「なぜですと。なぜなら、その曉にこそ永劫不磨の眞理を把握し得るからです。それにわたしの考へでゆくと、その中にこそ至福はあるのですから。」

 「眞理の把握の中にですか。」

 「無論。」

 「ぢや一つ、次のやうな場面を考へて頂きたい。靑年が集つて、議論をしてゐます。そこへ慌しく、もう一人の青年が駈けつけます。見ると、その眼がぎらぎらしてゐる。激しい昂奮に息切れがして、物も言へぬ樣子なのです。『おいおい、どうした。』『まあみんな、聽いて呉れ。僕は大發見をしたのだ。これこそ眞理だ。入射角は反射角に等し。まだあるぞ。二點間の最短距離は、その二點を結ぶ直線上にあり。』『そりや本當か。おお、なんて幸福だ。』

 聽いてゐた靑年たちは、口々にさう叫んで、感きはまつて互ひに抱きあふ。……いかがです、さすがのあなたにも、こんな場面は考へられますまい。あなたは笑つてゐますね。それ、そこですよ。しよせん眞理は幸福を得る道ではない。正義こそその道なのです。これこそ地のもの、人間のものですよ。正義と公明。さう、正義のためなら、死も怖れますまい。……なるほどわれわれの全生活は、眞理の知識のうへに築かれますね。だが、それを『把握する』とは何ごとです。ましてや、そこに至福を見いだすといふに至つては。……」

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 𧌃臘蟲(しびとくらひむし) / 虫類~完結!


Sibitokuraimusi

しびとくらひむし

𧌃臘蟲

 

本綱廣州西南數郡有之食死人蟲也有甲而飛狀如麥

嗜臭肉人將死便集入舎中人死便食紛々滿屋不可驅

惟殘骨在乃去惟以梓板作噐則不來或用豹皮覆尸則

不來其蟲雖不入藥而爲人害不可不知

△按𧌃臘蟲本草有三説異同今取其一記之

 

 

しびとくらひむし

𧌃臘蟲

 

「本綱」、廣州西南の數郡に、之れ、有り。死人〔(しびと)〕を食〔ら〕ふ蟲なり。甲、有りて、飛ぶ。狀ち、麥のごとく、臭き肉を嗜(す)き、人、將に死せんと〔するに〕、便〔(すなは)〕ち、舎(いへ)の中に集〔まり〕入〔り〕、人、死すれば、便ち、食ふ。紛々として屋に滿つ。驅〔(か)〕らるべからず。惟(たゞ)、殘骨在〔(あ)〕るのみにして、乃〔(すなは)〕ち、去る。惟だ、梓(あづさぎり)〔の〕板を以つて噐〔(うつは)〕に作れば、則ち、來らず。或いは豹の皮を用ひて、尸(しかばね)を覆へば、則ち、來らず。其の蟲、藥に入れずと雖も、人の害を爲す。知らずんばあるべからず。

△按ずるに、𧌃臘蟲、「本草」に、三説の異同、有り。今、其一つを取りて、之れを記す。

 

[やぶちゃん注:本項はまさに「蟲部」の掉尾なのだが、良安先生、やらかしゃって呉れました。人間の遺体を食ったり、その腐敗液を吸う虫は沢山いるが(言っとくが、蝶でさえ吸う)、これは殆んど志怪小説のようだ(中間部は明らかに作話的である)。しかしここはやはり、最後まで生物学的な注でなくてはなるまい。念頭に浮かぶのはまあ、好んで動物死体を食うとされて有り難くない和名を戴いている「死出虫(しでむし)」だよな。動物界 Animalia 節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera 多食(カブトムシ)亜目 Polyphaga ハネカクシ上科 Staphylinoidea シデムシ科 Silphidae に属するシデムシ類だ。而してやはりここは荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第一巻「蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「シデムシ」を開いて見る。英名はburying beetlecarrion beetlesexton beetles でそれぞれ『〈埋葬する甲虫〉〈腐肉をあさる甲虫〉〈墓掘り人の甲虫〉』、フランス語では nécrophore 『ネクロフォルは〈死体を運ぶもの〉』ドイツ語の AaskäferTotergräber は『〈死体の甲虫〉〈死者を埋葬するもの〉』とあり、何より、『中国名の𧌃臘虫は〈肉を食う虫〉の意』とこの名をズバリ挙げてあるのである(下線太字は私が附した)。但し、中文ウィキでは科名を「葬甲科」とし、俗称を「埋葬蟲」とする。「埋葬」というのは、本種が動物死体の腐肉の摂餌を好む以外に、ウィキの「シデムシ」によれば、特にモンシデムシ属 Nicrophorus のシデムシ類は亜社会性昆虫で家族を持つ。♀♂の番いで、小鳥や鼠などの小型脊椎動物の死体を地中に埋めて肉団子状に加工した上で、これを餌として幼虫を保育するという習性を持っていることによる。また『親が子に口移しで餌を与える行動も知られており、ここまで幼虫の世話をする例は、甲虫では他に見られないものである』「ブリタニカ国際大百科事典」の「シデムシ」から引く(コンマを読点に代えた)。『小~大型の甲虫で、外形は幅広く扁平なもの、細長いもの、角形のものなどかなり多様である。色彩は黒みがかったものが多いが、赤や黄色の斑紋のあるものも少くない。頭部には大きな複眼があり、前方に突出して基部が頸状にせばまるものと、前胸背前縁下部に隠れるものとがある。触角は短く、11節から成り、先端の34節は拡大して棍棒状または球稈状になっている。大腮は大きく、口枝は発達している。上翅は大きく、腹部を完全におおうものと、翅端が切断状で腹部の先端が露出するものとがある。後翅は発達しているものが多い。肢は強壮であるが比較的短く、跗節は通常5節であるがまれに4節のものもある。ハネカクシ(科)に近縁で、世界に約 250種が知られ、そのうち日本産は約 30種。大部分の種は腐敗した動物の死体を食べるが、虫食性、草食性のものもある。ヤマトモンシデムシ Nicrophorus japonicus』(モンシデムシ亜科モンシデムシ属)『は体長 20mm内外、頭部は大きく、複眼後方は頬状に肥大し、顕著な頸部をもつ。上翅に幅広い赤色横帯が2本ある。雄の後肢脛節は弓状に湾曲する。本州、四国、九州、朝鮮、台湾、中国、モンゴルに分布する。オオヒラタシデムシ Eusilpha japonica』(シデムシ亜科Eusilpha 属)『は体長 23mm内外、体は扁平でやや青みを帯びた黒色である。頭部は小さく、前胸のくぼみに入る。上翅には各4条の縦隆起がある。北海道、本州、四国、九州、台湾に産する普通種で、腐敗動物質に集る』とある。

 

「廣州西南」「廣州」は現在の広東省広州市一帯であるから、その西南部はこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「麥のごとく」シデムシの一部の種の幼虫は小麦色を呈した麦の穂のような形をしている。私はこの幼虫ちょっとダメな口の形状なので、リンクはしないが、グーグル画像検索「Silphidae」をかけると、それらしい写真が見られる。

「驅〔(か)〕らるべからず」追い出すことも出来ぬほどに急速に多量に群がってくるというのである。有り難くない虫系ホラー!

「殘骨在〔(あ)〕るのみにして、乃〔(すなは)〕ち、去る」超早回し「九相図絵巻」じゃ!

「梓(あづさぎり)」和名をこう呼ぶ木本類は幾つかあるが、棺桶板(私は「噐」はそれで採る)にするような材木の採れる高木となると、シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata か同属のトウキササゲ Catalpa bungei であろう。現代中国では前者に「梓」の字を当てている。

「其の蟲、藥に入れずと雖も、人の害を爲す。知らずんばあるべからず。」東洋文庫訳では『この虫は薬に入れないが、人に害をなすものなので、よく知っておかなければならない』とするが、何だかよく判らぬ訳である。有毒だというのでもない。『人に害をなす』というのは死んだ人間の肉を喰らう行為を指すのか? だからよく理解しろというのか? だったら、人間の死体に最も早く、最も多量に発生する蠅の幼虫である蛆をこそ忌避すべきであろう? どうもここには何か言いたそうで、隠していることがあるような気がしてならない。いやな、感じ!

𧌃臘蟲、「本草」に、三説の異同、有り。今、其一つを取りて、之れを記す』「本草綱目」の「蟲部 濕生類」の掉尾にある「附錄諸蟲」の冒頭に、

   *

唼臘蟲

時珍曰、按裴淵「廣州記」云、『林任縣有甲蟲、嗜臭肉。人死、食之都盡、紛紛滿屋、不可驅』。張華「博物志」云、『廣州西南數郡、人將死、便、有飛蟲。狀、如麥、集入舎中、人死、便、食、不可斷遣、惟殘骨在乃去。惟以梓板作器、則、不來。林邑「國記」云、『廣西南界、有唼臘蟲。食死人。惟豹皮覆尸、則、不來。此三説皆一物也。其蟲、雖不入藥而爲、人害、不可不知。

   *

良安センセー、嘘ついちゃいけませんぜ! 三説のカップリングやないカイ!!!

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)


Kaityuu

ひとのむし 蛔【同蚘】 蛕【同】

      人龍

【音爲】

 

本綱蚘人腹中長蟲也人腹有九蟲一切癥瘕久皆成蟲

凡上旬頭向上中旬向中下旬向下服藥須於月初四五

日五更時則易効也其九蟲如左【出巣元方病原】

――――――――――――――――――――――

伏蟲 長四分群蟲之主也

蚘蟲 長五六寸至一尺發則心腹作痛上下口喜吐涎

 及清水貫傷心則死

白蟲 長一寸色白頭小生育轉多令人精氣損弱腰脚

 疼長一尺亦能殺人

肉蟲 狀如爛杏令人煩悶

肺蟲 狀如蠶令人咳嗽成勞殺人

胃蟲 狀蝦蟇令人嘔逆喜噦

弱蟲 【一名鬲蟲】狀如瓜瓣令人多唾

赤蟲 狀如生肉動作腹鳴

蟯蟲 至微形如菜蟲居胴腸中令人生癰疽疥癬

 痔瘻疳齲齒諸蟲皆依腸胃之間若人臟腑氣實則

 不爲害虛則侵蝕變生諸疾也又有尸蟲【與此俱十蟲也】

尸蟲 與人俱生爲人害其狀如犬馬尾或如薄筋依

 脾而居三寸許有頭尾

――――――――――――――――――――――

凡九蟲之中六蟲傳變爲勞瘵而胃蚘寸白三蟲不傳其

蟲傳變或如嬰兒如鬼形如蝦蟇如守宮如蜈蚣如螻蟻

如蛇如鼈如蝟如鼠如蝠如蝦如猪肝如血汁如亂髮亂

絲等狀不可勝窮要之皆以濕熱爲主

△按人吐下蛔蟲抵五六寸如蚓淺赤色有死而出或

 活而出者脾胃虛病癆下蛔蟲者不治

 小兒胃虛蚘蟲或吐或下其蟲白色長一二寸如索麪

 者一度數十晝夜至數百用錢氏白光散加丁字苦楝

 根皮煎服癒【白色帶黒者不治】

 正親町帝時【天正十三年】武臣丹羽五郎左衞門長秀【年五十一】

 嘗有積聚病甚苦不勝其痛苦乃拔刀自裁死火葬之

 後灰中撥出積聚未焦盡大如拳形如秦龜其喙尖曲

 如鳥刀痕有背以告秀吉公【秀吉】見之以爲奇物卽賜

 醫師竹中法印

 

 

ひとのむし 蛔【蚘〔(くはい)〕に同じ】

      蛕〔(かい)〕【同じ。】

      人龍

【音、「爲〔(イ)〕」。】

 

「本綱」、蚘は人の腹中の長き蟲なり。人の腹に、九蟲、有り。一切〔の〕癥瘕〔(ちようか)〕、久しくして、皆、蟲と成る。凡そ、上旬には、頭、上に向かひ、中旬には中に向かひ、下旬には下に向かふ。服藥、須〔(すべか)らく〕月の初め、四、五日の五更の時に於いてすべし。則ち、効〔(ききめ)〕しあり易し。其の九蟲、左のごとし【「巣元方病原〔(さうげんぼうびやうげん)〕」に出づ。】。

――――――――――――――――――――――

伏蟲 長さ、四分。群蟲の主〔(しゆ)〕なり。

蚘(くはい)蟲 長さ、五、六寸より一尺に至る。發するときは、則ち、心・腹、痛みを作〔(な)〕し、上下の口、喜〔(この)み〕て、涎(よだれ)及び清水を吐く。心を貫き傷むときは、則ち死す。

白蟲 長さ、一寸。色、白く、頭、小さく、生育〔すること〕、轉〔(うた)〕た、多し。人をして、精氣損弱し〔→せしめ〕、腰・脚、疼(うづ)かせしむ。長さ、一尺〔に〕なれば、亦、能く人を殺す。

肉蟲 狀〔(かた)〕ち、爛〔れたる〕杏〔(あんず)〕のごとし。人をして煩悶せしむ。

肺蟲 狀ち、蠶(かいこ)のごとし。人をして咳嗽〔(せきがい)〕して〔→せしめ〕、勞〔(らう)〕と成さしめ、人を殺す。

胃蟲 狀ち、蝦蟇(かへる)のごとし。人をして嘔逆し〔→せしめ〕喜〔(この)み〕て噦(しやつくり)せしむ。

弱蟲 【一名、「鬲蟲〔(かくちゆう)〕」。】狀ち、瓜の瓣(なかご)のごとし。人をして唾〔(よだ)〕り、多からせしむ。

赤蟲 狀ち、生肉のごとし。〔その〕動作に〔したがひて〕、腹、鳴る。

蟯蟲 至つて微〔(こま)〕か。形ち、菜の蟲のごとし。胴腸〔(どうちやう)〕の中に居て、人をして癰疽〔(ようそ)〕を生ぜしむ。疥癬・癘〔(くわれい)〕・痔瘻・疳〔(はくさ)〕・齲齒〔(うし)〕の諸蟲、皆、腸胃の間に依りて、若〔(も)〕し、人、臟腑〔の〕氣、實するときは、則ち、害を爲さず、虛するときは、則ち、侵蝕す。變じて諸疾を生ずるなり。又、「尸蟲〔(しちゆう)〕」有り【此れと俱に〔せば〕十蟲なり。】

尸(し)蟲 人と俱に生じて、人の大害を爲す。其の狀ち、犬馬の尾のごとく、或いは薄筋〔(すぢ)〕のごとし。脾に依つて居〔(を)〕る。三寸許り、頭尾、有り。

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凡そ、九蟲の中〔(うち)〕、六蟲は傳變して勞瘵〔(らうさい)〕と爲る。而して、胃〔蟲〕・蚘・寸白〔(すはく)〕の三蟲は傳(つたは)らず。其の蟲の傳變すること、或いは嬰兒のごとく、鬼形〔(きぎやう)〕のごとく、蝦蟇〔(か〕へる)のごとく、守宮(いもり)のごとく、蜈蚣(むかで)のごとく、螻蟻〔(らうぎ)〕のごとく、蛇のごとく、鼈(すつぽん)のごとく、蝟〔(はりねづみ)〕のごとく、鼠のごとく、蝠(かはほり)のごとく、蝦(えび)のごとく、猪肝〔(ちよかん)〕のごとく、血汁ごとく、亂髮亂絲等のごとし。狀の勝〔(た)へ〕て窮むべからず。之れを要するに、皆、濕熱を以つて主〔(しゆ)〕と爲〔(す)〕。

△按ずるに、人、蛔蟲を吐き下するに、大抵、五、六寸〔にて〕、蚓(みゝづ)のごとく、淺赤色、死して出でて、或いは活(い)きて出でる者、有り。脾・胃の虛の病ひ〔にて〕、癆(つか)れて蛔蟲を下す者、治せず。

小兒、胃虛にして、蚘蟲、或いは吐き、或いは下す。其の蟲、白色、長さ、一、二寸、索麪〔(さうめん)〕のごとき者、一度に數十、晝夜に數百に至る。「錢氏白朮散〔(ぜんしびやくじゆつさん)〕」を用ひて、丁字〔(ちやうじ)〕・苦楝〔(くれん)〕の根皮を加へ、煎〔じて〕服して、癒ゆ【白色〔に〕黒を帶びたる者は治せず。】。

 正親(おほぎ)町の帝の時【天正十三年。】、武臣丹羽(には)五郎左衞門長秀【年五十一。】嘗て積聚〔(しやくじゆ)〕の病ひ有り、甚だ苦しむ。其の痛苦に勝(た)へず、乃〔(すなは)〕ち、刀を拔き、自ら、裁死〔(さいし)〕す。火葬の後、灰の中より、積聚を撥(か)き出だす。未だ焦〔(こが)〕れ盡きず。大いさ、拳(こぶし)の形のごとく、秦龜(いしがめ)のごとし。其の喙〔(くちばし)〕、尖り曲り、鳥のごとく、刀痕(〔かたな〕きず)、背(せなか)に有り。以つて秀吉公【秀吉。】に告(まふ)す。之れを見て、以つて奇物と爲す。卽ち、醫師竹中法印に賜ふ〔と〕。

 

[やぶちゃん注:線形動物門 Nematoda 双腺綱 Secernentea 旋尾線虫亜綱 Spiruria 回虫(カイチュウ)目Ascaridida 回虫上科 Ascaridoidea 回虫科 Ascarididae 回虫亜科 Ascaris カイチュウ属 Ascaris ヒト回虫 Ascaris lumbricoides を代表とする、ヒトに寄生する(他の動物の寄生虫による日和見感染を含む)寄生虫類ウィキの「回虫」によれば、回虫は『「蛔虫」とも書き』、広義の回虫類は『ヒトをはじめ』、『多くの哺乳類の、主として小腸に寄生する動物で、線虫に属する寄生虫である』。『狭義には、ヒトに寄生するヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides を指』し、『ヒトに最もありふれた寄生虫であり、世界で約十億人が感染している』。以下はヒト回虫(本文の「蚘(くはい)蟲」に同じい)について記す。『雌雄異体であり、雄は全長1530cm、雌は2035cmと、雌の方が大きい。環形動物のミミズに似た体型であり、 lumbricoides (ミミズのような)という種名もこれに由来するが』、『回虫は線形動物であり、環形動物とは全く異なるので体節も環帯もなく、視細胞などの感覚器も失われており、体の両先端に口と肛門があるだけで、体幹を腸が貫通する。生殖器は発達し、虫体の大部分を占める。成熟した雌は110万個から25万個もの卵を産む』。『最大25万個の回虫卵は小腸内で産み落とされるが、そのまま孵化する事はなく、糞便と共に体外へ排出される。排出された卵は、気温が15くらいなら1か月程度で成熟卵になり、経口感染によって口から胃に入る。虫卵に汚染された食物を食べたり、卵の付いた指が感染源となる場合が多い。卵殻が胃液で溶けると、外に出た子虫は小腸に移動する。しかしそこで成虫になるのではなく、小腸壁から血管に侵入して、肝臓を経由して肺に達する。この頃には1mmくらいに成長している。数日以内に子虫は気管支を上がって口から飲み込まれて再び小腸へ戻り、成虫になる。子虫から成虫になるまでの期間は3か月余りであり、寿命は2年から4年である』。『こうした複雑な体内回りをするので「回虫」の名がある。このような回りくどい感染経路をたどる理由ははっきりしていない。一説によれば、回虫はかつては中間宿主』『を経てヒトに寄生していたためではないかという』。『回虫は、古くから人類の最も普遍的な寄生虫であった。紀元前4世紀から5世紀のギリシャの医師ヒポクラテスや中国の紀元前2700年頃に記録があり、日本では4世紀前半とされる奈良県纏向(まきむく)遺跡の便所の遺構から回虫卵が発見されている。鎌倉時代頃から人糞尿(下肥)を農業に利用する事が一般化したので、回虫も広く蔓延した。人体から排泄された回虫卵が野菜等に付き、そのまま経口摂取されて再び体内に入るという経路である。こうした傾向は20世紀後半にまで続き、1960年頃でも、都市部で寄生率30 - 40%、農村部では60%にも及んだ。しかし、徹底した駆虫対策と衛生施設・衛生観念の普及によって急速に減少、20世紀末には実に0.2%(藤田紘一郎)から0.02%(鈴木了司)にまで下り、世界で最も駆虫に成功した例となった。ただし、同じ頃に広まった自然食ブームによって下肥を用いた野菜が流通するようになり、また発展途上国からの輸入野菜類の増加に伴い、回虫寄生の増加が懸念される。更に、駆虫が余りにも徹底したため、回虫に関する知識が忘れられるというような場合もあり、医師でさえ』、『回虫を見た経験がなく、検査方法も知らない例もあって、回虫の増加が見逃される恐れもある』。『世界的にも回虫の寄生率は高く、アジア・アフリカ・中南米などの発展途上国・地域ではなお40%程度あり、欧米でも数%となっている。発展途上国・地域では、人口の激増と都市集中、衛生施設・観念の不足、衛生状態や経済の悪化等により駆除が困難となっている』。『回虫による障害は多岐にわたり、摂取した栄養分を奪われる、毒素を分泌して体調を悪化させる、他の器官・組織に侵入し、鋭い頭で穿孔や破壊を起こす、等である。1匹や2匹程度の寄生であればほとんど問題はなく、肝機能が強ければ毒素を分解してしまうが、数十匹、数百匹も寄生すると激しい障害が起こる。幼少期なら栄養障害を起こし、発育が遅れる。毒素により腹痛・頭痛・めまい・失神・嘔吐・けいれんといった症状が出る。虫垂に入り込んで虫垂炎の原因になる場合も稀ではなく、多数の回虫が塊になって腸閉塞を起こす事もあり、脳に迷入しててんかんのような発作を起こす例もある』。『衛生環境を整備しなければならないのはもちろんである。かつての日本で寄生率が著しく高かったのは、人糞尿を肥料に用いていたと共に、それで栽培した野菜類を漬け物などとして生食いしていたのが大きな原因である。回虫卵は強い抵抗力を持ち、高濃度の食塩水中でも死なないので、食塩を大量に使用した漬け物でも感染は防げなかった。第二次大戦後は化学肥料の普及が回虫撲滅の一端を担った。回虫卵は熱に弱く、70では1秒で感染力を失う。従って野菜類は充分熱を通して食べれば安全である。有機栽培の生野菜を摂取するのであれば、下肥の加熱処理をしなければならない』。『だが、大量の食品が海外から輸入されている現状では、そこから感染する恐れもあり、注意しなければならない。発展途上国では人糞尿を肥料にする事は少ないが、衛生観念や施設の不充分から回虫の蔓延が見られる。便所の位置や構造が不衛生で、地面にそのまま排泄する場合には、乾燥した便に含まれる回虫卵が風に乗って空中に浮遊して感染する。糞便にたかる昆虫やネズミなどの小動物も感染源となっている』。『回虫は毎日大量に産卵するので、1匹でも寄生していれば必ず糞便に卵が混じる。よって検便をすれば寄生の有無がわかる。駆除にはかつてはサントニン・マクニン・カイニンソウなどが用いられたが、最近はパモ酸ピランテル、メベンダゾールなどが用いられる』。『根本的には便所の改善、人々の衛生観念の向上、社会の貧困撲滅など、多くの課題がある。発展途上国・地域でも、日本はじめ先進諸国の援助もあってそれらの問題の解決に取り組んでいるが、なお困難な事業である』。以下、私の好きな寄生虫博士藤田先生絡みの「アレルギー症との関連」の項で、是非、ここだけは読んで戴きたい(下線太字はやぶちゃん)。『東京医科歯科大学名誉教授の藤田紘一郎は、回虫(ヒト回虫)の寄生が花粉症などのアレルギー性疾患の防止に効果があると説いている。それによると、花粉症は花粉と結合した抗体が鼻粘膜の細胞に接合し、その結果としてヒスタミン等の物質が放出されて起こるが、回虫などの寄生虫が体内にいる場合、寄生虫は人体にとって異物であるので対応する抗体が大量に産生され、しかもそれらの抗体は花粉等のアレルギー物質とは結合しないので、アレルギー反応も起こらない。近年アレルギー性疾患が激増しているのは、回虫保有率が極端に減少したためであるという。少数の回虫寄生であれば、むしろ人体に有益な面も見られると考えられる。ヒト回虫とヒトには安定した共生関係が成立している可能性も考えられる』。『これに対し』、『東京慈恵会医科大学元教授の渡辺直煕(熱帯医学講座)は、ヒトへのブタ回虫寄生によりアレルギー物質に対するIgE抗体産生が増強する結果』、『アレルギー疾患が増悪することを示し、藤田の説を否定している』(これっておかしくない? 渡辺氏のそれは日和見感染の限定的結果論であって、それを通常のヒト回虫に敷衍するのはどうなの?)。『豚回虫・牛回虫・馬回虫・犬回虫・猫回虫など各種の回虫は、それぞれの哺乳類に固有であり、異種間では成虫になれない。そのため産卵することは無いので、糞便の虫卵検査では検出出来ない。時おり話題になるアニサキス症も、クジラ類の回虫に当たるアニサキスの幼虫がヒトの消化管(胃)へ迷入して起こる。ただし、人体に入ってもすぐ死んでしまい、寄生する事はない。もっとも、回虫は、かつては異なる宿主には寄生しないと考えられて来たが、実際にはヒトにイヌ回虫などの幼虫が寄生した例が多くあり、そのような場合は各種臓器への迷入が起こりやすく、重篤な症状を引き起こすので充分な注意が必要である』。

 

「癥瘕〔(ちようか)〕」腹中のしこり。この場合、本草家は寄生虫症による体内病変以外の寄生虫に依らない腫瘍等を含むものを主に想定していることに注意。「久しくして、皆、蟲と成る」とある通り、彼らは、そうした腫瘍から寄生虫が発生するというとんでもない勘違いを確信しているのである。

「上旬には、頭、上に向かひ、中旬には中に向かひ、下旬には下に向かふ」月の満ち欠けに従っているというのである。

「五更」凡そ、現在の午前三時から午前五時、或いは午前四時から午前六時頃。寅の刻。

「効〔(ききめ)〕しあり易し」「し」は強意の副助詞と採った。

「巣元方病原」隋代の医師で大業年間(六〇五年~六一六年)中に太医博士となった巣元方が六一〇年、煬帝の勅命によって撰した医術総論「巣氏諸病源候論」。全五十巻。

「伏蟲」現行の研究では、これはヒトに寄生する十二指腸虫(線形動物門双腺綱桿線虫亜綱 Rhabditia 円虫目 Strongylida 鉤虫上科 Ancylostomatoidea 鉤虫科 Ancylostomatidae 十二指腸虫属Ancylostomaズビニ鉤虫 Ancylostoma duodenale 及び鉤虫科 Necator 属アメリカ鉤虫 Necator americanus)に比定される。十二指腸虫という名称はたまたま剖検によって十二指腸で発見されただけのことで、特異的に十二指腸に寄生するわけではないので注意されたい。なお、犬や猫を固有宿主とするセイロンコウチュウ・ブラジルコウチュウ・イヌコウチュウなどもヒトに寄生することがある。ウィキの「鉤虫症」によれば、『感染時にかゆみを伴う皮膚炎を起こす。幼虫の刺激により』、『咳・咽頭炎を起こす。重症の場合、寄生虫の吸血により軽症~重症の鉄欠乏性貧血を起こす。異食症を伴う場合もある』。『亜熱帯から熱帯にひろく分布する。戦前までは日本中で症例が多数みられ、埼玉県では「埼玉病」と呼ばれており、大正期に罹病率の高かった地域は水田の多い北葛飾郡・南埼玉郡・北埼玉郡の三郡であったとされる。これは近世中期以降、この地域が江戸からの下肥需要圏であり、河川を利用した肥船による下肥移入が多かったためとされる』。本種群はヒトからヒトへの『感染はない。糞便とともに排出された虫卵が適切な条件の土壌中で孵化し幼虫となる。通常裸足の皮膚から浸入し、肺、気管支、喉頭を経て消化管に入り、小腸粘膜で成虫となり、排卵を開始する。生野菜、浅漬けから経口感染することもある』とある。

長さ、四分。群蟲の主〔(しゆ)〕なり。

「上下の口」寄生(それも多量に)された人間の口と肛門。

「喜〔(この)み〕て」訓読に苦労したが、これで「頻りに」「甚だしく」という意味に問った。東洋文庫訳では『たえず』と訳してある。

「心を貫き傷むときは、則ち死す」これは回虫による死ではなく、別な心疾患によるものを誤認していると私は思う。

「白蟲」これと後に出る「寸白」(すばく)は、現行の研究では、条虫(所謂、「サナダムシ(真田虫)」)類、例えば、ヒトに寄生する扁形動物門 Platyhelminthes 条虫綱 Cestoda 真性条虫亜綱 Eucestoda 円葉目 Cyclophyllidea テニア科 Taeniidae テニア属 Taenia 無鉤条虫 Taenia saginata 等の断裂した切片ではないかと考えられている。ウィキの「無鉤条虫」によれば、感染しても、通常は『無症候性だが、多数寄生では体重減少・眩暈・腹痛・下痢・頭痛・吐気・便秘・慢性の消化不良・食欲不振などの症状が見られる。虫体が腸管を閉塞した場合には手術で除去する必要がある。抗原を放出してアレルギーを引き起こすこともある』とある。真性条虫亜綱擬葉目 Pseudophyllidea 裂頭条虫科 Diphyllobothriidae 裂頭条虫属 Diphyllobothrium 広節裂頭条虫 Diphyllobothrium latum でも主な症状は下痢や腹痛であるが、自覚症状がないことも少なくない(但し、北欧では広節裂頭条虫貧血と称する悪性貧血が見られることがある)。但し、テニア科 Cysticercus 属有鉤嚢虫(ユコウノウチュウ)Cysticercus cellulosae が、脳や眼に寄生した場合は神経嚢虫症など重篤な症状を示すケースがある。なお、ここでは「長さ、一尺〔に〕なれば」などと言っているが、実際には無鉤条虫や広節裂頭条虫は全体長が五メートルから十メートルにも達する

「肉蟲」不詳。或いは先に述べたように、寄生虫とは関係のない、腫瘍疾患かも知れない。

「肺蟲」扁形動物門 Platyhelminthes 吸虫綱 Trematoda 二生亜綱 Digenea 斜睾吸虫目 Plagiorchiida 住胞吸虫亜目 Troglotremata 住胞吸虫上科 Troglotrematoidea 肺吸虫科 Paragonimidae Paragonimus 属に属する肺吸虫類が念頭には上ぼる。特にヒト寄生として知られるウェステルマン肺吸虫 Paragonimus westermaniiの場合、血痰・喀血などの肺結核(本文の「勞〔(らう)〕」は「労咳」で、それ)に似た症状を引き起す(また、迷走て脳その他の器官に移って脳腫瘍症状や半身不随などを引き起こすこともあり、生命に関わる重篤なケースも出来(しゅったい)することがある)。本種の体型はよく太った卵円形を呈し、体長は七~十六ミリメートル、体幅は四~八ミリメートルではあるが、肺に寄生したそれが、咳や喀血とともに体外に出ることは、ちょっと考え難く、ここで「狀ち、蠶(かいこ)のごとし」と言っているのは、本種を正しく比定出来るのかどうかは怪しい。死後に剖検して肺腑の寄生状態を見たというならまだしも、中国の本草家がそこまで出来たとは私には全く思われないからである。

「胃蟲」胃壁に咬みついて激しい痛みを起す、回虫上科アニサキス科 Anisakidae アニサキス亜科 Anisakinae アニサキス属 Anisakis のアニサキス類が頭に浮かぶものの、あれは線虫樣で「蝦蟇(かへる)」なんぞには似ていない。ここも寧ろ、胃癌を比定した方が、腑に落ちる。

「弱蟲」「鬲蟲〔(かくちゆう)〕」不詳。

「瓜の瓣(なかご)」うりの中の種。

「赤蟲」不詳。

「蟯蟲」旋尾線虫亜綱蟯虫(ギョウチュウ)目 Oxyurida 蟯虫上科 Oxyuroidea 蟯虫科Oxyuridae Enterobius 属ヒト蟯虫Enterobius vermicularis。以下、諸病の現況の如き書かれようであるが、ウィキの「ギョウチュウ」によれば、『仮にヒトがヒトギョウチュウに寄生されたところで、そのヒトが特段に栄養状態の悪い環境に置かれていなければ、腸内でギョウチュウに食物を横取りされることなどによって起こり得る栄養障害などについては、ほぼ問題になることは無いとされる。しかしながら、ヒトの睡眠中にギョウチュウが行う産卵などの活動に伴って、かゆみなどが発生し、これによってヒトに睡眠障害が誘発され得る。睡眠障害の結果として、日中の眠気や、落ち着きが無く短気になるなどの精神症状の原因となる場合があることが問題視されている。また、かゆみのために、ほぼ無意識に肛門周辺を掻いた跡が炎症を起こしたり、解剖学的に汚れやすい場所であることから掻いた跡が細菌などの感染を受ける場合がある』という程度のものでしかない。

「形ち、菜の蟲のごとし」ギョウチュウは雌雄異体で、で二~五ミリメートル程度なのに対し、は八~十三ミリメートルに達する性的二型である。外見は乳白色で「ちりめんじゃこ」のような形に見える(ここも上記のウィキに拠った)。

「胴腸〔(どうちやう)〕」東洋文庫の割注で『大腸』とある。

「癰疽〔(ようそ)〕」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大ききなそれ、「疽」は深く狭いそれを指す。

「疥癬」皮膚に穿孔して寄生するコナダニ亜目ヒゼンダニ科Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominis によって引き起こされる皮膚疾患。

癘〔(くわれい)〕」東洋文庫の割注で『悪瘡による手足の痛痒』とある。

「疳〔(はくさ)〕」読みは東洋文庫訳のルビに拠った。次が「齲齒」であることを考えると、「齒臭」で強い口臭症状を指すものか? 小学館「日本国語大辞典」によれば、歯茎にできた腫れ物のことか、とし、歯肉炎の類、とする。

「齲齒〔(うし)〕」虫歯。

「尸(し)蟲」不詳。ただ、この「尸蟲」を見、「人と俱に生じて、人の大害を爲す」となると、私は真っ先に道教由来の人間の体内にいるとされる「三尸(さんし)の虫」を思い浮かべるのだが。ウィキの「三尸」より引いておく。六十日に『一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる』。『日本では平安時代に貴族の間で始まり』、『民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった』。『道教では人間に欲望を起こさせたり』、『寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている』。『上尸・中尸・下尸の』三『種類があり、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる』。「太上三尸中経」の『中では大きさはどれも』二『寸ばかりで、小児もしくは馬に似た形をしているとあるが』、三『種とも』、『それぞれ』、『別の姿や特徴をしているとする文献も多い』。『病気を起こしたり、庚申の日に体を抜け出して寿命を縮めさせたりする理由は、宿っている人間が死亡すると自由になれるからである。葛洪の記した道教の書』「抱朴子」(四世紀頃成立)には、『三尸は鬼神のたぐいで形はないが』、『宿っている人間が死ねば』、『三尸たちは自由に動くことができ』、また、『まつられたりする事も可能になるので』、『常に人間の早死にを望んでいる、と記され』、他の書で『も、宿っている人間が死ねば三尸は自由に動き回れる鬼(き)になれるので人間の早死にを望んでいる、とある』とする。本邦では、「大清経」を『典拠とした三尸を避ける呪文が引かれており』、「庚申縁起」などに『採り入れられ』て『広まった。その中に「彭侯子・彭常子・命児子」という語が見られ』、『また、三尸が体から抜け出ないように唱えるまじない歌に、「しし虫」「しゃうけら」「しゃうきら」「そうきゃう」などの語が見られ、絵巻物などに描かれる妖怪の「しょうけら」と関係が深いと見られている』。「上尸(じょうし)」は彭倨(ほうきょ)・青姑(せいこ)・青古青服・阿呵・蓋東とも呼ばれ、『色は青または黒』で、『人間の頭の中に居り、首から上の病気を引き起こしたり、宝貨を好ませたりする』。「中尸(ちゅうし)」は彭質(ほうしつ)・白姑(はくこ)・白服・作子・彭侯とも呼ばれ』、『色は白または青、黄』で、『人間の腹の中に居り、臓器の病気を引き起こしたり、大食を好ませたりする』。「下尸(げし)」は彭矯・血姑・血尸・赤口(しゃっこう)・委細蝦蟆とも呼ばれ、『白または黒』で、『人間の足の中に居り、腰から上の病気を引き起こしたり、淫欲を好ませたりする』という。『道教では、唐から宋の時代にかけてほぼ伝承として固定化された』。但し、「抱朴子」の三尸の記載には特に三体で『あるという描写は無く、のちに三尸という名称から』三『体存在すると考えるようになったのではないかともいわれている』。「瑯邪代酔篇」など、『庚申のほかに甲子(あるいは甲寅)の日にも三尸が体から抜け出るという説をのせている書籍も中国にはある。庚申と甲子は道教では北斗七星のおりてくる日とされており、関連があったとも考えられる』。『日本で庚申待と呼ばれるものは中国では「守庚申」「守庚申会」と言われており、仏教と結びついて唐の時代の中頃から末にかけて広がっていったと考えられる。平安時代に貴族たちの間で行われていたものは中国の「守庚申」にかなり近いものであった』。『清の時代にかけては行事の中での三尸や道教色は薄れて観音への信仰が強く出ていった』とある。中国の民俗学的寄生虫の元祖みたようなものであるからして、ここはやはり「三尸虫」で採っておきたい。

「傳變」ヒトからヒトに感染するという意味という意味ではなく、寄生の後にその寄生虫が「勞瘵〔(らうさい)〕」=労咳=肺結核のような病気の病原虫に変化するという意味であ「其の蟲の傳變すること、或いは嬰兒のごとく……」以下の「如」の羅列はもの凄い。ゴシック怪奇小説を読むようなインパクトがある。

「螻蟻〔(らうぎ)〕」ケラ(螻蛄)と蟻(アリ)。

「猪肝〔(ちよかん)〕」文字通り、猪の肝臓のことであろう。反射的にヒト寄生し幼虫が移行迷入性が強い厄介なカンテツ類(吸虫綱二生亜綱 Digenea 棘口吸虫目 Echinostomida 棘口吸虫亜目 Echinostomata 棘口吸虫上科 Echinostomatoidea 蛭状吸虫(カンテツ)科 Fasciolidae 蛭状吸虫亜科 Fasciolinae カンテツ属 Fasciola)を思い浮かべた。カンテツ(肝蛭)とは厳密には Fasciola hepatica のことを指すが、巨大肝蛭 Fasciola gigantica、日本産肝蛭 Fasciola sp. を含めて肝蛭と総称されることが多い。成虫は体長二~三センチメートル、幅約一センチメートル。本邦の中間宿主は腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科 ヒメモノアラガイ Austropeplea ollula(北海道ではコシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula)、終宿主はヒツジ・ヤギ・ウシ・ウマ・ブタ・ヒトなどの哺乳類。ヒトへの感染はクレソンまたはレバーの生食による。終宿主より排出された虫卵は水中でミラシジウムに発育、中間宿主の頭部・足部・外套膜などから侵入、スポロシストとなる。スポロシストは中腸腺においてレジアからセルカリアへと発育、セルカリアは中間宿主の呼吸孔から遊出して水草などに付着後に被嚢し、これをメタセルカリアと呼ぶ。メタセルカリアは終宿主に経口的に摂取され、空腸において脱嚢して幼虫は腸粘膜から侵入して腹腔に至る。その後は肝臓実質内部を迷走しながら発育、最終的に総胆管内に移行する。感染後七〇日前後で総胆管内で産卵を始める。脱嚢後の幼虫は移行迷入性が強く、子宮・気管支などに移行する場合がある。ヒトの症状は肝臓部の圧痛・黄疸・嘔吐・蕁麻疹・発熱・下痢・貧血などで、現在では、一九七〇年代半ばに開発された極めて効果的な吸虫駆除剤プラジカンテル(praziquantel)がある(以上は主にウィキの「肝蛭」に拠った)。

「狀の勝〔(た)へ〕て窮むべからず」ヒトに感染寄生して別の遺物(疾患)に変化する様態はさまざまであって、それを総て語り尽くすことは到底、出来ない、の意。

「之れを要するに」東洋文庫訳では『しかし要するに』とある。

「主〔(しゆ)〕と爲〔(す)〕」東洋文庫訳では『すべて湿熱によって生ずるものなのである』とある。

「人、蛔蟲を吐き下するに」「蜮」の項で既に述べたが、回虫などが多量に寄生した場合には、本邦でも江戸時代、「逆虫(さかむし)」と称して、口から回虫を吐き出すケースがままあった。私の「谷の響 二の卷 四 怪蚘」も参照されたい。

「錢氏白朮散〔(ぜんしびやくじゆつさん)〕」配合生薬は人参・白朮(キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。健胃・利尿効果がある)・茯苓(ぶくりょう:アカマツ・クロマツなどのマツ属 Pinus の植物の根に寄生する菌界担子菌門菌靱蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊)Wolfiporia extensa の菌核の外層をほぼ取り除いた生薬名)・甘草(かんぞう)・葛根(かっこん)木香(もっこう:キク目キク科トウヒレン属モッコウ Saussurea costus 又は Saussurea lappa の根)・藿香(かっこう:シソ目シソ科ミズトラノオ属パチョリ Pogostemon cablin の全草乾燥品)で、小児の消化不良や胃腸虚弱の体質改善に効果があり、感冒時や食あたりの口の渇き・発熱・下痢・嘔吐にも用いる。

「丁字〔(ちやうじ)〕」漢方薬に用いる生薬の一つ。丁香・クローブともいう。 バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の蕾を乾燥したもので、殺菌・強壮・胃液の分泌を盛んにするなどの作用を持ち、他にも打撲・捻挫などの腫れや痛みを抑える「治打撲一方(ぢだぼくいっぽう)」や、更年期障害・月経不順・産前産後の神経症に効く「女神散(にょしんさん)」、しゃっくりを止める「柿蔕湯(していとう)」などに含まれる。

「苦楝〔(くれん)〕」苦楝子。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の果実。ひび・あかぎれ・しもやけに外用。整腸・鎮痛薬として煎液を内服もするが、生の果実はサポニンを多く含むため、人が食べると、中毒を起こし、摂取量が多い場合には死に至ることもあることを知っておきたい。

「白色〔に〕黒を帶びたる者」こんなヒト寄生虫は私は知らない。

「正親(おほぎ)町の帝」正親町天皇(永正一四(一五一七)年~文禄二(一五九三)年)は第百六代天皇。在位は弘治三(一五五七)年から天正一四(一五八六)年。

「天正十三年」一五八五年。

「丹羽(には)五郎左衞門長秀」(天文四(一五三五)年~天正十三年四月十六日(一五八五年五月十五日)は元織田氏の宿老。本能寺の変では豊臣秀吉と共に明智光秀を討ち、賤ヶ岳の戦でも秀吉に属した。越前国足羽郡北庄城主。ウィキの「丹羽長秀」によれば、「秀吉譜」によると、本文にある通り、長秀は平生より「積聚」(症状としては「さしこみ」を指す。漢方で、腹中に出来た腫瘤によって発生するとされた、激しい腹部痛を言う(本来はその腫瘤そのものの呼称であろう)。現在は殆んどの記載が胃痙攣に同定しているが、私は癌、胆管結石や尿道結石及び女性の重度の生理通等を含むものではあるまいかと思っている)に『苦しんでおり、苦痛に勝てず』、『自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀』(本文の「秦龜(いしがめ)」。爬虫綱カメ目イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica)『のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印』(竹田定加(たけだじょうか 天文一五(一五四六)年~慶長五(一六〇〇)年)は豊臣秀吉の侍医。秀吉の生母大政所や丹羽長秀らを治療し、文禄二(一五九四)年に来日した明の使節の治療にもあたっているが、慶長二年には秀吉の病中に役目を怠って罰せられてもいる)『に賜ったという。後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると』、寛政六(一七九三)年『初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると』、内箱の銘は「秀吉譜」に書かれたものとは『相違があり、それによれば』、『久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に』刺し、『虫を得て』、『死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお』、『死ななかった。竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は』天明七(一七八七)年『に竹田公豊が書いたものであった)。しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため持って来なかったというので、年月を経て朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している』。『これらによると、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫』(但し、「真田虫」ではなく「蛔虫」)『と見るのが妥当。証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった』とある。]

芥川龍之介が中国旅行で「黄鶴楼」として登ったのは「黄鶴楼」ではなく「奥略楼」である

芥川龍之介は中国旅行の紀行の掉尾としてアフォリズム小品「雜信一束」を残している(リンク先は私の電子化注)が、その「三 黃鶴樓」で、

   *

       三 黃鶴樓
 
 甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、
 僕――鸚鵡洲は?
 宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。
   *

と、如何にも感興を削いだ形で呟いているのが、ずっと気になっていた。私はただ、新築復元されていた黄鶴楼が、龍之介には、田舎芝居の安物の大道具のようにしか見えなかったからだろう、ぐらいにしか憶測したに過ぎなかった。

ところが、昨日、中国在住の教え子が以下の興味深い考察――恐らくは芥川龍之介研究家の誰も認識していないであろう事実――を呉れた。以下に引用して示す。写真も彼の送ってくれたものである(1・2・4は写真から絵葉書(或いはそれを複写掲載した古書)と判断出来、それをこの考証の真偽を高める参考引用資料として使用することは著作権上の問題ないと考える。3も恐らくは同じように推定されるが、万一、個人写真で、現在も著作権が存続している場合、当該著作権保有者からの直接親告があれば除去する)。

   *

現在の黄鶴楼は一九八五年竣工。それ以前はどうだったのでしょうか。清代再建の黄鶴楼は現在のように丘の上ではなく、長江のほとり、現在の長江大橋の橋脚が立つ地点にありました。しかしそれは一八八四年に焼けてしまいました(写真1)。同じ場所に一九〇四年、警鐘楼という西洋風楼閣が建てられました(写真2)。続いてその東側、長江から見て奥(二つの建築が同時に見える写真3。その建物の形状と地形から、位置関係が明らかです)に、一九〇七年、風度楼(写真4)という中国風楼閣も建てられ、竣工後に奥略楼と改名されました。西洋人向けの絵葉書などには、警鐘楼が誤って黄鶴楼として紹介される例もありました(写真2がその例)。しかし概ね奥略楼が黄鶴楼と誤認される時期が続きました。一九五五年、二つの建築はともに長江大橋建設のため撤去されます。
さて、龍之介の武漢訪問は一九二一年です。したがって彼が立っていたのは明らかに現在の黄鶴楼ーー長江から一キロも離れた丘の上に立つコンクリート製の楼閣ではありませんでした。それは奥略楼だったのです。念のため申し添えておくと、なぜ警鐘楼ではないのでしょうか。それは、まず『目の下に並んだ瓦屋根』という彼の表現です。警鐘楼の下には瓦屋根の建物はありません。次には、私の確信です。西洋の城郭みたいな建築が黄鶴楼だなんて、龍之介が受け入れるはずはありません。
結論をもう一度繰り返します。龍之介が立ったのは、現在見られる黄鶴楼ではありません。河岸の奥略楼でした。現在の長江東岸、長江大橋がまさに長江の上に伸びて行く直前の、橋脚聳える場所です。どうかいま一度警鐘楼の写真をみてください。もしここに唐代の黄鶴楼があったのだとしたら、漢詩《黄鶴楼送孟浩然之広陵》で想像される景色『孤帆遠影碧空尽  唯見長江天際流』は、随分と違ったものになるのではないでしょうか。


写真1

Koukakrou1

写真2

Koukakrou2

写真3

Koukakrou3

写真4

Koukakrou4


   *


龍之介よ、君が登ったのは黄鶴楼ではなかったのだ。


幽かな憂鬱が、一つ、消えた。
 
 

2017/10/28

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 砂挼子(ねむりむし)


Nehurimusi

 

ねむりむし 倒行狗子

      睡蟲

砂挼子

      【祢無里無之】

本綱砂挼子【有毒】生砂石中作旋孔大如大豆背有刺能

倒行性好睡生取置枕中令夫婦相好

ねむりむし 倒行狗子

      睡蟲

砂挼子

      【「祢無里無之」。】

「本綱」、砂挼子【毒、有り。】、砂石の中に生ず。旋孔を作〔(な)〕す。大いさ、大豆のごとく、背に刺〔(とげ)〕有り。能く倒(さかさま)に行く。性、睡ることを好みて、生〔(いか)〕して取りて枕の中に置けば、夫婦をして相ひ好〔(よ)か〕らしむ。

[やぶちゃん注:記載から見て、昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生であるアリジゴク(ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではない)に同定する。但し、アリジゴクも初齢幼虫の時には前進して餌を捕える。中文サイトでも「砂挼子」をアリジゴクに比定している(こちら(「地牯牛」を参照されると、英名を“antlion”(アントライオン:アリジゴクのこと)とし、別名に「砂挼子」とある。「挼」は「揉む」「もみくちゃにする」の意。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 𧔎(みがら)


Migara

みから

𧔎【音魯】

     【和名美加良】

 

蒋妨切韻云𧔎井水中小蟲也

△按夏月井水中有白蟲大二三分形似衣魚而多足體

 畧屈匾者是矣

 

 

みがら

𧔎【音、「魯」。】

     【和名、「美加良」。】

 

蔣魴〔(しやうばう)〕が「切韻」に云はく、『𧔎井の水の中の小蟲なり』〔と〕。

△按ずるに、夏月、井の水中に、白〔き〕蟲、有り。大いさ、二、三分。形、衣魚(しみ)に似て、多き足。體、畧〔(ほ)〕ぼ屈んで匾(ひらた)き者、是れか。

 

[やぶちゃん注:「日本国語大辞典」には「みがら」漢字表記「𧔎」で『井戸水の中にいる虫という。ぼうふらのことか』とあり、「和名類聚抄」「名義抄」を例示する。しかし、ボウフラならば、既出項「孑(ぼうふりむし)があり、明らかに良安も区別している。とすれば、可能性の一つはボウフラの幼虫の次の最終ステージである蛹のオニボウフラか? 脚が多いとあるのは、蚊類の幼虫であるボウフラの各体節に生える毛はまさに「多くの足」に見え、オニボウフラに比すと明らかに「白」いし、シミに似ているのはそれが、しかし、「畧ぼ屈んで匾(ひらた)いというのは、それこそオニボウフラに相応しい表現ではないか但し、多くの脚というのを触手と採るならば、今一種、有力な候補がいる。刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa 淡水水母目 Limnomedusae ハナガサクラゲ科Olindiasidae マミズクラゲ属 Craspedacusta マミズクラゲ Craspedacusta sowerbyi である。暫く、この二つを「みがら」の同定候補としておく。

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 鼓蟲(まひまひむし(みずすまし))


Maimaimusi

まひまひむし  鼓母蟲

        【俗云末比

         末比無之】

鼓蟲

       【又云古末

        比無之】

スウ チヨン

 

本綱鼓蟲【有毒】正黒如大豆浮遊水上也人中射工毒有

用鼓蟲一枚口中含之便差已死亦活【射工乃蜮也】

△按鼓蟲處處池中多有之常旋游周二三尺爲輪形正

 黒色似螢離水則飛

 

 

まひまひむし  鼓母蟲〔(しもちゆう)〕

        【俗に「末比末比無之」と云ふ。】

鼓蟲

       【又、「古末比無之(こまひむし)」と云ふ。】

スウ チヨン

 

「本綱」、鼓蟲【毒、有り。】、正黒にして大豆のごとく、水上に浮遊す。人、射工の毒に中〔(あた)〕る有る〔とき〕、鼓蟲一枚を用ひて、口中に之れを含めば、便ち、差〔(い)〕ゆ。已に死するも、亦、活(い)く【射工は乃〔(すなは)〕ち、「蜮〔(こく)〕」なり。】。

△按ずるに、鼓蟲、處處の池中に多く、之れ、有り。常に旋游し、周〔(わた)〕り二、三尺、輪の形を爲す。正黒色、螢に似たり。水を離るるときは、則ち、飛ぶ。

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera 飽食(オサムシ)亜目 Adephagaオサムシ上科 Caraboidea ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類。「水澄まし」を正統に名にし負い、我々が普通に見るのは、ミズスマシ科 Gyrinus 属ミズスマシ Gyrinus japonicus で、北海道・本州・四国・九州,朝鮮,台湾に分布する。体長は七ミリメートル内外と小さい。体は楕円形を成し、背面は隆起するが、腹面は平ら。全体が黒色を呈し、背面には強い光沢を持つ。前肢は長く、獲物を捕捉して保持するのに適している以外に、雄では跗節が広がり、吸盤を持っている。中・後肢は櫂状で短く、水面歩行に適している(先のアメンボ類が六脚の先で水面に立ち上がるように有意に浮いて運動するのに対し、ミズスマシ類は水面に腹這いになって浮いて運動する。因みに、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活する)。複眼が上下に二分している点(水中・水上とも同時に見えるように、それぞれ背側・腹側に仕切られてある)も水面生活に適応した結果である。触角は非常に短く、第二節は大きく特異な形状を成す。池沼や小川などに棲息し、水面を高速で旋回して小動物を捕食する。なお、ミズスマシ科 Gyrinidaeは、その総てが肉食性である。ミズスマシ類は世界に広く分布し、約七百種が知られているが、日本では三属十七種類ほど。中でも南西諸島に分布するDineutus属オキナワオオミズスマシ Dineutus mellyi は体長が二センチメートルに達し、世界最大級のミズスマシとされる。九州以北での最大種は体長一センチメートルほどになる同属のオオミズスマシDineutus orientalisである(以上はブリタニカ国際大百科事典の記載とウィキの「ミズスマシその他マヌキアン氏の「動物写真のホームページ」のミズスマシ記載ページに拠った)。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 1 蟲類」の「ミズスマシ」の項によれば、学名の Gyrinus 属の「ギリヌス」とはギリシア語の「環」を意味する“gyros”或いは「オタマジャクシ」を指す“gyrinos”に由来するとあり、和名の「水澄まし」は一説では「水を澄ます虫」(水が清くなって透き通るようにさせる虫)を表わすと言われるとあり(丸括弧内は私の補足)、『水面を旋回する姿が』、『水が澄むのを念じているまじない師のように見えるからだという』ともある。但し、他に、『水面につむじ風をおこす虫という意味で』「みずつむじ」『を語源とする説もある』と記しておられ、『まおミズスマシは古くからアメンボの異名ともされ』、『とくに俳諧では〈水馬〉と書いてミズスマシと訓をあてる』ともある。

 

「射工」「蜮」先行独立項蜮」の本文及び私の考証を参照されたい。

「鼓蟲一枚を用ひて、口中に之れを含めば、便ち、差〔(い)〕ゆ」「差」は「癒」に同じい。「瘥」とも書く。荒俣氏の前掲書には『喉が渇いて尿が通じない場合には』、『ミズスマシを生きたまま』三~四匹、『水で吞みこむと治るという』とあり、九州地方の民間療法では、『熱病の』際、『生のミズスマシを酒に浮かべて飲む習慣もあ』り、『さらに黒焼きじゃ小児のよだれ止め』として、また、ミズスマシの『糞町は風邪薬とされる』ともある。

「已に死するも、亦、活(い)く」これは東洋文庫訳では「射工」「蜮」の毒を受けて仮死状態になった患者でも、この処置を受ければ、息を吹き返す、というような意味合いで訳してある。

「水を離るるときは、則ち、飛ぶ」ミズスマシの成虫は水面を滑走しながら翅を開いて飛ぶことも出来、現在の水場から別な水域へも飛翔することが可能である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 愛


Aisa

   

 

 人は言ふ、愛こそは雙びない、至高の情だと。

 お前の自我に、他人の自我が割込む。お前は膨らみ、終に裂ける。いまお前の肉は遠く離(さか)り、お前の自我は既に亡びた。そんな死でさへ、肉と血とより成る人間を、傷ませるには足りる。……

 復活するのは、不滅の神々だけだ。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 君は泣いた


Onnmihanaki

   君は泣いた

 

 君は泣いた、私の不幸に。

 君の同情が身に染(し)みて、私も泣いた。

 だが君も、自分の不幸に泣いたのではないのか。それをただ、私の裡に見ただけではないのか。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 婆羅門(バラモン)


Baramon

   婆羅門(バラモン)

 

 婆羅門は、おのれの臍を見つめ、「唵(オム)」を反復誦唱して、佛性に近づく。

 しかも人のからだのうち、およそ臍ほどに佛性の薄く、現身の無常を思はせるものが、又とあらうか。

             一八八一年八月

 

[やぶちゃん注:「婆羅門」バラモン教の僧及び信徒。バラモン教については、小学館「日本大百科全書」の前田専學氏の解説を引く。『バラモン教は古代インドにおいて、仏教興起以前に、バラモン階級を中心に、ベーダ聖典に基づいて発達した、特定の開祖をもたない宗教。およそ紀元前』三『世紀ころから、バラモン教がインド土着の諸要素を吸収して大きく変貌』『して成立してくる』、『いわゆるヒンドゥー教と区別するため』、『西洋の学者が与えた呼称で、ブラフマニズムBrahmanismと称する。バラモン教(婆羅門教)はその邦訳語。バラモン教はヒンドゥー教の基盤をなしており、広義にヒンドゥー教という場合にはバラモン教をも含んでいる』紀元前千五百ン頃を『中心に、インド・アーリア人がアフガニスタンからヒンドゥー・クシ山脈を越えてインダス川流域のパンジャーブ(五河)地方に進入し、さらに東進して肥沃』『なドアープ地方を中心にバラモン文化を確立し、バラモン階級を頂点とする四階級からなる四姓制度(バルナvara)を発達させた。彼らはインドに進入する際、それ以前から長い間にわたって保持してきた宗教をインドにもちきたり、それを発展させ、進入時からおよそ前』紀元前五百年頃までの間に、「リグ・ベーダ」をはじめ、「ブラーフマナ」・「アーラニヤカ」・「ウパニシャッド」を含む膨大な根本聖典ベーダを編纂した。『その内容は複雑多様であるが、彼らが進入以前から抱いていた自然神崇拝、宗教儀礼、呪術』『から高度な哲学的思弁までも包摂している。その宗教の本質は多神教であるが』、「リグ・ベーダ」に『端を発する宇宙の唯一の根本原理の探求はウパニシャッドにおいてその頂点に達し、宇宙の唯一の根本原理としてブラフマン(梵(ぼん))が、個人存在の本体としてアートマン(我(が))が想定され、ついには両者はまったく同一であるとする梵我一如の思想が表明されるに至った。またウパニシャッドで確立された業(ごう)・輪廻』『・解脱』『の思想は、インドの思想・文化の中核となったばかりか、仏教とともにアジア諸民族に深く広い影響を与えている。ベーダの神々のなかには、帝釈天』『のように日本で崇拝されているものもある』。

「唵(オム)」原文は“«Ом!»”。現在は一般に「オーム」と表記され、アルファベットでは“om”又は“oM”と表記される(実際には“o”と“m”が同化して鼻母音化し「オーン」【õ:】と発音する)。バラモン教のみでなく、広くインドの諸宗教及びそこから派生し世界に広がった仏教諸派の中にあって神聖視される呪的な文句・聖音とされるものである。バラモン教ではベーダ聖典を誦読する前後及びマントラ(mantra:宗教儀式における賛歌・祭文・呪文を記した文献の総称)を唱えたりや祈りの前に唱えられる聖なる音である。バラモン教の思想的支えとなるウパニシャッド哲学にあっては、この聖音は宇宙の根源=ブラフマンを表すものとして瞑想時に用いられる。後の近世ヒンドゥー教にあっては、「オーム」の発音としての“a”が世界を維持する神ビシュヌを、“u” が破壊神シバを、“m”がブラフマンの人格化された創造神ブラフマーに当てられ、その「オーム」という一組の音によって三神は実は一体であること、トリムールティTrimurtiを意味する秘蹟の語とされる。なお、これは仏教の密教系にも受け継がれて「恩」(おん)として真言陀羅尼の冒頭に配されている。唐の般若訳「守護国界主陀羅尼経」にはヒンドゥー教と同様、仏の本体・属性・顕現を意味する三身を、即ち「ア」が法身(ほっしん)を、「ウ」が報身(ほうじん)を、「ム」が応身(おうじん)を指すとし、三世諸仏はこの聖音を観想ことによって全て成仏すると説かれている。

「佛性」恐らく神西は「ぶつしやう(ぶつしょう)」と仏教用語として訓じていると推定するが、これはそもそもが仏教以前の多神教であるバラモン教を素材として詠んだものである以上、「佛性」ではおかしい。原文は“божеству”で、これは広く「神仏」の意もあるが、ここはやはりロシア語の第一義の「神性(しんせい)」と訳すべきと考える。後の中山省三郎氏の訳でも『復誦することによりて神に近づく』と「神」となっている。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 素朴

 

   素朴

 

 素朴よ、素朴よ、人はお前を聖者と呼ぶ。しかし聖とは、所詮人の世の業でない。

 謙虛――これならばよい。それは驕慢を足下に踏まへ、これに打ち勝つ。

 だが忘れまい。勝利の感の裏には、既に驕慢の勾ふことを。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:原典では最後のフレーズが「既に驕慢の勾ふことを」となっているが、これでは意味が通るように訓ずることは出来ない。当該原文は“в самом чувстве победы есть уже своя гордыня”で、「勝利の感覚の中には既にして自身の驕りがある」といった意味であろう。因みに、後の中山省三郎の訳では『征服感そのもののうちには既に驕傲のこころの潛むを。』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳では『勝利の感情の裏には、はやくも驕慢のただようことを。』であるからして、これは「匂ふ」(にほふ)の誤植と断じて、特異的に訂した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 美辭


Kougen

   美辭

 

 私は美辭を怖れ避ける。しかし美辭を怖れる心も、また一種の氣取だ。

 で、私たちの生活の複雜さは、美辭(フラーザ)と氣取(プレテンジヤ)と――この二つの外來語のあひだを、行きつ戾りつする。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。

「美辭(フラーザ)」原文は“фразы”で、これは単に句・成句、フレーズ・メロディの他に、美辞麗句の意を持つ。ネットのネイティヴの発音サイトで聴き取る限りではカタカナ音写すると「フラーズィ」である。

「氣取(プレテンジヤ)」原文は“претензия”で、これは法的な権利要求・請求権、商取引上のクレーム・苦情の他に、自負・自惚れの意を持つ。「衒氣」という日本語は、自惚れて自分を偉そうに見せようとする気持ちを言う。ネットのネイティヴの発音サイトで聴き取る限りではカタカナ音写すると「プレテンジィヤ」である。

「この二つの外來語」“фразы”はフランス語や英語の“phrase”で、この語はギリシャ語由来のラテン語“phrasis”(言うこと・語ること)が語源である。また、“претензия”はラテン文字転写すると“pretenziya”となり、これは英語の“pretender”やフランス語の“prétentieux”と極めて綴りと発音が似ており、これらは孰れも「衒学者」・「詐称する者」・「勿体ぶった奴」「気取った奴」・「誇張した文体」等の意味を持つ。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 愛のみち

 

   愛のみち

 

 總ての感情は愛へみちびく。情熱へみちびく。總て――憎みも、哀憐も、冷淡も、尊敬も、友情も、恐怖も、そしてまた蔑(さげす)みさへも。さう、ただ一つ感謝のほかは。

 感謝は負債(おひめ)、人はみな負債を返す。けれど愛は、錢ではない。

             一八八一年六月

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 獨り居のとき


Hirtoride

   獨り居のとき

 

      ――影法師

 

 獨り居のとき、何時までも人氣が無いと、ふと誰か部屋のなかに居て、同じ椅子に掛け、また背(そびら)に立つ氣配がする。

 その男の居る邊りを振返つて、じつと見つめると、もとより姿はなく、氣配さへも消えてしまふ。が、暫くすると、またまた氣配がしはじめる。

 時々、私は兩手頭を抱ヘて、その男のことを考へる。

 あれは誰だ、何者だ。萬更知らぬ同志ではない。向ふも私を知つてゐる。私の方でも知つてゐる。どうやらあの男は血續きらしい。しかも深い淵は二人を隔ててゐる。

 私はその男の聲も話も侍ち設けない。彼は身動きもせず、まるで啞のやうだ。それでゐて私に話しかける。何やら譯は分らないが、聞覺えのある話をする。その男は私の秘密を、殘らず知つてゐる。

 私はその男を怖れはせぬ。一緒に居るのは厭な氣がする。内心の生活に、立會人など無い方がよい。

 さう言ふものの私はその男に、赤の他人を感じるのでもない。もしやお前は、私のもう一つの自我ではあるまいか。私の過去の人格ではあるまいか。さうに違ひない、記憶に殘る過去の私と、現在の私との間を、深い淵が隔ててゐるではないか。

 その男は私の招きに應じて來るのではない。彼には彼の意志があるやうだ。

 兄弟よ、かうしてお互に孤獨の中に、じつと物も言はずにゐるのは、堪らないことではたいか。

 だが、もう暫くの辛抱だ。私が死ねば、二人は融け合へるだらう。過去の私と現在の私とは一つになつて、未來永劫の闇に沈まう。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。

「私はその男の聲も話も侍ち設けない」「私はその男の声を聴きたいとか、況や、対話をしたいなどという思いなどは、これ、鼻っから、微塵も持っては、いない」という意味であろう。因みに、後の中山省三郎の訳では『私は彼から物音や言葉を期待してゐない』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳では『私はその男の聲も話も期待しない』である。]

2017/10/27

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 水馬(かつをむし)


Amenbo

 

かつをむし 水黽

      【俗云鰹蟲
       又云鹽賣】

水馬

しほうり

本綱水馬羣游水上水涸卽飛長寸許四脚非海馬之水

馬也有毒殺雞犬

五雜組云水馬逆流水而躍水日奔流而步不移尺寸兒

童捕之輙四散奔迸惟嗜蠅以髮繋蠅餌之則擒抱不脱

釣至案几而不知

△按水馬處處池川皆有頭尾尖兩髭曲高脚長身其色

 赤黑而似鰹脯故曰鰹蟲小兒以蠅之釣也和漢相同

 此蟲有酒氣以爲異人唾吐着之輙蟲如醉稍醒則復

 弄水

――――――――――――――――――――――

一種有水蠆 能變蜻蜒本初蜻蜒生卵於水際成水蠆

 還成蜻蜒【詳于蜻蜒下】

かつをむし 水黽〔(すいばう)〕

      【俗に「鰹蟲(かつをむし)」と云ひ、
       又、「鹽賣(しほうり)」と云ふ。】

水馬

しほうり

「本綱」、水馬は水上に羣游す。水、涸れり〔→るれば〕、卽ち、飛ぶ。長さ、寸許り。四つ脚。海馬(たつのおとしご)の水馬に非ず。毒、有りて、雞・犬を殺す。

「五雜組」に云はく、『水馬、流水に逆らひて、水に躍り、日に奔流して、步むこと、尺寸を移らず。兒童、之れを捕るに輙〔(すなは)〕ち、四散・奔迸〔(ほんはう)〕す。惟だ、蠅を嗜〔(す)〕く。髮を以つて蠅を繋ぎ、之れを餌〔とすれば〕、則ち、擒(と)り、抱きて、釣〔(つりいと)〕を脱せず。案-几(つくへ)に至りても、知らず。

△按ずるに、水馬、處處の池川に、皆、有り。頭尾、尖り、兩髭〔(ひげ)〕、曲り、高き脚、長き身、其の色、赤黑にして鰹脯(かつをぶし)に似る。故に「鰹蟲」と曰ふ。小兒、蠅を以つて之れを釣ることや、和漢、相ひ同じ。此の蟲、酒の氣(かざ)、有り。以つて異と爲す。人、唾(つばき)吐きて之れに着くれば、輙ち、蟲、醉ふがごとし。稍〔(しばら)〕く〔して〕醒むれば、則ち、復た、水に弄〔(はし)〕る。
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一種、「水蠆〔(たいこむし)〕」有り。 能く蜻蜒(とんばう)に變ず。本〔(もと)〕、初〔め〕にして、蜻蜒、卵を水際に生〔(うみ)な〕して、水蠆と成り、還(ま)た、蜻蜒と成る【「蜻蜒」の下に詳〔(くは)〕し。】

[やぶちゃん注:主節部分は節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 半翅(カメムシ)目 Hemiptera 異翅(カメムシ)亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae のアメンボ類。本邦で最も普通に見られるのはアメンボ(ナミアメンボ)Aquarius paludum である。アメンボは「飴ん棒(ぼう)」の約で「棒」は体幹は細長いことからで、「飴」は人が捕えた際、カメムシの仲間であるからして、臭腺から臭いを発するのであるが、それが焦げた飴のような臭いに感じられるからという。実は私は嗅いだことがないので、事実そうかどうかは知らないので「という」としておく。なお、印象からは想像し難いのであるが、アメンボは肉食で、餌は水面に落ちてしまった昆虫などに針状の口吻を挿して体液を吸って栄養としている。

「水黽〔(すいばう)〕」「黽」は蛙・青蛙の意。中脚と後脚を四足に擬えたものであろうが、似ているとは思えない。現代中国音ならば「シゥイミィン」或いは「シェイミィン」か。

「鹽賣(しほうり)」確かに本邦のアメンボの異称であるが、由来は不詳。スマートな体幹を塩売りの天秤棒に譬えたものか? ただ、「飴ん棒」の異称の対局性が気になる。臭いは飴売りだが、姿は塩売りという洒落かも知れないと、ふと思った。

「しほうり」中国音ではなく、異名がその位置に配されてあるのは特異点。

「水、涸れり〔るれば〕、卽ち、飛ぶ」「れり」では繋がりが悪いのでかく言い代えを添えた。アメンボの殆んどの種は飛翔能力を持ち、現在いる水溜まりが干乾びかけると、飛んで、別の水辺に移動をする。他にも繁殖時や越冬のため、或いは、現在位置では餌が得られなくなりそうになると、飛ぶことがある。但し、飛んでいるアメンボを実際に見ることは必ずしも多くない。私も画像で見たことがあるだけである。 

「四つ脚」無論、昆虫であるから三対六脚である。ただ、アメンボの場合、身体を水上に浮かせて支える有意に長い、中脚と後脚が極めて近接して存在するのに対して、前脚は頭部近くに有意に離れてあって、しかも短い。それを無視したか、それを顎の一部とでもとったか、或いはまた、後脚を腹部端にある鋏と錯覚したものかも知れない。さらに言えば、その「顎」や「鋏」に「毒、有りて、雞・犬を殺す」と錯覚したものかも知れぬ。無論、アメンボに毒など、ない。

「海馬(たつのおとしご)の水馬」海産魚類であるトゲウオ目 Gasterosteiformesヨウジウオ亜目 Syngnathoideiヨウジウオ科 Syngnathidaeタツノオトシゴ亜科 Hippocampinaeタツノオトシゴ属 Hippocampus のタツノオトシゴ類。私の電子化注「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海馬」の項を参照されたい。

「水馬、流水に逆らひて水に躍り、日に奔流して、步むこと、尺寸を移らず」これはアメンボが水上に脚を使って器用に浮いてスイッスイッと走る(脚に生えた細かな毛の水面張力によって滑走している)のを見て、流れに逆らっているように見え、水の上で躍り上りっているように見え、常に流れに逆らっているのであれば、一日経っても、殆んど同じ位置に居続けている(そんなことは実際にはないが)ように見え、さればこそ一日で三十センチどころか、三センチも動かない、と見たのである。

「奔迸〔(ほんはう)〕」素早く走り逃げること。

「擒(と)り」「獲り」。

「釣〔(つりいと)〕」髪の毛製の釣り糸。を脱せず。

「案-几(つくへ)」「机(つくゑ)」。陸の、家屋内の机。

「鰹脯(かつをぶし)」「鰹節」。

「酒の氣(かざ)」甘い酒のような匂い。

「人、唾(つばき)吐きて之れに着くれば、輙ち、蟲、醉ふがごとし。稍〔(しばら)〕く〔して〕醒むれば、則ち、復た、水に弄〔(はし)〕る」やったことがない。何時か、やってみようとは思う。

「水蠆」トンボ(「蜻蜒(とんばう)」)の幼虫のヤゴのこと。

『「蜻蜒」の下』先行するトンボの項名は蜻蛉ばう)。「蜻蜒」はその異名の一つとして挙がっている。但し、それよりなにより、その「蜻蛉」の次に独立て「水蠆たいし)があのだから、ここはこちらへの「見よ割注」とすべきところである。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 沙虱(すなじらみ)


Sunajirami

すなしらみ  𧍲 蓬活

       地牌

沙虱

 

スアヽスエツ

 

本綱沙虱山水間多有甚細畧不可見色赤大不過蟣人

雨後入水中及草中踐沙必着人鑽入皮裏令人皮上如

芒針刺可以針挑取之正赤如丹不挑入肉三日之後寒

熱發瘡蟲漸入骨則殺人凡遇有此蟲處行還以火炙身

則出隨火去也今俗病風寒者皆以麻及桃柳枝刮其遍

身蓋始於刮沙病也其沙病初起如傷寒頭痛壯熱嘔惡

手足指末微厥或腹痛悶亂須臾殺人者謂之攪腸沙也

一種有沙蟲 卽毒蛇鱗甲中蟲蛇被苦毎入急水中碾

 出人中其毒三日卽死此亦沙虱之類也

△按近頃【康熙年中】有書題號痧脹玉衡曰治痧症救人數万

 而万病皆有交痧各修方甚詳仍知沙病流行也蓋異

 國毒蛇毒蟲多也

 

 

 

すなじらみ  𧍲〔(べんせん)〕

       蓬活

       地牌

沙虱

 

スアヽスエツ

 

「本綱」、沙虱は山水の間に多く有り。甚だ細にして畧ぼ見えるべからず。色、赤くして、大いさ、蟣(きかせ)に過ぎず。人、雨後、水中及び草の中に入りて沙を踐(ふ)めば、必ず、人に着きて、人に〔→の〕皮の裏〔(うち)〕に鑽(も)み入り、人の皮の上をして芒-針(はり)にて刺(さ)すがごとくならしむ。針を以つて之れを挑(は)ね取る。正赤なりこと、丹のごとし。挑ねざれば、肉に入りて、三日の後に寒熱し、瘡を發す。蟲、漸く骨に入れば、則ち、人を殺す。凡そ、此の蟲、有るの處に遇へば、行〔き〕還りに、火を以つて身を炙れば、則ち、出づ。火に隨ひて去るなり。今、俗、風寒を病む者、皆、麻(あさ)及び桃・柳の枝を以つて其の遍身を刮(こそ)げる〔は〕、蓋し、沙病を刮〔げる〕に始むるなり。其の沙病、初起〔は〕、傷寒のごとく頭痛・壯熱・嘔惡〔(わうあく)〕、手足の指の末、微かに厥〔(くゑつ)〕し、或いは、腹痛、悶亂して、須臾に人を殺すは、之れを「攪腸沙」と謂ふなり。

一種、「沙蟲」有り。 卽ち、毒蛇の鱗甲の中の蟲なり。蛇、苦しまらるれば、毎〔(つね)〕に急水の中に入りて碾(きし)り出だす。人、其毒に中〔(あた)〕れば、三日にして卽死す。此れも亦、沙虱の類なり。

△按ずるに、近頃【康熙年中。】、書、有り、題して「痧脹玉衡〔(さちやうぎよくかう)〕」と號す。曰く、『痧症を治して人を救ふこと、數万にして而〔(しか)も〕、〔そが〕万病に皆、痧を交〔(まぢ)〕ること有り』〔と〕。各々、修方、甚だ詳かなり。仍りて知んぬ、沙病〔の〕流行〔せることを〕。蓋し、異國には毒蛇・毒蟲、多ければなり。

 

[やぶちゃん注:私はこれを本邦産種に当てはめるならば、所謂、ツツガムシ(恙虫)病を媒介する、節足動物門 Arthropoda 鋏角亜門 Chelicerata 蛛形(クモ)綱 Arachnida ダニ目 Acari ツツガムシ科 Trombiculidae の特定のツツガムシ類に同定したい。但し、ツツガムシは日本だけでも八十種類以上(上位のツツガムシ科タクソンでは約百種)が棲息しているものの、ツツガムシ病を発症させるリケッチアを保有し、且つ、ヒトに吸着する性質を有する種はその中の数種類に過ぎないので、ツツガムシ全種を凶悪犯に仕立てぬようにしなくてはならないウィキの「ツツガムシ」によれば、『主に東アジア、東南アジアに分布する。成虫は赤色、幼虫はオレンジ色をしている。幼虫は野鼠の耳に寄生していることが多い。幼虫は脊椎動物寄生性で孵化後、生涯に一度だけ哺乳類などの皮膚に吸着して組織液、皮膚組織の崩壊物などを吸収する。十分摂食して脱落、脱皮した後の第一若虫、第二若虫および成虫には脊椎動物への寄生性はなく、昆虫の卵などを食べる』。〇・一%から三%『の個体が経卵感染によってツツガムシ病リケッチアを保菌しており、これに吸着されると』、『ツツガムシ病に感染する。保有するリケッチアの血清型は、種との関連性があることが知られ』る。『日本では、感染症法に基き』、『ツツガムシ病の症例を集計している』が、例えば二〇〇九年の報告症例は四百五十八件で死亡例は三件である。注意しなくてはならないのは、『俗に、ツツガムシが「無事である」という意味の「つつがない」(恙無い)という慣用句の語源とされるが、それは誤りで』、『「恙」(つつが)はもともと「病気」や「災難」という意味であり、それがない状態を指す言葉として「つつがない」という慣用句が生まれた。それとは別に原因不明の病気があり、その病気は「恙虫」(つつがむし)という妖怪に刺されたことによって発病すると信じられていた。後世になってからこの病気がダニの一種による感染症(ツツガムシ病)であることが判明し、そこから逆にこのダニがツツガムシと命名されたものである』ことである(下線太字やぶちゃん)。「国立感染症研究所」公式サイト内の解説によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線はやぶちゃん)、『患者は、汚染地域の草むらなどで、有毒ダニの幼虫に吸着され』、『感染する。発生はダニの幼虫の活動時期と密接に関係するため、季節により消長がみられる。また、かつては山形県、秋田県、新潟県などで夏季に河川敷で感染する風土病であったが(古典型)、戦後新型ツツガ虫病の出現により北海道、沖縄など一部の地域を除いて全国で発生がみられるようになった』(私が若い頃の記憶に、流行地に行ったことがなく、山歩きなどもしていない愛知の若い女性の死亡例を思い出す。感染源は父親が新潟から購入した盆栽に着いていたツツガムシであったという驚きの真相が忘れられない)『ツツガムシは一世代に一度だけ、卵から孵化した後の幼虫期に哺乳動物に吸着し、組織液を吸う。その後は土壌中で昆虫の卵などを摂食して生活する。わが国でリケッチア(以下、菌)を媒介するのは』ツツガムシ科アカツツガムシ属『アカツツガムシ(Leptotrombidium akamushi)、タテツツガムシ(L. scutellare)、およびフトゲツツガムシ(L. pallidum)の三種であり、それぞれのダニの〇・一〜三%が菌をもつ有毒ダニである。ヒトはこの有毒ダニに吸着されると感染する。吸着時間は一〜二日で、ダニから動物への菌の移行にはおよそ六時間以上が必要である。菌はダニからダニへ経卵感染により受け継がれ、菌をもたないダニ(無毒ダニ)が感染動物に吸着しても』、『菌を獲得できず、有毒ダニに』は『ならない。したがって、自然界で』齧歯類『などの動物はヒトへの感染増幅動物とはならず、ダニのライフ』・『サイクルを完結させるために重要となる』。『新型ツツガムシ病を媒介するタテツツガムシ、およびフトゲツツガムシは秋〜初冬に孵化するので、この時期に関東〜九州地方を中心に多くの発生がみられる。また、フトゲツツガムシは寒冷な気候に抵抗性であるので、その一部が越冬し、融雪とともに活動を再開するため、東北・北陸地方では春〜初夏にも発生がみられ、そこではこの時期の方が秋〜初冬より患者が多い。したがって全国でみると、年間に春〜初夏、および秋〜初冬の二つの発生ピークがみられる。また、古典型ツツガムシ病の原因となったアカツツガムシは現在』、『消滅したと考えられ、夏期に発生ピークはみられない』。『我が国では一九五〇年に伝染病予防法によるツツガムシ病の届け出が始まり、一九九九年四月からは』、『感染症法により』、『四類感染症全数把握疾患として届け出が継続されている。感染症法施行後の患者数をみると、一九九九年(四〜十二月)には五百八十八人、二〇〇〇年(一〜十二月)には急増して七五四人が報告された。二〇〇一 年には四百六十人に減少したが、今後の動向が注目される。また、毎年数人の死亡例も報告され、依然として命を脅かす疾病であることがうかがえる。また、ツツガムシ病は広くアジア、東南アジアにも存在しており、輸入感染症としても重要である』。「臨床症状」の項。『潜伏期は五〜十四日で、典型的な症例では』摂氏三十九度『以上の高熱を伴って発症し、皮膚には特徴的なダニの刺し口がみられ、その後』、『数日で体幹部を中心に発疹がみられるようになる』。『発熱、刺し口、発疹は主要三徴候とよばれ、およそ九十%以上の患者にみられる。また、患者の多くは倦怠感、頭痛を訴え、患者の半数には刺し口近傍の所属リンパ節、あるいは全身のリンパ節の腫脹がみられ』、『治療が遅れると』、『播種性血管内凝固をおこすことがあり、致死率が高い』。『発生時期がその年の気候により影響を受けること、わが国には夏〜秋に発生の多い日本紅斑熱が存在することなどから、年間を通して、本症を含むダニ媒介性リケッチア症を常に疑うことが重要である。また、ヒトの移動に伴い、汚染地域に出かけて感染し、帰宅後発症する例もあるので、汚染地域だけでなく広く全国 の医療機関で注意が必要である』とある。

 ツツガムシ病の病原体はリケッチア(Rickettsia:以下に示すリケッチア科 Rickettsiaceae オリエンティア属 Orientia(旧リケッチア属)に属する微生物の総称。ヒトに発疹チフスや各種リケッチア症を発症させる細菌で、現在、二十六種が確認されている。ダニ等の節足動物を中間宿主とし、ウイルス同様、細胞外では増殖出来ない偏性細胞内寄生体。名称は発疹チフスの研究に従事して結果的にそれが原因で亡くなったアメリカの病理学者ハワード・テイラー リケッツ(Howard Taylor Ricketts 一八七一年~一九一〇年:元ペンシルヴェニア大学教授。一九〇六年、ロッキー山紅斑熱の研究を開始し、その二年後にマダニから病原性の微生物を発見、同時に野性動物の血液中からもリッケチアと命名されたこの微生物を見出だした。また、メキシコシティで発疹チフスの調査に出かけ、同病は一度かかると、免疫性を獲得することを発見したが、地方病性発疹熱を研究中、感染して死亡した。以上は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠った)の名に因む)で、

真正細菌界 Bacteria プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目 Rickettsiales リケッチア科 Rickettsiaceae オリエンティア属オリエンティア・ツツガムシ Orientia tsutsugamushi

であるが、多くの血清型を持ち、ウィキの「オリエンティア・ツツガムシ」によれば、『多数の血清型が報告されており、Karp 型(全感染例のおよそ 50% )、Gilliam 型(25%)、Kato 型(10% 以下)、Kawasaki 型』『の他』、『莫大な多様性が存在する。マレーシアの単一フィールドでは8つの血清型が報告されており』、『更に多くの型が報告され続けて』おり、『遺伝子的手法により、以前判明していたよりもさらに複雑であることが分かってきている(例えば、Gilliam 型は Gilliam 型と JG 型に細分化された)。ある血清型への感染は別の血清型への免疫を与えない(交叉免疫が無い)。したがって同一固体への感染が複数回繰り返されることがあり、ワクチン設計が複雑になる』のであるが、そもそもが、『ツツガムシ病の認可済みワクチンは現状』。『存在しない』。これは『Orientia tsutsugamushi の各株間には莫大な抗原多様性があること、および交叉免疫が生じないことが明らかになっており、ツツガムシ病ワクチンが許容水準の予防を得るためには、地域内で見られる全ての株を予防できる必要がある。抗原の多様性のため、ある地域向けに開発されたワクチンは別の地域では予防にならないこともある。この困難のために、現実的なワクチンの製造努力は実を結んでいない』とある。
 

「沙虱」「本草綱目」では「沙蝨」の表記。

「甚だ細にして畧ぼ見えるべからず」ツツガムシ類の大きさは一ミリ以下と極めて微細である。

「蟣(きかせ)」シラミの子或いはシラミ。生物学的には昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura のうちで、ヒトに寄生して吸血するヒトジラミ科 PediculidaeのヒトジラミPediculus humanusの亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus・亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporis の二亜種と、ケジラミ科 Pthiridae の、ケジラミ Phthirus pubis既出項「蝨」を参照。東洋文庫訳では『きざさ』とルビするが、これも「キカセ」に同じく、シラミ或いはその幼虫を指す古語(十世紀に編纂された「倭名類聚鈔」には「シラミの子」のことを「木佐々」(きささ)と称するとある)及び現行の方言。「キザシ」などとも称するから、総て同源であろう。

「踐(ふ)めば」踏めば。

「人に〔→の〕」「の」の方が読み易いので、かく、した。

「風寒」漢方で、寒冷に曝されたような症状を言う。

「初起」初期。

「傷寒」漢方で、高熱を伴う急性疾患を指す。腸チフスなど。

「壯熱」漢方で、高熱が続いたために風寒の邪気が人体の奥に入って熱を発する状態を指す。多汗や口の渇きなどの症状を伴うことが多い。

「嘔惡〔(わうあく)〕」気分が悪くなって嘔吐を伴う症状。

「厥〔(くゑつ)〕し」曲がり。東洋文庫訳割注は『ふるえることか』とするが、採らない。

「須臾に」時をおかず。

「攪腸沙」しかしこれはツツガムシ病というより、腸チフスやコレラ(後注参照)っぽい。

「沙蟲」「毒蛇の鱗甲の中の蟲なり」毒蛇に限らず、自然界に棲息する蛇類には多かれ少なかれ、ダニ類が寄生している。当該種学名を探し出すのは面倒なので、お許しあれ。

「苦しまらるれば」苦しめられると。

「急水」急流。

「碾(きし)り出だす」早い水流で、ダニを擦り落とす。

「康熙」一六六二年~一七二二年。「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年頃(自序クレジット)の完成。

「痧脹玉衡〔(さちやうぎよくかう)〕」東洋文庫書名注に、『三巻。後一巻。清の郭志邃(かくしすい)撰。伝染病』としての『痧(コレラ)の症状・治療法について述べたもの』とある。

「沙病」前注から考えると、良安はコレラ(「痧」)とツツガムシ病を混同してしまっていることになる。これは或いは単に「沙虱」と同じ「少」が構成用字である「痧」とを安易に同源の文字と考えた誤りではあるまいか?

老媼茶話巻之四 魔女

 

     魔女

 

 肥前國鍋嶋家の士、龍門寺登之助といふもの無隱(かくれなき)大力也。

 或春、友、弐、三人ともない、山寺へ花見に行(ゆく)。日暮歸りに趣(おもむき)、住僧も立出(たちい)で、歸りを送りける。登之助、僧にたはふれて、

「山寺にて、石、御自由と申(まうし)ながら、扨も苔むし、見事成(なる)手水石(てうづいし)哉(かな)。我にくれられよかし。」

といふ。

 住僧、聞(きき)て、打笑(うちわらひ)、

「安き事也。望ならば、自身、持行(もちゆき)玉へ。進じ候べし。」

といふ。

 登之助、聞て、

「過分に候。」

とて、三拾人にては動かし難き石、やすやすと引起(ひきおこ)し、肩にかけ、行程三里の所を持行(もちゆき)たり。

 登之助、常に山狩・川狩を好む。

 或時、はるか東に鹽田(しほた)といふ山里の、殺生宿(せつしやうやど)喜太郞といふ者、獨活(うど)・蕨(わらび)樣(やう)の物、土産として、遙々登之助かたへ來り、 機嫌を伺(うかがひ)、扨、申けるは、

「近頃、我等在所、弐里、山、入(いり)、窪谷と申(まうす)在鄕の庄屋兵助と申(まうす)有德(うとく)成る者、御座候。かの妻、魅物(バケモノ)におそはれ、十死一生にて候。然處(しかるところ)に、此頃、朝熊の明王院より鐵洞と申(まうす)眞言坊、參り、かぢいたし候。此僧、申(まうし)候は、此祈(いのり)には、いかにも膽太(きもふと)く大力の勇士、入申(いりまうし)候まゝ、夫(それ)を御賴可申由(おたのみまうすべきよし)、申(まうし)候。旦那樣、我等かたへ御入(おいり)候を、兵助、能(よく)存(ぞんじ)候。何卒、致御殺生(ごせつしやういたす)御慰(おなぐさみ)がてら、御出可被下(おいでくださるべき)や、伺吳候樣(うかがひくれさふらふやう)に、と賴申(たのみまうし)候。哀(あはれ)、人ひとり御助被下(くださる)と思召(おぼしめし)、御出被下(おいでくだされ)候へかし。」

と恐入(おそれいり)申ける。

 登之助、聞て、

「夫は、先(まづ)、いか樣(やう)の魅物(ばけもの)ぞ。」

といふ。

 喜太郞、申(まうす)は、

「窪谷に妙音山法奧寺と申(まうす)寺の候。其西に阿彌陀が原と申(まうす)塚原の候。其所より、化物、參り候。是は、元(もと)、兵助召仕(めしつかまつり)候女に忍(しのび)て目を懸(かけ)候を、兵助、妻、深くいきどをり、ひそかに縊(くび)り殺し、阿彌陀がはらに埋捨(うづめすて)候。其女の死靈の、かく、來り惱まし候とさた仕(つかまつり)候。」

と申。

 登之助、聞て、

「明日、幸(さいはひ)、殺生に汝等があたりへ可行(ゆくべし)と思ひ居たり。汝とひとつに兵助かたへ行(ゆく)べき。」

とて、明(あく)るあした、喜太郞を召連(めしつれ)、窪谷の兵助かたへ行(ゆく)。

 先達(せんだつ)て、此よし、喜太郞、通(つう)じける間、鹿目峠の坂下まで、兵助、迎ひに立出(たちいで)、ひれふしに也(なり)、先へ立(たち)、案内し、兵助、宿へ行(ゆく)。

 百性ながら、大屋敷にて、男女、弐、三十人、召仕ひ、萱(かや)が軒端(のきば)も賑やか也。

 扨、樣々の酒肴、取調(とりととのへ)、色々と、もてなしける。

 鐵洞藏主(ざうす)も來り、登之助に對面し、

「英士、はるばる、御出(おいで)、御大儀。」

のよし、謝し、隨分、勇勢を出(いだ)し、

「今宵、牛三過(すぐ)る頃、魔女、必(かならず)、來(きた)るべし。のがさず、だき留(とめ)玉へ。其物に至り、おくし給ふな。」

と、いふ。

 登之助、打笑(うちわらひ)、

「其段、心易く思ひ、只、魔女の來れる樣に祈り給へ。」

と答(こたふ)。

 鐵洞も歸り、登之助も休息す。

 かくて、鐵洞法印、病者の枕元に、だんをかざり、へいはく、數多(あまた)切立(きりたて)、燈(ともし)、所々にたちならべ、供物をさゝげ、大魔降伏(だいまがうぶく)の不動明王の像を床(とこ)に懸(かけ)、印を結び、呪(じゆ)を唱へ、數珠、さらさらと押(おし)もみ、汗水になり、祈りける。病者は四拾斗(ばかり)の、やせつかれたる女也。登之助も傍(かたはら)に有(あり)て是を見る。

 かくて夜も更(ふけ)て行(ゆき)、八半斗(ばかり)の事なるに、兵助が家の西北に當り、物のひゞく音、聞(きこ)へ、西の障子に靑き光、移り、靑色の玉、庭へ落(おち)たり。

 此玉の光り、消(きゆ)るとひとしく、稻光りして、障子の際(きは)に人の彳(たたず)むけしき有(あり)て、物すさまじさ、限りなし。

 病者、ふるへわなゝき、目を見つめ、舌を出(いだ)し、手を握り、床より浮上(うきあが)り、恐苦(おそれくる)しむ折節、枕元の障子を、少し、ひらき、髮を亂したる七尺斗(ばかり)の大女(おほをんな)、顏、半分、出(いだ)し、眼(まなこ)を見開き、座中の樣子を窺居(うかがひゐ)たりけるが、閑(しづか)に、障子を押明(おしあ)、座の内へ入(いり)たり。

 眼は血のごとく、口は耳元へさけ、紅(くれなゐ)の舌を出(いだ)し、病者を恨めしげに見入(みいり)つゝ、息、火を吐(はく)がごとくなり。

 登之助、走り懸り、くまんとするに、日頃の强力勇猛、うせ果て、手足なへ、腰、立(たた)ず。

 鐵洞、是を見て、目をいららげ、齒をかみ、

「夫(それ)よ、夫よ。」

といふながら、もみにもんで、祈る。魔女は、人、有りとも思はざる氣色(けしき)にて、病者の枕元に立居たりけるが、右の腕を差延(さしのべ)、病者の髮をからみ、中(ちゆう)に提(さげ)、おもてのかたへ、走り出る。

 此時、登之助、

「南無八幡。」

と願念(ぐわんねん)して立上(たちあが)り、魔女、追懸(おつか)

「むづ。」

と組(くむ)。

 魔女、大きにいかり、病者を、かしこに抛捨(なげすて)、登之助と引組(ひつくみ)、小脇にかい込(こみ)、引立(ひきたて)ゆかんとする。

 登之助、金剛力(こんがうりき)を出(いだ)し、もみあいけるが、立(たて)ならべたる燈火は消(きえ)て闇となり、互にふむ足にて、家内、震動して地震(なゐ)のふるふがごとし。

 登之助、脇差、引拔(ひきぬき)、魔女が脇腹を、したゝかに、二刀、さし通

 魔女、此手に弱りけるか、登之助を突放(つきはな)し、靑色の大きなる玉となり、虛空に飛(とび)て、地をひゞかし、いつもの塚原落(おち)たり。

 夜も明ければ、皆人(みなひと)、血をしたいて阿彌陀がはらへ行(ゆき)、見るに、塚、崩(くづれ)て、血、夥敷(おびただしく)引(ひき)たり。

 塚を崩(くづし)て、内をみるに、棺(をけ)の内に、一具の骸骨、血に染(そみ)、其外、替(かは)る事なし。

 鐵洞法印がいはく、

「今少し早く、魔女を組留(くみとめ)玉はゞ、病者の命、助るべきに、殘多(なごりおほき)事也。然し、魔女を平(たひら)げ給はずは、此家、必(かならず)、變化(へんげ)の爲に取(とり)たやされ、黑土となるべし。是、皆、勇士の力にて、家、つゝがなし。變化も、弐度、來(きた)るまじ。」

とて、檀を破る。

 登之助、ほうほう[やぶちゃん注:ママ。]、やどへ歸り、朋友に語りけるは、

「必(かならず)、魔ゑん・化粧(けしやう)のもの、事なくしたがへんなどゝ、みだりに、荒言(くわいげん)、はくべからず。我、一生の恥をかきたり。」

といへり。

 

[やぶちゃん注:「肥前國鍋嶋家」佐賀藩。肥前国佐賀郡(当時は現在の佐賀県及び長崎県の一部に相当)にあった外様藩で肥前藩、初期を除き、歴代、鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩とも呼ばれることもある。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市内)。三十五万七千石。

「龍門寺登之助」不詳であるが、佐賀藩の最初の藩主は龍造寺氏であることが、気にはなる。

「過分に候。」「身に余るご厚意にて恐縮致す。」。

「鹽田」佐賀県の南西にあった旧藤津郡塩田町(しおたちょう)。現在の佐賀県嬉野市塩田町。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「殺生宿」不詳。地名とは思われない。この喜太郎の通称で、猟師に宿を貸す生業(なりわい)をしていた者か。

「遙々登之助かたへ來り」底本では「遙々登〔之助〕かたへ來り」とある。〔 〕は編者による補填であるが、どうもピンと来ない。主人公の名の「登之助」が「のぼりのすけ」であったというのもちょっとピンとこず、「(たうのすけ)とうのすけ」と読みたくなるし、そもそも「のぼりのすけ」と読むのであれば、底本編者は冒頭に出た際に、そうルビを振るはずであるが、ないからである。これは原作者が、「登之助かた」と書いたのを、書写の際に誤って「之助」を落としてしまい、後人が喜三郎が「登之助」の方へ行くことを「登り」と言ったと勘違いして、送り字の「リ」を送ってしまったのではなかろうか。

「窪谷」不詳。

「朝熊の明王院」三重県伊勢市朝熊町岳にある金剛證寺(こんごうしょうじ)の朝熊岳明王院か。しかし、「眞言坊」(真言宗の僧)とあるのが不審。初期は真言密教であったが、南北朝期に当寺は臨済宗となっているからである。当時、兼学寺院であったなら、問題はないのだが。或いは、「眞言坊」と名乗っているものの、その実、この男は山伏であったのではないか? 何故なら、「朝熊岳明王院萬金丹」を売り歩く山伏がいた可能性が、ここのページの記載で推測されるからである。但し、後でこの僧を別に「藏主」(ぞうす)とも呼称しており、これだと、問題がない。何故なら、「蔵主」とは禅寺の経蔵を管理する僧職を指す語だからである。

「鐵洞」不詳。

「かぢ」「加持」。加持祈禱。

「哀(あはれ)」感動詞。「ああ!」「どうか!」。

「妙音山法奧寺」不詳。

「阿彌陀が原」不詳。「塚原」とあるからには墓所である。

「さた」「沙汰」。

「鹿目峠」不詳。

「百性」「百姓」に同じい。

「だん」「壇」。悪霊調伏のための修法を行うための真言密教の護摩壇。

「へいはく」「幣帛」。神に奉献する供物。神仏習合であるから、問題ない。

「八ツ半」午前三時頃。

「床より浮上(うきあが)り」怪異出来の真骨頂シーン。

「七尺」二メートル十二センチメートル。最早、死霊ではなく、鬼女妖怪の類に化している。

「いららげ」逆立て。吊り上げ。

「もみにもんで」数珠を揉みに揉んで。

「魔ゑん」「魔緣」。仏教で学問や修行の邪魔をする悪神を指す。

「化粧(けしやう)」「化生」が正しい。

「荒言」無責任に大きなことを言い散らすこと。「公言」とも書く。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 夜ふけ


Yahanni

   夜ふけ

 

 夜ふけに、私は起き上つた。暗い窓の外で、誰か私の名を呼んだものがある。

 窓の硝子に顏を寄せ、耳を澄し瞳をこらして、私は待受けた。

 しかし窓の外には、相も變らぬ樹々のざわめき、また、取留めも無く移ろひながら、ついぞ形を變へぬ、深い夜霧が這ふばかり。……空には星もなく、地に一點の火影もない。窓の外も、此處――私の胸の中と、同じ倦怠がたち籠めてゐる。

 ふとそのとき、何處かしら遠くで、哀訴の聲が起つた。聲は次第に高まり近づいて、漸く人語を成したかと思ふ間もなく流れおとろへ、忽ち身ぢかをかすめ過ぎた。

 「さよなら、さよなら、さよなら……」かすれてゆく聲は、さう聞きとれた。

 それは私の過去の一切、幸福の一切、慈しみ愛したものの一切なのだ――いましがた私に、永遠に歸らぬ別れを告げたのは。

 かけり去る自分のいのちに默禮して、私はまた寢床に橫になつた。さながら墓に橫たはるやうに。

 ああ、これが墓であつたなら。

             一八七九年六月

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 砂時計


Sunadokei

   砂時計

 

 日は次いで流れる。慌しく、變化なく、跡もなく。

 思へば怖しい生の流れの早さ。ひたすらに、聲もなく、瀧瀨にかかる川水のやう。

 生の點滴は坦(なだ)らに間(ま)を刻んで、死神が骨の手に持つ漏刻の、砂のやう。

 四圍(めぐり)に逼る夜闇のなか、私が寢床に橫はるとき、流れ去る生の微かなさやめきは、耳について離れない。

 私は生を惜しまぬ。また、殘僅かな業(わざ)の力も惜みはせぬ。ただ惱ましい。

 まざまざと私は見る。枕邊に凝然と動かぬものの影が、片手には砂時計を、殘る手は私の心臟に當てがふのを。……

 胸は鳴る、心臟は戰く。最後の鼓動を、急いで打たうとするやうに。

            一八七八年十二月

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 私が死んで

 

   私が死んで

 

 私が死んで、この身が灰と四散するとき、私の唯一人の友、いとしい君よ、御身にはなほ生が續かう。けれど、私の塚穴は訪れたまふな、そこは御身になんの關りもない。

 私の上を忘れたまふな。とは言へ、日々の營み、その哀樂のさなかには、私を思ひ出でたまふな。私は御身の生の障礙にならうと望まぬ。御身の安らかな生の流れを、搔亂さうとは思はぬ。

 もし御身の獨り居に、ふと故しらぬ悲哀が、優しい心のうちに湧いたなら、過ぎし日のわれら愛讀の書を手に取上げて、その日ごろ二人の眼頭に、言はず語らず同じ思ひの淚を染ませた、あの頁あの行、更にあの言葉の行方を探ねたまへ。

 讀み、眼(まなこ)閉ぢ、私の方(かた)へ手を伸べたまへ。姿ない御身の友に、手を伸べたまへ。

 私の手はもう、御身の手を握る力もなく、ぢつと塚穴に埋れてゐようが、そのとき御身の手のほとりに、流れ寄る微かな風がありはしまいか。それを思ヘば心は樂しい。

 そのとき、御身の前に私の形は立ち、淚は御身の閉ぢた瞼を越えよう。その日頃二人して美神の前に流したあの淚が。……私の唯一の友、いとしきに堪へぬ御身よ。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:第二段落の「あの頁」は底本では「あの夏」となっているが、「夏」では意味が挫かれてしまう。原文を見ると、ここはロシア語で「ページ」である。後の山省三郎及び一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳の「散文詩」の当該篇をもとに、誤植と断じ、特異的に訂した。

 本詩は、前にリンクさせた中山氏の訳本の「解説」で引いている、一八七九年冬、ツルゲーネフが故郷スパッスコエに戻った際、親交のあった若い女優マリヤ・ガヴリーロヴナ・サーヴィナ(当時六十一歳であったツルゲーネフの恋人であった)一人を書斎に呼んで、ある一つの詩を朗読したというエピソードを想起させる会話に現われるスタシュレーヴィチСтасюлевич Михаил МатвеевичM.M.Stasjulevichは、「散文詩」の発表を促し、自身が編集していた雑誌“Вестник Европы”(Vestnik Evropy:『ヨーロッパ報知』)に掲載させた人物である)。

   *

(前略)『これは散文詩です、私はもうこれをスタシュレーヰッチに送りました、ただ一つ永久に發表したくないものを除いて。』『散文詩つて何ですの?』とサヴィナは好奇心に駆られた。/『私はこれを讀んできかせたい、これはねもう散文なんかではないんですよ、……これはほんたうに詩で(彼女に)というふのです。』興奮した聲で彼はこの物哀しい詩を讀んだ(サヴィナは言つてゐる、『私は覺えてゐます。この詩にはそこはかとない愛情、一生涯の長い愛情をえがいてゐたことを。(あなたは私の花をすつかり摘みとり、あなたは私の墓には來ないでせう)と書いてありました。』)朗読が終わると、ツルゲーネフは暫く默りこんでゐた。『この詩はどうなるのでせう?』とサヴィナはいつた。『私は燒いてしまひませう、……發表するわけには行かない、さういふことをしたら非難されます。』(後略)

   *

中山氏は、この後に続く解説で、『サヴィナに對していつたやうに、發表すれば非難されるとの心づかひや何かのよつて永遠に消え去つたものもあるであらう。』と述べておられ、この「彼女に」という詩の消失の可能性を語っているようにも見えるのであるが、私はこのサーヴィナに詠んで聞かせた詩とは、この「私が死んで」であったのではないかと思っている。サーヴィナの以上の談話ノートの内容には後略した箇所でサーヴィナの大きな記憶違いが中山氏によって指摘されている(スパッスコエでの朗読エピソードは一八八一年に同定されるが、「散文詩」の原稿がスタシュレーヴィチの手に渡ったのは翌年一八八二年のことであり、サーヴィナがそのことを知るのはツルゲーネフとの談話では有り得ず、やはり解説中に記されている九月二十九日附書簡によってである)。更に中山氏はこのサーヴィナの談話ノートに対して、『「確かな話とはいひ難い」といはれる』という形容を附しておられるのである。そもそもサーヴィナの引用する「あなたは私の花をすつかり摘みとり、あなたは私の墓には來ないでせう」という詩句から「そこはかとない愛情、一生涯の長い愛情」は感じ取れるであろうか? 少なくともこれが、感動的な「そこはかとない愛情、一生涯の長い愛情」の詩を聴いて、その中でも長く印象に残る詩の一節だったとは、どうころんでも言い難いと私は思う。しかしここが「私が死んで、この身が灰と四散するとき、私の唯一人の友、いとしい君よ、御身にはなほ生が續かう。けれど、私の塚穴は訪れたまふな」であったとしたらどうであろう? いや、もしかすると「彼女に」とツルゲーネフが言ったこの表題は、「あなた、サヴィナに捧げる」という意味のツルゲーネフの示唆であったのかも知れぬし、サヴィナの思い込みによる記憶の変形が加えられたのかも知れぬ。いずれにせよ、私はこの幻の消失したと思われている詩「彼女に」こそ、この「私が死んで」であったのだと信じて疑わないのである。なお、本詩については、一九五八年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。

 

「私の上」私のこと。

「障礙」(しやうがい(しょうがい)は障碍・障害に同じい。]

2017/10/26

亡きアリス一歳の誕生日に妻が写す

Alicebirth1

アリスのちっちゃな遺骨帰る

只今、遺骨を受け取りました。12時間前に添い寝して握ってやった指の爪…………尾と歯…………

三女アリスが天に召されました――

一時間ほど前の12時8分――

三女のビーグル犬アリス(Ⅱ世)が逝きました――

12歳と二十六日でした――

一ヶ月程前より不調となり、性格が変容し、誰に対しても関心を示さなくなり、内臓面の精密検査によって、ホルモン促進剤等を投与したものの、好転せず、十月になると、深夜に複数回の夜啼きを始め、父も私も熟睡する暇がなくなりました。当初は認知症を疑いましたが、その後の昼夜の様態を観察し、それらを獣医とともに検討した結果、高い確率で――脳腫瘍――という結論に達しました。

抗癲癇剤等の投与も功を奏さず、血尿と食欲の激しい減衰が始まり、昨夜から今朝にかけて私がシュラフに入って添い寝をしましたが(大分以前から夜間は室内に入れていました)、午後十時半の発作は、一時間ほどで終わり、眠りに落ちましたが、午前二時半の発作が始まると、部屋の中をコンスタントなスピードで左旋回を開始し、寝かせようとしても、起き上がろうとして異様な遠吠えをしようとするので、回り疲れるのを待つしかないと、そのまま見ていると、実に午前四時半過ぎまで二時間以上、同一行動をとって、やっと寝つきました。そこで、私は「これは介護のレベルを越えている」と判断しました。

 
今朝、獣医との相談によって、安楽死を選択するのが、このアリスの事例の場合、ベストと決し、両杖の妻と一緒にアリスも自力で歩いて動物病院に行き、その場で安楽死の仕儀を受けました。
 
薬物注入から一分もしないうちに、速やかに天に召されました――
 
今――私の家の庭には亡き母テレジア聖子の丹精した白い可憐な美事なシュウメイギクが沢山咲いています――
 
……私には今、その母と一緒に、天界のシュウメイギクの園を気持ちよさそうに飛ぶように走っている(母は治療法のない筋萎縮性側索硬化症(ALS)で亡くなりました。病名宣告からたった一ヶ月後でした)母とアリスの姿が見えます――
 
Ⅱ世のアリスは、母が、右腕首を校務で粉砕してしまって意気消沈していた私のために、その母が飼った子でした……

 
「アリス! 幸せな時間を、ありがとう! ゆっくり――おやすみ!…………」
 

 

2017/10/25

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈


Isagomusi

いさごむし  射工 射影

       水弩 抱槍

       水狐 短狐

【音或】

       溪鬼蟲。含沙

フヲツ

本綱蜮出山林間長二三寸廣寸許形扁前濶後狹似蟬

狀腹軟背硬如鱉負甲黒色六七月甲下有翅能飛作鉍

鉍聲濶頭尖喙有二骨眼其頭目醜黒如狐如鬼喙頭有

尖角如爪長一二分有六足如蟹足二足有喙下大而一

爪四足有腹下小而岐爪或時雙屈前足抱拱其喙正如

橫弩上矢之狀冬則蟄於谷間所居之處大雪不積氣起

如蒸掘下一尺可得此物足角如弩以氣爲矢因水勢含

沙以射人影成病急不治則殺人是淫婦惑亂氣所生也

所中其毒者取鼓蟲一枚口中含之便愈已死亦活蟾蜍

鴛鴦能食射工鵞鴨辟射工故鵞飛則蜮沈

鬼彈

南中志云永昌郡有禁水惟十一二月可渡餘月則殺人

其氣有惡物作聲不見其形中人則青爛名曰鬼彈乃溪

毒之類

いさごむし  射工

       射影

       水弩〔(すいど)〕

       抱槍

       水狐

       短狐

【音、「或〔(コク)〕」。】

       溪鬼蟲

       含沙

フヲツ

「本綱」、蜮は山林の間に出づ。長さ、二、三寸、廣さ寸許り。形、扁く、前、濶〔(ひろ)〕く、後、狹く、蟬の狀〔(かたち)〕に似る。腹、軟にして、背、硬く、鱉〔(すつぽん)〕のごとし。甲を負ふ。黒色。六、七月、甲の下に翅〔(つば)〕さ有りて、能く飛びて、「鉍鉍〔(ひつひつ)〕」の聲を作〔(な)〕す。濶〔(ひろ)〕き頭、尖りたる喙〔(くちばし)〕、二つの骨眼、有り。其の頭・目、醜(みにく)く、黒くして、狐のごとく、鬼のごとく、喙の頭に、尖りたる角、有り、爪(つめ)のごとく、長さ、一、二分。六足、有りて、蟹の足ごとく、二つの足は喙の下に有りて、大にして一つ爪〔たり〕。四つの足は腹の下に有り、小にして岐ある爪〔たり〕。或る時には、前足を雙(なら)べ屈(かゞ)みて、其の喙を抱-拱(だ〔き〕かゝ)へて正に橫たはる弩の上に矢の狀のごとし。冬は則ち、谷の間に蟄(すごも)り、居〔(を)〕る所の處〔(ところ)〕に、大雪、積もらず。氣、起こること、蒸(む)すがごとし。掘り下すこと一尺にして得べし。此の物、足・角、弩のごとく、氣を以つて矢と爲し、水勢に因りて、沙を含み、以つて、人影を射て、病ひと成る。急〔(ただち)〕に治せざれば、則ち、人を殺す。是れ、淫婦惑亂の氣より生ずる所なり。其の毒に中〔(あ)〕てらる者、鼓蟲(まいまいむし)一枚を取りて、口中に之れを含めば、便ち、愈ゆ。已に死するも、亦、活す。蟾蜍〔(ひきがへる)〕・鴛鴦(をしどり)、能く射工を食ふ。鵞〔がてう〕・鴨〔(かも)〕、射工を辟〔(さ)〕く。故に、鵞、飛ぶときは、則ち、蜮、沈む。

鬼彈(きだん)

「南中志」晋の常璩(じょうきょ)撰。云はく、『永昌郡に、禁水、有り。惟だ十一、〔十〕二月に渡るべし。餘月は、則ち、人を殺す。其の氣、惡物〔(あくもつ)〕有り。聲を作(な)して其の形を見ず。人に中〔(あた)〕れば、則ち、青く爛(たゞ)る。名づけて「鬼彈」と曰〔(い)〕ふ。乃ち、溪毒の類ひ〔なり〕。』〔と〕。

[やぶちゃん注:大修館書店「廣漢和辭典」を引くと、「蜮」には『①いさごむし。想像上の動物。形は亀に似て三足。水中に住み』、『砂を含んで人に吹きかけ、害を与えるという。射工。射影』とする。以下、『②まどわす』・『③はくいむし。苗の葉を食う虫』・『④がま(蝦蟇)』・『⑤ふくろうの一種』などを主意とし、ネット上でも、水中に棲息していて人に危害を与えるとされる伝説上の怪物とするばかりであるが、私は姿が見えないこと、水中や蒸すような湿気の高い比較的高温の場所(本文)に住むとすること、その飛翔する虫の咬傷法は弓矢で射る(刺す)ことであること、刺された場合、治療しないと死に至るという点から、何らかの風土病、吸血性動物を中間宿主とする寄生虫症をずっと以前から疑ってきている。以前はツツガムシ病を深く疑っていたのであるが、悪化した病態が判然としないことや、何より、次の独立項の「沙虱(すなじらみ)」の方がそれに相応しいことなどから、ここではそれを比定候補としては出さない。但し、種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症、及び、日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものが、この「蜮に射られる」ことの正体なのではないかという思いは殆んど確信的に、ある。今回、幾つかのネット記載を見た中で、目が止まったのは、柳小明氏の「中国崑崙山の仙人(21) 蜮」である。ここに出る(但し、年齢五百歳の平先生という仙人の話というところが、かなり気になるのだが)「蜮」は明らかに回虫(或いは回虫そのもの。多量に寄生した場合は、本邦でも江戸時代に、「逆虫(さかむし)」と称して口から回虫を吐き出すケースがままあった)である。今少し、探索を続けたい。

「水弩〔(すいど)〕」「弩」は訓ずるならば、「おほゆみ(おおゆみ)」(大弓)で「弩」は横倒しにした弓(「翼」と称する)に弦を張り、木製の台座(「臂」或いは「身」と称する)の上に矢を置いて引き金(「懸刀」と称する)を引くことによって、矢や石などを発射する中国古来の武器である。「蜮」の身体形状(しかし、ですよ、人間には見えんはずやのに、何でこないに細かく多くの本草書に形状が書かれておるんか? ようわからんわ)が、ややこの弩(おおゆみ)の形に似ていること)「前足を雙(なら)べ屈(かゞ)みて、其の喙を抱-拱(だ〔き〕かゝ)へて正に橫たはる弩の上に矢の狀のごとし」)、及び、実際にその虫が毒気をその矢と紛う嘴(くちばし)から吹いて人を射ること、射られると放置しておくと死に至ることから、この別名を持つことが判る。

「鉍鉍〔(ひつひつ)〕」鳴き声のオノマトペイア。しかし、クドイが、姿が見えんのに、何で、「蜮」の声やて断定出来るん? わけわからん。

「骨眼」このような熟語は初見。一応、「こつがん」と読んでおくが、これは眼のように見える外骨格か、有意に盛り上がった目玉模様にクチクラ層(もしこれが節足動物であったとすれば、である)ではないでしょうか?

「一つ爪〔たり〕」突起状の単独の爪のような体節であることを言う。

「岐ある爪〔たり〕」まさに蟹の鉗脚のようであることを言う。

「大雪、積もらず」本虫が湿熱を持つことを意味している。

「淫婦惑亂の氣より生ずる所なり」何をかいわんや、である。化生説ならまだ許せるが、これは、ちょっと阿呆臭くて、全く、いただけないね。

「鼓蟲(まいまいむし)」カタツムリ。

「鵞〔がてう〕」東洋文庫は『とうがん』とルビするが、「トウガン」なる鳥の和名を私は知らない。識者の御教授を乞う。

「射工を辟〔(さ)〕く」この場合は「故に、鵞、飛ぶときは、則ち、蜮、沈む」とあるから、射工(蜮)が鵞鳥や鴨を嫌って避けるの意。

「鬼彈(きだん)」「捜神記」の「巻十二」に載る。前に「蜮」の記事も載るので、一緒に引く。

   *

漢光武中平中【註 中平當爲中元、因光武無中平年號。或光武爲靈帝之誤。】、有物處於江水、其名曰「蜮」、一曰「短狐」。能含沙射人。所中者、則身體筋急、頭痛、發熱。劇者至死。江人以術方抑之、則得沙石於肉中。詩所謂「爲鬼、爲蜮」、則不可測也。今俗謂之「溪毒」。先儒以爲男女同川而浴、淫女、爲主亂氣所生也。

漢、永昌郡不韋縣、有禁水。水有毒氣、唯十一月、十二月差可渡涉、自正月至十月不可渡。渡輒病殺人、其氣中有惡物、不見其形、其似有聲。如有所投擊内中木、則折。中人、則害。士俗號爲「鬼彈」。故郡有罪人、徙之禁防、不過十日、皆死。

   *

「南中志」三五五年に東晋の常璩(じょうきょ)によって編纂された華陽(巴・蜀・漢中)の地誌「華陽国志」の中の巻四。

「永昌郡」雲南省西部。この中央付近か(グーグル・マップ・データ)。

「禁水」この鬼弾の害があるために、以下の二ヶ月を除いて、水に入ることが禁じられていたと採る。

「十一、〔十〕二月」原典は「十一-二月」とする。東洋文庫の訳に従っ後半を十二月と採った。

「青く爛(たゞ)る」症状であるが、これでは如何ともし難い。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) われ行きぬ


Watasihatakaiyama

   われ行きぬ

 

 われ行きぬ高嶺のあひを

 谿のみち淸きながれを……

 まながひに見ゆるものみな

 ささやくはただ一つこと

 人ありてこの身を戀ふと

 そのほかはなべて忘れぬ

 

 靑ぞらはかがやき滿ちて

 葉のそよぎ小鳥のうたや

 ゆきかひのしげきわた雲

 ながれては行方しらじら……

 澤(さは)なれやここのさひはひ

 さはれうれなに羨まむ

 

 わだつみの波もさながら

 身は搖るる波のひろびろ

 哀樂をとほく離(さ)かれる

 しづもりに胸もはろばろ……

 いつしかはわれ忘られて

 おもへらくこの世の王(きみ)と

 

 などとくに命たえせぬ

 などふたり生(せい)をつなげる……

 年かはり星にうつれど

 あだめけるかの佳きときに

 いやまさる幸(さち)もひかりも

 消(け)ぬ雲と絶えてあるなく

 

            一八七八年十一月

 

[やぶちゃん注:全体が一字下げであること、最後のクレジットの前が一行空いていることは底本のママである。文語定型詩としては美しいが、訳として達意であるかどうかは、やや疑問が残る。以下に、中山省三郎達意を掲げておく。

   *

 

  私は高い山々の間を行くのであつた

 

 私は高い山々の間を、淸らかな河のほとりを

 谷から谷へと行くのであつた……

 瞳に映るありとあらゆるものは、

 ただひとつのことを私に語る。

 自分は愛されてゐた、愛されてゐた、この私は!

 私はほかのことを忘れはててゐた!

 

 空は高く光り、

 葉はそよぎ、鳥は歌ふ……

 雲は嬉々としていづくともなしに

 つぎつぎに飛びわたり……

 あたりのものは何もかもめぐみにあふれ、

 しかも心はめぐみに不自由はしなかつたのだ。

 

 波ははこぶ、私をはこぶ、

 海の波のやうに寄せてくる波!

 こころにはただ靜寂があつた、

 喜びや悲しみを越えて……

 やうやくにして心に思ふ、

 この世はみな私のものであつた! と。

 

 かかる時に私はどうして死ななかつたのか、

 さうしてふたり何ゆゑに生きて來たのか、

 歳月(としつき)は遠くうつる、……うつろふ月日(つきひ)

 さうしてあの愚かしくめぐまれた日にもまして、

 何ひとつとして甘美(うるは)しく明るい日を

 與へてはくれなかつたのだ!

 

   *]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 或るひとに


Tubame

   或るひとに

 

 かたき岩根に巣をうがつ するどき嘴(はし)の山つばめ 囀聲(さへづり)たかきつばくろめ きみは燕にあらねども

 他人(ひと)つ住處(すみか)のつめたさを 深くも堪へて住みなれし はた住みなせる 君の聰(さと)さは

 一八七八年七月

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 「おお、わが靑春…」


Aawagaseisyun

   「おお、わが靑春…」

 

 おお、わが靑春、潑剌の氣よ。――曾てもかう叫んだものだ。その頃はまだ若くて、潑剌としてゐた。

 あの頃はただ、悲哀が弄びたかつただけなのだ。人前には歎き、内心には樂しまうとしたのだ。

 いま、私は何も言はない。聲立てて、過ぎた日を惜み歎かぬ。哀惜がじりじりと蝕む今となつては。……

 「ええ、思はぬが增しだ」――百姓は巧いことを言ふ。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『おお、わが靑春、潑剌の氣よ』 ここまでが原題となつてゐる。これは多分ゴーゴリの『死せる魂』第一部第六章第二段落の終句を轉用されたものとされてゐる。尤も用語は稍〻異る。

   *

但し、この註では、自身の訳の引用である「潑剌の氣よ」の部分が「潔潑剌の氣よ」となっている。特異的に誤植と断じて、「潔」の字を除去して示した。なお、私は「死せる魂」を読んだことがないので、これ以上の注を附す資格がない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 作家と批評家


Sakkahihyouka

   作家と批評家

 

 作家が仕事机に向つてゐると、不意に批評家がはいつて來た。

 「おやおや」と彼が叫ぶ。「まだ君は、性懲りもなく書いてるね。あれほど僕が遣つつけたのに。堂々たる大論文をはじめ、寸評、寄書にも筆を酸くて、君にはてんで才能のないこと、いや、曾てまだ才能のきれ端さへあつた例しのないこと、昭々として恰も二二が四なるが如しと斷じて置いたのに。そのうえ君は母國の言葉は忘れるし、これ迄も無知を以て鳴る君が、今では全く摩り切れて、襤褸布も同じことだ。」

 作家は靜かに批評家に答へた。

 「なるほど君は」と彼が言ふ、「論文雜文を問はず、さんざ僕を扱き下して呉れたね。だが君は、狐と猫の話を知つてるかね。狐は惡智慧があり餘る癖に、たうとうに係蹄(わな)に陷(はま)つた。猫は樹に登るより外に能は無かつたが、流石の犬も手が出せなかつた。僕も同じさ。君の論文に報いるため、僕はある本に君の全身像を描いて置いた。賢明な君の頭には、道化の帽子を被せて置いたよ。まあそれでも被つて、せいぜい後世に威張りたまへ。」

 「後世にだつて?」と、批評家は笑ひ出した、「君の書いたものが、後生に殘るとでも言ふのかね。四十年、長くて五十年もすれば、誰一人見向きもしまい。」

 「僕もさう思ふ」と、作家は答へた、「それで結構さ。ホメロスはテルシーテスの名を不朽に留めてやつたが、君たちなんかは半世紀でも勿體ないくらゐだ。君なんかは、道化としてさへ、不朽に留める値打はないのさ。ぢや左樣なら、なにがし君。それとも君は、本名で呼んで貰ひたいかね。まあ止して置かう。僕が呼ぶまでもなく、皆がたんと呼んで呉れようよ。」

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

テルシテス 『イーリアス』の一人物(第二歌二一二行以下)眇眼のうへに跛者で、トロイ遠征の希臘軍中隨一の卑劣漢である。のちアキレスの鐡腕の一擊に仆されたとも傳へられる。

   *

確証はないが、前の蟲」と一緒に「散文詩(セリニア)」の初版刊行前に除去されていること、「長蟲」のクレジットが『一八七八年五月』と直近であることから、この批評家はまさに「長蟲」に臭わされたロシアの右派文芸評論家であったボレスラフ・マルケビッチを念頭に置いているものかとも思われる。

「寄書」投稿記事であろう。

「狐と猫の話」ソップ童話集の「猫と狐であろう(リンク先はウィキソース)。但し、そこでは狐は罠にかかるのではなく、猟師の猟犬に咬み殺されることになっている。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 長蟲


Hatyu

   長蟲

 

 長蟲の兩斷されたのを見た。自ら漏らす血膿と粘液に塗(まみ)れて身をのた打ち、引攣るやうに鎌首をもたげて舌を吐く。未だに脅喝を歇めないが、それにもう力は無かつた。

 また、侮蔑にいきり立つ駄作家の雜文を讀んだ。

 己れの吐散す唾に咽せかえり、自分の漏らす毒膿に塗れて、やはり輾轉とのた打ち𢌞つた。稍〻もすれば、請ふ決鬪の庭に相見えよう、白刄の下に恥を雪がうと口走つてゐた。――ありもせぬ恥を。

 私は思い出した。兩斷された長蟲が汚辱の舌を吐くさまを。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版の注には以下のようにある。

   《引用開始》

長虫 この一軍編は、当時の反動的ジャーナリストであるマルケーヴィチ B. Markevichを諷している。彼のことは『処女地』にも触れてある。

   《引用終了》

「マルケーヴィチ」はロシアの作家・文芸評論家でジャーナリストであったボレスラフ・マルケビッチ Болеслав Михайлович Маркевич(一八二二年~一八八四年:ラテン文字転写:Boleslav Mikhailovich Markevich)。英語版ウィキの彼の記載を見られたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 處世訓


Syosei

   處世訓

 

 平安を願ふなら、人と交るとも孤(ひと)りで生きよ。何事も圖らず、何物も惜しむな。

 幸福を願ふなら、まづ苦しむ術を學べ。

             一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 咎


Darenotumi

   

 

 少女は蒼ざめた優しい手を、私にさし伸べた。私は邪慳に拂ひのけた。愛らしい娘の顏は當惑さうに曇つた。淸らかな眼が、責めるやうに私を見あげる。純な少女心には、私の氣持が汲みとれないのだ。

 「私、何か惡いことでもして?」と、その唇はささやく。

 「おまへが惡いことを? そのくらゐなら、光り輝く空の首天使も、とつくに咎を受けて居やう。

 「とはいへおまへの咎は、私にとつて小さくはないのだ。

 「おまへの咎の重さは、とてもおまへに分りはしまいし、私も今さら説きあかす氣力はない。それでもおまへは知りたいのか。

 「では言はう。――おまへの靑春、私の老年。」

 

[やぶちゃん注:神西訳の中でも私の好きな一篇。原題は“ЧЬЯ ВИНА?”で「誰が悪い?」。「少女心」は是非とも「をとめごころ(おとめごころ)」と読みたい。しかし、すると、前の「少女」も「をとめ」と読まねばおかしくなるが、ルビはない。読者は十中八九、冒頭を「せいぢよ(しょうじょ)」で読むであろう。それでよいし、神西がルビしなかったのもそう読ませるつもりだからであろう。「少女」「娘」その「少女心」そして直接話法での「お前」(これは無意識の「咎」を持ったその子娘への呼びかけとして選ばれた二人称である。因みに、中山省三郎譯では「あんた」であるが、これはこれで男の表面上の「邪慳」さを引き立てる効果はある。なお、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」で池田氏はここを『いたいけな清らな心』と改訳しておられる。これは原詩には忠実な訳(原文は“чистая душа”で、「純粋な魂」「純潔な心」「けがれなき一途な心」の意)はある)と多様に変えているのは神西の確信犯と読む。さすれば、ここのみを「をとめごころ(おとめごころ)」と読んだとて、何の不都合もないと私は考えるのである。

 本詩には末尾の年月のクレジットがない。次の「処生訓」と同時に書かれた(とすれば一九七八年四月)可能性があるが、そのような場合でもほかでは同じクレジットを附しているので不審。もし、これが一八七九年以降のものとすれば、六十を越えていたツルゲーネフのロシアでの恋人、若き女優マリヤ・ガヴリーロヴナ・サーヴィナであった可能性が高い。恋多きツルゲーネフを考えると、クレジットの消去はそれを隠すためでもあったかも知れない。この公刊されたツルゲーネフの散文詩集(但し、実はこの詩は以下の表題の出版にあっては除外された。だから「散文詩拾遺」に含まれているのであるが)の最初の題名は“SENILIA”――「老いらく」――なのである。

「光り輝く空の首天使」相当原文と思われる箇所は“Самый светлый ангел в самой лучезарной глубине небес скорее”で、「至上の光輝を放つ天国の、最も光り輝く天使」の意と思われるから、熾天使セラフィエルあたりをイメージしているか。東方正教会では最上級の天の御使いとして八大天使を採り、ミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエルの四大天使(ウリエルについては別説もある)にセラフィエル・イェグディエル・バラキエル・イェレミエル(ウリエルと同体とされることもある)を加える。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 杯


Sakazuki

   

 

 可笑しなことだ。私は自らにおどろく。

 私の悲哀は佯りではない。私は心(しん)そこから生(いのち)がにがく、胸は悲哀とざされてゐる。しかも私は、情感をつとめて燦らかに裝ふ。形象や比喩を探ねもとめる。句を雕琢し、言葉のひびきと調和とに浮身をやつす。

 私は彫物師、また彫金師。一心にかたどり、鏤(ゑ)り、刻み、さて彫りあがつた黃金の杯に、みづからあふる毒を盛る。

 

[やぶちゃん注:「杯」「さかづき(さかずき)」と訓じておく。一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」(その中の本篇は神西氏の訳をもとに池田氏が改訳したもの。同詩集は総て現代仮名遣)では「さかずき」となっている。

「佯り」「いつはり」。偽り。

「燦らかに」「あきらか」と訓じておく。「 明るくあざやかに・美しく輝くように」の意。

「探ね」「たづね」。

「雕琢」「てうたく(ちょうたく)」と読み、原義は「玉石を彫刻して磨くこと」で、転じて詩文の語句を選んで美しく創り上げるの意。

「鏤(ゑ)り」「鏤」(音「ル」)原義は「金銀・宝石などを一面に散らすように嵌め込むこと」で、転じて、「文章の各所に美しい言葉や表現などを交えて飾ること」を指す。その動詞形。なお、「鏤」は「ちりばめる」と訓ずることもある。

「あふる」「呷(あふ)る」。現代仮名遣で「あおる」で、もともとは「煽(あふ(あお))る」と同源で「酒や毒などを一気に飲む」「仰向いてぐいぐいと飲む」の意。]

2017/10/24

老媼茶話巻之四 強八斬兩蛇

 

     強八斬兩蛇

 

 信濃國住人、安部井強八(がうはち)といふ大力の人、有(あり)。

 或時、天龍の川すそを馬にて渡りける時、山岸の片崩成(かたくずれな)所に大渕(おほぶち)有。水色、あいのごとく、底のかぎりを知らず。きしに、大木、倒れふし、いと深々たる大渕也。

 かゝる所に壱の大猪(おほゐのしし)、山より一文字にかけ來り、かの渕へ飛(とび)ひたり、向(むかひ)のきしへおよぎ行(ゆく)所に、水底(みなそこ)より、さもしたゝか成(なる)大蛇、頭(かしら)を差出(さしいだ)し、猪のしゝを引(ひつ)くわへ、何の苦もなく、水中へ沈入(しづみいり)、骨をかむ音、水にひゞく。

 強八、元來、水れんの上手也しかば、片はらの松の木に馬をつなぎ、衣裳をぬぎすて、裸になり、刀を拔持(ぬきもち)、水をくゞり、水底を能(よく)見るに、大き成る岩穴、有り。

 大蛇、其内にうづくまり、猪のしゝ、喰(くらひ)終り、たぐろをまき、有けるが、強八を見て、首を上げ、目を見はり、口をひらき、ひれを動(うごか)し、呑(のま)んとす。

 強八、刀を以て大蛇の咽(のんど)に突入(つきいり)、橫ざまに、刀にまかせ、かきはらひ、又、立(たて)ざまに切(きり)ひらく。

 さしもの大蛇、急所の痛手に、よはり、岩穴に倒死(たふれし)す。

 強八、水中より上り、宿へ歸り、下人數多(あまた)に、大綱を持(もた)せ行(ゆき)、件(くだん)の死蛇(しじや)の首をくゝり、綱の先を數拾人にてとらへ、

「ゑいやゑいや。」

と聲を上げ、漸々(やうやう)おかへ引上(ひきあぐ)るに、拾間斗(ばかり)の大蛇也。

 見聞の諸人、強八武勇を感じける。

 其後、強八、三年を經て、春、戸隱明神へ詣(まうで)て、件の川下を馬にて渡しけるに、靑々(せいせい)たる空、俄(にはか)にかきくもり、一面に墨をすりたるがごとく、眞闇になり、大雨、しやぢくを流し、大風、頻りに吹(ふき)て、稻光り、隙(ひま)なくして、水面を引(ひつ)つゝみ、一村(ひとむら)の黑雲、戸隱山の腰より浮出(うきいで)、矢より早く、強八を目にかけ、追來(おひきた)る。

 強八、見て、

「扨は、先年殺しける大蛇のしゆうの内ならん。遁(のがれ)ぬ所也。」

と思ひ定め、馬を川中へ立(たて)、刀に手を懸(かけ)、待居(まちゐ)たりけるに、拾丈斗(ばかり)の黑雲、強八が上へ押懸(おしかか)り、黑雲の内より大蛇、頭を差出し、口をひらき、惡氣を吐(はき)かけて、廿間斗(ばかり)に立(たち)あがり、一文字に強八が上に倒れかゝり、強八を、馬、人、共(とも)にさらい、虛空はるかに、東の山際へ、たなびき行(ゆく)。

 供人共、手にあせを握るといへども、如何ともすべき樣もなく、あきれて、そらを見る所に、雲井に聲ありて、

「阿部井強八、只今、大蛇をしたがへ、最後を見よ。」

とよばはるとひとしく、黑雲、頻にうづ卷(まき)、稻光、散亂して、強八を馬ともに散々に喰(くひ)ちぎり、首もむくろも別々なり。

 馬、人、共(とも)に地に落(おち)たり。

 猶も黑雲、たなびきて、次第次第に上るとぞ見へし。

 黑雲、四方に、

「はつ。」

と、ちり、雲間より弐拾間ばかりの大蛇、雲をはなれ、大地をひゞかして、

「どう。」

と落(おち)、のたを返して苦(くるし)み、大木を卷倒(まきたふ)し、石を飛(とば)し、黑けぶりを立て、四方、くらやみになして、くるいけるが、終(つゐ)にくるひ死(じに)に、しゝたり。

 皆々、集り是を見るに、頭、獅々(しし)のごとく、面(おもて)、しがみ、つぶりに、毛、生(おひ)しげり、眼は鏡のごとく、口、耳元へさけのぼり、きば、かみ出(いだ)し、死(しし)たる有樣、身の毛よだつ斗(ばかり)也。

 強八が右の腕、かた骨よりかみ切られながら、大蛇の首元へ、七刀、突通(つきとほ)し、にぎりこぶし、其儘、大蛇の耳元に殘りける。

「いにしへの田原藤太といふとも、是程には、よも、あらじ。」

と、諸人、かたりつたへしとなり。

 

[やぶちゃん注:「強八斬兩蛇」「強八、兩蛇(りやうだ)を斬る」。

「安部井強八」不詳。

といふ大力の人、有(あり)。

「大渕」「渕」は底本のそれを用いた。

「あいのごとく」「藍の如く」。

「飛(とび)ひたり」「飛び浸り」。

「したゝか成(なる)」異様に頑丈で手強そうな。如何にも体格ががっしりして強そうな。

「水れん」「水練」。

「たぐろ」「蜷局(とぐろ)」の誤記か?

「ひれ」この場合、描写順序と蛇の体勢から見て、舌の叉に切れた先のことを「鰭」と言っていると私は採る。但し、後半の死闘の中で「大蛇の耳元」とあるから、或いはそれを「鰭」と言っているのかも知れぬ。

「かきはらひ」「缺(か)き拂ひ」。払って斬り破り。

「立(たて)ざま」「縱樣」。

「拾間」十八メートル十八センチ。こりゃ、蟒蛇(うわばみ)の類い。

「しやぢく」「車軸」。

「隙(ひま)なくして」あっと言う間に。

「引(ひつ)つゝみ」ひっ包んで。

「一村(ひとむら)」「一叢」。

「しゆう」「雌雄」

「馬を川中へ立(たて)」騎乗のままで馬を川の中に両足でしっかと立たせて。

「拾丈」三十メートル三十センチ。生物学的にではなく、取り敢えず、妖獣として、先年殺したのが雌で、こちらはその夫であったと採っておく。

「廿間」三十六メートル三十六センチ。

「大蛇をしたがへ、最後を見よ。」「大蛇諸共に相打ちせんとす、その最期を見よ!」。

「のたを返して」のたうちまわって。

「くるいけるが」ママ。「狂ひけるが」。

「しゝたり」「死したり」。

「獅々(しし)」「獅子」。

「しがみ」底本は「しかみ」。「嚙(しが)む」と採った。苦しみのために、上下の歯を乱食いの如くに強く噛みしめ。

「つぶり」「頭(つぶり)」。

に、毛、生(おひ)しげり、眼は鏡のごとく、口、耳元へさけのぼり、きば、かみ出(いだ)し、死(しし)たる有樣、身の毛よだつ斗(ばかり)也。

「かた骨」「肩骨」。]

老媼茶話巻之四 大龜の怪

 

     大龜の怪

 

 結城宰相秀康公は御仁德の御大將にてましましける。其御子一伯忠直公は士民御哀みもなく、其御生れ、強勇血氣にして、御普代相傳の忠士といへども、少(すこし)にても御心に背き申(まうす)事あれば、御手打になされ、殊更、醉後亂狂にして、皆人(みなひと)、うとみ果(はて)たり。

 或時、「大むく」「小むく」と云(いふ)御愛妾を達御船遊びあり。御酒宴、長じて、甚御不機嫌にならせられ、御近習を始(はじめ)、御供の皆々、かたづを呑む。七に御なりなさるゝ鶴松樣と云(いふ)御愛子、一伯樣の御ひざ元におはしける。これは小むくがはらの若君なり。忠直公、手づから、御前のくわし、御取(おんとり)、鶴松君へ遣(つかは)せられ、

「いかに、鶴松。父や、かはゆき、母や、かはゆき。早くいふべし。」

と被仰(おほせらる)。

 鶴松君、御父上の御不きげんに御渡りなされしを、幼(イトケナ)き御心に御笑止にや思召(おぼしめし)けん、淚ぐみ、顏を赤く、暫く御挨拶なく、母の顏を御覽ぜられ、

「いかゞ被仰(おほせられ)よかるべき。」

と思召ける御氣色にて、泣(なき)顏に成(なり)おはしましける。

一伯、重(かさね)て、

「いかに答(こたへ)はせざる。」

と仰(おほせ)ける。

「父上こそ御いとおしく候。」

と漸(やうやう)被仰けるを、一伯、聞召(きこしめし)、

「おのれ、侍の大將軍共(とも)ならんもの、母の口元をまふり窺(うかがひ)、へつらいたる有樣(ありさま)、とても用には立(たつ)まじ。」

とて、壱尺五寸、切刃兼常の御脇差を拔(ぬき)、鶴松君樣の御脇つぼを、蛙を串にさしたる樣に、つば元迄、差通し、高く差上、大盃に酒を請(こひ)、呑(のみ)ほし給ふとひとしく、御脇差と共に鶴松樣を、はるかの海上へ、抛(なげ)すて玉へり。

 又、ある日、鷹がりに御出の節、御祕藏の御鷹、それて、ちどり山のふもと、「まんさいが沼」といふ大沼の向ひの岩ほに羽を休め居たり。

 鷹匠、急ぎ、沼へ入(いり)、水をおよぎ、半町斗(ばかり)およぎ出(いで)ける折、水(みな)そこより、馬の頭のごとくにて、眼光り渡り、眞黑なるもの、首を差出(さしいだ)し、鷹匠を横樣(よこざま)に引(ひき)くわへ、沼底へ引入(ひきいれ)ける。忠直、御覽被成(なられ)、御衣裳をぬぎ捨(すて)、丸はだかに成(なり)、「龍の髭」といふ三條の小鍛冶が打(うち)し九寸五分の小脇指を御下帶へ御(おん)さし、ぬき手を切(きり)、水の面半町餘りおよぎ出(いだ)し、水を分行(わくゆき)、底へ沈(しづみ)玉へり。

 御供の面々、水を知るも知らざるも、あわてゝ、皆々、裸になり、水へ入らんとする折、忠直、水底をくゞり、こなたの岸へあがらせ玉ふとひとしく、水面(みなも)、あけの血染(ちぞめ)になる。

 忠直、仰られけるは、

「水底をあまねくさがし見るに、いづくにも、あやしき事なし。但(ただし)、大きなるほら穴有(あり)。是(これ)へくゞり入(いり)、内を見るに、なましき死骸、かれたるほね有。其外何にも不思義成(ある)事なし。ほら穴より出(いで)んとするに、表てより扉の樣なるものにて、ほら口をふさぐ。おせども、すこしも動かず。なでゝ見るに、人はだなり。不思義におもひ、脇さしを拔(ぬき)、差通し、くりぬき、其穴より拔出(ぬけいで)たり。人を入(いれ)、さがし見よ。」

とのたまふ、御こと葉の下より、壱間(けん)斗(ばかり)の大龜、腹を甲ともにくりぬかれ、あをのけに成り、死(しし)て水面へ、うかみ出(いで)たり。

 かゝる血氣猛勇の御大將にておはしましける。

 劍術は小山田多門を師として新天流を御習被成(ならひなさ)るゝ。新天流極祕の太刀に、「雲あし萬字劍」といふ太刀有(あり)。是は多門に天狗の傳へたる太刀也といへり。一伯樣劍、上段、御得手物(おんえてもの)也。御力量強く御渡り候うへ、兵法(ひやうはう)の御相手を仕る者、上段受(うけ)はづせば、頭、みぢんに打碎(うちくだ)かれ、死す。

 御酒宴の上、御酒狂おこり、御心あらく御(おん)なり、とがもなき御近習の者、大けさに打放(うちはな)し、其(その)生ぎもを手づから拔取(ぬきとり)、大皿鉢入(いれ)、其(その)きものおどり動き、皿鉢のゆるぐを御覽せられ、御機嫌、直(なほ)る也。

 如此(かくのごとき)なれば、士民、腹(ふく)せずして、國中、悉く亂れ、御家代々忠功の侍共、國、引(ひき)はらひ、他國へ立退(たちの)ければ、

「忠直の御行末、いかゞあるべき。」

と、諸人、大きにあやしみおもひけると云(いへ)り。

 果して、元和九年五月、豐後國へ移され給ひ、津森の浦にて日根野(ひねの)織部正(をりべのしやう)高吉(たかよし)に預けられさせ給ひしとかや。

 結城中納言秀康公の御嫡男忠直公、幼名長吉丸。越前國福井の城主六拾七萬石。參議從三位宰相兼(けん)三河守忠直公。大猛勇の御大將にて、元和元年、大坂にて西の大手の一番乘(のり)をし玉ひ、大坂方隨一の軍將眞田左衞門尉幸村・御宿(みしゆく)越前守長則を始(はじめ)、首三千七百三級を打取(うちとり)玉ふ。大御所樣にも忠直公を「日本樊噲(はんくわい)」と被仰(おほせられ)しと也。寛永元年五月二日、豐後國萩原へ配流、御剃髮有(あり)て一伯と申(まうし)ける。其後、津森といふ所へ御移(おんうつり)、日根野織部正、警固、牧野傳藏、御目付なり。配所にまします事弐拾五年、慶安三年九月十日、津森にて御逝去。時に御年五拾六【法名、西岸院殿相譽蓮友大居士。】。

 

[やぶちゃん注:これは大亀が怪なのではなく、狂気のサディスト結城忠直こそが厭うべき忌まわしき真怪そのものである。

「結城宰相秀康」(天正二(一五七四)年~慶長一二(一六〇七)年)江戸初期の大名。越前北ノ庄(越前福井)藩(現在の福井県嶺北(福井県木ノ芽峠以北の呼称)中心部を領有した)初代藩主。徳川家康次男。母は側室「お万の方」。天正 一二(一五八四)年の「小牧・長久手の戦い」の講和に際し、豊臣秀吉の養子となり、さらに同 十九年には下総の名族結城晴朝(はるとも)の養子となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」に際しては、結城に留まって上杉景勝の西上を防いだ。その後、越前国と信濃・若狭の一部を合せて六十七万石を領し、越前北庄を居城とした。

「一伯忠直」結城秀康の長男で徳川家光や徳川光圀などの従兄に当たる、越前福井藩第二代藩主松平忠直(文禄四(一五九五)年~慶安三(一六五〇)年)。彼には「西巖院殿前越前太守源三位相公相譽蓮友大居士」と「西巖院殿相譽蓮友一伯大居士」(本文最後の割注のそれは「一伯」を省略している。因みに以下のウィキではここを『一泊』とするが、採らない)の二つの戒名(法名)があり、ここに出る「一伯」は後者のそれを採ったもの。ウィキの「松平忠によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『慶長八年(一六〇三年)、江戸参勤のおりに江戸幕府二代将軍・徳川秀忠に初対面。秀忠は大いに気に入り三河守と呼んで自らの脇に置いたという。慶長十二年(一六〇七年)、父・秀康の死に伴って越前七十五万石を相続し、慶長十六年(一六一一年)には秀忠の娘・勝姫を正室に迎える。元服の際には秀忠より偏諱を授かり忠直と名乗る』。『慶長十七年(一六一二年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者より』、『これを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌慶長十八年(一六一三年)六月、家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直が、まだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(越前騒動)』。『慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。元和七年(一六二一年)、病を理由に江戸への参勤を怠り、また』、『翌元和八年(一六二二年)には』正室『勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった』。『元和九年(一六二三年)、将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。五月十二日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。府内藩では領内の五千石を与えられ、初め海沿いの萩原に住まい、三年後に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという』(下線やぶちゃん)。享年五十六歳。

「大むく」「小むく」ともに不詳。

「御酒宴」原典は「御酒妾」。底本の訂正注に従った。

「鶴松」不詳。なお、忠直の次女(母は勝姫)に鶴姫がおり、彼女は長じて九条道房の正室となっている。

「くわし」「菓子」。

「御取(おんとり)」推定訓。

「まふり」「守り」。

「壱尺五寸」四十五・四五センチメートル。

「切刃」刀剣の刃の形の一つで、刃方の肉を表裏とも急な角度で落としたものを狭義には指すが、ここは単に「よく切れる刃」の意であろう。

「兼常」関兼常。鎌倉時代に大和国から移住してきた鍛冶七派の一つ。その時代に栄え、その時代に作られた小刀については中国の書に誉める記事が載るほどであったという。

「脇つぼ」脇の下の窪んだ所。腋窩(えきか)。

「ちどり山」不詳。

「まんさいが沼」不詳。

「半町」五十四メートル半。

「三條の小鍛冶」平安時代の刀工三条宗近(むねちか)。呼称は山城国京の三条に住んでいたことに由来する。ウィキの「三条宗近」によれば、古来、一条天皇の治世の永延(九八七年から九八九年まで)頃の刀工と伝えられ、『日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが』、現存する作刀にはこの頃の『年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われて』おり、『実年代については、資料によって』十~十一世紀とするものや十二世紀などとするなど、『幅がある』。『現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』とある。

「九寸五分」刃の部分の長さが約二十九センチメートルの短刀。「鎧通 し」とも呼ぶ。

「人はだ」「人肌」。人の肌のようであるというより、寧ろ、人の肌のような微かな温もりがあるという意味で私は採る。

「御こと葉の下より」お言葉の通り。

「壱間(けん)」一メートル八十二センチメートル弱。

「小山田多門」越前松平家家臣(後に会津松平家家臣・米沢藩主上杉家家臣)小山田多門家の始祖か。

「新天流」斎藤伝鬼房(天文一九(一五五〇)年~天正一五(一五八七)年)が開いた武術流派天流(てんりゅう)から分派した一流。

「雲あし萬字劍」不詳。

「上段」上段の構え。

「得手物(おんえてもの)」得意。

「あらく」「荒く」。

「とがもなき」「咎も無き」。

「津森の浦」不詳。先のウィキの引用には「津守」とあるが、引用自体に『内陸』とあるように、現行のこの一(グーグル・マップ・データ)は「浦」を有した海浜ではない。

「日根野織部正高吉」信濃諏訪藩(高島藩)の初代藩主日根野高吉(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)であるが、高吉の生没年から見て、完全におかしく、これは先のウィキの引用にある通り、高吉の長男で豊後府内藩主日根野吉明(よしあき 天正一五(一五八七)年~明暦二(一六五六)年)の誤り。

「越前國福井の城主六拾七萬石」誤り。五十二万五千石。

「參議從三位宰相兼(けん)三河守忠」誤り。越前守。

「元和元年」正しくは慶長二十年。同年七月十三日に元和元年に改元で、「大坂夏の陣」の戦闘はその前、五月八日の大坂城落城で終わっている。

「樊噲(はんくわい)」(はんかい ?~紀元前一八九年)は漢初の武将。諡(おくりな)は武侯。従がった劉邦(後の漢の高祖)と同じ沛(はい:江蘇省)の出身で、元は犬の屠畜業を生業(なりわい)としていた。「鴻門之会」に於いて項羽により窮地に立たされた劉邦を救ったことは漢文の授業でよく知られる。漢の天下統一後も軍功を立て、舞陽侯に封ぜられた。

「寛永元年五月二日」誤り。先の引用に見る通り、元和九(一六二三)年である。寛永への改元は翌元和一〇(一六二四)年二月三十日である。

「豐後國萩原」大分県大分市萩原。 (グーグル・マップ・データ)。先に示した後の移転先の津守(本文の「津森」)の東北。現在は埋め立てによって内陸となっているが、元は海浜地区であるから、三坂はその辺りを、混同してしまっているものと思われる。

「牧野傳藏」近世の大名を輩出した三河牧野氏の一系統である今橋牧野家の系統の人物と思われる。この家系は「田蔵系」と称され、田三・田蔵・伝蔵の通称を持つ者が多い。

「御目付」幕府職のそれは若年寄に属し、旗本・御家人の監察などに当たった。また、諸藩にも置かれた。ここは後者であろう。

「配所にまします事弐拾五年」誤り。数えで二十八年、実年数でも二十七年である。

「西岸院殿相譽蓮友大居士」前の「一伯忠直」の注を参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 塒なく


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   塒なく

 

 何處へ逃れよう。何をしよう。淋しい小鳥のやうに、この身には塒もない。

 小鳥は逆羽を立てて、枯枝にとまつてゐる。このまま居るのは堪らない。しかし、何處へ飛ばう。

 いま小鳥は翼をととのへ、兀鷹に追はれる小鳩さながら、遙か矢のやうに翔り去る。何處かに、靑々した隱れ家はないものか。よし假の宿りにせよ、何處かに小さな巣を營むことはできまいか。

 小鳥は翔る。翔りながら、一心に下界を見つめる。

 眼の下は一面の黃色い砂漠。音もなく、そよぎもなく、死のやうに。……

 小鳥は急ぐ。急いで沙漠を越える。一心に、悲しげに下界を見つめて。

 いま、眼下には海がある。沙漠のやうに黃色く、また死のやうに。波は穗を搖つて、潮の音もする。けれど、絶間ない潮騷にも氣倦い波の面にも、やはり生はなく、塒はない。

 小鳥は疲れる。羽搏きは衰へ、その身は降る。虛空たかく舞ひ上らうか。だが、涯しない大空の、何處に巣を作らう。

 終に小鳥は翼を疊んで、一聲悲しく啼いて海へ落ちる。

 波は小鳥を吞み、さり氣ない響とともに、再びうねりを崩す。

 この身に何處へ逃れよう。私も海へ落ちる時か。

             一八七八年一月

 

[やぶちゃん注:「兀鷹」「はげたか」で禿鷹のことであるが、しかし、原文は“ястребом”で、これは所謂、極めて広義の鷹(たか)類(鳥綱新顎上目タカ目タカ科 Accipitridae に属するものの内で大型種(これを「鷲(わし)」と呼ぶ)に対して相対的に小さな種群)を指すもので、狭義の鳥としての「はげたか」(タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae 及び、全くの別種であるタカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae の両方に対する非生物学的俗称)に限定するのは寧ろ、追われる鳩との関係でもおかしいと私は思う。

「氣倦い」「けだるい」と訓じておく。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) つぐみ その二


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   つぐみ その二

 

 また同じ寢床に、同じ眠れぬ私。やがてまた夏の夜明けが、この身をめぐる。同じつぐみは窓に來て歌ひ、同じ傷みに心は疼く。

 小鳥の歌は心を和まさぬ。だが私はもう、わが身のために歎くのではない。他の傷痕が數知れず口を開いて、私の思ひを引裂く。この身にとつて何物にも代へ難い血は、赤紫の流をなして傷口を迸る。意味も無くひたすらに、さながら高樓の檐を傳うて泥土に落ちる雨水のやう。……

 いま、はるか不落の城壁の下、幾千の同胞が息絶えてゆく。無能の隊長の手によつて、幾千の同胞がむざむざと死の腭(あぎと)に投げこまれてゆく。

 彼等は聲もなく死んでゆく。死なせる人達も悔いはせぬ。彼等は己れの命を惜まぬ。無能の隊長らも、部下の犧牲を一顧もしない。

 そこには義もなく不義もない、打つ穀束が空しいものか穰れるものかは、時とともに露はれよう。この傷心は何事ぞ。この苦惱はそも何事ぞ。私は泣くこともできぬ 頭は熱し、心は沈む。罪人のやうに私は、厭はしい枕に額を埋める。

 重く熱した水の滴が、點々と頰を傳はつて唇に鹹い。これはなんだらうか。淚か、また血か。

             一八七八年八月

 

[やぶちゃん注:第五段落末の「厭はしい枕に額を埋める」であるが、底本では「厭はしい析に額を埋める」となっていて読めない。後の中山省三郎譯「散文詩」や一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」を参考に「枕」の誤植と断じ、特異的に訂した。

 訳者註。

   *

遙か不落の城壁の下 『つぐみ』(その二)は八月とのみで日附がないが、明らかに同年八月八、九日の兩日、ツルゲーネフがヤースナヤ・ポリヤーナにトルストイを訪問した際の印象をモチーフとしてゐるものと斷定していい樣である。卽ちあの露土戰爭が終結を告げたばかりであり、殊にプレヴナの攻防戰に於ける土耳古軍の好守、それに伴ふ露軍の甚大な犧牲などの生々しい記憶などは、この兩老大家の話題の中心をなしたらしく、伯爵夫人ソフイヤ・アンドレーヴナの言葉によれば「長い議論」が續けられたのである。そして本編にみなぎる人道主義的な調子には、さながらトルストイその人の聲を思はせる程の激越さがこもっている點、トゥゲーネフの「性格」を研究する上に尠からぬ光を投げるものであらう。なの、トゥルゲーネフが其の席に居合せた子供達に向つて、「死ぬことの怖い人は手を上げなさい」と言い、自ら眞先にお手本を示したに反し、トルストイは順番が𢌞つて來ると、「禮儀のため」餘儀なさそうに(と伯爵夫人の眼には映った――)手を上げたなどという挿話も、併せて考えて見ると興味が深い。

   *

合わせて、後の中山省三郎譯「散文詩」の同じ箇所に附された註も引用する。

   *

・今や幾千の同胞や友だちは、遠いあなたの城塞の堅固な墻壁のもとに亡んでゆく:一八七八年七月下旬、ツルゲーネフはペエテルブルグにおもむき、翌八月にはモスクワを經て故郷スパッスコエに歸り月末にそこを發つてゐる。この散文詩は故郷で書いたものと想像される。このときの歸國は十六年間絶交してゐたトルストイと和解し、彼の家を訪問したことによつて記憶される。時は露土戰爭の終つたばかりで二人は戰爭について長い議論をしたと傳へられる。殊にブルガリヤのプレヴナ等に於て露軍が作戰を誤り、甚大なる損害を蒙つたことなどが話題の中心をなしたものと推察され、それが直ちにこの詩の内容を形づくつたものと考へられる。

   *

両註で語られている「露土戰爭」は、まさにそのブルガリア戦線を舞台にした、私の愛する作品、ガルシンの「四日間」(リンク先は私の電子テクスト)に詳しいので、是非、お読み頂きたい。また「プレヴナ」「ブルガリヤのプレヴナ」は、バルカン半島のプレヴェン(Плевен/ブルガリア語をラテン文字転写するとPleven)で、現在のブルガリアのプレヴェン州の州都である。一八七七年から一八七八年にかけての露土戦争の際には、ここのプレヴェン要塞が最大にして最後の激戦地となった。包囲したロシア軍に対して要塞を死守せんとするオスマン軍のオスマン・パシャの抵抗は凡そ五箇月に及び、ロシア軍は多くの戦死者を出したことで知られる。なお、芥川龍之介はこの時のツルゲーネフとトルストイの邂逅を小説鴫」に描いている(リンク先は「青空文庫」の当該作)。

 

「つぐみ」黒歌鳥(くろうたどり)。の「 一」の私の注を参照のこと。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) つぐみ その一


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   つぐみ その一

 

 私は眠られぬ目を見ひらいたまま、寢床の中にゐた。疼く心が私を眠らせない。雨の日の灰色の丘のうへを、絶え間なく這ふ密雲の帶のやうに、物倦い單調な思ひが、鬱々と胸に翳りつづける。

 噫、望みも無い苦澁な愛を、未だに私は育んでゐる。既に若さを失つた心が、また生の笞(しもと)に壓し伏せられぬのを幸ひ、一しきり虛ろな若やぎを裝ひ佯る――そんな老年の雪と冷氣の下にのみ、人に來るあの愛を。……

 白々と斑(はだら)に、窓はさながら幻のやう。室内の物影は朧ろに浮び上り、霧深い夏の曉の薄ら明りに、一しほ凝然と靜まり返る。時計を見ると三時十五分前。壁の外にも、同じ歸寂が立ちこめてゐる。、そして露。露は海のやうに。

 おびただしい露の中、私の窓のあたりに、つぐみが早くも來て歌を歌ふ、響高い自信に滿ちた聲を張り上げ、しきりに歌ふ。その囀りは部屋の靜寂に滲み入つて充ちる。また私の耳を滿たし、病む思ひと不眠とに、疲れ干割れた頭腦を滿たす。

 その歌は永遠を息づく。永遠が持つありとあらゆる新鮮さを、虛心を、金剛力を息づく。私はその歌を、大自然の聲と聞いた。始なく終ない、あの妙なる無心の聲と。

 つぐみは囀る、自信に滿ちて、時滿ちればやがて、不易の太陽の燦き出ることを知つてゐる。その歌には何の獨自なものもない。千年の昔に、やはり同じ太陽を喜び迎へたのと寸分たがはぬつぐみである。また幾千年の未來に、私の屍灰が目に見えぬ微粒になつて、潑剌と鳴響く鳥身の周りを、同じ歌聲に引裂かれる氣流のまにまに旋り舞ふとき、矢張り同じ太陽を喜び迎へるであらうそのつぐみと、寸分たがはぬつぐみである。

 さて私は、愚かしく愛に渇いた一人の人間として、お前に呼びかける、――「有難う、小鳥よ。この憂愁の時刻に、思ひがけず私の窓に響かせて呉れた、思ふさま力あるお前の歌にお禮を言ふよ。

 「お前の歌は、私を慰めはしない。私はそれを求めもせぬ。しかも私の眼に淚は浮んで、一瞬私の胸に、何ものか死の重さを荷つてまざまざと搖らいだ。夜明け前の歌ひ手よ、言つてお呉れ。あのひとも亦、お前の誇らかな歌聲と同じく、新鮮と若さに滿ちてゐるのではないのか。……

 だが今、この身を繞つて氷のやうな水流は漲り奔(はし)り、今日は知らず、明日の日には身も心も際涯無い大洋に押流されよう時、。徒らに悲傷し、われと吾身を哀惜(いとし)んだとてなんの甲斐があらうぞ。

 淚は溢れた、けれど虛心のつぐみの歌は、曾て聞かぬ幸福と永遠の調べを續ける。……

 終に日が上つたとき、私の燃える頰に光る淚の跡の夥しさ。

 やがて私は、平生の微笑を取戾した。

           一八七七年七月八日

 

[やぶちゃん注:「つぐみ」本邦で鶫(つぐみ)と言えば、スズメ目ツグミ科ツグミ属ツグミ Turdus eunomus を指すが、原題は“Черный дрозд”で、これはロシア語のウィキペデイアで検索すると、スズメ目ツグミ科クロウタドリ(黒歌鳥)Turdus merula(英名:Blackbirdである。クロウタドリは大型のツグミの一種で、生息域は広範で、ヨーロッパ及びアフリカ地中海沿岸から中近東及びインド・中央アジア南部・中国東南部・オーストラリア東南部・ニュージーランド等に生息する(オーストラリアとニュージーランドは人為的移入と推定されている)。ヨーロッパ西部では留鳥として通年見られるが、ロシア・中国にあっては夏鳥である(従ってこれはフランスで書かれたともロシアで書かれたとも読めるが、日付から押してフランスでの作と思われる。根拠は、次の「つぐみ その二」の注で引用する神西氏の註及び後の中山省三郎譯「散文詩」の註を参照されたい)。体長は二十八センチメートル程で、♂は黑色に黄色の嘴で、目の周りも黄色を呈する。♂は♀に比して全体に淡色で、嘴や眼の周囲の黄色部分は♂ほどには目立たない。本種は本邦では迷鳥として稀にしか見られない。クロウタドリの画像と声は以下のnature ringsというドイツ語のページを参照されたい。クロウタドリの写真の下にある“Gesang des Maennchens”をクリックすると鳴き声が聴ける。

「佯る」「いつはる(いつわる)」。偽(いつわ)る。

「燦き」「きらめき」。

「鳥身」「てうしん(ちょうしん)」。鳥の体の周り。生硬な表現で、いただけない。

2017/10/23

佐藤春夫 女誡扇綺譚 本文サイト版公開

佐藤春夫「女誡扇綺譚」の本文サイト版(HTML横書版・ブログ版の注を大幅に除去したもの)を公開した。……娘アリスのために……

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ふた兒


Souseiji

   ふた兒

 

 ふた兒の口爭ひを見た。二人の顏だちと言ひ、表情と言ひ、髮の色、身の丈から體格に至るまで、瓜二つだつたが、それでゐて心の底から憎み合つてゐた。

 忿怒に顰める顏附も同じだつた。火の樣に憤(いき)り立つて突き合せる顏も、不思議なほど似てゐた。ぎらぎらと睨み合ふ眼附も同じ、意地惡く引歪めた唇の形も、それを衝く悪罵の聲も文句も、矢張り少しも違はなかつた。

 終に堪へ兼ねた私は その一人の腕を取つて、鏡の前に立たせて言つた、「さあ、この鏡を相手に惡口を言ひたまへ。君にして見れば、どの途同じことだらうから。けれど、傍の者には、まだしもその方が氣が樂だ。」

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 呪ひ


Jyuso

   呪ひ

 

 バイロンの『マンフレッド』を讀んで、彼のために身をほろぼした女の靈が、不氣味な呪ひをあびせかけるところに來ると、わたしは身ぶるひが出る。

 おぼえておいでかしら――「御身の夜は眠を奪はれ、邪まな御身の心は、わが見えぬ面影を、拂うても拂うても永却(とは)に見よ。また御身の心は、自らを燒く地獄火となれ。……」

 私は思ひ出す。以前ロシヤにゐた頃、ある百姓の父と子の、激しい口論の場に居あせた時のことを。

 息子はたうとうしまひに、ひどい悔辱の言葉を父親に叶きかけた。

 「呪つておやり、ヴアシーリチ。その人非(ひとでなし)を呪つておやり」と婆さんはわめきたてた。

 「よしとも。ペトローヴナ」と爺さんは大きな十字を切り、洞ろな聲で答ヘた、「やがてお前に息子ができて、それが生みの母親の眼の前で、お前の白くなつた鬚に唾を掛ける時があるわい。」

 この呪詛は『マンフレッド』のよりも一そう怖ろしかつた。

 息子は何か言返さうとした。しかし、よろよろとよろめくと、そのまま眞蒼になつて出て行つた。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『呪ひ』 この詩ははじめ『マンフレッド』と題された。

   *

『御身の夜は眠を』云々 恐らくは次の個所によるものであろう。(Manfred  , , Incantation, second strophe)――

 Though thy slumber may be deep,

 Yet thy spirit shall not sleep……

   *

「マンフレッド」(Manfred)はイギリスのロマン主義詩人バイロン(George Gordon Byron  一七八八年~一八二四年)が一八一七年に書いた同名の長大な劇詩の主人公の青年の名。マンフレッドはかつて恋人を死に追いやってしまった罪の記憶を抱えて悩む。神霊と交感する能力を会得している彼は精霊を呼び出し、その記憶の「忘却」を求めるが、精霊は不可能と答える。「会得」は自在であっても「喪失」は思うままにならないことを知った彼は、「喪失」の最上の形態としての「死」に立ち向かうため、アルプスの山中を彷徨い続けた末、遂にその恋人の霊と再会を果たし、許しを乞うと共に自らも息絶えるのであった。なお、後掲する「拾遺」の「無心の聲」をも参照されたい。

「永却」ママ。「永劫」の誤植が強く疑われるが、Q&Aサイトの答えに「永却」という語はあるらしく、「永久を捨てる」即ち「永久を永久と言えなくなるほどの」という意味で、恐らくは「とてつもない時間」という意味の造語ではないか、とあるので、ママとした。]

2017/10/22

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 私は憐れむ


Watasihaaware

   私は憐れむ

 

 私は憐れむ、自らを、他人を、あらゆる人を、鳥を、獸を、生きとし生けるものを。

 私は憐れむ、子供を、老人を、不幸な者を、幸福者を。不幸な者にもまして幸福者を。

 私は憐れむ、戰勝に誇る隊長を、偉大なる畫家を、詩人を、思想家を。

 私は憐れむ、殺人者を、その犧牲を、醜きを、美しきを、壓制者を、虐げられし者を。

 どうしたら、この哀憐を去れよう。そのため、生きる心地もない。……哀憐の上に、倦怠までが襲ひかかる。

 倦怠よ、哀憐に融け入る倦怠よ。地獄の極み。

 せめては羨む心があつたら、いや、それもある。――石を、石を羨む。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]



*   *   *

今日は早朝から義叔父の葬儀である。ここでフライングして、これのみとする。これは昨夜、予約公開したものである。

2017/10/21

佐藤春夫「女誡扇綺譚」校正終了

十回分割公開したブログ版の佐藤春夫「女誡扇綺譚」を校正し、かなりの量のミス・タイプを全回に亙って訂正した。  

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) めぐりあひ

 

 

     散文詩拾遺

 

Kiguu

   めぐりあひ

 

 私はこんな夢を見た。暗い空が低く垂れさがつてゐる。私は、大きた角だつた石ころが一面に散らぱつてゐる、ひろびろとした荒野を辿つてゆく。

 小徑は石のあひだを紆つてゐる。何をしに、何處へとも知らず、私はその道をたどつてゆく。

 ふと私の眼の前の、その細い道のうへに、何かしらうつすらと小さな雲のやうなものがあらはれた。……見つめてゐるうちに、その雲はやがて、身の丈のすらりと高い女になつた。まつ白なきものに淡色の帶を締めてゐる。……その女は急ぎ足で、私から遠ざかつてゆく。薄い紗に蔽はれてゐるのでその顏は見えない。髮の毛さへも見えないけれど。私の心は、ひたすらにその女のあとを追ひ慕つた。私にはその女が、美しい懷しい愛らしい人のやうに思はれた。……

 どうしても追附いて、ひと目なりとその顏をうち眺め、その眸(め)に見入りたいと思つた。ひと目でもその眼が見たかつた。いや、見なければならないと思つた。

 ところか、私が急げば急ぐほど、女の方もますます足を早めるので、どうしても追附けないのである。

 するとそのとき、小徑に筋かひに、平たい大きな石があらはれた。女は行手をふさがれて、石の手前で立止つた。私は喜びと期侍とに身をふるはせ、内心は怖れを感じながら、急ぎ足で馳せ寄つた。

 私が何も言ひ掛けないのに、女は靜かに振返つた。……けれど矢張(やつぱ)り、女の眸(ひとみ)は見られなかつた。

 眼は閉ぢてゐた。

 その顏はすきとほるやうに白かつた。着ている白衣のやうに白かつた。露はな兩腕は、脇に垂れさがつたまま動かない。

 さながら女は石に化したやう。そのからだも顏立ちも、悉く大珊石の像を思はせた。

 女は手も足も曲げないで、ゆつくりと身をうしろに倒れると、その平らな板石のうへに沈むやうに身を橫へた。ふと氣がつくと私も何時の間にか、間じ石の上に、女と並んで橫はつてゐる。幕石の面に刻まれた彫像もさながら仰向きに身を伸ばし、兩手は祈りの形に胸の上に組んで、さて私もやはり石に化してゆくやうな氣がした。

 幾瞬かがながれた。ふと女は起き上つて、再び遠のいて行つた。

 私はそのあとを追はうとした。しかし私は身動きも、組みあはせた兩手を解きほぐすこともできず、なんとも言ひやうのない悲しみを抱いて、空しくその後姿を見送るばかりだつた。

 すると、女はふとこちらを振返つた。そのときはもう、生き生きと表情に富んだ顏も、冴え冴えときらめく瞳もはつきりと見えた。女はじつに私に眼を注いで、音も無い笑ひに口もとを綻ばせた。――「起きあがつて、こちらへお出でなさい。」 女はさう言つた。

 私はやはり身じろぎもできない。

 すると女は再び笑みを浮べて、みるみるうちに遠ざかつて行つた。そのとき不意に色の燃え出でた薔薇の冠を、たのしげに頭のうへに揺りながら。

 私は身動きもならず口も利けずに、墓石のうへに取り殘された。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『めぐりあひ』 この詩ははじめ『女』と題された。なほ手稿には「小説」に用いると傍記されてゐる。これに依つて見ると、トゥルゲーネフは『散文詩』のうち少くも或るものは、小説のための素材として書きとめて置いたものと見られる。

   *

「紆つて」「めぐつて」。]

2017/10/20

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ロシヤ語


Russia

   ロシヤ語

 

 懷疑の朝、母國の運命をさまざまに疑ひ惱む夕、おんみだけはわたしの杖であり柱でつた。おお、大いなるロシヤ語。力づよく、眞實の、不羈のロシヤ語よ。もしおんみがなかつたなら、いま母國に跳梁するものの姿を眺めて、どうして絶望せずにをられようか。しかしこのやうな國語が、偉大ならぬ國民に與へられてゐようなどとは、とても信じるかけには行かない。

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。なお、この「ロシヤ語」を以って「散文詩」(初版「セニリア」本文)パートは終わり、以下、「散文詩拾遺」パートとなる。また、本詩篇には新改訳がある。

「不羈」(ふき)は「不羇」とも書き、「羈」も「羇」も「繋(つな)ぐ」の意で、 物事に束縛されず、行動が自由気ままであることを言う。

「一八八二年六月」この前年、ロシアではアレクサンドルⅢ世が即位、反動政策を行って革命運動への弾圧が激しくなっていた。ツルゲーネフはこの凡そ十五ヶ月後の、翌一八八三年九月三日に脊髄ガンのためにパリで客死した。サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」によれば、『彼の遺骸がロシアに送り出されるとき、パリ北駅では盛大な儀式が催され、ペテルブルグの葬式は国葬として行われた』とある。二月革命によってニコライⅡ世がソヴィエトにより退位しロシア帝国が終焉を迎えたのは、彼の死から三十三年後の一九一七年のことであった。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 祈り


Inori

   祈り

 

 人間の祈りは、所詮奇蹟を祈る心だ。どんな祈りも、一句に歸する。「神よ、二二が四なること勿らしめ給へ。」

 この樣な祈りだけこそ、人間が人間にする本當の祈りなのだ。萬有の精神に祈り、至上者に祈り、カントの、ヘーゲルの、純粹にして形なき神に祈ることは、できもせず考へられもしない。

 だが現身の、生ける、形ある神にせよ、果して二二が四なること勿らしめ得るだらうか。

 いやしくも信者ならば、できると答へる外はなからう。しかも、自らさう信じるの外はなからう。

 だが若し彼の理性が、こんな譫言に叛旗を飜したとしら?

 そこで、シェークスピヤが助けに來る、――「この世には色んなことがあるものだ、なあホレーショ」云々。

 もしもまた、眞理の名に於いて抗議が出たら、例の有名な質問を繰反すがよい、――「眞理とはなんぞや。」

 されば飮み且つ歌ひ、さて祈らうではないか。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

「この世には」云々 これは『ハムレット』 の中にある有名な文句。 There are more things in heaven and earth, Horatio……Hamlet, ,  Act I, Sc. V, 166

   *

中山版の本挿絵は左が擦れてしまっているので、今回、新たに一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版の綺麗なものを読み込んで示した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) なほも鬪ふ


Warehanaho

   なほも鬪ふ

 

 時としてなんといふくだらぬ瑣末事が、人間一匹をがらりと變へてしまふことだらう。

 ある日わたしは、疑惑に胸を一ぱいにして、大きな道を步いてゐた。

 重くるしい豫感に胸は緊めつけられて、心は愈々沈むばかりだつた。

  わたしは頭をあげた。脊の高いポプラ並木のあひだを、道はどこまでも眞直ぐに走つてゐる。

 その道を越して十步ほど向ふに、雀の一家族が縱列をつくつて、金色にかがやく夏の日を浴びながら、ぴよんぴよん跳ねてゐる。元氣よく、樂しげに、自信に滿ちて。

 なかでも一羽だけ、人を人とも思はぬ不敵な聲で囀りながら、しきりに嗉囊(ゑぶくろ)をふくらませ、すんずん列を離れてゆく。その樣子は、あつぱれち英雄兒だ。

 一方、空高く、一羽の大鷹が舞つてゐる。宿命の手に導かれて、彼が引つさらはうと狙つてゐるのは、この英唯兒なのかも知れない。

 なれを目たとき、明るい笑がこみ上げて來た。私は身を搖すつて笑つた。忽ち、暗い思念はかけり去つて、勇猛心や、生の意欲が、ひしひしと胸にわきあがつた。

 わたしの頭上にも、わたしの大鷹が來て舞はば舞へ。

 われら、なほも鬪ふ。なんのその。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「嗉囊」の「嗉」は印刷が不全で(へん)の部分にほぼ「日」の字が、(つくり)は殆んどが消えてしまって判読不能であるものの、「素」の左上部の感じが私には、した。「日」偏の「餌」に相当する字は見出せない。されば、取り敢えずこの字を当てておいた。言わずもがなであるが、「嗉囊(そのう)」は 鳥類・軟体動物・昆虫類・貧毛類の消化管の一部で、食道に続く薄壁の膨らんだ部分を指し、食べ物を一時的に蓄えておく器官を指すから、意味としては腑に落ちるからである。別字が想定出来る方は、御教授戴けると助かる。因みに、中山省三郎譯「散文詩」では、ここは単に『胸』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版では『餌ぶくろ』である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 僧


Kousou

   

 

 わたしは一人の僧を知ってゐた。行ひ澄ました隱棲の人で、祈禱をただ一つの慰めに日を送ってゐた。あまり祈禱に凝りすぎて、禮拜堂の冷い床に立ち暮らしたため、膝から下は棒材のやうに固く腫れあがつてゐた。この痺れた足で佇みながら、やはり祈禱を上げてゐた。

 彼の気持は、私にはよく分つた。のみならず、羨んでさへゐたかも知れない。だが彼の方でも、私の氣持を理解するのがよいのだ。彼のやうな法悦境には所詮緣のない私だけれど、非難などはせぬがよいのだ。

 彼は首尾よく、自己を滅ぼすことができた。つまりかの仇敵『自我』を滅却し得た。しかし、私が祈禱を上げないのも、利己のためでは毛頭ない。

 私の自我に於ける、彼の自我の彼に於けるよりも、恐らく一層厭はしく執念深いものであらう。

 彼は忘我の方法を發見した。だが私だつて、曲りなりにその方法は持つてゐる。彼のやうに不斷のものとは行かないけれど。

 彼は噓を吐かぬ。私だつて噓は吐かぬ。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

2017/10/19

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) とどまれ


Todomare

   とどまれ

 

 とどまれ。いま私の見る姿のままで、いつまでも私の記憶にとどまれ。

 いま御身の唇から、靈感に燃える終節(フイナーレ)のひと聲が羽ばたいて去つた。御身の眼は、もはやきらきらと輝かない。幸福に壓し伏せられた者のやうに、その光は失せる。一つの美をみごとに表出(あらは)し了せたといふ自覺の喜びに壓し伏せられて、その光は消える。羽ばたき去る美のあとを追つて御身は、勝ち誇ろ力も失せた兩手を、空しくさし伸べるかのやうだ。

 はつ秋の午後の日ざしよりも淸らに濃やかな光が、御身の手足に沿うて、薄絹のどんな細かな襞々にも流れたことぞ。

 どんな神の居て、情の籠るその息吹きに、御身の振りみだした捲毛の髮を、やさしく後(うしろ)へ靡かせたのだ。

 その神の接吻(くちづけ)の痕は大理石(なめいし)のやうに蒼ざめた御身の額に、まだ燃えてゐる。それこそは、發かれた神秘の痕だ。詩の、生の、戀の神秘の。……ああ終に、それこそは不滅のものの姿だ。これを措いては、不滅はない。またある要もない。いま、この瞬間、御身は不滅だ。

 この瞬間は過ぎる。そして御身は再び一握の友に、女性に、子供になる。……だが、それが御身にとつてなんだらう。今この瞬間、御身は現身(うつそみ)を超える。流轉のものの外に立つ。この御身の瞬間は、決して盡きるときがあるまい。

 とどまれ。そして私をも、御身の不滅にあやからしめよ、私の魂に、御身の『永遠』の餘映を落さしめよ。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。訳者註。

   *

『とどまれ』 これはトゥルゲーネフ反省のよき友、助言者、また純粹な意味での戀人であつたヴイアルドオ夫人(Pauline Viardot, 1821―1910)に捧げられた頌歌と解される。

   *

 本篇は新改訳れ!」)がある。なお、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛞蝓(なめくじ)


Namekuji

なめくち    蜒蚰螺。附蝸

        鼻涕蟲。陵蠡

        托胎蟲。土蝸

蛞蝓

        【和名奈女久如

クワウ イユイ  俗云奈女久知里】

 

本綱蛞蝓生太山池澤及陰地沙石垣下宗奭曰蛞蝓蝸

牛二物也蝸牛之老者而以爲一物甚謬也蛞蝓二角身

肉止一段蝸牛四角背上別有肉以負殼行其二物共主

治功用相似而皆制蜈蚣蠍故生擣塗蜈蚣傷立時痛止

△按本草集解蛞蝓蝸牛之辨異論多唯以宗奭之註爲

 的此物無殼有蜒蚰螺之名故大惑矣【蚰蜒卽蚨虶名倒之爲蜒蚰乎名義未詳】

 蛞蝓 色灰黃白洗浄則純白頭有小肉角眼纖背有

 細黑點而無足兩脇有肉裙相連行有涎大抵二三

 寸肌滑而濃蝸牛之肌滑而麁二物相似而各別也蛞

 蝓初生圓而一靣數十欑生如鮫粒然一一離形稍長

 蝸牛初生大一二分許螺也

 又有蛞蝓夏月緣于屋上變螻蛄者人往往見之然悉

 不然矣深山中有大蛞蝓長近尺者

造贋象牙法 以鹿角屑與蛞蝓煑熟擴於板上乾之薄

 爲板片任意切成爲噐飾

生蛞蝓法 用鼠尾草浸醴注于陰地不月生小蛞蝓亦

 奇術也蓋未知其始試之者

 

 

なめくぢ    蜒蚰螺〔(えんいうら)〕

        附蝸〔(ふくわ)〕

        鼻涕蟲

        陵蠡〔(りやうれい)〕

        托胎蟲〔(たくはいちゆう)〕

        土蝸〔(どくわ)〕

蛞蝓

        【和名、「奈女久如」。

         俗に「奈女久知里〔(なめくじり)〕」と云ふ。】

クワウ イユイ

 

「本綱」、蛞蝓、太山・池澤及び陰地の沙・石垣の下に生ず。宗奭〔(さうせき)〕が曰く、『蛞蝓と蝸牛とは、二物なり。蝸牛の老する者を以つて一物と爲るは、甚だ謬〔(あやま)〕りなり。蛞蝓は二の角〔(つの)〕にして身の肉、止(たゞ)一段なり。蝸牛は四の角にして、背の上に、別に肉有りて、以つて殼(から)を負ひて行く。』〔と〕。其の二物、共〔に〕主治功用、相ひ似て、皆、蜈蚣〔(むかで)〕・蠍(さそり)を制す。故に、生〔(なま)〕にて擣〔(つ)〕きて、蜈蚣の傷に塗る。立-時(たちどころ)に、痛み、止む。

△按ずるに、「本草」の「集解」、蛞蝓・蝸牛(かたつぶり)の辨、異論、多し。唯だ、以つて宗奭の註、的と爲す。此の物、殼〔(から)〕無くして、「蜒蚰螺」の名、有り。故に大いに惑ふ【「蚰蜒」は卽ち、蚨虶〔(げじ)〕の名。之れを倒〔(たふ)して〕、「蜒蚰」と爲せしか。名義、未だ詳らかならず。】。

蛞蝓は、色、灰黃白、洗浄すれば、則ち、純白なり。頭に小さき肉の角、有り、眼、纖(ほそ)く、背に細かなる黑點有りて、足、無く、兩脇に肉の裙(すそ)有りて相ひ連なり、(は)ひ行(あり)き、涎〔(よだれ)〕有り。大抵、二、三寸。肌、滑かにして濃〔(こまやか)〕なり。蝸牛の肌、滑かにして麁(あら)し。二物、相ひ似て、各々、別なり。蛞蝓、初生、圓〔(まどか)〕にして、一靣〔(いちめん)〕、數十、欑〔(むらが)りて〕生〔ず〕。鮫粒のごとく然〔(しか)〕り。一一(いちいち)、離〔れ〕、形、稍〔(やや)〕長〔(ちやう)〕ず。蝸牛の初生は、大いさ、一、二分〔(ぶん)〕許りの螺(バイ)なり。

又、蛞蝓に、夏月、屋上に緣(はひのぼ)り、螻蛄(けら)に變ずる者、有り。人、往往〔にして〕之れを見る。然れども、悉く〔は〕然からざるなり。深山の中に大なる蛞蝓、長さ尺に近き者、有り。

贋(にせ)象牙を造る法 鹿角の屑(すりくづ)を以つて蛞蝓と煑熟〔(にじゆく)〕し、板の上に擴げ、之れを乾かし、薄く板片と爲し、任意に切り成し、噐〔(うつは)〕の飾りと爲す。

蛞蝓を生ずる法 鼠-尾(みそはぎ)草を用ひて、醴〔(あまざけ)〕に浸し、陰地に注(そゝ)ぐ。月あらずして小蛞蝓を生ず。亦、奇術なり。蓋し、其れ、始めて之れを試みる者、未だ知らず。

 

[やぶちゃん注:軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda 有肺目 Pulmonata に属するもの内(但し、現行の知見では系統学的には異鰓類の一群と考えられており、異鰓上目 Heterobranchia の中の一目に格下げする分類体系も提唱されている)、殻が退化している種群の総称。科としては、

収眼類の、

アシヒダナメクジ科 Vroniceliidae(本科の上位タクソンは収眼目 Systellommatophora ともする)

ホソアシヒダナメクジ科 Rathouisiidae(同じく収眼目とも)

柄眼類の、

サカムリナメクジ科 Testacellidae(本科の上位タクソンは柄眼目 Stylommatophora Oleacinoidea上科 Oleacinoidea ともする)

ニワコウラナメクジ科 Milacidae

オオコウラナメクジ科 Arionidae

ナメクジ科Philomycidae

などに分かれる。また、一般的に見かけることが多く、和名としてそれを持つ種はナメクジ科ナメクジ属ナメクジ Meghimatium bilineatumである。本種は薄紫色を呈し、体側に一対の黒い縦筋有し、背面中央にはやや不明瞭な黒い縦筋を一本持つ。湿気のある場所でしか棲息できないことから、日中は木の洞や樹皮の裏などに潜んでおり、主に雨上がりの夜などに活動をする。本文でも薬効が語られているが、実際、現在も漢方ではコウラナメクジ科 Limax 属のコウラナメクジ類(原産は主にヨーロッパとされる。本コウラナメクジ科は背面に薄い皿状の殻片を残存させている。本邦には棲息していなかったが、二〇〇六年に侵入が確認されている)が止咳・解毒・消腫・通経絡作用があるとされ、喘息・咽頭炎・腫れ物・顔面神経麻痺・痙攣などで使用される。一般には火で炙って乾燥させて粉末にしたものを服用するが、本邦の民間療法では喘息や咳嗽、声を良くするなどと称して生のナメクジをそのまま食べるという方法もあった。これは頗る危険で、カタツムリの項で注した通り、寄生虫の日和見感染により、脳疾患などを引き起こす可能性が深く疑われているから、絶対にやってはならない。脅しだと思ってる輩がいると困るので、一つ挙げておくと、重症例では、脱皮動物上門線形動物門双線綱円虫目擬円形線虫上科 Metastrongyloidea に属するジュウケツセンチュウ(住血線虫)属カントンジュウケツセンチュウ(広東住血線虫)Angiostrongylussyn. Parastrongyluscantonensis に感染することによって生ずる広東住血線虫症で重症例では死亡例もある(「国立感染症研究所」公式サイトの「広東住血線虫症とは」を参照されたい)。「耳囊 卷之六 魚の眼といえる腫物を取(とる)(まじない)の事」の私の注も参照されたい。はっきり言って、これらの寄生虫の中には手で触れても侵入してくるリスクがゼロとは言えない種もいるのが事実である。だから、今では悲しいことだが、カタツムリを保育園や幼稚園では触らせないのである。

 

「奈女久如」東洋文庫版では「如」をママとし、横に『知』と訂正注する。確かに「和名類聚抄」「本草和名」でも「知」であるし、「如」と「知」は書き誤り易いから、これは良安の誤記とすべきではある。

「太山」東洋文庫版訳では『大山』となっているが、「本草綱目」そのものに「太山」とある。意味は奥深い「大」きな山の一般名詞でよくはある。

「陰地」東洋文庫版訳では『陰湿地』となっている彼らの属性上、陰地の湿気の高い場所でなくては棲息出来ないから正しい訳と言える。

「宗奭〔(さうせき)〕」寇宗奭(こうそうせき)。宋代の本草(薬物)学者。「本草衍義」を撰した。

「本草」「本草綱目」。良安が同書の記載の錯雑(実際、他の項でも錯雑しているのに)をかなりきつい口調で批判するのは珍しいことである。

『「蜒蚰螺」の名、有り。故に大いに惑ふ』良安先生に激しく同感。

「蚨虶〔(げじげじ)〕」音は「フウ」。先行する節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha のゲジ(通称「ゲジゲジ」)類のこと。

「倒〔(たふ)して〕」上下の文字を逆転させて。こういう安易な方法で別種を示していたとすれば、中国本草学のそうした部分のいい加減さは致命的に危い。

「麁(あら)し」「粗し」。

「蛞蝓、初生、圓〔(まどか)〕にして、一靣〔(いちめん)〕、數十、欑〔(むらが)りて〕生〔ず〕。鮫粒のごとく然〔(しか)〕り」「鮫粒」は「鮫の肌の粒」の意であろう。ここは、良安先生、素晴らしい! これはナメクジの発生を実地に観察したのでなければ、書けない代物であり、その描写は頗る正確である。

「螺(バイ)なり」ここは殻を持っているというのではなく、螺(にな:巻貝)の軟体部と相同であることを示していると読んでおく。

「蛞蝓に、夏月、屋上に緣(はひのぼ)り、螻蛄(けら)に變ずる者、有り」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ類であるが、ここは一応、良安の記載であるから、本邦産のそれ、グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis である。折角、前の注で褒めましたのに! 良安先生、それは酷いです!

「人、往往〔にして〕之れを見る」見ません!

「悉く〔は〕然からざるなり」「総ての蛞蝓が螻蛄になるわけではない」って、ナメクジはケラにはなりませんて!!

「贋(にせ)象牙を造る法」面白い記載であるが、こうした事実を確認出来ない。識者の御教授を乞う。

「鼠-尾(みそはぎ)草」フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps

「醴〔(あまざけ)〕」甘酒。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その3)/女誡扇綺譚~了

 

 幾日目かで社へ出てみると、同僚の一人が警察から採つて來た種(たね)のなかに、穀商黃(くわう)氏の下婢(かひ)十七になる女が主人の世話した内地人に嫁(か)することを嫌つて、罌粟(けし)の實(み)を多量に食つて死んだといふのがあつた。彼女は幼くして孤兒になり、この隣人に拾はれて養育されてゐたのだといふ。この記事を書く男は、臺灣人が内地人に嫁することを嫌つたといふところに焦點を置いて、それが不都合であるかの如き口吻(こうふん)の記事を作つてゐた。――あの廢屋の逢曳(あひびき)の女、――不思議な因緣によつて、私がその聲だけは二度も聞きながら、姿は終(つひ)に一瞥することも出來なかつたあの少女は、事實に於ては、自分の幻想の人物と大變違つたもののやうに私は今は感ずる。

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その2)



 まづ第一にその穀屋といふのは思つたより大問屋であつた。又、主人といふのは寧ろ私の訪問を觀迎した位(くらゐ)だ。この男は
臺灣人の相當な商人によくある奴で内地人とつきあふことが好きらしく、ことに今日(けふ)は娘がそんな靈感を持つてゐる噂が高まつて、新聞記者の來るのがうれしいと言ふのであつた。さうして店からずつと奥の方へ通してくれた。

「汝來仔請坐(ニイライアチンツオ)」

 と叫んだのは娘ではなく、そこに、籠の中ではなくて裸の留木(とまりぎ)にゐた鸚鵡(あうむ)である。

 娘は、しかし、我我の訪れを見てびつくりしたらしく、私の名刺を受取つた手がふるへ、顏は蒼白になつた。それをつつみ匿(かく)すのは空しい努力であつた。彼女は年は十八ぐらゐで、美しくない事はない。私はまづ彼女の態度を默つて見てゐた。

「あ、よくいらつしやいました」

 思ひがけなくも娘は日本語で、それも流麗な口調であつた。椅子にかけながら私は言つた――

「お孃さん。あなたは泉州語(ツヱンチヤオご)をごぞんじですか?」

「いいえ!」

 娘は不意に奇妙なことを問はれたのを疑ふやうに、私を見上げたが、その好もしい瞳のなかに噓はなかつた。私はポケツトから扇をとり出した。それを半ばひろげて卓子(テーブル)の上に置きながら私はまた言つた――

「この扇を御存じでせう」

「まあ」娘は手にとつてみて「美しい扇ですこと」物珍らしさうに扇の面(おもて)を見つめてゐた。

「あなたはその扇を御存じない筈はないのです」私は試みに少しおこつたやうに言つてみた。

「ケ、ケ、ケツ、ケ、ケ」

 鸚鵡が私の言葉に反抗して一度に冠(かんむり)を立てた。

 みんなが默つてゐるなかに、不意に激しく啜泣(すすりな)く聲がして、それは鸚鵡の背景をなす帳(とばり)の陰から聞えて來たのだ。淚をすすり上げる聲とともに言葉が聞えてきた――

「みんなおつしやつて下さいまし、お孃さま。もう構ひませんわ。その代りにその扇は私にいただかしてください」

「………………」

 誰(たれ)も何(なん)と答へていいかわからなかつた。世外民と私とは目を見合(みあは)した。

 姿の見えない女はむせび泣きながら更に言つた。「誰方(どなた)だか存じませんが、お孃さまは少しも知らない事なのです。わたしの苦しみ見兼ねて下さつただけなのです。ただあなたが拾つておいでになつたその扇――蓮の花の扇を私に下さい。その代りには何でもみんな申します」

「いいえ。それには及びません」私はその聲に向つて答へた。「私はもう何も聞きたくない。扇もお返ししますよ」

「私のでもありませんが」推測しがたい女は口ごもりながら「ただ私の思ひ出ではあります」

「さよなら」私たちは立ちあがつた。私は卓上(たくじやう)の扇を一度とり上げてから、置き直した。「この扇はあの奧にゐる人にあげて下さい。どういふ人かは知らないが、あなたからよく慰めておあげなさい。私は新聞などへは書きも何もしやしないのです」

「有難うございます。有難うございます」黃(くわうぢやう)の目には淚があふれ出た。

 *     *     *     *

    *     *     *

 

 

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その1)

 

         ヱピロオグ

 あの廢屋はさういふわけで私の感興を多少惹いた。何ごとにもさう興味を見出さなかつたその頃の私としては、ほんの當座だけにしろそんな氣持になつたのは珍しいのだが、それらすべての話をとほして、私は主として三個の人物を幻想した。市井の英雄兒ともいふべき沈(シン)の祖先、狂念によつて永遠に明日(みやうにち)を見出してゐる女、野性によつて習俗を超えた少女、――とでもいふ、ともかく、そんな人物が跳梁するのが私には愉快であつた。そいつを活動のシネリオにでもしてみる氣があつて、私は「死の花嫁」だとか「紅(くれなゐ)の蛾」などといふ題などを考へてみたりしたほどであつた。しかしさう思つてみるだけで、やらないと言ふかやれないと言ふか、ともかく實行力のないのが私なので、その私が前述の三人物の空想をしたのだからをかしい。意味がそこにあるかも知れない。さうして私自身はといふと、いかなる方法でも世の中を征服するどころか、世の力によつて刻刻に壓しつぶされ、見放されつつあつた。尤も私は何の力もないくせに精一杯の我儘をふるまつて、それで或程度だけのことなら押し通してもゐたのだ。それでは何によつて私がやつとそれだけでも强かつたか。自暴自棄。この哀れむべき强さが、他(た)のものと違ふところは、第一自分自身がそれによつて決して愉快ではないといふことにある。私は事實、刻刻を甚だ不愉快に送つてゐた。それといふのも私は當然、早く忘れてしまふべき或る女の面影を、私の眼底にいつまでも持つてゐすぎたからである。

 私は先づ第一に酒を飮むことをやめなければならない。何故かといふのに私は自分に快適だから酒を飮むのではない。自分に快適でないことをしてゐるのはよくない。無論、新聞社などは酒よりもさきにやめたい程だ。で、すると結局は或は生きることが快適でなくなるかも知れない惧れがある。だが、若しさうならば生きることそのものをも、やめるのが寧ろ正しいかも知れない。……

 柄になく、と思ふかも知れないが、私は時折にそんなことをひどく考へ込む事があつた。その日もちやうどさうであつた。折から世外民が訪れた。

「君」世外民はいきなり非常な興奮を以て叫んだ。「君、知つてゐる?――禿頭港(クツタウカン)の首くくりはね……」

「え?」私はごく輕くではあるが死に就て考へてゐた折からだつたから少しへんな氣がした。

「首くくり? 何の首くくりだ?」

「知らないのか? 新聞にも出てゐるのに」

「私は新聞は讀まない。それに今日で四日(か)社(しや)を休んでゐる」

「禿頭港で首くくりがあつたのだよ。――あの我我がいつか見た家さ。――誰(たれ)も行かない家さ。あそこで若い男が縊死してゐたのだ。新聞には尤も十行ばかりしか出ない。僕は今、用があつて行つたさきでその噂を聞いて來たのだからよく知つてゐるが、あの黑檀の寢牀(ねどこ)を足場にしてやつたらしいのだ。美しい若い男ださうだよ、それがね、口元に微笑をふくんでゐたといふので、やつぱり例の聲でおびき寄せられたのだ、『花嫁もたうとう婿をとつた』と言つてゐるよ――皆(みんな)は。それがさ、やつぱりもう腐敗して少しくさいぐらゐになつてゐたのださうだ。僕は聞いてゐてゾクツとした。我我が聞いたあの聲やそれに紅(あか)い蛾なぞを思ひ出してね」

 私もふつと死の惡臭が鼻をかすめるやうな氣がした――あの黴くさい廣間の空氣を鼻に追想したのだらう。世外民はその家の怪異を又新らしく言ひ出して、私がそこで拾つた扇を氣味惡がり私にそれを捨ててしまふやうに說くのであつた。――この間はあんなに興味を持つて、自分でも欲しいやうなことを言つた癖に。尤も私がやらうと言つた時にはやはり、今と同じく不氣味がつて、結局いらないとは言つたが。私としてはまた世外民にやらうと思つた程だから、捨ててしまつても惜しいとも思はないが、私はその理由を認めなかつた。また、いざ捨てよと言はれると、勿體ないほど珍奇な細工にも思へた。私は世外民の迷信を笑つた。

「大通りの眞中(まんなか)で縊死人(いしにん)があつてそれが腐るまで氣がつかない、といふのなら不思議はあるだらうが、人の行かないところで自殺したり逢曳(あひびき)したりするのは、一向當り前ぢやないか。――ただあんな淋しいところが市街のなかにあるのは、何かとよくないね」

 私はその家の内部の記憶をはつきり目前に浮べてさう言つた。

 同時に私にはこの縊死の發見に就て一つの疑問が起つた。といふのは、あの部屋のなかで起つた事は誰(たれ)もそこに這入つて行かない以上は、一切發見される筈がない。あそこには開(ひら)いた窓が一つあるにはあつたが、そこには靑い天より外には何も見えない――つまり天以外からは覗けない。もし臭氣が四邊(あたり)にもれるにしては、あの家の周圍があまりに廣すぎる。さう考へてゐるうちに、私は大して興味のなかつたこの話が又面白くなつて來るのを感じながら言つた。

「出鱈目さね。いや、死人(しにん)はあつたらう。若い美しい男だなんて。もう美しいか醜いか年とつたか若いかも見分けがつくものか」

「いや、でも皆(みんな)さう言つてゐる」

「それぢや誰(だれ)がその死人を發見したのだ? あそこならどこからも見えず、誰も偶然行つてみるわけはないがな」ふと、私は場所が同じだといふことから考へて、この縊死人――年若く美しいと傳へられる者と、いつか私が空想し獨斷したあの逢曳とがどうも關係ありさうに思へて來た。そこで私は世外民に言つた。「いつでもいいが今度序(ついで)に、その死人を發見したのはどんな人だか聞いてきてもらひたいものだ。それがもし泉州(ツヱンチヤオ)生れの若い女だつたらもう何もかもわかるのだよ。――いつか我我が聞いたあの廢屋の聲の主(ぬし)も。それから今度の縊死人の原因も。――本當に若い男だつたといふのなら、それや失戀の結果だらう。――幽靈の聲にまどはされて死ぬより失戀で死ぬ方がよくある事實だものね。尤も二つとも自分から生んだ幻影だといふ點は同じだが」

 私は大して興味はなかつた。しかし世外民が大へん面白がつた。罪を人に着せるのではない。これは本當だ。事實、世外民は先づ興味をもちすぎた。さうしてそれが私に傳染したのだ。世外民は私の觀察に同感すると早速、その場を立つて發見者を調べるために出かけた程なのだ。近所行つて聞けばわかるだらうといふので。

 間もなく、世外民は歸つて來たが、その答(こたへ)を聞いて私は、臺灣人といふものの無邪氣なのに、今更ながら驚いたのである。彼等の噂するところによると、それは黃(くわう)といふ姓の穀物問屋の娘が――家は禿頭港(クツタウカン)から少し遠いところにあるさうだが――彼女が偶然に夢で見たといふその男がどうやら死んだ若者だし、それが這入つて行つた大きな不思議な家といふのが、どうも禿頭港のあの廢屋らしい。その暗示によつて、なくなつた男の行方を搜してゐた人人はやつと發見することが出來たといふのである。靈感を持つた女だといふ風に人人が傳へてゐると言ふ。

 私は無智な人人が他(た)を信ずることの篤いのに一驚すると同時に、そんな事を言つてうまうまと人をたぶらかすやうな少女ならば、いづれは圖圖(づうづう)しい奴だらうと思ふと、何もかもあばいてやれといふ氣になつた。私はまだ年が若かつたから人情を知らずに、思へば、若い女が智慧に餘つて吐(つ)いた馬鹿馬鹿しい噓を、同情をもつて見てやれなかつたのだ。

「世外民君。來て一役(ひとやく)持つてくれ給へ」

 私は例の扇をポケツトに入れ、それから新聞記者の肩書のある名刺がまだ殘つてゐるかどうかを確めた上で外へ出た。無論、その穀物問屋へ行かうと思ひ立つたからである。さうして娘に逢へば扇を突きつけて詰問しさへすれば判るが、ただその親が新聞記者などに娘を會はせるかどうかはむづかしい。會はせるにしてもその對話を監視するかもしれない。世外民がうまくその間で計らつてくれる手筈ではあるが、それにしてもその娘が泉州(ツヱンチヤオ)の言葉しか知らなかつたらそれつきりだがなどと思つてゐるうちに、私はもうさつき勢ひ込んだことなどはどうでもなくなつた。自分に何の役にも立たない事に興味を持つた自分を、私は自分でをかしくなつた。

「つまらない。もうよさう」

 世外民はしかし折角來たのだからといふ。それに穀物問屋はすぐ二三軒さきの家だつた。それから後(のち)の出來事はすべて私の考へどほりと言ひたい所だが、事實は私の空想より少しは思ひがけない。

 

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) そのひと


Nn

   そのひと

 

 あなたのみぶりは優しい。そなたの足おとはかるい。淚も知らねば、笑(え)みせず、そなたは生(いのち)のみちを行く。何を見ようがそしらぬ顏で。つんと澄ました憎らしさ。

 そなたの心はさとい。氣だてもなかなか親切だ。さりながら、男なんぞはどこ吹く風と、お高くとまつて見向きもしない。

 見れば見るほど、なんとそなたの美しさ。……きれう自慢か、じまんでないか、心の裏は誰にも見せぬ。生れついての薄情もので、他所(よそ)樣の情けなどにはすがりは申さぬ。

 行きずりに、投げるひとみは影深けれど、想ひのふかい眼ではない、よく澄んだ底を覗けば空つぽだ。

 かくて行く、シャンゼリゼェの大通り。グルックの不粹な樂のしらべにつれて、よろこびもなく悔いもなく、やさしい影が過ぎてゆく。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:これには新改訳があり、前半が大きく改訳されている。そちらの私の注も参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 航海


Koukai

   航海


 ハンブルクから小さな汽船に乘つてロンドンへ向ふ途中、船客は私を入れて二人きりであつた。私と、それに小さな猿と、これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商人がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた。

 甲板のベンチに細い鎖で繋いである猿は、くるくると?りながら、小鳥のやうな聲で哀しげに啼いた。

 私が通りすがるたぴに、猿は眞黑な小さな手を伸ばして、人間そつくりの陰氣な眼で私を見あげた。その冷たい手を握つてやると、すぐ啼きやんで、もう?るのもやめた。

 海上は全くの無風で、あたり一面にひそともせぬ鉛色の卓布を擴げてゐた。海面は非常に狹く見えた。と言ふのは、マストの先も見えぬほどのひどい濃霧で、そのもやもやする水氣のため、視力が鈍つてゐたからである。太陽はこの霧の面に、ぼんやりと赤い斑(ふ)になつてゐたが、沈む前には深秘なほど眞紅に燃え立つた。

 重い絹布に見るやうな長い眞直な襞が、次々に船首から走り出ては、やがて皺ばみ、段々大きく広擴がり、終に起伏を失つて空しく搖れながら消えて行つた。物倦い外輪の足搔(あがき)の下に卷く渦は、乳白の微かな泡を立てて、蜿々と蛇のやうな波のうねりに突當つては崩れ、やがてまた合さると、矢張り濃霧の中に吞まれて行つた。

 絶間なく、猿の啼聲に劣らぬ物悲しさで、船尾の小さな鐘が鳴つてゐた。

 時々海豹が浮び上るかと思ふと、いきなり飜筋斗(もんどり)打つて姿を沒したが、滑らかな水面はそのため別に亂れもしなかつた。

 船長は日に燒けた暗い顏の、沈默がちな男で、短いパイプをくゆらしては、凍てついたやうな海面に、腹立たしげに唾を吐いた。

 何を聞いても切れ切れなむつつり聲で返事をした。で私は、唯一人の道連であるあの猿を相手にする外に仕方がなかつた。

 濃霧はじつと動かない。うとうとと睡氣を催しさうになるその水氣に、二人ともしつとり濡れて、知らず知らず同じ事を思ひふけりながら、まるで親身の者どうしのやうに、いつまでも一緒にゐた。

 今でこそ私は微笑んでゐる。だがあの時は、それどころではなかつた。

 私たちはみんな、一つ母親の子供だ。あの小さな動物が私に賴つて大人しくなり、まるで肉身の者のやうに縋つて呉れたのが、私には有りがたかつたのだ。

            一八七九年十一月

[やぶちゃん注:「ハンブルク」現在のドイツ連邦共和国の特別市であるハンブルク(ドイツ語:Hamburg:正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク」(Freie und Hansestadt Hamburg, フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク。位置は後のトラフェミンデの地図リンクで確認されたい)。ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約百十キロメートル遡った港湾都市。十三世紀後半以後、ハンザ同盟の主要都市として活躍、諸国との貿易によって繁栄、今日でも自由港区(自国の関税法を適用せずに外国貨物の自由な出入を認める港区)を持ち、ドイツにおける世界への門としてヨーロッパ大陸最大の海運業の中心であり続けている。本詩篇が作られた当時は、ウィーン体制下(一八一四年から一八一五年に行われたウィーン会議以後)であったが、一八七一年のプロイセン王ヴィルヘルムⅠ世のドイツ帝国成立の際にも、ハンブルクは孰れの州にも属さず、独立を維持している。但し、この詩篇内の時制はツルゲーネフが大学を卒業し、ベルリン大学で勉強するために船で出発した一八三八年の体験に基づくものかも知れない。その当時のドイツはまだ、オーストリアを盟主とするドイツ連邦下にあった。なお、もし、この詩篇が、この時の体験に基づくものとすると、実は彼の内心(当時も、そしては創作時も)のっぴきならない強いトラウマの影響下にあったか、現にあることが推定されるのである。それは、サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」に明らかで、このハンブルクに至る直前(と思われる)、『彼が乗った汽船がトラフェミンデ』((グーグル・マップ・データ))『で炎上した事件はさまざまに語り継がれているが、彼の振る舞いが卑劣だったという点では共通している。彼はフランス語で』「『助けてください。私はやもめの母の一人息子なのです!』」『と叫んだともいわれ、この出来事以来、生涯に渡って彼の心に深い疼きを残した』とあるからである。私は本詩篇の激しい孤独感と、猿との共感、末尾の「私たちはみんな、一つ母親の子供だ」という感懐に、その事件後の彼の心象風景を強く感ずるのである。

「私と、それに小さな猿と、これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商人がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた」ここは「私と、それに小さな猿と――これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商人がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた。――」辺りの表記にして貰いたいところである。「ウィスチチ種」の原文は“уистити”で、これは霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目マーモセット(キヌザル)科マーモセット(キヌザル)亜科マーモセット(キヌザル)属 Callithrix の仲間、特に英名 Common Marmoset、コモンマーモセット Callithrix(Callithrix) jacchus と思われる。体長約十六から二十一センチメートルで尾長は三十センチメートル強の長さを持つ、ブラジル北東部原産の新世界ザルで、耳の周辺に白い飾りのような毛を持つことと、首を傾げる仕草が特徴とされる。ヨーロッパでは古くからペットとして飼われており、現在も猿の仲間のペットとしては一番人気だそうである。また、本種は現在、マウスよりも人間に近い実験動物として利用されており、新世界ザルとしては初めて全ゲノム配列が決定されてもいる。ツルゲーネフがここで強い共感をこの子に抱いたのも、或いは、そうした生物学的「人間性」を感じたから、かも知れぬ、などと私は夢想する。]

2017/10/18

老媼茶話巻之四 高木大力

老媼茶話卷之四

 

 

     高木大力(だいりき)

 

 高木右馬助、美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼祕藏の士、世に聞へたる大力(だいりき)なり。

 壱年、本國を浪人して京・伏見に徘徊せし。此折、「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」と詠じて、伊勢路を越(こゆ)る山道にて、夕陽、西にうすづく頃、七尺斗(ばかり)の大男、柿の頭巾を引(ひつ)かぶり、四尺斗(ばかり)の大刀を差(さし)、兩人、道の眞中(まんなか)に立(たち)はだかり、大の眼(まなこ)を見出し、

「いかに旅人。命、惜しくば、衣類・大小・平包、殘らず渡し、丸裸にて通るべし。さらずば、一足もやらぬ也。」

と云(いふ)。

 右馬介、聞(きき)て打笑(うちわら)ひ、

「己等は三輪の謠(うたひ)を知らざるや。『秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ』と云(いへ)り。我も衣裳一にて、秋風、身に染(しみ)て、はだ寒し。先(まづ)おのれらが衣裳を、こなたへ渡せ。」

といふ。盜人共、はらを立、

「扨々、存知の外(ほか)、きも、ふとき男哉(かな)。おのれ、いにしへの大竹丸(おほたけまる)におとらざる鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎をしらざるか。いで、もの見せん。」

と兩人の盜人、右馬介が左右より、進みよる。

 壱人の男、右馬介が右の腕を取(とる)所を、振(ふり)はなち、件(くだん)の男が元首(もとくび)をしめ付(つけ)、中(ちう)に提(さげ)、はるかなる谷底へ人礫(ひとつぶて)に抛捨(なげすて)る。

 殘りし男、是を見て、太刀引拔(ひきぬき)、天窓下(てつぺんおろ)しに切付(きりつけ)たるを、引(ひき)はづし、刀持(もち)たる手を、つかともに握りひしぎ、前へ引居(ひしす)へ、

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし。己、さこそ命のおしかるべし。我を誰(たれ)とかおもふ。愛宕山太郎坊天狗とは我(わが)事也。然に、此道におのれが樣なるあぶれもの有(あり)て旅客をなやますと聞(きき)、いましむべき爲(ため)、あらはれたり。命斗(ばかり)はたすくるなり。已來、能々(よくよく)愼め。」

とて刀をもぎ取(とり)、刃(やいば)の方を首のかたへ押(おし)まげ、二重三重に卷付(まきつけ)、道の傍(かたはら)なる松の木へ、したゝかにくゝり付(つく)。

 其後は、上方へ登り、五、六年も過(すぎ)て、右馬介、入湯(にふたう)するに、骨ふとく、長(たけ)たかき坊主の、俄道心(にはかだうしん)とみへたるが、首へ布切を卷(まき)ながら、湯へ入あり。

 右馬介、見て、

「御出家、首のまわりを布にて包み給ふは、いたみ有(あり)ての事か。布をといて、入(いり)玉へ。」

といふ。

 坊主は目をふさぎ、唯、餘言(よげん)なく念佛斗(ばかり)申居(まうしゐ)たりけるが、是を聞(きき)て申(まうす)樣(やう)、

「さんげに罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

 某(それがし)は元近江路にて、鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎とて、隱れなき盜人の内にて、天狗次郎とは我(わが)事也。某、十三の年より、辻切(つぢぎり)をいたし、四、五年以前迄、凡(およそ)人の弐、三百も切殺(きりころ)し候べし。

 關山通(どほり)に立出(たちいで)、往來の旅人を待(まつ)所に、壱人の旅の男、來(きた)る。

『尋常の者ぞ。』

と、やすやすと心得、引(ひつ)とらへひつぱがんと致し候得ば、彼(かの)もの、十刀太郎が首元をとらまへ、蟲けらをひしく樣にひしぎ殺し候へて、其後、我をとらへ、殺しもやらず生(いか)しもやらず、如此(かくごとく)刀の刃を首の方へおし𢌞し卷付置(まきつけおき)て、則(すなはち)、壱丈斗(ばかり)の大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候。此刀、何とぞ首よりはづし申度(まうしたく)、樣々致し候得ども、人力(じんりき)に及不申(およびまうさず)。是非なく、ケ樣(かやう)に首を卷、差置候に隨ひ、霜、刃にふれ、皮、切(きれ)、肉、たゞれ、痛(いたみ)、難忍(しのびがたし)。此(この)湯に入(いり)、痛をたて候得ば、白瘡(はくさう)をさゝげ、ふた、作り、膿水(のうすい)、とまり、暫(しばらく)の内、心よく罷成(まかりなり)候。今は昔の猛惡を後悔し、一心に彌陀成佛を願(ねがひ)候。」

とて首の布をはづすをみれば、我(われ)からみたる刀なり。

 右馬介、

『扨は伊勢路の盜賊よ。』

と心に思ひ、人なき所へ坊主をよひよせ、

「其時の旅人は、我也。此(これ)以來、必(かならず)、惡心をひるがへし、佛道に歸依して、生涯を終るべし。」

と、能々(よくよく)、後來(こうらい)、禁(いまし)め、刀のまきめに、ゆびを入(いれ)、一はじき、はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

 坊主、手を合(あは)せ、淚を流し、

「我、深き御慈悲にて大苦痛をまぬかれ、現世未來成佛身(げんせみらいじやうぶつしん)を得候。此以來、いかならん御奉公成(なり)とも可仕(つかまつるべく)候。御家來になし、召仕(めしつか)はれ給はるべし。命、限り御みや仕へ申すべし。」

とて、夫(それ)より、主從の契約(ちぎり)をなし、隨身(ずゐじん)、給仕なしたりとなん。

 此右烏介、尾州より美作の國へ越(こゆ)る時、乘物、弐挺(ちやう)の棒をくゝり合(あはせ)、老母と妻と男子弐人とをのせて、棒の先へ具足櫃(ぐそくびつ)・葛籠(つづら)のたぐひ、結ひ付(つけ)、夫(それ)を右馬介壱人にて、かるがると荷行(にゆき)たり。

 又、ある時、ためしものを切に、目釘穴、くぼく、目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに、目釘竹を取(とり)て、目釘穴にあてて指を以(もつて)是(これ)ををすに、目釘竹のめぐり、削(けずるる)がごとくにかけて、目釘穴のうら迄、通りたり。鐵槌(かなづち)にて打共(うつとも)、可入(いるるべき)物に、あらず。

 力の分限、知りがたし。

 森家の侍には、すべて、大力、多し。不破伴左衞門は、其身、鐵體(てつたい)にてや有(あり)けん、名越三左衞門、備前兼光を以(もつて)切に、澁皮(しぶかは)も、むけず。

 森家の者共、指料(さしれう)の刀、壹腰(ひとこし)も切るゝ事なく、鎗にて、やうやう、突殺(つきころ)しけるといへり。

 不破が力は高木に一倍ましたり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「高木右馬助」(明暦二(一六五六)年~延享三(一七四六)年)は江戸前期から中期にかけて実在した知られた武術家。名は重貞。もと、美作津山藩士で、十六歳で高木折右衛門より高木流体術の極意を受け、後に竹内流を学んで、「高木流体術腰回り」を創始した。自らの号をとって「格外流」とも称した。その後、浪人して美濃に住み、九十一歳の天寿を全うした(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼」(慶長一五(一六一〇)年~元禄一一(一六九八)年)は大名。寛永一一(一六三四)年に美作津山藩(現在の岡山県津山市)第二代藩主。延宝二(一六七四)年に隠居した。後、死の前年の元禄十年に津山藩改易されるが、備中西江原藩二万石を与えられて、そこで森家を再興している。本来、彼は森忠政の重臣関成次の長男であったが、忠政の実子が全て早世したため、忠政の外孫に当たる長継が忠政の養子に選ばれた。

「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」これは「新古今和歌集」の「巻第十七 雑歌」に載る西行法師の一首(一六一三番歌)、

 

    伊勢にまかりける時よめる

 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらん

 

を指す。

「七尺」二メートル一二センチメートル。

「柿の頭巾」柿渋で染めた頭巾。防水効果がある。

「四尺」一メートル二十一センチメートル。これはとんでもない長刀である。

「兩人」ここまで叙述はやや不親切。盗人は二人組である。

「平包」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。

「三輪の謠(うたひ)」謡曲名。玄賓僧都(げんぴんそうず)(ワキ)が毎日庵を訪れる一人の女(前シテ)に衣を与えたが、三輪の神杉にその衣がかかっているというので行ってみると、三輪明神(後シテ)が現れ、三輪の神話を語り、天の岩戸の神楽を舞うというストーリー。

「秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ」謡曲「三輪」の前半の前シテとワキの問答の一節(太字部分)。前後を含めて引く。

   *

上ゲ歌

地〽 秋寒き窓の内 秋寒き窓の内 軒の松風うちしぐれ 木の葉かき敷く庭の面(おも) 門(かど)は葎(むぐら)や閉ぢつらん 下樋(したひの)の水音も 苔に聞えて靜かなる 此の山住(やまず)みぞ淋しき

問答

シテ

「いかに上人に申すべきことの候。秋も夜寒(よさむ)になり候へば、おん衣(ころも)を一重(へ)たまはり候へ。

ワキ「易き間(あいだ)のこと。この衣を參らせ候ふべし。

シテ「あらありがたや候。さらば御暇申し候はん。」

ワキ「暫く。さてさておん身はいづくに住む人ぞ。」

シテ「わらはが住み家(か)は三輪の里。山もと近き處なり。その上、『我が庵(いほ)は三輪の山もと戀しくは』とは詠みたれども、何しに我をば訪(と)ひ給ふべき。なほも不審に思し召さば、訪(とふら)へ來ませ。」

   *

シテの台詞の「我が庵は三輪の山もと戀しくは」は「古今和歌集」の「雑下」に載る「よみ人知らず」の一首(九八二番歌)「わが庵は三輪の山もと戀しくはとぶらひ來ませ杉立てる門」で、古注では「三輪の明神の歌」とされるので、伏線と言える。

「大竹丸」大嶽丸。ウィキの「大嶽丸」より引く。『伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる鬼。峠を雲で覆って暴風雨や雷、火の粉など神通力を操った』。『鈴鹿峠周辺には大嶽丸を討伐した坂上田村麻呂を祀る田村神社(甲賀市)や、大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺(東近江市)などが今も点在している』。『御伽草子『田村草子』では、俊仁将軍の子である「ふせり殿」と称した田村丸俊宗が退治した伊勢鈴鹿山の鬼神が大嶽丸である』。なお、『『田村草子』では田村丸俊宗という名前であるが、『鈴鹿草子』『鈴鹿物語』『田村三代記』ではそれぞれ名前が異なるため、以下』、『田村麻呂で統一する』。『桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民や都への貢物が届かなくなり、帝は坂上田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じ、田村麻呂は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へ向かった。大嶽丸は悪知恵を働かせて峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨を起こして雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村麻呂の軍を数年に渡って足止めした』。『一方で鈴鹿山には天下った鈴鹿御前という天女が住んでいた。大嶽丸は鈴鹿御前の美貌に一夜の契りを交わしたいと心を悩ませ、美しい童子や公家などに変化して夜な夜な鈴鹿御前の館へと赴くものの、思いは叶わなかった。大嶽丸の居場所を掴めずにいた田村麻呂が神仏に祈願したところ、その夜に微睡んでいると』、『老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられた。田村麻呂は三万騎の軍を都へ帰し、一人で鈴鹿山を進むと見目麗しい女性が現れ、誘われるままに館へ入り閨で契りを交わす。女性が「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と鈴鹿御前であった女性の助力を得た』。『鈴鹿御前の案内で大嶽丸の棲む鬼が城へ辿り着いたものの、鈴鹿御前から「大嶽丸は三明の剣に守護されて倒せない」と告げられる。鈴鹿御前の館へ戻り、夜になると童子に変化した大嶽丸がやってきた。鈴鹿御前が大嶽丸に「田村麻呂という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」と返歌すると、大嶽丸から大通連と小通連を手に入れた。次の夜も館へ来た大嶽丸と、待ち構えていた田村麻呂が激戦を繰り広げる。正体を現した大嶽丸は身丈十丈の鬼神となり』、『日月の様に光る眼で田村麻呂を睨み、天地を響かせ、氷の如き剣や鉾を投げつけたが、田村麻呂が信仰する千手観音と毘沙門天が払い落とした。大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村麻呂が神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分かれて数千もの鬼の顔を射る。大嶽丸は抵抗するも、最後は田村麻呂が投げた騒速』(そはや:坂上田村麻呂が奥州征伐に遠征する際、兵庫県加東市の清水寺に祈願し、無事帰京したことで奉納したと伝えられる大刀)『現に首を落とされた。大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧され、田村麻呂は武功で賜った伊賀国で鈴鹿御前と夫婦として暮らした』。『ところが大嶽丸は魂魄となって天竺へと戻り、顕明連の力で再び鬼神となって陸奥国霧山に立て籠って日本を乱し始めたため、田村麻呂と鈴鹿御前は討伐のために陸奥へと向かった。大嶽丸は霧山に難攻不落の鬼が城を築いていたが、田村麻呂はかつて鈴鹿山で鬼が城を見ていたため』、『搦め手から鬼が城へと入ることができた。そこに大嶽丸が蝦夷が島の八面大王の元より戻ってきて激戦となり、再び田村麻呂によって首を落とされた。大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村麻呂の兜に食らいつくが、兜を重ねて被っていたため』、『難を脱し、大嶽丸の首はそのまま死んだ。大嶽丸の首は宇治の平等院に納められたという』。『江戸時代の東北では、御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』などを底本として、東北各地に残る田村麻呂伝説と融合した奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』で語られた』。『渡辺本『田村三代記・全』では大嶽丸は鈴鹿山に棲んでおらず、登場時から奥州霧山嶽を居城としている』。『鈴木本『田村三代記』では天竺の八大龍王の配下、青野本『田村三代記』では天竺の金毘羅大王の配下とされる』。『「達谷窟が岩屋に御堂を建立して毘沙門天を納めた」など、『吾妻鑑』をはじめ東北での田村麻呂伝説に準えた内容がふんだんに取り入れられ、地域に即した改変がなされているのも『田村三代記』の特徴である』。『大嶽丸は悪路王と同一視されることもある。伊能嘉矩は、各地の伝承に見える大嶽丸・大竹丸・大武丸・大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたと結論している』。『小松和彦は今日では鈴鹿山の大嶽丸の名はあまり知られていないが、かつての京の都では大嶽丸は大江山の酒呑童子と並び称されるほどの妖怪・鬼神であったとしている』とある。本篇は、今までの諸篇と異なり、奥州色がないが、或いは、この再生した大嶽丸の奥州での再起や、平安時代初期の蝦夷の首長悪路王伝承との絡みによって、或いは三坂の意識の中で奥州と通底していたものかも知れない

「十刀太郎」読み不祥。「じっとう」か「とがたな」か。

「引(ひき)はづし」真後ろへ素早く退いて、かわし。

「握りひしぎ」「握り拉ぎ」。握り潰し。

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし」ネット検索を掛けると、「源平盛衰記」の一本(私の所持するものには見当たらなかった)の「巻第十五 宇治合戦」(治承四(一一八〇)年五月の以仁王と源頼政の「橋合戦」のシーン)の中にこの文字列を見出せた「一切衆生法界圓滿輪皆是身命爲第一寶(いつさいしゅじゅあほうかいゑんまんりんかいぜしんみやうだいいつほう)とて生ある者は、皆、命を惜しむ習ひなれ共」である。これが出典か?

「愛宕山太郎坊天狗」無論、相手を決定的に脅すための詐称。相手が「天狗次郎」(この時には相手がそっちだは認識していない)ならば、当然、言上げで勝てる名であるからである。

「入湯(にふたう)するに」温泉名が書かれていない。有馬か。

「布をといて、入(いり)玉へ」高木は布を巻いた首の部分まで(というよりも、後で判る通り、その首のためにこそ入っているのであるが)湯にどっぷりと浸かっているのを見て、不潔を咎めたのである。

「さんげ」「懺悔」。本邦では近世まで清音が普通。に罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

「關山通(どほり)」宿(ここ(グーグル・マップ・データ))から北西に鈴鹿峠を越える道筋。関山は関宿の後背の山並みを指す。

「壱丈」約三メートル。

「大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候」話を作ったというより、その恐るべき怪力(刀の先を首の周りに曲げて輪にして枷のようにかけた事実に驚愕し、その詐称を鵜呑みにして、幻覚を見たとすべきところであろう。或いは、作話する意識が幾分かあり、そこにこの男の弱さを見て取った高木は最後の仕上げを以下でした、と言うのが正しいのかも知れない。

「痛をたて」「たて」は「斷て」か。一時的に痛みを止めることが出来るというのであろう。「白瘡(はくさう)をさゝげ」傷口の爛れた部分が白い瘡になって剝がれてぶら下がり。

「ふた、作り」その後に瘡蓋が出来て。

「膿水(のうすい)、とまり」膿の浸出もおさまり。

「からみたる」「絡みたる」素手で捻じ曲げて頸に絡ませた。

「まきめ」「捲き目」。曲げて捲きつけた箇所。

「はじき」「彈(はじ)き」。はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

「ためしものを切ルに」名刀工の名物や新たに打った刀の試し切りをする際に。

「目釘」刀身が柄から抜けるのを防ぐため、刀の茎(なかご)の穴と柄の表面の穴とに刺し通す釘。竹・銅などを用いる。目貫(めぬき)とも呼ぶ。

「くぼく」窪んでいるだけで、中央に穴が開いているだけであったか、或いは後の叙述から見るに、針ほどの貫通穴さえ開いていなかったのかも知れぬ。

「目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに」目釘竹の方は、穴(或いはただの窪み)よりも一回り大きいものであったのであるが。

「不破伴左衞門」不詳。「不破が力は高木の」その「倍」はあったというのだか、どうも私はこの最後の部分がよく判らぬ。「森家の侍にはすべて大力」が多かったとして、彼の名を出すのだから、不破は森家の家臣としか読めないだろう。

彼は「森家の者共」がその「指料(さしれう)の刀」を如何に振っても、一つの傷も不破に与えることが出来ず(さすればこそ恐らくは最初に出る「名越三左衞門」(不詳)も森家家臣であろうとしか読めぬのだ)、結局「鎗」(やり)で、やっと突き殺した、というのは、訳が分からん。不破なる大力の家臣が乱心したのかしらん? 識者の御教授を乞うものである。

「備前兼光」既出既注。]

老媼茶話巻之三 如丹亡靈 / 老媼茶話巻之三~了

 

     如丹(じよたん)亡靈

 

 奧州會津大口(おほくち)村といふ所に大仙寺といふ山寺有(あり)。此寺に如丹(じよたん)といふ美僧、住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])せり。此僧、元、しら川の武士、男色のことにて人を打(うち)、十六の年、出家し、當年貳拾三に成(なる)と、いへり。

 其頃、曹洞宗の學僧多き中に、文志・愚學・如丹、此三僧也。文志は金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村龍谷寺に住し、愚學は五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)の住呂(ヂウりよ)。如丹は此寺に住せり。

 此村に庄右衞門といふ百姓の娘に「まき」といふ美女あり。如丹、究(きはめ)て美僧なりしかば、まき、深く思ひ込(こみ)、人目を包(つつ)み、月日を送れり。

 大仙寺の庭に、梅・桃、多(おほく)植(うえ)て、數をつらね、花開落の後(のち)、實を結ぶ。

 夏の初(はじめ)より、まき、來り、寺の軒端に彳(たたずみ)て、もの思(おもふ)氣色(けしき)有(ある)に似たり。

 ある時、又、女、來り、礫(つぶて)を以て桃を落(おとす)。

 如丹、戸をひらき、女をしかりて、

「いとけなき童は桃を落すも是非なし、汝、いくつの年にて、いたづらをするぞ。桃も未(いまだ)、熟すまじ。重(かさね)て來たらんは、くせ事たるべし。」

といふ。女、笑(わらひ)て、

「桃に色々有(あり)、山桃・さ桃・姫桃。」

と云(いひ)て、目に情をよせ、戲(たまむれ)て、梅子(ばいし)をなげて如丹に打(うつ)。

 

 如丹、女のけしきをみて、心有(こころある)事を知り、戸をとぢて、取(とり)あわず。

 或(ある)五月雨(さみだれ)の夕(ゆふべ)、小夜更(さよふけ)て、如丹が寢屋の戸をたゝく。

「誰(たそ)。」

といへば、音なく答へねば、また、たゝく。

 如丹、止事(やむごと)なく、戸をひらけば、女、急ぎ、内いる。

 如丹、驚(おどろき)て、

「汝、何(なん)とて、夜、來(きた)る。」

女の曰(いはく)、

「日頃、御僧の我を匂引し玉ふ、其心有(そのこころある)を知(しり)て、今宵、爰(ここ)に來れり。」[やぶちゃん注:「匂引」は注で考証する。]

 如丹、女を押出(おしいだ)し、

「佛邪婬(ぶつじやいん)の、いましむ。汝、我(わが)爲の外道(げだう)なり。早々家に歸れ。」

女、聞(きき)て、

「我、爰に來る事、覺悟なきにあらず。僧、かたく情(なさけ)をいどまば、爰に死(しし)て、二度(ふたたび)、家に歸らじ。さのみ、こと葉(ば)をついやすべからず。もし、壱度(ひとたび)同床に枕をならべば、此(これ)已後、二度(ふたたび)情(なさけ)をしとふまじ。」

 如丹、是非なく、其夜は、かの心に隨ふ。

 女、悦(よろこび)て日頃の心ざしをとげ、曉、家に歸りぬ。