和漢三才圖會卷第四十一
攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編
水禽類
つる 仙禽 胎禽
【龢名豆留】
鶴
唐音 ポ
本艸綱目云鶴狀大於鵠長三尺餘喙長四寸丹頂赤目
赤頰青脚修頸凋尾粗膝纖指白羽黑翎亦有灰色蒼色
者嘗以夜半鳴【雞知將旦鶴知夜半】聲唳雲霄【高亮聞八九里】雄鳴上風雌
鳴下風聲交而孕亦啖蛇虺聞降眞香烟則降其糞能化
石皆物類相感也羽族之宗仙人之驥也陽鳥而遊于陰
行必依洲渚止不集林木二年落子毛易黑點三年産伏
又七年羽翮具又七年飛薄雲漢又七年鳴中律又七年
大毛落氄毛生或白如雪或黑如漆須六十年雌雄相視
而孕千六百年形始定飮不食乃胎化也故名胎禽【謂鶴不卵
生者誤也】
△按有眞鶴丹頂鶴黑鶴白鶴之四種【右所説者卽丹頂鶴】
丹頂鶴 極大而頰埀亦長其頂丹故名
眞鶴 高四五尺長三尺許項無丹頰赤全體灰白色
但翮端尾端保呂端共黑而本皆白謂之鶴本白以造
箭羽或爲羽帚賞之肉味極美故名眞鶴
黑鶴 高三四尺長二三尺白頸赤頰騮脚其余皆黑
肉味亦佳一種同黑鶴而色淡者名薄墨
白鶴 赤頰玄翎赤脚其余皆白其肉可入藥用
凡鶴觜皆青白色羽數四十八尾羽數十二
鶴肉血【氣味】甘鹹有香臭【與他禽不同】中華人不爲食品本朝以
爲上撰其丹頂者肉硬味不美故食之者少但官家養
庭池之間有作巣者聲交而乳其乳恐膝脚之損傷而
輕輕折膝立時亦然竟巣于野叢性有智育卵於池島
避狐犬之害雄雌代護之初欲生卵之時雄先卜其処
以啄刺地寸寸試之不使蟲蛇伏于地中然後雌生卵
大如椰子而一孕生四五或八九子其雛初黃毛白嘴
短翼長脛而淺蒼色漸長者謂雛鶴
徃昔賴朝公所放鶴今亦來徃駿遠之田澤偶有觀之
者謂翼間有金札記年號焉
凡諸禽血生羶不能啜惟鶴血入溫酒啜甚良
鶴骨 爲笛甚清越也今俗用脛骨揩磨造噐最宜婦人
之笄能解諸蟲毒又采聚鶴骨和鹽黑燒謂之黑鹽以
治血暈及金瘡折傷之氣絶
古今難波かた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る
凡鶴食餌每一啄一粒也故物委曲譬鶴之拾粟
*
つる 仙禽 胎禽
【龢名〔(わめい)〕「豆留」。】
鶴
唐音 ポ
「本艸綱目」に云く、鶴、狀〔(かたち)〕、鵠(はくちやう)より大にして、長さ、三尺餘り。喙〔(くちばし)〕の長さ、四寸、丹(あか)き頂〔(うなじ)〕、赤き目、赤き頰、青き脚、修(のゐ)たる頸、凋(しぼ)める尾、粗(あら)き膝、纖(ほそ)き指、白き羽、黑き翎〔(かざきり)あり〕。亦、灰色・蒼色の者、有り。嘗て夜半を以つて鳴き【雞は將に旦〔(あ)けん〕とするを知り、鶴、夜半を知る。】、聲、雲霄〔(うんしやう)〕に唳〔(とど)〕く【高亮〔(こうりやう)〕〔として〕八、九里に聞こゆ。】。雄は上風に鳴き、雌は下風に鳴く。聲を交へて而〔して〕孕〔(はら)〕む。亦、蛇(へび)・虺(まむし)を啖らふ。降眞香〔(かうしんかう)〕の烟〔(けぶり)〕を聞くときは、則ち、降〔(お)〕る。其の糞、能く石に化す。皆、物類の相感なり。羽族の宗、仙人の驥(のりもの)なり。陽鳥にして陰に遊ぶ。行くときは、必ず、洲(す)・渚(なぎさ)に依り、止〔(とど)〕るに、林木に〔は〕集らず。二年にして、子毛〔(しまう)〕を落して黑點に易(か)ふ。三年にして産伏す。又、七年にして、羽-翮(はがい)、具〔(そな)〕はり、又、七年にして飛びて、雲漢〔(あまのがは)〕に薄(せま)る。又、七年にして、鳴くこと、律に中〔(あた)〕る。又、七年にして、大(ふと)き毛、落ち、氄毛(にこげ)、生ず。或いは白くして、雪のごとく、或いは黑くして漆のごとし。〔百〕六十年を須〔(ま)ちて〕、雌雄(めを)、相ひ視て、孕む。千六百年にして、形、始めて定まり、飮みて食はず。乃〔(すなは)〕ち、「胎化(たいくわ)」なり。故に「胎禽」と名づく。【「鶴、卵生せず」と謂ふは誤りなり。】〔と〕。
△按ずるに、眞鶴(まなづる)・丹頂鶴・黑鶴・白鶴の四種有り【右〔に〕説く所〔の〕者は、卽ち、丹頂鶴なり。】。
丹頂鶴は 極めて大にして、頰の埀(たれ)も亦、長く、其の頂き、丹〔(あか)〕し。故に名づく。
眞鶴(まなづる)は 高さ、四、五尺、長さ、三尺許り。項に、丹、無し。頰、赤く、全體、灰白色。但し、翮〔(はねもと)〕の端、尾の端、保呂〔(ほろ)〕の端、共に黑くして、本〔(もと)〕は皆、白〔たり。〕之れを「鶴の本白〔(ほんしろ)〕」と謂ふ。以つて箭〔(や)〕の羽に造(は)ぐ。或いは、羽帚〔(はねはうき)〕に爲(つく)る。之れを賞す。肉の味、極めて美なり。故に「眞鶴」と名づく。
黑鶴〔(こくつる)〕は 高さ、三、四尺、長さ、二、三尺。白き頸、赤き頰、騮(ぶち)の脚、其の余は皆、黑く、肉の味、亦、佳なり。一種、黑鶴に同じくして、色、淡(あさ)き者を「薄墨(うす〔ずみ〕)」と名づく。
白鶴〔(はくつる)〕は 赤き頰、玄〔(くろ)〕き翎〔(かざきり)〕、赤き脚、其の余は皆、白し。其の肉、藥用に入るべし。
凡そ、鶴の觜〔(くちばし)〕は皆、青白色。羽の數、四十八。尾の羽數、十二あり。
鶴の肉・血 【氣味】、甘、鹹。香臭〔(かうしう)〕有り【他〔の〕禽と〔は〕同じからず。】。中華の人、食品と爲さず。本朝には以つて上撰と爲す。其の丹頂は、肉、硬(こは)く、味、美ならず。故に之れを食ふ者、少しなり。但し、官家、庭池の間に養ひて、巣を作る者、有り。聲を交えて乳(つる)む。其の乳むに、膝脚〔(ひざあし)〕の損傷せんことを恐る。輕輕と〔して〕膝を折り、立つ時も亦、然り。竟〔(つひ)〕に野叢に巣〔(すく)〕ふ。性、智、在りて、卵を池島に育てて、狐・犬の害を避く。雄雌、代(かはるがはる)之れを護る。初め、卵を生まんと欲するの時〔は〕、雄、先づ、其の処を卜〔(ぼく)〕し、以つて地を啄(つゝ)き刺(さ)し、寸寸に之れを試む。蟲・蛇、地中に伏せしめざらしめ、然る後、雌、卵を生ず。大いさ、椰子のごとくにして一孕〔(ひとはらみ)〕に四、五を、或いは、八、九子を生〔(う)む〕。其の雛(ひな)、初め、黃なる毛、白き嘴、短き翼、長き脛〔(すね)〕にて、淺蒼色なり。漸く長ずる者を「雛鶴」と謂ふ。
徃昔〔(むかし)〕、賴朝公の放(はな)つ所の鶴、今も亦、駿遠〔(すんえん)〕の田澤に來徃す。偶々、之れを觀る者有り。謂く、「翼の間に金札有りて、年號を記せり」〔と〕。
凡そ、諸禽の血、生-羶(なまぐさ)くして、啜(すゝ)ること、能はず。惟だ、鶴の血は溫酒に入れて啜るに、甚だ良し。
鶴骨〔(かくこつ)〕 笛に爲(つく)り〔て〕甚だ清越〔(せいえつ)〕なり。今、俗、脛の骨を用ひて、揩(す)り磨〔(ま)して〕、噐〔(うつは)〕に造る。最も婦人の笄(かんざし)に宜〔(よろ)〕し。能く諸蟲の毒を解す。又、鶴の骨を采聚〔(さいしゆ)〕して、鹽に和(ま)ぜ、黑燒す。之れを「黑鹽」と謂ひ、以つて血暈〔(けつうん)〕及び金瘡・折傷の氣、絶ち、治す。
「古今」難波がた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る
凡そ、鶴、餌を食ふに、每〔(つね)に〕一啄〔(たく)〕一粒〔(りふ)〕なり。故に、物の委曲なることを「鶴の粟を拾ふ」に譬〔(たと)〕ふ。
[やぶちゃん注:動物界 Animalia脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata鳥綱 Avesツル目 Gruiformesツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearica・ツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に分かれる。本文に頭の鶴総論部では丹頂鶴を基本として記しているとあるから、ここにはツル属タンチョウ Grus japonensis を挙げておく必要がある。但し、これは文字通りに採ってはいけないことが、以下の引用(下線太字部)で判る。ウィキの「タンチョウ」によれば(下線太字やぶちゃん)、『日本(北海道東部)、ロシア南東部、中華人民共和国、大韓民国北部、朝鮮民主主義人民共和国』に分布で観察出来るが、本来、同種は『アムール川流域で繁殖し、冬季になると江蘇省沿岸部や朝鮮半島ヘ南下し越冬する』のが基本であった。『日本では北海道東部に周年生息(留鳥)し、襟裳岬以東の太平洋岸・根室海峡沿岸部・オホーツク地区』で、一九八二年『以降は国後島や歯舞諸島』で、二〇〇四年『以降は宗谷地区でも繁殖している』。『越冬地は主に釧路湿原周辺だったが、近年は十勝平野西部や根室地区での越冬例が確認・増加している』。『日本で最も有名な生息地は釧路湿原一帯であるが』、ごく『稀に石狩平野の上空を飛来することがあり、鳴き声が聞かれる』。二〇一五年五月三十一日には『札幌上空で飛来が確認され』ている。全長は百二~百四十七センチメートル、翼長六十四~六十七センチメートル、翼開長は二メート四十センチメートルにも及び、体重は四~一〇・五キログラムで、『全身の羽衣は白』く、『眼先から喉、頸部にかけての羽衣は黒い』。『頭頂には羽毛がなく、赤い皮膚が裸出する』漢名・和名の『タン(丹)は「赤い」の意で、頭頂に露出した皮膚に由来する』。『虹彩は黒や暗褐色』、『嘴は長く、色彩は黄色や黄褐色。後肢は黒い』。『次列風切や三列風切は黒い』。『気管は胸骨(竜骨突起)の間を曲がりくねる』。『湿原、湖沼、河川などに』棲息し、『冬季には家族群もしくは家族群が合流した群れを形成する』。『日本の個体群と大陸産の個体群は鳴き交わしに差異がある』。『食性は雑食で、昆虫やその幼虫、エビ類・カニ類などの甲殻類、カタツムリ類・タニシ類などの貝類、ドジョウ類・コイ・ヤチウグイ・ヌマガレイなどの魚類、エゾアカガエルなどのカエル、アオジ・コヨシキリなどの鳥類の雛、ヤチネズミ類などの哺乳類、セリ・ハコベなどの葉、アシ・スゲ・フキなどの芽、スギナの茎、フトモモ・ミズナラなどの果実などを食べる』。『繁殖様式は卵生。繁殖期に』一~七『平方キロメートルの縄張りを形成』し、『湿原(北海道の個体群は塩性湿原で繁殖した例もあり)や浅瀬に草や木の枝などを積み上げた直径』百五十センチメートル、高さ三十センチメートル『に達する皿状の巣を作り、日本では』二『月下旬から』四『月下旬に』一~二『個の卵を産む』。『日本では大規模な湿原の減少に伴い、河川改修によってできた三日月湖や河川上流域にある小規模な湿地での繁殖例が増加している』。『雌雄交代で抱卵』を行い、『抱卵期間は』三十一日から三十六日で、『雛は孵化してから約』百『日で飛翔できるようになる』。本邦では崇徳天皇の治世であった長承二(一一三三)年の『詩序集が丹頂という名称の初出と推定されている』。『奈良時代以降は他種と区別されず』、『単に「たづ・つる」とされ、主に「しらたづ・しろつる」といえば本種を差していたが』、『ソデグロヅル』(ツル属ソデグロヅル Grus leucogeranus:額から眼先・顔にかけて羽毛が無く、赤い皮膚が裸出し、嘴も淡赤色や暗赤色・灰赤褐色で、後肢も淡赤色を呈する)『も含んでいたと推定されている』。『江戸時代には白鶴は主にソデグロヅルを指すようになったが、本種が白鶴とされる例もあった』。『江戸時代の草本学でも、現代と同様に鶴といえば』、『本種を指す例が多かった』。寛文六(一六六六)年(第四代将軍)徳川家綱の治世)の「訓蒙図彙」では『鶴(くわく)の別名として「つる、たづ、仙禽」が挙げられ』、「仙禽」は『本種の漢名であること、不審な点はあるものの』、『図から鶴といえば』、『主に本種を差していたと推定されている』。一方で、それから二十九年後の元禄八(一六九五)年の「頭書増補訓蒙図彙」では、『図は変わらないものの、本種ではなく』、『ソデグロヅルかマナヅル』(ツル属マナヅル Grus vipio:眼の周囲から嘴の基部にかけて羽毛が無く、赤い皮膚が裸出し、後肢も淡赤色・暗赤色を呈する)『を差したと思われる』「本草網目」『からの引用・訳文と推定される解説(頬や後肢が赤い)が付け加えられている』。さらにそれから九十四年後の天明九(一七八九)年(第十一代将軍家斉の治世)の「頭書増補訓蒙図彙大成」では、『解説は変わらないものの』、『図が新たに描きおこされ、たんてう(丹頂)の別名も追加され』ている。「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年刊)では、鶴は「和名類聚抄」にある『葦鶴(あしたづ)であるとして俗称は丹頂であると紹介している』。本「和漢三才図会」の完成は正徳二(一七一二)年頃であるから、認識の錯誤は微妙であるものの、「頭書増補訓蒙図彙」が最も直近であり、無批判に「本草網目」を引いている点などからは、ソデグロヅル(本邦への冬鳥としての飛来は稀)かマナヅル(九州南西部の鹿児島県出水(いずみ)市の出水平野が飛来地としてよく知られる)を良安がタンチョウと誤認している可能性もあるが、良安の附言は少なくともマナヅルとを明確に区別しているので、一応、タンチョウを正しく認識しているとしてよかろう。以下、ウィキでも『古くはより広域に分布し』、『一般的であったか、後述するように縁起物や芸術作品といった造形物を目にする機会が多かったことから』、『鶴といえば本種という認識が定着していったと考えられている』ともある。但し、『一方で』、『古くは現代よりも広域に分布していたとはいえ』、『日本全体では本種を見ることはまれであり、実際には鶴はマナヅルを差していたという反論もある』ともある(しかし、後に江戸の飛来地の話も出るので、この反論をそのまま受け入れることは躊躇される)。『地域差もあり』、備後国・周防国・長門国の『文献では鶴の別名を「マナツル」としており、これらの地域では鶴はマナヅルを指していたと推定されている』。紀州国では『特徴(頭頂が白く頬が赤い)から鶴(白鶴)はソデグロヅルを指していたと推定され、紀産禽類尋問誌(年代不明)では丹頂は飛来しないとする記述がある』。宝永五(一七〇八)年(徳川綱吉の治世末期)の「大和本草」には『頭頂が赤く後肢が黒い松前(北海道)に分布する「丹鳥」という鳥類の記述があるが、色は黒いとされている』。小野蘭山の寛政一三(一八〇一)年の「大和本草批正」では、『「丹頂」と「丹鳥」を区別し、「丹鳥」は「玄鶴」であるとしている』。但し、『玄鶴に関しては定義が不明瞭なため同定は困難で』『複数の説がある』『「丹鳥」を本種とする考えもあり』、『「丹鳥」を「丹頂」に書き換える例も多く見られるが、古くは「丹鳥」は複数の定義をもつ語であったと考えられ』、「大戴礼記」・「壒嚢鈔」・「和爾雅」では昆虫の『ホタルの別名』とし、「本草網目目録啓蒙」では鳥の『キンケイを指す語であったと推定されている』。『アイヌ語では「サロルンカムイ」と呼ばれ』、『「葦原の神」の意』で、『縁起物や芸術作品のモチーフとされることもあった』。本種タンチョウは一九六四年に『北海道の道鳥に指定されている』。現生地であった『アムール川流域では』、『野火による植生の変化や巣材の減少により』、また、『中華人民共和国では』、『農地開発による繁殖地の破壊などにより』、『生息数は減少している』。本邦でも、実は大正一三(一九二四)年に『釧路湿原で再発見されるまでは絶滅したと考えられていた』。現在、北海道での生息数は増加しているものの、『人間への依存度が高くなり、生息数増加に伴う繁殖地の不足が問題となっている』。『生息環境の悪化、他種の鳥類も含む過密化による感染症などのおそれ、電柱による死亡事故・車両や列車との交通事故・牛用の屎尿溜めへの落下事故の増加などの問題も発生して』おり、『餌づけの餌目当てに集まるキタキツネ・エゾシカ・オジロワシ・オオワシなどと接する機会が増えるが、これらのうち』、『捕食者に対しては餌付け場で捕食されることはないものの』、『見慣れることで警戒心がなくなってしまうこと』や、『イヌやシカについては』、『湿原の奥地まで侵入』することから、『繁殖への影響が懸念されている』。日本では北海道庁がいち早く明治二二(一八八九)年に狩猟を禁止し、三年後の明治二十五年には日本国内でのツル類の狩猟が全面的に禁止されている。昭和一〇(一九三五)年、『繁殖地も含めて国の天然記念物』となり、昭和二七(一九五二)年、『「釧路のタンチョウ」として繁殖地も含めて特別天然記念物、一九六七年には』『地域を定めず』、『種として特別天然記念物に指定され』、一九九三年に『種の保存法施行に伴い』、『国内希少野生動植物種に指定されている』。北海道での二〇〇四年に於ける生息数は千羽以上、二〇一二年における確認数は千四百七十羽で生息数は千五百羽『以上と推定されている』。『江戸時代には、江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた』。『タンチョウは』毎年十月から三月に『かけて見られたとい』い、『幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた』。『給餌の際は』、『ささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという』。『タンチョウは』午後六時頃から朝六時頃までは『どこかへ飛び去るので、その間は矢来内に入ることを許された』。『近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという』。一方で、『こうした“鶴御飼附場”では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた』。『東アジアにおいては古くから、タンチョウはその清楚な体色と気品のある体つきにより特に神聖視され、瑞鳥とされ』、『ひいては縁起のよい意匠として、文学や美術のモチーフに多用されてきた』。『また、「皇太子の乗る車」を指して「鶴駕(かくが)」と呼ぶ』『ように、高貴の象徴ともされた』。『道教的世界観の中ではとくに仙人、仙道と結びつけられ、タンチョウ自体がたいへんな長寿であると考えられた』『ほか、寿星老人』(本邦で七福神の一人である福禄寿と同一視される)『が仙鶴に乗って飛来するとか』、『周の霊王の太子晋が仙人となって白鶴に乗って去った』『といった説話が伝えられている』。『なお、古来の日本で「花」といえば梅を指したのと同じように、伝統的には、中国や日本で単に「鶴」と言えばタンチョウを指しているのが通常である』。本邦では八『世紀の皇族・長屋王の邸宅跡地からはタンチョウらしき鶴の描かれた土器が出土しており、これが現在知られている中で最古のタンチョウを描いた文物で』、一般的な鶴(古名「たづ」)は、『平安時代から室町時代にかけては鏡の装飾に鶴文(つるもん)が多く使われた』。『鶴ほど広範囲にさまざまな意匠に用いられているモチーフは他に例がなく』、『鎌倉時代の太刀や笈(おい)、紀貫之の用いた和歌料紙、厳島神社の蒔絵小唐櫃、日光東照宮陽明門の丸柱、仁阿弥の陶器、海の長者の大漁祝い着、沖縄の紅型染め、久留米の絵絣、修学院離宮の茶室に見られる羽子板形の七宝引手、光琳の群鶴文蒔絵硯箱、江戸の釜師・名越善正の鋳た鶴に亀甲菊文蓋の茶釜など、その実例を挙げるにおよんでは枚挙にいとまがない』。『室町時代に入る前後から』、『宋・元時代の中国から花鳥画の習俗が日本へ入ってくると、優美な姿のタンチョウは好んで描かれるモチーフのひとつとなり、伊藤若冲のような画風の異なるものも含め、多くの画家によって現在まで多数の作品が描かれている』。『通俗的には、「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と能曲『鶴亀』や地唄にも謡われるように、鶴と亀はいずれも長寿のシンボルとされ、往々にしてセットで描かれてきたほか、また花鳥画以来の伝統として松竹梅などとあわせて描かれることも多い。花札の役札「松に鶴」などもこうした流れのものであるということができる』。『アイヌ民族の間にはタンチョウの舞をモチーフにした舞踊なども伝えられている』。『中国で最も初期の鶴を象った文物といえば春秋戦国時代の青銅器「蓮鶴方壺(中国語版)」がよく知られているが、さらに古い殷商時代にも墳墓から鶴を象った彫刻が出土しているという』。また、『道教では、前述のとおり、タンチョウは仙人の象徴、不老長寿の象徴とされ珍重された』一方、『俗信としては、タンチョウの頭頂部からは猛毒の物質が採れるとされ、「鶴頂紅」「丹毒」などと呼ばれることがあった』とある(水銀(丹)との類感呪術であろう)。
「鵠(はくちやう)」古語「くぐひ」。白鳥のこと。鳥綱カモ目 Anseriformes カモ科 Anatidae Anserinae亜科のハクチョウ類。
「翎〔(かざきり)あり〕」推定訓。明らかに羽の中の特定の部位を指している読んで、「風切り羽(ば)」と採った。鳥の翼の後縁を成す、長く丈夫な羽。飛翔 に用いられ、この部分の羽は骨から生えており、外側から内側へ向かって初列・次列・三列と区分が出来、特に初列風切り羽は、羽ばたく際の推力を発生させる重要な部位である。
「雲霄〔(うんしやう)〕」雲の浮かぶ空の高いところ。
「唳〔(とど)〕く」届く。達する。
「高亮〔(こうりやう)〕」通常、志高く行いの正しいことを指す。ここは陽気の王である鶴の一声の毅然とのびやかでよく通ることを形容した。
「上風」草木の上を吹き渡る風。或いは風上。
「下風」草木の下、地面近くを吹き渡る風。或いは風下。雌雄で天然自然の上下双方向に闡明する能力を示すものであろうから、どちらかを採る必要を私は全く感じない。
「聲を交へて而〔して〕孕〔(はら)〕む」声のみで交尾を行い、雌がそれで卵を孕むというのである。まさに神仙の鳥に相応しい美しいコイツスではないか!
「降眞香〔(かうしんかう)〕」中国やタイなどで産する香木から作る香料。サイト「健康食品辞典」の「降真香」によれば、現在の「降真香」の基原植物には中国名「降香黄檀」マメ目マメ科ニオイシタン(匂紫檀/ダルベルギア・オドリフェラ)Dallbergia odorifera(高級香木として知られるマメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ツルサイカチ属 Dalbergia の紫檀とは同じマメ科ではあるが、全く関係がないので注意)の根の心材を用いる場合と、:ムクロジ目ミカン科 Rutaceaeミカン科オオバゲッケイ Acronychia oedunculata の心材や根を用いる場合とがあるとある。『降真檀は中国の広東省の海南島、広西省に分布し、栽培される』十~十五メートルにも『達する高木である。薬材は紅褐色ないし紫褐色でつやがあり、硬くてよい匂いがし、焼くと強い芳香がする。かつて降真香としてインド産のインド黄檀(D.sisoo)や海南黄檀(D.hainanensis)なども用いていたが、これらは表面が淡黄色から黄褐色である』。『漢方では理気・活血・健脾の効能があり、足腰の痛みや心痛、胃痛、打撲傷などに用いる。打撲や捻挫などには乳香・没薬などと配合して服用する。外傷には止痛・止血を目的として粉末を外用する。現在、マメ科の降真香は中国政府により輸出が禁止されている』とある。
「物類の相感なり」陰陽五行説に於ける、特殊特別な属性を持つもの同士が惹かれたり、本来の性質が予期せず、別な性質や別な物質にメタモルフォーゼする現象。
「羽族の宗」羽根を持つ生物、鳥の本源的鳥。
「驥(のりもの)」乗り物。
「陽鳥にして陰に遊ぶ」陽に満ちた鳥でありながら、自由自在に、陰気に満ちた時空間でも悠々と飛び遊ぶ事が出来る。
「子毛〔(しまう)〕を落して黑點に易(か)ふ」子鶴であった頃の毛を生え変わらせて、黒い模様のついた白羽に変える。
「産伏」生殖行動がとれるようになることであろう。
「羽-翮(はがい)」歴史的仮名遣は正しくは「はがひ」。狭義には、鳥の左右の羽の畳んだ際に重なる部分を指すが、ここは全体の羽の謂いでよかろう。
「雲漢〔(あまのがは)〕」東洋文庫訳を参考にした。銀河の天の川である。
「薄(せま)る」「迫る」。肉薄する。
「律に中〔(あた)〕る」妙なる楽曲の正しい音律と一致するようになる。
「大(ふと)き」「大」はママ。
「氄毛(にこげ)」「柔毛」「和毛」。柔らかい毛。また赤ん坊の時のような産毛に戻るのである。まさに仙鳥としての若返りの極みである。
「〔百〕六十年」次が「千六百年」なのに妙にショボいと思い、「本草綱目」を見たら、「百六十年」となっていたので、挿入した。
「須〔(ま)ちて〕」「待ちて」。
「雌雄(めを)」ルビはママ。
「相ひ視て、孕む」声の次はなんと! 視線を見交わすだけでコイツス完了! 羨ましい限りではないか!!!
「飮みて食はず」東洋文庫訳では『水だけ飲んで食事はしなくなる』とある。
「胎化(たいくわ)」胎内回帰!!!
「黑鶴」ツル属クロヅル Grus grus 。『ヨーロッパ北部のスカンジナビア半島からシベリア東部のコリマ川周辺にいたるユーラシア大陸で繁殖し、ヨーロッパ南部、アフリカ大陸北東部、インド北部、中国などで越冬する』。『日本には、毎冬少数が鹿児島県の出水ツル渡来地に渡来するが、その他の地区ではまれである』。『過去、鹿児島県のほかには、北海道、茨城県、静岡県、山口県、徳島県、沖縄県本島』、『埼玉県、兵庫県、鳥取県、島根県、新潟県佐渡、香川県、福岡県、長崎県、熊本県』、『奄美大島での記録がある』。全長百十~百二十五センチメートル、翼開長百八十~二百センチメートル、翼長五十五~六十三センチメートル、体重は♂で五・一~六・一キログラムでメスはやや軽い。『雌雄同色。成鳥の頭頂は赤く裸出し、まばらに黒く細い毛状の羽毛が生え』、『後頭から眼先、喉から頸部前面の羽衣は黒く、頭部の眼の後方から頸部側面にかけては白い』。『胴体の羽衣は淡灰褐色または灰黒色』で、『和名は全体的に黒っぽいことに由来する』とある。詳しくは引用したウィキの「クロヅル」を参照されたい。
「白鶴」「シロヅル」という和名を持つ種は現行はいない。ツル属アメリカシロヅル Grus Americana はいるが、本種は日本に棲息しないし、「アメリカ」の取れた和名のそれも見当たらない。良安の言っているのは、タンチョウやマナヅルの、幼体か子供か若い個体或いは完全なアルビノ個体ではなかろうか。
「頰の埀(たれ)」露出した肌の誤認。
「翮〔(はねもと)〕」マナヅルの写真を見ての推定訓。「翮」は狭義には「羽根の茎」「羽根の生えている根元」の謂いであるからである。
「保呂〔(ほろ)〕」「保呂羽(ほろば)」鳥の両翼の下にある羽。
「造(は)ぐ」「矧(は)ぐ」。矢竹に羽をつけて矢を作る。
「賞す」食用として喫する。
「騮(ぶち)」東洋文庫訳のルビに従った。斑(ぶち)。
「羽の數、四十八。尾の羽數、十二あり」これが正しいかどうかは、分らん。識者の御教授を乞うしかない。
「香臭〔(かうしう)〕」「香」を頭に冠しているからには、それなりに良い香りが含まれているものと思われる。だから「他〔の〕禽と〔は〕同じからず」と言っているのである。
「中華の人、食品と爲さず」かの中国人が食べないということはないと思うが、先のウィキの引用から考えると、タンチョウを始めとする鶴の類は、神聖な瑞鳥で、縁起がよく、高貴の象徴であり、道教の神仙世界とのアクセスする存在、同時に長寿の象徴であるから、そういう意味で、民俗社会に於いて食べることが憚られたとは言えるであろう。
「輕輕と〔して〕」なるべくゆっくりと。
「竟〔(つゐ)〕に野叢に巣〔(すく)〕ふ」高官の屋敷の庭園で買っていても結局は野の叢に巣を作りに出て行ってしまう、と受けた表現であろう。
「池島」池の中の孤立した島。
「卜〔(ぼく)〕し」占って。ゆっくりとした歩き方や餌をつつく様子は、確かに道家の方士の呪術的歩行法である「禹步(うほ)」のようにも見えなくはない。
「賴朝公の放(はな)つ所の鶴……」私は不勉強にして、この話を知らなかったが、静岡県磐田市の「中遠広域事務組合」公式サイト内の「中遠昔ばなし」の中の「鶴ヶ池(磐田市)」に、この話が載っていた。「磐田昔ばなし」よりとある。
《引用開始》
1195年の10月のこと。鎌倉に幕府をつくった源頼朝は、諸国を統一したあと、東海道を通って京都へ上がることになりました。
その頃の幕府の役人が記した道中日誌に、四日間の空白があります。この間に頼朝は、兄の朝長の墓を供養(放生会)したと伝えられています。
朝長の墓があるのが、今の袋井市(友永)の積雲院門前。京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした兄の墓へ詣でて供養したのです。
供養のための放生会は、近くの池のほとりで大々的に行われ、黄金の札をつけた数多くの鶴が放たれました。以来、人々は、この池を鶴ヶ池と呼ぶようになったということです。鶴の寿命は千年。江戸時代、羽に札をつけた鶴を捕まえた人が、「おそらくは、頼朝が放生会で放った鶴だろう。」と言ったという話が、幕末期の随筆に書かれています。
《引用終了》
「駿遠〔(すんえん)〕」駿河国と遠江国。
「金札」放生会(ほうじょうえ)で放した鳥であることを示し、獲ってもそれで知れて、放すことを目指した、金で出来た小さな札。前の伝承を参照。
「年號」放生のために放った折りの年号。先の伝承から考えると、建久六年となる。
「生-羶(なまぐさ)く」「腥く」。生臭い。
「溫酒」燗酒。
「清越〔(せいえつ)〕」音(ね)がこの上もなく清らかで澄んでいること。
「噐〔(うつは)〕」そんなに太い骨ではないから、盃のようなものか。
「采聚〔(さいしゆ)〕」採り集め。
「血暈〔(けつうん)〕」東洋文庫訳割注は『めまい』とする。
「氣、絶ち、治す」東洋文庫訳は上記の障害『による気絶を治す』とするが採らない。原典には送り仮名の「チ」がはっきりと送られてあるからである。されば、私は貧血性の眩暈(めまい)・刃物による創傷・開放或いは単純骨折による悪心(おしん)を絶って、治す、と採る。
「難波がた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る」「古今和歌集」の「巻第十七 雑歌上」の、「読み人知らず」の海辺での詠歌二十首の第四(九一三番歌)。整序すると、
難波潟潮(しほ)滿ち來らし海人衣(あまごろも)田蓑(たみの)の島に田鶴(たづ)鳴き渡る
で、「田蓑」は田圃仕事をする蓑に島の名としての田蓑島を掛けているとするが、この名の島は不明(一説に大阪市天王寺辺りにあった島ともされる)。
「物の委曲なること」「委曲を尽くす」こと。検証や説明などを詳しくして、細かいところまで目を行き届かせること。]