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2017/10/31

北條九代記 卷第十一 伏見院御卽位

 

      ○伏見院御卽位

 

同十年六月に、將軍惟康を中納言に任ぜられ、右大將を兼給ふ。同月十七日、北條彈正少弼業時(なりとき)は、職を辭して入道せらる。左近將監宣時は、時房には孫にて、武蔵守朝直(ともなほ)の三男なりけるを、文才優美の人なりければ、業時の替(かはり)として、貞時、舉(きよ)し申され、執權の加判せらる。北條泰村は京都六波羅の職を止めて、鎌倉に下向あり。同十月、將軍惟康に親王の宣下有りて、二品(ほん)に叙せらる。同月二十一日、京都には主上御讓位の御事あり。主上、今年、僅(わづか)二十一歳に成らせ給ふ。龜山の新院も、只今の御讓位は餘(あまり)に早速(さうそく)の御事なれば、未だ遲からず、御殘(おんのこり)多く思召(おぼしめ)し、主上も本意ならずと聞えさせ給へども、後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし、只、疾(とく)御位を讓らせ給はんは、然るべき太平比和(たいへいひわ)の御基(もとゐ)たるべき旨、關東より奏し申せば、御心の儘ならず、俄に御讓位有りて、東宮熈仁(ひろひと)、御位に卽(つか)せ給ふ。軈(やが)て院號奉りて、後宇多天皇とぞ申しける。改元有りて、正應と號す。御卽位の主上は、是、後深草院第二の皇子、御母は玄輝門院と稱す。山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)公の御娘とぞ聞えし。東宮二十三歳にて御位に卽き給へば、二條左大臣師忠(もろただ)公、關白たり。この時に當りて、後深草、龜山、後宇多天皇にて、太上天皇、三人まで、おはします。後深草院、政(まつりごと)を知召(しろしめ)す。是を一院とも又は本院とも申し奉る。龜山院は中院(なかのゐん)と稱し、後宇多を新院と號す。昔に引替へて、何事に付きても天下の政道は露程(つゆほど)も綺(いろ)ひ給はず、打潛(うちひそ)みたる御有樣にて、其方樣の人々は、自(おのづから)、影もなきやうにぞ見えける。正應元年六月、西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘、入内あり。是等の事までも皆、關東より計(はかり)申して、萬(よろづ)、御心にも任せ奉らず。榮枯、地を換(かふ)るとは見えながら. 誠には賴難(たのみがた)き世の中なりと、高きも賤しきも、思はぬ人はなかりけり。

 

[やぶちゃん注:「同十年六月」前話「城介泰盛誅戮」(霜月騒動)の最終時制は弘安八(一二八五)年であるから、誤り將軍惟康親王が中納言に任ぜられ、右近衛大将兼任となるのは、弘安一〇(一二八七)年 六月六日である。惟康親王は当時、満二十三歳。

「同月十七日、北條彈正少弼業時は、職を辭して入道せらる」既注であるが、再掲しておく。北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には北条重時の四男であったが、年下の異母弟北条義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。但し、出家の日付は十八日の誤り。この八日後の六月二十六日に享年四十七で逝去している。

「左近將監宣時」(暦仁元(一二三八)年~元亨三(一三二三)年)この時、執権北条貞時の連署(「加判」)となった。和歌にも優れ、また、何より彼は「徒然草」第二百十五段での、第五代執権北条時頼との若き日のエピソードによって、実は誰もが知っている人物なのである。

   *

 平(たひらの)宣時朝臣(あそん)、老の後(のち)、昔語りに、

「最明寺入道、或宵の間(ま)に呼ばるる事ありしに、

『やがて。』

と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくて、とかくせしほどに、また、使(つかひ)、來りて、

『直垂などの候はぬにや。夜(よる)なれば、異樣(ことやう)なりとも、疾(と)く。』

とありしかば、萎(な)えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子(てうし)に土器(かはらけ)取り添へて持て出でて、

『この酒を獨り食(たう)べんがさうざうしければ、申しつるなり。肴(さかな)こそなけれ、人は靜まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ。』

とありしかば、紙燭(しそく)さして、隅々を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出でて、

『これぞ求め得て候ふ。』

と申ししかば、

『事足りなん。』

とて、心よく數献(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか。」

と申されき。

   *

「武蔵守朝直(ともなほ)」(建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)は時房の四男であったが、長兄時盛が佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は、突然、出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世し、北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けた。但し、寄合衆には任ぜられてはいない。北条大仏(おさらぎ)流の祖。

「貞時」第九代執権。

「北條泰村」「北條時村」の誤り。既注であるが、これも再掲しておく。北条時村(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は第七代執権北条政村の嫡男。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』、この弘安一〇(一二八七)年に『鎌倉に呼び戻されて引付衆の一番頭人に任じられ』た。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし」自分の子である熈仁(ひろひと:即位して伏見天皇(文永二(一二六五)年~文保元(一三一七)年)の即位を、である。

「太平比和(たいへいひわ)」天下泰平と、後深草上皇(持明院統)と後宇多天皇(大覚寺統)の二流の和睦。

「俄に御讓位有りて、東宮、御位に卽(つか)せ給ふ」即位は弘安十年十月二十一日。

「後宇多天皇」誤り。「天皇」ではなく「上皇」である。

「改元有りて、正應と號す」改元は翌弘安十一年四月二十八日。

「玄輝門院」洞院愔子(とういんいんし 寛元四(一二四六)年~元徳元(一三二九)年)。

「山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)」洞院実雄(承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)は公卿で洞院家の祖。従一位左大臣。娘三人がそれぞれ三人の天皇(亀山・後深草天皇・伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、三人の天皇(後宇多・伏見・花園)の外祖父ともなった(ウィキの「洞院実雄に拠る)。

「二條左大臣師忠(もろただ)」(建長六(一二五四)年~興国二/暦応四(一三四一)年)は関白二条良実の三男。兄道良の早世により二条家を継いだ。この直前の弘安一〇(一二八七)年八月、関白・氏長者となっている。彼は正応二(一二八九)年に関白を辞し、永仁二(一二九四)年に出家しているが、その後も実に南北朝期まで長生きした。

「綺(いろ)ひ給はず」関与なさらず。

「西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘」伏見天皇中宮西園寺鏱子(さいおんじしょうし 文永八(一二七一)年~興国三/康永元(一三四二)年)。従一位太政大臣西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)の長女。正応元(一二八八)年六月二日に入内、同月八日、女御、さらに同年八月二十日には中宮となった。参照したウィキの「西園寺鏱子によれば、『実子は生まれなかったが、典侍五辻経子が生んだ東宮胤仁(のちの後伏見天皇)を猶子とし、手許で育てた』とあり、また、『伏見天皇の東宮時代から京極為兼が仕えていたことから、歌を京極為兼に師事し、為兼や伏見天皇を中心とする京極派の歌人として』「玉葉和歌集」「風雅和歌集」等に多くの歌を残している、とある。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) あとがき 附 詩篇「誰と諍ふべきか」~全篇電子化完遂!

 

   あとがき

 

 本書は、謂はば傳統的ともいふべき『散文詩』Stikhotvoryeniye v proeye なる標題の下に、『散文詩』及ぴ『散文詩拾遺』の二つの部分を含ませたものである。この二つの部分の成り立ちに就いては、それぞれ異つた歷史がある。その第一部は、普通SENILIAと呼び慣はされてゐるもので、現在五十一篇を含んでゐる。これに、最近發見された第二部の三十一篇、また更に後段に述べる他の一篇を加へて、總計八十三篇が、現在知られてゐる「散文詩」の總数である。

[やぶちゃん注:Stikhotvoryeniye v proeye」本書の原題(ロシア語)「Стихотворение в прозе」のラテン文字転写。原語をカタカナ音写すると「シチハトヴァリエーニイ・フ・プロジェ」(прозеが「散文」の意)。]

 この SENILIA といふ別題の意味は「老いたる」、つまり「老いたる言葉」とも解すべきかと思ふが(事實、鷗外漁史は「月草」の中でこれに觸れて、「耄語」として居られる)[やぶちゃん注:「月草」は明二九(一八九六)年春陽堂刊の森鷗外の評論・随筆集であるが、この言及部分は現在、私には確認し得ない。当該書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。発見し次第、追記する。]、これはまた原稿發送の包紙の上に、作者がおそらくふとした自嘲、または嗟嘆の気持で記した文字であつて、果して彼がどこまでこの題名に執着があつたかは疑問である。ここではただ美しい傍題と解して置いた。「散文詩」といふ呼名こそトゥルダーネフがこの種の作品に冠すべく意圖したもので、明かにボードレールの Petits poèmes en prose あたりの暗示から来てゐるが、ロシヤ文學にも元來この傳統はあつたのである。その最も著名でもあり、同時にロシヤに於ける散文詩のプロトティプとも看倣されるのはゴーゴリが『死せる魂』の第一部の終段に持出した、あの象徴的な「ロシヤのトロイカ」の數行であらう。トゥルゲーネフの長短の小説になると、殊にこの種の象徴的な觀照を寓した個所が多かつた。例へば旱く一八五七年に書かれた短篇『森林地帶の旅』 Poezdka v Polesie [やぶちゃん注:原題「Поездка в Полесье」。但し、現行ではラテン文字転写は「Poezdka v Polesyeである。]の中で、ふと梢の先にとまつた蜻蛉を見る條に――

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げでポイント落ち。前後を一行空けた。これ以降も同じであるが、この注は略す。]

 

 ……長いあひだ、一時間あまりも、私は眼を離さずにそれを見つめてゐた。總身を日の光に透き徹らせ、蜻蛉はじつと動かずに、ただ時々首を左右に𢌞し、薄翅を上げて顫はせた。……それだけである。その姿を見てゐるうちに、私には急に自然界の生活の意味――少しの疑を挾む餘地もない程明瞭でありながら、多くの人々にはまだ隱されてゐる意味が、解るやうに思はれた。靜かに緩やかな生氣、感覺と生命力の悠々として逼らぬ營み、個々の生き物に籠る健康さの危ふげのない平衡感……これこそ、自然界の生活の礎をなすものなのだ。その不易の法則であり、その依つて立ち、且つ維持される基なのだ。……

 

 と言ひ、また『その前夜』 nakanune [やぶちゃん注:原題は「Накануне」。]――の終を結ぶところに、

 

 人生はなんと早く過ぎてしまつたのだ。死はなんと間近に迫つて來たのだ。死は、魚を捕へた網を暫く水の中に放つて置く漁夫に似てゐる。魚はまだ泳いでゐる。だが綱が既にその身を圍んでゐる。そして漁夫は、いりでも攫み出せるのだ。

 

 とある風な觀照は、彼の作の隨所に散見して、當時彼が祭り込まれてゐた所謂リアリズムなる稱號とは何かしら別な、時に瞑想的、時に優雅、時に田園詩風な趣を與へてゐたものである。ここに收錄された八十二の散文詩も形式の上から見るとき、亦このやうな觀照なり印象なりを個々に獨立させたものと見ることができる。その或るものは、後により展開させ發展させて、小説の題材乃至はその一節に使ふ氣持もあつたと思へるが(『めぐりあひ』の註參照)、身近に迫る死の意識が彼にこの意圖を抛棄させて、その形のままの發表を決心させたのでもあつたらう。從つてまた見逃せぬことは、そこに痛々しい老年の歌が盛られてゐることである。

[やぶちゃん注:「『めぐりあひ』の註」こちら。]

 いま「散文詩」に就いて語るとき、特に強調して置きたいのは、それが決して、作者の秩序ある詩想に貫かれら一卷の詩集ではないことである。上田博士の『みをつくし』以來、わが國の讀書界は殆ど自らの傳統のやうにして、この「散文詩」のすぐれた飜譯に豊富であつた一方には、或ひは小説家トゥルゲーネフの「すさび」として、その美しさや優しさなどが強調され、或ひは文書學の一種の軌範として珍重され、何かの意圖された統一が強ひられ、その故に不當の讚仰を呼び、また不當の貶黜や冷遇を招いて來はしなかつたか。何かそこにないものを幻想し、あるものからは知らず識らず眼を外らしがちではなかつたであらうか。……再び言ふ、ここに盛られてゐるのは、痛々しい老年の歌である。その歌聲は落着きある統一的なものとよりは、著しく分裂的である。その光は生命の中心に向つて聚一的であるとよりは、寧ろ深まりゆく生命の中心から逆に放射しがちである。そしてこの放射光のうちに、まざまざと私達の眼前に浮び上るものは、トゥルゲーネフの謂はば「裸にされた魂」の姿である。

[やぶちゃん注:「上田博士の『みをつくし』」明治三四(一九〇一)年文友館刊上田敏の訳詩集。ツルゲーネフの本「散文詩」中の「田舍世界」以下、「戰はむ哉」の全十篇の訳を収録する。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。なお、上田は翌年の『明星』に「一僧」「あすは、明日は」「露西亞の言葉」三篇も訳出しており、現在、これらは岩波文庫の「上田敏全訳詩集」で読める。これら十三篇は近い将来、電子化する。]

 この意味から、『散文詩』は爭ひ難い明瞭な危機の産物であつて、決して澄みかへつた老成の心境が生んだものではない。だからこそこれは、その眞摯さ、率直さ、力強さに依つて、あの『獵人記』 Zapiski okhotnika と照應しつつトウルゲーネフの二つの代表作を形成するものと言へる。『獵人記』が正の方向への出發であつたとすれば、『散文詩』は明かに負の方向への出發であり動搖であつた。その響きは正しく悲劇的である。それを否定することはできないが、然しこれとて、屢〻謬られるやうに、絶望や締觀の響と見ることは到底できない。事實は寧ろ正反對であつて、そこに夥しい數を占めて、常々ある程度の貴族的な衿持を彼に見慣れて來た私達を驚かすのは、何より先づ苛立たしい刺笑(『好敵手』、「ふた兒』)ではあるまいか。これが更に一步を進めて、殆ど粗々しくまた子供つぽい毒舌(『阿房』、『スフインクス』)・となつて、衰へてゆく生命の激しい反撥の力を示す反面に、靜かな肯定的の沈潜を見せて母國の自然、その力に對する信念(『村』、『ロシヤ語』)ともなり、轉じて人間生活への溫い讚美の歌(『乞食』、『マーシャ』、『ほどこし』)に、更には愛に懸ける深い信賴(『雀』、『二兄弟』、『航海』)ともなる。その單調なあらはれを透しても、トゥルゲーネフの内心悲劇の複雜性、その單なる絶望諦觀の境との乖離の度合を彷徨し得るのであるが、更に致命的な悲劇は、生きようとする者の欲望を蹂躙り、その欲望が強けれぱ強いだけ執拗に身近に迫る肉體の死の氣配(『老婆』、『犬』、『砂時計』)、またそれに伴ふ精神の深いおびえ(『獨り居のとき』)にある。好んで『夢』の形式で物語られるこの最後の主題は、恐らく全篇を通じての最も印象強いものであり、更にこれは、意外なほどに生々しい血を滴らす老年の滿たされぬ愛の懺悔――苦澁な執着の告白(『薔薇』、『岩』、『めぐりあひ』)で彩られる。時に生の途に起き上らうとする老人の激發的な努力(『なほも闘ふ』)によつて、愈々研ぎ澄まされるこれらの悲劇は、その奥底に於いてなんの絶望的な要素をも擔つてはゐるものではない。寧ろ、絶望諦觀の境に堕し得ぬ、また堕する事を欲せぬ人の必死の苦鬪の、餘りにも歷々たる表出に過ぎない。

[やぶちゃん注:「『獵人記』「狩人日記」(Zapiski okhotnika私も「散文詩」とともに偏愛する作品。私はちらで中山中山省三郎氏の訳他(タイトル十二篇十五種)を公開している。]

 つまりトゥルゲーネフの『散文詩』は叙上の幾つかの主要な分光に自ら分裂しつつ、更にそれが内心外界の樣々な印象觀照を衝いて、無數の散光となつて相交錯する所に捉へられた生命の危機の歌であつて、決して死の歌ではないのだ。もし單に後者であつたとすれば、その刃發表後既に五十年を經た今日、果して幾何の命脈を保ち得たであらうか。事實、絶望乃至諦觀の歌と目すべきもの(『老人』、『私は憐れむ』)は、極めて小さい部分を占めてゐるに過ぎないのである。要約的に言へば彼の悲劇は、生命の深い力を内藏し、生きようとする嚴しい熱意と誠實に燃えながら感じ、觀照し、思想しつつ、しかも肉體の力に裏切られ、死の急湍に押流されてゆく所に胚胎してゐる。觀念の悲劇の前を肉體の悲劇がすり拔けて走つてゐる點に懸つてゐる。

[やぶちゃん注:以下、底本は一行空けであるが、引用の前後と区別するために二行空けた。]

 

 

 所謂“SENILIA”五十一篇が發表された契機は、頗る偶然的なものであつた。それは一八八二年の夏、彼の死の一年ほど前に、雜誌『ヨーロツパ報知』 Vestnik Europy[やぶちゃん注:原語「Вестника Европы」。]の主幹スタシュレーヴィチ(M.  M.  Stasjulevich)[やぶちゃん注:Стасюлевич Михаил Матвеевич(一八二六年~一九一一年)。がトゥルゲーネフを巴里に訪問した折、偶然その幾枚かの草稿が、「いはば畫家が大作に役立てる爲にするヱスキース、エチュードのやうなもの」といふ前置きつきで、彼の前に積み上げられたことを機緣としてゐる。しかし既に大作を企てる氣力のなかつた彼は、その死後の發表をスタシュレーヴィチに托さうとしたが、終にその熱心な勸めを容れて、五十篇を選んで發表を諾したものである。殘る一篇はすなはち『しきゐ』であつて、それの數奇な運命に就いては『註』に記して置いたから此處では言はない[やぶちゃん注:こちら。]。かうしてこれらの詩篇は、同年十二月の『ヨーロッパ報知』に、次のやうな編輯者の言を附して發表された。――

 イヴァン・セルゲーヴィチ・トゥルゲーネフは吾々の請を容れて、最近五ケ年間に於けるその個人的また社會的生活に得られたあれこれの印象のままを紙片に記しとどめられた折節の觀察、思念、心像などを、いま直ちに本誌の讀者に分たれることになつた。それは孰れも、他の數多の斷片と同じく、既に公にされた完成作中に收容されなかつたものであつて、別に一集を形作りてゐる。作者は今の所、その中から五十の斷片を選ばれた。

 原稿に添へて本誌に寄せられた書簡の末段に、トゥルゲーネフは次のことを述べてをられる。――

 

 『讀者よ、この散文詩を[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]、一息には讀み給ふな。一息に讀めば恐らくは退屈して、この書は空しく君の手を落ちよう。今日はこれ、明日はあれと、氣の向くままに讀み給へ。そのとき、中の何れかは、ふと君の心に觸れるかも知れぬ。……』

 原稿には題が附せられてゐない。作者は包紙の上に SENILIA――老人の語、と記されたが、吾々は作者が前掲の書簡の中にふと漏された『散文詩』なる言葉の法を選び取つて總題とした。吾々の見る所ではこの標題は、人生の諸問題に對する敏感と多樣さとを以て鳴る作者の魂に、この種の觀察を齎した源泉を十分に表現してゐると同時に、讀者の「心に觸れて」喚び起すべき感銘の豐富さをも、よく表出してゐるものと思はれる。(下略)

 

 すなはち、ここに明かに語られてゐる如く、それはトゥルゲネフが草稿として持つてゐた散文詩の全部ではないのであつて、五十篇の抄出に當つては「私生活に渉るものは嚴格に除外」(同年九月ポロンスキイ宛の手紙)された。また彼は、「私的なもの、自傳的なものは、私の日記と共に破毀さるべきものであるから、悉く除外した」(同年十二月グレゴローヴィチ宛の手紙)と言つてゐるが、除外された散文詩の運命がどんなものであつたか、又その幾つが破毀されずに、後に發見された三十一篇の中に殘つたかは、全く推測を許さない。とまれ、トゥルゲーネフと親しかつた女優サーヴィナM. G.  Savina)[やぶちゃん注:Ма́рья Гаври́ловна Са́вина (一八五四年~一九一五年)。]が、一八八一年の夏、彼の郷里スパスコエに客となつたたきの囘想などは、その幾篇かが燒却されたことを明かに物語つてゐる。以下はサーヴィナの囘想をベリャーエフといふ人が綴つたものである。――

 

 それは一八八一年に、サーヴィナか夏のあひだ客になつたスパスコエ・ルトヴィノヴォでのことである。暑い一日が終つて凉しくなると、トゥルゲーネフは自分の部屋からバルコンに出て來て、彼女に言ふのだつた、「さあ、懺悔を伺ひませう。」

 懺悔といふのは二人の間の通り言葉で、サーヴィナはその時になると、本當に坊さんの前で懺悔でもする樣子になつて、それが夜更けまで續くことも珍しくなかつた。暗い庭の後から大空に浮び出た三日月にも、池の方から吹寄せて來る濕氣にも、もう大分前から部屋にはいつて、しゆんしゆん鳴つてゐるサモワルに向ふべき時が來ていゐるのにも氣づかず、一心に語りつづけるこのロシヤ女優の物語に、トゥルゲーフは半ば眼を閉ぢて、變らぬ微笑を湛へながら聽入つた。

 或る晩、やはりこのやうな長い、心からの告白のあとで、トゥルゲーネフはひどく心を動かされた見え、急に立上るとサーヴィナの手を取つて言つた、『書齊へ行きませう。これまで誰の前でも讀んだことのないものを、貴女に讀んで上げたい。……』

 書齊にはいると、トゥルゲーネフは書卓の抽斗から一册の手帳を出して、サーヴィナを肘懸椅子に掛けさせて言つた、「これは私の散文詩です。ただ一つ、決して發表はしないことにしてゐるのを除けば、あとは皆スタシュレーヴィチに送つてやりました。(勿論これはサーヴィナの記憶の誤であるが)……』

 『散文詩つて、なんでせう』とサーヴィナは好奇の眼を上げた。

 『今それを讀んで上げます。本當は散文なんかぢやないのですよ。……これは本當の詩で、『彼女に』といふ題です。」

 さう言て、感動に顫へる聲で、彼はこの陰氣なエレジイ風の「人に寄せる歌」を讀み上げた。

 「今でも覺えてゐます」とサーヴィナは語る、「その詩には、思ひの通はぬ戀が描いてありました。一生のあひだの長い長い戀が。……『御身は私の花をみな摘み取つた』と書いてありました、『だのに私の墓を訪れもしない。』……」

 朗讀が濟むと、トゥルゲーネフは暫く默つてゐた。

 「この詩はどうなさるの」と、サーヴィナは堪らなくなつて聞いた。

 「燒いてしまふのです。……とても發表はできません。だつてこれは非難、墓場からの非難ですから。そんなことはできない。とてもできない。」

 

 これはただ一つの詩に關する運命ではなく、そのほかにも空しく火中へ投ぜられた詩篇は、或ひはかなりの數に上つてゐるであらう。このやうな運命とは別に、偶然に湮滅を免れた詩が一つあつて、もしこれを算入するなら、『散文詩』(SENILIA の部分)は五十二篇になる譯である。――

[やぶちゃん注:以下は全体が一字下げとなっているが、無視した。この後は一行空けとなっているので、前後を二行空けた。]

 

 

  誰と諍ふべきか

 

――自分よりも賢い人と諍へ。彼は君を負かすだらう。だが君の敗北から、君は自らの利益を抽き出せる。

――賢さの同じ人と諍へ。よし孰れが勝たうとも、君は少くも鬪ひの悦びを味ふ。

――賢さの劣れる人と諍へ。勝利をめあてでなしに諍へ。とにかく君は、彼の利益になつてやれる。

――愚人とさへも諍へ。名譽も利益も手にはいらぬが、人は時に、嬉戲すベきではないか。

――ただ、ヴラヂーミル・スターソフとだけは諍ふな。

             一八七八年六月

 

 

 これは一八八二年十月、スタシュレーヴィチ宛の私信の中に、「君の一笑を買はんがために」と前置きして記されたものであるが、其後一八八八年になつて、これがスターソフ自身の手で發表された所を見ると、或ひは彼の許にも送られてゐたのかも知れない。このスターソフV. V.  Stasov,  1824―1906)といふのは、美術音樂の著名な批評家で、トゥルゲーネフとは交友の殘からぬ人であつた。

[やぶちゃん注:「ヴラヂーミル・スターソフ」はロシアの芸術評論家ウラディーミル・ヴァシーリエヴィチ・スターソフВлади́мир Васи́льевич Ста́сов:ラテン文字転写:Vladimir Vasilievich Stasov)。ィキウラディーミル・スターソフによれば、存命中は、恐らくロシアで最も尊敬される批評家であったという。ツルゲーネフは一八一八年生まれであるから、彼より六歳年上であった。因みにツルゲーネフは一八八三年九月三日に六十四歳で没している。]

 『散文詩拾遺』と題した三十一篇は、巴里のヴィアルドオ家の書庫で最近見された草稿の中にあつた八十三篇の散文詩から、前述の五十二篇を引去つた殘りである。もともとトゥルゲーネフは、『ヨーロッパ報知』に第一囘分の五十篇を發表したのち、もし反響が好まましかつたなら、更に五十篇を選んで發表する豫定であつた。この素志は遂に果されなかつたが、新に發見された三十一篇は、二三の所謂「私的なもの」の混入してゐるのを除けば、殆どみな第二次の發表に充てらるべきものだつたことは疑ひを容れない。この部分はコレージュ・ド・フランスの André Mazon  教授の手で校訂され、『新散文詩』と題して  Charles Salomon  の佛譯とともに一九三〇年巴里で限定出版された。

 以上のやうな成立ちを有する「散文詩」は、従つて異本に富んでゐる。更にトゥルゲーネフ自身が發表の後に屢〻草稿に手を入れた個所を考へに入れると、いづれを正本とすべきかは、かなり迷はされる問題である。この譯者の底本にはレニンラード“ACADEMIA”版(一九三一年)を用ひた。

 

                  譯者

 

[やぶちゃん注:「ヴィアルドオ」既注であるが、再掲しておくと、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)。彼の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったのが、ルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)であった。

「コレージュ・ド・フランス」(Collège de France)はフランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立の特別高等教育機関。

André Mazon」(一八八一年~一九六七年)はロシア語・ロシア文学者。

Charles Salomon」(一八六二年~一九三六年)。フランス語サイトを見る限りでは、本業は医師のようである。

 この後が奥附となるが、省略する。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶬鷄(おほとり)〔ケリ?〕


Tageri

大とり   鶬鴰 麋鴰

      鴰鹿 麥鷄

鶬鷄

      【俗云於保鳥】

ツアン キイ

本綱鶬鷄食于田澤洲渚之間狀如鶴大而青蒼色亦有

灰色者頂無丹兩頰紅長頸高脚羣飛可以候霜

肉【氣味】甘温

△按此亦鶴之種類俗稱大鳥

 

 

大〔(おほ)〕とり 鶬鴰〔(さうくわつ)〕

         麋鴰〔(びくわつ)〕

         鴰鹿〔(くわつろく)〕

         麥鷄〔(ばくけい)〕

鶬鷄

   【俗に「於保鳥〔(おほとり)〕」と云ふ。】

ツアン キイ

「本綱」、鶬鷄、田・澤・洲・渚の間に食ふ。狀、鶴の大〔なる〕ごとくにして、青蒼色。亦、灰色の者、有り。頂、丹、無し。兩の頰、紅く、長き頸、高き脚。羣飛〔して〕以つて霜〔(しもふる)〕を候〔(あ)る〕を〔しる〕べし。

肉【氣味】甘、温。

△按ずるに、此れも亦、鶴の種類〔なり〕。俗に「大鳥〔(おほとり)〕」と稱す。

 

[やぶちゃん注:当初、「本草綱目」の記載も良安の附言も鶴の仲間らしく書いているので、その辺りを生態から探ろうと思ったが、記載が少なく、行き詰った。そこで方法を変え、時珍の並べた異名(本項の項目下に並ぶそれら)を調べてみた。すると、この内の最後の「麥鷄」に目が止まった。これは現在、中国語の鳥類の学術名で Vanellus 漢名だからである(リンク先は中文ウィキ。簡体字「麦」とは「麦鷄属」で、則ち、これは「麥鷄屬」と同じある。例えば、チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ(田鳧)属 Vanellus ズグロトサカゲリ Vanellus miles 中文版をご覧あれ。「白頸麥雞」と書いてある(「雞」は「鷄」の別字。但し、中国で古来、ニワトリを指す一般的字体は「鷄」ではなくこの「雞」であった)。さすれば、この「鶬鷄」はツル科 Gruidae のツル類なんぞではなく、チドリ目 Charadriiformes チドリ亜目 Charadrii チドリ科 Charadriidae タゲリ属 Vanellus に属するタゲリ類に比定してよかろう。その模式種であるタゲリ Vanellus vanellus を挙げたくなるのであるが、同種は頭頂に黒い冠羽が発達するので、挿絵や記載にそれがないのは、本種ではないと考えるべきで、ここは寧ろ、タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を比定候補とすべきかも知れぬ。ウィキの「ケリを引いておく。『モンゴル、中国北東部、日本で繁殖する。冬には東南アジア、中国南部などに渡るものもいる。日本においては留鳥として、かつては主に東北地方に分布していたが』、『現在』『では中部地方、関西地方を中心とした近畿以北』から『中国地方・北部九州など西日本でも繁殖が確認され始め』ているという。

全長は約三十四センチメートルで『雌雄同色。くちばしは短く、黄色で先端が黒い。足は長くて黄色。目は赤橙色で黄色のアイリングがある。また。嘴の付け根には黄色い肉垂がある。雌雄同色』。『翼の小翼羽付近には爪があり、爪の大きさや色から雌雄の見当をつけることができる。成鳥の夏羽は頭部から胸上部が灰青色で、体上面は灰褐色で、体下面は白い。胸上部と体下面の境目には黒い胸帯がある。翼は先の方が黒く、基半部は白色と灰褐色で、飛ぶときこれらのコントラストが目立つ。尾は白色で黒い帯が入る。冬羽は頭部からの灰青色がやや褐色を帯びている。雛は淡褐色の綿羽に覆われている。若鳥は頭部からの胸部にかけて灰色でやや褐色を帯びる。胸帯は薄い。また目は褐色で、アイリング・肉垂とも小さく目立たない』。『水田、畑、河原、干潟、草原などに生息』し、『食性は主に動物食で、昆虫類、ミミズ、カエルなどを捕食する。稀に穀類も食べる』。『繁殖期は』三月から七月で、抱卵は三月『初旬から中旬に始まり、抱卵・ヒナ養育それぞれ約』一『ヶ月ほどかかる。クラッチサイズ』(clutch size:鳥の♀一個体が一回当りで孕む標準的な卵の個数。「一腹卵数」「一巣卵数」などと訳される)は四卵で、時に三卵、稀に一卵から五卵が『確認される。巣は水田内や畦などの地面に藁を敷き作る。よって農作業による影響が著しく大きい。繁殖期中は時にテリトリーを変えるなどして最大』三『回営巣を試みる。非常に警戒心が強く、テリトリーにトビやカラス、人間などの外敵が近付くと、鳴きながら激しく威嚇し、追い払う。その為、夜でも鳴き声が聞こえてくる場合がある』。『非繁殖期には小群で行動する』。『甲高い声で鳴き、「キリッ、キリッ」、「ケリッ」、「ケケッ」というふうに聞こえる。この鳴き声からケリという名がついたといわれる』とある。ただ、ここに記された視覚上の形状と実際のケリの画像を見ても、幾つかの点で本記載や挿絵とは有意に異なる(「鶴の大〔なる〕ごとく」ではなく鶴より小さい。「兩の頰」は「紅く」ない(胸は褐色を帯びるが、ここを頬と見誤ることはあり得ない)。「羣飛」するのは繁殖時であり、「霜」の降る季節の前ではない)ことは言っておかねばなるまい

 

「大とり」項見出しのそれ(漢字見出し「鶬鷄」の和訓)はママ。ここに漢字が用いられるのは本書の中では頗る特異点である。

「羣飛〔して〕以つて霜〔(しもふる)〕を候〔(あ)る〕を〔しる〕べし」意味は解るのだが、二箇所の「ヲ」の送り仮名に疑問があり、訓読に苦労した。「この鳥が沢山の群れを作って飛ぶのを見た時には、霜が降りるのが近いことを知ることが出来る」の意である。]

2017/10/30

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴

 

和漢三才圖會卷第四十一

      攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編

  水禽類Turu

つる   仙禽 胎禽

     【龢名豆留】

唐音 ポ

本艸綱目云鶴狀大於鵠長三尺餘喙長四寸丹頂赤目

赤頰青脚修頸凋尾粗膝纖指白羽黑翎亦有灰色蒼色

者嘗以夜半鳴【雞知將旦鶴知夜半】聲唳雲霄【高亮聞八九里】雄鳴上風雌

鳴下風聲交而孕亦啖蛇虺聞降眞香烟則降其糞能化

石皆物類相感也羽族之宗仙人之驥也陽鳥而遊于陰

行必依洲渚止不集林木二年落子毛易黑點三年産伏

又七年羽翮具又七年飛薄雲漢又七年鳴中律又七年

大毛落氄毛生或白如雪或黑如漆須六十年雌雄相視

而孕千六百年形始定飮不食乃胎化也故名胎禽【謂鶴不卵

生者誤也】

△按有眞鶴丹頂鶴黑鶴白鶴之四種【右所説者卽丹頂鶴】

丹頂鶴 極大而頰埀亦長其頂丹故名

眞鶴  高四五尺長三尺許項無丹頰赤全體灰白色

 但翮端尾端保呂端共黑而本皆白謂之鶴本白以造

 箭羽或爲羽帚賞之肉味極美故名眞鶴

黑鶴  高三四尺長二三尺白頸赤頰騮脚其余皆黑

 肉味亦佳一種同黑鶴而色淡者名薄墨

白鶴   赤頰玄翎赤脚其余皆白其肉可入藥用

 凡鶴觜皆青白色羽數四十八尾羽數十二

鶴肉血【氣味】甘鹹有香臭【與他禽不同】中華人不爲食品本朝以

 爲上撰其丹頂者肉硬味不美故食之者少但官家養

 庭池之間有作巣者聲交而乳其乳恐膝脚之損傷而

 輕輕折膝立時亦然竟巣于野叢性有智育卵於池島

 避狐犬之害雄雌代護之初欲生卵之時雄先卜其処

 以啄刺地寸寸試之不使蟲蛇伏于地中然後雌生卵

 大如椰子而一孕生四五或八九子其雛初黃毛白嘴

 短翼長脛而淺蒼色漸長者謂雛鶴

 徃昔賴朝公所放鶴今亦來徃駿遠之田澤偶有觀之

 者謂翼間有金札記年號焉

 凡諸禽血生羶不能啜惟鶴血入溫酒啜甚良

鶴骨 爲笛甚清越也今俗用脛骨揩磨造噐最宜婦人

 之笄能解諸蟲毒又采聚鶴骨和鹽黑燒謂之黑鹽以

 治血暈及金瘡折傷之氣絶

     古今難波かた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る

 凡鶴食餌每一啄一粒也故物委曲譬鶴之拾粟

つる   仙禽 胎禽

     【龢名〔(わめい)〕「豆留」。】

唐音 ポ

「本艸綱目」に云く、鶴、狀〔(かたち)〕、鵠(はくちやう)より大にして、長さ、三尺餘り。喙〔(くちばし)〕の長さ、四寸、丹(あか)き頂〔(うなじ)〕、赤き目、赤き頰、青き脚、修(のゐ)たる頸、凋(しぼ)める尾、粗(あら)き膝、纖(ほそ)き指、白き羽、黑き翎〔(かざきり)あり〕。亦、灰色・蒼色の者、有り。嘗て夜半を以つて鳴き【雞は將に旦〔(あ)けん〕とするを知り、鶴、夜半を知る。】、聲、雲霄〔(うんしやう)〕に唳〔(とど)〕く【高亮〔(こうりやう)〕〔として〕八、九里に聞こゆ。】。雄は上風に鳴き、雌は下風に鳴く。聲を交へて而〔して〕孕〔(はら)〕む。亦、蛇(へび)・虺(まむし)を啖らふ。降眞香〔(かうしんかう)〕の烟〔(けぶり)〕を聞くときは、則ち、降〔(お)〕る。其の糞、能く石に化す。皆、物類の相感なり。羽族の宗、仙人の驥(のりもの)なり。陽鳥にして陰に遊ぶ。行くときは、必ず、洲(す)・渚(なぎさ)に依り、止〔(とど)〕るに、林木に〔は〕集らず。二年にして、子毛〔(しまう)〕を落して黑點に易(か)ふ。三年にして産伏す。又、七年にして、羽-翮(はがい)、具〔(そな)〕はり、又、七年にして飛びて、雲漢〔(あまのがは)〕に薄(せま)る。又、七年にして、鳴くこと、律に中〔(あた)〕る。又、七年にして、大(ふと)き毛、落ち、氄毛(にこげ)、生ず。或いは白くして、雪のごとく、或いは黑くして漆のごとし。〔百〕六十年を須〔(ま)ちて〕、雌雄(めを)、相ひ視て、孕む。千六百年にして、形、始めて定まり、飮みて食はず。乃〔(すなは)〕ち、「胎化(たいくわ)」なり。故に「胎禽」と名づく。【「鶴、卵生せず」と謂ふは誤りなり。】〔と〕。

△按ずるに、眞鶴(まなづる)・丹頂鶴・黑鶴・白鶴の四種有り【右〔に〕説く所〔の〕者は、卽ち、丹頂鶴なり。】。

丹頂鶴は 極めて大にして、頰の埀(たれ)も亦、長く、其の頂き、丹〔(あか)〕し。故に名づく。

眞鶴(まなづる)は 高さ、四、五尺、長さ、三尺許り。項に、丹、無し。頰、赤く、全體、灰白色。但し、翮〔(はねもと)〕の端、尾の端、保呂〔(ほろ)〕の端、共に黑くして、本〔(もと)〕は皆、白〔たり。〕之れを「鶴の本白〔(ほんしろ)〕」と謂ふ。以つて箭〔(や)〕の羽に造(は)ぐ。或いは、羽帚〔(はねはうき)〕に爲(つく)る。之れを賞す。肉の味、極めて美なり。故に「眞鶴」と名づく。

黑鶴〔(こくつる)〕は  高さ、三、四尺、長さ、二、三尺。白き頸、赤き頰、騮(ぶち)の脚、其の余は皆、黑く、肉の味、亦、佳なり。一種、黑鶴に同じくして、色、淡(あさ)き者を「薄墨(うす〔ずみ〕)」と名づく。

白鶴〔(はくつる)〕は   赤き頰、玄〔(くろ)〕き翎〔(かざきり)〕、赤き脚、其の余は皆、白し。其の肉、藥用に入るべし。

凡そ、鶴の觜〔(くちばし)〕は皆、青白色。羽の數、四十八。尾の羽數、十二あり。

鶴の肉・血 【氣味】、甘、鹹。香臭〔(かうしう)〕有り【他〔の〕禽と〔は〕同じからず。】。中華の人、食品と爲さず。本朝には以つて上撰と爲す。其の丹頂は、肉、硬(こは)く、味、美ならず。故に之れを食ふ者、少しなり。但し、官家、庭池の間に養ひて、巣を作る者、有り。聲を交えて乳(つる)む。其の乳むに、膝脚〔(ひざあし)〕の損傷せんことを恐る。輕輕と〔して〕膝を折り、立つ時も亦、然り。竟〔(つひ)〕に野叢に巣〔(すく)〕ふ。性、智、在りて、卵を池島に育てて、狐・犬の害を避く。雄雌、代(かはるがはる)之れを護る。初め、卵を生まんと欲するの時〔は〕、雄、先づ、其の処を卜〔(ぼく)〕し、以つて地を啄(つゝ)き刺(さ)し、寸寸に之れを試む。蟲・蛇、地中に伏せしめざらしめ、然る後、雌、卵を生ず。大いさ、椰子のごとくにして一孕〔(ひとはらみ)〕に四、五を、或いは、八、九子を生〔(う)む〕。其の雛(ひな)、初め、黃なる毛、白き嘴、短き翼、長き脛〔(すね)〕にて、淺蒼色なり。漸く長ずる者を「雛鶴」と謂ふ。

徃昔〔(むかし)〕、賴朝公の放(はな)つ所の鶴、今も亦、駿遠〔(すんえん)〕の田澤に來徃す。偶々、之れを觀る者有り。謂く、「翼の間に金札有りて、年號を記せり」〔と〕。

凡そ、諸禽の血、生-羶(なまぐさ)くして、啜(すゝ)ること、能はず。惟だ、鶴の血は溫酒に入れて啜るに、甚だ良し。

鶴骨〔(かくこつ)〕 笛に爲(つく)り〔て〕甚だ清越〔(せいえつ)〕なり。今、俗、脛の骨を用ひて、揩(す)り磨〔(ま)して〕、噐〔(うつは)〕に造る。最も婦人の笄(かんざし)に宜〔(よろ)〕し。能く諸蟲の毒を解す。又、鶴の骨を采聚〔(さいしゆ)〕して、鹽に和(ま)ぜ、黑燒す。之れを「黑鹽」と謂ひ、以つて血暈〔(けつうん)〕及び金瘡・折傷の氣、絶ち、治す。

「古今」難波がた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る

 凡そ、鶴、餌を食ふに、每〔(つね)に〕一啄〔(たく)〕一粒〔(りふ)〕なり。故に、物の委曲なることを「鶴の粟を拾ふ」に譬〔(たと)〕ふ。

[やぶちゃん注:動物界 Animalia脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata鳥綱 Avesツル目 Gruiformesツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearicaツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に分かれる。本文に頭の鶴総論部では丹頂鶴を基本として記しているとあるから、ここにはツル属タンチョウ Grus japonensis を挙げておく必要がある。但し、これは文字通りに採ってはいけないことが、以下の引用(下線太字部)で判るウィキの「タンチョウ」によれば(下線太字やぶちゃん)、『日本(北海道東部)、ロシア南東部、中華人民共和国、大韓民国北部、朝鮮民主主義人民共和国』に分布で観察出来るが、本来、同種は『アムール川流域で繁殖し、冬季になると江蘇省沿岸部や朝鮮半島ヘ南下し越冬する』のが基本であった。『日本では北海道東部に周年生息(留鳥)し、襟裳岬以東の太平洋岸・根室海峡沿岸部・オホーツク地区』で、一九八二年『以降は国後島や歯舞諸島』で、二〇〇四年『以降は宗谷地区でも繁殖している』。『越冬地は主に釧路湿原周辺だったが、近年は十勝平野西部や根室地区での越冬例が確認・増加している』。『日本で最も有名な生息地は釧路湿原一帯であるが』、ごく『稀に石狩平野の上空を飛来することがあり、鳴き声が聞かれる』。二〇一五年五月三十一日には『札幌上空で飛来が確認され』ている。全長は百二~百四十七センチメートル、翼長六十四~六十七センチメートル、翼開長は二メート四十センチメートルにも及び、体重は四~一〇・五キログラムで、『全身の羽衣は白』く、『眼先から喉、頸部にかけての羽衣は黒い』。『頭頂には羽毛がなく、赤い皮膚が裸出する』漢名・和名の『タン(丹)は「赤い」の意で、頭頂に露出した皮膚に由来する』。『虹彩は黒や暗褐色』、『嘴は長く、色彩は黄色や黄褐色。後肢は黒い』。『次列風切や三列風切は黒い』。『気管は胸骨(竜骨突起)の間を曲がりくねる』。『湿原、湖沼、河川などに』棲息し、『冬季には家族群もしくは家族群が合流した群れを形成する』。『日本の個体群と大陸産の個体群は鳴き交わしに差異がある』。『食性は雑食で、昆虫やその幼虫、エビ類・カニ類などの甲殻類、カタツムリ類・タニシ類などの貝類、ドジョウ類・コイ・ヤチウグイ・ヌマガレイなどの魚類、エゾアカガエルなどのカエル、アオジ・コヨシキリなどの鳥類の雛、ヤチネズミ類などの哺乳類、セリ・ハコベなどの葉、アシ・スゲ・フキなどの芽、スギナの茎、フトモモ・ミズナラなどの果実などを食べる』。『繁殖様式は卵生。繁殖期に』一~七『平方キロメートルの縄張りを形成』し、『湿原(北海道の個体群は塩性湿原で繁殖した例もあり)や浅瀬に草や木の枝などを積み上げた直径』百五十センチメートル、高さ三十センチメートル『に達する皿状の巣を作り、日本では』二『月下旬から』四『月下旬に』一~二『個の卵を産む』。『日本では大規模な湿原の減少に伴い、河川改修によってできた三日月湖や河川上流域にある小規模な湿地での繁殖例が増加している』。『雌雄交代で抱卵』を行い、『抱卵期間は』三十一日から三十六日で、『雛は孵化してから約』百『日で飛翔できるようになる』。本邦では崇徳天皇の治世であった長承二(一一三三)年の『詩序集が丹頂という名称の初出と推定されている』。『奈良時代以降は他種と区別されず』、『単に「たづ・つる」とされ、主に「しらたづ・しろつる」といえば本種を差していたが』、『ソデグロヅル』(ツル属ソデグロヅル Grus leucogeranus:額から眼先・顔にかけて羽毛が無く、赤い皮膚が裸出し、嘴も淡赤色や暗赤色・灰赤褐色で、後肢も淡赤色を呈する)『も含んでいたと推定されている』。『江戸時代には白鶴は主にソデグロヅルを指すようになったが、本種が白鶴とされる例もあった』。『江戸時代の草本学でも、現代と同様に鶴といえば』、『本種を指す例が多かった』。寛文六(一六六六)年(第四代将軍)徳川家綱の治世)の「訓蒙図彙」では『鶴(くわく)の別名として「つる、たづ、仙禽」が挙げられ』、「仙禽」は『本種の漢名であること、不審な点はあるものの』、『図から鶴といえば』、『主に本種を差していたと推定されている』。一方で、それから二十九年後の元禄八(一六九五)年の「頭書増補訓蒙図彙」では、『図は変わらないものの、本種ではなく』、『ソデグロヅルかマナヅル』(ツル属マナヅル Grus vipio:眼の周囲から嘴の基部にかけて羽毛が無く、赤い皮膚が裸出し、後肢も淡赤色・暗赤色を呈する)『を差したと思われる』「本草網目」『からの引用・訳文と推定される解説(頬や後肢が赤い)が付け加えられている』。さらにそれから九十四年後の天明九(一七八九)年(第十一代将軍家斉の治世)の「頭書増補訓蒙図彙大成」では、『解説は変わらないものの』、『図が新たに描きおこされ、たんてう(丹頂)の別名も追加され』ている。「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年刊)では、鶴は「和名類聚抄」にある『葦鶴(あしたづ)であるとして俗称は丹頂であると紹介している』。本「和漢三才図会」の完成は正徳二(一七一二)年頃であるから、認識の錯誤は微妙であるものの、「頭書増補訓蒙図彙」が最も直近であり、無批判に「本草網目」を引いている点などからは、ソデグロヅル(本邦への冬鳥としての飛来は稀)かマナヅル(九州南西部の鹿児島県出水(いずみ)市の出水平野が飛来地としてよく知られる)を良安がタンチョウと誤認している可能性もあるが、良安の附言は少なくともマナヅルとを明確に区別しているので、一応、タンチョウを正しく認識しているとしてよかろう。以下、ウィキでも『古くはより広域に分布し』、『一般的であったか、後述するように縁起物や芸術作品といった造形物を目にする機会が多かったことから』、『鶴といえば本種という認識が定着していったと考えられている』ともある。但し、『一方で』、『古くは現代よりも広域に分布していたとはいえ』、『日本全体では本種を見ることはまれであり、実際には鶴はマナヅルを差していたという反論もある』ともある(しかし、後に江戸の飛来地の話も出るので、この反論をそのまま受け入れることは躊躇される)。『地域差もあり』、備後国・周防国・長門国の『文献では鶴の別名を「マナツル」としており、これらの地域では鶴はマナヅルを指していたと推定されている』。紀州国では『特徴(頭頂が白く頬が赤い)から鶴(白鶴)はソデグロヅルを指していたと推定され、紀産禽類尋問誌(年代不明)では丹頂は飛来しないとする記述がある』。宝永五(一七〇八)年(徳川綱吉の治世末期)の「大和本草」には『頭頂が赤く後肢が黒い松前(北海道)に分布する「丹鳥」という鳥類の記述があるが、色は黒いとされている』。小野蘭山の寛政一三(一八〇一)年の「大和本草批正」では、『「丹頂」と「丹鳥」を区別し、「丹鳥」は「玄鶴」であるとしている』。但し、『玄鶴に関しては定義が不明瞭なため同定は困難で』『複数の説がある』『「丹鳥」を本種とする考えもあり』、『「丹鳥」を「丹頂」に書き換える例も多く見られるが、古くは「丹鳥」は複数の定義をもつ語であったと考えられ』、「大戴礼記」・「壒嚢鈔」・「和爾雅」では昆虫の『ホタルの別名』とし、「本草網目目録啓蒙」では鳥の『キンケイを指す語であったと推定されている』。『アイヌ語では「サロルンカムイ」と呼ばれ』、『「葦原の神」の意』で、『縁起物や芸術作品のモチーフとされることもあった』。本種タンチョウは一九六四年に『北海道の道鳥に指定されている』。現生地であった『アムール川流域では』、『野火による植生の変化や巣材の減少により』、また、『中華人民共和国では』、『農地開発による繁殖地の破壊などにより』、『生息数は減少している』。本邦でも、実は大正一三(一九二四)年に『釧路湿原で再発見されるまでは絶滅したと考えられていた』。現在、北海道での生息数は増加しているものの、『人間への依存度が高くなり、生息数増加に伴う繁殖地の不足が問題となっている』。『生息環境の悪化、他種の鳥類も含む過密化による感染症などのおそれ、電柱による死亡事故・車両や列車との交通事故・牛用の屎尿溜めへの落下事故の増加などの問題も発生して』おり、『餌づけの餌目当てに集まるキタキツネ・エゾシカ・オジロワシ・オオワシなどと接する機会が増えるが、これらのうち』、『捕食者に対しては餌付け場で捕食されることはないものの』、『見慣れることで警戒心がなくなってしまうこと』や、『イヌやシカについては』、『湿原の奥地まで侵入』することから、『繁殖への影響が懸念されている』。日本では北海道庁がいち早く明治二二(一八八九)年に狩猟を禁止し、三年後の明治二十五年には日本国内でのツル類の狩猟が全面的に禁止されている。昭和一〇(一九三五)年、『繁殖地も含めて国の天然記念物』となり、昭和二七(一九五二)年、『「釧路のタンチョウ」として繁殖地も含めて特別天然記念物、一九六七年には』『地域を定めず』、『種として特別天然記念物に指定され』、一九九三年に『種の保存法施行に伴い』、『国内希少野生動植物種に指定されている』。北海道での二〇〇四年に於ける生息数は千羽以上、二〇一二年における確認数は千四百七十羽で生息数は千五百羽『以上と推定されている』。『江戸時代には、江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた』。『タンチョウは』毎年十月から三月に『かけて見られたとい』い、『幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた』。『給餌の際は』、『ささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという』。『タンチョウは』午後六時頃から朝六時頃までは『どこかへ飛び去るので、その間は矢来内に入ることを許された』。『近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという』。一方で、『こうした鶴御飼附場では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた』。『東アジアにおいては古くから、タンチョウはその清楚な体色と気品のある体つきにより特に神聖視され、瑞鳥とされ』、『ひいては縁起のよい意匠として、文学や美術のモチーフに多用されてきた』。『また、「皇太子の乗る車」を指して「鶴駕(かくが)」と呼ぶ』『ように、高貴の象徴ともされた』。『道教的世界観の中ではとくに仙人、仙道と結びつけられ、タンチョウ自体がたいへんな長寿であると考えられた』『ほか、寿星老人』(本邦で七福神の一人である福禄寿と同一視される)『が仙鶴に乗って飛来するとか』、『周の霊王の太子晋が仙人となって白鶴に乗って去った』『といった説話が伝えられている』。『なお、古来の日本で「花」といえば梅を指したのと同じように、伝統的には、中国や日本で単に「鶴」と言えばタンチョウを指しているのが通常である』。本邦では八『世紀の皇族・長屋王の邸宅跡地からはタンチョウらしき鶴の描かれた土器が出土しており、これが現在知られている中で最古のタンチョウを描いた文物で』、一般的な鶴(古名「たづ」)は、『平安時代から室町時代にかけては鏡の装飾に鶴文(つるもん)が多く使われた』。『鶴ほど広範囲にさまざまな意匠に用いられているモチーフは他に例がなく』、『鎌倉時代の太刀や笈(おい)、紀貫之の用いた和歌料紙、厳島神社の蒔絵小唐櫃、日光東照宮陽明門の丸柱、仁阿弥の陶器、海の長者の大漁祝い着、沖縄の紅型染め、久留米の絵絣、修学院離宮の茶室に見られる羽子板形の七宝引手、光琳の群鶴文蒔絵硯箱、江戸の釜師・名越善正の鋳た鶴に亀甲菊文蓋の茶釜など、その実例を挙げるにおよんでは枚挙にいとまがない』。『室町時代に入る前後から』、『宋・元時代の中国から花鳥画の習俗が日本へ入ってくると、優美な姿のタンチョウは好んで描かれるモチーフのひとつとなり、伊藤若冲のような画風の異なるものも含め、多くの画家によって現在まで多数の作品が描かれている』。『通俗的には、「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と能曲『鶴亀』や地唄にも謡われるように、鶴と亀はいずれも長寿のシンボルとされ、往々にしてセットで描かれてきたほか、また花鳥画以来の伝統として松竹梅などとあわせて描かれることも多い。花札の役札「松に鶴」などもこうした流れのものであるということができる』。『アイヌ民族の間にはタンチョウの舞をモチーフにした舞踊なども伝えられている』。『中国で最も初期の鶴を象った文物といえば春秋戦国時代の青銅器「蓮鶴方壺(中国語版)」がよく知られているが、さらに古い殷商時代にも墳墓から鶴を象った彫刻が出土しているという』。また、『道教では、前述のとおり、タンチョウは仙人の象徴、不老長寿の象徴とされ珍重された』一方、『俗信としては、タンチョウの頭頂部からは猛毒の物質が採れるとされ、「鶴頂紅」「丹毒」などと呼ばれることがあった』とある(水銀(丹)との類感呪術であろう)。

「鵠(はくちやう)」古語「くぐひ」。白鳥のこと。鳥綱カモ目 Anseriformes カモ科 Anatidae Anserinae亜科のハクチョウ類。

「翎〔(かざきり)あり〕」推定訓。明らかに羽の中の特定の部位を指している読んで、「風切り羽(ば)」と採った。鳥の翼の後縁を成す、長く丈夫な羽。飛翔 に用いられ、この部分の羽は骨から生えており、外側から内側へ向かって初列・次列・三列と区分が出来、特に初列風切り羽は、羽ばたく際の推力を発生させる重要な部位である。

「雲霄〔(うんしやう)〕」雲の浮かぶ空の高いところ。

「唳〔(とど)〕く」届く。達する。

「高亮〔(こうりやう)〕」通常、志高く行いの正しいことを指す。ここは陽気の王である鶴の一声の毅然とのびやかでよく通ることを形容した。

「上風」草木の上を吹き渡る風。或いは風上。

「下風」草木の下、地面近くを吹き渡る風。或いは風下。雌雄で天然自然の上下双方向に闡明する能力を示すものであろうから、どちらかを採る必要を私は全く感じない。

「聲を交へて而〔して〕孕〔(はら)〕む」声のみで交尾を行い、雌がそれで卵を孕むというのである。まさに神仙の鳥に相応しい美しいコイツスではないか!

「降眞香〔(かうしんかう)〕」中国やタイなどで産する香木から作る香料。サイト「健康食品辞典」の「降真香」によれば、現在の「降真香」の基原植物には中国名「降香黄檀」マメ目マメ科ニオイシタン(匂紫檀/ダルベルギア・オドリフェラ)Dallbergia odorifera(高級香木として知られるマメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ツルサイカチ属 Dalbergia の紫檀とは同じマメ科ではあるが、全く関係がないので注意)の根の心材を用いる場合と、:ムクロジ目ミカン科 Rutaceaeミカン科オオバゲッケイ Acronychia oedunculata の心材や根を用いる場合とがあるとある。『降真檀は中国の広東省の海南島、広西省に分布し、栽培される』十~十五メートルにも『達する高木である。薬材は紅褐色ないし紫褐色でつやがあり、硬くてよい匂いがし、焼くと強い芳香がする。かつて降真香としてインド産のインド黄檀(D.sisoo)や海南黄檀(D.hainanensis)なども用いていたが、これらは表面が淡黄色から黄褐色である』。『漢方では理気・活血・健脾の効能があり、足腰の痛みや心痛、胃痛、打撲傷などに用いる。打撲や捻挫などには乳香・没薬などと配合して服用する。外傷には止痛・止血を目的として粉末を外用する。現在、マメ科の降真香は中国政府により輸出が禁止されている』とある。

「物類の相感なり」陰陽五行説に於ける、特殊特別な属性を持つもの同士が惹かれたり、本来の性質が予期せず、別な性質や別な物質にメタモルフォーゼする現象。

「羽族の宗」羽根を持つ生物、鳥の本源的鳥。

「驥(のりもの)」乗り物。

「陽鳥にして陰に遊ぶ」陽に満ちた鳥でありながら、自由自在に、陰気に満ちた時空間でも悠々と飛び遊ぶ事が出来る。

 

「子毛〔(しまう)〕を落して黑點に易(か)ふ」子鶴であった頃の毛を生え変わらせて、黒い模様のついた白羽に変える。

「産伏」生殖行動がとれるようになることであろう。

「羽-翮(はがい)」歴史的仮名遣は正しくは「はがひ」。狭義には、鳥の左右の羽の畳んだ際に重なる部分を指すが、ここは全体の羽の謂いでよかろう。

「雲漢〔(あまのがは)〕」東洋文庫訳を参考にした。銀河の天の川である。

「薄(せま)る」「迫る」。肉薄する。

「律に中〔(あた)〕る」妙なる楽曲の正しい音律と一致するようになる。

「大(ふと)き」「大」はママ。

「氄毛(にこげ)」「柔毛」「和毛」。柔らかい毛。また赤ん坊の時のような産毛に戻るのである。まさに仙鳥としての若返りの極みである。

「〔百〕六十年」次が「千六百年」なのに妙にショボいと思い、「本草綱目」を見たら、「百六十年」となっていたので、挿入した。

「須〔(ま)ちて〕」「待ちて」。

「雌雄(めを)」ルビはママ。

「相ひ視て、孕む」声の次はなんと! 視線を見交わすだけでコイツス完了! 羨ましい限りではないか!!!

「飮みて食はず」東洋文庫訳では『水だけ飲んで食事はしなくなる』とある。

「胎化(たいくわ)」胎内回帰!!!

「黑鶴」ツル属クロヅル Grus grus 。『ヨーロッパ北部のスカンジナビア半島からシベリア東部のコリマ川周辺にいたるユーラシア大陸で繁殖し、ヨーロッパ南部、アフリカ大陸北東部、インド北部、中国などで越冬する』。『日本には、毎冬少数が鹿児島県の出水ツル渡来地に渡来するが、その他の地区ではまれである』。『過去、鹿児島県のほかには、北海道、茨城県、静岡県、山口県、徳島県、沖縄県本島』、『埼玉県、兵庫県、鳥取県、島根県、新潟県佐渡、香川県、福岡県、長崎県、熊本県』、『奄美大島での記録がある』。全長百十~百二十五センチメートル、翼開長百八十~二百センチメートル、翼長五十五~六十三センチメートル、体重はで五・一~六・一キログラムでメスはやや軽い。『雌雄同色。成鳥の頭頂は赤く裸出し、まばらに黒く細い毛状の羽毛が生え』、『後頭から眼先、喉から頸部前面の羽衣は黒く、頭部の眼の後方から頸部側面にかけては白い』。『胴体の羽衣は淡灰褐色または灰黒色』で、『和名は全体的に黒っぽいことに由来する』とある。詳しくは引用したウィキの「クロヅル」を参照されたい。

「白鶴」「シロヅル」という和名を持つ種は現行はいない。ツル属アメリカシロヅル Grus Americana  はいるが、本種は日本に棲息しないし、「アメリカ」の取れた和名のそれも見当たらない。良安の言っているのは、タンチョウやマナヅルの、幼体か子供か若い個体或いは完全なアルビノ個体ではなかろうか。

「頰の埀(たれ)」露出した肌の誤認。

「翮〔(はねもと)〕」マナヅルの写真を見ての推定訓。「翮」は狭義には「羽根の茎」「羽根の生えている根元」の謂いであるからである。

「保呂〔(ほろ)〕」「保呂羽(ほろば)」鳥の両翼の下にある羽。

「造(は)ぐ」「矧(は)ぐ」。矢竹に羽をつけて矢を作る。

「賞す」食用として喫する。

「騮(ぶち)」東洋文庫訳のルビに従った。斑(ぶち)。

「羽の數、四十八。尾の羽數、十二あり」これが正しいかどうかは、分らん。識者の御教授を乞うしかない。

「香臭〔(かうしう)〕」「香」を頭に冠しているからには、それなりに良い香りが含まれているものと思われる。だから「他〔の〕禽と〔は〕同じからず」と言っているのである。

「中華の人、食品と爲さず」かの中国人が食べないということはないと思うが、先のウィキの引用から考えると、タンチョウを始めとする鶴の類は、神聖な瑞鳥で、縁起がよく、高貴の象徴であり、道教の神仙世界とのアクセスする存在、同時に長寿の象徴であるから、そういう意味で、民俗社会に於いて食べることが憚られたとは言えるであろう。

「輕輕と〔して〕」なるべくゆっくりと。

「竟〔(つゐ)〕に野叢に巣〔(すく)〕ふ」高官の屋敷の庭園で買っていても結局は野の叢に巣を作りに出て行ってしまう、と受けた表現であろう。

「池島」池の中の孤立した島。

「卜〔(ぼく)〕し」占って。ゆっくりとした歩き方や餌をつつく様子は、確かに道家の方士の呪術的歩行法である「禹步(うほ)」のようにも見えなくはない。

「賴朝公の放(はな)つ所の鶴……」私は不勉強にして、この話を知らなかったが、静岡県磐田市の「中遠広域事務組合」公式サイト内の「中遠昔ばなし」の中の鶴ヶ池(磐田市)に、この話が載っていた。「磐田昔ばなし」よりとある。

   《引用開始》

 1195年の10月のこと。鎌倉に幕府をつくった源頼朝は、諸国を統一したあと、東海道を通って京都へ上がることになりました。

 その頃の幕府の役人が記した道中日誌に、四日間の空白があります。この間に頼朝は、兄の朝長の墓を供養(放生会)したと伝えられています。

 朝長の墓があるのが、今の袋井市(友永)の積雲院門前。京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした兄の墓へ詣でて供養したのです。

 供養のための放生会は、近くの池のほとりで大々的に行われ、黄金の札をつけた数多くの鶴が放たれました。以来、人々は、この池を鶴ヶ池と呼ぶようになったということです。鶴の寿命は千年。江戸時代、羽に札をつけた鶴を捕まえた人が、「おそらくは、頼朝が放生会で放った鶴だろう。」と言ったという話が、幕末期の随筆に書かれています。

   《引用終了》

「駿遠〔(すんえん)〕」駿河国と遠江国。

「金札」放生会(ほうじょうえ)で放した鳥であることを示し、獲ってもそれで知れて、放すことを目指した、金で出来た小さな札。前の伝承を参照。

「年號」放生のために放った折りの年号。先の伝承から考えると、建久六年となる。

「生-羶(なまぐさ)く」「腥く」。生臭い。

「溫酒」燗酒。

「清越〔(せいえつ)〕」音(ね)がこの上もなく清らかで澄んでいること。

「噐〔(うつは)〕」そんなに太い骨ではないから、盃のようなものか。

「采聚〔(さいしゆ)〕」採り集め。

「血暈〔(けつうん)〕」東洋文庫訳割注は『めまい』とする。

「氣、絶ち、治す」東洋文庫訳は上記の障害『による気絶を治す』とするが採らない。原典には送り仮名の「チ」がはっきりと送られてあるからである。されば、私は貧血性の眩暈(めまい)・刃物による創傷・開放或いは単純骨折による悪心(おしん)を絶って、治す、と採る。

「難波がた鹽みちくらしあま衣たみのゝ嶋に田鶴鳴渡る」「古今和歌集」の「巻第十七 雑歌上」の、「読み人知らず」の海辺での詠歌二十首の第四(九一三番歌)。整序すると、

 難波潟潮(しほ)滿ち來らし海人衣(あまごろも)田蓑(たみの)の島に田鶴(たづ)鳴き渡る

で、「田蓑」は田圃仕事をする蓑に島の名としての田蓑島を掛けているとするが、この名の島は不明(一説に大阪市天王寺辺りにあった島ともされる)。

「物の委曲なること」「委曲を尽くす」こと。検証や説明などを詳しくして、細かいところまで目を行き届かせること。]

和漢三才圖會 禽類 始動 総論部及び「目録」

寺島良安「和漢三才図会」の「卷四十一」から「卷四十四」に至る「禽部」(私が日常的に観察する生物の中で最も個体識別を苦手とする鳥類である)の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 禽類」を起して始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、私が生理的に最も苦手とする虫類、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は「卷三十七 畜類」「卷三十八 獸類」「卷三十九 鼠類」と、この「卷四十一 水禽類」「卷四十二 原禽類」「卷四十三 林禽類」「卷四十四 山禽類」のみとなった。

 思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは「卷第四十七 介貝部」で、それは実に九年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエール故であった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない補塡字は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した(読みは注を極力減らすために本文で意味が消化出来るように恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合も特に断らない)。ポイントの違いは一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。「蟲類」同様、ゆっくらと、お付き合い戴ければ幸いである。【2017年10月30日始動 藪野直史】

 

和漢三才圖會卷第四十一目録

    禽部

時珍曰凡二足而羽曰禽飛禽總名曰鳥羽蟲三百六十

毛恊四時色合五方○山禽岩棲○原鳥地處○林鳥朝

○水鳥夜○山禽咮短而毛修水禽咮長而尾促矣

其交也或以尾臎或以睛睨或以聲音或合異類【雉與蛇交之類】

其生也或以翼孚卵或以同氣變【鷹化鳩之類】或以異類化生

【田鼠化鴽之類】或變入無情【雀入水爲蛤之類】噫物理萬殊若此其可不

致知乎○天産作陽羽之類則陽中之陽也

周禮庖人掌六禽六畜六禽者鴈鶉鷃雉鳩鴿是也六畜

者馬牛未豕犬雞是也【雞則鳥而可以豢養故爲畜類】

 

 

「和漢三才圖會卷第四十一」目録

    禽部

時珍曰く、『凡そ二足にして羽あるを、「禽〔(きん)〕」と曰ふ。「飛禽」の總名を「鳥」と曰ふ。羽ある蟲〔(ちゆう)〕、三百六十。毛は四時に恊(かな)ひ、色は五方に合ふ。「山禽」は岩に棲(す)み、「原鳥」は地に處〔(よ)〕る。「林鳥」は朝に嘲(な)き、水鳥は夜に(な)く。「山禽」は咮(くちばし)短くして、毛、修(なが)く、「水禽」は咮長くして、尾、促(ちゞ)まる。其れ、交(つる)むや、或いは尾・臎(しりばね)を以つてし、或いは睛-睨(ひとみ)を以つてし、或いは聲音を以つてし、或いは異類に合ふ【雉と蛇と交むの類ひ。】其の生(こをう)むや、或いは翼を以つて卵(たまご)を孚(かへ)し、或いは同氣を以つて變ず【鷹、鳩に化すの類ひ。】。或いは異類を以つて化生〔(けしやう)〕す【田鼠〔(もぐらもち)〕の鴽〔(ふなしうづら)〕に化する類ひ。】或いは變じて無情に入る【雀、水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲るの類ひ。】。噫(あゝ)、物理萬殊、此くのごとし。其れ、知ることを致さざらんや。天産を陽と作〔(な)〕し、羽あるの類は、則ち、陽中の陽なり。』〔と〕。

「周禮」、『庖人〔(はうじん)〕、六〔(りく)〕禽六畜を掌(つかさど)らしむ』〔と〕。「六禽」とは鴈〔(かり)〕・鶉〔(うづら)〕・鷃〔(ふなしうづら)〕・雉・鳩・鴿〔(いへばと)〕、是れなり。「六畜」とは、馬・牛・未・豕〔(ぶた)〕・犬・雞〔(にはとり)〕、是れなり【雞は、則ち、鳥なれども、以つて豢養〔(かんやう)〕すべき故に、畜類と爲す。】

 

[やぶちゃん注:動物界 Animalia    脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 鳥綱 Aves の鳥類の総論部。

 

「時珍曰く」以下の引用は無論、何時もの通り、「本草綱目」から。「禽部」の巻四十七の目録部分からの引用。

「毛は四時に恊(かな)ひ」羽毛は四季に合わせて適切に変化適応し。「恊」は「協」と同じで「適(かな)う」の意。

「色は五方に合ふ」それぞれの種の毛や体色は、悉く「五方」(東西南北と中央の空間位置)にぴったりと適合している。前の四季との附合と合わせて、ここは上辺の視覚上のことを言っているのではなくて、陰陽五行説に完全に適った、生物界選り優りの優等生たる「陽」の生物であることを説明しているのである。でなくてどうして、最後に「天産」(自然が生み出した産物。東洋文庫訳は割注で『動物』とするが、従えない。ここは自然界を一般的に尋常に構成している生物群全般(道家的本草学的には、ある種の生物や魑魅魍魎の類いには例外的に陰気のみの存在もある)を指す)を陽と作〔(な)〕し、羽あるの類は、則ち、陽中の陽なり」とまで賞揚しない。

「原鳥」野原をテリトリーとする鳥類。

「交(つる)むや」交尾行動に際しては。

「異類に合ふ」鳥類でない別な生物と交合する。

「雉と蛇と交むの類ひ」本邦の国鳥ともされる鳥綱キジ目 Galliformes キジ科 Phasianidaeキジ属 Phasianus キジ Phasianus versicolor は鳥類の中では成体の蛇を好んで摂餌することで知られる。そうした現場を見て、交尾行動と見誤ったのであろう。

「(こをう)む」「子を産む」。

「同氣を以つて」同じ強力な陽気を持った広義の同じ「鳥類」としての不思議な影響力。

「田鼠〔(もぐらもち)〕」: 脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱 Mammalia トガリネズミ形目 Soricomorpha モグラ科 Talpidae のモグラのこと。

「鴽〔(ふなしうづら)〕」ここは東洋文庫訳のルビを参考にした。フナシウズラは「鶕」鳥綱チドリ目 Charadriiformesミフウズラ(三斑鶉)科 Turnicidaeミフウズラ属 Turnixミフウズラ Turnix suscitator の旧名。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみ。

「無情」通常は、仏教に於いて精神や感情などの心の働きを有しないと考えられた下等生物及び物質及び観念的存在。

「雀、水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲る」ハマグリの殻の模様がスズメに似ていることが誤認の濫觴と思う。

「物理萬殊」この宇宙を支配している絶対真理による形態的生態的変容(メタモルフォーゼ)。

「其れ、知ることを致さざらんや」反語。この時珍の言いは、そうした宇宙の生成運行消滅(存在と虚無)を支配する絶対的根本原理の核心は人間には、到底、窺い知ることは出来ないという考え方は、すこぶる道家的である。

 以下目録が続くが、原典では罫線入り三段組の縱順列(縦三段を読んで左へ移る順列)であるが、一段で示した。また、幾つかの漢字と訓は現行の呼び方一致しないが、それは各項で考証する。まあ、ご覧あれ。一つ残らず即座に現行の鳥類種に比定出来る方は、超達人クラスであると私は思う。ここでは目録のみの提示とし注は附さない。「鸂鶒(大おしどり)」のルビ内の「大」はママ。「おほおしどり」(大鴛鴦)である。]

 

  卷第四十一

   水禽類

鶴(つる)

鶬鷄(おほとり)

鸛(こふ) 【しりくろ】

(とつしう)

䴌䴀(もうどう)

鴈(かり) 【がん】

鴻(ひしくひ)

鵞(たうがん)

鴇(のがん)

天鵞(はくちやう)

鶩(あひろ)

鳬(かも)

鸍(こがも) 【たかべ】

味鳬(あぢかも)

鵜鶘(がらんちやう)

鸕鷀(う) 【しまつとり】

鷁(げき)

鴗(かはせび)

鸊鷉(かひつぶり) 【にほ】

鴛鴦(おしどり)

𪄪(大おしどり)

鵁鶄(ごいさぎ)

旋目鳥(ほしごい)

(おすめどり) 【みおぞごい】

鷺(さぎ)

白鶴子(だいさぎ)

蒼鷺(あをさぎ)

朱鷺(つき) 【とき】【唐がらす】

箆鷺(へらさぎ)

鸀鳿(がくさく)

鷗(かもめ)

善知鳥(うとう)

蚊母鳥(ぶんもてう)

鷭(ばん)

河鴉(かはがらす)

計里鳥(けり)

水雞(くひな)

鵠(くぐひ)

鶺鴒(せきれい)

鴴(ちどり)

割葦鳥(よしはらすゞめ)

都鳥(みやこどり)

鷸(しぎ)

嗽金鳥(さうきんちやう)

2017/10/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「化鳥退治」

 

 化鳥退治

 

 源三位賴政の鵺(ぬえ)退治などは改めて説くまでもないが、話の順序だから「平家物語」の記載を擧げることにする。近衞院の御宇に、主上夜な夜なおびえさせ給ふ事があり、東三條の方から一むらの黑雲が押して來て、御殿を蔽ふと思はれる時、愈々おびえさせ給ふとわかつた。山門南都の貴僧高僧に大法祕法を修せしめられたのは云ふまでもないが、同時に武士を以ても警固すべしとあつて、源平兩家のつはものを召されることになつた。當時兵庫頭であつた賴政が、南殿に祗候して世間の樣子を窺つてゐると、果して夜半に及ぶ頃、例の黑雲が御殿の上に五丈ばかりたなびいた。雲の中に姿ある者が見えるので、賴政尖り矢をつがへてひようと射る。矢に中つて庭上に落ちたのが「かしらは猿、むくろはたぬき、尾はくちなは、足手は虎の如くにて、鳴聲鵺にぞにたりける」といふ怪物であつた。賴政の名が天下に聞えたのはこの時である。その後二條院の御宇にも、鵺が夜な夜な啼いて宸襟を惱ましたことがあつた。賴政は前例により召されて南殿に祗候したが、折ふし五月雨のかきくらす空に、化鳥(けてう)は一聲啼いたきりだから見當が付かぬ。賴政先づ鏑矢(かぶらや)を放ち、鵺がその音に驚いて飛び𢌞るところを、小鏑を執つて射落した。これは前のやうな怪物ではなかつたので、二度目の化鳥退治は第一囘ほど喧傳されてゐない。

[やぶちゃん注:「源三位賴政」(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)は平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては、突出した従三位に叙せられたことから「源三位(げんざんみ)」と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし、馬場頼政(ばばのよりまさ)と称した。白河院以来、朝廷に仕え、兵庫頭に至る。摂津源氏渡辺党を率いて、保元の乱では天皇方に属して功あり、平治の乱では平氏方に属した。平氏政権下で宮廷・京都の警衛に任ぜられ、三位に至って内昇殿を許された。しかし、平氏の専制、源氏の衰勢を憤って、治承四(一一八〇)年、後白河上皇の皇子以仁(もちひと)王を奉じて平氏打倒の兵をあげたが、平氏に討たれて五月二十六日(ユリウス暦一一八〇年六月二十日)、宇治平等院で戦死した。しかし、この時に諸国の源氏に配布された以仁王の令旨は、源氏再興の原動力となった。頼政は射芸の達人として名があり、また和歌において当時の第一流に属し、今日に「源三位頼政集」を伝えるほか、多数の和歌を残している。墓所は終焉の地、現在の京都府宇治市の平等院最勝院にある。(以上は小学館の「日本大百科全書」及びウィキの「源頼政」をカップリングした)。

「鵺」ウィキの「鵺」により記載する。鵼・恠鳥・夜鳥・奴延鳥などとも書く。妖怪(妖獣。一説に雷獣とも)で、「平家物語」などに登場し、『サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある』。「源平盛衰記」では『背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニワトリと書かれた資料もある』。『描写される姿形は、北東の寅(虎)、南東の巳(蛇)、南西の申(猿)、北西の乾(犬とイノシシ)といった干支を表す獣の合成という考えもある』。『「ヒョーヒョー」という、鳥のトラツグミ』(スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera daumanagagutsukun2氏のYou Tube の音声)『の声に似た大変に気味の悪い声で鳴いた、とされる』。『平安時代後期に出現したとされるが、平安時代のいつ頃かは、二条天皇の時代、近衛天皇の時代、後白河天皇の時代、鳥羽天皇の時代など、資料によって諸説ある』。『元来、鵺(や)はキジに似た鳥』『とされるが』、『正確な同定は不明である。「夜」は形声の音符であり、意味を伴わない。鵼(こう・くう)は怪鳥』『とされる』。『日本では、夜に鳴く鳥とされ』、必ずしも妖怪としてではなく、夜鳴く鳥としては「古事記」「万葉集」に既に名は見られる』『この鳴き声の主は、鳩大で黄赤色の鳥』『と考えられたが、現在では、トラツグミとするのが定説である』。『この鳥の寂しげな鳴き声は平安時代頃の人々には不吉なものに聞こえたことから凶鳥とされ、天皇や貴族たちは鳴き声が聞こえるや、大事が起きないよう祈祷したという』。注意すべき点はこの「平家物語」で語られる妖怪は『あくまで「鵺の声で鳴く得体の知れないもの」で名前はついていなかった。しかし現在ではこの怪物の名前が鵺だと思われ、そちらの方が有名』となってしまったという経緯である(但し、百二十句本(平仮名本)「平家物語」のみには以下に示すように「五海女(ごかいじょ)」という不思議な名が記されてある。また、頼政の二回目のケースでは後に見るように「鵺(ぬえ)」と出るが、これは声のみであるから、妖怪(あやかし)の化鳥(けちょう)としての鵺の声であったことを指しているだけで、前回のようなハイブリッドのキマイラの実体的妖獣の名ではないのである)。『この意が転じて、得体の知れない人物を』比喩的に呼んだりもする。「平家物語」「摂津名所図会」などによれば、『鵺退治の話は以下のように述べられている。平安時代末期、天皇(近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった』。『側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある』『)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した』。『その時』、『宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという』。『これにより』、『天皇の体調もたちまちにして回復』、『頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した』(同刀とされるものは現存する)。『退治された鵺のその後については諸説あ』り、「平家物語」などに『よれば、京の都の人々は鵺の祟りを恐れて、死体を船に乗せて鴨川に流した。淀川を下った船は大阪東成郡に一旦漂着した後、海を漂って芦屋川と住吉川の間の浜に打ち上げられた。芦屋の人々はこの屍骸をねんごろに葬り、鵺塚を造って弔ったという』。『鵺を葬ったとされる鵺塚は』、「摂津名所図会」では『「鵺塚 芦屋川住吉川の間にあり」とある』。『江戸初期の地誌である』一無軒道冶著「芦分船」に『よれば、鵺は淀川下流に流れ着き、祟りを恐れた村人たちが母恩寺の住職に告げ、ねんごろに弔って土に埋めて塚を建てたものの』、『明治時代に入って塚が取り壊されかけ、鵺の怨霊が近くに住む人々を悩ませ、慌てて塚が修復されたという』。一方、「源平盛衰記」や「閑田次筆」によると、『鵺は京都府の清水寺に埋められたといい、江戸時代にはそれを掘り起こしたために祟りがあったという』。『別説では鵺の死霊は』一『頭の馬と化し、木下と名づけられて頼政に飼われたという。この馬は良馬であったため』、『平宗盛に取り上げられ、それをきっかけに頼政は反平家のために挙兵してその身を滅ぼすことになり、鵺は宿縁を晴らしたのだという』鵺からの報復伝承も存在する。また、『静岡県の浜名湖西方に鵺の死体が落ちてきたともいい、浜松市北区の三ヶ日町鵺代、胴崎、羽平、尾奈といった地名はそれぞれ鵺の頭部、胴体、羽、尾が落ちてきたという伝説に由来する』という。さらに驚くべきことに、『愛媛県上浮穴郡久万高原町には、鵺の正体は頼政の母だという伝説もある。かつて平家全盛の時代、頼政の母が故郷のこの地に隠れ住んでおり、山間部の赤蔵ヶ池という池で、息子の武運と源氏再興をこの池の主の龍神に祈ったところ、祈祷と平家への憎悪により母の体が鵺と化し、京都へ飛んで行った。母の化身した鵺は天皇を病気にさせた上、自身を息子・頼政に退治させることで手柄を上げさせたのである。頼政の矢に貫かれた鵺は赤蔵ヶ池に舞い戻って池の主となったものの、矢傷がもとで命を落としたという』(太字下線はやぶちゃん)。最後の伝承は、何か、しんみりする。

「近衞院の御宇」近衛天皇(保延五(一一三九)年~久寿二(一一五五)年)の在位は永治元(一一四二)年~久寿二(一一五五)年七月まで。次代は後白河天皇。

「東三條」大内裏の南東。

「祗候」(しこう)は「伺候」に同じい。貴人のおそばに奉仕すること。

「五丈」十五メートル強。

「二條院の御宇」後白河天皇第一子であった二条天皇(康治二(一一四三)年~永万元(一一六五)年)。在位は後白河の後で、保元三(一一五八)年~永万元(一一六五)年八月まで。

「宸襟」(しんきん)は天子の御心。

 以上の「平家物語」のそれは「卷第四 鵼」の一節。以下。

   *

 この賴政、一期(いちご)の高名とおぼえしは、近衞の院の時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。大法、祕法を修せられけれども、しるしなし。人申しけるは、

「東三條のもとより黑雲(くろくも)ひとむらたち來たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ。」

と申す。

「こはいかにすべき。」

とて、公卿、僉議(せんぎ)あり。

「所詮、源平の兵(つはもの)のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし。」

とさだめらる。

 寛治のころ、堀河の天皇、かくのごとくおびえさせ給ふ御ことありけるに、そのときの將軍、前の陸奧守源の義家を召さる。義家は、香色(かういろ)の狩衣に、塗籠藤(むりごめどう)の弓持ちて、山鳥の尾にてはぎたる[やぶちゃん注:製した。]とがり矢二すぢとりそへて、南殿の大床に伺候す。御惱(ごなう)のときにのぞんで、弦(つる)がけすること三度、そののち、御前(ごぜん)のかたをにらまへて、

「前の陸奧守、源の義家。」

と高聲(かうじやう)に名のりければ、聞く人、みな、身の毛もよだつて、御惱もおこたらせ給ひけり。

 しかれば、

「すなはち、先例にまかせ、警固あるべし。」

とて、賴政をえらび申さる。そのころ、兵庫頭と申しけるが、召されて參られけり。

「わが身、武勇(ぶよう)の家に生れて、なみに拔け、召さるることは家の面目なれども、朝家に武士を置かるる事、逆叛(ぎやくほん)の者をしりぞけ、違勅(ゐちよく)の者をほろぼさんがためなり。されども、目に見えぬ變化(へんげ)のものをつかまつれとの勅定(ちよくじやう)こそ、しかるべしともおぼえね。」

とつぶやいてぞ出でにける。

 賴政は、淺葱(あさぎ)の狩衣に、滋藤(しげどう)の弓持ちて、これも山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、賴みきりたる郎等、遠江の國の住人、猪(ゐ)の早太(はやた)といふ者に黑母衣(くろぼろ)[やぶちゃん注:黒い鷹の羽。]の矢負はせ、ただ一人ぞ具したりける。

 夜ふけ、人しづまつて、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ、人の言ふにたがはず、東三條の森のかたより、例のひとむら雲、出で來たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。雲のうちにあやしき、ものの姿あり。賴政、

「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無歸命頂禮(なむきみやうちやうらい)、八幡大菩薩。」

と心の底に祈念して、鏑矢を取つてつがひ、しばしかためて、

「ひやう。」

ど射る。手ごたへして、

「ふつつ。」

と立つ。やがて矢立ちながら、南の小庭にどうど落つ。早太、

「つつ。」

と寄り、とつて押さへ、五刀(いつかたな)こそ刺したりけれ。

 そのとき、上下の人々、手々(てで)に火を出だし、これを御覽じけるに、かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇(くちなは)、足、手は虎のすがたなり。鳴く聲は、鵺(ぬえ)にぞ似たりける。「五海女(ごかいぢよ)」といふものなり。

 主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御劍を賴政に下し賜はる。賴長の左府これを賜はり次いで、賴政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二聲、三聲おとづれて過ぎけるに、賴長の左府、

  ほととぎす雲居に名をやあぐるらん

と仰せかけられたりければ、賴政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をそば目にうけ[やぶちゃん注:月を斜めに見上げて。]、弓、わきばさみて、

  弓張り月のいるにまかせて

とつかまつりて、御劍を賜はつてぞ出でにける。

「弓矢の道に長ぜるのみならず、歌道もすぐれたりける。」

と、君(きみ)も臣も感ぜらる。

 さて、この變化のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。

 賴政は、伊豆の國を賜はつて、子息仲綱受領し、わが身は丹波の五箇の庄、若狹の東宮川知行して、さてあるべき人の、よしなき事を思ひくはだて、わが身も子孫もほろびぬるこそあさましけれ。賴政はゆゆしうこそ申したれども、遠國は知らず、近國の源氏だにも馳せ參らず、山門さへかたらひあはれざりしうへは、とかう申すにおよばず。 

 

 また、去んぬる應保[やぶちゃん注:二条天皇の元号。一一六一年から一一六二年。]のころ、二條の院御在位のときに、鵺(ぬえ)といふ化鳥(けてう)、禁中に鳴いて、しばしば宸襟を惱ますことありき。

 先例をまかせ、賴政を召されけり。

 ころは五月二十日あまりのまだ宵のことなるに、鵺、ただ一聲おとづれて、二聲とも鳴かず。めざせども知らぬ闇ではあり、すがたかたちも見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。

 賴政、はかりごとに、まづ大鏑をとつてつがひ、鵺の聲しつるところ、内裏のうへにぞ射あげたる。鏑の音におどろいて、虛空にしばしはひめいたり。二の矢を小鏑とつてつがひ、

「ふつ。」

と射切つて、鵺と鏑とならべてまへにぞ落したる。

 禁中ざざめいて、御感ななめならず、御衣(ぎよえ)をかづけさせ給ひけるに、そのときは大炊の御門の右大臣公能公、これを賜はり次いで、賴政にかづけさせ給ふとて、

「むかしの養由(やういう)[やぶちゃん注:養由基。中国の戦国時代の弓の名人。]は、雲のほかの雁を射にき。いまの賴政は、雨のうちに鵺(ぬえ)を射たり。」

とぞ感ぜられける。

  五月闇(さつきやみ)名をあらはせるこよひかな

とおほせられたりければ、賴政、

  たそがれどきも過ぎぬと思ふに

とつかまつり、御衣を肩にかけて退出す。そののち伊豆の國を賜はり、子息仲綱受領になし、わが身三位しき。

   *] 

 

「かしらは猿、むくろはたぬき、尾はくちなは」云々といふやうな怪物は前後に例がないかと思ふと、「後崇光院御記」の應永二十三年五月の條に次のやうな記事がある。北野の社の二叉(ふたまた)の杉に怪鳥が現れ、その聲大竹をひしぐが如く、社頭を鳴動するほどであつたので、參詣通夜の人は肝を治した。宮仕への一人が弓を以て射落したのを見れば、頭は猫、身は雞、尾は蛇の如く、眼大にして光りあり、希代の怪鳥なりと記されてゐる。賴政時代と鷹永年間とでも大分間隔があるが、賴政の最初の事件が卯月十日餘り、その次が五月二十日餘りで、應永のも五月だから、化鳥の出現には季節の關係があるらしい。賴政の射落した怪物は、うつぼ船に入れて西の海に流された。應永の化鳥も川に流すべき旨、室町殿が沙汰せられたといふことで、すべての規模が小さくなつてゐることは爭はれぬ。

[やぶちゃん注:「後景光院御記」「ごすくわうゐんぎよき(ごすうこういんぎょき)」と読む。室町時代の皇族で世襲親王家の一つである伏見宮三代目当主であった伏見宮貞成親王(後崇光院)(応安五(一三七二)年~康正二(一四五六)年)の日記。

「應永二十三年五月」一四一六年。この年の五月一日はグレゴリオ暦に換算すると六月五日に相当する。

「雞」「にはとり」。鶏。

「室町殿」当時の室町幕府第四代将軍足利義持。]

 

 賴政の鵺退治に就いて連想に上る支那の話は「搜神記」の李楚賓である。靑山に住する董元範の母、常に病患に染み、晝の間は安靜であるが、夜になると非常に苦しむ。その痛みは刀で背を刺され、且つ毆打されるが如くである。病んでより已に一年、醫藥針灸の手段を盡しても更に效驗が見えぬ。たまたま易(えき)をよくする朱邯なる者、元範の母の三更に至つて叫喚するのを耳にし、何の病ひであるかを問うた。元範には無論答へることが出來ない。朱邯は卦を置いた結果、今日の午後二時に、あなたは弓矢を持つた人に出遇ふ筈だ、その人に敬意を表し、再三引き留めて一宿を乞ふがよろしい、母堂の御病氣を救ひ、苦痛の根源も明かになるでせう、と告げて去つた。元範がその時刻に道路に出て待つてゐると、成程弓矢を携へた男が來る。これが李楚賓なので、平生狩獵を好み、出づる每に大いに獲ざることなしといふ名人であつた。元範は進んで恭しく挨拶し、本日は柾げて弊舍へお立ち寄りを願ひたう存じます、と懇願した。楚賓は遊獵の途中でまだ一物も獲てゐない、日も高い事ではあるし、今からお寄りするわけに往かぬ、と云ふ。こゝに於てつぶさに母の病苦を述べ、或人の教へにより、御尊來を仰ぎさへすれば母の病ひは必ず癒えるといふことでありますので、斯の如く歎願に及ぶ次第でございます、と云つたところ、楚賓も遂に承知して元範の家に一宿することになつた。元範は懇ろに楚賓をもてなし、東房に臥牀(ふしど)を設けて、どうぞ御ゆるりとお寛(くつろ)ぎ下さい、と云つた。その夜は晝の如き月明であつたが、楚賓は夜の十時頃になると、房門を出てその邊を徘徊してゐる。忽ち一羽の大鳥が飛んで來て、母親の寢てゐる房の上に止り、嘴で屋根をつゝきはじめると同時に、室内から堪へがたい苦しみの聲が起る。この鳥が妖魅に違ひないと悟つた楚賓は、直ちに房中より弓矢を取り出し、失繼ぎ早に數箭を射た。鳥はどこへか飛び去り、室内の痛聲も聞えなくなつた。翌朝楚賓は元範に向び、もう母堂の疾患は除き去りました、御安心なさい、と云つたけれど、元範は腑に落ちぬ樣子で、どういふ風にしてお除きになりましたか、と問ふ。賓は拙者が戸を出てぶらぶら步いてゐましたところ、滿身朱色で兩眼金の如き大鳥が飛んで來て、屋上を啄(ついばみ)みはじめたら母堂の痛聲が聞えるのです、それから弓矢を持ち出して射かけたら、鳥はゐなくなつて痛聲もやみました、もう大丈夫です、と説明したので、元範は大いによろこび、楚賓と共に家の周圍を𢌞つて搜して見た。痕跡らしいものは何もなかつたが、柱に二本の矢が立つて居り、鏃(やじり)には血が付いてゐる。元範直ちにこれを燒き棄て、母の狀態は全く舊に復した。乃ち深く楚賓の恩を感謝し、絹一束を贈つたけれど、楚賓は受けずして去つた。

[やぶちゃん注:これは柴田の勘違いで「搜神記」ではなく、「集異記」の誤りではないかと思われる。「太平廣記」の「精怪二 李楚賓」に「集異記」を出典として、以下のように出るからである。

    *

李楚賓者、楚人也。性剛傲、惟以畋獵爲事。凡出獵、無不大獲。時童元範家住靑山、母嘗染疾、晝常無苦、至夜卽發。如是一載、醫藥備至、而絶無瘳減。時建中初、有善易者朱邯歸豫章、路經範舍、邯爲筮之。乃謂元範曰、「君今日未時、可具衫服、於道側伺之、當有執弓挾矢過者。君能求之斯人、必愈君母之疾、且究其原矣。」。元範如言、果得楚賓、張弓驟馬至。元範拜請過舍、賓曰、「今早未有所獲、君何見留。」。元範以其母疾告之、賓許諾。元範備飲膳、遂宿楚賓於西廡。是夜、月明如晝。楚賓乃出戸、見空中有一大鳥、飛來元範堂舍上、引喙啄屋、卽聞堂中叫聲、痛楚難忍。楚賓揆之曰、「此其妖魅也。」。乃引弓射之、兩發皆中。其鳥因爾飛去。堂中哀痛之聲亦止。至曉、楚賓謂元範曰、「吾昨夜已爲子除母害矣。」。乃與元範遶舍遍索、俱無所見。因至壞屋中、碓桯古址、有箭兩隻、所中箭處、皆有血光。元範遂以火燔之、精怪乃絶。母患自此平復。

   *

「靑山」これだけでは不詳。なお、大きな地区としては、まず、現在の湖北省武漢市に青山区はある。] 

 

「平家物語」には一むらの黑雲が押して來て御殿を蔽ふ時、主上愈々おびえさせ給ふとある。怪物の所作は雲につゝまれてわからぬが、この時恐らく元範の屋根を啄むのに似た動作があるのであらう。李楚賓は數箭を放つただけで、怪鳥を斃し得なかつたに拘らず、晝の如き月明に惠まれて、全身朱色の鳥をはつきり見屆けてゐる。相手の正體の見えた方が、矢を放つのに便宜なことは云ふまでもない。朱邯の豫言は母の患を救ひ、その苦の源を驗せんといふに在つたのだから、楚貿の一宿を乞うた目的は十分に達せられたわけである。

[やぶちゃん注:「驗せん」「げんせん」或いは「けんせん」と読んでいよう。この場合の「験」とは、証拠によって確かめる・試すの意である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) わたしの樹


Watasinoki

   わたしの樹

 

 大學時代の友達から、領地に遊びに來いと言つて來た。この男は貴族で、また富裕な地主でもあつた。

 その彼が久しい前からの病氣で、盲らになつた上、中風で步行もできないことは、私も承知してゐた。私は會ひに行つた。

 行つて見ると彼は、廣大な庭の中の並木路にゐた。夏の盛りなのに毛皮の外套を着こみ、瘦せこけた身體を手押車に乘せて、立派な仕著せを着た二尺の從僕に押させてゐた。

 「ようこそ來て下さつた」と、彼は墓の底から吹いてくるやうな聲で言つた、

 「わたしの先祖代々の土地に、わたしの千年の樹の下に。」

 彼の頭の上には、本當に千年もたつたかと見える檞の大樹が、うつさうと枝をひろげてゐる。

 私は心のなかでつぶやいた、「聞いたか、千古の巨人。死にかけた蛆蟲が、お前の根元を這ひ𢌞つて、お前を自分の樹と呼ぶのを。」

 そのとき風が渡つて、大樹の葉並がさらさらと鳴るつた。その音はなんとなく、檞の老樹が私の考や病人の自讃にこたへた穩やかな返事、あるひは寛大な笑聲のやうな氣がした。

           一八八一一年十一月

 

Edd

 

[やぶちゃん注:本詩篇を以って底本の「散文詩」本文は終わっている。

「檞」本字は通常「かしわ」と訓読し、「柏」と同義で用いる。その場合、本邦産の双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentata、英名Daimyo Oakを指す。原文は“дуб”(ドゥープ)で、これは英語のオーク“ork”、樫(かし)や楢(なら)の類を広く言う語である。以下、興味深い記述が現われるので以下にウィキの「オーク」の一部を引用する。『オーク(英:Oak)はブナ科コナラ属 (学名:Quercus)の総称。模式種のヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク、イングリッシュオーク、コモンオーク Common Oak、学名:Quercus robur)が代表的。なお』、『アカガシ亜属 Quercus Cyclobalanopsis)は別属とすることがあるが、オークには含まれる』。『広葉樹で、その多くが落葉樹だが、常緑樹もあり、あわせて数百種以上ある。日本語では落葉樹の種群はナラ(楢)、常緑樹の種群はカシ(樫)と呼ばれる。亜熱帯から亜寒帯まで、北半球に広く分布する。西欧でいうオークには日本ならナラとなる落葉樹が多いが、そのようなものでも』、『しばしば翻訳家が日本語訳で「樫」の訳語を一律に当てていることがあるので、注意を要する。常緑のオークはライヴオーク(live oak)と呼ばれる』とある。実は、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版の当該詩「わたしの木(こ)だち」では、まさに『かしの木』と訳されてある。ちなみに、ロシア語口語ではこれは「でくのぼう・とんま・まぬけ」の意味でも用いられるのは、偶然か。

 最後に、中山版でにはないが、一九五八年岩波文庫「散文詩」版にある、本文の終りの後に配された挿絵を附しておいた。ロシア語で「КОНЕЦ」(カニェーツ:「終り」の意)の文字が見てとれる。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 無心の聲


Osanagono

   無心の聲

 

 私はその頃スヰスに居た。靑春の自負に燃え、しかも孤獨で、喜びのない憂鬱な日を送つてゐた。人生の味も知らぬうちから既に倦み疲れ、苛立たしかつた。この世の事はみな平凡な下らぬものに見え、靑年の例しに漏れず、自殺を思つて私かに愉しんだ。

 「見てゐろよ、復讐してやるから……」と私は思つた。だが、何を見ろと言ふのか、なんの復讐をするのか、自分にも分らなかつた。栓を固くした壺の酒のやうに、身うちの血が騷ぐだけで、兎に角この酒を、外へ迸らせてやらればならぬと思はれた。今こそ窮屈な壺を碎く時だと思つた。私の偶像はバイロンだつた。私の英雄はマンフレッドだつた。

 終にある夕暮、私はマンフレッドのやうに、山巓を極めようと決心した。氷河を越え人界を離れて、植物さへも生えぬ所へ、無生の巖のみ磊々と累なる所へ、寂として、瀑布の響も絶える所へ。……

 そこへ行つて、何をする積りだつたかは知らない。多分、死ぬ積りだつたのだらう。

 私は家を出た。

 步いてゆくうちに道は漸く狹くなり、胸を衝く山徑(やまみち)になつた。道はどこまでも登る。最後の山小屋、最後の樹立を見棄てて、もう分時がたつた。見渡すかぎりの、一面にそそり立つ巖、間近に逼る雪はまだ眼に見えないが、冷氣は既にしんしんと膚をつく。夜闇の影が、黑い渦をなして押寄せる。

 私は步みを止めた。

 怖ろしい靜寂。

 死の王領。

 身の程を知らぬ悲哀と絶望と侮蔑とを抱いて、佇み息づく人間は私一人。生を逃れ、生を欲せず、しかも意識あり生ある人間は私一人。……故知れぬ畏怖が私の血脈を凍らせる。

 だが私は、なほも自らの大を信じてゐた。

 マンフレッド。それで充分ではないか。

 「一人だ、一人きりだ」と、私はくり返した、「一人で死の面前にゐるのだ。……さあ時だ。さよなら、哀れな地球よ。どれお前を、後足に蹴返してやらう。」

 そのとき、ふと耳に聞いた不思議な響は、直ぐにそれとは覺れなかつたが、正しく生ある人間の聲だつた。私は身顫ひをして耳を欹てた。聲は再び起つた。

 今は疑ふ餘地はない。それは子供の、赤子の泣く聲だつた。永遠に生の息吹きの絶えたと見た、この山巓の荒涼の中に、子供の泣く聲を聞かうとは。

 驚きは忽ち消えて、息も詰まる喜びがこれに代つた。私は道も選ばずに、一目散に走り出した。徴かに悲しげなその聲、しかも私に取つては救ひの聲をめざして。

 間もなく、行手に瞬く燈火が見えた。なほ步を急がせると、數瞬ののちに、地を摺るばかりの低い山小屋に行當つた。平屋根の下に壓伏せられたこれらの石小屋は、アルプスの牧人達が幾週間かを過す隱れ家である。

 半開きの戸口から、私はその小屋に轉び入つた。死に追詰められた者のやうに。

 見ると若い女が一人、腰掛の上で赤子に乳を含ませてゐる。その夫と見える牧人が、女と並んで腰掛けてゐる。二人はじつと私を見上げた。しかし私は何も言へずに、纔かに徴笑みながら頷いた。……

 バイロンよ、マンフレッドよ、はた自殺の夢、思上つた自負の心よ。今それらは、何處にある。

 赤子は泣き歇まぬ。私はその子を、母親を、父親を、心の底から祝福した。

 生れたばかりの人間の、火の附くやうな泣聲。私を救つたのはお前だ。私を癒して呉れたのはお前だ。

            一八八二年十一月

 

[やぶちゃん注:「私かに」「ひそかに」。

「マンフレッド」Manfred)はイギリスのロマン主義詩人バイロン(George Gordon Byron  一七八八年~一八二四年)が一八一七年に書いた同名の長大な劇詩の主人公の青年の名。マンフレッドはかつて恋人を死に追いやってしまった罪の記憶を抱えて悩む。神霊と交感する能力を会得している彼は精霊を呼び出し、その記憶の「忘却」を求めるが、精霊は不可能と答える。「会得」は自在であっても「喪失」は思うままにならないことを知った彼は、「喪失」の最上の形態としての「死」に立ち向かうため、アルプスの山中を彷徨い続けた末、遂にその恋人の霊と再会を果たし、許しを乞うと共に自らも息絶えるのであった。なお、前出の呪ひも参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 轢れて


Kurumanihikarete

   轢れて

 

 「その呻き聲はなんだ。」

 「苦しいのだ、とても苦しいのだ。」

 「岩に碎けるせせらぎの音を、聞いたことがあるかね。」

 「ああ、あるさ。だがなぜそんな事を聞くのだ。」

 「なぜつて、君の呻きと水のせせらぎとは、どちらも所詮は音に過ぎないからさ。尤も水のせせらぎは、人の耳を樂しますこともあらうが、君の呻きに哀れを催す人はあるまい。なに、今さら止めなくてもいいさ。ただ忘れずに居給へ。――そんなものはみな音だ。音に過ぎない。」

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:中山版では挿絵がないが、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはあるので、それを附した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) この上の惱みはあらじ


Nmd

   この上の惱みはあらじ

 

 青い空、綿毛のやうな雲、花の勾ひ。若者らの快い叫び。大いなる美術の工(わざ)の、光り輝く麗しさ。やさしい女の頰には幸福の笑ひ、魅するばかりのその眸。……それらみな、なんのために。

 二時間ごとの、役にも立たぬ苦い藥の一匙――私の用はそれだけだ。

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『この上の惱みはあらじ』 原題は NESSUN MAGGIOR DOLORE である。『神曲』地獄篇第五歌一二一行以下、すなはちダンテが地獄の第二圏に至り、フランチエスカ・ダ・リミニに行逢つて語る條に、

  女いふ、「まがつ日のもと

  幸みてる日をかへりみる

  この上の惱はあらじ……」

とあるに基く。なほはじめはこの詩は『嗟嘆』STOSZSEUFZER と題された。

   *

註に出る「NESSUN MAGGIOR DOLORE」という題名は実際にはダンテの原文ではNessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.と続き、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」といった意味である。シチュエーションは次の注を参照されたいが、昭和六二(一九八七)年集英社刊寿岳文章訳「神曲」の訳では、地獄の苦界の只中にいる彼女がダンテの『フランチェスカよ、あなたの苦患(くげん)は、悲しさと憐れみゆえに、私の涙をひき出す。/だがまず語りたまえ。甘美なためいきの折ふし、何より、どんなきっかけで、定かでない胸の思いを恋とは知れる?』という問いに対する答えの冒頭で、『みじめな境遇に在(あ)って、しあわせの時を想いおこすより悲しきは無し。』と訳される。以下、フランチェスカはパオロ・マルテスタとのなれそめを語る。なお、特にこの台詞について寿岳氏は以下の注を附している。『ダンテは多くの古典をふまえてこれらの言葉を書いたと考えられるが、ポエティウス(四八〇-五二四)の『哲学の慰め』二の四、三-六行とのかかわりは最も深い。』。「フランチエスカ・ダ・リミニ」についても寿岳文章訳「神曲」の脚注を引用しておく。ダンテがヴィルジリオに『つねに離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える、あの二人とこそ語りたい。』の「二人」に附された注である。『フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マルテスタ。北イタリアのラヴェンナ城主グイド・ミノーレ・ポレンタの娘フランチェスカは隣国の城主で狂暴かつ醜男ジャンチオット・マラテスタと一二七五年頃政略結婚させられた。初めジャンチオットは結婚の不成立をおそれ、眉目秀麗の弟パオロを身代わりに立てたが、婚後事実を知ったフランチェスカのパオロに対する恋情はいよいよつのり、フランチェスカにはジャンチオットとの間にできた九歳の娘が、そしてパオロにも二人の息子があったにもかかわらず、一二八五年頃のある日、ジャンチオットの不在を見すまして密会していたところ、不意に帰宅したジャンチオットにより、二人は殺された。フランチェスカはダンテがラヴェンナで客となっていたグイド・ノヴェロの伯母なので、特に親近の感が強かったに違いない。(後略)』。次に「STOSZSEUFZER」であるが、これはドイツ語で、正しくはエスツェットを用いて「Stoßseufzer」(シュトース・ゾイフツァ)と綴る。「深いため息」「危急の際の短い祈り」という意味である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 鷓鴣(しやこ)


Syako

   鷓鴣(しやこ)

 

 執念深い痼疾に惱みながら、私は寢床の中で思つた、「これはなんの報いだらう。なぜ私が、他ならぬこの私が罰せられるのだ。不公平だ。どう考へても不公平だ。」

 收穫の濟んだ後の切株の繁みに、二十羽ほどの鷓鴣が群れてゐた。互ひに身を摺寄せて、愉しげに軟かな土を啄む。

 そのとき遙かに犬が吠えかかる。鷓鴣は仲好く、一齊に飛立つ。途端に響く銃聲。翼を射拔かれた一羽の鷓鴣が、傷みに堪へず落ちる。やつとの事で足を引摺つて、蓬の叢に身をかくす。

 犬が嗅ぎ𢌞つてゐるあひだ、不運なその鷓鴣も矢張り思ふに違ひない、「仲間は二十羽だつたのに、なぜ私が、この私だけが射落されて、死んで行かねばならないのか。私が番に當る譯でもあるのか。いやいや、どうしても不公平だ。」

 寢ておいで、病人よ、死が嗅ぎつけるまで。

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:中山版では挿絵がないが、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはあるので、それを附した。

「鷓鴣」詠まれた年からロケーションはパリ近郊と推定されることから、フランス北西部に棲息する鳥綱キジ目キジ科ヤマウズラ属ヨーロッパヤマウズラの地方亜種 Perdix perdix armoricata に同定しておく。胸の上がより赤い。本種群は古くから狩猟の対象とされている。ツルゲーネフも小説「狩人日記」を読むと、ロシア時代に彼ら(ロシア産は地方亜種 Perdix perdix robsta)を銃で狩りした。例えば、ホーリとカリーヌィチを見よ(リンク先は私の中山省三郎訳の古い電子テクスト)。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 眞理と正義


Sinnri

   眞理と正義

 

 「なぜあなたは、靈魂不滅をそんなに尊重されるのですか。」

 「なぜですと。なぜなら、その曉にこそ永劫不磨の眞理を把握し得るからです。それにわたしの考へでゆくと、その中にこそ至福はあるのですから。」

 「眞理の把握の中にですか。」

 「無論。」

 「ぢや一つ、次のやうな場面を考へて頂きたい。靑年が集つて、議論をしてゐます。そこへ慌しく、もう一人の青年が駈けつけます。見ると、その眼がぎらぎらしてゐる。激しい昂奮に息切れがして、物も言へぬ樣子なのです。『おいおい、どうした。』『まあみんな、聽いて呉れ。僕は大發見をしたのだ。これこそ眞理だ。入射角は反射角に等し。まだあるぞ。二點間の最短距離は、その二點を結ぶ直線上にあり。』『そりや本當か。おお、なんて幸福だ。』

 聽いてゐた靑年たちは、口々にさう叫んで、感きはまつて互ひに抱きあふ。……いかがです、さすがのあなたにも、こんな場面は考へられますまい。あなたは笑つてゐますね。それ、そこですよ。しよせん眞理は幸福を得る道ではない。正義こそその道なのです。これこそ地のもの、人間のものですよ。正義と公明。さう、正義のためなら、死も怖れますまい。……なるほどわれわれの全生活は、眞理の知識のうへに築かれますね。だが、それを『把握する』とは何ごとです。ましてや、そこに至福を見いだすといふに至つては。……」

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 𧌃臘蟲(しびとくらひむし) / 虫類~完結!


Sibitokuraimusi

しびとくらひむし

𧌃臘蟲

 

本綱廣州西南數郡有之食死人蟲也有甲而飛狀如麥

嗜臭肉人將死便集入舎中人死便食紛々滿屋不可驅

惟殘骨在乃去惟以梓板作噐則不來或用豹皮覆尸則

不來其蟲雖不入藥而爲人害不可不知

△按𧌃臘蟲本草有三説異同今取其一記之

 

 

しびとくらひむし

𧌃臘蟲

 

「本綱」、廣州西南の數郡に、之れ、有り。死人〔(しびと)〕を食〔ら〕ふ蟲なり。甲、有りて、飛ぶ。狀ち、麥のごとく、臭き肉を嗜(す)き、人、將に死せんと〔するに〕、便〔(すなは)〕ち、舎(いへ)の中に集〔まり〕入〔り〕、人、死すれば、便ち、食ふ。紛々として屋に滿つ。驅〔(か)〕らるべからず。惟(たゞ)、殘骨在〔(あ)〕るのみにして、乃〔(すなは)〕ち、去る。惟だ、梓(あづさぎり)〔の〕板を以つて噐〔(うつは)〕に作れば、則ち、來らず。或いは豹の皮を用ひて、尸(しかばね)を覆へば、則ち、來らず。其の蟲、藥に入れずと雖も、人の害を爲す。知らずんばあるべからず。

△按ずるに、𧌃臘蟲、「本草」に、三説の異同、有り。今、其一つを取りて、之れを記す。

 

[やぶちゃん注:本項はまさに「蟲部」の掉尾なのだが、良安先生、やらかしゃって呉れました。人間の遺体を食ったり、その腐敗液を吸う虫は沢山いるが(言っとくが、蝶でさえ吸う)、これは殆んど志怪小説のようだ(中間部は明らかに作話的である)。しかしここはやはり、最後まで生物学的な注でなくてはなるまい。念頭に浮かぶのはまあ、好んで動物死体を食うとされて有り難くない和名を戴いている「死出虫(しでむし)」だよな。動物界 Animalia 節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera 多食(カブトムシ)亜目 Polyphaga ハネカクシ上科 Staphylinoidea シデムシ科 Silphidae に属するシデムシ類だ。而してやはりここは荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第一巻「蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「シデムシ」を開いて見る。英名はburying beetlecarrion beetlesexton beetles でそれぞれ『〈埋葬する甲虫〉〈腐肉をあさる甲虫〉〈墓掘り人の甲虫〉』、フランス語では nécrophore 『ネクロフォルは〈死体を運ぶもの〉』ドイツ語の AaskäferTotergräber は『〈死体の甲虫〉〈死者を埋葬するもの〉』とあり、何より、『中国名の𧌃臘虫は〈肉を食う虫〉の意』とこの名をズバリ挙げてあるのである(下線太字は私が附した)。但し、中文ウィキでは科名を「葬甲科」とし、俗称を「埋葬蟲」とする。「埋葬」というのは、本種が動物死体の腐肉の摂餌を好む以外に、ウィキの「シデムシ」によれば、特にモンシデムシ属 Nicrophorus のシデムシ類は亜社会性昆虫で家族を持つ。♀♂の番いで、小鳥や鼠などの小型脊椎動物の死体を地中に埋めて肉団子状に加工した上で、これを餌として幼虫を保育するという習性を持っていることによる。また『親が子に口移しで餌を与える行動も知られており、ここまで幼虫の世話をする例は、甲虫では他に見られないものである』「ブリタニカ国際大百科事典」の「シデムシ」から引く(コンマを読点に代えた)。『小~大型の甲虫で、外形は幅広く扁平なもの、細長いもの、角形のものなどかなり多様である。色彩は黒みがかったものが多いが、赤や黄色の斑紋のあるものも少くない。頭部には大きな複眼があり、前方に突出して基部が頸状にせばまるものと、前胸背前縁下部に隠れるものとがある。触角は短く、11節から成り、先端の34節は拡大して棍棒状または球稈状になっている。大腮は大きく、口枝は発達している。上翅は大きく、腹部を完全におおうものと、翅端が切断状で腹部の先端が露出するものとがある。後翅は発達しているものが多い。肢は強壮であるが比較的短く、跗節は通常5節であるがまれに4節のものもある。ハネカクシ(科)に近縁で、世界に約 250種が知られ、そのうち日本産は約 30種。大部分の種は腐敗した動物の死体を食べるが、虫食性、草食性のものもある。ヤマトモンシデムシ Nicrophorus japonicus』(モンシデムシ亜科モンシデムシ属)『は体長 20mm内外、頭部は大きく、複眼後方は頬状に肥大し、顕著な頸部をもつ。上翅に幅広い赤色横帯が2本ある。雄の後肢脛節は弓状に湾曲する。本州、四国、九州、朝鮮、台湾、中国、モンゴルに分布する。オオヒラタシデムシ Eusilpha japonica』(シデムシ亜科Eusilpha 属)『は体長 23mm内外、体は扁平でやや青みを帯びた黒色である。頭部は小さく、前胸のくぼみに入る。上翅には各4条の縦隆起がある。北海道、本州、四国、九州、台湾に産する普通種で、腐敗動物質に集る』とある。

 

「廣州西南」「廣州」は現在の広東省広州市一帯であるから、その西南部はこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「麥のごとく」シデムシの一部の種の幼虫は小麦色を呈した麦の穂のような形をしている。私はこの幼虫ちょっとダメな口の形状なので、リンクはしないが、グーグル画像検索「Silphidae」をかけると、それらしい写真が見られる。

「驅〔(か)〕らるべからず」追い出すことも出来ぬほどに急速に多量に群がってくるというのである。有り難くない虫系ホラー!

「殘骨在〔(あ)〕るのみにして、乃〔(すなは)〕ち、去る」超早回し「九相図絵巻」じゃ!

「梓(あづさぎり)」和名をこう呼ぶ木本類は幾つかあるが、棺桶板(私は「噐」はそれで採る)にするような材木の採れる高木となると、シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata か同属のトウキササゲ Catalpa bungei であろう。現代中国では前者に「梓」の字を当てている。

「其の蟲、藥に入れずと雖も、人の害を爲す。知らずんばあるべからず。」東洋文庫訳では『この虫は薬に入れないが、人に害をなすものなので、よく知っておかなければならない』とするが、何だかよく判らぬ訳である。有毒だというのでもない。『人に害をなす』というのは死んだ人間の肉を喰らう行為を指すのか? だからよく理解しろというのか? だったら、人間の死体に最も早く、最も多量に発生する蠅の幼虫である蛆をこそ忌避すべきであろう? どうもここには何か言いたそうで、隠していることがあるような気がしてならない。いやな、感じ!

𧌃臘蟲、「本草」に、三説の異同、有り。今、其一つを取りて、之れを記す』「本草綱目」の「蟲部 濕生類」の掉尾にある「附錄諸蟲」の冒頭に、

   *

唼臘蟲

時珍曰、按裴淵「廣州記」云、『林任縣有甲蟲、嗜臭肉。人死、食之都盡、紛紛滿屋、不可驅』。張華「博物志」云、『廣州西南數郡、人將死、便、有飛蟲。狀、如麥、集入舎中、人死、便、食、不可斷遣、惟殘骨在乃去。惟以梓板作器、則、不來。林邑「國記」云、『廣西南界、有唼臘蟲。食死人。惟豹皮覆尸、則、不來。此三説皆一物也。其蟲、雖不入藥而爲、人害、不可不知。

   *

良安センセー、嘘ついちゃいけませんぜ! 三説のカップリングやないカイ!!!

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)


Kaityuu

ひとのむし 蛔【同蚘】 蛕【同】

      人龍

【音爲】

 

本綱蚘人腹中長蟲也人腹有九蟲一切癥瘕久皆成蟲

凡上旬頭向上中旬向中下旬向下服藥須於月初四五

日五更時則易効也其九蟲如左【出巣元方病原】

――――――――――――――――――――――

伏蟲 長四分群蟲之主也

蚘蟲 長五六寸至一尺發則心腹作痛上下口喜吐涎

 及清水貫傷心則死

白蟲 長一寸色白頭小生育轉多令人精氣損弱腰脚

 疼長一尺亦能殺人

肉蟲 狀如爛杏令人煩悶

肺蟲 狀如蠶令人咳嗽成勞殺人

胃蟲 狀蝦蟇令人嘔逆喜噦

弱蟲 【一名鬲蟲】狀如瓜瓣令人多唾

赤蟲 狀如生肉動作腹鳴

蟯蟲 至微形如菜蟲居胴腸中令人生癰疽疥癬

 痔瘻疳齲齒諸蟲皆依腸胃之間若人臟腑氣實則

 不爲害虛則侵蝕變生諸疾也又有尸蟲【與此俱十蟲也】

尸蟲 與人俱生爲人害其狀如犬馬尾或如薄筋依

 脾而居三寸許有頭尾

――――――――――――――――――――――

凡九蟲之中六蟲傳變爲勞瘵而胃蚘寸白三蟲不傳其

蟲傳變或如嬰兒如鬼形如蝦蟇如守宮如蜈蚣如螻蟻

如蛇如鼈如蝟如鼠如蝠如蝦如猪肝如血汁如亂髮亂

絲等狀不可勝窮要之皆以濕熱爲主

△按人吐下蛔蟲抵五六寸如蚓淺赤色有死而出或

 活而出者脾胃虛病癆下蛔蟲者不治

 小兒胃虛蚘蟲或吐或下其蟲白色長一二寸如索麪

 者一度數十晝夜至數百用錢氏白光散加丁字苦楝

 根皮煎服癒【白色帶黒者不治】

 正親町帝時【天正十三年】武臣丹羽五郎左衞門長秀【年五十一】

 嘗有積聚病甚苦不勝其痛苦乃拔刀自裁死火葬之

 後灰中撥出積聚未焦盡大如拳形如秦龜其喙尖曲

 如鳥刀痕有背以告秀吉公【秀吉】見之以爲奇物卽賜

 醫師竹中法印

 

 

ひとのむし 蛔【蚘〔(くはい)〕に同じ】

      蛕〔(かい)〕【同じ。】

      人龍

【音、「爲〔(イ)〕」。】

 

「本綱」、蚘は人の腹中の長き蟲なり。人の腹に、九蟲、有り。一切〔の〕癥瘕〔(ちようか)〕、久しくして、皆、蟲と成る。凡そ、上旬には、頭、上に向かひ、中旬には中に向かひ、下旬には下に向かふ。服藥、須〔(すべか)らく〕月の初め、四、五日の五更の時に於いてすべし。則ち、効〔(ききめ)〕しあり易し。其の九蟲、左のごとし【「巣元方病原〔(さうげんぼうびやうげん)〕」に出づ。】。

――――――――――――――――――――――

伏蟲 長さ、四分。群蟲の主〔(しゆ)〕なり。

蚘(くはい)蟲 長さ、五、六寸より一尺に至る。發するときは、則ち、心・腹、痛みを作〔(な)〕し、上下の口、喜〔(この)み〕て、涎(よだれ)及び清水を吐く。心を貫き傷むときは、則ち死す。

白蟲 長さ、一寸。色、白く、頭、小さく、生育〔すること〕、轉〔(うた)〕た、多し。人をして、精氣損弱し〔→せしめ〕、腰・脚、疼(うづ)かせしむ。長さ、一尺〔に〕なれば、亦、能く人を殺す。

肉蟲 狀〔(かた)〕ち、爛〔れたる〕杏〔(あんず)〕のごとし。人をして煩悶せしむ。

肺蟲 狀ち、蠶(かいこ)のごとし。人をして咳嗽〔(せきがい)〕して〔→せしめ〕、勞〔(らう)〕と成さしめ、人を殺す。

胃蟲 狀ち、蝦蟇(かへる)のごとし。人をして嘔逆し〔→せしめ〕喜〔(この)み〕て噦(しやつくり)せしむ。

弱蟲 【一名、「鬲蟲〔(かくちゆう)〕」。】狀ち、瓜の瓣(なかご)のごとし。人をして唾〔(よだ)〕り、多からせしむ。

赤蟲 狀ち、生肉のごとし。〔その〕動作に〔したがひて〕、腹、鳴る。

蟯蟲 至つて微〔(こま)〕か。形ち、菜の蟲のごとし。胴腸〔(どうちやう)〕の中に居て、人をして癰疽〔(ようそ)〕を生ぜしむ。疥癬・癘〔(くわれい)〕・痔瘻・疳〔(はくさ)〕・齲齒〔(うし)〕の諸蟲、皆、腸胃の間に依りて、若〔(も)〕し、人、臟腑〔の〕氣、實するときは、則ち、害を爲さず、虛するときは、則ち、侵蝕す。變じて諸疾を生ずるなり。又、「尸蟲〔(しちゆう)〕」有り【此れと俱に〔せば〕十蟲なり。】

尸(し)蟲 人と俱に生じて、人の大害を爲す。其の狀ち、犬馬の尾のごとく、或いは薄筋〔(すぢ)〕のごとし。脾に依つて居〔(を)〕る。三寸許り、頭尾、有り。

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凡そ、九蟲の中〔(うち)〕、六蟲は傳變して勞瘵〔(らうさい)〕と爲る。而して、胃〔蟲〕・蚘・寸白〔(すはく)〕の三蟲は傳(つたは)らず。其の蟲の傳變すること、或いは嬰兒のごとく、鬼形〔(きぎやう)〕のごとく、蝦蟇〔(か〕へる)のごとく、守宮(いもり)のごとく、蜈蚣(むかで)のごとく、螻蟻〔(らうぎ)〕のごとく、蛇のごとく、鼈(すつぽん)のごとく、蝟〔(はりねづみ)〕のごとく、鼠のごとく、蝠(かはほり)のごとく、蝦(えび)のごとく、猪肝〔(ちよかん)〕のごとく、血汁ごとく、亂髮亂絲等のごとし。狀の勝〔(た)へ〕て窮むべからず。之れを要するに、皆、濕熱を以つて主〔(しゆ)〕と爲〔(す)〕。

△按ずるに、人、蛔蟲を吐き下するに、大抵、五、六寸〔にて〕、蚓(みゝづ)のごとく、淺赤色、死して出でて、或いは活(い)きて出でる者、有り。脾・胃の虛の病ひ〔にて〕、癆(つか)れて蛔蟲を下す者、治せず。

小兒、胃虛にして、蚘蟲、或いは吐き、或いは下す。其の蟲、白色、長さ、一、二寸、索麪〔(さうめん)〕のごとき者、一度に數十、晝夜に數百に至る。「錢氏白朮散〔(ぜんしびやくじゆつさん)〕」を用ひて、丁字〔(ちやうじ)〕・苦楝〔(くれん)〕の根皮を加へ、煎〔じて〕服して、癒ゆ【白色〔に〕黒を帶びたる者は治せず。】。

 正親(おほぎ)町の帝の時【天正十三年。】、武臣丹羽(には)五郎左衞門長秀【年五十一。】嘗て積聚〔(しやくじゆ)〕の病ひ有り、甚だ苦しむ。其の痛苦に勝(た)へず、乃〔(すなは)〕ち、刀を拔き、自ら、裁死〔(さいし)〕す。火葬の後、灰の中より、積聚を撥(か)き出だす。未だ焦〔(こが)〕れ盡きず。大いさ、拳(こぶし)の形のごとく、秦龜(いしがめ)のごとし。其の喙〔(くちばし)〕、尖り曲り、鳥のごとく、刀痕(〔かたな〕きず)、背(せなか)に有り。以つて秀吉公【秀吉。】に告(まふ)す。之れを見て、以つて奇物と爲す。卽ち、醫師竹中法印に賜ふ〔と〕。

 

[やぶちゃん注:線形動物門 Nematoda 双腺綱 Secernentea 旋尾線虫亜綱 Spiruria 回虫(カイチュウ)目Ascaridida 回虫上科 Ascaridoidea 回虫科 Ascarididae 回虫亜科 Ascaris カイチュウ属 Ascaris ヒト回虫 Ascaris lumbricoides を代表とする、ヒトに寄生する(他の動物の寄生虫による日和見感染を含む)寄生虫類ウィキの「回虫」によれば、回虫は『「蛔虫」とも書き』、広義の回虫類は『ヒトをはじめ』、『多くの哺乳類の、主として小腸に寄生する動物で、線虫に属する寄生虫である』。『狭義には、ヒトに寄生するヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides を指』し、『ヒトに最もありふれた寄生虫であり、世界で約十億人が感染している』。以下はヒト回虫(本文の「蚘(くはい)蟲」に同じい)について記す。『雌雄異体であり、雄は全長1530cm、雌は2035cmと、雌の方が大きい。環形動物のミミズに似た体型であり、 lumbricoides (ミミズのような)という種名もこれに由来するが』、『回虫は線形動物であり、環形動物とは全く異なるので体節も環帯もなく、視細胞などの感覚器も失われており、体の両先端に口と肛門があるだけで、体幹を腸が貫通する。生殖器は発達し、虫体の大部分を占める。成熟した雌は110万個から25万個もの卵を産む』。『最大25万個の回虫卵は小腸内で産み落とされるが、そのまま孵化する事はなく、糞便と共に体外へ排出される。排出された卵は、気温が15くらいなら1か月程度で成熟卵になり、経口感染によって口から胃に入る。虫卵に汚染された食物を食べたり、卵の付いた指が感染源となる場合が多い。卵殻が胃液で溶けると、外に出た子虫は小腸に移動する。しかしそこで成虫になるのではなく、小腸壁から血管に侵入して、肝臓を経由して肺に達する。この頃には1mmくらいに成長している。数日以内に子虫は気管支を上がって口から飲み込まれて再び小腸へ戻り、成虫になる。子虫から成虫になるまでの期間は3か月余りであり、寿命は2年から4年である』。『こうした複雑な体内回りをするので「回虫」の名がある。このような回りくどい感染経路をたどる理由ははっきりしていない。一説によれば、回虫はかつては中間宿主』『を経てヒトに寄生していたためではないかという』。『回虫は、古くから人類の最も普遍的な寄生虫であった。紀元前4世紀から5世紀のギリシャの医師ヒポクラテスや中国の紀元前2700年頃に記録があり、日本では4世紀前半とされる奈良県纏向(まきむく)遺跡の便所の遺構から回虫卵が発見されている。鎌倉時代頃から人糞尿(下肥)を農業に利用する事が一般化したので、回虫も広く蔓延した。人体から排泄された回虫卵が野菜等に付き、そのまま経口摂取されて再び体内に入るという経路である。こうした傾向は20世紀後半にまで続き、1960年頃でも、都市部で寄生率30 - 40%、農村部では60%にも及んだ。しかし、徹底した駆虫対策と衛生施設・衛生観念の普及によって急速に減少、20世紀末には実に0.2%(藤田紘一郎)から0.02%(鈴木了司)にまで下り、世界で最も駆虫に成功した例となった。ただし、同じ頃に広まった自然食ブームによって下肥を用いた野菜が流通するようになり、また発展途上国からの輸入野菜類の増加に伴い、回虫寄生の増加が懸念される。更に、駆虫が余りにも徹底したため、回虫に関する知識が忘れられるというような場合もあり、医師でさえ』、『回虫を見た経験がなく、検査方法も知らない例もあって、回虫の増加が見逃される恐れもある』。『世界的にも回虫の寄生率は高く、アジア・アフリカ・中南米などの発展途上国・地域ではなお40%程度あり、欧米でも数%となっている。発展途上国・地域では、人口の激増と都市集中、衛生施設・観念の不足、衛生状態や経済の悪化等により駆除が困難となっている』。『回虫による障害は多岐にわたり、摂取した栄養分を奪われる、毒素を分泌して体調を悪化させる、他の器官・組織に侵入し、鋭い頭で穿孔や破壊を起こす、等である。1匹や2匹程度の寄生であればほとんど問題はなく、肝機能が強ければ毒素を分解してしまうが、数十匹、数百匹も寄生すると激しい障害が起こる。幼少期なら栄養障害を起こし、発育が遅れる。毒素により腹痛・頭痛・めまい・失神・嘔吐・けいれんといった症状が出る。虫垂に入り込んで虫垂炎の原因になる場合も稀ではなく、多数の回虫が塊になって腸閉塞を起こす事もあり、脳に迷入しててんかんのような発作を起こす例もある』。『衛生環境を整備しなければならないのはもちろんである。かつての日本で寄生率が著しく高かったのは、人糞尿を肥料に用いていたと共に、それで栽培した野菜類を漬け物などとして生食いしていたのが大きな原因である。回虫卵は強い抵抗力を持ち、高濃度の食塩水中でも死なないので、食塩を大量に使用した漬け物でも感染は防げなかった。第二次大戦後は化学肥料の普及が回虫撲滅の一端を担った。回虫卵は熱に弱く、70では1秒で感染力を失う。従って野菜類は充分熱を通して食べれば安全である。有機栽培の生野菜を摂取するのであれば、下肥の加熱処理をしなければならない』。『だが、大量の食品が海外から輸入されている現状では、そこから感染する恐れもあり、注意しなければならない。発展途上国では人糞尿を肥料にする事は少ないが、衛生観念や施設の不充分から回虫の蔓延が見られる。便所の位置や構造が不衛生で、地面にそのまま排泄する場合には、乾燥した便に含まれる回虫卵が風に乗って空中に浮遊して感染する。糞便にたかる昆虫やネズミなどの小動物も感染源となっている』。『回虫は毎日大量に産卵するので、1匹でも寄生していれば必ず糞便に卵が混じる。よって検便をすれば寄生の有無がわかる。駆除にはかつてはサントニン・マクニン・カイニンソウなどが用いられたが、最近はパモ酸ピランテル、メベンダゾールなどが用いられる』。『根本的には便所の改善、人々の衛生観念の向上、社会の貧困撲滅など、多くの課題がある。発展途上国・地域でも、日本はじめ先進諸国の援助もあってそれらの問題の解決に取り組んでいるが、なお困難な事業である』。以下、私の好きな寄生虫博士藤田先生絡みの「アレルギー症との関連」の項で、是非、ここだけは読んで戴きたい(下線太字はやぶちゃん)。『東京医科歯科大学名誉教授の藤田紘一郎は、回虫(ヒト回虫)の寄生が花粉症などのアレルギー性疾患の防止に効果があると説いている。それによると、花粉症は花粉と結合した抗体が鼻粘膜の細胞に接合し、その結果としてヒスタミン等の物質が放出されて起こるが、回虫などの寄生虫が体内にいる場合、寄生虫は人体にとって異物であるので対応する抗体が大量に産生され、しかもそれらの抗体は花粉等のアレルギー物質とは結合しないので、アレルギー反応も起こらない。近年アレルギー性疾患が激増しているのは、回虫保有率が極端に減少したためであるという。少数の回虫寄生であれば、むしろ人体に有益な面も見られると考えられる。ヒト回虫とヒトには安定した共生関係が成立している可能性も考えられる』。『これに対し』、『東京慈恵会医科大学元教授の渡辺直煕(熱帯医学講座)は、ヒトへのブタ回虫寄生によりアレルギー物質に対するIgE抗体産生が増強する結果』、『アレルギー疾患が増悪することを示し、藤田の説を否定している』(これっておかしくない? 渡辺氏のそれは日和見感染の限定的結果論であって、それを通常のヒト回虫に敷衍するのはどうなの?)。『豚回虫・牛回虫・馬回虫・犬回虫・猫回虫など各種の回虫は、それぞれの哺乳類に固有であり、異種間では成虫になれない。そのため産卵することは無いので、糞便の虫卵検査では検出出来ない。時おり話題になるアニサキス症も、クジラ類の回虫に当たるアニサキスの幼虫がヒトの消化管(胃)へ迷入して起こる。ただし、人体に入ってもすぐ死んでしまい、寄生する事はない。もっとも、回虫は、かつては異なる宿主には寄生しないと考えられて来たが、実際にはヒトにイヌ回虫などの幼虫が寄生した例が多くあり、そのような場合は各種臓器への迷入が起こりやすく、重篤な症状を引き起こすので充分な注意が必要である』。

 

「癥瘕〔(ちようか)〕」腹中のしこり。この場合、本草家は寄生虫症による体内病変以外の寄生虫に依らない腫瘍等を含むものを主に想定していることに注意。「久しくして、皆、蟲と成る」とある通り、彼らは、そうした腫瘍から寄生虫が発生するというとんでもない勘違いを確信しているのである。

「上旬には、頭、上に向かひ、中旬には中に向かひ、下旬には下に向かふ」月の満ち欠けに従っているというのである。

「五更」凡そ、現在の午前三時から午前五時、或いは午前四時から午前六時頃。寅の刻。

「効〔(ききめ)〕しあり易し」「し」は強意の副助詞と採った。

「巣元方病原」隋代の医師で大業年間(六〇五年~六一六年)中に太医博士となった巣元方が六一〇年、煬帝の勅命によって撰した医術総論「巣氏諸病源候論」。全五十巻。

「伏蟲」現行の研究では、これはヒトに寄生する十二指腸虫(線形動物門双腺綱桿線虫亜綱 Rhabditia 円虫目 Strongylida 鉤虫上科 Ancylostomatoidea 鉤虫科 Ancylostomatidae 十二指腸虫属Ancylostomaズビニ鉤虫 Ancylostoma duodenale 及び鉤虫科 Necator 属アメリカ鉤虫 Necator americanus)に比定される。十二指腸虫という名称はたまたま剖検によって十二指腸で発見されただけのことで、特異的に十二指腸に寄生するわけではないので注意されたい。なお、犬や猫を固有宿主とするセイロンコウチュウ・ブラジルコウチュウ・イヌコウチュウなどもヒトに寄生することがある。ウィキの「鉤虫症」によれば、『感染時にかゆみを伴う皮膚炎を起こす。幼虫の刺激により』、『咳・咽頭炎を起こす。重症の場合、寄生虫の吸血により軽症~重症の鉄欠乏性貧血を起こす。異食症を伴う場合もある』。『亜熱帯から熱帯にひろく分布する。戦前までは日本中で症例が多数みられ、埼玉県では「埼玉病」と呼ばれており、大正期に罹病率の高かった地域は水田の多い北葛飾郡・南埼玉郡・北埼玉郡の三郡であったとされる。これは近世中期以降、この地域が江戸からの下肥需要圏であり、河川を利用した肥船による下肥移入が多かったためとされる』。本種群はヒトからヒトへの『感染はない。糞便とともに排出された虫卵が適切な条件の土壌中で孵化し幼虫となる。通常裸足の皮膚から浸入し、肺、気管支、喉頭を経て消化管に入り、小腸粘膜で成虫となり、排卵を開始する。生野菜、浅漬けから経口感染することもある』とある。

長さ、四分。群蟲の主〔(しゆ)〕なり。

「上下の口」寄生(それも多量に)された人間の口と肛門。

「喜〔(この)み〕て」訓読に苦労したが、これで「頻りに」「甚だしく」という意味に問った。東洋文庫訳では『たえず』と訳してある。

「心を貫き傷むときは、則ち死す」これは回虫による死ではなく、別な心疾患によるものを誤認していると私は思う。

「白蟲」これと後に出る「寸白」(すばく)は、現行の研究では、条虫(所謂、「サナダムシ(真田虫)」)類、例えば、ヒトに寄生する扁形動物門 Platyhelminthes 条虫綱 Cestoda 真性条虫亜綱 Eucestoda 円葉目 Cyclophyllidea テニア科 Taeniidae テニア属 Taenia 無鉤条虫 Taenia saginata 等の断裂した切片ではないかと考えられている。ウィキの「無鉤条虫」によれば、感染しても、通常は『無症候性だが、多数寄生では体重減少・眩暈・腹痛・下痢・頭痛・吐気・便秘・慢性の消化不良・食欲不振などの症状が見られる。虫体が腸管を閉塞した場合には手術で除去する必要がある。抗原を放出してアレルギーを引き起こすこともある』とある。真性条虫亜綱擬葉目 Pseudophyllidea 裂頭条虫科 Diphyllobothriidae 裂頭条虫属 Diphyllobothrium 広節裂頭条虫 Diphyllobothrium latum でも主な症状は下痢や腹痛であるが、自覚症状がないことも少なくない(但し、北欧では広節裂頭条虫貧血と称する悪性貧血が見られることがある)。但し、テニア科 Cysticercus 属有鉤嚢虫(ユコウノウチュウ)Cysticercus cellulosae が、脳や眼に寄生した場合は神経嚢虫症など重篤な症状を示すケースがある。なお、ここでは「長さ、一尺〔に〕なれば」などと言っているが、実際には無鉤条虫や広節裂頭条虫は全体長が五メートルから十メートルにも達する

「肉蟲」不詳。或いは先に述べたように、寄生虫とは関係のない、腫瘍疾患かも知れない。

「肺蟲」扁形動物門 Platyhelminthes 吸虫綱 Trematoda 二生亜綱 Digenea 斜睾吸虫目 Plagiorchiida 住胞吸虫亜目 Troglotremata 住胞吸虫上科 Troglotrematoidea 肺吸虫科 Paragonimidae Paragonimus 属に属する肺吸虫類が念頭には上ぼる。特にヒト寄生として知られるウェステルマン肺吸虫 Paragonimus westermaniiの場合、血痰・喀血などの肺結核(本文の「勞〔(らう)〕」は「労咳」で、それ)に似た症状を引き起す(また、迷走て脳その他の器官に移って脳腫瘍症状や半身不随などを引き起こすこともあり、生命に関わる重篤なケースも出来(しゅったい)することがある)。本種の体型はよく太った卵円形を呈し、体長は七~十六ミリメートル、体幅は四~八ミリメートルではあるが、肺に寄生したそれが、咳や喀血とともに体外に出ることは、ちょっと考え難く、ここで「狀ち、蠶(かいこ)のごとし」と言っているのは、本種を正しく比定出来るのかどうかは怪しい。死後に剖検して肺腑の寄生状態を見たというならまだしも、中国の本草家がそこまで出来たとは私には全く思われないからである。

「胃蟲」胃壁に咬みついて激しい痛みを起す、回虫上科アニサキス科 Anisakidae アニサキス亜科 Anisakinae アニサキス属 Anisakis のアニサキス類が頭に浮かぶものの、あれは線虫樣で「蝦蟇(かへる)」なんぞには似ていない。ここも寧ろ、胃癌を比定した方が、腑に落ちる。

「弱蟲」「鬲蟲〔(かくちゆう)〕」不詳。

「瓜の瓣(なかご)」うりの中の種。

「赤蟲」不詳。

「蟯蟲」旋尾線虫亜綱蟯虫(ギョウチュウ)目 Oxyurida 蟯虫上科 Oxyuroidea 蟯虫科Oxyuridae Enterobius 属ヒト蟯虫Enterobius vermicularis。以下、諸病の現況の如き書かれようであるが、ウィキの「ギョウチュウ」によれば、『仮にヒトがヒトギョウチュウに寄生されたところで、そのヒトが特段に栄養状態の悪い環境に置かれていなければ、腸内でギョウチュウに食物を横取りされることなどによって起こり得る栄養障害などについては、ほぼ問題になることは無いとされる。しかしながら、ヒトの睡眠中にギョウチュウが行う産卵などの活動に伴って、かゆみなどが発生し、これによってヒトに睡眠障害が誘発され得る。睡眠障害の結果として、日中の眠気や、落ち着きが無く短気になるなどの精神症状の原因となる場合があることが問題視されている。また、かゆみのために、ほぼ無意識に肛門周辺を掻いた跡が炎症を起こしたり、解剖学的に汚れやすい場所であることから掻いた跡が細菌などの感染を受ける場合がある』という程度のものでしかない。

「形ち、菜の蟲のごとし」ギョウチュウは雌雄異体で、で二~五ミリメートル程度なのに対し、は八~十三ミリメートルに達する性的二型である。外見は乳白色で「ちりめんじゃこ」のような形に見える(ここも上記のウィキに拠った)。

「胴腸〔(どうちやう)〕」東洋文庫の割注で『大腸』とある。

「癰疽〔(ようそ)〕」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大ききなそれ、「疽」は深く狭いそれを指す。

「疥癬」皮膚に穿孔して寄生するコナダニ亜目ヒゼンダニ科Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominis によって引き起こされる皮膚疾患。

癘〔(くわれい)〕」東洋文庫の割注で『悪瘡による手足の痛痒』とある。

「疳〔(はくさ)〕」読みは東洋文庫訳のルビに拠った。次が「齲齒」であることを考えると、「齒臭」で強い口臭症状を指すものか? 小学館「日本国語大辞典」によれば、歯茎にできた腫れ物のことか、とし、歯肉炎の類、とする。

「齲齒〔(うし)〕」虫歯。

「尸(し)蟲」不詳。ただ、この「尸蟲」を見、「人と俱に生じて、人の大害を爲す」となると、私は真っ先に道教由来の人間の体内にいるとされる「三尸(さんし)の虫」を思い浮かべるのだが。ウィキの「三尸」より引いておく。六十日に『一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる』。『日本では平安時代に貴族の間で始まり』、『民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった』。『道教では人間に欲望を起こさせたり』、『寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている』。『上尸・中尸・下尸の』三『種類があり、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる』。「太上三尸中経」の『中では大きさはどれも』二『寸ばかりで、小児もしくは馬に似た形をしているとあるが』、三『種とも』、『それぞれ』、『別の姿や特徴をしているとする文献も多い』。『病気を起こしたり、庚申の日に体を抜け出して寿命を縮めさせたりする理由は、宿っている人間が死亡すると自由になれるからである。葛洪の記した道教の書』「抱朴子」(四世紀頃成立)には、『三尸は鬼神のたぐいで形はないが』、『宿っている人間が死ねば』、『三尸たちは自由に動くことができ』、また、『まつられたりする事も可能になるので』、『常に人間の早死にを望んでいる、と記され』、他の書で『も、宿っている人間が死ねば三尸は自由に動き回れる鬼(き)になれるので人間の早死にを望んでいる、とある』とする。本邦では、「大清経」を『典拠とした三尸を避ける呪文が引かれており』、「庚申縁起」などに『採り入れられ』て『広まった。その中に「彭侯子・彭常子・命児子」という語が見られ』、『また、三尸が体から抜け出ないように唱えるまじない歌に、「しし虫」「しゃうけら」「しゃうきら」「そうきゃう」などの語が見られ、絵巻物などに描かれる妖怪の「しょうけら」と関係が深いと見られている』。「上尸(じょうし)」は彭倨(ほうきょ)・青姑(せいこ)・青古青服・阿呵・蓋東とも呼ばれ、『色は青または黒』で、『人間の頭の中に居り、首から上の病気を引き起こしたり、宝貨を好ませたりする』。「中尸(ちゅうし)」は彭質(ほうしつ)・白姑(はくこ)・白服・作子・彭侯とも呼ばれ』、『色は白または青、黄』で、『人間の腹の中に居り、臓器の病気を引き起こしたり、大食を好ませたりする』。「下尸(げし)」は彭矯・血姑・血尸・赤口(しゃっこう)・委細蝦蟆とも呼ばれ、『白または黒』で、『人間の足の中に居り、腰から上の病気を引き起こしたり、淫欲を好ませたりする』という。『道教では、唐から宋の時代にかけてほぼ伝承として固定化された』。但し、「抱朴子」の三尸の記載には特に三体で『あるという描写は無く、のちに三尸という名称から』三『体存在すると考えるようになったのではないかともいわれている』。「瑯邪代酔篇」など、『庚申のほかに甲子(あるいは甲寅)の日にも三尸が体から抜け出るという説をのせている書籍も中国にはある。庚申と甲子は道教では北斗七星のおりてくる日とされており、関連があったとも考えられる』。『日本で庚申待と呼ばれるものは中国では「守庚申」「守庚申会」と言われており、仏教と結びついて唐の時代の中頃から末にかけて広がっていったと考えられる。平安時代に貴族たちの間で行われていたものは中国の「守庚申」にかなり近いものであった』。『清の時代にかけては行事の中での三尸や道教色は薄れて観音への信仰が強く出ていった』とある。中国の民俗学的寄生虫の元祖みたようなものであるからして、ここはやはり「三尸虫」で採っておきたい。

「傳變」ヒトからヒトに感染するという意味という意味ではなく、寄生の後にその寄生虫が「勞瘵〔(らうさい)〕」=労咳=肺結核のような病気の病原虫に変化するという意味であ「其の蟲の傳變すること、或いは嬰兒のごとく……」以下の「如」の羅列はもの凄い。ゴシック怪奇小説を読むようなインパクトがある。

「螻蟻〔(らうぎ)〕」ケラ(螻蛄)と蟻(アリ)。

「猪肝〔(ちよかん)〕」文字通り、猪の肝臓のことであろう。反射的にヒト寄生し幼虫が移行迷入性が強い厄介なカンテツ類(吸虫綱二生亜綱 Digenea 棘口吸虫目 Echinostomida 棘口吸虫亜目 Echinostomata 棘口吸虫上科 Echinostomatoidea 蛭状吸虫(カンテツ)科 Fasciolidae 蛭状吸虫亜科 Fasciolinae カンテツ属 Fasciola)を思い浮かべた。カンテツ(肝蛭)とは厳密には Fasciola hepatica のことを指すが、巨大肝蛭 Fasciola gigantica、日本産肝蛭 Fasciola sp. を含めて肝蛭と総称されることが多い。成虫は体長二~三センチメートル、幅約一センチメートル。本邦の中間宿主は腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科 ヒメモノアラガイ Austropeplea ollula(北海道ではコシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula)、終宿主はヒツジ・ヤギ・ウシ・ウマ・ブタ・ヒトなどの哺乳類。ヒトへの感染はクレソンまたはレバーの生食による。終宿主より排出された虫卵は水中でミラシジウムに発育、中間宿主の頭部・足部・外套膜などから侵入、スポロシストとなる。スポロシストは中腸腺においてレジアからセルカリアへと発育、セルカリアは中間宿主の呼吸孔から遊出して水草などに付着後に被嚢し、これをメタセルカリアと呼ぶ。メタセルカリアは終宿主に経口的に摂取され、空腸において脱嚢して幼虫は腸粘膜から侵入して腹腔に至る。その後は肝臓実質内部を迷走しながら発育、最終的に総胆管内に移行する。感染後七〇日前後で総胆管内で産卵を始める。脱嚢後の幼虫は移行迷入性が強く、子宮・気管支などに移行する場合がある。ヒトの症状は肝臓部の圧痛・黄疸・嘔吐・蕁麻疹・発熱・下痢・貧血などで、現在では、一九七〇年代半ばに開発された極めて効果的な吸虫駆除剤プラジカンテル(praziquantel)がある(以上は主にウィキの「肝蛭」に拠った)。

「狀の勝〔(た)へ〕て窮むべからず」ヒトに感染寄生して別の遺物(疾患)に変化する様態はさまざまであって、それを総て語り尽くすことは到底、出来ない、の意。

「之れを要するに」東洋文庫訳では『しかし要するに』とある。

「主〔(しゆ)〕と爲〔(す)〕」東洋文庫訳では『すべて湿熱によって生ずるものなのである』とある。

「人、蛔蟲を吐き下するに」「蜮」の項で既に述べたが、回虫などが多量に寄生した場合には、本邦でも江戸時代、「逆虫(さかむし)」と称して、口から回虫を吐き出すケースがままあった。私の「谷の響 二の卷 四 怪蚘」も参照されたい。

「錢氏白朮散〔(ぜんしびやくじゆつさん)〕」配合生薬は人参・白朮(キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。健胃・利尿効果がある)・茯苓(ぶくりょう:アカマツ・クロマツなどのマツ属 Pinus の植物の根に寄生する菌界担子菌門菌靱蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊)Wolfiporia extensa の菌核の外層をほぼ取り除いた生薬名)・甘草(かんぞう)・葛根(かっこん)木香(もっこう:キク目キク科トウヒレン属モッコウ Saussurea costus 又は Saussurea lappa の根)・藿香(かっこう:シソ目シソ科ミズトラノオ属パチョリ Pogostemon cablin の全草乾燥品)で、小児の消化不良や胃腸虚弱の体質改善に効果があり、感冒時や食あたりの口の渇き・発熱・下痢・嘔吐にも用いる。

「丁字〔(ちやうじ)〕」漢方薬に用いる生薬の一つ。丁香・クローブともいう。 バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の蕾を乾燥したもので、殺菌・強壮・胃液の分泌を盛んにするなどの作用を持ち、他にも打撲・捻挫などの腫れや痛みを抑える「治打撲一方(ぢだぼくいっぽう)」や、更年期障害・月経不順・産前産後の神経症に効く「女神散(にょしんさん)」、しゃっくりを止める「柿蔕湯(していとう)」などに含まれる。

「苦楝〔(くれん)〕」苦楝子。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach の果実。ひび・あかぎれ・しもやけに外用。整腸・鎮痛薬として煎液を内服もするが、生の果実はサポニンを多く含むため、人が食べると、中毒を起こし、摂取量が多い場合には死に至ることもあることを知っておきたい。

「白色〔に〕黒を帶びたる者」こんなヒト寄生虫は私は知らない。

「正親(おほぎ)町の帝」正親町天皇(永正一四(一五一七)年~文禄二(一五九三)年)は第百六代天皇。在位は弘治三(一五五七)年から天正一四(一五八六)年。

「天正十三年」一五八五年。

「丹羽(には)五郎左衞門長秀」(天文四(一五三五)年~天正十三年四月十六日(一五八五年五月十五日)は元織田氏の宿老。本能寺の変では豊臣秀吉と共に明智光秀を討ち、賤ヶ岳の戦でも秀吉に属した。越前国足羽郡北庄城主。ウィキの「丹羽長秀」によれば、「秀吉譜」によると、本文にある通り、長秀は平生より「積聚」(症状としては「さしこみ」を指す。漢方で、腹中に出来た腫瘤によって発生するとされた、激しい腹部痛を言う(本来はその腫瘤そのものの呼称であろう)。現在は殆んどの記載が胃痙攣に同定しているが、私は癌、胆管結石や尿道結石及び女性の重度の生理通等を含むものではあるまいかと思っている)に『苦しんでおり、苦痛に勝てず』、『自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀』(本文の「秦龜(いしがめ)」。爬虫綱カメ目イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica)『のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印』(竹田定加(たけだじょうか 天文一五(一五四六)年~慶長五(一六〇〇)年)は豊臣秀吉の侍医。秀吉の生母大政所や丹羽長秀らを治療し、文禄二(一五九四)年に来日した明の使節の治療にもあたっているが、慶長二年には秀吉の病中に役目を怠って罰せられてもいる)『に賜ったという。後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると』、寛政六(一七九三)年『初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると』、内箱の銘は「秀吉譜」に書かれたものとは『相違があり、それによれば』、『久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に』刺し、『虫を得て』、『死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお』、『死ななかった。竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は』天明七(一七八七)年『に竹田公豊が書いたものであった)。しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため持って来なかったというので、年月を経て朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している』。『これらによると、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫』(但し、「真田虫」ではなく「蛔虫」)『と見るのが妥当。証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった』とある。]

芥川龍之介が中国旅行で「黄鶴楼」として登ったのは「黄鶴楼」ではなく「奥略楼」である

芥川龍之介は中国旅行の紀行の掉尾としてアフォリズム小品「雜信一束」を残している(リンク先は私の電子化注)が、その「三 黃鶴樓」で、

   *

       三 黃鶴樓
 
 甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、
 僕――鸚鵡洲は?
 宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。
   *

と、如何にも感興を削いだ形で呟いているのが、ずっと気になっていた。私はただ、新築復元されていた黄鶴楼が、龍之介には、田舎芝居の安物の大道具のようにしか見えなかったからだろう、ぐらいにしか憶測したに過ぎなかった。

ところが、昨日、中国在住の教え子が以下の興味深い考察――恐らくは芥川龍之介研究家の誰も認識していないであろう事実――を呉れた。以下に引用して示す。写真も彼の送ってくれたものである(1・2・4は写真から絵葉書(或いはそれを複写掲載した古書)と判断出来、それをこの考証の真偽を高める参考引用資料として使用することは著作権上の問題ないと考える。3も恐らくは同じように推定されるが、万一、個人写真で、現在も著作権が存続している場合、当該著作権保有者からの直接親告があれば除去する)。

   *

現在の黄鶴楼は一九八五年竣工。それ以前はどうだったのでしょうか。清代再建の黄鶴楼は現在のように丘の上ではなく、長江のほとり、現在の長江大橋の橋脚が立つ地点にありました。しかしそれは一八八四年に焼けてしまいました(写真1)。同じ場所に一九〇四年、警鐘楼という西洋風楼閣が建てられました(写真2)。続いてその東側、長江から見て奥(二つの建築が同時に見える写真3。その建物の形状と地形から、位置関係が明らかです)に、一九〇七年、風度楼(写真4)という中国風楼閣も建てられ、竣工後に奥略楼と改名されました。西洋人向けの絵葉書などには、警鐘楼が誤って黄鶴楼として紹介される例もありました(写真2がその例)。しかし概ね奥略楼が黄鶴楼と誤認される時期が続きました。一九五五年、二つの建築はともに長江大橋建設のため撤去されます。
さて、龍之介の武漢訪問は一九二一年です。したがって彼が立っていたのは明らかに現在の黄鶴楼ーー長江から一キロも離れた丘の上に立つコンクリート製の楼閣ではありませんでした。それは奥略楼だったのです。念のため申し添えておくと、なぜ警鐘楼ではないのでしょうか。それは、まず『目の下に並んだ瓦屋根』という彼の表現です。警鐘楼の下には瓦屋根の建物はありません。次には、私の確信です。西洋の城郭みたいな建築が黄鶴楼だなんて、龍之介が受け入れるはずはありません。
結論をもう一度繰り返します。龍之介が立ったのは、現在見られる黄鶴楼ではありません。河岸の奥略楼でした。現在の長江東岸、長江大橋がまさに長江の上に伸びて行く直前の、橋脚聳える場所です。どうかいま一度警鐘楼の写真をみてください。もしここに唐代の黄鶴楼があったのだとしたら、漢詩《黄鶴楼送孟浩然之広陵》で想像される景色『孤帆遠影碧空尽  唯見長江天際流』は、随分と違ったものになるのではないでしょうか。


写真1

Koukakrou1

写真2

Koukakrou2

写真3

Koukakrou3

写真4

Koukakrou4


   *


龍之介よ、君が登ったのは黄鶴楼ではなかったのだ。


幽かな憂鬱が、一つ、消えた。
 
 

2017/10/28

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 砂挼子(ねむりむし)


Nehurimusi

 

ねむりむし 倒行狗子

      睡蟲

砂挼子

      【祢無里無之】

本綱砂挼子【有毒】生砂石中作旋孔大如大豆背有刺能

倒行性好睡生取置枕中令夫婦相好

ねむりむし 倒行狗子

      睡蟲

砂挼子

      【「祢無里無之」。】

「本綱」、砂挼子【毒、有り。】、砂石の中に生ず。旋孔を作〔(な)〕す。大いさ、大豆のごとく、背に刺〔(とげ)〕有り。能く倒(さかさま)に行く。性、睡ることを好みて、生〔(いか)〕して取りて枕の中に置けば、夫婦をして相ひ好〔(よ)か〕らしむ。

[やぶちゃん注:記載から見て、昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生であるアリジゴク(ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではない)に同定する。但し、アリジゴクも初齢幼虫の時には前進して餌を捕える。中文サイトでも「砂挼子」をアリジゴクに比定している(こちら(「地牯牛」を参照されると、英名を“antlion”(アントライオン:アリジゴクのこと)とし、別名に「砂挼子」とある。「挼」は「揉む」「もみくちゃにする」の意。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 𧔎(みがら)


Migara

みから

𧔎【音魯】

     【和名美加良】

 

蒋妨切韻云𧔎井水中小蟲也

△按夏月井水中有白蟲大二三分形似衣魚而多足體

 畧屈匾者是矣

 

 

みがら

𧔎【音、「魯」。】

     【和名、「美加良」。】

 

蔣魴〔(しやうばう)〕が「切韻」に云はく、『𧔎井の水の中の小蟲なり』〔と〕。

△按ずるに、夏月、井の水中に、白〔き〕蟲、有り。大いさ、二、三分。形、衣魚(しみ)に似て、多き足。體、畧〔(ほ)〕ぼ屈んで匾(ひらた)き者、是れか。

 

[やぶちゃん注:「日本国語大辞典」には「みがら」漢字表記「𧔎」で『井戸水の中にいる虫という。ぼうふらのことか』とあり、「和名類聚抄」「名義抄」を例示する。しかし、ボウフラならば、既出項「孑(ぼうふりむし)があり、明らかに良安も区別している。とすれば、可能性の一つはボウフラの幼虫の次の最終ステージである蛹のオニボウフラか? 脚が多いとあるのは、蚊類の幼虫であるボウフラの各体節に生える毛はまさに「多くの足」に見え、オニボウフラに比すと明らかに「白」いし、シミに似ているのはそれが、しかし、「畧ぼ屈んで匾(ひらた)いというのは、それこそオニボウフラに相応しい表現ではないか但し、多くの脚というのを触手と採るならば、今一種、有力な候補がいる。刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa 淡水水母目 Limnomedusae ハナガサクラゲ科Olindiasidae マミズクラゲ属 Craspedacusta マミズクラゲ Craspedacusta sowerbyi である。暫く、この二つを「みがら」の同定候補としておく。

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 鼓蟲(まひまひむし(みずすまし))


Maimaimusi

まひまひむし  鼓母蟲

        【俗云末比

         末比無之】

鼓蟲

       【又云古末

        比無之】

スウ チヨン

 

本綱鼓蟲【有毒】正黒如大豆浮遊水上也人中射工毒有

用鼓蟲一枚口中含之便差已死亦活【射工乃蜮也】

△按鼓蟲處處池中多有之常旋游周二三尺爲輪形正

 黒色似螢離水則飛

 

 

まひまひむし  鼓母蟲〔(しもちゆう)〕

        【俗に「末比末比無之」と云ふ。】

鼓蟲

       【又、「古末比無之(こまひむし)」と云ふ。】

スウ チヨン

 

「本綱」、鼓蟲【毒、有り。】、正黒にして大豆のごとく、水上に浮遊す。人、射工の毒に中〔(あた)〕る有る〔とき〕、鼓蟲一枚を用ひて、口中に之れを含めば、便ち、差〔(い)〕ゆ。已に死するも、亦、活(い)く【射工は乃〔(すなは)〕ち、「蜮〔(こく)〕」なり。】。

△按ずるに、鼓蟲、處處の池中に多く、之れ、有り。常に旋游し、周〔(わた)〕り二、三尺、輪の形を爲す。正黒色、螢に似たり。水を離るるときは、則ち、飛ぶ。

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera 飽食(オサムシ)亜目 Adephagaオサムシ上科 Caraboidea ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類。「水澄まし」を正統に名にし負い、我々が普通に見るのは、ミズスマシ科 Gyrinus 属ミズスマシ Gyrinus japonicus で、北海道・本州・四国・九州,朝鮮,台湾に分布する。体長は七ミリメートル内外と小さい。体は楕円形を成し、背面は隆起するが、腹面は平ら。全体が黒色を呈し、背面には強い光沢を持つ。前肢は長く、獲物を捕捉して保持するのに適している以外に、雄では跗節が広がり、吸盤を持っている。中・後肢は櫂状で短く、水面歩行に適している(先のアメンボ類が六脚の先で水面に立ち上がるように有意に浮いて運動するのに対し、ミズスマシ類は水面に腹這いになって浮いて運動する。因みに、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活する)。複眼が上下に二分している点(水中・水上とも同時に見えるように、それぞれ背側・腹側に仕切られてある)も水面生活に適応した結果である。触角は非常に短く、第二節は大きく特異な形状を成す。池沼や小川などに棲息し、水面を高速で旋回して小動物を捕食する。なお、ミズスマシ科 Gyrinidaeは、その総てが肉食性である。ミズスマシ類は世界に広く分布し、約七百種が知られているが、日本では三属十七種類ほど。中でも南西諸島に分布するDineutus属オキナワオオミズスマシ Dineutus mellyi は体長が二センチメートルに達し、世界最大級のミズスマシとされる。九州以北での最大種は体長一センチメートルほどになる同属のオオミズスマシDineutus orientalisである(以上はブリタニカ国際大百科事典の記載とウィキの「ミズスマシその他マヌキアン氏の「動物写真のホームページ」のミズスマシ記載ページに拠った)。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 1 蟲類」の「ミズスマシ」の項によれば、学名の Gyrinus 属の「ギリヌス」とはギリシア語の「環」を意味する“gyros”或いは「オタマジャクシ」を指す“gyrinos”に由来するとあり、和名の「水澄まし」は一説では「水を澄ます虫」(水が清くなって透き通るようにさせる虫)を表わすと言われるとあり(丸括弧内は私の補足)、『水面を旋回する姿が』、『水が澄むのを念じているまじない師のように見えるからだという』ともある。但し、他に、『水面につむじ風をおこす虫という意味で』「みずつむじ」『を語源とする説もある』と記しておられ、『まおミズスマシは古くからアメンボの異名ともされ』、『とくに俳諧では〈水馬〉と書いてミズスマシと訓をあてる』ともある。

 

「射工」「蜮」先行独立項蜮」の本文及び私の考証を参照されたい。

「鼓蟲一枚を用ひて、口中に之れを含めば、便ち、差〔(い)〕ゆ」「差」は「癒」に同じい。「瘥」とも書く。荒俣氏の前掲書には『喉が渇いて尿が通じない場合には』、『ミズスマシを生きたまま』三~四匹、『水で吞みこむと治るという』とあり、九州地方の民間療法では、『熱病の』際、『生のミズスマシを酒に浮かべて飲む習慣もあ』り、『さらに黒焼きじゃ小児のよだれ止め』として、また、ミズスマシの『糞町は風邪薬とされる』ともある。

「已に死するも、亦、活(い)く」これは東洋文庫訳では「射工」「蜮」の毒を受けて仮死状態になった患者でも、この処置を受ければ、息を吹き返す、というような意味合いで訳してある。

「水を離るるときは、則ち、飛ぶ」ミズスマシの成虫は水面を滑走しながら翅を開いて飛ぶことも出来、現在の水場から別な水域へも飛翔することが可能である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 愛


Aisa

   

 

 人は言ふ、愛こそは雙びない、至高の情だと。

 お前の自我に、他人の自我が割込む。お前は膨らみ、終に裂ける。いまお前の肉は遠く離(さか)り、お前の自我は既に亡びた。そんな死でさへ、肉と血とより成る人間を、傷ませるには足りる。……

 復活するのは、不滅の神々だけだ。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 君は泣いた


Onnmihanaki

   君は泣いた

 

 君は泣いた、私の不幸に。

 君の同情が身に染(し)みて、私も泣いた。

 だが君も、自分の不幸に泣いたのではないのか。それをただ、私の裡に見ただけではないのか。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 婆羅門(バラモン)


Baramon

   婆羅門(バラモン)

 

 婆羅門は、おのれの臍を見つめ、「唵(オム)」を反復誦唱して、佛性に近づく。

 しかも人のからだのうち、およそ臍ほどに佛性の薄く、現身の無常を思はせるものが、又とあらうか。

             一八八一年八月

 

[やぶちゃん注:「婆羅門」バラモン教の僧及び信徒。バラモン教については、小学館「日本大百科全書」の前田専學氏の解説を引く。『バラモン教は古代インドにおいて、仏教興起以前に、バラモン階級を中心に、ベーダ聖典に基づいて発達した、特定の開祖をもたない宗教。およそ紀元前』三『世紀ころから、バラモン教がインド土着の諸要素を吸収して大きく変貌』『して成立してくる』、『いわゆるヒンドゥー教と区別するため』、『西洋の学者が与えた呼称で、ブラフマニズムBrahmanismと称する。バラモン教(婆羅門教)はその邦訳語。バラモン教はヒンドゥー教の基盤をなしており、広義にヒンドゥー教という場合にはバラモン教をも含んでいる』紀元前千五百ン頃を『中心に、インド・アーリア人がアフガニスタンからヒンドゥー・クシ山脈を越えてインダス川流域のパンジャーブ(五河)地方に進入し、さらに東進して肥沃』『なドアープ地方を中心にバラモン文化を確立し、バラモン階級を頂点とする四階級からなる四姓制度(バルナvara)を発達させた。彼らはインドに進入する際、それ以前から長い間にわたって保持してきた宗教をインドにもちきたり、それを発展させ、進入時からおよそ前』紀元前五百年頃までの間に、「リグ・ベーダ」をはじめ、「ブラーフマナ」・「アーラニヤカ」・「ウパニシャッド」を含む膨大な根本聖典ベーダを編纂した。『その内容は複雑多様であるが、彼らが進入以前から抱いていた自然神崇拝、宗教儀礼、呪術』『から高度な哲学的思弁までも包摂している。その宗教の本質は多神教であるが』、「リグ・ベーダ」に『端を発する宇宙の唯一の根本原理の探求はウパニシャッドにおいてその頂点に達し、宇宙の唯一の根本原理としてブラフマン(梵(ぼん))が、個人存在の本体としてアートマン(我(が))が想定され、ついには両者はまったく同一であるとする梵我一如の思想が表明されるに至った。またウパニシャッドで確立された業(ごう)・輪廻』『・解脱』『の思想は、インドの思想・文化の中核となったばかりか、仏教とともにアジア諸民族に深く広い影響を与えている。ベーダの神々のなかには、帝釈天』『のように日本で崇拝されているものもある』。

「唵(オム)」原文は“«Ом!»”。現在は一般に「オーム」と表記され、アルファベットでは“om”又は“oM”と表記される(実際には“o”と“m”が同化して鼻母音化し「オーン」【õ:】と発音する)。バラモン教のみでなく、広くインドの諸宗教及びそこから派生し世界に広がった仏教諸派の中にあって神聖視される呪的な文句・聖音とされるものである。バラモン教ではベーダ聖典を誦読する前後及びマントラ(mantra:宗教儀式における賛歌・祭文・呪文を記した文献の総称)を唱えたりや祈りの前に唱えられる聖なる音である。バラモン教の思想的支えとなるウパニシャッド哲学にあっては、この聖音は宇宙の根源=ブラフマンを表すものとして瞑想時に用いられる。後の近世ヒンドゥー教にあっては、「オーム」の発音としての“a”が世界を維持する神ビシュヌを、“u” が破壊神シバを、“m”がブラフマンの人格化された創造神ブラフマーに当てられ、その「オーム」という一組の音によって三神は実は一体であること、トリムールティTrimurtiを意味する秘蹟の語とされる。なお、これは仏教の密教系にも受け継がれて「恩」(おん)として真言陀羅尼の冒頭に配されている。唐の般若訳「守護国界主陀羅尼経」にはヒンドゥー教と同様、仏の本体・属性・顕現を意味する三身を、即ち「ア」が法身(ほっしん)を、「ウ」が報身(ほうじん)を、「ム」が応身(おうじん)を指すとし、三世諸仏はこの聖音を観想ことによって全て成仏すると説かれている。

「佛性」恐らく神西は「ぶつしやう(ぶつしょう)」と仏教用語として訓じていると推定するが、これはそもそもが仏教以前の多神教であるバラモン教を素材として詠んだものである以上、「佛性」ではおかしい。原文は“божеству”で、これは広く「神仏」の意もあるが、ここはやはりロシア語の第一義の「神性(しんせい)」と訳すべきと考える。後の中山省三郎氏の訳でも『復誦することによりて神に近づく』と「神」となっている。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 素朴

 

   素朴

 

 素朴よ、素朴よ、人はお前を聖者と呼ぶ。しかし聖とは、所詮人の世の業でない。

 謙虛――これならばよい。それは驕慢を足下に踏まへ、これに打ち勝つ。

 だが忘れまい。勝利の感の裏には、既に驕慢の勾ふことを。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:原典では最後のフレーズが「既に驕慢の勾ふことを」となっているが、これでは意味が通るように訓ずることは出来ない。当該原文は“в самом чувстве победы есть уже своя гордыня”で、「勝利の感覚の中には既にして自身の驕りがある」といった意味であろう。因みに、後の中山省三郎の訳では『征服感そのもののうちには既に驕傲のこころの潛むを。』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳では『勝利の感情の裏には、はやくも驕慢のただようことを。』であるからして、これは「匂ふ」(にほふ)の誤植と断じて、特異的に訂した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 美辭


Kougen

   美辭

 

 私は美辭を怖れ避ける。しかし美辭を怖れる心も、また一種の氣取だ。

 で、私たちの生活の複雜さは、美辭(フラーザ)と氣取(プレテンジヤ)と――この二つの外來語のあひだを、行きつ戾りつする。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。

「美辭(フラーザ)」原文は“фразы”で、これは単に句・成句、フレーズ・メロディの他に、美辞麗句の意を持つ。ネットのネイティヴの発音サイトで聴き取る限りではカタカナ音写すると「フラーズィ」である。

「氣取(プレテンジヤ)」原文は“претензия”で、これは法的な権利要求・請求権、商取引上のクレーム・苦情の他に、自負・自惚れの意を持つ。「衒氣」という日本語は、自惚れて自分を偉そうに見せようとする気持ちを言う。ネットのネイティヴの発音サイトで聴き取る限りではカタカナ音写すると「プレテンジィヤ」である。

「この二つの外來語」“фразы”はフランス語や英語の“phrase”で、この語はギリシャ語由来のラテン語“phrasis”(言うこと・語ること)が語源である。また、“претензия”はラテン文字転写すると“pretenziya”となり、これは英語の“pretender”やフランス語の“prétentieux”と極めて綴りと発音が似ており、これらは孰れも「衒学者」・「詐称する者」・「勿体ぶった奴」「気取った奴」・「誇張した文体」等の意味を持つ。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 愛のみち

 

   愛のみち

 

 總ての感情は愛へみちびく。情熱へみちびく。總て――憎みも、哀憐も、冷淡も、尊敬も、友情も、恐怖も、そしてまた蔑(さげす)みさへも。さう、ただ一つ感謝のほかは。

 感謝は負債(おひめ)、人はみな負債を返す。けれど愛は、錢ではない。

             一八八一年六月

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 獨り居のとき


Hirtoride

   獨り居のとき

 

      ――影法師

 

 獨り居のとき、何時までも人氣が無いと、ふと誰か部屋のなかに居て、同じ椅子に掛け、また背(そびら)に立つ氣配がする。

 その男の居る邊りを振返つて、じつと見つめると、もとより姿はなく、氣配さへも消えてしまふ。が、暫くすると、またまた氣配がしはじめる。

 時々、私は兩手頭を抱ヘて、その男のことを考へる。

 あれは誰だ、何者だ。萬更知らぬ同志ではない。向ふも私を知つてゐる。私の方でも知つてゐる。どうやらあの男は血續きらしい。しかも深い淵は二人を隔ててゐる。

 私はその男の聲も話も侍ち設けない。彼は身動きもせず、まるで啞のやうだ。それでゐて私に話しかける。何やら譯は分らないが、聞覺えのある話をする。その男は私の秘密を、殘らず知つてゐる。

 私はその男を怖れはせぬ。一緒に居るのは厭な氣がする。内心の生活に、立會人など無い方がよい。

 さう言ふものの私はその男に、赤の他人を感じるのでもない。もしやお前は、私のもう一つの自我ではあるまいか。私の過去の人格ではあるまいか。さうに違ひない、記憶に殘る過去の私と、現在の私との間を、深い淵が隔ててゐるではないか。

 その男は私の招きに應じて來るのではない。彼には彼の意志があるやうだ。

 兄弟よ、かうしてお互に孤獨の中に、じつと物も言はずにゐるのは、堪らないことではたいか。

 だが、もう暫くの辛抱だ。私が死ねば、二人は融け合へるだらう。過去の私と現在の私とは一つになつて、未來永劫の闇に沈まう。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。

「私はその男の聲も話も侍ち設けない」「私はその男の声を聴きたいとか、況や、対話をしたいなどという思いなどは、これ、鼻っから、微塵も持っては、いない」という意味であろう。因みに、後の中山省三郎の訳では『私は彼から物音や言葉を期待してゐない』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳では『私はその男の聲も話も期待しない』である。]

2017/10/27

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 水馬(かつをむし)


Amenbo

 

かつをむし 水黽

      【俗云鰹蟲
       又云鹽賣】

水馬

しほうり

本綱水馬羣游水上水涸卽飛長寸許四脚非海馬之水

馬也有毒殺雞犬

五雜組云水馬逆流水而躍水日奔流而步不移尺寸兒

童捕之輙四散奔迸惟嗜蠅以髮繋蠅餌之則擒抱不脱

釣至案几而不知

△按水馬處處池川皆有頭尾尖兩髭曲高脚長身其色

 赤黑而似鰹脯故曰鰹蟲小兒以蠅之釣也和漢相同

 此蟲有酒氣以爲異人唾吐着之輙蟲如醉稍醒則復

 弄水

――――――――――――――――――――――

一種有水蠆 能變蜻蜒本初蜻蜒生卵於水際成水蠆

 還成蜻蜒【詳于蜻蜒下】

かつをむし 水黽〔(すいばう)〕

      【俗に「鰹蟲(かつをむし)」と云ひ、
       又、「鹽賣(しほうり)」と云ふ。】

水馬

しほうり

「本綱」、水馬は水上に羣游す。水、涸れり〔→るれば〕、卽ち、飛ぶ。長さ、寸許り。四つ脚。海馬(たつのおとしご)の水馬に非ず。毒、有りて、雞・犬を殺す。

「五雜組」に云はく、『水馬、流水に逆らひて、水に躍り、日に奔流して、步むこと、尺寸を移らず。兒童、之れを捕るに輙〔(すなは)〕ち、四散・奔迸〔(ほんはう)〕す。惟だ、蠅を嗜〔(す)〕く。髮を以つて蠅を繋ぎ、之れを餌〔とすれば〕、則ち、擒(と)り、抱きて、釣〔(つりいと)〕を脱せず。案-几(つくへ)に至りても、知らず。

△按ずるに、水馬、處處の池川に、皆、有り。頭尾、尖り、兩髭〔(ひげ)〕、曲り、高き脚、長き身、其の色、赤黑にして鰹脯(かつをぶし)に似る。故に「鰹蟲」と曰ふ。小兒、蠅を以つて之れを釣ることや、和漢、相ひ同じ。此の蟲、酒の氣(かざ)、有り。以つて異と爲す。人、唾(つばき)吐きて之れに着くれば、輙ち、蟲、醉ふがごとし。稍〔(しばら)〕く〔して〕醒むれば、則ち、復た、水に弄〔(はし)〕る。
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一種、「水蠆〔(たいこむし)〕」有り。 能く蜻蜒(とんばう)に變ず。本〔(もと)〕、初〔め〕にして、蜻蜒、卵を水際に生〔(うみ)な〕して、水蠆と成り、還(ま)た、蜻蜒と成る【「蜻蜒」の下に詳〔(くは)〕し。】

[やぶちゃん注:主節部分は節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 半翅(カメムシ)目 Hemiptera 異翅(カメムシ)亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae のアメンボ類。本邦で最も普通に見られるのはアメンボ(ナミアメンボ)Aquarius paludum である。アメンボは「飴ん棒(ぼう)」の約で「棒」は体幹は細長いことからで、「飴」は人が捕えた際、カメムシの仲間であるからして、臭腺から臭いを発するのであるが、それが焦げた飴のような臭いに感じられるからという。実は私は嗅いだことがないので、事実そうかどうかは知らないので「という」としておく。なお、印象からは想像し難いのであるが、アメンボは肉食で、餌は水面に落ちてしまった昆虫などに針状の口吻を挿して体液を吸って栄養としている。

「水黽〔(すいばう)〕」「黽」は蛙・青蛙の意。中脚と後脚を四足に擬えたものであろうが、似ているとは思えない。現代中国音ならば「シゥイミィン」或いは「シェイミィン」か。

「鹽賣(しほうり)」確かに本邦のアメンボの異称であるが、由来は不詳。スマートな体幹を塩売りの天秤棒に譬えたものか? ただ、「飴ん棒」の異称の対局性が気になる。臭いは飴売りだが、姿は塩売りという洒落かも知れないと、ふと思った。

「しほうり」中国音ではなく、異名がその位置に配されてあるのは特異点。

「水、涸れり〔るれば〕、卽ち、飛ぶ」「れり」では繋がりが悪いのでかく言い代えを添えた。アメンボの殆んどの種は飛翔能力を持ち、現在いる水溜まりが干乾びかけると、飛んで、別の水辺に移動をする。他にも繁殖時や越冬のため、或いは、現在位置では餌が得られなくなりそうになると、飛ぶことがある。但し、飛んでいるアメンボを実際に見ることは必ずしも多くない。私も画像で見たことがあるだけである。 

「四つ脚」無論、昆虫であるから三対六脚である。ただ、アメンボの場合、身体を水上に浮かせて支える有意に長い、中脚と後脚が極めて近接して存在するのに対して、前脚は頭部近くに有意に離れてあって、しかも短い。それを無視したか、それを顎の一部とでもとったか、或いはまた、後脚を腹部端にある鋏と錯覚したものかも知れない。さらに言えば、その「顎」や「鋏」に「毒、有りて、雞・犬を殺す」と錯覚したものかも知れぬ。無論、アメンボに毒など、ない。

「海馬(たつのおとしご)の水馬」海産魚類であるトゲウオ目 Gasterosteiformesヨウジウオ亜目 Syngnathoideiヨウジウオ科 Syngnathidaeタツノオトシゴ亜科 Hippocampinaeタツノオトシゴ属 Hippocampus のタツノオトシゴ類。私の電子化注「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海馬」の項を参照されたい。

「水馬、流水に逆らひて水に躍り、日に奔流して、步むこと、尺寸を移らず」これはアメンボが水上に脚を使って器用に浮いてスイッスイッと走る(脚に生えた細かな毛の水面張力によって滑走している)のを見て、流れに逆らっているように見え、水の上で躍り上りっているように見え、常に流れに逆らっているのであれば、一日経っても、殆んど同じ位置に居続けている(そんなことは実際にはないが)ように見え、さればこそ一日で三十センチどころか、三センチも動かない、と見たのである。

「奔迸〔(ほんはう)〕」素早く走り逃げること。

「擒(と)り」「獲り」。

「釣〔(つりいと)〕」髪の毛製の釣り糸。を脱せず。

「案-几(つくへ)」「机(つくゑ)」。陸の、家屋内の机。

「鰹脯(かつをぶし)」「鰹節」。

「酒の氣(かざ)」甘い酒のような匂い。

「人、唾(つばき)吐きて之れに着くれば、輙ち、蟲、醉ふがごとし。稍〔(しばら)〕く〔して〕醒むれば、則ち、復た、水に弄〔(はし)〕る」やったことがない。何時か、やってみようとは思う。

「水蠆」トンボ(「蜻蜒(とんばう)」)の幼虫のヤゴのこと。

『「蜻蜒」の下』先行するトンボの項名は蜻蛉ばう)。「蜻蜒」はその異名の一つとして挙がっている。但し、それよりなにより、その「蜻蛉」の次に独立て「水蠆たいし)があのだから、ここはこちらへの「見よ割注」とすべきところである。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 沙虱(すなじらみ)


Sunajirami

すなしらみ  𧍲 蓬活

       地牌

沙虱

 

スアヽスエツ

 

本綱沙虱山水間多有甚細畧不可見色赤大不過蟣人

雨後入水中及草中踐沙必着人鑽入皮裏令人皮上如

芒針刺可以針挑取之正赤如丹不挑入肉三日之後寒

熱發瘡蟲漸入骨則殺人凡遇有此蟲處行還以火炙身

則出隨火去也今俗病風寒者皆以麻及桃柳枝刮其遍

身蓋始於刮沙病也其沙病初起如傷寒頭痛壯熱嘔惡

手足指末微厥或腹痛悶亂須臾殺人者謂之攪腸沙也

一種有沙蟲 卽毒蛇鱗甲中蟲蛇被苦毎入急水中碾

 出人中其毒三日卽死此亦沙虱之類也

△按近頃【康熙年中】有書題號痧脹玉衡曰治痧症救人數万

 而万病皆有交痧各修方甚詳仍知沙病流行也蓋異

 國毒蛇毒蟲多也

 

 

 

すなじらみ  𧍲〔(べんせん)〕

       蓬活

       地牌

沙虱

 

スアヽスエツ

 

「本綱」、沙虱は山水の間に多く有り。甚だ細にして畧ぼ見えるべからず。色、赤くして、大いさ、蟣(きかせ)に過ぎず。人、雨後、水中及び草の中に入りて沙を踐(ふ)めば、必ず、人に着きて、人に〔→の〕皮の裏〔(うち)〕に鑽(も)み入り、人の皮の上をして芒-針(はり)にて刺(さ)すがごとくならしむ。針を以つて之れを挑(は)ね取る。正赤なりこと、丹のごとし。挑ねざれば、肉に入りて、三日の後に寒熱し、瘡を發す。蟲、漸く骨に入れば、則ち、人を殺す。凡そ、此の蟲、有るの處に遇へば、行〔き〕還りに、火を以つて身を炙れば、則ち、出づ。火に隨ひて去るなり。今、俗、風寒を病む者、皆、麻(あさ)及び桃・柳の枝を以つて其の遍身を刮(こそ)げる〔は〕、蓋し、沙病を刮〔げる〕に始むるなり。其の沙病、初起〔は〕、傷寒のごとく頭痛・壯熱・嘔惡〔(わうあく)〕、手足の指の末、微かに厥〔(くゑつ)〕し、或いは、腹痛、悶亂して、須臾に人を殺すは、之れを「攪腸沙」と謂ふなり。

一種、「沙蟲」有り。 卽ち、毒蛇の鱗甲の中の蟲なり。蛇、苦しまらるれば、毎〔(つね)〕に急水の中に入りて碾(きし)り出だす。人、其毒に中〔(あた)〕れば、三日にして卽死す。此れも亦、沙虱の類なり。

△按ずるに、近頃【康熙年中。】、書、有り、題して「痧脹玉衡〔(さちやうぎよくかう)〕」と號す。曰く、『痧症を治して人を救ふこと、數万にして而〔(しか)も〕、〔そが〕万病に皆、痧を交〔(まぢ)〕ること有り』〔と〕。各々、修方、甚だ詳かなり。仍りて知んぬ、沙病〔の〕流行〔せることを〕。蓋し、異國には毒蛇・毒蟲、多ければなり。

 

[やぶちゃん注:私はこれを本邦産種に当てはめるならば、所謂、ツツガムシ(恙虫)病を媒介する、節足動物門 Arthropoda 鋏角亜門 Chelicerata 蛛形(クモ)綱 Arachnida ダニ目 Acari ツツガムシ科 Trombiculidae の特定のツツガムシ類に同定したい。但し、ツツガムシは日本だけでも八十種類以上(上位のツツガムシ科タクソンでは約百種)が棲息しているものの、ツツガムシ病を発症させるリケッチアを保有し、且つ、ヒトに吸着する性質を有する種はその中の数種類に過ぎないので、ツツガムシ全種を凶悪犯に仕立てぬようにしなくてはならないウィキの「ツツガムシ」によれば、『主に東アジア、東南アジアに分布する。成虫は赤色、幼虫はオレンジ色をしている。幼虫は野鼠の耳に寄生していることが多い。幼虫は脊椎動物寄生性で孵化後、生涯に一度だけ哺乳類などの皮膚に吸着して組織液、皮膚組織の崩壊物などを吸収する。十分摂食して脱落、脱皮した後の第一若虫、第二若虫および成虫には脊椎動物への寄生性はなく、昆虫の卵などを食べる』。〇・一%から三%『の個体が経卵感染によってツツガムシ病リケッチアを保菌しており、これに吸着されると』、『ツツガムシ病に感染する。保有するリケッチアの血清型は、種との関連性があることが知られ』る。『日本では、感染症法に基き』、『ツツガムシ病の症例を集計している』が、例えば二〇〇九年の報告症例は四百五十八件で死亡例は三件である。注意しなくてはならないのは、『俗に、ツツガムシが「無事である」という意味の「つつがない」(恙無い)という慣用句の語源とされるが、それは誤りで』、『「恙」(つつが)はもともと「病気」や「災難」という意味であり、それがない状態を指す言葉として「つつがない」という慣用句が生まれた。それとは別に原因不明の病気があり、その病気は「恙虫」(つつがむし)という妖怪に刺されたことによって発病すると信じられていた。後世になってからこの病気がダニの一種による感染症(ツツガムシ病)であることが判明し、そこから逆にこのダニがツツガムシと命名されたものである』ことである(下線太字やぶちゃん)。「国立感染症研究所」公式サイト内の解説によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線はやぶちゃん)、『患者は、汚染地域の草むらなどで、有毒ダニの幼虫に吸着され』、『感染する。発生はダニの幼虫の活動時期と密接に関係するため、季節により消長がみられる。また、かつては山形県、秋田県、新潟県などで夏季に河川敷で感染する風土病であったが(古典型)、戦後新型ツツガ虫病の出現により北海道、沖縄など一部の地域を除いて全国で発生がみられるようになった』(私が若い頃の記憶に、流行地に行ったことがなく、山歩きなどもしていない愛知の若い女性の死亡例を思い出す。感染源は父親が新潟から購入した盆栽に着いていたツツガムシであったという驚きの真相が忘れられない)『ツツガムシは一世代に一度だけ、卵から孵化した後の幼虫期に哺乳動物に吸着し、組織液を吸う。その後は土壌中で昆虫の卵などを摂食して生活する。わが国でリケッチア(以下、菌)を媒介するのは』ツツガムシ科アカツツガムシ属『アカツツガムシ(Leptotrombidium akamushi)、タテツツガムシ(L. scutellare)、およびフトゲツツガムシ(L. pallidum)の三種であり、それぞれのダニの〇・一〜三%が菌をもつ有毒ダニである。ヒトはこの有毒ダニに吸着されると感染する。吸着時間は一〜二日で、ダニから動物への菌の移行にはおよそ六時間以上が必要である。菌はダニからダニへ経卵感染により受け継がれ、菌をもたないダニ(無毒ダニ)が感染動物に吸着しても』、『菌を獲得できず、有毒ダニに』は『ならない。したがって、自然界で』齧歯類『などの動物はヒトへの感染増幅動物とはならず、ダニのライフ』・『サイクルを完結させるために重要となる』。『新型ツツガムシ病を媒介するタテツツガムシ、およびフトゲツツガムシは秋〜初冬に孵化するので、この時期に関東〜九州地方を中心に多くの発生がみられる。また、フトゲツツガムシは寒冷な気候に抵抗性であるので、その一部が越冬し、融雪とともに活動を再開するため、東北・北陸地方では春〜初夏にも発生がみられ、そこではこの時期の方が秋〜初冬より患者が多い。したがって全国でみると、年間に春〜初夏、および秋〜初冬の二つの発生ピークがみられる。また、古典型ツツガムシ病の原因となったアカツツガムシは現在』、『消滅したと考えられ、夏期に発生ピークはみられない』。『我が国では一九五〇年に伝染病予防法によるツツガムシ病の届け出が始まり、一九九九年四月からは』、『感染症法により』、『四類感染症全数把握疾患として届け出が継続されている。感染症法施行後の患者数をみると、一九九九年(四〜十二月)には五百八十八人、二〇〇〇年(一〜十二月)には急増して七五四人が報告された。二〇〇一 年には四百六十人に減少したが、今後の動向が注目される。また、毎年数人の死亡例も報告され、依然として命を脅かす疾病であることがうかがえる。また、ツツガムシ病は広くアジア、東南アジアにも存在しており、輸入感染症としても重要である』。「臨床症状」の項。『潜伏期は五〜十四日で、典型的な症例では』摂氏三十九度『以上の高熱を伴って発症し、皮膚には特徴的なダニの刺し口がみられ、その後』、『数日で体幹部を中心に発疹がみられるようになる』。『発熱、刺し口、発疹は主要三徴候とよばれ、およそ九十%以上の患者にみられる。また、患者の多くは倦怠感、頭痛を訴え、患者の半数には刺し口近傍の所属リンパ節、あるいは全身のリンパ節の腫脹がみられ』、『治療が遅れると』、『播種性血管内凝固をおこすことがあり、致死率が高い』。『発生時期がその年の気候により影響を受けること、わが国には夏〜秋に発生の多い日本紅斑熱が存在することなどから、年間を通して、本症を含むダニ媒介性リケッチア症を常に疑うことが重要である。また、ヒトの移動に伴い、汚染地域に出かけて感染し、帰宅後発症する例もあるので、汚染地域だけでなく広く全国 の医療機関で注意が必要である』とある。

 ツツガムシ病の病原体はリケッチア(Rickettsia:以下に示すリケッチア科 Rickettsiaceae オリエンティア属 Orientia(旧リケッチア属)に属する微生物の総称。ヒトに発疹チフスや各種リケッチア症を発症させる細菌で、現在、二十六種が確認されている。ダニ等の節足動物を中間宿主とし、ウイルス同様、細胞外では増殖出来ない偏性細胞内寄生体。名称は発疹チフスの研究に従事して結果的にそれが原因で亡くなったアメリカの病理学者ハワード・テイラー リケッツ(Howard Taylor Ricketts 一八七一年~一九一〇年:元ペンシルヴェニア大学教授。一九〇六年、ロッキー山紅斑熱の研究を開始し、その二年後にマダニから病原性の微生物を発見、同時に野性動物の血液中からもリッケチアと命名されたこの微生物を見出だした。また、メキシコシティで発疹チフスの調査に出かけ、同病は一度かかると、免疫性を獲得することを発見したが、地方病性発疹熱を研究中、感染して死亡した。以上は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠った)の名に因む)で、

真正細菌界 Bacteria プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目 Rickettsiales リケッチア科 Rickettsiaceae オリエンティア属オリエンティア・ツツガムシ Orientia tsutsugamushi

であるが、多くの血清型を持ち、ウィキの「オリエンティア・ツツガムシ」によれば、『多数の血清型が報告されており、Karp 型(全感染例のおよそ 50% )、Gilliam 型(25%)、Kato 型(10% 以下)、Kawasaki 型』『の他』、『莫大な多様性が存在する。マレーシアの単一フィールドでは8つの血清型が報告されており』、『更に多くの型が報告され続けて』おり、『遺伝子的手法により、以前判明していたよりもさらに複雑であることが分かってきている(例えば、Gilliam 型は Gilliam 型と JG 型に細分化された)。ある血清型への感染は別の血清型への免疫を与えない(交叉免疫が無い)。したがって同一固体への感染が複数回繰り返されることがあり、ワクチン設計が複雑になる』のであるが、そもそもが、『ツツガムシ病の認可済みワクチンは現状』。『存在しない』。これは『Orientia tsutsugamushi の各株間には莫大な抗原多様性があること、および交叉免疫が生じないことが明らかになっており、ツツガムシ病ワクチンが許容水準の予防を得るためには、地域内で見られる全ての株を予防できる必要がある。抗原の多様性のため、ある地域向けに開発されたワクチンは別の地域では予防にならないこともある。この困難のために、現実的なワクチンの製造努力は実を結んでいない』とある。
 

「沙虱」「本草綱目」では「沙蝨」の表記。

「甚だ細にして畧ぼ見えるべからず」ツツガムシ類の大きさは一ミリ以下と極めて微細である。

「蟣(きかせ)」シラミの子或いはシラミ。生物学的には昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura のうちで、ヒトに寄生して吸血するヒトジラミ科 PediculidaeのヒトジラミPediculus humanusの亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus・亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporis の二亜種と、ケジラミ科 Pthiridae の、ケジラミ Phthirus pubis既出項「蝨」を参照。東洋文庫訳では『きざさ』とルビするが、これも「キカセ」に同じく、シラミ或いはその幼虫を指す古語(十世紀に編纂された「倭名類聚鈔」には「シラミの子」のことを「木佐々」(きささ)と称するとある)及び現行の方言。「キザシ」などとも称するから、総て同源であろう。

「踐(ふ)めば」踏めば。

「人に〔→の〕」「の」の方が読み易いので、かく、した。

「風寒」漢方で、寒冷に曝されたような症状を言う。

「初起」初期。

「傷寒」漢方で、高熱を伴う急性疾患を指す。腸チフスなど。

「壯熱」漢方で、高熱が続いたために風寒の邪気が人体の奥に入って熱を発する状態を指す。多汗や口の渇きなどの症状を伴うことが多い。

「嘔惡〔(わうあく)〕」気分が悪くなって嘔吐を伴う症状。

「厥〔(くゑつ)〕し」曲がり。東洋文庫訳割注は『ふるえることか』とするが、採らない。

「須臾に」時をおかず。

「攪腸沙」しかしこれはツツガムシ病というより、腸チフスやコレラ(後注参照)っぽい。

「沙蟲」「毒蛇の鱗甲の中の蟲なり」毒蛇に限らず、自然界に棲息する蛇類には多かれ少なかれ、ダニ類が寄生している。当該種学名を探し出すのは面倒なので、お許しあれ。

「苦しまらるれば」苦しめられると。

「急水」急流。

「碾(きし)り出だす」早い水流で、ダニを擦り落とす。

「康熙」一六六二年~一七二二年。「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年頃(自序クレジット)の完成。

「痧脹玉衡〔(さちやうぎよくかう)〕」東洋文庫書名注に、『三巻。後一巻。清の郭志邃(かくしすい)撰。伝染病』としての『痧(コレラ)の症状・治療法について述べたもの』とある。

「沙病」前注から考えると、良安はコレラ(「痧」)とツツガムシ病を混同してしまっていることになる。これは或いは単に「沙虱」と同じ「少」が構成用字である「痧」とを安易に同源の文字と考えた誤りではあるまいか?

老媼茶話巻之四 魔女

 

     魔女

 

 肥前國鍋嶋家の士、龍門寺登之助といふもの無隱(かくれなき)大力也。

 或春、友、弐、三人ともない、山寺へ花見に行(ゆく)。日暮歸りに趣(おもむき)、住僧も立出(たちい)で、歸りを送りける。登之助、僧にたはふれて、

「山寺にて、石、御自由と申(まうし)ながら、扨も苔むし、見事成(なる)手水石(てうづいし)哉(かな)。我にくれられよかし。」

といふ。

 住僧、聞(きき)て、打笑(うちわらひ)、

「安き事也。望ならば、自身、持行(もちゆき)玉へ。進じ候べし。」

といふ。

 登之助、聞て、

「過分に候。」

とて、三拾人にては動かし難き石、やすやすと引起(ひきおこ)し、肩にかけ、行程三里の所を持行(もちゆき)たり。

 登之助、常に山狩・川狩を好む。

 或時、はるか東に鹽田(しほた)といふ山里の、殺生宿(せつしやうやど)喜太郞といふ者、獨活(うど)・蕨(わらび)樣(やう)の物、土産として、遙々登之助かたへ來り、 機嫌を伺(うかがひ)、扨、申けるは、

「近頃、我等在所、弐里、山、入(いり)、窪谷と申(まうす)在鄕の庄屋兵助と申(まうす)有德(うとく)成る者、御座候。かの妻、魅物(バケモノ)におそはれ、十死一生にて候。然處(しかるところ)に、此頃、朝熊の明王院より鐵洞と申(まうす)眞言坊、參り、かぢいたし候。此僧、申(まうし)候は、此祈(いのり)には、いかにも膽太(きもふと)く大力の勇士、入申(いりまうし)候まゝ、夫(それ)を御賴可申由(おたのみまうすべきよし)、申(まうし)候。旦那樣、我等かたへ御入(おいり)候を、兵助、能(よく)存(ぞんじ)候。何卒、致御殺生(ごせつしやういたす)御慰(おなぐさみ)がてら、御出可被下(おいでくださるべき)や、伺吳候樣(うかがひくれさふらふやう)に、と賴申(たのみまうし)候。哀(あはれ)、人ひとり御助被下(くださる)と思召(おぼしめし)、御出被下(おいでくだされ)候へかし。」

と恐入(おそれいり)申ける。

 登之助、聞て、

「夫は、先(まづ)、いか樣(やう)の魅物(ばけもの)ぞ。」

といふ。

 喜太郞、申(まうす)は、

「窪谷に妙音山法奧寺と申(まうす)寺の候。其西に阿彌陀が原と申(まうす)塚原の候。其所より、化物、參り候。是は、元(もと)、兵助召仕(めしつかまつり)候女に忍(しのび)て目を懸(かけ)候を、兵助、妻、深くいきどをり、ひそかに縊(くび)り殺し、阿彌陀がはらに埋捨(うづめすて)候。其女の死靈の、かく、來り惱まし候とさた仕(つかまつり)候。」

と申。

 登之助、聞て、

「明日、幸(さいはひ)、殺生に汝等があたりへ可行(ゆくべし)と思ひ居たり。汝とひとつに兵助かたへ行(ゆく)べき。」

とて、明(あく)るあした、喜太郞を召連(めしつれ)、窪谷の兵助かたへ行(ゆく)。

 先達(せんだつ)て、此よし、喜太郞、通(つう)じける間、鹿目峠の坂下まで、兵助、迎ひに立出(たちいで)、ひれふしに也(なり)、先へ立(たち)、案内し、兵助、宿へ行(ゆく)。

 百性ながら、大屋敷にて、男女、弐、三十人、召仕ひ、萱(かや)が軒端(のきば)も賑やか也。

 扨、樣々の酒肴、取調(とりととのへ)、色々と、もてなしける。

 鐵洞藏主(ざうす)も來り、登之助に對面し、

「英士、はるばる、御出(おいで)、御大儀。」

のよし、謝し、隨分、勇勢を出(いだ)し、

「今宵、牛三過(すぐ)る頃、魔女、必(かならず)、來(きた)るべし。のがさず、だき留(とめ)玉へ。其物に至り、おくし給ふな。」

と、いふ。

 登之助、打笑(うちわらひ)、

「其段、心易く思ひ、只、魔女の來れる樣に祈り給へ。」

と答(こたふ)。

 鐵洞も歸り、登之助も休息す。

 かくて、鐵洞法印、病者の枕元に、だんをかざり、へいはく、數多(あまた)切立(きりたて)、燈(ともし)、所々にたちならべ、供物をさゝげ、大魔降伏(だいまがうぶく)の不動明王の像を床(とこ)に懸(かけ)、印を結び、呪(じゆ)を唱へ、數珠、さらさらと押(おし)もみ、汗水になり、祈りける。病者は四拾斗(ばかり)の、やせつかれたる女也。登之助も傍(かたはら)に有(あり)て是を見る。

 かくて夜も更(ふけ)て行(ゆき)、八半斗(ばかり)の事なるに、兵助が家の西北に當り、物のひゞく音、聞(きこ)へ、西の障子に靑き光、移り、靑色の玉、庭へ落(おち)たり。

 此玉の光り、消(きゆ)るとひとしく、稻光りして、障子の際(きは)に人の彳(たたず)むけしき有(あり)て、物すさまじさ、限りなし。

 病者、ふるへわなゝき、目を見つめ、舌を出(いだ)し、手を握り、床より浮上(うきあが)り、恐苦(おそれくる)しむ折節、枕元の障子を、少し、ひらき、髮を亂したる七尺斗(ばかり)の大女(おほをんな)、顏、半分、出(いだ)し、眼(まなこ)を見開き、座中の樣子を窺居(うかがひゐ)たりけるが、閑(しづか)に、障子を押明(おしあ)、座の内へ入(いり)たり。

 眼は血のごとく、口は耳元へさけ、紅(くれなゐ)の舌を出(いだ)し、病者を恨めしげに見入(みいり)つゝ、息、火を吐(はく)がごとくなり。

 登之助、走り懸り、くまんとするに、日頃の强力勇猛、うせ果て、手足なへ、腰、立(たた)ず。

 鐵洞、是を見て、目をいららげ、齒をかみ、

「夫(それ)よ、夫よ。」

といふながら、もみにもんで、祈る。魔女は、人、有りとも思はざる氣色(けしき)にて、病者の枕元に立居たりけるが、右の腕を差延(さしのべ)、病者の髮をからみ、中(ちゆう)に提(さげ)、おもてのかたへ、走り出る。

 此時、登之助、

「南無八幡。」

と願念(ぐわんねん)して立上(たちあが)り、魔女、追懸(おつか)

「むづ。」

と組(くむ)。

 魔女、大きにいかり、病者を、かしこに抛捨(なげすて)、登之助と引組(ひつくみ)、小脇にかい込(こみ)、引立(ひきたて)ゆかんとする。

 登之助、金剛力(こんがうりき)を出(いだ)し、もみあいけるが、立(たて)ならべたる燈火は消(きえ)て闇となり、互にふむ足にて、家内、震動して地震(なゐ)のふるふがごとし。

 登之助、脇差、引拔(ひきぬき)、魔女が脇腹を、したゝかに、二刀、さし通

 魔女、此手に弱りけるか、登之助を突放(つきはな)し、靑色の大きなる玉となり、虛空に飛(とび)て、地をひゞかし、いつもの塚原落(おち)たり。

 夜も明ければ、皆人(みなひと)、血をしたいて阿彌陀がはらへ行(ゆき)、見るに、塚、崩(くづれ)て、血、夥敷(おびただしく)引(ひき)たり。

 塚を崩(くづし)て、内をみるに、棺(をけ)の内に、一具の骸骨、血に染(そみ)、其外、替(かは)る事なし。

 鐵洞法印がいはく、

「今少し早く、魔女を組留(くみとめ)玉はゞ、病者の命、助るべきに、殘多(なごりおほき)事也。然し、魔女を平(たひら)げ給はずは、此家、必(かならず)、變化(へんげ)の爲に取(とり)たやされ、黑土となるべし。是、皆、勇士の力にて、家、つゝがなし。變化も、弐度、來(きた)るまじ。」

とて、檀を破る。

 登之助、ほうほう[やぶちゃん注:ママ。]、やどへ歸り、朋友に語りけるは、

「必(かならず)、魔ゑん・化粧(けしやう)のもの、事なくしたがへんなどゝ、みだりに、荒言(くわいげん)、はくべからず。我、一生の恥をかきたり。」

といへり。

 

[やぶちゃん注:「肥前國鍋嶋家」佐賀藩。肥前国佐賀郡(当時は現在の佐賀県及び長崎県の一部に相当)にあった外様藩で肥前藩、初期を除き、歴代、鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩とも呼ばれることもある。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市内)。三十五万七千石。

「龍門寺登之助」不詳であるが、佐賀藩の最初の藩主は龍造寺氏であることが、気にはなる。

「過分に候。」「身に余るご厚意にて恐縮致す。」。

「鹽田」佐賀県の南西にあった旧藤津郡塩田町(しおたちょう)。現在の佐賀県嬉野市塩田町。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「殺生宿」不詳。地名とは思われない。この喜太郎の通称で、猟師に宿を貸す生業(なりわい)をしていた者か。

「遙々登之助かたへ來り」底本では「遙々登〔之助〕かたへ來り」とある。〔 〕は編者による補填であるが、どうもピンと来ない。主人公の名の「登之助」が「のぼりのすけ」であったというのもちょっとピンとこず、「(たうのすけ)とうのすけ」と読みたくなるし、そもそも「のぼりのすけ」と読むのであれば、底本編者は冒頭に出た際に、そうルビを振るはずであるが、ないからである。これは原作者が、「登之助かた」と書いたのを、書写の際に誤って「之助」を落としてしまい、後人が喜三郎が「登之助」の方へ行くことを「登り」と言ったと勘違いして、送り字の「リ」を送ってしまったのではなかろうか。

「窪谷」不詳。

「朝熊の明王院」三重県伊勢市朝熊町岳にある金剛證寺(こんごうしょうじ)の朝熊岳明王院か。しかし、「眞言坊」(真言宗の僧)とあるのが不審。初期は真言密教であったが、南北朝期に当寺は臨済宗となっているからである。当時、兼学寺院であったなら、問題はないのだが。或いは、「眞言坊」と名乗っているものの、その実、この男は山伏であったのではないか? 何故なら、「朝熊岳明王院萬金丹」を売り歩く山伏がいた可能性が、ここのページの記載で推測されるからである。但し、後でこの僧を別に「藏主」(ぞうす)とも呼称しており、これだと、問題がない。何故なら、「蔵主」とは禅寺の経蔵を管理する僧職を指す語だからである。

「鐵洞」不詳。

「かぢ」「加持」。加持祈禱。

「哀(あはれ)」感動詞。「ああ!」「どうか!」。

「妙音山法奧寺」不詳。

「阿彌陀が原」不詳。「塚原」とあるからには墓所である。

「さた」「沙汰」。

「鹿目峠」不詳。

「百性」「百姓」に同じい。

「だん」「壇」。悪霊調伏のための修法を行うための真言密教の護摩壇。

「へいはく」「幣帛」。神に奉献する供物。神仏習合であるから、問題ない。

「八ツ半」午前三時頃。

「床より浮上(うきあが)り」怪異出来の真骨頂シーン。

「七尺」二メートル十二センチメートル。最早、死霊ではなく、鬼女妖怪の類に化している。

「いららげ」逆立て。吊り上げ。

「もみにもんで」数珠を揉みに揉んで。

「魔ゑん」「魔緣」。仏教で学問や修行の邪魔をする悪神を指す。

「化粧(けしやう)」「化生」が正しい。

「荒言」無責任に大きなことを言い散らすこと。「公言」とも書く。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 夜ふけ


Yahanni

   夜ふけ

 

 夜ふけに、私は起き上つた。暗い窓の外で、誰か私の名を呼んだものがある。

 窓の硝子に顏を寄せ、耳を澄し瞳をこらして、私は待受けた。

 しかし窓の外には、相も變らぬ樹々のざわめき、また、取留めも無く移ろひながら、ついぞ形を變へぬ、深い夜霧が這ふばかり。……空には星もなく、地に一點の火影もない。窓の外も、此處――私の胸の中と、同じ倦怠がたち籠めてゐる。

 ふとそのとき、何處かしら遠くで、哀訴の聲が起つた。聲は次第に高まり近づいて、漸く人語を成したかと思ふ間もなく流れおとろへ、忽ち身ぢかをかすめ過ぎた。

 「さよなら、さよなら、さよなら……」かすれてゆく聲は、さう聞きとれた。

 それは私の過去の一切、幸福の一切、慈しみ愛したものの一切なのだ――いましがた私に、永遠に歸らぬ別れを告げたのは。

 かけり去る自分のいのちに默禮して、私はまた寢床に橫になつた。さながら墓に橫たはるやうに。

 ああ、これが墓であつたなら。

             一八七九年六月

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 砂時計


Sunadokei

   砂時計

 

 日は次いで流れる。慌しく、變化なく、跡もなく。

 思へば怖しい生の流れの早さ。ひたすらに、聲もなく、瀧瀨にかかる川水のやう。

 生の點滴は坦(なだ)らに間(ま)を刻んで、死神が骨の手に持つ漏刻の、砂のやう。

 四圍(めぐり)に逼る夜闇のなか、私が寢床に橫はるとき、流れ去る生の微かなさやめきは、耳について離れない。

 私は生を惜しまぬ。また、殘僅かな業(わざ)の力も惜みはせぬ。ただ惱ましい。

 まざまざと私は見る。枕邊に凝然と動かぬものの影が、片手には砂時計を、殘る手は私の心臟に當てがふのを。……

 胸は鳴る、心臟は戰く。最後の鼓動を、急いで打たうとするやうに。

            一八七八年十二月

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 私が死んで

 

   私が死んで

 

 私が死んで、この身が灰と四散するとき、私の唯一人の友、いとしい君よ、御身にはなほ生が續かう。けれど、私の塚穴は訪れたまふな、そこは御身になんの關りもない。

 私の上を忘れたまふな。とは言へ、日々の營み、その哀樂のさなかには、私を思ひ出でたまふな。私は御身の生の障礙にならうと望まぬ。御身の安らかな生の流れを、搔亂さうとは思はぬ。

 もし御身の獨り居に、ふと故しらぬ悲哀が、優しい心のうちに湧いたなら、過ぎし日のわれら愛讀の書を手に取上げて、その日ごろ二人の眼頭に、言はず語らず同じ思ひの淚を染ませた、あの頁あの行、更にあの言葉の行方を探ねたまへ。

 讀み、眼(まなこ)閉ぢ、私の方(かた)へ手を伸べたまへ。姿ない御身の友に、手を伸べたまへ。

 私の手はもう、御身の手を握る力もなく、ぢつと塚穴に埋れてゐようが、そのとき御身の手のほとりに、流れ寄る微かな風がありはしまいか。それを思ヘば心は樂しい。

 そのとき、御身の前に私の形は立ち、淚は御身の閉ぢた瞼を越えよう。その日頃二人して美神の前に流したあの淚が。……私の唯一の友、いとしきに堪へぬ御身よ。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:第二段落の「あの頁」は底本では「あの夏」となっているが、「夏」では意味が挫かれてしまう。原文を見ると、ここはロシア語で「ページ」である。後の山省三郎及び一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳の「散文詩」の当該篇をもとに、誤植と断じ、特異的に訂した。

 本詩は、前にリンクさせた中山氏の訳本の「解説」で引いている、一八七九年冬、ツルゲーネフが故郷スパッスコエに戻った際、親交のあった若い女優マリヤ・ガヴリーロヴナ・サーヴィナ(当時六十一歳であったツルゲーネフの恋人であった)一人を書斎に呼んで、ある一つの詩を朗読したというエピソードを想起させる会話に現われるスタシュレーヴィチСтасюлевич Михаил МатвеевичM.M.Stasjulevichは、「散文詩」の発表を促し、自身が編集していた雑誌“Вестник Европы”(Vestnik Evropy:『ヨーロッパ報知』)に掲載させた人物である)。

   *

(前略)『これは散文詩です、私はもうこれをスタシュレーヰッチに送りました、ただ一つ永久に發表したくないものを除いて。』『散文詩つて何ですの?』とサヴィナは好奇心に駆られた。/『私はこれを讀んできかせたい、これはねもう散文なんかではないんですよ、……これはほんたうに詩で(彼女に)というふのです。』興奮した聲で彼はこの物哀しい詩を讀んだ(サヴィナは言つてゐる、『私は覺えてゐます。この詩にはそこはかとない愛情、一生涯の長い愛情をえがいてゐたことを。(あなたは私の花をすつかり摘みとり、あなたは私の墓には來ないでせう)と書いてありました。』)朗読が終わると、ツルゲーネフは暫く默りこんでゐた。『この詩はどうなるのでせう?』とサヴィナはいつた。『私は燒いてしまひませう、……發表するわけには行かない、さういふことをしたら非難されます。』(後略)

   *

中山氏は、この後に続く解説で、『サヴィナに對していつたやうに、發表すれば非難されるとの心づかひや何かのよつて永遠に消え去つたものもあるであらう。』と述べておられ、この「彼女に」という詩の消失の可能性を語っているようにも見えるのであるが、私はこのサーヴィナに詠んで聞かせた詩とは、この「私が死んで」であったのではないかと思っている。サーヴィナの以上の談話ノートの内容には後略した箇所でサーヴィナの大きな記憶違いが中山氏によって指摘されている(スパッスコエでの朗読エピソードは一八八一年に同定されるが、「散文詩」の原稿がスタシュレーヴィチの手に渡ったのは翌年一八八二年のことであり、サーヴィナがそのことを知るのはツルゲーネフとの談話では有り得ず、やはり解説中に記されている九月二十九日附書簡によってである)。更に中山氏はこのサーヴィナの談話ノートに対して、『「確かな話とはいひ難い」といはれる』という形容を附しておられるのである。そもそもサーヴィナの引用する「あなたは私の花をすつかり摘みとり、あなたは私の墓には來ないでせう」という詩句から「そこはかとない愛情、一生涯の長い愛情」は感じ取れるであろうか? 少なくともこれが、感動的な「そこはかとない愛情、一生涯の長い愛情」の詩を聴いて、その中でも長く印象に残る詩の一節だったとは、どうころんでも言い難いと私は思う。しかしここが「私が死んで、この身が灰と四散するとき、私の唯一人の友、いとしい君よ、御身にはなほ生が續かう。けれど、私の塚穴は訪れたまふな」であったとしたらどうであろう? いや、もしかすると「彼女に」とツルゲーネフが言ったこの表題は、「あなた、サヴィナに捧げる」という意味のツルゲーネフの示唆であったのかも知れぬし、サヴィナの思い込みによる記憶の変形が加えられたのかも知れぬ。いずれにせよ、私はこの幻の消失したと思われている詩「彼女に」こそ、この「私が死んで」であったのだと信じて疑わないのである。なお、本詩については、一九五八年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。

 

「私の上」私のこと。

「障礙」(しやうがい(しょうがい)は障碍・障害に同じい。]

2017/10/26

亡きアリス一歳の誕生日に妻が写す

Alicebirth1

アリスのちっちゃな遺骨帰る

只今、遺骨を受け取りました。12時間前に添い寝して握ってやった指の爪…………尾と歯…………

三女アリスが天に召されました――

一時間ほど前の12時8分――

三女のビーグル犬アリス(Ⅱ世)が逝きました――

12歳と二十六日でした――

一ヶ月程前より不調となり、性格が変容し、誰に対しても関心を示さなくなり、内臓面の精密検査によって、ホルモン促進剤等を投与したものの、好転せず、十月になると、深夜に複数回の夜啼きを始め、父も私も熟睡する暇がなくなりました。当初は認知症を疑いましたが、その後の昼夜の様態を観察し、それらを獣医とともに検討した結果、高い確率で――脳腫瘍――という結論に達しました。

抗癲癇剤等の投与も功を奏さず、血尿と食欲の激しい減衰が始まり、昨夜から今朝にかけて私がシュラフに入って添い寝をしましたが(大分以前から夜間は室内に入れていました)、午後十時半の発作は、一時間ほどで終わり、眠りに落ちましたが、午前二時半の発作が始まると、部屋の中をコンスタントなスピードで左旋回を開始し、寝かせようとしても、起き上がろうとして異様な遠吠えをしようとするので、回り疲れるのを待つしかないと、そのまま見ていると、実に午前四時半過ぎまで二時間以上、同一行動をとって、やっと寝つきました。そこで、私は「これは介護のレベルを越えている」と判断しました。

 
今朝、獣医との相談によって、安楽死を選択するのが、このアリスの事例の場合、ベストと決し、両杖の妻と一緒にアリスも自力で歩いて動物病院に行き、その場で安楽死の仕儀を受けました。
 
薬物注入から一分もしないうちに、速やかに天に召されました――
 
今――私の家の庭には亡き母テレジア聖子の丹精した白い可憐な美事なシュウメイギクが沢山咲いています――
 
……私には今、その母と一緒に、天界のシュウメイギクの園を気持ちよさそうに飛ぶように走っている(母は治療法のない筋萎縮性側索硬化症(ALS)で亡くなりました。病名宣告からたった一ヶ月後でした)母とアリスの姿が見えます――
 
Ⅱ世のアリスは、母が、右腕首を校務で粉砕してしまって意気消沈していた私のために、その母が飼った子でした……

 
「アリス! 幸せな時間を、ありがとう! ゆっくり――おやすみ!…………」
 

 

2017/10/25

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈


Isagomusi

いさごむし  射工 射影

       水弩 抱槍

       水狐 短狐

【音或】

       溪鬼蟲。含沙

フヲツ

本綱蜮出山林間長二三寸廣寸許形扁前濶後狹似蟬

狀腹軟背硬如鱉負甲黒色六七月甲下有翅能飛作鉍

鉍聲濶頭尖喙有二骨眼其頭目醜黒如狐如鬼喙頭有

尖角如爪長一二分有六足如蟹足二足有喙下大而一

爪四足有腹下小而岐爪或時雙屈前足抱拱其喙正如

橫弩上矢之狀冬則蟄於谷間所居之處大雪不積氣起

如蒸掘下一尺可得此物足角如弩以氣爲矢因水勢含

沙以射人影成病急不治則殺人是淫婦惑亂氣所生也

所中其毒者取鼓蟲一枚口中含之便愈已死亦活蟾蜍

鴛鴦能食射工鵞鴨辟射工故鵞飛則蜮沈

鬼彈

南中志云永昌郡有禁水惟十一二月可渡餘月則殺人

其氣有惡物作聲不見其形中人則青爛名曰鬼彈乃溪

毒之類

いさごむし  射工

       射影

       水弩〔(すいど)〕

       抱槍

       水狐

       短狐

【音、「或〔(コク)〕」。】

       溪鬼蟲

       含沙

フヲツ

「本綱」、蜮は山林の間に出づ。長さ、二、三寸、廣さ寸許り。形、扁く、前、濶〔(ひろ)〕く、後、狹く、蟬の狀〔(かたち)〕に似る。腹、軟にして、背、硬く、鱉〔(すつぽん)〕のごとし。甲を負ふ。黒色。六、七月、甲の下に翅〔(つば)〕さ有りて、能く飛びて、「鉍鉍〔(ひつひつ)〕」の聲を作〔(な)〕す。濶〔(ひろ)〕き頭、尖りたる喙〔(くちばし)〕、二つの骨眼、有り。其の頭・目、醜(みにく)く、黒くして、狐のごとく、鬼のごとく、喙の頭に、尖りたる角、有り、爪(つめ)のごとく、長さ、一、二分。六足、有りて、蟹の足ごとく、二つの足は喙の下に有りて、大にして一つ爪〔たり〕。四つの足は腹の下に有り、小にして岐ある爪〔たり〕。或る時には、前足を雙(なら)べ屈(かゞ)みて、其の喙を抱-拱(だ〔き〕かゝ)へて正に橫たはる弩の上に矢の狀のごとし。冬は則ち、谷の間に蟄(すごも)り、居〔(を)〕る所の處〔(ところ)〕に、大雪、積もらず。氣、起こること、蒸(む)すがごとし。掘り下すこと一尺にして得べし。此の物、足・角、弩のごとく、氣を以つて矢と爲し、水勢に因りて、沙を含み、以つて、人影を射て、病ひと成る。急〔(ただち)〕に治せざれば、則ち、人を殺す。是れ、淫婦惑亂の氣より生ずる所なり。其の毒に中〔(あ)〕てらる者、鼓蟲(まいまいむし)一枚を取りて、口中に之れを含めば、便ち、愈ゆ。已に死するも、亦、活す。蟾蜍〔(ひきがへる)〕・鴛鴦(をしどり)、能く射工を食ふ。鵞〔がてう〕・鴨〔(かも)〕、射工を辟〔(さ)〕く。故に、鵞、飛ぶときは、則ち、蜮、沈む。

鬼彈(きだん)

「南中志」晋の常璩(じょうきょ)撰。云はく、『永昌郡に、禁水、有り。惟だ十一、〔十〕二月に渡るべし。餘月は、則ち、人を殺す。其の氣、惡物〔(あくもつ)〕有り。聲を作(な)して其の形を見ず。人に中〔(あた)〕れば、則ち、青く爛(たゞ)る。名づけて「鬼彈」と曰〔(い)〕ふ。乃ち、溪毒の類ひ〔なり〕。』〔と〕。

[やぶちゃん注:大修館書店「廣漢和辭典」を引くと、「蜮」には『①いさごむし。想像上の動物。形は亀に似て三足。水中に住み』、『砂を含んで人に吹きかけ、害を与えるという。射工。射影』とする。以下、『②まどわす』・『③はくいむし。苗の葉を食う虫』・『④がま(蝦蟇)』・『⑤ふくろうの一種』などを主意とし、ネット上でも、水中に棲息していて人に危害を与えるとされる伝説上の怪物とするばかりであるが、私は姿が見えないこと、水中や蒸すような湿気の高い比較的高温の場所(本文)に住むとすること、その飛翔する虫の咬傷法は弓矢で射る(刺す)ことであること、刺された場合、治療しないと死に至るという点から、何らかの風土病、吸血性動物を中間宿主とする寄生虫症をずっと以前から疑ってきている。以前はツツガムシ病を深く疑っていたのであるが、悪化した病態が判然としないことや、何より、次の独立項の「沙虱(すなじらみ)」の方がそれに相応しいことなどから、ここではそれを比定候補としては出さない。但し、種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症、及び、日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものが、この「蜮に射られる」ことの正体なのではないかという思いは殆んど確信的に、ある。今回、幾つかのネット記載を見た中で、目が止まったのは、柳小明氏の「中国崑崙山の仙人(21) 蜮」である。ここに出る(但し、年齢五百歳の平先生という仙人の話というところが、かなり気になるのだが)「蜮」は明らかに回虫(或いは回虫そのもの。多量に寄生した場合は、本邦でも江戸時代に、「逆虫(さかむし)」と称して口から回虫を吐き出すケースがままあった)である。今少し、探索を続けたい。

「水弩〔(すいど)〕」「弩」は訓ずるならば、「おほゆみ(おおゆみ)」(大弓)で「弩」は横倒しにした弓(「翼」と称する)に弦を張り、木製の台座(「臂」或いは「身」と称する)の上に矢を置いて引き金(「懸刀」と称する)を引くことによって、矢や石などを発射する中国古来の武器である。「蜮」の身体形状(しかし、ですよ、人間には見えんはずやのに、何でこないに細かく多くの本草書に形状が書かれておるんか? ようわからんわ)が、ややこの弩(おおゆみ)の形に似ていること)「前足を雙(なら)べ屈(かゞ)みて、其の喙を抱-拱(だ〔き〕かゝ)へて正に橫たはる弩の上に矢の狀のごとし」)、及び、実際にその虫が毒気をその矢と紛う嘴(くちばし)から吹いて人を射ること、射られると放置しておくと死に至ることから、この別名を持つことが判る。

「鉍鉍〔(ひつひつ)〕」鳴き声のオノマトペイア。しかし、クドイが、姿が見えんのに、何で、「蜮」の声やて断定出来るん? わけわからん。

「骨眼」このような熟語は初見。一応、「こつがん」と読んでおくが、これは眼のように見える外骨格か、有意に盛り上がった目玉模様にクチクラ層(もしこれが節足動物であったとすれば、である)ではないでしょうか?

「一つ爪〔たり〕」突起状の単独の爪のような体節であることを言う。

「岐ある爪〔たり〕」まさに蟹の鉗脚のようであることを言う。

「大雪、積もらず」本虫が湿熱を持つことを意味している。

「淫婦惑亂の氣より生ずる所なり」何をかいわんや、である。化生説ならまだ許せるが、これは、ちょっと阿呆臭くて、全く、いただけないね。

「鼓蟲(まいまいむし)」カタツムリ。

「鵞〔がてう〕」東洋文庫は『とうがん』とルビするが、「トウガン」なる鳥の和名を私は知らない。識者の御教授を乞う。

「射工を辟〔(さ)〕く」この場合は「故に、鵞、飛ぶときは、則ち、蜮、沈む」とあるから、射工(蜮)が鵞鳥や鴨を嫌って避けるの意。

「鬼彈(きだん)」「捜神記」の「巻十二」に載る。前に「蜮」の記事も載るので、一緒に引く。

   *

漢光武中平中【註 中平當爲中元、因光武無中平年號。或光武爲靈帝之誤。】、有物處於江水、其名曰「蜮」、一曰「短狐」。能含沙射人。所中者、則身體筋急、頭痛、發熱。劇者至死。江人以術方抑之、則得沙石於肉中。詩所謂「爲鬼、爲蜮」、則不可測也。今俗謂之「溪毒」。先儒以爲男女同川而浴、淫女、爲主亂氣所生也。

漢、永昌郡不韋縣、有禁水。水有毒氣、唯十一月、十二月差可渡涉、自正月至十月不可渡。渡輒病殺人、其氣中有惡物、不見其形、其似有聲。如有所投擊内中木、則折。中人、則害。士俗號爲「鬼彈」。故郡有罪人、徙之禁防、不過十日、皆死。

   *

「南中志」三五五年に東晋の常璩(じょうきょ)によって編纂された華陽(巴・蜀・漢中)の地誌「華陽国志」の中の巻四。

「永昌郡」雲南省西部。この中央付近か(グーグル・マップ・データ)。

「禁水」この鬼弾の害があるために、以下の二ヶ月を除いて、水に入ることが禁じられていたと採る。

「十一、〔十〕二月」原典は「十一-二月」とする。東洋文庫の訳に従っ後半を十二月と採った。

「青く爛(たゞ)る」症状であるが、これでは如何ともし難い。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) われ行きぬ


Watasihatakaiyama

   われ行きぬ

 

 われ行きぬ高嶺のあひを

 谿のみち淸きながれを……

 まながひに見ゆるものみな

 ささやくはただ一つこと

 人ありてこの身を戀ふと

 そのほかはなべて忘れぬ

 

 靑ぞらはかがやき滿ちて

 葉のそよぎ小鳥のうたや

 ゆきかひのしげきわた雲

 ながれては行方しらじら……

 澤(さは)なれやここのさひはひ

 さはれうれなに羨まむ

 

 わだつみの波もさながら

 身は搖るる波のひろびろ

 哀樂をとほく離(さ)かれる

 しづもりに胸もはろばろ……

 いつしかはわれ忘られて

 おもへらくこの世の王(きみ)と

 

 などとくに命たえせぬ

 などふたり生(せい)をつなげる……

 年かはり星にうつれど

 あだめけるかの佳きときに

 いやまさる幸(さち)もひかりも

 消(け)ぬ雲と絶えてあるなく

 

            一八七八年十一月

 

[やぶちゃん注:全体が一字下げであること、最後のクレジットの前が一行空いていることは底本のママである。文語定型詩としては美しいが、訳として達意であるかどうかは、やや疑問が残る。以下に、中山省三郎達意を掲げておく。

   *

 

  私は高い山々の間を行くのであつた

 

 私は高い山々の間を、淸らかな河のほとりを

 谷から谷へと行くのであつた……

 瞳に映るありとあらゆるものは、

 ただひとつのことを私に語る。

 自分は愛されてゐた、愛されてゐた、この私は!

 私はほかのことを忘れはててゐた!

 

 空は高く光り、

 葉はそよぎ、鳥は歌ふ……

 雲は嬉々としていづくともなしに

 つぎつぎに飛びわたり……

 あたりのものは何もかもめぐみにあふれ、

 しかも心はめぐみに不自由はしなかつたのだ。

 

 波ははこぶ、私をはこぶ、

 海の波のやうに寄せてくる波!

 こころにはただ靜寂があつた、

 喜びや悲しみを越えて……

 やうやくにして心に思ふ、

 この世はみな私のものであつた! と。

 

 かかる時に私はどうして死ななかつたのか、

 さうしてふたり何ゆゑに生きて來たのか、

 歳月(としつき)は遠くうつる、……うつろふ月日(つきひ)

 さうしてあの愚かしくめぐまれた日にもまして、

 何ひとつとして甘美(うるは)しく明るい日を

 與へてはくれなかつたのだ!

 

   *]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 或るひとに


Tubame

   或るひとに

 

 かたき岩根に巣をうがつ するどき嘴(はし)の山つばめ 囀聲(さへづり)たかきつばくろめ きみは燕にあらねども

 他人(ひと)つ住處(すみか)のつめたさを 深くも堪へて住みなれし はた住みなせる 君の聰(さと)さは

 一八七八年七月

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 「おお、わが靑春…」


Aawagaseisyun

   「おお、わが靑春…」

 

 おお、わが靑春、潑剌の氣よ。――曾てもかう叫んだものだ。その頃はまだ若くて、潑剌としてゐた。

 あの頃はただ、悲哀が弄びたかつただけなのだ。人前には歎き、内心には樂しまうとしたのだ。

 いま、私は何も言はない。聲立てて、過ぎた日を惜み歎かぬ。哀惜がじりじりと蝕む今となつては。……

 「ええ、思はぬが增しだ」――百姓は巧いことを言ふ。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『おお、わが靑春、潑剌の氣よ』 ここまでが原題となつてゐる。これは多分ゴーゴリの『死せる魂』第一部第六章第二段落の終句を轉用されたものとされてゐる。尤も用語は稍〻異る。

   *

但し、この註では、自身の訳の引用である「潑剌の氣よ」の部分が「潔潑剌の氣よ」となっている。特異的に誤植と断じて、「潔」の字を除去して示した。なお、私は「死せる魂」を読んだことがないので、これ以上の注を附す資格がない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 作家と批評家


Sakkahihyouka

   作家と批評家

 

 作家が仕事机に向つてゐると、不意に批評家がはいつて來た。

 「おやおや」と彼が叫ぶ。「まだ君は、性懲りもなく書いてるね。あれほど僕が遣つつけたのに。堂々たる大論文をはじめ、寸評、寄書にも筆を酸くて、君にはてんで才能のないこと、いや、曾てまだ才能のきれ端さへあつた例しのないこと、昭々として恰も二二が四なるが如しと斷じて置いたのに。そのうえ君は母國の言葉は忘れるし、これ迄も無知を以て鳴る君が、今では全く摩り切れて、襤褸布も同じことだ。」

 作家は靜かに批評家に答へた。

 「なるほど君は」と彼が言ふ、「論文雜文を問はず、さんざ僕を扱き下して呉れたね。だが君は、狐と猫の話を知つてるかね。狐は惡智慧があり餘る癖に、たうとうに係蹄(わな)に陷(はま)つた。猫は樹に登るより外に能は無かつたが、流石の犬も手が出せなかつた。僕も同じさ。君の論文に報いるため、僕はある本に君の全身像を描いて置いた。賢明な君の頭には、道化の帽子を被せて置いたよ。まあそれでも被つて、せいぜい後世に威張りたまへ。」

 「後世にだつて?」と、批評家は笑ひ出した、「君の書いたものが、後生に殘るとでも言ふのかね。四十年、長くて五十年もすれば、誰一人見向きもしまい。」

 「僕もさう思ふ」と、作家は答へた、「それで結構さ。ホメロスはテルシーテスの名を不朽に留めてやつたが、君たちなんかは半世紀でも勿體ないくらゐだ。君なんかは、道化としてさへ、不朽に留める値打はないのさ。ぢや左樣なら、なにがし君。それとも君は、本名で呼んで貰ひたいかね。まあ止して置かう。僕が呼ぶまでもなく、皆がたんと呼んで呉れようよ。」

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

テルシテス 『イーリアス』の一人物(第二歌二一二行以下)眇眼のうへに跛者で、トロイ遠征の希臘軍中隨一の卑劣漢である。のちアキレスの鐡腕の一擊に仆されたとも傳へられる。

   *

確証はないが、前の蟲」と一緒に「散文詩(セリニア)」の初版刊行前に除去されていること、「長蟲」のクレジットが『一八七八年五月』と直近であることから、この批評家はまさに「長蟲」に臭わされたロシアの右派文芸評論家であったボレスラフ・マルケビッチを念頭に置いているものかとも思われる。

「寄書」投稿記事であろう。

「狐と猫の話」ソップ童話集の「猫と狐であろう(リンク先はウィキソース)。但し、そこでは狐は罠にかかるのではなく、猟師の猟犬に咬み殺されることになっている。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 長蟲


Hatyu

   長蟲

 

 長蟲の兩斷されたのを見た。自ら漏らす血膿と粘液に塗(まみ)れて身をのた打ち、引攣るやうに鎌首をもたげて舌を吐く。未だに脅喝を歇めないが、それにもう力は無かつた。

 また、侮蔑にいきり立つ駄作家の雜文を讀んだ。

 己れの吐散す唾に咽せかえり、自分の漏らす毒膿に塗れて、やはり輾轉とのた打ち𢌞つた。稍〻もすれば、請ふ決鬪の庭に相見えよう、白刄の下に恥を雪がうと口走つてゐた。――ありもせぬ恥を。

 私は思い出した。兩斷された長蟲が汚辱の舌を吐くさまを。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版の注には以下のようにある。

   《引用開始》

長虫 この一軍編は、当時の反動的ジャーナリストであるマルケーヴィチ B. Markevichを諷している。彼のことは『処女地』にも触れてある。

   《引用終了》

「マルケーヴィチ」はロシアの作家・文芸評論家でジャーナリストであったボレスラフ・マルケビッチ Болеслав Михайлович Маркевич(一八二二年~一八八四年:ラテン文字転写:Boleslav Mikhailovich Markevich)。英語版ウィキの彼の記載を見られたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 處世訓


Syosei

   處世訓

 

 平安を願ふなら、人と交るとも孤(ひと)りで生きよ。何事も圖らず、何物も惜しむな。

 幸福を願ふなら、まづ苦しむ術を學べ。

             一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 咎


Darenotumi

   

 

 少女は蒼ざめた優しい手を、私にさし伸べた。私は邪慳に拂ひのけた。愛らしい娘の顏は當惑さうに曇つた。淸らかな眼が、責めるやうに私を見あげる。純な少女心には、私の氣持が汲みとれないのだ。

 「私、何か惡いことでもして?」と、その唇はささやく。

 「おまへが惡いことを? そのくらゐなら、光り輝く空の首天使も、とつくに咎を受けて居やう。

 「とはいへおまへの咎は、私にとつて小さくはないのだ。

 「おまへの咎の重さは、とてもおまへに分りはしまいし、私も今さら説きあかす氣力はない。それでもおまへは知りたいのか。

 「では言はう。――おまへの靑春、私の老年。」

 

[やぶちゃん注:神西訳の中でも私の好きな一篇。原題は“ЧЬЯ ВИНА?”で「誰が悪い?」。「少女心」は是非とも「をとめごころ(おとめごころ)」と読みたい。しかし、すると、前の「少女」も「をとめ」と読まねばおかしくなるが、ルビはない。読者は十中八九、冒頭を「せいぢよ(しょうじょ)」で読むであろう。それでよいし、神西がルビしなかったのもそう読ませるつもりだからであろう。「少女」「娘」その「少女心」そして直接話法での「お前」(これは無意識の「咎」を持ったその子娘への呼びかけとして選ばれた二人称である。因みに、中山省三郎譯では「あんた」であるが、これはこれで男の表面上の「邪慳」さを引き立てる効果はある。なお、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」で池田氏はここを『いたいけな清らな心』と改訳しておられる。これは原詩には忠実な訳(原文は“чистая душа”で、「純粋な魂」「純潔な心」「けがれなき一途な心」の意)はある)と多様に変えているのは神西の確信犯と読む。さすれば、ここのみを「をとめごころ(おとめごころ)」と読んだとて、何の不都合もないと私は考えるのである。

 本詩には末尾の年月のクレジットがない。次の「処生訓」と同時に書かれた(とすれば一九七八年四月)可能性があるが、そのような場合でもほかでは同じクレジットを附しているので不審。もし、これが一八七九年以降のものとすれば、六十を越えていたツルゲーネフのロシアでの恋人、若き女優マリヤ・ガヴリーロヴナ・サーヴィナであった可能性が高い。恋多きツルゲーネフを考えると、クレジットの消去はそれを隠すためでもあったかも知れない。この公刊されたツルゲーネフの散文詩集(但し、実はこの詩は以下の表題の出版にあっては除外された。だから「散文詩拾遺」に含まれているのであるが)の最初の題名は“SENILIA”――「老いらく」――なのである。

「光り輝く空の首天使」相当原文と思われる箇所は“Самый светлый ангел в самой лучезарной глубине небес скорее”で、「至上の光輝を放つ天国の、最も光り輝く天使」の意と思われるから、熾天使セラフィエルあたりをイメージしているか。東方正教会では最上級の天の御使いとして八大天使を採り、ミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエルの四大天使(ウリエルについては別説もある)にセラフィエル・イェグディエル・バラキエル・イェレミエル(ウリエルと同体とされることもある)を加える。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 杯


Sakazuki

   

 

 可笑しなことだ。私は自らにおどろく。

 私の悲哀は佯りではない。私は心(しん)そこから生(いのち)がにがく、胸は悲哀とざされてゐる。しかも私は、情感をつとめて燦らかに裝ふ。形象や比喩を探ねもとめる。句を雕琢し、言葉のひびきと調和とに浮身をやつす。

 私は彫物師、また彫金師。一心にかたどり、鏤(ゑ)り、刻み、さて彫りあがつた黃金の杯に、みづからあふる毒を盛る。

 

[やぶちゃん注:「杯」「さかづき(さかずき)」と訓じておく。一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」(その中の本篇は神西氏の訳をもとに池田氏が改訳したもの。同詩集は総て現代仮名遣)では「さかずき」となっている。

「佯り」「いつはり」。偽り。

「燦らかに」「あきらか」と訓じておく。「 明るくあざやかに・美しく輝くように」の意。

「探ね」「たづね」。

「雕琢」「てうたく(ちょうたく)」と読み、原義は「玉石を彫刻して磨くこと」で、転じて詩文の語句を選んで美しく創り上げるの意。

「鏤(ゑ)り」「鏤」(音「ル」)原義は「金銀・宝石などを一面に散らすように嵌め込むこと」で、転じて、「文章の各所に美しい言葉や表現などを交えて飾ること」を指す。その動詞形。なお、「鏤」は「ちりばめる」と訓ずることもある。

「あふる」「呷(あふ)る」。現代仮名遣で「あおる」で、もともとは「煽(あふ(あお))る」と同源で「酒や毒などを一気に飲む」「仰向いてぐいぐいと飲む」の意。]

2017/10/24

老媼茶話巻之四 強八斬兩蛇

 

     強八斬兩蛇

 

 信濃國住人、安部井強八(がうはち)といふ大力の人、有(あり)。

 或時、天龍の川すそを馬にて渡りける時、山岸の片崩成(かたくずれな)所に大渕(おほぶち)有。水色、あいのごとく、底のかぎりを知らず。きしに、大木、倒れふし、いと深々たる大渕也。

 かゝる所に壱の大猪(おほゐのしし)、山より一文字にかけ來り、かの渕へ飛(とび)ひたり、向(むかひ)のきしへおよぎ行(ゆく)所に、水底(みなそこ)より、さもしたゝか成(なる)大蛇、頭(かしら)を差出(さしいだ)し、猪のしゝを引(ひつ)くわへ、何の苦もなく、水中へ沈入(しづみいり)、骨をかむ音、水にひゞく。

 強八、元來、水れんの上手也しかば、片はらの松の木に馬をつなぎ、衣裳をぬぎすて、裸になり、刀を拔持(ぬきもち)、水をくゞり、水底を能(よく)見るに、大き成る岩穴、有り。

 大蛇、其内にうづくまり、猪のしゝ、喰(くらひ)終り、たぐろをまき、有けるが、強八を見て、首を上げ、目を見はり、口をひらき、ひれを動(うごか)し、呑(のま)んとす。

 強八、刀を以て大蛇の咽(のんど)に突入(つきいり)、橫ざまに、刀にまかせ、かきはらひ、又、立(たて)ざまに切(きり)ひらく。

 さしもの大蛇、急所の痛手に、よはり、岩穴に倒死(たふれし)す。

 強八、水中より上り、宿へ歸り、下人數多(あまた)に、大綱を持(もた)せ行(ゆき)、件(くだん)の死蛇(しじや)の首をくゝり、綱の先を數拾人にてとらへ、

「ゑいやゑいや。」

と聲を上げ、漸々(やうやう)おかへ引上(ひきあぐ)るに、拾間斗(ばかり)の大蛇也。

 見聞の諸人、強八武勇を感じける。

 其後、強八、三年を經て、春、戸隱明神へ詣(まうで)て、件の川下を馬にて渡しけるに、靑々(せいせい)たる空、俄(にはか)にかきくもり、一面に墨をすりたるがごとく、眞闇になり、大雨、しやぢくを流し、大風、頻りに吹(ふき)て、稻光り、隙(ひま)なくして、水面を引(ひつ)つゝみ、一村(ひとむら)の黑雲、戸隱山の腰より浮出(うきいで)、矢より早く、強八を目にかけ、追來(おひきた)る。

 強八、見て、

「扨は、先年殺しける大蛇のしゆうの内ならん。遁(のがれ)ぬ所也。」

と思ひ定め、馬を川中へ立(たて)、刀に手を懸(かけ)、待居(まちゐ)たりけるに、拾丈斗(ばかり)の黑雲、強八が上へ押懸(おしかか)り、黑雲の内より大蛇、頭を差出し、口をひらき、惡氣を吐(はき)かけて、廿間斗(ばかり)に立(たち)あがり、一文字に強八が上に倒れかゝり、強八を、馬、人、共(とも)にさらい、虛空はるかに、東の山際へ、たなびき行(ゆく)。

 供人共、手にあせを握るといへども、如何ともすべき樣もなく、あきれて、そらを見る所に、雲井に聲ありて、

「阿部井強八、只今、大蛇をしたがへ、最後を見よ。」

とよばはるとひとしく、黑雲、頻にうづ卷(まき)、稻光、散亂して、強八を馬ともに散々に喰(くひ)ちぎり、首もむくろも別々なり。

 馬、人、共(とも)に地に落(おち)たり。

 猶も黑雲、たなびきて、次第次第に上るとぞ見へし。

 黑雲、四方に、

「はつ。」

と、ちり、雲間より弐拾間ばかりの大蛇、雲をはなれ、大地をひゞかして、

「どう。」

と落(おち)、のたを返して苦(くるし)み、大木を卷倒(まきたふ)し、石を飛(とば)し、黑けぶりを立て、四方、くらやみになして、くるいけるが、終(つゐ)にくるひ死(じに)に、しゝたり。

 皆々、集り是を見るに、頭、獅々(しし)のごとく、面(おもて)、しがみ、つぶりに、毛、生(おひ)しげり、眼は鏡のごとく、口、耳元へさけのぼり、きば、かみ出(いだ)し、死(しし)たる有樣、身の毛よだつ斗(ばかり)也。

 強八が右の腕、かた骨よりかみ切られながら、大蛇の首元へ、七刀、突通(つきとほ)し、にぎりこぶし、其儘、大蛇の耳元に殘りける。

「いにしへの田原藤太といふとも、是程には、よも、あらじ。」

と、諸人、かたりつたへしとなり。

 

[やぶちゃん注:「強八斬兩蛇」「強八、兩蛇(りやうだ)を斬る」。

「安部井強八」不詳。

といふ大力の人、有(あり)。

「大渕」「渕」は底本のそれを用いた。

「あいのごとく」「藍の如く」。

「飛(とび)ひたり」「飛び浸り」。

「したゝか成(なる)」異様に頑丈で手強そうな。如何にも体格ががっしりして強そうな。

「水れん」「水練」。

「たぐろ」「蜷局(とぐろ)」の誤記か?

「ひれ」この場合、描写順序と蛇の体勢から見て、舌の叉に切れた先のことを「鰭」と言っていると私は採る。但し、後半の死闘の中で「大蛇の耳元」とあるから、或いはそれを「鰭」と言っているのかも知れぬ。

「かきはらひ」「缺(か)き拂ひ」。払って斬り破り。

「立(たて)ざま」「縱樣」。

「拾間」十八メートル十八センチ。こりゃ、蟒蛇(うわばみ)の類い。

「しやぢく」「車軸」。

「隙(ひま)なくして」あっと言う間に。

「引(ひつ)つゝみ」ひっ包んで。

「一村(ひとむら)」「一叢」。

「しゆう」「雌雄」

「馬を川中へ立(たて)」騎乗のままで馬を川の中に両足でしっかと立たせて。

「拾丈」三十メートル三十センチ。生物学的にではなく、取り敢えず、妖獣として、先年殺したのが雌で、こちらはその夫であったと採っておく。

「廿間」三十六メートル三十六センチ。

「大蛇をしたがへ、最後を見よ。」「大蛇諸共に相打ちせんとす、その最期を見よ!」。

「のたを返して」のたうちまわって。

「くるいけるが」ママ。「狂ひけるが」。

「しゝたり」「死したり」。

「獅々(しし)」「獅子」。

「しがみ」底本は「しかみ」。「嚙(しが)む」と採った。苦しみのために、上下の歯を乱食いの如くに強く噛みしめ。

「つぶり」「頭(つぶり)」。

に、毛、生(おひ)しげり、眼は鏡のごとく、口、耳元へさけのぼり、きば、かみ出(いだ)し、死(しし)たる有樣、身の毛よだつ斗(ばかり)也。

「かた骨」「肩骨」。]

老媼茶話巻之四 大龜の怪

 

     大龜の怪

 

 結城宰相秀康公は御仁德の御大將にてましましける。其御子一伯忠直公は士民御哀みもなく、其御生れ、強勇血氣にして、御普代相傳の忠士といへども、少(すこし)にても御心に背き申(まうす)事あれば、御手打になされ、殊更、醉後亂狂にして、皆人(みなひと)、うとみ果(はて)たり。

 或時、「大むく」「小むく」と云(いふ)御愛妾を達御船遊びあり。御酒宴、長じて、甚御不機嫌にならせられ、御近習を始(はじめ)、御供の皆々、かたづを呑む。七に御なりなさるゝ鶴松樣と云(いふ)御愛子、一伯樣の御ひざ元におはしける。これは小むくがはらの若君なり。忠直公、手づから、御前のくわし、御取(おんとり)、鶴松君へ遣(つかは)せられ、

「いかに、鶴松。父や、かはゆき、母や、かはゆき。早くいふべし。」

と被仰(おほせらる)。

 鶴松君、御父上の御不きげんに御渡りなされしを、幼(イトケナ)き御心に御笑止にや思召(おぼしめし)けん、淚ぐみ、顏を赤く、暫く御挨拶なく、母の顏を御覽ぜられ、

「いかゞ被仰(おほせられ)よかるべき。」

と思召ける御氣色にて、泣(なき)顏に成(なり)おはしましける。

一伯、重(かさね)て、

「いかに答(こたへ)はせざる。」

と仰(おほせ)ける。

「父上こそ御いとおしく候。」

と漸(やうやう)被仰けるを、一伯、聞召(きこしめし)、

「おのれ、侍の大將軍共(とも)ならんもの、母の口元をまふり窺(うかがひ)、へつらいたる有樣(ありさま)、とても用には立(たつ)まじ。」

とて、壱尺五寸、切刃兼常の御脇差を拔(ぬき)、鶴松君樣の御脇つぼを、蛙を串にさしたる樣に、つば元迄、差通し、高く差上、大盃に酒を請(こひ)、呑(のみ)ほし給ふとひとしく、御脇差と共に鶴松樣を、はるかの海上へ、抛(なげ)すて玉へり。

 又、ある日、鷹がりに御出の節、御祕藏の御鷹、それて、ちどり山のふもと、「まんさいが沼」といふ大沼の向ひの岩ほに羽を休め居たり。

 鷹匠、急ぎ、沼へ入(いり)、水をおよぎ、半町斗(ばかり)およぎ出(いで)ける折、水(みな)そこより、馬の頭のごとくにて、眼光り渡り、眞黑なるもの、首を差出(さしいだ)し、鷹匠を横樣(よこざま)に引(ひき)くわへ、沼底へ引入(ひきいれ)ける。忠直、御覽被成(なられ)、御衣裳をぬぎ捨(すて)、丸はだかに成(なり)、「龍の髭」といふ三條の小鍛冶が打(うち)し九寸五分の小脇指を御下帶へ御(おん)さし、ぬき手を切(きり)、水の面半町餘りおよぎ出(いだ)し、水を分行(わくゆき)、底へ沈(しづみ)玉へり。

 御供の面々、水を知るも知らざるも、あわてゝ、皆々、裸になり、水へ入らんとする折、忠直、水底をくゞり、こなたの岸へあがらせ玉ふとひとしく、水面(みなも)、あけの血染(ちぞめ)になる。

 忠直、仰られけるは、

「水底をあまねくさがし見るに、いづくにも、あやしき事なし。但(ただし)、大きなるほら穴有(あり)。是(これ)へくゞり入(いり)、内を見るに、なましき死骸、かれたるほね有。其外何にも不思義成(ある)事なし。ほら穴より出(いで)んとするに、表てより扉の樣なるものにて、ほら口をふさぐ。おせども、すこしも動かず。なでゝ見るに、人はだなり。不思義におもひ、脇さしを拔(ぬき)、差通し、くりぬき、其穴より拔出(ぬけいで)たり。人を入(いれ)、さがし見よ。」

とのたまふ、御こと葉の下より、壱間(けん)斗(ばかり)の大龜、腹を甲ともにくりぬかれ、あをのけに成り、死(しし)て水面へ、うかみ出(いで)たり。

 かゝる血氣猛勇の御大將にておはしましける。

 劍術は小山田多門を師として新天流を御習被成(ならひなさ)るゝ。新天流極祕の太刀に、「雲あし萬字劍」といふ太刀有(あり)。是は多門に天狗の傳へたる太刀也といへり。一伯樣劍、上段、御得手物(おんえてもの)也。御力量強く御渡り候うへ、兵法(ひやうはう)の御相手を仕る者、上段受(うけ)はづせば、頭、みぢんに打碎(うちくだ)かれ、死す。

 御酒宴の上、御酒狂おこり、御心あらく御(おん)なり、とがもなき御近習の者、大けさに打放(うちはな)し、其(その)生ぎもを手づから拔取(ぬきとり)、大皿鉢入(いれ)、其(その)きものおどり動き、皿鉢のゆるぐを御覽せられ、御機嫌、直(なほ)る也。

 如此(かくのごとき)なれば、士民、腹(ふく)せずして、國中、悉く亂れ、御家代々忠功の侍共、國、引(ひき)はらひ、他國へ立退(たちの)ければ、

「忠直の御行末、いかゞあるべき。」

と、諸人、大きにあやしみおもひけると云(いへ)り。

 果して、元和九年五月、豐後國へ移され給ひ、津森の浦にて日根野(ひねの)織部正(をりべのしやう)高吉(たかよし)に預けられさせ給ひしとかや。

 結城中納言秀康公の御嫡男忠直公、幼名長吉丸。越前國福井の城主六拾七萬石。參議從三位宰相兼(けん)三河守忠直公。大猛勇の御大將にて、元和元年、大坂にて西の大手の一番乘(のり)をし玉ひ、大坂方隨一の軍將眞田左衞門尉幸村・御宿(みしゆく)越前守長則を始(はじめ)、首三千七百三級を打取(うちとり)玉ふ。大御所樣にも忠直公を「日本樊噲(はんくわい)」と被仰(おほせられ)しと也。寛永元年五月二日、豐後國萩原へ配流、御剃髮有(あり)て一伯と申(まうし)ける。其後、津森といふ所へ御移(おんうつり)、日根野織部正、警固、牧野傳藏、御目付なり。配所にまします事弐拾五年、慶安三年九月十日、津森にて御逝去。時に御年五拾六【法名、西岸院殿相譽蓮友大居士。】。

 

[やぶちゃん注:これは大亀が怪なのではなく、狂気のサディスト結城忠直こそが厭うべき忌まわしき真怪そのものである。

「結城宰相秀康」(天正二(一五七四)年~慶長一二(一六〇七)年)江戸初期の大名。越前北ノ庄(越前福井)藩(現在の福井県嶺北(福井県木ノ芽峠以北の呼称)中心部を領有した)初代藩主。徳川家康次男。母は側室「お万の方」。天正 一二(一五八四)年の「小牧・長久手の戦い」の講和に際し、豊臣秀吉の養子となり、さらに同 十九年には下総の名族結城晴朝(はるとも)の養子となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」に際しては、結城に留まって上杉景勝の西上を防いだ。その後、越前国と信濃・若狭の一部を合せて六十七万石を領し、越前北庄を居城とした。

「一伯忠直」結城秀康の長男で徳川家光や徳川光圀などの従兄に当たる、越前福井藩第二代藩主松平忠直(文禄四(一五九五)年~慶安三(一六五〇)年)。彼には「西巖院殿前越前太守源三位相公相譽蓮友大居士」と「西巖院殿相譽蓮友一伯大居士」(本文最後の割注のそれは「一伯」を省略している。因みに以下のウィキではここを『一泊』とするが、採らない)の二つの戒名(法名)があり、ここに出る「一伯」は後者のそれを採ったもの。ウィキの「松平忠によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『慶長八年(一六〇三年)、江戸参勤のおりに江戸幕府二代将軍・徳川秀忠に初対面。秀忠は大いに気に入り三河守と呼んで自らの脇に置いたという。慶長十二年(一六〇七年)、父・秀康の死に伴って越前七十五万石を相続し、慶長十六年(一六一一年)には秀忠の娘・勝姫を正室に迎える。元服の際には秀忠より偏諱を授かり忠直と名乗る』。『慶長十七年(一六一二年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者より』、『これを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌慶長十八年(一六一三年)六月、家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直が、まだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(越前騒動)』。『慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。元和七年(一六二一年)、病を理由に江戸への参勤を怠り、また』、『翌元和八年(一六二二年)には』正室『勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった』。『元和九年(一六二三年)、将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。五月十二日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。府内藩では領内の五千石を与えられ、初め海沿いの萩原に住まい、三年後に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという』(下線やぶちゃん)。享年五十六歳。

「大むく」「小むく」ともに不詳。

「御酒宴」原典は「御酒妾」。底本の訂正注に従った。

「鶴松」不詳。なお、忠直の次女(母は勝姫)に鶴姫がおり、彼女は長じて九条道房の正室となっている。

「くわし」「菓子」。

「御取(おんとり)」推定訓。

「まふり」「守り」。

「壱尺五寸」四十五・四五センチメートル。

「切刃」刀剣の刃の形の一つで、刃方の肉を表裏とも急な角度で落としたものを狭義には指すが、ここは単に「よく切れる刃」の意であろう。

「兼常」関兼常。鎌倉時代に大和国から移住してきた鍛冶七派の一つ。その時代に栄え、その時代に作られた小刀については中国の書に誉める記事が載るほどであったという。

「脇つぼ」脇の下の窪んだ所。腋窩(えきか)。

「ちどり山」不詳。

「まんさいが沼」不詳。

「半町」五十四メートル半。

「三條の小鍛冶」平安時代の刀工三条宗近(むねちか)。呼称は山城国京の三条に住んでいたことに由来する。ウィキの「三条宗近」によれば、古来、一条天皇の治世の永延(九八七年から九八九年まで)頃の刀工と伝えられ、『日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが』、現存する作刀にはこの頃の『年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われて』おり、『実年代については、資料によって』十~十一世紀とするものや十二世紀などとするなど、『幅がある』。『現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』とある。

「九寸五分」刃の部分の長さが約二十九センチメートルの短刀。「鎧通 し」とも呼ぶ。

「人はだ」「人肌」。人の肌のようであるというより、寧ろ、人の肌のような微かな温もりがあるという意味で私は採る。

「御こと葉の下より」お言葉の通り。

「壱間(けん)」一メートル八十二センチメートル弱。

「小山田多門」越前松平家家臣(後に会津松平家家臣・米沢藩主上杉家家臣)小山田多門家の始祖か。

「新天流」斎藤伝鬼房(天文一九(一五五〇)年~天正一五(一五八七)年)が開いた武術流派天流(てんりゅう)から分派した一流。

「雲あし萬字劍」不詳。

「上段」上段の構え。

「得手物(おんえてもの)」得意。

「あらく」「荒く」。

「とがもなき」「咎も無き」。

「津森の浦」不詳。先のウィキの引用には「津守」とあるが、引用自体に『内陸』とあるように、現行のこの一(グーグル・マップ・データ)は「浦」を有した海浜ではない。

「日根野織部正高吉」信濃諏訪藩(高島藩)の初代藩主日根野高吉(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)であるが、高吉の生没年から見て、完全におかしく、これは先のウィキの引用にある通り、高吉の長男で豊後府内藩主日根野吉明(よしあき 天正一五(一五八七)年~明暦二(一六五六)年)の誤り。

「越前國福井の城主六拾七萬石」誤り。五十二万五千石。

「參議從三位宰相兼(けん)三河守忠」誤り。越前守。

「元和元年」正しくは慶長二十年。同年七月十三日に元和元年に改元で、「大坂夏の陣」の戦闘はその前、五月八日の大坂城落城で終わっている。

「樊噲(はんくわい)」(はんかい ?~紀元前一八九年)は漢初の武将。諡(おくりな)は武侯。従がった劉邦(後の漢の高祖)と同じ沛(はい:江蘇省)の出身で、元は犬の屠畜業を生業(なりわい)としていた。「鴻門之会」に於いて項羽により窮地に立たされた劉邦を救ったことは漢文の授業でよく知られる。漢の天下統一後も軍功を立て、舞陽侯に封ぜられた。

「寛永元年五月二日」誤り。先の引用に見る通り、元和九(一六二三)年である。寛永への改元は翌元和一〇(一六二四)年二月三十日である。

「豐後國萩原」大分県大分市萩原。 (グーグル・マップ・データ)。先に示した後の移転先の津守(本文の「津森」)の東北。現在は埋め立てによって内陸となっているが、元は海浜地区であるから、三坂はその辺りを、混同してしまっているものと思われる。

「牧野傳藏」近世の大名を輩出した三河牧野氏の一系統である今橋牧野家の系統の人物と思われる。この家系は「田蔵系」と称され、田三・田蔵・伝蔵の通称を持つ者が多い。

「御目付」幕府職のそれは若年寄に属し、旗本・御家人の監察などに当たった。また、諸藩にも置かれた。ここは後者であろう。

「配所にまします事弐拾五年」誤り。数えで二十八年、実年数でも二十七年である。

「西岸院殿相譽蓮友大居士」前の「一伯忠直」の注を参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 塒なく


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   塒なく

 

 何處へ逃れよう。何をしよう。淋しい小鳥のやうに、この身には塒もない。

 小鳥は逆羽を立てて、枯枝にとまつてゐる。このまま居るのは堪らない。しかし、何處へ飛ばう。

 いま小鳥は翼をととのへ、兀鷹に追はれる小鳩さながら、遙か矢のやうに翔り去る。何處かに、靑々した隱れ家はないものか。よし假の宿りにせよ、何處かに小さな巣を營むことはできまいか。

 小鳥は翔る。翔りながら、一心に下界を見つめる。

 眼の下は一面の黃色い砂漠。音もなく、そよぎもなく、死のやうに。……

 小鳥は急ぐ。急いで沙漠を越える。一心に、悲しげに下界を見つめて。

 いま、眼下には海がある。沙漠のやうに黃色く、また死のやうに。波は穗を搖つて、潮の音もする。けれど、絶間ない潮騷にも氣倦い波の面にも、やはり生はなく、塒はない。

 小鳥は疲れる。羽搏きは衰へ、その身は降る。虛空たかく舞ひ上らうか。だが、涯しない大空の、何處に巣を作らう。

 終に小鳥は翼を疊んで、一聲悲しく啼いて海へ落ちる。

 波は小鳥を吞み、さり氣ない響とともに、再びうねりを崩す。

 この身に何處へ逃れよう。私も海へ落ちる時か。

             一八七八年一月

 

[やぶちゃん注:「兀鷹」「はげたか」で禿鷹のことであるが、しかし、原文は“ястребом”で、これは所謂、極めて広義の鷹(たか)類(鳥綱新顎上目タカ目タカ科 Accipitridae に属するものの内で大型種(これを「鷲(わし)」と呼ぶ)に対して相対的に小さな種群)を指すもので、狭義の鳥としての「はげたか」(タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae 及び、全くの別種であるタカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae の両方に対する非生物学的俗称)に限定するのは寧ろ、追われる鳩との関係でもおかしいと私は思う。

「氣倦い」「けだるい」と訓じておく。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) つぐみ その二


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   つぐみ その二

 

 また同じ寢床に、同じ眠れぬ私。やがてまた夏の夜明けが、この身をめぐる。同じつぐみは窓に來て歌ひ、同じ傷みに心は疼く。

 小鳥の歌は心を和まさぬ。だが私はもう、わが身のために歎くのではない。他の傷痕が數知れず口を開いて、私の思ひを引裂く。この身にとつて何物にも代へ難い血は、赤紫の流をなして傷口を迸る。意味も無くひたすらに、さながら高樓の檐を傳うて泥土に落ちる雨水のやう。……

 いま、はるか不落の城壁の下、幾千の同胞が息絶えてゆく。無能の隊長の手によつて、幾千の同胞がむざむざと死の腭(あぎと)に投げこまれてゆく。

 彼等は聲もなく死んでゆく。死なせる人達も悔いはせぬ。彼等は己れの命を惜まぬ。無能の隊長らも、部下の犧牲を一顧もしない。

 そこには義もなく不義もない、打つ穀束が空しいものか穰れるものかは、時とともに露はれよう。この傷心は何事ぞ。この苦惱はそも何事ぞ。私は泣くこともできぬ 頭は熱し、心は沈む。罪人のやうに私は、厭はしい枕に額を埋める。

 重く熱した水の滴が、點々と頰を傳はつて唇に鹹い。これはなんだらうか。淚か、また血か。

             一八七八年八月

 

[やぶちゃん注:第五段落末の「厭はしい枕に額を埋める」であるが、底本では「厭はしい析に額を埋める」となっていて読めない。後の中山省三郎譯「散文詩」や一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」を参考に「枕」の誤植と断じ、特異的に訂した。

 訳者註。

   *

遙か不落の城壁の下 『つぐみ』(その二)は八月とのみで日附がないが、明らかに同年八月八、九日の兩日、ツルゲーネフがヤースナヤ・ポリヤーナにトルストイを訪問した際の印象をモチーフとしてゐるものと斷定していい樣である。卽ちあの露土戰爭が終結を告げたばかりであり、殊にプレヴナの攻防戰に於ける土耳古軍の好守、それに伴ふ露軍の甚大な犧牲などの生々しい記憶などは、この兩老大家の話題の中心をなしたらしく、伯爵夫人ソフイヤ・アンドレーヴナの言葉によれば「長い議論」が續けられたのである。そして本編にみなぎる人道主義的な調子には、さながらトルストイその人の聲を思はせる程の激越さがこもっている點、トゥゲーネフの「性格」を研究する上に尠からぬ光を投げるものであらう。なの、トゥルゲーネフが其の席に居合せた子供達に向つて、「死ぬことの怖い人は手を上げなさい」と言い、自ら眞先にお手本を示したに反し、トルストイは順番が𢌞つて來ると、「禮儀のため」餘儀なさそうに(と伯爵夫人の眼には映った――)手を上げたなどという挿話も、併せて考えて見ると興味が深い。

   *

合わせて、後の中山省三郎譯「散文詩」の同じ箇所に附された註も引用する。

   *

・今や幾千の同胞や友だちは、遠いあなたの城塞の堅固な墻壁のもとに亡んでゆく:一八七八年七月下旬、ツルゲーネフはペエテルブルグにおもむき、翌八月にはモスクワを經て故郷スパッスコエに歸り月末にそこを發つてゐる。この散文詩は故郷で書いたものと想像される。このときの歸國は十六年間絶交してゐたトルストイと和解し、彼の家を訪問したことによつて記憶される。時は露土戰爭の終つたばかりで二人は戰爭について長い議論をしたと傳へられる。殊にブルガリヤのプレヴナ等に於て露軍が作戰を誤り、甚大なる損害を蒙つたことなどが話題の中心をなしたものと推察され、それが直ちにこの詩の内容を形づくつたものと考へられる。

   *

両註で語られている「露土戰爭」は、まさにそのブルガリア戦線を舞台にした、私の愛する作品、ガルシンの「四日間」(リンク先は私の電子テクスト)に詳しいので、是非、お読み頂きたい。また「プレヴナ」「ブルガリヤのプレヴナ」は、バルカン半島のプレヴェン(Плевен/ブルガリア語をラテン文字転写するとPleven)で、現在のブルガリアのプレヴェン州の州都である。一八七七年から一八七八年にかけての露土戦争の際には、ここのプレヴェン要塞が最大にして最後の激戦地となった。包囲したロシア軍に対して要塞を死守せんとするオスマン軍のオスマン・パシャの抵抗は凡そ五箇月に及び、ロシア軍は多くの戦死者を出したことで知られる。なお、芥川龍之介はこの時のツルゲーネフとトルストイの邂逅を小説鴫」に描いている(リンク先は「青空文庫」の当該作)。

 

「つぐみ」黒歌鳥(くろうたどり)。の「 一」の私の注を参照のこと。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) つぐみ その一


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   つぐみ その一

 

 私は眠られぬ目を見ひらいたまま、寢床の中にゐた。疼く心が私を眠らせない。雨の日の灰色の丘のうへを、絶え間なく這ふ密雲の帶のやうに、物倦い單調な思ひが、鬱々と胸に翳りつづける。

 噫、望みも無い苦澁な愛を、未だに私は育んでゐる。既に若さを失つた心が、また生の笞(しもと)に壓し伏せられぬのを幸ひ、一しきり虛ろな若やぎを裝ひ佯る――そんな老年の雪と冷氣の下にのみ、人に來るあの愛を。……

 白々と斑(はだら)に、窓はさながら幻のやう。室内の物影は朧ろに浮び上り、霧深い夏の曉の薄ら明りに、一しほ凝然と靜まり返る。時計を見ると三時十五分前。壁の外にも、同じ歸寂が立ちこめてゐる。、そして露。露は海のやうに。

 おびただしい露の中、私の窓のあたりに、つぐみが早くも來て歌を歌ふ、響高い自信に滿ちた聲を張り上げ、しきりに歌ふ。その囀りは部屋の靜寂に滲み入つて充ちる。また私の耳を滿たし、病む思ひと不眠とに、疲れ干割れた頭腦を滿たす。

 その歌は永遠を息づく。永遠が持つありとあらゆる新鮮さを、虛心を、金剛力を息づく。私はその歌を、大自然の聲と聞いた。始なく終ない、あの妙なる無心の聲と。

 つぐみは囀る、自信に滿ちて、時滿ちればやがて、不易の太陽の燦き出ることを知つてゐる。その歌には何の獨自なものもない。千年の昔に、やはり同じ太陽を喜び迎へたのと寸分たがはぬつぐみである。また幾千年の未來に、私の屍灰が目に見えぬ微粒になつて、潑剌と鳴響く鳥身の周りを、同じ歌聲に引裂かれる氣流のまにまに旋り舞ふとき、矢張り同じ太陽を喜び迎へるであらうそのつぐみと、寸分たがはぬつぐみである。

 さて私は、愚かしく愛に渇いた一人の人間として、お前に呼びかける、――「有難う、小鳥よ。この憂愁の時刻に、思ひがけず私の窓に響かせて呉れた、思ふさま力あるお前の歌にお禮を言ふよ。

 「お前の歌は、私を慰めはしない。私はそれを求めもせぬ。しかも私の眼に淚は浮んで、一瞬私の胸に、何ものか死の重さを荷つてまざまざと搖らいだ。夜明け前の歌ひ手よ、言つてお呉れ。あのひとも亦、お前の誇らかな歌聲と同じく、新鮮と若さに滿ちてゐるのではないのか。……

 だが今、この身を繞つて氷のやうな水流は漲り奔(はし)り、今日は知らず、明日の日には身も心も際涯無い大洋に押流されよう時、。徒らに悲傷し、われと吾身を哀惜(いとし)んだとてなんの甲斐があらうぞ。

 淚は溢れた、けれど虛心のつぐみの歌は、曾て聞かぬ幸福と永遠の調べを續ける。……

 終に日が上つたとき、私の燃える頰に光る淚の跡の夥しさ。

 やがて私は、平生の微笑を取戾した。

           一八七七年七月八日

 

[やぶちゃん注:「つぐみ」本邦で鶫(つぐみ)と言えば、スズメ目ツグミ科ツグミ属ツグミ Turdus eunomus を指すが、原題は“Черный дрозд”で、これはロシア語のウィキペデイアで検索すると、スズメ目ツグミ科クロウタドリ(黒歌鳥)Turdus merula(英名:Blackbirdである。クロウタドリは大型のツグミの一種で、生息域は広範で、ヨーロッパ及びアフリカ地中海沿岸から中近東及びインド・中央アジア南部・中国東南部・オーストラリア東南部・ニュージーランド等に生息する(オーストラリアとニュージーランドは人為的移入と推定されている)。ヨーロッパ西部では留鳥として通年見られるが、ロシア・中国にあっては夏鳥である(従ってこれはフランスで書かれたともロシアで書かれたとも読めるが、日付から押してフランスでの作と思われる。根拠は、次の「つぐみ その二」の注で引用する神西氏の註及び後の中山省三郎譯「散文詩」の註を参照されたい)。体長は二十八センチメートル程で、♂は黑色に黄色の嘴で、目の周りも黄色を呈する。♂は♀に比して全体に淡色で、嘴や眼の周囲の黄色部分は♂ほどには目立たない。本種は本邦では迷鳥として稀にしか見られない。クロウタドリの画像と声は以下のnature ringsというドイツ語のページを参照されたい。クロウタドリの写真の下にある“Gesang des Maennchens”をクリックすると鳴き声が聴ける。

「佯る」「いつはる(いつわる)」。偽(いつわ)る。

「燦き」「きらめき」。

「鳥身」「てうしん(ちょうしん)」。鳥の体の周り。生硬な表現で、いただけない。

2017/10/23

佐藤春夫 女誡扇綺譚 本文サイト版公開

佐藤春夫「女誡扇綺譚」の本文サイト版(HTML横書版・ブログ版の注を大幅に除去したもの)を公開した。……娘アリスのために……

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ふた兒


Souseiji

   ふた兒

 

 ふた兒の口爭ひを見た。二人の顏だちと言ひ、表情と言ひ、髮の色、身の丈から體格に至るまで、瓜二つだつたが、それでゐて心の底から憎み合つてゐた。

 忿怒に顰める顏附も同じだつた。火の樣に憤(いき)り立つて突き合せる顏も、不思議なほど似てゐた。ぎらぎらと睨み合ふ眼附も同じ、意地惡く引歪めた唇の形も、それを衝く悪罵の聲も文句も、矢張り少しも違はなかつた。

 終に堪へ兼ねた私は その一人の腕を取つて、鏡の前に立たせて言つた、「さあ、この鏡を相手に惡口を言ひたまへ。君にして見れば、どの途同じことだらうから。けれど、傍の者には、まだしもその方が氣が樂だ。」

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 呪ひ


Jyuso

   呪ひ

 

 バイロンの『マンフレッド』を讀んで、彼のために身をほろぼした女の靈が、不氣味な呪ひをあびせかけるところに來ると、わたしは身ぶるひが出る。

 おぼえておいでかしら――「御身の夜は眠を奪はれ、邪まな御身の心は、わが見えぬ面影を、拂うても拂うても永却(とは)に見よ。また御身の心は、自らを燒く地獄火となれ。……」

 私は思ひ出す。以前ロシヤにゐた頃、ある百姓の父と子の、激しい口論の場に居あせた時のことを。

 息子はたうとうしまひに、ひどい悔辱の言葉を父親に叶きかけた。

 「呪つておやり、ヴアシーリチ。その人非(ひとでなし)を呪つておやり」と婆さんはわめきたてた。

 「よしとも。ペトローヴナ」と爺さんは大きな十字を切り、洞ろな聲で答ヘた、「やがてお前に息子ができて、それが生みの母親の眼の前で、お前の白くなつた鬚に唾を掛ける時があるわい。」

 この呪詛は『マンフレッド』のよりも一そう怖ろしかつた。

 息子は何か言返さうとした。しかし、よろよろとよろめくと、そのまま眞蒼になつて出て行つた。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『呪ひ』 この詩ははじめ『マンフレッド』と題された。

   *

『御身の夜は眠を』云々 恐らくは次の個所によるものであろう。(Manfred  , , Incantation, second strophe)――

 Though thy slumber may be deep,

 Yet thy spirit shall not sleep……

   *

「マンフレッド」(Manfred)はイギリスのロマン主義詩人バイロン(George Gordon Byron  一七八八年~一八二四年)が一八一七年に書いた同名の長大な劇詩の主人公の青年の名。マンフレッドはかつて恋人を死に追いやってしまった罪の記憶を抱えて悩む。神霊と交感する能力を会得している彼は精霊を呼び出し、その記憶の「忘却」を求めるが、精霊は不可能と答える。「会得」は自在であっても「喪失」は思うままにならないことを知った彼は、「喪失」の最上の形態としての「死」に立ち向かうため、アルプスの山中を彷徨い続けた末、遂にその恋人の霊と再会を果たし、許しを乞うと共に自らも息絶えるのであった。なお、後掲する「拾遺」の「無心の聲」をも参照されたい。

「永却」ママ。「永劫」の誤植が強く疑われるが、Q&Aサイトの答えに「永却」という語はあるらしく、「永久を捨てる」即ち「永久を永久と言えなくなるほどの」という意味で、恐らくは「とてつもない時間」という意味の造語ではないか、とあるので、ママとした。]

2017/10/22

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 私は憐れむ


Watasihaaware

   私は憐れむ

 

 私は憐れむ、自らを、他人を、あらゆる人を、鳥を、獸を、生きとし生けるものを。

 私は憐れむ、子供を、老人を、不幸な者を、幸福者を。不幸な者にもまして幸福者を。

 私は憐れむ、戰勝に誇る隊長を、偉大なる畫家を、詩人を、思想家を。

 私は憐れむ、殺人者を、その犧牲を、醜きを、美しきを、壓制者を、虐げられし者を。

 どうしたら、この哀憐を去れよう。そのため、生きる心地もない。……哀憐の上に、倦怠までが襲ひかかる。

 倦怠よ、哀憐に融け入る倦怠よ。地獄の極み。

 せめては羨む心があつたら、いや、それもある。――石を、石を羨む。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]



*   *   *

今日は早朝から義叔父の葬儀である。ここでフライングして、これのみとする。これは昨夜、予約公開したものである。

2017/10/21

佐藤春夫「女誡扇綺譚」校正終了

十回分割公開したブログ版の佐藤春夫「女誡扇綺譚」を校正し、かなりの量のミス・タイプを全回に亙って訂正した。  

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) めぐりあひ

 

 

     散文詩拾遺

 

Kiguu

   めぐりあひ

 

 私はこんな夢を見た。暗い空が低く垂れさがつてゐる。私は、大きた角だつた石ころが一面に散らぱつてゐる、ひろびろとした荒野を辿つてゆく。

 小徑は石のあひだを紆つてゐる。何をしに、何處へとも知らず、私はその道をたどつてゆく。

 ふと私の眼の前の、その細い道のうへに、何かしらうつすらと小さな雲のやうなものがあらはれた。……見つめてゐるうちに、その雲はやがて、身の丈のすらりと高い女になつた。まつ白なきものに淡色の帶を締めてゐる。……その女は急ぎ足で、私から遠ざかつてゆく。薄い紗に蔽はれてゐるのでその顏は見えない。髮の毛さへも見えないけれど。私の心は、ひたすらにその女のあとを追ひ慕つた。私にはその女が、美しい懷しい愛らしい人のやうに思はれた。……

 どうしても追附いて、ひと目なりとその顏をうち眺め、その眸(め)に見入りたいと思つた。ひと目でもその眼が見たかつた。いや、見なければならないと思つた。

 ところか、私が急げば急ぐほど、女の方もますます足を早めるので、どうしても追附けないのである。

 するとそのとき、小徑に筋かひに、平たい大きな石があらはれた。女は行手をふさがれて、石の手前で立止つた。私は喜びと期侍とに身をふるはせ、内心は怖れを感じながら、急ぎ足で馳せ寄つた。

 私が何も言ひ掛けないのに、女は靜かに振返つた。……けれど矢張(やつぱ)り、女の眸(ひとみ)は見られなかつた。

 眼は閉ぢてゐた。

 その顏はすきとほるやうに白かつた。着ている白衣のやうに白かつた。露はな兩腕は、脇に垂れさがつたまま動かない。

 さながら女は石に化したやう。そのからだも顏立ちも、悉く大珊石の像を思はせた。

 女は手も足も曲げないで、ゆつくりと身をうしろに倒れると、その平らな板石のうへに沈むやうに身を橫へた。ふと氣がつくと私も何時の間にか、間じ石の上に、女と並んで橫はつてゐる。幕石の面に刻まれた彫像もさながら仰向きに身を伸ばし、兩手は祈りの形に胸の上に組んで、さて私もやはり石に化してゆくやうな氣がした。

 幾瞬かがながれた。ふと女は起き上つて、再び遠のいて行つた。

 私はそのあとを追はうとした。しかし私は身動きも、組みあはせた兩手を解きほぐすこともできず、なんとも言ひやうのない悲しみを抱いて、空しくその後姿を見送るばかりだつた。

 すると、女はふとこちらを振返つた。そのときはもう、生き生きと表情に富んだ顏も、冴え冴えときらめく瞳もはつきりと見えた。女はじつに私に眼を注いで、音も無い笑ひに口もとを綻ばせた。――「起きあがつて、こちらへお出でなさい。」 女はさう言つた。

 私はやはり身じろぎもできない。

 すると女は再び笑みを浮べて、みるみるうちに遠ざかつて行つた。そのとき不意に色の燃え出でた薔薇の冠を、たのしげに頭のうへに揺りながら。

 私は身動きもならず口も利けずに、墓石のうへに取り殘された。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『めぐりあひ』 この詩ははじめ『女』と題された。なほ手稿には「小説」に用いると傍記されてゐる。これに依つて見ると、トゥルゲーネフは『散文詩』のうち少くも或るものは、小説のための素材として書きとめて置いたものと見られる。

   *

「紆つて」「めぐつて」。]

2017/10/20

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ロシヤ語


Russia

   ロシヤ語

 

 懷疑の朝、母國の運命をさまざまに疑ひ惱む夕、おんみだけはわたしの杖であり柱でつた。おお、大いなるロシヤ語。力づよく、眞實の、不羈のロシヤ語よ。もしおんみがなかつたなら、いま母國に跳梁するものの姿を眺めて、どうして絶望せずにをられようか。しかしこのやうな國語が、偉大ならぬ國民に與へられてゐようなどとは、とても信じるかけには行かない。

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。なお、この「ロシヤ語」を以って「散文詩」(初版「セニリア」本文)パートは終わり、以下、「散文詩拾遺」パートとなる。また、本詩篇には新改訳がある。

「不羈」(ふき)は「不羇」とも書き、「羈」も「羇」も「繋(つな)ぐ」の意で、 物事に束縛されず、行動が自由気ままであることを言う。

「一八八二年六月」この前年、ロシアではアレクサンドルⅢ世が即位、反動政策を行って革命運動への弾圧が激しくなっていた。ツルゲーネフはこの凡そ十五ヶ月後の、翌一八八三年九月三日に脊髄ガンのためにパリで客死した。サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」によれば、『彼の遺骸がロシアに送り出されるとき、パリ北駅では盛大な儀式が催され、ペテルブルグの葬式は国葬として行われた』とある。二月革命によってニコライⅡ世がソヴィエトにより退位しロシア帝国が終焉を迎えたのは、彼の死から三十三年後の一九一七年のことであった。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 祈り


Inori

   祈り

 

 人間の祈りは、所詮奇蹟を祈る心だ。どんな祈りも、一句に歸する。「神よ、二二が四なること勿らしめ給へ。」

 この樣な祈りだけこそ、人間が人間にする本當の祈りなのだ。萬有の精神に祈り、至上者に祈り、カントの、ヘーゲルの、純粹にして形なき神に祈ることは、できもせず考へられもしない。

 だが現身の、生ける、形ある神にせよ、果して二二が四なること勿らしめ得るだらうか。

 いやしくも信者ならば、できると答へる外はなからう。しかも、自らさう信じるの外はなからう。

 だが若し彼の理性が、こんな譫言に叛旗を飜したとしら?

 そこで、シェークスピヤが助けに來る、――「この世には色んなことがあるものだ、なあホレーショ」云々。

 もしもまた、眞理の名に於いて抗議が出たら、例の有名な質問を繰反すがよい、――「眞理とはなんぞや。」

 されば飮み且つ歌ひ、さて祈らうではないか。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

「この世には」云々 これは『ハムレット』 の中にある有名な文句。 There are more things in heaven and earth, Horatio……Hamlet, ,  Act I, Sc. V, 166

   *

中山版の本挿絵は左が擦れてしまっているので、今回、新たに一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版の綺麗なものを読み込んで示した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) なほも鬪ふ


Warehanaho

   なほも鬪ふ

 

 時としてなんといふくだらぬ瑣末事が、人間一匹をがらりと變へてしまふことだらう。

 ある日わたしは、疑惑に胸を一ぱいにして、大きな道を步いてゐた。

 重くるしい豫感に胸は緊めつけられて、心は愈々沈むばかりだつた。

  わたしは頭をあげた。脊の高いポプラ並木のあひだを、道はどこまでも眞直ぐに走つてゐる。

 その道を越して十步ほど向ふに、雀の一家族が縱列をつくつて、金色にかがやく夏の日を浴びながら、ぴよんぴよん跳ねてゐる。元氣よく、樂しげに、自信に滿ちて。

 なかでも一羽だけ、人を人とも思はぬ不敵な聲で囀りながら、しきりに嗉囊(ゑぶくろ)をふくらませ、すんずん列を離れてゆく。その樣子は、あつぱれち英雄兒だ。

 一方、空高く、一羽の大鷹が舞つてゐる。宿命の手に導かれて、彼が引つさらはうと狙つてゐるのは、この英唯兒なのかも知れない。

 なれを目たとき、明るい笑がこみ上げて來た。私は身を搖すつて笑つた。忽ち、暗い思念はかけり去つて、勇猛心や、生の意欲が、ひしひしと胸にわきあがつた。

 わたしの頭上にも、わたしの大鷹が來て舞はば舞へ。

 われら、なほも鬪ふ。なんのその。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「嗉囊」の「嗉」は印刷が不全で(へん)の部分にほぼ「日」の字が、(つくり)は殆んどが消えてしまって判読不能であるものの、「素」の左上部の感じが私には、した。「日」偏の「餌」に相当する字は見出せない。されば、取り敢えずこの字を当てておいた。言わずもがなであるが、「嗉囊(そのう)」は 鳥類・軟体動物・昆虫類・貧毛類の消化管の一部で、食道に続く薄壁の膨らんだ部分を指し、食べ物を一時的に蓄えておく器官を指すから、意味としては腑に落ちるからである。別字が想定出来る方は、御教授戴けると助かる。因みに、中山省三郎譯「散文詩」では、ここは単に『胸』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版では『餌ぶくろ』である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 僧


Kousou

   

 

 わたしは一人の僧を知ってゐた。行ひ澄ました隱棲の人で、祈禱をただ一つの慰めに日を送ってゐた。あまり祈禱に凝りすぎて、禮拜堂の冷い床に立ち暮らしたため、膝から下は棒材のやうに固く腫れあがつてゐた。この痺れた足で佇みながら、やはり祈禱を上げてゐた。

 彼の気持は、私にはよく分つた。のみならず、羨んでさへゐたかも知れない。だが彼の方でも、私の氣持を理解するのがよいのだ。彼のやうな法悦境には所詮緣のない私だけれど、非難などはせぬがよいのだ。

 彼は首尾よく、自己を滅ぼすことができた。つまりかの仇敵『自我』を滅却し得た。しかし、私が祈禱を上げないのも、利己のためでは毛頭ない。

 私の自我に於ける、彼の自我の彼に於けるよりも、恐らく一層厭はしく執念深いものであらう。

 彼は忘我の方法を發見した。だが私だつて、曲りなりにその方法は持つてゐる。彼のやうに不斷のものとは行かないけれど。

 彼は噓を吐かぬ。私だつて噓は吐かぬ。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

2017/10/19

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) とどまれ


Todomare

   とどまれ

 

 とどまれ。いま私の見る姿のままで、いつまでも私の記憶にとどまれ。

 いま御身の唇から、靈感に燃える終節(フイナーレ)のひと聲が羽ばたいて去つた。御身の眼は、もはやきらきらと輝かない。幸福に壓し伏せられた者のやうに、その光は失せる。一つの美をみごとに表出(あらは)し了せたといふ自覺の喜びに壓し伏せられて、その光は消える。羽ばたき去る美のあとを追つて御身は、勝ち誇ろ力も失せた兩手を、空しくさし伸べるかのやうだ。

 はつ秋の午後の日ざしよりも淸らに濃やかな光が、御身の手足に沿うて、薄絹のどんな細かな襞々にも流れたことぞ。

 どんな神の居て、情の籠るその息吹きに、御身の振りみだした捲毛の髮を、やさしく後(うしろ)へ靡かせたのだ。

 その神の接吻(くちづけ)の痕は大理石(なめいし)のやうに蒼ざめた御身の額に、まだ燃えてゐる。それこそは、發かれた神秘の痕だ。詩の、生の、戀の神秘の。……ああ終に、それこそは不滅のものの姿だ。これを措いては、不滅はない。またある要もない。いま、この瞬間、御身は不滅だ。

 この瞬間は過ぎる。そして御身は再び一握の友に、女性に、子供になる。……だが、それが御身にとつてなんだらう。今この瞬間、御身は現身(うつそみ)を超える。流轉のものの外に立つ。この御身の瞬間は、決して盡きるときがあるまい。

 とどまれ。そして私をも、御身の不滅にあやからしめよ、私の魂に、御身の『永遠』の餘映を落さしめよ。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。訳者註。

   *

『とどまれ』 これはトゥルゲーネフ反省のよき友、助言者、また純粹な意味での戀人であつたヴイアルドオ夫人(Pauline Viardot, 1821―1910)に捧げられた頌歌と解される。

   *

 本篇は新改訳れ!」)がある。なお、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛞蝓(なめくじ)


Namekuji

なめくち    蜒蚰螺。附蝸

        鼻涕蟲。陵蠡

        托胎蟲。土蝸

蛞蝓

        【和名奈女久如

クワウ イユイ  俗云奈女久知里】

 

本綱蛞蝓生太山池澤及陰地沙石垣下宗奭曰蛞蝓蝸

牛二物也蝸牛之老者而以爲一物甚謬也蛞蝓二角身

肉止一段蝸牛四角背上別有肉以負殼行其二物共主

治功用相似而皆制蜈蚣蠍故生擣塗蜈蚣傷立時痛止

△按本草集解蛞蝓蝸牛之辨異論多唯以宗奭之註爲

 的此物無殼有蜒蚰螺之名故大惑矣【蚰蜒卽蚨虶名倒之爲蜒蚰乎名義未詳】

 蛞蝓 色灰黃白洗浄則純白頭有小肉角眼纖背有

 細黑點而無足兩脇有肉裙相連行有涎大抵二三

 寸肌滑而濃蝸牛之肌滑而麁二物相似而各別也蛞

 蝓初生圓而一靣數十欑生如鮫粒然一一離形稍長

 蝸牛初生大一二分許螺也

 又有蛞蝓夏月緣于屋上變螻蛄者人往往見之然悉

 不然矣深山中有大蛞蝓長近尺者

造贋象牙法 以鹿角屑與蛞蝓煑熟擴於板上乾之薄

 爲板片任意切成爲噐飾

生蛞蝓法 用鼠尾草浸醴注于陰地不月生小蛞蝓亦

 奇術也蓋未知其始試之者

 

 

なめくぢ    蜒蚰螺〔(えんいうら)〕

        附蝸〔(ふくわ)〕

        鼻涕蟲

        陵蠡〔(りやうれい)〕

        托胎蟲〔(たくはいちゆう)〕

        土蝸〔(どくわ)〕

蛞蝓

        【和名、「奈女久如」。

         俗に「奈女久知里〔(なめくじり)〕」と云ふ。】

クワウ イユイ

 

「本綱」、蛞蝓、太山・池澤及び陰地の沙・石垣の下に生ず。宗奭〔(さうせき)〕が曰く、『蛞蝓と蝸牛とは、二物なり。蝸牛の老する者を以つて一物と爲るは、甚だ謬〔(あやま)〕りなり。蛞蝓は二の角〔(つの)〕にして身の肉、止(たゞ)一段なり。蝸牛は四の角にして、背の上に、別に肉有りて、以つて殼(から)を負ひて行く。』〔と〕。其の二物、共〔に〕主治功用、相ひ似て、皆、蜈蚣〔(むかで)〕・蠍(さそり)を制す。故に、生〔(なま)〕にて擣〔(つ)〕きて、蜈蚣の傷に塗る。立-時(たちどころ)に、痛み、止む。

△按ずるに、「本草」の「集解」、蛞蝓・蝸牛(かたつぶり)の辨、異論、多し。唯だ、以つて宗奭の註、的と爲す。此の物、殼〔(から)〕無くして、「蜒蚰螺」の名、有り。故に大いに惑ふ【「蚰蜒」は卽ち、蚨虶〔(げじ)〕の名。之れを倒〔(たふ)して〕、「蜒蚰」と爲せしか。名義、未だ詳らかならず。】。

蛞蝓は、色、灰黃白、洗浄すれば、則ち、純白なり。頭に小さき肉の角、有り、眼、纖(ほそ)く、背に細かなる黑點有りて、足、無く、兩脇に肉の裙(すそ)有りて相ひ連なり、(は)ひ行(あり)き、涎〔(よだれ)〕有り。大抵、二、三寸。肌、滑かにして濃〔(こまやか)〕なり。蝸牛の肌、滑かにして麁(あら)し。二物、相ひ似て、各々、別なり。蛞蝓、初生、圓〔(まどか)〕にして、一靣〔(いちめん)〕、數十、欑〔(むらが)りて〕生〔ず〕。鮫粒のごとく然〔(しか)〕り。一一(いちいち)、離〔れ〕、形、稍〔(やや)〕長〔(ちやう)〕ず。蝸牛の初生は、大いさ、一、二分〔(ぶん)〕許りの螺(バイ)なり。

又、蛞蝓に、夏月、屋上に緣(はひのぼ)り、螻蛄(けら)に變ずる者、有り。人、往往〔にして〕之れを見る。然れども、悉く〔は〕然からざるなり。深山の中に大なる蛞蝓、長さ尺に近き者、有り。

贋(にせ)象牙を造る法 鹿角の屑(すりくづ)を以つて蛞蝓と煑熟〔(にじゆく)〕し、板の上に擴げ、之れを乾かし、薄く板片と爲し、任意に切り成し、噐〔(うつは)〕の飾りと爲す。

蛞蝓を生ずる法 鼠-尾(みそはぎ)草を用ひて、醴〔(あまざけ)〕に浸し、陰地に注(そゝ)ぐ。月あらずして小蛞蝓を生ず。亦、奇術なり。蓋し、其れ、始めて之れを試みる者、未だ知らず。

 

[やぶちゃん注:軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda 有肺目 Pulmonata に属するもの内(但し、現行の知見では系統学的には異鰓類の一群と考えられており、異鰓上目 Heterobranchia の中の一目に格下げする分類体系も提唱されている)、殻が退化している種群の総称。科としては、

収眼類の、

アシヒダナメクジ科 Vroniceliidae(本科の上位タクソンは収眼目 Systellommatophora ともする)

ホソアシヒダナメクジ科 Rathouisiidae(同じく収眼目とも)

柄眼類の、

サカムリナメクジ科 Testacellidae(本科の上位タクソンは柄眼目 Stylommatophora Oleacinoidea上科 Oleacinoidea ともする)

ニワコウラナメクジ科 Milacidae

オオコウラナメクジ科 Arionidae

ナメクジ科Philomycidae

などに分かれる。また、一般的に見かけることが多く、和名としてそれを持つ種はナメクジ科ナメクジ属ナメクジ Meghimatium bilineatumである。本種は薄紫色を呈し、体側に一対の黒い縦筋有し、背面中央にはやや不明瞭な黒い縦筋を一本持つ。湿気のある場所でしか棲息できないことから、日中は木の洞や樹皮の裏などに潜んでおり、主に雨上がりの夜などに活動をする。本文でも薬効が語られているが、実際、現在も漢方ではコウラナメクジ科 Limax 属のコウラナメクジ類(原産は主にヨーロッパとされる。本コウラナメクジ科は背面に薄い皿状の殻片を残存させている。本邦には棲息していなかったが、二〇〇六年に侵入が確認されている)が止咳・解毒・消腫・通経絡作用があるとされ、喘息・咽頭炎・腫れ物・顔面神経麻痺・痙攣などで使用される。一般には火で炙って乾燥させて粉末にしたものを服用するが、本邦の民間療法では喘息や咳嗽、声を良くするなどと称して生のナメクジをそのまま食べるという方法もあった。これは頗る危険で、カタツムリの項で注した通り、寄生虫の日和見感染により、脳疾患などを引き起こす可能性が深く疑われているから、絶対にやってはならない。脅しだと思ってる輩がいると困るので、一つ挙げておくと、重症例では、脱皮動物上門線形動物門双線綱円虫目擬円形線虫上科 Metastrongyloidea に属するジュウケツセンチュウ(住血線虫)属カントンジュウケツセンチュウ(広東住血線虫)Angiostrongylussyn. Parastrongyluscantonensis に感染することによって生ずる広東住血線虫症で重症例では死亡例もある(「国立感染症研究所」公式サイトの「広東住血線虫症とは」を参照されたい)。「耳囊 卷之六 魚の眼といえる腫物を取(とる)(まじない)の事」の私の注も参照されたい。はっきり言って、これらの寄生虫の中には手で触れても侵入してくるリスクがゼロとは言えない種もいるのが事実である。だから、今では悲しいことだが、カタツムリを保育園や幼稚園では触らせないのである。

 

「奈女久如」東洋文庫版では「如」をママとし、横に『知』と訂正注する。確かに「和名類聚抄」「本草和名」でも「知」であるし、「如」と「知」は書き誤り易いから、これは良安の誤記とすべきではある。

「太山」東洋文庫版訳では『大山』となっているが、「本草綱目」そのものに「太山」とある。意味は奥深い「大」きな山の一般名詞でよくはある。

「陰地」東洋文庫版訳では『陰湿地』となっている彼らの属性上、陰地の湿気の高い場所でなくては棲息出来ないから正しい訳と言える。

「宗奭〔(さうせき)〕」寇宗奭(こうそうせき)。宋代の本草(薬物)学者。「本草衍義」を撰した。

「本草」「本草綱目」。良安が同書の記載の錯雑(実際、他の項でも錯雑しているのに)をかなりきつい口調で批判するのは珍しいことである。

『「蜒蚰螺」の名、有り。故に大いに惑ふ』良安先生に激しく同感。

「蚨虶〔(げじげじ)〕」音は「フウ」。先行する節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha のゲジ(通称「ゲジゲジ」)類のこと。

「倒〔(たふ)して〕」上下の文字を逆転させて。こういう安易な方法で別種を示していたとすれば、中国本草学のそうした部分のいい加減さは致命的に危い。

「麁(あら)し」「粗し」。

「蛞蝓、初生、圓〔(まどか)〕にして、一靣〔(いちめん)〕、數十、欑〔(むらが)りて〕生〔ず〕。鮫粒のごとく然〔(しか)〕り」「鮫粒」は「鮫の肌の粒」の意であろう。ここは、良安先生、素晴らしい! これはナメクジの発生を実地に観察したのでなければ、書けない代物であり、その描写は頗る正確である。

「螺(バイ)なり」ここは殻を持っているというのではなく、螺(にな:巻貝)の軟体部と相同であることを示していると読んでおく。

「蛞蝓に、夏月、屋上に緣(はひのぼ)り、螻蛄(けら)に變ずる者、有り」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ類であるが、ここは一応、良安の記載であるから、本邦産のそれ、グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis である。折角、前の注で褒めましたのに! 良安先生、それは酷いです!

「人、往往〔にして〕之れを見る」見ません!

「悉く〔は〕然からざるなり」「総ての蛞蝓が螻蛄になるわけではない」って、ナメクジはケラにはなりませんて!!

「贋(にせ)象牙を造る法」面白い記載であるが、こうした事実を確認出来ない。識者の御教授を乞う。

「鼠-尾(みそはぎ)草」フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps

「醴〔(あまざけ)〕」甘酒。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その3)/女誡扇綺譚~了

 

 幾日目かで社へ出てみると、同僚の一人が警察から採つて來た種(たね)のなかに、穀商黃(くわう)氏の下婢(かひ)十七になる女が主人の世話した内地人に嫁(か)することを嫌つて、罌粟(けし)の實(み)を多量に食つて死んだといふのがあつた。彼女は幼くして孤兒になり、この隣人に拾はれて養育されてゐたのだといふ。この記事を書く男は、臺灣人が内地人に嫁することを嫌つたといふところに焦點を置いて、それが不都合であるかの如き口吻(こうふん)の記事を作つてゐた。――あの廢屋の逢曳(あひびき)の女、――不思議な因緣によつて、私がその聲だけは二度も聞きながら、姿は終(つひ)に一瞥することも出來なかつたあの少女は、事實に於ては、自分の幻想の人物と大變違つたもののやうに私は今は感ずる。

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その2)



 まづ第一にその穀屋といふのは思つたより大問屋であつた。又、主人といふのは寧ろ私の訪問を觀迎した位(くらゐ)だ。この男は
臺灣人の相當な商人によくある奴で内地人とつきあふことが好きらしく、ことに今日(けふ)は娘がそんな靈感を持つてゐる噂が高まつて、新聞記者の來るのがうれしいと言ふのであつた。さうして店からずつと奥の方へ通してくれた。

「汝來仔請坐(ニイライアチンツオ)」

 と叫んだのは娘ではなく、そこに、籠の中ではなくて裸の留木(とまりぎ)にゐた鸚鵡(あうむ)である。

 娘は、しかし、我我の訪れを見てびつくりしたらしく、私の名刺を受取つた手がふるへ、顏は蒼白になつた。それをつつみ匿(かく)すのは空しい努力であつた。彼女は年は十八ぐらゐで、美しくない事はない。私はまづ彼女の態度を默つて見てゐた。

「あ、よくいらつしやいました」

 思ひがけなくも娘は日本語で、それも流麗な口調であつた。椅子にかけながら私は言つた――

「お孃さん。あなたは泉州語(ツヱンチヤオご)をごぞんじですか?」

「いいえ!」

 娘は不意に奇妙なことを問はれたのを疑ふやうに、私を見上げたが、その好もしい瞳のなかに噓はなかつた。私はポケツトから扇をとり出した。それを半ばひろげて卓子(テーブル)の上に置きながら私はまた言つた――

「この扇を御存じでせう」

「まあ」娘は手にとつてみて「美しい扇ですこと」物珍らしさうに扇の面(おもて)を見つめてゐた。

「あなたはその扇を御存じない筈はないのです」私は試みに少しおこつたやうに言つてみた。

「ケ、ケ、ケツ、ケ、ケ」

 鸚鵡が私の言葉に反抗して一度に冠(かんむり)を立てた。

 みんなが默つてゐるなかに、不意に激しく啜泣(すすりな)く聲がして、それは鸚鵡の背景をなす帳(とばり)の陰から聞えて來たのだ。淚をすすり上げる聲とともに言葉が聞えてきた――

「みんなおつしやつて下さいまし、お孃さま。もう構ひませんわ。その代りにその扇は私にいただかしてください」

「………………」

 誰(たれ)も何(なん)と答へていいかわからなかつた。世外民と私とは目を見合(みあは)した。

 姿の見えない女はむせび泣きながら更に言つた。「誰方(どなた)だか存じませんが、お孃さまは少しも知らない事なのです。わたしの苦しみ見兼ねて下さつただけなのです。ただあなたが拾つておいでになつたその扇――蓮の花の扇を私に下さい。その代りには何でもみんな申します」

「いいえ。それには及びません」私はその聲に向つて答へた。「私はもう何も聞きたくない。扇もお返ししますよ」

「私のでもありませんが」推測しがたい女は口ごもりながら「ただ私の思ひ出ではあります」

「さよなら」私たちは立ちあがつた。私は卓上(たくじやう)の扇を一度とり上げてから、置き直した。「この扇はあの奧にゐる人にあげて下さい。どういふ人かは知らないが、あなたからよく慰めておあげなさい。私は新聞などへは書きも何もしやしないのです」

「有難うございます。有難うございます」黃(くわうぢやう)の目には淚があふれ出た。

 *     *     *     *

    *     *     *

 

 

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その1)

 

         ヱピロオグ

 あの廢屋はさういふわけで私の感興を多少惹いた。何ごとにもさう興味を見出さなかつたその頃の私としては、ほんの當座だけにしろそんな氣持になつたのは珍しいのだが、それらすべての話をとほして、私は主として三個の人物を幻想した。市井の英雄兒ともいふべき沈(シン)の祖先、狂念によつて永遠に明日(みやうにち)を見出してゐる女、野性によつて習俗を超えた少女、――とでもいふ、ともかく、そんな人物が跳梁するのが私には愉快であつた。そいつを活動のシネリオにでもしてみる氣があつて、私は「死の花嫁」だとか「紅(くれなゐ)の蛾」などといふ題などを考へてみたりしたほどであつた。しかしさう思つてみるだけで、やらないと言ふかやれないと言ふか、ともかく實行力のないのが私なので、その私が前述の三人物の空想をしたのだからをかしい。意味がそこにあるかも知れない。さうして私自身はといふと、いかなる方法でも世の中を征服するどころか、世の力によつて刻刻に壓しつぶされ、見放されつつあつた。尤も私は何の力もないくせに精一杯の我儘をふるまつて、それで或程度だけのことなら押し通してもゐたのだ。それでは何によつて私がやつとそれだけでも强かつたか。自暴自棄。この哀れむべき强さが、他(た)のものと違ふところは、第一自分自身がそれによつて決して愉快ではないといふことにある。私は事實、刻刻を甚だ不愉快に送つてゐた。それといふのも私は當然、早く忘れてしまふべき或る女の面影を、私の眼底にいつまでも持つてゐすぎたからである。

 私は先づ第一に酒を飮むことをやめなければならない。何故かといふのに私は自分に快適だから酒を飮むのではない。自分に快適でないことをしてゐるのはよくない。無論、新聞社などは酒よりもさきにやめたい程だ。で、すると結局は或は生きることが快適でなくなるかも知れない惧れがある。だが、若しさうならば生きることそのものをも、やめるのが寧ろ正しいかも知れない。……

 柄になく、と思ふかも知れないが、私は時折にそんなことをひどく考へ込む事があつた。その日もちやうどさうであつた。折から世外民が訪れた。

「君」世外民はいきなり非常な興奮を以て叫んだ。「君、知つてゐる?――禿頭港(クツタウカン)の首くくりはね……」

「え?」私はごく輕くではあるが死に就て考へてゐた折からだつたから少しへんな氣がした。

「首くくり? 何の首くくりだ?」

「知らないのか? 新聞にも出てゐるのに」

「私は新聞は讀まない。それに今日で四日(か)社(しや)を休んでゐる」

「禿頭港で首くくりがあつたのだよ。――あの我我がいつか見た家さ。――誰(たれ)も行かない家さ。あそこで若い男が縊死してゐたのだ。新聞には尤も十行ばかりしか出ない。僕は今、用があつて行つたさきでその噂を聞いて來たのだからよく知つてゐるが、あの黑檀の寢牀(ねどこ)を足場にしてやつたらしいのだ。美しい若い男ださうだよ、それがね、口元に微笑をふくんでゐたといふので、やつぱり例の聲でおびき寄せられたのだ、『花嫁もたうとう婿をとつた』と言つてゐるよ――皆(みんな)は。それがさ、やつぱりもう腐敗して少しくさいぐらゐになつてゐたのださうだ。僕は聞いてゐてゾクツとした。我我が聞いたあの聲やそれに紅(あか)い蛾なぞを思ひ出してね」

 私もふつと死の惡臭が鼻をかすめるやうな氣がした――あの黴くさい廣間の空氣を鼻に追想したのだらう。世外民はその家の怪異を又新らしく言ひ出して、私がそこで拾つた扇を氣味惡がり私にそれを捨ててしまふやうに說くのであつた。――この間はあんなに興味を持つて、自分でも欲しいやうなことを言つた癖に。尤も私がやらうと言つた時にはやはり、今と同じく不氣味がつて、結局いらないとは言つたが。私としてはまた世外民にやらうと思つた程だから、捨ててしまつても惜しいとも思はないが、私はその理由を認めなかつた。また、いざ捨てよと言はれると、勿體ないほど珍奇な細工にも思へた。私は世外民の迷信を笑つた。

「大通りの眞中(まんなか)で縊死人(いしにん)があつてそれが腐るまで氣がつかない、といふのなら不思議はあるだらうが、人の行かないところで自殺したり逢曳(あひびき)したりするのは、一向當り前ぢやないか。――ただあんな淋しいところが市街のなかにあるのは、何かとよくないね」

 私はその家の内部の記憶をはつきり目前に浮べてさう言つた。

 同時に私にはこの縊死の發見に就て一つの疑問が起つた。といふのは、あの部屋のなかで起つた事は誰(たれ)もそこに這入つて行かない以上は、一切發見される筈がない。あそこには開(ひら)いた窓が一つあるにはあつたが、そこには靑い天より外には何も見えない――つまり天以外からは覗けない。もし臭氣が四邊(あたり)にもれるにしては、あの家の周圍があまりに廣すぎる。さう考へてゐるうちに、私は大して興味のなかつたこの話が又面白くなつて來るのを感じながら言つた。

「出鱈目さね。いや、死人(しにん)はあつたらう。若い美しい男だなんて。もう美しいか醜いか年とつたか若いかも見分けがつくものか」

「いや、でも皆(みんな)さう言つてゐる」

「それぢや誰(だれ)がその死人を發見したのだ? あそこならどこからも見えず、誰も偶然行つてみるわけはないがな」ふと、私は場所が同じだといふことから考へて、この縊死人――年若く美しいと傳へられる者と、いつか私が空想し獨斷したあの逢曳とがどうも關係ありさうに思へて來た。そこで私は世外民に言つた。「いつでもいいが今度序(ついで)に、その死人を發見したのはどんな人だか聞いてきてもらひたいものだ。それがもし泉州(ツヱンチヤオ)生れの若い女だつたらもう何もかもわかるのだよ。――いつか我我が聞いたあの廢屋の聲の主(ぬし)も。それから今度の縊死人の原因も。――本當に若い男だつたといふのなら、それや失戀の結果だらう。――幽靈の聲にまどはされて死ぬより失戀で死ぬ方がよくある事實だものね。尤も二つとも自分から生んだ幻影だといふ點は同じだが」

 私は大して興味はなかつた。しかし世外民が大へん面白がつた。罪を人に着せるのではない。これは本當だ。事實、世外民は先づ興味をもちすぎた。さうしてそれが私に傳染したのだ。世外民は私の觀察に同感すると早速、その場を立つて發見者を調べるために出かけた程なのだ。近所行つて聞けばわかるだらうといふので。

 間もなく、世外民は歸つて來たが、その答(こたへ)を聞いて私は、臺灣人といふものの無邪氣なのに、今更ながら驚いたのである。彼等の噂するところによると、それは黃(くわう)といふ姓の穀物問屋の娘が――家は禿頭港(クツタウカン)から少し遠いところにあるさうだが――彼女が偶然に夢で見たといふその男がどうやら死んだ若者だし、それが這入つて行つた大きな不思議な家といふのが、どうも禿頭港のあの廢屋らしい。その暗示によつて、なくなつた男の行方を搜してゐた人人はやつと發見することが出來たといふのである。靈感を持つた女だといふ風に人人が傳へてゐると言ふ。

 私は無智な人人が他(た)を信ずることの篤いのに一驚すると同時に、そんな事を言つてうまうまと人をたぶらかすやうな少女ならば、いづれは圖圖(づうづう)しい奴だらうと思ふと、何もかもあばいてやれといふ氣になつた。私はまだ年が若かつたから人情を知らずに、思へば、若い女が智慧に餘つて吐(つ)いた馬鹿馬鹿しい噓を、同情をもつて見てやれなかつたのだ。

「世外民君。來て一役(ひとやく)持つてくれ給へ」

 私は例の扇をポケツトに入れ、それから新聞記者の肩書のある名刺がまだ殘つてゐるかどうかを確めた上で外へ出た。無論、その穀物問屋へ行かうと思ひ立つたからである。さうして娘に逢へば扇を突きつけて詰問しさへすれば判るが、ただその親が新聞記者などに娘を會はせるかどうかはむづかしい。會はせるにしてもその對話を監視するかもしれない。世外民がうまくその間で計らつてくれる手筈ではあるが、それにしてもその娘が泉州(ツヱンチヤオ)の言葉しか知らなかつたらそれつきりだがなどと思つてゐるうちに、私はもうさつき勢ひ込んだことなどはどうでもなくなつた。自分に何の役にも立たない事に興味を持つた自分を、私は自分でをかしくなつた。

「つまらない。もうよさう」

 世外民はしかし折角來たのだからといふ。それに穀物問屋はすぐ二三軒さきの家だつた。それから後(のち)の出來事はすべて私の考へどほりと言ひたい所だが、事實は私の空想より少しは思ひがけない。

 

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) そのひと


Nn

   そのひと

 

 あなたのみぶりは優しい。そなたの足おとはかるい。淚も知らねば、笑(え)みせず、そなたは生(いのち)のみちを行く。何を見ようがそしらぬ顏で。つんと澄ました憎らしさ。

 そなたの心はさとい。氣だてもなかなか親切だ。さりながら、男なんぞはどこ吹く風と、お高くとまつて見向きもしない。

 見れば見るほど、なんとそなたの美しさ。……きれう自慢か、じまんでないか、心の裏は誰にも見せぬ。生れついての薄情もので、他所(よそ)樣の情けなどにはすがりは申さぬ。

 行きずりに、投げるひとみは影深けれど、想ひのふかい眼ではない、よく澄んだ底を覗けば空つぽだ。

 かくて行く、シャンゼリゼェの大通り。グルックの不粹な樂のしらべにつれて、よろこびもなく悔いもなく、やさしい影が過ぎてゆく。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:これには新改訳があり、前半が大きく改訳されている。そちらの私の注も参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 航海


Koukai

   航海


 ハンブルクから小さな汽船に乘つてロンドンへ向ふ途中、船客は私を入れて二人きりであつた。私と、それに小さな猿と、これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商人がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた。

 甲板のベンチに細い鎖で繋いである猿は、くるくると?りながら、小鳥のやうな聲で哀しげに啼いた。

 私が通りすがるたぴに、猿は眞黑な小さな手を伸ばして、人間そつくりの陰氣な眼で私を見あげた。その冷たい手を握つてやると、すぐ啼きやんで、もう?るのもやめた。

 海上は全くの無風で、あたり一面にひそともせぬ鉛色の卓布を擴げてゐた。海面は非常に狹く見えた。と言ふのは、マストの先も見えぬほどのひどい濃霧で、そのもやもやする水氣のため、視力が鈍つてゐたからである。太陽はこの霧の面に、ぼんやりと赤い斑(ふ)になつてゐたが、沈む前には深秘なほど眞紅に燃え立つた。

 重い絹布に見るやうな長い眞直な襞が、次々に船首から走り出ては、やがて皺ばみ、段々大きく広擴がり、終に起伏を失つて空しく搖れながら消えて行つた。物倦い外輪の足搔(あがき)の下に卷く渦は、乳白の微かな泡を立てて、蜿々と蛇のやうな波のうねりに突當つては崩れ、やがてまた合さると、矢張り濃霧の中に吞まれて行つた。

 絶間なく、猿の啼聲に劣らぬ物悲しさで、船尾の小さな鐘が鳴つてゐた。

 時々海豹が浮び上るかと思ふと、いきなり飜筋斗(もんどり)打つて姿を沒したが、滑らかな水面はそのため別に亂れもしなかつた。

 船長は日に燒けた暗い顏の、沈默がちな男で、短いパイプをくゆらしては、凍てついたやうな海面に、腹立たしげに唾を吐いた。

 何を聞いても切れ切れなむつつり聲で返事をした。で私は、唯一人の道連であるあの猿を相手にする外に仕方がなかつた。

 濃霧はじつと動かない。うとうとと睡氣を催しさうになるその水氣に、二人ともしつとり濡れて、知らず知らず同じ事を思ひふけりながら、まるで親身の者どうしのやうに、いつまでも一緒にゐた。

 今でこそ私は微笑んでゐる。だがあの時は、それどころではなかつた。

 私たちはみんな、一つ母親の子供だ。あの小さな動物が私に賴つて大人しくなり、まるで肉身の者のやうに縋つて呉れたのが、私には有りがたかつたのだ。

            一八七九年十一月

[やぶちゃん注:「ハンブルク」現在のドイツ連邦共和国の特別市であるハンブルク(ドイツ語:Hamburg:正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク」(Freie und Hansestadt Hamburg, フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク。位置は後のトラフェミンデの地図リンクで確認されたい)。ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約百十キロメートル遡った港湾都市。十三世紀後半以後、ハンザ同盟の主要都市として活躍、諸国との貿易によって繁栄、今日でも自由港区(自国の関税法を適用せずに外国貨物の自由な出入を認める港区)を持ち、ドイツにおける世界への門としてヨーロッパ大陸最大の海運業の中心であり続けている。本詩篇が作られた当時は、ウィーン体制下(一八一四年から一八一五年に行われたウィーン会議以後)であったが、一八七一年のプロイセン王ヴィルヘルムⅠ世のドイツ帝国成立の際にも、ハンブルクは孰れの州にも属さず、独立を維持している。但し、この詩篇内の時制はツルゲーネフが大学を卒業し、ベルリン大学で勉強するために船で出発した一八三八年の体験に基づくものかも知れない。その当時のドイツはまだ、オーストリアを盟主とするドイツ連邦下にあった。なお、もし、この詩篇が、この時の体験に基づくものとすると、実は彼の内心(当時も、そしては創作時も)のっぴきならない強いトラウマの影響下にあったか、現にあることが推定されるのである。それは、サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」に明らかで、このハンブルクに至る直前(と思われる)、『彼が乗った汽船がトラフェミンデ』((グーグル・マップ・データ))『で炎上した事件はさまざまに語り継がれているが、彼の振る舞いが卑劣だったという点では共通している。彼はフランス語で』「『助けてください。私はやもめの母の一人息子なのです!』」『と叫んだともいわれ、この出来事以来、生涯に渡って彼の心に深い疼きを残した』とあるからである。私は本詩篇の激しい孤独感と、猿との共感、末尾の「私たちはみんな、一つ母親の子供だ」という感懐に、その事件後の彼の心象風景を強く感ずるのである。

「私と、それに小さな猿と、これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商人がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた」ここは「私と、それに小さな猿と――これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商人がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた。――」辺りの表記にして貰いたいところである。「ウィスチチ種」の原文は“уистити”で、これは霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目マーモセット(キヌザル)科マーモセット(キヌザル)亜科マーモセット(キヌザル)属 Callithrix の仲間、特に英名 Common Marmoset、コモンマーモセット Callithrix(Callithrix) jacchus と思われる。体長約十六から二十一センチメートルで尾長は三十センチメートル強の長さを持つ、ブラジル北東部原産の新世界ザルで、耳の周辺に白い飾りのような毛を持つことと、首を傾げる仕草が特徴とされる。ヨーロッパでは古くからペットとして飼われており、現在も猿の仲間のペットとしては一番人気だそうである。また、本種は現在、マウスよりも人間に近い実験動物として利用されており、新世界ザルとしては初めて全ゲノム配列が決定されてもいる。ツルゲーネフがここで強い共感をこの子に抱いたのも、或いは、そうした生物学的「人間性」を感じたから、かも知れぬ、などと私は夢想する。]

2017/10/18

老媼茶話巻之四 高木大力

老媼茶話卷之四

 

 

     高木大力(だいりき)

 

 高木右馬助、美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼祕藏の士、世に聞へたる大力(だいりき)なり。

 壱年、本國を浪人して京・伏見に徘徊せし。此折、「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」と詠じて、伊勢路を越(こゆ)る山道にて、夕陽、西にうすづく頃、七尺斗(ばかり)の大男、柿の頭巾を引(ひつ)かぶり、四尺斗(ばかり)の大刀を差(さし)、兩人、道の眞中(まんなか)に立(たち)はだかり、大の眼(まなこ)を見出し、

「いかに旅人。命、惜しくば、衣類・大小・平包、殘らず渡し、丸裸にて通るべし。さらずば、一足もやらぬ也。」

と云(いふ)。

 右馬介、聞(きき)て打笑(うちわら)ひ、

「己等は三輪の謠(うたひ)を知らざるや。『秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ』と云(いへ)り。我も衣裳一にて、秋風、身に染(しみ)て、はだ寒し。先(まづ)おのれらが衣裳を、こなたへ渡せ。」

といふ。盜人共、はらを立、

「扨々、存知の外(ほか)、きも、ふとき男哉(かな)。おのれ、いにしへの大竹丸(おほたけまる)におとらざる鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎をしらざるか。いで、もの見せん。」

と兩人の盜人、右馬介が左右より、進みよる。

 壱人の男、右馬介が右の腕を取(とる)所を、振(ふり)はなち、件(くだん)の男が元首(もとくび)をしめ付(つけ)、中(ちう)に提(さげ)、はるかなる谷底へ人礫(ひとつぶて)に抛捨(なげすて)る。

 殘りし男、是を見て、太刀引拔(ひきぬき)、天窓下(てつぺんおろ)しに切付(きりつけ)たるを、引(ひき)はづし、刀持(もち)たる手を、つかともに握りひしぎ、前へ引居(ひしす)へ、

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし。己、さこそ命のおしかるべし。我を誰(たれ)とかおもふ。愛宕山太郎坊天狗とは我(わが)事也。然に、此道におのれが樣なるあぶれもの有(あり)て旅客をなやますと聞(きき)、いましむべき爲(ため)、あらはれたり。命斗(ばかり)はたすくるなり。已來、能々(よくよく)愼め。」

とて刀をもぎ取(とり)、刃(やいば)の方を首のかたへ押(おし)まげ、二重三重に卷付(まきつけ)、道の傍(かたはら)なる松の木へ、したゝかにくゝり付(つく)。

 其後は、上方へ登り、五、六年も過(すぎ)て、右馬介、入湯(にふたう)するに、骨ふとく、長(たけ)たかき坊主の、俄道心(にはかだうしん)とみへたるが、首へ布切を卷(まき)ながら、湯へ入あり。

 右馬介、見て、

「御出家、首のまわりを布にて包み給ふは、いたみ有(あり)ての事か。布をといて、入(いり)玉へ。」

といふ。

 坊主は目をふさぎ、唯、餘言(よげん)なく念佛斗(ばかり)申居(まうしゐ)たりけるが、是を聞(きき)て申(まうす)樣(やう)、

「さんげに罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

 某(それがし)は元近江路にて、鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎とて、隱れなき盜人の内にて、天狗次郎とは我(わが)事也。某、十三の年より、辻切(つぢぎり)をいたし、四、五年以前迄、凡(およそ)人の弐、三百も切殺(きりころ)し候べし。

 關山通(どほり)に立出(たちいで)、往來の旅人を待(まつ)所に、壱人の旅の男、來(きた)る。

『尋常の者ぞ。』

と、やすやすと心得、引(ひつ)とらへひつぱがんと致し候得ば、彼(かの)もの、十刀太郎が首元をとらまへ、蟲けらをひしく樣にひしぎ殺し候へて、其後、我をとらへ、殺しもやらず生(いか)しもやらず、如此(かくごとく)刀の刃を首の方へおし𢌞し卷付置(まきつけおき)て、則(すなはち)、壱丈斗(ばかり)の大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候。此刀、何とぞ首よりはづし申度(まうしたく)、樣々致し候得ども、人力(じんりき)に及不申(およびまうさず)。是非なく、ケ樣(かやう)に首を卷、差置候に隨ひ、霜、刃にふれ、皮、切(きれ)、肉、たゞれ、痛(いたみ)、難忍(しのびがたし)。此(この)湯に入(いり)、痛をたて候得ば、白瘡(はくさう)をさゝげ、ふた、作り、膿水(のうすい)、とまり、暫(しばらく)の内、心よく罷成(まかりなり)候。今は昔の猛惡を後悔し、一心に彌陀成佛を願(ねがひ)候。」

とて首の布をはづすをみれば、我(われ)からみたる刀なり。

 右馬介、

『扨は伊勢路の盜賊よ。』

と心に思ひ、人なき所へ坊主をよひよせ、

「其時の旅人は、我也。此(これ)以來、必(かならず)、惡心をひるがへし、佛道に歸依して、生涯を終るべし。」

と、能々(よくよく)、後來(こうらい)、禁(いまし)め、刀のまきめに、ゆびを入(いれ)、一はじき、はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

 坊主、手を合(あは)せ、淚を流し、

「我、深き御慈悲にて大苦痛をまぬかれ、現世未來成佛身(げんせみらいじやうぶつしん)を得候。此以來、いかならん御奉公成(なり)とも可仕(つかまつるべく)候。御家來になし、召仕(めしつか)はれ給はるべし。命、限り御みや仕へ申すべし。」

とて、夫(それ)より、主從の契約(ちぎり)をなし、隨身(ずゐじん)、給仕なしたりとなん。

 此右烏介、尾州より美作の國へ越(こゆ)る時、乘物、弐挺(ちやう)の棒をくゝり合(あはせ)、老母と妻と男子弐人とをのせて、棒の先へ具足櫃(ぐそくびつ)・葛籠(つづら)のたぐひ、結ひ付(つけ)、夫(それ)を右馬介壱人にて、かるがると荷行(にゆき)たり。

 又、ある時、ためしものを切に、目釘穴、くぼく、目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに、目釘竹を取(とり)て、目釘穴にあてて指を以(もつて)是(これ)ををすに、目釘竹のめぐり、削(けずるる)がごとくにかけて、目釘穴のうら迄、通りたり。鐵槌(かなづち)にて打共(うつとも)、可入(いるるべき)物に、あらず。

 力の分限、知りがたし。

 森家の侍には、すべて、大力、多し。不破伴左衞門は、其身、鐵體(てつたい)にてや有(あり)けん、名越三左衞門、備前兼光を以(もつて)切に、澁皮(しぶかは)も、むけず。

 森家の者共、指料(さしれう)の刀、壹腰(ひとこし)も切るゝ事なく、鎗にて、やうやう、突殺(つきころ)しけるといへり。

 不破が力は高木に一倍ましたり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「高木右馬助」(明暦二(一六五六)年~延享三(一七四六)年)は江戸前期から中期にかけて実在した知られた武術家。名は重貞。もと、美作津山藩士で、十六歳で高木折右衛門より高木流体術の極意を受け、後に竹内流を学んで、「高木流体術腰回り」を創始した。自らの号をとって「格外流」とも称した。その後、浪人して美濃に住み、九十一歳の天寿を全うした(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼」(慶長一五(一六一〇)年~元禄一一(一六九八)年)は大名。寛永一一(一六三四)年に美作津山藩(現在の岡山県津山市)第二代藩主。延宝二(一六七四)年に隠居した。後、死の前年の元禄十年に津山藩改易されるが、備中西江原藩二万石を与えられて、そこで森家を再興している。本来、彼は森忠政の重臣関成次の長男であったが、忠政の実子が全て早世したため、忠政の外孫に当たる長継が忠政の養子に選ばれた。

「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」これは「新古今和歌集」の「巻第十七 雑歌」に載る西行法師の一首(一六一三番歌)、

 

    伊勢にまかりける時よめる

 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらん

 

を指す。

「七尺」二メートル一二センチメートル。

「柿の頭巾」柿渋で染めた頭巾。防水効果がある。

「四尺」一メートル二十一センチメートル。これはとんでもない長刀である。

「兩人」ここまで叙述はやや不親切。盗人は二人組である。

「平包」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。

「三輪の謠(うたひ)」謡曲名。玄賓僧都(げんぴんそうず)(ワキ)が毎日庵を訪れる一人の女(前シテ)に衣を与えたが、三輪の神杉にその衣がかかっているというので行ってみると、三輪明神(後シテ)が現れ、三輪の神話を語り、天の岩戸の神楽を舞うというストーリー。

「秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ」謡曲「三輪」の前半の前シテとワキの問答の一節(太字部分)。前後を含めて引く。

   *

上ゲ歌

地〽 秋寒き窓の内 秋寒き窓の内 軒の松風うちしぐれ 木の葉かき敷く庭の面(おも) 門(かど)は葎(むぐら)や閉ぢつらん 下樋(したひの)の水音も 苔に聞えて靜かなる 此の山住(やまず)みぞ淋しき

問答

シテ

「いかに上人に申すべきことの候。秋も夜寒(よさむ)になり候へば、おん衣(ころも)を一重(へ)たまはり候へ。

ワキ「易き間(あいだ)のこと。この衣を參らせ候ふべし。

シテ「あらありがたや候。さらば御暇申し候はん。」

ワキ「暫く。さてさておん身はいづくに住む人ぞ。」

シテ「わらはが住み家(か)は三輪の里。山もと近き處なり。その上、『我が庵(いほ)は三輪の山もと戀しくは』とは詠みたれども、何しに我をば訪(と)ひ給ふべき。なほも不審に思し召さば、訪(とふら)へ來ませ。」

   *

シテの台詞の「我が庵は三輪の山もと戀しくは」は「古今和歌集」の「雑下」に載る「よみ人知らず」の一首(九八二番歌)「わが庵は三輪の山もと戀しくはとぶらひ來ませ杉立てる門」で、古注では「三輪の明神の歌」とされるので、伏線と言える。

「大竹丸」大嶽丸。ウィキの「大嶽丸」より引く。『伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる鬼。峠を雲で覆って暴風雨や雷、火の粉など神通力を操った』。『鈴鹿峠周辺には大嶽丸を討伐した坂上田村麻呂を祀る田村神社(甲賀市)や、大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺(東近江市)などが今も点在している』。『御伽草子『田村草子』では、俊仁将軍の子である「ふせり殿」と称した田村丸俊宗が退治した伊勢鈴鹿山の鬼神が大嶽丸である』。なお、『『田村草子』では田村丸俊宗という名前であるが、『鈴鹿草子』『鈴鹿物語』『田村三代記』ではそれぞれ名前が異なるため、以下』、『田村麻呂で統一する』。『桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民や都への貢物が届かなくなり、帝は坂上田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じ、田村麻呂は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へ向かった。大嶽丸は悪知恵を働かせて峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨を起こして雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村麻呂の軍を数年に渡って足止めした』。『一方で鈴鹿山には天下った鈴鹿御前という天女が住んでいた。大嶽丸は鈴鹿御前の美貌に一夜の契りを交わしたいと心を悩ませ、美しい童子や公家などに変化して夜な夜な鈴鹿御前の館へと赴くものの、思いは叶わなかった。大嶽丸の居場所を掴めずにいた田村麻呂が神仏に祈願したところ、その夜に微睡んでいると』、『老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられた。田村麻呂は三万騎の軍を都へ帰し、一人で鈴鹿山を進むと見目麗しい女性が現れ、誘われるままに館へ入り閨で契りを交わす。女性が「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と鈴鹿御前であった女性の助力を得た』。『鈴鹿御前の案内で大嶽丸の棲む鬼が城へ辿り着いたものの、鈴鹿御前から「大嶽丸は三明の剣に守護されて倒せない」と告げられる。鈴鹿御前の館へ戻り、夜になると童子に変化した大嶽丸がやってきた。鈴鹿御前が大嶽丸に「田村麻呂という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」と返歌すると、大嶽丸から大通連と小通連を手に入れた。次の夜も館へ来た大嶽丸と、待ち構えていた田村麻呂が激戦を繰り広げる。正体を現した大嶽丸は身丈十丈の鬼神となり』、『日月の様に光る眼で田村麻呂を睨み、天地を響かせ、氷の如き剣や鉾を投げつけたが、田村麻呂が信仰する千手観音と毘沙門天が払い落とした。大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村麻呂が神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分かれて数千もの鬼の顔を射る。大嶽丸は抵抗するも、最後は田村麻呂が投げた騒速』(そはや:坂上田村麻呂が奥州征伐に遠征する際、兵庫県加東市の清水寺に祈願し、無事帰京したことで奉納したと伝えられる大刀)『現に首を落とされた。大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧され、田村麻呂は武功で賜った伊賀国で鈴鹿御前と夫婦として暮らした』。『ところが大嶽丸は魂魄となって天竺へと戻り、顕明連の力で再び鬼神となって陸奥国霧山に立て籠って日本を乱し始めたため、田村麻呂と鈴鹿御前は討伐のために陸奥へと向かった。大嶽丸は霧山に難攻不落の鬼が城を築いていたが、田村麻呂はかつて鈴鹿山で鬼が城を見ていたため』、『搦め手から鬼が城へと入ることができた。そこに大嶽丸が蝦夷が島の八面大王の元より戻ってきて激戦となり、再び田村麻呂によって首を落とされた。大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村麻呂の兜に食らいつくが、兜を重ねて被っていたため』、『難を脱し、大嶽丸の首はそのまま死んだ。大嶽丸の首は宇治の平等院に納められたという』。『江戸時代の東北では、御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』などを底本として、東北各地に残る田村麻呂伝説と融合した奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』で語られた』。『渡辺本『田村三代記・全』では大嶽丸は鈴鹿山に棲んでおらず、登場時から奥州霧山嶽を居城としている』。『鈴木本『田村三代記』では天竺の八大龍王の配下、青野本『田村三代記』では天竺の金毘羅大王の配下とされる』。『「達谷窟が岩屋に御堂を建立して毘沙門天を納めた」など、『吾妻鑑』をはじめ東北での田村麻呂伝説に準えた内容がふんだんに取り入れられ、地域に即した改変がなされているのも『田村三代記』の特徴である』。『大嶽丸は悪路王と同一視されることもある。伊能嘉矩は、各地の伝承に見える大嶽丸・大竹丸・大武丸・大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたと結論している』。『小松和彦は今日では鈴鹿山の大嶽丸の名はあまり知られていないが、かつての京の都では大嶽丸は大江山の酒呑童子と並び称されるほどの妖怪・鬼神であったとしている』とある。本篇は、今までの諸篇と異なり、奥州色がないが、或いは、この再生した大嶽丸の奥州での再起や、平安時代初期の蝦夷の首長悪路王伝承との絡みによって、或いは三坂の意識の中で奥州と通底していたものかも知れない

「十刀太郎」読み不祥。「じっとう」か「とがたな」か。

「引(ひき)はづし」真後ろへ素早く退いて、かわし。

「握りひしぎ」「握り拉ぎ」。握り潰し。

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし」ネット検索を掛けると、「源平盛衰記」の一本(私の所持するものには見当たらなかった)の「巻第十五 宇治合戦」(治承四(一一八〇)年五月の以仁王と源頼政の「橋合戦」のシーン)の中にこの文字列を見出せた「一切衆生法界圓滿輪皆是身命爲第一寶(いつさいしゅじゅあほうかいゑんまんりんかいぜしんみやうだいいつほう)とて生ある者は、皆、命を惜しむ習ひなれ共」である。これが出典か?

「愛宕山太郎坊天狗」無論、相手を決定的に脅すための詐称。相手が「天狗次郎」(この時には相手がそっちだは認識していない)ならば、当然、言上げで勝てる名であるからである。

「入湯(にふたう)するに」温泉名が書かれていない。有馬か。

「布をといて、入(いり)玉へ」高木は布を巻いた首の部分まで(というよりも、後で判る通り、その首のためにこそ入っているのであるが)湯にどっぷりと浸かっているのを見て、不潔を咎めたのである。

「さんげ」「懺悔」。本邦では近世まで清音が普通。に罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

「關山通(どほり)」宿(ここ(グーグル・マップ・データ))から北西に鈴鹿峠を越える道筋。関山は関宿の後背の山並みを指す。

「壱丈」約三メートル。

「大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候」話を作ったというより、その恐るべき怪力(刀の先を首の周りに曲げて輪にして枷のようにかけた事実に驚愕し、その詐称を鵜呑みにして、幻覚を見たとすべきところであろう。或いは、作話する意識が幾分かあり、そこにこの男の弱さを見て取った高木は最後の仕上げを以下でした、と言うのが正しいのかも知れない。

「痛をたて」「たて」は「斷て」か。一時的に痛みを止めることが出来るというのであろう。「白瘡(はくさう)をさゝげ」傷口の爛れた部分が白い瘡になって剝がれてぶら下がり。

「ふた、作り」その後に瘡蓋が出来て。

「膿水(のうすい)、とまり」膿の浸出もおさまり。

「からみたる」「絡みたる」素手で捻じ曲げて頸に絡ませた。

「まきめ」「捲き目」。曲げて捲きつけた箇所。

「はじき」「彈(はじ)き」。はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

「ためしものを切ルに」名刀工の名物や新たに打った刀の試し切りをする際に。

「目釘」刀身が柄から抜けるのを防ぐため、刀の茎(なかご)の穴と柄の表面の穴とに刺し通す釘。竹・銅などを用いる。目貫(めぬき)とも呼ぶ。

「くぼく」窪んでいるだけで、中央に穴が開いているだけであったか、或いは後の叙述から見るに、針ほどの貫通穴さえ開いていなかったのかも知れぬ。

「目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに」目釘竹の方は、穴(或いはただの窪み)よりも一回り大きいものであったのであるが。

「不破伴左衞門」不詳。「不破が力は高木の」その「倍」はあったというのだか、どうも私はこの最後の部分がよく判らぬ。「森家の侍にはすべて大力」が多かったとして、彼の名を出すのだから、不破は森家の家臣としか読めないだろう。

彼は「森家の者共」がその「指料(さしれう)の刀」を如何に振っても、一つの傷も不破に与えることが出来ず(さすればこそ恐らくは最初に出る「名越三左衞門」(不詳)も森家家臣であろうとしか読めぬのだ)、結局「鎗」(やり)で、やっと突き殺した、というのは、訳が分からん。不破なる大力の家臣が乱心したのかしらん? 識者の御教授を乞うものである。

「備前兼光」既出既注。]

老媼茶話巻之三 如丹亡靈 / 老媼茶話巻之三~了

 

     如丹(じよたん)亡靈

 

 奧州會津大口(おほくち)村といふ所に大仙寺といふ山寺有(あり)。此寺に如丹(じよたん)といふ美僧、住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])せり。此僧、元、しら川の武士、男色のことにて人を打(うち)、十六の年、出家し、當年貳拾三に成(なる)と、いへり。

 其頃、曹洞宗の學僧多き中に、文志・愚學・如丹、此三僧也。文志は金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村龍谷寺に住し、愚學は五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)の住呂(ヂウりよ)。如丹は此寺に住せり。

 此村に庄右衞門といふ百姓の娘に「まき」といふ美女あり。如丹、究(きはめ)て美僧なりしかば、まき、深く思ひ込(こみ)、人目を包(つつ)み、月日を送れり。

 大仙寺の庭に、梅・桃、多(おほく)植(うえ)て、數をつらね、花開落の後(のち)、實を結ぶ。

 夏の初(はじめ)より、まき、來り、寺の軒端に彳(たたずみ)て、もの思(おもふ)氣色(けしき)有(ある)に似たり。

 ある時、又、女、來り、礫(つぶて)を以て桃を落(おとす)。

 如丹、戸をひらき、女をしかりて、

「いとけなき童は桃を落すも是非なし、汝、いくつの年にて、いたづらをするぞ。桃も未(いまだ)、熟すまじ。重(かさね)て來たらんは、くせ事たるべし。」

といふ。女、笑(わらひ)て、

「桃に色々有(あり)、山桃・さ桃・姫桃。」

と云(いひ)て、目に情をよせ、戲(たまむれ)て、梅子(ばいし)をなげて如丹に打(うつ)。

 

 如丹、女のけしきをみて、心有(こころある)事を知り、戸をとぢて、取(とり)あわず。

 或(ある)五月雨(さみだれ)の夕(ゆふべ)、小夜更(さよふけ)て、如丹が寢屋の戸をたゝく。

「誰(たそ)。」

といへば、音なく答へねば、また、たゝく。

 如丹、止事(やむごと)なく、戸をひらけば、女、急ぎ、内いる。

 如丹、驚(おどろき)て、

「汝、何(なん)とて、夜、來(きた)る。」

女の曰(いはく)、

「日頃、御僧の我を匂引し玉ふ、其心有(そのこころある)を知(しり)て、今宵、爰(ここ)に來れり。」[やぶちゃん注:「匂引」は注で考証する。]

 如丹、女を押出(おしいだ)し、

「佛邪婬(ぶつじやいん)の、いましむ。汝、我(わが)爲の外道(げだう)なり。早々家に歸れ。」

女、聞(きき)て、

「我、爰に來る事、覺悟なきにあらず。僧、かたく情(なさけ)をいどまば、爰に死(しし)て、二度(ふたたび)、家に歸らじ。さのみ、こと葉(ば)をついやすべからず。もし、壱度(ひとたび)同床に枕をならべば、此(これ)已後、二度(ふたたび)情(なさけ)をしとふまじ。」

 如丹、是非なく、其夜は、かの心に隨ふ。

 女、悦(よろこび)て日頃の心ざしをとげ、曉、家に歸りぬ。

 是より、如丹、行義、大きに亂れて破戒の僧と成(なる)。

 此事、度重(たびかさなり)て、如丹が噂、村に沙汰有り。

 或時、秋の頃、時雨ふりける夕べ、村の若きものども、

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」

とて、打連(うちつれ)、行(ゆき)けるに、寺のはゐり口に、雨にぬれたる女足駄(をんなあしだ)有(あり)けるを、かたがたは、如丹が寢屋へ打込(うちこみ)、かたがたは手にさげ、持歸(もちかへ)り、女の親に見せけるに、まさか、父庄右衞門、是を見て、大きにいかり、娘を呼(よび)て強(つよく)いましめ、

「己(おのれ)、奸僧(かんそう)の爲にたぶらかされて、生涯をあやまる、と、きけり。以來、かたく愼(つつしみ)て、女の行義を亂すべからず。もし、又、心あらたむる事ならずは、此弐品を以て心の儘に死を定むべし。」

と云(いひ)て、細繩(ほそなは)壱筋・剃刀(かみそり)一刃(いちぢん)をあたへ、一室に押入(おしいれ)、外より堅く戸をとぢ、湯水を絶(たた)す事、一日、庄右衞門妻、是を見て、悲み泣(なき)て、

「我娘、終日食(シヨク)せず、きかつ、忍びかたかるべし。邪見の親、何(なん)とて斯(かく)情(なさけ)なき。是、皆、人の空言(そらごと)なり。何ぞ、さのみつらくあたるべきや。」

といふて、食事を調へ、扉を開き見るに、娘は、みづから、首を〆(しめ)て倒れ居(をり)たり。

 母、大きに驚き、聲を上(あげ)て、近所の者を呼立(よびたつ)る。

 皆人(みなひと)、集り來りて是を見るに、死(しし)て程經(ほどへ)たりとみへて、身體、ひえかへり、又、生(いく)べき能(よき)手立(てだて)なし。

 女、既に死して後、彌(いよいよ)此事止むべからずして、如丹が不義、上(かみ)へ聞(きこ)へ、此(この)故に、如丹、犯戒(ぼんかい)の掟(おきて)のがれずして、邪婬の罪、悉(ことごと)く禁札に書顯(かきあらは)し、如丹をいましめて、傳馬(てんま)にしばり付(つけ)、辻々町々、引晒(ひきさら)し、藥師川原にて、はつつけに懸(かけ)らるゝ。

 如丹、最後にいはく、

「我、壱度(ひとたび)釋門に入(いり)て三衣(さんえ)を着し、一寺の住呂と成(なり)、今、破戒の刑に行はるゝ。是、過去宿惡の報ひなり。大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也。」

と、いへり。

 誠に最期の忘念や、此寺に、とゞまりけん、此(これ)以後、大仙寺の住持、若(もし)、如丹が噂かたり出せば、必(かならず)、妖怪有(あり)、といへり。

 事を好む者有(あり)て、かの寺へ尋行(たづねゆき)、住寺に逢(あひ)て此よしを聞(きく)に、住寺、答(こたへ)て、

「此事、誠に在(あり)候。今宵、此寺に留(とどま)りて其怪敷(あやしき)を見給へ。」

といふ。

 既に日も暮過(くれすぎ)て、夜、三更に及(および)て佛壇の方に、若き男女の聲にて、かなしみ歎く音(こゑ)、有(あり)て、いつくしき僧の、年頃、廿四五斗(ばかり)成が、十六、七の、女の首を、いだき、此者の枕本(まくらもと)に來り、立居たり。

 程有(ほどあり)て、庭の方より、靑き玉の光、渡り、草村(くさむら)を、こけありき、首もなき女のむくろ、手に細引(ほそびき)をさげ、いづくともなく、走り來り。

 件(くだん)の男、此妖怪を見て、曉を待得(まちえ)ず、早々、我宿へにげ歸(かへり)ぬと、いへり。

 材木町秀長寺の卓門(たくもん)和尚、正德三年の秋九月の末、大仙寺無住の折、僧衆弐、三人、大仙寺尋行(たづねゆき)て、一夜(ひとよ)、とまりし。

 暮より、雨ふりいだし、いとゞだに住僧もなき古寺の淋しさに、各各(おのおの)いろりへ立寄(たちより)、柴(しば)折(おり)くべて、茶を煮て、如丹が噂物語せし折、佛壇のかたより、弐拾弐三のうつくしき僧、ぬり笠をかぶり、手にぬり鉢をさゝげ、杖をつき、暫く座中をあるき𢌞りて、消(きえ)ては、又、顯(あらは)れ、あらはれては消(きゆ)。終夜、迷ひあるきしを、卓門和尚、見たる、との物語なり。

 

老媼茶話三終

[やぶちゃん注:「奧州會津大口(おほくち)村」不詳。識者の御教授を乞う。底本に『おおくち』とルビする以上、編者は判っているものと思われるのだが。

「しら川」白河藩。陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した。

「大仙寺」不詳。識者の御教授を乞う。現存すれば、大口村の位置も判るのだが。

「如丹」不詳。並称された秀でた曹洞宗の学僧とする「文志」「愚學」も不詳。

「金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村」「金山谷」は現在の福島県大沼郡金山町であるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、「板おろし村」は不詳。金山町内に現在、「玉梨新板」という地名ならば、確認出来る。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「龍谷寺」不詳。現存しない模様。

「五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)」現在の福島県喜多方市のこの中央付近一帯の広域地名と推定される(グーグル・マップ・データ)。根拠はこちら(陸奥国耶麻郡之十一の五目組地理図。但し、上が東なので注意)。現在の複数の地名・河川名がこの旧地図とよく一致する。

「住呂(ヂウりよ)」「住侶」。但し、歴史的仮名遣「ぢゆうりよ」が正しい。

「人目を包(つつ)み」人目を避けて、というより、ここはまだ、如丹へのモーション以前であるから、彼に恋い焦がれていることをおくびにも出さず、人に察せられぬように気を遣って、の意。

「くせ事」道義にもちるゆゆしき事。

「桃」バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica

「山桃」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra

「さ桃」「早桃」で早生の桃の古名、或いは現行ではバラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina の一品種の名ともなっているが、前者でよい。

「姫桃」矢張り、現行では早生の桃の名としてあるようである。「まき」は自分が山家の田舎娘で未だ男を知らぬこと、しかし、今、熟れかけている確かな女性(にょしょう)であることをこの三種の表現で示そうとしている。

「情」「じやう」或いは「おもひ」。

「匂引し玉ふ」「匂」はママ。牽強付会すれば、美僧の男性フェロモンが娘に影響して彼女の方から惹かれて彼のところにやってきたの意として、「にほひびき」とでもやってみたくはなるところだが、どうもそんな熟語も読みも知らぬ。これは思うに、「勾引」の誤字(或いは底本編者に失礼乍ら、誤判読)ではあるまいか? さすれば、その美貌のあたなが、あなたの意志とは無関係に、私の心を常日頃から無理矢理にあなたのtころへ連れ去らせる、「勾引(かどわか)し給ふ」と読めるからである。

「其心有(そのこころある)を知(しり)て」如丹もまんざらではない、私に惹かれていることを知って。無論、「まき」の思い切った誘惑(モーション)に過ぎないが、結局、効果を発揮することにはなる。

「いどまば」抗って拒否するというのであれば。

「しとふ」「慕ふ」。

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」底本では「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、」の部分を字の文とし、直接話法は『寺へ行遊ぶへし』のみ。従がえない。

「はゐり口」「入り口(ぐち)」。

「かたがたは」ある者たちは。

「手にさげ」女足駄を。

「きかつ」「飢渇」。

「邪見」ここは、厳しさを越えて惨たらしい点に於いて仏教的に正しくない考えの意。

「是、皆、人の空言(そらごと)なり」純真無垢の処女の少女であってほしいと思う母親の誤った悲しい好意的理解。

「傳馬」本来は逓送用の馬。江戸時代は主要幹線路の宿駅ごとに一定数を常備させて公用にあてた。公の仕置き(処罰)であるから、伝馬を使うのは腑に落ちる。

「藥師川原」既出既注

「三衣(さんえ)」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に袈裟で、正規の僧(彼は一寺の住持となっている)として認められたことを指す。

「大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也」なかなか難しい。「大仙寺が続く限りは、我が悪名を常に謗るべき恥ずべきものとして、憎み、その穢(けが)れ故に、決して口に出すことなかれ! 我れのような破戒僧のあったことをおくびにも出すな! 何故なら、我れの堕地獄の恨みの一念は、この寺にずっと留まり続けるからである!」というの意味で採っておく。そうしないと、後の怪異を上手く説明出来ないからである。

「草村(くさむら)」「草叢」。

「こけありき」「轉(こ)け步き」。

「むくろ」「骸(むくろ)」。

「材木町」現在の福島県会津若松市材木町(ざいもくまち)内。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「材木町(会津若松市)によれば、『材木町は』慶長一五(一六一〇)年、『それまで集中して米代の西、城郭内にあった木材売買関連の商家が移って成立したとされる』。『河原町の西から南方向に続く町で、会津藩により治められていた江戸時代においては若松城下のうち城郭外西部に位置する』五『間の通りであった。また、当時の材木町周辺は、湯川などの洪水によりたびたび被害を被っており、家屋が流されることがあったほか、町割が改めて行われることもあったとされる』とある。

「秀長寺」曹洞宗龍雲山秀長寺。現存。(グーグル・マップ・データ)。

「卓門和尚」不詳。

「正德三年」一七一三年。第七代将軍徳川家継の治世。]

2017/10/17

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 「爽やかに美はしかりし花さうび……」


Ikabakari

   「爽やかに美はしかりし花さうび……」

 

 今では何に出てゐたかも覺えてゐない、遠い遠い昔のことだ。私はひとつの詩を讀んだ。

 それも間もなく忘れてしまひ、一行目だけが記憶にのこつた、――

 

   爽(さわ)やかに美はしかりし花薔薇……

 

 いまは冬、雪は窓硝子に張りき、暗い部屋には蠟燭が一本燃えてゐる。その片隅に、かじかんで坐つてゐる私の心に、鳴りまたひびく、――

 

   爽やかに美はしかりし花さうび……

 

 郊外にあるロシヤ風の別莊の、低い窓に對してゐる自分の姿が浮びあがる。靜かな夏の夕べは、うつろひながら夜に溶けいらうとし、晝の暑さのまだのこる空氣には、木犀草(レゼダ)と菩提樹の花が匂ふ。窓邊には少女がひとり坐つて、さし伸べた兩の腕に身をもたせ、頸(うなじ)を肩さきに埋めてゐる。おし默つてじつと空に見いる姿は、夕星のきらめき出るのを待つてゐるやう。物思はしげなその眸は、なんと素直(すなほ)な感動に滿ちてゐるのだらう。半ば開いて物問ひたげな唇は、なんといふ無邪氣さで心に觸れて來るのだらう。まだ花のひらききらず、心の亂れも知らぬ胸の、なんと安らかな息づき。幼な顏のまだ失せきらぬ面立(をもだち)なんといふ優しさ、また淸らかさ。私は話しかけようともせずに、愛(いと)しさに鳴る自分の胸の鼓動を聽いてゐる、――

 

   さわやかに美はしかりし花さうび……

 

 部屋のなかは、いよいよ暗くなつてくる。燃え盡きかかる蠟燭は淋しくはじけ、ひくい天井に影は搖れ走り、壁の外には霜の罅破(ひわ)れる音がする。そして、退屈な老人のつぶやきが聞える……

 

   さわやかに美はしかりし花さうび……

 

 また別の面影が眼の前に立ちあがる。……田舍暮らしの樂しい團欒、そのさざめき。ブロンド色の頭が二つ互ひにくつつき合ひながら、住んだ眸をはにかみもせず私に送る。眞紅な頰は笑ひを堪(こら)へて波だち、腕と腕とは仲よく組んで、立てる無邪氣な聲音もひとつに絡みあふ。その向ふ、居心地のいい室の奧には、やはり若さにあふれる別の手が、指もつれしながら古ピアノの鍵盤をたたいてゐるランネルのランネルのワルツの曲の合間には、家長然と納つたサモワルのつぶやき聲もする……

 

   さわやかに美はしかりし花さうび……

 

 蠟燭は朧ろに消えかかる。……誰だ、そこで陰にこもつた嗄れ聲で咳き入るのは。足もとには、私にとつて唯ひとりの伴侶の老犬が蹲り、身をすり寄せて顫へてゐる。ああ寒い、凍えさうだ。……みんた死んだ、死んでしまつた、……

 

   さはやかに美しかりし花さうび……

             一八七九年九月

 

[やぶちゃん注:最初の本文引用の「薔薇」はママ。訳者註が二つある。因みに、訳注記号は表題に附されてあるから、註の頭の引用部分は、「花薔薇」ではなく、「花さうび」でないと、厳密にはおかしい。

   *

『爽やかに美はしかりし花薔薇……』この表題は、諷刺詩人ミヤトリヨフP. Miyatoliov,1796―1844の詩句を借りたもの。その『薔薇』 Roza の第一聯に――

 

  爽やかに美はしかりし花さうび

  わが園にうつし咲かせて心たのしも、

  春あさく置くつゆ霜のしげくして

  しも朽つるひたに厭ふと心うれたし。

   *

ランネル 墺太利の作曲家 Joseph Franz Karl Lanner 1801―1843

   *

本篇は新改訳「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」がある。そちらでオリジナルに私が細かな注を附してあるので、そちらも是非、参照されたい。

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 何を思ふだらうか


Watasihananiwo

   何を思ふだらうか

 

 臨終の迫るとき、もしもまだ思考の力が殘つてゐたら、私は何を思ふだらうか。

 夢み且つまどろみ、生の賜物を碌々味ひもせずに、徒(あだ)に過した一生を悔むだらうか。

 「え、もう死ぬのか。本當か。いやいや早過ぎる。だつてまだ何も仕遂げてはゐないではないか。……やつと今、何かする氣になつた所ではないか。」

 それでも、過ぎた日々を思ひ出すだらうか。纔かながら、私の身にもあつた明るい幾瞬を思ひ浮べて、忘れ得ぬ面影、その面輪に、心は佇むだらうか。

 それと樣々の身の惡業が、記憶に甦るだらうか。私の魂は、既に及ばぬ痛悔に責め苛まれるだらうか。

 それとも、生の彼岸に待受けてゐるものを思ふだらうか。そして本當に、何かが待つてゐるのだらうか。

 いや、恐らく私は、何も思ふまいと力めるに違ひない。行手に立ち罩める怖しい闇黑を見ずにゐたいばかりに、何か詰らぬ事を強ひて思ひ浮べるに違ひない。

 曾て私は、或る男が臨修の床に橫はりながら、燒胡桃(くるみ)を嚙らせて呉れないと駄々をこねる光景に接したことがある。が然し、その男の昏(くら)む眼底には、何かしら傷き死んで行く小鳥の破れ翼に似たものがあつて、脈々と顫へてゐるのを見過し得なかつた。

             一八七九年八月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 絞首刑!


Kouzai

   絞首刑!

 

 「一八O五年の話だが」と、私の昔馴染が語りはじめた、「アウステルリッツ戰役の直前のこと、僕の勤務してゐた聯隊が、モラヴィヤに宿營した。

 住民を苦しめることは勿論、一切迷惑を掛けてはならんといふ嚴しいお達しだつた。聯合軍とは言ひ條、奴等は僕たちを妙な眼で見てゐたからね。

 その時の僕の從卒といふのが、もと僕の母親の領地で農奴だつた男で、エゴールといふ名だつた。正直なおとなしい奴でね、子供の時からの馴染だから、まるで友達のやうにしてやつてゐた。

 或る日、僕の泊つてゐた家で、泣く喚く、いやはや大騷動がもち上つた。なんでもお主婦(かみ)の鷄が二羽とか盜まれてね、それを僕の從卒になすり附けるといふ始末さ、で先生、大いに申開きに力めたが、たうとう僕まで證人に引張り出した。

 『いや、このエゴール・アフターモノフに限つて、人の物を盜るなんて……』と、僕も辯護に口を酸くしたが、お主婦の奴、てんから受け附けない。

 と、その時、よく揃つた馬蹄の響が往來に聞えて來た。總司令官が幕僚を從へて通り掛つたのだ。

 皮膚のたるんだ、でつぷりした司令官は、俯向き加滅に悠々と馬に並歩を踏ませて來る、

 肩章の總が胸もとに垂れてゐる。

 その姿が眼入ると、お主婦はいきなり馬前に轉げ出て跪いた。髮も着物も振り亂して、しきりに僕の從卒の右を指しながら、金切聲で訴へ出した。

 『將軍さま』と喚くのだ、『閣下さま、お裁き下さいまし。どうお助けなすつて、お救ひなすつて。……あの兵隊が、私の物を奪(と)りましたので。』

 一方エゴールは、帽子を手に閾の上に突立つて、まるで番兵みたいに胸を張り足を引き附けたまま、一言も口が利けないのだ。往來の眞中に停つた將軍一行の姿に度膽を拔かれたのか、降掛つて來た飛んでもない災難に呆氣に取られたのか、ただもう棒立ちになつて眼ばかりぱちくりさそて、顏色と言つたら土色に變つてゐる。

 將軍は他に氣を取られてゐるやうな暗い眼を奴に投げると、復立たしげに『それで?』と言つた。エゴールは偶像みたいに突立つて、齒を剝出してゐる。橫から見てゐると、まるで笑つてでも居るやうだ。

 すると將軍は、『絞首刑!』と言ひ棄てて、そのまま馬に拍車をくれた。はじめは元の並足だつたが、やがて速步にしてすんずん遠ざかつた。幕僚も急いでその後を追ふなかに、ただ一人副官だけが鞍上から振返つて、エゴールの方をちらと見た。

 命令にもとるわけには行かない。エゴールは間もなく捕まつて、刑場に曳かれた。

  彼はもう半死半生の態だつた。それでもやつと二度だけ、『神樣、ああ神樣』と聲を上げて言つた。その後は聞えるか聞えぬかの聲で、『神樣が御存じだ、私でないことは。』

 愈〻僕と別れる段になると、彼はひどく泣いた。僕もおろおろ聲だつた。

 『エゴール、なあエゴール』と僕は叫んだ、『それをなんだつてお前、閣下に申し上げなかつたのだ。』

 『神樣が御存じです、私でないことは』と可哀想に噦(しやく)上げながら、彼は繰反した。

 一方お主婦はと言ふと、あまりの峻烈な判決に膽を潰してしまつて、今度は自分が大聲で泣き出す始末だつた。あたりの誰彼に命乞ひを賴み𢌞るかと思ふと、牝鷄はもう見附かつたから、自分で行つて明しを立てて來るなど口走つた。……

 そんな事を言つても、今さら手後れなことは言ふ迄もない。何ぶん戰時のことだ。君、軍紀だよ。お主婦は身も世もなく、泣き喚くだけだつた。

 さてエゴールは、坊さんに懺悔をして聖餐を受けると、私に言ふのだ。

 『ねえ旦那、お主婦さんにくよくよするなと言つて下さい。私はもう、なんとも思つてやしませんから。』」

 昔馴染は、この從卒の最後の言葉を繰返して、さて呟くのだつた、「エゴールシカ、私の可愛いい、天晴れなエゴールシカ。」

 そして、淚が老人の頰を傳はつた。

             一八七九年八月

 

[やぶちゃん注:「アウステルリッツ戰役」「アウステルリッツ」(チェコ語:スラフコフ・ウ・ブルナSlavkov u Brna/ドイツ語表記Austerlitz)は現在のチェコ共和国モラビア地方の中心都市ブルノ市の東方にある小都市。一般に言われる「アウステルリッツの戦い」は、一八〇五年にオーストリアがロシア・イギリス等と第三次対仏大同盟を結成、バイエルンへ侵攻したことに端を発する戦争。当時オーストリア領(現チェコ領)であったスラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)郊外に於いて同年十二月二日にナポレオン率いるフランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を破った戦いを指す。

「モラヴィヤ」(モラヴィア:Moravia/チェコ語:Morava)は広義には現在のチェコ共和国の東部の呼称。この地方のチェコ語方言を話す人々は「モラヴィア人」と呼ばれ、チェコ人の中でも下位民族とされて差別されてきた歴史がある。この「主婦」もそうした一人として見るべきであろう。アウステルリッツの戦いのあった一八〇五年の戦役では、ウルムの戦いでフランス軍がオーストリア部隊を降伏させて、十一月十三日にウィーン入城を果たしたため、敗走したオーストリア皇帝フランツ二世がここモラヴィアへ後退、ロシア皇帝アレクサンドル一世率いるロシア軍と合流している。オーストリア領内であるが、この記述から、早々と友好国であるロシアがモラヴィアに駐屯していたことが知られる。

「並足」「常步(なみあし)」。馬の四足の内、常に二脚或いは三脚が地面に着き、体重を支えて進む状態を指す。

「速足」「速步(はやあし)」。「だくあし」とも呼び、「跑足」「諾足」「跪足」等と書く。馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。「並歩(なみあし)」と「駈歩(かけあし)」の中間。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 五 女誡扇

 

         女誡扇

 私がいやがる世外民を無理に强いて、禿頭港(クツタウカン)の廢屋の中へ、今度こそ這入(はい)つて行つたのは彼がその次に南へ出て來た時であつた。多分最初にあの家を發見してから五日とは經てゐなかつたらう――世外民は當時少くとも週に二度は私を訪れたものなのだから。

「さあ。今日こそ僕の想像の的確なことを見せる。運がよければ、君がそれほど氣に病む幽靈の正體が見られるかも知れないよ」

 私はかう宣言して、この前の機會と同じ時刻を撰んだ。そこに幽靈のゐないことを信じてゐる私は、しかし、自分の事を、高い雕欄(てうらん)のいい窪みを見つけて巢を營んでゐる双燕(さうえん)を驚愕させる蛇ではないかと思つて、最初は考へたのだが構はないと思つた。といふのはもしそこに一對の男女がゐるやうならば、自分はその時の相手の風態(ふうてい)によつては、わざと氣がつかないふりをして、彼等をその家の居住者のやうに扱つて、自分達が無法にも闖入したのを謝罪しようと用意したからである。私たちはそれだからごく普通の足音をさせて、あの石の圓柱のある表からこの前の日のとほりに入口を這入つた。その時、さすがに私もちよつと立止つて聞き耳を立ててはみた。勿論どんな泉州(ツヱンチヤオ)言葉も聞かれはしなかつた。それだのに困つた事に、世外民は氣味惡がつて先に這入らないのだ。表の廣間のなかはうす暗くて、またこんな家のどこに二階への階段があるか、私には見當がつきにくい。しかし世外民は口で案内して、表扉を這入つて廣間の左或は右の小扉(ことびら)を開いてみたら、そこから上るやうになつてゐるだらう、といふのである。その廣間といふのは二十疊以上はあるだらう。四つの閉めた窓の破れた隙間からの光で見ると、他(た)には何一つないらしい。私は這入つて行つた。その時、思はず私が呻(うな)つたのは、例の聲を聞いたからではないのだ。ただの閉め切つた部屋の臭ひである。どんな臭ひとも言へない。ただ蒸(む)れるやうなやつで、それがしかし建物(たてもの)がいいから熱いのではない。割に冷たくつてゐて蒸れるとでもいふより外には言ひ方がない。この臭ひを、世外民は案外平氣らしかつた。天井を見ると眞白(まつしろ)に粉(こ)がふいて黴(かび)がはえてゐる。その黴の臭ひだつたかも知れない。私たちは先づ右の扉を開けた。――果してすぐそこが階段であつた。幅二尺位(ぐらゐ)の細いのが一直線に少し急な傾斜で立つてゐる。それが上からの光で割に明るい。何も怖氣(おぢけ)がさすやうなものは一つもないが、また私は傳說をさう眼中におかないが、それでもやはりさう明るい心持にはなれないことは確(たしか)だ。氣味が惡いと言つては言ひすぎるが、私はよく世外民をひつぱつて來たと思つた。私はひとりででも一度來てみる意志はあつたのだが、もしもひとりだつたらあまり落着いて見物はしにくいかと思ふ。それにしてもあんな傳說を迷信深く抱(いだ)いてゐる人人が、たとひそれは二人連れであつた事が確でも、第一日(にち)によくまあここへ來たものだと言へる。いや、よくもここを撰ぶ氣になつたものだ。私はこの細い階段を戀人たちが互に寄りそひながらおづおづして、のぼつて行つた時を想像してみた。

[やぶちゃん注:「雕欄(てうらん)」(ちょうらん)は二階のテラスなどの彫刻を施した欄干(らんかん)のこと。]

 私は世外民を振り返つて促しながら、階段を昇り出した。そこには私の想像を滿足させることには、ごく稀にではあるがこのごろでもそこを昇降する人間があることは疑へなかつた。といふのは、それは何も鮮かな足跡はないのだが、寧ろ譬へば冬原(たうげん)の草の上におのづと出來た小徑(こみち)といふ具合に、そこだけは他(た)の部分より黑くなつて、白い塵埃(ぢんあい)のなかから、階段の板(いた)の色がぼんやり見えてゐるのであつた。二階には人のけはひはない。私は幽靈の正體は先づ見られさうにもないと思つた。二階ヘ出た。

 案外にそこは明るかつた。その代りどうしてだか急に暑くムツとした。人影のやうなものは何もなかつた。氣が落着いて來たので私は何もかも注意して見ることが出來たが、床の上にもまた人が步いたあとがあつて、それがまた一筋の道になつて殘つてゐる。L形(エルがた)になつた部屋の壁のかげから、光が帶になつて流れて來る。この部屋へ澤山の明るさを供給してゐるのは、その窓で、人の步いたあともまたその窓の方へ行つてゐる。壁のかげに誰かがピツタリと身をよせて隱れてゐるやうな氣もする。私はその窓の方へおのづと步いて行つた。我我の足元から立つ塵は、光の帶のなかで舞ひ立つた。顏に珍しく風が當つて、明るい窓といふのが開(あ)いてゐること、その壁に沿うて一つの臺があることが、一時(じ)に私の目についた。臺といふのはごく厚く黑檀(こくたん)で出來たもので、四方には五尺ほどの高さの細い柱が、その上にはやはり黑檀の屋根を支へてゐる。その大きさから言つて寢牀(ねどこ)のやうに思はれた。

「寢牀だね」

「さうだ」

 これが私と世外民とが、この家へ這入つてからやつと第一に取交(とりかは)した會話であつた。寢牀には塵は積つてはゐなかつた――少(すくな)くとも輕い塵より外には。さうして黑檀は落着いた調子で冷冷(ひえびえ)と底光りがしてゐた。私は世外民を顧みながら、その寢牀の上を指さした。私の指が黑檀の厚板(あついた)の面(おもて)へ白くうつつた。

 世外民は頷いた。

 その寢牀の外には家具と言へば、目立つものも目立たないものも文字通りに一つもなかつた。話に聞いたあの金簪(きんさん)を飾った花嫁姿の狂女は、この寢牀の上で腐りつつあつたのではないだらうか。それにしてはこれだけの立派な檀木(たんぼく)の家具を、今だにここに遺してあるのは、憐憫によつてではなく、やはり恐怖からであらう。

 寢牀のうしろの壁の上には大小幾疋かの壁虎(やもり)が、時時のつそりと動く。尤もこれは珍しい事ではない。この地方では、どこの家の天井にだつて多少は動いてゐる。内地に於ける蜘蛛ぐらゐの資格である。ただこの壁の上には、廣さの割合から言つて少少多すぎるだけだ。六坪ほどの壁に三四十疋(ぴき)はゐた。

 世外民はどうだか知らないが、私はもう充分に自分の見たところのもので滿足であつた。歸らうと思つて、歸りがけにもう一度窓外の碧(あを)い天を見た。その他(た)の場所はあまりに氣を沈ませたからだ。歸らうとして私はふと自分の足もとへ目を落すと、そこに、ちやうど寢牀のすぐ下に扇子(せんす)見たやうなものがある――骨が四五本開(ひら)いたままで。私は身をかがめて拾つた。そのままハンケチと一緖に自分のポケツトのなかへ入れた。なぜかといふのに世外民はいつの間にか歸るために、私に世を向けて四五步も步き出してゐたからだ。

 世外民も私も下りる時には何だかひどく急いだ。表の入口を出る時には今まで壓へてゐた不氣味が爆發したのを感じて、我我は無意識に早足で出た。さうして無言をつづけてその屋敷の裏門を出た。

「どうだい。世外民君。別に幽靈もゐなかつたね。」

「うむ」世外民は不承不承に承認しはしたが「しかし、君、あの黑檀の寢臺の上へ今出て來た大きな紅い蛾を見なかつたかね。まるで掌ほどもあるのだ。それがどこからか出て來て、あの黑光りの板(いた)の上を這つてゐるのを一目は美しいと思つたが、見てゐるうちに、僕はへんに氣味が惡くなつて、出たくなつたのだ」

「へえ。そんなものが出て來たか。僕は知らなかつた。僕はただ壁虎(やもり)を見ただけだ。君、君の詩ではないのか。幻想ではないのか」

 ――私は世外民があの寢牀(ねどこ)の上で死んだ狂女のことをさう美化してゐるのだらうと思つた。

「いいや、本當だとも。あんな大きな赤い蛾を、僕は初めてだ」

 私は步きながら、思ひ出してさつきの扇(あふぎ)をとり出してみた。さうして豫想外に立派なのに驚き、また困りもした。

 その女持(をんなもち)の扇子といふのは親骨(おやぼね)は象牙で、そこへもつて來て水仙が薄肉(うすにく)に彫つてある。その花と蕾との部分は透彫(すかしぼり)になつてゐる。それだけでも立派な細工らしいのに、開(あ)けてみると甚だ凝つたものであつた。表には殆んど一面に紅白の蓮(はす)を描(ゑが)いてゐる。裏は象牙の骨が見えて――表一枚だけしか紙を貼つてゐないので、裏からは骨があらはれるやうに出來てゐたのだが、その象牙の骨の上には金泥(きんでい)で何か文章が書いてある。

「君」私はもう一度表を見返しながら世外民に呼びかけた。「玉秋豐(ぎよくしうほう)といふのは名のある畫家かね」

「玉秋豐? さ。聞かないがね。なぜ」

 私は默つてその扇子を渡した。世外民が訝しがつたのは言ふまでもない。私もちよつと何と言つていいかわからなかつた――私は無賴兒ではあつたが、盜んで來たやうな氣がしていけないのだ。私はそのままの話をすると、世外民は案外何でもないやうな顏をして、それよりも仔細にその扇をしらべながら步いてゐた――

「玉秋豐? 大した人の畫(ゑ)ではないが職人でもないな。不蔓不枝(ふまんふし)」彼はその畫賛を讀んだのだ。「愛蓮說のうちの一句だね、不蔓不枝。――だが女の扇(あふぎ)にしちや不吉な言葉ぢやないか。蔓(つる)せず枝せざるほど婦女にとつて悲しい事はあるまいよ。どうしてまた富貴多子(ふうきたし)にでもしないのだらう――平凡すぎると思つたのかな」

「一たい幸福といふのは平凡だね。で、その富貴多子とかいふのは何だい」

「牡丹が富貴、柘榴(ざくろ)が多子さ」世外民は扇のうらを返して見て、口のなかで讀みつづけながら「おや、これは曹大家(さうたいか)の女誡(ぢよかい)の一節か。專心章だから、なるほど、不蔓不枝を選んだかな……」

 扇は案外に世外民の興味をひいたと見える。それを吟味して彼がそんなことを言つてゐる間に、私はまた私で同じ扇に就て全く別のことを考へてゐた。

 その扇はうち見たところ、少くとも現代の製作ではない。さうしてその凝つた意匠は、その親が、愛する娘が人妻にならうとする時に與へるものに相當してゐる。――恐らく沈家(シンけ)のものに相違ないであらう。昔、狂女がそれを手に持つて死んでゐなかつたとも限らない。その扇だ。更に私は假りに、禿頭港(クツタウカン)の細民區の奔放無智な娘をひとり空想する。彼女は本能の導くがままに悽慘な傳說の家をも怖れない。また昔、それの上でどんな人がどんな死をしたかを忘れ果ててあの豪華な寢牀(ねどこ)の上に、その手には婦女の道德に就て明記しまた暗示したこの扇を、それが何であるかを知らずに且つ弄(もてあそ)び且つ飜(ひるがへ)して、彼女の汗にまみれた情夫に凉風(りやうふう)を贈つてゐる……。彼女は生きた命の氾濫にまかせて一切を無視する。――私はその善惡を說くのではない。「善惡の彼岸」を言ふのだ……

[やぶちゃん注:ここは注を敢えて最後に持って来た。

「玉秋豐」不詳。

「愛蓮說」宋の儒者周茂(一〇一七年~一〇七三年:茂叔は字。名は敦頤(とんい))の作。以下が全文。

   *

水陸艸木之花、可愛者甚蕃。晋陶淵明獨愛菊。自李唐賴、世人甚愛牡丹。予獨愛蓮之出淤泥而不染、濯淸漣而不妖、中通外直、不蔓不枝、香遠益淸、亭亭浮植、可遠觀而不可褻翫焉。予謂、菊花之隱逸者也、牡丹花之富貴者也、蓮花之君子者也。噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。

(水陸草木の花、愛すべき者、甚だ蕃(おほ)し。晋の陶淵明、獨り、菊を愛す。李唐より來のかた、世人、甚だ牡丹を愛す。予、獨り蓮の淤泥(をでい)より出づるも、染まらず、淸漣に濯(あら)はるるも妖(えう)ならず、中(なか)、通じ、外、直(なほ)く、蔓(つる)せず、枝(えだ)せず、香り、遠くして、益々淸く、亭亭(ていてい)としてうき植(た)ち、遠觀すべくして褻翫(せつぐわん)すべからざるを愛す。予、謂(おもへ)らく、「菊は花の隱逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は華の君子たる者なり」と。噫(ああ)、菊を、之れ、愛するは、陶の後、聞く有ること、鮮(すくな)し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者、何人(なんぴと)ぞ、牡丹を、之れ、愛するは、宜(むべ)なるかな、衆(おほ)きこと。)

「曹大家(さうたいか)の女誡(ぢよかい)」「たいか」はママ。後漢の中国初の女性歴史家で作家の班昭(四五年?~一一七年?)の著になる『曹大家(こ)「女誡」』(「家」は「か」ではなく「こ」と読み慣わすらしい)である。班昭は曹世叔という人の妻であったことから、曹大家(たいこ)と尊称された。和熹太后に仕え、宮廷で教育係として重きをなし、兄班固の著わした歴史書「漢書」を彼の亡き後、引き継いで完成させたことでも知られる。「女誡」は彼女が婚期を迎えた自分の娘のために書き記した教訓書(女性教育書)であるが、当時の知識人に歓迎されて広く流布し、中国の女訓書の原型ともいうべきものとなった。「卑弱第一」「夫婦第二」「敬愼第三」「婦行第四」「専心第五」「曲從第六」「和叔妹第七」という構成と内容を持つ(「奈良女子大学学術情報センター」の解説を参考にした)。その「專心章」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る(本文は全百七十五字。リンク先の後には注解が附されてある)。個人サイト「兩漢魏晉學庵」の曹世叔妻伝の「専心第五」に以下のように訳されてある。

   《引用開始》

礼に、夫が再度妻を娶る道は記されているが、妻が再度夫に嫁ぐという文は無い。(※儀礼に曰く。父が生きている時は、母の為の服喪をどうして一年とするのか。最も尊い者が生きている時は、敢えて服喪を伸ばさないのである。父は必ず三年の喪に服して後に(後妻を)娶る。子の志を達する為である。)

故に夫は天であると言うのである。(※儀礼に曰く。夫は妻の天である。婦人が二夫に仕えないのは、天を二つに割る事はできないという事と同じである。)天から逃げる事はできず、夫から離れる事はできないからである。

行いが神祇の心に違えば、天はこれを罰し、行いが礼儀に違えば夫はこれを大切にしなくなる。

故に女憲に「一人(の夫)の心を得る事、これを永畢(一生添い遂げる)という。一人(の夫)の心を失う事、これを永訖(一生独り身で終える)という。」と言うのである。

これにより述べるならば、夫の心を得なくてはならないのである。

必要なのは、媚びへつらい適当に親しむという事ではない。本より夫に心を専らにし、容儀を正す事が第一である。

礼儀を守り潔白であり、道端の声を聴かず、横目で物を見る事無く、外に出ては艶やか過ぎず、家の中でも身なりに気を遣い、他人と群集まる事無く、家の前を見張る事が無い。これを心を専らにして容儀を正すという。もし、挙措が軽薄で、落ち着き無く周りを眺めたり聞き耳を立て、家の中では髪を乱して身なりを整えず、外に出ては艶めかしく媚を売り、言葉は道に外れ、見るべきでない物を見る。これを心を専らにして容儀を正す事ができないという。

   《引用終了》

本小説に於けるキー・ポイントは、この主張の核心にある「女の再婚を決して許さぬ」誡である。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝸牛(かたつむり)


Katatumuri

 

かたつふり  蠡牛 蚹羸

       蝓 山蝸

       蝸羸 蜒蚰羸

蝸牛    土牛兒

       【和名加太

        豆不利】

コウ ニウ

本綱蝸牛生池澤草樹間形似小螺白色頭形如蛞蝓但

背負殼耳頭有四黒角行則頭出驚則首尾俱縮入殻中

其身有涎能制蜈蝎夏熱則自懸葉下往往升高涎枯則

自死也此蟲有角如牛故得牛名

     夫木牛の子にふまるな野へのかたつふり角あれはとて身をはたのみそ

                   寂蓮

△按蝸牛【俗出出蟲】有而四角二者其短其短者非角露眼之

 甚者也物觸則縮角出入最速

 莊子所謂有國于蝸牛左角者曰蠻民國于右角者曰

 觸氏爭地而戰伏尸數萬者是也蓋蟭螟蟲窠蚊睫之

 類共是寓言耳

蝸牛 治小便不通者搗之貼臍下以手摩之【加麝香少許更妙】

 又治脱肛【虛冷毎因大便脱肛】用蝸牛【燒灰】豬油和傅立縮

緣桑蠃 【一名桑牛又名天螺】

本綱此螺全似蝸牛黃色而小雨後好緣桑上者取用藥

正如桑螵蛸之意主治大腸脱肛及驚風

かたつぶり  蠡牛〔(れいぎう)〕

       蚹羸〔(ふるい)〕

       
蝓〔(いゆ)〕

       
山蝸〔(さんくわ)〕

       蝸羸〔(くわるい)〕

       蜒蚰羸〔(えんゆるい)〕

蝸牛    土牛兒

       【和名、「加太豆不利」。】

コウ ニウ

「本綱」蝸牛は池澤・草樹の間に生ず。形、小さき螺〔(にな)〕に似て、白色。頭の形、蛞蝓(なめくぢ)のごとし。但し、背に殻を負ふのみ。頭に四つの黒き角、有り。行くときは、則ち、頭を出だす。驚くときは、則ち、首尾、俱に縮(ちゞ)まり、殻の中に入る。其の身に涎〔(よだれ)〕有りて、能く蜈(むかで)・蝎(さそり)を制す。夏、熱するときは、則ち、自〔(みづか)〕ら葉の下に懸かり、往往〔にして〕高きに升(のぼ)る。涎、枯るれば、則ち、自〔(おのづか)〕ら死す。此の蟲、角、有りて、牛のごとし。故に牛の名を得。

「夫木」

 牛の子にふまるな野べのかたつぶり

     角あればとて身をばたのみそ

                 寂蓮

△按ずるに、蝸牛【俗に「出出蟲〔(ででむし)〕」。】四つの角有りて、二つは短かし。其の短かき者は角に非ず、露-眼(でめ)の甚しき者なり。物に觸れて、則ち、縮(ちぢ)んで、角を出入すること、最も速し。

「莊子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蝸牛の左の角に國〔(くに)〕有るをば「蠻民」と曰ふ。右の角に國ある者を「觸氏」と曰ふ。地を爭ひて戰ふ。尸〔(しかばね)〕を伏すること、數萬』といふは、是れなり。蓋し、蟭螟蟲〔(せうめいちゆう)〕、蚊の睫(まつげ)に窠(すく)ふの類〔(たぐひ)〕、共〔(とも)〕に是れ、寓言〔たる〕のみ。

蝸牛 小便の通ぜざる者を治す。之れを搗きて臍の下に貼(つ)けて、以つて手〔に〕て之れを摩つ【麝香、少し許り、加〔ふれば〕、更に妙なり。】。又、脱肛を治す【虛冷〔にして〕毎〔(つね)〕に大便に因りて脱肛〔せるもの〕。】蝸牛を用ひて【灰に燒く。】豬〔(ぶた)〕の油に和して、傅く。立〔ちどころに〕縮むる。

緣桑蠃(くはのきのかたつぶり) 【一名、「桑牛」、又、「天螺」と名づく。】

「本綱」、此の螺、全く、蝸牛に似て、黃色にして小さし。雨の後に、好んで桑の上に緣(はひのぼ)る者、藥に取り用ふ。正に桑螵蛸〔(さうへうせう)〕の意ごとし。大腸脱肛及び驚風を治することを主〔(つかさど)〕る。 

 

[やぶちゃん注:軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda有肺目Pulmonata の内の陸生有肺類で貝殻を持つ種群(貝殻を失ったナメクジを除く)であるが、一般的には殻が細長くないものを指すことが多い。或いは真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科 Helicoidea或いはそのマイマイ上科 Helicoidea オナジマイマイ科 Bradybaenidae マイマイ属 Euhadra に属する種群(模式(タイプ)種はミスジマイマイ(三条蝸牛)Euhadra
peliomphala
。樹上性で、関東地方南部から中部地方東部に分布する日本固有種。関東地方南西域・中部地方南東部・伊豆諸島の神津島以北に分布)が我々日本人が「かたつむり(蝸牛)」と称しているものをほぼ包括すると言ってよかろう。

「かたつぶり」ウィキの「カタツムリ」の「名称」によれば、『日本語における名称としてはカタツムリの他に、デンデンムシ、マイマイ、蝸牛(かぎゅう)などがある。語源については諸説がある』とし、「カタツムリ」は『笠つぶり説、潟つぶり説、片角振り説など諸説ある』が、『「つぶり」は古語の「つび(海螺)」で巻貝を意味する』ところはほぼ確定的と私は思っている。「デンデンムシ」は『子供たちが殻から出ろ出ろとはやし立てた「出ん出ん虫」(「出ん」は出ようの意)であるとの説があ』り、「マイマイ」は『「デンデンムシ」と同様に子供たちが』「舞え! 舞え!」『とはやし立てたことに由来するとの説がある』。また、漢名「蝸牛」は『動作や頭の角がウシを連想させたためとみる説がある』。『柳田國男はカタツムリの方言(デデムシ、マイマイ、カタツムリ、ツブリ、ナメクジ)の分布の考察を通して、『蝸牛考』において方言というものは時代に応じて京都で使われていた語形が地方に向かって同心円状に伝播していった結果として形成されたものなのではないかとする「方言周圏論」を展開した』ことで知られるが、『晩年の柳田は方言周圏論の問題点を認識するようになっていた』と附す。私はこの柳田國男の「蝸牛考」が好きで、既にその初版をブログのカテゴリ「柳田國男」で総て電子化注している(二〇一五年二月二十四日から二〇一六年二月十三日までの二十八回分割)ので、関心のある方は、是非、お読み下さると幸いである

「蚹羸」「本草綱目」原典や東洋文庫版では「蚹蠃」とし、後者はルビを『ふら』とする。但し、中文本草を調べる限り、「羸」でも誤りではない。それでも、「蠃」は巻貝を指す一般的な字であるから、こちらの方が判り易いことは事実である。

蝓」東洋文庫は「蝓」に作るが、同字。「本草綱目」も「」となっている。

「蝸羸」「蚹羸」と同じく「本草綱目」原典や東洋文庫版では「蝸蠃」で、ルビを『から』とする。同じく「蠃」の方が判り易い。以下、「蜒蚰羸」「蝸羸」「蜒蚰羸」の「羸」も同前。

「其の身に涎〔(よだれ)〕有りて、能く蜈(むかで)・蝎(さそり)を制す」一部の海産巻貝の外套膜から分泌される粘液に弱毒性があるやに記憶しているが、カタツムリのそれが有毒で、ムカデやサソリまでもがそれを忌避するというのは聴いたことがない(但し、カタツムリ類に寄生する寄生虫は非常に危険で、ヒトに日和見感染して脳に入り込んだりした場合には重い症状を呈することはある)。

「升(のぼ)る」「昇る」。

「牛の子にふまるな野べのかたつぶり角あればとて身をばたのみそ」「夫木和歌抄」の「卷廿七」の「雜九」に載る寂蓮法師の一首であるが、「野べ(野邊)」は「庭(には)」の、「角あればとて」は字余りで「角のあればとて」の誤り。整序して示すと、

 牛の仔に踏むまるな庭のかたつぶり角(つの)のあればとて身をば賴みそ

である。

「四つの角有りて、二つは短かし。其の短かき者は角に非ず、露-眼(でめ)の甚しき者なり」誤り。カタツムリ類は大触角一対と小触角一対の計四本が通常伸ばしている際には「つの」のように突き出ているが、上方の大触覚の先に眼がある(但し、明暗を認識するだけで、視覚的に像を結ぶことはないと考えられている)。因みに、童謡に出る「やり」は、この「つの」、触角ではなく、恋矢(れんし)と言う交尾管(陰茎)(カタツムリは雌雄同体で、二匹が互いにこれを出し合って角の後方側面にある生殖孔(右巻きでは右側、左巻きでは左側)に互にそれを挿入し合う形で交尾が行われる)で、普段は軟体部中央下部の矢嚢に収納されており、見ることはないが、交尾の際、内部からそれが反転翻出する

『「莊子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蝸牛の左の角に國〔(くに)〕有るをば「蠻民」と曰ふ。右の角に國ある者を「觸氏」と曰ふ。地を爭ひて戰ふ。尸〔(しかばね)〕を伏すること、數萬』』「蠻民」は「觸氏」の誤りであり、「觸氏」は「蠻氏」の誤り。これは「荘子」の「則陽篇」の以下の下線太字部分。全体は、魏の恵王が隣国斉が盟約を破ったことに憤って斉を責めようとしたのを、魏の宰相で荘子の友人であった恵子がそれを押し留めるために魏の賢人戴晋人(たいしんじん)を呼んで、意見を述べさせるシークエンスの譬え話である。但し、恵子は恵王の子の襄王の時の宰相であるから、作り話である。

   *

惠子聞之而見戴晉人。戴晉人曰、「有所謂蝸者、君知之乎。」。曰、「然。」。「有國於蝸之左角者曰觸氏、有國於蝸之右角者曰蠻氏、時相與爭地而戰、伏尸數萬、逐北旬有五日而後反。」。君曰、「噫、其虛言與。」。曰、「臣請爲君實之。君以意在四方上下有窮乎。」君曰、「無窮。」。曰、「知遊心於無窮、而反在通達之國、若存若亡乎。」。君曰、「然。」。曰、「通達之中有魏、於魏中有梁、於梁中有王。王與蠻氏、有辯乎。」君曰、「無辯。」。客出而君惝然若有亡也。

   *

惠子、之れを聞きて戴晋人を見(まみ)えしむ。戴晋人、曰く、「所謂、蝸(くわ)なる者、有り、君(きみ)、之れを知るか」と。曰く、「然り。と。「蝸の左角(さかく)に國(くに)する者有り、『觸氏(しよくし)』と曰ふ。蝸の右角(いうかく)に國する者有り、『蠻氏(ばんし)』と曰ふ。時に相ひ與(とも)に地を爭ひて戰ひ、伏尸(ふくし)、數萬、北(に)ぐるを逐(お)ひて旬(じゆん)有(いう)五日(ごにち)[やぶちゃん注:十五日。]にして、後(のち)反(かへ)る。」と。君、曰く、「噫(ああ)、其れ、虛言ならんか。」と。曰く、「臣、請ふ、君の爲に之れを實にせんを[やぶちゃん注:では、私めは、本当のことを王のために言わせて貰いたく存じます。]。君、四方上下[やぶちゃん注:全宇宙。]を在(み)るに、窮まり有りと以-意(おも)ふや。」と。君、曰く、「窮まり無し。」と。曰く、「心を無窮に遊ばしむるを知りて、反(かへ)つて通達の國[やぶちゃん注:実際に道が通っていて行くことが出来る国。]を在(み)れば、存(そん)するがごとく亡きがごときか。」と。君、曰く、「然り。」と。曰く、「通達の中(うち)に、魏、有り。魏の中に於いて、梁[やぶちゃん注:魏の首都。]、有り。於梁の中に於いて、王、有り。王と蠻氏と、辯(わきまへ)有るか。」と。君、曰く、「辯へ、無し。」と。客、出でて、君、惝然(しやうぜん)として亡(うし)なふもの有るがごとし。

   *

「蟭螟蟲〔(せうめいちゆう)〕、蚊の睫(まつげ)に窠(すく)ふ」先行する蚊(か) 附 蚊母鳥の本文の「蟭螟」及び私の注を参照。

「寓言」譬え話。

「摩つ」送り仮名はママ。「まつ」と読んでいるか。東洋文庫訳は『摩擦する』とある。擦り撫でる。

「麝香」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ(麝香鹿)属 Moschus のジャコウジカ類の成獣のには、を誘うための性フェロモンを分泌する麝香腺が陰部と臍の間にあるが、これは、その嚢を抜き取って乾燥させたもの。一般には媚薬として珍重される。

「虛冷」腹の中が精気がなくなって冷えている状態。

「大便に因りて脱肛〔せるもの〕」大便の排泄時に限って脱肛する症状。

「灰に燒く」十分に焼いて灰にする。

「縮むる」脱肛が戻る。

「緣桑蠃(くはのきのかたつぶり)」「桑牛」「天螺」この「蠃」はママ。浜田善利難波恒雄論文「生薬牛の研究) 縁桑螺の基源動物について」(『薬史学雑誌』1990Vol. 25No.1(PDF)の十四ページから開始)という恐るべき詳細な考証によって、これは有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科オナジマイマイ属の Bradybaena ravida 亜の亜種群に同定されている。

「桑螵蛸〔(さうへうせう)〕」東洋文庫注に『螵蛸はかまきりが木の上に卵を生んでつくる房のこと。桑の木の上にある正にものが薬用としてよいものとされる』とある。

「の意ごとし」東洋文庫訳では『の場合とよく似ている』とする。

「驚風」複数回既出既注であるが、再掲する。一般には小児疾患で「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。]

2017/10/16

老媼茶話巻之三 女大力

 

     女大力(をんなだいりき)

 

 三州吉田の城主、池田三左衞門輝政の妹、惡女にて大力(だいりき)なり。山崎左馬之助妻と成(なり)、離別の後、剃髮して天久院といふ。

 ある時、吉田城内、狼籍者、有(あり)。

 人、數多(あまた)、斬殺(きりころ)し、天久院のもとへ切入(きりい)

 天久院、鉢卷をし、袴の裾、高くからげ、大長刀(おほなぎなた)をかい込(こみ)、仁王立(にわうだち)にたち、大(だい)の眼(まなこ)を見ひらき、扣(ひかへ)玉へば、狼籍もの、此けんまくをみて、大きに恐れ、逃行(にげゆく)を、追懸(おひかけ)、串切(くしざし)に切放(きりはなし)し玉ふ。

 凡(およそ)、百人力有(あり)と、いへり。

 又、吉田城中に化物ありて、女房のうせける事、數多(あまた)也。人々、おそれおのゝく。

 或日、天久院の、ぼたん臺(だい)の下に生敷(なましき)人のほね、あり。

 是を見る者、

「化物、他より通ひ來(きた)るにあらず。城中に紛居(まぎれゐ)たり。」

とて、彌(いよいよ)、怪(あやし)み、おそれける。

 ある夜、天久院、つふりへ、女の衣裳をかぶり、寢たるふりをなしてうかゞひ給ふに、「小ちく」といふ女房、此所へ來り、頻りに高鼻をかぎて、馬の息のごとし。

 天久院、ひそかに是を見玉ふに、彼(かの)女房、氣色(けしき)、すさまじく成(なり)、眼(まなこ)、光(ひかり)、口、耳の際(きは)迄、さけ、天久院飛懸(とびかか)り、衣裳ぐるみにおしつゝみ、表へ、かけ出(いで)むとする。

 天久院、腕をのべ、件(くだん)の化物のつふりを、

「みし。」

と、とらへ、抓(つかみ)ふせ玉へば、牛のほへるごとく、うなりけるを、こぶしを握り、つぶりをはりつぶし玉へり。

 尾、二股にさけ、五尺餘の大猫にてありし、となり。

 

[やぶちゃん注:恐るべき烈女である!

「三州吉田」三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町にある豊橋公園内)にあった城。戦国時代の十六世紀初頭にその前身が築城され、十六世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の一つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁となった(以上はウィキの「吉田城」に拠る)。

「池田三左衞門輝政」(永禄七(一五六五)年~慶長一八(一六一三)年)は安土桃山から江戸前期にかけての大名。美濃池尻城主・同大垣城主・同岐阜城主から、この三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となり、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。天正一八(一五九〇)年の小田原征伐・奥州仕置での功績によって、同年九月に秀吉の命で吉田城主となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げ(岐阜城の戦い)それによって戦後、家康の命で播磨姫路に加増移封されて姫路藩主となっているから、ここは冒頭で「三州吉田の城主」と言っている以上、その閉区間が作品内時制となる。

「山崎左馬之助」山崎家盛(永禄一〇(一五六七)年~慶長一九(一六一四)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名で摂津国三田城主・因幡国若桜藩初代藩主。ウィキの「山崎家盛によれば、「関ヶ原の戦い」で、『石田三成の挙兵を下野国小山にいた徳川家康に伝える一方、大垣城に拠っていた三成と面会し西軍に与することを約束した。家盛は、西軍として細川幽斎が守る丹後国田辺城攻め(田辺城の戦い)に加わるが、積極的に攻め入ることなく、ほとんど膠着状態のまま帰結した。戦後、家盛は西軍に与した罪により』、『改易されそうになるが、義兄・池田輝政の尽力』『や三成の挙兵の報告をした功があるとして許され』、慶長六(一六〇一)年『に因幡若桜』『に加増転封となった』とある。彼女との離別の年次は明らかではないが、こちらの記事(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ : 池田家の猛女、天球院と関ヶ原)によれば、『家盛は側室を作って正妻ほったらかしで殆ど家に戻ろうともしなかった』ともあり、それ以下の関ヶ原以降の叙述を読む限りでは、「関ヶ原の戦い」の直後には別居していたと読める。池田輝政に再嫁した徳川家康二女督姫(良正院)を妻とともに救ったという、物語佐馬奥方三田)(PDF)では二人がともに謀って戦国を乗り切ったとあるが、どうも前のリンク先の話の方がしっくりくる(そこでは弟で因幡鳥取藩初代藩主池田長吉(ながよし)の所に行って弟に養わせたともある)。

「天久院」天球院が正しい(永禄一一(一五六八)年~寛永一三(一六三六)年)。輝政の妹。山崎家盛との間には子はなく後に離縁して池田家に戻った。龍峰寺の江山景巴に帰依し、寛永八(一六三一)年に妙心寺天球院の開基となっているらしい。

「けんまく」「劍幕(見幕・權幕)」。怒って興奮しているさな。いきり立って荒々しい態度や顔つき。

「串切(くしざし)に切放(きりはなし)し玉ふ」腹部辺りを一突きにした後、その胴体を完全に上下に切り離したということであろう。とんでもない臂力(ひりょく)である。

 凡よそ)、百人力有(あり)と、いへり。

「うせける事」「失せける事」。

數多(あまた)也。人々おそれおのゝく。

「ぼたん臺(だい)」「牡丹臺」。城の中の庭園の牡丹の鉢植えを並べた観賞用の棚であろう。

「生敷(なましき)」未だ新しい骨。舐りそこなった皮肉などが附着していたものかも知れぬ。

「つふり」頭。

「女の衣裳をかぶり」彼女は剃髪して尼僧の格好をしているのであるが、か弱く見せて化け物に油断させるため、女房の上着を被ったのである。

「小ちく」「こちく」でよかろう。女房の名。

「高鼻をかぎて」高く鼻を上げては、何か、ものを嗅ぐ様子を見せて。

「のべ」「伸べ」。

「こぶしを握り、つぶりをはりつぶし玉へり」何もつけていない素手の拳固で、巨大な(「五尺」は一・五メートル)猫又の頭を殴りつけて、完全に潰してしまったというのである。恐るべし!

「尾、二タ股にさけ」妖怪猫又。詳しくは「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」の私の注を参照されたい。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その2) / 四 怪傑沈氏~了

 

 世外民といふ風變りな名を、私はこの話の當初から何の說明もなしに連發してゐることに氣がついたが、これは私の臺灣時代の殆んど唯(ゆゐ)一の友人である。この妙な名前はもとより匿名である。彼のペンネームである。彼の投稿したものを見て私はそれを新聞に採錄した。私は彼の詩――無論、漢詩であるが、その文才を十分解(かい)したといふわけではないが、寧ろその反抗の氣概を喜んだのである。しかし、その詩は一度採錄したきりだつた。當局から注意があつて、私は呼び出されて統治上有害だと言ふのでその非常識を咎められた。再度の投稿に對しては、私は正直にその旨を附記して返送した。すると、世外民は私を訪ねて遊びに來た。見かけは優雅な若者であつたが、案外な酒徒で、盃盤が私たちを深い友達にした。彼は臺南から汽車で一時間行程の龜山(クウソアム)の麓の豪家(がうか)の出(しゆつ)であつた。家は代秀才を出したといふので知られてゐた。その頃の私は、つまらない話だが或る失戀事件によつて自暴自棄に堕入(い)つて、世上のすべてのものを否定した態度で、だから世外民が友達になつたのだ。この頃の私にいつも酒に不自由させなかつたのがこの世外民だ。だが私が世外民の幇間(ほうかん)をつとめたと誰(たれ)も思ふまい。第一に世外民は友をこそ求めたが幇間などを必要とする男ではなかつた。私はその點を敬してゐた。――この話として何(なん)の用もあることではないが、私の交遊錄を抄錄したまでである。彼が私との訣別を惜んで私に與へた一詩を私は覺えてゐる。――あまり上手な詩でもないさうだが、私にはそんなことはどうでもいい。

 

    登彼高岡空夕曛

    斷雲孤鵠嘆離群

    溫盟何不必杯酒

    君夢我時我夢君

 

[やぶちゃん注:最後の漢詩は底本では総ルビで縦に二句で二行であるが、前後を一行空けで、かく、示した。漢詩をルビに従って漢字仮名交りで書き下してみる。

 彼(か)の高岡(かうかう)に登れば 空しく夕曛(せきくん)

 斷雲(だんうん)の孤鵠(ここう) 離群(りぐん)を嘆く

 溫盟(をんめい) 何ぞ杯酒を必(ひつ)とせんや

 君(きみ) 我を夢みむ時 我 君を夢みむ

起句の「夕曛」は落日の余光をいう。「鵠」は大型の白い水鳥。白鳥や鸛(こうのとり)に相当。「溫盟」は心の籠った暖かな友情の契り。

「堕入(い)つて」ママ。「い」は「入」のみに附されたルビ。何故か「堕」にはルビがない。「おちいつて」。
 
「世上のすべてのものを否定した態度で、だから世外民が友達になつたのだ」言わずもがな、主人公「私」のそうした超然とした態度を、友人のペン・ネーム「世外民」に合わせて洒落たのである。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 自然


Sizen

   自然

 

 地面の下の、大きな部屋にゐる夢を見た。高い天井の部屋で、やはり地下の光を思はせる明暗のない明るさに滿ちてゐる。

 部屋の中央に一人の氣崇い女性が、寛やかな綠衣を着て坐つてゐる。片手に頰を支へて、深い思ひに耽るらしい。

 私は一目見て、この女性こそ『自然』なのだと覺つた。すると忽ち激しい畏怖が、氷のやうに魂の底までしみ渡つた。

 私はその女性に近づいて、恭々しく一禮して呼びかけた。

 「おお、人みなの母上、何をお考へですか。もしや人類の行末の事ではありますまい。どうしたら彼らの手に、できる限りの完成と至福を、授けてやれようかといふ事ではありますまいか。」

 女性は悠然と、その暗い怖しい眸を私に向けた。唇が動くかと思ふと、鐡を打ち合はせでもするやうな大聲が響いた。

 「私は、どうしたら蚤の脚の筋を、もつと丈夫にしてやれるか知らと考へてゐるのだよ。敵の手を逃れるのに都合のいいやうにね。今では攻防の釣合ひが破れたから、また元通りにしなくてはいけない。」

 「なんですつて」と私は吃つた、「そんな事をお考へですか。私ども人類は、あなたの愛する子等ではありませんか。」

 女性は微かに眉を顰めた。

 「天地の間に何一つ、私の子供でないものはない」と、やがて彼女は言つた、「私は皆同じ樣に面倒を見てやるし、皆同じやうに滅してやるのだよ。」

 「ですが善は、理性は、正義は?……」と私はまた口籠つた。

 「それは人間の言葉ぢやないの」と、鐡のやうな聲が答へた、「私の眼には善も惡もない、理性も私の掟ぢやない。それから正義つて一體なんのことなの。私はお前さんたちに生命を上げました。私はそれを取返して、また他の物に遣るのだ。蛆蟲に遣らうと、人間に遣らうと、私としちや同じ事です。……お前さんたちはお前さんたちで、せいぜい自分の事に氣をつけるがいいのさ、私の邪魔だてをしてお呉れでない。」

 私が何か言返さうとしたとき、遽かに大地が搖れて、陰に籠つた地鳴りがしたので、目がさめた。

             一八七九年八月

 

[やぶちゃん注:「遽かに」「にはかに(にわかに)」。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚯蚓(みみず)


Mimizu

 

みみす  螾 

     曲蟺 寒

 蟺 堅蚕

蚯蚓

     歌女。地龍子

     【和名美々須】

キウイン

 

本綱平澤地中有之四月始出十一月蟄結雨則先出晴

則夜鳴其鳴長吟故曰歌女其行也引而後申其塿如丘

故名蚯蚓或云結時能化爲百合也與𧒂螽同穴爲雌雄

今小兒陰腫多以爲此物所吹如咬人形如風眉鬚皆

落惟以石灰水浸之良

蚯蚓【鹹寒有小毒】 路上踏殺者名千人踏入藥更良蓋性寒

而下行性寒故能除諸熱疾下行故能利小便治足疾通

經絡也【孟子所謂蚓上食稿壤下飮黃泉故性廉而寒】

蚯蚓屎曰六一泥以其食細泥無沙石也性畏葱及鹽鹽

之日暴則須臾成水亦安葱内亦化成水也

△按蚯蚓其老大者白頸【和名可布良美々須】一種有青白色縱黒

 文者人觸急動走今人は用蚯蚓【去泥】生以酒呑之以爲

 聲音藥最有効然本草不載爲聲音藥且性寒有小毒

 不熱症人漫勿用蓋據長吟歌女之名義者乎

 爲蚯蚓及蟻所吹小兒陰腫者以火吹簡令婦人吹之

 或用蟬蛻煎水洗仍服五苓散卽腫消痛止

深山中有大蚓丈余者近頃丹波柏原遠坂村大風雨後

 山崩出大蚯蚓二頭一者一丈五尺一者九尺五寸人

 爲奇物也異國亦有大蚓出

 東國通鑑云髙麗太祖八年宮城東蚯蚓出長七十尺

 時謂渤海國來投之應

 

 

みみず  螾〔(きんいん)〕  䏰〔(くじん)〕

     曲蟺〔(きよくぜん)〕 寒〔(かんけん)〕

     䖤蟺〔(ゑんぜん)〕  堅蚕〔(けんさん)〕
蚯蚓
     歌女〔(かぢよ)〕   地龍子〔(ちりやうし)〕

    【和名、「美々須」。】

キウイン

 

「本綱」、平澤・地中に之れ有り。四月、始めて出づ。十一月、蟄結〔(ちつけつ)〕す。雨ふるときは、則ち、先づ、出で、晴るるときは、則ち、夜る、鳴く。其の鳴くこと、長吟す。故に「歌女」と曰ふ。其れ、行くことや、引きて、後〔(のち)〕、申〔(の)〕ぶ。其の塿〔(つち)〕、丘のごとし。故に「蚯蚓」と名づく。或いは云ふ、結〔(けつ)〕する時、能く化して百合と爲る〔と〕。𧒂螽〔(いなご)〕と穴を同〔じく〕し、雌雄を爲す。今、小兒〔の〕陰、腫るること、多くは以つて此の物の爲に吹かるゝごとし。人を咬めば、形、大風〔(たいふう)〕のごとくにして、眉・鬚、皆、落つ。惟だ、石灰の水を以つて之れを浸して、良し。

蚯蚓【鹹、寒。小毒有り。】 路上に踏み殺さるゝ者を「千人踏〔(せんにんたう)〕」と名づく。藥に入るるに、更に良し。蓋し、性、寒にして下行し、性、寒なる故、能く諸熱の疾を除く。下行する故に、能く小便を利し、足の疾を治し、經絡を通すなり【「孟子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蚓〔(いん)〕は、上は稿壤〔(こうじやう)〕を食ひ、下は黃泉〔(くわうせん)〕を飮む』〔と〕。故に、性、廉〔(つつまし)くし〕て寒なり。】。

蚯蚓の屎(くそ)を「六一泥〔(りくいつでい)〕」と曰ふ。以其れ、細かなる泥を食ひて、沙石無きを以つてなり。性、葱及び鹽〔(しほ)〕を畏る。之れに鹽(しほ)〔を〕つけ、日に暴〔(さら)〕せば、則ち、須臾〔にして〕水と成る。亦、葱の内に安(を)きても亦、化して水と成るなり。

△按ずるに、蚯蚓、其の老いて大なる者は「白頸」なり【和名、「可布良美々須〔(かふらみみず)〕」。】一種、青白色にして縱(たつ)に黒き文〔(もん)〕の者、有り、人、觸るれば、急に動き走る。今、人は蚯蚓を用ひて【泥を去る。】、生〔(なま)〕にて、酒を以つて之れを呑めば、以つて聲音の藥と爲り、最も、効、有り。然れども、「本草」に聲音の藥たること載せず。且つ、性、寒、小毒、有〔れば〕、熱症ならざる人、漫(みだり)に用ふること勿〔(な)〕かれ。蓋し、長吟〔より〕「歌女」の名義に據〔(よ)〕る者か。

 蚯蚓及び蟻の爲めに吹かれて、小兒〔の〕陰、腫るる者は、火吹簡(〔ひふき〕だけ)を以つて婦人をして之を吹かしむ、或いは蟬蛻〔(せんぜい)〕を用ひて、水に煎じて、洗い、仍〔(すなは)〕ち、五苓散〔(ごれいさん)〕を服すれば、卽ち、腫れ、消え、痛み、止〔(や)〕む。

深山の中に、大蚓〔(おほみみず)〕、丈余の者、有り。近頃、丹波柏原遠坂〔(かいばらとをさか)〕村、大風雨の後、山、崩れ、大蚯蚓二頭を出〔(いだ)〕す。一つは一丈五尺、一つは九尺五寸。人、奇物と爲すなり。異國にも亦、大蚓出〔(いづ)〕ること有り。

「東國通鑑」に云はく、『髙麗太祖八年、宮城〔(きうじやう)〕の東に、蚯蚓、出づ。長さ七十尺。時に渤海國來投の應なりと謂ふ。 

[やぶちゃん注:環形動物門 Annelida 貧毛綱Oligochaeta のミミズ類。本邦で一般的に知られる種はナガミミズ目ツリミミズ科 Eisenia 属シマミミズ Eisenia fetida である。

「みみず」勘違いしている方も多いので言っておくと、歴史的仮名遣でも「みみず」であって、「みみづ」ではない。これは有力な語源説である「目不見(めみえず)」からも立証出来る

螾〔(きんいん)〕」以下の別名の読みは東洋文庫を参考に歴史的仮名遣で示した。

「平澤」平地の沢。

「蟄結す」穴籠りする。

「夜る、鳴く。其の鳴くこと、長吟す」既に何度も述べた通り、ミミズに発声器官はなく、鳴かない。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類の鳴き声の誤認である。しかし、「歌女」という別名は、何とも、いい。

「申〔(の)〕ぶ」「伸(の)ぶ」(伸びる・伸ばす)に同じい。

「塿〔(つち)〕」東洋文庫訳の読みを援用した。

「結〔(けつ)〕」先の「蟄結」の意。

「能く」しばしば。

「化して百合と爲る」これなら「歌女」の異名もしっくりくる。

𧒂螽〔(いなご)〕」既出項。直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類。それにしても「穴を同〔じく〕し、雌雄を爲す」という説は驚き桃の木山椒の木だね!

「小兒〔の〕陰」小児の陰部。ほれ、ミミズに小便かけるとおちんちんが腫れる、だ! 凄いね、中国の本草書に早くからかく書かれていたんだね。

「以つて此の物の爲に吹かるゝごとし」このミミズに毒の気を吹きかけられたために発症したのである、という意味。

「人を咬めば」ミミズは人を咬みません! 何か、別種の蠕動性の生物類(ムカデ等)を誤認しているように思われる。

「大風」東洋文庫訳では、『風寒・風熱等が原因となっておこる病気の重症のもの』とするが、漢方で「大風」と言った場合、圧倒的にハンセン病のことを指す。顔面の体毛が殺げ落ちるというのは、後者の症状の一様態とした方が腑に落ちる。

「千人踏」千人の人の影の精気をその死骸に受けることによる呪的霊力を保持すると考えたのである。

「寒」エネルギ属性が下位の、陰気を主とする属性。

「下行」漢方で総ての下に向かう流れ(運動方向・推移様態・現象傾向)を指す。

『「孟子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蚓〔(いん)〕は、上は稿壤〔(こうじやう)〕を食ひ、下は黃泉〔(くわうせん)〕を飮む』〔と〕』「孟子」「滕文公章句下」の最終章に出る。斉の匡章(きょうしょう)が孟子に自国の斉の陳仲子(ちんちゅうし)を清廉の士として讃えたの対して孟子が反論した一節に出る。

   *

孟子曰、於齊國之士、吾必以仲子爲巨擘焉、雖然仲子惡能廉、充仲子之操、則蚓而後可者也、夫蚓上食槁壤、下飮黃泉、仲子所居之室、伯夷之所築與、抑亦盗跖之所築與、所食之粟、伯夷之所樹與、抑亦盗跖之所樹與、是未可知也。

(孟子曰く。「齊國の士に於ては、吾、必ず仲子を以つて巨擘(きよはく)とせん。然りと雖も、仲子惡(いづく)んぞ能く廉ならん。仲子が操を充つるときは、則ち、蚓(いん)にして後に可なる者なり。夫(そ)れ、蚓は、上、槁壤を食らい、下、黃泉を飮む。仲子が居る所の室は、伯夷が築く所か。抑々(そもそも)、亦、盜跖〔(たうせき)〕が築く所か。食らふ所の粟は、伯夷が樹(う)うる所か。抑々、亦、盜跖が樹うる所か。是れ未だ知んぬべからず、と。)

   *

「巨擘」手の指の親指の如く突出した人物。「稿壤」は乾いた土のこと。「黃泉」は濁った地下の水。ここでの孟子は孝・忠の原則を自然でないとして独り清廉に生きん者ならば、それはミミズにでもなれらねば達成できぬことだと論破しているのであるが、このシークエンスでの孟子は如何にも厭な感じがする。

「廉〔(つつまし)くし〕て」読みは東洋文庫訳のルビを参考にした。清廉にして。多分に前の「孟子」の謂いが影響した謂いである。

「六一泥〔(りくいつでい)〕」東洋文庫注に『泥が六、沙石が一の割合ということであろうか。『本草綱目』には陶弘景の言として「入合丹据釜用」とあるので、道教で丹を調合するとき、調合薬を入れた釜を泥封するのに用いるということであろう。しかし、六一泥にはもう一つあり、それは雌黄・牡蠣殻・胡粉・石灰・赤石脂・食塩末など六つの材料各一両を水で調合したものをいう。『抱朴子』(金丹)に出てくる、金丹をつくるために調合した薬材を泥封するに用いる六一流とは、こちらの方のようである』とある。

「之れに鹽(しほ)〔を〕つけ、日に暴〔(さら)〕せば、則ち、須臾〔にして〕水と成る」こりゃ、ナメクジみたようだが、塩をかけて日光に曝せば、ミミズは体液を水のように吸い出されて確実に死ぬ。しかし、水になるわけでは、無論、なく、雨後に溺死した死骸として長く見かけるように、干からびても外皮のクチクラ層はしっかり残る。

「葱の内に安(を)きても亦、化して水と成る」ミミズの飼育サイトに餌として絶対に入れてはいけないものとして「辛いもの・塩分の濃いもの」としてネギが挙げてある。しかし、Q&Aサイトのネギ農家の質問で、収穫した葱のゴミの部分を畑の中に山のように置いているが、その下に多数のミミズが棲息しているとあるから、ミミズがネギを忌避するとは思われない

「白頸」以下に和名を別に出す以上は「はつけい(はっけい)」と読むべきか。これは所謂、成体のミミズの頭部方向に存在する「環帯」のことを指していよう。個体によってこの部分は他の体節より色が薄く、この名が腑に落ちるからである。ウィキの「ミミズ」によれば、『成熟したミミズは、体の前の方にいくつかの体節にまたがった肥大した帯状部分を持つ。この部分は外見では中の体節が区別できなくなっているから、そこだけ幅広く、また太くなった節があるように見える。これを環帯と呼んでいる。多くの大型ミミズ類では、環帯より前方の腹面に雄性生殖孔が、環帯の腹面に雌性生殖孔がある。なお、多毛類においては生殖腺はより多くの体節にまたがって存在する例が多い。ミミズにおいてそれがごく限られた体節にのみ存在することは、より異規体節制が進んだものとみなせるから、より進化した特徴と見ることができる』とある。

「可布良美々須〔(かふらみみず)〕」これは前に「老いて大なる者は」という属性から、日本におけるミミズの最大種(最大長四十センチメートルにも達する)の一つで、西日本の山林に棲息する青紫色の光沢を持った、環形動物門貧毛綱ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi を想定してよいかと思われる(後に別に「一種、青白色にして縱(たつ)に黒き文〔(もん)〕の者」を挙げているが、ここは以下の名称から、同じ種を記載していると読むこととする)。その特異な光沢色に言及していないのが残念である)。ウィキの「シーボルトミミズ」によれば、『山ミミズなどの異名も知られる。なお、目立つものであるためか各地に方言名が多く残っている。四国ではカンタロウと言われることがあちこちに記されている。和歌山県でもカンタロウと呼ばれる他、カブラタとの呼称も知られる』とある。ここに出る本種の地方名「カブラタ」は「可布良美々須」(東洋文庫は『かぶらみみず』とルビする)とほぼ一致する。ここで良安が別種として示すその種の色を「青白色」としているのはまさに本種の特徴である。「縱(たつ)」(たて)「に黒き文〔(もん)〕」があるとするが、同種には黒い紋は普通はない。しかし、強い青の金属光沢を持つ本種は、背部中央の光沢が見方によっては有意な縦筋に見えないことはないから、おかしいとは言えない。なお、巨大種としては別にジュズイミミズ目ジュズイミミズ科ジュズイミミズ属ハッタジュズイミミズ Drawida hattamimizu がおり、体長は六十センチメートルほどであるが、よく伸びると一メートルにも達して見える(但し、本種は少なくとも現在は石川県河北潟周辺、滋賀県の琵琶湖周辺、それに福井県の三方五湖周辺にのみに限定棲息している)

「人、觸るれば、急に動き走る」ウィキの「シーボルトミミズ」によれば、運動性能はミミズ類の中では非常に高い部類に属し、『地上での動きは意外に素早』く、『また、季節によって大きく移動することも知られている。夏場には尾根筋から斜面にかけて広く散らばって生活するのに対して、それらの個体全てが越冬時には谷底に集まる。つまり、春には谷から斜面に向けて、秋には斜面から谷底に向けて移動が行われる』。『これに関わってか、本種が身体の前半を持ち上げるようにして斜面を次々に滑り降りる様や、林道の側溝に多数がうじゃうじゃと集まっている様子などがしばしば目撃され、地元の話題になることなどがある』。『このような現象の理由や意義は明らかにされていないが』、研究者は『天敵であるだろう食虫類は常時多量の餌を求めることから、このような習性はこの種の現存量が一定しないだけでなく、大きな空白期間を作ることになるので、この種を主要な餌として頼れない状況を作ること、また同じく天敵となるイノシシに対してはその居場所が一定しないことになるので餌採集の場所を学習することを困難にしているのではないかと』いう仮説を立てている、とある。因みに、本種には粘液を噴射する能力があり、『本種を見つけた際に素手で掴んだところ、ミルクのような白い液が飛び出し、顔や眼鏡にかかったという』研究者の報告があり、『恐らくは背孔から発射されたものと思われ、タオルで拭った後には特に変化はなかったという。国外ではミミズにそのような能力がある例が幾つか知られ、例えばオーストラリアの Didynogaster sylvaticus はフンシャミミズの名で呼ばれ、別名を「水鉄砲ミミズ」と言い、時に粘液を』六十センチメートル『も飛ばすという。本種では他に聞く話ではないので、本種にその能力はあるもののいつも使うわけではないのだと思われる』とある。これは先の所謂、ミミズに小便の伝承との連関性が感じられるようにも思われるが、以上の記載から見ても、当該噴出液に毒性は認められないと言ってよかろう

「生〔(なま)〕にて、酒を以つて之れを呑めば、以つて聲音の藥と爲り、最も、効、有り。然れども、「本草」に聲音の藥たること載せず。且つ、性、寒、小毒、有〔れば〕、熱症ならざる人、漫(みだり)に用ふること勿〔(な)〕かれ。蓋し、「長吟」・「歌女」の名義に據〔(よ)〕る者か」既に薬効は示されているが、ウィキの「ミミズ」によれば、『漢方薬では「赤竜」・「地竜」』『または「蚯蚓(きゅういん)」と称し、ミミズ表皮を乾燥させたものを、発熱や気管支喘息の発作の薬として用いる。なお、民間療法が、日本各地に伝承している』。『また、特定のミミズには、血栓を溶かす酵素を持つことも知られている』。『血栓を溶かす酵素を持つミミズであるルンブルクスルベルス』(オヨギミミズ目オヨギミミズ目 Lumbriculidae 科ルンブリクス属 Lumbricus rubellus:ヨーロッパ原産のミミズの一種。「赤ミミズ」などと呼ばれることもある。学名は「ルンブリクス」と読むのが正しい)『の粉末を入れた健康食品(ルンブロキナーゼ)が発売されている。日本の医師の研究で、臨床試験されて効果も発表されている』。『そのための専用のミミズを育成している。その発表で血管にできたプラークをも溶かすと言われているが、広く認められたものではない』とある。

「吹かれて」毒気を吹きつけられて。

「火吹簡(〔ひふき〕だけ)」火吹き竹。

「婦人をして」女性だから優しく吹くのが効果的という意味ではなく、恐らくは陰気の生物である蚯蚓を、同じ陰の属性を持つ人間の女性が吹くことで、その症状を癒す力があると考えたものと私は解釈する。

「蟬蛻〔(せんぜい)〕」蝉の抜け殻。漢方では「蝉退(せんたい)」と称する生薬で、鎮痛・消炎・解熱・痙攣鎮静作用があり、アレルギーにも有効とされる。湿疹・蕁麻疹・汗疹(あせも)・アトピー性皮膚炎に効く消風散などにも含まれている。

「五苓散〔(ごれいさん)〕」猪苓(チョレイ:菌界担子菌門真正担子菌綱チョレイマイタケ目サルノコシカケ科チョレイマイタケ属チョレイマイタケ Polyporus umbellatus の菌核。消炎・解熱・利尿・抗癌作用等がある)三分(ぶん)・茯苓(ブクリョウ:アカマツ・クロマツなどのマツ属の植物の根に寄生する菌界担子菌門菌じん綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊)Wolfiporia extensa の菌核。利尿・鎮静作用がある)三分・蒼朮(ソウジュツ:キク目キク科オケラ属ホソバオケラ(細葉朮)Atractylodes lancea の根茎。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用等がある)または白朮(ビャクジュツ:キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。健胃・利尿効果がある)三分・沢瀉(タクシャ:水生植物である単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科サジオモダカ属ウォーター・プランテーン変種サジオモダカ Alisma plantago-aquatica var. orientale の塊茎。抗腎炎作用がある)五分・桂皮(ケイヒ:桂枝とも。クスノキ目クスノキ科ニッケイ属(シナ)ニッケイ Cinnamomum sieboldii の樹皮。(シナモン Cinnamomum zeylanicumは近縁種)発汗・発散作用・健胃作用がある)二分の調剤物(「一分」は三十七・五ミリグラム)。利尿効果が主で、吐き気・嘔吐・下痢・浮腫(むくみ)・眩暈(めまい)・頭痛などに適応する。

「丹波柏原遠坂村」不詳。現在の兵庫県丹波市柏原町(かいばらちょう)はここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、「遠阪川」の名が残るものの、そこはここより遙かに北で、現行、加古川から分岐する遠阪川の分岐地点の原住所は、兵庫県丹波市青垣町西芦田で、現在の柏原町中心部から直線でも十二キロメートル以上も離れる。ここ(グーグル・マップ・データ)。ちょっと不審である。旧柏原藩内のようなので、こうした村名となったものであろうとは思う。

「一丈五尺」四メートル十八センチメートル。

「九尺五寸」二メートル八十八センチメートル弱。孰れもデカ過ぎ。誇大風聞で、実態は先に示したシーボルトミミズであろう。

「東國通鑑」一般に「とうごくつがん」と読まれる。朝鮮半島の編年体の歴史書。李氏朝鮮の世祖の時代に着手され、徐居正らにより成宗時代の一四八四年に成立した。外紀一巻・本文五十六巻。檀君に始まって箕子・衛満ら、漢四郡、三国時代、新羅を経て、高麗末期までを対象とするが、内容は既存の「高麗史節要」や「三国史節要」及び中国の史書などを流用しているものの、誤りも多いため、現在は歴史史料として重視されていないが、本邦では上記の史書「高麗史」「三国史記」などが稀覯本扱いであったため、徳川光圀が寛文七(一六六七)年に本書を出版したことから、長らく、朝鮮半島史についての基礎文献であった。現代の韓国の民族主義の基幹をなす「檀君紀元」は本書での即位年の記述が元となっている(以上はウィキの「東国に拠る)。

「髙麗太祖八年」九二五年。

「宮城」この当時の高麗の首都は現在の朝鮮民主主義人民共和国南部にある開城(ケソン)市。(グーグル・マップ・データ)。

「七十尺」二十一メートル強。

「時に渤海國來投の應なり」「來投」は「降服」の意。「應」の「まさに~べし」の再読文字の意味から分かる通り、「事前の兆し・予兆」の意。八世紀から十世紀にかけて中国東北地方を中心に沿海州から朝鮮半島北部に亙って栄えた渤海国(六九八年にツングース系靺鞨(まっかつ)族の首長大祚栄が建国。唐の制度・文物を摂取して仏教を保護し、日本とも国交があった)は、まさに、この翌九二六年、契丹(モンゴル系でツングースとの混血種族)に滅ぼされているのである。]

2017/10/15

佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その1)

 

    怪傑沈(シン)氏

 

 この風變りな一日(にち)の終りに私と世外民とは醉仙閣(ツイツエンコ)にゐた。――私たちのよく出かける旗亭である。

 これが若し私が入社した當時のやうな熱心な新聞記者だつたら、趣味的ないい特種(とくだね)でも拾つた氣になつて、早速「廢港ローマンス」とか何とか割註をして、さぞセンセイショナルな文字を罹列することを胸中に企ててゐただらうが、その頃は私はもう自分の新聞を上等にしてやらうなどといふ考へは毛頭なかつた。每日の出社さへ滿足には勤めずにわが酒徒世外民とばかり飮み暮してゐた。諸君はさだめし私の文章のなかに、さまざまな蕪雜(ぶざつ)を發見することだらうと覺悟はしてゐるが、それこそ私がそのころ飮んだ酒と書き飛ばした文字との覿面(てきめん)の報いであらう……。

[やぶちゃん注:「蕪雜」雑然としていてととのっていないこと。]

 ――で、私たちは醉仙閣で飮んでゐた。

 世外民は、禿頭港(タツタウカン)の廢屋に對して心から怪異の思ひがしてゐるらしい。さう言へばあの話はいかに支那風(しなふう)に出來てゐる。廢屋や廢址(はいし)に美女の靈が遺つてゐるのは、支那文學の一つの定型である。それだけにこの民族にとつてはよく共感できるらしい。しかし、私はといふとどうもさうは行かない。私がそのうちで少しばかり氣に入つた點と言へば、その道具立(だうぐだて)が總てきくその色彩が惡くアクどい事にあつた。もしこれを本當に表現することさへ出來れば、浮世繪師芳年(よしとし)の狂想などはアマイものにして仕舞ふことが出來るかも知れない。そのなかにある人物は根强く大陸的で、話柄の美としてはそれが醜(しう)と同居してゐるところの野蠻(やばん)のなかに近代的なところがある。幽靈話とすればそれが夜陰(やいん)や月明(げつめい)ではなしに、明るさもこの上ない烈日(れつじつ)のさなかなのが取柄だが、總じてこの話は怪異譚(くわいいだん)としては一番價値に乏しい。それだのに世外民などは專らそこに興味を繫いでゐるらしい。いや、むしろ恐怖してさへゐる。彼は自分が幽靈と對話したと思つてゐるかも知れない。

 私は世外民の荒唐無稽好(ず)きを笑つてゐる。――といふのはそれに對しては私はもうとつくに思ひ當つたことがあるからだ。なぜ私はあの時すぐ引返して、あの廢屋の聲のところへ入込(いりこ)んでゐなかつたらうか。さうすれば世外民に今かうは頑張らせはしないのだ。それをしなかつたといふのも世外民があまり厭がるのと、それよりも空腹であつたのと、また億劫(おつくふ)な思ひをして行つてみるまでもなく解つてゐると信じたからだ。それもすぐに、さうと氣がついたのならよかつたのに、あんな判りきつた事が、なぜ一時間も經つてからやつと氣がついたといふのだらう。多分、あまりに思ひがけなく踏込(ふみこ)まうとするその刹那であつた爲めと、二階から響いて來た言葉が外國語だつたのと、それにつづいてあの老婦人の大袈裟な戰慄の身振りやら、ちよつと異樣な話やらで、全くくやしい事だが私も暫くの間は、多少驚かされたものと見える。本當に理智の働く餘裕はなかつたらしい。――廢屋だと確めて置いた家の中から人聲(ひとごゑ)がしたのであつてみれば、それはその家の住人でない誰(たれ)かが、そこにゐたのにきまつてゐる。その人のために我我は這入(はい)つて行くことを遠慮する理由は少しもなかつた筈だ。現に安平(アンピン)の家のなかにだつて網を繕つてゐた人間の聲がしても我我は平氣で闖入して行つた程だ。何のために我々は躊躇したか。世外民が「人が住んでゐるんだね」と言つたからだ。世外民は何故そんなことを言つたか。それはその時の彼の心理を考へなければならない。多分、聲が我我の踏み込んだ瞬間に恰もそれを咎めるがごとく響いた事が一つ――しかも、その言葉の意味は、あとで聞けば全く反對のものであるが。またあの廢屋は安平のものよりも數十倍も堂堂としてゐて荒れながらにもなほ犯しがたい權威を具へてゐた事。最後に一番重(おも)なる理由としてはそれが單に、女の若さうな玲瓏(れいろう)たる聲であつたが爲めに、若い男である世外民も私も無意識のうちに妙にひるんでゐたのである。さうして、その聲に就ては何の考へることをもせずに、ただびつくりして歸つて來てしまつたのである。

[やぶちゃん注:「玲瓏たる」宝玉を思わせるような美しい声の形容。]

「何(なん)にしても這入つて見さへすればよかつたのになあ。馬鹿馬鹿しい、誰が幽靈の聲などを聞くものか。生きて心臟のドキドキしてゐる若い女――多分、若くて美しいだらうよ、そんな氣がするな――それがそこにゐただけの事さ。――生きてゐればこそものも言ふのさ……」

「でも、むかしから傳はつてゐるのと同じ言葉を、しかも泉州(ツヱンチヤオ)言葉を、それもそのたつた一言を、その女が何故(なぜ)我我に向つて言ふのだ」

 世外民は抗議した。

「泉州言葉は幽靈の專用語ではあるまいぜ。泉州人(ツヱンチヤオナン)なら生きた人間の方がどうも普通に使ふらしいぜ。アハ、ハハ。それが偶然、幽靈が言ひ慣れた言葉と同じだつたのは不思議と言へば不思議さね。――でもたつたそれだけの事だ。君はあの言葉が我我に向つて言はれたと思ひ込むから、幽靈の正體がわからないのだよ。――外(ほか)の人間に向つて言つた言葉が偶然我我に聞かれたのだ。いや。我我を外の人間と間違へて、その女が言ひかけたのさ。さうと氣がついたから、たつた一言(ひとこと)しか言はなかつたのだ。君、何でもないよくある幽靈だぜ、あれや……」

「それぢや、昔からその同じ言葉を聞いたといふその人達はどうしたのだ」

「知らない」私は言つた。「それや僕が聞いたのぢやないのだからね。――ただ、多分は君のやうな、幽靈好きが聞いたのだらうよ。だから僕は自分の關係しない昔のことは一切知らないのだ。ただ今日の聲なら、あれは正(まさ)しく生きてる若い女の聲だよ! 世外民君、君は一たいあまり詩人過ぎる。舊(ふる)い傳統がしみ込んでゐるのは、結構ではあるが、月の光では、ものごとはぼんやりしか見えないぜ。美しいか汚いかは知らないが、ともかく太陽の光の方がはつきりと見えるからね」

「比喩など言はずに、はつきり言つてくれ給へ」一本氣な世外民は少々憤(おこ)つてゐるらしい。

「では言ふがね、亡びたものの荒廢のなかにむかしの靈が生き殘つてゐるといふ美觀は、――これや支那の傳統的なものだが、僕に言はせると、……君、憤つてはいかんよ――どうも亡國的趣味だね。亡びたものがどうしていつまでもあるものか。無ければこそ亡びたといふのぢやないか」

「君!」世外民は大きな聲を出した。「亡びたものと、荒廢とは違ふだらう。――亡びたものはなるほど無くなつたものかも知れない。しかし荒廢とは無くならうとしつつある者のなかに、まだ生きた精神が殘つてゐるといふことぢやないか」

「なるほど。これは君のいふとほりであつた。しかしともかくも荒廢は本當に生きてゐることとは違ふね。だらう? 荒廢の解釋はまあ僕が間違つたとしてもいいが、そこにはいつまでもその靈が橫溢(わういつ)しはしないのだ。むしろ、一つのものが廢れようとしてゐるその蔭からは、もつと力のある潑剌(はつらつ)とした生きたものがその廢朽を利用して生れるのだよ。ね、君! くちた木にだつてさまざまな茸(きのこ)が簇(むらが)るではないか。我我は荒廢の美に囚はれて歎くよりも、そこから新しく誕生するものを讃美しようぢやないか――なんて、柄(がら)にないことを言つてゐら。さういふ人生觀が、腹の底にちやんとしまつてある程なら、僕だつて臺灣三界(がい)でこんなだらしない酒飮みになれやしないだらうがね。だからさ、僕がさういふ生き方をしてゐるかどうかは先づ二の次(つぎ)にしてさ」

「成程。――ところがそれが禿頭港(クツタウカン)の幽靈――でないといふならば、その生きた女の聲と何の關係があるんだらう?」

「下らない理窟を言つたが僕のいふのは簡單なことなのだ。ね、我我の聞いたあの聲の言つたのは『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』云云(うんぬん)といふのだつたさうだね。それや無論誰(たれ)が聞いても人を待つてゐる言葉さ。で、あの場所の傳說のことは後(あと)にして、虛心に考へると、若い女が――生きた女がだよ、人に氣づかれないやうな場所にたつたひとりでゐて、人の足音を聞きつけて、今の一言を言つたとすれば、これは男を待つてゐるのぢやないだらうかといふ疑ひは、誰(だれ)にでも起る。あたりまへの順序だ。我我があの際(さい)、すぐさう感じなかつたのが反(かへ)つて不思議だ。あの際、僕があれを日本語で聞いたのだつたら一瞬間にさう感附くよ。そこであの場所だが、氣味の惡い噂があつて人の絕對に立ち寄らない場所だ。しかも時刻はといふと近所の人人がみな午睡(ごすゐ)をする頃だ。戀人たちが人に隱れて逢ふには絕好の時と所ではないか。――それも互によほど愛してゐると僕が考へるのは、それはいづれあそこからさう遠いところに住んでゐる人ではなからうが、それならあの家に纏はる不氣味千萬な噂はもとより知つてゐるのだらうから、迷信深い臺灣人がその恐ろしさにめげずに、あの場所を擇(えら)ぶといふところに、その戀人たちの熱烈が現れてゐる。それから、また僕は考へるね。そのふたりは大部以前から、あの時刻とあの場所とを利用することに慣れてゐるのだ。でない位(くらゐ)なら、そんないやな場所へ、女が先に來て待つ度胸も珍しいし、男だつてそれぢやあまり不人情さ。――君が、あの聲を聞いて咄嗟(とつさ)にそれをその住人のものと斷定してしまつたのも無理はないよ。彼等はそこをもう自分たちふたりの場所と信じ切つてゐるほど、その場所に安心し慣れ切つてゐるのだ。それならばこそ我我の足音聞いただけで輕輕しく、あんな聲をかけたりしたのだ。――あそこへは全く近よる人もないと見えるね。そのくせあの家は、女ひとりで這入つて行つても何の怖ろしい事もないほど、異變のない場所なのさ。若い美しい女――藝者(ゲイチア)の五葉仔(ゲフユア)のやうな奴かな。いや、若い女ではなくつて―――」

[やぶちゃん注:「藝者(ゲイチア)」「チ」の部分は実は擦(かす)れて縦棒一本とそこから右に直角に突き出た一本しか判読出来ない。現代の中国音の音写だと「者」は「ヂゥーア」であることから、取り敢えず「チ」で補っておいた

「五葉仔(ゲフユア)」不詳。中国の芸妓界の隠語か? 識者の御教授を乞う。一人前になる直前の芸妓、所謂、本邦の「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」・「舞妓(まいこ)」のようなものか? 或いはそれよりも若い「禿(かむろ)」か?

「―――」(三字分)はママ。但し、頭の一字分で改行であることから、植字工のミスかも知れない。]

「聲は若かつたがな」

「さ、聲は若くつても、事實は圖太い年增女(としまをんな)かも知れないな。でなけりや、やつぱり必ず若い熱烈なる少女か。――それはどうでもいい。判らない。しかし兎も角もさ、今日(けふ)のあの聲は不埓(ふらち)かは知らないが不思議は何もない生きた女のもので、あそこが逢曳(あひびき)の場所に擇ばれてゐたといふ事と、又それだから、あそこにはほんの噂だけで何の怪異もない事は、おのづと明瞭さ。僕は疑はない――ああ、這入つて見れやよかつたのになあ」

「例によつてそろそろ理窟つぽくなつたぞ。――理窟には合つてゐさうだよ。ただね、それが僕の神經を鎭めるには何の役にも立(たた)ない」

[やぶちゃん注:「立」のルビは「た」しかないが、特異的に補った。]

「さうかい。困つたね」

 世外民はやつぱりに私に同感しようとはしない。私は少しばかり、ほんの少しだが、忌忌(いまいま)しかつた。私は酒を飮めば飮むほど、奇妙に理窟つぽくなる。人を說き伏せたくなる。そこでお喋りになるといふごく好くない癖があつた。自分では頭が冴えてゐるやうな氣がするんだが、それは醉つぱらひの己惚(うぬぼ)れで傍(はた)で聞いたらさぞをかしいのだらう。私はつづけた。

「仕方がない。君は何とでも思ひ給へ。だが、今日の事實は怪異譚(くわいいだん)としてはまるで何の値打(ねうち)もないのだがなあ。禿頭港(クツタウカン)で聞いた話にしたつて、因緣話にはなつてゐるものか。――そんな見方をすれや、せいぜい三面特種の値打だ。寧ろ面白いのは、あんな荒つぽいいやな話のなかに案外、支那人といふものの性格や生活といふものの現はれてゐることだ。……」

「夜中(やちう)に境界標(へう)の石を四方へ擴げる話か。――あれや、君、臺灣の大地主(おほぢぬし)のことなら、みんなあんな風に言ふんだ。あれこそ臺灣共通の傳說だよ。――現に」と世外民は酒で蒼くなつた顏を苦笑させて、

「僕の家のことだつてもさう言つてらあ!」

「へえ? これはなほ面白い。いづれはどこかに本當の例が、事實あつたのだらうがね。多分、あの沈(シン)家が本當だらう。それにしてもそいつをどこの大地主にも應用するところはえらい。實際、あの話はあらゆる富豪といふものを簡單明瞭に說明するからね。ふむ。さうかね。だがそれよりも僕にもつと面白いのは犂(からすき)でよぼよぼの老寡婦を突き殺す話だ。――僕はその沈の祖先といふのは粗野な惡黨でこそあるがなかなかの人傑(じんけつ)だつたやうな氣がするのだ。ね、さうでなければ道理に合はない。いかに淸朝の末期に近い政府だつて、また先(さき)が植民地の臺灣だからと言つて、さうさう腐敗した碌(ろく)でなしの役人ばかりをあとへあとへ派遣したわけではあるまい。それが皆(みんな)丸められるのだ。單に金(かね)の力だけではあるまい。沈にはきつと役人たちよりもえらい經營の才があつたのだ――まあ聞きたまへ、僕の幻想だから。胡蘆屯(コロトン)附近と言へば、君、この島でも最もよく開墾された農業地だらう。『……いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ。……婆さん。さあどいた。畑といふものは荒して置くものぢやない。……本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ』か。さう言つてひらりと馬を下りて自分の手で突き殺したと言つたね。僕には强い實行力のある男の橫顏が見えるやうな氣がするんだ。さういふ男の手によつてこそ、未開の山も野も開墾出來るのだ。草創時代の植民地はさういふ人間を必要としたのだ。役人たちの目の利(き)いたものは、彼の事業を、政府自身の爲めに樂しみにしてゐたかも知れないのだ。その報酬に惡德を見逃すばかりか、暗には奬勵してゐたかも知れないのだ。その男はちやんとそれを心得てゐた。その遺言が更に面白いではないか。『三十年すれば』いかに植民地政治でもだんだん行屆(ゆきとゞ)いて整つて來た擧句には、彼が折角開拓した廣大な土地を、今度は彼よりももつときい暴虐者が出て左右することを見拔いてゐたのだ。何と怖ろしい識見ではないか――彼は政治といふものの根本義を、まるで社會學者みたいに知つてゐて、それを利用したのだ。人のものを掠奪(りやくだつ)してそれへすつかり仕上げをかけて、やれ田だのと畑だのと鍍金(めつき)をするのさ、そいつを賣拂(うりはら)つて金(かね)にへる。それから商賣をするんだね。全く商賣といふものは世(よ)が開化した後(のち)の唯一の戰爭だからね。しかも安全な戰爭だ――元手の多い奴ほど勝つに定(きま)つてゐる。彼は自分の子孫たちに必勝の戰術を傳授して置いたのさ。奴の仕事は何もかも生きる力に滿ちてゐる。萬歲だ。ところでさ、そのやうな先見のある男でも、自然が不意に何をするかは知らなかつたのが、人間の淺ましさだ。繁茂してゐた自然を永い間かかつて斬(き)り苛(さいな)んだ結果に贏(か)ち得た富を、一晩の颶風(はやて)でやつぱりもとの自然に返上したといふのだから好(い)いな。態(ざま)を見やがれさ。――するとやつぱり因果應報といふことになるのかな。僕はそんなことを説敎するつもりではなかつたつけな……」

[やぶちゃん注:「贏(か)ち得た」「贏」(音「エイ」)は「もう(儲)ける・あま(余)る・の(伸)びる・つつ(包)む・にな(荷)う・か(勝)つ」と訓じ、「余分に残る・残す・余分な残りもの」「利益を得る・儲ける・その利益や儲け」「賭(かけ)や競争で勝つ」の意がある。]

 私はいつの間にかひど醉つて來て、舌も纏れては來るし、段段冴えて來ると己惚(うぬぼ)れてゐた頭がへんにとりとめがなくなり、ふと口走つた――「花嫁の姿をして腐つてゐたつて? よくある奴さ。花嫁の姿をして死ぬ。それがだんだん腐つてくる、か。生きてゐる奴で冷たくなつて、だんだん腐つてくるのもある。金簪(きんさん)で飾つてさ、ウム」

 世外民はこれも亦いつもの癖で、深淵のやうに沈默したまま、私のをかしな言葉などは聞き咎めるどころか、てんで耳に入(はい)らぬらしく、老酒(ラウチユウ)の盃(さかづき)を持ち上げたままで中空を凝視してゐた。

「世外民、世外民。この男の盃を持つてゐるところには少々魔氣(まき)があるて」

 *     *     *     *

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ブログ1010000アクセス突破記念 西村少年 梅崎春生

 

[やぶちゃん注昭和三一(一九五六)年十二月発行の『別冊文藝春秋』に初出。翌年四月角川書店刊の作品集「侵入者」に収録された。

 本篇は恐らく、梅崎春生自身の実体験に基づく小説と考えてよい。午砲(ドン)が鳴らされ(彼の知られた三篇アンソロジー小説「輪唱」の中の一話砲」は昭和二三(一九四八)年九月発表)、「聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店」とあることから、戦前であり、春生の年譜的事実から言えば、彼は大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子小学校に入学しており、本文に「西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た」とあるから、作者の事実に則したものであるとするならば、大正一五(一九二六)年の時代設定と捉えて問題ない。

 本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1010000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年10月15日 藪野直史】]

 

   西村少年

 

 その西村という級友に、僕らはヨリトモという綽名(あだな)をつけた。ヨリトモとは源頼朝のことで、義経なんかをいじめた関係上、頼朝は僕ら子供の間ではあまり人気がなかった。むしろ憎まれてさえいた。

 西村は頭でっかちで、背もあまり高くなかった。頭でっかちのくせに、走るのが速く、体操もうまかった。色が白くて、皮膚もつやつやしていた。つまり、見るからに、僕たちよりは栄養が良かったのだ。僕らの級友は平均的にあまり栄養が良くなかったらしい。

 毎年の秋、その市の小学校が全部代表選手を出して、リレー競走をやるのだが、僕らの学校はいつもビリか、ビリから二番だった。

 代表選手はもちろん六年生だが、その六年の選手の校庭での練習を僕らは見る。選手たちは得意になって走っている。何と速いんだろう、まるでオートバイみたいじゃないか、と僕らはささやき合うのだが、いざ大会になって僕らが見物に出かけると、我が校の選手はたいがいの場合どんじりで、校庭の練習で見せた颯爽(さっそう)さはなく、疲れ果ててよたよたと足を動かしているに過ぎないのだ。どんなに声援をおくってもダメだった。

「何故だろうなあ」

 がっかりして帰途につきながら、僕らは話し合う。

「練習の時はあんなに速かったのになあ」

 校庭で走っているぶんには結構速く見えるのに、他校との競走となるとどうもうまく行かないと言うのも、つまるところは実力が劣っていたのだろう。体力がそれだけ劣っていたわけだ。そしてそれは栄養にも大いに関係している。

 僕らの小学校は海辺にあった。

 学区内には、漁師町や商人町や下級給料者の住宅街だのが、ごちゃごちゃに入り乱れていた。

 海辺の埋立地には格納庫があり、水上飛行機の発着場になっていた。そこから小さな港があり、港を抱くようにして腕みたいな形で岬(みさき)が伸びて曲っていた。その腕の掌にあたる場所にも人家があって、また午砲(ドン)打ち場がそこにあった。

 正午になってドンが鳴ると、学校中の窓ガラスがびりびりと慄えた。ドンの響きはいつも僕らの腹に強くこたえた。それほど僕らのお腹は空いていたわけだ。

 ドンの砲手が、西村のお父さんだった。

 西村のお父さんは退職軍人で、恩給でゆったりと暮していて、ドン打ちは道楽みたいな副業だということだった。八字髭(ひげ)を立てた、眼つきのするどい、ずんぐりした体格の小父さんだった。頭と背骨をまっすぐに立てた、特有の歩き方を見ただけでも、それはいかにも在郷軍人の典型という感じがした。

 

 西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た。

 何故西村小父さんほその息子を、優秀な付属から僕らの小学校に、あまり優秀でないこの小学校に転校させたのか、今考えてみてもよく判らない。何か特別な理由があったのか、それともただ通学距離が近いという理由だけだったのか。僕らは五年の一学期から、中学校や女学校に進学するものだけ集まって、特別学級をつくっていた。進学する者の数が少く、男女合わせて五十人ぐらいしかいなかった。だから僕らの組は、男女組または混合組と呼ばれていた。

 僕らは女はニガテだった。それまで男の子ばかりの級で、女と机を並べたことがなかったのだから、今までは校庭や講堂だけのつき合いで、無視出来たのだが、机を並べて一緒に学ぶ、あるいは成績を競うということになると、そんなわけに行かなかった。

 その頃この学校では、女の子は男の子より一段下位にあるもの、質的に段差があるもの、と一般に考えられていた。あるいは僕らだけでそう考えていた。強いてそう考えていた。だからこれを呼ぶのに「オナゴ」を以てした。あるいは「メス」。

 学校の用事以外では、僕らはオナゴと話し合うことはなかった。話しかけもしなかったし、話しかけられもしなかった。休み時間に一緒に遊ぶことはなかった。学校の帰りも別々に帰った。

 オナゴとつき合うことは恥辱であるという具合に、僕らはお互いにけんせいし合っていた。

 オナゴは恥辱である、と僕らが考えるのに、理由がないでもなかった。僕らは何かあるたびに男子ばかりの組の者から、「やあい、男女組」「やあい、混合組」とののしられた。男女組、あるいは混合組という名称そのものが、恥辱の代名詞になっていたわけだ。ところが僕ら自身は、恥辱ではあり得ない。すなわちかんたんな引き算によって、オナゴは恥辱である、という答が出て来るわけだった。

 しかし、引き算ではそう答が出ても、そっくりそのままを信じるわけにも行かない節があった。学校のふだんの成績、またはモギ試験の成績などで、大体においてオナゴの方が良好だったのだ。いつかのモギ試験などでは、一番から七番までが全部オナゴで、やっと八番目に男が入るということなどもあって、僕らはたいへん面白くなかった。そうなるとオナゴだのメスだのと呼び捨てることによって、軽視したり無視したりは出来ない。もっともそういう面白くなさが、かえってオナゴを蔑視する方向へ、蔑視しようとあがく方向へ、僕らを追いやっていたということもあるが。

「なんだい。あたしたちがメスなら、あんたたちはオスじゃないか」

 女子の中で勇ましいのがいて、ある時こう反発した時の、僕らの激昂ぶりは実にはげしかった。入学以来、こんなに怒ったことはないほどに、集団的に怒った。オスとは何ごとだ。動物や植物じゃあるまいし、オスとは何ごとだ。人間をつかまえて、オスとは何ごとだ。メスのくせに生意気な。あやまれ。あやまれ。その勇敢なる女子の名前は、河合政子と言ったが、河合政子はあやまるかわりに泣き出した。声を放って机に泣き伏した。豊かな黒髪を机に這(は)わせ、白いうなじを慄わせながら、河合政子は口惜しげに大泣きに泣いた。

 

 その河合政子と西村一作が、時折教室で顔を見合わせて、にっこりと笑うということを見つけたのは、いや、見つけたのか創作したのか知らないが、とにかくそういうことを言い出したのは、アンパンという綽名の子だった。アンパンの由来は、その子が聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店の子だったからだ。

「今日も顔を見合って、ニヤッと笑ったぞ」

 アンパンは口をとがらせて、僕らに報告した。

「あいつら、お互いにホレ合っとるらしいぞ」

 僕らは単純にして複雑な気持でその報告を聞いた。西村の席も河合の席も、教室の後部にある。アンパンの報告によると、後部であることを利用して、つまり皆に気付かれないと安心して、笑いを交しているというのだ。では、どういう時に笑いを交すか。先生から指されて、西村がうまく答える。そして西村は着席する。ちらと河合を見る。そこに笑いが交される。あるいは河合が指され、うまく答える。河合は着席しながら、ちらと西村を見る。笑いがそこに交されるというのだ。その説明を聞いた時、僕らすべての胸にもやもやとした、隠微な感情がしばらくたゆたった。怒り。憎しみ。妬(ねた)み。悲しみ。その他百千の気持が。

「付属から来たくせに生意気な!」

 僕らは付属小学校を憎んでいた。憎み、反発し、軽蔑していた。羨望するかわりに侮蔑していた。柔弱であるという点において、ゼイタクであるという点において、侮蔑していた。それはオナゴに対する僕らの感情と、どこか似通っている点もあった。その付属から転校してきたということで、西村は僕らの仲間の中で、ある特殊な位置に置かれていたのだ。

「西村を殴(なぐ)ろうか」

 アンパンが提議したが、それに応じるものはなかった。殴るという行動によって、僕らの百千の感情が表現されるわけでなし、かえって誤解される(誰に?)おそれもあるような気がするし、先生に見つかると叱られるにきまっているし、それに西村の喧嘩の実力がまだ判っていないし(足も速いし休操も巧いから、相当に強いかも知れない)提議したアンパンもうやむやにそれを引っ込めてしまった。

 そして誰言うとなく、西村のことをヨリトモと呼ぶことになった。オナゴが政子なら、男はヨリトモにきまっている。それがその綽名(あだな)の由来だった。おそらくその頃、歴史の時間で、そのくだりを習っていたのだろう。

「ヨリトモ」

「おい。ヨリトモ」

 誰も西村の本名を呼ぶものはなくなってしまった。もちろん僕らが何故彼をヨリトモと呼ぶか、直ぐにそれはオナゴたちに伝わったし、当の政子にも伝わったに違いなかった。

「ヨリトモ」

 この綽名に西村はすこし当惑したらしい。僕らの組のほとんどが綽名を持ち、それで呼び合っているのだから、綽名をつけられたと言って、そのことで怒るわけには行かない。それから、何故ヨリトモ政子とはやし立てるのか、おそらく付属在校時代はもっと男女間が親しくて、だからそんな綽名をつけられても、軽いからかいに過ぎなかっただろうから、僕らのつけたヨリトモという呼称に対して、どう身構えていいのか判らなかったらしい。軽いからかいにしては、その呼び方に悪意その他が強くこめられていたからだ。

 しかしそういうことで、西村と河合の間は妙にぎごちなく、つまりひそかに笑いを交すということが、そのままの形でこわばってきたのだ。そのこわばりは僕らにも感染した。そのこわばりの中でヤユすることで、僕らの呼び方にはますます悪質なものがこもって来た。

「ヨリトモ」

「ヨリトモ」

 河合政子も明かにこわばっていた。そしてそのこわばりに全身をもって反抗していた。彼女は組で一番美しい容貌と身体を持っていた。そして勇敢で、寛容だった。いくら寛容でも、こわばる時にはこわばる。成績も良かった。モギ試験でも必ず上位の五人のうちに入っていた。つまりいろんな点において、オナゴの中では、群を抜いていたわけだ。だから僕らが西村をヨリトモと呼び、それが直ちに政子に反応して、政子が困惑することを、内心快とする一部のオナゴたちもあったのだ。そういうオナゴたちは西村のことを、さすがに面と向ってではないが、かげではヨリトモと呼んでいるらしかった。

 そしてある日のこと、西村とアンパンは大喧嘩をした。

 アンパンがあまりにも西村のことを、ヨリトキ、ヨリトモと呼び過ぎたからだ。それも西村が単独にいる時でなく、また男ばかりの時でなく、直ぐ近くに女子たちが、河合政子などもいる時に、そう呼び過ぎたのだ。西村は顔面を硬化させて、黙っていた。その綽名には応答しなかった。

 争いが起きたのは、放課後の掃除当番の時だ。女子たちは皆帰って、当番の男子たちだけが机を動かしたり、帚(ほうき)ではいたりしていた。その帚の使い方がなっとらんと言うので、アンパンが西村の帚を取り上げようとしたのだ。

「帚をよこせ。お前は机運びになれ!」

「イヤだ」

 西村は拒絶した。机運びより帚使いの方が高級だという考えは皆にあった。

「だってお前のはき方は、ムチャじゃないか。ゴミがあちこち残っとる。帚はおれがやる」

「イヤだ」

「よこせったら。ヨリトモ!」

 瞬間に西村は帚を床に投げ捨てた。パッとアンパンに飛びかかった。二人の身体は床にころがり、格闘となった。ごろごろところがり回り、手足がはげしくぶつかった。

 僕らは慣習にしたがって、ぐるりとそこに輪になり、見物した。一対一の喧嘩にはたから手を出さない不文律があったのだ。西村はアンパンを組み伏せながらあえいだ。

「ヨリトモと言うか! まだ言うか!」

「何をヨリトモ!」

 今度はアンパンが力をこめてひっくり返した。

「何を。このヨリトモ野郎!」

 そのアンパンを足で蹴り上げて、西村がアンパンの上におっかぶさった。西村は涙を流しながら、アンパンの顔を両手で連打した。

「まだ言うか! まだヨリトモと言うか!」

 僕は知っていた。西村が怒っているのは、自分がヨリトモと呼ばれることではなく、自分がヨリトモと呼ばれることによって、河合政子が困惑することであることを。そのことは僕の胸をはげしくしめつけた。それはあきらかに嫉妬の感情だった。強い強い嫉妬の情が、僕の全身をがたがたと慄わせた。

 

 そしてその喧嘩は、ついに西村の勝利に終った。西村の執拗(しつよう)な攻撃に、アンパンは戦意を失ったのだ。西村の最後の打撃に、アンパンはワッと泣き声を上げ、敗北を表明した。

 しらじらとした喧嘩の終りが来た。西村はほこりをはらって立ち上ったが、勝利者の表情ではなかった。見物の僕らも別にどよめかず、勝利者を祝福することもなく、敗北者を慰撫することもなく、しらじらと元の掃除の部署に戻った。アンパンの泣き声だけが、いつまでもひびいた。

 アンパンの表現を借りれば、僕も西村に負けないほど、河合政子にホレていた。口には出さなかったけれども、心の底からホレていたのだ。

 そしておそらくアンパンも、またその他の大部分のわが組のオスたちも!

老媼茶話巻之三 天狗

 

     天狗

 

 加藤嘉成の士に、小嶋傳八、一子(いつし)惣九郎、十一の春の暮、何方へ行けるか、ひぐれて見へず。さまざま尋見(たづねみ)れ共、行衞、更に知れず。傳八夫婦、鳴悲(なきかな)しみ、佛神へきせいをかけ、御子(ミコ)・山伏を賴み、色々、祈禱なす。甲賀丁(ちやう)に古手屋(ふるてや)甚七といふもの、傳八方へ來り申(まうし)けるは、

「是(ここ)の惣九郎樣、廿日斗(ばかり)前の曉(あかつき)頃、我等、用事有(あり)て、はやく起(おき)、見せの戸をひらき候折(をり)、大山伏兩人、跡先(あとさき)に立(たち)、惣九郎樣を中にはさみ、東へ向きて道をいそぎ候が、壱人の山伏、我等が方へ參り、

『此邊に十斗(ばかり)成(なる)子共のはくべきわらぢのうりものは、これなきや否や。』と申(まうす)。

『無(なし)。』

答へ候へば、夫(それ)より、いづく行(ゆき)候や、姿を見失ひ申候。」

と語る。

 傳八夫婦、聞(きき)て、

「扨(さて)は天狗にさらわれたるもの也。」

とて、其頃、妙法寺の日覺上人といふ、たつとき出家を賴(たのみ)、五の町車川の端に護摩壇をかざり、法家坊主弐拾人斗(ばかり)にて經讀祈禱する。

 七日にまんずる日中(ひなか)、一點の雲なき靑天、虚空にちいさき物、見ゆる。見物の諸人、山をなして、空を見るに、東より大とび壱羽、飛來(とびきた)り、是をさらい取(とら)んとする事、度々なり。

 時に、壱羽、金色(こんじき)の烏(からす)、何方共(いづかたとも)なく飛來り、此鳶を隔(へだ)て近づけず、段々に地にくだり、間近く見るに、人なり。三拾番神の壇に落(おち)たるを見るに、小嶋惣九郎也。

 諸人奇異の思ひをなし、其頃、日覺上人をば、

「佛の再來也。」

と諸人、沙汰せし、といへり。

 惣九郎は、一生、空氣(うつけ)に成(なり)、役にたゝざりしと也。

 

[やぶちゃん注:これは、柴田宵曲の妖異博物館「天狗の誘拐」にも紹介されている(リンク先は私の電子化注のそれが出る最後のパート)。

「加藤嘉成」陸奥会津藩初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)とその嫡男で陸奥国会津藩第二代藩主となった加藤明成(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)(複数回既出既注)の名を混同した誤り今までの記事から見て、後者と思われる。但し、先の柴田宵曲の妖異博物館「天狗の誘拐」では、勝手に父の方「加藤嘉明」として紹介してある。不審。

「小嶋傳八」不詳。

「ひぐれて」「日暮れて」。この前後、原典は「何方へ行けるかかひくれて見へす」。「搔い(き)暮れて」と読めなくもないが、底本編者は「か」の一字ダブりは衍字と判断しているので、今回は除去した。

「きせい」「祈誓」。

「御子(ミコ)」「巫女」。

「甲賀丁(ちやう)」現在の福島県会津若松市相生町(あいおいまち:(グーグル・マップ・データ))の中の旧町名。ウィキの「相生町会津若松市によれば、『甲賀町(こうかまち)は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、南側は甲賀町口、北側は滝沢組町に接する幅』四『間あまりの通りであった。傍出町として大工町があったほか、甲賀町は文禄年間の成立で、蒲生氏郷が日野(近江)から移住した商工業者を置いた町であるとされる。このため、かつては日野町と呼ばれていたが、加藤氏が甲賀町と改称したとされる』とある。

「古手屋(ふるてや)」古着や古道具を売買する店。

「子共のはくべきわらぢのうりもの」「子供の履くべき草鞋の賣り物」。

「さらわれたる」「わ」はママ。「攫はれたる」。

「妙法寺」現在の福島県会津若松市馬場本町(相生町の東隣接地区で、前の古手屋甚七の家からごく近いと思われる)に、現在は顕本法華宗の別格本山である宝塔山妙法寺があるから、ここであろう。ウィキの「妙法寺会津若松市)によれば、明徳二(一三九一)年に『会津出身の僧日什が、故郷会津に帰国した際、城主蘆名氏が寄進』したとある。但し、『戊辰戦争で堂宇』は全焼してしまったとある。(グーグル・マップ・データ)。

「日覺上人」不詳。識者の御教授を乞う。

「五の町」同じく先の相生町の中の旧町名。ウィキの「相生町会津若松市によれば、『五之町(ごのまち)は、若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、西側の大町から馬場町を経て東側の中六日町に至る幅』三『間の通りであった。また、四之町の北に位置していたほか、五之町には元禄年間に移った臨済宗実相寺があった。西側の大町から馬場町までを下五之町、東側の馬場町から中六日町までを上五之町といった』とある。

「車川」河川名であるが、不詳。地図を見ると、現在の相生町の北西には川らしきものがあり、その直線上を辿って同地区を越えた辺りに身近に川らしきものが南東に少し見えるから、現在は相生地区下では暗渠になっていると推定されるものが旧車川なのかもしれない。この川らしきもの、実は妙法寺の北直近でもあるのである。

「法家坊主」ママ。「法華坊主」。川端での祈禱パフォーマンスは布教にも一役買ったことであろう。

「大とび」「大鳶」。

「是」空中に浮かぶ「ちいさき物」。実は空中を浮遊する小嶋惣九郎である。

「さらい」ママ。「攫ひ」。

「金色(こんじき)の烏(からす)」神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされて、彼を熊野から大和橿原へと道案内したとされる神の使いたる鴉(一般的に三本足とされる)である八咫烏(やたがらす)の変形であろう。山伏らの修験道と密接な関係を持つ熊野三山に於いて、八咫烏は太陽の化身(金色と連関)ともされ、またミサキ神(死霊が鎮められた神霊としての神の使い)ともされており、熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されるが、「日本書紀」では同じ神武東征の場面に金鵄(きんし:金色の鳶(とび))が長髄彦(ながすねひこ)との戦いで神武天皇を助けたともされることから、「八咫」と「鵄」がしばしば同一視或いは混同されるからである(ここはウィキの「八咫烏を参考にした)。

「三拾番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 明日(あす)は明日(あす)こそは


Asukoso


   明日(あす)は明日(あす)こそは

 

 暮れて行く一日一日のなんと空しく、味氣なく、はかないものであることぞ。その殘す跡形(あとかた)のなんと乏しく、その一刻一刻のなんと愚かしく、無意味に流れ過ぎたことぞ。

 しかも猶、人は生きたいと望む。生を重んじ、希望を生(いのち)に、己れに、未來に繫ぐ。……ああ人は、どんな幸を未來に俟つのであらうか。

 一體なぜ人間は、來たるべき日々に、今しがた暮れたこの日に似ぬものの姿を、思ひ描かうとするのであらうか。

 いや人間は、そんな事は思ひもしないのだ。人はもともと考へることを好まない。そしてこれは、賢明と言ふべきだ。

 「なあに、明日(あす)は、明日(あす)こそは」と、人は己れを慰める。この「明日(あす)」の日が、彼を墓場へ送り込むそのときまで。

 さて、一旦墓のなかに橫はれば厭でも考へごとはやめなければなるまい。

             一八七九年一月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない。

 

「橫はれば」「よこたはれば」。「た」の脱字が疑われるが、読めないわけではないのでママとした。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 鳩


Hato

   

 

 わたしは、なだらかな丘の上に佇んでゐた。見渡すかぎり一面の麥の穰(みの)りは、金色のまた銀いろの海原をなして、なだらに擴つてゐる。

 しかしこの海には、波ひとつ立たない。大氣は蒸し暑く、そよりともしない。今にも大きな夕立が來さうな氣配。

 あたりはまだ暑い日ざしで、草いきれに煙つてゐる。が、麥畑の彼方遠からぬあたりに、鼠色の雨雲がむくむくと涌き出で、地平の半ばを蔽うてゐる。

 物みなは息を凝らしてゐる。物みな、凄じい落日の光に蒸されて、萎(な)え凋んでゐる。一鳥の姿もなく、聲もない。雀までが影をひそめた。ただ何處かすぐ間近に、大きな山牛蒡の葉が一枚、ばさばさと鳴りはためく。

 畠垣の苦蓬の香が、強く鼻をつく。わきおこる雨雲を眺めてゐると、なんとなく胸さわぎがしてくる。――「さあ急げ、急いでこい」とわたしは心のなかでつぶやく、「ひらめけ、金の蛇。鳴れよ、雷。まがつ雨雲は搖(ゆる)げ、飛べ、そそぎ降れ、そし斷て、のしかかるこの倦怠を。」

 けれど雨雲はじつとして動かない。ひつそりと鳴りをひそめた大地のうへに、相變らず重くのしかかつてゐる。思ひなしか僅かに膨らみ、やや黑みを增しただけである。

 そのとき、鼠一色の雲の面を、何かしら一片の雪とも、白いハンカチとも見まがうものが、ひらひらと掠めて過ぎた。それは、村の方から飛んで來た一羽の鳩だつた。

 みるみる一直線を引いて飛びかけり、森のなかに姿を消した。

 幾瞬かが流れた。矢張り同じ不氣味な靜寂が、あたりを領してゐる。けれど見よ、雪の面を今度は二枚のハンカチが、二片の雪が、もと來た道を引返す。それは先刻(さつき)の白鳩が二羽になつて塒(ねぐら)に急ぐ姿であつた。

 にはかに、嵐の幕は破れた。沛然として慈雨が來た。

 わたしは大急ぎで、やつと家に辿りつくことができた。――風は狂ひ吼え、雲は赤く低く、きれぎれに裂けて走る。物みな渦卷き入りみだれるなかを、篠つく雨の脚が大搖れに揺れながら地面を叩く。稻妻は靑くはためきわたり、雷鳴は、とだえてはまた轟く砲聲のやう。硫黃の匂ひもする。……

 ふと屋根庇のかげを見ると、二羽の白鳩が仲よく、明り窓の緣に並んでとまつてゐる。友を迎へに飛んで行つたのも、運れ戾されて恐らく命拾ひしたのも。

 二羽ともまん丸にふくれて、たがひの羽毛の觸れ合ふのを感じてゐる。

 樂しげな二羽の鳩よ。お前たちを眺めるわたしの心も樂しい。相も變らず孤獨なわたしだけれど。

             一八七九年五月

 

[やぶちゃん注:五段落目の最後には鍵括弧閉じるは、実は、ない。なくても問題はないとも言えなくもないが、矢張り落ち着かない。一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳の神西訳を元に池田氏が訳し直した「はと」によって特異的に補った。また、底本ではページ最終行であるため、クレジットが本文末の下二字上げインデントで入るが、改行した。

「山牛蒡」原文は“лопуха” で、これはキク亜綱キク目キク科ゴボウ属 Arctium を指すが、ここはユーラシア原産の我々の馴染みのゴボウ Arctium lappa でとってよいであろう。中山省三郎譯「散文詩」では「馬蕗」とあるものの、これは牛蒡の葉が、同じキク科のフキ Petasites japonicus に似ており、馬が好んで食べた事に由来するゴボウの別名である。

「苦蓬」キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium。ウィキの「ニガヨモギ」によれば、草高は四〇センチメートルから一メートルほどで、『全体を細かな白毛が覆っていて、独特の臭いがある。葉は』十五センチメートル『ほどの羽状複葉で互生する。葉の表面は緑白色、裏面は白色。花期は』七~九月で、『多数の黄色い小さな花を円錐状につける』。『原産地はヨーロッパ』であるが、『北アメリカ、中央アジアから東アジア、北アフリカにも分布している。日本には江戸時代末期に渡来した』。学名は「聖なる草」を『意味するエルブ・アブサントに由来する。英名』(worm wood:「ワーム」は蛇)『はエデンの園から追放された蛇の這った後に生えたという伝説に由来するとも、防虫剤に使ったからともいわれる』。『北欧のバイキングの間では死の象徴とされていた』。『葉、枝を健胃薬、駆虫薬としてもちいる。干したものを袋に詰め衣類の防虫剤として使う』。『清涼飲料水、リキュール、ハーブ酒などに香り付けなどの目的でつかわれる。食品添加物として認可されており、狭義ではカフェインと同じく苦味料に分類される。ニガヨモギを用いたリキュールでは、「緑の魔酒」ともいわれるアブサンが有名だが、白ワインを主にニガヨモギなどのハーブを浸けた、チンザノなどのベルモットの方が一般的である』。『一度にたくさん摂取すると含まれるツヨン』(thujone:「ツジョン」とも。モノテルペン。ケトン)『により嘔吐、神経麻痺などの症状が起こる。また、習慣性が強いので連用は危険である』とある。また、「新約聖書」の預言書とされる「ヨハネの黙示録」の第八章(一〇と一一)には、「第三のみ使いがラッパを吹き鳴らした。するとたいまつのように燃えている大きな星が落ちた。それは川の三分の一と水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、川の三分の一が苦よもぎのように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んでしまった」と書かれてあるが(引用は私の所持するフランシスコ会聖書研究所訳注版(昭和四七(一九七二)年中央出版社刊を用いた)、『これは正確にはニガヨモギではなく』、同属の別種『Artemisia judaica だとする説が有力であ』り、また、私は他でも何度か述べたが、チェルノブイリ原発事故直後から、この「黙示録」の一節と事故を重ね合わせ、『しばしば「ウクライナ語(あるいはロシア語)でニガヨモギはチェルノブイリ」などと言われることがあるが』『(ウクライナ語ではチョルノブイリ)』、『これは実は『正確ではな』く(私も教師時代にしばしばこの話をしたものだったが)、『ウクライナ語の「チョルノブイリ」(чорнобиль / chornobilʹ)』はニガヨモギの近縁種であるオウシュウヨモギ Artemisia vulgaris であって、種としてのニガヨモギを指すものではない。『チョルヌイ(chornyj)は「黒い」、ブイリヤ(bylija)は「草」の意味で、直訳すれば』、『「黒い草」となる。一方、ニガヨモギ Artemisia absinthium の方はポリン』(полин / polin)『であって、チェルノブイリではない。このオウシュウヨモギ Artemisia vulgaris(=チョルノブイリ)はニガヨモギ Artemisia absinthium と『ともに、原発事故』で全世界に知られるようになってしまった『チェルノブイリ周辺で自生し、その地の地名になっている』のではあるが、ロシア語でもオウシュウヨモギは「チェルノブイリニク」(Чернобыльнык / Chernobylʹnyk)、ニガヨモギは「ポルイニ」(Полынь / Polynʹ)であって、両者は厳然と区別されている。『これらが混同され』た上に、ファンダメンタリスト聖書原理主義者)の終末思想宣伝に我々は乗せられたに過ぎないことを、ここで明記しておきたい(下線太字やぶちゃん)。]

2017/10/14

佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その2) / 三 戰慄~了

 

 その四代ほど前といふのは、何でも泉州(ツヱンチヤオ)から臺灣中部の胡蘆屯(コロトン)の附近へ來た人で、もともと多少の資產はあつたさうだが、一代のうちにそれほどの大富豪になつたに就(つい)ては、何かにつけて隨分と非常なやり口があつたらしい。虛構か事實かは知らないけれどもこんなことを言ふ――例へば、或時の如き隣接した四邊(あたり)の田畑の境界標(きやうかいへう)を、その收穫が近づいたところを見計(みはから)つて、夜(よる)のうちに出來るだけ四方へ遠くまで動かして置く。その石標(せきへう)を抱(だ)いて手下の男が幾人も一晩のうちに建てなほして置くのだ。次の日になると平氣な顏をして、その他人の田畑を非常な多人數(たにんず)で一時(じ)に刈入れにかかつた。所有者達が驚いて抗議をすると、その石標を楯に逆に公事(くじ)を起した。その前にはずつと以前から、その道の役人とは十分結託してゐたから、彼の公事は負ける筈はなかつた。彼は惡い役人に扶(たす)けられまた扶けて、臺灣の中部の廣い土地は數年のうちに彼のものになり、そこのどの役人達だつて彼の頤(おとがひ)の動くままに動かなければならないやうになつた、惡い國を一つこしらへた程の勢(いきほひ)であつた。一たいこの頃、沈(シン)は兄弟でそんなことをしてゐたのだが、兄の方は鹿港(ロツカン)の役所の役人と口論の末に、役人を斬らうとして却つて殺されてしまつた。これだつても、どうやら弟の沈が仕組んで兄を殺させたのだといふ噂さへある程で、兄弟のうちでも弟の方に一層惡性(あくせい)がある。實際、兄の方はいくらかはよかつたらしい。ある時、彼等のいつもの策で、隣(となり)の畑へ犂(からすき)を入れようとしたのだ。その時にはその畑に持主が這入つてゐるのを眼の前に見ながら、最も圖太(づぶと)くやりだしたのだ。といふのはその畑の持主といふのは七十程の寡婦だつた。だから何の怖れることもなかつたのだ。しかし第一の犂(からすき)をその畑に入れようとすると、場にあつたこの年とつた女は急に走つて來て、その犂の前の地面へ小さな體(からだ)を投げ出した。

「――助けて下さい。これは私の命なのです。私の夫と息子とがむかし汗を流した土地です。今は私がかうして少しばかりの自分の食ひ代(しろ)を作り出す土地です。――この土地を取り上げる程なら、この老(おい)ぼれの命をとつて下さい!」

 沈(シン)の手下に働くだけに惡い者どもばかりではあつたけれども、さすがに犂(からすき)をとめたまま、土をさへ突(つ)かうとする者もなかつた。男どもは歸つてこの事を兄の沈に話すと、彼は苦笑をして「仕方がない」と答へたさうだ。弟の沈はその時は何も知らなかつた。しかし、その後(ご)二三日して見廻りに來て、馬上から見渡すと彼等の畑のなかにひどく荒れてゐるところがあるので作男どもを叱つた。するとそれが例の寡婦の畑だと判つて、初めてその事情を聞いた。なるほど、今もひとり老ぼれの婆さんがそこにゐるのを見ると、彼は馬を進めた。さうして近くに働いてゐた自分の作男に、言つた――

「犂(からすき)を持つて來い」

 主人の氣質を知つてゐるから作男は拒(こば)むことが出來なかつた。主人は再び言つた――

「ここの荒れてゐる畑ヘ、犂を入れろ。こら! いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ」

 老寡婦はこの前と同じ方法を取つて哀願した。作男が主人の命令とこの命懸けの懇願との板挾みになつて躊躇してゐるのを見ると、沈は馬から下りた。畑のなかへ步み入りながら、

「婆さん。さあ退(ど)いた。畑といふものは荒(あら)して置くものぢやない」

 さう言ひながら、大きな犂(からすき)を引いてゐる水牛の尻に鞭(むち)をかざした。婆さんは沈の顏を見上げたきり動かうとはしたかつた。

「本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ」

 言つたかと思ふと、ふり上げてゐた鞭を强(したゝ)かに水牛の尻に當てた。水牛が急に步き出した。無論、婆さんは轢殺(ひきころ)された。

「さあぐづぐづせずに、あとを早くやれ――。こんな老ぼれのために廣い地面を遊ばして置いてなるものか」

 いつもと大して變らない聲でさう言ひながら、この男は馬に乘つて歸つてしまつた。これほどの男だからこそ、その兄があんな死に方をした時にも、世間では弟の穽(おとしあな)に落ちたのだと言つて、でも自分の手に懸けないだけがまだしも兄弟の情(じやう)だ、などと噂したさうである。何(なに)にしても、兄が死んでしまつてから弟がその管理を一切ひとりでやつた。その後(ご)、その家は一層榮えるし、彼は七十近くまで生きてゐて――惡い事をしても報いはないものかと思ふやうな生涯を終る時に、彼は一つの遺言をしたのだ。その遺言は甚だ注意すべきものである。

「今から後(のち)、三十年經つたら我我の家族は、田地をすつかり賣り拂つて仕舞(しま)はなけりやならない。それから南部の安平(アンピン)へ行つてそこで舟を持つて本國の對岸地方と商賣をするのだ」

[やぶちゃん注:「仕舞(しま)はなけりやならない」は底本では「仕舞(しま)はなけやならない」であるが、読めないので、脱字と断じて特異的に「り」を挿入した。]

 その理由を尋ねようと思ふともう昏睡してしまつてゐた。しかし子供はその遺言を守つて、安平(アンピン)の禿頭港(ツタウカン)へ出て來たのだと言ふ。――この遺言の話はやつぱり沈(シン)の一族からずつと後(のち)に洩れたといふので皆知つてゐたが、あの一晩の颶風(はやて)が基(もと)で、それこそ颶風(はやて)のやうに沈家に吹き寄せた不幸の折から、世間の人人は沈家の祖先の遺言から、またその祖先のした惡行をさまざまに思ひ出して、因果は應報でさすがに天上聖母は沈の持舟(もちぶね)を守らない。――あの遺言こそまるで子孫に今日(けふ)の天罰を受けさせようと思つて、老寡婦の死靈(しりやう)が臨終の仇敵(きうてき)に乘り移つたのだとか、あの颶風(はやて)はその老寡婦が犂(からすき)で殺されてから何十年目の祥月命日であるとか、人人は沈家の悲運を同情しながらもそんなことを噂した。何にしても、大きな不運の後(あと)であとからあとから一時(じ)に皆、死に絕えてしまつて、遺(のこ)つた人といふのは年若い娘ひとりで、それさへ氣が狂つて生きてゐた。

[やぶちゃん注:「天上聖母」
道教の女神媽祖(まそ)の別称。航海・漁業の守護神として中国沿海部を中心に、特に台湾・福建省・潮州で強い信仰を集める。「天后」「天妃」「娘媽」とも呼ばれ、一部では道教で最も地位の高い神の一人ともされるようである。

 祖先にたとひどんな噂があらうとも、かうして生きてゐる纖弱(かよわ)い女をほつて置くわけにはいかないといふので、近隣の人人は、いつも食事くらゐは運んでやつた。それが永い間絕えなかつたといふのも、いはば金持の餘德とも言へよう。といふのは食事を運んでやる人たちは、その都度何かしら、その家のそこらに飾つてある品物の手輕なものを、一つ二づつこつそりと持つて來る者があるらしかつた。部屋にあつたものは自(おのづ)と少(すくな)くなり、さうなると近隣でも相當な家の人達はもうそこへ行かなくなつた――他人のものを少しづつ掠(かす)めてくるやうな人たちの一人と思はれたくないと思つて、自(おのづ)と控へるやうになつたのである。そのりにはまた、厚かましい人があつて、當然のやうな顏をして品物を持つて來てそれを賣拂(うりはら)つたりするやうな人も出て來た。下さいと言つて賴むと氣の違つてゐる人は、極く大樣(おほやう)にくれるといふことであつた。――「さあ、お祝ひに何なりと持つておいで」高價なものをさういふ風に奪はれて、やつぱりあの家では昔の年貢を今收めゐてゐるのだよなどと、口さがない人人は言つた。

 どういふ風に、娘は氣が違つてゐるのかといふのに、娘は刻刻に人の――恐らくは彼女の夫(をつと)の、來るのを待つてゐるらしかつた。人の足音が來さへすれば叫ぶのだ――泉州(ツヱンチヤオ)言葉で、

「どうしたのです。なぜもつと早く來て下さらない?」

 ――つまり、我我が聞いたのと全く同じやうな言葉なのだ。彼女は姿こそ年とつたがその聲は、いつまでも若く美しかつた! ――我我が聞いたその聲のやうに?

 その聲を聞いて、人人は深い哀れに打たれながら、その部屋へ這入つて行くと、彼女は人人を先づ凝視して、それからさめざめと泣くのだ。待つてゐた人でなかつた事を怨むのだ。そこで人人は明日こそその當(たう)の人が來るだらうと言つて慰める。彼女はまた新しい希望を湧き起す。彼女はいつも美しい着物を着て人を待つ用意をしてゐた。たしかに海を越えて來るその夫を待つてゐるのだといふことは疑ひなかつた。さういふ風にして彼女は二十年以上も生きてゐたのだらう―

[やぶちゃん注:ダッシュ一字分はママ。ここは行末であるが、私はここで改行と読んだ。]

「私が十七の年に、初めてこの家へ來たころには、その人はまだ生きてゐたものです」と、この長話を我我に語つた禿頭港(クツタウカン)の老婦人は言つた。――この婦人ももう六十に近いであらうが四十年位(くらゐ)前にこの家へ嫁に來たものと見える。「私は近づいてその人を見た事はありませんけれども、天氣の靜(しづか)な日などには、よく皆(みんな)が『またお孃さんが出てゐるよ』といふものだから、見ると走馬樓(ツアウベラウ)の欄干によりかかつて、ずつと遠い海の方を長いこと――半日も立つて見てゐるらしいやうなことがよくありました。夫を乘せた舟の帆でも見えるやうに思つたものですかねえ。いづれやつぱりその海が見えるからでせう、お孃さんのゐる部屋といふのは、あの二階ばかりで、外の部屋ヘは一足(ひとあし)も出なかつたさうです。皆はお孃さん、お孃さんと呼び慣はしてはゐましたが、その頃はもうやがて四十ぐらゐにはなつてゐるだらうといふ事でした。それが、何日(いつ)からかお孃さんの姿をまるで見かけなくなつたのです。病氣ででもあらうかと思つて人が行つてみると、お孃さんはそこの寢牀(ねどこ)のなかでもう腐りかからうとしてゐたさうです。金簪(きんさん)を飾つて花嫁姿をしてゐたと言ひますよ。――それが不思議な事に、それだのに、その人が二階へ上らうとすると、やつぱりお孃さんが生きてゐた時と同じやうに、凉しい聲でいつもの言葉を呼びかけたさうです。ね! 貴方がたの聞いたのと少しも違はない言葉ですよ! だから死んでゐようなどとは露(つゆ)思はなかつただけにその人は一層びつくりしたとの事です。それから後(のち)にも、その聲をそこで聞いたといふ人は時時あつたのです。――お孃さんは病氣といふよりは、もしや飢ゑて死んだのではあるまいかと云ふ人もあります。といふのはその家のなかには、昔こここにあつた見事な樣々の品物が、もうに何一つ殘つてゐなかつたさうですから。さうして死骸に附いてゐた金簪(きんさん)は葬(とむらひ)の費用になつたと言ひます」
 
 

佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その1)

 

    戰慄 

 

 老婆は改めてやつと語り出した、初めはひとり言(ごと)めいた口調で……

「……さういふ噂は長いこと聞いてはゐました。けれどもその聲を本當に、自分が本當に聞いたといふ人を――見るのは初めてです。若い男の人たちは、一たいそこへ近づいてはいけなかつたのです。貴方がたは最初、私にその裏口をおききになつた時に、私はほんたうはお留めしたいと思つたのですが、それには長い話がいるし、また昔ものが何をいふかとお笑ひになると思つたものですから……。それに今はもう月日も經つたことではあり、私もまさかそんなことがあらうと信じなかつたものだから……。でも、私は何か惡い事が起らねばいいと氣がかりになつて、實は貴方がたの樣子をこちらから見守つてゐたところです。――あれは昔から幽靈屋敷だといふので、この邊では誰(だれ)も近づく人のなかつたところなのです。――ごらんなさい。あそこの大きな龍眼肉(ゲンゲン)の樹には見事な實(み)が鈴生(すゞなり)りにみのるのですが、それだつて採りに行く人もない程です……」

 彼女は向うに見える大樹を指さし、自(おのづ)とその下の銃樓が目についたのであらう――

「昔はあの家は、海賊が覘(ねら)つて來るといふので、あの櫓(やぐら)の上に每晩鐡砲をもつて不寢番(ふしんばん)が立つた程の金持でした。北方の林(リン)に對抗して南方の沈(シン)と言へば、誰ひとり知らぬ人はなかつたのです。いいえ、まだつい六十年になるかならぬぐらゐの事です。大きな戒克船(ジヤンク)を五十艘も持つて、泉州(ツヱンチヤオ)や漳州(チンチヤオ)や福州(チウチヤオ)はもとより廣東(カントン)の方まで取引をしたといふ大商人で船問屋(ふなどんや)を兼ねてゐました。『安平港(アンピンカン)の沈(シン)か、沈の安平港か』とみんな唄つたものです。――御存じの通りそのころの安平港はまだ立派な港で、そのなかでも禿頭港(タツタウカン)と言へば安平と臺南(たいなん)の市街とのつづくところで、港内でも第一の船着(ふなつ)きでした。これほど賑やかなところは臺南にもなかつた程だといひます。――沈(シン)は本當に安平港の主(ぬし)だつたと見える。――沈家(シンけ)が沒落すると一緖に、安平港は急に火が消えたやうになりました。沈(シン)のゐない安平港へは用がないと言つて來なくなつた船が澤山あるさうです。それに海はだんだん淺くなるばかりで、しかもいつの間にか氣がついた頃にはすつかり埋(うづ)まつてゐたのですよ。この急な變り方までが、まるで沈家にそつくりだと、今もよくみんなして年寄たちは話し合ひますよ。……沈の家ですか? それがまた不思議なほど急に、一度に、唯の一夏(ひとなつ)の、しかも只の一晩のうちに急に沒落したのです。百萬長者が目を開けて見ると乞食になつてゐたのです。夢でもかうは急に變るまい。他人事(ひとごと)ながら考へれば人間が味氣(あぢき)なくなる――と、家の父はこの話が出るとよくさう言ひました。何でも沈の家ではその時、盛りの絕頂だつたのです。今の普請(ふしん)もついその三四年前に出來上つたばかりで、その普請がまた大したもので、石でも木でもみんな漳州(チンチヤオ)や泉州(ツヱンチヤオ)から運んだので、五十艘の持船(もちふね)がみんな、その爲めに二度づつ、そればかりに通うたといふ程ですよ。それといふのも沈家には、この子の爲めなら、双親(ふたおや)とも目がないという可愛い、ひとり娘があつて、それの婿取りの用意にこんな大がかりな普請をしたものださうです。それに美しい娘だつたさうです――私が見た時には、もう四十ぐらゐになつてもゐたし、落(おち)ぶれてれてへんになつてはゐましたが、それでもさう聞けばなるほどと思ふやうなところはありました……」

[やぶちゃん注:「戒克船(ジヤンク)」「戒」はママ。「戎克船」の誤りである。英語で“junk”であるが、元来はジャワ語で「船」の意。中国の沿岸や河川などで用いられている伝統的な木造帆船の総称。多数の水密隔壁により、船内が縦横に仕切られ、角形の船首と蛇腹式の帆を持つのが特徴。

「それに美しい娘だつたさうです」の「それに」は「それは」の誤植が疑われる感じはする。]

「そんなにまた、急に、どうして沈の家が沒落したのです?」世外民は、性急に話の重大な點をとらへてたづねた。

「ごめんなさい、私は年寄で話が下手で」――聞いてゐるうちに解つて來たが、この老婆は上品な中流の老婦人であつた。「怖ろしい海の颶風(はやて)だつたのです。陸(をか)でも崩れた家が澤山あつたさうです。それはさうでせう。――ごらんなさい、あの沈(シン)の家の水門の石垣でさへあの角(かど)が吹き崩されたのださうです。さうしてそれを直すことさへもう出來なかつたので、今もそのままに殘つてゐるのですが、夜(よ)が明けてみてその石垣――そのころはまだ築いたばかりの新しい石垣の、あんな大きな石が崩れ落ちてゐるのを見て、沈の主人は心配さうにそれを見てゐたさうです。運の惡い事に、その晩、宵のうちは靜かな滿月の夜でもあつたさうだし、沈の五十艘の船はみんな海に出てゐたのださうです。沈の主人は――五十位(ぐらゐ)の人だつたさうですが、崩れた石垣を見るにつけても、海に出てゐた持船(もちぶね)が心配だつたのでせう。船の便りは容易に知れなかつたさうですが、五日(か)經つても十日經つても歸る船はなかつたさうです。ただ人間だけが、それも船出した時の十分の一ぐらゐの人數(にんず)がぽつぽつと病み呆けて歸つて來て、それぞれに難船の話を傳へただけでした。無事に歸つた船は只の一艘もなかつたさうです。尤も、人の噂では、港にゐて颶風(はやて)に出會はなかつた船も三艘や五艘あつたに相違ないが、友船(ともふね)が本當に難船したことから惡企(わるだく)みを思ひついて、自分達の船も難船して自分は死んだやうな顏をして、船も荷物も橫領したまま遠くへ行つてしまつて歸つて來なかつたものも、どうやらあるらしいと言ひます。現に何處(どこ)とかの誰(たれ)は廣東(カントン)で、死んだ筈の何の某(なにがし)に逢つたの、名前と色どりとこそ變つてゐたが沈(シン)の船の『躑躅(てきちよく)』とそつくりのものを廈門(ヱイムン)で見かけたなどと、言ふ人もあつたさうです。何(なん)にしても一杯に荷物を積み込んだ大船(おほふね)が五十艘歸つて來なかつたのです。その騷ぎはどんなだつたか判るではありませんか。なかには沈自身の荷物ではないものも半分以上あつて、荷主(にぬし)は、みんな沈の家へ申し合せて押(おし)かけて、その償ひを持つて歸つたさうです。普請や娘の支度などで金を費(つか)つたあとではあり、それに派手な人で商ひも大きかつただけに、手許(てもと)には案外、金(きん)も銀も少(すくな)かつたと言ひます。人の心といふものは怖ろしいもので、かうなつて仕舞ふと、取るものは殘らず取立てても、拂つて貰へる可(べ)きものは何も取れない。そればかりか殆んど日どりまで定(きま)つてゐた娘の養子は斷つて來たさうです。もともと金持の沈と緣組をする筈で貧乏人の沈と緣を結ぶつもりではなかつたからでせう。……おお、あそこに、いい日蔭が出來ました。あそこへ行つてまあ腰でもお掛けなさい」

[やぶちゃん注:「躑躅」不詳。ルビは「てきちよく」とあるが、「てきしよく」の誤植であろう。現行の日本では植物のツツジであるから、それを船体に描いた船のことかとかとも思ったが、中国語ではこれは本来、「
足踏みをする」という意味で、船名としては不吉であるから不審である。識者の御教授を乞うものである。

 老婆は、ちやうど前栽(ぜんざい)に一本だけあつた榕樹が、少し西に傾いた日ざしによつてやや廣い影を造つたのを見つけて、さう言ひながら自分がさきに立つて小さな足でよちよちと步いた。今まで別に氣がつかずにゐたが、この老婆の家といふのも大したことはないが一とほりの家で、昔の繁華の地に殘つてゐるだけの事はあつた。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、この老婆は纏足であることがこの描写から判る。

「前栽(ぜんざい)」の読みはママ。]

 樹(こ)かげで老婆は更に話しつづけた。彼女はよほど話好きと見えて、また上手でもある。ただ小さい聲で早口で、それが私にとつては外國語だけに聽きとりにくい場合や、判らない言葉などもある。私は後(のち)に世外民にも改めて聞き返したりしたが、更に老婆の說きつづけたことは次のやうである――

 前述のやうな具合で沈の家が沒落し出すと、それが緖(いとぐち)で主人の沈は病氣になりそれが間もなく死ぬと同時に、緣談の破れたことを悲しんでゐた娘は重なる新しい歎きのために鬱鬱としてゐた擧句、たうとう狂氣してしまふ。その娘を不憫に思つてゐるうちにその母親も病氣で死んでしまふ。全く、作り話のやうに、不運は鎖(くさり)になつてつづいた。

 一たいこの沈といふ家に就(つい)て世間ではいろいろなことを言ふ。 

 *     *     *     *

    *     *     *

老媼茶話巻之三 幽靈

 

     幽靈

 

 融通寺(ゆつうじ)町に古館山城安寺と云(いふ)淨土寺有(あり)。爰に女の幽靈の像あり。幽靈は蒲生秀行の乳母なり。其折は此寺に住僧もなく、覺夢といふ閑主坊(かんしゆばう)住めり。此うば、その僧にゆかり有りけん、兼て導師を賴置(たのみおき)り。しかるに乳母、罪なくして人の爲にざんせられて、秀行卿の御母公(おんははぎみ)の御にくみを蒙り、終(つひ)に、其つみ、申(まうし)ひらく事あたはず、自ら刃(やいば)にふして死(しに)たり。最後に申置(まうしおく)、

「葬(はふ)り、火葬。」

の由、覺夢が方へ申來(まうしきた)り、則(すなはち)、

「今夕、棺を寺へ持來(もちきた)るべし。」

と、なり。

 覺夢、元より、一文不通(いちもんふつう)の愚僧なれば、引導のすべを知らず。

「いかゞせん。」

と案じ居たり。

 葬の義、申來辰の下刻成(な)るに、日中に、佛壇、ひゞき渡り、何となく物すごく、空のけしきもたゞならず、かき曇(くもり)、風吹(かぜふき)、小雨ふり出(いで)て、物さわがしく、覺夢、寺にたまりかね、桂林寺町、九郎右衞門といふ繪師とかねがねむつまじく交(まじは)りける間、急ぎ、かの九郎右衞門方へ來り、右の有增(あらまし)を語る。

 九郎右衞門、其頃、金輪組(かなわぐみ)と云(いふ)男だての内(うち)也。此由聞(きき)、云(いふ)は、

「何樣(なにさま)、今日の氣色(けしき)、空のたゝずまひ、けしからぬ樣子なり。必(かならず)、今夕、葬(はふり)の節は妖怪有るに極(きはみ)たり。引導の義は、口のうちにて經文らしき事をつぶやき、其後(そののち)、念佛を申せば、すむ事也。我も汝とひとつに、棺にはなれず、立添(たちそひ)て、火車(くわしや)來りて抓(つかみ)さらはんとせば、刀を拔(ぬき)て切拂(きりはら)ひ寄せつけまじ。わらと、柴とへ、油を多くそゝぎ、假(たとへ)大雨ふる共(とも)、火のきへざる樣にすべし。急ぎ、寺へ歸り、葬禮の儲(まうけ)をすべし。」

とて、覺夢と打(うち)つれて、九郎左衞門も寺へ來り、待居(まちゐ)たり。

 すでに、日、暮(くれ)、棺を寺へ持來りけるに、俄(にはか)に、雨ふり出(いだ)し、風吹(かぜふき)、稻光(いなびかり)、隙(ひま)なくして、空は墨を摺(すり)たるごとく、眞闇(まつくら)に成(なり)、すさまじさ限りなし。送りの者共も、已に棺へ、黑雲、覆ひ懸り、雷、ひゞき渡り、大雨、頻りにふり、數ある灯燈(ともし)も消(きえ)ければ、棺を寺の前に打捨(うちす)て、壱人もなく、逃(にげ)たり。

 覺夢坊、かいがい敷(しく)、衣の袖をたすきにかけ、棺へ乘懸(のりかか)り、念佛を大音(だいおん)に申(まうす)。

 九郎右衞門は、大はだぬぎに成(なり)、大脇差をさして、是も棺へ立懸り、黑雲の、うづ卷(まき)、𢌞(めぐ)る内を、打拂ひ、打拂ひすれば、黑雲、次第に遠ざかり、雨風、忽(たちまち)、止(やみ)、元の靑天に成りしかば、棺をわら・たきゞの上にすへ、引導にも及ばず、火を懸(かく)。

 猛火、さかんにもへのぼり、火定(くわじやう)も既に成納(じやうなう)し、曉(あかつき)、白骨を拾(ひろ)ひとり、寺の乾(いぬゐ)の角(すみ)、大き成(なる)榎の下へ埋(うづめ)たり。

 其後(そののち)、一日ありて、此女の幽靈。晝夜となく、寺中を、まよひ、ありく。

 覺夢、九郎右衞門に件(くだん)の由を語る。

 九郎右衞門、密(ひそか)に寺へ來り、片影(かたかげ)よりのぞき見て、此幽靈の像を寫(うつし)たり、と云(いへ)り。

 年月を舊(ふり)て、幽靈も出(いで)ず成りにけり。

 此寺、むかしより、妖怪有り。或は寺に夜を更(ふか)し、雪隱へ行(ゆき)けるに、雪隱の内より、一目の入道、不斗(ふと)、出(いで)て、彼(かの)者を突倒(つきたふし)たりければ、件(くだん)の男、死入(しにいり)ける、といへり。

 今も、乾の角、榎の本(もと)にては、禿(かむろ)・古入道の類(たぐひ)は、見るもの、度々(たびたび)なり。

 

[やぶちゃん注:「融通寺(ゆつうじ)町」福島県会津若松市大町に融通寺という寺ならある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ところが、ウィキの「本町(会津若松市)」によれば、現在の会津若松市本町(ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の融通寺の南西一キロ圏内)内は嘗て融通寺町(ゆつうじまち)があった。『若松城下の城郭外、当時の下町に属する町で、融通寺口郭門から北に続き、西名古屋町に至る幅』四『間の通りであった。浄土宗城安寺があり、これは融通寺が文禄元年に大町に移転した跡にあるとされる。また、昭和時代には呉服商などの商店が多かったとされている』(下線やぶちゃん)とある。

「古館山城安寺」鶴ヶ城下の若松観音霊場の第二十三番として大町の「城安寺」が挙がっているが、確認出来ない。諸データを見る限り、廃寺となっている。従って山号の読みも不詳である。

「蒲生秀行」(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生賦秀(氏郷)嫡男。既出既注

「乳母」とあるから、話柄の時制は秀行が生まれた天正一一(一五八三)年以降から、彼が重臣同士の対立による御家騒動(蒲生騒動)によって秀吉の命で慶長三(一五九八)年三月に会津九十二万石から宇都宮十八万石で移封された十五年間か、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」での軍功によって、陸奥に六十万石を与えられて会津に復帰した時から、慶長一七(一六一二)年五月十四日の死去(享年三十)の凡そ十二年の間の孰れかとなる。

「覺夢」不詳。

「閑主坊(かんしゆばう)」特に何をするでもなく、管理者がいないので、管理をしている僧形の名ばかりの坊主の謂いらしいが、私は嘗てこの熟語を見たことがない。

「導師」亡くなった際の葬儀に於いて死者に引導を渡す(僧が死者に迷いを去り、悟りを開くように説き聞かせること)僧。

「ざんせられて」「讒(ざん)せられて」。讒言(ざんげん:他人を陥れようとして、事実を枉(ま)げ、偽って悪(あ)しざまに告げ口をすること)をされて。

「秀行卿の御母公」蒲生氏郷の正室で織田信長の次女であった相応院(そうおういん 永禄元(一五五八)年或いは永禄四年~寛永一八(一六四一)年)。ウィキの「相応院(蒲生氏郷正室)」によれば、『信長の四男である羽柴秀勝とは知恩院塔頭瑞林院に秀勝と同じく墓があることから』、『共に母を養観院とする同腹姉弟とみられる』。永禄十一年、『近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が織田氏に臣従したとき、信長は賢秀の子・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として取ったが、その器量を早くから見抜いて』、永禄一二(一五六九)年の『大河内城の戦い後に』、『自らの娘を与え』、『娘婿として迎えた』。彼女は秀行との間に『息子の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている』。『その後、夫・氏郷は豊臣秀吉に臣従し、陸奥会津』九十二『万石の大名になるが』、文禄四(一五九五)年に四十歳で死去』し、『後継の秀行は家臣団の統制がままならず』、『会津から宇都宮』十二『万石に減封・移封された』。彼女もともに『宇都宮に移ったが、関ヶ原の戦いで秀行が東軍に与して功を挙げたことから』、会津六十万石に戻されている。しかし、慶長一七(一六一二)年に秀行が三十歳で死去、『その跡を継いだ孫の蒲生忠郷』も寛永四(一六二七)年に二十五歳で死去してしまう。しかも『忠郷には嗣子がなく、蒲生氏は断絶しかけたが』、彼女が『信長の娘であることと、秀行の妻が徳川家康の娘(秀忠の妹)振姫であったことから』、『特別に、姫の孫にあたる忠知(忠郷の弟)が会津から伊予松山藩』二十『万石へ減移封の上』、『家督を継ぐことを許された』。しかし『その忠知も』寛永一一(一六三四)年に『嗣子なくして早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となった』。『晩年は京都嵯峨で過ごし』、八十一歳で死去した。『法名は相応院殿月桂凉心英誉清薫大禅定尼姉』で『墓所は京都左京区の知恩寺』とある。

「にくみ」「憎み」。

「ふして」「伏して」。短刀に咽喉を突き立てて。

「葬(はふ)り、火葬」「の由、覺夢が方へ申來(まうしきた)り」「今夕、棺を寺へ持來(もちきた)るべし」自害に至る状況から考えて、彼女が自由に城を出て、覚夢の元に直接に告げに行くことは考えられないから、孰れも御付きの使者の申し越しによるもの考えられる。この時代、本邦では特に火葬は特異な葬送法ではなかったが、ここでは自死に至る状況の中に投げ込まれた遺言として、明らかに特殊な意図、讒言によって死を迎えねばならぬ彼女の強い遺恨の思いを、火葬の紅蓮の炎に幻視していると見るのが正しい。

「元より、一文不通(いちもんふつう)の愚僧」「引導のすべを知らず」経文が読めぬどころか、恐らくは文盲に近い状態の坊主とは名ばかりの輩(やから)であったものらしい。浄土宗の寺だから、「南無阿彌陀佛」を唱える、書くこと、寺名を漢字で書くぐらいしか出来なかったと考えてよかろう。

「辰の下刻」午前八時二十分頃から九時頃まで。

「桂林寺町」現在の会津若松市七日町・融通寺(ゆつうじ)町のあった本町・西栄町・日新町などの旧町名。この中央を中心とした一帯と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「九郎右衞門といふ繪師」不詳。

「金輪組(かなわぐみ)」不詳。「男だて」とあるから、やや侠客的な集団のようである。

「引導の義は、口のうちにて經文らしき事をつぶやき、其後、念佛を申せば、すむ事」「らしき」が非常に面白く利いている。

「火車(くわしや)」悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を、葬儀や墓場から奪い去って行くとされる妖怪の名。既出既注

「儲(まうけ)」「設け」。準備。

「灯燈(ともし)」読みは私の趣味で当て読みした推定。

「かいがい敷(しく)」如何にも僧侶然として頼もしい感じのする様子で。その内実はそうではないのであるが、ここは葬儀の参列者が皆、逃げ帰ってしまったので、逆に噓の読経なんぞをせずともよくなったから、どこかでホッとして余裕が出たとも言え、正統幽霊話ながら、覚夢はピエロ役として非常に上手く笑いを採る機能を果していると言える。

「うづ卷(まき)」「渦巻く」の動詞の連用形で採り、下の「𢌞(めぐ)る」(読みは私の趣味で推定)と対とした。

「火を懸(かく)。」底本は『火を懸、』と「かけ」と読み、以下に続けているが、それでは、以下のシーンとの繋がりがだらだらするので、私は採らない。

「さかんにもへのぼり」「盛んに燃え昇り」。「もへ」はママ。

「火定(くわじやう)」火定(かじょう)は仏語で、本来は、不動明王が三昧(さんまい)に入って身から自然に炎を発すること(火生(かしょう)三昧或いは単に火生とも言う)。或いは、即身成仏を願う修行者が、自ら焼身死することによって入定することを指す、特殊な語であるが、ここは単に死者を火葬にすることを指している。

「成納(じやうなう)」あまり聴かない熟語であるが、ある行為や現象が完全になし遂げられることの謂いであろう。火葬に於いて完全に遺体を焼き終えることを指している。

「乾(いぬゐ)」北西。何か意味があるようだが、判らぬ。或いは、「此寺、むかしより、妖怪有り。或は寺に夜を更(ふか)し、雪隱へ行(ゆき)けるに、雪隱の内より、一目の入道、不斗(ふと)、出(いで)」たりしたとあり、今は寺内には出ぬものの(そこがミソ)彼女の遺骨を埋めた「乾の角、榎の本(もと)にては、禿(かむろ)」(童女姿の妖怪(あやかし))や「古入道の類(たぐひ)は、見るもの」(者)「度々(たびたび)」あるというとこから見ると、覚夢から聴いたか、或いは以前から妖怪が寺の建物内に出現することを知っていた九郎右衛門が知恵を利かせて、そうした妖怪をこの場所に封じ込める手段として、この榎の下を選んでわざわざ強い怨念を持った彼女の骨を埋めたのだと逆に読める。但し、それでもこの方位との関係性は判らぬ。識者の御教授を乞う。

「片影(かたかげ)」「片蔭」。物蔭。

「死入(しにいり)ける」気絶した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 岩


Iwao

   

 

 あなたは海邊に年を經た灰色の岩を見たことがあるか。麗らかに晴れわたる日の滿ち潮につれて、四方から生き生きと波の寄そせる樣を。寄せては打ち、甘え戲れ、眞珠(あこや)なす水沫を千々に碎いて、苔蒸す岩頭(がしら)を洗ふのを。

 岩はいつまでも、同じ岩の姿である。けれど、その暗灰色の岩膚には、きれいな彩目があらはれる。

 それは遠い昔を物語るのだ。花崗質(みかげ)の熔岩がやつと固まりかけながら、まだ一團の炎と燃えてゐた頃のことを。

 そのやうに私の老いた心にも、つい近頃まで、若い女性らの魂が打寄せては碎けた。その優しい愛撫のために、夙(とう)の昔に褪せ凋れて私の彩目も、搔き立てられて紅らんだ。然し所詮は、消えた炎の跡形にすぎない。

 波げ退(ひ)く。けれど彩目は失せない。きびしい冬風に吹かれても・

             一八七九年五月

 

[やぶちゃん注:第四段落の「夙(とう)の昔に褪せ凋れて私の彩目も」の「て」は「た」の誤植か? 「跡形」は痕跡の意味の「あとかた」。にしても、この第四段落は意味が採りにくく、正直、訳としてはよろしくない。本篇に新改訳があるのは、そうした事情があるものと推察する。新しいものでは、この段落は『それとおなじく、わたしの老いた心にも、このあいだ、若い女性のまごころが八方からおしよせた。その愛撫の波にふれて、わたしの心は紅らみかけた。それは、とうの昔にあせた色どり、すぎし日の炎の跡なのだ!』と訳されており、素直に腑に落ちるのである。

「水沫」「みなわ」(歴史的仮名遣でも「みなは」ではない)。新改訳にもそうルビが振られてある。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) キリスト


Kirisuto

   キリスト

 

 自分がまるで子供になつて、天井の低い村の教會にゐる夢を見た。古びた聖像の前に細い蠟燭が幾本か、ちらちらと赤い舌を動かしてゐる。

 その炎の一つ一つは、虹のやうな暈(かさ)を着てゐる會堂の中はぼんやりと薄暗い。が、多勢の人々が私の前に立つてゐる。

 みな紅毛の、百姓頭ばかりだつた。それが時とともに、搖れたり下つたり、また上つたりするやうな、そよそよと渡る夏の微風に靡く、重い麥の穗に似てゐた。

 不意に誰かしら、後の方から步み寄つて、私と並んで立つた。

 私は振向いて見なかつたが、蟲の知らせでその人こそキリストだと覺つた。

 感動や好奇心や恐怖や、色々な氣持が私の胸を一杯にした。

 私は思ひ切つて、隣りの人の顏を見た。

 當り前の顏だつた。そこらの人の顏とよく似た顏だつた。物靜かな眼でまじまじと、稍〻上を見てゐる。唇は閉ぢてゐるが、強く結んでゐるのではなくて、下唇のうへに上唇が休んでゐる樣に見える。短い顎髯が二つに分れてゐる。兩手は胸に組合はせて、ぴくりともしない。着物は皆と同じである。

 「これがキリストで堪るものか」と私は思つた、「こんな平凡な、當り前の男が。そんな事があるものか。」

 私は外方(そつぽ)を向いた。けれど。その平凡な男から眼を外らさぬ中に、並んでゐる男は矢張りキリストなのだと感じた。

 私はまた勇氣を出して振返つた。そして又も、普通の人間と少しも變らぬ平凡な顏を見出した。ただ見知らぬだけである。

 すると急に悲しくなつて眼が覺めた。そしてやつと、普通の人間と少しも變らぬ顏こそ、キリストの顏なのだとさとつた。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「靡く」「なびく」。

「これがキリストで堪るものか」の「堪る」は「たまる」と読む。「溜まる」と同語源で、「こらえる・がまんする・保ちつづける」であるが、「そんことになったら、たまったもんじゃない!」などと下に打消表現を伴って用いることが殆んどである(ここも反語による否定表現)。「こんな平凡な顏の輩(やから)がキリストであってたまるもんか!」の意である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 敵と友


Tekitomo

   敵と友

 

 無期徒刑の囚人が牢を破つて、一目散に逃げ出した。すぐその後から、追手がかかつた。

 囚人は一生懸命に逃げた。追手は遲れはじめた。

 すると、川ぷちの崖に出た。川幅は狹いが、水は深い。囚人は泳ぎを知らなかつた。

 此方の岸から向ふ岸に、朽ちた細い板が渡してある。脱走囚はそれに片足を掛けた。そしてふと見𢌞すと丁度川緣に、自分の一番の親友と、一番仲の惡い敵とが佇んでゐた。

 敵は默つて腕を拱いてゐた。親友の方は聲を限りに叫んだ。

 「おお、おお。君は何をするのだ。載でも違つたのか。その板のすつかり腐つてゐるのが分らないのか。――君の重みでそれが折れたら最後、どうしたつて助かりつこはないぞ。」

 「だつて他に逃道はないのだ。そら、追手の足音が聞えるぢやないか」と、哀れな男は絶望の呻きをあげて、板を渡りはじめた。

 「とても見ちや居られない。君をむざむざ見殺しにはできない」と、助けたい一心で親友は叫んで、脱走囚の足許の板を引いた。

 で、彼は忽ち、さかまく波に落ちて溺れてしまつた。

 敵はそれを見ると、滿足の笑を浮べて去つた。親友は岸に坐り込んで、不幸な友達を思つて苦い淚を流した。

 けれど友達の死について、自分を責めようなどとは、爪の先程も考へなかつた。

 「言ふことを聽かないからだ。俺の言ふことを……」と、彼は沈み込んで呟いた。

 「が、それにしても」やがて彼は、口に出して言つた、「あの男は一生、怖しい牢屋で苦しむ事になつてゐたのだ。少くとも今ぢや惱みもあるまい。ずつと樂になつたらう。さういふ𢌞りあはせだつたのだな。もとより、人情として忍びないが。」

 さう言つて、この善良な男は、不運な友達を思つてひどく咽び泣いた。

           一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「滿足の笑」「笑」は「えみ」であろう。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ニンフ


Ninf

   ニンフ

 

 半圓を描く、美しい山脈(やまなみ)を前に、私は佇んでゐた。綠なす若樹の森が、山の頂から麓までを隈なく蔽つてゐる。

 山脈のうへに、南方の空は靑々と澄み、太陽は中天に光の箭を弄ぶ。足もとには小流が、半ば草に埋れてさらさらと鳴る。

 ふと私は古い傳説を思ひ出した。――キリスト降誕の最初の世紀に、一艘の希臘船が、エーゲの海を渡つて行つた時のことを。……

 時は正午、風もなく穩かな日和だつたとか。……遽かに揖取の頭上にあたつて、はつきりと呼ぶ聲があつた、「汝、かの島のほとりを行くとき、高らかに呼べ。――大いなるパンは死せりと。」

 楫取は驚き畏れた。が、船が島のほとりを過ぎるとき、その聲の命じたままに呼んだ、「大いなるパンは死せり。」

 忽ち、彼の叫びびに應ずる如く、その無人の島の岸邊一帶には、激しい啜泣き、呻き、また長く尾を曳く嘆きの聲が起つた。「死せり、大いなるパンは死せり。」

 この傳説を思ひ出したとき、奇妙な考が湧いて來た。――「いま私も、何か叫んで見たらどうだらうか。」

 しかし、歡び溢れるあたりの眺めを前にしては、死を思ふ氣にはなれなかつた。で私は聲を限り叫んで見た、「甦れり、大いなるパンは甦れり。」

 すると、おおなんといふ不可思議、私の呼聲に應じて、ひろびろと半圓をなす綠の山々から親しげな笑が響き、歡びの聲、どよめきが湧き起つた。「彼は甦れり、パンは甦れり」と、若やぐ聲々が一齊にさざめいた。前方の眺めは忽ち、大空高く燃える太陽よりも明るく、草間に奏でる小流よりも愉しげに笑み崩れた。そして、忙しく地を蹴る輕い足音が聞え、綠の樹がくれに雪をあざむく輕羅や、生き生きと紅らむ裸身がちらつき始めた。……見ると樣々のニンフたち――樹のニンフ、森のニンフ、バッカスの祭尼たちが、山頂から麓の野邊めがけて、駈け下りて來る。

 その姿は、一どきに森の端々に現れた。氣崇い顏のめぐりに捲髮の房を搖り、しなやかな手に手に花束と鐃鈸を捧げ、高らかなオリンポスの笑ひを、身の動きにつれて搖りこぼしながら……

 眞先に進むのは女神で、身の丈は群を拔き、且つ一番美しい。肩には箙、手に弓、波を打つ捲毛の髮には、銀の月の利鎌がかかつてゐる。……

 ディアーナとは、貴女のことだつたのか。

 そのとき、女神は步みを止めた。從ふニンフ達もみな立止まつた。高らかな笑聲は歇んで、ひつそりとなつた。私は見た、啞のやうに默り込んだ女神の額が、忽ち死の蒼白に蔽はれるのを。足は化石したやうに佇み、なんとも言へぬ恐怖に口は明き、大きく見開いた眼は遙か遠方に注がれるのを、何を彼女は見たのだらう。何を見詰めてゐるのだらう。

 その眼の行方を追つて、私は振返つた。……

 遙か空の涯、野の盡きるあたり、キリスト教會の金の十字架が、白い鐘塔の上に一點の炎となつて燃えてゐた。この十字架を女神は見たのだ。

 私は背後に、長い嗟嘆を聞いた。その聲は琴の斷絃の響に似て、あやしく顫へる。私が眼をかへすと、既にニンフ達は消えて跡形もなかつた。……森は相變らずひろびろと綠に、ただ處々枝葉の繁みを透して、何かしら白い物影を見え隱れさせる、それはニンフたちの衣の端であつたか、谿間を這ひ上る靄であつたか、私は知らない。

 とまれ、消え失せた女神達を思つて、私の胸は悲しかつた。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「箭」「や」。矢。

「小流」「こながれ」。

「希臘船」「ギリシヤせん」。

「遽かに」「にはかに(にわかに)」。

「揖取」「かぢとり(かじとり)。

「甦れり」「よみがへれり(よみがえれり)」。

大いなるパンは甦れり。」

「輕羅」「けいら」。体に纏うごく薄い懸け物。

「紅らむ」「あからむ」。

「バッカスの祭尼」「祭尼」は「さいに」で巫女(みこ)のこと。バッカスBacchusは言わずもがな、ローマ神話の酒(ワイン)の神で、ギリシア神話のディオニソスDionysosに相当する。各地を遍歴して人々に葡萄の栽培を教えたが、そこから生み出される葡萄酒の酔いに象徴されるような熱狂的ディオニソス信者が現われ、特に女性の狂信的信仰者を「マイナス」(Maenad:複数形はマイナデス、ギリシャ語で「わめきたてる者」の意)と呼び、一種のトランス状態の中で踊る、その崇拝者集団を「バッカスの巫女」と呼んだ。そうした連中をイメージしつつ、それらを精霊の一種に還元した謂いであろう。

「氣崇い」「けだかい」。崇高な。

「搖り」「ゆり」。揺らし。

「鐃鈸」「ねうばち(にょうばち)」ここ小型のシンバル。

「箙」「えびら」。狩場や戦場に於いて矢を入れるための筒状の携帯具。腰に装着するもの背負い型のものがあるが、ここは後者であろう。

「利鎌」「とかま・とがま」切れ味のよい鎌。

「ディアーナ」(ラテン語:Diāna)はローマ神話に登場する狩猟・貞節と、月の女神。新月の銀の弓を手にする処女の姿が特徴。日本語では長母音記号を省略してディアナとも呼ぶ。英語読みのダイアナ(Diana)でも知られる。ギリシア神話ではアルテミスに相当する。南イタリアのカプアとローマ付近のネミ湖湖畔のアリキアを中心に崇拝されていた(以上はウィキの「ディアーナに拠る)。

「歇んで」「やんで」。止んで。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) スフィンクス


Sfinx

   スフィンクス

 

 黃灰色の、きしめく沙。上面(うはつら)は崩れ易く脆く、下の層は固い、その沙が、見わたす限り涯もなく。

 沙漠――この屍灰の大海原のうへ、埃及のスフィンクスは、大な頭を擡げる。

 その突出して巨きな唇、上向きに擴がつて靜かに動かぬ鼻孔、また二つの弧を高々と刻む眉の下に、半ば醒め半ば夢みる切れ長の眼。それら皆、何を語らうとするのか。

 それは、何事かを語らうとする。現に語りつつさへある。が然し、ひとりエディプスのみその謎語を解き、その言葉なき言葉をさとる。

 おお、しかし、私もどうやら、こんな面相は見覺えがある樣だ。尤も、埃及的な所は全く無いけれど。……

 白皙の卑(ひく)い額、秀でた頰骨、段のない短小な鼻、皓い齒並のきれいな口許、軟かな口髭、縮れた頰鬚、遠く離れ離れに附いた小つぽけな眼、さて頭には天然の櫛目に割れた蓬々の髮をいただくお前……カルプよ、シードルよ、セミヨンよ。ヤロスラーフの、リャザンの土百姓、私の兄弟、紛れもないロシヤの骨肉よ。お前も何時の間にか、スフィンクスの仲間入りをしてゐたのか。

 お前も、何かを語らうとするのか。さう、お前も亦、スフィンクスなのだ。

 お前の、その色艶のない、しかし雍奥深い眼……それも亦、何事かを語る。……矢張り言葉のない言葉を、昔ながらの謎語を。

 だが、お前のエディプスは何處なのだ。

 お前、全ロシヤのスフィンクスよ。お前のエディプスになるには百姓帽子を被つただけでは、惜しいかなまだ足りぬ。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

百姓帽子を被つただけでは云々 この句は當時のスラブ派の人々に向つて投げられた鋭い諷刺である。すなわち同派の人々が、ともすれば好んでお國振りの百姓の服裝をするのが、トゥルゲーネフの眼にはいたずらに民衆の歡心を買はうとする淺薄な努力とうつつたのである。

   *

中山省三郎譯「散文詩」の註では、この「百姓帽子」に『國粹一點ばりのスラヴ主義者たちを諷したもの』とする。なお、本詩を理解する一助になろうかと思われる事蹟を、サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」から引用する。当時、ドイツにいたツルゲーネフは一八六七年、『小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし』、『祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃している』。その後、一八七七年(既にイギリスを経てフランスに移り住んでいた)、七『年間の準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の』一『つである。今度は』一八七〇『年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである』。『この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は』一八七八年に『執筆した』本「散文詩」『に反映している』。本詩が、まさに、そうした詩の一篇であることは疑いない。

 

「埃及」「エヂ(ジ)プト」。

「蓬々」「ほうほう」。髪が伸びて乱れているさま。

「カルプよ、シードルよ、セミヨンよ。」原文は“Карп, Сидор, Семен,”。ロシアの一般的な庶民的な名前と思われる。

「ヤロスラーフの、リャザンの、」リャザン(Рязань)は現在のロシア連邦リャザン州の州都。ロシア古代・中世史では馴染み深い地名で(但し、それらに登場するリャザンは現在「スターラヤ・リャザン」(古リャザン)と呼ばれる、現リャザンの南東に位置する別な場所であった)、オカ川(ヴォルガ川最大の支流)の右岸に位置する重要な河港でもある。ヤロスラーフ(Ярослав)は、かつてここに首都機能を置いたリャザン公国がヤロスラーフ賢公(Ярославль 九七八年~一〇五四年:キエフ大公。キエフ公国にキリスト教を布教し、法典編纂・文藝振興を行ったことから「ムードリ」(賢公)と呼称された)の血を受け継いでいるので、このように呼んだものか。なお、一九〇四年にはこのリャザンにロシア最初の社会民主主義グループが誕生していることは、この詩の注として明記しておいてよいであろう。]

2017/10/13

老媼茶話巻之三 杜若屋敷

 

      杜若(かきつばた)屋敷 

 

 天正十八年庚寅(かのえとら)九月五日、蒲生飛驒守氏鄕、近江國蒲生郡(がもうのこほり)より奧州黑川の城へ入(いり)玉ふ。鳴海甲斐守も御供して黑川來り、三の町と云(いふ)所にて屋敷給り、住せり【甲斐守錄千石。常世村を領せり。】。

 江州より遠來(とほくきた)りける禿小性(かむろこしやう)に花染(はなぞめ)といふ美童(びどう)有(あり)。容色、甚(はなはだ)うるはしく、「桃花の雨をふくみ、海棠の眠れる姿」といふべし。

 甲斐守、寵愛して、傍(かはら)を離れず、宮仕(みやづかひ)せり。

 花染、小鼓・謠(うたひ)好みければ、大町(おほまち)當麻(たいま)の寺近くに了覺院といふ山伏、小鼓・謠の上手なりければ、此山伏を師匠として、花染、謠を習(ならひ)けり。

 花染、杜若(かきつばた)を甚(はなはだ)愛しければ、甲斐守、花染をなぐさめん爲、庭に深く池をほらせ、杜若を植(うえ)させ、くもでに橋を渡し、三河の國のやつはしの面影をうつし、片原に小亭を作り、花染、明暮、爰(ここ)に有て小鼓を打(うち)、杜若のうたひ、樂しみけり。誠花染は、唐のあい帝の御袖を立(たち)給(たまふ)薰賢(くんけん)、周のぼく王の餘桃(よたう)のたはむれをなせし彌子賀(びしか)にも劣(おとる)まじき男色なりしかば、了覺、深く愛念し、便(たより)を求(もとめ)、ふみ玉章(たまづさ)を書送(かきおく)る。

 甲斐守、此よしつたへ聞(きき)、華染に、

「了(りよう)覺が汝に心をかけ、數通(すつう)の艷書を送ると聞(きく)。汝、何とて、今迄、我につゝみたる。子細を申すべし。」

といひければ、花染、是を聞(きき)、淚を流し、なくなく申けるは、

「我は、元近江の佐保山の賤敷(いやしき)土民の子にて候を、御取立、御身近く召仕(めしつかまつら)れ候。誠公恩の深きを思へば、山より高く、海よりも探し。かゝる御情を無(む)に仕(つかまつり)候て、いかで、かかり染(そめ)にも、外人(ほかびと)に心を移し申(まうす)べき。君(きみ)に、にくまれ奉りては、我身の行衞、如何可仕(いかがつかまつるべき)。露程(つゆほど)も御疑心を得奉りては、命(いのち)有(あり)ても、生(いき)がいなし。若(もし)了覺に同床の契り有(ある)かと御疑も候はゞ、今宵、ひそかに了覺が方に罷り越(こし)、了覺が首を打(うち)、御目に懸(かく)るへべし。」

と云(いひ)ければ、甲斐守、

「尤(もつとも)然るべし。是(これ)にて切(きり)とゞむべし。」

とて、差居(さしをき)たる脇ざしを花染にとらせける。

 花染、押戴(おしいただき)、其夜、更(ふけ)て、うす衣を打(うち)かつぎ、人目を忍び、了覺院が庵の軒に立忍(たちしの)び、ひそかに扉を音(おと)づれければ、了覺、立(たち)て戶をひらき、花染をみて、大きに悦び、急ぎ、内へしやうじ入るゝ。

 花染、座に着(つき)、了覺に申(まうす)樣、

「日頃、わりなくの玉(たま)ふを、かり染の御たわむれと、うわの空に存(ぞん)ぜしに、僞(いつはり)ならぬ御心底と告(つげ)しらするものありて、御心ざし、もだしがたく、主人、甲斐守、今宵、他行(たぎやう)せしを幸(さいはひ)に、是迄、忍び參(まゐり)候。數ならぬ某(それがし)に、深き御心盡しの程、返す返すも過分に候。」

とて、目に秋波の情をよせ、こと葉を盡し、嘲(アザムキカ)ければ、了覺、深く悅び、色々、心を盡し、馳走をなす。

 はな染、機嫌克(よく)戲れ懸り、了覺に酒をしいければ、了覺、いたく呑(のみ)、醉(ゑひ)ける。

 花染、盃をひかへ、小鼓取(とり)て、打ならし、肴に杜若の謠、所望しければ、了覺、扇拍子を取(とり)、うたふ。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」

と謠(うたひ)なから、了覺、おぼへず、とろりとろりと眠(ねふり)ける。

 折を見すまし、花染、鼓、抛捨(なげすて)、甲斐守が呉(くれ)たりし脇差、壹尺八寸備前長光を拔(ぬき)て、了覺が高もゝ、車骨(くるまぼね)より筋違(すぢちがひ)にかけて、

「ふつゝ。」

と切落(きりおと)す。

 了覺、目を覺(さま)し、手を突(つき)て起直(おきなほ)り、

「己に油斷をなし、闇打(やみうち)にせらるゝ事、無念也。」

と齒がみをなし、血眼(ちまなこ)を見ひらき、にらみ付(つけ)たる面魂(つらだましひ)、鬼神(きしん)のごとくなれば、花染、二の刀を打得(うちえ)ずして走り出(いで)、逃行(にげゆき)しを、

「何方迄(いづかたまで)も、のがさじ。」

と、刀を拔(ぬき)、杖につき、跡より追懸(おひかく)る。

 花染、道の側(そば)なる觀音堂に走り付(つき)、柱を傳へ、天井へあがり、隱れ居(ゐ)たり。

 了覺、程なく追來(おひきた)りけるが、花染が隱居たるを見付(みつけ)、傳へ上(のぼ)らんとするに、五體不具にして上り得ず、次第に、正念、亂(みだれ)れば、はがみをなし、

「己、三日とは、やりたてしものを。」

とて、みづから首かきおとし、うつふしに倒れ伏(ふし)、死す。

 花染、急ぎ、天井よりおり、了覺が首を引(ひつ)さげ、我家へ歸り、甲斐守に見せければ、甲斐守、大きに悅(よろこび)、花染をほめて申けるは、

「汝、容色の人に勝れたるのみならず、心の勇も人に勝れり。此了覺は、力も強く、打物(うちもの)も達者にて、世に聞へたる強勢(がうぜい)ものなるを、斯(かく)やすやすと打留(うちとむ)る事、幼年の働(はたらき)には、けなげなり。老行(おひゆく)末(すゑ)、賴有(たのみあり)。」

と、色々の褒美をあたへける。

 扨(さて)、了覺が首を瓶(かめ)に入(いれ)、裏の乾(イヌイ)に埋(うづ)めける。

 或説に了覺が首を摺鉢に入、土器(かはらけ)を蓋(ふた)にし、埋(うづみ)けり、といへり。是、陰陽師(おんみやうじ)のまじないの法にて、かくすれば、跡へ祟(たたり)をなさず、といふ。「壓勝(あつしやう)の法」といへり。

 其夕べ、花染、何心なく伏(ふせ)たりしに、了覺が亡靈、花染が枕元に彳(たたず)み、脇差を拔(ぬき)、花染がのんどを搔切(かきき)ると覺(おぼえ)けるが、其曉(あかつき)、血を吐(はき)て死(しに)たり。

 甲斐守、是を聞、いと不便(ふびん)に覺ければ、花染が死骸、當麻の寺に送り埋(うづめ)、法名を「萃容(ふやう)童子」と名付、跡(あと)、能(よく)、とむらひける。

 昨日迄、盛(さかり)なりし花の姿も、今日引(ひき)かへて、古塚の主(ぬし)となるこそ、哀(あはれ)なれ。

 了覺院、殺されし後より、甲斐守屋敷にては、夜、うしみつ過(すぐ)る頃にもなれば、震動して、座敷にて小鼓を打(うち)、每晩、杜若の謠をうたふ間(あひだ)、家内の男女、おそれをなし、日、暮(くる)れば、書院行(ゆく)者 し。

 或時、甲斐守、只ひとり、座敷に有ける折、日たそかれ過(すぐ)る頃、庭の築山(つきやま)の隱(カゲ)より、了覺院、手に小鼓を提(さげ)、出來(いできた)り、座敷へ上(あが)り、甲斐守と對座(タイザ)し、眼(まなこ)を見ひらき、甲斐守を、

「礑(ハタ)。」

と白眼付(にらみつけ)、いたけ高(だか)になり、またゝきもせず、守り居たり。

 甲斐守、元來、大剛の者なりしかば、少も臆せず、

「己、修驗(シユゲン)の身として邪(ヨコシマ)の色におぼれ、みすから霜刃(さうじん)の難(なん)に逢へり。なんぞ我にあだなすの理(ことわり)あらんや。すみやかに妄執を去(さつ)て、本來空(ほんらいくう)に歸れ。」

と、

「ちやう。」

ど、にらまへければ、了覺が死靈、白眼負(にらみまけ)て、朝日に消(きゆ)る霜のごとく、せんせんとして、消失(きえうせ)けり。

 其夜、甲斐守伏(ふし)たりし枕元に、了覺が靈、來り、つくねんと守り居たり。

 甲斐守目を覺(さま)し、枕元の脇差、取(とり)、拔打(ぬきうち)に切に、影なく消失(きえうせ)たり。

 甲斐守、間もなく、櫛曳(くしびきの)陣に討死し、子、なくして、跡、絕(たえ)たり。

 其後、會津の御城主替りける度々、此屋敷拜領の士、了覺が死靈になやまされ、住(すむ)者なく、誰(たれ)云(いふ)ともなく、「杜若屋敷」とて、明(あき)屋敷となる。

 足輕、番を致しけるに、壱人弐人にては、おそろしがり、勤不得(つとめえず)して、拾人斗(ばかり)にて勤ける。

 いつも、暮每(くれごと)に、座敷にて、鼓の聲有(あり)て、杜若の謠(うたひ)をうたふ。足輕共、おづおづ座敷の體(てい)を窺(うかがふ)に、大山伏のおそろしげ成(なる)が鼓を打(うち)て謠をうたふ也。是を見るもの、氣をうしなひ、死に入(いり)ける。

 寛永四年五月廿五日、加藤式部少輔明成、會津、入部ましましける。

 此時、杜若屋敷主(あるじ)は天河作之丞と云(いひ)て三百五捨石取(とる)士也。或(ある)夕(ゆふべ)、奧川大六・梶川市之丞・佃(つくだ)才(サイ)藏・守岡八藏、作之丞方へ夜咄(よばなし)に來(きた)り、醉後(すゐご)に、大六、

「誠や、此屋敷にて杜若の謠をうたへば、さまざま不思義有(あり)といへり。心見(こころみ)に謠ふべし。」

とて、各(おのおの)、同音に杜若の「くせ」をうたふ。

 折節、さも美敷(うつくしき)兒(チフゴ)、かぶり狩衣を着し、扇をひらき、謠につれて舞けるが、暫く有(あり)て消失(きえうせ)たり。

 次の間に、六尺屛風を立置(たておき)しが、其上を見越して大山伏、面(おもて)斗(ばかり)出(いだ)し、

「此屋敷にては其謠はうたわぬぞ。止(やめ)よ、止よ。」

といふて失(うせ)たり。

 猶、謠、止(やめ)ず謠(うたふ)折、例の山伏、座敷へ來り、

「未(いまだ)止ぬか。」

と云て、才藏があたまを、はる。

 才藏、刀を拔(ぬき)、山伏を切らんとすれば、姿、忽(たちまち)、消失(きえうせ)たり。

 其後も、了覺が靈、甚(はなはだ)あれけるまゝ、作之丞、了覺が靈を祭り、「杜若明神」と名付(なづけ)、私(わたくし)にほこらを立(たて)、祭りをなし、僧をやとい、靈を吊(とむらひ)ければ、其後、了覺が亡靈、靜(しづま)りて、何の祟りもなさず。

 杜若明神、後には家護靈神と號せり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「天正十八年」一五九〇年。

「蒲生飛驒守氏郷」(弘治二(一五五六)年~文禄四(一五九五)年)近江出身。初名は賦秀(やすひで)。キリスト教に入信(洗礼名・レオン或いはレオ)。織田信長・豊臣秀吉に仕え、九州征伐・小田原征伐の功により会津四十二万石(後に九十二万石)を領した。転封から没するまで陸奥黒川城(=鶴ヶ城)主であった。最後は病死で享年四十。

「蒲生郡」旧郡域は現在の蒲生郡に加えて、竜王町の全域・日野町の大部分・近江八幡市の大部分・東近江市の一部に当たる。参照した旧域はウィキの「蒲生郡」を見られたい。

「鳴海甲斐守」不詳。識者の御教授を乞う。

「三の町」「三之町」。ウィキの「上町(会津若松市)」(「うわまち」と読む)によれば、『若松城下の城郭外北部に属しており、西側の大町から馬場町を経て東側甲賀町に至る東西を結ぶ通りで、二之町の北に位置していたほか、幅は』三『間であった。西側の大町から馬場町までを下三之町、東側の馬場町から甲賀町までを上三之町といった。ただし、本町は現在の上町の町域には含まれないとされている』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「錄」ママ。「祿」。

「常世村」非常に珍しい地名であるから、現在の福島県喜多方市塩川町常世(とこよ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禿小性(かむろこしやう)」年少の小姓(こしょう)。ここに見るように、多く男色の相手であった。

「大町(おほまち)」現在の福島県会津若松市大町(ここ(グーグル・マップ・データ))附近。

「當麻(たいま)の寺」会津若松市日新町(ここ(グーグル・マップ・データ)東北角が先の大町の西南角と接する)内の「当麻丁(たいまちょう)」。ウィキの「日新町(会津若松市)」によれば、『若松城下の城郭外北部、当時の下町に属する町で、南側は赤井丁、北側は大和町に接し、桂林寺町の西側に位置する幅』四『間の通りであった。当麻丁は当麻町とも書いたほか、職人、商人などが住んでいたとされる。また、町名は当麻山東明寺があったことによるとされる』とあるから、この「寺」とは現存しない、この当麻山東明寺のことである。

「了覺院」不詳。

「杜若」「伊勢物語」の「東下り」を素材とした後シテを杜若の精とする複式様の夢幻能で、洗練された詞章・音楽・煌(きら)びやかな装束としっとりした舞いで知られる謡曲「杜若」を指すと同時に、実際の杜若(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。見分け方は花蕚体の中央内に綾目がなくことと、葉に中肋がないこと)の花をも含ませる。

「くもで」「蜘蛛手」。「伊勢物語」の「東下り」の段に擬えた。

「三河の國のやつはし」同前。現在、愛知県知立市八橋町寺内にある無量寿寺内にある「八橋旧跡」に比定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「唐のあい帝」これは前漢の第十二代皇帝哀帝(紀元前二十五年~紀元前一年:在位期間:紀元前七年~没年まで:姓・諱:劉欣)の誤り。唐王朝最後の皇帝哀帝(十七歳で暗殺)とは別人。

「御袖を立(たち)給(たまふ)」底本には「立」の右に編者による添漢字『断』がある。ウィキの「哀帝(漢)」によれば、『男色を意味する』「断袖」『という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた』寵愛していた美童「薰賢」(人呼称の固有名詞。そうした慈童の源氏名のようなものであろう)『を起こさないようにするため』、『衣を切って起きた、という故事に基づく』とある。

「周のぼく王」周の第五代穆(ぼく)王(紀元前九八五年?~紀元前九四〇年)であるが、以下の注で述べるように、ここは戦国時代の衛の君主霊公の誤り

「餘桃(よたう)のたはむれ」美童の少年相手の男色行為のこと。故事成句「余桃の罪」に基づく。昔、衛の霊公に寵愛された慈童弥子瑕(びしか:後注参照)は、食べた桃があまりにも美味だったので、食べかけを主君に献じて喜ばれたことに由来する。しかし、寵愛が衰えてからは、それを理由に罰せられたという「韓非子」の「説難篇」にある故事で、「余桃の罪」は現在、「権力者の寵愛などが気まぐれであてにならぬこと」の譬えである。

「彌子賀(びしか)」「彌子瑕」が正しいウィキの「弥子瑕」によれば、『弥子瑕(びしか、旧字体=正字体:彌子瑕)は戦国時代の衛国の君主霊公に寵愛されていた男性。韓非の著した』「韓非子」の「説難篇」において、君主に諫言したり、『議論したりする際の心得を説く話に登場する』。『当時』、『衛国では君主の馬車に無断で乗った者は足斬りの刑に処された。ある日』、『弥子瑕に彼の母が病気になった』、『と人が来て知らせた。弥子瑕は母の元へ、君主の命と偽って霊公の馬車に乗って駆けつけた。霊公は刑に処されることも忘れての親孝行を褒め称えた』。『別のある日、弥子瑕は霊公と果樹園へ遊びに出た。そこの桃は大層美味だったため、食べ尽くさずに半分を霊公に食べさせた。霊公は何と自分を愛してくれていることかと彼を褒め称えた』。『歳を取り』、『美貌も衰え』、『霊公の愛が弛むと』、過去の出来事が蒸し返され、『君命を偽って馬車に乗り』、『食い残しの桃を食わせたとして弥子瑕は刑を受けた』。『韓非はこの故事(「余桃の罪」)を以って、君主から愛されているか憎まれているかを察した上で自分の考えを説く必要があると説いている』。「春秋左氏伝」によれば、『衛の大夫・史魚が弥子瑕を辞めさせ、賢臣・蘧伯玉を用いるよう進言し、史魚の死後にそのことがかなえられたという』とある。史魚の謂いから考えると、弥子瑕はイケメンではあったが、内実はただのチャラ男だったということになろう。

「ふみ玉章(たまづさ)」ラヴ・レター。

「華染」ママ。

「つゝみたる」「包みたる」。包み隠してきたのか?

「近江の佐保山」近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)の佐和山附近の古称と思われる。ここにあった佐和山城(ここ(グーグル・マップ・データ))は佐々木定綱の六男佐保時綱が築いた砦が前身で、この城は古くは「佐保山城」と呼ばれていたからである。

「かかり染(そめ)」ママ。「假染め」。

「生がい」ママ。「生き甲斐(がひ)」。

「しやうじ」「招じ」。

「わりなくの玉(たま)ふを」何とも尋常でなく私めへの思いを述べらるるを。

「もだしがたく」黙って見過ごすわけにもゆかず。

「しいければ」「強いければ」。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」読点を使用せず、謡曲の間に合わせて間隙を入れて示した。謡曲「杜若」の前半のシテとワキとの掛け合いの終りから、上ゲ歌の途中まで。私の持つそれでは「主は昔に業平なれども」とある。

「壹尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「備前長光」ウィキの「長光」より引く。『鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作から直刃まで作行きが広く、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人である』。

「高もゝ」「高股」。

「車骨(くるまぼね)」不詳。当初、車のように丸い膝の膝蓋骨を考えたが、文脈を子細に検討すると、高股(大腿部)を、「車骨」なる部分から「筋違(すぢちがひ)に」袈裟がけにして、ばっさり、「と切落」したとあるから、これが片足の大腿部自体が斬り落とされたと読むしかなく、そうすると、「車骨」とは、大きな円形を成し、車軸が入るように大腿部が丸い孔に入っているところの骨盤骨を指すのではないか? と次に推理した。しかし、ここで「日本国語大辞典」を引くと、「車骨」は「大きな骨」とあるから、これはただ「大腿骨」を指すことが判明した。大力無双の男の大腿骨を、斜めに、しかも小振りの脇差で一刀両断するというのは、相当な力と技が必要である。この「花染」、ただの美少年ではない

「三日とは、やりたてしものを」意味不明。底本は「三日とはやりたてしものを」。識者の御教授を乞う。私は「逸り立て」(気負い立つ)から「覚悟をもってやり遂げる」の意ととり、直後に自害していることから、「(この恨みを以って)三日とは(待たさずに、貴様のいの命を)奪い去って見せてやるぞッツ!」という意味で取り敢えず採った。実際には三日どころか、その翌日(「その夕べ」そうとらえるのが時制的には自然である)の夜にとり殺されているのであるが

「乾(イヌイ)」北西。

「壓勝(あつしやう)の法」不詳。そもそもがこれ、陰陽道の悪鬼・怨霊の祟り封じの呪法だとうのであるが、それが前者の「了覺が首を瓶に入、裏の乾(イヌイ)に埋めける」という仕儀がそれなのか、以下の「了覺が首を摺鉢に入、土器を蓋にし、埋けり」という仕儀がそれなのか判らぬ。両方を足せばよいのだろうが、そうなると甕と擂鉢の有意な相違があるから、駄目である。

「萃容(ふやう)」「萃」は集まるの意。従ってこれは花の「芙蓉」の意味ではなく(それも掛けているかも知れぬが)、美しい「容」姿が「萃」(あつま)っているの謂いであろう。

「古塚の主(ぬし)」「ぬし」は謡曲の読みに合わせて私が振った。

「うしみつ」「丑三つ」「丑滿つ」。

「いたけ高(だか)」「居丈高」。「威丈高」とも書くが、当て字。人に対して威圧的な態度をとるさま。

「霜刃」霜のように光る鋭い刀の刃。

「あだなす」「仇成す」。

「本來空(ほらいくう)」仏語。一切のものは、元来、仮りの存在でしかなく、実体のない「空」であるという、そうした本質を指す。

「ちやう。」「ちやうど(ちょうど)」で「はったと・かっと」の意。目を見開いて対象を睨みつけるさまを指すが、私は今までもそうしたオノマトペイアを直接音(直接話法)に準じて、かく、表わしている。それが、より怪奇談の臨場感を倍化せると信ずるからである。

「にらまへ」「睨まへ」。「にらまふ」は他動詞ハ行下二段活用で「睨みつける」の意。

「せんせんとして」「閃々として」か。きらきらと輝きを伴いながら。

「つくねんと」副詞。独りで何もせず、ぼんやりしているさま。

「櫛曳(くしびきの)陣」九戸政実(くのへまさざね)の乱(天正一九(一五九一)年)を指すか。これは南部氏一族の有力者であった九戸政実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣方軍勢(蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政)に対して起こした反乱。この反乱軍側の武将の一人に櫛引清長がいるからである。則ち、私の推理が正しいとすれば、蒲生氏郷の家臣の一人であった鳴海甲斐守なる人物はこの九戸政実の乱制圧軍の一人として参戦し、敵の櫛引清長の陣に突撃して果てたという解釈である。

「寛永四年五月廿五日」一六二七年七月八日。

「加藤式部少輔明成」「猫魔怪」に既出既注。

「天河作之丞」不詳。以下の人名も同様なので、注を略す。

「くせ」掉尾の「序ノ舞」の前にある後半の山場。以下に示す。

   *

地〽 しかれども世の中の ひとたびは榮え ひとたびは 衰ふる理(ことわ)りの 誠なりける身の行方 住み所(どころ)求むとて 東(あづま)の方に行く雲の 伊勢や尾張の 海面(うみづら)に立つ波を見て いとどしく 過ぎにし方の戀しきに 羨ましくも かへる浪かなと うち詠(なが)めゆけば信濃なる 淺間の嶽(だけ)なれや くゆる煙(けふり)の夕氣色

シテ〽 さてこそ信濃なる 淺間の嶽に立つ煙

地〽 遠近人(をちこちびと)の 見やはとがめぬと口ずさみ 猶はるばるの旅衣 三河の國に着きしかば こゝぞ名にある八橋の 澤邊に匂ふ杜若 花紫のゆかりなれば 妻しあるやと 思ひぞ出づる都人 然るに此物語 その品(しな)おほき事ながら とりわき此八橋や 三河の水の底(そこ)ひなく 契りし人びとのかずかずに 名を變へ品を變へて 人待つ女 物病(ものやみ)み玉簾(たますだれ)の 光も亂れて飛ぶ螢の 雲の上まで往(い)ぬべくは 秋風吹くと 假(かり)に現はれ 衆生濟度の我ぞとは 知るや否や世の人の

シテ〽 暗きに行かぬ有明の

地〽 光普(あまね)き月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして 本覺眞如の身を分け 陰陽(いんによう)の神といはれしも ただ業平の事ぞかし 斯樣(かやう)に申す物語 疑はせ給ふな旅人 遙々來ぬる唐衣 着つつや舞を奏(かな)づらん

   *

以上に後に、シテの「詠」、

 

シテ〽 花前(くわぜん)に蝶舞ふ。紛々たる雪

地〽 柳上(りうしやう)に鶯飛ぶ片々たる金(きん)

 

が入って「序ノ舞」となる。

「うたわぬ」ママ。「謠はぬ」。

「あれける」「荒れける」。

「やとい」ママ。「雇ひ」。

「杜若明神、後には家護靈神と號せり」怨霊を祀って宥め、それを逆に家や一族や都市及び国家の防備に転用するのは、御霊信仰に限らず、古来からの汎世界的な老獪なシステムの代表的な方策である。]

2017/10/12

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 天主の宴會

 

   天主の宴會

 

 おるとき天主が、その碧瑠璃の宮殿で大宴會を思ひたたれた。

 あらゆる德といふ德はみんな招かれた。とはいへ招かれたのは美德にかぎられて、男性はをらず、婦人ばかりであつた。

 大小の德たちが大ぜい集まつた。小さな德は大きな德よりも快活で、愛想もよかつた。がとにかく、一同はみんな嬉しさうで、近親や知合ひの間柄にふさはしい態度で、つつましく話をし合つた。

 ふと天主は、二人の婦人が互ひに見も知らぬ同志らしいのに氣づかれた。

 主はその一人の手を取つて、もう一人のそばへ連れて行かれた。

 「恩惠」――種は第一の歸人を指さして、かう言はれた。

 「感恩」――さらに第二の婦人を指さして、言葉をつがれた。

 二人の美德は、言ひやうのない驚きの色を面(おもて)にあらはした。天地の開(ひら)けてこのかた幾千年、二人は初めて相見たのである。

            一八七八年十二月

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) エゴイスト


Ego

   エゴイスト

 

 彼には、家庭の笞になるあらゆる素質が具つてゐた。

 生れながらに健康と富とに惠まれ、長い生涯を通じて矢張り富み且つ健康であり、一遍の過失にも陷らず、一度の心の一躓きも知らず、失言もなく、未だ曾て的を射外したこともなかつた。

 その潔白さは、一點の曇もなかつた そして己れの潔白に傲つて、緣者、親友、知人の別なく、ひとしく地に踏まへた。

 彼にとつて、潔白こそは資本だつた、彼はこれから、飽くことない高利を貪つた。

 潔白は彼に、無慈悲である權利、・また道德律によつて命ぜられる善を顧みぬ權利を賦與した。從つて彼は無慈悲であり、善行を顧みなかつた。何故なら、道德律によつて強ひられるとき、善は既に善では無いからである。

 彼は自分一個のこと、かくも世の範とすべき自分のことにしか、心を勞さなかつた。そして他人が、彼に就いて心を勞すること些かでも薄いときは、本當に腹を立てた。

 それと同時に、彼は自らエゴイストだとは思つてゐず、而も何物にも增してエゴイストを非難し、エゴイズムを攻擊した。無理もない、他人のエゴイズムは、己れのそれの妨げになるからだ。

 自分の身に些かの弱さも見ぬ彼は、他人の弱さに理解を持たず、從つて少しの容赦もしなかつた。總じて彼は、何物にも亦何人にも理解を持たなかつたが、それは彼自身四方八方蟻の這出る隙もなく自我に取圍まれてゐたからである。

 彼は恕の心の何かをさへ解しなかつた.自分を恕す要を感じたことがない以上、なんで他人を恕すことが要らう。

 己れの良心の法廷、己れの心の神の面前に立つても、この驚くべき德行の畸人は、昂然と眉を上げて、はつきりと言ひ切る、「如何にも私は、立派な有德の士です。」

 死の床でも、この言葉を繰反すだらう。そして、一點の汚點、瑕瑾の跡もない石のやうな彼の心は、依然なんの動搖も覺えぬであらう。

 ああ、安價に購はれ、自足し、我執の強い美德の醜さよ。お前の厭はしさは、惡德の明らさまな醜さに比べて、勝るとも劣らない。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ヴレーフスカヤ夫人を記念して


Sinobite

   ヴレーフスカヤ夫人を記念して

 

 荒れ果てて見る影もないブルガリヤの一寒村。朽ち歪む納屋は急場を凌ぐ野戰病院と變り、その檐端の土にまみれて彼女は、チフスのために二週間あまりも、じめじめと惡臭のする藁を死の床としてゐた。

 已意識を失つた彼女に、義理にも眼を呉れる軍醫は一人も無かつた。彼女にまだ立上る氣力のあつた間、その苦しい内にも心からの看護を受けた病卒たちは、今に燒けつく彼女の唇を濕ほさうと瓶の破片(かけら)に數滴の水を受けては、代る代るに疫病の床を這ひ出た。

 若く美しい彼女の名は、上流の人々の間にも聞え、時めく大官の噂話にも上つてゐた。世の婦人は嫉み、男子は爭つてその裳を追つた。中に幾人かは、ひそかに深い戀情を寄せた。生は彼女に微笑みかけた。が、しかし、微笑は時として淚に如かぬ。

 優しい穩やかな心よ。しかもその裡には、何といふ力強さ、何といふ烈しい犧牲心の燃えてゐたことぞ。助を求める人々への合力。――そのほかには、何の幸福も知らなかつた。知りもせず、求めもしなかつた。ほかの幸福は一顧もせずに、久しい以前から唯これにのみ心を潜めてゐた。滅却しがたい信仰の火に全身全靈を燃やして、隣人への奉仕に自らの身を捧げた。

 その魂の深み、心の奥底に、そんな秘寶が秘められてゐたのか。唯一人それを窺ひ得たものはなく、また今となつては固より、窺ひ知る術もない。

 また、何で知ることが要らうか。犧牲は果され、業(わざ)は畢つた。

 それにせよ、その屍に向つてすら、何人の感謝も捧げられなかつたことを思ふとき、この胸は張裂ける。よし彼女が、感謝の言葉などは見向きもせずに、頰を染めて押返したであらうとも。……

 ねがはくは優しき幽魂、敢へて御身の奧津城に捧げなす遲ればせのこの花を、ふかく咎めたまふな。

             一八七八年九月

 

[やぶちゃん注:訳者註。〔 〕は一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の注を参照して、私が脱字と断じ、挿入した。

   *

『ヴレーフスカヤ夫人をしのんで』 原稿には單に『ユ・ぺ・ヴェをしのんで』とあつて、發表の際にも遠慮して名は伏せられた儘であった。すなはちこの一篇は、男爵夫人ユリヤ・ペトローヴナ・ヴレーフスカヤ(J. P. Vrevskaja, 1841―1878)の思出に捧げられたもの。早く夫と死別した夫人は、一八七七年の夏折柄の露土戰爭に慈善看護婦を志願して戰地におもむき、翌七八年舊一月の末、ブルガリヤで病死した。トゥルゲーネフ〔は〕夫人と親しく、彼の氣持は次の手紙からも明らかである。――「お眼にかかってからといふもの、あなたが心から親しいお友達と思へてなりません。それに貴女と御一緒に暮したい氣持が、拂つても拂つても消えないのです。とは申せわたしのこの願ひは、思ひきつて貴女のお手を求めるほどに抑制のないものではありませんでしたし(さう、わたしももう若くはないし――)、その他にも色々なことが妨げになりました。そのうへ貴女が、フランス人の言ふ une passade(出來心)に心を許される方ではないことも、私はよくよく承知してゐましたから。」(一八七七年二月七日附)二人が最後に會つたのは、その年の夏にトゥルゲーネフが歸國した時で、すでに夫人が慈善看護婦を志願した後であつた。ちなみにこの作の日附も、從來四月と誤讀されてゐた。

   *

後の中山省三郎氏の註にも、『ツルゲーネフとは昵懇の間柄であつた。ツルゲーネフの郷里スパッスコエを訪れたり、互ひに文學を語つたりするほどであつた』とある。因みに、二人は、二十七歳違いで、この書簡の一八七七年当時で、ツルゲーネフは六十三、ヴレーフスカヤは三十六歳であった。

 

「濕ほさう」「うるほさう(うるおそう)」。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 二 禿頭港(クツタウカン)の廢屋

 

    禿頭港(クツタウカン)の廢屋

 

 道を左に折れると私たちはまた泥水のあるところへ出た。片側町(まち)で、路に沿うたところには石垣があつて、その垣の向うから大きな榕樹(ようじゆ)が枝を路まで突き出してゐた。私たちはその樹かげへぐつたりして立ちどまつた。上衣を脫いで煙草へ火をつけて、さて改めてあたりを見まはすと、今出て來たこの路は、今までのせせつこましい貧民區よりはよほど町らしかつた。現に私たちが背を倚(よ)せてゐる石垣も古くこそはなつてゐるけれども相當な家でなければ、このあたりでこれほどの石垣を外圍(そとがこ)ひにしたのはあまり見かけない。さう思つてあたりを見渡すと、この一廓は非常にふんだんに石を用ゐてゐる。みな古色を帶びてそれ故(ゆゑ)目立たないけれども、このあたりが今まで步いて來たすべての場所とその氣持が全く違つて、汚いながらにも妙に裕(ゆた)かに感ぜられるといふのも、どうやら石が澤山に用ゐてあることがその理由であるらしい。

[やぶちゃん注:「榕樹」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa。]

 この町筋――と云つても一町足らずで盡きてしまふが、この片側町の私たちの立つてゐる方(はう)は、それぞれに石圍(いしがこ)ひをした五六軒の住宅であるが、その別の側、卽ち私たちが向つて立つた前方は例によつて、惡臭を發する泥水である。黑い土の上には少しばかりの水が漂うてゐて、淺いところには泥を捏(こねく)り步きながら豚が五六疋遊んでゐるし、稍(やゝ)深さうなところには油のやうなどろどろの水に波紋を畫(ゑが)きながら家鴨(あひる)が群れて浮んでゐる。この水溜の普通のものと違ふところは、これは濠(ほり)の底に涸れ殘つたものであることである。大きな切石がこの泥池のぐるりを御丁寧に取り圍んでゐる。しかも幅は七八間もあり、長さはと言へばこの町全體に沿うてゐる。深さは少くも十尺はある。この濠の向うには汀(みぎは)からすぐに立つた高い石圍ひがある。長い石垣のちやうど中ほどがすつかり瓦解してしまつてゐる。いや悉く崩れたのではないらしい。もともとその部分がわざと石垣をしてなかつたらしい。その角であつた一角がくづれたのに違ひない。落ち崩れた石が幾塊か亂れ重なつて、埋(うづ)め殘された角角(かどかど)を泥の中から現してゐる。その大きな石と言ひ巨溝と言ひ、恰も小規模な古城の廢墟を見るやうな感じである。いや、事實、城なのかも知れないのだ――崩れた石垣の向うのはづれに遠く、一本の竜眼肉(ゲンゲン)の大樹が黑いまでにまるく、靑空へ枝を茂らせてゐて、そのかげに灰白色の高い建物があるのは、ごく小型でこそはあれ、どうしたつて銃樓(じうろう)でなければならない。圓い建物でその平(たひら)な屋根のふちには規則正しい凹凸をした砦があり、その下にはまた眞四角な銃眼窓(じうがんそう)がある。

[やぶちゃん注:「竜眼肉(ゲンゲン)」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan。音写すると、一般に「龍眼」は「ロンガン」「リンギン」であるが、台湾語の入門書を見ると、台湾閩南語では「gîng-gíng」の発音表記があるから、或いは、春夫はこれを音写したつもりなのかも知れない。]

「君!」

 私は、またしても古圖をひらいてゐる世外民の肩をゆすぶつて彼の注意を呼ぶと同時に、今發見したものを指さした――

「ね、何だらう、あれは?」

 さう言つて私は步き出した、その小さな櫓(やぐら)の砦の方へ。――屋敷のなかには、氣がつくとほかにも屋根が見える。それの長さで家は大きな構(かまへ)だといふことがわかる。その屋敷を私は見たいと思つた。石圍ひの崩れたところからきつと見えると思つた。何でもいい、少しは變つたものを見なければ、禿頭港(クツタウカン)はあまり忌忌(いまいま)しすぎる。

 石垣のとぎれた前まで來ると、それを通して案の定、家がしかも的面(まとも)に見えた。いや、偶然にさう見るやうな意向によつて造られてゐたのである。また石圍ひの中絕してゐるのはやはりただ崩れ果てたのではなく、もとからそこが特にあけてあつた跡がある。水門としてであらう。何故かといふのに濠(ほり)はずつとこの屋敷の庭の中まで喰入(くひい)つてゐて、崩れた石圍ひの彼方も亦、正しい長方形の小さい濠である。十艘の舢舨(サンパン)を竝べて繫ぐだけの廣さは確(たしか)にある。さうしてその汀に下りるために、そこには正面に石段が三級ある。――しかもその水は涸(かわ)き切つてしまつて、露(あら)はな底から石段まではどう見ても七尺以上の高さがある。――もしこの石段にすれすれになるほど水があつたならば、今は豚と家鴨(あひる)との遊び場所であるこの大きな空しい濠も一面に水になるであらう。それにしてもこれ程の濠を庭園の内と外に築いた家は、その正面からの外觀は、三つの棟(むね)によつて凹字形(あふじけい)をしてゐる。凸字形の濠に對して、それに沿うて建てられてゐる。正面に長く展(ひろ)がつた軒は五間もあり、またその左右に翼(つばさ)をなして切妻を見せてゐる出屋(だしや)の屋根は各(おのおの)四間はあらう。それが總(そう)二階なのである。――一たいが小造りな平家を幾つも竝べて建てる習慣のある支那住宅の原則から見て、これは甚だ大きな住居と言へるであらう。私はくたびれた足を休める意味でしやがんだ序(ついで)に、土の上へこの家の見取圖をかき、それから目分量で測つた間數(けんすう)によつて、この建物は延坪百五十坪は優にあると計算した。一たい私は必要な是非ともしなければならない事に對してはこの上なくづぼらなくせに、無用なことにかけては妙に熱中する性癖が、その頃最もひどかつた。

「何をしてゐるんだい?」

 世外民の聲がして、彼は私のうしろに突立(つゝた)つてゐた。私は何故かいたづらを見つけられた小兒のやうにばつの惡いのを感じたので、立つて土の上の圖線(づせん)を踏みにじりながら、

「何でもない……。――大きな家だね」

「さう。やつぱり廢屋だね」

 彼から言はれるまでもなく私もそれは看て取つてゐた。理由は何もないが、誰(たれ)の目に見てもあまりに荒れ果ててゐる。澤山の窓は殘らずしまつてゐるが、さうでないものは戶そのものがもう朽ちて、なくなつてしまつたに相違ない。

「全く豪華な家だな。二階の亞字欄(あじらん)を見給へ。實に細かな細工だ。またあの壁をごらん。あの家は裸の煉瓦造りではないのだ。美しい色ですつかり化粧してゐる。一帶に淡い紅色の漆喰(しつくひ)で塗つてある。そのぐるりはまたくつきりと空色のほそい輪廓だらう。色が褪せて白(しら)ちやけてしまつてゐるところが、却つて夢幻的ではないか。走馬樓(ツアウベラウ)の軒下の雨に打たれないあたりには、まだ色彩がほんのりと殘つてゐる」

[やぶちゃん注:「走馬樓(ツアウベラウ)」二階以上に付けられた回り廊下のこと。

「漆喰(しつくひ)」の音は「石灰」の唐音に基づくもので、「漆喰」という漢字は当て字である。従って歴史的仮名遣を「しつくひ」とするのは誤りである。消石灰に麻糸などの繊維質や海藻のフノリ・ツノマタなどの膠着剤を加えて水で練ったもの。砂や粘土を加えることもあり、壁の上塗りや石・煉瓦の接合に用いる。]

 私が延坪を考へてゐる間に、同じ家に就て世外民には彼の觀方(みかた)があつたのだ。彼の注意によつて私はもう一ぺん仔細に眺め出した。なるほど、二階の走馬樓――ヹランダの奥の壁には、淡いながらに鮮かな色がしつとり、時代を帶びてゐた。事實この廢屋は見てゐるほど、その隅隅から素晴らしい豪華が滾々と湧き出して來るのを感じた。たとへばその礎(いしづゑ)である。普通土間(どま)のなかに住んでゐる支那人の家は、その礎は一般にごく低い。地面よりただ一足だけ高くつくられてゐる。それだのに今我我の目の前にあるこの廢屋の礎は、高さ三尺ぐらゐはあり、やはり汀(みぎは)に揃つた切石で積み疊んであつた。もつと注意すると、水門の突當りにあたる場所には、その汀に三級の石段があることはもう知つてゐるが、その奧の家の高い礎にもやはり二三級の石段がある。その間口二間ほどの石段の兩側に、二本の圓柱(ゑんちう)があつて、それが二階の走馬樓(ツアウベラウ)を支へてゐるのだが、この圓柱は、……どうも少し遠すぎてはつきりとはわからないけれども、普通の外(そと)の柱よりも壯麗である。上の方には何やらごちやごちやと彫刻でもしてあるらしい。その根元にあたるあたり、地上にはやはり石の細工で出來た大きな水盤らしいのが、左右相對(シンメトリイ)をして据ゑつけてある。――これらの事物がこの正面を特別に堂堂たるものにしてゐるのが私の注意を惹いた。私には、そこはこの家の玄關口ではないかと思はれて來た。

 そこで私は自分の疑問を世外民に話した――

「君、ここが正面、――玄關だらうかね」

「さうだらうよ」

「濠(ほり)の方に向いて?」

「濠? ――この港へ面してね」

 世外民の「港」といふ一言(ごん)が自分をハツと思はせた。さうして私は口のなかで禿頭港(クツタウカン)と呼んでみた。私は禿頭港を見に來てゐながら、ここが港であつたことは、いつの間にやらつい忘却してゐたのである。一つには私は、この目の前の數奇(すき)な廢屋に見とれてゐたのと、もう一つにはあたりの變遷にどこにも海のやうな、港のやうな名殘(なごり)を搜し出すことが出來なかつたからである。この點に於ては世外民は、殊に私とは異つてゐる。彼はこの港と興亡を共にした種族でこの土地にとつては私のやうな無關心者(ストレンヂア)ではなく、またそんな理窟よりも彼は今のさつき古圖を披(ひら)いてしみじみと見入つてゐるうちに、このあたりの往時の有樣を腦裡に描いてゐたのであらう。「港」の一語は私に對して一種靈感的なものであつた。今まで死んでゐたこの廢屋がやつと靈を得たのを私は感じた。泥水の濠ではないのだ。この廢渠(はいきよ)こそむかし、朝夕(てうせき)の滿潮があの石段をひたひたと浸した。走馬樓(ツアウベラウ)はきららかに波の光る港に面して展(ひら)かれてあつた。さうして海を玄關にしてこの家は在つたのか。――してみれば、何をする家だかは知らないけれども、この家こそ盛時の安平(アンピン)の絕好な片身(かたみ)ではなかつたか。私はこの家の大きさと古さと美しさとだけを見て、その意味を今まで全く氣づかずにゐたのだ。

 今まで氣づかなかつただけに、私の興味と好奇とが相縺(あひもつ)れて一時(じ)に昂(たかま)つた。

「這入(はい)つてみようぢやないか。――誰(だれ)も住んではゐないのだらう」私は息込(いきご)んでさう言つたものの、濠(ほり)を距(へだ)てまた高い石圍ひを繞(めぐら)してゐるこの屋敷へはどこから這入れるのだか、ちよつと見當がつかなかつた――道ばたの廢屋なら、さつき安平でやつたやうについ、つかつかと這入り込んでみたいのだが。後(のち)に考へ合せた事だが、入口が直ぐにわからないといふこの同じ理由が、この廢屋を、その情趣の上でも事實の上でも、陰氣な別天地として保存するのに有力であつたのであらう。

 その家のなかへ這入つてみたいといふ考へが、世外民に同感でない筈はない。世外民はきよろきよろとあたりを見廻してゐたが、我我が背をよせて立つてゐた石圍ひの奧に、家の日かげに臺灣人の老婆がひとり、棕櫚(しゆろ)の葉の團扇(うちは)に風を求めて小さな木の椅子に腰かけてゐるのを彼は見つけた。彼は直ぐにそこヘ步いて行つて、何か話をしてゐた。向側の廢屋を指さしたりしてゐる樣子で、そのふたりの對話の題目はおのづと知れる。

 世外民はすぐに私の方へ向つて歸つて來た。「わかつたよ、君。あの道を行つて」彼は言ひながら濠のわきにある道を指さして「向うに裏門があるさうだ。少し入組んでゐるやうだが、行けば解るとさ。――やつぱり廢屋だ。もう永いこと誰(だれ)も住んでゐないさうだ。もとは沈(シン)といふ臺灣南部では第一の富豪の邸(やしき)だつたのださうだ。立派な筈さ」

 話しながら私たちはその裏門を搜した。世外民が不確(ふたしか)な聽き方をして來てゐたので、私たちはちつとまごついた。こせこせした家の間へ入り込んでしまつた。尋ねようにもあたりに人は見當らなかつた。このあたりは割に繁華なところらしいのだが、人氣のないのは、今が午後二時頃の日盛りで、彼等の風習でこの時刻には大抵の人間が午睡(ごすゐ)を貪つてゐるのである。私たちは仕方なしにいい加減に步いたが、もともと近いところまで來てゐた事ではあり、また目ざす家は聳えてゐたから自(おのづ)とわかつた。但(たゞし)、その家はあの濠のあちらから見た時には、ただ一つの高樓であつたが、裏へ來て見ると、その樓(やぐら)の後(うしろ)には低い屋根が二三重もつながつてゐた。所謂(いはゆる)五落(らく)の家といふのはこんなのであらうが、大家族の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])だといふことが一層はつきりすると同時に、あの正面の二階建が主要な部屋だといふことは確かだ。私たちは他(た)の場所よりも、あの走馬樓(ツアウベラウ)のある二階や圓柱のあつた玄關が第一に見たかつた。それ故、私たちは裏門を入るとすぐに、低い建物はその外側を廻つて、表へ出た。

[やぶちゃん注:「五落の家」不詳。五代に亙って繁栄し、没落した豪家の家の謂いか? 識者の御教授を乞う。]

 圓柱はやはり石造りであつた。遠くから、上部にごちやごちやあると見たものは果して彫刻で、二本の柱ともそこに纏(まつは)つてゐる龍を形取(かたど)つたものであつたが、一つは上に昇つてゐたし、一つは下に降りようとしてゐた。雨に打たれない部分の凹みのあたりには、それを彩つた朱や金が黑みながらもくつきりと殘つてゐた。割合から言つて模樣の部分が多すぎて、全體として柱が低く感ぜられたし、また家の他(た)の部分にくらべて多少古風で莊重すぎるやうに私は感じた。しかし私と世外民とは、この二つの柱をてんでに撫でて見ながら、この家が遠見よりも、ここに來て見れば近(ちか)まさりして贅澤なのを知つた、細部が自(おのづ)と目についたからである。尤も、もし私に眞の美術的見識があつたならば、たかが殖民地の暴富者(ばうふしや)の似而非(えせ)趣味を嘲笑(あざわら)つたかも知れないが、それにしても、風雨に曝されて物每(ごと)にさびれてゐる事が厭味(いやみ)と野卑とを救ひ、それにやつとその一部分だけが殘されてあるといふことは却つて人に空想の自由をも與へたし、また哀れむべきさまざまな不調和を見出すより前にただその異國情緖を先づ喜ぶといふこともあり得る。況んや、私は美的鑑識にかけては單なるイカモノ喰ひなことは自ら心得てゐる。

 細長い石を網代(あじろ)に組み竝べた床(ゆか)の緣(えん)は幅四尺ぐらゐ、その上が二階の走馬樓(ツアウベラウ)である。私たちはそこへ上つてみたいのだ。觀音開きになつた玄關の木扉(もくひ)は、一枚はもう毀(こぼ)れて外れてしまつてゐた。殘つてゐる扉(とびら)に手をかけて、私は部屋のなかを覗いた。――二階へ上(あが)る階段がどこにあるだらうかと思つて。支那家屋に住み慣れてゐる世外民には大たいの見當が判ると見えて、彼はすぐづかづかと二三步廣間のなかへ步み込んだ。

「××××、××××!」

 不意にその時、二階から聲がした。低いが透きとほつやうな聲であつた。誰(だれ)も居ないと思つてゐた折りから、ことにそれが私のそこに這入らうとする瞬間であつただけに、その呼吸が私をひどく不意打した。ことに私には判らない言葉で、だから鳥の叫ぶやうな聲に思へたのは一層へんであつた。思ひがけなかつたのは、しかし、私ひとりではない。世外民も踏み込んだ足をぴたと留(と)めて、疑ふやうに二階の方を見上げた。それから彼は答へるが如くまた、問ふが如く叫んだ――

「××!?

「××!?

――世代民の聲は、廣間のなかで反響して鳴つた。世外民と私とは互に顏を見合せながら再び二階からの聲を待つたけれども、聲はそれつきり、もう何もなかつた。世代民は足音を竊(ぬす)んで私のところへ出て來た。

「二階から何か言つたらう」

「うん」

「人が住んでゐるんだね」

 私たちは聲をしのばせてこれだけのことを言ふと、這入つてくる時とは變つた步調で――つまり遠慮がちに、默つて裏門から出た。しばらく沈默したが出てしまつてからやつと私は言つた。

「女の聲だつたね。一たい何を言つたのだい? はつきり聞えたのに何だかわからなかつた」

「さうだらう。あれや泉州人(ツヱンチヤオナン)の言葉だものね」

[やぶちゃん注:「泉州」現在の福建省の台湾海峡に面した港湾都市泉州市を中心とした広域地名。唐代から外国貿易で発展し、インドやアラブまで航路が通じ、イスラム寺院・景教寺院などの遺跡もある。(グーグル・マップ・データ)。正確に音写するなら「チュァンヂォゥ」。]

 普通に、この島で全く廣く用ゐられるのは廈門(エイムン)の言葉で、それならば私も三年ここにゐる間に多少覺えてゐた――尤も今は大部分忘れたが、泉州(ツヱンチヤオ)の言葉は無論私に解らう筈はなかつたのである。

「で、何と言つたの――泉州言葉で」

「さ、僕にもはつきりと解らないが。『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』――と、何だか……」

「へえ、そんな事かい。で、君は何と言つたの」

「いや、わからないから、もう一度聞き返しただけだ」

 私たちはきよとんとしたまま、疲勞とと不審と空腹とをごつちやに感じながら、自然の筋道として再び先刻(さつき)の濠に沿うた道に出て來た。ふと先方を見渡すと、自分たちが先刻そこから初めてあの廢屋を注視したその同じ場所に、老婆がひとり立つて、ぢつと我我がしたと同じやうに濠を越してあの廢屋をもの珍しげに見入つてゐるのであつた。それが、近づくに從つて、今のさつき世外民に裏門への道を敎へた同じ老婆だといふことが分かつた。

「お婆さん」その前まで來た時に世外民は無愛想に呼びかけた。「噓を敎へてくれましたね」

「道はわかりませんでしたか」

「いいや。……でも人が住んでゐるぢやありませんか」

「人が? へえ? どんな人が? 見えましたか?」

 この老婆は、我我も意外に思ふほど熱心な目つきで私たちの返事を待つらしい。

「見やしませんよ。這入つて行かうとしたら二階から聲をかけられたのさ」

「どんな聲? 女ですか?」

「女だよ」

「泉州(ツヱンチヤオ)言葉で?」

「さうだ! どうして?」

「まあ! 何と言つたのです!?

「よくわからないが、『なぜもつと早く來ないのだ?』と言つたと思ふのです」

「本當ですか? 本當ですか! 本當に、貴方がた、お聞きになつたのですか! 泉州言葉で『なぜもつと早く來ないのだ?』つて!?

「おお!」

 臺灣人の古い人には男にも女にも、歐洲人などと同じく演劇的な誇張の巧みな表情術がある。その老婆は今それを見せてゐるが、彼女のそれはただの身振りではなく眞情が溢れ出てゐる。恐怖に似た目つきになり、氣のせゐか顏色まで靑くなつた。この突然な變化が寧ろ私たちの方を不氣味にした位である。彼女はその感動が少し鎭まるのを待ちでもするやうに沈默して、しかし私たちに注いだ凝視をつづけながら、最後に言つた――

「早く緣起直(えんぎなほ)しをしておいでさい。――貴方がたは、貴方がたは死靈(しりやう)の聲を聞いたのです!」

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「鶴になつた人」

 

 鶴になつた人

 

   人に死し鶴に生れて冴返る  漱石

 

嘗て鳴雪翁がこの句を説くに當り、丁令威の故事を引合ひに出してあつたと記憶する。丁令威の事は「搜神後記」に出てゐるが、遼東の人で、道を靈虛山に學ぶ。後に鶴に化して遼に歸り、城門の華表(くわへう)の柱にとまつた。少年が弓を以て射ようとすると、鶴は飛び立つて空中に徘徊し、「鳥あり鳥あり丁令威、家を去りて千年今始めて歸る、城郭は故(もと)の如くにして人民は非なり、何ぞ仙を學ばずして塚壘壘たるや」と言ひ、遂に天高く舞ひ去つた。遼東の丁姓の人の間に、先祖に登仙した人のあつたことを傳へてゐるが、その名前はわからぬさうである。千年たつて郷里に歸つたのでは、浦嶋太郎より更に時間が長い。假りに城郭は舊の如くであつたにせよ、故人の存する者なきは當然であらう。丁令威は道術の士だから、人の仙を學ばずして早く死するのを憫れんだのである。

[やぶちゃん注:「人に死し鶴に生れて冴返る」明治三〇(一八九七)年二月、「正岡子規へ送りたる句稿 その二十三」の中の一句。子規による他者の秀作を記した選句帖「承露盤」に入っている。漱石満三十歳直前(熊本第五高等学校英語教師時代)の作句と推定される(漱石は二月九日生まれ)。駄句である。私は漱石の俳句でこれはと思うた句は一句とてない。

 陶淵明作と伝える志怪小説集「搜神後記」のそれは第一巻の「丁令威」。

   *

丁令威、本遼東人、學道於靈虛山。後化鶴歸遼、集城門華表柱。時有少年、舉弓欲射之。鶴乃飛、徘徊空中而言曰、「有鳥有鳥丁令威、去家千年今始歸。城郭如故人民非、何不學仙離塚壘。」。遂高上沖天。今遼東諸丁、云其先世有升仙者、但不知名字耳。

   *

「華表」建築物に添えて建立される記念標柱。一般的には台座・蟠龍柱(とぐろを巻いた龍)・承露盤とその上の蹲獣像から成る。]

 

 鶴は仙禽と稱せられるほどで、仙人とは緣が深い。鶴背の仙人は畫圖としても平凡なものであるが、丁令威と同じく鶴に化した話もいくつかある。蘇耽も鶴に化した一人で、城郭の東北に聳えてゐる樓の上にとまつた。或人がこれを射ると、彼は爪を以て樓の板に次のやうな文句を書いて、いづこともなく飛び去つた。その痕があだかも漆(うるし)で書いたものの如くであつたが、文句の内容は「城郭は是なり、人民は非なり、三百甲子一たび來り歸る、吾は是れ蘇耽なり、我を彈するは何ぞや」といふので、丁令威の語を踏襲したに過ぎぬ。※(しふ)玄英は屍解仙化するに當り、腦天から一道の白菊が立ち昇ると見る間もなく、一羽の鶴になつて飛び去つたとあるのみで、丁令威や蘇耽のやうな話は傳はつてゐない(列仙全傳)。

[やぶちゃん注:「※(しふ)」=「金」+「寸」。

「蘇耽」ArtWikiの「蘇耽」に金井紫雲の「東洋画題綜覧」の解説が記されているので引くと(引用符を打たなかったのは、漢字を恣意的に正字化し、読み易くするために記号を追加したことによる)、

   *

蘇耽は支那の仙人、その母に仕へて孝なることと、後に鶴に化すといふのが如何にも興味があり、仙人中でも異色のもので、「列仙傳」第二卷に曰く、

蘇耽、郴人、事母至孝、嘗遇異人授神仙術、日侍膳、母思鮓卽出市鮓以献、問所從來曰、便県、母始異之、一日忽灑掃庭除、母問其故、曰仙道已成上帝來召、母曰、汝仙去吾誰養、乃留一櫃云、所需卽有、又云、明年大疫、取庭前井水橘葉救之、耽仙去已而果疫、母日活百餘人、後耽化鶴來郡城東北樓、時有彈之者、乃以爪攫樓板、似漆書云、城郭是人民非、三日甲子一來歸、吾是蘇耽、彈我何爲。

その「蘇耽乘鶴」は古來、好畫題として行はれ、「後素説」にも之を擧げてゐる。

   *

とある。他に彼に就いては、中文サイト道教典」の「耽」に、

   *

「洞仙傳」、蘇耽者、桂陽人也。母食欲得魚、耽往市去家數百里、俄頃便返。後留一櫃兩盤於家中、謂母曰、須食魚扣小盤、欲得錢扣大盤、所須皆立至。

「神仙傳」、蘇耽桂陽人、有數十白鶴降于門、遂昇雲而去。後有白鶴來郡城東北樓門上、人或挾彈彈之。鶴以爪攫樓門似漆書云、「城郭是、人民非、三百甲子一來歸、吾是蘇仙、君彈我何爲。」。

「水經注」、蘇耽郴縣人、少孤事母至孝。忽辭母仙去、後見耽乘白馬還山中、人稱爲蘇仙、爲之立祠、因名山爲馬嶺山。

   *

とあった。個人のページらしき櫃と蘇耽の母も読まれたい。

「※(しふ)玄英」不詳。]

 

 則天武后の末年、益州に一人の膏藥翁があつた。常に一箇の壺を携へて城中に藥を賣り、それで生活して居つたが、常に貧しいのはいふまでもない。普通の人のやうな食事は攝(と)らず、時に淨水を飮むだけである。一年餘りこんな事を續けてゐるうちに、大いに人々の信賴を得、この翁の藥を飮めば癒えざる者なしと云はれた。本人は更に世事に貪著(とんぢやく)せず、或時は江岸に遊んで水を眺めて永い日を消し、或時は山に登つて沈思默考するだけであつたが、有識者に遇へば翁一流の疾病觀を述べるのを常とした。一日錦江に到り、衣を脱いで身を淨め、壺中から一粒の丸藥を取り出して飮むと、側にゐた者を顧みて、わしは久しくこの土に謫せられて居つたが、その期限も漸く滿ちた、これから嶋に歸ると云ひ、白鶴に化して飛び去つた。その衣も藥も皆水に沒し、何も殘つてゐなかつた(瀟湘錄)。

[やぶちゃん注:以上は「瀟湘錄」の「説郛」の巻三十三を出典とする「老父賣藥朱仁」。中文ウィキソース「瀟湘錄」から加工して引く。

   *

則天末年、益州有一老父、攜一藥壺於城中賣藥、得錢卽轉濟貧乏、自常不食、時卽飮淨水。如此經歳餘、百姓賴之、有疾得藥者、無不愈。時或自遊江岸、凝眺永日、又或登高引領、不語永日。每遇有識者、必告之曰、「夫人一身、便如一國也。人之心卽帝王也、傍列髒腑、卽内府也、外張九竅、卽外臣也、故心病則内外不可救之、又何異君亂於上、臣下焉可止之。但凡欲身之無病、必須先正其心、不使氣索、不使狂思、不使嗜欲、不使迷惑、則心無病。心既無病、則内輔必堅髒腑、雖有病不難療之也。外之九竅、亦無由受病也。況藥有君有臣、有佐有使、或攻其病、君先臣次、然後用佐用使、自然合其宜。加以佐小不當其用、心自亂也、又何能救病。此又國家任人也。老夫常以此爲念、每見愚者一身、君不君、臣不臣、使九竅之邪、總納其病、以至於良醫自逃、名藥不效、猶不自知治身之病後時矣。悲夫、士君子記之。」。忽一日獨詣錦江、解衣淨浴、探壺中、惟選一丸藥、自吞之、謂衆人曰、「老夫謫罪已滿、今卻歸島嶼。」。俄化爲一白鶴去、其衣與藥壺、並沒於水、求尋不得。

   *

「則天武后の末年」武則天の在位は六九〇年から七〇五年二月まで。

「益州」現在の四川盆地と漢中盆地一帯を指す。

「錦江」現在の四川省省都成都市中心部を流れる川で岷江の支流。長江水系。]

 

 以上の話は略々同一系統のもので、話本位に見ればさのみ興味は感ぜられぬ。話として面白いのは「集異記」の徐佐卿であらう。

 玄宗皇帝の天寶十三年、九月九日の重陽に沙苑の獵が行はれた。たまたま一羽の鶴が雲間に飛ぶのを見、帝自ら失を放たれると、失はあやまたず鶴に中(あた)り、そのまゝ落ちて來さうになつたが、地面から一丈ぐらゐのところで、忽ちまた舞ひ上り、西南をさして飛んで行つた。一同見えるだけ見送るうちに、遂に姿を消してしまつた。

 益州の城から十里ばかり離れたところに、明月觀といふ建物がある。山により水に臨み、樹木の茂つた場所で、諸方から道士の集まる中に、東廊の第一院といふのが最も幽絶であつた。靑城の道士徐佐卿なる者があつて、一年に三四度は必ずやつて來る。その風格がおのづから異るものがあるので、院の正堂を明けて置いて、佐卿の來るのを待つやうにしてゐた。佐卿は三日五日ぐらゐ逗留することもあり、十日間ぐらゐゐて靑城に歸ることもある。彼は久しきに亙り道士達に傾仰されて居つたが、或日例の如くやつて來て、何だか不愉快さうな顏をしてゐる。やゝあつて院中の人に向ひ、今日わしは山中で流れ矢に中つた、別に大した怪我もないが、この矢は人間の所有すべき性質のものでないから、こゝの壁に留めて置く、そのうちに矢の主(ぬし)が尋ねて來たら、これを返して貰ひたい、粗末にしてはならぬぞ、と云ひ、「留箭之時。則十三載九月九日也」の十三字を壁に記して去つた。安祿山の亂が起つたのはその後である。玄宗皇帝は亂を避けて蜀に行幸されることになり、圖らずもこの明月觀に立ち寄られた。帝は塵俗の氣を絶した環境を愛(め)でられ、各室をあまねく見て步かれたが、遂にこの室に入つて壁にかけた矢を一瞥されると、直ちに侍臣に命じて取らしめられた。矢は紛れもない、帝の放たれたものであるけれど、それがどうしてここに來てゐるか、その徑路がわからぬ、道士達は帝より尋ねられるまゝに、事實あつた通り奉答した。失が沙苑に於て用ゐられたものである以上、その矢に中つた鶴は佐卿でなければならぬ。帝は深くこの事を奇とし、自ら放たれた矢を藏して寶とされた。その後蜀の人で佐卿に逢つた者は一人もなかつたさうである。

[やぶちゃん注:この話、現存する「集異記」にはなく、「太平廣記」の「神仙三十六」に「廣德神異錄」を出典として「徐佐卿」で載る。

   *

唐玄宗天寶十三載重陽日獵於沙苑。時雲間有孤鶴徊翔。玄宗親御弧矢中之。其鶴卽帶箭徐墜、將及地丈許、欻然矯翼、西南而逝。萬衆極目。良久乃滅。益州城西十五里、有道觀焉。依山臨水、松桂深寂。道流非修習精者莫得而居之。觀之東廊第一院、尤爲幽寂。有自稱靑城山道士徐佐卿者、淸粹高古、一歳率三四至焉。觀之耆舊、因虛其院之正堂、以俟其來。而佐卿至則棲焉、或三五日、或旬朔、言歸靑城。甚爲道流所傾仰。一日忽自外至、神彩不怡、謂院中人曰、「吾行山中、偶爲飛矢所加、尋已無恙矣。然此箭非人間所有、吾留之於壁、後年箭主到此、卽宜付之、慎無墜失。」。仍援毫記壁云、「留箭之時、則十三載九月九日也。」。及玄宗避亂幸蜀、暇日命駕行遊、偶至斯觀、樂其嘉境、因遍幸道室。既入此堂。忽覩其箭。命侍臣取而翫之、蓋御箭也。深異之、因詢觀之道士。具以實對。卽視佐卿所題。乃前沙苑從田之箭也、佐卿蓋中箭孤鶴耳。究其題、乃沙苑翻飛、當日而集于斯歟。玄宗大奇之、因收其箭而寶焉。自後蜀人亦無復有遇佐卿者。

   *

「十三載九月九日」安禄山の乱は天宝十四載の十一月に勃発している。

「益州の城」長安から益州成都までは直線でも六百キロメートルを超える。]

 

 丁令威以下の人々は、いづれも「人に死し鶴に生れ」たもので、身を仙禽に變へてから人間の生活は營まなかつたのに、徐佐卿だけは鶴となつて矢を受けた後、人間の姿で明月觀に現れてゐる。彼はその點に於て他の人の企て及ばぬ自在を得てゐたのであらうか。丁令威も蘇耽も射られた事は同じであるが、佐卿ひとり身に受けたのは、帝箭の威力の然らしむるところであらうか。然も遂に一結杳然として消息を絶つてゐるのが、この話の神韻縹渺たる所以であらう。

[やぶちゃん注:「一結杳然」「いつけつえうぜん(いっけつようぜん)」とは、文章の後に残っている風情。文章を締めくくった後に、匂うように余韻が残るさまを言う語。]

2017/10/11

女誡扇綺譚 佐藤春夫 始動 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址

 

[やぶちゃん注:「女誡扇綺譚」(ぢよかいせんきたん(じょかいせんきたん))は大正一四(一九二五)年『女性』に発表された、彼の怪奇小説中、傑作の呼び名高い一篇である。作者自身が、浪漫的作品の最後のものと評し、その自作中でも五指に入るであろうと言ったほど、愛着を示したいわくつきの幻想作品である。

 底本は昭和四(一九二九)年改造社刊の「日本探偵小説全集」の「第二十篇 佐藤春夫・芥川龍之介集」所収のものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(活字本を持っているはずなのだが、数ヶ月かけても見出せない。書庫の奈落で妖怪(あやかし)の餌食にでもなったものか?)。

 本ブログ版では最小限の注を禁欲的に附した。但し、そう言っている傍からであるが、冒頭に出る「赤嵌城(シヤカムシヤ)址」は注が必要であろう。これは「赤崁楼(せきかんろう)」の別名で「赤嵌楼」「紅毛楼」とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡。原名は「プロヴィンティア」(Provintia:普羅民遮城)と称し、一六五三年に、前年に起ったオランダ人と漢人の衝突事件である「郭懐一事件」後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、「プロヴィンティア」は「東都承天府」と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。佐藤は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」(“TE”“THE”の脱字か?)と記しているが、これは厳密には別な城で、参照したウィキの「赤崁楼」によれば、一六二四年、『澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し商館や砲台を築城した。台江西岸の一鯤沙洲(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった』。『オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し厳しい統治方式を採用した。そのため』、『漢人の不満が爆発』、『「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方』地区に新たな『「プロヴィンティア」を建築した。周囲約』百四十一メートル、城壁の高さ十・五メートルの『城砦には』、『水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した』とあるように、「プロヴィンティア」の前にあった別な要塞が「THE CASTLE ZEELANDIA」(安平古堡)である。『オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称』、『鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経』一六六四『年に東都を廃し、「東寧」と改称』、『「東寧国王」を自称するようになった。承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった』。一七二一『年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け』、『赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した』。十九『世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている』とある。【2020年8月15日削除・追記訂正:本注末尾をまず参照されてから読まれたい。近代文学研究者の河野龍也先生からの御指摘により、私の誤認であることが判明した。以下、河野先生のメールより引用させて戴く(引用は河野先生の許諾を頂戴している。以下同じ)。まず、①点目。

   《引用開始》

『作品冒頭の舞台になっている「赤嵌城」ですが、これは安平の「ゼーランジア城」現在は「安平古堡」[やぶちゃん注:「アンピンこほう」と読む。]と呼ばれている史跡の日本時代の通称です。一方、現在でも「赤嵌楼」と呼ばれる「プロヴィンティア城」は、安平ではなく台南の市内にあり、両者は5キロほど離れた全く別の場所に存在しています。作品に出てくるのは 安平の「赤嵌城」=「ゼーランジア城」のことで、春夫の記述に間違いはなく、確かなものです。「赤嵌楼」の方はもともと作品に登場しません。

   《引用終了》

とのことであった。安平古堡はここ(グーグル・マップ・データ)で、私が誤認した赤崁楼(グーグル・マップ・データ)はそこから東の内陸に入った全く別のここであった。日本統治時代の通称の亡霊が私に祟ったわけであった。ウィキの「安平古堡」によれば、同城塞は『旧称を奧倫治城(Fort Orange、オラニエ城)、熱蘭遮城(Fort Zeelandia、ゼーランディア城)、安平城、台湾城ともいう、1624年に建設された台湾で最も古い城堡。建城以来、オランダ統治時代にはオランダ東インド会社による台湾統治の中心地として、また鄭氏政権時代には3代にわたる王城として使用されていた』。『現在は台湾城残蹟の名称で国家一級古蹟に指定され、一般にも開放されている。なお』、『現存する赤レンガは当時インドネシアから運ばれてきたものである』。『1622年、オランダ東インド会社はマカオの占領を図った。しかし、現地のポルトガル人が抵抗したため断念、澎湖島を占拠して東アジア貿易の拠点を築こうとした。しかし、この地も明によって撤去が求められたため、1623年、オランダは台湾に進出し』、『一鯤身に簡易な城砦を築城した。これが安平古堡の前身である。その後』、『1624年に明軍と8ヶ月に及ぶ衝突を繰り返し、その結果』、『オランダと明の間で講和が成立、澎湖の要塞と砲台を破棄する代わりに、オランダが台湾に進出する事を認める内容であった。台湾にオランダ勢力が到着すると、既存の簡易な城砦を再建し「奧倫治城」(Fort Orange)と命名、1627年に「熱蘭遮城」(Fort Zeelandia)と改名され』て『建設が続けられ、1632年に第1期工事が完了した。当時、この城砦は台湾に於けるオランダ勢力の中枢として、行政及び貿易を統括していた』。『1662年、大陸を追われた明の遺臣・鄭成功は、新たな拠点を構築するために台湾を攻撃、既存のオランダ人勢力と対立し』、『ゼーランディア城を攻撃した。その結果』、『オランダ人勢力は台湾から一掃され、台湾史上初めて漢人による政権が樹立された。鄭成功は熱蘭遮城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配者の居城となり「王城」と呼ばれるようになった』。『しかし1683年、清による台湾統治が開始されると、政治の中心は城内に移り、安平城は軍装局として用いられ、城砦の重要性は漸次低減、改修が行なわれることなく次第に荒廃していった。1873年、イギリス軍艦の攻撃を受けたが、その際』、『イギリス軍の放った砲弾が城内の火薬庫に命中爆発、甚大な被害を受けた城砦は廃墟と化してしまう。1874年、台湾出兵問題で日本と善後策を協議した沈葆楨』(しんほてい)『は、台湾海防の充実のために安平城城壁を二鯤身に運搬、億載金城建設の資材とした』。『日本統治時代、城垣は整地され』、『日本式の宿舎が建設され、オランダ時代に築城された城砦は完全に姿を消すこととなった。戦後、国民党政府は城址を「安平古堡」と命名し、僅かに残る城址の保護を決定、現在は中華民國内政部によって一級古蹟の一つとされている。現在観光客が展望を楽しんでいる高台は、日本統治時代に建設されたものであり、保護対象の安平古堡には含まれていない』とある。

 次に②点目は、私が――佐藤春夫は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」と記しているが、「“TE”は“THE”の脱字か?」――と記した箇所で、河野先生は、

   《引用開始》

「TE CASTLE ZEELANDIA」の表記は、春夫が台湾旅行の際、アドバイザーの森丑之助から贈られた案内書『台湾名勝旧蹟誌』(杉山靖憲著・1916.4台湾総督府)からの引用です。しかし「CASTEL(カステル)」と原文にあるのを、恐らく春夫自身が「CASTLE(キャッスル)」に見誤って引用したため、このようになりました。したがって「TE」は英語の定冠詞「THE」の脱字ではないようです。これは当時のオランダ語の表記法を調べる必要がありますが、そこまでは手が及んでいません。ただ、1871年の古写真を見ると、ゼーランジア城の門額に「T CASTEL ZEELANDIA」の綴りを読むことができます。『台湾名勝旧蹟誌』が「T」を「TE」としたのは、依拠文献を含めた転記過程に問題がある可能性もあります。

   《引用終了》

と述べておられ、「台湾名勝旧蹟誌」その他の資料の現物画像も添付して下さり、確認出来た。因みに、森丑之助(明治一〇(一八七七)年~昭和一五(一九二六)年)は台湾民族の研究者で、台湾守備隊附陸軍通訳となり、台湾総督府蕃務本署勤務を経て、大正五(一九一六)年、台湾博物館主事となり、高砂(たかさご)族(=高山(こうざん)族)の研究者として知られた。帰国する船から入水自殺して亡くなっている。】

 その他、多数の実在した人物名や現地の地名が出るが、注は読解に必要と考えた対象以外は概ね省略する。私の注方法だと、読みのリズムが阻害されてしまうからである。ともかくも舞台は現在の中華民国台南市(ここ(グーグル・マップ・データ))である。ただ、どうも佐藤春夫のロケーション設定にはかなり問題があるらしい。それについては黒羽夏彦氏の「台湾史を知るためのブックガイド#21」が詳しいので、参照されたい。また、海王星氏のブログ記事「女誡扇綺譚に見る往時の台南」(全三回)も大いに参考になるので、必見。

 また、底本は総ルビであるが、読みを一部の中国音の箇所及び難読字や判読が無暗に振れると私が考えたもの(但し、概ね、初回出現部に限った)を除いて除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。読みが不安な箇所は、上記底本画像を確認されたい。【20171020日公開 藪野直史】

【2020年8月15日削除・追記訂正:一昨日、日本近代文学の研究者であられる河野龍也先生より以下のメールを頂戴した。

   《引用開始》

 ブログを楽しく拝見しております。突然のお便りをお許しください。私は実践女子大学で日本近代文学の講座を担当しております河野龍也と申します。

 実は三省堂の教材に愛読書の「女誡扇綺譚」を取り入れまして(『大学生のための文学トレーニング』近代編2012年)、学生とこの作品を読む機会がたびたびあり、ご苦心のテキスト版と註釈に最近は多くの学生が助けられております。これまではなかなか簡単に手に入らなかったテキストをいち早く作成してくださったことは、私も勝手に知己を見出したような会心の思いでおりました。三省堂の教材でも、紙幅の関係で抄録しかできていません。

 こんど8月21日に、春夫の「台湾もの」の主要作品をほぼ収録した本を中公文庫から出すことになりました。『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』というタイトルです。「女誡扇綺譚」に魅了されて「春夫と台湾」のテーマにのめりこみ、国立台湾文学館に交渉して実現した春夫展が台南で開催中です。日本と台湾でこれからますます愛読者が増えていくに違いありません。

 あまりぶしつけになってもと控えておりましたが、今後注釈についての照会もある場合を考えまして、この機会に、気になっておりました点をお知らせしたいと思い立ちました。

さしあたり、次の3点でございます。[やぶちゃん注:中略。指示して下さった部分は本注の前に二箇所、「一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の「輞」の注で、新たに各個に附した。]

 舞台となった幽霊屋敷の場所ですが、私が2011年に発表した中間報告を手掛かりに、川本三郎氏を案内するため、台南在住の黒羽夏彦さんが調べてくださったものが、ネットでよく参照されるようです。ただ、黒羽さんは私がそのとき発表していた最新の報告を台湾で入手できなかったため、ここで少し混乱が生じました。そこへさらに、地元で観光客を呼び込みたいある店主の思惑が絡んできて(黒羽さんの文章にも出てきますが)めちゃくちゃな説を台南で喧伝しているので、ちょっと頭を抱えています。この経緯自体が何か綺譚めいております。

 幽霊屋敷のモデルは、日本時代の地籍図や土地記録から検証して2か所を想定しています。一つは上記の「廠仔」で新垣宏一が戦前に紹介した場所、もう一つ私が新たに候補に挙げたのは「沈德墨」という豪商の家で、両方を参考にしたというのが現在の私の見方です。醉仙閣については場所が確定し、建物の一部現存も分かりましたので論文で報告しました。これらは中公文庫の解説にも触れておきました。

 「赤嵌城」と「赤嵌楼」については『台湾鉄道旅行案内』大正13年版(1924.9台湾総督府鉄道部)の案内記事を、「輞」については『字源』(1923.5初版、1930.11縮刷改版、明治書院)を、また幽霊屋敷と醉仙閣に関する拙論もPDFでお送りいたします。この問題については現下では最も正確な情報かと存じます。「Cinii」にリンクがありますので、誰でも入手できます。

「女誡扇綺譚」の廃屋 : 台南土地資料からの再検討(『成蹊國文』2017.3)

佐藤春夫の台湾滞在に関する新事実(二)― 土地資料を活用した台南関連遺跡の調査 ―『實踐國文學』(2016.10)

100年前の今日、佐藤春夫は打狗(高雄)の友人宅で、『台湾名勝旧蹟誌』を受け取った所です。[やぶちゃん注:何んと、奇しくも佐藤春夫が本作をものす体験の月日が、今現在、この私が追記をしているところの月日と同期していたのだ!! 以下の河野先生のフェイスブックは新旧の現地の写真も豊富で必見である!!!]100年前の春夫の旅を、日暦形式で追いかけています。ご興味がおありでしたら、私のフェイスブックを覗いてみてください。いずれ増補して出版する予定です。

 急に差し出がましいお便りで申し訳ございませんが、学生をはじめ多くの読者に親しまれるブログであるだけに、影響力も大きく、可能であれば経緯を含めて、ご訂正をお願いできればと存じます。

   《引用終了》

以下、私が机上に於いてネット情報のみで記した注の中の誤認に就いて、画像資料も添えて戴き、非常に丁寧な解説と修正すべき箇所を御指摘戴いた。在野の校正者もいない私、数少ない奇特な嘗ての教え子のみが助力者である私にとって、これは誠に嬉しい御指摘なのであった。されば、ブログ版・サイト版合わせて、本日、その追記と修正を行う。なお、先生からは別に、

   《引用開始》

 芥川の中国紀行が岩波文庫に入ったとき、山田俊治さんが本を送ってくださいました。ご承知のことかと存じますが、解説に藪野様への謝辞が見えたのが強い印象に残っております。大学で文学を学ぶ教室でも、藪野様の広い視野にわたる注釈の恩沢に浴している教員・学生も多いはずですが、ふだんはお世話になる一方でございます。今回このような機会にお話しできるのはありがたく、長年の積み重ねに改めて敬意と感謝を申しあげます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

   《引用終了》

という過褒まで戴いた(山田俊治先生のそれは、私のブログ記事「岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)」を参照されたい)。私は実は最近、自分の今の電子化やそれらへの注作業が、世間的な意味に於いて、どれほどの価値を持つのか、という点について甚だ自信を失うようになってきている。私は自分やっていることが、全く無価値なのではないかと感ずることもしばしばある。しかし、この河野龍也先生のお言葉に際会し(それは相応の挨拶の礼式の辞であることは重々知りながらも)、私は自分やっていることが、必ずしも無駄なわけではないと感ぜられたのである。もう少し、僕は生きられる気がしたのである。されば、河野先生に敬意を表しつつ、削除と追記修正を施した。私の誤認部は抹消せず、取消線で示して、対照出来るようにしておいた。

 なお、この修正版は、本作のサイト一括版を公開した三日後に脳腫瘍のために安楽死させた三女ビーグル犬アリス(Ⅱ世)に捧げる。】]

 

 

     女誡扇綺譚

 

 

        一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址

 

 クツタウカン――字でかけば禿頭港(クツタウカン)。すべて禿頭(クツタウ)といふのは、面白い言葉だが物事の行きづまりを意味する俗語だから、禿頭港とはやがて安平港(アンピンカン)の最も奧の港(みなと)といふことであるらしい。臺南(たいなん)市の西端(はづ)れで安平(アンピン)の廢港に接するあたりではあるが、さうして名前だけの說明を聞けばなるほどと思ふかも知れないが、その場所を事實目前に見た人は、寧ろ却つてそんなところに港(カン)と名づけてゐるのを訝しく感ずるに違ひない。それはただ低い濕つぽい蘆荻(ろてき)の多い泥沼に沿うた貧民窟みたやうなところで、しかも海からは殆んど一里も距つてゐる。沼を埋め立てた塵塚の臭ひが暑さに蒸せ返つて鼻をつく厭な場末で、そんなところに土着の臺灣人のせせこましい家が、不行儀に、それもぎつしりと立竝んでゐる。土人街のなかでもここらは最も用もない邊なのだが、私はその日、友人の世外民(せいがいみん)に誘はれるがままに、安平港の廢市を見物に行つてのかへり路を、世外民が參考のために持つて來た臺灣府古圖の導くがままに、ひよつくりこんなところへ來てゐた。

     *     *     *     *

       *     *     *

  人はよく荒廢の美を說く。亦その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に實感した事はなかつた。安平へ行つてみて私はやつとそれが判りかかつたやうな氣がした。そこにはさまで古くないとは言へ、さまざさの歷史がある。この島の主要な歷史と言へば、蘭人の壯圖(さうと)、鄭成功の雄志、新しくはまた劉永福の野望の末路も皆この一港市に關聯してゐると言つても差支ないのだが、私はここでそれを說かうとも思はないし、また好古家で且(かつ)詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない。私が安平で荒廢の美に打たれたといふのは、又必ずしもその史的知識の爲めではないのである。だから誰(たれ)でもいい、何も知らずにでもいい。ただ一度そこヘ足を踏み込んでみさへすれば、そこの衰頽した市街は直ぐに目に映る。さうして若し心ある人ならば、そのなかから悽然たる美を感じさうなものだと思ふのである。

[やぶちゃん注:「また好古家で且詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない」文の繋がりが悪いが、ママ。――「好古家で」あり、「且」つ「詩人たる世外民なら」、「知らないこと」などなかろうから――或いは――「詩人たる世外民なら」ば容易に可能であるかも「知」れぬが――、「私には」うまくそれを説くことなどは到底「出來さうもない」といった意味であろう。]

 臺南から四十分ほどの間を、土か石かになつたつもりでトロツコで運ばれなければならない。坦坦たる殆んど一直線の道の兩側は、安平魚(アンピンヒイ)の養魚場なのだが、見た目には、田圃ともつかず沼ともつかぬ。海であつたものが埋(うづ)まつてしまつた――といふより埋まりつつあるのだが、古圖によるともともと遠淺であつたものと見えて、名所圖繪式のこの地圖に水牛を曳かせた車の輞(は)が半分以上も水に漬かつてゐるのは、このあたりの方角でもあらう。しかし今はたとひ田圃のやうではあつても陸地には違ひない。さうしてそこの、變化もとりとめもない道をトロツコが滑走して行く熱國のいつも靑靑として草いきれのする場所でありながら、荒野のやうな印象のせゐか、思ひ出すと、草が枯れてゐたやうな氣持さへする。これが安平の情調の序曲である。

「輞(は)」「は」は誤ったルビで、歴史的仮名遣で「わ」でよい。「輪」の訓を当てたもの。 「おほわ(おおわ=大輪)」とも訓ずる。厳密には昔の馬車や牛車や農耕車輛の大きな車輪の外周を包む箍(たが)の部分を指した。【2020年8月15日削除・追記訂正:】河野龍也先生より以下の御指摘を戴いた。

   《引用開始》

 「輞」について。これは1948年出版の文体社版『女誡扇綺譚』に「車の輞(は)」とルビがふってあります。「輞」の訓は確かに「おほわ」で、春夫の用例では『殉情詩集』に「わが胸は輞(おほわ)の下(もと)に砕かれたる薔薇(さうび)の如く呻く」とありますので、一字で「おほわ」と読ませようとした可能性が高いと思います。

 しかしながら、戦前の簡野道明『字源』には「は、くるまの輪の外周を包むたが、車牙(くるまのは)」とあり、「輪」なら「わ」ですが、リムの部分を指す「牙」を「は」と読ませているようです。そのため、現代仮名遣いに変えても「は」で間違いとは言えないようです。

   《引用終了》

また、別便のメールで、

   《引用開始》

 詳しく調べてみないと分かりませんが、音韻変化の中で「は」と「わ」に混乱が生じた例らしくもあります。訓読み自体にそもそも微妙な問題が含まれているのかも知れません。

   《引用終了》

との追伸を頂戴した。「リム」(rim)は、車などの車輪の外縁部にあって、全体の形状を支えている硬質の円環部分を指す。

 トロツコの着いたところから、むかし和蘭人(オランダじん)が築いたといふ TE CASTLE ZEELANDIA 所謂土人の赤嵌城(シヤカムシヤ)を目あてに步いて行く道では、目につく家といふ家は悉く荒れ果てたままの無住である。あまりふるくない以前に外國人が經營してゐた製糖會社の社宅であるが、その會社が解散すると同時に空屋になつてしまつた。何れも立派な煉瓦づくりの相當な構への洋館で、ちよつとした前栽さへ型ばかりは殘つてゐる。しかし砂ばかりの土には雜草もあまり蔓(はびこ)つてはゐない。その竝び立つた空屋の窓といふ窓のガラスは、子供たちがいたづらに投げた石のためででもあらうか、破(わ)れて穴があいてないものはなく、その軒には巢でもつくつてゐるのか驚くほどたくさんな雀が、黑く集合して喋りつづけてゐる。

[やぶちゃん注:「蔓つてはゐない。」の末尾は行末で句点がないが、補った。]

 私たちは試みにその一軒のなかへ這入(はい)つてみた。内にはこなごなに散ばつて光つてゐるガラスの破片と壞れた窓枠とが塵埃に埋まつてゐるよりほかに何もなかつた。しかし二階で人の話聲がするので上つてみると、そこのベランダに乞食ではないかと思へるやうな裝ひをした老人が、これでも使へるのだらうかと思はれるぼろぼろになつた魚網をつくろつてゐる傍(かたはら)に、この爺(おやじ)の孫ででもあるか、五つ六つの男の子がしきりにひとり言を喋りながら、手であたりの埃(ごみ)を搔き集めて遊んでゐたらしいのが、我我の足音に驚いて闖入者を見上げた。老漁夫も我我を怖れてゐるやうな目つきをした。彼等はどこか近所の者であらうが、暑さをこの廢屋の二階に避けてゐたのであらう。ともかくもこれほど立派な廢屋が軒を連ねて立つてゐる市街は、私にとつては空想も出來なかつた事實である。(この二三年後に臺灣の行政制度が變つて臺南の官衙(くわんが)でも急に增員する必要が生じた時、これらの安平の廢屋を一時(じ)、官舍にしたらよからうといふ說があつたが尤もなことである)。

 赤嵌城址(シヤカムシヤし)に登つてみた。たゞ名ばかりが殘つてゐるので、コンクリートで築かれた古い礎(いしずゑ)のあとがあるといふけれども、どれがどれだかさすがの世外民もそれを知らなかつた。今は税關俱樂部の一部分になつてゐる小高い丘の上である。私の友、世外民はその丘の上で例の古圖を取ひろげながら、所謂安平港外(かうぐわい)の七鯤身(こんしん)のあとを指さし、又古書に見えてゐるといふ鬼工奇絕と評せられる赤嵌城の建築などに就て詳しく說明をしてくれたものであるが、私は生憎と皆忘れてしまつた。さうして私の驚いたことといふのは、むかし安平の内港と稱したところのものは、今は全く埋沒してしまつてゐるのだといふだけの事であつた――全くあまり單純すぎた話ではあるが事實、私は歷史なんてものにはてんで興味がないほど若かつた。さうしてもし世外民の影響がなかつたならば、安平などといふ愚にもつかないところへ來てみるやうな心掛さへなかつたらう。さういふ程度の私だから、同じやうな若い身空で世外民がしきりと過去を述べたてて咏嘆めいた口をきくのを、さすがに支那人の血をうけた詩人は違つたものだ位(くらゐ)にしか思つてゐなかつたのである。そのやうな私ではあり、またいくら蘭人壯圖の址(あと)と言つたところで、その古を偲ぶよすがになるやうなものとても見當らないのだから一向仕方がなかつたけれども、それでもその丘の眺望そのものは人の情感を唆らずにはゐないものであつた。單に景色としてみても私はあれほど荒凉たる自然がさう澤山あらうとは思はない。私にもし、エドガア・アラン・ポオの筆力があつたとしたら、私は恐らく、この景を描き出して、彼の「アツシヤ家の崩壞」の冒頭に對抗することが出來るだらうに。

 私の目の前に廣がつたのは一面の泥の海であつた。黃ばんだ褐色をして、それがしかもせせつこましい波の穗を無數にあとからあとか飜して來る、十重(へ)二十重といふ言葉はあるが、あのやうに重ねがさねに打ち返す波を描く言葉は我我の語彙にはないであらう。その浪は水平線までつづいて、それがみな一樣に我我の立つてゐる方向へ押寄せて來るのである。昔は赤嵌城の眞下まで海であつたといふが、今はこの丘からまだ二三町も海濱がある。その遠さの爲めに浪の音も聞えない程である。それほどに安平の外港も埋まつてしまつたけれども、しかしその無限に重なりつづく濁浪は生溫い風と極度の遠殘の砂に煽られて、今にも丘の脚下まで押寄せて來るやうに感ぜられる。その濁り切つた浪の面(おもて)には、熱帶の正午に近い太陽さへ、その光を反射させることが出來ないと見える。光のないこの奇怪な海――といふよりも水の枯野原の眞中(まんなか)に、無邊際に重りつづく浪と間斷なく鬪ひながら一葉(えふ)の舢舨(サンパン)が、何を目的にか、ひたすらに沖へ沖へと急いでゐる。

 白く灼けた眞晝の下(もと)。光を全く吸ひ込んでしまつてゐる海。水平線まで重なり重なる小さな浪頭。洪水を思はせるその色。翩飜と漂うてゐる小舟。激しい活動的な景色のなかに闃(げき)として何の物音もひびかない。時折にマラリヤ患者の息吹のやうに蒸れたのろい微風が動いて來る。それらすべてが一種内面的な風景を形成して、象徴めいて、惡夢のやうな不氣味さをさへ私に與へたのである。いや、形容だけではない、この景色に接してから後(のち)、私は亂醉の後の日などに、ここによく似た殺風景な海濱を惡夢に見て怯かされたことが二三度あつた。――このやうな海を私がしばらく見入つてゐる間、世外民もまた私と同じやうな感銘を持つたかも知れない、――このよく喋る男もたうとう押默つてしまつてゐた。私は目を低く垂れて思はず溜息を洩らした。尤も多少は感慨のせゐもあつたかも知れないが、大部分は炎天の暑さに喘いだのである。今更だが、かういふ厚さは蝙蝠傘などのかげで防げるものではない。

「ウ、ウ、ウ、ウ――」

 不意に微かに、たとへばこの景色全體が呻くやうな音が響き渡つた、見ると、水平線の上に一隻の蒸汽船が黑く小さく、その煙筒や檣なふどが僅かに見える程の遠さに浮んでゐた。沿岸航路の舟らしい。さうしてさつきから浪に搖れてゐる舢舨はそれの艀(はしけ)で、間もなく本船の來ることを豫想して急いでゐたものらしい。

「あの蒸汽はどこへ着くのだい」

 私が世外民に尋ねると、我我の案内について來たトロツコ運搬夫が代つて答へをした――

「もう着いてゐる。今の汽笛は着いた合圖です」

「あそこへか。――あんな遠くへか」

「さうです。あれより内へは來ません」

 私はもう一ぺん沖の方を念の爲めに見てから呟いた――

「フム、これが港か!」

「さうだ!」世外民は私の聲に應じた。「港だ。昔は、臺灣第一の港だ!」

「昔は……」私は思は無意味に繰返した。それが多少感動的でいやだつたと氣がついた時、私は輕く虛無的に言ひ直した。「昔は……か」

 丘を下りて我我の出たところは、もと來た路ではなかつた。ここは比較的舊い町筋であると見えて、一たいが古びてゐた。あたりの支那風の家屋はみんな貧しい漁夫などのものと見えて、あのヹランダのある二階建の堂堂たる空屋にくらべるまでもなく、小さくて哀れであつた。さうしてもともと所謂鯤身たる出島の一つであつたと見えて、地質は自から變つてゐた。砂ではなくもつと輕い、步く度に足もとからひどい塵が舞ひ立つ白茶けた土であつた。但、來たときと一向變らないことは、そのあたりで私は全く人間のかげを見かけなかつた事である。通筋(とほりすぢ)の家家は必ずしも皆空屋でもないであらうのに、どこの門口にも出入する人はなく、又話聲さへ洩れなかつた。私たちが町を一巡した間に逢つた人間といふのはただあの廢屋のヹランダにゐた漁夫と小兒とだけである。行人に出逢ふやうなことなどは一度もなかつた。深夜の街とてもこれほどに人氣が絕えてゐることはないと言ひたい。しかも眩しい太陽が照りつけてゐるのだから、さびしさは一種別樣の深さを帶びてゐた。我我は默默と步いた。不意にあたりの家竝(やなみ)のどこかから、日ざかりのつれづれを慰めようとでもいふのか、絃(ヒエン)と呼ばれてゐる胡弓をならし出した者があつた。

「月下の吹笛(すいてき)よりも更に悲しい」

 詩人世外民は、早くも耳にとめて私にさう言ふのであつた。月下の吹笛を聯想するところに彼の例のマンネリズムとセンチメンタリズムとがあるが、でも彼の感じ方には賛成していい。

 私たちは再び養魚場の土堤の路をトロツコで歸つたが、それの歸り着いたところ、臺南市の西郊が、私のこれから言はうとする禿頭港なのである.安平見物を完うするためにこのあたりをも一巡しようと世外民が言ひ出した時、時刻が過ぎてしまつてひどく空服(くうふく)を覺えてゐながらも私が別に、もう澤山だと言はなかつたところを見ても、私がこの半日のうちに安平に對して多少の興味を持つやうになつてゐたことは判るだらう。

[やぶちゃん注:「空服」はママ。]

 しかしトロツコから下りて一町とは步かないうちに、私は禿頭港などは蛇足だつたと、思ひ始めたのである。ただ水溜(みづたまり)の多い、不潔な入組んだ場末といふより外には、一向何の奇もありさうには見えなかつた。

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老媼茶話巻之三 允殿館大入道

 

     允殿館(じやうどのだて)大入道

 

[やぶちゃん注:今回、以上の通り、「允殿館」を「じやうどのだて(じょうどのだて)」と読んだ。これは個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」に振られたルビに従ったものである。]

 

 飯寺村庄九郎と云もの、小力(こぢから)有(あり)て相撲(すまひ)なども取(とり)、米も、五、六俵、背負ひありくもの也。

 此もの、南町といふ所に親類有。行(ゆか)で叶はぬ用有(あり)て、雨のそぼ降(ふる)黃昏(たそがれ)に宿をいで、中野ゝ十文字原に懸(かか)り、允殿館弐五輪の前より成願寺前へ出(いで)んと、弘眞院(こうしんゐん)の北の細道をとふるに、荒神堂の大杉の本(もと)に、白き物、見ゆる。

 庄九郎、怪敷(あやしく)おもひ、立留(たちどま)り、能(よく)見るに、かの者、間ぢかくきたるを見れば、面(おもて)の長さ、三尺斗(ばかり)有(ある)女、竹杖を突(つき)、髮を亂し、眼(まなこ)は皿のごとくにて、かたびらをかぶり、

「まてまて。」

と云(いひ)て來(きた)る。

 庄九郎、したゝかものなれば、少も臆せず、脇差に手をかけ、

「おのれ、我に何用有るぞ。」

と足早に行過(ゆきすぐ)る。

 彼(かの)女いふ。

「歸りに此道を通り見よ。其時、思ひしらせん。」

と云。

庄九郎、是を聞かぬふりにて、南立町の親類の方へ行(ゆく)。

 折節、近くより、人、數多(あまた)打寄居(うちろりゐ)たりけるが、庄九郎が顏色を見て、

「其方が色あひ、常ならず。道にて口論にてもせぬか。」

といふ。

 庄九郎、右のあらまし語りければ、何(いづれ)も驚(おどろき)、

「允殿館には化物有り、といい傳ふるは誠にて有りし。必(かならず)、歸りには晒屋町へ出(いで)、湯川を渡り、石塚前より材木町出(いで)、歸るべし。」

と云。

 庄九郎、元來、じやうこわきものなれば、

「もとの道を歸らずは、臆病なりとはらはるべし。」

と思ひ、

「たとい、化物出(いで)たりとも、何事のあるべき。近道也。先の道を歸るべし。」

とて、もと來(きた)る道を歸るに、夜も深々と更過(ふけすぎ)、杉の木梢(こづゑ)をわたる風、身に染々とおそろしく、頭(かしら)の毛、立(たち)のぼる心持するに、道の傍に、先の女、立居(たちゐ)たりけるが、庄九郎をみて、

「それこそ、さきの奴め。それ、とり逃(にが)し玉ふな。」

と、こと葉を懸(かく)るに、眞黑なる大入道、大手をひろげ、飛(とび)て懸りける。

 庄九郎、此時、日頃の強氣(がうき)、失(うせ)、ころぶともなく、走(ハシル)ともなく、田も畑も一參(いつさん)に飯寺村へかけ付(つけ)、戸を蹴放(けはな)し内へ入(いり)、氣を失ひ、死入(しにいり)ける。

 其後、四、五十日、打伏(うちふし)、氣色、常ごとくに成(なり)にけるが、夫(それ)より大臆病(おほおくびやう)ものと也、氣拔(きぬけ)て、日暮は外出もならぬやうに成たり。

 その明(あく)る春、夫(ブ)にさゝれ、江戸登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける。

 

[やぶちゃん注:「允殿館(じやうどのだて)」既出既注であるが、再掲しておく。現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。冒頭注で示した個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」も参照されたい。

「飯寺村」既出既注であるが、本話柄では地理が一つのネックとなっているので、再掲する。現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。

「五、六俵」幕府の制度規格では一俵は三斗五升であったが、時代や地域によって増減があった。一応、規格値で換算すると、一俵は三十七・五キログラムのなるから、百八十七・五から二百二十五キログラムに相当する。

「南町」現在の福島県会津若松市南町(みなみまち)か。鶴ヶ城の南直近。(グーグル・マップ・データ)。

「中野ゝ十文字原」現在の福島県会津若松市門田町大字中野附近であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「允殿館弐五輪」允殿館跡にあった二基の五輪塔か。

「成願寺」前にも出たが、現在、この名の寺はない。

「弘眞院(こうしんゐん)」福島県会津若松市門田町年貢町(附近(グーグル・マップ・データ)。但し、地図には寺は出ない)に現存する。真言宗。

「とふるに」ママ。「通(とほ)るに」。

「荒神堂」不詳。

「三尺斗(ばかり)」九十一センチメートルほど。

「かたびら」「帷子」。

「まてまて。」「待て待て。」。

「南立町」「みなみたてまち」と読んでおく。先に「南町」とあったから、同町内の地名と思われる。ウィキの「町(会津若松に、当時の南町地区には「竪町」があったとあるから、これであろう。

「晒屋町」「さらしやまち」と読んでおく。前注同様、ウィキの「町(会津若松に、当時の南町地区には「晒屋町」があったとある。後の地名から察すると、現在の南町の西にあったと推定する。

「湯川」既出既注。

「石塚」現在の湯川新水路を渡った東の石塚観音堂であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「材木町」現在の福島県会津若松市材木町。(グーグル・マップ・データ)。このルートから飯寺に帰るのは、地図を見て戴けば判る通り、決して異様に無駄に大きな遠回りではないようだ。但し、彼は「先の道を歸る」のが「近道」だと明言しているから、彼の住まいは恐らく、飯寺地区の南方東にあったのであろう。

「じやうこわきもの」底本の編者の添漢字によれば「じやう」は「情」。「情強(こは)き者」で、頑固者の意味であろう。

「はらはる」ママ。「笑はる」。

「一參(いつさん)」「一散」。

「夫(ブ)にさゝれ」幕藩領主が普請・掃除・交通などのために、領民に人足役を賦課していた夫役(ぶやく)の一人に指名され。

「江戸登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける」彼の死と、本怪異の直接の連関性は認められないものの、人格変容を起させたからには、死の致命的遠因とは言える。彼は、この怪異(帰りの)に遭遇しなければ、力自慢としてのきっぱりとした剛毅の自負も失うことは無かったし、長生きもしたであろうからである。そうした暴虎馮河の蛮勇への戒めの意味が、この何気ない後日談には込められているように私は思う。]

老媼茶話巻之三 飯寺村の靑五輪

 

     飯寺(にひでら)村の靑五輪(あをごりん)

 

[やぶちゃん注:「飯寺(にひでら)」の「ひ」は推定「飯」の「いひ」からの転訛と考えて「にひ」とした。底本は『にいでら』とするが、これは底本が現代仮名遣ルビを方針としているからに過ぎない。以上から、今回は敢えて歴史的仮名遣を「にひでら」と考えた。]

 

 南山(みなみやま)街道飯寺村、道ばた右の方の田の中に、大垣あり。其塚の上に大榎(おほえのき)有(あり)。

「慈現院壇と云(いふ)山伏、生(いき)ながら入定(にふじやう)せし所故(ゆゑ)、俗、慈現院壇と云。」

と、ふるき者の噺(はなし)也。

 今も深夜に聞(きか)ば、塚の中にて、ほら貝を吹(ふく)音、聞ゆ、といへり。

 此塚の東向ひ、靑五輪と云(いふ)有(あり)。此五輪、夜々(よなよな)、化(ばけ)て、慈現院より靑五輪迄、一面に鐵のあみをはり、往來の人を、さまたぐる。

 或夜更過(よふけすぎ)て、南山のもの、此所を通りけるに、六尺斗(ばかり)の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、

「にこり。にこり。」

と笑(わらふ)。

 此男、元來、不敵氣(ふてきげ)もの也。

 是をみて、走り懸り、大入道がてつぺんを、したゝかに切付(きりつく)る。

 手ごたへして、網も、山伏も、入道も、消失(きえうせ)て、深夜の闇と也けり。

 其夜明(そのよあけ)て、件(くだん)の男、夕べ、化物に逢(あひ)ける道筋へ來(きた)る。

 尋見(たづねみ)るに、靑五輪の天窓(アタマ)を、半分、切りくだき、血の色、すこし、見えたり。

 是より、刀をば「五輪くだき」と名付(なづけ)、祕藏せりと也。

 

[やぶちゃん注:本話は「柴田宵曲 妖異博物館 斬られた石」に、前の「酸川野幽靈」とともに紹介されている。

「飯寺村」現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。

「南山街道」会津西街道。会津藩主保科正之によって整備された、会津若松城下から下野の今市に至る街道。会津からは「下野街道(しもつけかいどう)」「日光街道」「江戸街道」「南山通(みなみやまどお)り」とも呼ばれた、とウィキの「会津西街道にある。この「南山」とは天領であった会津南山御蔵入領(あいづみなみやまおくらいりりょう:現在の福島県南会津郡・大沼郡の大半)を指す。個人ブログ「花鳥風月visual紀行」の南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その1)を参照されたい。

「慈現院壇と云(いふ)山伏」不詳。しかし、今も地中で法螺貝を吹くばかりか、以下に見るように、人を脅すとなれば、彼は入定なんぞ、していないばかりか、煩悩の果てに妖怪していることになる。但し、これらは狐狸の類いが、慈現院壇の話に合わせて、かく成しているのかも知れぬ。それは、判らぬ。

「慈現院より」「慈現院壇より」が正しい。これでは慈現院という寺があるように読めてしまう。

「六尺斗(ばかり)」一メートル八十二センチほど。

の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、

「にこり。にこり。」

「不敵氣(ふてきげ)もの」大胆で恐れを知らぬ、蛮勇を誇るような輩。

「てつぺん」天辺。脳天。]

老媼茶話巻之三 酸川野幽靈

 

   酸川野(すかはの)幽靈

 

 いつの頃にや有りけん。猪苗代御城代何某と云(いふ)人、酸川野河原(すかはのがはら)なぐさみに出(いで)けるに、畑中に、いかにも年ふりたる燈籠有(あり)。畑打(はたうつ)老人に尋(たづね)ければ、

「いつの世に誰(たれ)か立置(たておき)し燈籠に候やらん、知りたる人もなく候。此燈籠取捨候得(とりすてさふらえ)ば、其人に祟ると申(まうす)ならはし候儘(まま)、畑中に御座候得ば、じやまに成(あり)候得共、無是非(ぜひなく)置(おき)候。爰(ここ)は昔、寺院に候と申傳へ候」と語る。何某、聞(きき)て、

「怨靈の祟りといふは、夫(それ)、人のいゝなしなるべし。何にもせよ苔(コケ)むしたる燈籠にて庭に立(たてて)然るべし。」

とて、下人に持(もた)せ歸り、則(すなはち)、築山(つきやま)の植込(うえこみ)に立置(たておき)たり。

 其夜、更(ふけ)て、御城の御門、けはしくたゝき、

「我は堀貫村の彦兵衞と云(いふ)者なり。爰、明けよ。」

と云。

 門番、戸扉の透(すき)より見れば、髮を、はらにて、たばね、上につゞれを着、繩帶をしたる、いかにも賤敷(いやしき)土民也。此故(このゆゑ)に門番、門をひらかず。やゝ暫有(あり)て、彦兵衞、

「何とて、門をひらかざるぞ。」

とて、門を飛越(とびこえ)、内へ入(いる)。

 門番、すかさず、彦兵衞と引組(ひきくみ)、夜明(よあく)るまで捻合(ねぢあひ)て、曉、彦兵衞、行衞なく成(なり)たり。

 門番の足輕、氣を失ひ、死入(しにいり)けるを、人、見付(みつけ)、水を吞ませ、氣付(きつけ)をくれ、漸(やうやう)人心地付(つき)たり。

 其明(あく)る夜、亦、來り。

 いつものごとく、門をたゝき、

「爰、明(あけ)よ、爰、明よ。」

といふ。

 別の足輕、番を勤(つとめ)いたりしが、有無(うむ)に答へず。

 彦兵衞、腹を立(たて)、門をおどり越(こえ)、御城代何某の伏居(ふしゐ)たる枕に彳(たたずみ)て、大きにいかりたるけしきにて、

 「其方、何故に、纔(わづか)、形斗(ばかり)殘りたる我(わが)なきあとの印(しるし)の燈籠を奪取(うばひとり)たる。急ぎ、元の所へ返すべし。返さば、其通り、返さずは、恨(うらみ)をなさん。」

と云。

 何某は夢覺(ゆめさめ)、枕元の刀、引拔(ひきぬき)、切付(きりつけ)たるに、彦兵衞は、影なく、消失(きえうせ)けり。

 曉、みれば、庭に建(たて)たる件(くだん)の燈籠の笠石に、刀の疵跡、有(あり)。

 燈篭を元の所へ返しければ、何の怪敷(あやしき)事もなかりし、となり。

 

[やぶちゃん注:本話は「柴田宵曲 妖異博物館 斬られた石」に、次の「飯寺村の靑五輪」とともに紹介されている。

「酸川野河原(すかはのがはら)」現在の福島県耶麻郡猪苗代町若宮地区大字酸川野(すかわの)。中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。藩政時代の宿場町。

「なぐさみ」気晴らし。

「じやま」「邪魔」。

「いゝなし」ママ。「言ひ做(な)し」。事実とは違うことを事実らしく言うこと。

「堀貫村」不詳。

「はらにて、たばね」「藁にて、束ね」。底本の編者添漢字に拠る。

「つゞれ」「綴れ」。破れた部分を継ぎ接(は)ぎした襤褸(ぼろ)の衣服。

「いかにも賤敷(いやしき)土民也」灯籠とそぐわぬが、或いはこの「彦兵衞」なる者、遠い昔、富裕な農民であった者が没落したものか。

「有無(うむ)に」副詞。全く。

「其通り」我、何事もなさず、平静たらん。

「燈篭」「篭」は底本の用字をそのままとした(「燈」は底本は前も総て「灯」)。底本で、ここまで総て「籠」であったものが、ここのみ「篭」であるからである。]

老媼茶話巻之三 血脈奇特

 

     血脈奇特(けちみやくきどく)

 

 會津塔寺(たふじ)、鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞といふ者、元、江州の、やばせの者なり。喜右衞門代に塔寺に移る。前度(まへど)、九郎兵衞、諸國順禮して國々を𢌞りける折節、西國の内、鰐(ハニ)の御崎といふ所を通るに、此所、船渡(ふなわたし)にて、弐、三拾人、取乘(とりのせ)、風間(かざま)も克(よく)、船を押出(おしいだ)し、船、沖中へ漕出(こぎいだ)しけるに、船、沖中にて、

「ひし。」

と引居(ひきすへ)、動かさず、船、海へ沈まんとす。

 船頭、大きに色を失ひ、乘合(のりあひ)のもの共へ申(まうし)けるは、

「斯(かく)申(まうす)某(それがし)を始(はじめ)、各(おのおの)、何にても、海上へ抛入(なげいれ)給ふべし。其内(そのうち)、鰐(わに)の見入(みいり)たる人の抛入給ふ品を海中引込(ひきこま)ば、其人、入水(じゆすい)いたさるべし。是は前度も有りし事にて候。」

と云。

 乘合の者共、てん手(で)に題目・念佛・我國々の氏神を大音(だいおん)に念じ、或は菅笠・羽織・ゆかた・かたびら・手拭の類(たぐひ)、思ひ思ひに、なげ入(いれ)ける。

 九郎兵衞、なげ入(いれ)し三尺手拭、中(なか)を一結(ひとゆ)ひ、なげ入しが、抛(なぐ)るとひとしく、海中へ引込(ひきこみ)ける。

 殘る者とども、口々に申(まうす)樣、

「何國(なんごく)の御人(おひと)かは存不申候得共(ぞんじまうさずさうらえども)、前世宿業と思召(おぼしめし)、御入水の事、是非も無御座申(ござなくまうす)も御笑止、情なく候得共、御壱人にて數多(あまた)の人の命、御助けと申(まうす)。かく申内(まうすうち)に、今にも此船、くつ返り候へば、壱人も、命、たすかる者、是、なし。迚(とて)も御遁有間敷(おんのがれあるまじき)事なり。御覺悟、有(ある)べし。」

と、船頭・乘合の者ども、一同、申(まうし)ける。

 九郎兵衞も、

「是非に及ばぬ事也。委細心得候。」

とて船のへさき立出(たちいで)、高聲に、念佛、百遍斗(ばかり)、既に海へ飛入(とびい)らんとする折、なかば沈(しづみ)たる船、

「くつ。」

と、浮上(うきあが)りけるまゝ、船頭力を得、櫓(ろ)をはやめければ、難なく、岸に着(つき)たり。

 各(おのおの)も悦び、九郎兵衞も、不思義の命、助かり、急ぎ、船より上(あが)るに、九郎兵衞、首に懸(かけ)たる血脈袋(けちみやくぶくろ)のひも、とけて、血脈、なし。

 大勢乘合のもの、奇異の思(おもひ)をなしたり。

 血脈の奇特(きどく)ゆへ、命、助(たすか)りたるに疑(うたがひ)なし。

 此血脈は奧州會津若松、允殿(じやうどの)館成願寺(じやうぐわんじ)、決觀和尚の血脈なり。

 元祿年中の事也。

 

[やぶちゃん注:酷似した前半の展開を持つ話に「宗祇諸國物語 遁れ終(は)てぬ鰐(わに)の口がある。リンク先の私の電子化注を参照されたい。但し、そちらは後日談が悲劇である

「血脈(けちみやく)」仏教用語。広義には、師が弟子や信徒に仏教の精髄を受継がせること、師弟の系譜という様態を言うが、ここは狭義で、密教や禅宗に於いて、師から弟子や信徒に戒を授ける際、その保証として師が与える正統な授戒の証しとしての証明書たる血脈図のこと。

「奇特(きどく)」神仏の持っている超人間的な力。霊験。一般に広く「非常に珍しく、不思議なさま」の意もあるが、ここは前者。私は後者(「言行や心がけなどが優れており、褒めるに値するさま」の意もある)の場合は「きとく」と分けて読むことにしている。

「會津塔寺(たふじ)」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺一帯の旧地域名。周辺(グーグル・マップ・データ)。

「鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞」孰れも不詳。

「江州の、やばせ」矢橋(やばせ)。現在の滋賀県草津市の集落地名。ここから船に乗って対岸に達すると、東海道の近道になることから、古くから、琵琶湖岸の港町として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」でも知られる。附近(グーグル・マップ・データ)。

「前度(まへど)」以前。読みは底本の編者ルビに従った。

「鰐(ハニ)の御崎」「鰐」は鮫(さめ)のことであるが、位置不詳。識者の御教授を乞う。「風間」風が止んでいることも指し、それでとってもよいが、ここは風の吹き具合の意で採っておく。その方が、沖合で船が(風があるのに)鰐に魅入られて止まってしまうというシーンがより生きると考えるからである。

「克(よく)」「良く」。

「御笑止」「笑いうべきおろかなこと・ばかばかしいこと」であるが、ここは寧ろ、『「そんな馬鹿な!」とはお思いでしょうが』という意味であろう。

「會津若松、允殿(じやうどの)館」現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建つ。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「成願寺」不詳。

「決觀和尚」不詳。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 二兄弟


Nikyou

   二兄弟

 

 幻に見たことである。

 わたしの眼の前に二人の天使、つまり二つの精靈が現はれた。

 ここに天使をわざわざ精靈と言ひかへたのは、二人とも衣らしいものは何一つ着けぬ裸身で、肩には長い丈夫さうな翼が生えてゐたからである。

 二人ともまだ若い。その一人は稍〻肥り肉(じし)で、滑らかな皮膚と、房々した黑い捲髮を持つてゐる。濃い睫毛の下で、鳶色の眼が柔和さうに動く。愉しげなその眸には、どこか知ら柔媚と貪婪の色が見える。顏立はうつとりするほど美しいが、どことなく意地の惡い傲慢な所もある。眞紅な厚い唇は、心もち顫ヘてゐる。そして恰も權力ある者のやうに自信に滿ちた懶い微笑を浮べてゐる。きれいな花冕が艷(つや)やかな髮の上にかるく乘つて、こぼれ花は天鵞絨のやうに柔かな眉毛の邊に漂つてゐる。金の矢で留めた斑らな豹の皮が、まるまるした肩の先から腰の膨らみまで、ふわりと垂れてゐる。翼の羽は薔薇色を流し、その先の方は赤紫に光る鮮血に浸しでもしたやうに、紅くきらめく。折々、羽毛がはげしく顫ひ立つと、春の雨に似た快い銀の響がする。

 もう一人は瘠せて、皮膚の色も黃ばんでゐる。息をつくたびに肋骨が仄かに見える。美しい渦を捲きもせずに眞直で、薄くなり初めた亞麻色の髮。蒼ざめた灰色の眼は、大きくまん圓に見開かれて、そこを迸るのは不安さうな、異樣にきらめく眸(まなざし)、半ば開いて、魚のやうな齒並を覗かせた小さな口許、引緊つた鷲鼻、一面に生毛の生えたしやくれ頤など、顏立は見るからに鋭い。かさかさなその唇は、これまで一度の微笑も浮べたこともないやうに見える。

 それは端正な、怖しげな、無慈悲な顏だつた。(尤もあの美男の方も、優しく可愛らしい顏立ながら、慈悲の色は見えなかつた。)第二の若者の頭には、禳りも知らず折れ朽ちた麥の穗の數條が、色腿せた草の葉で編んで卷附けてある。腰には灰色の粗布をまとつて、鼠色に鈍(に)びた兩の翼を、靜かに脅かすやうに搖つてゐる。

 この二人は一刻も離れられない親友と見えた。

 互に肩を凭せかけ、第一の若者の柔かさうな片手は葡萄の房のやうに、相手の骨立つた肩先に懸つてゐる。第二の若者の細い手首は、瘦せこけた長い五本の指もろとも、相手の女のやうな胸のあたりを、蛇のやうに這つてゐる。

 そして私には或る聲が聞えた。それはかう響いた。――

 「お前の眼の前に立つのは『愛』と『飢』、血を分けた二人の兄弟だ。生くるもの總てに取つては、大切な二つの臺石だ。

 「この世に生くるもの皆、食はんが爲に働き、生まんが爲に食ふ。

 「『愛』と『飢』と、この二つのめざす所は一つだ。この世の生の絶えぬため。――己れの生、他人の生の差別を起える、遍在の生を絶やさぬため。」

             一八七八年八月

 

[やぶちゃん注:最後の声の前二段落の末尾の鍵括弧閉じるがないのはママ。連続した同一の声の切れ目として自然な手法である。太字「しやくれ」は底本では傍点「ヽ」。

 訳者註。

『精靈 守護精霊(ゲニイ)である。希臘羅馬兩教會と同じく、露西亞教會でも、人は生まれながらに善惡二體のゲニイを持つものとされてゐた。その姿は普通繪畫彫刻に二枚の翼あるものとして現される。』

「ゲニイ」とあるが、詩の原文の「精靈」に当たる箇所が“гения”となっている。гений(ゲェニヒ)は「古代ローマの守護神・人の運命を支配する霊(善霊・悪霊ともに含む)」の意。

 

「柔媚」は「じうび(じゅうび)」と読む。艶(なま)めかしいこと。媚(こ)び諂(へつら)うこと。

「懶い」「ものうい」。

「花冕」「くわべん(かべん)」。花を模した或いは実花製の冠(かんむり)であるが、後の描写から、実際の花で出来たそれである。

「天鵞絨」「ビロウド」或いは「ビロード」。

「鈍(に)びた」濃い鼠色を呈した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 新聞記者


Tuusin

   新聞記者

 

 二人の友達が卓を挾んで茶を飮んでゐる。

 そのとき往來で、時ならぬ騷ぎがはじまつた。哀れつぽい呻き聲や、いきり立つた罵聲にまじつて、彌次馬の小氣味よささうな嘲笑がひびいた。

 「やあ、誰か毆られてるぞ」と、友達の一人が窓から首を出して言つた。

 「罪人か、それとも人殺しかね」と、もう一人が聞いた、「いや、何をしたにしろ、無法きはまる私刑なんか許しては置けないぞ。さあ、ひとつ助太刀してやらう。」

 「だが、あれは人殺しぢやないよ。」

 「人殺しぢやない? ぢや泥棒か。どつちみち同じことだ。彌次馬の手から救ひ出してやらう。」

 「いや、泥棒でもない。」

 「泥棒ぢやないつて? ぢや出納役か、鐡道の役人か、聯隊の御用商人か、ロシヤ出來の文藝保護者(メケーナス)か、辯護士か、溫健主義の編輯長か、社會奉仕の先生か。……何はともあれ、助けてやらうよ。」

 「いや違ふ。毆られてゐるのは新聞記者だよ。」

 「新聞記者だつて? ぢや、まあ、お茶を頂いてからにしよう。」

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:「ロシヤ出來」「出來」は「しゆつらい」と読んでおく。ロシアから来たところの、の意。「しゆつたい」はその音変化ながら、物品や事件・事態の起動や発生に対して用いられ、人に対してはあまり用いられないからである。

「文藝保護者(メケーナス)」原文は“мецената” меценат(ミツナート)は「文芸の保護者」の意。これは所謂、英語のパトロン(patron:後援者・支援者・芸術保護者)のこと。英語のそれはウィキの「パトロンによれば、『ラテン語のパテル(pater、父)から派生した同じくラテン語のパトロヌス(patronus)に由来し、客に利益を与える者の意味であった。パトロヌスとは古代ローマにおいて存在した私的な庇護関係(クリエンテラ、パトロキニウム)における保護者を指し、被保護者であるクリエンテスとの関係は一種の親子関係にも擬せられた。パトロヌスはクリエンテスに対して法的、財政的、政治的援助を与える存在であり、こうした役割からもっと一般的に保護者を意味してパトロンが使われるようになった』とあるが、それとは別に、古代より『為政者、貴族および富裕層は、芸術パトロネージュを彼らの政治的野心、社会的地位および特権を強化するために利用した。すなわち、パトロンは、スポンサー』(広告主)『として機能したのである。現代では、英語以外のほとんどの言語では、スポンサーとしてのパトロンを指す場合、ローマ皇帝アウグストゥスの寛大な友人で助言者であったガイウス・マエケナス』(ガイウス・キルニウス・マエケナス(ラテン語:Gaius Cilnius Maecenas 紀元前七〇年~紀元前八年:共和政ローマ期からユリウス・クラウディウス朝期にかけて活躍した政治家。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心で、外交・政治・文化に於ける助言者でもあった。アウグストゥス期に活躍した多くの新世代詩人や文学者の最大の支援者としても知られ、後世にはマエケナスの名前は「裕福さ」を示すものとなり、また、そこから、文化・芸術家の経済的社会的保護者としての意味をも有するようになった。ここはウィキの「ガイウス・マエケナスに拠った)『に由来するメセナ(フランス語: mécénat)と呼称する』とあり、神西の「メケーナス」はその語源の人名“Maecenas”の音写である。]

2017/10/10

柴田宵曲 續妖異博物館 「獺」

 

 

 

 雨の頻りに降る夕暮れ、丁初といふ男が堤の道を步いて來ると、靑い着物で靑い傘をさした婦人がうしろから呼び止めた。この雨の降る中を女が平氣で步くのは怪しい、人間ではないかも知れぬと思つたので、足を早めたところ、女の迫つて來る速度も早くなる。一散走りに駈け出して振り向いたら、女は堤の上からどぶんと水に飛び込んでしまつた。正體は大きな獺(かはうそ)で、著物や傘と見えたのは蓮の葉であつたと「搜神記」にある。「甄異志」に出て來る一女子も、衣裳はそれほど綺麗ではなかつたが、容貌は美しかつた。手の指が甚だ短いのを見て、妖であるかと疑つた時、その者早くも察知して戸を飛び出し、獺となつて水中に沒し去つた。

[やぶちゃん注:「獺」哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科 Lutrinae のカワウソ類。以上は中国のそれであるから、カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra。後続は本邦のそれであるから、絶滅したカワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon となる。「搜神記」のそれは第十八巻の以下。

   *

呉郡無錫有上湖大陂、陂吏丁初天、每大雨、輒循隄防。春盛雨、初出行塘、日暮囘顧、有一婦人、上下靑衣、戴靑傘、追後呼、「初掾待我。」。初時悵然、意欲留俟之。復疑本不見此、今忽有婦人、冒陰雨行、恐必鬼物。初便疾走。顧視婦人、追之亦急。初因急行、走之轉遠、顧視婦人、乃自投陂中、氾然作聲、衣蓋飛散。視之、是大蒼獺、衣傘皆荷葉也。此獺化爲人形、數媚年少者也。

   *

これを見ると、「丁初」は酔狂で雨の堤を歩いていたのではなく、堤の決壊などを監視するための下級官吏であったことが判る。

「甄異志」「しんいし」と読んでおくが、不詳。以上は「太平廣記」の「水族五 水族為人」に「甄異志」を出典ととして「楊醜奴」として載る。

   *

河南楊醜奴常詣章安湖拔蒲、將暝、見一女子、衣裳不甚鮮潔、而容貌美。乘船載蓴。前就醜奴。家湖側、逼暮不得返。便便字原空闕。據明鈔本補。停舟寄住。借食器以食。盤中有乾魚生菜。食畢、因戲笑、醜奴歌嘲之、女答曰、「家在西湖側、日暮陽光。託蔭遇良主、不覺寬中懷。」。俄滅火共寢、覺有臊氣、又手指甚短、乃疑是魅。此物知人意、遽出戸、變爲獺、徑走入水。

   *]

 

 獺の化して女になる話は日本にもある。獺の行動は河童と紛らはしい點もあるが、嬋娟(せんけん)たる美女に化する一事は、到底河童のよくするところではあるまい。綠の荷葉をかづき、水中に姿を沒するあたりは、慥かに兩者共通のものである。

[やぶちゃん注:「嬋娟」「嬋妍」とも書く。容姿の艶(あで)やかで美しいさま。]

 

「裏見寒話」などを見ると、笛吹川の獺も人を取る。或人が川を渡つた時、忽ち波が起つて獺が追つて來た。岸の上に逃げてもまだ追つて來るので、鐡砲で打ち留めたが、その大きさは犢(こうし)ほどあつたといふ。獺にしては少し大き過ぎるやうである。倂し同じ書物に獺は人を取るものでない、人を取るのは川太郎卽ち河童であるなどとあつて、兩者の境界が頗る明瞭でない。

[やぶちゃん注:以上は国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る(左端)。]

 

 獺の妖をなす苗は「太平廣記」だけでも相當あるが、割合に變化に乏しく、列擧する興味がない。「子不語」の「獺異」の中にある、案上に酒肴を備へて置いて、獺の飮食に任せたところ、遂に醉つ拂つて足許が危くなり、地にころぶこと三囘、怪遂に絶ゆなどといふ話は、格別面白いこともないけれど、先づ變つた方に屬するであらう。

[やぶちゃん注:以上のまさに獺祭の失敗譚は「續子不語」の第七巻の「獺異」の中の以下の一条。

   *

今年二月初二日、郷塾師沈昭遠來説獺祟、衣上遺毛可數、向予告急、欲辭館去、勸之誦「穢跡咒」、又猝不能成誦、但偶憶「本草」、有「熊食鹽而死、獺飮酒而斃」之語、舊聞丁未進士徐景芳嘗用以除館中獺妖、令沈姑試之。是晚、置雙鯽樽酒於案上、二更獺至、沈已迷不能聲、但見獺超案飮酒、樽欹、就案餂遺酒有聲、食魚亦盡。既跳下、欲登沈牀、則前足甫起、而後足不隨、墮地者三、蓋獺醉矣。逃去、今遂絶。

   *

「案上」机の上、或いは、神や上位者に物を捧げる際に用いた高台。]

 

 妖から一步離れる觀はあるが、均州の百姓で七十以上になつて、獺を十何頭も飼つてゐる男があつた。彼はこの獺を訓練し、これに魚を捕らせて生活してゐる。隔日にこの獺を放すのであるが、放す時には深い溝の出入り口を閉ぢ、逃げられぬ用心をする。日本の鵜飼ひと同じ事で、針も綸(いと)も網も用ゐずに利益を擧げてゐるのである。獺どもはこの老人に馴れて、彼が手を敲くとその膝許に集まつて來る。獺よりも老人の方が妖に近い感じがするが、これは實際にその状況を見た人の話として「酉陽雜俎」に出てゐる。

[やぶちゃん注:以上は「酉陽雜俎」の「巻五 詭習」に載る以下。

   *

元和末、均州鄖郷縣有百姓、年七十、養獺十餘頭。捕魚爲業、隔日一放。將放時、先閉於深溝斗門内令饑、然後放之、無綱舌之勞、而獲利相若。老人抵掌呼之、群獺皆至、緣袷藉膝、馴若守狗。部郎中李福親觀之。

   *

原文の「元和」は、ここでは唐の憲宗李純時代の元号。八〇六年か八二〇年。「均州勛郷縣」は現在の湖北省十堰(じゅうえん)市鄖(うん)陽区。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 これと好個の對照をなすのが「夜譚隨錄」の「獺賄」で、涼州では獺が多いため、一頭百錢ぐらゐで賣買される。勿論肉を食ふためである。折蘭なる者は偉大な髓軀の持ち主で、食事は人の何人前も平らげるが、特に獺の肉を喜んで食べた。雍正年間、軍に從つて出征した時、山道で偶然十數頭の獺に出くはした。彼等は皆後足で人のやうに立ち、背を連ねて趨る。折が馬を下つて追駈けると、獺はひらりと身をひるがへし、折の前に跪いて泣き聲を出し、饒命饒命と云つた。命をお助け下さいといふのである。折は同行四人と共にこれを聞き、大いに驚いて遂につかまへることをやめた。その夜折等が野營してゐる幕の外に、何者か來た音がしたので出て見たら、多くの獺が各々草の葉につゝんだ棗(なつめ)の實を捧げ、折の足許に置いて去つた。全部で二斗餘りあつたさうである。かうなると、獺に魅せられるどころの話ではない。獺の上前をはねるわけだから、彼等から見れば折蘭は妖以上に恐るべき存在であつたらう。河童のお禮とか贈り物とか云へば、先づ魚類と相場がきまつてゐるやうだが、ここで獺が棗を齎(もたら)すのはいさゝか意外であつた。舞臺が山中で魚を捕る便宜がなかつたのかも知れぬ。昔の人といふうちにも殊に武人は單純である。折蘭はこの事あつて以來、獺を食ふことをしなかつた。時に人から勸められても、わしは獺から賄ひを受けた、同類を食ふわけに往かぬ、と云つて斷るのを常とした。意外なほど義理堅かつたものと見える。

[やぶちゃん注:以上は「夜譚隨錄」の巻二に「獺賄」として載る。

   *

涼州多獺、吐魯番醃而貨之、百錢一頭。味似南方果子狸、而肥大過之。武生折蘭者、膚施人。虯髯偉質、食兼數人、而尤喜啖獺。雍正間、從軍出塞、徑山丹道上、見獺十數頭、皆人立、連臂而趨。折下馬逐之、獺翻身返面、向折長跪、聲啾啾可辨、同聲曰、「饒命、饒命。」。折與同行四人共聞之、大以爲異、遂舍去。是夜、露宿於野、聞帳外有簌簌聲、出視、見群獺各挾草葉、裹沙棗、置榻畔而去、收之得二斗餘。折詈不複食獺。後有人勸之、折曰、「吾曾受獺賄、可複食同類乎。」。

   *

「涼州」現在の甘粛省の寧夏回族自治区一帯にかつて設置された州(現在では甘粛省全体の別称となっている)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「饒命饒命」「ぜうめいぜうめい(じょうめいじょうめい)」。「饒命」は「有り余るほどの豊かな命(を!)」の意であるが、恐らくは、獺の鳴き声に当漢字したオノマトペイアであろう。

「棗」クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba

「二斗」「夜譚隨錄」は清の和邦額(一七三六年~?)の小説集であるから、当時の一斗は一〇リットル強であるから、凡そ三十一リットル。]

 

 その後「慶長見聞集」を讀んだら、「其上かはうそは老て河童と成て人を取ると古記にも見えたり」とあるのが目に付いた。河童の歷史はあまり古くないらしいが、こゝに古記といふのは何であらうか。河童と獺との類似性を考へる場合、獺が老いて河童になるといふ記載は、一應參照する必要がありさうである。

[やぶちゃん注:「慶長見聞集」(けいちょうけんもんしゅう)は近世初期の随筆書。単に「見聞集」とも称する。全十巻。著者は後北条氏の遺臣三浦五郎左衛門茂正(浄心)で、慶長一九(一六一四)年)の成立とされるが、後人の仮託とする説もあり、寛永期(一六二四年~一六四四年)の内容も含まれていることから、確証は得られない。徳川家康入国から草創期にかけての江戸の町の形成と、住民の生活・人情、世相と風俗などが多く記載されている(小学館「日本大百科全書」に拠る)。私は所持しないので示せないが、国立国会図書館デジタルコレクション早稲田大学古典籍総合データベースにあるので(リンク先は当該書トップ)、お探しあれ。私は、疲れた。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 老人


Roujinn

   老人

 

 つひに重苦しい暗い日は來た。

 自らの患ひ、親しい人々の病苦、老年の闇と寒さ。……お前の慈しんだもの皆、お前が吾を忘れて心を捧げたもの皆は、いま千々に摧(くだ)け落ちる。道は下る。

 何を爲よう。歎かうか、哭かうか。いや、それとても所詮、お前をも何人をも慰める力はあるまい。

 日に日に枯れ跼(こご)んでゆく木梢(こぬれ)に、葉は愈〻小さく、愈〻疎らだ。しかし、その翠のみは渝らない。

 ああ、お前も亦凋め。元の己れに、自らの思出に凋み入れ。そのとき、歸一の魂の奥深く、お前のありし日の生、お前のみが達し得る生は、今なほみづみづしい春の日の翠と、愛と力を湛へて、馥郁と薰じ耀かう。

 が、心せよ、哀れな老人。ゆめ行手を窺ひみるなかれ。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:太字「自らの」は底本では傍点「ヽ」。なお、最後から二つ目の段落の末にある「薰じ」の「薰」は底本では「董」で意味が通らない。特異的に誤植と断じて、かく、変えた。

「爲よう」「しよう」。

「哭かうか」「なかうか」。

「渝らない」「かはらない」。「變らない」に同じい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 二人の富者


Hutarihugou

   二人の富者

 

 富者ロスチャイルドが、その莫大な收入の中から何萬と知れぬ額をさいて、育英だの醫療だの養老だのの事業に投じるのに對する、人々の讃辭を耳にするとき、私もいつしよに感動し讃美する。

 感動し讃美しながらもわたしは、曾て寄邊ない孤兒になつた姪をそのあばら屋に引き取つた、ある貧乏な百姓夫婦のことを忘れることができない。

 「カーチェンカを引取るとなると」婆さんが言つた、「一文のこらず彼女(あれ)にかかつて、スープに入れる鹽も買へますまいよ。」

 「なあに、さうなつたら、鹽氣のないのにするさ」と爺さんは答へた。

 ロスチャイルドだつて、この爺さんには及びもつかない。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:「ロスチャイルド」既出既注。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 瑠璃いろの國


Ruriiro

   瑠璃いろの國

 

 ああ瑠璃いろの國。光と幸と靑春とに滿てる、瑠璃いろの國よ。私は夢にお前を見た。

 私たち幾人か、目も彩(あや)の畫舫を行(や)ると、風にはためく長旒のもと、白帆は鵠(こふ)の鳥の胸のやうにふくらむ。

 ともに舟を行(や)るのが、誰なのかは知らぬ。けれど私は全靈に感じる――彼等もまた私に劣らず、靑春の幸と悦びとに滿ちてゐるのを。

 それにせよ、私は彼等に氣を散らさない。あたりに見出すものは唯ひとつ、見わたす限りのさざ波を、金色の鱗を搖する涯しない瑠璃いろの海原。仰ぐ頭上にも、同じく涯しない瑠璃いろの海原。それを橫切つて優しい太陽は、祝祭に醉ひ痴れた者のやうにめぐる。

 時あつて私たちの間に、神々の哄笑に似た響たかい歡笑がわきあがる。

 と思へばまた、誰かしらの口から、ふしぎな美と靈の力とに滿ちた詩句や言葉がほとばしる。すると蒼穹までが應へを返すやう、四圍の海原も共鳴りしてどよめく。そしてふたたび、幸ひみちた靜寂に返る。

 やはらかな波の穗をくぐつて、輕舟は矢のやうに泛びただよふ。舟を送るのは空を吹く風ではなく、私たちみなの高鳴る心臟に舟は操られてゆく。恰も生あるもののやうに、私たちの心の向く方角へ從順に舳をかはす。

 島々は現はれ、島々は消える。それら半ば透明の魔法の島は、碧石や靑玉や、さまざまの晶玉の光を流す。

 島々の曲浦は、うつとりと夢の匂ひを私たちに送る。その島の一つは、白薔薇や鈴蘭を、玉なす雨と注ぎかける。またある島からは、長い尾をひいた虹色の鳥が、はたはたと舞ひたつ。

 鳥の群は頭上に飛びかひ、鈴蘭の花は、舷の滑肌(なゆはだ)をかすめながら、眞珠(あこや)なす海泡に溶けて入る。

 うかぶ花と舞ふ鳥のまにまに、幽かに妙なる樂音は漂ひ、そのなかには女の歌聲も聞きわけられる。

 あたりのものみな、大空も海原も、檣にはためく白帆も、艫に泡立つ水尾(みを)も、ひたすらに愛の言葉をものがたる。

 私たちみなの戀人らは、姿こそ見えぬが皆それぞれに、身近かに寄添つてゐる。一瞬、とざした眼を見ひらけば、そこに彼女の眼はきらめき、微笑が花をひらく。彼女の手はこの手を取つて、凋む秋のない常夏の國へと、優しげに牽く。

 ああ、瑠璃いろの國よ。私は夢にお前を見た。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:六段落目の「ほとばしる」は底本では「ほどばしる」。誤植と断じて、特異的に清音とした

「畫舫」「ぐわばう(がぼう)」は、本来は絵を描いたり、彩色を施したりした中国の遊覧船で、転じて、美しく飾った遊覧船を言う。

「長旒」「ちやうりう(ちょうりゅう)」と読む。幅が狭く丈の長い旗のこと。

「鵠(こふ)の鳥」ルビはママ。一見、コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana のように読んでしまうが、原文は“Лебединой”で、これは「白鳥」のことで、中山訳も新版の岩波文庫訳も「白鳥」とする。無論、あのカモ目カモ科 Anserinae 亜科のハクチョウ類を指す。現在は「白鳥」という漢名が一般的だが、本邦では古代から「鵠」と書き、「くくひ・くぐひ(くくい・くぐい)」(清音が古い)の古称を持っており、古語で「鵠の鳥」と書いて「かふのとり」と読ませ、それで「くぐい」「白鳥」の意で用いてきた経緯がある。従って訳として誤りではない

「響たかい」「響き高い」。

「歡笑」「くわんせう(かんしょう)」喜び楽しんで笑うこと。

「泛び」「うかび」。

「舳」「へさき」。

「舷の滑肌(なゆはだ)」「ふなばたのなゆはだ」。読みはママ。何となく判らぬではないが、このルビような語は、まず、私は聴いたこともなく、使ったこともない。新版の岩波文庫では『なめらかな舟べり』とある。本詩篇は全体に佶屈聱牙な漢語が多過ぎ、本来、この詩篇の持つところの、陽光に輝くロケーションのワイドな大海原の航海の仮想(夢)の雰囲気が致命的に殺がれてしまっている。神西は恐らく一番、新改訳をしたかった一篇だったのではなかろうか?

「眞珠(あこや)なす」真珠のような。新版の岩波文庫では『真珠とまごう』とする。

「檣」「ほばしら」。

「艫」「とも」。

「凋む」「しぼむ」。

「常夏」「とこなつ」。

「牽く」「ひく」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) キャベツ汁


Kyabetu

   キャベツ汁

 

 後家の百姓婆さんの所で、二十になる村一番の働き者の伜が死んだ。

 その村の女地主の奧さんが、婆さんの不幸を聞いて、葬式の日に訪ねて行つた。

 婆さんは家にゐた。

 婆さんは丁度小屋の眞中の、卓子の前に棒立ちになつて、左の腕をだらりと下げたまま、右の手でのろのろと、煤けた壺の底から實(み)のないキャべツ汁を掬つては、一匙一匙と口へ運んでゐた。

 婆さんの頰はこけ、顏色は暗かつた。眼は眞赤に泣き腫(はら)してゐる。でも身體だけは、教會へ行つた時の樣に、眞直に伸してゐる。

 「まあ、まあ」と奧さんは心に思つた、「こんな時に、よくも食べられること。本當にこの人達は、みんななんてがさつな心の持主だらう。……」

 そして奧さんは數年前に、生れて九ケ月になる娘を失くしたとき、悲嘆のあまり、せつかくペテルプルグの郊外に見附けて置いた立派な別莊を斷つて、そのひと夏を町に送つた事を思ひ浮べた。

 婆さんは相變らず、キャベツ汁を啜つてゐる。

 奧さんけ堪へかねてたうとう、「タチヤーナ」と言つた、「本當に、呆れますね、お前は一體、生みの息子が可愛くはないの。よくもまあ、物を食べる氣になれるのね。そのキャベツ汁が、よく咽喉に閊へないことね。」

 「ヴァーシャは死にました」と婆さんは小聲に言つた。すると悲しい淚がまた、こけた頰を傳はつた、「つまりは私も死んで、生き埋めになつたと同じことです。でも、この汁を棄ててはなりませぬ。鹽氣が入つてゐますによつて。……」

 奧さんは肩を竦めたきり、默つて出て行つた。彼女にとつて、鹽ほど安いものは無かつたから。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:「閊へない」「つかへない」。

「竦めた」「すくめた」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 羽蟲


Hamusi

   羽蟲

 

 窓を明けひろげた大きな部屋に、二十人ほどの人々と一緒にゐる夢を見た。

 婦人も子供も老人も雜つてゐる。私達はみな、何か大層有名なことを話題にして、がやがやと聞分けられぬ聲で喋つてゐる。

 すると不意に、がさりと音がして、長さの三寸もあらうと見える大きな羽蟲が、窓から飛び込んだ、羽根を擴げて一旋すると、壁にとまつた。

 それは蠅か地蜂に似てゐる。胴は泥色で、平たく硬さうな羽根も同じ色だ。頭はまるで蜻蛉のやうに角ばつて大きく、毛の生えた足を踏み開いてゐる。その頭も足も、血にまみれたやうに紅い。

 このふしぎな羽蟲は、頭を絶えず左右上下に𢌞轉して、足をうごかす。急に壁を離れるかと思ふと、部屋ぢゆうをぶんぶん飛び𢌞る。やがてまた壁にとまるとその儘じつとして、身體ぢゆうを憎々しげにうごめかす。

 私たちは皆一樣に、嫌惡と恐怖にとつつかれた。いや、むしろ凄氣をさヘ感じてゐた。そんな羽蟲は見たこともないので、みんな口々に叫んだ、「あの化物を追ひだせ。」 しかし誰一人、傍へ寄る勇氣はなく、ただ遠くの方からハンカチを振るばかりだつた。羽蟲がまた飛び立つと、一同は思はず後ずさりした。

 一座のうちで唯一人、蒼ざめた顏の靑年だけが、いかにも腑に落ちぬ面持で一同を眺めまはしてゐた。いつたい何が持ちあがつたのか、なぜ皆が騒ぐのか全くわからぬので、肩をすくめ薄笑ひを浮べた。彼の眼にはその羽蟲は見えず、不吉な羽根の唸りも聞えないのだ。

 ふと羽蟲は、じつと彼に眼をつけたと見る間に、いきなりその頭めがけて飛びかかつて、額のちやうど眼の上のあたりを一螫しした。靑年は微かな呻き聲を立てて、そのまま倒れて死んでしまつた。

 怖しい蠅はすぐ飛び去つた。その時になつてやつと、私たちはこのお客さんの正體に思ひあたつた。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:これは所謂、旧約聖書「列王紀」や新約聖書でイエスを批判する者たちが口にするところの悪魔 Beelzebub(ベルゼブブ)、ヘブライ語で「蠅の王」であろう。死を齎される者には実は死の使者は見えぬということか。挿絵は一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」では、中山に配されたそれが、有意な角度を以って斜めにして配されてあり、確かにその方が効果的と判断したので、中山訳で用いたものをその角度に傾けて添えた

「凄氣」(せいき)は、すさまじい気配、の意。

「一螫し」「ひとさし」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ほどこし


Hodokosi

   ほどこし

 

 大きな都會に近い往還を、病み呆けた老人が步いて行く。

 一足ごとに蹌(よろめ)き、躓き、絡みつく萎(な)え細つた兩の脚を引摺りながら、まるで他人のやうな步みを、力無く重たげに踏みしめた。ぼろぼろの衣を身の𢌞りに垂らし、むき出しの頭は胸もとに落して、生きる力も盡き果てて見える。

 やがて道傍の石に腰を下した彼は、前に跼み込んで、肘を膝に兩手で顏を蔽うた。くねり曲つた指の間を淚が、乾いて白い土埃の上に落ちた。

 彼は昔を思ふ。……

 彼は思ひ出す、昔はどんなに丈夫で富んでゐたかを。その健康をどんなに浪費したかを。

 その富を敵味方の見境もなく、どんなに振撒いたかを。いま、彼には一塊の麪包もない。

 人々はみな彼を見棄てた。それも、敵よりも友達が先に。……物乞ひをするまでに落ちぶれねばならぬのか。その胸を鹹(しほから)さと恥がさいなむ。

 涙は默々と、白い土埃に落ちる。

 ふと彼は、自分の名を呼ぶ聲を耳にした。彼は力無い頭をもたげ、見知らぬ男を眼前に見出した。

 その顏は穩に眞面目だが、嚴(いか)つい氣色はない。眼にきらめきは見えぬが、淸らかに澄んでゐる。射透すやうな眸には、少しの惡意も見えない。

 「君は財産をすつかり撒いて仕舞つたのだね」と逼らぬ聲が聞えた、「だが、善い事をしたのを、今さら悔む氣はないのだね。」

 「悔みなど致しません」と、老人は吐息まじりに答へた、「かうして、默つて死んでゆきます。」

 「で、若しもこの世の中に、君の前に手を差伸べる乞食が居なかつたとしたら」と見知らぬ男は續けた、「君も自分の慈悲の心を示す相手がなく、從つて慈悲の修業もできなかつた譯だね。」

 老人は答へずに、沈思した。

 「だから君も、今となつては傲(たかぶ)らぬがよいのだ」と見知らぬ男は言葉を繼いだ、「さあ行つて手を伸べ給へ。そして君も、世の慈悲深い人達に、その慈悲の心を行(おこなひ)に現はす機會を與へてやるがいい。」

 老人は見顫ひして眼を上げたこが、その男の姿はもう其處にはなく、はるか道の彼方に、一人の通行人が現れた。

 老人は近づいてゆき、手を伸べた。けれど通行人は、冷やかな一瞥のほかには、何も呉れなかつた。

 その後(うしろ)から來たもう一人の男は、しるしばかりの施しを彼に與へた。

 老人はその銅錢でパンを買つた。すると、物乞ひで得たこの一片は、不思議に甘かつた。

 汚辱が胸を緊めつけるどころか、靜かな悦びが湧いてきた。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:「跼み込んで」「かがみこんで」と訓じておく。

「麪包」「パン」。]

老媼茶話巻之三 亡魂

 

     亡魂

 

 下野宇都宮上川原町、長嶋市左衞門と云(いふ)者の女房、究(きはめ)て邪見なるもの也。子なくして養子をなしける。市三郎とて廿四になり、靜成(しづかな)る者也。

 其養子を深くにくみ、夫市左衞門をすゝめ、田川といふ所へ、夜、川殺生(かはせつしやう)に連行(つれゆき)、川端にて市三郎を切殺(きりころ)し、死骸を川へ深く沈め、空知(そし)らずして、宿へ歸り、程過(ほどすぎ)て、親本・近所へは、

「惡所へはまり、金をつかひ、缺落(かけおち)せし。」

といゝ觸(ふら)して、缺落の訴(うつたへ)をする。

 依之(これによつて)、宇都宮御城下、町々在々、人體書(にんていがき)にて、ふれ出(いづ)る。

 市三郎、兄弟もなく、新(シタ)しきゆかりも絶(たえ)てなかりしかば、夫(それ)なりに濟(すみ)たり。

 市三郎を殺せしは四月初(はじめ)成りしに、其月の十五、六日より、市左衞門女房、市三郎死靈(しりやう)に取付(とりつか)れ、我身に隱せし惡事を吐(ハキ)出(いだ)し、一生の恥を顯はし、果(はて)には、鋏を以て、おのれが舌を、はさみ切(きり)、血みどろに成(なり)、五月三日の暮方に狂死(くるひじに)に死(しに)たり。

 女のなきがらを、う津宮の淸閑寺葬るに、野邊へ送り行(ゆく)道、鵜梶兵左衞門と云(いふ)ものゝ石橋の上にて、晴たる空、俄(にはか)に、かき曇り、大雷大雨、ふり、くら闇と成り、黑雲、棺(くわん)の上へ落懸(おちかか)り、棺をうづ卷(まき)、さらいとらんとする事、三度也。

 此折の引導は、清閑寺七代目、南如無活傳溪(ナンニヨムクワツテンケイ)上人とて、俗姓山本、勘介賴鈍が孫也。

 棺の上へ覆ひ懸り、大音聲(だいをんじやう)にて經をよみ、終(つひ)に棺をとられず、雨止(あめやみ)て、はるゝなり。

 其後、引導をすまし、火葬にするに、棺の内より、靑き火、盛(さかん)に燃出(もえいで)て、おのづからに燒(やけ)たり。是、業火(がふくわ)と云(いひ)て大惡人にある事也といへり。

 寛文十九年五月四日の事也。

 心淨妙遊信女と名づく。

 宇津の宮淸閑寺の過去帳にあり。

 

[やぶちゃん注:「下野宇都宮上川原町」現在の栃木県宇都宮市大通り附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。この地区の中央を南西―東北に貫通する通りの名が「上河原通り」であること、南西に「中河原町」「下河原町」が続くことから推定した。

「其養子を深くにくみ」「靜成(しづかな)る者」なのに、何故に深く憎んだのかが記されていないのが頗る不満である。満二十三歳という青年である。長嶋市左衛門の年増の女房こそが、実は若き市三郎に色目を遣って断られ、逆に市三郎から諫められたりしたものではあるまいか? それなら、この女房の恨みは愛憎反転によって致命的に深くなるからである。昨今の下らぬ不倫騒ぎの話が私を刺激したわけではない。三坂は、この救いようもなくこの世を去って亡霊となった市三郎にこそ、もっと静かなりに、現世上のヒューマンなキャラクターを与えてやるべきだったのではないか? さすればこそ、女房の狂乱や青い怪火の出来(しゅったい)にある重みが加わるのに、と甚だ不満なのである。

「夫市左衞門をすゝめ」市三郎のあることないことを悪意で謂い重ねて、遂には殺害の実行を唆(そそのか)すことに成功したというのであるが、夫がその実行犯を容易に受け入れるところには、夫も市三郎をよからず思っていた事実を措定しなくてはならぬ。その場合、前注で措定したような忌まわしい事実があって、女房が肘鉄・諫言を受けた腹いせに「市三郎が私を誘惑した」「あんたを殺して駈け落ちしようと慫慂した」などという、ないことないことを積み重ねたのであれば、凡愚な夫は殺害実行役を積極的に買って出ると私は思うのである。

「川殺生」川漁。

「親本」「親元」。後で親しい縁者も絶えていたとあるから、遠い親戚の孤児(みなしご)をこの親許代わりの者が預かって養っていたものであろう。

「惡所」遊廓。

「缺落(かけおち)」「驅け落ち」と同じい。小学館「日本大百科全書」によれば、広義には本文通り、「欠落」と書き、貧困・借財その他の原因で失踪することを指し、欠落(かけおち)する者があると、その者の属する町村の役人は、奉行所・『代官所に届け出る。奉行所では、親類や町村役人に一定の期限を定めてその捜索を命じ、初め』、三十日『を限りとし』その三十日『以内に捜し出さないときは、さらに』三十日『を限って捜索を命じ、このようにして』三十日ずつ、『六度まで延長された。のちに幕府御料の村では初めから』百八十日『限りの尋ねが命じられた』。その百八十日『限りを経過しても』、『欠落人が捜し出せないと、尋ね人は処罰され、改めて永尋(ながたずね)が命ぜられた。欠落人は急度叱(きっとしか)りの刑に処せられた。欠落人の財産は親類、五人組、村役人らに管理させ、田畑は村惣作(そうさく)(村に管理させ、田畑の耕作や年貢弁納の義務を負わせること)とした。永尋が命ぜられ、または欠落人が帳外(ちょうがい)(人別帳から削除される)となるときは、欠落人の跡株(相続田畑)は相続人の願い出により、相続が許され』た。発見された『欠落人は罪科など不当な点がなければ』、『帰住が許された』とある。ただ、特に「駆落」と表記した場合、多くは広義の「欠落」の中でも『恋愛関係の男女が家出する事例を、やや特別視して』称した言葉で、ここはそれ。『法律上は失踪に違いはないが、江戸時代の男女間には姦通(かんつう)や身分制度などの刑事的・社会的規制が強く、女が遊女』であった場合(虚偽ながら、この場合は悪所通いにドップリはまってのそれであるから、これに当たる)は、『前借金も絡むなどの特殊な事情』を区別するためであった、とある。サイト「松本深志高校落研OB会」の「9.遊女の一生」によれば、これとは別に遊廓自体が私的に探索追補をしたとある。遊女を手引きして遊廓から逃亡させ、手に手を取っての「駆け落ち」の場合、『見世側としては、黙って見逃すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。遊女は吉原へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあり、命を絶たれてしまう遊女もいた』とある。

「缺落の訴をする」この場合、長嶋は相手の遊女や所属した遊廓等は不明とし、養子で家督を継ぐはずの彼の失踪のみを訴え出たということであろう。そうしないと、失踪した遊女の有無から、訴えの嘘がすぐばれてしまうからである。

「人體書(にんていがき)」人相書(にんそうがき)のこと。当該人物の顔つきや身なりを文章で箇条書にしたもの。御存じのことと思うが、テレビの時代劇等では似顔絵を描いたものが出てくるが、あれは視覚的インパクトと展開をスムースにするために脚色であって真っ赤な嘘である。総ては文書のみで、かなり細かく記されてあった。個人ブログ「団塊オヤジの短編小説goo」の『「江戸時代の人相書きは文字だけで書かれていた」について考える』で現物と活字化したものが見られる。

「ふれ出る」「觸れ出づる」。

「新(シタ)しきゆかり」「新」はママ。「親しき所緣(ゆかり)」。父母兄弟等の近親直系親族。

「夫(それ)なりに濟(すみ)たり」そのまま触書(ふれがき)を発行したばかりで、探索は打ち切られてしまった。

「市左衞門女房、市三郎死靈(しりやう)に取付(とりつか)れ、我身に隱せし惡事を吐(ハキ)出(いだ)し、一生の恥を顯はし、果(はて)には、鋏を以て、おのれが舌をはさみ切(きり)、血みどろに成(なり)、五月三日の暮方に狂死(くるひじに)に死(しに)たり」凄惨乍らも、未だ怪異の出来(しゅたい)とは言い難い。女房が如何に邪見(よこしま)な性格であったとしても、精神的には何の罪もない市三郎を死に追いやった調本であるわけだから、措定される嘘八百に流石に耐え切れぬ良心の欠片(かけら)が内在し、その罪障感から、発狂して成した仕儀と解釈しても、何ら、問題ないからである。

「う津宮」ママ。「宇都宮」。

「淸閑寺」不詳。但し、長嶋の居所と推定した、同じ栃木県宇都宮市大通りの五丁目に清厳寺(せいがんじ)」という寺が存在する(浄土宗。山号芳宮山)。開基は宇都宮頼綱((グーグル・マップ・データ))。ウィキの「清厳寺によれば、宇都宮家当主第五代宇都宮頼綱は元久二(一二〇五)年、『幕府より謀反の嫌疑を受け、これを機に熊谷で隠居生活を送っていた当代の英傑・熊谷直実(熊谷蓮生入道)の勧めにより』、『法然に帰依』し、承元二(一二〇八)年に『出家して実信房蓮生と号し』、『念仏道に入った。頼綱は京に住んで証空にも師事し、幕府から罪が許された後の』建保三(一二一五)年に『市内・宿郷町に当寺の起源となった念仏堂を建立した』。現在の清厳寺は現在の地図では推定される上川原からは近過ぎる嫌いがあり、川も渡らずに行けるのであるが、或いは、ここをモデルとして名を架空のものとしたものかも知れぬ。

「鵜梶兵左衞門」不詳。

「棺(くわん)」「ひつぎ」と訓じてもよいが、座位の縦桶が当時の棺桶であるから、かく読んでおいた。

「さらいとらん」ママ。「攫(さら)ひ盜(と)らん」。

「南如無活傳溪(ナンニヨムクワツテンケイ)上人」不詳。

「勘介賴鈍」武田信玄の伝説的軍師として知られる山本勘助(明応二(一四九三)年若しくは明応九(一五〇〇)年~永禄四(一五六一)年)であろうが、彼に「賴鈍」という名は確認出来ない(一般には本名を「晴幸」とする)。Q&Aサイトの答えによれば、嫡子勘蔵(天文二二(一五五三)年~天正三(一五七五)年:源蔵・勘之丞・信供とも)は「長篠の戦い」で戦死しており、次男助次郎も戦死、三男に下村安笑(源三郎?)というのがいるが、養子に行ったものと思われ、山本姓ではない。ただ、勘助には娘がおり、その婿養子山本十左衛門尉(饗庭利長の次男頼元)の妻とあったとあるのは大いに気になる。しかもこの養子は山本十左衛門尉(?~慶長二(一五九七)年)を名乗って、山本家を継いでいるのである。ウィキの「山本十左衛門によれば、天正一〇(一五八二)年三月、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻によって武田氏が滅亡し、最終的に徳川家康が甲斐を領有するが、十左衛門尉は同年六月二十二日に『徳川家臣大須賀康高から所領を安堵されており』、同年八月に『武田遺臣が家康への臣従を誓約した天正壬午起請文においても「信玄直参衆」に名を連ねており、旗本に属していたことが確認される。さらに同年閏正月』十四日『には徳川家康から所領』『を安堵されている』とある。また、『没後、山本氏は嫡男・平一が継ぐが』、慶長一〇(一六〇五)年に『平一は急死し、さらに、子の『弥八郎、素一郎も相次いで死去し』てしまい、『山本家は浪人する。末子・三郎右衛門(三代菅助、正幸)は』寛永一〇(一六三三)年に『淀藩主・永井尚政に仕え』、天和二(一六八二)年に『子孫四代菅助が常陸国土浦藩主・松平信興に仕官し、子孫は松平家臣として明治維新に至』たとするから、この頼元の子の中に出てこない頼純なる子がいた、その子が出家して長生きをして法名を「南如無活傳溪」と称した、とすれば、本話の時制(江戸前期。但し、最終注参照)から見て、必ずしもおかしくはないようにも思う。十左衛門尉頼元は婿養子ではあるが、勘助の子として山本家を継いでおり、その頼元の子ならば初代勘助の孫となるからである。但し、勘助の実在自体が不明であり、単に怪奇談に箔を附けるためのもののようにも見える。「南如無活傳溪」なる僧が実在し、勘助孫を称していた事実があれば、是非、お教え戴きたい

「火葬にするに、棺の内より、靑き火、盛(さかん)に燃出(もえいで)て、おのづからに燒(やけ)たり」このシークエンスこそが、怪談のキモである。火葬にしようとしたが、火をつける前に、棺桶の中から、青白い火が激しく燃え立って、その怪火によってすっかり灰燼と化したというのは、合理的説明を無化するからである。

「寛文十九年五月四日」
寛文は十三年(グレゴリオ暦一六七三年)で終わっており、おかしい。このおかしなクレジットにより、本話の信憑性はガタ落ちとなる。前の幾つもの不審箇所と合わせ、本話は事実ではないと指弾されても、これでは、仕方ない。実録(風)怪談にはあってはならないミスである。良心的に誤字とみるなら、「寛文」ではなく、「寛永」か。であれば、寛永十九年五月四日はグレゴリオ暦で一六四二年六月一日となる

2017/10/09

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) NECESSITAS, VIS, LIBERTAS


Necessitasvislibertas

   
 NECESSITAS, VIS, LIBERTAS

 

           ――淺浮彫

 

 鐡の壁画のやうに無表情な、洞ろな眸をした老婆が、脊の高い骨と皮ばかりの身に大股を踏んで、杖みたいに凋びた片手で前方の女を押してゐる。

 それが、見るからに逞しい大女で、立派な肉置(ししおき)はヘラクレスのやう。太い猪首に小さな頭を托し、兩眼は盲いてゐる。こはまた、瘦せて小さな女の子を押してゐる。

 眼の明いてゐるのは、女の子だけだ。彼女は強情に身をくねらせ、きれいな纖細(かぼそ)い腕を振り上げる。生き生きした顏は、勇氣と苛立ちの色を示す。彼女は從順を嫌ふ。押されてゆくのを嫌ふ。だが矢張り、服從して步まねばならぬ。


   
NECESSITAS, VIS, LIBERTAS

 

 お望みなら譯してみたまへ。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:挿絵は中山版が三人の頭部部分総てに黒い故意に摺ったような汚れが入ってしまっていて、特に女の子の頭や姿自体の識別が非常に出来にくいので、今回、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」のそれを新たに複写して示すこととした。

 訳者註。

NECESSITAS, VIS, LIBERTAS 『必要、力、自由』。

註の斜体はママ。

 

NECESSITAS,VIS,LIBERTAS」:中山氏はシンプルに上記のように記しているが、この三つの単語には以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「お望みなら譯してみたまへ」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うのである。

“necessitas”必然(的なこと)。強制・圧迫。境遇・立場。危急・急迫・苦境。繋がり・関係付ける力・情。

“Vis”力・権力・勢力。活動力・実行力・勇気・精力。敵意としての武力・攻撃。暴力・暴行・圧制・圧迫。影響・効果。内容・意義・本質・本性。多量・充満。

“Libertas”①自由・解放。②自主・独立。③自由の精神・自立心。④公明正大・率直。⑤放縦・自由奔放・拘束のないこと。⑥無賃乗車券。

例えば、

「必要、力、自由」

の代わりに、

「必然、権力、解放」

「圧迫、勇気、独立」

「境遇、攻撃、自立」

「苦境、圧迫、公明正大」

「繋がり、本性、奔放」

「情、力、真に解き放たれた全き自由なる魂」等々――。]

老媼茶話巻之三 藥師堂の人魂

 

     藥師堂の人魂

[やぶちゃん注:「盛隆に   てければ」の三字分の脱字(或いは欠字)は原典はママ。和歌は濁点を附さず、底本のままで示した。妙空の漢文の偈みたようなものは返り点のみを再現し、注で振り仮名を含めて訓読した。前書本条は四つの別個な話のアンソロジーであるので、各件の間に空行を設けた。]

 天正の初め、會津の御城主は蘆名三浦の助盛隆とて、まします。此御代、有罪の者、被誅(ちゆうせらる)場所は湯川の東岸也【今、花畑也。】只野・片平(かたひら)といふ兩人のものども、盛隆に   てければ、兩人の者共の母と妻ども、湯川河原にて串差(くしざし)におこなはるゝ。其節、只野が妻、致しける。

  淺ましや身をはたゝ野に捨られて寢亂れ髮の串のつらさよ

 片平が母、

  かたひらのうすき情の替りつゝひとへにつらき夏衣哉 

 

 寛永年中、加藤明成の御代、今の藥師河原にて罪あるものを刑罪せらるゝ也。寛永十五年二月廿七日、嶋原落城、切支丹の賊、誅せられて後、日本國、浦々はてはて迄、此宗門、きびしく御法度なり。此折、橫澤丹後といふ者の家に、ばてれんを二重壁の内に隱し置(おき)けるを、さがし出(いだ)し、寛永十二年十二月廿八日、ばてれんを初(はじめ)、丹後が一族、ともに、紙のぼりに「南無阿彌陀佛」と六字の名號を書(かき)て後にさゝせ、淨土數珠を首にかけさせ、藥師堂にて、さか磔付(はりつけ)に行はるゝに、おさなき童迄、少(すこし)も極刑にあへるを恐(おそれ)ず、

「死後には上天明朗。」

ととなへ、我先(われさき)にと死をあらそふ。本國の者を、さか磔付に懸る時は、日を經ずして死せり。異國のものゆへか、ばてれんは一七夜をへて死す。 

 

 或人男女の磔付のありし時、大川の下へ殺生に行(ゆき)、夜更(よふけ)て藥師堂を通りけるに、はつ付柱(つけばしら)の本(もと)に、靑き玉の、手まり程なるが、弐ころび𢌞り、磔付柱へ、登りつ、おりつして、暫(しばらく)有(あり)て、

「はつ。」

と消(きえ)たるを見たる、といふ。是、人だまの類(たぐひ)なるべし。 

 

 寛文の頃、越後さかいといふ所の妙蓮寺の妙空といふ法花坊主、城下の町、玉造り屋といふ有德(うとく)なる町人の娘「今小町」とさたせし美女と密通のことにより、佐川河原といふ處にて、磔付に行はるゝ。此折、妙空、廿三になり、美僧也(なり)しと、いへり。妙空辭世の句、

 一鎗一突無間業今轉宿報佛果

 飛ふ魂は彌陀の淨土へ急くへ殘る骸に罪をゆつりて

女、くめ、

 亂れ髮たれとりあけてゆひぬらんいまさしくしのうらめしの身や

 此事、取扱(とりあつかふ)人有(あり)て、内證(ないしやう)にてすむべかりしを、町役人三澤傳左衞門といふもの、玉作りやが娘に心をかけ、女房にもらいかけしに、傳左衞門、人柄、宜しからぬ者也しかば、玉作や、得心せず。是をふかく意趣に思ひ、事(こと)濟(すみ)しを、上へ申上(まうしあげ)、詮議仕出(しいだ)し、斯(かく)極刑におこないける。妙空が怨靈、傳左衞門に祟り、三澤が一門、取(とり)たやしけるといへり。

 

[やぶちゃん注:「天正の初め、會津の御城主は蘆名三浦の助盛隆」戦国大名で蘆名氏第十八代当主蘆名盛隆(永禄四(一五六一)年~天正一二(一五八四)年)。ウィキの「蘆名盛隆によれば、『須賀川二階堂氏の第』十八『代当主・二階堂盛義の長男として生まれ』、永禄八年に『父・盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の盛氏のもとに送られた。ところが』、天正三(一五七五)年『に蘆名氏第』十七『代当主・盛興が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫(叔母にあたる)を自らの正室に迎えた上で、盛氏の養子となって第』十八『代当主となり』、天正八(一五八〇)年『に盛氏が死去すると』、『実権を掌握した』。翌天正九年、『盛隆と叔父の伊達輝宗は、越後の新発田重家が後継者争い(御館の乱)の後に新たに越後国主となった上杉景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った』。六月十六日、『重家は一門衆のほか、同族加地秀綱ら加地衆や、御家騒動の際に景勝の対立勢力だった(上杉景虎方)豪族らを味方に引き入れ新潟津を奪取し支配、以降』七『年間に渡って景勝を苦しめる』。『この頃、北陸地方で上杉氏と争っていた織田信長はこれを挟撃するべく、上杉氏を離反した新発田重家及び東北の諸大名の懐柔のため』、『外交を始めた。当初、盛隆は上杉景勝とも誼を通じ度々連絡を交わしていたが』、天正九年『に家臣の荒井万五郎を上洛させ』、『信長と交渉を行った』『これは、盛隆から接近したとも、信長が景勝を挟撃するために盛隆を誘ったともいわれる』、『盛隆は信長に名馬』三頭・蝋燭一千挺を』献上すると』、『信長はこれに応えて、盛隆が三浦介に補任されるよう』、『朝廷へ斡旋した。蘆名氏は三浦義明の末裔であり、盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは名誉であり』、『信長もこのことで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる』。『その後、盛隆は重臣の金上盛備を上洛させている』。『信長と接近したことで、盛隆は上杉景勝との関係が疎遠になった。その後も景勝からは新発田氏挟撃などの援軍の要請などがあったが、盛隆はこれに対して曖昧な態度を取り続けることに終始し』、天正十年『には景勝からの出兵依頼を断るどころか、金上盛備』(かながみもりはる 蘆名氏一族の金上氏第十五代当主。越後国蒲原郡津川城主。その卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と呼ばれた)『に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなど、重家を援護する介入を行った』。『蘆名氏当主となった盛隆は、父・盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務めた。そのため、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった
上記の新発田氏支援に対抗するため、上杉景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、重臣の直江兼続に命じて』、『富田氏実や新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し』、『反抗させることで、蘆名氏に揺さぶりをかけた』。天正一二(一五八四)年六月『に盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて』、『栗村盛胤・松本行輔らに黒川城を占拠されたが、盛隆はこれを素早く鎮圧し』、七『月には長沼城主の新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた』が、同年十月六日、『黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した』。享年僅か二十三。『家督は生後』一『ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、亀王丸の母・彦姫が隠居した兄・伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめることになった。しかし、輝宗の跡を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め(関柴合戦)、亀王丸も』天正一四(一五八六)年『に疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる』とある(下線やぶちゃん)。「天正」は二十年まであり、ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年までに相当する。以上みた通り、盛隆は名目上は天正三(一五七五)年に蘆名氏当主となっているから、まあ、この「初め」は形の上では問題はない(但し、未だ十四歳で、盛氏が後見人として、往時の勢力はなくなったものの、実権は握っていた。盛氏が逝去する天正八(一五八〇)年以降が事実上の治下となるが、天正八年は流石に「天正の初め」とは言えないから、時制は天正三~五年の間ととっておく。

「湯川」現在の湯川は昭和になってからの治水事業によって「湯川新水路」として整備されて、流域に変化が生じているから、厳密な位置を示すことは出来ないが、「ここで東岸」と述べているところから考えると、現在の鶴ヶ城の西方の、現在の福島県会津若松市湯川町附近(ここ(グーグル・マップ・データ))、旧湯川が城の南方から北流する辺りの東岸であったと考えられないだろうか? 或いは、その南の旧湯川が北流を始めた直後辺りの箇所かも知れない(ここだと、城の南西で裏鬼門に当たるから、刑場を配するには逆によいように私には思えた)。しかし、更に調べると、先の湯川町の南に接して、まさに「南花畑」という地名が存在することが判った(ここ(グーグル・マップ・データ))。これが割注の「花畑」の一部(南地区)と理解するなら、やはり、ズバリ、現在の「湯川町」の辺りを旧湯川は氾濫原として広く流れており、その城側の岸(「南花畑」の北附近)こそがその「湯川の東岸」附近なのではないか? その場合、旧湯川が有意に現在の湯川新水路の西を流れていた可能性もあるから、現在は西岸になっている川原町附近(本文の「湯川河原」に応じる)も比定候補としてよいように思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))。この辺りは城から一キロ圏内にあり、城からも、刑場が見下ろせたのではないかと思われる(見せしめの処刑場としては、城から見えることが望ましいと私は考える)。

「只野・片平(かたひら)」不詳。但し、前の引用の中に出る(下線部)、まさに二人とも、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く蘆名盛氏直参の家臣ではなかったか?

「盛隆に   てければ」「逆らひ」「手向ひ」「そむき」「弑逆(しいぎやく)し」などを考えたが、「て」のジョイントが孰れも悪い。

「串差(くしざし)」「磔」は本文が区別して記しているので、それではない。調べて見ると、かなり残酷な刑で、「串刺し」に相応しい本邦での処刑法を見出せた。しかも戦国期に行われたというのだから、まず、これがその処刑法であったと考えてよいように思われる(★引用元のブログ主も注意書きしておられるが、以下の部分は処刑に関する過激な表現が含まれているので、グロテスクな表現が苦手な方は読まないようにされるがよいとは思う★)Neutralerstadt氏のブログ「リュートの適当にっき」の「森川哲郎『日本死刑史―生埋め・火あぶり・磔・獄門・絞首刑…』」である。永禄五(一五六二)年三月、『遠州吉田の城主小原肥後守鎮実は、捕えた徳川の家臣を妻子と共に吉田の城下竜念寺において、磔(はりつけ)刑に処した』。『処刑されるものは』、十一『人であったが、ただの磔ではなかった。ずらりと並べて立てた柱に』十一『人の手足を広げさせ、釘付けにする』。『女も子供も同様の姿で磔柱にかけられた。もちろん下半身は、糸一筋つけてはいない。処刑に使う槍は細身のものを特につくらせた。その穂先を真下から肛門に当てる。そのまま一気に突き上げる』。『囚人は、余りの苦痛に、絶叫する。それをかまわず』、『上まで貫こうとするのだが、骨や内臓につかえて、なかなか』、『槍は突き抜けない』。『そこで』、『途中から槍を一度』、『抜き出す。その激痛で、囚人はまた』、『絶叫する。まさに、目も当てられない惨状だった』。『囚人が、叫びながら』、『苦悶してのたうつので、穂先はずれて、胃を、肝臓を、肺臓をえぐる。そのたびに口から血泡がふき出す。囚人は、ついに苦悶の果て、息絶える』。『しかし、正規の串刺しの刑は』、『それでは』、『完了しない。槍を手もとに戻して、突き直し、肛門から口まで貫き通すまで決して止めない』。『無残きわまる処刑方法であり、いわゆる串刺しの刑と呼ばれたものだが、戦国期に多くおこなわれた残酷刑の一つに過ぎない』とあるものである。

「淺ましや身をはたゝ野に捨られて寢亂れ髮の串のつらさよ」整序すると、

 淺ましや身をばただ野に捨られて寢亂れ髮(がみ)のくしのつらさよ

で、「ただ野」「(荒涼とした何もない)ただの野」と姓の「只野」に掛け、「くし」は「(女の魂・命の象徴たる)櫛」に「串(刺しの刑)」を掛ける。「捨てられて」はこのような残虐刑に処さんとする盛隆への恨みである。処刑時の辞世に閨房の雰囲気を持ち出すのは特異であるが、却ってそれが女のそれと考えた時、何故か、逆に女なればこその強さを感じさせるものがある。

「かたひらのうすき情の替りつゝひとへにつらき夏衣哉」整序すると、

 かたびらの薄き情(なさけ)の替(かは)りつつひとへにつらき夏衣かな

「かたびら」は死に装束の白「帷子(かたびら)」に姓名の「片平」を掛け、「ひとへに」は「ただもう」という副詞に、「單衣」(着せられた白帷子が裏のないぺらぺらに薄い単衣(ひとえ)だったのである)に掛けて、「薄」「情」で冷酷で残虐な心に「變」じた盛隆への深く「つら」い内向する怨みを含んだ一首である。しかし、姓名を掛詞にする女の辞世歌が続くというのは、これ、如何にも嘘臭過ぎる。

「寛永」一六二四年~一六四五年。

「加藤明成」(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は陸奥国会津藩第二代藩主。既出既注であるが、再掲しておく。ウィキの「加藤明成」によれば、天正二〇(一五九二)年、『加藤嘉明の長男として生まれ』、寛永八(一六三一)年『の父の死後、家督と会津藩』四十『万石の所領を』相続している。慶長一六(一六一一)年に起った『会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築』いた。『堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて』寛永二〇(一六四三)年に改易となった。『その後、長男・明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居し』ている。

「藥師河原にて罪あるものを刑罪せらるゝ也」女性のブログ「天上の青」の「薬師河原刑場跡」の記載により、現在の福島県会津若松市神指町東城戸に、まさにこの明成の治世下に存在した「刑場跡の石碑」が存在することが判った。ここ(グーグル・マップ・データ)。記事には、寛永一二(一六三五)年、『会津藩主加藤明成は、幕府の命令を徹底すべく』、『キリシタン弾圧に乗り出し、横沢丹波とその一族、丹波の家に匿われていた宣教師が捕らえられ、処刑され』。『彼らの殉教の地はキリシタン塚と呼ばれ』、現在、『石碑が建てられてい』るとあり、『薬師河原刑場の殉教者』として、三名が挙げられ、前の二件が明成の治世下、三件目は会津松平(保科)家会津藩主初代保科正之の治世で断行されたものとある。最初のそれが、寛永十二年十二月十七日(一六三六年一月二十四日)に行われた会津切支丹の中心的人物であった横沢丹波とその一族五名の磔刑で、この頃から、会津藩の刑罰場はこの薬師河原に移された、とある(前の刑場は先の蘆名時代からの湯川東岸の河原であったか)。二件目が、その十一日後の寛永十二年十二月二十八日(一六三六年二月四日)に行われた外国人宣教師一名の火炙りの刑であるとする。宣教師の名は公的には不明ながら、横沢丹波の家を隠れ家にすることもあったことが判っているフランシスコ会神父ディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマレスではないかといわれている、とある。三件目は正保四年四月十二日(一六四七年五月十六日)で切支丹五名が処刑されている、とある。グレゴリオ暦換算もなされていることから、このブログ記事が正しく、内容もそちらの方が正確と信ずる。本条は横沢丹波(本文の「丹後」は誤記。編者に拠る訂正注が右に打たれてある)と外国人宣教師が一緒に逆さ磔の刑(頭を下に向けて磔に処したもの。鑓で突かずとも、脳充血によってそれほど日を経ずして死ぬが、頸部から瀉血すると、長く生命を保つことが知られている)に処したとするのは、作品或いは風聞の尾鰭かも知れぬ。賊の首魁を信徒と一緒に同じ場所で同じく磔にするのもおかしい(私がなら絶対にしない。そこで首魁と信徒との心的な繋がりが見物人の前で發露されたりするのは為政者として非常に都合が悪いことだからである)ずっと生きているのを監視し続けるのは、非合理且つ非効率で保安上も問題があるから、「一七夜」(丸七日七夜)というのは寧ろ、現実的でない。しっかりと焼き殺したものであろう

「寛永十五年二月廿七日、嶋原落城」現在、島原の腹城卓上は寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日とされている。

「南無阿彌陀佛」「淨土數珠」後者は既注。これを見るに、少なくとも会津藩内に於いては、浄土宗や浄土真宗が、積極的に切支丹排斥に協力的であったことが判る。

「死後には上天明朗」死後には天上の神の国天国へと昇天して、永遠の心の晴れやかさの中に蘇る、といった意味か。

「本國の者」日本人信徒。

「大川」福島県南西部の福島・栃木県境の荒海山に源を発し、会津盆地で日橋川と合する阿賀野川の上流部で会津若松市市街の西を北流する阿賀川の別称。

「藥師堂」先に出た処刑場。

「人だま」「人魂」。

「寛文」一六六一年~一六七三年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「越後さかい」坂井(さかい)は、城下に近いとなると、新潟県新潟市西区坂井か。(グーグル・マップ・データ)。

「妙蓮寺」現在、上記地区内には、この名の寺はない。

「有德(うとく)」裕福。

「さたせし」「沙汰せし」。評判であった。

「佐川河原」不詳。郷土史研究家の御教授を乞う。

「一鎗一突無間業今轉宿報ヲ至佛果」原典のカタカナ(歴史的仮名遣の誤りはママ)で振られた読みと送り仮名に従って訓読する。

 一鎗(そう)一突(とつ) 無間業(むけんごう)

 今(いま) 宿報を轉じ 佛果に至る

日蓮もびっくりの糞な謂い。

「飛ふ魂は彌陀の淨土へ急くへし殘る骸に罪をゆつりて」整序すると、

 飛ぶ魂(たま)は彌陀の淨土へ急ぐべし殘る骸(むくろ)に罪をゆづりて

何と都合のいい糞辞世であろう。娘への懺悔の一つもない! 無間地獄行き、キマリじゃて!

「くめ」娘の名。久米・粂か。

「亂れ髮たれとりあけてゆひぬらんいまさしくしのうらめしの身や」整序すると、

 亂れ髮誰(た)れ取り上げて結ひぬらん今刺し櫛(ぐし)の恨めしの身や

「刺し櫛」は頭に飾りで刺した娘の「刺し櫛」に磔刑で両脇から鑓で「刺し」貫かれることを掛けた。しかし、女犯(にょぼん)の僧(浄土真宗以外)の死刑は事件が悪辣であればごく普通にあったが、この場合、相手の娘は未婚であり、磔で死罪というのは、ちょっとおかしい。やはり、この辞世を含めて、どうも、作り話臭い。

「三澤傳左衞門」不詳。

「おこない」ママ。

「取(とり)たやしける」「取り絶(た)やしける」根絶(ねだ)やしにしてしまった。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蠼螋(はさみむし)


Hasamimusi

はさみむし 搜夾子

 

      【俗云波佐

       美無之】

蠼螋

 

キユイ スヱウ

 

本綱此蟲喜伏氍之下故得此名隱居墻壁及噐物下

長不及寸狀如小蜈蚣青黒色二鬚六足足在腹前尾有

叉岐能夾人物其溺射人影令人生瘡身作寒熱用犀角

汁【雞腸草汁馬鞭草汁梨葉汁茶葉末紫草末燕窠土以各一品塗亦良】塗之皆効又畫地

作蠼螋形以刀細取其腹中土以唾和塗之再塗卽愈方

知萬物相感莫曉其由

△按武編云被蠼螋毒者扁豆傅卽瘥

 

 

はさみむし 搜夾子〔(さうけふし)〕

 螋〔(きゆうさう)〕

      【俗に「波佐美無之」と云ふ。】

蠼螋

 

キユイ スヱウ

 

「本綱」、此の蟲、喜びて氍(けむしろ)の下に伏す。故に此の名を得。墻壁及び噐物の下に隱れ居〔(ゐ)〕る。長さ、寸に及ばず、狀、小〔さき〕蜈蚣〔(むかで)〕のごとし。青黒色、二鬚〔(しゆ)〕、六足あり。足、腹の前に在り。尾に叉岐(はさみまた)有り、能く人・物を夾(はさ)む。其の溺(ゆばり)、人の影を射て、人をして瘡を生ぜしめ、身、寒熱を作〔(な)〕す。犀角汁〔(さいかくじふ〕を用ひて【雞腸草の汁、馬鞭草の汁、梨〔の〕葉の汁、茶の葉の末、紫草の末、燕の窠〔(す)〕の土、各一品を以つて塗〔るも〕亦、良し。】之れを塗る。皆、効あり。又、地に畫〔(ゑ)〕して、蠼螋の形を作り、刀を以つて細〔(こま)やか〕にし、其の腹中の土を取り、唾(つばき)以つて和して、之れを塗る。再び、塗れば、卽ち、愈ゆ。方〔(まさ)〕に知る、萬物〔の〕相感、其由を曉(さと)すこと、莫し〔と〕。

△按ずるに、「武編」に云はく、『蠼螋の毒を被むる者、扁豆(いんげんまめ)の葉を傅〔(つ)〕けるときは、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ。

 

[やぶちゃん注:昆虫綱 Insecta革翅(ハサミムシ)目 Dermaptera のハサミムシ類。よく見かけ、同和名を持つ種はハサミムシ目マルムネハサミムシ科ハサミムシ(ハマベハサミムシ)Anisolabis maritimaよりの方が鋏の曲がり方が有意で雌雄ともに無翅。人家周辺の荒地やゴミ捨て場等の湿った場所の石の下などで多く見られる。異名は海岸に打ち上げられた海草の下に見られることに由来する。雑食性で植物の葉・果実・動物の死体などを摂餌する)。世界で十一科千九百三十種以上、日本では四十種ほどが知られている。ここで毒があるということが、「本草綱目」だけでなく、良安の短評にも出るが、ハサミムシ類は(素人なんで附言しておくと、少なくとも本邦産は)無毒であり、通常、本土にいる種群の鋏に挟まれても、力が弱く、痛くもなんともない(実際に私も小さな頃に挟ませてみた記憶があるが、痛くなかったし、好んでこれに指を挟ませている遊び友だちもいたぐらいである)。しかし、「氍(けむしろ)」(毛で編んだ厚い敷物。絨毯)というのが屋内を指している点、記載の大半が咬み、毒があってその療法に費やされていること、況や、「人の影を射て、人をして瘡を生ぜしめ、身、寒熱を作〔(な)〕す」という部分は有意に重い症状を呈すると言っているからには、考察せねばなるまい。結論から言うと、これは恐らく、形状が似ており(但し、尾の鋏はないから、識別は一目瞭然)、体液にペデリン(Pederin:テトラヒドロピラン環を持つ水泡を発生させる毒性アミド)という有毒物質を持っていて、それが皮膚に附着すると、水疱性炎症を発生させ、さらにそれが眼に入ると、激しい痛みとともに、結膜炎や角膜潰瘍などの重い眼疾患を起こすところの、鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科アリガタハネカクシ亜科Paederinae Paederus属アオバアリガタハネカクシ Paederus fuscipes、或いは同じく、Paederus属エゾアリガタハネカクシ Paederus parallelus、又は、Oedechirus属クロバネアリガタハネカクシ Oedechirus lewisius と誤認しているのではなかろうかと思われる(彼らは走光性があり、夏を中心によく屋内にも飛来侵入する。ハネカクシ類についてはハネカクシ類に同定した先行する「青腰蟲」の私の冒頭注を参照されたい)。なお、ハサミムシは「ちんぽきり」「ちんぽばさみ」という何とも不名誉な地方名を持っているらしい。高田兼太論文ハサミムシの不名誉な俗称(PDF)を読まれたい。読みながら、ちょっと「はさみむし」が可哀想になった。

 

「長さ、寸に及ばず」先に挙げたハサミムシ(ハマベハサミムシ)Anisolabis maritima で二センチメートル前後。

「小〔さき〕蜈蚣〔(むかで)〕のごとし」私は似ているとは思わないが、ムカデの顎脚と本種の尾部の鋏の類似からの誤認か。

「二鬚」一対の触角。

「溺(ゆばり)」小便。

「犀角」動物のサイ(犀)の角を素材とした生薬。成分の大半は角質であるケラチン(Keratin:多くの動物の細胞骨格を構成するタンパク質の一つ)。粉末にしたものは麻疹の解熱薬として顕著な効果があるとされる。水牛角や牛角も用いられる。

「雞腸草」ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属 Stellaria のハコベ類の漢名別称。通常は「繁縷」「蘩蔞」などと書く。本邦の場合、「春の七草」の一つとしてのそれは、コハコベ Stellaria media

「馬鞭草」シソ目クマツヅラ(熊葛)科クマツヅラ属クマツヅラ Verbena officinalisウィキの「マツヅラによれば、『ヨーロッパ、中国、日本全土に分布し、荒れ地や道端に生える』。『葉はバベンソウ(馬鞭草)という生薬として、通経・黄疸や下痢の薬として利用され、ヨーロッパでもハーブとして用いられる。日本でも古くから用いられており、『和名抄』に「久末都々良」として登場する』。『古代ローマでは祭礼に持ちいるなど、聖なる草とされた。Verbena には「祭壇を飾る草」という意味もある.。また、古代ドルイド僧は、清めの水、占い、予言などに用いたという。他にも魔力があり、魔除けの草として、ヨーロッパの古い文献などにその名が出てくるなど、宗教、呪術に結びつく内容が多く存在する』とある。

「紫草」シソ目ムラサキ科ムラサキ属ムラサキ Lithospermum erythrorhizonウィキの「ムラサキによれば、『根は暗紫色で、生薬「シコン」(紫根)である。この生薬は日本薬局方に収録されており、抗炎症作用、創傷治癒の促進作用、殺菌作用などがあり、紫雲膏などの漢方方剤に外用薬として配合される。最近では、日本でも抗炎症薬として、口内炎・舌炎の治療に使用される』とある。

「燕の窠〔(す)〕の土」燕の巣の土。これは中華の高級食材であるアマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Collocaliini ではなく、普通の燕(スズメ目ツバメ科ツバメ属 Hirundo)の巣を形作っている土様の物質(実際に燕類は泥と枯草を唾液で固めて巣を造る)のことであろう。

「各一品を以つて」全部ではなく、以上に挙げたものの単品一種を用いて、の意。

「又、地に畫〔(ゑ)〕して、蠼螋の形を作り、刀を以つて細〔(こま)やか〕にし、其の腹中の土を取り、唾(つばき)以つて和して、之れを塗る。再び、塗れば、卽ち、愈ゆ。方〔(まさ)〕に知る、萬物〔の〕相感、其由を曉(さと)すこと、莫し」類感呪術である。

「武編」東洋文庫書名注に『明の唐順之撰になる兵書の類』とある。

「扁豆(いんげんまめ)」マメ目マメ科インゲンマメ属インゲンマメ Phaseolus vulgaris。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 訪れ


Otozure

   訪れ

 

 明け放した窓べに坐つてゐた。朝――五月一日の夜明けである。

 暁の光りはまだ射さない。けれど蒸暑い夜の闇は、やうやく冷え冷えと白みはじめた。

 そよとの風もなく、朝霧も立たない。眼にうつる物の影はどれも皆、ひと色に靜まり返つてゐるが、さすがに目覺めの時の近まりが感じられる。薄らいでゆく大氣のしつとりした潤ひ、鼻をつく露の香。……

 ふと、明け放しの窓から、一羽の大鳥がはたはたと、羽音も輕やかに舞ひ入つた。

 私は愕いて、じつと眼を注いだ。見るとそれは鳥ではなくて、翼のある小さな女だつた。

 ぴつちりと身に合つた長い衣を着て、その裳がひらひら風にゆらいでゐる。

 その全身は灰色に、眞珠母の色に輝き、ただ翼の内側のみ、綻びかける薔薇の蕾に似た淡い。小さな頭に房々と亂れる捲毛を、鈴蘭の花冠で留めてゐる。可愛らしいおでこの額には、二枚の孔雀の羽が、まるで蝶の觸鬚のやうに剽輕に搖れてゐる。

 彼女は天井際を二囘ほど舞ひながら、小さな顏一ぱい微笑んだ。きらきらする大きな黑眼も、やはり微笑んでゐる。

 氣儘な翼を伸べ、思ふさま翔るにつれて、兩眼の晶光は粉々に碎け散る。

 彼女は野花の長い莖を手にしてゐる。帝笏草とロシヤ人の呼ぶその野花は、ほんとに笏杖に似てゐる。

 すばやく頭上を舞ひ翔りながら、彼女は時々その花で私の髮に觸れた。

 私が女を捉へようと掛ると、その姿はいち早く窓の外へ翔り去つて、たちまち見えなくなつた。

 庭の紫于香花の繁みに、雉鳩の初音が彼女を迎へ、その消え去つたあたりには、乳色の曉天が靜かに紅らみはじめた。

 私は御身を知つてゐる、幻想の女神よ、御身はふと私を訪れて、たちまり若い詩人の許へと翔り去つたのだ。

 ああ、詩よ、靑春よ、また女性の、處女の美よ。御身はなほ時の間を私の前にきらめく。

 早春の朝明けの一とき。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:太字「そよ」は底本では傍点「ヽ」。第六段落の「蕾に似た淡い小さな頭」は底本では「蕾に似た淡小さな頭」となっていて読めないので、「さ。」の脱字と断じて特異的に、恣意的に、かく、した。大方の御叱正を受ける覚悟はあるが、中山省三郎譯「散文詩」では、

   *

彼女はすつかり灰色で、眞珠のやうな色をしてゐた。ただ翼の内側ばかりが、咲きそめた薔薇の葩(はな)のやはらかな紅を帶てゐた。鈴蘭の花冕(かむり)は、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

となっており、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」(この多くの詩篇は本神西訳を元に池田氏が訳し直したものである)では、

   *

 その全身は白っぽく、眞珠いろに輝いている。ただ翼の内側にのみ、ほころびかけた薔薇の蕾に似た淡い紅がさす。すずらんに鈴蘭の花冠が、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

となっているから、神西もここで文を切ったとほぼ確実に推定されるからである。

 以下、訳者註。

帝笏草 Verbascum thapus の露名 Taraslij zhezl を直譯したもの。

 

「觸鬚」「しよくしゆ(しょくしゅ)」と音読みしておく。触角のこと。

「剽輕」(へうきん(ひょうきん))の「キン」は唐音。気軽で、おどけた感じのすること。また、そのさま。

「翔る」「かける」。

「兩眼の晶光は粉々に碎け散る」「晶光」は英語の“brilliant light”(美しく煌(きら)めく光)の意であろうが、こんな熟語は今時、使わない。全体に訳が如何にも生硬で意味が採りにくい。中山では、この前後は、

   *

 氣儘に飛んで、戲れるので、彼女の眼は金剛石のやうに輝いた。

   *

で、池田氏の改訳でも、

   *

楽しげな、気ままな、すばやい飛翔(ひしょう)につれて、ダイヤとまごう両眼の光が、そこかしこに飛び散る。

   *

となっている。

「帝笏草」「ていしやくさう(ていしゃくそう)」と読んでおく。この原文は“царским жезлом”で、“царским”は「ツアーリの」で、“жезл”は権力や職権を表わす笏杖(しゃくじょう)のこと。この Verbascum thapus とはシソ目ゴマノハグサ科モウズイカ(毛蕋花)属ビロードモウズイカの学名。名称はこの植物の毛深さに由来する(以下のリンク先の写真を参照)。ウィキの「ビロードモウズイカによれば、『ヨーロッパおよび北アフリカとアジアに原産するゴマノハグサ科モウズイカ属の植物である。アメリカとオーストラリア、日本にも帰化している』とあり、『この植物の大きさや形を元にした名前として、"Shepherd's Club(s) (or Staff)"(羊飼いの棍棒(または杖))』や『"Aaron's Rod"(アロンの杖)(これは、例えばセイタカアワダチソウのような、背の高い花穂に黄色い花を群がり付ける他の植物に対しても使われる))そして、他にも「何何の杖」は枚挙に暇がないくらい』多数あるとする。因みに、『日本では「アイヌタバコ」「ニワタバコ」などの異名がある』と記す。グーグル画像検索「Verbascum thapusを添えておく。皇帝の笏杖の意が何となく判る。

「紫丁香花」ムラサキハシドイ。モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラックSyringa vulgarisの標準和名。花言葉には青春の思い出・純潔・初恋等があり、確信犯の描写であろう。

「雉鳩」我々が普通に見かけるヤマバト、ハト目ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis であるが、中山では「數珠掛鳩」(じゅずかけばと)と訳されている。こちらは同属の別種で、白色のものが手品等でお馴染みの、ハト目ハト科ジュズカケバトStreptopelia roseogrisea var. domestica となる。原文を見ると、“горлинка”で、これはキジバト属を指す。]

老媼茶話巻之三 會津諏訪の朱の盤

 

     會津諏訪(すは)の朱(しゆ)の盤(ばん)

 

 奧州會津諏訪の宮(みや)、「首(しゆ)の盤(ばん)」といふ、おそろしき化物、有ける。

 或夕暮、年の頃、廿五、六成る(なる)若侍、壱人、諏訪の前を通りけるに、常々、化物有(ある)よし聞及(ききおよ)び、心すごく思ひける折(をり)、又、廿六、七成る若侍、來(きた)る。『能(よき)つれ』と思ひ、ともないて、道すがら、語りけるは、

「此處には朱の盤とて、隱れなき化物有る由。其方も聞及び給ふか。」

と尋ぬれば、跡より來若侍、

「其化物は加樣(かやう)のものか。」

と俄(にはか)に、おもて、替り、眼(まなこ)は皿の如くにて、額に角壱付(つき)、顏は朱(しゆ)のごとく、頭の髮は針のごとく、口、耳の脇迄きれ、齒たゝきをしける音、いかづちのごとく、侍、是を見て、氣を失ひ、半時(はんとき)斗(ばかり)息絶(たえ)けるが、暫(しばし)有(あり)て、氣付(きづき)てあたりをみれば、諏訪の前也。

 夫(それ)より漸(やうやう)步みて、ある家に入(いり)、水を一口、所望しければ、女房、立出(たちいで)、

「何にて、水を乞(こひ)玉ふぞ。」

と聞(きき)ければ、侍、朱の盤に逢(あひ)たる物語をしければ、女房、聞(きき)て、

「扨々(さてさて)、おそろしき事に逢ひ給ふもの哉(かな)。朱の盤とは、かやうのものか。」

といふをみれば、又、右のごとく成る顏となりて見せければ、かれ、又、氣を失ひけるが、漸(やうやう)氣付(きづき)、其後(そののち)、百日めに相果(あひはて)けるとなり。

 

[やぶちゃん注:三坂が前話「下長姥」末尾で誤ったのはこちらで、本書に先行すること六十五年前の「諸國百物語」(延宝五(一六七七)年四月刊。前話冒頭注参照)の「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」をほぼ完全に引いたもの。表記字の相違を除けば、形容など細部まで一致する。有意に相違する箇所は最後で、本篇では主人公が怪異に遇って三日で頓死しているのに対し、本話では「百日め」とする点のみであると言ってよかろう。言わずもがな乍ら、この「脅し」のコンセプトは小泉八雲の「怪談」の「むじな」(現在、八雲は明治二七(一八九四)年刊の御山苔松談・町田宗七編「百物語」の「第三十三席」を元としたと考えられている)の展開と酷似している(原話では化かしたのは獺(かわうそ)であることや、本篇は結末で主人公が死ぬというネガティヴさで大いに異なる)。この手の反復して脅かされる妖怪譚は他の「一つ目小僧」などにも多く見られるパターンであるが、このルーツは恐らく、晋の干宝の怪異譚集「搜神記」の「卷十六」に載る「琵琶鬼」辺りまで遡れる。リンク先の私の注で「琵琶鬼」を引いておいたので参照されたい。前話の脇役妖怪が主役となる変わった連関で書かれてある。なお、私の柴田宵曲 妖異博物館 「再度の怪」も参照されたい。そこでは八雲が素材とした上記の話も電子化してある。

「首の番」後で「朱盤」と書き換えている。様態から判る通り、「盤」が「器のように丸いもの」の謂いで、「頭の形」や「皿のような眼」の謂いと思われ、そうすると、真っ赤な円盤状の顏ということになし、口と耳は描写されてあるものの、二つの眼と言っていないことから、眼は一つか、或いは、全くないのかもしれない。前者なら、一つ目小僧の「口裂け女」真っ赤版とも言えよう。なお、前の姥」の「諏訪の朱(しゆ)の盤坊(ばんばう)」の注も参照されたい。

「會津須波(あいづすは)の宮(みや)」現在の福島県会津若松市本町にある会津大鎮守六社の一つである諏方(すわ)神社であろう。鶴ヶ城の西北一キロ弱の位置にあり、創建は永仁二(一二九四)年、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)。(グーグル・マップ・データ)。

「ともないて」ママ。「伴ひて」。

「齒たゝきをしけるをとは」「齒叩きをしける音は」。上下の歯を嚙み鳴らす、その音は。

「半時(はんとき)」現在の一時間相当。なお、「諸國百物語」では「はんじ」と読んでいる。]

老媼茶話巻之三 舌長姥

 

     舌長姥(したながうば)

 

[やぶちゃん注:文章に不備があるので最初に言っておくと、冒頭に出る「越後より武藏登りける旅人」というのは、仲間か、ただ途中で道連れになった者かは判らぬが(展開から見て後者で採った方が自然である)、二人連れであるので注意されたい。]

 

 越後より武藏登りける旅人、蘆野原(あしのはら)海道に懸り、諏訪千本(すはせんぼん)の松原に日暮(ひぐれ)て、道に迷ひ、はるかに火の影を見て、漸(やうやう)、たどり着(つき)たるに、壱つのあばらや、軒、かたぶき、壁、崩(くずれ)たるに、七十斗(ばかり)の姥(うば)、いろりのはたに、苧(そ)を、うみ居(ゐ)たり。

 戸をたゝき、

「是は、越後より江戸へ趣く者なるが、不知案内(ふちあんない)にて道を失ひ候。夜明まで、宿を、かし給へ。」

といふ。

 姥、立(たち)て、戸をひらき、

「爰(ここ)は、人(ひと)宿(やど)する處にはなけれども、道に迷ひ玉ふといへば、宿かし候半(さふらはん)。」

とて、内へ入

 時、秋にして、落葉、れうれうとして淋敷(さびしき)に、落葉を焚(たき)て茶を煎(いれ)、旅人を、もてなす。

 壱人の男、旅草臥(たびくたぶれ)にや、正體もなく眠(ねぶ)

 壱人は、寢もやらず、はしらにもたれ居たるに、かの姥、折節、目を大きにひらき、口をあき、五尺斗(ばかり)の舌を出(いだ)し、首を、のべ、かの、ねぶれるたび人のあたまを、ねぶる。

 殘りの男、是を見て、氣味惡敷(あしく)、咳ばらひすれば、さりげなきふりにて、苧を、うむ。

 時に、窓より、内をのぞく者ありて曰(いはく)、

「舌長姥、舌長姥、何とて、はかを、やらぬぞ。」

と云。

 姥、

「誰(た)そ。」

といへば、

「諏訪の朱(しゆ)の盤坊(ばんばう)也。手傳ふべきか。」

と云(いひ)て、戸を破り、内へ入

 旅人、是を見るに、面(おもて)の長き事、六尺斗(ばかり)、色、赤くして、朱のごとし。

 旅人、刀を拔(ぬき)て、

「礑(はた)。」

と打(うつ)。

 切れて、坊主は失(うせ)たり。

 姥は、ねむれる男を引(ひつ)さげて、表出ると思へば、今迄、ありし庵(いほり)も跡なく消(きえ)て、荒々(かうかう)たる野原と成(なる)。

 旅人は、せん方なく、大木の根に腰を懸(かけ)、夜を明(あか)し、日、出(いで)て、そこらを見𢌞るに、はるか遠き草村に、先の旅人は、あたまより惣身(さうしん)の肉、皆、ねぶり喰(くは)れ、骸骨ばかり、殘りたり。

 夫(それ)より、旅人は壱人、白川の城下へたどり行(ゆき)、かく語りける、といへり。

 延寶五年卯月下旬出來せし板行本「諸國百物語」といふ五册ものに、あり。

 

[やぶちゃん注:この記載には、三坂の勘違いがある。私は既に三坂が最後に述べている「諸國百物語」(第四代将軍徳川家綱の治世の延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものは皆無であるから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言える。但し、著者・編者ともに不詳で、その「序」によれば、信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が、旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)の全電子化注を終えている(独立したブログ・カテゴリ「諸國百物語 附やぶちゃん注」)が、それにはこの話は載らないからである(載るのは、次の「會津諏訪の朱の盤」で、「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」がそれである)。

「舌長姥」本文に出る通りの、異様に長い舌を持つ人を喰らう鬼婆に酷似した妖怪。泉鏡花の「天守物語」にも、朱の盤とともに重要なバイ・プレーヤーとして登場し(明らかに本篇を元にしてキャラクタリングされたものと思われる)、そこでは前話の猪苗代の亀姫の侍女然として、ここに出る妖怪朱の盤とともに姫路城の天守夫人富姫(=長壁姫)を訪問する亀姫の従者として『古びて黃ばめる練衣(ねりぎぬ)、褪せたる紅(あか)の袴』(ト書き)という衣装で登場し、朱の盤が手土産に持参した男の生首から血が零れ出たのを富姫に進上する際、『こぼれた羹(あつもの)は、埃溜(はきだめ)の汁でござるわの、お鹽梅(あんばい)には寄りませぬ。汚穢(むさ)や、見た目に、汚穢や。どれどれ掃除して參らせうぞ。(紅の袴にて膝行(いざ)り出で、桶を皺手(しわで)に犇(ひし)と壓へ、白髮(しらが)を、ざつと捌(さば)き、染めたる齒を角(けた)に開け、三尺ばかりの長き舌にて生首の顔の血をなめる)汚穢や、(ぺろぺろ)汚穢やの。(ぺろぺろ)汚穢やの、汚穢やの、ああ、甘味(うま)やの、汚穢やの、あゝ、汚穢いぞの、やれ、甘味いぞなう。』と強烈なシーンを描き、それに朱の盤が、『(慌あわただしく遮る)やあ、姥(ばあ)さん、齒を當てまい、御馳走が減りはせぬか。』と咎めると、『何(なん)のいの。(ぐつたりと衣紋(えもんを抜く)取る年の可恐(おそろ)しさ、近頃は齒が惡うて、人間の首や、澤庵の尻尾はの、かくやにせねば咽喉(のど)へは通らぬ。其のまゝの形では、金花糖(きんくわたう)の鯛でさへ、橫嚙(よこかじ)りにはならぬ事よ』と言わせている(引用は岩波の全集を用いた)。

「蘆野原(あしのはら)海道」新潟から猪苗代を経て、郡山から南下し、白河(本文の「白川」)を抜けた先の、現在の栃木県那須郡那須町芦野(ここ(グーグル・マップ・データ))を通って江戸へ向かう、奥州街道の一部かと思われる。

「諏訪千本(すはせんぼん)の松原」不詳。但し、上記の行程が正しいとし、次話「會津諏訪(あいづすは)の朱(しゆ)の盤(ばん)」の舞台である、「會津諏訪の宮」と同じと考えるなら、現在の福島県会津若松市本町にある会津大鎮守六社の一つである諏方(すわ)神社を比定は出来る。これはまさにの女怪亀姫の巣くう亀城(鶴ヶ城)の西北一キロ弱の位置にあり、ロケーションとしてもこの前後と一致するからである。前の「猪苗代の城化物」とはそうした舞台での強い連関がある。鏡花もそれを敏感に感じとって「天守物語」のキャラクターとしてこの「舌長姥」と「朱の盤」を配したのであった。

「苧(そ)を、うみ居(ゐ)たり」「苧(そ)を績(う)む」というのは、麻(あさ)や苧(からむし)の繊維を長く縒(よ)り合わせて糸にすることを指す。

「れうれうとして」「寥 寥として」いかにも、もの淋しい感じで。

「五尺」一メートル五十二センチメートル弱。

「何とて、はかを、やらぬぞ。」「はか」は「捗」で、仕事の進「捗」状況のそれである。従ってこれは「どうしてさっさとヤ(殺)っつちまわないんだい?!」という意味と私は採る。則ち、彼女の生業(なりわい)が専ら人を襲い喰らうことを「仕事」としており、何故か、ここではそれが即座に行われていないことを「朱の盤坊」が不審に思って、かく問うたのである。

「諏訪の朱(しゆ)の盤坊(ばんばう)」次話「會津諏訪の朱の盤」に登場。名称と描写から、巨大な円盤上の真っ赤な顔をした坊主風体(ふうてい)の妖怪であろう。ウィキの「朱の盆によれば、『一般的には朱の盤、首の番などと書かれ、いずれも「しゅのばん」と読み、本来の名称は「しゅのばん」である』とし、「諸国百物語」(延宝五(一六七七)年刊)では「首の番」、「老媼茶話」(寛保二(一七四二)年序)『では「朱の盤」と記されている。恐ろしい顔を見せて人を驚かせる妖怪で、この妖怪に会うと魂を抜かれるとされる』とし、本篇を『はじめとして、「しゅのばん」(朱の盤)あるいは「しゅばん」という名称が一般的である。また、細川幽斎による『源氏物語』への註の中に「朱ノ盤トイフ絵物語アリ」』『との記述があり、原本が散逸してしまい』、『内容は不明ながら』、『古い絵巻物作品に「しゅのばん」という名のものがあったらしいことが確認できる』とある。先に述べた通り、やはり鏡花は「天守物語」で彼も舌長姥とともに登場させているが、そこでは、(ト書き)「龜姫の供頭(ともがしら)、朱の盤坊、大山伏の扮裝(いでたち)、頭に犀(さい)の如き角(つの)一つあり、眼(まなこ)圓(つぶら)かに面(つら)の色朱(しゆ)よりも赤く、手と脚、瓜(うり)に似て靑し。白布(しろぬ)のにて蔽(おほ)うたる一個の小桶(こおけ)を小脇に、柱をめぐりて、内を覗き、女童(めのわらは)の戲るゝを視つゝ破顔して笑』ひ、女童らに『かちかちかちかち。』(台詞)と『齒を嚙鳴(かみな)らす音をさす。女童等、走り近づく時、面(つら)を差寄(さしよ)せ、大口開(あ)く』(ト書き)とその姿を描写している。これも本書の次話に基づくものであるが、流石に鏡花、上手い! 但し、本書の次話に登場するそれは、実はお馴染みのある妖怪の脅し方と酷似している。それはそれ、この後の電子化するそちらでのお楽しみ……

「六尺斗(ばかり)」一メートル八十二センチほど。]

昨日は

町内会業務の市民運動会にて更新なし。

2017/10/07

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) しきゐ


Sikii

   しきゐ

 

        ――夢

 

 大きな家が見える。

 正面の壁には、狹い扉口(とぐち)が開け放しになつてゐて、中には陰氣な霧が立ち罩めてゐる。高い敷居の前に、一人の娘が佇んでゐる。ロシヤ娘だ。

 扉の内の、見透しもつかない霧は、しんしんとして冷氣を送る、氷のやうなその流れにまじつて、陰に籠つた聲が、奧の方から、悠然とひびいてくる。

 「おお、お前はその敷居を越えようと言ふのか。その中に何が待つてゐるかを、お前は知つてゐるか。」

 「知つてをります」と娘が答へる。

 「寒さ、飢ゑ、慌しみ、嘲り、蔑すみ、汚辱、牢獄、病苦、そして死だぞ。」

 「知つて居ります。」

 「人からも世間からも離れて、たつた一人になるぞ。」

 「それも、覺悟して居(を)ります。どんな苦しみ、どんな打擲も忍びます。」

 「それも敵からばかりでは無いぞ。肉親の征矢(そや)、友の飛礫(つぶて)。」

 「それも承知してをります。」

 「よし。お前は犧牲なる覺悟だな。」

 「はい。」

 「名もない犧牲にか。お前は死ぬのだぞ。そして、假に崇めようにも何者の記念か、誰一人知る者はないのだぞ。」

 「感謝も同情も、欲しくはありません。私には名前も要りません。」

 「罪も犯す覺悟か。」

 娘はうなだれた――「罪も覺悟してをります。」

 問ふ聲はしばらくとだえた。

 「承知してゐるか」と、やがてその聲がたづれた、「いまに、お前の今の信念に、幻滅の苦(にが)さが來るかも知れぬぞ。あれは迷ひだつた、徒らに己れの靑春を滅したと、悔むことになるかも知れぬぞ。」

 「それも知つてをります。でも矢張(やつぱ)り、私ははいりたいのです。」

 「はいれ」

 娘は敷居をふみ超えた。すると重たげな幕(とばり)が、その後に下りた。

 「阿房め」と、誰やらが後(うしろ)で齒切りをした。

 「聖女だ」と、何處かでそれに答へる聲がした。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

『しきゐ』 『この一篇のモチーフとしては、直接には所謂『ヴェーラ・ザスーリチ事件』(彼女は一八五一年生れの女革命家で、警視總監トレホフが或る政治犯に笞刑を加へたのを憤つて一八七八年一月彼を射擊負傷せしめ、同三月の陪審裁判の結果無罪となつた――)、間接には七七年に起つた種々の政治犯事件に女性の参加が頗る顕著であつた事實などであらうと推定される。從つてこの一篇が公に發表される迄には長い曲折の歷史がある。一八八二年夏トゥルゲーネフが、『ヨーロツパ報知』の編輯者宛に發送した原稿の中では加はつてゐたのだが、その後校正の際に彼は自發的に撤怪しようとし、スタシュレーヴイチに向つて再三撤囘方を要請した末、發表された五十篇は、これを除き新たに『処生訓』を加へたものであつた。越えて八三年九月、卽ち彼の死の直後に、當時の急進派であつた『民意黨』は、この詩に宣言書を附して祕密出版し、彼の埋葬の日にペテルブルグに撒布した。この詩が漸く合法的に日の目を見たのは一九〇五年のことに屬する。なほこの一篇は久しく一八八一年前半の所作と誤認されてゐたもので、在來の刊本は孰れもこれを末尾『祈り』の眞前に置いてゐる。また逢遇した數奇な運命の間に、これは尠からぬヴアリアントを有するに至つたが、アカデミヤ版の編者の言葉によれば、この譯のテキストとした形が、作者の最後の意志に適ふものと思はれる。

なお、本篇には改訳きいがある。そちらも参照されたい。


「立ち罩めて」「たちこめて」。
 
「齒切り」「はぎしり」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 最後の會見


Saigono

   最後の會見

 

 嘗て私たちは親友であつた。けれども凶つ日が來て、二人は敵として袂を別つた。

 長い年月が經りた。圖らずも私は彼の住む町に來て、その病の篤いこと、私に會ひたがつてゐることを知つた。

 私は見舞ひに行つて、彼の部屋に通つた。二人の眼は合はさつた。

 これが昔の友であらうか。永年の病ひに見る影もなく寠れたこの男が。……

 眞黃な顏の色、寠れ窩んだ頰、隈もなく禿上つた頭、それに白い髯も殘り乏しく、わざと引裂いた簡衣(ルバーハ)一枚で坐つてゐる。一番輕い衣服の重みにも堪へないのだ。まるで骨までしやぶり盡したやうな手をぐいと差伸べ、全く聽きとれぬ數語を精一ぱいに囁いた。挨拶か叱責か、それさへも分らぬ。ただ、衰へた胸板が漸く高まり、わづかに燃え立つた兩眼の萎(な)え果てた瞳孔に、身を搾るやうな辛い淚が二しづくだけ浮んだ。

 私の胸は鹹(しほから)さで一杯になつた。すぐ傍の椅子に腰掛け、餘りの慘憺たる友の姿に吾にもあらず眼を伏せながら、私も手を差伸べた。

 けれど私には、握つたのが友の手だとは思へなかつた。

 脊の高い白衣の女が、音もなく二人の間に坐つてゐるやうな氣がした。長い衣が女の爪先から頭の先まで蔽ひ隱してゐる。その落窩んだ灰色の眼は虛無に見入り、蒼ざめた唇は冷やかに結ばれて、一語も發しない。

 この女が私たちの手を繫がせ、この女が私達を永遠に和解させたのだ。

 さう、死が二人を和解させたのだ。

             一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:この挿絵は最後のクレジットは底本では最終行の下方に配されているが、これは最終行で、クレジットのみが改ページされることを嫌った出版社側の仕儀と採って、今まで同様、改行した。また、ここの挿絵は中山省三郎譯「散文詩」のものであるが、理由は不明ながら、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない以下、訳者註。

『最後の會見』 ここに物語られてゐる昔の親友とは、有名な平民詩人ネクラーソフ(N.A.Nekrasov, 1821―77)である。彼は、トゥルゲーネフの作品の永年の發表機關であつた雜誌『同時代人』の主幹で、一八六〇年同誌に掲げられた『その前夜』評(ドブロリユボフの手になる)に對するトゥルゲーネフの誤解、次いで同六二年の『父と子事件』などを動機として、彼と袂を別つに至つた。二人の最後の會見は、一八七七年五月トゥルゲーネフがパリからぺテルブルグを訪れた際に、雙方の友人たちの斡旋により成立したもの、會見の席にあったネクラーソフ夫人の回想記は、この情景を別の方角から見たものとして興味がある。――「死の間際になつて、二人はめぐり會ふ運命だつたのです。トゥルゲーネフは、ふたりの共通の友人の口から、夫が不治の病の床にある由を聞き、和解のため訪問を望みました。けれども夫は大層衰弱してゐましたので、すぐ會つて貰ふ譯には參らず、私がそのお膳立の役に𢌞りました。トゥルゲーネフはもう來て、前房で待つて居りました。で私は夫に向いひ『トゥルゲーネフさんがお會ひしたいさうですが』と申しますと、夫は悲痛な笑ひ方をして、『勝手にさせるがいい。俺がどんな態[やぶちゃん注:「ざま」。]になったか、見たいのだらう』と答へました。そこで私は夫にガウンを着せ、肩を貸して寢室から食堂に連れ出しました。夫は食卓に就いて、流動物しか攝れないものですから、ビフテキの汁を啜りましたが、その姿は蒼ざめ瘦せ衰へて、見ろも恐ろしい位でした。私は窓の外を眺め、そこへ丁度トゥルゲーネフが見えた振りをして申しました、『さあ、トゥルゲーネフさんが見えました』暫くすると、トゥルゲーネフはシルクハツトを手に、背の高い身體を意氣揚々とそらせながら、丁度前房に隣つて[やぶちゃん注:「隣合」の脱字であろう。]ゐました食堂の扉口に姿を現しました。夫の姿を見ると、さすがにハツとしたらしく身を硬張らせました。一方夫の顏はと見ると、苦しさうな痙攣が掠めて過ぎました。言ひ樣のない心の激動に抗ふ力がもう無かつたものと見えます。……とても話をする力はないといふ意味を申したいらしく、瘦せ細つた手を上げて、トゥルゲーネフの方へ別れの身振りをしました。……トゥルゲーネフの顏も、矢張り激しい感動に歪んで居りましたが、無言で夫の方へ祝福の十字を切ると、そのまま扉口を出て行きました。この會見の間、一言も二人の口を漏れませんでしたが、お互に心の中ではどれほどの思ひでしたらう。……」

 

「凶つ」「まがつ」。災厄の。

「寠れた」「やつれた」。

「窩んだ」「くぼんだ」。]

老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物

 

老媼茶話卷之三 

 

    猪苗代の城化物

 

 加藤左馬助義明、同式部少輔明成御父子の節、猪苗代御城代堀部主膳、相(あひ)つとむ。祿壱萬石。寬永十七年十二月、主膳、只壱人、座敷に有ける折、いつくともなく、禿(かむろ)來りて、

「汝、久敷(ひさしく)此城に有といへ共、今に此城主に御目見をなさず。いそぎ、身をきよめ、上下(かみしも)を着(ちやく)し、來るべし。今日、御城主、御禮請(おんれいうけ)させらるべし、との上意也。敬(いやまひ)て御目見へ可仕(つかまつるべし)。」

と云。

 主膳、聞(きき)て、禿を白眼(にらみ)、

「此城主は主人明成、當城代は主膳也。此外に城主あるべき樣なし。につくき、やつめ。」

と、禿を、しかる。

 禿、笑(わらひ)て、

「姬路のおさかべ姬と、猪苗代の龜姬をしらざるや。汝、今、天運、すでに盡果(つきは)て、又、天運のあらたまる時を知らず。猥(みだり)に過言(くわごん)を咄出(はなしいださ)ず。汝が命數も、すでに盡たり。」

と云て、消失(きえうせ)たり。

 明(あく)る春正月元朝(がんてう)、主膳、諸士の拜禮を請(うけ)んとて、上下を着し、廣間へ出(いで)ければ、廣間の上段に、新敷(あたらしき)棺桶をそなへ、其側(そば)に葬禮の具、揃置(そろへおき)たり。

 又、其夕べ、いづく共知れず、大勢のけはいにて、餅をつく音、せり。

 正月十八日、主膳、雪隱より煩付(わづらひつき)、廿日の曉(あかつき)、死たり。

 其年の夏、柴崎又左衞門といふ者、三本杉の淸水の側にて、七尺斗(ばかり)なる眞黑(まつくろ)の大入道、水をくむを見て、刀を拔(ぬき)、飛懸(とびかか)り切付(きりつけ)しに、大入道、忽(たちまち)、行衞なく成(なり)たり。久しく程過(すぎ)て、八森に、大きなる古むじなの死骸の、くされて有りしを、猪苗代木地(きぢ)小屋のもの、見付たり。

 夫(それ)より、絕(たえ)て何のあやしき事、なかりし、といへり。

 

[やぶちゃん注:「猪苗代の城」現在の福島県耶麻郡猪苗代町古城町に城跡が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。別名を亀ヶ城と呼ぶが、これは猪苗代城の北西の丘陵にある戦国時代の鶴峰城(城跡遺構が残り、史料から中世に猪苗代城を本拠地とした猪苗代氏の隠居城と推定されている。猪苗代城が近世城郭として残ったのに対し、猪苗代氏が去った後に廃城となっている)との対称と考えられる。参照したウィキの「猪苗代城」によれば、本『城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていた』とある。

「加藤左馬助義明」(よしあき/よしあきら 永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)は豊臣秀吉に仕えた賤ヶ岳本槍の一人で、九州征伐・小田原征伐・文禄の役・慶長の役に従軍したが、関ヶ原の戦いでは東軍につき、松山、後、会津藩初代領主となった。彼が会津藩主となったのは寛永四(一六二七)年で、本拠は若松城であった。

「同式部少輔明成」(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は加藤嘉明の長男で会津藩第二代藩主。父の死後、家督と会津藩四十万石の所領を相続した。慶長一六(一六一一)年の会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って、近世会津の基礎を築いたが、堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて改易された(寛永二〇(一六四三)年五月)。その後、長男明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居している(ウィキの「加藤明成」に拠った)。

「御父子の節」この謂いから、堀部主膳は寛永四(一六二七)年の時点で既に義明の家臣であったと考えてよい。

「堀部主膳」この怪奇談以外では不詳。

「寛永十七年十二月」同年旧暦十二月一日はグレゴリオ暦では既に一六四一年一月十二日である。

「禿(かむろ)」中世までは「かぶろ」。元は子供の髪形の一つで、髪の末を切り揃えて結ばないものであるが、その髪形をしている子供をも指した。

「敬(いやまひ)て」私の推定訓。礼儀を尽くして。

「白眼(にらみ)」底本の訓を用いた。

「姬路のおさかべ姬」姫路城の天守に巣食っているとされた女怪「長壁姫」。「小刑部姫」「刑部姫」「小坂部姫」などとも書く。ウィキの「長壁姫」によれば、年に一度だけ『城主と会い、城の運命を告げていたと言う。松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っているためとあり』、『江戸時代の怪談集『諸国百物語』』(私の電子化注「諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事」を参照されたい)『によれば、天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田三左衛門輝政の病気平癒のため、加持祈禱をしていた比叡山の阿闍梨の前に、三十歳ほどの妖しい女が現われ、退散を命じた。逆に阿闍梨が叱咤するや、身の丈』二丈(約六メートル)』『もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えたという』。『長壁姫の正体は一般には老いたキツネとされるが』、『井上内親王が息子である他戸親王との間に産んだ不義の子』、『伏見天皇が寵愛した女房の霊』、『姫路城のある姫山の神などの説もある』。『姫路城が建つ姫山には「刑部(おさかべ)大神」などの神社があった(豊臣秀吉は築城にあたり刑部大神の社を町外れに移した)。この神社が「おさかべ」の名の由来である』。『初期の伝説や創作では、「城ばけ物」』(「諸国百物語」延宝五(一六七七)年刊)『などと呼ばれ』、『名は定まっていなかった』。『この社の祭神が具体的に誰であったかは諸説あり』、『不明だが、やがて、城の神であり、城主の行いによっては祟ると考えられた。これに関しては次のような事件がある。関ヶ原の戦い後に新城主となった池田輝政は城を大規模に改修したのだが』、慶長一三(一六〇八)年に『新天守閣が完成するころ、さまざまな怪異が起こり』慶長十六年には、『ついに輝政が病に臥してしまった。これが刑部大神の祟りだという噂が流れたため、池田家は城内に刑部神社を建立し刑部大神を遷座した』。『この刑部明神が多くの誤伝を生み、稲荷神と習合するなどして、天守閣に住むキツネの妖怪という伝承が生まれたとする説もある』。『民俗学研究所による『綜合日本民俗語彙』では、姫路から備前にかけての地域ではヘビがサカフと呼ばれることから、長壁姫を蛇神とする説が唱えられている』。先の「諸国百物語」では『性別もはっきり決まっていなかった(男女含むさまざまな姿で現れた)が、やがて女性と考えられるようになった。これには「姫路」からの連想があったと考えられる』。また、「諸国百物語」から六十五年後の本「老媼茶話」(寛保二(一七四二)年序)では『猪苗代城の妖姫「亀姫」と同種の化け物として併記され』、かの泉鏡花の名戯曲「天守物語」では義理の姉妹という設定となっている。『前橋市での伝承では』、寛延二(一七四九)年に『姫路藩より前橋藩へ転封した松平朝矩は、姫路城から長壁神社を奉遷し、前橋城の守護神とすべく』、『城内未申の方角(裏鬼門)に建立した。大水害で城が破壊され』、『川越城への移転が決まったところ、朝矩の夢枕に長壁姫が現れ、川越へ神社も移転するように願ったという。しかし朝矩は、水害から城を守れなかったと長壁姫を詰問し、長壁神社をそのままに川越へ移った。その直後に朝矩が若死にしたのは長壁姫の祟りといわれる。前橋では現在、前橋東照宮に長壁姫が合祀されている』。『鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では「長壁(おさかべ)」とされ、コウモリを従えた老姫の姿で描かれている。一方で』、後に電子化する本「老媼茶話」の巻の五の「播州姫路城」では『十二単を着た気高い女性とされ、小姓の森田図書が肝試しで天守閣に駆け登ったところで長壁姫と出会い、「何をしに来た」と訊ねられて「肝試しです」と答えると、その度胸と率直さに感心した長壁姫は肝試しの証拠品として錣(しころ:兜につけて首元を守る防具)をくれたという』とある(下線やぶちゃん)。『井原西鶴による『西鶴諸国ばなし』では、長壁姫は』八百『匹の眷属を操り、自在に人の心を読みすかし、人の心をもてあそんだと、妖怪として人間離れした記述が為されている』。』『北尾政美による黄表紙『夭怪着到牒』にも「刑部姫」の表記で登場しており、同書では刑部姫の顔を見た者は即座に命を失うとある』。明治一八(一八八五)年『頃に刊行された宮本武蔵の実録物『今古實録
増補英雄美談』によれば、宮本武蔵は武者修行の旅の途上で、「宮本七之介」の名で足軽として姫路城主の木下勝俊に仕えていた。その頃、小刑部大明神を祀っていた姫路城の天守閣では、怪異が相次いでいた。誰もが恐れる天守閣の夜番を無事に乗り切ったことで正体が発覚した武蔵に、城主は改めて天守の怪異の調伏を頼まれる。武蔵は灯りを手に天守閣の五重目へとあがり、明け方まで過ごしていると、小刑部大明神の神霊を名乗る女性が現れた。女性はここに巣食っていた齢数百年の古狐が武蔵に恐れをなして逃げ出したと告げ、武蔵に褒美として銘刀・郷義弘を授けた。だが、これは女性に化けた狐の罠だった。郷義弘は、豊臣秀吉から拝領した木下家の家宝であり、狐は武蔵に罪を着せて城から追い出そうとしたのである。狐の目論みはうまくいかず、武蔵は罪に問われなかった。狐はその後、中山金吾という少年に化けて武蔵に弟子入りしたところを、見破られて退治される』。『この逸話は長壁姫と結び付けられ、前述の『老媼茶話』をもとにした話といわれている』『講釈師・小金井蘆洲(三代目)による講演の口述筆記という形で』、大正四(一九一五)年『の大阪毎日新聞に連載された「宮本武蔵」にも、『今古實録増補英雄美談』とほぼ同じ筋立ての狐退治のエピソードがある。こちらでは、武蔵が名乗った偽名は「滝本又三郎」となっている』。『姫路市の地元では、武蔵の狐退治の逸話が昔話という形で広まっているが、郷義弘が盗品であったなどの後段の部分が省かれ、美談で終わることが多い』とある。

「猪苗代の龜姬」この猪苗代城の女怪の、少なくとも刊本として知られた最初の記載は本「老媼茶話」の本篇が濫觴のようである。予言の言葉をこの禿が語り、消失するところ、後に長壁姫の妹と設定されることなどを考えると、実はこの亀姫の使いとして登場した禿自身が亀姫の変じたものであることは言を俟たない。但し、鏡花の「天守物語」で次条に語られる舌長姥(したながうば)とともに亀姫の御付きの女童(めのわらわ)として登場しており、明らかに別存在の女怪として描かれている。

「猥(みだり)に過言(くわごん)を咄出(はなしいださ)す」「はなしいださ」の読みは底本に従った。「ず」は底本では「す」であるが、打消と判定した。「いい加減なことを大袈裟に言い出したのではないぞ。」の意と採る。

「明(あく)る春正月元朝(がんてう)」寛永十八年一月一日はグレゴリオ暦一六四一年二月十日。

「正月十八日」グレゴリオ暦二月二十七日。

「雪隱より」便所で昏倒したのであろう。死までの時間が短いので重篤な脳出血などが疑われる。

「廿日」グレゴリオ暦三月一日。

「柴崎又左衞門」不詳。

「三本杉の淸水」現在の猪苗代城跡の冠木門を入って大手道を上る右手にある三本杉井戸であろう。

「七尺」二メートル十二センチメートル。

「八森」磐梯山山麓。現在、地名としては残っていない。幾つかの情報からこの中央付近かとも思われる(グーグル・マップ・データ)。

「古むじな」古狸。

「木地(きぢ)小屋」木地師の、恐らくは原木材を切り出す際の作業小屋。木地師は山中の木を切って、漆その他の塗料を加飾しない木地のままの器類を作ることを生業とした職人。木地挽(きじびき)或いはろくろを用いたことから轆轤師(ろくろし)とも呼ばれた。彼らは惟喬親王を祖神とする伝説を持つ。因みに、澁澤龍彦が死の直前まで次回作の素材としていたのが彼らだったことが遺稿ノートから知られている。

「夫(それ)より、絕(たえ)て何のあやしき事、なかりし、といへり」と言うが、当時の藩主加藤明成が会津騒動で改易されるのは二年後の寛永二〇(一六四三)年五月であることを考えると、これもまた、亀姫絡みの祟りともとれなくもない。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚰蜒(げじげじ)


Geji

げぢげぢ  入耳 蚨虶

      蜟※ 𧉀

      蛉蛩

蚰蜒

      【介知介知】

ユウ ヱン

[やぶちゃん注:「※」「虫」+「屯」。但し、東洋文庫がママ表記をして「本草綱目」に従って『蚳』と訂正注するので、訓読では、それに変えた。]

 

本綱蚰蜒墻屋爛草中最多狀如小蜈蚣而身圓不扁尾

後禿而無岐足多正黃色長寸餘死亦踡屈如環好脂油

香故入人耳及諸竅中用龍腦地龍硇砂單吹之或以香

物引之皆効

淮南子云菖蒲去蚤虱而來蛉窮蛉窮蚰蜒也【按窮蛩不同未審】

△按蚰蜒有毒如舐頭髮則毛脱昔以梶原景時比蚰蜒

 言動則入讒於耳爲害也

――――――――――――――――――――――

草鞋蟲 狀似蚰蜒而身扁亦能入人耳

 

 

げぢげぢ  入耳       蚨虶〔(ふう)〕

      蜟蚳〔(いくし)〕 𧉀蚭〔(ちじ)〕

      蛉蛩〔(れいきよう)〕

蚰蜒

      【「介知介知」。】

ユウ ヱン

 

「本綱」、蚰蜒、墻屋〔(しやうをく)〕・爛草〔(らさう)〕の中に最も多し。狀、小さき蜈蚣のごとくして、身、圓くして、扁〔(へん)〕ならず。尾の後〔(うしろ)〕、禿(は)げて岐(また)無し。足、多く、正黃色。長さ、寸餘。死すも亦、踡-屈(わだかま)りて環(わ)のごとく〔なれり〕。脂-油(あぶら)の香を好む。故に人の耳及び諸〔(もろもろ)の〕竅(あな)の中に入る。龍腦・地龍(みゝず)・硇砂〔(だうしや)〕を用ひて單〔(ひと)〕へに之れを吹く、或いは香〔(かう)〕の物を以つて之れを引く。皆、効あり。

「淮南子」に云はく、『菖蒲、蚤・虱を去れども、蛉窮〔(れいきゆう)〕を來〔(らい)〕す。』〔と〕。蛉窮は蚰蜒なり【按ずるに「窮」と「蛩」と〔は〕同からず。未だ審〔(つまびら)か)にせず〕。】。

△按ずるに、蚰蜒、毒、有り。如〔(も)〕し、頭髮を舐(ねぶ)れば、則ち、毛、脱(ぬ)ける。昔、梶原景時を以つて蚰蜒に比す。言ふこころは、動-則(やゝもす)れば、讒を耳に入れて害を爲せばなり。

――――――――――――――――――――――

草鞋蟲〔(わらぢむし)〕 狀、蚰蜒に似て、身、扁〔(ひら)〕たし。亦、能く人の耳に入る。

 

[やぶちゃん注:節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha のゲジ(通称「ゲジゲジ」)類。我々が見て忌避するそれは、ゲジ科ゲジ属ゲジ Thereuonema tuberculata(本邦に広く分布する、成虫体長が三センチメートル程度の小型種。体幹は、比較的、柔らかく、灰色の斑(まだら)を有する)、或いは、同科オオゲジ属オオゲジ Thereuopoda clunifera(本州南岸部以南に棲息する、体長七センチメートルにも達する大型種。足を広げていると、大人の掌に収まり切れないほどの大きさである。体は丈夫で、褐色で光沢がある。広く「咬まれると痛い」と言われるが、私はこれに咬まれた人を周囲に知らぬ。但し、ネット上で縦覧したところ一センチメートルほどのゲジに咬まれた(屋内であり、大きさから見ても前種であろう)という実例はあるにはあった(チクリとした痛みがあった以外には、腫れその他は生じなかったとある。彼らが積極的にヒトを攻撃することは、まず、ない。但し、彼らは広義のムカデの仲間であり、肉食性という共通性も持つので(後述)、咬毒にはムカデ毒と同一の成分が含まれている(但し、遙かに弱毒と推定される)と考えてよいから、万一、大型種に咬まれた場合はムカデに準じた処置を施すべきであるが、かなりレアな危険生物まで挙げている二〇〇三年学研刊の「学研の大図鑑」(以前にも述べたが、この本、ジャリ向けだと侮ってはいけない。何と言っても、総てにラテン語学名が附されているのである)の「危険・有毒生物」にはゲジは所収していない)。昼間は物陰や洞窟などに多数固まっていることがある)である(後述)(以上はウィキの「ゲジ」他を参考にしつつ、オリジナルに記載した)。なお、荒俣宏氏の「世界博物大図鑑 第一巻 蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「ゲジ」の項によれば、目名の『スクティゲロモルファはギリシア語の〈ナメシ皮の楯 skytos〉と〈蛇の抜け殻 gēras〉の合成で〈楯のような抜け殻をした〉の意味』とあり、和名「ゲジ」については、柳田國男の「蟷螂考」(決定稿は昭和二(一九二七)年九月『土のいろ』発表)の中で触れたものを要約されて、『おそらく修験者や祈禱師』、『魔術師を示す〈験者〉』(げんざ・ゃ)『という言葉に由来し』、『いやな奴』・『気味の悪い存在』、『という意味で使われたのであろう』、『と述べている』とされる。ウィキの「ゲジ」によれば(前の叙述と重複する部分も敢えて載せた)、ゲジ類は『構造的にはムカデと共通する部分が多いが、足や触角が長く、体は比較的短いので、見かけは随分異なっている。移動する際もムカデのように体をくねらせず、滑るように移動する。胴体は外見上は8節に見えるが、解剖学的には16節あり、歩肢の数は15対である。触角も歩脚も細長く、体長を優に超える。特に歩脚の先端の節が笞のように伸びる。この長い歩肢と複眼や背面の大きな気門などにより徘徊生活に特化している。オオムカデ』(唇脚亜綱オオムカデ目 Scolopendromorpha)『よりは、イシムカデ』(唇脚綱イシムカデ目イシムカデ科 Lithobiids)『の類に近い』。『幼体は節や足の数が少なく、脱皮によって節や足を増やしながら成長し、2年で成熟する。寿命は56年である』。『食性は肉食で、昆虫などを捕食する。ゴキブリやカマドウマなどの天敵である。走るのが速く、樹上での待ち伏せや、低空飛行してきた飛行中のガをジャンプして捕らえるほどの高い運動性を持つ。また他のムカデと異なり、昆虫と同じような1対の複眼に似た偽複眼を有し、高い視覚性を持つ』。『鳥等の天敵に襲われると足を自切する。切れた足は暫く動くので、天敵が気を取られている間に本体は逃げる。切れた足は次の脱皮で再生する』(私は、あのバラバラになった脚が、それでも蠢いているのが、何ともムズいと感ずる)。『ゲジは全世界に分布して』おり、『日本には、ゲジとオオゲジの2種の生息が確認されている』。『夜行性で、落ち葉・石の下・土中など虫の多い屋外の物陰に生息する。屋内でも侵入生物の多い倉庫内などに住み着くことがある』。『ムカデの近縁種であるが、ムカデと違って攻撃性は低く、積極的に人を刺咬することはない』。『噛まれたとしても毒は弱く、人体に影響するほどではないが、傷口から雑菌に感染する可能性があるので、消毒するなどの注意は必要である。これはゲジに限った話ではない』。『人間にとって基本的には無害な生物であり、ゴキブリなどの衛生害虫をはじめ様々な小昆虫を捕食する。害虫を捕食する虫であるという点では「益虫」である』。『しかし』、『その異様な外見や、意外なほど速く走り回る姿に嫌悪感を持つ人は多く、餌となる虫や快適な越冬場所などを求めて家屋に侵入してくることもある。このようなことから不快害虫の扱いを受けることもある』。『特に山間部などにある温泉宿や旅館等では、宿泊客が就寝中に姿を現』わ『し、苦情や駆除の要請を受けるケースもある』。『ムカデと同じく乾燥に弱いので、部屋を乾燥させておくこと』が肝要である、とある。

 ……私は実際に小学生の頃、大船の天神山の、防空壕跡と思われる、かなり大きな洞窟を友人らと探検した折り、天井に物凄い数のオオゲジがいて、皆で泡食って走り逃げ出たの思い出す……また、若い頃、アパート住まいしていた大船の岩瀬で、夏の夕刻、家賃を払いに大家の家に行ったところ、玄関の框にまさに掌を越えるサイズのそ奴がいた。僕が蒼くなって「アッツ!」と指差した瞬間、対応していた、その大家の美人の若い浴衣の奥方が、笑いながら、「あらあら」とスリッパで一撃、いとも簡単に叩き潰したのを忘れない……何となく、ぞっとしたのは……ゲジゲジの方ではなかったことは、言うまでもない……あのアパートでは、この超巨大ゲジゲジにはポットン便所の中でも顔を突き合わせて遭遇したりした……それ以外にも、既に書いたように、室内を音立てて走る巨大ムカデと格闘したり……道に無数に転がるヒキガエルを泥の塊りと見間違えて自転車で轢いて、その叫び声にこっちが驚いて、ヒキガエルの群れの中に顔面からスライディングしたこともあった……何せ、アパートの左右には、鎌倉市の「保存樹林」と「自然保護地域」という二本の指標が麗々しくそそり立っており、前の谷戸の奥の古びた屋敷の中には、栗の木林が生い茂り、沼さえあったのである(ある夏の午前三時、気温が異様に上昇した途端、その栗林で蝉が何十のシンバルを一斉に鳴らすように鳴き出して驚かされもした)……僕は時々、そのアパートの前に佇んで、谷戸の奥を眺めながら、『「アッシャー家の崩壊」……』(エドガー・アラン・ポーEdgar Allan Poe)作(The Fall of the House of Usher 1839年))と独り呟いたのを思い出す……

 

「墻屋〔(しやうをく)〕」垣根や家屋内。

「爛草〔(らさう)〕」腐った草本類。

「扁〔(へん)〕ならず」平たくない。

「尾の後〔(うしろ)〕、禿(は)げて岐(また)無し」ゲジの体幹の後部は有意には細くならず、截ち切れたように見えることを「禿げて」と言っているものと思われる。

「正黃色」本邦産二種は、概ね、黒褐色で、赤褐色を呈する個体もあるが、まっ黄色というのは、まず、見ない。但し、幼少個体は肌色をしている(私の家には常連である)。中国産の別種(「一寸餘」とするから、小型種)か。

「脂-油(あぶら)の香を好む。故に人の耳及び諸〔(もろもろ)の〕竅(あな)の中に入る」これを読むに、人体の皮脂に誘引されて、ヒトの耳や鼻・口・肛門(ここはちょっと入れないと思うけど)等に入り込む、というのであるが、ガが耳に入って狂乱状態になったという話は昔の同僚の奥方の実例を知っており、他にゴキブリのケースも読んだことがあるが、ゲジゲジの事例は私は知らない。但し、ムカデが耳や鼻腔に侵入するというケースはかなり知っており、「耳囊 卷之四 耳中へ蚿(むかで)入りし奇法の事」にも記されてあるから、ゲジゲジが侵入してもおかしくはない。その私の注でも紹介したが、数年前のネット上で、東南アジアのさる国の婦人が、かなり以前から鼻の違和感を覚えており、専門医に診てもらったところが、鼻腔内に数年(!)に亙って数センチのムカデが寄生しており、生きたムカデが彼女の鼻腔から目出度く摘出されたというショッキングなニュースをも読んだことがある。ゾワゾワ!

「龍腦」アオイ目フタバガキ科 Dryobalanops 属リュウノウジュ Dryobalanops aromaticaの樹幹の空隙から析出される強い芳香を持ったボルネオール(borneol)。ボルネオショウノウとも呼ばれる二環式モノテルペン。ウィキの「ボルネオール」によれば、『歴史的には紀元前後にインド人が、67世紀には中国人がマレー、スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。

「地龍(みゝず)」ルビと漢名から見てミミズのことと読めるが、東洋文庫訳では割注で『蔓草の一種』とするのは不審。漢方で「地龍(じりゅう)」というと、ミミズの腹を裂いて、体内の内容物を除いて乾燥した生薬であり、解熱・利尿薬として用いられる。

「硇砂〔(だうしや)〕」「磠砂」とも書き、「ろしや(ろしゃ)」とも読む。塩化アンモニウム(NH4Cl。アンモニアを塩酸で中和して得られる無色の結晶。苦みを帯びた辛みがあり、水によく溶ける。天然には火山の噴出物中などに存在し、肥料や乾電池製造・鍍金(メッキ)などに使用される)の古名。但し、「磠」の字音は「ロ」である。『字形の近似から「硇」に通用させたものか』と、小学館の「大辞泉」にはある。

「單〔(ひと)〕へに」ひたすら。

「之れを吹く」これを侵入した耳などに吹き入れる。

「香〔(かう)〕の物」香りの強い物質。

を以つて之れを引く。皆、効あり。

「蛉窮〔(れいきゆう)〕」これは中文サイトでは、特定の種を指すのではなく、「耳に入り込む虫」のことを指すように読める。或いは「淮南子」の「窮」は「竅」の誤りではなかろうか? 「蛉」は蜻蛉(とんぼ)以外に「青虫」も指し、蜻蛉を翅を持つ虫や這い蠢く類に拡大するなら、それが「竅」に入り込む属性を持つとするなら、私は納得出来るのであるが。

「來〔(らい)〕す」(逆に)呼び込む。

「按ずるに「窮」と「蛩」と〔は〕同からず。未だ審〔(つまびら)か)にせず〕」は項目冒頭で出すゲジの別名「蛉蛩」との対比の中で述べている部分である。「窮」には特定生物を意味する義はない。「蛩」は既に出た通り、ヤスデを意味する。

「如〔(も)〕し、頭髮を舐(ねぶ)れば、則ち、毛、脱(ぬ)ける」これは、一つは、ゲジゲジが自切したその長い脚を髪と誤認したのではないかという仮説を私は持つ。或いは、先にゲジの特異な截たれたような尾部を「禿(は)げて」いると表現したこととの関連性も感じないではない。一種の類感呪術的な誤認伝承である。

「梶原景時」(?~正治二(一二〇〇)年)は相模国鎌倉郡梶原郷(現在の鎌倉市梶原)が本領。桓武平氏鎌倉景清の子(一説には景長の子)。治承四(一一八〇)年の「石橋山の戦い」で大庭景親に属しながら、源頼朝の危機を救い、再起した頼朝に臣従した。寿永二(一一八三)年には頼朝の命を受けて(彼が頼朝に讒言した可能性が高い)、上総広常を誅殺した。その後、源義仲や平家を追討するため、西国を転戦、元暦元(一一八四)年には播磨・美作両国の惣追捕使に任ぜられて占領地の軍政に従事した。翌年の「屋島の戦い」の際には、「逆櫓」で知られる源義経と作戦上の問題で対立し、平家滅亡後、義経を頼朝に讒訴して失脚に至らせた。弁舌に巧みで、都ぶりの教養にも富んでいた景時は、頼朝から強い信任を受け、侍所所司として御家人統制に当たったが、その強引なやり口や厳しさから御家人たちの強い反感を買った。また、権勢欲も強く、和田義盛から侍所別当の職を借りたまま返さなかったことでその一端を知ることが出来る。正治元(一一九九)年、頼朝の死後に組織された宿老会議のメンバーとなったが、同年、結城朝光を源頼家に讒言したことから、有力御家人六十六名が連署した弾劾を受けて失脚、鎌倉から追放された。その後、甲斐の武田有義を擁して謀反を企てたとされて(必ずしも断定は出来ないが、彼が鎌倉を見限って朝廷方(朝廷は頼家の影時追放を大失策と批判しており、景時に同情的であった)に活路を見出そうと京を目指した(後述)ことは強く推定出来る)、同二年一月、上洛の途中、駿河国清見関付近で、在地の武士に襲撃され(これは鎌倉方の反景時勢力の最終謀略と考えてよい)、一族とともに敗死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」を参考にした)。彼の最期は私の北條九代記 梶原平三景時滅亡を読まれたい。

「蚰蜒に比す。言ふこころは、動-則(やゝもす)れば、讒を耳に入れて害を爲せばなり」彼が極悪人とされ、「げじげじ」の綽名を頂戴するのは、恐らく後世の時代物や浄瑠璃・歌舞伎などであろうが、この「耳に入る」説は何となく納得してしまう。別に、頼朝の信頼を笠に着て、何事も「御下知(げち・げぢ)、御下知」と威張り散らしたことに由来するという説、彼の「かげとき」の名から悪意を以って転訛したとする説もある。

「草鞋蟲〔(わらぢむし)〕」甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellio 属ワラジムシ Porcellio scaber、或いはワラジムシ亜目Oniscidea の多数の種を総称する呼び名。私は既に先行する䗪(おめむし)を本種に同定している。お馴染みの同類異種であるオカダンゴムシ科カダンゴムシ属オカダンゴムシ Armadillidium vulgare)との違いなど、詳しくはそちらを参照されたい。

「能く人の耳に入る」う~ん、地べたに寝て居れば、入らぬでもないだろうが、この事例も私は聞いたことはないなぁ。]

2017/10/06

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 度古(こうがいびる)


Kougaibiru

 

どこ   土蟲

度古

トウクウ

本綱此蟲無足如一條衣帶長四五寸大者一尺身扁似

韭葉背上有黃黒襉其頭如鏟子行處有白涎生濕地稍

觸卽斷常趁蚓掩之則蚓化爲水有毒雞食之輙死

△按度舌形似笄故俗名笄蛭【加宇加伊比留】蓋蛭之屬也

どこ   土蟲

度古

トウクウ

「本綱」、此の蟲、足、無し。一條の衣帶のごとし。長さ、四、五寸。大なる者、一尺。身、扁にして韭(にら)の葉に似る。背の上、黃黒の襉(ひだ)有り。其の頭、鏟子〔(じふのう)〕のごとし。行く處、白き涎(よだれ)有り。濕地に生ず。稍〔(やや)〕、觸るれば、卽ち、斷(きれ)る。常に蚓(みゝづ)を趁(を)ふ。之れを掩〔(おほ)〕へば、則ち、蚓、化して水と爲る。毒、有り。雞、之れを食へば、輙〔(すなは)〕ち、死す。

△按ずるに、度舌は、形、笄〔(かうがい)〕に似る。故に、俗、「笄蛭(かうがいひる)」と名づく【「加宇加伊比留」。】蓋し、蛭の屬なり。

[やぶちゃん注:扁形動物門 Platyhelminthes 渦虫(ウズムシ)綱Turbellaria 三岐腸(ウズムシ)目Tricladida 陸生三岐腸(コウガイビル)亜目 Terricola に属する種群。或いはコウガイビル科Bipaliidae コウガイビル属 Bipalium のコウガイビル類で、「本草綱目」の指示するのは、間違いなく、コウガイビル属オオミスジコウガイビル Bipalium nobile である。但し、本種は現代の外来種(中国南部原産。体長は50cmから1mと非常に大型で、背面が淡黄褐色でそこに縦に細く三本の線があり、腹面には二本の縦線を持つ。この背面の特徴が本文とよく一致する。本文のそれは体長が短く感じはするが、実際には身体長は異様に伸縮する生物であるから、私は特に気にしていない。本種は異様な長さから、奇怪未確認生物の烙印を押されて、しばしば話題に上ぼる)であるから、良安が言う場合のそれは、コウガイビル属クロイロコウガイビル Bipalium fuscatum あたりと思われる。ウィキの「コウガイビル」によれば、『往々にして数十cmを超える陸上動物で、外見的に扇形の頭を持つ。名前にヒルとあるが、環形動物に属するヒルとは異なる動物である』(下線やぶちゃん。以下、同じ。この部分は非常に大事なんですよ、良安先生!)。『コウガイビルは、陸上の湿ったところに生息する紐状の動物で、頭部は半月形である。「コウガイ」は、昔の女性の髪飾りである笄(こうがい)』(「髪かき」の意味で、中国では簪(かんざし)と同一であった。男子の笄は、小刀や短刀の鞘に差して、髪の乱れを整えるのに用いた。平安時代初期、女性に「笄始め」の儀式が定められ、後期には棒の形になったことが「類聚雑要抄」から知られる。室町時代には三味線の撥(ばち)の形になり、江戸時代に女子の結髪が盛んになると、棒状の笄を横に挿すようになり、後には反りのあるもの,頭の左右で抜き差しの出来るもの。耳掻きのついたものなどが生まれ、髪飾りの一つとして使用された。材質は象牙・鼈甲・木・竹・銀・ガラス・馬や鯨の骨など、多種に亙り、珍しいものでは鶴の脛骨製のものや、蒔絵を施した装飾的なものも製作された。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『に頭部の形を見立てたものである。環形動物のヒルに比べ』、『筋肉や神経系の発達が劣るため、運動はゆっくりとしており、ゆるゆると這うだけである。種数は日本に数種以上が生息しているとされるが、詳細は不明である。扁形動物門渦虫綱に属するものは』、渦虫(ウズムシ)綱多岐腸(ヒラムシ)目 Polycladida ヒラムシ類(海産。岩の表面などで棲息域とし、這って生活するが、一部には寄生種もいる。体は名前の通り、扁平で、表面は粘液で覆われている。頭部背面には触角のような突起を持つ種もいる)や生物の「再生」の授業でお馴染みのプラナリア(Planaria:英語:扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladida に属する種群の総称。Planaria は「平たい面」を意味するラテン語planariusに由来し、plain「平原」やplane「平面」と語源が共通である)など、その殆んどは『海産または淡水産であり、陸上生活のものはこの仲間以外にはほとんどない』。『コウガイビルは雌雄同体とされ、体の大きさは長さが10cmから30cm、場合によっては1mを越えるのに対し、幅は大きくても1cmを越えない。厚みは数mmであり、平たく細長い体をしている。体の端部のうち』、『扇形に広がっている方が頭部で、頭部には肉眼で見えない眼点が多数存在する。近縁のものには頭部が広がらないものもある。体の中央腹面に肛門を兼用する口がある。消化管は口から体の前後方向へと分岐しながら伸び、それぞれの先で袋状に終わる。表面は粘液に覆われ、触るとくっつく感じがしたり、体の一部がちぎれて』、『まとわり付く場合もある。自切に似た機能を持ち、たとえば』、『体を針で刺されて地面などに固定されると』、『即座に針によって空けられた穴を自ら拡大、解放して針による固定から逃れることができる。プラナリア同様に再生能力が高く、開いた穴や切られた部分は後日』、『再生する』。『陸棲ではあるが、ミミズやナメクジ以上に乾燥に弱いので、湿った土壌や石の下、朽ち木の中などにおり、夜間に湿った所を徘徊する。肉食であり、ミミズやナメクジ、カタツムリなどを捕食する。捕まえた獲物に体全体で巻きついて腹面の口から吻を伸ばし、肉を消化しつつ飲み込む』。『人間にとって身近な場所に棲んでいて、畑地の周辺で石をめくればとぐろを巻くような形で休んでいる個体を見つけることができる。また、オオミスジコウガイビルは都会地の公園などに出没する』とある。私は山歩きでしばしば見かけた。驚くほど、長かった。ある時はまさに真正のヒルに尾部から丸呑みされる様を、ある種の悲哀を感じながら、見入っていたことがあった。無論、そのコウガイビルは僕自身を感じさせたのである。

「度古(どこ)」私は勝手にこれは、形から「仏具(元は古代インドの武具)の独鈷(とっこ)とだろう」なんどと勝手に思っていたのであるが、安易に「度」を「獨」に音通させてはいけないようだし、そもそも孰れも尖った独鈷とコウガイビルに形は実は似てない(色はそこそこ)ことに気づいた。はたと困ったところが、恐るべきページを発見した。サイト「Gen-yu's Files」のDr. Masaharu Kawakatsu 氏の「本草書の中のコウガイビル」だッツ! この考証は凄い! 内容はリンク先をお読み戴くとして、結論から言うと、李時珍は「本草綱目」で『土蟲と土蠱は違う、蔵器のいう土蟲は本当は土蠱即ち度古( = コウガイビル) だ、と言ってるようです。これが正しいのかどうかは不明ですが、いずれにせよ、どうも本草拾遺がルーツで、その後いろいろ微妙に変化した情報が伝わっていったようです』とされている部分に注目した。則ち、「度古(どこ)」は元「土蠱(どこ)」だったという説である! この二つの熟語は現代中国語でも音がほぼ一致する。しかも「蠱」は咒(まじな)いに用いる特殊な虫類(中国本草で言う広義のそれ)である。異様に長い、異様な頭をした、針で刺しても抜け出る、バラバラにしても生きているそれは、まさに「蠱」術に相応しい蠱の「蟲」ではないか?! と、独り、膝を叩いたのであった。
 
「韭(にら)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ
Allium tuberosum。言わずもがな、あの食べる「にら」である。

「襉(ひだ)」襞(ひだ)。

「鏟子〔(じふのう)〕」私の当て訓。「十能(じゅうのう)」は炭火を入れて持ち運ぶ道具で、通常は金属製の容器に木の柄をつけたものを指すが、現在のスコップのような形のものもあった。ここはそれをイメージして貰いたいのである。実際、現代中国語でも「鏟子」(音写:チァンズゥ)は「シャベル」を指す。

「白き涎(よだれ)」体表全体にを覆っている粘液。冒頭注引用を参照。

「稍〔(やや)〕、觸るれば、卽ち、斷(きれ)る」ちょっと触れるだけで、たちまち、千切れてしまう。冒頭注引用を参照。

「蚓(みゝづ)」蚯蚓(みみず)。前の引用にある通り、彼らが好む捕食対象の一つ。

「趁(を)ふ」追い続ける。この漢字(音「チン」)は「前の人にぴったりとついて追うこと」を意味する。

「之れを掩〔(おほ)〕へば」蚯蚓に覆い被さると。

「毒、有り」コウガイビルの体液に毒性があるという話は、今のところ、聞かない。

「雞、之れを食へば、輙〔(すなは)〕ち、死す」同前。

「笄〔(かうがい)〕」冒頭注の太線下線部を参照のこと。

「笄蛭(かうがいひる)」後の漢字表記から清音「ひ」とした。

「蛭の屬なり」ダメ押しです、良安先生、全然、明後日の、別な生物です!

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 百足(やすで)


Amabiko

おさむし   千足  百節

       馬陸  馬蚿

       馬  馬蠲

百足

       馬  馬軸

ポツ ツオツ 飛蚿刀 環蟲

 

本綱百足古墻壁中甚多形大如蚯蚓長二三寸紫黒色

其足比比至百皮極硬節節有横文如金線首尾一般大

觸之卽側臥局縮如環不必死也寸寸斷之亦便動行雞

食之醉悶至死又此蟲夏月登樹鳴冬則入蟄也其在山

而大者名山蛩【有大毒】有一細黃色者

△按百足【和名阿末比古】形似織梭故俗呼曰梭蟲【乎左無之】黃色大

 一二寸者多矣俗以百足訓蜈蚣者非也

 

 

おさむし   千足        百節

       馬陸        馬蚿〔(ばげん)〕

       馬〔(ばくわん)〕 馬蠲〔(ばけん)〕

百足

       馬〔(ばさん)〕  馬軸

ポツ ツオツ 飛蚿刀       環蟲

 

「本綱」、百足は古き墻壁〔(しやうへき)〕の中に甚だ多し。形、大いさ、蚯蚓〔(みみづ)〕のごとく、長さ二、三寸。紫黒色。其の足、比比〔(ひひ)〕として百に至る。皮、極めて硬く、節節に、横文有りて、金線のごとく、首尾一般、大にして、之れに觸(さは)れば、卽ち、側臥し、局-縮(ちゞかま)りて環(わ)のごとく〔なる〕。必ず〔しも〕死せず。寸寸(ずたずた)に之れを斷ちても、亦、便〔(すなは)〕ち、動き行く。雞〔(にはとり)〕、之れを食へば、醉ひ悶(もだ)へて、死に至る。又、此の蟲、夏月、樹に登りて、鳴く。冬は、則ち、入蟄〔(にふちつ)〕す。其の、山に在りて大なる者を「山蛩〔(さんきよう)〕」と名づく【大毒有り。】。一種、細く黃色なる者、有り。

△按ずるに、百足【和名「阿末比古〔(あまびこ)〕」。】、形、織(ぬのを)る梭(さを)に似る。故に俗に呼びて「梭蟲(をさむし)」と曰ふ【「乎左無之」。】。黃色にして、大いさ、一、二寸の者、多し。俗、「百足」を以つて「蜈蚣〔(むかで)〕」と訓ずるは非なり。

 

[やぶちゃん注:節足動物門 Arthropoda 多足亜門 Myriapoda ヤスデ上綱 Progoneata 倍脚(ヤスデ)綱 Diplopoda のヤスデ類。ウィキの「ヤスデ」によれば、『細く、短い多数の歩脚がある。ムカデと似るが、生殖口の位置や発生の様式、体節あたりの歩脚の数など様々な点で異なる。ムカデが肉食性であるのに対し、ヤスデは腐植食性で毒のある顎を持たない』(咬毒はない。但し、体液(体表からの浸潤液や放出気体を含む)には毒性が認められる。だいたい多くの種は胴部に臭腺を有し、刺激したりした場合、種によってはシアン(青酸様物質)やヨードを含む液体や気体を分泌することがある。但し、基本的にこれは捕食生物から身を守る防衛手段としてである(熱帯産の大型種の中には、その毒液を飛ばして、それが皮膚付着すると、火傷のような状態になる種も存在するが、本邦産ではそこまで激しい種は存在しない。但し、ヤスデの分泌物に触れた手で目などを擦ると、炎症をおこすことがある(ここはピクの部屋氏のブログ「害虫・害獣から街を守るPCOの調査日記」の「ヤスデの毒」を参照した)。引用の後半も参照)。『英名のMillipedeはラテン語の千(milli)脚(ped)に由来する』(下線やぶちゃん)。『体は数十個の節に分かれている。足は前の3節には1節に1対ずつ、それより後ろの節は1節に2対ずつある。そのため、倍脚類とも言われる。また、頭には1対の小さい触角があり、目は種類により(分類とはあまり関連無く)有無や数がまちまちである』。『ほとんどのものは、固い外骨格を持ち、細長い体をしている。腹面はやや平らだが、背面は大きく盛り上がって断面がほぼ円形になる』種『から、扁平な』種『まで様々である』。『日本最大種はヤエヤママルヤスデ』(フトヤスデ目マルヤスデ科ヤエヤママルヤスデ Spirobolus sp.:石垣島と西表島に限定的に棲息する。本種は刺激すると、黄色い汁を滲出させ、毒性が認められているわけではないが、ヒトの皮膚に附着すると変色し、暫く消えず、ひりついたり、かぶれを生じるという記載もある)『で7cmほどになる。世界最大種はアフリカオオヤスデ』(倍脚綱ヒキツリヤスデ目ヒキツリヤスデ科 spirosteptus 属アフリカオオヤスデ Archispirostreptus gigas)『やタンザニアオオヤスデ』(同属のタンザニアオオヤスデ Archispirostreptus gigas)『といったアフリカ産の大型種で最大』30cmを超える個体も存在する。彼らは、『土壌の有機物や枯葉とそこにつく真菌類を主に食べている。飼育下などでは意外に肉類も食べる。体表の毒腺から液体や気体の刺激物を分泌する種が多い。刺激を受けると体を丸めるものが多い。通常は渦巻状にまとまって円盤となるが、タマヤスデ』(タマヤスデ目タマヤスデ科 Glomeridae に属するタマヤスデ類)『は球形になる』。『一般にはヤスデは害虫と見なされているが、冤罪的な要素も多く、典型的な不快害虫である。見た目が不快なことや、踏むと異臭を発すること、寒冷地の森林で周期的に大量発生するキシャヤスデなどの群れが鉄道の線路上に這い出して』、『列車の車輪で踏み潰されると、その体液により列車がスリップすることなどが理由に挙げられている。そのような例として、小海線での列車の運休が知られる』(本種だけではないものの、その衝撃的大発生による運行不能事件によって、ズバリ! キシャヤスデ(汽車ヤスデ)の和名を持つ種がいる。オビヤスデ目ババヤスデ科 Parafontaria 属オビババヤスデ亜種 Parafontaria laminata armigera がそれ(高桑良興氏命名)。「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『本州中部地方の山岳部で数年に一度大発生し、線路上に現れて列車の運行を妨害したところからこの名がある。オビババヤスデは体長約33.5cmで、胴節数20個。無眼。背板は赤褐色でその各後縁に暗色横帯がある。小海線沿線では開通以来何度も大群による妨害が秋季にあったが、中央本線や北陸本線も被害にあっている。本州中部の森林地帯におもに分布し、初夏に交尾産卵する』とある。「農林水産省林野庁森林総合研究所」公式サイト内のキシャヤスデ大発生の謎が凄絶!(かなりクる画像有り。クリックはくれぐれも自己責任で!) 小学校の時に愛読していた小学館の図鑑の、「昆虫の図鑑」に、まさに汽車が止まっている挿絵が載っていたのを、僕は、懐かしく思い出す)。『臭液の毒性は強く、狩猟用の矢毒として用いられた記録がある。また、「味噌汁に1個体が紛れ込んだら、鍋全部が食べられなくなる」などと言われる。密封すると自らの臭液で死ぬ場合が多い。その臭液は主に危険を感じた際に敵への威嚇として体外へ放出されることが多い。外敵に襲われた際は、ムカデと異なり』、『積極的に顎で咬むことは無く、身体を丸めて自己防衛する』。『住宅やその周辺で発生するヤスデは一部の種のみであり、多くのヤスデは森林で生活している。ほとんどの種は広意の土壌に生息して分解者の役割を担っており、森林中の落葉を食べ、糞は栄養分に富むため』、『樹木の成長に影響を与えているとされる。このように、土壌形成上一定の役割を果たしているものと考えられており、食性と生態から自然界の分解者という要素が強い』とある。「百足」とあるが、ヤスデの脚はQ&Aサイトによれば、9対から100対以上で、30から40対ほどの種が多いらしい。個体差や増節変態による変異があり、ナショナル ジオグラフィック日本版の「最多750本足のヤスデ、米国で再発見」2012.11.15記事)には、アメリカのカリフォルニア産の体長三センチメートルの、ギボシヤスデ(ギボシヤスデ目ギボシヤスデ科 Siphonophoridae)の一種、イラクメ・プレニペス(Illacme plenipes)の記事が載る(小さいのでグロテスクではないから、リンクを躊躇する必要はない。英文ウィキには当該種の項がある)。本とあるから単体計算である。やはり、現生種は千の足までには及ばぬらしい。なお、ムカデとヤスデの見分け方は脚が一体節につき、基本、二対出るのがヤスデ(ムカデは一対)、その脚がムカデのように体の外側へではなく、下側に向かって生えているのがヤスデ、また、概ね、ムカデは体型が扁平であるのに対して、ヤスデは小さなものでも有意に丸っつこくずんぐりしていて、しかも動きがムカデのようには俊敏でなく、のろいから、容易に判別出来る

 

「おさむし」ママ。後に出る「梭(ひ)」「筬(おさ:歴史的仮名遣は「をさ」)」(正しくは「梭」「筬」。後述)にはであるから、正しくは本文に振られているように「をさむし」が正しい。但し、梭と筬は正しくは違う器具である。梭は「シャットル(shuttle)」のことで、機織(はたおり)に於いて、経糸(たていと)の間に緯(よこ)糸を通す織機部品で、舟形をした中央に緯糸を巻いた木管を収めた木製部品(両端の打撃を受ける部分は金属で補強する場合がある)。それに対して、筬は同じく機織の付属具であるが、枠に鋼(はがね)や竹の薄板(筬羽(おさは)と呼ぶ)を多数並べた櫛形のもので、長方形の框(わく)に納まっている。これは経糸の位置を整えつつ、打込んだ緯糸を押して更に密に定位置に打つ働きをする器具で、形状から、一目瞭然、ここは「梭(ひ)」ではなく、「筬(をさ)」とあるべきところである。

「墻壁〔(しやうへき)〕」土塀。

「比比〔(ひひ)〕として」並び連なって。

「必ず〔しも〕死せず」そうなってじっと動かなくなるが、必ずしも死んだわけではない。それどころか、「寸寸(ずたずた)に之れを斷」って死んだと思っても、断片になったそれらが、また「動き行く」というのであろう。

「雞〔(にはとり)〕、之れを食へば、醉ひ悶(もだ)へて、死に至る」基本的には鶏はムカデを食うから(前項参照)、ヤスデも平気である。但し、先に示した青酸様の毒を持つ種はこうなっても不思議ではないから、或いは、この記載はそうした種のケースを拡大解釈してしまったものとも思われる。

「鳴く」鳴きません! ただ、何の鳴き声を誤認したのかは気になる。

「入蟄〔(にふちつ)〕」東洋文庫訳では『あなごもり』とルビする。

「山蛩〔(さんきよう)〕」「蛩」単字では、「廣漢和辭典」では実在生物等として、「蟬の抜け殻」・「蟋蟀(こおろぎ)」・「蝗(いなご)」を挙げた後に、『やすで。また、げじげじ』(太字はママ)を挙げるから、これはゲジ類を含むヤスデ類の総称としてよい(但し、ゲジは唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha であるから分類学上は全く別種群である。ゲジは次の次の項で出る)。中文サイトで調べると、「山蛩」は別名「北京山蛩虫」と称し、フトマルヤスデ目マルヤスデ科 Spirobolus  Spirobolus bungii を指すことが判った。

「細く黃色なる者」黄色い縞を持つ種はいるが、完全に黄色い種はピンとこない。中国には普通にいるのか?

「阿末比古〔(あまびこ)〕」「雨彦」ヤスデの古名。よく雨後に出てくることに由来する。知られたところでは、平安後期に成立した異色短編集「堤中納言物語」の「虫めづる姫君」に、虫取りに雇った童子にニック・ネームを附すシーンで、「螻蛄男(けらを)、ひくさ麿(まろ)、いなかだち、蝗麿(いなごまろ)、雨彦(あまびこ)なむ、名と付けて召し使ひ給ひける」と出る(「ひくさ」は蟇蛙(ひきがえる)であるが、「いなかだち」は不詳)。「あまびこ」には他に本邦固有に妖怪(ウィキの「アマビエを参照されたい)の名でもあるが、無関係であろう。狭義の和名種群としては、沖縄諸島に棲息するババヤスデ科アマビコヤスデ属Riukiaria がある。

『形、織(ぬのを)る梭(さを)に似る。故に俗に呼びて「梭蟲(をさむし)」と曰ふ【「乎左無之」。】』前の「おさむし」の注を参照されたい。

「黃色」本邦の場合、普通に最も見ることが多い、時に大量発生するヤスデ、例えば、オビヤスデ目ヤケヤスデ科ヤケヤスデ Oxidus gracilis などは、褐色或いは赤茶色である。先に挙げたキシャヤスデなどは、八~九月頃は肌色で、十月に入るって朱色の地に焦げ茶色の縞模様が目立つようになるが(先のリンク先の記載を援用)、これは遠目に見ると、黄色いようには見えないことはない。

「俗、「百足」を以つて「蜈蚣〔(むかで)〕」と訓ずるは非なり」良安先生、快哉!]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜈蚣(むかで)


Mukade

むかで   ※𧔌 蝍蛆

      天龍

蜈蚣

      【和名無加天】

ウヽ コン

[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「蒺」。

 

本綱蜈蚣春出冬蟄身扁長背色光黒節節有足其足色

赤或黃雙鬚岐尾其腹色黃也凡性畏蜘蛛以溺射之卽

斷爛也又畏蛞蝓不敢過所行之路觸其身則死又畏蝦

蟇又雞喜食蜈蚣故人被蜈蚣毒者蛞蝓搗塗之雞屎桑

汁白鹽皆治之

蜈蚣【辛温有毒】 小兒撮口驚風等厥陰經藥也

南方有大蜈蚣丈餘能啖牛俚人然炬遂得以皮鼓肉

 曝爲脯美於牛肉

五雜俎云蜈蚣一尺以上則能飛龍畏之故常爲雷擊一

云龍欲取其珠也

△按本朝亦南方有大蜈蚣一尺有餘者多矣俗相傳曰

 蜈蚣者昆沙門天使也不知其所由

     著聞集此のすすはくらまの福にてさふらふそされはとて又むかてめすなよ 石泉法印

 

 

むかで   ※𧔌〔(しつれい)〕 蝍蛆〔(しよくそ)〕

      天龍〔(てんりよう)〕

蜈蚣

      【和名、「無加天」。】

ウヽ コン

[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「蒺」。]

 

「本綱」、蜈蚣、春に出で、冬は蟄す。身、扁く、長く、背の色、光り、黒く、節節に足有り。其の足、色、赤く、或いは黃。雙鬚〔(さうしゆ)〕あり。岐ある尾。其の腹、色、黃なり。凡そ、性、蜘蛛を畏る。溺(ゆばり)を以つて之れを射るときは、卽ち、斷(き)れ爛(たゞ)るなり。又、蛞蝓(なめくぢ)を畏る。敢へて行く所の路を過ぎず。其の身に觸(ふ)るゝときは、則ち、死す。又、蝦蟇を畏る。又、雞〔(にはとり)〕、喜んで蜈蚣を食ふ。故に、人、蜈蚣に毒せらるる者、蛞蝓を搗きて之れに塗る。雞の屎〔(くそ)〕・桑の汁・白鹽、皆、之れを治す。

蜈蚣【辛、温。有毒。】 小兒の撮口・驚風等、厥陰經〔(けついんけい)〕の藥なり。

南方に大蜈蚣有り。丈餘。能く牛を啖(くら)ふ、俚人、炬(たいまつ)を然(とも)し、遂に得て、皮を以つて鼓に(は)り、肉を曝〔(さら)〕して脯(ほじし)と爲す。牛肉より美なり。

「五雜俎」に云はく、『蜈蚣、一尺以上あれば、則ち、能く飛ぶ。龍、之れを畏る。故に常に雷の爲に擊(う)たる。一つに云ふ、「龍、其の珠を取らんと欲するなり」〔と〕。』〔と。〕

△按ずるに、本朝にも亦、南方には大蜈蚣有り。一尺有餘の者、多し。俗に相ひ傳へて曰はく、「蜈蚣は昆沙門天の使ひなり」〔と〕。其の由る所を知らず。

 「著聞集」

 此のすずはくらまの福にてさふらふぞ

  さればとて又むかでめすなよ

               石泉法印

 

[やぶちゃん注:節足動物門 Arthropoda 多足亜門 Myriapoda ムカデ上綱 Opisthogoneata 唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda のに属する種群の内、和名に概ね、「ムカデ」を含む、ムカデ類。かく述べたのは、ゲジ亜綱 Anamorpha の内のゲジ目 Scutigeromorpha に属するゲジ類を除くためである(ゲジは三項後に出る)。ムカデの毒成分はセロトニン・ヒスタミン及び酵素類等から成る複合毒である。私は、二センチほどの子どもに咬まれたことがあるが(瞬間、チクリとしたが、大事には至らなかった)、幸いにして成虫に咬まれた経験はない。大型種の場合は、咬まれた旧同僚の話によると、咬傷時の痛みも激烈で、死に至ることはないが、腫れはがひどく、治癒には数日かかる。なお、ムカデは概ね誰もが「百足」と書くが(流石に私も面倒なので「蜈蚣」とは書かないし、書いても読めない人の方が圧倒的に多い)、ネットのQ&Aサイトによれば、ムカデ類の脚の数は、イシムカデ目(ゲジ目の成体は15対)・オオムカデ目では21又は23対、ジムカデ目では種によって異なり、27対から37対・41対・47対などを示し。多い種は100対を超え、173対まであり、総括すると総脚数(単体換算)は変異態を除いて、30本・42本・46本・5464本・82本・94本・200本以上346本まで、とある。

とある。最後に唇脚綱の「唇」であるが、以前、私は彼らの脚を細い唇に擬えたものと思っていたが(私は無論、多足類には慄っとするくちだが、この「唇脚類」という呼称には妙に惹かれるのである)、ウィキの「によれば、『節足動物の口器は主として付属肢に由来する構造からなり、そのため左右の対をなす構造からなるが、これに口の前後に配置して前後方向に動く構造が加わる場合があり、これに唇の名が与えられる例がある。口の前にあるものを上唇(じょうしん)、後ろにあるものを下唇(かしん)といい、これらは互いに異なった』発生起源を持つ、とあるから、これが「唇」の由来と考えてよいようである。

 

 

𧔌〔(しつれい)〕」読みは東洋文庫に従った。

「蝍蛆〔(しよくそ)〕」「そくそ」とも読める。

「雙鬚〔(さうしゆ)〕」一対の触角のこと。

「岐ある尾」生物学的には、尾ではなく、曳航肢という一対の脚(あし)である。因みに、総てのムカデが持つ毒を注入する「顎」と呼ばれる一対の牙状の器官も牙ではなく、顎肢という脚の変化したものである。勘違いしている人が特に後者では多いので言い添えておく

「性、蜘蛛を畏る」相互に捕食関係にあるが、それなりの大きさの蜘蛛であれば、地上で一般的な中型のムカデ類と遭遇した場合は、身体の柔軟性が高いクモの方が有利であると思われる。

「溺(ゆばり)を以つて之れを射るときは」主語が省略されているが、クモがその小便をムカデを狙って射出した際には、の意。但し、これ、粘着度の高い糸を見誤ったものではなかろうか。

「蛞蝓(なめくぢ)を畏る」これは「蝦蟇(かへる)」で述べた「三すくみ」と関係がある、事実ではない俗説である。確かに、「本草綱目」の「蜈蚣」の項には、ここにある通り、『性、畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身卽死』(性、蛞蝓を畏る。敢へて行く所の路(みち)を過ぎず。觸るれば、其の身、卽ち死す)とあるのであるが、そこの注で考察した通り、陰陽五行の相生相克理論に基づくものと私は断ずる。

「蝦蟇を畏る」ヒキガエル類の大型個体は事実、ムカデの天敵のレベルであるが、小型のカエルは簡単にムカデに捕食される

「雞〔(にはとり)〕、喜んで蜈蚣を食ふ」鷄がムカデを捕食するのは、小さな頃、鹿児島の母の実家で実際に目撃したことがある。実は鳥類にはムカデを捕食する種は稀れではない。あるネット記載では、鳥綱スズメ目ヒタキ科イソヒヨドリ属イソヒヨドリ Monticola solitarius は好んでムカデを摂餌するとあった。

「雞の屎〔(くそ)〕」東洋文庫訳が「屎」を『尿』とするのは誤読である。まあ、総排泄孔だから味噌も糞も、同じっちゃ、同じだけどね。

「白鹽」「はくえん」。粗塩(あらじほ)を精製した白い塩。

「撮口」既注であるが、再掲すると、「臍風(さいふう)」と同義語と思われる。小児科内科医の広田嘩子氏の論文「日本における臍風の記載について」(PDF)に、『臍風は撮口ともいい、現代でいう臍破傷風のことだったと思われる』とある。「臍破傷風」(恐らくは「さい/はしょうふう」と読む)は新生児の臍帯の傷からの破傷風菌(細菌(ドメイン)フィルミクテス門クロストリジウム綱クロストリジウム目クロストリジウム科クロストリジウム属クロストリジウム・ テタニ(破傷風菌)Clostridium tetani)感染によって起こる破傷風のことを指す。ウィキの「破傷風」によれば、『新生児の破傷風は、衛生管理が不十分な施設での出産の際に、新生児の臍帯の切断面を汚染し』て発症するもので、『破傷風菌は毒素として、神経毒であるテタノスパスミン』(Tetanospasmin)『と溶血毒であるテタノリジン』(Tetanolysin)『を産生する。テタノスパスミンは、脳や脊髄の運動抑制ニューロンに作用し、重症の場合は全身の強直性痙攣をひき起こす』乳幼児ではない一般的な症状では、『前駆症状として、肩が強く凝る、口が開きにくい等、舌がもつれ会話の支障をきたす、顔面の強い引き攣りなどから始ま』『(「牙関緊急」と呼ばれる開口不全、lockjaw)』り、『徐々に、喉が狭まり硬直する、歩行障害や全身の痙攣(特に強直性痙攣により、手足、背中の筋肉が硬直、全身が弓なりに反る』)『など重篤な症状が現れ、最悪の場合、激烈な全身性の痙攣発作や、脊椎骨折などを伴いながら、呼吸困難により死に至る。感染から発症までの潜伏期間は』三日から三週間で、『短いほど重症で予後不良』である。『神経毒による症状が激烈である割に、作用範囲が筋肉に留まるため意識混濁は無く鮮明である場合が多い。このため患者は、絶命に至るまで症状に苦しめられ、古来より恐れられる要因となっている』。『破傷風の死亡率は』五〇%である。成人でも一五〜六〇%、新生児に至っては八〇〜九〇%と高率である。『新生児破傷風は生存しても難聴を来すことがある』。『治療体制が整っていない地域や戦場ではさらに高い致死率を示す。日本でも戦前戦中は「ガス壊疽」などと呼ばれ恐れられていた』とある。

「驚風」複数回既出既注であるが、再掲する。一般には小児疾患で「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。

「厥陰經〔(けついんけい)〕」既出既注であるが、再掲する。古代中国の医学に於ける十二経絡(人体の中の気血栄衛(気や血や水などといった生きるために必要なもの。現代の代謝物質に相当)の「通り道」として考えられた導管。「経」脈は縦の脈、「絡」脈は横の脈の意)の一つ。この場合は足を流れるとする厥陰肝経(肝臓と胆嚢及び目の周囲を掌る)の不全を指すから、「厥陰病」と考えてよいか。ウィキの「厥陰病」によれば、後漢末から三国時代にかけて張仲景が編纂した知られた医学書「傷寒論」によれば、『「厥陰の病たる、気上がって心を撞き、心中疼熱し、飢えて食を欲せず、食すれば則ち吐しこれを下せば利止まず」といわれ上気して顔色は一見赤みがかっているが、下半身は冷え、咽が渇き、胸が熱く、疼み、空腹だが飲食できない。多くはやがて死に至る』とある重病である。

「丈餘」三メートルを有に超える。出会いたくないが、幸い、こんな巨大ムカデは流石に現生種ではいない。現行の世界最大種とされるのは、唇脚綱オオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属ペルビアンジャイアントオオムカデ Scolopendra gigantea(英名:Peruvian giant yellow-leg centipede or Amazonian giant centipede英文ウィキのScolopendra giganteaに拠る)でウィキの「ペルビアンジャイアントオオムカデ」によれば、『ブラジルやペルーなどといった南米の熱帯雨林帯に生息している』。体長は通常でも二〇~三〇センチメートル、最大で四〇センチメートルを『越えるという巨大種である。頭部の色は赤で胴体はワインレッド、節目の関節の色がピンクで、脚の色が黄色という派手な体色をしているが、それは毒を持っていることを示す警告色である』。『熱帯雨林の地上層に住み、夜行性だが、場合によっては昼間も活動し、獲物を求めて木に登ることもある』。『最大のムカデだけあって小さな毒蛇を思わせる程の大きさで、首を持ち上げて威嚇する。その牙の威力も強力で、プラスチックの網などは砕いてしまうほどの威力を誇っている』。『肉食性で、獲物は昆虫類やクモやサソリ、タランチュラ、トカゲやカエルに、マウスや小鳥、時には小型のヘビまでも襲う程の獰猛さを持ち、触れた者に対しては容赦なく噛みつく』。『その毒の強さについては不明だが、体の大きさから非常に危険であるといわれている』とある。なお、You Tube でアメリカアラバマ州二〇一一年十月に発見されたとする一・七メートルの巨大ムカデ(しかも断片とする)の映像を見たが、これは大型の蛇の腐敗後の脊椎骨のようにしか、私には見えなかった。

「然(とも)し」原典の字は下の「れっか」が「火」となった字体。「點(とも)し」。

「皮を以つて鼓に(は)り、肉を曝〔(さら)〕して脯(ほじし)と爲す。牛肉より美なり」太鼓の類の皮として張り、残った肉は乾燥させて干し肉にする。その肉は牛肉より美味である、というのは流石にどう見ても、大蜈蚣じゃあなくて、大蛇でっショウ!

「龍、其の珠を取らんと欲するなり」東洋文庫の編者注に、『龍が蜈蚣の持っている珠を取ろうとするのであろうか』という意味であるが、『しかし神獸は龍の方で、従って珠をもっているのは龍の方ではないであろうか』と疑義を差し入れ、実際に本文の訳は、蜈蚣が『竜の珠を手に入れたいと思っているためである』と訳してある。全面的に同感である。

「本朝にも亦、南方には大蜈蚣有り。一尺有餘の者、多し」ややデカすぎる感があるが、唇脚綱オオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属トビズムカデ Scolopendra subspinipes mutilans(北海道南部から沖縄に分布。体長は通常で八~十五センチメートルであるが、稀れに二十センチメートル近くに成る個体もいる。私は教職に就いた頃に借りていた鎌倉市岩瀬のアパートで有に十八センチは超えた本種の巨大個体に遭遇した。部屋の中を這う音が明らかにザザッと強烈で、お湯を沸かして洗面器に張り、長箸で摘んで投げ入れて、昇天して貰ったが(ぬるま湯でもコロリとゆく。大型個体は殺虫剤では暴れ回るだけで容易に死なないので注意されたい)、外に捨てる際に、その湯が腕にかかったところ、翌日、その部分が赤く腫れ上がった。恐るべし!(但し、咬傷は暖めると、毒成分が活性化するので注意! ムカデ毒は四十五度以上にならないと失活しない) 体色に個体変異が多く、赤い頭に黄色い足を持つ個体や、朱色の頭と足を持つ個体など、実にオゾマシいまでにカラフルである。巨大になる一因には本種の寿命が七年と節足動物では比較的長寿であることにもあろう)か、体長二十~二十五センチメートルとされる沖縄島・南大東島・北大東島・八重山諸島に棲息するオオムカデ科オオムカデ亜科タイワンオオムカデ Scolopendra morsitans となろう。

「蜈蚣は昆沙門天の使ひ」武田信玄など戦国武将が甲冑や旗指物に蜈蚣を用いたり、鉱脈探しの山師や鉱山労働者の間で蜈蚣が守り神として崇敬され、はたまた、市井でもそのデザインを金運のお守りとしたことはよく知られるところである。これに就いては、福田博通氏のサイト「神使像めぐり」の「毘沙門天の百足(むかで)」がよい。それによれば、『軍神と財宝の神である、毘沙門天のお使いがなぜ「ムカデ」なのかは不明です。百足は、「毘沙門天の教え」だともいわれます。「たくさんの足(百足)のうち、たった一足の歩調や歩く方向が違っても前に進むのに支障がでる。困難や問題に向かうには皆が心を一つにして当るようにとの教えである」とのことです(寺の説明)』。『武田信玄など戦国武将は、毘沙門天が武神で戦勝の神とされることと合わせて、そのお使いのムカデは一糸乱れず果敢に素早く前に進み、決して後ろへ退かないなどとして、武具甲冑や旗指物にムカデの図を用いたりしたとされます』。『しかし、毘沙門天が古代インドでは宝石の神とされていたことに加えて、百足は足が多いので、おあし(銭)がたくさんついて金運を呼ぶとか、商人や芸人の間では「客足、出足」が増え繁盛するなどと、人々の信仰を集めました。また、鉱山師や鍛冶師にも信仰されたとのことですが、これは、鉱脈の形や鉱山の採掘穴がムカデの姿形に似ているからともいわれます』として、信仰に纏わる種々の対象物(生態画像はないので安心してクリックされてよいと思う)の写真も豊富に貼られてある。必見! 

「著聞集」「古今著聞集」。以下は「卷第十八 飮食」にある短章「石泉法印祐性(ゆうしやう)、篠の歌を詠む事」(読みは推定)である。

   *

石泉法印祐性、鞍馬寺の別當にて、かれよりすゞをおほくまうけたるを、或人のもとへつかはすとて、よめる、

  此すゞは鞍馬の福にて候ふぞさればとてまたむかでめすなよ

   *

作者石泉法印は伝未詳。「新潮日本古典集成」(昭和六一(一九八六)年刊/西尾・小林校注)の「古今著聞集 下」の注によれば、「かれよりすゞ」とは『「枯れ縒りすず」で枯れて縒じれているようなさまの、細い筍、のことか。「すず」は小竹のこと』とある。「すず」は漢字では「篶」「篠」と書き、「篠竹(すずたけ)」(狭義にはササ類の一種である単子葉植物綱イネ科タケ亜科スズタケ属Sasamorpha borealis var. purpurascens を指すが、ここはスズダケ属 Sasamorpha の仲間としておく)の異名で、そのの筍(たけのこ)をも指す。「すずのこ」とも呼ぶ。「まうけたる」は「貰った」の意。

「此のすずはくらまの福にてさふらふぞさればとて又むかでめすなよ」整序しておくと、

 此の篶(すず)は鞍馬の福にて候ふぞさればとて又むかで召すなよ

同じく「新潮日本古典集成」の注によれば、『毘沙門天の使いと言われる白いむかでに似たこの篠の筍』(成長線の節がムカデの体節に似るからであろう)『鞍馬の山の福の物でありますぞ。といっても』(筍の皮を)『むかで(むかないで)召し上るようなことはことはなさらぬように。「むかで」に剝(むか)でと百足(むかで)とを掛けた』とある。なお、「寺社関連の豆知識」の「七福神(毘沙門天)」のページによれば、『毘沙門天を祀った鞍馬寺では、昔正月の初寅の縁日に「お福むかで」といって生きたムカデを売った。(といっても漢方薬に使ったらしい)』とあり、荒俣宏氏の「世界博物大図鑑 第一巻 蟲類」(一九九一年平凡社刊)の「ムカデ」の項にも、『京都の鞍馬地方でも』、『ムカデは毘沙門天の使いだと言って』、『殺すことを忌』み、『正月の初寅には』、『境内で生きたムカデが売られ』、『〈おあし〉が多い縁起物として商人が買っていく風習もあった』とある。売られている様子を、想像するだけで、なかなかムズムズしてくるんだが、誰もが漢方薬にしたものでもあるまい。主人が買って帰った商家の虫嫌いの子女が卒倒するさまを思うと、同情を禁じ得ぬ。

2017/10/05

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 薔薇


Barasa

   薔薇

 

 八月の末。もう秋は、戸口に來てゐる。

 日は落ちようとして、今しがた雷鳴も稻妻も伴はぬ夕立が、見遙かす一帶の平原をさつと走り過ぎたばかり。

 家前の庭は、落日の色と溢れる雨水とに滿ちて、燃え立ち、また煙る。

 彼女は客間の卓に肘をついて、何かの思ひに沈みながら、半開きの扉越しに凝然と庭に見入つてゐる。

 私は知る、彼女の胸に去來する思ひを。私は知る、彼女がこの瞬間、よし苦(にが)いにせよ所詮は束の間の鬪ひののち、もはや永久に制御し得ぬ或る感情に身を任せてゐることを。

 ふと彼女は身を起すと、足早に庭に下りて姿を消した。

 一時間たち、二時間たつた。けれど彼女は歸つて來ない。

 そこで私も庭に下りて、彼女が行つたと思はれる並木道へ足を向けた。

 とうに日は暮れて、夕闇の色があたりに濃い。が、水を含んだ小徑の砂に、何か圓く小さなものが、流れ寄る狹霧を透してくつきりと紅い。

 私は身をかがめた。見るとそれは、開いたばかりの爽やかな薔薇の花だつた。

 二時間まへに彼女の胸に見たその花を、どうして見忘れよう。……

 私は泥土の中の花を、大切に拾ひ上げた。そのまま客間に引返して、彼女が坐るすぐ眼の前の卓にのせた。

 やがで彼女が歸つて來て、そつと部屋を橫切ると、いつもの椅子に腰を下した。

 その顏は前より蒼ざめて、却つていきいきにてゐた。思ひなしか小さく見える眼を伏せて、堪らなく愉しげな樣子で四圍(あたり)を見まはした。

 彼女は薔薇に眼をとめて、それを手に取りあげた。暫くは摧(くだ)け汚れた花片を眺めてゐたが、やがて眸(まなざし)を私に轉じた。思ひがけずじつと佇んだその眼に、淚が光つた。

 「なぜ泣くのです」と私は聞いた。

 「この花を御覽なさい。なんて姿になつたのでせう。」

 ふと私は、何か深刻なことが言ひたくなつた。

 「その花の汚れは、貴女の淚が洗ふでせう」と、私は表情たつぷりの文句を吐いた。

 「淚は洗ひなどしませんわ。淚は燒いちまひますの」と彼女は答へて、煖爐の方を振向くと、消えかけた炎に薔薇を投げた。

 「でも、火の方がもつとよく燒いて呉れるわ」――挑むやうにさう言ひ切つて、まだ淚のきらめいてゐる美しい眼で、につと笑つた。

 私はさとつた、彼女もやつぱり火に燒かれたのだといふことを。

            一八七八九年四月

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 勞働者と白い手の人――對話


Zatrueki

   勞働者と白い手の人

          ――對話

 

 勞働者 なんだつて其處をうろうろするんだ。何か用かい、仲間でない奴にあ、出て行つて貰はう。

 白い手の人 仲間だよ、兄弟。

 勞働者 仲間だと? こりや大笑ひだ。まあ俺の手を拜んでみろ。ほれ、眞黑ぢやないか。肥(こえ)やタールの臭ひがするだらう。ところでお前のはどうだ。その生白い奴は、一體なんの臭ひがするんだ。

 白い手の人(手を伸べる) 嗅いでみたまへ。

 勞働者(嗅ぐ) こりや妙だぜ。鐡氣(かなけ)くせえや。

 白い手の人 鐡の臭ひさ。まる六年、手錠を嵌めてゐたのだ。

 勞働者 そりや又、どうして。

 白い手の人 君たちのためを思へばこそさ。君たち無智な惨めな連中を、自由の身にして上げたいばかりに、君たちの壓制者に齒向つたのさ。謀叛をやつたのさ。それで投(ぶ)ち込まれた。

 勞働者 ぶち込まれたのか。へん、餘計な眞似をするからよ。

 

   二年後

 

 同じ勞働者(もう一人に) おい、ペー公。一昨年(をととし)の夏、なんだか色の生白い奴が、俺たちと話をして行つたのを覺えてるかい。

 第二の勞働者 覺えてるさ。それがどうした。

 第一の勞働者 彼奴、いよいよ今日絞められるんだぜ。お布令が出た。

 第二の勞働者 やつばり謀叛だな。

 第一の勞働者 やつばり謀叛だ。

 第二の勞働者 ふうん。……おい、ミー公。彼奴の絞められる繩のきれつ端が、なんとか手に這入らないかなあ。どえらい福の神が舞ひ込むつて話だぜ。

 第一の勞働者 違ひねえ、ペー公。ひとつやつて見ようぜ。

             一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:「彼奴」「きやつ(きゃつ)」。

「お布令」「おふれ」と読んでいよう。お触れ。

「彼奴の絞められる繩のきれつ端が、なんとか手に這入らないかなあ。どえらい福の神が舞ひ込むつて話だぜ」これは西洋の古い民俗的な迷信を皮肉に用いたのであろう(それが呪力を持つというのはしばしば聴いた)。私はこの一篇を読むと自然、処刑される革命家の人肉饅頭を食べさせられる肺病病みの少年を描いた魯迅の凄絶な名篇「薬」が思い出されてならないのである。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 髑髏


Dokuro

   髑髏

 

 光眩しい豪奢なサロンに、大勢の紳士淑女が居流れる。

 どの顏もみた艶々して、今を盛りと話は彈む。騷々しい話題の中心は、さる名高い歌姫である。まるで女神のやうに不滅な、と頌へてゐる。昨晩もあのお仕舞の顫音(トリロ)の、何と見事だつたこと、……

 不意にそのとき、まるで魔法の杖の一振に逢つたやうに、頭といふ頭、顏といふ顏から薄い皮膜が剝げ落ちて、不氣味な白骨が露はれた、むき出しの齒ぐきと頰骨が、鈍い燐光を放つて仄めく。

 慄然として私は見入つた。齒ぐきや頰骨のゆらゆらする樣を、蠟燭やラムプの光を受けて、奇妙な骨の球がきらきらする樣を、またその間を縫つて別の小さな球、無表情な眼の玉がぐるぐる𢌞る有樣を。

 とても自分の頰を撫でる勇氣は出ない。まして鏡に寫して見る氣はしない。

 髑髏はやはり𢌞つてゐる。むき出しの齒の隙から、紅い布屑みたいにちらちらと覗く舌の先は相變らずの騷々しさと甘たるさとで、げにも不滅のかの歌姫の最後の顫音(トリロ)が、いかに及びもつかぬ妙技であつたかを喋々する。

             一八七八年四年

 

[やぶちゃん注:「さる名高い歌姫」彼女は恐らく、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)ではないかと踏んでいる。彼女への秘やかな愛憎こもごもの思いが、彼女のパーティを地獄の饗宴として反転想像されたものではあるまいか?

「顫音(トリロ)」トリル(trill)。装飾音の一つ。ある音と、その二度上又は下の音とを急速に反復させるもの。]

老媼茶話巻之弐 狸 / 老媼茶話巻之弐~了

 

     

 

 越後高田に村田三四郎といふ者の家へ、冬十月はじめ、狸、犬に追(おは)れて缺込(かけこみ)、椽(エン)の下へかゞみ入(いる)。三四郎子、十二、三なるが、犬を追返(おひかへ)し、狸を助けたり。

 其夜、三四郎夫婦の夢に、狸、美くしき兒(ちご)に變じて見へけるは、

「今朝は御賢息(ケンソク)の御慈悲にて不思義の命を、ひろい申(まうし)たり。同じくは、來春迄、御屋敷の緣の下、御貸(カ)候得。われ、御家にあればとて、何の仇(あだ)を可仕(つかまつるべき)にて候はず。」

といふ。

 三四郎、夢さめ、妻に此事を語りけるに、妻も、

「同じ夢を見たり。」

と云。

 三四郎、則、子共・下々迄、堅く、いましめ、

「狸に手をさすべからず。」

といい付(つけ)、折節、食事をあたへ、哀みて飼(かひ)ける。

 ある夜、狸、又、夫婦のものの夢にみへけるは、

「われ、御愛憐を以(もつて)食にもうへず、居所にもまどはず、心安(こころやすく)住居仕(すみゐつかまつ)る。其御禮に、今夕、狸のはら皷(ツヾミ)を打(うち)て聞せ可申(まうすべし)。したしき方々、催し、聞(きき)玉へ。」

と云(いひ)て、夢、覺(さむ)る。

 三四郎、不思ぎに思ひ、其夕、近(ちかき)友を呼(よび)、此(この)よし、かたりければ、皆々、興ある事に思ひ、三四郎方に集りける。

 其夜は初春の半(ナカバ)、月さへて、心もすみ、面白かりけるに、いづくともなく、皷の音色、ほのかにきこへけるが、次第に近くなり、面白さ、一座、かんに絶(たえ)たり。假(たとひ)、天下の皷の上手打(じやうずうち)といふ共(とも)、不可及(およぶべからず)。皷、止(やみ)て、皆々、我家へ歸る。

 二月の頃、狸、夢に告(つげ)けるは、

「今日迄、命、全(まつた)く暮し候事、尊人の御影(おかげ)也。明曉(みやうげう)、山へ歸候。其道にて、しころ村の獵師權九郎と云(いふ)者の犬に、喰殺(くひころ)され候。御名殘(おなごり)惜(おし)く候。」

と淚を流し、語る。

 三四郎、夢心に、

「さもあらば、歸る道筋をかへて行(ゆく)べし。然らずは、我が裏の竹藪に生涯を送れかし。」

と云。

 狸のいわく、

「人畜皆々、過去の宿報あり。人は萬物の靈長たりといへども、過去未來を不知(しらず)。畜生は至(いたつ)ておろかなりといへども、是を知る。我が夙生(シユクセイ)は權九郎。權九郎が過去生(かこしやう)は、則(すなはち)、今の我身也。今更、此報(むくひ)にて、かゝる災(ワザワイ)に逢候得(あひさふらえ)ば、決(けつし)て明日の死をのがるゝ事、叶わず。」

と云て去

 三四郎、つとに起き、狸を呼(よぶ)に、なし。

 霜降りしあしたなるに、狸の足跡、有り。

 三四郎、急ぎ、しころ山の麓へ人を遣しけるに、里の小童(こわらべ)のゝじり、あつまり、

「今、大き成(なる)古狸を犬に喰殺(くひころ)されたり。」

と云。

 使の者、むじなの死骸を見るに、いまだ、あたゝかに、はつかに、息もかよひけるを、狩人に右(みぎ)件(くだん)の有增(あらまし)を語り、錢をあたへ、狸の死骸を持歸(もちかへ)り、三四郎に見せける。

 三四郎、不便(ふびん)におもひ、うらの竹藪に狸の死かばねを、能々(よくよく)埋めけるとなり。

 

[やぶちゃん注:本話のように狸が自身の最期を事前に知りながら、それから宿命によって逃れることが出来ないという話柄は、先に電子化注した「想山著聞奇集 卷の四 古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」にもある。未読の方は、そちらも、是非、お薦めのしみじみとした奇譚である。なお、「老媼茶話巻之弐」は本話を以って終わっている。通常、他巻にある後書き「老媼茶話卷之弐終」は原典にはないことから、やはり、本巻は後の再編の際に、錯簡が生じたものと推定される。

「手をさす」手出しをする。ちょっかいを出す。

「うへず」「餓えず」。

「不思ぎに」底本では別本により『不思しきに』とするが、これでは読めないので、編者が追字した「し」を除去し、「き」を濁音と直し、「不思議」の意で採った

「かんに絶(たえ)たり」「感に堪へたり」。

「御影(おかげ)」「御蔭」。

「しころ村」「錣村」と思われるが、不詳。少なくとも現在の上越市(旧高田市を含む)にはこの地名は存在しない模様である。錣山という山も見当たらない。識者の御教授を乞う。

「夙生(シユクセイ)」以前の現世での存在。この狸の述懐によるならば、前世(の孰れか)と現世に於いて同一の存在が別な生を受けて併存していることになる

は權九郎。權九郎が過去生(かこしやう)は、則(すなはち)、今の我身也。今更、此報(むくひ)にて、かゝる災(ワザワイ)に逢候得(あひさふらえ)ば、決(けつし)て明日の死をのがるゝ事、叶わず。」

「のゝじり」「ののしり」。騒ぎ。

「今、大き成(なる)古狸を犬に喰殺(くひころ)されたり」「古狸の」であろうが、興奮した童子らの謂いなればこそ、却って、リアルである。

「狩人に右(みぎ)件(くだん)の有增(あらまし)を語り」総てを語っていないものか前世の権九郎がこの狸であり、狸が権九郎の前世の彼であるという、タイム・パラドクスを語っていれば、この権九郎は猟師をやめて出家するというのが、常套的話柄ではあるからである。

「能々(よくよく)」丁重に。このコーダが綺麗な額縁となっている。三坂春編、なかなかの書き手である。]

老媼茶話巻之弐 伊藤が怨靈

 

     伊藤が怨靈

 

 奧州仙臺の浪人伊藤七十郎といふ者は大力の早走(ハヤハシリ)りなり。秋の日の短きにも、江戸より仙臺迄、八日路の行程、九拾五里、一日一夜に至る也。壱度に四、五升の米を食し、四、五日も食せず。仙臺騷動の節、首をきらるゝ。さい後に申けるは、

「士たるものをしばり、首を切る事、其科(とが)、何事ぞや。とても法外の掟(おきて)なれば、我は人と違(たが)ひ、我(わが)首、前へ落(おとさ)ずして後ろへ飛ばん。」

と云。太刀取の下臈(ゲラフ)申樣、

「むだごとをいはず、人並(ひとなみ)に念佛を申、死(しに)玉へ。」

ともふしければ、眼玉を見出し、

「きつ。」

と、ふり返り、白眼(ニラミ)付(つけ)、

「己(おのれ)、かやう成る下臈には何事もいはぬなり。さあ、切れ。」

とて、首、差延(さしのべ)、きらるゝ。

 案のごとく、切りし首、うしろへ飛び、はがみをなしければ、見物の貴賤、

「是は是は。」

と、あきれたり。

 死骸を穴にも埋めず、野原にすて置(おき)けれは、犬・烏も恐れて、死骸のあたりへ近寄らざりし、となり。

 七十郎亡靈、我をざんせしものども、悉く、とりころしける、と也。

 寛文九年のこと也。

 

[やぶちゃん注:かの「伊達騒動」で刑死した伊東重孝(後述)に纏わる怪奇譚。まずは、伊達騒動について小学館「日本大百科全書」を引く。寛文年間(一六六一年~一六七三年)に起きた仙台藩の騒動。万治三(一六六〇)年、第三代伊達藩藩主伊達綱宗は『不行跡のかどで幕府から逼塞(ひっそく)を命ぜられ』、二『歳の長男亀千代(かめちよ)(綱村)が家督相続、綱宗の叔父伊達兵部少輔宗勝(ひょうぶしょうゆうむねかつ)と綱宗の庶兄田村右京宗良(うきょうむねよし)が』六十二『万石のうちからそれぞれ』三『万石を給され』、『後見人に指名された。初めは家老』(奉行)『が藩政を担当していたが』、次第に『宗勝が実権を握り、反対勢力を多数』、『処分した。その間、幼君亀千代に対する』毒殺未遂『事件が起こるなど』、『藩内は動揺しだした。宗勝は腹心を登用し』て『要職につけ、家老の権限を弱め』、『専制体制をとった。だが、伝統と門閥を重んじる他の重臣はこれを嫌悪し、宗勝は孤立していった。こうしたなかで、一門の伊達安芸宗重(あきむねしげ)』と『伊達式部宗倫(しきぶむねとも)』『との間に知行』『地の境界紛争が生じ』、『この紛争に対する藩の裁定を不公正とする伊達安芸はこれを幕府に訴え、宗勝の政治に対する積年の不満を晴らそうとした。幕府の審理は』寛文一一(一六七一)年二月に『開始された』が、三月三十七日、『大老酒井忠清(ただきよ)邸での審理が終わったころ、家老原田甲斐宗輔(かいむねすけ)が突然安芸に斬(き)り付け』て『即死させ、甲斐もまた』、『斬られ』、『その夜』、『死亡した。兵部ら関係者は他家御預けなど処分を受け、甲斐一家も切腹を命ぜられ断絶した。綱村の伊達』六十二『万石は確認され』、『後見も解除された』とある。

「浪人伊藤七十郎」陸奥仙台藩士伊東重孝(寛永一〇(一六三三)年~寛文八(一六六八)年)。「浪人」は誤りウィキの「伊東重孝」より引く。『伊達氏家臣・伊東理蔵重村の二男として仙台にて誕生』。『伊東氏は工藤祐経の二男・祐長を祖とする。祐長は勲功により鎌倉幕府から奥州安積』四十五『郡(現在の福島県郡山市)を賜わる。代々奥州安積を領し』、永享一一(一四三九)年『に伊達持宗の麾下に属した。また、重孝の祖父・伊東重信は、戦国時代に伊達政宗に仕え』、天正一六(一五八八)年『の郡山合戦において』、『政宗の身代わりとなって戦死している武功ある家柄であった』。『重孝は、儒学を仙台藩の内藤閑斎(以貫)、京都にて陽明学を熊沢蕃山、江戸にて兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行にそれぞれ学ぶ。一方で深草にて日蓮宗の僧・日政(元政上人)に国学を学び、文学にも通じていた。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節をたっとぶ直情実践の士であった。熊沢蕃山に学んだ陽明の知行合一の学風をよく受け継いでいたといえる』。『伊達氏仙台藩の寛文事件(伊達騒動)において、重孝は伊達家の安泰のために対立する一関藩主・伊達宗勝を討つことを伊東采女重門と謀ったが、事前に計画が漏れて捕縛された。重孝は入牢の日より絶食し、処刑の日が近づいたのを知るや』、『「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、誠厥執中。古語云、身をば危すべし、志をば奪べからず。又云、殺べくして、恥しめべからず。又云、内に省てやましからず、是予が志也。食ヲ断テ、卅三日目ニ書之也 罪人重孝」と書いて小人組万右衛門に与えた』(漢文はほぼ「中庸」の一節。「人心、惟(こ)れ、危うく、道心(だうしん)、惟れ、微(び)なり。惟れ、精、惟れ、一(いつ)、[「誠」は重孝の衍字か。]允(まこと)に厥(そ)の中(ちう)を執れ」で、「人心は物欲に迷わされやすい危うさを持ち、真の道を学ばんとする道心も、これ、また、物欲に迷わされ、実際に発現し得るのは、ごくわずかなものに過ぎない。一心に精誠の道を求め、それを以ってしてその核心を捉えよ」といった意味である)。『これを書いた』四日後の寛文八(一六六八)年四月二十八日、『死罪を申し渡され、誓願寺河原にて処刑された。また一族は、御預け・切腹・流罪・追放となった』。『重孝の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ』、『気骨ある武士と評判の人物・重孝の処刑が』、『たちまち』、『評判となった。そのため』、『伊達宗勝の権力は陰りを見せていった。そして』、三年後の寛文十一年二月二十八日、『涌谷領主伊達宗重の上訴により』、『伊達宗勝一派の藩政専断による宿弊、不正、悪政が明るみとなり、宗勝や原田宗輔たち兵部一派が処分され』、『伊達家の安泰に及び、重孝の忠烈が称えられた』。延宝元(一六七三)年三月十八日には、『重孝の兄・重頼の子である伊東重良兄弟』三『人が流罪を赦され』、延宝三年五月、』伊達綱村の御世に伊東家は旧禄に復し』、『再興された』。『遺骸は阿弥陀寺(宮城県仙台市若林区新寺)に葬られたと伝えられ、のちに伊東家の菩提所である栽松院(仙台市若林区連坊)に伊東七十郎重孝の墓として祀られている。法名は鉄叟全機居士。また、当時の人々が重孝の供養のため』に『建立した「縛り地蔵尊」(仙台市青葉区米ヶ袋)は「人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる」と信仰され、願かけに縄で縛る習わしがあり、現在も毎年』七月二十三日と二十四日に『縛り地蔵尊のお祭りが行われている。さらに』昭和五(一九三〇)年には、『桃生郡北村(宮城県石巻市北村)に、重孝神社が創建され』、『その霊が祀られている』。『江戸幕府老中・板倉重矩の家老である池田新兵衛とは同門の学友であり、その縁で重孝は重矩に招かれて軍学を講じ、仕官をすすめられたこともあった』。また、『師の熊沢蕃山が題を出して和歌を詠ぜしめた時、重孝は即座に「心外無物 ちちの花も心の内に咲くものを知らで外ぞと思ふはかなし」「知行合一 写絵に芳野の花ははかるとも 行かでにほいを如何で知るべき」と詠んだ。この和歌を見た蕃山は、わが意を得たりと喜び、真に学士であると誉めたたえたという』。『重孝は処刑の際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け、われ報国の忠を抱いて、罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに癘鬼となって必ず兵部殿(宗勝)を亡すべし」と言った。そのためか』、『万右衛門の太刀は重孝の首を半分しか斬れず、重孝は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧み』、『「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤した。気を取り直した万右衛門は』二『度目の太刀で重孝の首を斬り落としたが、同時に重孝の体が果たして天を仰いだという。後に万右衛門は、重孝が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、大いに悔いて』、『阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建てて、重孝の霊を祀ったともいわれている』とある(下線やぶちゃん)。こちらの最期の話の方が、本怪異譚より遙かに凄絶で、且つ、激しく胸を打つものがある。

「九拾五里」三百七十三キロメートル。

「はがみ」「齒嚙み」。

「ざんせし」「讒せし」。

「寛文九年」一六六九年。伊東七十郎重孝斬罪の翌年。誤りではなく、彼の亡霊が死後一年のうちに讒言した者どもを、ことごとく、とり殺した、と読んでおく。]

老媼茶話巻之弐 只見川毒流

 

     只見川毒流(ただみがはどくながし)

 

[やぶちゃん注:本条は三年前の二〇一四年八月二十七日に私が公開した、根岸鎭衞(しずもり)の「耳囊 卷之八 鱣魚(せんぎよ/うなぎ)の怪の事」の注で電子化を行っているが、今回、本文校訂を再び行って、注も手直しして示す。]

 慶長十六年辛亥(かのとゐ)七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流(どくながし)をし玉へり。柿澁(かきしぶ)・蓼(たで)・山椒の皮、家々の民家にあてゝ、舂(つき)はたく。此折節、「ふじ」といふ山里、旅行(りよぎやう)の僧、夕暮、來り、宿をかり、あるじを呼(よび)て、此度(このたび)の毒流の事を語り出し、

「有性非性(うじやうひじやう)に及(およぶ)まで、命を惜まざるものなし。承るに、當大守、明日(アス)、此川へ毒流しをなし玉ふと也。是、何の益ぞや。果して、業報(ごふはう)得玉ふべし。何とぞ、貴殿、其筋へ申上(まうしあげ)、とゞめ玉へかし。莫太(バクタイ)の善根なるべし。魚鼈(ギヨベツ)の死骨を見玉ふとて、大守の御なぐさみにもなるまじ。いらざることを、なし給ふ事ぞかし。」

と深く歎(なげき)ける。

 あるじも、旅僧の志(こころざし)を申樣(まふすやう)、

「御僧の善根、至極、斷(ことわり)にて候得共、最早、毒流しも明日の事に候上(さふらふうへ)、我々しきの、いやしきもの、上樣へ申上候とて御取上(おとりあげ)も、是、あるまじ。此事、先達(せんだつ)て、御家老の人々、御諫(おんイサメ)ありしかども、御承引、無御座(ござなし)と承り候。」

といふ。あるじ、

「我身、隨分の貧者にて、まいらする物もなし。侘(わび)しくとも聞召(きこしめし)候へ。」

とて、柏の葉に粟の飯をもりて、旅僧をもてなしける。

 夜明(よあけ)て、僧、深く愁(うれひ)たる風情(ふぜい)にて、いづくともなく、出(いで)されり。

 拂曉(フツギヤウ)に、家々より、件(くだん)の毒類、持(もち)はこび、川上より流しける。

 異類(イルイ)の魚鼈(ギヨべツ)、死(しに)もやらず、ふらふらとして浮出(うきいで)ける。

 さも、すさまじき毒蛇も浮出ける。

 其内に、壱丈四、五尺斗(ばかり)の鰻、浮出けるに、その腹、大きに、ふとかりしかば、村人、腹をさき見るに、あわの飯、多く有。

 彼(かの)あるじ、是を見て、夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにぞ、聞入(ききいれ)、

「扨(さて)は。其坊主は、うなぎの變化(へんげ)來りけるよ。」

と、皆々、あわれに思ひける。

 同年八月一日辰の刻、大地震。山崩會津川の下(しも)の流(ながれ)をふさぎ、洪水、會津四郡を浸さんとす。秀行の長臣、町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫(えきふ)を集め、是を掘(ほり)、ひらく。此時、山崎の胡水(コスイ)、出來たり。柳津(やないづ)の舞臺も、此地震に崩れ、川へ落(おち)、塔寺(とうでら)の觀音堂・新宮の拜殿も、たをれたり。其明(あく)る年五月十四日、秀行卿、逝(セイ)し玉へり。人、皆、

「河伯・龍神の祟(タヽ)り也。」

と恐れあへり。秀行卿をば允殿館(じようどのがたて)に葬る。

 號弘眞院殿前拾遺覺山靜雲【秀行卿御影石塚蓮臺寺にあり。】

 秀行卿御辭世、

  人ぞしる風もうこかすさはくとはまつとおもわぬ峯の嵐を

 

[やぶちゃん注:以上見るように、蒲生秀行が毒流を強行した只見川周辺、及び、彼が助力した会津を守護するはずの神社仏閣が、一ヶ月後の大地震によってことごとく倒壊し、秀行もほどなく死んだ、という紛れもない衝撃的事実を殊更に並べ示すことによって、まさに典型的な〈祟り系の魚王行乞譚〉の様相を本話が美事に呈していることがはっきりと分かる、優れた構成を持つ伝承・怪奇譚であると思う。なお、本条は既に電子化注した三好想山(しょうざん)の「想山著聞奇集 卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」の本文でも触れられているので、是非、参照されたい。

「慶長十六年」西暦一六一一年。

「蒲生飛驒守秀行」蒲生秀行(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生賦秀(氏郷)嫡男。以下、ウィキの「蒲生秀行侍従によれば、文禄四(一五九五)年に父氏郷が急死したために家督を継いだ。この時、羽柴の名字を与えられた。遺領相続について、太閤豊臣秀吉の下した裁定は、会津領を収公して、改めて近江に二万石を与えるというものであったが、関白秀次が会津領の相続を認めたことにより、一転して会津九十二万石の相続を許されている。『その後、秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が許されたが、まだ若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため』、『家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動(蒲生騒動)が起こった』。慶長三(一五九八)年には秀吉の命で会津九十二万石から宇都宮十八万石に移封されたが、その理由としては、『先述の蒲生騒動の他に、秀行の母』、『すなわち』、『織田信長の娘の冬姫が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが』、『冬姫が尼になって貞節を守った事を不愉快に思った』からとする説、秀行が家康の娘(家康三女振姫(正清院))を『娶っていた親家康派』であったがため、『石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説』などもある。『秀行は武家屋敷を作り』、『町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて』、『番所を置くなどして』、『城下の整備を行ない、蒲生氏の故郷である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いで上杉景勝を討つため、徳川秀忠は宇都宮に入』り、『その後、秀忠も家康も西に軍を向けて出陣したため、秀行は本拠の宇都宮で上杉景勝(秀吉に旧蒲生領の会津を与えられた)の軍の牽制と城下の治安維持を命じられた』。『戦後、その軍功によって、没収された上杉領のうちから陸奥に』六十万石を与えられて会津に復帰、『秀行は家康の娘と結婚していたため、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された』。しかし、その後の会津地震や家中騒動の再燃なども重なり、その心労などのため、享年三十歳の若さで逝去している。『器量においては凡庸という評価がなされているが、父は氏郷、母は信長の娘、正室は家康の娘という英雄の血を受け継いだ貴公子であった。蒲生騒動の背景には、蒲生氏の減移封を目論んでいた秀吉及び石田三成らが騒動を裏で操って秀行を陥れたという説もあり、秀行の年齢・器量のみが原因と断定するには疑問が残る』とある。

「只見川」阿賀野川の上流の支流。ウィキの「只見川」より引く。『群馬県と福島県の境界にある尾瀬沼に源を発し』、『尾瀬を西へ流れる。いくつかの滝を経て』、『新潟県と福島県の県境を北へ流れ、福島県南会津郡只見町の田子倉に至り』、『北東へ向きを変える。わずかながらの平地を作りながら伊南川、野尻川、滝谷川を合わせ、柳津只見県立自然公園の中を流れ、福島県喜多方市山都町三津合で阿賀川(阿賀野川)に合流する』。

「毒流」「毒(どく)もみ」のこと。ウィキの「毒もみ」によれば、『海や河川などに毒を撒いて魚を取る漁法である。「毒もみ」とは宮城県などで使われる呼称で、他に毒流し(アメながし)(秋田県)、根流し(福島県)、ドウス(長野県)』『などと呼ぶ地方もある』。『主に歴史上における狩猟採集社会において用いられた。水の中に毒を撒き、魚を麻痺させたり』、『水中の酸素含有量を減らすことで、魚を簡単に手で捕まえることが出来るようになる』。『かつては世界中で行われており、その土地にある固有の有毒植物が使われていたが、日本では主に山椒が使われていた。川の中で山椒の入った袋を揉んで毒の成分を出すので「毒もみ」と呼ぶ(山椒の皮に含まれるサンショオールには麻痺成分がある)。日本では』昭和二六(一九五一)『年施行の水産資源保護法第六条で、調査研究のため農林水産大臣の許可を得た場合を除いて』、『禁止されている』。『現代では主に東南アジアで青酸カリを撒く漁法が行われており、これは環境に著しい負荷を与え、特にサンゴ礁を破壊することで問題となっている』。『淡水・海水問わず、毒もみに関しては世界中で歴史上の様々な文章に記されている』。『昔の人々は食料や医療目的など様々な用途に植物を使っており』、『植物の毒を漁につかうことは』、『人類の歴史の中で非常に古い習慣である。神聖ローマ帝国のフリードリヒ』Ⅱ世は一二一二年に『毒もみを禁止する法令を出しており、同様の法律が』十五『世紀までの他のヨーロッパ諸国にも存在した。アメリカの先住民族であるタラフマラ族も毒を用いた漁を行っていた』。『青酸カリなど』、『魚だけでなく』、『漁業者自身にも生命の危険がある科学的な毒物と違い、植物の毒は魚を一時的に麻痺させる程度の非常に弱いものなので、魚を多く捕まえられるよう』、『個人規模ではなく』、『なるべく』、『大規模』に、概ね、『渇水期』を対象に、『小さい沢で行われるのが一般的であった。現地で長く使われてきた植物の毒には現代の調査で薬効が見いだされ、例えば』、ツツジ目サガリバナ科Planchonioideae 亜科Careya Careya arborea(熱帯、特に熱帯アメリカ・西アフリカを中心に分布)『は鎮痛剤や抗下痢剤として利用されている』。「漁法」の項。『山椒の皮を剥い』で『乾かし、臼で搗き砕』き、その『粉末を、一貫匁』(約三キロ七百五十グラム)『につき木灰七百匁』(約二キロ六百二十五グラム)『の割合で混ぜる』。その『混合物を袋に入れ、河や池の水に入れ手で揉み解す』。『水中に有毒成分が流れ出し、魚は毒に中り腹を上にして浮びあがる』というのが一般的であった。『長野県の湯川では土中から産するミョウバンを流す漁があった。またオニグルミやタデの葉を使うこともあった』とある。ここに出る』柿渋や蓼も納得出来る混入素材である。

「ふじ」福島県河沼郡柳津町藤か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「有性非性(うじやうひじやう)」「有情非情」。人間や動植物に加えて、現在は生物学的には命を持たない石や水などを含めた世界に存在する全てのものを指す仏語。

「果して、業報(ごふはう)得玉ふべし」祟りの言上げである。

「莫太(バクタイ)の」「莫大の」。大いなる。

「魚鼈(ギヨベツ)」魚とスッポンであるが、ここは水産動物の総称。

「我々しきの」我々ごとき。「しき」は名詞「しき(式)」から生じた副助詞で、人代名詞に付いて、「~みたいなもの・~のようなもの」などの意を表わす。

「拂曉(フツギヤウ)」夜明け。明け方。

「浮出(うきいで)ける」読みは推定。「うかみいでける」かも知れぬ。

「壱丈四、五尺」四・一五~四・五四メートル。まさに化け物級の大鰻である。

「大地震」俗に「慶長会津地震」又は「会津慶長地震」と呼ばれ、慶長一六年八月二十一日(一六一一年九月二十七日)午前九時頃、会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生したもの。(以下、ウィキの「会津地震」によると、一説によれば、震源は大沼郡三島町滝谷(ここ(グーグル・マップ・データ))付近ともいわれるが、地震の規模マグニチュードは6・9程度と推定されており、震源が浅かったために、局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び、倒壊家屋は二万戸余り、死者は三千七百人に上った。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、七層の天守閣が傾いたほか、『会津坂下町塔寺の恵隆寺(えりゅうじ・立木観音堂)や柳津町の円蔵寺、喜多方市慶徳町の新宮熊野神社、西会津町の如法寺にも大きな被害が出たという』。『また各地で地すべりや山崩れに見まわれ、特に喜多方市慶徳町山科』(ここ(グーグル・マップ・データ))『付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため』、東西約四~五キロメートル、南北約二~四キロメートル、面積にして一〇~十六平方キロメートルに及ぶ山崎新湖が誕生、二十三もの集落が浸水したともいう。『その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)に』よって、三日目あたりから徐々に水が引き始めた(ここが本文の「胡水」の叙述に相当すると思われる。「胡」は会津の「西方」を意味するものと思われる。「胡」は古代中国に於いて北方・西方民族に対する蔑称であった)。『しかし』、『その後の大水害もあり』、『山崎湖が完全に消滅するには』三十四年(一説では五十五年)もの歳月を要し、『そのため』、『移転を余儀なくされた集落も数多』くあった。『さらに旧越後街道の一部が』、『この山崎湖に水没し、かつ』、『勝負沢峠付近も土砂崩れにより不通となって、同街道は、現在の会津坂下町内―鐘撞堂峠経由に変更されたため、同町はその後』、『繁栄することにな』ったとある。

「柳津の舞臺」「柳津」は現在の福島県河沼郡柳津町(ここ(グーグル・マップ・データ))。やはり会津の西方にある。ここの只見川畔にある臨済宗妙心寺派の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂は「柳津虚空蔵(やないづこくぞう)」として知られ、その本堂の前は舞台になっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「塔寺の觀音堂」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊は十一面千手観音菩薩で、寺自体を立木観音と通称する。この観音も会津地震で倒壊している。

「新宮の拜殿」現在の福島県喜多方市慶徳町新宮にある新宮熊野神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の旧山崎新湖が出現した位置の東北直近。ウィキの「新宮熊野神社」によれば、天喜三(一〇五五)年の『前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後』の寛治三(一〇八九)年の『後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという』源氏所縁の神社であったが、後、盛衰を繰り返した『慶長年間に入り』、『蒲生秀行が会津領主の時』、本社は五十石を支給されたが、『会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった』とある。

「允殿館(じようどのがたて)」「たて」の読みは推定。「たち・やかた」かも知れない。現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「號弘眞院殿前拾遺覺山靜雲」「弘眞院殿前拾遺覺山靜雲と號(がう)す」。原典には「號」の部分にのみ、「カウス」とルビがある

「石塚蓮臺寺」現在の福島県会津若松市城西町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗石塚山蓮臺寺。通称、石塚観音。キリシタンであった秀行の正妻で、家康三女の大のキリシタン嫌いであった振姫が厚く信仰した(秀行没後、振姫は他の藩主に嫁いでいる)。但し、戊申戦争の際に本寺は焼け落ちた。現存するものの、常住する僧もいないらしい(個人サイト「天上の青」の「石塚観音」に拠った)。

「人ぞしる風もうこかすさはくとはまつとおもわぬ峯の嵐を」ここのみ底本表記のままに示した。和歌嫌いなのでよく判らぬが、一応、整序すると、

 人ぞ知る風も動かず捌(さば)くとは松と思はぬ峯の嵐を

か? しかしこれでは意味もよく判らぬ。辞世らしく読み解くならば、

――世人も知っている、風も吹かぬ先に松が風で切り裂け(「捌く」)たようになるというのは、「松」が峰の嵐を「待つ」暇(いとま)もなく身を自ら致命的に裂くからであろうか?――

という意味か? 自信は全くない。識者の御教授を乞うものである。]

2017/10/04

老媼茶話巻之弐 怨積靈鬼

 

     怨積靈鬼(をんせきりやうき)

 

[やぶちゃん注:やや長いので、今回の注は私の作った段落末に、各個、配した。]

 

 江戶糀町(かうぢまち)の裏店(うらだな)を借り、甚九郞といふ壱人者(ひとりもの)、纔成(わづかなる)小間物を賣(うり)、其日を送り有ける。

 ある日、壱人の女、見せ先へ來り、腰をかけ、ものをもいはず、忙然(ばうぜん)として、日暮るゝまで立(たた)ず。

 甚九郞、女にいふやう、

「もはや日暮におよぎ候儀、見せを仕舞申(まうす)。御立(おたち)玉はれ。」

といへども、返事せず。弐、三度いわれて、女、振歸り見て、

「此方(こなた)の事に候哉(や)。先より、氣色(けしき)惡しく、目まい、いたし候まゝ、御斷(おことわり)も申さず休(やすみ)おり候が、兎角に一足も引(ひか)れ不申(まうさず)。近頃、わりなき申(わりなき)事に候得ども、今宵斗(ばかり)は、とめて給(たまは)れかし。」

と云。

 甚九郞、申樣、

「安き事に候へども、私も借屋者にて候。殊に女の御壱人(おひとり)、御つれもなく、いづく、いか成(なる)所の人と申(まうし)事もぞんじ不申、とめ候事、なり難し。御宿所(ごしゆくしよ)、仰聞(おほせきか)され候得。箯(あんだ)にて送りとゞけ遣すべし。」

といふ。

[やぶちゃん注:「箯(あんだ)」は「箯輿(あんだ)」で音が転じて「はんだ」とも呼び、低料金の粗末な駕籠(かご)のこと。負傷者や罪人などを乗せて担いだ。]

 女中は、

「某(それがし)は遠(とほき)在鄕のものにて、何の御氣づかひなるものにても無之(これなく)候。大屋へは左樣(さやう)御申(おまうし)なされずとも、一夜(ひとよ)斗(ばかり)は御とめ給はれ。」

とて、懷より金三分出し、宿代とて甚九郞に渡しける。

[やぶちゃん注:「金三分」江戸後期の標準換算でも現在の三万七千五百円ぐらいにはなる。]

 甚九郎、是にめでゝ、

「一夜斗(ばかり)は。」

とて、粉藥抔(など)をあたへ、よくよく、いたわりぬ。

 夜明(よあけ)て、女、いふ樣、

「御心もしらず、そこつに思召(おぼしめす)べく候得ども、其方(そなた)には御内儀樣も無御座(ござなし)と見へたり。御ふしやうながら、我等を女房になされ下されかし。さも候はゞ、幸(さいはひ)、金子少々所持致し候に、あきなひ元(もと)にいたし、渡世の便(たより)にもし玉へかし。」

とて、金弐三拾兩、いだす。賤(いやし)きものゝ淺ましさには、此金にめでゝ、夫妻のかたらひをなし、大屋へは、

「國本より從弟(いとこ)の尋來」

由、僞り、月日を送りける。

[やぶちゃん注:「ふしよう」「不肖」。未熟で劣れる者。

「弐三拾兩」当時の一両は六万相当であるから、百八十万円相当になる。]

 甚九郞、合借屋(あひじやくや)に、源吉と云(いひ)て是も壱人者にて、日々、棒手振(ぼてぶり)をして渡世とす。

[やぶちゃん注:「合借屋」相借屋。同じ棟(むね)に借屋すること。相店(あいだな)。]

 或夜、更(ふけ)て隣の紙窓(かみまど)より、稻光(いなびかり)、ひらめき出(いづ)る。

 源吉、不思義に思ひ、しのび寄り、窓より内をのぞき見るに、甚九郞は、四、五日先、他所へ商ひに出(いづ)る。女房、ひとり、留守に有けるが、女房がつらつき、おそろしきけだ物の面(つら)の樣に成(なり)て、油つぎより、かはらけへ、あぶら、なみなみとうけ、一口に吞(のみ)ほし、灯を吹(ふき)けし、伏(ふせ)ける。

[やぶちゃん注:「つらつき」「面つき」。顔つき。

「けだ物」「獸物(けだもの)」。

「油つぎ」「油注ぎ」。

「かはらけ」「土器(かはらけ)」。素焼きの杯(さかずき)様の入れ物。]

 其形、月影にて見るに、小牛のふしたる如し。

 源吉、大きにおどろき、その翌日、甚九郎、歸りけるに、ひそかに右のあらましかたり聞せければ、甚九郞、きもを消し、何となく女房の氣色を伺ひ見るに、餘(よ)のつねの女にあらず。腹立(はらだち)ぬる事有(ある)時は、眼(まなこ)さかつり、口、廣く成り、眼より、てらてらと、光、差出(さしいで)、人を、いる。容義うつくしき時あり、物すさまじき時(とき)有。長(たけ)高き事有、ひくき事有。

『いかさま化物なるべし。』

と思ひ、何とそして暇(いとま)をくれたくおもひ、大屋と示し合置(あはせおく)。

[やぶちゃん注:「餘(よ)のつね」他の普通の女。但し、「世の常」とも掛けて、実は人間の女でない妖怪に変ずる宿命的属性を内包していることをも伏線としていよう。]

 ある時、源吉、來り、甚九郞に申(まうし)、

「大屋殿より、こなたの内義の事に付(つき)用有(あり)とて參りたり。大屋へ行(ゆき)玉へ。」

といふ。甚九郞、

「何事に候哉(や)。大屋殿、度々、行衞も知らぬ女、久しく留置(とめおく)とて家替(いへがへ)をせよと云(いひ)給ふ。また其事成るべし。」

と、つぶやきながら、源吉と打達大屋へ行(ゆく)。

 早速歸り、甚九郞、女房に申樣、

「今度(このたび)、天下一統、御觸(おふれ)有。其趣(おもむき)は先月始(はじめ)、奧州棚倉(たなぐら)櫻町みさかや助四郞といふものの女房、夫を殺し、舅・姑を差殺、金銀を盜取(ぬすみとり)、家へ火を付(つけ)、燒上(やきあげ)、淨土寺法恩寺の一空といふ坊主と打(うち)つれ、逐電せしむ。その火、町中、燒拂ひ、棚倉の御城内迄、火、入(いり)、少々御城中も燒たる故、きびしき御詮義にて、坊主はとらへらるゝといへども、女、今以(いまもつて)、行衞、不知(しれず)。依之(これによつて)、怪敷(あやしき)女をばとらへ置(おき)、町御奉行申出(まうしいだし)候樣にとの御觸也。大屋どのも、先(まづ)、そなたを親里へ返し置(おき)、源吉、媒(なかだち)にて、改(あらため)て女房に致し候樣に、との事也。我、今に取紛(とりまぎれ)、親里へも尋ねず。幸(さいはひ)なり、けふ、親里へともなひ行(ゆく)べし。用意し玉へ。」

と、誠(まこと)しやかに僞(いつは)る。

[やぶちゃん注:「棚倉」棚倉(たなぐら)藩。陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩で、藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町。ここ(グーグル・マップ・データ))。城下になくてはいけないはずの「櫻町」「法恩寺」は不詳。作り話だから、いいかっ。]

 女、大(おほ)きに氣色を替(かへ)、といきをつひて腹を立(たて)、

「我身事、先達(せんだつ)ても申(まうす)通り、親兄弟すべて、親類のゆかりと申も、なきものにて、誠に世の中の獨り者也。夫(それ)を知りながら、今更、天下の御觸有(あり)抔と僞り玉ふ。大惡の缺落(かけおち)もの、すへて人體書(にんがき)ありて其人の年頃・みめかたち・勢(せい)の長短・衣類衣服の色迄も、細かに御ふれ有(ある)事なれば、我等にてなき事は、知れたる事。是は我身にあきはてゝ、暇(いとま)をやらんとの工夫也。それはぞんじもよらず、この世は扨置(さておき)、後の世の其後(のち)のよも、はなるゝ事は、あるまじきものを。情なき仕方なり。」

とて、すさまじき氣色になり、つかみかゝらん有樣、以の外、おそろしかりければ、甚九郞もすべき樣なく、けつく、樣々、咤言し、漸(やうやう)なだめ置(おき)ぬ。

[やぶちゃん注:「けつく」「結句」。結局は。]

『所詮、此女、捨(す)さりにして、他國にて生涯を極むべし。』

と思ひ定(さだめ)、女房に向ひ、

「此所に居(をる)故に、とかくに、めん倒(だう)也。我、川崎に好身(ヨシミ)有。彼(かの)所へ登り、茶屋を立(たつれ)ば、夫婦(めをと)、樂々と過(すぐす)べし。十日斗(ばかり)の内に事を究(きはめ)、迎(むかへ)に歸り下るべし。夫(それ)まで待(まつ)べし。」

とて、旅用意をし、上方登らず、引違(ひきちが)ひ、奧の三春(みはる)といふ所へ下り、二日町といふ所に宿とりて、廿日斗(ばかり)過(すぎ)ける夕べ、甚九郞、借屋の庭へ、光り物、落(おち)ける。

[やぶちゃん注:「三春」現在の福島県田村郡三春町(みはるまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「二日町」は不詳。]

 其夜、更(ふけ)て、寢屋の戶をたゝくものあり。

「たれそ。」

といへば、江戶に捨置(すておき)たるつまの聲にて、

「爰(ここ)、明け玉へ。」

と云(いふ)。

 おそろしさに音もせず、夜の衾(ふすま)を引(ひき)かぶり、息をころして居(ゐ)たりけるが、程なく、戶を押破(おしやぶ)り、甚九郞が伏(ふし)たるまくらもとへ、女房、來り、甚九郞を引起(ひきおこ)し、絕(たえ)て音づれざりし恨みをいゝ募り、泣(なき)ぬ。

 甚九郞、ふるへ、ふるへ、樣々に云(いひ)なだめ、かくて、五(いつ)、七日(なぬか)も過(すぎ)けるが、

「兎角、この女と壱所(ひとつところ)に有(あり)ては、行末、よかるまじ。ひそかにおびき出し、山中にて差殺(さしころ)し、後難をまぬかるべし。」

と、おもひ定(さだむ)。

 ある時、女に申けるは、

「此邊も、又、おもわしからず、是より猶、奧へ下り、仙臺にて、兎も角も、渡世をいとなむべし。是より仙臺へは行程、二、三日の事也。」

とて、女房をすかし、其曉、熊山へ懸り、谷よ峯よと、さまよひ、山中、とある辻堂にいたり、

「爰にて暫く休むべし。」

とて、晝飯など、取出(とりいだ)し、ひとつにしたゝめ、折を見合(みあはせ)、立上(たちあが)り、脇差を引拔(ひきぬき)、女の胸元を突(つき)つらぬく。

[やぶちゃん注:「熊山」不詳。

「ひとつにしたゝめ」殺害の契機を逃さぬために、食事を一つに纏め、妻との位置を近接に確保したということであろう。]

 女、

「わつ。」

と、いいながら、夫(ヲソト)に取懸るを、取(とつ)て押伏(おしふ)せ、引(ひき)あをむけ、ふえのくさりをかき切(きる)。

[やぶちゃん注:「ふえのくさり」「くさり」の原義は「関節」であるが、ここは「笛のくさり」の形で、「咽喉仏(のどぼとけ)の軟骨」を指す。]

 あまりにおそろしく、身の毛立ければ、足にまかせ、夜もすがら、山路をたどり、山陰の小寺壱有(ある)に行付(ゆきつき)て、門をたゝき、案内するに、小僧、立出(たちいで)、戶をひらき、内へ、いるゝ。

 住僧は六十字(ムツジ)あまりに見へて、風骨、凡ならず。甚九郞を見、驚(おどろき)て、

「汝は、必(かならず)、此山中にて山姑(サンコ)・旱母(カンボ)の類(たぐひ)に逢(あひ)たるへし。死、卽刻にあり。つゝまず、語れ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「六十字(ムチジ)あまり」「六十路餘り」。六十歳余り。

「風骨」風体(ふうてい)。見た感じの様子。

「山姑(サンコ)」山姥(やまうば・やまんば)と同義。奥山に棲む老女の怪。山に棲み、人を食らうとされた。「鬼婆」「鬼女」とも同じい存在と考えられた。

「旱母(カンボ)」魃(ばつ/ひでりがみ)のことで、本来は中国神話に登場する旱魃の女の鬼神で、手足がそれぞれ一本しかない妖怪とされるが、本邦に輸入されると、山姥と習合した嫌いがある。ここも差別化した妖怪種として名指し、僧が自身の知をひけらかそうとした感があるように私は思う。]

 甚九郞、不思義の女に逢(あひ)ける始終、事細かに語る。

 僧、聞(きき)て、

「是、怨積の靈鬼といふもの也。女を殺し、災(ワザワイ)をまぬかるゝとおもへども、其靈鬼の魂(たましひ)、汝が身に付添(つきそひ)有(あり)。今夜、必ず、汝が精血を吸(すひ)、肉を喰ひ、骨をかみ、一寸の皮骨も殘さじ。誠、不便(ふびん)の事也。我、其災を除きとらせん。その女を殺せし所へ行(ゆき)、其死骸を持來(もちきた)るべし。」

と云。

 甚九郞、おそろしく思ひけれども、又、元の道に立歸り、女を殺せし辻堂にいたり、女の死骸を見るに、眼をてんがんに見はり、齒がみをし、まゆを八字にしかめ、さも、すさまじき體相(ていさう)也。この死骸を菰(こも)につゝみおいて、寺へ歸り、和尙に見せしむ。

[やぶちゃん注:「てんがん」「天眼」。真っ直ぐに宙天を睨んでいる眼を指す。非常に強い禍々しい陰気を持っていることの証しである。]

 和尙、女の死骸を見玉ふに、旱母・山姑の類なり。

 和尙、則(すなはち)、死骸に立(たち)むかひ、その額に、「鬼畜變體卽成佛(きちくへんたいそくじやうぶつ)」の七文字を書(かき)、首に血脈袋(けちみやくぶくろ)と數珠(ずず)をかけさせ、白かたびらを着せ、あたらしき桶に入(いれ)、柱杖(シユジヤウ)を以(もつて)、棺を一卓(タク)し、垂示(スイシ)の句をしめして後、

「今、汝に授(さずけ)る所は『トン成佛』の妙文(みやうもん)なり。靈鬼(りやうき)、請(うけ)たもち、必ず、地獄へだざいせしむること、なかれ。則(すなはち)、法名『妙空』となづく。」

と合掌し、念佛讀經し、さて、甚九郞に向ひ、

「其方はこの棺を佛壇へそなへ、其片原(かたはら)に、終夜、念佛申(まうし)、いかやうのおそろしき事ありとも、聲をも立(たて)ず、有(ある)べし。若(もし)、聲を立(たて)、驚きさわぎなば、靈鬼の爲に、命をうばはるべし。」

とおしへ、甚九郞、和尙の敎(をしへ)のごとく、棺を佛壇に備へ、其かたはらに有(あり)て、念佛となへ夜の明(あく)るを待(まつ)に、夜、深更に及んで、雨、一降り、降出(ふりいだ)し、稻光、ひらめき、佛壇、鳴動し、棺の内、しきりに呼(よぶ)聲、有(あり)て、内より、棺の蓋を押明(おしあけ)、女の死骸、立出(たちいづ)る。

[やぶちゃん注:「血脈袋」在家の受戒者に僧が授ける法門相承の系譜を入れた袋。死後、棺に納める。

「だざい」「堕罪」。

「片原」「傍ら」。]

 其有樣を見るに、長(た)七尺斗(ばかり)にて、髮をふり亂し、眼はかゞみのごとく、口さけのぼり、額に牛のごとくの角、二、生出(おひいで)、あたりを見𢌞し、甚九郞をみて、已に、飛ひ懸らんとせしが、首に懸たる血脈袋と珠數を見付(みつけ)、是をしきりにはづさんとする事、數度(すど)なりしかども、終(つひ)にはづし得、甚九郞が事も、打(うち)わすれ、曉に至りて、死骸、佛だんに倒れて、後、弐度、起(おき)す。

 甚九郞、彌(いよいよ)、念佛、申居(まうしゐ)たりける。

 曉に成(なり)、和尙、來り給ひ、此由を見て、

「扨は。其(その)靈鬼、妄念、過(すぎ)たり。心安く思ふべし。」

とて、又、改(あらため)て女の死かばねを取(とり)おさむ。

 女の顏色、もと見しとは替り、にうわの體相(ていさう)となり、目をふさぎ、口をとぢたり。

[やぶちゃん注:「にうわ」「柔和」。]

 火葬し、死骸を、經文書(かき)しかたびらに包み、念頃に掘埋(ほりうづ)む。

 甚九郎は再生の恩を得て、和尙の元にて剃髮し、名を「空丹」と名付、道心けんごにて終りけると也。

[やぶちゃん注:「けんご」「堅固」。

 なお、本話は田中貢太郎が「山姑(やまうば)の怪」として現代語訳している。青空文庫」で読めるが、原話の方が遙かに、よい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 雀


Susuzme

   

 

 私は獵(れう)から戾つて、庭の並木道を步いてゐた。犬は私の前を駈けてゆく。

 ふと、犬は步(あし)を小刻みにして、行手に獲物を嗅ぎつけでもしたやうに忍び足をしはじめた。

 見ると並木道の先の方に、まだくちばしのまはりの黃色い子雀がゐた。頭には和毛(にこげ)が生えてゐる。並木の白樺を風がはげしく搖すぶつてゐるところを見れば、子雀は巣から振り落されたのに違ひない。やつと生えかけた翼を力なく廣げたまま、じつと身じろぎもぜずにゐる。

 犬はそろそろと步み寄つた。すると不意に、ほど近い梢から、胸毛の黑い親雀が、まるで小石のやうに犬のすぐ鼻先へ落ちて來た。總身の羽を逆立て、あさましい姿になつて、懸命の哀れな聲をふり絞つて、二度ばかり、齒を剝きだした犬の口めがけて、襲ひかかつた。

 親雀は子の命を、救はうとしたのだ、身を以て子を庇はうとしたのだ。けれど、その小さなからだは激しい恐怖にうち戰き、啼く聲は次第にかすれ、枯れて、つひに氣を失つて倒れた。その身を犧牲にしてしまつたのだ。

 雀にしてみれば、犬の姿はどんなに大きな怪物に見えたことだらう。それにも拘らず、親雀は高い梢に安閑としては居られなかつたのである。意志よりも強い何ものかの力が、親雀に身を投げださせたのである。

 私の犬は立止つて、じりじりとあと退(ずさ)りをした。彼も、この力に打たれたものと見える。

 私は、當惑してゐる犬を呼び返して、肅然とした思ひでそこを立去つた。

 さう、どうぞ笑はないでください。私は、このけなげな小鳥の前に、その愛の發露の前に、肅然として襟を正したのである。

 私は心のなかでかう思つた――愛は死よりも、死の恐怖よりも強い。それに依つてのみ、愛によつてのみ、生活は支へられ、推し進められるのだ。

             一八七八年四月

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ふたつの四行詩


4p

   ふたつの四行詩

 

 昔ある所に町があつた。その町の人々は大そう詩が好きで、一月ほども新しい名詩の一篇すら現れずに過ぎやうものなら、そのやうな詩の凶作を何かしら現代の不祥事と思ひ込むほどであつた。

 さういふ時は、てんでに一番惡い着物を着て、頭に灰を振りかけて町の廣場に集まり、淚を流しながら、「ミューズよ、ミューズよ、なんぞ我らを見棄て給ふや」と訴へた。

 やはりそんな凶つ日のこと、群衆の歎きに滿ち溢れた町の廣場に、若い詩人ユニウスが姿を現した。

 彼は急ぎ足で、詩のために特に築かれた演臺(アルドン)に上り、朗讀の合圖をした。

 警吏が束桿(ファスケース)を振つて、「靜かに、聴き漏らすな」と聲高に叱咤すると、群衆は鳴りを鎭めて、片唾を飮んだ。

「はらからよ」と、ユニウスは大聲に、けれど何處となく定まらぬ調子で始めた。

 

   はらからよ、詩神(ミューズ)の前に額(ぬうか)づきて、

   美はしき、雅びの道を行く人よ

   束の間のくらき歎きに胸な破りそ

   時の來て、光は闇を散らしなん

 

 ユニウスは默つた。その沈默に應ずる如く、舌打ち嘲笑が廣場の隅々から卷起つた。

 顏という顏は忿怒に燃え、眼という眼は怨恨にきらめき、總ての腕は威嚇の拳を固めて、悉く天を指した。

 「そんなこけ威しに乘ると思ふか」と、人々は一齊に怒號した、「その碌でもない韻律詩人を引きずりおろせ。そこの阿房を、そのとんでもない道化野郎を、腐れ林檎と腐れ玉子で叩き出せ。石を呉れ、石を寄越せ。」

 きりきり舞ひして、ユニウスは演壇(アムドン)を馳せ下りた。が、まだ家に歸り着かぬうちに、熱狂した群衆の拍手の響、歡呼の嵐が、遙かに傳はつて來た。

 ユニウスは訝しさに堪へず、とは言へ憤(いき)り立つた獸をつつくのも危險な業なので、人目につかぬ樣に氣を配りながら、廣場に取つて返した。

 そこに彼の見たものは。――

 犇めく群衆の頭上高く差上げられた黃金の大楯の上に、亂れた髮に月桂冠を戴き、紫金の短袍(クラミス)を肩に掛けて、彼の競爭者、若い詩人ユリウスが立つてゐる。群衆は彼を取圍んで、口々に喚く。「榮あれ、榮あれ、不滅のユリウスに榮あれ。われ等の歎き、深い悲哀を慰むる者。また蜜より甘く鐃鈸(ねうばち)よりも妙に、薔薇よりも香はしく空の藍よりも淸らな詩の贈り主。勝鬨あげて擔(か)き上げよ。靈感滿てるその頭を、蘭麝の香に焚きしめよ。熱い額は棕櫚の枝葉で扇いで冷せ。その足許に薰も高いアラビヤ沒藥を振り注げ。榮あれ。」

 ユニウスは、矢張り歡呼する群衆の一人の男に近寄つた。

 「失禮ですが、教へて下さいませんか。一體どんな詩で、あのユリウスは皆の心を樂しませたのでせうか。殘念ながら、朗讀の時、丁度居合せなかつた者です。もしもまだ憶えてお出でなら、お願ひですから聞かせて下さい。」

 「あの詩を、どうして忘れましせう」と相手は勇んで答へた。「お見違ひでは迷惑します。まあお聽きなさい、そして貴方も一緒にお喜びなさい。」

 「『額(ぬか)づける』と初めの文句はかうでした。――

 

   額づける、詩神(ミューズ)の前のはらからよ

   雅びたる、筝の音(と)覓(と)めて行く人よ

   束の間のおもき惱みに胸な破りそ

   時の來て、晝は夜闇(よやみ)を逐ひぬべし

 

 如何です。」

 「冗談ぢやない」とユニウスは叫んだ、「それは僕の詩だ。さてはユリウス奴、僕の朗讀を人混みに紛れて立聞きしたな。ただ僕の言ひ𢌞しを、二つ三つ下手に言ひ變へただけぢやないか。」

 「やあー、化の皮が現れた。君はユニウスだつたな」と、相手は顏を顰めて言ひ返した、「君は燒餅屋か、でなけりや阿房だ。氣の毒だが、まあ考へて見ろ。ユリウスの、『晝は夜闇を逐ひぬべし』邊りの響きの高さはどうだ。所が君のは『光は闇を散らしなん』とか何とか、さつぱり要領を得ん。一體どんな光が、どんな闇をだい。」

 「だつておなじぢやないか……」と、ユニウスは言ひかけた。

 「ええ、まだ言ふのか」と、相手は遮つた、「一言でも言つてみろ、皆を呼んで八つ裂にしちまふぞ。」

 考深いユニウスは口を噤んだ。すると今まで二人の言爭ひを聞いてゐた白髮の老人が、靜かに不幸な詩人に近づき、その肩に手を置いて言つた。

 「ユニウス! お前は自分の歌を歌つた。けれど、時を得なかつた。あれのは成るほど借物には違ひないが、時を得た。だからあれを怨むには當らぬ。お前にはその代り、良心の慰めがある筈だ。」

 その良心が、一人取殘されたユニウスを、實は頗る賴りない手際で、一生懸命慰めてゐる間に、遙か歡呼と拍手の湧く邊り、莊嚴な太陽の金色の粉を浴びて、紫金の外套を燦かせ、月桂冠に眉を翳らせ、宛ら王領に入る王者の威容を以て身を反返らせたユリウスの姿が、夥しい蘭麝の波を分けて靜々と進んだ。彼の步みにつれて棕櫚の長枝が次々に傾きかかる有樣は、魅了し盡された市民らの心に刻一刻と新たな讃嘆の情を、その物靜かな虔ましい起伏に依つて、恰も象徴するかの樣に。

              一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:本篇は三箇所の不備があったので、特異的に訂した

 一つ目は、ユニウスが最初に質問をする台詞「失禮ですが、教へて下さいませんか。……」の頭に、底本では鍵括弧が脱落して一字下げで始まっている点で、脱記号と断じて訂した

 二つ目は、その質問に答えた男の答えが、底本では「あの詩を、どうして忘れましせうと」となっており、続きから見ても最後の「と」は引用の格助詞以外の何ものでもないと判断されることから、錯字と断じて「と」を鍵括弧の外に出した点である。

 三つ目は、それに続く男の台詞、『「お見違ひでは迷惑します。まあお聽きなさい、そして貴方も一緒にお喜びなさい。」』の最後の、鍵括弧閉じる、が、底本にはないことである。これは無くても直接、直接話法で続いていることから、読んでいてたいした抵抗はないし、こうした用法をする作家もいはする。しかし、約束事としてそれを打たぬのは本篇(というよりもほん「散文詩」に於いて)では明らかな異常用法となってしまうので、脱記号と断じて鍵括弧を附した

 なお、ルビの「ミューズ」は本文に照らして、「ファスケース」は現行の一般表記から、拗音で表記した。

 

「凶つ」「まがつ」。災厄の。

「ユニウス」原文“Юний”。これはラテン語の“Junius”で、これは恐らく実在した古代ローマの風刺詩人・弁護士であったデキムス・ユニウス・ユウェナリスDecimus Junius Juvenalis(五〇年?~一三〇年?)がモデルであろう。暴虐であったローマ帝国第十一代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスTitus Flavius Domitianus(五十一年~九十六年)治世下の荒廃した世相を痛烈に揶揄した詩を書き、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の格言で有名な詩人である(但し、この格言は誤解されており、ユウェナリス自身の謂いは、腐敗した政治の中で堕落した生活を貪る不健全な人(=肉体)に対して健全な魂と批判精神を望むものであったことは、あまり知られていない)。ちなみに彼は「資本論」にも言及されている。

「演壇(アムドン)」原文は“амвона”であるが、私の露和辞典には所収せず、ラテン語辞典を調べても類似した単語は見当たらなかったが、“амвон”はネットの機械英訳にかけると“pulpit”と訳され、これは「(教会の)説教壇」のことである。そこで英語の辞書を見ると、“ambo”という単語があり、「初期キリスト教会等の説教壇」・「アンボ」・「朗読台」と言った訳が見出せた。

「束桿(ファスケース)」原文は“жезлами”で、これは“жезл”(ジェズル)、権威や職権を表わす杖・棒・笏(しゃく)を指すから、持つ警官から警棒の意である。ルビのそれは、英語ではなく、ラテン語の“fasces”(ファスケース)で、しかもただの棒ではなく、「束(たば)」を意味するラテン語の名詞“fascis”(ファスキス) の複数形であって、通常は斧の周りに細い木を、多数、結びつけた有意に太く長い束状の棒を指す。参照したウィキの「ファスケス」によれば、『古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトルが捧げ持った権威の標章として使用され』、二十世紀になって、なんとかの「ファシズム」(fascismo:イタリア語)の『語源ともなった。日本語では』「儀鉞(ぎえつ)」や「権標」、『木の棒を束ねていることから』、「束桿(そっかん)」『などと訳される』とある。

「片唾を飮んだ」ママ。正しくは「固唾」。

「短袍(クラミス)」原文は“хламидой”“Хламида”、英語の“Chlamys”で、古代ギリシア・ローマの一枚布を使ったワンピース型の上着(外套)であるヒマティオン(himation)の短いものを指す。

「ユリウス」原文“Юлий”これはラテン語の“Julius”で、ローマ人にはありがち名であり、私は特定人物ではなく、「ユニウス」の詩の剽窃をする者としての剽窃された名と捉えている。

「鐃鈸(ねうばち)」シンバル。

「蘭麝」「らんじや(らんじゃ)」は蘭の花と麝香の香り。また、よい香り。

「アラビヤ沒藥」原文は“аравийских мирр”アラビック・ミルラ。薬品名。アラビア南西部山岳地帯の数ヶ所と対岸の東アフリカのソマリアの一定地域に限定されて生育するカンラン科ミルラノキ属 Commiphoraの植物の樹皮の樹汁を自然に乾かして固めた赤褐色の植物性ゴム樹脂。黄黒色で臭気が強い。エジプトでミイラ製造の防腐剤や薫香料に用いられ、現在でも鎮痛剤・健胃薬・嗽い薬などに利用される。基原植物によって品質に差があり、アラビア没薬は最上級品に属する。

「お見違ひでは迷惑します」日本語としては意味不明中山省三郎譯では『僕をどんな人間だと思つてるんです?』、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」では、『見そこなってもらっては困ります』。残念ながら、神西の本訳はこれらに劣る

「ユリウス奴」「奴」は「め」。「め」は罵りの意を表す接尾語。三人称の人代名詞の表記にそれを当て読みさせたもの。

「ユニウス! お前は自分の歌を歌つた。けれど、時を得なかつた。あれのは成るほど借物には違ひないが、時を得た。だからあれを怨むには當らぬ。お前にはその代り、良心の慰めがある筈だ」よく考えると、この「漁父之辞」の老荘的思想の持ち主である漁父を髣髴させる老人は「ユリウスは時機に合った、自分の詩ではない他人の詩を歌ったからこそよかったのだ!」という謂いで解いているのではなかろうか? 真実の自分の心の叫びでは「時機に合う」ことは実は不可能なのだ、という深遠な哀しい真の芸術の運命的真理をツルゲーネフは読者に語りかけているように私には見えるのである。

「燦かせ」「きらめかせ」。

「宛ら」「さながら」。

「反返らせた」「そりかへらせた」。

「虔ましい」「つつましい」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 東方傳説


Touhoudennki

   東方傳説

 

 誰かバクダットの都に、宇宙の太陽、大なるジヤッファルを知らぬ者があらうか。

 その昔、まだ若冠のジヤッファルは、或る日バクダツドの市外を逍遙してゐた。

 不圖彼は助けを呼ぶ嗄れた聲を耳にした。

 ジヤッファルは、知慧と深慮を以て、遙か同輩に擢んでてゐた。また慈悲心に富み、且つ、自らの膂力を賴んでゐた。

 彼は悲鳴をめざして馳せ寄つた。見ると二人の追剝が、よぼよぼの老人を市壁に押しつけて、あわや狼籍に及ぼうとしてゐる。

 ジヤッファルは矢庭に長劍の鞘を拂つて、惡者に打掛つた。そして一人を仆し、他を走らせた。

 かうして危難を免れた老人は、救ひ主の足もとに跪坐して、その衣の裾に口づけながら、呼ばはつた、「心毅(たけ)き若者よ、御身の義俠は酬い無しには濟まされぬ。風體こそ見ての通りの乞食ながら、その實わしは只人ではない。明日の朝まだきに、大市場まで來るがよい。噴水の傍で待つてゐよう。ゆめ此の言葉を疑ふな。」

 ジヤッファルは心に思った、「成るほど見掛けは乞食だが、世の中には何があるか測り知られぬ。物は試しだ。……」そこで答へて言つた、「御老人、畏りました。」

 老人は彼の眼に見入り、さて立去つた。

 翌る朝、まだ太陽の出ぬうちに、ジヤッファルは市場に赴いた。老人は大理石の水盤に肘をついて、既に彼を待受けてゐた。

 老人は、無言のままジヤッファルの腕を取つて、丈高い四壁を遶らした小園に導いた。

 綠滴る園の芝生の中央には、曾て見たこともない樹が一本生えてゐる。

 どうやら絲杉に似てゐるが、その葉は大空の瑠璃色だ。

 天を指して曲(くね)る細枝に、三つの果實――三つの林檎が生(な)つてゐる。一つはほどよい大きさで、稍々細長く、乳のやうに白い。もう一つは大きくまん圓で、血のやうに赤い。殘る一つは小さくて皺が寄つて、色も黃ばんでゐる。

 風もないのに、樹々はさらさらと鳴つた。その音は玻璃の鈴を振るやうに微かで、何か物悲しい。樹はジヤッファルの訪れを知るものの樣だつた。

 「さて若者よ」と、老人が言つた、「あの實のうち、好きな一つを捥ぐがよい。白いのを捥いで食べれば、世に雙びない賢人になる。赤いのを捥いで食べれば、猶太人ロスチャイルドに劣らぬ金持になる。黃色いのを捥いで食べれば、年寄りの女に氣に入る樣になる。どれなりと選ぶがよい。しかし早く決めねばならぬ。一時間もすれば、あの實はしなび、聲もない大地の底に此の樹は沈む。」

 ジヤッファルは頭を垂れて、沈思した。

 「どれにしよう」と、恰も自らに問ふやうに呟いた、「餘り賢くなると、きつと世の中が厭にならう。誰よりも金持になると、人の妬みを買ふだらう。いつそ、あの皺のある黃色いのにしよう。」

 若者はそれを捥いで食べた。すると老人は齒の無い口で笑つて言つた、「おお、賢い若者よ。御身は一番よいのを選んだ。今更白い實を取つて何にならうぞ。御身の知慧はソロモンにも勝るではないか。紅いのも御身には要らぬ。それは無くとも、金持になれよう。今はもうどんな金持にならうと、誰の妬みも受けまい。」

 「御老人、教へて下さい」と、急(せ)き込んでジヤッファルは言つた、「アラーの護らせ給ふわが教王(カリフ)の、尊き母君は何處にお住ひでせうか。」

 老人は地にひれ伏して、若者に道を教へた。

 誰が、バクダッドの都に、宇宙の太陽、大いなるジヤッファルの名を知らぬ者があらうか。

             一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:「バクダット」「バクダツド」の拗音の不揃いは底本のままとした。

「ジャッファル」原文は“Джиаффара”で、ラテン文字表記に直すと“Dzhiaffara”である。この詩のエピソードは「アラビアン・ナイト」第十九話にある「三つの林檎の物語」に想を得ているものと思われ(ウィキの「千夜一夜物語のあらすじの「られた女と三つの林檎と黒人リハンとの物語(第十八夜~第二十四夜)を参照されたいが、話は全く異なり、三つの林檎の役割も違うが、林檎が葛藤のシンボルとして登場する点では共通する)、「ジャッファル」が、その主人公由来であるならば、同じ「アラビアン・ナイト」第九百九十四夜~第九百九十八夜の「ジャアファルとバルマク家の最後」にその悲劇的な最期も描かれているところの、実在したイブン・ヤフヤー・ジャアファル(ibn Yahya Ja'far 七六六年?~八〇三年)である。アッバース朝の宰相ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男で、父ヤフヤー・兄ファドルとともに、アッバース朝第五代カリフであったハールーン・アッ=ラシードに仕えた人物である。ウィキの「ジャアファルを参照されたい。

「擢んでて」「ぬきんでて」。

「膂力」「りよりよく(りょりょく)」と読む。本来は背骨の力、そこから全身の筋骨の力の意となった。

「遶らした」「遶(めぐ)らした」。

「捥ぐ」「もぐ」。

「ロスチャイルド」Rothschild。ユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(一七四四年~一八一二年)は当初、フランクフルトの古物商であったが、当時は未だコレクションの対象でなかった古銭に着目して、珍品コインを収集、それに纏わる逸話集を添えて好事家の貴族に売り捌いて成功、その後、それを元手に金融業を起こして財産の基礎を形成した。その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国にロスチャイルド財団を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた八年前(一八七〇年)には、ロスチャイルド銀行による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対して隠然たる権力を有しているとされる。勿論、ここでこの老人が時代の合わないロスチャイルドを引き合いに出すこと自体、本話がツルゲーネフによる全くの作り事、パロディであることの証左である。本詩篇の原題はВосточная легендаで、“легенда”(ラテン文字転写:legenda)は、ご覧の通り、英語の“legend”である。ところが、ロシア語の“легенда”という単語には、「作り話・ありそうもないこと」という意味もある。また、「猶太人」とわざわざ断ったところには(原文“еврей”(イェヴレーイ))、ツルゲーネフの中に、当時、一般的であったユダヤ人への差別感覚が窺われるところでもある(彼のユダヤ人への強い差別意識については、呉燕論文「『猶太人の浮世』から『憂患余生』へ語彙の選択から見る近代日中間の「重訳」(PDF)を参照されたい)。なお、同じくロスチャイルドを詩中に挙げる、後掲の「二人の富者」も参照されたい。

「ソロモン」旧約聖書「列王記」に記される古代イスラエル王国第三代の王(在位:紀元前九六五年頃~紀元前九二五年頃)。父はダビデ。ユダヤの伝承では神から知恵の指輪を授かり、多くの天使や悪魔を使役したとも言われる。イスラム教でも預言者の一人として認められており、アラビア語で「スライマーン」と呼ばれる。ユダヤ教徒と同様、偉大なる知恵者とし、精霊ジンを操つることが出来たとする。

「教王(カリフ)の、尊き母君」ここで彼がカリフの母への対面を求める意味は私には判らないが、ウィキの「ジャアファルによれば、彼の『兄ファドルはハールーンの乳兄弟で、ハールーンの母ハイズラーンとハールーンの乳母(ファドルとジャアファルの母)とは非常に親しかったらしい』とある。なお、ジャアファルの『人柄は謹厳実直な兄のファドルとは異なり』、『闊達で洒脱で機知に富んでいたという。ハールーンは後に妹のアッバーサを彼に嫁がせたぐらいである』ともある。]

老媼茶話巻之弐 猫魔怪

 

     猫魔怪(ねこまのくわい)

 

[やぶちゃん注:三話からなるので、各話間に一行空けを施して読み易くした。]

 

 加藤明成の士、武藤小兵衞と云(いひ)て、弐百石領、壱の町に住す。此小兵へ、東澤田村といふ所より、美女を召抱(めしかかへ)、寵愛する。其先、小兵衞妻に、伊藤三四郎と云て【弐百石取三の町。】、その娘を約せり。此故に、母、進めて其女、暇(いとま)を出し、家へ歸しけるに、其女、澤田村より鶴沼川・大川とて二の大河を越(こえ)て、夜每(よごと)に來り、枕をならべ契りを結ぶ事、前のごとし。

 ある夜、冬の事なりしに、小兵衞、夜咄しに行(ゆき)、夜更(よふけ)て歸り、女を待(まつ)中(うち)に、至て大雪、崩すかごとく降(ふり)、其(その)刻(こく)、いつとなく、小兵衞、ねふりける。此折、女、雪もいとはず、來りて、障子を靜(しづか)に明(あ)け、小兵衞が枕元に彳(タヽズミ)けるが、たちまち、虎毛の大猫となり、飛懸りけるを、小兵衞、目を覺し、脇差を拔(ぬき)、突(つき)とめけるに、二刀(ふたかたな)差(ささ)れて、障子を破り、外へ出るを、追續(おひつづけ)、切殺し、見るに、隣の太田又左衞門と云ものゝ家に年久敷(としひさしく)飼(かひ)ける猫にて有(あり)けると也。

 

 「著聞集(チヨブンシウ)」に、觀教(くわんきやう)法印、嵯峨のゝ山莊にて、から猫を飼しに、能(よく)玉を取(とり)ければ、祕藏の守刀(まもりがたな)を取出(とりいだ)し、玉に取らせけるに、件の刀をくわへて、何地(いづち)へやらん逃失(にげうせ)ぬ。人人、尋求れども、行方知れず成りにき。猫またの所爲(しよゐ)なりと記せり。猫、年經て飼(かふ)時は必ず災(わざはひ)をなすもの也。

 

 加藤明成の侍に平田庄五郎【知行五百石馬場口に住ム。】と云ものの老母、至(いたつ)て猫を祕藏し、孫子といへども其愛に不及(およばず)。

 ある年、諏訪の社(やしろ)へ詣で、圓魔堂の松原にて、赤毛の猫を拾ひ、大きに悦び、宿へ歸り、祕藏して飼ける。其描、いつくともなく、失(うせ)ける。

 まもなく、庄五郎母、目を煩ひ、あかるき所を嫌ひ、いつも闇(くら)き所にすむ。

 庄五郎、

「目醫者に見せ、療治をせん。」

といへども、老母、用ひず。老母、そばづかひの女、打(うち)つゞき、弐人迄、行衞なく失(うせ)て、行方を尋ぬれども、見へず。

 或時、下男、うらの畑を打けるに、土底(つちどこ)より、衣裳のすその見へけるまゝ、ふし義におもひ、ふかく掘(ほり)て見るに、缺落(かけおち)せしといひける女弐人の衣裳、あけに染(そみ)たるを、寸々にくらゐさき、埋(うづ)め置(おき)ける。生(ナマ)しき骸骨も有ける。

 大きに驚き、急(いそぎ)此衣裳を取持(とりもち)、主人庄五郎に告(つげ)んと、内へ入らんとする折、老母いつくともなく、缺來(かけきた)り、件(くだん)の衣裳をもぎ取、

「己(ヲノレ)、此衣裳・がい骨(コツ)の事、庄五郎につげば、忽(たちまち)、喰殺(くひころ)すべし。」

と、大きに、いかりし面付(つらつき)、眼(まなこ)、大きく、口、廣く、さもすさまじき氣色(けしき)なりしかば、下男、ふるひわななき、それより、虛病(きよびやう)して庄五郎方、暇(いとま)を取ける。

 其後、誰(たれ)いふともなく、

「庄五郎母は猫また也。」

と專ら沙汰する。

 庄五郎隣に梶川市之丞といふ侍、或時、曉(あかつき)かけ、遠乘(とほのり)に出(いで)んとして、表を見るに、庄五郎老母、口のうち、血みどろにして、門(かど)、いまだ明(あか)ざるに、

「ひらり。」

と塀を躍(をどり)こへ、表に出(いで)、前の流れ水にて、口をすゝぎける。

 興德寺前の山高忠左衞門が黑犬、一さんに飛來り、老母の左の腕にくらゐ付けるを、老母、犬を振(ふり)はなち、又、高塀をおどり越、内入(いる)。

 梶川見て、

「扨は、猫また、老母に化(ばけ)たるに疑ひなし。」

と思ひ、其夕べ、庄五郎をよび、今朝(けさ)見し有樣、細かに語りければ、庄五郎、聞(きき)て、

「扨は疑(うたがひ)もなく、猫、我母を喰殺し、老母に變化(へんげ)たる物也。我母、常々、後生願(ごしやうねがひ)にて、朝夕、佛勤(つとめ)をなしけるが、去(さる)夏より、佛に香花(かうげ)たむくる事なく、目に煩ひ有(あり)て、日の光りを見る事をいとひ、闇き所にありて、終(つひ)に我にも對面せず。今、おもふに、猫は、目の玉、十二時に替る。此故に、われに對面する事をいとふ物ならん。さらば犬を懸(かけ)て見ん。」

とて、一物(いつぶつ)の犬、四、五疋、借りあつめ、老母の住める部屋へ放(はなち)て入れければ、犬ども、老母をみて、吠怒(ほえいか)り、四、五疋の犬ども、飛懸り、首骨・手足・腰・腹へ、おもひおもひに、くらゐつく。

 老母、正體をあらはし、さしも、したゝか成(なる)赤猫と也(や)、四疋の犬どもと、暫くかみ合(あひ)けるが、四、五疋の犬、飛懸り、飛懸り、散々に喰殺(くひころ)しける。

 是は去年(こぞ)、庄五郎母、諏訪詣でける折、圓魔堂の邊よりひろひ來(きた)る猫、老母をくひ殺し、己(おのれ)、母に變化(へんげ)たるものなり。金花猫(きんかびやう)とて、赤猫は年久敷(としひさしく)は、かわぬもの也。

 

[やぶちゃん注:「加藤明成」(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は陸奥国会津藩第二代藩主。ウィキの「加藤明成」によれば、天正二〇(一五九二)年、『加藤嘉明の長男として生まれ』、寛永八(一六三一)年『の父の死後、家督と会津藩』四十『万石の所領を』相続している。慶長一六(一六一一)年に起った『会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築』いた。『堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて』寛永二〇(一六四三)年に改易となった。『その後、長男・明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居し』ている。最後の話と合わせて、本書の序は寛保二(一七四二)年であるから、凡そ百年以上前の古い話ということになる。それにしても、加藤明成の配下がかくも猫に祟られるのは、これ、主君に対して、猫の恨みや祟りがあるのではないか? と勘ぐりたくはなる。

「武藤小兵衞」不詳。以下、分らぬ人物は注さない。

「壱の町」福島県会津若松市上町(うわまち)一之町。ウィキの「上町会津若松市によれば、『若松城下の城郭外北部に属しており、西側の大町から馬場町を経て東側の甲賀町に至る東西を結ぶ通りで、幅は』四間(七百二十七メートル。)『あった。西側の大町から馬場町までを下一之町、東側の馬場町から甲賀町までを上一之町といった』とある。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。

「小兵へ」「小兵衞(ひやうゑ)」。助詞の「へ」ではない。

「東澤田村」不詳。後の二河川を渉って来るとなると、この中央辺り(グーグル・マップ・データ)となるが、鶴ヶ城城下までは直線でも二十キロメートルはある。事実、ここから毎夜来ること自体があり得ないですよ! 小兵衛殿!

「鶴沼川」現在の福島県の中通り地方の岩瀬郡天栄村を中心に流れる阿賀野川上流の支流。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大川」福島県南西部の福島・栃木県境の荒海山に源を発し、会津盆地で日橋川と合する阿賀野川の上流部で会津若松市市街の西を北流する阿賀川の別称。

「ねふりける」「睡りける」。

「突(つき)とめけるに」「突き止めけるに」。突いて襲いかかるのを留(とど)めたところが。

「著聞集(チヨブンシウ)」「ちよもんしふ」が正しい。鎌倉時代前半に伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」は単に「著聞集」とも呼ぶ。以下は、「卷十七 變化」の「觀教法印が嵯峨山庄に飼はれたる唐猫、變化の事」。

   *

 觀教法印が嵯峨の山庄(さんざう)[やぶちゃん注:山荘。]に、うつくしき唐猫の、いづくよりともなくいできたりけるを、とらへて飼ひけるほどに、件(くだん)のねこ、玉をおもしろくとりければ、法印、愛して、とらせけるに、祕藏のまもり刀をとりいでて、玉にとらせけるに、件の刀をくはへて、猫、やがて、逃げ走りけるを、人々、追ひてとらへんとしけれども、かなはず、行かたを知らず、失せにけり。この猫、もし、魔の變化(へんげ)して、まもりをとりて後、はばかる所なく、犯して侍るにや[やぶちゃん注:法印に危害を及ぼしもしたかも知れぬではないか?]。おそろしき事也。

   *

「觀教(くわんいやう)法印」御願寺(ごがんじ)僧正(承平四(九三四)年~寛弘九・長和元(一〇一二)年)俗名は源伸輔。右大弁公忠(光孝天皇の孫で三十六歌仙の一人)の子。二条天皇の東宮時代からの護持僧。

「圓魔堂」「閻魔堂」。

の松原にて、赤毛の猫を拾ひ、大きに悦び、宿へ歸り、祕藏して飼ける。其描、いつくともなく、失(うせ)ける。

 まもなく庄五郎母目を煩ひ、あかるき所を嫌ひ、いつも闇(くら)き所にすむ。

 庄五郎、

「目醫者に見せ療治をせん。」

といへども、老母、用ひず。老母、そばづかひの女、打(うち)つゞき、弐人迄、行衞なく失(うせ)て、行方を尋ぬれども見へず。

「ふし義」ママ。「不思議」。

「缺落(かけおち)」「駈け落ち」。単に「逃げて行方をくらますこと」。

「缺來(かけきた)り」「駈け來り」。

「虛病(きよびやう)して」病いと偽って。仮病をして。

「猫また」「猫又」「猫股」などと書き、日本古来からある、猫の妖怪。

「曉(あかつき)かけ」「かけ」は「驅け」で、未明から馬を走らせ。

「明(あか)ざるに」「開かざるに」。

「興德寺」現在の福島県会津若松市栄町に現存する臨済宗瑞雲山興徳寺。(グーグル・マップ・データ)。最初の話の武藤小兵衛の屋敷とごく直近。ここら一帯、猫又の巣窟かいな? ウィキの「興徳寺会津若松市によれば、弘安一〇(一二八七)年に蘆名氏第五代『蘆名盛宗が鎌倉より大円禅師を招き開山したと伝えられる。その後、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が会津支配の仮館をおき、また豊臣秀吉が奥州仕置の御座所とした。蒲生氏郷により城下町が整備され寺院が郭外に移された際も、その由緒と格式により唯一郭内に留まる事を許された』。但し、『戊辰戦争により、堂宇(堂の建物)をことごとく焼失、昔日の面影はない。現在、寺内には、蒲生氏郷の五輪塔(墓)があるが、これは氏郷没後に子の蒲生秀行によって建立されたもので、病のため京都で亡くなった氏郷の遺髪がおさめられている。また、すぐ脇には氏郷の辞世の歌碑も残っている』とある。

「後生願(ごしやうねがひ)」仏心厚く、ひたすら、来世の極楽往生を願うこと。また、そういう人を指す。

「十二時に替る」「十二時」は一日二十四時間を概ね二時間当てで十二支で十二に分けた、十二時辰(じゅうにじしん)のこと。一日のうち、約二時間ごとに光彩が顕著に変化することを指す。

「一物(いつぶつ)」「一」には底本の編者の添字で『逸』とあるので、かく読んだ。群を抜いて優れているもの。

「したゝか成(なる)」「強(したた)かなる」。一筋繩でいかない手強(ごわ)いさま。

赤猫と也(や)、四疋の犬どもと、暫くかみ合(あひ)けるが、四、五疋の犬、飛懸り、飛懸り、散々に喰殺(くひころ)しける。

「己(おのれ)」副詞でとっておく。ひとりでに。自然と。

「金花猫(きんかびやう)」化け猫研究家二庵倉イワオ氏のサイト「にゃん古譚」のの妖怪に、『中国浙江の金華地方にいるという妖猫。人に飼われて、早』や、『三年で妖化する』。『屋上に昇って月日を仰ぎ、その精を吸って怪異をなす』とされ、『相手によって』は『美男美女に化けるという』。『黄猫(日本でいう赤虎毛)が最も化ける確率が高いという。猫鬼の一種』とある。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 田父(へびくいがえる)


Hebikuigaeru

へびくひかへる   【音論】

田父

          【閉比久比加閉流】

テン フウ

 

本綱田父蝦蟇大者也能食蛇蛇行被逐殆不能去因銜

其尾久而蛇死尾後數寸皮不損肉已盡矣文字集畧云

蝦蟇也大如履能食蛇卽此也蓋蛇吞鼠而有食蛇之

鼠蛇制豹而有噉蛇之豹則田父伏蛇亦此類耳非恠也

△按説文云【音倫】蛇類黑色潛於神泉能興雲雨異於前

 説同名異品未詳

――――――――――――――――――――――

谿狗 【乎奈加加閉流】生南方溪澗中狀似蝦蟇尾長二四寸

山蛤 有山石中藏蟄似蝦蟇而大黃色能吞氣飮風露

 不食襍蟲山人食之能治疳疾

 

 

へびくひかへる   【音、論〔(リン)〕。】

田父

          【閉比久比加閉流。】

テン フウ

 

「本綱」、田父は蝦蟇〔(かへる)〕の大なる者なり。能く蛇を食ふ。蛇、行きて逐はるゝに、殆んど去ること、能はず。因りて、其の尾を銜〔(は)〕み、久しくして、蛇、死す。尾の後〔(しり)〕へ、數寸、皮、損ぜず〔に〕、肉、已に盡〔(つ)〕く。「文字集畧」に云はく、『は蝦蟇〔(かへる)〕なり。大いさ、履〔(くつ)〕のごとく、能く蛇を食ふ』といふは、卽ち、此れなり。蓋し、蛇、鼠を吞(の)み、而〔も〕、蛇を食ふ鼠、有り。蛇は豹を制して、而〔も〕、蛇を噉〔(くら)〕ふ豹、有るときは、則ち、田父の蛇を伏〔(ぶく)〕すも亦、此の類〔ひ〕と〔す〕るのみ。恠〔(あや)〕しむに非ざるなり。

△按ずるに、「説文」に云はく、『【音、倫。】、蛇の類にして、黑色。神泉に潛みて、能く雲雨を興〔(おこ)〕す』とあり。前の説に異〔なる〕なり。同名異品か。未だ詳かならず。

――――――――――――――――――――――

谿狗〔(けいく)〕 【「乎奈加加閉流〔(をながかへる)〕」。】南方〔の〕溪澗の中に生ず。狀、蝦蟇〔(かへる)〕に似、尾の長さ、二~四寸。

山蛤〔(さんかふ)〕 山石の中に有り。藏蟄〔(ざうちつ)〕〔せるは〕蝦蟇〔(かへる)〕に似て、大なり。黃色。能く氣を吞み、風・露を飮み、襍蟲〔(しふちゆう)〕を食はず。山人、之れを食ふ。能く疳疾を治す。

 

[やぶちゃん注:これは所謂、「大蝦蟇(おおがま)」で、無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonida の巨大個体とするしかあるまい。本邦ならば、既に「蟾蜍」で候補提示した、本邦固有種と考えられているヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus(亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus・亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus)であるが、記載自体が「本草綱目」等に占められており、良安ももてあましていることは見え見えである。無論、「ヘビクイガエル」等という和名の種はいない。大型のヒキガエル類を食う蛇は本邦でも普通におり、特に毒蛇であるヤマカガシ(有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus)はヒキガエルの毒に耐性があると推定され、好んで捕食し、それどころか、ヤマカガシの頸部等から分泌される毒はヒキガエルの毒を貯蓄して利用していることが判っている。逆に「蛇食い蛙」となると、小型の蛇ならばヒキガエルでも食うが、大型の蛇(例えば先のヤマカガシ)を食う蛙となると、本邦では外来種の、カエル目ナミガエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属 Aquarana 亜属ウシガエル Rana catesbeiana が挙げられる。しかし、東京帝国大学教授で殖産のために外来種持ち込みを積極的に行ったことで悪名高い動物学者渡瀬庄三郎が日本に食用として本種を持ち込んだのは大正七(一九一八)年であるから、ここに候補として出すことは出来ない因みに、持ち込まれた場所は私の住む大船であり、その餌としてやはり持ち込まれたのが、アメリカザリガニであって、それらが洪水によって全国にばら撒かれてしまったのである(このことは、何時か、別なところでテツテ的に糾弾したいと思っている)

 

」「音、論〔(リン)〕」大修館書店「廣漢和辭典」に、「」の原義は『うねり行くさま』で、第二義に『蝦蟇(がま)・へびくいがま』とし、第三義に『蛇の一種。神蛇という』としながら、続いて『また、へびくいがま』とする。孰れの場合も音は「リン」である。「論」の字は、通常音は「ロン」であるが、「筋道」の意で用いる時には、同辞典に『倫に通ずる』とある。本文でも後の「説文」で「音、倫」とするところから、ここは「リン」とした。東洋文庫訳でも「リン」とルビする

「文字集畧」梁の阮孝緒(げんこうちょ 四七九年~五三六年:彼は三国時代の「竹林の七賢」の一人でその指導者的人物であった阮籍(二一〇年~二六三年)の後裔である)の撰になる字書。

「蓋し、蛇、鼠を吞(の)み、而〔も〕、蛇を食ふ鼠、有り。蛇は豹を制して、而〔も〕、蛇を噉〔(くら)〕ふ豹、有るときは、則ち、田父の蛇を伏〔(ぶく)〕すも亦、此の類〔ひ〕と〔す〕るのみ。恠〔(あや)〕しむに非ざるなり。」訓読が不全である(私が補ったものを完全にカットして、訓読通りに示すと、「蓋し、蛇、鼠を吞(の)み、蛇を食ふ鼠、有り。蛇は豹を制して、蛇を噉ふ豹、有るときは、則ち、田父の蛇を伏すも亦、此の類とるのみ。恠しむに非ざるなり。」となって如何にもおかしいことが判然とする)。ここは、

「蓋し、蛇、鼠を吞めども、蛇を食ふ鼠も有り。蛇は豹を制すれども、蛇を噉ふ豹も有り。則ち、田父の蛇を伏すも亦、此の類ひとするのみ。恠しむに非ざるなり。」

とでも訓じないと、日本語としては不十分であると私は思う。意味は、

「思うに、蛇は鼠を丸呑みするが、蛇を食う鼠もいる。また、蛇は豹を威嚇して襲うことがあるが、蛇を食う豹もいる。思うに、この田父(へびくいがえる)が蛇を咬み押さえて食うという行動もまた、これに類するごく当たり前のことに過ぎない。怪しむに足らぬことなのである。」

の謂いである。

「神泉に潛みて、能く雲雨を興〔(おこ)〕す」中国お得意の神仙幻獣物へのスライドである。「前の説に異〔なる〕なり。同名異品か。未だ詳かならず」とわざわざ附す良安の気が私は知れない。

「谿狗〔(けいく)〕」(「ク」は呉音。漢音なら「コウ」。東洋文庫は後者で振る)これは「本草綱目」の蛙類の独立項で、「蝌斗」と次の「山蛤」の間に配されてある。「蝦蟇〔(かへる)〕に似、尾の長さ、二~四寸」(六・一~十二センチメートルほど)とあって、良安がわざわざ和名を「乎奈加加閉流〔(をながかへる)〕」とする以上、原典が「蝌斗」の後でもあり、大型の蛙類の一種の、オタマジャクシからの変態過程の後期の一状態を指して独立種と誤認しているに過ぎぬのではなかろうか?

「山蛤〔(さんかふ)〕」「蝦蟇〔(かへる)〕に似て、大なり。黃色。能く氣を吞み、風・露を飮」むとするのでは何をか言わんやであるが、「山人、之れを食ふ。能く疳疾」(「驚風」と同じく、小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する)「を治す」とする以上は実在種である。食用にする点では以前に挙げた、俗に「水鶏」「田鶏」と呼ばれるカエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属トラフガエル Rana tigerina、カエル亜目ヌマガエル科ヌマガエル属ヌマガエル Fejervarya kawamurai などが想起されるものの、これらは水辺に棲息するので、条件に合わない。そこで調べて見ると、Majin氏の個人サイト「ドダン・ブーファンのポトフ」の食用カエル」に出る(リンク先には捌いた蛙の生肉の写真もあるのでクリックはくれぐれもご注意あれかし!)「山鶏(サン・ジー/石鶏(シー・ジー)」が最も相応しい候補のように思われた。そこには(学名は斜体に直し、一部、命名者名を学名の一部とした箇所をカットさせて貰った)、『アカガエル科。見た目は、ヒキガエルに似ているが、別種のようだ』。『動物学上の中国語名は棘胸蛙、和名はスピノーザトゲガエル、英名はジャイアント・スピニー・フロッグ(Giant Spiny Frog)、学術名はパー・スピノザ(Paa spinosa)。他には、ラナ・スピノザ(Rana spinosa)』『との記述も見られる』。『別名石鶏(シー・ジー)とも呼ばれ、中国南部からベトナム北部の山間の冷涼な渓流に住む。成長すると、ウシガエルほどの大きさになるそう』で、『田鶏より、さらに美味いとされ、特に、黄山で獲れたものは、味が良く珍重される』。『乱獲のため、絶滅に瀕しているため、現在盛んに養殖されている』とある。但し、英語版ウィキのQuasipaa spinosaによれば(本種はRana latransRana spinosaPaa spinosa をシノニムとするとある)、本種はアカガエル科ではなく、ヌマガエル科ヌマガエル亜科 Quasipaa 属スピノーザトゲガエル Quasipaa spinosa とされてある。

「藏蟄〔(ざうちつ)〕」東洋文庫訳では『あなごもり』とルビする。

「襍蟲〔(しふちゆう)〕」「襍」は「入り混じる」の意であるが、普通の蛙が捕食する「種々雑多な」虫類(この場合は本草上の爬虫類や両生類(蛙類には共食いをする種も多い)も含んだ広義のそれ)の意。]

2017/10/03

老媼茶話巻之弐 敵打

 

     敵打 

 

[やぶちゃん注:途中に出る漢詩は前後を空け、後に訓点に従い、添えられた読みを参考に、詩の直後に独自の書き下し文を添えた。] 

 

 加賀の大聖寺(だいしやうじ)の御城主に仕へける堀伊兵衞といふ士、假初(かりそめ)に風の心地とて惱みけるが、命の限り有(ある)事は權者(けんじや)も遁(のがれ)ざる世の習ひ、針灸・藥の術を盡せども、無常の嵐に誘れ、今年六拾參を此(この)よの限りとして、冥土黃泉(かうせん)の客と成ぬ。妻子眷屬、つどひ集りて泣かなしめども、甲斐ぞなき。なきがらは菩提所仙福寺と云(いふ)山寺へ送り、去(さる)べき日斗(ばかり)詣でつゝみれば、そとば、ものふりて、夕の嵐、夜の月のみぞ、事とふよすがなく、かくて、日も程なく立行(たちゆき)て、百ケ日も過(すぎ)ければ、伊兵衞忰(せがれ)伊右衞門に、五百石の家督、相違なく續目(つぎめ)の御禮、首尾能(よく)申上(まうしあげ)ければ、此(この)悦(よろこび)として、伊右衞門一族、多宮將監、伊右衞門を初(はじめ)、親類、大勢、招き、樣々けうおう、美を盡し、伊右衞門、角力好(すまひずき)なれば、將監、抱への相撲取共、召寄(めしよせ)、庭に土俵をならべ、角力とらせけるに、兼て此催し、伊右衞門、傳聞(つたへきき)、我も抱への相撲取嵐山・赤鬼・仁王倒し抔(など)と云(いふ)力自慢のものども、召連行(めしつれゆき)、將監方(かた)のすまふと合せける。伊右衞門方の角力取ども、隨分、結(むす)び共(ども)なるが、如何したりけん、壱番も勝(かた)ず。伊右衞門方の赤鬼と將監が鐵金輪と云(いふ)に取合(とりあひ)けるに、伊右衞門祕藏の赤鬼、鐵金輪に腕車(うでぐるま)に懸(かけ)られ、左右前後、風車の樣にまわされ、場中、於(おい)てうつふしになげふせられ、鼻を打(うち)、血を出し目を𢌞し、暫(しばらく)起(おき)あからず、散々の體(てい)也しかば、見物の若輩、一度に聲を上

「やいや、赤鬼殿。鬼味噌になられたり。」

と、どつと、笑ふ。

 伊右衞門、大きにせいて、赤面し、血眼(ちまなこ)になり、物をも云(いは)ず、羽織袴をなげ捨(すて)、ふんどし斗(ばかり)にておどり出(いで)、

「角力には、必(かならず)、結(むす)ぶと申(まうす)事候。將監、御出(おいで)候へ。一番、取可申(とりまうすべし)。」

と土俵の眞中へ進み出、力足をふむ氣色(けしき)、只ならず。

 將監、何氣なく打笑(うちわらひ)、

「座興も事にこそより候得(さうらえ)。六拾に餘る角力、おとなげなく候。まげて御許し候へ。」

といふ。

 相客も皆、笑止に思ひ、さまざま取持(とりもつ)といえども、伊右衞門、承引せず。

 將監、若(もし)取らずむは差違(さしちがふ)べき氣色なりければ、

「負も勝も時のなぐさみ。さらば、御相手に罷出(まかりいづ)べし。」

と、將監もはだかに成り、土俵に入(いり)、伊右衞門と相向ふ。

 行事、團扇(ぐんばい)を入(いれ)、あわせける。

 將監は年こそ寄(より)たれ、元來、力強かりければ、何の手もなく、伊右衞門、二番ながら、土俵の外へ突出(つきだ)しける。

 伊右衞門、大力に突(つか)れ、二、三間、只(ただ)走り、まをのけに倒れける。

 伊右衞門、漸(やうやう)をき直り、急ぎ座敷入り、衣裳を着し、大小取(とる)もあへず、亭主に暇(いとま)も乞はず、我家へ歸りける。相客も不興にて、酒、早々に、皆々、暇乞して立歸りぬ。

 是より將監・伊右衞門が中、不和に成(なり)、何事と言(いふ)分(わけ)もなく、半年斗(ばかり)も出入(でいり)、なし。

 其年の秋、八月十五夜、多宮將監は、城外近く、山寺へ月見の爲にまねかれ、終夜(よもすがら)、月を詠めける。其夜、名にしおふ月影の、いと、くまなくすみのぼり、千里の外も曇りなかりけるに、將監、詩を賦して曰(いはく)、

 風微雲捲啓南軒

 萬里賞看月一痕

 常避世喧夜來靜

 松林深所叫孤猿

  風 微(ひそ)かに 雲 捲きて 南軒(なんけん)を啓(ひら)けば

  萬里 賞(しよう)じ看る 月 一痕

  常に世の喧(かまびす)しきを避け 夜來 靜か

  松林 深き所 孤猿 叫ぶ

 斯(かく)て曉近くなりければ、亭僧に暇をつげて、まるどもへの紋(もん)付(つけ)し灯燈(あかり)ともさせ、靜(しづか)に宿へ歸りける。

 山寺を出離(いではなれ)て、松の並木はるばると、片野ゝ地藏堂の片陰に、非人、こもをかぶり、伏居(ふしゐ)たりける。

 將監をやり過(すご)し、立上(たちあが)り、刀を拔(ぬき)て走り懸り、先(まづ)、灯燈を切落(きりおと)し、返す刀にて、將監を後より、けさに切付(きりつく)る。

 將監、

「是は。」

と刀に手を懸(かけ)、振返りけるを、すかさず、首を切落し、供(とも)の若黨、うろたへさわぐをさんざんに切(きり)ちらし、行衞不知(しれず)成(なり)たり。

 將監供の者、急ぎ走り歸り、

「斯(かく)。」

と云。

 將監一子仙助、此由を聞(きき)て、取る物も取あへず、いまを限り、缺付(かけうけ)て、父が討(うた)れし有樣をみて、恨氣、胸にふさがり、暫し、前後、わきまへず。

「さもあれ、何者か。いかなる意趣にて、かく、闇打(やみうち)になしつらん。」

と思ひ合するに、急度(きつと)、思ひ出(いで)けるは、

「此春より、伊右衞門、相撲の意趣により、一族の内といへ共、今以(いまもつて)、音信(いんしん)なし。其相撲の節は、我(われ)、江戶に有(あり)て委(くはしき)樣子は不知(しらず)、定(さだめ)て伊右衞門が所爲(しよゐ)成(なる)べし。」

と、急ぎ、伊右衞門缺付しに、はや、跡けして行方なく、仙助、しゝのはがみをなし、

「己(おのれ)、いづくへ隱るゝ共、ならくの底迄も尋出(たづねいだ)し、敵(かたき)を打(うた)て置(おく)べきか。」

と、此趣、國主へ訴へ、首尾能(よく)御暇を申請(まうしうけ)、早々、國を立出(たちいづ)る。

 國々里々、尋𢌞(たづねまは)り、ある時は虛無僧となりて、十字街道に尺八を吹(ふき)て家々に立寄(たちより)、窺(うかがひ)あるき、又は、乞喰(こつじき)にさまをかへ、刀を杖に仕込(しこみ)、脇差を菰(こも)に包み、つゞれを着(ちやく)し、人の門(かど)に彳(たたずみ)て内の樣子を伺ひ、樣々、心を盡し、近江國水口(みなくち)の城主鳥井播磨守殿城下の町に入(いる)。

 或賑賑敷(にぎにぎしき)大屋敷行(ゆき)、物を乞(こふ)に、佛事有(あり)とみへて、讀經の音、聞(キコ)へ、上下(かみしも)抔、着したる物、餘多(あまた)出入もあり。主(あるじ)とみへて、六拾に餘る古禪門(ふるぜんもん)、此(この)物乞(ものごひ)を呼(よび)て、文錢(もんせん)百文、取出(とりいだ)し、乞食にあたへ、

「汝、是、おろそかになすべからず。『呂氏春秋』に『趙宣孟(テウセンモウ)、翳桑(イソフ)の元に餓人有を見て車より下り、是が爲に錢百文をあたふ』といへり。錢は和漢共に天下の大寶也。我、今日、愛兄(あいけい)の爲に、志を施すを以(もつて)、汝に錢をとらする也。『乞喰にたねなし』といへり。此春も、此邊、はいくわいせし乞喰、我方に暫(しばらく)とめ置(おき)ていたはりけるに、其乞食、元は加賀の歷々の侍にて有(あり)ける。人を打(うち)、國を退き、今、肥前の内(うち)、蓮池の御城主鍋嶋攝津守殿に有付(ありつき)、弐百石、取らるゝ也。侍とこがねは、くちても、くちぬ、ためしなり。汝が眼差(まなざし)も常の乞食と替(かは)りたり。末(すゑ)、必(かならず)、世に出(いづ)る折も有るべし。」

と云(いひ)て内へ入(いる)。

 仙助、是を聞(きき)、

「是こそ佛神三寶のおしへ成(なり)。」

と難有(ありがたく)、夫より、遙々、肥前蓮池迄尋行(たづねゆき)、豐崎松浦川の岸、緑屋といふ酒店の庭に彳(たたずみ)て休み居たり。

 爰に肥前蓮池の士、小林喜兵衞・大越半藏兩人、釣竿かたげ、此酒店に來り、

「亭主、能(よき)肴やある。一盃、飮(のむ)べし。」

と云。

 亭主、罷出(まかりいで)、畏(かしこまつ)て申(まうす)樣、

「定(さだめ)て今日は天氣能(よく)候間(あひだ)、釣に御出可被成(おいでなさるべし)と、今朝、大鯉のとれ候を差味(さしみ)に仕(つかまつり)、早くより待受(まちうけ)奉る。菊川の名酒・鮎の魚、御肴に不足なし。あれへ御通り候得。」

とて、裏の座敷へ招入、酒を出し、樣々に持成(もてな)す。

 酒、半醉に至り、大越半藏、歎息して申樣、

「我等先祖大越太郎左衞門、御存(ごぞんじ)の通り、大坂陣にて、にやはしき御奉公仕(つかまつり)、父帶刀(たてはき)代迄、千石の祿、被下(くださる)。父、若死仕(わかじにつかまつり)、我等、赤子たりし故、千石、被召上(めしあげられ)、はつかの扶持を申請(まうしうけ)、なまなか、武役(ぶやく)を仕(つかまつる)。貧窮、孤獨、漸(やうやう)一僕を召仕(めしつかひ)、か樣、かんなんに暮罷在候(くらしまかりありさふらふ)。然るに此春、當地へ來(きた)る武田淺右衞門、元加賀の侍にて堀伊右衞門と申(まうす)者、人を打(うち)、國を退き、今、御家へ新影流の兵法を申立(まうしたて)、若殿樣劍術の御指南仕(つかまつる)にて、貳百石、被下(くださる)。當時、出頭幷(ならび)なく、人を足下に見下し、諸士へ大へいを仕る。誠に古人のことばに、『人間の禍福はあざなへるなはのごとし』といへるが、誠にて候。」

と語る。

 仙助、是を聞(きき)て、ひそかに悅び、

「扨は敵(かたき)の堀伊右衞門、家名を改(あらため)、武田淺右衞門と名を替(かへ)、當國守へ仕へける。是、疑(うたがふ)べからず。」

とおもひ、酒店を立出て、川端の船小屋へ行、暫く休息する。

 かゝる所に、大越半藏は小林に先達(さきだつ)て川端へ來りけるが、船小屋に人音するを聞(きき)て差(さし)のぞき、

「小屋に居たるは何ものぞ。」

と云。

 仙助、聞て、

「乞喰(こつじき)にて候。蟲(むし)痛(いたみ)候間、休み居候。」

といふ。

 半藏、聞て、

「乞食ならば、汝に深き無心有(あり)。我、此間荒身の國貞の脇差を求(もとめ)たり。幸(さいはひ)、只今、差來(さしきた)りぬ。汝、命、我に吳れよ。生胴(いきどう)を心見(こころみ)たし。命、申請(まうしうけ)て後、跡をば念頃(ねんごろ)に吊(とむらひ)とらすべし。」

と云。

 仙助、聞て、

「是は思ひの外なる御所望にて候。さりとては、迷惑仕候。至小(シシヤウ)の蟲けらに及ぶ迄、命惜(おし)むは習(ならひ)にて、命惜しく候得(さふらえ)ばこそ、かく恥を捨(すて)袖乞(そでごひ)をもいたし候。此段、御免被下候へ。」

と云。

 半藏、重(かさね)て、

「扨々、みれん成る乞喰め。おのれ、諸人に面(つら)をさらし、一握(ひとにぎり)の米、半錢の助(たすけ)を得、風雨霜雪に骸(からだ)をまかせ、菰をかぶり、飢(うゑ)にのぞみ、終(つひ)に路道(ろだう)に倒れ、犬・烏(からす)の餌食と成らむ。然るに我(わが)望に隨ふ時は、死後の吊(とむらひ)を得て、滅後には佛果に至るべし。凡(およそ)此(この)大越半藏、一言申出し、いやでもおふでも、一命を申受(まうしうく)る。尋常に命をくれよ。すな濱へ連行(つれゆき)、ためし物にするぞ。」

と云。

 仙助、

「扨は、是非に不及(およばず)。成程、心得候。暫(しばらく)御待候得。」

とて、菰包とひて、こがね實(ざね)の腹卷に壱枚金(いちまいがね)の鉢卷、〆(しめ)、多宮重代の小金作(こがねづくり)、弐尺七寸、『關近江守兼常が君萬歳』と打(うち)し二銘、杖に仕込しをするりと拔(ぬき)、船小屋よりおどり出(いで)、

「身に望(のぞみ)有る故に樣々とことばをたれ、一命を侘(わび)しなり。汝が樣成(やうな)る無分別の馬鹿者を相手にし、命捨(すつ)るも過去の業(ごふ)、天元の究(きはま)りなり。己(おの)ふぜひのくせ士(ざむらひ)、五人拾人、物々しや。手なみを見せむ。いざ、こひ。」

と大(だい)の眼(まなこ)を見ひらき、踏(ふみ)はだかりしそのありさま、大越、案に相違し、尻込(しりごみ)に立居(たちゐ)たり。

 小林は跡より來りけるが、此體(てい)を見て、大きに驚き、

「是(こ)はいか成(なる)譯有(あつ)て如此(かくのごとき)の樣子にて候。委敷(くはしく)承度(うけたまはりたし)。」

といふ。

 仙助、聞(きき)て申(まうす)樣、

「某(それがし)は、先(さき)、綠屋に罷在りし乞食にて候。此人、か樣か樣のむたい成(なる)事を申(まうし)かけ、既に一命を取らんと有(あり)。身に大望有(ある)故、手をたれ、ことばをいやしうし、さまざま申侍ると云(いふ)とも、承引なし。是非なく、 立合申(たちあひまうす)。」

といふ。

 喜兵衞、聞て、笠をはづし、手を組(くみ)、いんぎんに申樣、

「委敷(くはしく)承(うけたまはり)候處、是は半藏が、悉く、誤りにて候。半藏事(こと)、じたい、愛酒(あいしゆ)の上(うへ)、酒を過(すご)し候へば、加樣の義、まゝ有之(これある)者にて候。某(それがし)に、まげて、此段、御許候へ。」

と達(たつ)て侘(わぶ)る。

 半藏も誤入(あやまりいり)候由、申ししかば、仙助、申樣、

「御兩殿、か樣被仰(おほせられ)候ば、身に於て大慶仕(つかまつり)候。先々(さきざき)も申候通(とほり)、我等、身に望(のぞみ)有之(これあり)候へな、我等方より事を好み可申樣無之(まうすべきやうこれなく)候。」

迚(とて)、無事になりけり。

 小林、重て申樣、

「扨、御自分には敵(かたき)御持候へて御尋被成(おたづねなられ)候と相見へ申候。委敷(くはしく)御語(おかたり)候得。數(かず)ならぬとも半臂(はんぴ)の御力(おちから)にも罷成可申(まかりなりまうすべし)。一樹のやどり、一河の流(ながれ)も、皆、是、他生(たしやう)のゑんと承申候。」

といふ。

 仙助、聞て、

「誠以(まことにもつて)、前度(ぜんど)御(おん)知る人にも無之(これなき)處、敵持候と御聞被成候。御深切の御志(おんこころざし)、御禮難申盡(まうしつくしがたく)候。乍-去(さりながら)、御助太刀を請可申樣(うけまうすべきやう)も無之(くれなく)候義に候得共、初(はじめ)、敵(かたき)持候と申出、委さい御物語不仕候得ば、僞(いつはり)を申樣御思召(おぼしめし)、恥入(はぢいり)候儀、委敷(くはしく)御物語可仕(つかまつるべく)候。」

と、堀伊右衞門意趣打(いしゆうち)の事、細(こまか)に語りければ、兩人、聞て、

「扨は。去年(こぞ)、當地へ罷越(まかりこし)武田淺右衞門は堀伊右衞門に無紛(まぎれなく)候。我等兩人、手引致し、敵(かたき)打(うた)せ可申(まうすべく)候。心安く思召候得。一兩夕の内に、人目忍び、我等方へ其元(そこもと)を引取(ひきとり)、隱置(かくしおき)、委(くはしく)御相談可申。」

とて、いと深切に申ける。

 仙助、淚を流し、手を合(あはせ)、

「誠に不思義の御緣にて如此(かくのごとき)の御深切に預り候。偏(ひとへ)に御兩殿は我等氏神、高戶(たかト)大明神と存候。此上は何分にも奉賴上(たのみかえたてまつり)候。路金弐百兩所持仕候。若(もし)打候計略に入(いり)候事もやと覺悟仕候。」

といふ。大越も小林も、

「委細相心得候。兎角、夜に入、御出候得。爰は人の通りもしげく候間、萬事、申殘(まうしのこ)し候。」

とて、兩人は、我(わが)やどりへ歸る。

 道にて大越、小林にさゝやきけるは、

「何と思召(おぼしめす)。加樣に申候得ば、士道に似合ざる樣に思召もあるべけれ共、先(まづ)、差當(さしあた)る道理を申さば、武田淺右衞門は新參と申せども、當時傍輩の事にて候。その上、殿さま劍術の御指南申上候事、尤(もつとも)おもき壱人にて候。多宮仙助は加賀の大聖寺の士と申せども、先(まづ)、只今の形は、人外(にんぐはい)の乞食なり。其乞食(コツジキ)に賴(たのま)れたればとて、我々、手引をし、傍輩を討(うた)せ可申事、道理に不叶(かなはず)。爰が大事の御相談にて候。尤、四知(しち)の恐れとは申せども、誰(たれ)承る人もなく候間、我等、心底、申にて候。其元(そこもと)も某(それがし)も大困窮にて候へば、武役不相勤(あひつとめず)、假(たとへ)、とのさま、松浦口へ御出馬有(る)と申(まうす)とも、御供可仕樣(おともつかまつるやう)も無之(これなく)候。彼(かの)乞食、帶せし大小を見申(みまうす)に、何樣(なにさ)、可然(しかるべき)道具と見へ、其上、金弐百兩所持申(まうす)由。我等、立歸り、切殺(きりころし)、死骸を松浦川流し捨候はゝ、誰(たれ)しる人も候まじ。左候(ささふら)はゞ、金百兩宛(づつ)分け取(とり)、武具・馬具、事かけず相調(あひととのへ)、武役勤(つとま)り申樣に致し、彼(かの)者、菩提、念頃にとむらひ吳(くれ)候べし。此義、如何思召候。」

といふ。

 小林、大きに腹を立(たて)、

「大越殿共(とも)不存(ぞんぜず)、以の外成(なる)御了簡にて候。不義にして百歳の壽をたもたんより、むしろ、義にとゞまりて、一夕のようを得むには、と申候。士(さむらひ)の一言(いちごん)は大山よりおもく候。必(かならず)、みれん成(なる)義、御申有間敷(おまうしあるまじく)候。」

といひければ、大越、赤面し、

「御尤(ごもつとも)に候。我等、只、たはぶれに申候。いかで士の二言をつき可申哉(まうすべきや)。」

といふて別れけるか、則(すなはち)、半藏、宿へ歸り、つくづくと、おもふに、

『小林、作り賢人立(けんじんだて)を言(いふ)といへども、多宮を切殺し、大小・金銀を持行(もちゆき)て、小林に分けあたへば、骨おらで德づく事、今時、誰(たれ)か、この、まさらんや。とかくひそかに行(ゆき)て仙助を切殺し、その後、是非をば、極むべし。』

と、其夜、ひそかに人目を忍び、松浦川の船小屋忍び行(ゆき)、仙助が寢首をかき、仙助が首・大小幷(ならびに)金弐百兩、うばひ取、仙助が死骸、松浦川へ抛入(なげいれ)、大きに悅び、喜兵衞方へ立歸り、案内(あない)、乞(こふ)。

 小林に對面し、仙助が首・大小・金子を小林に見せ、

「此上は利を非にまげて、金子・大小、分け取給へ。誰(たれ)知る者の候まじ。不入(いらざる)賢人立、御無用に候。」

といひければ、小林、見て、

『人非人、士畜生(さむらひちくしやう)、何を言(いふ)ても、せんなし。』

と思ひ、

「今は何申(なにまうし)ても言甲斐(いふかひ)なく候。然らば、仰(おほせ)に任せ可申(まうすべし)。必、沙汰ばし、し玉ふな。」

と、大越に心を許させ、拔打(ぬきうち)に半藏を大けさに切殺し、大越が首を切、仙助か首と添(そへ)、武田淺右衞門方へ行(ゆき)、仙助に賴(とよら)れし始終、半藏が不義、細かに淺右衞門に語り、

「士の義理、是非に不及(およばず)。覺悟し玉へ。」

と、言(いひ)ざま、刀を拔(ぬき)、打(うつ)て懸る。

 淺右衞門、

「心得たり。」

と拔合(ぬきあひ)、散々に切逢(きりあひ)けるが、終に淺右衞門、小林に切ふせられ、喜兵衞、淺右衞門が首を取、三の首、引提(ひつさげ)、菩提所笹岡町大行寺立退(たちしりぞき)、此旨、鍋嶋攝津守殿の橫目(よこめ)設樂(しだら)九郞左衞門方へ申達(まうしたつ)し、切腹を願(ねがひ)、けんしを相待(あひまち)、罷在(まかりあり)ける。設樂、則、鍋嶋殿委細申上げれば、攝津守殿、大きに小林が義心を感じ給ひ、武田淺右衞門が知行、弐百石加增有(あり)、物頭役被申付(まうしつけられ)、足輕三拾人御預被成(なられ)ける。元文二年八月の事也。

 

老媼茶話弐終

[やぶちゃん注:最後に「老媼茶話弐終」とあるが、本章で本巻は終わりではない。前にもあったが、元は十六巻であった原型本の編集過程での錯簡が疑われる。

「加賀の大聖寺」加賀藩支藩大聖寺藩。大聖寺(現在の石川県加賀市)周辺を領した外様藩。最後に事件の落着のクレジットを「元文二年八月」(西暦一七三七年)とするので、藩主は第四代前田利章(としあきら)である(同年九月に逝去)。なお、当時の藩財政は火の車であった。

「堀伊兵衞」不詳。以下、人物注は同じになるので実在したことが確実な人物以外は、原則、注しない。

「權者(けんじや)」ここは権力者の意と採ったので、かく読んだ。

「仙福寺」不詳。少なくとも現在の加賀市には存在しない模様。

「去(さる)べき日」以下に「百日」と出るから、四十九日の忌明けまでと、その後の月命日のそれを指している。

「そとば」「卒塔婆」。

「ものふりて」「ふり」は「經り」で、何となく古びた感じになってしまい。百か日前の描写としては、やや奇異にも思えるが、要は、当家の代替わりの印象を深めるための演出であろう。

「續目(つぎめ)」底本のルビに従った。

「けうおう」「饗應」。但し、歴史的仮名遣は「きやうおう」「供應」でもいいが、それでも「きようわう」である。

「結(むす)び共(とも)なるが」結びまで勝ち残るような剛勇無双の力士どもであったのだが、の意で採っておく。

「腕車(うでぐるま)」不詳。腕を取ってブン回しにすることか。

「赤鬼殿。鬼味噌になられたり」「鬼味噌」は赤い唐辛子で辛みをつけた焼き味噌のことであるが、転じて、外見は強そうでも実際には気の弱い人の譬えである。ここは四股名「赤鬼」が鼻血を出して真っ赤になっているのにも掛けているので、揶揄が冗談を越えている感じがする。

「せいて」「急いて」。怒りがこみ上げてきて。

「力足をふむ」四股を踏む。

「若(もし)取らずむは」万一、試合を受けなかったならば。

「團扇(ぐんばい)」相撲の軍配は「軍配団扇(ぐんばいうちわ)」とも称することから、雰囲気を大事にして、かく当て訓じておいた。

「二、三間」三・七から五メートル半弱。

「まをのけ」底本の編者添字は『真仰』。完全に無様に仰向けになること。

「何事と言(いふ)分(わけ)もなく」この表現には座興の相撲如きで遺恨に思うことなど理解出来ないという意味合いが伏線として込められている。

「まるどもへ」「丸巴」。

「灯燈(あかり)」用字は底本のまま。私の当て訓。或いはこれで「てうちん」(提燈)と読ませているのかも知れぬ。

「跡けして」「跡消して」。

「しゝのはがみ」「獅子の齒嚙み」。

「ならくの底」「奈落の底」。

「つゞれ」「綴れ」。破れた部分をつぎはぎした襤褸(ぼろ)の衣服。

「近江國水口(みなくち)」滋賀県甲賀市水口町水口。

「城主鳥井播磨守殿」事実と合わない。水口藩の藩主が鳥居播磨守忠英であったのは、元禄八(一六九五)年から下野壬生藩に移封される正徳二(一七一二)年までであって、鳥居氏はその後に水口藩の藩主ではない。最初に示した通り、事件の落着は元文二(一七三七)年であるからである。本話のここ以降が二十五年も経っているとは、逆立ちしても読めないからで、本話が作話である可能性が強く疑われる誤りと言える

「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう)は戦国末期に秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた百科全書的史論書。紀元前二三九年に完成した。全二十六巻百六十篇。

「趙宣孟(テウセンモウ)」春秋時代の晋の政治家趙盾(ちょうとん 生没年不詳)の別称。長く政権を握り、趙一族の存在を一躍、拡大させた。

「翳桑(イソフ)」桑の木の蔭であろう。但し、この事実が、後に趙宣孟にどう幸いしたかは私は知らない。識者の御教授を乞うものである。

「乞喰にたねなし」「たね」は「種」で、「もともとそう決まっている生得の属性」の意で採ってよかろう。これは「乞食に氏無し」「乞食に筋無し」と同義で、「乞食」という「家柄」「身分」「絶対的不変の存在」と言うものなどはないの意であろう。

「はいくわい」「徘徊」。

「蓮池」肥前国佐賀郡(現在の佐賀県、長崎県の一部を含む)にあった外様藩佐賀藩の支藩蓮池藩。

「鍋嶋攝津守」事実とするならば、当時の蓮池藩主は第四代鍋島直恒(なおつね)。

「有付(ありつき)」登用され。

「こがね」「黃金」。

「くちても、くちぬ」「朽ちても、朽ちぬ」。

「豐崎松浦川」佐賀県北部を流れる松浦川。河口は唐津。「豐崎」は不詳。しかし、後で砂浜が出るからに河口付近としか読めない。

「菊川の名酒」不詳。

「にやはしき」底本の編者の添字に『似合』とある。相応の。

「新影流」「一刀流」・「神道流」と並ぶ剣道三大流派の一つ。「神陰流」「新影流」とも書く。室町時代末期、上泉伊勢守秀綱が創案し、始祖となった。愛洲日向守移香斎(あいすひゅうがのかみいこうさい)の「陰流」の流れを汲み、自己の心影に敵の心影を即座に映し、相手を制することを主眼とする。後、柳生石舟斎の「柳生新陰流」や山田平左衛門光徳の「直心影流」がこの流派から出ている。殺伐な実践剣法をとらず、寧ろ、心に趣きをおく流派である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「若殿樣」事実なら、後の肥前蓮池藩第五代藩主となる直恒の長男鍋島直興(なおおき)である。但し、事件決着時で未だ満七歳である。

「蟲(むし)痛(いたみ)候」ここは広義の腹痛が致しますによって、の謂いであろう。

「荒身」底本の「荒」への編者添字は『新』。新品の刀身。

「國貞」初代和泉守国貞は江戸時代の摂津国の刀工。元和(げんな)五(一六一九)年和泉守受領。河内守国助とともに大坂新刀の礎を築いた名工。

「飢(うゑ)にのぞみ」直後に「終(つゐ)に路道(ろだう)に倒れ」とくるのであるから、この「のぞみ」は「臨み」である。

「こがね實(ざね)の腹卷に……」以下は敵討ちの際のための武具一式である。

「弐尺七寸」八十一・八一センチメートル。標準より長い。

「關近江守兼常」不詳。室町時代に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活動した和泉守兼定(之定)の系統の、和泉守兼定に六代近江兼定・八代近江兼定・第十代近江兼氏ならいる。

「二銘」長差と脇差の意か。

「天元の究(きはま)り」万物生命の根本の成せる最期。

「ふぜひ」「風情」。

「くせ士(ざむらひ)」「曲侍(くせざむらひ)」。まっとうでない武士。

「いんぎん」「慇懃」。礼儀正しく。

「前度(ぜんど)」以前より、の謂いであろう。

「高戸(たかト)大明神」不詳。

「四知(しち)の恐れ」「天知る地知る」以下、「我知る人知る」と続いて「四知」と称し、前半を今も用いるように、一般的には「誰も知るまいと思っていても、隠しごとというものはいつか必ず露見するものである」という戒めに基づく。

「一夕のようを得む」「よう」は「要」か? しかしそれでは、前と対語にならぬ。「世」(たった一晩の短い人生)の意なら判るのだが? 相応しい意味を、どなたか、お教え下されよ。

「作り賢人立(けんじんだて)」これで一語と読んだ。

「沙汰ばし」「ばし」は 副助詞(係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転)で上の語や語句をとり立てて強調する意を表わす。「沙汰」は「あれこれ言うこと」。

「笹岡町大行寺」不詳。

「橫目(よこめ)」ここは目付に同じ。

「設樂(しだら)九郎左衞門」不詳。

「けんし」「遣使」。

「武田淺右衞門が知行、弐百石加增有(あり)」少し省略されている。かの小林が斬り殺した武田浅右衛門の拝領していた知行分二百石を、そのまま小林に加増したのである。

「物頭」(ものがしら)は弓組・鉄砲組などを統率する長。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 阿房


Bakamono

   阿房

 

 或るところに阿房がゐた。

 永年のあひだ鼻唄まじりに暮してゐたが、そのうちに自分が到るところで、髪の毛の三本足りない呆(うつ)け者と言囃されてゐることが、段々と耳にはいる樣になつた。

 阿房は大いに悲しんで、どうしたらこの汚名を雪げようかとさまざまに心をくだいた。

 やがてふと、或る妙案がそのにぶい性根にも閃き渡つた。そこで時を移さず、實地に應用して見ることにした。

 道で行逢つた友達が、さる畫の大家を褒めちぎつた。

「笑談ぢやないぜ」と、阿房が叫んだ、「あの先生はもう夙(とう)の昔に、物置の隅に抛り込まれてるのさ。君は知らないのかい。へえ、そりや意外だ。君は時代遲れだよ。」

 友達は仰天して、忽ち阿房に同意を表した。

 「ああ今日(けふ)は、何て素晴しい本を讀んだものだ」と、別の友達が言つた。

 「冗談はやめ給へ」と、阿房が叫んだ、「よく羞しげもなく、そんなことが言へるね。ありやもう、何にもならん本さ。誰でも夙に緣を切つてゐる。え、知らなかつたつて? 時代遲れだな。」

 この友だちも仰天して、忽ち同意した。

 「あのN君は、何て得難い友人だらう」と、また別の友達が言つた、「あんな親切な男は又とあるまい。」

 「冗談も大抵にし給へ」と、阿房が叫んだ、「ありや君、札附きの不道德漢だぜ。親類中の財産を殘らず捲上げたのだ。誰一人知らぬ奴はないのに、君もよつぽど時代遲れだね。」

 その友達も仰天して同意を表し、忽ちその親友と絶交した。そんな次第で、阿房の前で何か褒めた者は、一人殘らず逆捻ぢを喰ふことになつた。

 時には、慷慨口調で附加へる、「ああ、君もやつぱり、權威盲信の徒かね。」

 「厭味な、附き合ひ惡(にく)い男だな」と、友達仲間が評判しはじめた、「しかし、何といふ鋭い頭だ。」

 「そして、何といふ辯舌だ」と、他の連中が和した。「ありや君、天才だぜ。」

 たうとう仕舞ひには或る大雜誌から、論説部長になつて呉れと賴まれた。

 そこで阿房は、その毒舌をここを先途と、萬物萬人の上に振ひはじめた。

 嘗て権威を否定した彼も、今は自ら大權威に成りすまして、一世の靑年を膝下に摺服させてゐる。

 哀れなる者よ、汝の名は靑年。別に崇拜する義理もないのに、一朝その崇拜を返上したら最後、たちまち時代遲れの汚名を着るのだ。

 腰拔千人、阿房萬歳の時世である。

             一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:この挿絵は中山省三郎譯「散文詩」のものであるが、理由は不明ながら、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない標題「阿房」は「阿呆」と同じで、「愚かな人」の蔑称「あはう(あほう)」である。なお、これらは当て字で、幾つかの語源説はこの漢字をもとにまことしやかなことを述べているが、実際には語源は未詳である。なお、「道で行逢つた友達が、さる畫の大家を褒めちぎつた。」の一段は底本では行頭から書かれてあるが、これは版組の誤りと断じ、一字下げとした。以下、訳者註。

『或る大雜誌 從來の刊本には『或る新聞』とある。『祖國時報』なぢ左派の大雜誌の文藝批評欄に向けた諷刺の、露骨に失するを怖れた友人らの勸告によつて、校正の際に置換へられた字が、久しくその儘になつてゐたものである。それにせよ、この一言は、發表當時種々の物議を招いた』。

これは、中山省三郎譯「散文詩」の註にも以下のようにある。

   *

・或る大雜誌:嘗ての刊本には「或る新聞」となつてゐた。これは或る種の人々や「祖國時報」など左翼の雜誌の文藝批評論に對する當こすりが目立つものとして、校正の時に置きかへられた文字が永い間その儘に放置せられてゐたのである。而も發表の頃、既に物議を釀した。

   *

私はその中山省三郎譯「散文詩」の電子化注で以下のようにオリジナルに補註した(今回、多少、手を加えた)。

   *

本詩を理解する一助になろうかと思われる事蹟を、サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」から引用する。本詩発表の十年程前の一八六七年、ツルゲーネフは『小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし』、『祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃し』た。また、本詩の書かれた前年、一八七七年には七年間もの『準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の』一『つである。今度は』一八七〇『年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである』。『この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は』、一八七八年に執筆したこの『「セニリア」(のち「散文詩」(Стихотворение в прозе, 1882)の題名が付けられた)という小編に反映している』とある。本詩が、まさに、そうした詩の一篇であることは疑いない。

 

「N君」原文は“N. N.”。ロシア語で匿名氏・何某を示すのか? しかし、そもそもキリル文字には“N”はない。不審。識者の御教授を乞う。

「ここを先途と」「先途」は「せんど」と濁る。多くこの「ここを先途と」「形で、勝敗・運命などの大事な分かれ目として、瀬戸際と心得て、の意で用いる。

「摺服」は「せうふく(しょうふく)」と読むが、一般的な熟語ではない。「摺」には「破る・壊す」「折り畳む」「挫(くじ)く・拉(ひし)ぐ」の意があるから、ここは折伏(しゃくぶく)して自身の配下・影響下に置く、といった意味であろう。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) マーシヤ


Masya

    マーシヤ

 

 ずづと以前、私がまだペテルブルグに住んでゐた頃、貸橇を傭ふごとに、その馭者と樣々な話をするのを常とした。

 とりわけ私は、夜の馭者たちを相手に話すのが好きだつた。彼等はみな近在の貧しい百姓なので、糊口のため、また地主に納める年貢のため、瘦馬と黃土色(オークル)に塗つた小橇を資本に都に出て稼ぐのである。

 ある日、私は矢張りその樣な橇を傭つた。二十(はたち)ほどの、見上げるばかり背の高い立派な體格の若者だつた。赤燒した頰、靑々と澄む眼、そして亞麻色の髮は小さな輪を卷きながら、眼深かに被つた繼布(つぎ)だらけの帽子の下にはみ出してゐる、がつしりと賴もしい肩には、ぼろぼろの百姓外套を、無雜作に引掛けてゐる。

 だが、鬚の無いきれいな顏は、何となく淋しげに沈んで見えた。

 離して見ると、聲にも矢張り浮かぬ樣子があつた。

 「どうしたね、大將」と私は尋ねた、「不景氣な顏をしてるぢやないか。何か悲しい事でもあるのかい。」

 若者は直ぐには答へなかつた。

 「ええ、旦那。實はさうなんで」と暫くしてから言つた、「それも、土臺お話になりません。女房に死なれましたんで。」

 「好いた同志だつたんだね、お神さんは。」

 若者は振向かずに、微かに頷いた。

 「可愛い奴でした。もう九月(ここのつき)になりますが、矢張りどうしても忘れられないんで。胸(ここ)んとこが妙にちくちくして。……あれが壽命とでも言ふんでせうか、若くで丈夫な奴でしたが、一日の中にコレラでやられたんで。」

 「よく盡して呉れたかね。」

 「そりやもう、旦那」と、若者は溜息をついた、「仲好くやつてゐました。だのに、死に目にも逢へなかつたんで。丁度此處へ出て稼いでゐると、もう埋葬も濟んだといふ報せで、大急ぎで村へ飛んで歸りました。着いて見ると、もう眞夜中です。家にはいつて、部屋の眞中につつ立つて、そつと小さな聲で呼んで見ました。『マーシャ、おいマーシャ。』けれども、蟋蟀が啼いでるだけで。……思わず床(ゆか)の上に坐り込んで泣いちまひました。地べたを平手で叩いて、『この業つく張りの地の胎(はら)め、あいつを攫ふ位なら、この俺も攫つて行け』つてね、ああ、マーシャ。」

 「マーシャ」と、彼は不意に聲を落して言ひ繼いで、荒繩の手綱(たづな)を握つたまま、橫拂ひに淚を袖で拭き、忌々しげに肩を堅めた。そのまま默り込んでしまつた。

 橇を下りると、私は駄賃の外に十五錢玉を一つ遣つた。彼は兩手を帽子に掛けて、低いお辭儀をした。そして大寒一月の霧に煙つて人通りもない雪の街路を、とぼとぼと馬を步ませて去つた

             一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:標題の「マーシヤ」(本文は「マーシャ」で拗音表記)はママ。

「黃土色(オークル)」「オークル」はフランス語“ocre”で、黄土(おうど:酸化鉄の粉末で粘土に混ぜて、くすんだ黄色の顔料・塗料などにする)或いは黄土色を指す。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 世の終――夢


Konoyonoowari

   世の終

     ――夢

 

 何處か、ロシヤゐ荒凉たる片隅。そこの一軒家にゐる夢を見た。

 天井の低い、だだ廣い部屋に、窓が三つ明いてゐる。壁は白く、家具は一つもない。窓の外は一面の荒野原で、次第に低まりながら、つひに眼路は極まる。灰一色の物憂い空が、天蓋さながら重く垂れてゐる。

 部屋の中には、私だけではなく、およそ十人ほどの人間がゐる。みな普段着を着た、普通の人達である。一樣に默り込んで、まるで足音を盜む樣に步き𢌞る。互ひに避け合ふ風に見えるが、そのくせ心配さうな眼を見交してゐる。

 伺故自分がこの家に居るのか、誰も知らない。自分と一緒にゐるのが何者なのか、誰も知らない。どの顏を見ても、同じ不安と憂愁の色が讀まれる。順番に窓邊に立つては外を眺める。何者かの到來を待つ樣に。

 それから、また步き𢌞る。その間を縫つて、小さな男の子が眼まぐるしく駈け𢌞つて、時折きいきい聲で喚く、「お父ちやん、怖いよう。……」

 その聲を聞くと、胸が惡くなる。この私まで怖くなる。何が怖いのか。解らないが、兎に角何か途方もなく大きな禍が、刻々に近づく豫感がする。

 子供の喚き聲は歇むかと思ふとまた起る。ああ、此處を出て行けないものか。何といふ息苦しさ鬱陶しさ、また胸苦しさ。だが出ては行けない。

 空は經帷子のやう。そよとの風もない。大氣までが死んだのか。

 不意に子供が窓に駈け寄つて、同じ泣聲で喚いた、「お父ちやん、來て御覽よ、地面が失(な)くなったよう。」

 「なに、失くなつたつて?……」本當に、つい先刻(さつき)まで家の前は平原だつたのに、いま家は身の毛もよだつ宙有にもち上つてゐる。地平は逢か下に沈み、窓の眞下には刳つた樣な絶壁が、底知れぬ岩肌を黑ずませてゐる。

 一同に窓の所に塊つた。悽愴な思ひが、皆の心臟を凍らせる。「たうとう來た、たうとうやつて來た」と、隣の男が低く呟いた。

 そして見よ、地の極まるあたり一面に、何物かか蠢きはじめた。圓い小山の樣なものが幾つも、膨れまた縮みはじめた。

 「あれは、海だ」皆が一齊にさう思つた、「もう直きに、俺たちは皆あの中に吞み込まれるのだ。」……しかし、どうしてあれが、この絶壁の上に達くほど大きくなれよう。

 しかし、見る見る中にそれは膨れ上つた。巨大な塊になつた。今はもう、別々の小山が遙かに突進して來るのではない。それは怪物めいた團々たる大濤になつて、地平を蔽ひ匿してしまつた。

 それが飛ぶやうに、此方へ押寄せる。氷の龍卷と舞ひ、地獄の闇と狂ひながら。……四邊(あたり)は一齊に震動した。押寄せる巨濤からは、雷の爆け鳴る音、千萬の咽喉を一度に衝くかと思はれる、凄じい慟哭が漏れた。

 噫、これに何といふ咆哮、また叫喚。恐怖の淵からの、大地の呻きなのだ。

 大地の斷末魔、萬物の終。

 子供の鋭い聲が、また聞えた。私は隣の男に獅嚙みつかうとした。しかし既に、轟々と鳴る氷の樣な黑濤は私達を吞込み、押潰し埋め盡した。

 闇。……永遠の闇。

 息も絶え絶えに、そのとき目が覺めた。

             一八七八年三月

 

[やぶちゃん注:「眼路」「めぢ(めじ)」と読み、「目路」とも書く。目で見通した範囲。視界。

「宙有」空中。大空。

「刳つた」「ゑぐつた(えぐった)」。

「達くほど」「とどくほど」。

「獅嚙みつかう」「しがみつかう(しがみつこう)」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 處生訓


Syiseikun1

   處生訓

 

 「もし相手をうんと焦らすか、ひどく遣つけて見たかつたら」と、或る古狸が言つた、「君自身覺えのある弱點なり惡德なりを、非難して見給へ。大いに慷慨口調でやるのだ。」

 「第一に、かうすると相手は、その惡德が君には無いのだと思ひ込む。

 「第二に、君の慷慨は作り物でなくなる。詰り、君は自分の良心の苛責を逆用し得る。

 「例へば君が變節漢なら、相手の弱氣を非難し給へ。

 「また、君肖身がおけら根性なら、相手もおけらだと言つてやり給へ。文明の、歐羅巴の、社會主義のおけらだと。……

 「いつそ、おけら排擊論のおけらとも言へませうね」と、そこで一本探針(さぐり)を入れて見たら、

 「さうも言へるね」と、古狸が凉しい顏で應じた。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:この挿絵は中山省三郎譯「散文詩」のものであるが、理由は不明ながら、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない

おけら根性」(底本では総て傍点「ヽ」)は或いは若い人には判りにくい言葉であろう(螻蛄自体を知らない人も多くなった)。一般にはオケラが何にもないというように手を広げるのに比喩した「一文無し」の謂いで、ここではそのように精神的に窮した者、さもしい魂しか持たぬ者が、権威に対し、オケラが万歳するように、ひれ伏して付和雷同するという過程を経た、やや迂遠な謂い方だから、確かに分かりのいい訳語とは言えない。中山氏の訳では「奴隷根性」、上の一九五八年版では「下男(げなん)根性」と訳されてある。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 心足らへる人


Man

   心足らへる人

 

 若い男が都大路を、飛跳ねる樣に急いで行く。ぴちぴちと身輕に、眼を輝かし唇に一人笑ひを浮べ、さも愉快げに顏を上氣させてゐる。打見る所、全身これ滿悦といつた風だ。

 一體どうしたと言ふのか。遺産でも轉げ込んだのか。健康と滿腹の悦びが、五體を躍り𢌞つてゐるだけの事か。もしや又、美しい八叉十字章を、頸玉に掛けて貰へたのか。あこがれの波蘭王スタニスラフを。

 否、彼は友達の惡口を考へ出した。それを一生懸命に言ひ觸らした。さてその惡口を、別の友達の口から聞いて、今度は本氣でさう思ひ込んだのだ

 ああ今、この前途多望な可愛い男は、何と心滿ち足り、善人でさへあることぞ。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。『あこがれの波蘭王スタニスラフ 當時の文官勳章三種(併せて十一等)のうち、最も低いスタニスラフ勳章(これに三等ある)と、あこがれの波蘭王スタニスラフ・ポニヤトーフスキイを掛けた洒落』。老婆心乍ら、「波蘭」は「ポーランド」と読む。この Stanisław August Poniatowski(スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ 一七三二年~一七九八年)はポーランド・リトアニア共和国の最後の国王(在位は一七六四年~一七九五年)。この「あこがれの」というのは以上の注では世界史選択者でない私には全く判らぬので、少し調べて見た(以下の下線はやぶちゃん)。平凡社「世界大百科事典」には、彼は『ポレシエ地方』(現在の白ロシア共和国領)『にあったチャルトリスキ家の領地ボウチン(ブジェシチ・リテフスキの近く)に生まれ』ているが、彼の『父は大貴族サピエハ家の庶子として生まれ』、一七二〇年に『チャルトリスキ家の娘と結婚』、その六『番目に設けた子どもがスタニスワフであ』った。『入念な教育と西欧旅行で啓蒙思想を身につけ』、『チャルトリスキ家の尽力で』一七五五年に『リトアニア大侯食膳担当官(勲章に似た意味をもつ名目的な肩書)に任命され』、さらにこの年から翌年にかけては、『イギリス大使館の書記官と』もなったとあり、ウィキの「スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキによれば、その後、彼は『ロシア宮廷で後に女帝エカチェリーナ』『世となるエカチェリーナ・アレクセーエヴナ大公妃と知り合った。エカチェリーナはこのハンサムで有能な若いポーランド貴族に入れ込み、他の愛人たちをすべて捨ててしまうほどだった。スタニスワフとエカチェリーナとの間には娘のアンナ』『まで生まれたが、スタニスワフは』一七五九年、『ロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなった』。しかし、三年後の一七六二年、『ロシア宮廷でのクーデター』『によってエカチェリーナ』『世が即位し、その直後にポーランドでアウグスト』『世が没すると、女帝は元愛人のスタニスワフを王位につけてポーランドへの影響力を強めようとした。派遣されたロシア軍を後ろ盾にしたチャルトリスキ家の「ファミリア」がクーデタによって政権与党となり』、一七六四年九月七日に三十二歳の『スタニスワフがワルシャワ郊外のヴォーラでポーランド・リトアニア共和国の国王に選出された。スタニスワフは先代の』二『人の国王の名前を採って「スタニスワフ・アウグスト」と名乗った』。但し、『チャルトリスキ家は』、『スタニスワフが自分たちをないがしろにして国政を運営していくことをよく思わなかった。スタニスワフは「ファミリア」の改革構想を基本にした経済改革に着手したものの』、一七六六年に『伯父たちと決裂した後は改革は進まなかった』。一七六八年には『ポーランド・リトアニア共和国は法的にロシア帝国の保護国になった。保護国化に反対する貴族たちはバール連盟を結成し、フランスやオスマン帝国の支援を得てロシア軍との戦いを始めた。バール連盟は』一七七〇年十月に『親ロシア派のスタニスワフを国王と認めないと宣言したため、スタニスワフはロシア軍に対する支持をつらぬいた。翌』『年、スタニスワフは連盟の参加者たちによってワルシャワ郊外で一時的に誘拐され、軟禁状態におかれている』。一七七二年、『スタニスワフの抗議もむなしく第』一『次ポーランド分割が行われ、共和国の領土・人口のおよそ』三分の一が『失われた。国王はマグナート』(magnat, magnate:ヨーロッパにおいて血筋や富などによって社会的に高い地位にある人物や貴族を指す語)『たちの容赦のない非協力的な態度に直面して、何の対策も講じられなかった。こうした状況にあって、スタニスワフは領土分割の黒幕であるロシア大使オットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルク伯爵(Otto Magnus von Stackelberg)に依存せざるを得なくなっていった』。『一方で、スタニスワフは文化や教育に関する政策では共和国に大きく貢献していた。国王は』一七六五年に『騎士学校(School of Chivalry)を創設した。同校は共和国に奉仕するエリートの育成を目指すもので、タデウシュ・コシチュシュコらを輩出した。また』一七七三年、『スタニスワフは世界で最初の国家教育省である国民教育委員会(Commission of National Education)を設立している。スタニスワフはすでに』一七六五年から『ポーランドにおける啓蒙主義を牽引する週刊新聞『モニトル』(Monitor)紙を』も『発行していた。国王主催の木曜晩餐会(Thursday dinners)は、首都における最も重要なサロンの一つだったし、またワルシャワ国立劇場(National Theater, Warsaw)を設立したのも彼であった』。一七八三年乃至一七八四年、『スタニスワフは愛人エルジュビェタ・グラボフスカ(Elżbieta Grabowska)と秘密結婚した。エルジュビェタは元はヤン・イェジ・グラボフスキという貴族の妻であったが、秘密結婚の前にスタニスワフとの間に何人かの子供をもうけていた』。一七八八年から一七九二年まで開催された四年議会『(Four-Year Sejm)では、スタニスワフはそれまで対立していた愛国派(Patriotic Party)の人々と手を組むようになり、両者は協力して』一七九一年、「五月三日憲法」の『制定にこぎ着けた。憲法の制定過程で、共和国の世襲王制への移行が決まると、スタニスワフは自分の一族をポーランドの世襲王家にしようと考えたが実現せず、先代の国王アウグスト』『世の孫であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストが王位継承者に選ばれた』。『まもなく、憲法の廃棄を求めるタルゴヴィツァ連盟が結成された。連盟はエカチェリーナ』『世に協力を要請』、一七九二年五月に『ロシア軍はポーランド・リトアニア共和国内に進軍し、ポーランド・ロシア戦争(Polish-Russian War of 1792)が開始された。スタニスワフがフーゴ・コウォンタイ(Hugo Kołłątaj)らの助言を受け入れてタルゴヴィツァ連盟に参加すると、ポーランド国王軍の士気は衰え、それまで国王軍を指揮してきたタデウシュ・コシチュシュコや国王の甥ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ公爵による奮戦も無駄に終わってしまった。戦争はポーランド側の敗北に終わり、新憲法は廃止され、翌』『年にはロシアとプロイセンによる第』二『次ポーランド分割が敢行され』、一七九五年十月に第三次『ポーランド分割が行われると同時に、ポーランド・リトアニア共和国は消滅した』。一ヶ月後、『スタニスワフは強制的に退位させられ』、『サンクトペテルブルクへと居を移し、半ば監視状態に置かれながら、ロシア政府に多額の年金を支給されて余生を送った』とある。何を以って「あこがれ」というかは人それぞれであるが、彼の以上の人生に「あこがれ」を抱く若者は確かにいたであろうとは思う。]

2017/10/02

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 「聽入りね、愚者の裁きに……」



Mimi

   「聽入りね、愚者の裁きに……」

 

 大いなるわれ等の詩人、御身は常に眞實を語る。御身はこの句にも、眞實を盛る。

 「愚者の裁きに、痴(をこ)の嘲笑(わらひ)に」……誰かこの二つを、知らずに過ぎた者があらうか。

 これら總ては、堪へ忍び得る。また忍ばねばならぬ。その上の力ある者をして、且蔑(さげす)ましめよ。

 だが、より鋭く心の急所を衝く打擊もあるのだ……彼はあらん限りの力を盡す。勤勉に潔白に、愛を籠めて仕事を果す。しかし世の潔白な人々は、さも厭はしげに顏を背ける。潔白な世の人々は、彼の名を耳にしてすら、忿怒に面を染める。

 「近寄るな、そこを出て行け」と、潔白な靑年らが叫ぶ、「お前も、お前の作物も、われ等には無用だ。お前はわれ等の住む地を汚した。お前はわれ等を知りもせず、理解もせぬ。お前はわれ等の敵だ。」

 さて彼は、如何にすべきか。矢張り勞作を續けるがよい。默々として辯疏せず、より正しい評價など待ち望まぬがよい。

 昔、農夫らは、馬鈴薯を齎した旅人を呪つた。麵包の代用、また貧者には日日の糧となる貴い賜物を、彼等は旅人の差出す手から叩き落し、泥土に委ね土足に掛けた。

 それが彼等の常食となつた今日、彼等はその恩人の名さへも知らぬ。

 それもよし。彼の名が何で要らうか。名は無くとも、彼は農夫らを飢ゑから救ふ。

 私達も亦、自らの齎すものが眞に有用な糧であれかしとのみ冀ひ、且つ力めよう。

 愛する人々の口から、不當な非難の聲を聞くのは如何にも辛い。だがこれも、忍べば忍ばれる。……

 「我を打て。されど、終まで聽け」と、アテネの隊長はスパルタ人に言つた。

 「我を打て。されど健かに、腹滿ちてあれ」と、私達も言ふべきだ。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:この挿絵は中山省三郎譯「散文詩」のものであるが、理由は不明ながら、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない第四段落の「愛を籠めて仕事を果す」の「籠」は底本では「寵」であるが、これでは読めない。誤植と断じて特異的に訂した。

 訳者註が二つある。一つ目は、

   *

『聽入りね、愚者の裁きに……』 この題はプーシキンの詩句を借りたもの、すなはち彼の一八三〇年の作『詩人に』Poetu と題するソネツトの第一聯に――

 うたびとよ、世に容れるられて心な許しそ

 燃えるさかる稱へごと、嵐まくとも忽ち過ぎん。

 聽入りね、愚者の裁きに、をこの笑ひに

 さはれ汝、裏安の心は毅く、眉根ひそめよ。

   *

次が以下。

   *

お前はわれ等の敵だ これらの言葉から、この一篇が『父と子』[やぶちゃん注:ツルゲーネフの一八六二年発表の小説。ロシア農奴解放前後の新旧世代の思想的対立を描き、若い世代の代表者として登場させた主人公バザーロフをニヒリスト(虚無主義者)という新語で呼び、激しい賛否の論議を巻き起こした(平凡社「マイペディア」の記載に拠った)。]などを繞つて捲起つた世の非難をモチーフとしてゐることが推察される。

   *

前者については、中山省三郎譯「散文詩」の中山省氏による本詩篇(中山氏は標題を「耳傾けよ、愚かしき者の審判に……」と訳されている)の註に、

   *

プーシキンの詩「詩人(うたびと)に」(一八三〇年作)の一節である。この詩の中で、プーシキンは、詩人たるものは多くの人に愛を思ふべからず、却つて愚しき者の審判と多くの者の冷やかな嗤ひに耳を傾け、しかも毅然たるべく、ひとり己れのみ帝王として生きよとの痛々しい言葉を述べたのであつた。

   *

と添えておられる。また、神西氏によるプーシキンの抄訳は、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」では恐らく池田氏の訳で、

   *

 うたびとよ、世に入れるられて心を許すな。

 燃えるさかる稱えの声も、束の間ざわめきごと過ぎ行かん。

 やがて耳に入ろう、愚者の裁きが、衆愚の笑いが、

 されど心かたく安らかに、眉根をひそめてあれ。

となっていて、若い読者にはこちら方が判りよいであろう。また、同書では、「我を打て。されど」の部分への注も附されてあり、これは、『ペルシアとの海戦の是非をめぐって、アテネの隊長テミストクレスがスパルタの隊長エウリピアデスに言った名句』とし、『激しい議論の結果、前者の主張が通り、サラミス湾の海戦でギリシア艦隊は大勝した』とある。

 

「辯疏」(べんそ)は、言いわけをすること・弁解の意。

「冀ひ」「こひねがひ」。

「力めよう」「つとめよう」。「努めよう」と同義。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 乞食


Kojiki

   乞食

 

 街を步いてゐると、老耄れの乞食が行手に立つた。

 糜れた眼に脂(やに)は流れ、唇には色もない。それに、ぼろぼろの粗布、膿み崩れた皮膚。……

 貧困は、何とこの不幸な男を蝕んだことぞ。

 差し伸べる手は、赤く腫れ上つて穢らしい。……呻きながら、何やら呟きながら、彼は合力を求める。

 私は急いで、衣囊を殘らず手探つた。だが財布も時計も、手巾さへ無い。何も持つて出なかつたのだ。

 乞食は待つてゐる。差し伸べた手は、力無く搖れ顫へる。

 私は途方に暮れて、そのぶるぶると顫へる穢い手を、固く握つた、――「惡く思はないでお呉れ。本當に私は、何も持つてゐないのだ。」

 乞食は糜れた眼に私を見上げ、色の失せた唇で微かに笑つた。そして、私の冷え切つた指を握り返す。

 「氣にお掛けなさいますな、旦那」と彼は呟く、「もう、結構で御座います。これも有難いお施物(ほどこし)ですから。」

 私も亦、彼から施物を得たと覺つた。

           一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:本篇には後の新改訳がある。。]

 

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝌斗(おたまじゃくし)


Otama

かへるこ  活師  活東

      玄魚  懸針

      水仙子

蝌斗

      【加閉流古】

コウテ◦ウ

 

本綱蝦蟇青鼃之子也生水中二三月鼃蟇曳腸於水際

草上纏繳如索日見黑點漸至春水時鳴以聒之則蝌斗

皆出謂之聒子所謂蝦蟇聲抱是矣其狀如河豚魚頭圓

身上青黒色始出有尾無足稍大則足生尾脱月大盡則

先生前兩足月小盡則先生後兩足崔豹云聞雷則尾脱

亦未必然凡弁其頭尾觀之有似斗形故得斗名搗泥染

髭髮甚効【取靑胡桃子上皮與蝌斗和搗爲泥染之一染不變也】

△按蝌斗處處池塘多有如上所説其如黑繩者既孚爲

 科斗尾脱足生爲小蝦蟇芒種後半寸許小蝦蟇多出

 跳阡陌者卽成長者也

 

 

かへるこ  活師  活東

      玄魚  懸針

      水仙子

蝌斗

      【「加閉流古」。】

コウテ

 

「本綱」、蝦蟇〔(かへる)〕・青鼃〔(あをかへる)〕の子なり。水中に生じ、二、三月、鼃蟇〔(あば)〕、腸(はらわた)を水際の草の上に曳(ひ)いて纏(まと)ひ繳(まと)ふこと、索(なは)のごとく、日に黑點を見る。漸く春水〔(しゆんすい)〕の時に至りて、鳴きて以つて之れを聒(み)るときは、則ち、蝌斗、皆、出づる。之れを「聒子〔(かつし)〕」と謂ふ。所謂〔(いはゆ)〕る、「蝦蟇〔(かへる)〕は聲にて抱(かへ)す」と云ふは、是れなり。其の狀、河豚魚(ふくと〔うを〕〕のごとく、頭、圓く、身の上、青黒色。始めて出るとき、尾、有りて、足、無し。稍〔(やや)〕、大なるときは、則ち、足、生じて、尾、脱す。月の大に、盡〔(つ)く〕するときは、則ち、先づ、前の兩足を生ず。月の小に盡るときは、則ち、先づ、後の兩足を生ず。崔豹が云はく、『雷を聞くときは、則ち、尾、脱す』と。〔されど、〕亦、未だ必ずしも然らず。凡そ、其の頭尾を弁(あは)せて之れを觀れば、斗〔(ひしやく)〕の形に似たること有り。故に「斗」の名を得。搗きて泥にし、髭〔(ひげ)〕・髮を染む。甚だ効あり【靑胡桃〔(あをくるみ)〕の子〔(み)〕の上皮を取り、蝌斗と和して搗き、泥と爲し、之れを染む。一染〔(いつせん)のみにて〕變らずとなり。】

△按ずるに、蝌斗、處處の池塘、多く有りて、上に説く所のごとし。其れ、黑繩〔(くろなは)〕のごとくなる者、既に孚(かへ)りて、科斗と爲〔(な)り〕、尾、脱〔(ぬ)〕け、足、生じて小蝦蟇〔(こかへる)〕と爲る。芒種の後、半寸許りの小蝦蟇、多く出でて、阡陌〔(あぜ)〕に跳(と)ぶ者は、卽ち、成長せる者なり。

 

[やぶちゃん注:両生綱無尾(カエル)目 Anura の幼生であるオタマジャクシ。現行では「蝌蚪」(音「カト」)と中国語名由来の漢字表記することが多い。生態その他はウィキの「オタマジャクシを参照されたい。上記に見るように、中国の本草学でも、幼生が有意に大きく目立ち、飼育や観察が容易であるから、卵生の湿生類の蛙の子どもの変態であることが早くから認識されていたことは幸いである。少なくとも「蝌蚪」という別個な生き物が「蛙」という別個な生物に変化するという寮庵お得意の化生説信仰からは免れていることは幸いである。

 

「腸(はらわた)を水際の草の上に曳(ひ)いて纏(まと)ひ繳(まと)ふこと、索(なは)のごとく、日に黑點を見る」「腸」という捉え方は、一見、異様に見えるが、哺乳類の出産にしても、言わば結果的にはそうした現象のように見えのであるからして、問題とするには当たらぬ。寧ろ、「日に黑點を見る」という観察を評価すべきである。

「春水〔(しゆんすい)〕」これは一般名詞で、春になって氷や雪が溶けて流れる時節を指している。

「聒(み)る」ルビはママ。この漢字(音「カツ」)は「かまびすしい・やかましい」の意であるから、後の「蝦蟇〔(かへる)〕は聲にて抱(かへ)す」で、親がその卵に向かって騒がしく鳴いて刺激することを指しているようである。にしても「みる」はピンとこない当て訓である。「よばはる」ぐらいにしたい。

「河豚魚(ふくと〔うを〕〕」「ふくと」は「河豚」の二字の脇に附されているのでかく読んでおいた。無論、かのフグである(本邦にはいないが、世界的には純粋な淡水フグもかなり棲息する。ウィキの「淡水フグなどを参照されたい)。

「月の大に」旧暦のの月(三十日)。

「盡〔(つ)く〕するときは」意味が採り難い。大の月に、最初の変態の機序が尽きる(満)て起動したその場合には、「先づ、前の兩足」が生え、そうではなく、「月の小」(二十九日)にその機序が起動した場合には「先づ、後の兩足を生ず」と読める(というかそうしか読めないと私は思う)。しかし、これは生物学的にはおかしく、御存じの通り、オタマジャクシの四肢は、まず、後肢が出て、続いて前肢が現れる

「斗〔(ひしやく)〕」杓文字(しゃもじ)。

「搗きて泥にし、髭〔(ひげ)〕・髮を染む。甚だ効あり【靑胡桃〔(あをくるみ)〕の子〔(み)〕の上皮を取り、蝌斗と和して搗き、泥と爲し、之れを染む。一染〔(いつせん)のみにて〕變らずとなり。】」この話は知らない。ちょっと腥さそうだし、何より、搗き潰すのもちょっと可哀想だ。

「芒種」既出既注。二十四節気の一つで、時間特定では現在では六月六日頃であるが、ここは「後」とあるので、次の節気である夏至(六月二十一日頃)の前日までの期間を指す。「半寸」一・五センチメートル。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 好敵手


Syousou

   好敵手

 

 私に好敵手があつた。仕事の上の敵ではない。また勤めや戀の敵でもない。にも拘らず私達の竟見は、決して一致した例しがなかつた。顏を合せるたびに、涯しのない議論がもち上つた。

 議論の對象は、あらゆる事にわたつた。藝術、宗教、科學、現世、そして來世。……とりわけ來世の生活に就いて。

 鋒は信仰の深い情熱漢だつた。或るとき彼が言つた、「君は僕を莫迦にして笑ふね。ぢや、若し㒒が君より先に死んだら、僕はあの世から君を訪問しよう。……その時君が笑へるかどうか、まあ見てゐ給へ。」

 本當に彼は、まだ若い身空を私に先立つて死んだ。數年は事もなく流れて、私は彼の約束も脅し文句も、忘れてしまつた。

 或る晩、私は寢床に橫になつたが、妙に眼が冴えて、寐つけなかつた。

 部屋は朧ろな光に沈んでゐる。私は灰色の薄闇に眸を凝らしてゐた。

 そのとき不意に、窓と窓の間の壁を背にして、例の敵手の立つ姿が見えた。靜かに物悲しげに、首を上下に振つてゐる。

 私は驚愕もなく、恐怖もなかつた。半ば身を起して片肘をつき、思ひがけぬ亡靈にじつと眼をつけた。

 彼は相も變らず、頷きつづける。

 「どうした」と。つひに私は口を切つた、「元氣かい、それとも悲觀してゐるのかい。その合圖は何だね。何かの戒めか、それとも叱責かね。さも無ければ、君が間違つてゐたと言ふ印しかね。二人とも間違つてゐたのかい。今はどんな身分だね。地獄の責苦か、それとも天國で幸福にやつてゐるのかい。一言でもいい、何とか言つて呉れ。」

 けれど私の好敵手は、一言の返事もなしに、相變らず首を上下に、悲しげに大人しく振つてゐる。

 私は笑ひだした。すると彼は消え失せた。

              一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:この挿絵は中山省三郎譯「散文詩」のものであるが、理由は不明ながら、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 犬


Sainu

   

 

 私は犬とふたりで、部屋にゐる。外は咆えたける暴風。

 犬は眞向ひに坐つて、じつと私を見つめてゐる。

 私も犬を見つめてわる。

 犬は私に何か言ひたげな樣子をする。だが犬は啞だ、言葉を持たぬ。彼は自分の氣もちが分らない。

 けれど私には、彼の心もちが分る。

 私は知つてゐる――今この瞬間、犬も私も一つ考でゐることを。ふたりの間には、なんの差別もないことを。

 私達は同じだ。ふたりとも心の中に、閃々と搖れ戰く火を、じつと守つてゐる。

 やがて死は舞ひ降り、この灯のうへに冷え冷えと羽搏くだらう。

 それで萬事は畢る。

 私達ふたりの裡にどんな火が燃えてゐたかを、その後で誰が知らうか。

 否、いま眼を見交すのは、動物と人間とではない。

 互ひに見つめ合ふのは、少しの差別もない二對の眼である。

 動物の眼と人間の眼の、夫々に同じ生は宿り、おづおづと互ひを求めて摺寄る。

             一八七八年二月

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 老婆


Rouba

   老婆

 

 私は一人で、曠(ひろ)い野原を步いてゐた。

 すると不意に、幽(かす)かな忍び足の氣配がうしろに聞えた。誰かが、後をつけて來る。

 振返るつて見ると、灰色の襤褸に身を包んだ、腰の曲つた小さな老婆がゐた。露(あら)はに見えるのは、皺だらけの黃色い顏だけで、妙に鼻が尖つて、齒は一本も無い。

 私が步み寄ると、老婆は立止つた。

 「お前は誰だ。何が要るのだ、それともただの乞食で、施しが欲しいのか。」

 老婆は答へない、私はかがみ込んで、その兩眼が半透明の白つぽい薄皮(うすかは)、つまり鳥によくあるあの膜で、閉されてゐるのを見た。鳥はあの薄い膜で、眩しい光を避けるのである。しかし老婆の眼をとざしてゐる膜は、動きもせず、瞳を現はしもしない。そこで私は、この老婆は盲らなのだと思つた。

 「ほどこしが欲しいのかね」と私は重ねてたづねた、「なんだつて私について來るのだ。」

 老婆はやつぱり返事をしない。ただかすかに身をすくめただけである。

 私は身をひるがへして、再び步きはじめた。すると又もや、うしろで同じ忍び足が、幽かに、正しい間(ま)を置いて聞える。

 「また、あの女だ」私は思つた、「何だつてさうつきまとふのだらう。」

 しかしまた、かうも思つた、[これはきつと、眼が見えないので、道に迷つたのだ。だから私の跫音を賴りに、人里へ出ようとするのだ。さうだそれに違ひない。」

 ところがその内だんだん、私は妙に不安な氣持がして來た。その老婆は私の後(あと)について來るだけではなく、却つて私を導くのではあるまいか。その老婆が私を右へ左へ押しやつて、私は知らず識らず、それに從つてゐるのではあるまいか。

 しかし私は步み續けた。……そのとき不意に、何かしら穴の樣な影が、道の行手に黑々とひろがつた。

 「墓だ」――私の恟に、この言葉がひらめいた、「あの中へ、私を追ひ込む氣だつたのだな。」

 私はくるりとうしろを振返つた。そして又もや老婆と向ひ合つた。しかし、その眼は開(あ)いてゐるのだ。

 意地の惡い忌はしい眼を大きく見ひらいて、餌食を窺ふ猛禽のやうに、まじまじと私を見つめてゐる。……私はその顏を、その眼を覗き込んだ。すると又しても、ぼんやりと薄い膜が被さつて、もとの鈍い表情に返つてしまふ。

 「ああ」と私は心に思ふ、「この女は、私の運命なのだ。現身(うつそみ)には到底逃れるすべもない、あの運命なのだ。」

 「逃(のが)れられない、とてもだめだ!……いや、何を莫迦な。ひとつ、やつて見よう。」

 私は身をすり拔けて、別の方角へつき進んだ。

 私は走らんばかりに步いて行つた。けれどかすかな跫音は、矢張り背後にさや鳴り、愈〻間近かに迫つて來る、そして行……には、又もや暗い穴が口をあく。

 私はまた向きを變へる。でも矢張り同じさやめきは私に追ひすがり、怖しい物影が行手に現れる。

 追ひつめられた兎のやうに、何處を向いて走つても、やはり足音、やはり暗い穴。

 「侍てよ」と私は考へる、「ひとつ騙して見よう。もう此處を動くまい。」

 そして、そのまま私は、地べたに坐りこむ。

 老婆は我のうしろ、二あしほどの所に立つてゐる。耳には何の物音も聞えないが、そこに居ることだけは感じられる。

 とそのとき不意に、いままで遠くに見えてゐた黑い物影が、飄々と漂ひながら、こちらへ近づいて來る、這ひ寄つて來る。

 しまつた! 私はうしろを振返る。老婆は眞面(まとも)に私を見据ゑ、齒の無い口をゆがめて北叟笑んでゐる。

 「逃れつこはできないのだよ!」

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。『『老婆』 トゥルゲーネフの或る親友の言葉に依れば、この詩は彼が實際に見た夢を綴つたものとのことである。事實、夢を寫した詩はひとりこの『老婆』に限らず、全篇を通じてかなりの數に上ることは見逃せない』。中山省三郎氏の註によれば、『親友であったピッチは、ツルゲーネフが絶えずこのやうな夢に惱まされたこと、この「老婆」の内容を或る年の夏ベルリンで語つてくれた由を傳へてゐる』とある。人物といい、恐怖対象といい、精神医学の教科書に出てくるような典型的な追跡妄想のパターンである。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 對話


Kaiwa

   對話

    ユングフラウも

    フィンステラールホルンも、

    未だ曾て人迹をとどめず。

 

 アルプスの絶巓、ただ峭立する斷崖のつらなり。ここ山靈の棲む所。

 山脈のうへ、空は蒼ざめた綠に澄み、物の聲もない。きびしく膚(はだへ)を刺す冷氣。閃々ときらめく雪の硬さ。その雪を突いて聳える、風にさらされ氷を着た巖の嶮しさ。

 天際はるかそそり立つ二つの巨嶽、二人の巨人――ユングフラウと、フィンステラールホルンと。

 ユングーフラウが隣人に向つて言ふ、「何か珍しい事でもなくて。もう見えるでせう。下界は何があつて?」

 瞬くまに過ぎる幾千年。さて、フィンステラールホルンが轟々と答へる、「密雲が地を蔽うてゐる。暫く待て。」

 瞬くまに過ぎる幾千年。

 「さあ、今度はどう?」と、ユングフラウ。

 「やつと見える。下界は相變らず、斑(はだ)らにせせこましい。水は靑み森は黑ずむ。ところどころに、積みあげた小石が灰色に見える。そのあたりを、まだ蟲けらどもがうようよしてゐる。それ、なんて言つたつけな、いまだに俺たちを瀆す力もない、あの二本足の手合さ。」

 「人間ですか?」

 「いん、その人間だ。」

 瞬くまに過ぎる幾千年。

 「今度はどう?」と、ユングフラウ。

 「どうやら、蟲けらどもは減つた樣子だ」と、フィンステラールホルンが咆える、「下界は大分はつきりして來た。水は退(ひ)いて、森の影も疎らだ。」

 瞬くまに過ぎる幾千年。

 「何が見えて?」と、ユングフラウ。

 「俺たちのまはりは、まづ淸々したよ」と、フィンステラールホルン、「だが、ずつと向ふの谿間にはまだ斑(ふ)が見える。何やらが其處でうごめく。」

 「で、今度は」と、瞬くまに幾千年を經て、ユングフラウが尋ねる。

 「やつとさつぱりした」と、フィンステラールホルン、「すつかり綺麗になつた。何處を見ても眞白だ。見渡す限り、俺たちの雪と氷で坦々としてゐる。……何もかも凍つてしまつた。やつと淸々した。」

 「まあ、いいこと」と、ユングフラウが呟く、「私達もたんとお喋りをしたから、そろそろ寢ませうよ、お爺さん。」

 「よからう。」

 巨嶽は睡る。綠に澄みかへる空も、地の永遠の沈默のうへに睡る。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:添え辞は、ブログでの不具合を考えて改行してある。これも後の新改訳がある。こちら。そちらの注も参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳)始動 / 訳者序文・「村」

 

[やぶちゃん注:底本は昭和二三(一九四八)年斎藤書店刊のそれを、国立国会図書館デジタルコレクションを視認して電子化する。これは残念なことに味わいのある例の挿絵一枚もが入っていないのであるが、それは先に私が全電子化注した中山省三郎譯「散文詩」のもの、或いは一九五八年岩波書店刊の神西清・池田健太郎版のものを附すこととした。

 底本の傍点「ヽ」は太字とした。訳者が本文末に附した注はそれぞれの詩篇の後に頭に附すこととし、それ以外に私が必要と思ったものもストイックに附すこととする。

孤独なタイピングであるので、ゆっくらと進めたい。【2017年10月2日始動 藪野直史】]

 

 

改  譯

トゥルゲーネフ

散 文 詩

神 西  淸 譯

 

[やぶちゃん注:扉表紙。底本では総て右から左書き。]

 

 

    改譯の序

 

 わたくしがこの『散文詩』の譯筆をとつたのはもともと岩波文庫の勸めに應じたものであつて、一九三三年のたしか夏のことであつたかと記憶する。ほとんど十五年の昔である。爾來それは同文庫の一册として世に行はれて來たわけであるが、その間に時代も目まぐるしい變遷をけみし、わたくし自身の観が鑑賞の態度ないし文體にしても、年齡とともに著しい推移を免れなかつた。時たま舊譯の頁をひるがへしてみるにつけても次第に飽き足らぬ氣持がつよまり、折にふれて一篇二篇と改譯をこころみもして來たのであるが、靑年の客氣にまかせた舊譯の頃とはちがつて、今となつてはこれはもとより容易なわざではなかつた。のみならず、その改譯の筆もやうやく半途を越えたあたりで空しく足踏みをしだした形で、今のところその先へ步をすすめられる見込みはちよつと附きさうもない。とはいへ、また一方から考へれば、そこを無理じひに押すことは原作の性質上あくまで避けなければならぬことであるし、とにかくこれを舊譯に比すれば幾分なりとも現在の心持に近づけ得たことは事實でありもするので、あたかも終戰にともなふ人心一新の時運に際會したのをしほに、岩波書店の好意ある諒解のもとに文庫版を一應絶版にしてもらひ、この改譯のこころみを齋藤書店に托して世に問ふことにした。思ふにこの小散文詩のやうな作品の飜譯は、譯者の年齡の步みとともに、少くも十年おきぐらゐには改譯されるのが至當でもあり自然でもあるであらう。そして、トゥルゲーネフがこれらの小散文詩を書きつけたのはほぼ六十歳以降のことであつてみれば、譯者の「心の季節」も亦いつかそのやうな秋に達するあかつきにこそ、はじめてしつくりと呼吸の飜譯が生まれ得るのでもあらう。これを普遍律として立てることはもちろん危險であるが、すくなくもこの小散文詩はそのやうな性格の作品であるやうだ。そして白狀するまでもなく、わたくしの心の年齡はまだまだその秋にはほど遠いのである。

   一九四七年晩春鎌倉にて 譯者しるす

 

[やぶちゃん注:以下、目次が続くが、省略する。]

 

 

   散 文 詩

 

 

   散 文 詩(SENILIA

 

[やぶちゃん注:SENILIA(セニリア)はラテン語由来と思わる。ラテン語のsenilisは形容詞で「老年の、年寄りの、古い」、名詞で「老人」の意で、中山省三郎氏は『老いらく』、米川正夫氏や池田健太郎氏は『老人の言葉』と訳しておられる。私は作者の感懐に照らして前者の方がよいと思っている。]

 

Inaka

 

   

 

 七月を終る日。みはるかす千里、母なるロシヤ。

 空に流す一面の藍。綿雲は消えまた浮び、風は無く、汗ばむ心地。空氣は搾りたての牛乳のやう。

 雲雀の歌、鳩の鳴聲。燕は音もなく翼をかへし、馬は鼻をならして飼葉を喰む。犬は吠えるのも忘れて、おとなしく尾をふる。

 草いきれ、煙の匂ひ、……それに少しばかりタールの匂ひ。鞣皮の匂ひもする。大麻(たいま)畑はよく伸びて、澱みがちの快い香をおくる。

 傾斜(なぞへ)なす谷の深まり。鉢のひらいて根元の裂けた柳が、兩側に列を作つてゐる。この谷間を小川が流れる。底にしづむ白い小石が、漣をとほして顫へる。

 はるか地と天の合はさるあたりに、靑々とか水脈(みを)をひく大河。

 小ぎれいな納屋や、戸を閉した小屋が谷の片側に並んでゐる。別の側には松丸太を組みあげた板葺の百姓家が五六軒。屋根ごとに椋鳥の鳥舍(とや)の竿が聳え、戸口の頂には馬頭をかたどつた鐡の棟が剛(こは)い鬣を立ててゐる。波うつ窓硝子は五彩に照りかへり、鎧戸ごとに花瓶と花が描いてある。戸口ごとに楚々とした緣臺か行儀よくならび、盛土のうへに猫は、透きとほる耳を立てて丸まる。高い閾の内には、土間が凉しげに影つてゐる。

 私は馬被を敷いて、谷の口に橫たはる。あたり一面に刈立ての乾草の堆が、心も疲れるばかりの香をたてる。目利きの主たちは、乾草を家の前に撒き散らしながら心に思ふ――もう少し日に當ててから、納屋に仕舞はう。さぞ好い寢心地だらう。

 どの乾草の堆(やま)にも、子供の縮れ髮が覗いてゐる。鷄は鷄冠を立てて乾草の中に蠅や甲蟲を漁り、鼻面の白い小犬は、乾草にじやれて遊ぶ。

 亞麻色の捲毛の若者たちは、淸らかな簡衣(ルバーハ)に腰紐を低目に結んで、邊取りのある長靴も重たげに、馬を外した荷馬車に凭れながら輕口を叩いては齒をむいて笑ふ。

 若い女房が一人、丸い顏を窓に覗かせて、若者の高話にとも、乾草に戲れ遊ぶ子供にともなく、ただ笑つてゐる。

 もう一人の女房は、健やかな兩の腕で、井戸の釣瓶を曳きあげる。釣瓶は繩の先でしきりに搖れ、きらめく水滴をはふり落す。

 年寄りの農婦が、格子縞の眞新しい下袴(スカート)に卸し立ての靴をはいて、私のへに佇む。

 どす黑い瘦せた頸には、お粒の硝子玉を三重に卷き、赤い斑(ふ)のある黃いろい頭布に、白髮の房を包んでゐる。頭布は、衰へた瞼のあたりに垂れかかる。

 しかしその眼は、愛想よくしばたたく。皺だらけの顏に微笑がひろがる。夙(とう)に六十の坂を越したと見える今なほ、昔の器量を偲ばせる。

 日に燒けた右手の指に支へる壺は、窖から出したばかりの、上皮もまだとらぬ冷乳に滿ちて、肌一面に凉しげな露を結んでゐる。左の掌には、まだ溫(ぬく)さうな麵包の塊をのせ、彼女はいふ――ひとつ食(あが)りなさいませ、旅の旦那。

 ふと雄鷄が鬨を作つて、慌しく羽搏く。小屋の犢が氣ながにもうと應じる。

 「こりやまあ、なんて燕麥」と、私の馭者の聲もする。

 ああ、ひろびろとしたロシヤ農村の豐けさ、はた安らかさ。その幸(さち)と平和よ。

 思ふ――ビザンチンの舊い都の、聖ソフィヤ寺の堂母に光る十字架をはじめ、われら都會の人皆のあくせくする事がみんな如何に空しいかを。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。『ビサンチンの……堂母に光る十字架 この句は、一八五三―五六年のクリミヤ戰爭、同七七・八根の露土戰爭などの誘因をなした、所謂『東方問題』に對する世人の關心を諷してゐる』。本詩篇は後に再改訳されている。それは(標題は「いなか」と変更されている)をどうぞ。また、そちらの注も参照されたい。

「鞣皮」「なめしがは」。実際に農夫が皮を鞣しているのか、それとも何かの匂いをかく形容しているのかはよく判らない。

「鬣」「たてがみ」。

「頭布」「ずきん」と読んでおく。

「窖」「あなぐら」。

「麵包」「パン」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」神西清訳(第一次全篇改訳)昭和二三(一九四八)年斎藤書店刊を国立国会図書館デジタルコレクションに発見せり!

ちょっと気になって調べたところ、トゥルゲーネフ「散文詩」神西清訳(一次全篇改訳)昭和二三(一九四八)年斎藤書店刊を国立国会図書館デジタルコレクション発見した。これは残念ながら挿絵は入っていないのだが、紛れもない、「散文詩」の神西清単独の全訳で、しかも、戦前の昭和八(一九三三)年の岩波文庫での「散文詩」全篇初訳の改訳版であった。おまけに正字・正仮名である。先に示した十一篇の改訳(第二次にして最後の抄改訳)とも異なる。さても、これを電子化したいと存ずる。但し、原本が古く、画像もかなり荒いので、タイピングするしかない。ゆるゆるやろうとは存ずる。また、孤独な楽しみが、一つ、増えた。

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 われ行きぬ、峰のあいだを /神西清改訳分~了



Watasihatakaiyama
 

  われ行きぬ、峰のあいだを 

 

われ行きぬ、峰のあいだを

われ行きぬ、峰のあいだを

谷のみち、清きながれを。……

まなかいに見ゆるものみな

ささやくはただ一つこと、――

人ありてこの身を恋うと!

そのほかはなべて忘れぬ! 

 

青ぞらは、かがやきみちて、

葉のそよぎ、小鳥のうたや……

ゆきかいのしげきわた雲

ながれては行方(ゆくえ)しらじら。……

あたりみな幸(さち)をいぶけど

この身はた、何うらやまん。 

 

わたつみの波もさながら

身は揺るる波のひろびろ!

哀楽をとおくさかれる

静もりに胸もはろばろ。……

いつ知らずわれ忘られて

おもえらく、この世の王(きみ)と!

 

などはやく命たえせぬ?

などふたり生(せい)をつなげる?

年かわり……星はうつれど

おろかしきかの良き日々に

いやまさる幸(さち)もひかりも

消(け)ぬ雲と絶えてあるなく。

                 
.1878

[やぶちゃん注:中山省三郎譯「散文詩」では「私は高い山々の間を行くのであつた」。本詩は文語定型訳であるからして、正字・歴史的仮名遣表記が相応しい。以下に恣意的にそうしたものを掲げておく。

   *

 

  われ行きぬ、峰のあひだを

 

われ行きぬ、峰のあひだを

われ行きぬ、峰のあひだを

谷のみち、淸きながれを。……

まなかひに見ゆるものみな

ささやくはただ一つこと、――

人ありてこの身を戀ふと!

そのほかはなべて忘れぬ! 

 

靑ぞらは、かがやきみちて、

葉のそよぎ、小鳥のうたや……

ゆきかひのしげきわた雲

ながれては行方(ゆくへ)しらじら。……

あたりみな幸(さち)をいぶけど

この身はた、何うらやまん。

 

わたつみの波もさながら

身は搖るる波のひろびろ!

哀樂をとほくさかれる

靜もりに胸もはろばろ。……

いつ知らずわれ忘られて

おもへらく、この世の王(きみ)と! 

 

などはやく命たえせぬ?

などふたり生(せい)をつなげる?

年かはり……星はうつれど

おろかしきかの良き日々に

いやまさる幸(さち)もひかりも

消(け)ぬ雲と絕えてあるなく。 

   *

「まなかい」「目交い」「眼間(まなかい)」で、「目の先・目の前」の意。

「いぶけど」「息吹(いぶ)く」「気吹(いぶ)く」で原義は「息を吹く・呼吸する」の意。ここは「思いっきり味わう・謳歌する」の謂いであろう。]

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 ある娘に


Tubame

  ある娘に

 

さえずりやまぬ家つばめ。ほそくするどい口ばしで、かたい岩根に巣をうがつ、身ぶりすばやい山つばめ。――そなたは燕とちがうけれど……

他人の家のきびしさに、よくこそ耐えて住みなれた、はた住みなした、かしこい娘よ!

 .1817

 

[やぶちゃん注:中山省三郎譯「散文詩」では標題は「……に」。
 
「家つばめ」スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ
Hirundo rustica

「山つばめ」アマツバメ亜目アマツバメ科アマツバメ亜科アマツバメ属アマツバメ Apus pacificus に同定する。「ヤマツバメ」の呼称はツバメ属コシアカツバメ Hirundo daurica の異名でもあるが、ここで作者は明確に「そなたは燕とちがうけれど」とその差異性を示しているので、後者とは思われない。ウィキの「アマツバメ」によれば、『外見が似ているために』かく『呼ばれるのだが、スズメ目のツバメとは類縁関係は遠い』とあり、『種小名pacificusは「太平洋の」の意で』、『インド、インドネシア、オーストラリア、カザフスタン、カンボジア、シンガポール、スリランカ、タイ、大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本、ネパール、パキスタン、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、モンゴル、ラオス、ロシア東部』(下線やぶちゃん)に分布し、『夏季に中華人民共和国、日本、ロシア南東部、ヒマラヤ山脈で繁殖し、北半球における冬季は東南アジアやオセアニアで越冬する。日本には夏季に基亜種が北海道、亜種アマツバメが本州、四国、九州に繁殖のため飛来(夏鳥)する』。全長十九~二十センチメートル、翼開張は四十三センチメートル』で、『尾羽はアルファベットの「V」字状。全身は黒や黒褐色の羽毛で覆われる。下面には白い横縞が入る。喉と腰は白い羽毛で覆われ、英名(white-rumped=白い尻をした)の由来になっている』。『高山帯や海岸の断崖などに生息する。渡りの際には平地や市街地で見られることもある』。岩壁『等にしがみ付いてぶら下がるように止まる。地面に降りると、脚で歩いたり羽ばたいて飛び立ったりできない。食性は動物食で、昆虫類を食べる。交尾や睡眠を飛びながら行なう事もある』。『繁殖形態は卵生。断崖に空中で集めた枯草などを唾液で固めた皿状の巣を作』る。『飛行速度は』時速百六十九キロメートルに』『達することもあり』、『鳥類の中でも最速の部類に入る』とある。]

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 ロシア語

 

  ロシア語

 

うたがいまどう日にも、祖国の運命を思いなやむ日にも、おんみだけが、わたしの杖であり、柱であった。おお、偉大にして力づよく、真正にして自由なロシア語よ!――もしもおんみがなかったら、いま祖国でおこなわれているいっさいのことを見て、どうして絶望に老いらずにいられようか? だが、これほどの国語が、偉大ならぬ国民にあたえられていようとは、とても信じられないことなのだ。

                 
.1882

 

[やぶちゃん注:底本は実は「わたしの杖であり柱であった」で読点がない。但し、底本では「わたしの杖であり」で改行となっているため、違和感なく読める。実は中山省三郎譯「散文詩」でも『疑ひ惑ふ日にも、祖國の運命を思ひ惱む日にも、御身のみがわが杖であり柱であつた』と読点はない。しかし、ここは私の判断で特異的に読点を恣意的に附け加えた。]

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 とどまれ!

 

  とどまれ!

 

とどまれ! 今わたしの目にうつる姿のままで――永遠に、わたしの記憶にとどまれ!

おんみの唇から、霊感に燃える最後の歌ごえが、今しがたかけり去った。――目はかがやかず、きらめきもせず、どんよりとくもって、――さも幸福の思いに、おし伏せられているかのようだ。みごとに「美」を表現できたという気持に、うっとり酔っているかのようだ。そしておんみは、さながらその消えてゆく「美」のあとを追って、おんみの勝ちほこった両の腕を、ぐったりと力ない両の腕を、さし伸べているかのようだ!

日ざしよりもほのかで清らかな、いったいなんの光が、おんみの五体のくまぐまに、おんみの衣裳のかすかなひだにまで、ひとしきり、みなぎり流れたのだろう?

どのような神が、情けこもるその息吹(いぶ)きもて、おんみの振りみだした巻毛を、さっと後へなびかせたのだろう?

その神の口づけは、おんみの大理石のように蒼ざめた顔に、まだ燃えている!

それこそは、――ひらかれた秘密なのだ。詩の、命の、愛の、秘密なのだ! それこそは、おお、それこそは、不滅そのものなのだ! そのほかに不滅はない、――また、いりもしない。いま、この瞬間、おんみは不滅なのだ。

この瞬間はすぎる。そしておんみは、またしてもひと握りの灰になる、女になる、子どもになる。……だがそれが、おんみになんのことがあろう! いま、この瞬間、おんみはいっさいの移ろうものを超え、いっさいの無常なものをはなれたのだ。――このおんみの瞬間は、いつ終る時もあるまい。……

とどまれ! そしてわたしをも、おんみの不滅にあやからせておくれ。わたしの魂のなかに、おんみの「不滅」の照り返しを、落しておくれ! 

 

[やぶちゃん注:太字「おんみ」は底本では傍点「ヽ」。中山省三郎譯「散文詩」では「留れ!」。底本の池田健太郎氏の注によれば、この詩篇は、詩篇の注に出した「思い人」ルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot『に捧げられた頌歌と解される』とある。]

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 そのひと


Nn

 

  そのひと

 

しゃなりしゃなりと、足どり静か、そなたは浮世の道をゆく。涙もみせず、笑(え)みもせず、何を見ようがそしらぬ目つき、つんと澄ました憎らしさ。

気だてもよければ、心もさとく……いっさいがっさい無縁のよそごと、男も女も縁なき衆生(しゅじょう)。

見れば見るほど、そなたの美しさ。――器量じまんか、じまんでないか、心のうらはだれに見せぬ。生まれついての薄情もので、よそ様の情けなどにはすがり申さぬ。

ゆきずりに、投げるひとみは影ふかけれど、想いのふかい目ではない。よく澄んだ底をのぞけば、からっぼだ。

かくて行く、シャンゼリゼエの大通り、グルックの不粋な楽(がく)のしらべにつれて、よろこびもなく悔いもなく、やさしい影が過ぎてゆく。
                 
.1879 

 

[やぶちゃん注:原題はキリル文字“H. H.”(ラテン文字転写:“N.N.”)。これはロシア語で匿名氏、何某を示すのものか? 識者の御教授を乞う。【二〇一九年五月十五日追記:現在、ブログで進行中の生田春月訳の生田の註釈で解明した。これはラテン語「Nomen nescio」の略で、「ノーメン・ネスキオー」と発音し、「Nomen」はラテン語で「名」、「nescio」は「知らない・認識しない」の意。匿名にした「何某(なにがし)」的謂いである。】。さて、以下は私の勝手な想像であるが、この「そのひと」なる女性は、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)で、彼女への秘やかな愛憎こもごもの思いを表現したものではあるまいか?

「グルック」クリストフ・ヴィリバルト・フォン・グルック(Christoph Willibald von Gluck 一七一四年~一七八七年)。オーストリア及びフランスを活動拠点として、主にオペラを手がけた音楽家である。代表作は歌劇Orfeo ed Euridice(オルフェオとエウリディーチェ)で、特にその間奏曲「精霊たちの踊り」が著名である。底本の池田健太郎氏の注によれば、この「不粋な楽(がく)のしらべ」とは、そのOrfeo ed Euridiceの『第二幕を指』し、『シャンゼリゼ大通り(よみ国)の場、死者の亡霊が合唱する』それを意味しているとする。]

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」


Ikabakari

  「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……

 

いつ、どこでとも覚えていない。とおい昔のことである。わたしは一つの詩を読んだ。それは間もなく忘れたけれど……はじめの一句が記憶にのこった、――

 

  「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」

 

いまは冬。霜は窓ガラスに張りつき、暗い部屋には、ろうそくが一本もえている。その隅に、かじかんで坐っているわたしの耳に、たえまなく鳴り、また、びびく、――

 

  「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」

 

と、わたしの目に、郊外のロシアふうの家の、低い窓のそとに立っている自分のすがたが、うかび出る。夏の夕べは、しずかに溶けながら、夜へ移ろうとし、あたたかい空気には、木犀草(レゼダ)と菩提樹の花がにおう。――その窓べには、ひとりの少女が坐って、まっすぐさし伸べた両腕に身をささえ、あたまを肩へもたせかけている。そして無言のまま、じつと夕空に見入るすがたは、はつ星のきらめき出るのを待っているかのようだ。もの思わしげなその眼(まな)差しは、なんとすなおな感動にあふれていることだろう。もの問いたげに開いた唇は、なんと無邪気で、いじらしいことだろう。まだ花の咲ききらず、まだ何ひとつ心のみだれを覚えたことのない胸の、なんとおだやかな息づかいだろう。ういういしい顔の、なんと清らかな、やさしい気品だろう。わたしは彼女にものを言いかけようとはせずに、いとしさに高鳴るわが胸の鼓動をきいている、――

 

  「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」

 

部屋のなかは、いよいよ暗くなってくる。……ろうそくは燃えつきかけて、さびしくはじけ、低い天井にちらちらと影はゆれ、壁のそとでは霜が、いらだたしげにきしめいている。――そして、わびしい老人のつぶやきがする、

 

  「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」

 

またほかの面影が、わたしの前に立ちあらわれる。……いなか暮しの家庭の団居(まどい)、その陽気なさざめきだ。亜麻いろ髪の頭がふたつ、たがいにもたれあいながら、はにかみもせず、明るい可愛らしい目でわたしを見つめる。笑いをこらえて、まっかな頰はぴくぴくし、手と手は仲よくもつれあって、若々しいきれいな声も一つにからみあう。また少しむこう、この居心地のいい部屋の奥には、やはり若々しいほかの両手が、指もつれしながら古ピアノのキイを走っている。――そのランナーのワルツの曲の合間をぬって、家長ぜんと納まったサモワールのつぶやきがする。……

 

  「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」

 

ろうそくは、ちらちらして、消えかかる。……だれだ、そこで陰気くさいしゃがれ声で、せきをするのは? 足もとには、わたしのたったひとりの仲間、わたしの老いぼれ犬がうずくまり、四足をちぢめてふるえている。……ああ寒い。……こごえそうだ。……みんな死んだ……死んでしまった。……

 

  「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」


                .1879

 

[やぶちゃん注:中山省三郎譯「散文詩」では「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」。これはプーシキンと同時代の諷刺詩人イヴァン・セルゲーヴィチ・ミャトリョフ(Иван Петрович Мятлев 一七九六年~一八四四年)の一八三五年作のРозы(薔薇)の詩の冒頭連(以下、ロシア語版ウィキペディア「Розыより引用)。

 

Как хороши, как свежи были розы

В моём саду! Как взор прельщали мой!

Как я молил весенние морозы

Не трогать их холодною рукой!

 

かつて、ロシア語の出来る知己の協力を得て、以下に最初の一連だけを文語和訳してみた。

 

ああ、かくは美しき、鮮やかなりし、

わが庭の薔薇の花よ! わが眼差し惹きつけてやまざりし!……

ああ、かくも花冷えに祈りし、

そが冷たき手をな觸れそ! と……               

 

なお、中山省三郎譯「散文詩」では注で全詩原文を載せてある。

「木犀草(レゼダ)」原文はрезедой。被子植物門双子葉植物綱フウチョウソウ目モクセイソウ科モクセイソウ属モクセイソウ Reseda odorata 。北アフリカ原産で「ニオイレセダ」等とも和名する。本邦には江戸末期頃にオランダ船によって渡来し、観賞用に栽培されてきた。茎は高さ三十センチメートルほどで直立し、基部近くでよく分枝し、全体は尖塔形を成す。葉は互生で長さ三~五センチメートルの箆(へら)形乃至は長楕円形。夏、総状花序を頂生し,小さい淡黄白色の花をつける。花弁は六枚であるが、そのうちの四枚は先が細く裂ける。開花と同時に強い芳香を放つ(ここまでは概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「カドカワ・コーポレーション」の運営になる「魔法ランド」の花言葉「誕生日の花 612日 レセダ 【木犀草(もくせいそう)】」の解説には、英名を“Mignonette”とし、『レゼダはマイウェイ、愛によって相手を奴隷にしようなどとはおもわない、自立した女性のような落ちつきをそなえ』た花で、それは『地味ながら』、『からっとした明るさがあ』るとする。『英語の名前であるミグノネッティ(Mignonette)は、フランス語の「小さく可愛い」を意味する』“mignon”(ミニヨン)が由来とし、『また、学名のレセダ(Reseda)は、ラテン語の「癒す=Resedo」に由来し、かつては傷や炎症をやわらげる薬草だったことがうかがわれ』、『古代ギリシャでは染料ともされ、花嫁の黄色い衣装を染めたとい』う。『花言葉は、そうした控えめな花にふさわしく』、『「見かけ以上の人」』だそうである。グーグル画像検索「Reseda odorataをリンクさせておく。

「ランナー」ヨーゼフ・ランナー(Joseph Lanner 一八〇一年~一八四三年)はオーストリアのヴァイオリン奏者にして作曲家。ウィキの「ヨーゼフ・ランナー」によれば、『シュトラウス一家に先立ってウィンナ・ワルツの様式を確立させたため、「ワルツの始祖」と呼ばれることがある。そして後にはヨハン・シュトラウス』『世と対決しつつワルツを磨き上げていった(ワルツ合戦)』。『ワルツ、ポルカ、ギャロップ、レントラーなど』四百『曲以上の舞曲などを作曲した』。『ショパンやスメタナ、リヒャルト・シュトラウスなどの作品にも影響を与えた』とある。

「サモワール」(самовар:正確に音写するなら「サマヴァール」)はロシアやその他のスラブ諸国・イラン・トルコなどで湯を沸かすため、概ね、給茶のために伝統的に使用されてきた金属製の容器。沸かした湯は通常、紅茶を淹れるのに利用されるため、多くのサモワールは、上部にティー・ポットを固定してあり、保温するための機能も備わっている。参照したウィキの「サモワールによれば、『その起源には諸説あるが、中央アジアで発明されたといわれている。古くは石炭や炭で水を沸かした』。『なお、名称はロシア語の「サミ(自分で)」と「ワリーチ(沸かす)」を結合したものである』。『素材は銅、黄銅、青銅、ニッケル、スズなどで、富裕層向けには貴金属製のものや非常に装飾性の高いものも作られた。胴部に水を入れられるようになっており、伝統的なサモワールは胴部の中央に縦に管が通っていて、そこに固形の燃料を入れて点火し、湯を沸かした。胴の下部には蛇口がついていて、そこから湯を注ぐ』とある。]

2017/10/01

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 岩


Iwao

  

 

あなたは海べで、年をへた灰いろの岩を見たことがあるか? 晴れたうららかな日の満ち汐のとき、いきおいよく波が、八方からその岩に打ちよせるのを。――寄せては打ち、たわむれ甘え、きらめく水沫(みなわ)を真珠のようにくだいて、苔(こけ)むす岩がしらを洗うのを。

岩はいつまでも、もとの岩だ。――けれど、その暗い灰いろの岩はだには、くっきりと色どりがあらわれてくる。

それは、とおい昔をものがたるのだ。熔(と)けた花崗岩がようやく固まりかけて、まだめらめらと五彩の炎をあげていたころのことを。

それとおなじく、わたしの老いた心にも、このあいだ、若い女性のまごころが八方からおしよせた。その愛撫の波にふれて、わたしの心は紅らみかけた。それは、とうの昔にあせた色どり、すぎし日の炎の跡なのだ!

波は引いてしまったが……色どりはまだ、くもらずにいる。きびしい風にさらされても。

 

[やぶちゃん注:中山省三郎譯「散文詩」では「巖」。]

 
 

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 しきい――夢――


Sikii

  しきい

     ――夢――

 

とても大きな建物が見える。

正面の壁には、せまい戸があけはなしになっている。戸口のなかは――陰気な霧だ。たかい敷居(しきい)の前に、娘がひとり立っている。……ロシア娘である。

一寸さきも見えぬその霧は、しんしんと冷気をいぶいている。こおりつくような気流にまじって、建物の奥からは、ゆっくりと、うつろな声がひびいてくる。

「おお、おまえは、その敷居をまたごうというのか、――何がおまえを待ち受けているか、おまえは知っているのか?」

「知っています」と、娘がこたえる。

「寒さ、飢え、憎しみ、あざ笑い、さげすみ、恥かしめ、牢屋、病気、やがては死、いいか?」

「知っています。」

「だれにも会えぬ、まったくの孤独、いいか?」

「知っています。……覚悟のまえです。どんな苦痛、どんな鞭うちも、しのびます。」

「それも、敵からだけではないぞ。――肉身の征矢(そや)、親友のつぶて、いいのか?」

「はい……それも承知です。」

「よし。おまえは犠牲(ぎせい)になる覚悟だな?」

「はい。」

「名もない犠牲にか?――お前が身をほろぼしても、だれひとり……だれひとり、何者の記念をあがめたらいいか、知りはしないのだぞ!……」

「感謝も同情も、ほしくはありません。名前もいりません。」

「犯罪もやる覚悟か?」

娘はうなだれた。……「犯罪も覚悟のまえです。」

声は、ややしばし、つぎの問いにつまった。

「わかっているか?」やがて声はつづけた。「現在のおまえの信念に、幻滅がくるかもしれないぞ? あれは迷いだった、あたら若い命を散らしてしまったと、さとる時がくるかもしれないぞ?」

「それも知っています。でもやっぱり、わたしははいりたいのです。」

「はいれ!」

娘が敷居をまたぐと、――重たい幕が、そのあとにおりた。

「あほう!」だれかがうしろで、歯ぎしりした。

「聖女だ!」どこかで、それに答える声がした。

               .1878

 

[やぶちゃん注:中山省三郎氏による「註」を引く。『この詩は多くの刊本に加へられなかつた。この詩には直接にはヴェーラ・ザスーリッチの訴訟事件、間接には一八七七年に起つたさまざまな政治犯事件に、女性がかなり活潑な役割を演じた事などがモチーフをなしてゐるのである。この詩は作者によつて一八八二年の夏、「ヨーロッパ報知」の編輯者たるスタシュレーヰッチに送られたが、後に作者の再三の要請によつて、省略されたのであつた。然るに、ツルゲーネフの死後いくばくもない一八八三年九月二十五日に急進黨たる「人民の意志」派によつて、宣言書と共に祕密に出版され、翌々二十八日、彼の埋葬の日に撒布された。やがて、ロシヤにおいて合法的に發表されたのは一九〇五年のことであつた』。底本の池田健太郎氏の注を総て引く。長いが、この詩の正しい理解にはどうしても必要不可欠であるからである。『この一編のモチーフとしては、直接にはいわゆる『ヴェーラ・ザスーリチ事件』(彼女は一八五一年生れの女革命家で、警視総監トレホフがある政治犯に笞刑を加えたのを憤って一八七八年一月、彼を射撃負傷せしめ、同三月の陪審裁判の結果、無罪となった――)、間接には七七年に起った種々の政治犯事件に女性の参加がすこぶる顕著であった事実などであろうと推定される。従ってこの一編が公に発表されるまでには長い曲折の歴史がある。一八八二年夏ツルゲーネフが、『ヨーロッパ報知』の編集者あてに発送した原稿の中には加わっていたのだが、そののち校正の際に彼は自発的に撤回しようとし、スタシュレーヴィチに向ってたびたび撤回方を要請した末、発表された五十編は、これを除き新たに『処生訓』を加えたものであった。越えて八三年九月、すなわち彼の死の直後に、当時の急進派であった『民衆の意志党』は、この詩に宣言書を付して秘密出版し、彼の埋葬の日にペテルブルグに撒布した。この詩がようやく合法的に日の目を見たのは一九〇五年である。なおこの一編は久しく一八八一年前半の所作と誤認されていたもので、在来の刊本はいずれもこれをのちの『祈り』の前においている。また上述の数奇な運命をへる間に、これは少なからぬヴァリアントを生じたが、アカデミア版の編者の言葉によれば、この訳のテキストとした形が、作者の最後の意志に適うものと思われる』とある。]

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 乞食


Kojiki

  乞食

 

通りを歩いていると……乞食に呼びとめられた。よぼよぼの老人である。

赤くただれた、涙っぽい眼。青ざめた口びる。毛ばだったぼろきれ。うみくずれた傷ぐち。……おお、貧苦に虫ばみつくされた不仕合せな男!

彼は赤くむくんだ、きたならしい手を、わたしにさしのべた。……うめくように、つぶやくように、お助けをと言う。

わたしは、ポケットというポケットをさがしはじめた。……財布もない、時計もない、ハンカ三枚ない。……何ひとつ持って出なかったのだ。

乞食は待っている。……さしのべたその手は、力なく揺れ、わなないている。

途方にくれ、うろたえたわたしは、ぶるぶるふるえる汚(きた)ない手を、しっかり握りしめた。

「わるく思わないでおくれ、兄弟。わたしは何も持っていないのだよ。」

乞食は、ただれた眼で、じつと私を見た。青ざめたその口びるを、うす笑いがかすめた。

――そして彼は、わたしの冷たくなった指を握りかえした。

「結構ですとも、だんな」と、彼はささやいた。「それだけでも、ありがたいことです。――それもやはり、ほどこしですから。」

わたしはさとった。わたしのほうでも、この兄弟からほどこしを受けたことを。

               .1878

 

[やぶちゃん注:一九四三年(昭和十八年)に治安維持法違反で逮捕され、二年後の日本敗戦の年に九州で獄死した朝鮮の詩人윤동주(ユン・ドンジュ 尹東柱 一九一七年~一九四五年)には、本作をインスパイアした「ツルゲーネフの丘」という詩がある。以下、私の古い教え子であるI君が原語から訳してくれたものを掲げておく。

   *

 

  ツルゲーネフの丘   尹東柱

 

 私は坂道を越えようとしていた…その時、三人の少年の乞食が私を通り過ぎて行った。

 一番目の子は背中に籠を背負い、籠の中にはサイダー瓶、缶詰の缶、鉄くず、破れた靴下の片割れ等の廃物が一杯だった。

 二番目の子もそうであった。

 三番目の子もそうであった。

 ぼうぼうの髪の毛、真っ黒い顔に涙の溜まった充血した眼、血色無く青ざめた唇、ぼろぼろの着物、ところどころひび割れた素足。

 あぁ、どれほどの恐ろしい貧しさがこの年若い少年達を呑み込んでいるというのか。

 私の中の惻隠の心が動いた。

 私はポケットを探った。分厚い財布、時計、ハンカチ…あるべきものは全てあった。

 しかし訳もなくこれらのものを差し出す勇気はなかった。手でこねくりまわすだけであった。

 優しい言葉でもかけてやろうと「お前達」と呼んでみた。

 一番目の子が充血した眼でじろりと振り返っただけであった。

 二番目の子も同じであった。

 三番目の子も同じであった。

 そして、お前は関係無いとでもいうかのように、自分たちだけでひそひそと話ながら峠を越えていった。

 丘の上には誰もいなかった。

 深まる黄昏が押し寄せるだけ…

 

   *

なお、本注を附すに至った仔細は私のブログに記載してあるので、是非、参照されたい。]

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳 対話


Kaiwa

  対話

 

    ユングフラウも

    フィンステラールホルンも、

    いまだ人の足跡をとどめない。

 

アルプスのいただき。……をそり立つ崖のつらなり。……山なみのきわまるところ。

山々のうえ、無言で澄みかえる浅みどりの空。きびしく肌をさす寒気(かんき)。きらめき光る堅い雪はだ。その雪をつらぬいて、風にさらされ氷におおわれ、荒々しく立つ岩また岩。

天(あま)ぎわに、相対してそびえ立つ二つの巨岳、ふたりの巨人。ユングフラウとフィンステラールホルンと。

さてユングフラウが、隣人に話しかける。「何か変ったことはなくて? あなたのほうが、よく見えるでしょう。下界はどんなふうなの?」

またたくまに過ぎる幾千年。さてフィンステラールホルンが、ごうごうと答える。「密雲が地面をおおっている。……まあお待ち!」

またたくまに過ぎる、またも幾千年。

「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。

「こんどは見える。下界はあい変らずだ。まだらで、せせこましい。水は青く、森は黒く、ごたごたと積んだ石は灰いろだ。そのまわりに、あい変らず虫けらどもがうごめいている。  ほら、まだ一度もお前やおれを汚したことのない、あの二本足の虫けらさ。」

「人間のこと?」

「うん、その人間だ。」

またたくまに過ぎる幾千年。

「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。

「虫けらは、だいぶ減ったようだ」と、フィンステラールホルンがとどろく。「下界はだいぶ、はっきりしてきた。水はひいて、森もまばらだ。」

またたくまに過ぎる、またも幾千年。

「何が見えて?」と、ユングフラウ。

「おれたちの近所は、さっぱりしてきたようだ」と、答えるフィンステラールホルン。「だが、遠くの谷あいには、まだらが残っていて、何やらうごめいている。」

「で、こんどは?」と、またたくまに幾千年をへて、ユングフラウがきく。

「やっと、せいせいした」と、答えるフィンステラールホルン。「どこもかしこも、さっぱりした。どこを見てもまっ白だ。……見わたすかぎり、おれたちの雪だ。いちめん雪と氷だ。みんな凍ってしまった。これでいい、せいせいした。」

「よかったこと」と、ユングフラウが言う。「でもわたしたち、たんとおしゃぺりしたから、ひと眠りするとしましょうよ、おじいさん。」

「うん、そうだ。」

巨山はねむる。みどりに澄んだ空も、永遠にもだした大地のうえに眠る。

                 
.1878

 

[やぶちゃん注:中山省三郎譯「散文詩」では「會話」。添え辞は、ブログでの不具合を考えて改行してある。

「ユングフラウ」スイスのベルン州ベルナー・オーバーラント地方にあるアルプス山脈の高峰(ユングフラウ山地の最高峰)。四千百五十八メートル。ドイツ語“Jungfrau”は、 「乙女」「処女」の意である。初登頂は一八一一年に成されている。

「フィンステラールホルン」“Finsteraarhorn”はユングフラウと同じくスイスのベルン州ベルナー・オーバーラント地方の最高峰。四千二百七十四メートル。アルプス山脈で三番目のピーク。公式な初登頂記録は一八二九年。ドイツ語の“Finster”、「暗黒の」「不機嫌な」「不気味な・はっきりしない」という意。詩冒頭のエピグラフはそれ以前の誰かの謂いであるか、若しくはどちらもたかだか六十七年から五十年程前までは未踏峰であった事実を踏まえての、この詩全体が太古の時間を幻視しているツルゲーネフ自身の思いの現われであることの表明なのかもしれない。但し、底本の池田健太郎氏の注では、『この題辞は、一八七八年にあっては時代錯誤の感なしとしない。この頃までにユングフラウもフィンステラールホルンも、すでにたびたび踏破されていた。前者の初征服は一八一一年八月、より険岨と伝えられる後者の初登攀でさえ、翌一二年八月になされた。思うにこの題辞は、感情主義作家カラムジーンの『ロシア旅行者の手紙』にもとづくものか。一七八九年八月の「手紙」のなかで、カラムジーンはユングフラウにふれて言う。――「かしこにはいまだ人跡をとどめず」と』とある。池田氏のフィンステラールホルンの初踏破の違いは英語版ウィキの“Finsteraarhornによれば、ピーク認識の違いによるものと思われる。

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳抄(改訳分十一篇)始動 / いなか

Стихотворение в прозе   Иван Сергеевич Тургенев

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ作「散文詩」神西清訳抄(改訳分十一篇)

 

[やぶちゃん注:私は既に九年前の二〇〇八年十一月二十九日に昭和二六(一九五一)年角川書店刊のツルゲーネフ作・中山省三郎譯「散文詩」を底本として同作全八十三篇を全挿絵入りで公開している。実は私はその前に所持していた一九五八年刊の岩波文庫版の神西清(明治三六(一九〇三)年~昭和三二(一九五七)年)・池田健太郎訳の方の「散文詩」を若い友人に贈ってしまったのであった(新字新仮名で若者に読み易いという一点でプレゼントしたのであった)。その後、実は同書は品切れとなっていたため、そのまま時が過ぎたのであるが、先日、久しぶりに本屋を覗いたら、同書が復刊していたので、久しぶりにそれを手にし得たのであったが、その池田健太郎氏の解説によれば、神西清は戦前の昭和八(一九三三)年、三十歳の時に、岩波文庫で「散文詩」全篇訳を刊行している(私は所持していない)が、『御自身の詩境の円熟と、さらにはわが国語の変遷を考えられて、改訳の必要を痛感されていた。しかし多忙と、とりわけ、長い闘病』(神西清は一九五六年より舌癌の治療を受けていた)『のため、十一編を改訳されただけで世を去られた。この十一編は名訳者。神西清先生の晩年を飾るにふさわしい名訳と思う』として、その神西清訳になる十一篇の題名が掲げられてある。即ち、この一九五八年刊岩波文庫版「散文詩」の中のそれら十一篇は純粋に神西清の訳であることが判るのである(それ以外は池田氏が神西の旧訳を元に改訳したと解説で述べておられる。因みに、池田氏の著作権は存続しているので、それらは電子化出来ない)。

 何時か、旧神西清訳のそれを手に入れ、全篇の電子化を試みたく思うのであるが、殆んど家を出ることがない私がそれを入手するのは、何時になるか、判らぬ。さればこそ、まず、この復刊したものの中から、その神西訳十一篇を抜き出して電子化することとした。挿絵は中山省三郎譯「散文詩」で使用したものを附した(但し、挿絵は原典自体、附されていない詩篇もある)。

 原作の書誌は中山省三郎譯「散文詩」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、一部は注がどうしても必要な詩篇があるが、それは概ね、中山省三郎譯「散文詩」で中山氏が附しておられ、さらに私が注したものあるので、そこから引いたものもある。基本、リンク先の当該詩篇を併読されたい。新たにここで禁欲的に注も附した。底本の注は池田氏の附されたものであるが、読解上、不可欠と思われるものは引用させて戴いくこととする。

【二〇一七年十月一日 藪野直史】]



 

Inaka

 

  いなか

 

夏は七月、おわりの日。身をめぐる千里、ロシアの国――生みの里。

空はながす、いちめんの青。雲がひときれ、うかぶともなく、消えるともなく。風はなく、汗ばむ心地。……大気は、しぼりたての乳さながら!

雲雀(ひばり)はさえずり、鳩は胸をはってククとなき、燕は音もなく、つばさをかえす。馬は鼻をならして飼葉(かいば)をはみ、犬はほえもせず、尾をふりながら立っている。

草いきれ、煙のにおい、――こころもちタールのにおい、ほんのすこし革(かわ)のにおいも。大麻(たいま)はもう今がさかりで、重たい、しかし快い香りをはなつ。

深く入りこんだ、なだらかな谷あい。両がわには、根もとの裂けた頭でっかちの柳が、なん列もならんでいる。谷あいを小川がながれ、その底にはさざれ石が、澄んださざなみごしに、ふるえている。はるかかなた、天と地の尽きるあたり、青々と一すじの大川。

谷にそって、その片がわには、小ぎれいな納屋(なや)や、戸をしめきった小屋がならび、別の片がわには、松丸太を組んだ板ぶきの農家が五つ六つ。どの屋根にも、むく鳥の巣箱のついた高いさお。どの家も入口のうえに、切金(きりがね)細工の小馬の棟かざりが、たてがみをぴんと立てている。でこぼこの窓ガラスは、七色(なないろ)に照りかえる。よろい戸には、花をさした花瓶の絵が、塗りたくってある。どの農家の前にも、きちんとしたベンチが一つ、行儀よくおいてある。風をふせぐ土手のうえには、小猫がまりのように丸まって、日に透(す)ける耳を立てている。たかい敷居のなかは、涼しそうに影った土間(どま)。

わたしは谷のいちばんはずれに、ふわりと馬衣をしいて寝そべっている。ぐるりいちめん、刈りとったばかりの、気疲れするほど香りのたかい乾草の山また山。さすがに目の利く農家の主人たちは、乾草を家のまえにまき散らした。――もうすこし天日にほしてから、納屋へしまうとしよう。その上で寝たら、さぞいい寝心地だろうて!

子どものちぢれ毛あたまが、どの乾草の山からも、のぞいている。とさかを立てたにわとりは、乾草をかきわけて、小ばえや、かぶと虫をあさり、鼻づらの白い小犬は、もつれた草のなかでじゃれている。

ちぢれた亜麻いろ髪をした若者たちは、さっぱりしたルバシカに、帯を低めにしめ、ふちどりのある重そうな長靴をはいて、馬をはずした荷車に胸でよりかかりながら、へらず口をたたきあっては、歯をむいて笑う。

近くの窓から、丸顔の若い女がそとをのぞいて、若者たちの高ばなしにとも、乾草やまのなかの子供たちにともつかず、声をたてて笑う。

もうひとりの若い女は、たくましい両腕で、ぬれそぼった大つるべを、井戸から引っぱりあげている。……つるべは、綱のさきでふるえ、揺れ、きらめく長いしずくを、はふり落す。

わたしの前には、年とった農家の主婦が立っている。格子じまの、ま新しい毛織りのスカートに、おろしたての百姓靴をはいている。

大粒の、がらんどうのガラス玉を、あさ黒いやせた首に三重(みえ)にまきつけ、白毛(しらが)あたまは、赤い水玉を散らした黄いろいプラトークで包んでいる。そのプラトークは、光のうせた目のうえまで垂れかかる。

が、老いしぼんだ目は、愛想よくほほえんでいる。しわだらけの顔も、笑みくずれている。そろそろ七十に手のとどきそうな婆さんなのに……若いころはさぞ美人だったろうと、しのばせるものがある!

右の手の日にやけた指をひろげて、ばあさんは、穴倉から出してきたばかりの、上皮もそのままの冷めたい牛乳の壺(つぼ)をにぎっている。塵の肌(はだ)いちめん、ガラス玉のように露をむすんでいる。左の手のひらに、ばあさんは、まだほかほかのパンの大きなひときれをのせて、わたしにすすめる。――「あがりなさいませ、これも身の養いですで。旅のだんな!」

おんどりが、いきなり高い声をあげて、ばたばたと羽ばたきした。それにこたえて、小屋のなかの小牛が、もうと気ながにないた。

「やあ、すばらしいカラス麦だぞ!」と、わたしの駁者(ぎょしゃ)の声がする。

ああ、気ままなロシアのいなかの、満足と、安らかさ、ありあまる豊かさよ! その静けさ、その恵みよ!

思えば、帝京(ツアリ・グラード)の聖ソフィヤ寺院のドームの上の十字架をはじめ、われわれ都会の人間があくせくすることすべて、なんの役に立つというのだろうか?

                 
.1878

 

[やぶちゃん注:「散文詩」の巻頭詩篇。中山省三郎譯「散文詩」では「田舍」。

「(タール)」これは単に染み出した天然の瀝青油(石油)か、天然アスファルト、又は自然状態で野火等によって熱分解で発生した、植物や石炭の乾留物質であるタール様物質の匂いを指すか。ロシアの原野の様相は不学のためよく分からない。

「大麻」双子葉植物綱イラクサ目アサ科アサ属Cannabis。雌雄異株で高さは2~3m(品種や環境によっては更に高く成長する)。ヒマラヤ山脈北西部山岳地帯が原産とされる。マリファナの原料として忌避され危険視されるが、熱帯から寒帯域に至る広範な地域に分布しており、本邦でも北海道等で時に自生株が見つかって処理されたという報道を聞く。
 
「ルバシカ」(
Рубашка)はロシアで広く「シャツ」を意味する語ではあるが、特に民族服の一つを指す。詰め襟・長袖・左前開きで腰丈(こしだけ)の男性用上衣。襟や袖口や縁辺に刺繍が施し、腰帯を締めて着用する。本来は厚地の白い麻製でウエストは絞りを入れず、ゆるやかにして、しかも暖かいのを特徴とする(概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「はふり落す」ママ。「はふる」は古語っぽい。古語ならば、「放ち捨てる」であるが、ここは「振って払い落とす」の意味であろう。

・「近くの窓から、丸顔の若い女がそとをのぞいて、若者たちの高ばなしにとも、乾草やまのなかの子供たちにともつかず、声をたてて笑う」「若者たちの高ばなしに」対してか、「乾草やまのなかの子供たちに」対してか、どっち「ともつかず」で、否、その両方を見て「声をたてて笑」っている、の意。

「プラトーク」(Платок)はロシアに於ける民族的な女性用の被り物(ショール)。季節を問わず、用いられ、通常は四角い布切れ或いはニット地で、頭に被るだけでなく、肩に懸けたり、首に巻いたりもする。原色の華やかな花柄が好まれる。但し、広く使用されるようになったのは機械による大量生産が開始された十九世紀半ば以降のことで、その時期以降に伝統的な被り物に代わって農民や商人など、広く一般庶民の間に流布するようになったものである。一般庶民によって日常的に気楽に用いられた反面、結婚の結納品や仲人への報酬としても用いられ、花嫁にとっては娘時代との別れを象徴するものとして、婚礼へ向かう道で投げ捨てたり、実家に残していくべきものであった(概ね、平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「帝京(ツアリ・グラード)」「ツアリ」(царь:ツァーリ)は「皇帝」で、「グラード」(град)は「都市」。これを含む地名がロシアには多いが、ロシア語を正確に音写すると、「グラート」「グラト」で、しかもこの語彙(語形)は南スラヴ語起源で、東スラヴ語であるロシア語では文語的な借用語で、対応するロシア語固有の語彙は(город)「ゴーロト」「ゴロト」である(ウィキの「グラードに拠った)。

「聖ソフィヤ寺院のドームの上の十字架をはじめ、われわれ都会の人間があくせくすることすべて、なんの役に立つというのだろうか?」中山省三郎譯「散文詩」の中山氏の注と私の補注を引く。『コンスタンチノープルなる聖ソフィア寺院:クリミヤ(一八五三五六)、更に露土戰爭(一八七七七八)の誘因となつた近東問題を諷したもの。頃はトルコの隷屬と、黑海および地中海を結ぶ海峽の占領、すなわちコンスタンチノープルの占領が絶えず企圖され、問題になつてゐた時代である。[やぶちゃん補注:この「聖ソフィア寺院」とは、正教会で「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれた東ローマ帝国時代の建造になるトルコのイスタンブールにあった教会堂のことを指す。古くは正教会の旧総本山であったが、現在はアヤソフィア(トルコ語Ayasofya)と呼ばれ、ビザンティン建築の最高傑作として博物館となっている。オスマン帝国の時代には最高位のモスクに転用されていた。本来の名称である「アギア・ソフィア」とはギリシア語で「聖なる叡智」の意味。ちなみに、古記録によれば、創建当時のドーム内部には巨大な十字架が画かれていたという。]』。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛙(あまがえる)


Kaeru

あまかへる  鼃【蛙同】 長股

       青雞    坐魚

       田雞    蛤魚

       【和名阿末加閉流】

ワアヽ

 

本綱蛙似蝦蟇背青綠色尖嘴細腹後脚長故善躍性好

坐故曰坐魚俗謂之青蛙其聲自呼大其聲則曰蛙小其

聲曰蛤古昔常食之如魚肉味【甘寒】如雞蓋以脰鳴者鼃

黽之屬農人占其聲之早晩大小以ト豐𣤤蛙亦能化爲

鴽【鶉之屬】

△按蛙如蝦蟇而小背青綠腹白大者不過寸半將雨則

 鳴故名雨蛙俗傳云蛙變爲守宮其變也抱屋壁不敢

 動不吃雨露三旬許而變色生尾以行去

――――――――――――――――――――――

青蝦蟇  俗名土鴨【和名阿乎加閉流】大而青背其鳴甚壯爾雅

 所謂在水曰黽者是也

金線蛙  似青蝦蟇背作黃路

黑蝦蟇 【和名豆知加閉流】黑色者南人名蛤子食之至美以爲

 佳饌卽今云水雞是也

赤蝦蟇 △按赤蝦蟇不載本艸然川澤有之體瘦淺赤

 色入五疳藥以爲有効但希有難得耳

 

 

あまかへる  鼃〔(あ)〕【蛙〔(あ)〕に同じ。】

       長股〔(ちやうこ)〕

       青雞〔(せいけい)〕

       坐魚〔(ざぎよ)〕

       田雞〔(でんけい)〕

       蛤魚〔(かふぎよ)〕

       【和名、「阿末加閉流〔(あまかへる)〕」。】

ワアヽ

 

「本綱」、蛙は蝦蟇〔(かへる)〕に似て、背、青綠色。尖りたる嘴〔(はし)〕、細き腹、後ろの脚〔(あし)〕長き故に善〔(よ)〕く躍〔(はね)〕る。性、好みて坐す。故に「坐魚」と曰ふ。俗に之れを「青蛙」と謂ふ。其の聲、自〔(みづか)〕ら〔を〕呼ぶ。其の聲を大にして、則ち、「蛙(ワアヽ)」、其の聲、小さくするときは、「蛤(カツ)」と曰ふ。古-昔(むかし)は常に之れを食すこと、魚〔(うを)〕のごとくす。肉味【甘、寒。】雞〔(にはとり)〕のごとし。蓋し、脰(くび)を以つて鳴く者、鼃黽〔(あばう)〕の屬。農人、其の聲の早晩・大小を占ひて以つて豐𣤤ト〔(うら)〕なふ。蛙、亦た、能く化して鴽(かまうき)と爲る【鶉の屬。】。

△按ずるに、蛙、蝦蟇〔(かへる)〕のごとくにして小さく、背、青綠にして、腹、白く、大なる者〔も〕、寸半に過ぎず。將に雨ふらんとすれば、則ち、鳴く。故に「雨蛙(あまかへる)」と名づく。俗、傳へて云ふ、「蛙、變じて、守宮(やもり)と爲る。其の變ずるや、屋壁を抱へて敢へて動かず、雨露を吃〔(きつ)〕せずして三旬許り〔にし〕て色を變じ、尾を生じ、以つて行き去る。

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青蝦蟇〔(あをかへる)〕  俗、「土鴨」と名づく【和名、「阿乎加閉流〔あをがへる)〕」。】大にして、青き背。其の鳴〔(めい)〕、甚だ壯たり。「爾雅」に所-謂〔(いへ)〕る、『水に在るを黽〔(ばう)〕と曰ふ』とは是れなり。

金線蛙〔(きんせんあ)〕  青蝦蟇〔(あをかへる)〕に似て、背、黃路〔(わうろ)〕を作〔(な)〕す。

黑蝦蟇〔(くろかへる)〕 【和名、「豆知加閉流(つちかへる)」。】黑色なる者。南人、「蛤子〔(かふし)〕」と名づく。之れを食ふに、至つて美なり。以つて佳饌と爲す。卽ち、今、云ふ、「水雞〔(すいけい)〕」、是れなり。

赤蝦蟇〔(あかかへる)〕 △按ずるに、赤蝦蟇は「本艸」に載せず。然れども、川澤に之れ有り。體、瘦せ、淺赤色。五疳の藥に入れて、以つて、効、有りと爲〔(す)〕。但し、希れに有りて、得難きのみ。

 

[やぶちゃん注:主記載及び後の「青蝦蟇〔(あをかへる)〕」を本邦の種に同定するなら、まず、無尾目カエル亜目アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属ニホンアマガエル Hyla japonica である。但し、本種は日本・朝鮮半島・中国東部まで広く分布しているから、「本草綱目」のそれも本種或いはその近縁種として構わない。但し、「古-昔(むかし)は常に之れを食すこと、魚〔(うを)〕のごとくす。肉味【甘、寒。】雞〔(にはとり)〕のごとし」とするのは本種ではないと考えてよい。中国からインドネシアにかけての地域で現在も食用に供される種では、カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属トラフガエル Rana tigerina(台湾以南の東南アジアからインドにかけて広く分布し、体長十センチメートルほどになる比較的大型のカエルで、暗褐色の地に黒い斑紋を持つ。分布地ではどこでも、現在も普通に食用に供され、俗に「水鶏」「田鶏」と呼ばれる。これは本項の異名の「水雞」「田雞」と同義であるが、必ずしもこの一種に同定は出来ない。後注参照)や、カエル亜目ヌマガエル科ヌマガエル属ヌマガエル Fejervarya kawamurai などがおり、ここはそれ、特に前者トラフガエルを指すと考えてよいからである。

 

「蛙(ワアヽ)」現代中国音でも「蛙」は「」で「ゥアア」で音写としては近い

「蛤(カツ)」現代中国音では「蛤」は「」「グゥーァ」で、良安の振る「カツ」よりも遙かにカエルの鳴き声の音写に近い。そもそもが「蛤」は呉音「コフ(コウ)」・漢音「カフ(コウ)」慣用音 でも「カ」で「カツ」は普通の音にはない

「脰(くび)」項(うなじ)。

「鼃黽〔(あばう)〕」既出既注。蛙。

「早晩」ここは一日の中の朝と夕の意ではなく、「大小」と対句であるから、「早いことと遅いこと」の意。

「豐𣤤」「𣤤」は音は恐らくは「レン」。東洋文庫訳では豊作と凶作の意で採っている。それに従う。

「鴽(かまうき)と爲る【鶉の屬。】」東洋文庫訳では『ふなしうずら』とルビを振る。これは斑無鶉(鶕)で、鶉(うずら)とは全く縁遠い、現在の鳥綱チドリ目ミフウズラ科ミフウズラ属ミフウズラ(三斑鶉)Turnix suscitator の旧和名である。ウィキの「ミフウズラ」によれば、全長約十四センチメートルと小型で、全くの別種であるキジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica『とよく似た体形の鳥である。全身褐色で、胸や脇に黒い横斑がある。また顔から背中にかけて白く細かい斑紋があるが、雌の方が顕著である』。『中国南部から台湾、東南アジア、インドに分布』するが、日本でも『南西諸島に留鳥として分布している』。『草原や田畑に生息するが、地面とよく似た体色のせいかあまり目立たない。比較的乾燥した土地を好むと言われている。餌は昆虫や果実など。繁殖形態は一妻多夫で』、四月から八月頃にかけて、『地上に枯れ葉などで巣をつくり、雄が抱卵や育雛を行う。雌は繁殖期に「ブーゥ、ブーゥ」と鳴くが、その他の時期には』、『あまり』、『鳴き声は聞かれない』。『奄美方言ではウズィラ』、『沖縄方言ではウジラー』『と呼ばれ』ているとあるので、鶉と勘違いしないようにする必要がある。

「寸半」一寸半。四センチメートル五ミリ強。

「守宮(やもり)」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属 Gekkoのヤモリ類。私の家の二十年来の同居人で、一般に知られるそれ、ニホンヤモリ Gekko japonicus は、中国東部・朝鮮半島・日本(秋田県以南の本州・四国・九州・対馬)に分布するのでそれをここに掲げても問題はない。なお、ウィキの「ニホンヤモリ」によれば、本種はシーボルトが新種として報告したため、種小名にjaponicus『(「日本の」の意)が付けられているが、本種はユーラシア大陸からの外来種と考えられており、日本固有種ではない。日本に定着した時期については不明だが、平安時代以降と思われる』とある。私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「守宮(やもり)」の項も是非、参照されたい。

「敢へて動かず」まず、動こうとはせず。

「吃〔(きつ)〕せずして」この「吃」は「飲む」。

「三旬」一ヶ月。以下、「許り〔にし〕て色を變じ、尾を生じ、以つて行き去る」とあるのであるから、ここは、青蛙が人家の壁に張りついて凝っとして動かなくなり、そういう状態で一ヶ月ほどが経過した頃、色が青から灰色或いは薄緑色に変じ、長い尾が生えて、徐に壁を這って去って行く、というのである。

と言い添えている以上は、

「土鴨」これは明らかに本邦で赤蛙を食用にしていたことを示す別称である。

「壯たり」勇壮である。

「青蝦蟇」罫線がある通り、以下の三種の記載は純粋な良安の評言ではなく、「本草綱目」の「蛙」の「集解」の中にある以下の二つ節を主として箇条書きにしたものである。

   *

弘景曰、凡蜂、蟻、蛙、蟬、其類最多。大而靑脊者、俗名土鴨、其鳴甚壯。一種黑色者、南人名蛤子、食之至美。一種小形善鳴者、名蛙子、卽此也。

   *

頌曰、今處處有之。似蛤蟆而背靑綠色、尖嘴細腹、俗謂之靑蛙。亦有背作黃路者、謂之金線蛙。陶氏所謂土鴨、卽「爾雅」所謂『在水曰黽』者、是也。俗名石鴨。所謂蛤子、卽今水雞是也、閩、蜀、浙東人以爲佳饌。

   *

従って、厳密には中国産カエルの知識がないと同定は出来ないのであるが、癪なので、一応、本邦産の近いものを示しおくことにする。

「黽〔(ばう)〕」東洋文庫訳では『あおがえる』とルビを振ってしまっている。ここに限ってはこのルビは漢籍引用に対する冒瀆であり、やってはいけないことだと私は思う。割注なら許せるが。

「金線蛙〔(きんせんあ)〕」「青蝦蟇〔(あをかへる)〕に似て、背、黃路〔(わうろ)〕を作〔(な)〕す」とあることから、私はこれに似た種を考えるなら。日本の固有種の、アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属アカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris の変異個体を挙げる。本州・四国・九州・佐渡島に分布し、体長は四・二~七・八センチメートルで、体色はオレンジから褐色と、個体により大きな変異がある。背面には筋状の隆起があり、鼓膜の上部で一度外側へ曲がり、鼓膜の後部で、また、内側に曲がる。後掲するニホンアカガエルによく似ているが、ニホンアカガエルはこの背側線が真っ直ぐであることで区別が出来る。咽頭部には明瞭な黒い斑点が入る個体が多い。なお、本種の種小名ornativentrisは「飾り立てた腹」の意で、腹面の斑紋に由来すると名と推定される(以上はウィキの「ヤマアカガエル」に拠った)。

「黑蝦蟇〔(くろかへる)〕」『和名、「豆知加閉流(つちかへる)」』。冒頭に記したように、「水雞〔(すいけい)〕」なら、トラフガエル Rana tigerina となる。但し、本邦には、ズバリ、この和名の種がいるので良安が追加して挙げている以上、ここに示さねばならない。カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ツチガエル Rana rugosa である。ウィキの「ツチガエルから引く。『日本では水辺で見られる褐色のカエルで』、『外見のグロテスクさからか』、『地方によってはクソガエルとも呼ばれる』。『北海道西部から九州までと周囲の島に分布し、日本以外では朝鮮半島と中国に分布する』。但し、『南西諸島や対馬などには生息していない』。『北海道では』、『本来』、『分布していない外来種である』。一九八五『年に札幌市南区藤の沢で初めて記録され、その後道内各地(長沼町・滝川市等)で定着が確認された。北海道のツチガエルが在来種か外来種かについては最近まで不明であったが』、一九七〇年代から一九八〇『年代にかけての本州産のコイの導入に紛れ込み』、『侵入したことが判明している』。体長三~五センチメートル『ほどで、メスの方がオスより大きい。背中側は灰褐色』と『黒褐色のまだら模様で、背中の中央に白い背中線があるものもいる。背中には大小の』疣(いぼ)状の『突起がたくさん並び、このため』、『各地で「イボガエル」という方言で呼ばれている。腹側はうすい褐色をしている』。『ヌマガエルによく似ているが、背中のいぼ状突起が大きいこと、腹が白くないこと、匂いをかぐと異臭がすることなどで区別できる』。『水田や湿地、池、山地の渓流から河口域まで、淡水域に幅広く生息する。ただし水辺からあまり離れず、すぐに水に飛び込める位置にいることが多い。松尾芭蕉の句にある古池に飛び込む蛙は、このツチガエルの可能性が高いとも云われている』。『ヌマガエルと同様に地上生活をし、おもに小さな昆虫類を捕食する。繁殖期は』五月から九月『で、オスが鳴いてメスを誘う』、但し、『鳴き声はヌマガエルやニホンアマガエルに比べるとかなり低い小声で、「ギュー・ギュー」と聞こえる。卵は数十個ずつの卵塊で産卵される』。『ふつうのカエルは、秋までに幼生(オタマジャクシ)が変態してカエルの姿になるが、ツチガエルは幼生の一部が越冬する。越冬した幼生は大型になり、尾まで含めた全長が』八センチメートル『に達するものもいる』。二十『世紀後半までは各地の水田でよく見られたが、冬に水を抜いてしまう乾田の増加とともに水田から姿を消している』。良安は自信を持って割注を附しているけれども、食用にして最も美味いという辺りからは、中国の「黑蝦蟇」と本本邦産の「土蛙」を同一種とするのはちょっと憚られる気が私はする。寧ろ、上記の引用から推理すると、中国産の「黑蝦蟇」とはカエル亜目ヌマガエル科ヌマガエル属ヌマガエル Fejervarya kawamurai なのではないかと私は思う。

「佳撰」今では酒の等級表示としてしか認識していない熟語であるが、「選りすぐりの、優れて美味い食物」の意である。

「蛤子〔(かつし)〕」大修館書店「大漢和辭典」によれば、「蛤」はに「はまぐり」、に「大はまぐり」とするも、で「かじか。また、かえる【かへる】」とし、さらにでは「大蛤は、大がま」(蝦蟇)とある。但し、現代中国語では「蛤子」(音写「ゴース」)はアサリ(斧足綱マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属 Ruditapes)のことを指す。

「赤蝦蟇〔(あかかへる)〕」カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ニホンアカガエル Rana japonica ということになる。ウィキの「ニホンアカガエル」によれば、『日本の固有種で、本州から九州及び周辺離島に分布している』。『また、伊豆諸島(八丈島)に人為的に移入されている』。体長は三センチメートルから七・五センチメートル。『体色は赤褐色で、背中の左右の黄色い筋が真っ直ぐ平行に通っている。オタマジャクシの背中には一対の黒斑がある』。『単独で生活』し、『普段は草むらや森林、平地、丘陵地等の地上で暮らす。昆虫やクモ類を食料とする。冬眠をするが、暖かい時は真冬も活動する』。『産卵は他のカエルより早く』、一『月から始まり、時には』十二『月でも産卵する。産卵数は』五百から三千個ほどで、『産卵場所は水田(湿田)や湿地。繁殖期が終わると』、『再び』、『斜面林の落ち葉等に潜り』、五『月頃まで冬眠する』。前に注した『ヤマアカガエルとは、形態的にも生態的にもよく似ている』(但し、全く縁遠い別種である)。『産卵場所では入り交じる例もあるというが、一般的には本種が平地に、ヤマアカガエルが山間部に生息する。ただし、近年の水田周辺の環境変化により、カエル類の生息数が減少している。本種はその生息環境がその区域に強く重なるため、その影響を非常に強く受けるのに対して、山間部のヤマアカガエルは』、『比較的』、『その影響を受けない。そのため、本種が数を減らしており、ヤマアカガエルばかりが見られる傾向がある』。『ヤマアカガエルと同じく、かつては食用にする地方があった』とある。私が高校時代に尊敬していた生物の教師は、「アカガエルは非常に上手い!」といつも叫んでおられたのを思い出す。因みに、どこかで「元国語教師が、生物を語る何ぞ、ちゃんちゃらおかしい」と、内心、ほくそ笑んで軽蔑しながらこれを読んでおられる御仁のために、一言、謂い添えさせてもらうと、私は高校生の時、演劇部と生物部の二足の草鞋を履いていた。生物部ではミクロトームを用いてトノサマガエルの脳下垂体を削り出したり(但し、失敗)、イモリの四肢を切断して再生実験をしたり(殆んど失敗したが、一度だけ前足の初期再生までは至った)していた。国御教師でこういう経験があるのはかなり特異であると思う。さらに言っておくと、中学時代も理科部で、当時は日本で三~四校しか存在しなかった海塩粒子班(空中を浮遊して内陸奥深くまで飛び散る海塩核を特殊フイルムで定点採取して検鏡してデータを集積し、塩害等の研究を行うもの)に所属し、三年生の部長に時には(といっても班員は私を含めて四人しかいなかった)学生科学展の高等学校の部で富山県大会の優秀賞を受賞している。私はそういう意味では、そこらへんにいる、ただの文系の心情理系好きとは一線を画していると自負している

「五疳」漢方の小児疾患である「肝疳・心疳・脾疳・肺疳・腎疳」の「小児五疳」。「日本薬学会」のによれば(ピリオド・コンマを句読点に代えさせて貰った)、『中国思想の五行説』『から、漢方理論的に小児の特異体質に適用した考え方。すなわち、いろいろな内因、外因によって五臓(肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓)のバランスが乱れ、精神的症状や肉体的症状を起こし、この』二『つの症状が相互に作用し合う諸症状を総称したものである。これは、現代の虚弱体質・過敏性体質(滲出性体質、自律神経失調症)に近い症状で、「小児直訣」「太平恵民和剤局方」の原点に詳しく解説されている』とある。]

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