トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) NECESSITAS, VIS, LIBERTAS
――淺浮彫
鐡の壁画のやうに無表情な、洞ろな眸をした老婆が、脊の高い骨と皮ばかりの身に大股を踏んで、杖みたいに凋びた片手で前方の女を押してゐる。
それが、見るからに逞しい大女で、立派な肉置(ししおき)はヘラクレスのやう。太い猪首に小さな頭を托し、兩眼は盲いてゐる。こはまた、瘦せて小さな女の子を押してゐる。
眼の明いてゐるのは、女の子だけだ。彼女は強情に身をくねらせ、きれいな纖細(かぼそ)い腕を振り上げる。生き生きした顏は、勇氣と苛立ちの色を示す。彼女は從順を嫌ふ。押されてゆくのを嫌ふ。だが矢張り、服從して步まねばならぬ。
NECESSITAS, VIS, LIBERTAS
お望みなら譯してみたまへ。
一八七八年五月
[やぶちゃん注:挿絵は中山版が三人の頭部部分総てに黒い故意に摺ったような汚れが入ってしまっていて、特に女の子の頭や姿自体の識別が非常に出来にくいので、今回、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」のそれを新たに複写して示すこととした。
訳者註。
NECESSITAS, VIS, LIBERTAS 『必要、力、自由』。
註の斜体はママ。
「NECESSITAS,VIS,LIBERTAS」:中山氏はシンプルに上記のように記しているが、この三つの単語には以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「お望みなら譯してみたまへ」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うのである。
“necessitas”①必然(的なこと)。②強制・圧迫。③境遇・立場。④危急・急迫・苦境。⑤繋がり・関係付ける力・情。
“Vis”①力・権力・勢力。②活動力・実行力・勇気・精力。③敵意としての武力・攻撃。④暴力・暴行・圧制・圧迫。⑤影響・効果。⑥内容・意義・本質・本性。⑦多量・充満。
“Libertas”①自由・解放。②自主・独立。③自由の精神・自立心。④公明正大・率直。⑤放縦・自由奔放・拘束のないこと。⑥無賃乗車券。
例えば、
「必要、力、自由」
の代わりに、
「必然、権力、解放」
「圧迫、勇気、独立」
「境遇、攻撃、自立」
「苦境、圧迫、公明正大」
「繋がり、本性、奔放」
「情、力、真に解き放たれた全き自由なる魂」等々――。]