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2017/10/11

女誡扇綺譚 佐藤春夫 始動 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址

 

[やぶちゃん注:「女誡扇綺譚」(ぢよかいせんきたん(じょかいせんきたん))は大正一四(一九二五)年『女性』に発表された、彼の怪奇小説中、傑作の呼び名高い一篇である。作者自身が、浪漫的作品の最後のものと評し、その自作中でも五指に入るであろうと言ったほど、愛着を示したいわくつきの幻想作品である。

 底本は昭和四(一九二九)年改造社刊の「日本探偵小説全集」の「第二十篇 佐藤春夫・芥川龍之介集」所収のものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(活字本を持っているはずなのだが、数ヶ月かけても見出せない。書庫の奈落で妖怪(あやかし)の餌食にでもなったものか?)。

 本ブログ版では最小限の注を禁欲的に附した。但し、そう言っている傍からであるが、冒頭に出る「赤嵌城(シヤカムシヤ)址」は注が必要であろう。これは「赤崁楼(せきかんろう)」の別名で「赤嵌楼」「紅毛楼」とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡。原名は「プロヴィンティア」(Provintia:普羅民遮城)と称し、一六五三年に、前年に起ったオランダ人と漢人の衝突事件である「郭懐一事件」後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、「プロヴィンティア」は「東都承天府」と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。佐藤は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」(“TE”“THE”の脱字か?)と記しているが、これは厳密には別な城で、参照したウィキの「赤崁楼」によれば、一六二四年、『澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し商館や砲台を築城した。台江西岸の一鯤沙洲(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった』。『オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し厳しい統治方式を採用した。そのため』、『漢人の不満が爆発』、『「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方』地区に新たな『「プロヴィンティア」を建築した。周囲約』百四十一メートル、城壁の高さ十・五メートルの『城砦には』、『水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した』とあるように、「プロヴィンティア」の前にあった別な要塞が「THE CASTLE ZEELANDIA」(安平古堡)である。『オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称』、『鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経』一六六四『年に東都を廃し、「東寧」と改称』、『「東寧国王」を自称するようになった。承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった』。一七二一『年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け』、『赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した』。十九『世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている』とある。【2020年8月15日削除・追記訂正:本注末尾をまず参照されてから読まれたい。近代文学研究者の河野龍也先生からの御指摘により、私の誤認であることが判明した。以下、河野先生のメールより引用させて戴く(引用は河野先生の許諾を頂戴している。以下同じ)。まず、①点目。

   《引用開始》

『作品冒頭の舞台になっている「赤嵌城」ですが、これは安平の「ゼーランジア城」現在は「安平古堡」[やぶちゃん注:「アンピンこほう」と読む。]と呼ばれている史跡の日本時代の通称です。一方、現在でも「赤嵌楼」と呼ばれる「プロヴィンティア城」は、安平ではなく台南の市内にあり、両者は5キロほど離れた全く別の場所に存在しています。作品に出てくるのは 安平の「赤嵌城」=「ゼーランジア城」のことで、春夫の記述に間違いはなく、確かなものです。「赤嵌楼」の方はもともと作品に登場しません。

   《引用終了》

とのことであった。安平古堡はここ(グーグル・マップ・データ)で、私が誤認した赤崁楼(グーグル・マップ・データ)はそこから東の内陸に入った全く別のここであった。日本統治時代の通称の亡霊が私に祟ったわけであった。ウィキの「安平古堡」によれば、同城塞は『旧称を奧倫治城(Fort Orange、オラニエ城)、熱蘭遮城(Fort Zeelandia、ゼーランディア城)、安平城、台湾城ともいう、1624年に建設された台湾で最も古い城堡。建城以来、オランダ統治時代にはオランダ東インド会社による台湾統治の中心地として、また鄭氏政権時代には3代にわたる王城として使用されていた』。『現在は台湾城残蹟の名称で国家一級古蹟に指定され、一般にも開放されている。なお』、『現存する赤レンガは当時インドネシアから運ばれてきたものである』。『1622年、オランダ東インド会社はマカオの占領を図った。しかし、現地のポルトガル人が抵抗したため断念、澎湖島を占拠して東アジア貿易の拠点を築こうとした。しかし、この地も明によって撤去が求められたため、1623年、オランダは台湾に進出し』、『一鯤身に簡易な城砦を築城した。これが安平古堡の前身である。その後』、『1624年に明軍と8ヶ月に及ぶ衝突を繰り返し、その結果』、『オランダと明の間で講和が成立、澎湖の要塞と砲台を破棄する代わりに、オランダが台湾に進出する事を認める内容であった。台湾にオランダ勢力が到着すると、既存の簡易な城砦を再建し「奧倫治城」(Fort Orange)と命名、1627年に「熱蘭遮城」(Fort Zeelandia)と改名され』て『建設が続けられ、1632年に第1期工事が完了した。当時、この城砦は台湾に於けるオランダ勢力の中枢として、行政及び貿易を統括していた』。『1662年、大陸を追われた明の遺臣・鄭成功は、新たな拠点を構築するために台湾を攻撃、既存のオランダ人勢力と対立し』、『ゼーランディア城を攻撃した。その結果』、『オランダ人勢力は台湾から一掃され、台湾史上初めて漢人による政権が樹立された。鄭成功は熱蘭遮城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配者の居城となり「王城」と呼ばれるようになった』。『しかし1683年、清による台湾統治が開始されると、政治の中心は城内に移り、安平城は軍装局として用いられ、城砦の重要性は漸次低減、改修が行なわれることなく次第に荒廃していった。1873年、イギリス軍艦の攻撃を受けたが、その際』、『イギリス軍の放った砲弾が城内の火薬庫に命中爆発、甚大な被害を受けた城砦は廃墟と化してしまう。1874年、台湾出兵問題で日本と善後策を協議した沈葆楨』(しんほてい)『は、台湾海防の充実のために安平城城壁を二鯤身に運搬、億載金城建設の資材とした』。『日本統治時代、城垣は整地され』、『日本式の宿舎が建設され、オランダ時代に築城された城砦は完全に姿を消すこととなった。戦後、国民党政府は城址を「安平古堡」と命名し、僅かに残る城址の保護を決定、現在は中華民國内政部によって一級古蹟の一つとされている。現在観光客が展望を楽しんでいる高台は、日本統治時代に建設されたものであり、保護対象の安平古堡には含まれていない』とある。

 次に②点目は、私が――佐藤春夫は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」と記しているが、「“TE”は“THE”の脱字か?」――と記した箇所で、河野先生は、

   《引用開始》

「TE CASTLE ZEELANDIA」の表記は、春夫が台湾旅行の際、アドバイザーの森丑之助から贈られた案内書『台湾名勝旧蹟誌』(杉山靖憲著・1916.4台湾総督府)からの引用です。しかし「CASTEL(カステル)」と原文にあるのを、恐らく春夫自身が「CASTLE(キャッスル)」に見誤って引用したため、このようになりました。したがって「TE」は英語の定冠詞「THE」の脱字ではないようです。これは当時のオランダ語の表記法を調べる必要がありますが、そこまでは手が及んでいません。ただ、1871年の古写真を見ると、ゼーランジア城の門額に「T CASTEL ZEELANDIA」の綴りを読むことができます。『台湾名勝旧蹟誌』が「T」を「TE」としたのは、依拠文献を含めた転記過程に問題がある可能性もあります。

   《引用終了》

と述べておられ、「台湾名勝旧蹟誌」その他の資料の現物画像も添付して下さり、確認出来た。因みに、森丑之助(明治一〇(一八七七)年~昭和一五(一九二六)年)は台湾民族の研究者で、台湾守備隊附陸軍通訳となり、台湾総督府蕃務本署勤務を経て、大正五(一九一六)年、台湾博物館主事となり、高砂(たかさご)族(=高山(こうざん)族)の研究者として知られた。帰国する船から入水自殺して亡くなっている。】

 その他、多数の実在した人物名や現地の地名が出るが、注は読解に必要と考えた対象以外は概ね省略する。私の注方法だと、読みのリズムが阻害されてしまうからである。ともかくも舞台は現在の中華民国台南市(ここ(グーグル・マップ・データ))である。ただ、どうも佐藤春夫のロケーション設定にはかなり問題があるらしい。それについては黒羽夏彦氏の「台湾史を知るためのブックガイド#21」が詳しいので、参照されたい。また、海王星氏のブログ記事「女誡扇綺譚に見る往時の台南」(全三回)も大いに参考になるので、必見。

 また、底本は総ルビであるが、読みを一部の中国音の箇所及び難読字や判読が無暗に振れると私が考えたもの(但し、概ね、初回出現部に限った)を除いて除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。読みが不安な箇所は、上記底本画像を確認されたい。【20171020日公開 藪野直史】

【2020年8月15日削除・追記訂正:一昨日、日本近代文学の研究者であられる河野龍也先生より以下のメールを頂戴した。

   《引用開始》

 ブログを楽しく拝見しております。突然のお便りをお許しください。私は実践女子大学で日本近代文学の講座を担当しております河野龍也と申します。

 実は三省堂の教材に愛読書の「女誡扇綺譚」を取り入れまして(『大学生のための文学トレーニング』近代編2012年)、学生とこの作品を読む機会がたびたびあり、ご苦心のテキスト版と註釈に最近は多くの学生が助けられております。これまではなかなか簡単に手に入らなかったテキストをいち早く作成してくださったことは、私も勝手に知己を見出したような会心の思いでおりました。三省堂の教材でも、紙幅の関係で抄録しかできていません。

 こんど8月21日に、春夫の「台湾もの」の主要作品をほぼ収録した本を中公文庫から出すことになりました。『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』というタイトルです。「女誡扇綺譚」に魅了されて「春夫と台湾」のテーマにのめりこみ、国立台湾文学館に交渉して実現した春夫展が台南で開催中です。日本と台湾でこれからますます愛読者が増えていくに違いありません。

 あまりぶしつけになってもと控えておりましたが、今後注釈についての照会もある場合を考えまして、この機会に、気になっておりました点をお知らせしたいと思い立ちました。

さしあたり、次の3点でございます。[やぶちゃん注:中略。指示して下さった部分は本注の前に二箇所、「一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の「輞」の注で、新たに各個に附した。]

 舞台となった幽霊屋敷の場所ですが、私が2011年に発表した中間報告を手掛かりに、川本三郎氏を案内するため、台南在住の黒羽夏彦さんが調べてくださったものが、ネットでよく参照されるようです。ただ、黒羽さんは私がそのとき発表していた最新の報告を台湾で入手できなかったため、ここで少し混乱が生じました。そこへさらに、地元で観光客を呼び込みたいある店主の思惑が絡んできて(黒羽さんの文章にも出てきますが)めちゃくちゃな説を台南で喧伝しているので、ちょっと頭を抱えています。この経緯自体が何か綺譚めいております。

 幽霊屋敷のモデルは、日本時代の地籍図や土地記録から検証して2か所を想定しています。一つは上記の「廠仔」で新垣宏一が戦前に紹介した場所、もう一つ私が新たに候補に挙げたのは「沈德墨」という豪商の家で、両方を参考にしたというのが現在の私の見方です。醉仙閣については場所が確定し、建物の一部現存も分かりましたので論文で報告しました。これらは中公文庫の解説にも触れておきました。

 「赤嵌城」と「赤嵌楼」については『台湾鉄道旅行案内』大正13年版(1924.9台湾総督府鉄道部)の案内記事を、「輞」については『字源』(1923.5初版、1930.11縮刷改版、明治書院)を、また幽霊屋敷と醉仙閣に関する拙論もPDFでお送りいたします。この問題については現下では最も正確な情報かと存じます。「Cinii」にリンクがありますので、誰でも入手できます。

「女誡扇綺譚」の廃屋 : 台南土地資料からの再検討(『成蹊國文』2017.3)

佐藤春夫の台湾滞在に関する新事実(二)― 土地資料を活用した台南関連遺跡の調査 ―『實踐國文學』(2016.10)

100年前の今日、佐藤春夫は打狗(高雄)の友人宅で、『台湾名勝旧蹟誌』を受け取った所です。[やぶちゃん注:何んと、奇しくも佐藤春夫が本作をものす体験の月日が、今現在、この私が追記をしているところの月日と同期していたのだ!! 以下の河野先生のフェイスブックは新旧の現地の写真も豊富で必見である!!!]100年前の春夫の旅を、日暦形式で追いかけています。ご興味がおありでしたら、私のフェイスブックを覗いてみてください。いずれ増補して出版する予定です。

 急に差し出がましいお便りで申し訳ございませんが、学生をはじめ多くの読者に親しまれるブログであるだけに、影響力も大きく、可能であれば経緯を含めて、ご訂正をお願いできればと存じます。

   《引用終了》

以下、私が机上に於いてネット情報のみで記した注の中の誤認に就いて、画像資料も添えて戴き、非常に丁寧な解説と修正すべき箇所を御指摘戴いた。在野の校正者もいない私、数少ない奇特な嘗ての教え子のみが助力者である私にとって、これは誠に嬉しい御指摘なのであった。されば、ブログ版・サイト版合わせて、本日、その追記と修正を行う。なお、先生からは別に、

   《引用開始》

 芥川の中国紀行が岩波文庫に入ったとき、山田俊治さんが本を送ってくださいました。ご承知のことかと存じますが、解説に藪野様への謝辞が見えたのが強い印象に残っております。大学で文学を学ぶ教室でも、藪野様の広い視野にわたる注釈の恩沢に浴している教員・学生も多いはずですが、ふだんはお世話になる一方でございます。今回このような機会にお話しできるのはありがたく、長年の積み重ねに改めて敬意と感謝を申しあげます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

   《引用終了》

という過褒まで戴いた(山田俊治先生のそれは、私のブログ記事「岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)」を参照されたい)。私は実は最近、自分の今の電子化やそれらへの注作業が、世間的な意味に於いて、どれほどの価値を持つのか、という点について甚だ自信を失うようになってきている。私は自分やっていることが、全く無価値なのではないかと感ずることもしばしばある。しかし、この河野龍也先生のお言葉に際会し(それは相応の挨拶の礼式の辞であることは重々知りながらも)、私は自分やっていることが、必ずしも無駄なわけではないと感ぜられたのである。もう少し、僕は生きられる気がしたのである。されば、河野先生に敬意を表しつつ、削除と追記修正を施した。私の誤認部は抹消せず、取消線で示して、対照出来るようにしておいた。

 なお、この修正版は、本作のサイト一括版を公開した三日後に脳腫瘍のために安楽死させた三女ビーグル犬アリス(Ⅱ世)に捧げる。】]

 

 

     女誡扇綺譚

 

 

        一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址

 

 クツタウカン――字でかけば禿頭港(クツタウカン)。すべて禿頭(クツタウ)といふのは、面白い言葉だが物事の行きづまりを意味する俗語だから、禿頭港とはやがて安平港(アンピンカン)の最も奧の港(みなと)といふことであるらしい。臺南(たいなん)市の西端(はづ)れで安平(アンピン)の廢港に接するあたりではあるが、さうして名前だけの說明を聞けばなるほどと思ふかも知れないが、その場所を事實目前に見た人は、寧ろ却つてそんなところに港(カン)と名づけてゐるのを訝しく感ずるに違ひない。それはただ低い濕つぽい蘆荻(ろてき)の多い泥沼に沿うた貧民窟みたやうなところで、しかも海からは殆んど一里も距つてゐる。沼を埋め立てた塵塚の臭ひが暑さに蒸せ返つて鼻をつく厭な場末で、そんなところに土着の臺灣人のせせこましい家が、不行儀に、それもぎつしりと立竝んでゐる。土人街のなかでもここらは最も用もない邊なのだが、私はその日、友人の世外民(せいがいみん)に誘はれるがままに、安平港の廢市を見物に行つてのかへり路を、世外民が參考のために持つて來た臺灣府古圖の導くがままに、ひよつくりこんなところへ來てゐた。

     *     *     *     *

       *     *     *

  人はよく荒廢の美を說く。亦その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に實感した事はなかつた。安平へ行つてみて私はやつとそれが判りかかつたやうな氣がした。そこにはさまで古くないとは言へ、さまざさの歷史がある。この島の主要な歷史と言へば、蘭人の壯圖(さうと)、鄭成功の雄志、新しくはまた劉永福の野望の末路も皆この一港市に關聯してゐると言つても差支ないのだが、私はここでそれを說かうとも思はないし、また好古家で且(かつ)詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない。私が安平で荒廢の美に打たれたといふのは、又必ずしもその史的知識の爲めではないのである。だから誰(たれ)でもいい、何も知らずにでもいい。ただ一度そこヘ足を踏み込んでみさへすれば、そこの衰頽した市街は直ぐに目に映る。さうして若し心ある人ならば、そのなかから悽然たる美を感じさうなものだと思ふのである。

[やぶちゃん注:「また好古家で且詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない」文の繋がりが悪いが、ママ。――「好古家で」あり、「且」つ「詩人たる世外民なら」、「知らないこと」などなかろうから――或いは――「詩人たる世外民なら」ば容易に可能であるかも「知」れぬが――、「私には」うまくそれを説くことなどは到底「出來さうもない」といった意味であろう。]

 臺南から四十分ほどの間を、土か石かになつたつもりでトロツコで運ばれなければならない。坦坦たる殆んど一直線の道の兩側は、安平魚(アンピンヒイ)の養魚場なのだが、見た目には、田圃ともつかず沼ともつかぬ。海であつたものが埋(うづ)まつてしまつた――といふより埋まりつつあるのだが、古圖によるともともと遠淺であつたものと見えて、名所圖繪式のこの地圖に水牛を曳かせた車の輞(は)が半分以上も水に漬かつてゐるのは、このあたりの方角でもあらう。しかし今はたとひ田圃のやうではあつても陸地には違ひない。さうしてそこの、變化もとりとめもない道をトロツコが滑走して行く熱國のいつも靑靑として草いきれのする場所でありながら、荒野のやうな印象のせゐか、思ひ出すと、草が枯れてゐたやうな氣持さへする。これが安平の情調の序曲である。

「輞(は)」「は」は誤ったルビで、歴史的仮名遣で「わ」でよい。「輪」の訓を当てたもの。 「おほわ(おおわ=大輪)」とも訓ずる。厳密には昔の馬車や牛車や農耕車輛の大きな車輪の外周を包む箍(たが)の部分を指した。【2020年8月15日削除・追記訂正:】河野龍也先生より以下の御指摘を戴いた。

   《引用開始》

 「輞」について。これは1948年出版の文体社版『女誡扇綺譚』に「車の輞(は)」とルビがふってあります。「輞」の訓は確かに「おほわ」で、春夫の用例では『殉情詩集』に「わが胸は輞(おほわ)の下(もと)に砕かれたる薔薇(さうび)の如く呻く」とありますので、一字で「おほわ」と読ませようとした可能性が高いと思います。

 しかしながら、戦前の簡野道明『字源』には「は、くるまの輪の外周を包むたが、車牙(くるまのは)」とあり、「輪」なら「わ」ですが、リムの部分を指す「牙」を「は」と読ませているようです。そのため、現代仮名遣いに変えても「は」で間違いとは言えないようです。

   《引用終了》

また、別便のメールで、

   《引用開始》

 詳しく調べてみないと分かりませんが、音韻変化の中で「は」と「わ」に混乱が生じた例らしくもあります。訓読み自体にそもそも微妙な問題が含まれているのかも知れません。

   《引用終了》

との追伸を頂戴した。「リム」(rim)は、車などの車輪の外縁部にあって、全体の形状を支えている硬質の円環部分を指す。

 トロツコの着いたところから、むかし和蘭人(オランダじん)が築いたといふ TE CASTLE ZEELANDIA 所謂土人の赤嵌城(シヤカムシヤ)を目あてに步いて行く道では、目につく家といふ家は悉く荒れ果てたままの無住である。あまりふるくない以前に外國人が經營してゐた製糖會社の社宅であるが、その會社が解散すると同時に空屋になつてしまつた。何れも立派な煉瓦づくりの相當な構への洋館で、ちよつとした前栽さへ型ばかりは殘つてゐる。しかし砂ばかりの土には雜草もあまり蔓(はびこ)つてはゐない。その竝び立つた空屋の窓といふ窓のガラスは、子供たちがいたづらに投げた石のためででもあらうか、破(わ)れて穴があいてないものはなく、その軒には巢でもつくつてゐるのか驚くほどたくさんな雀が、黑く集合して喋りつづけてゐる。

[やぶちゃん注:「蔓つてはゐない。」の末尾は行末で句点がないが、補った。]

 私たちは試みにその一軒のなかへ這入(はい)つてみた。内にはこなごなに散ばつて光つてゐるガラスの破片と壞れた窓枠とが塵埃に埋まつてゐるよりほかに何もなかつた。しかし二階で人の話聲がするので上つてみると、そこのベランダに乞食ではないかと思へるやうな裝ひをした老人が、これでも使へるのだらうかと思はれるぼろぼろになつた魚網をつくろつてゐる傍(かたはら)に、この爺(おやじ)の孫ででもあるか、五つ六つの男の子がしきりにひとり言を喋りながら、手であたりの埃(ごみ)を搔き集めて遊んでゐたらしいのが、我我の足音に驚いて闖入者を見上げた。老漁夫も我我を怖れてゐるやうな目つきをした。彼等はどこか近所の者であらうが、暑さをこの廢屋の二階に避けてゐたのであらう。ともかくもこれほど立派な廢屋が軒を連ねて立つてゐる市街は、私にとつては空想も出來なかつた事實である。(この二三年後に臺灣の行政制度が變つて臺南の官衙(くわんが)でも急に增員する必要が生じた時、これらの安平の廢屋を一時(じ)、官舍にしたらよからうといふ說があつたが尤もなことである)。

 赤嵌城址(シヤカムシヤし)に登つてみた。たゞ名ばかりが殘つてゐるので、コンクリートで築かれた古い礎(いしずゑ)のあとがあるといふけれども、どれがどれだかさすがの世外民もそれを知らなかつた。今は税關俱樂部の一部分になつてゐる小高い丘の上である。私の友、世外民はその丘の上で例の古圖を取ひろげながら、所謂安平港外(かうぐわい)の七鯤身(こんしん)のあとを指さし、又古書に見えてゐるといふ鬼工奇絕と評せられる赤嵌城の建築などに就て詳しく說明をしてくれたものであるが、私は生憎と皆忘れてしまつた。さうして私の驚いたことといふのは、むかし安平の内港と稱したところのものは、今は全く埋沒してしまつてゐるのだといふだけの事であつた――全くあまり單純すぎた話ではあるが事實、私は歷史なんてものにはてんで興味がないほど若かつた。さうしてもし世外民の影響がなかつたならば、安平などといふ愚にもつかないところへ來てみるやうな心掛さへなかつたらう。さういふ程度の私だから、同じやうな若い身空で世外民がしきりと過去を述べたてて咏嘆めいた口をきくのを、さすがに支那人の血をうけた詩人は違つたものだ位(くらゐ)にしか思つてゐなかつたのである。そのやうな私ではあり、またいくら蘭人壯圖の址(あと)と言つたところで、その古を偲ぶよすがになるやうなものとても見當らないのだから一向仕方がなかつたけれども、それでもその丘の眺望そのものは人の情感を唆らずにはゐないものであつた。單に景色としてみても私はあれほど荒凉たる自然がさう澤山あらうとは思はない。私にもし、エドガア・アラン・ポオの筆力があつたとしたら、私は恐らく、この景を描き出して、彼の「アツシヤ家の崩壞」の冒頭に對抗することが出來るだらうに。

 私の目の前に廣がつたのは一面の泥の海であつた。黃ばんだ褐色をして、それがしかもせせつこましい波の穗を無數にあとからあとか飜して來る、十重(へ)二十重といふ言葉はあるが、あのやうに重ねがさねに打ち返す波を描く言葉は我我の語彙にはないであらう。その浪は水平線までつづいて、それがみな一樣に我我の立つてゐる方向へ押寄せて來るのである。昔は赤嵌城の眞下まで海であつたといふが、今はこの丘からまだ二三町も海濱がある。その遠さの爲めに浪の音も聞えない程である。それほどに安平の外港も埋まつてしまつたけれども、しかしその無限に重なりつづく濁浪は生溫い風と極度の遠殘の砂に煽られて、今にも丘の脚下まで押寄せて來るやうに感ぜられる。その濁り切つた浪の面(おもて)には、熱帶の正午に近い太陽さへ、その光を反射させることが出來ないと見える。光のないこの奇怪な海――といふよりも水の枯野原の眞中(まんなか)に、無邊際に重りつづく浪と間斷なく鬪ひながら一葉(えふ)の舢舨(サンパン)が、何を目的にか、ひたすらに沖へ沖へと急いでゐる。

 白く灼けた眞晝の下(もと)。光を全く吸ひ込んでしまつてゐる海。水平線まで重なり重なる小さな浪頭。洪水を思はせるその色。翩飜と漂うてゐる小舟。激しい活動的な景色のなかに闃(げき)として何の物音もひびかない。時折にマラリヤ患者の息吹のやうに蒸れたのろい微風が動いて來る。それらすべてが一種内面的な風景を形成して、象徴めいて、惡夢のやうな不氣味さをさへ私に與へたのである。いや、形容だけではない、この景色に接してから後(のち)、私は亂醉の後の日などに、ここによく似た殺風景な海濱を惡夢に見て怯かされたことが二三度あつた。――このやうな海を私がしばらく見入つてゐる間、世外民もまた私と同じやうな感銘を持つたかも知れない、――このよく喋る男もたうとう押默つてしまつてゐた。私は目を低く垂れて思はず溜息を洩らした。尤も多少は感慨のせゐもあつたかも知れないが、大部分は炎天の暑さに喘いだのである。今更だが、かういふ厚さは蝙蝠傘などのかげで防げるものではない。

「ウ、ウ、ウ、ウ――」

 不意に微かに、たとへばこの景色全體が呻くやうな音が響き渡つた、見ると、水平線の上に一隻の蒸汽船が黑く小さく、その煙筒や檣なふどが僅かに見える程の遠さに浮んでゐた。沿岸航路の舟らしい。さうしてさつきから浪に搖れてゐる舢舨はそれの艀(はしけ)で、間もなく本船の來ることを豫想して急いでゐたものらしい。

「あの蒸汽はどこへ着くのだい」

 私が世外民に尋ねると、我我の案内について來たトロツコ運搬夫が代つて答へをした――

「もう着いてゐる。今の汽笛は着いた合圖です」

「あそこへか。――あんな遠くへか」

「さうです。あれより内へは來ません」

 私はもう一ぺん沖の方を念の爲めに見てから呟いた――

「フム、これが港か!」

「さうだ!」世外民は私の聲に應じた。「港だ。昔は、臺灣第一の港だ!」

「昔は……」私は思は無意味に繰返した。それが多少感動的でいやだつたと氣がついた時、私は輕く虛無的に言ひ直した。「昔は……か」

 丘を下りて我我の出たところは、もと來た路ではなかつた。ここは比較的舊い町筋であると見えて、一たいが古びてゐた。あたりの支那風の家屋はみんな貧しい漁夫などのものと見えて、あのヹランダのある二階建の堂堂たる空屋にくらべるまでもなく、小さくて哀れであつた。さうしてもともと所謂鯤身たる出島の一つであつたと見えて、地質は自から變つてゐた。砂ではなくもつと輕い、步く度に足もとからひどい塵が舞ひ立つ白茶けた土であつた。但、來たときと一向變らないことは、そのあたりで私は全く人間のかげを見かけなかつた事である。通筋(とほりすぢ)の家家は必ずしも皆空屋でもないであらうのに、どこの門口にも出入する人はなく、又話聲さへ洩れなかつた。私たちが町を一巡した間に逢つた人間といふのはただあの廢屋のヹランダにゐた漁夫と小兒とだけである。行人に出逢ふやうなことなどは一度もなかつた。深夜の街とてもこれほどに人氣が絕えてゐることはないと言ひたい。しかも眩しい太陽が照りつけてゐるのだから、さびしさは一種別樣の深さを帶びてゐた。我我は默默と步いた。不意にあたりの家竝(やなみ)のどこかから、日ざかりのつれづれを慰めようとでもいふのか、絃(ヒエン)と呼ばれてゐる胡弓をならし出した者があつた。

「月下の吹笛(すいてき)よりも更に悲しい」

 詩人世外民は、早くも耳にとめて私にさう言ふのであつた。月下の吹笛を聯想するところに彼の例のマンネリズムとセンチメンタリズムとがあるが、でも彼の感じ方には賛成していい。

 私たちは再び養魚場の土堤の路をトロツコで歸つたが、それの歸り着いたところ、臺南市の西郊が、私のこれから言はうとする禿頭港なのである.安平見物を完うするためにこのあたりをも一巡しようと世外民が言ひ出した時、時刻が過ぎてしまつてひどく空服(くうふく)を覺えてゐながらも私が別に、もう澤山だと言はなかつたところを見ても、私がこの半日のうちに安平に對して多少の興味を持つやうになつてゐたことは判るだらう。

[やぶちゃん注:「空服」はママ。]

 しかしトロツコから下りて一町とは步かないうちに、私は禿頭港などは蛇足だつたと、思ひ始めたのである。ただ水溜(みづたまり)の多い、不潔な入組んだ場末といふより外には、一向何の奇もありさうには見えなかつた。

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