佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その2)
まづ第一にその穀屋といふのは思つたより大問屋であつた。又、主人といふのは寧ろ私の訪問を觀迎した位(くらゐ)だ。この男は臺灣人の相當な商人によくある奴で内地人とつきあふことが好きらしく、ことに今日(けふ)は娘がそんな靈感を持つてゐる噂が高まつて、新聞記者の來るのがうれしいと言ふのであつた。さうして店からずつと奥の方へ通してくれた。
「汝來仔請坐(ニイライアチンツオ)」
と叫んだのは娘ではなく、そこに、籠の中ではなくて裸の留木(とまりぎ)にゐた鸚鵡(あうむ)である。
娘は、しかし、我我の訪れを見てびつくりしたらしく、私の名刺を受取つた手がふるへ、顏は蒼白になつた。それをつつみ匿(かく)すのは空しい努力であつた。彼女は年は十八ぐらゐで、美しくない事はない。私はまづ彼女の態度を默つて見てゐた。
「あ、よくいらつしやいました」
思ひがけなくも娘は日本語で、それも流麗な口調であつた。椅子にかけながら私は言つた――
「お孃さん。あなたは泉州語(ツヱンチヤオご)をごぞんじですか?」
「いいえ!」
娘は不意に奇妙なことを問はれたのを疑ふやうに、私を見上げたが、その好もしい瞳のなかに噓はなかつた。私はポケツトから扇をとり出した。それを半ばひろげて卓子(テーブル)の上に置きながら私はまた言つた――
「この扇を御存じでせう」
「まあ」娘は手にとつてみて「美しい扇ですこと」物珍らしさうに扇の面(おもて)を見つめてゐた。
「あなたはその扇を御存じない筈はないのです」私は試みに少しおこつたやうに言つてみた。
「ケ、ケ、ケツ、ケ、ケ」
鸚鵡が私の言葉に反抗して一度に冠(かんむり)を立てた。
みんなが默つてゐるなかに、不意に激しく啜泣(すすりな)く聲がして、それは鸚鵡の背景をなす帳(とばり)の陰から聞えて來たのだ。淚をすすり上げる聲とともに言葉が聞えてきた――
「みんなおつしやつて下さいまし、お孃さま。もう構ひませんわ。その代りにその扇は私にいただかしてください」
「………………」
誰(たれ)も何(なん)と答へていいかわからなかつた。世外民と私とは目を見合(みあは)した。
姿の見えない女はむせび泣きながら更に言つた。「誰方(どなた)だか存じませんが、お孃さまは少しも知らない事なのです。わたしの苦しみ見兼ねて下さつただけなのです。ただあなたが拾つておいでになつたその扇――蓮の花の扇を私に下さい。その代りには何でもみんな申します」
「いいえ。それには及びません」私はその聲に向つて答へた。「私はもう何も聞きたくない。扇もお返ししますよ」
「私のでもありませんが」推測しがたい女は口ごもりながら「ただ私の思ひ出ではあります」
「さよなら」私たちは立ちあがつた。私は卓上(たくじやう)の扇を一度とり上げてから、置き直した。「この扇はあの奧にゐる人にあげて下さい。どういふ人かは知らないが、あなたからよく慰めておあげなさい。私は新聞などへは書きも何もしやしないのです」
「有難うございます。有難うございます」黃孃(くわうぢやう)の目には淚があふれ出た。
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