老媼茶話巻之三 允殿館大入道
允殿館(じやうどのだて)大入道
[やぶちゃん注:今回、以上の通り、「允殿館」を「じやうどのだて(じょうどのだて)」と読んだ。これは個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」に振られたルビに従ったものである。]
飯寺村庄九郎と云もの、小力(こぢから)有(あり)て相撲(すまひ)なども取(とり)、米も、五、六俵、背負ひありくもの也。
此もの、南町といふ所に親類有。行(ゆか)で叶はぬ用有(あり)て、雨のそぼ降(ふる)黃昏(たそがれ)に宿をいで、中野ゝ十文字原に懸(かか)り、允殿館弐ツ五輪の前より成願寺前へ出(いで)んと、弘眞院(こうしんゐん)の北の細道をとふるに、荒神堂の大杉の本(もと)に、白き物、見ゆる。
庄九郎、怪敷(あやしく)おもひ、立留(たちどま)り、能(よく)見るに、かの者、間ぢかくきたるを見れば、面(おもて)の長さ、三尺斗(ばかり)有(ある)女、竹杖を突(つき)、髮を亂し、眼(まなこ)は皿のごとくにて、かたびらをかぶり、
「まてまて。」
と云(いひ)て來(きた)る。
庄九郎、したゝかものなれば、少も臆せず、脇差に手をかけ、
「おのれ、我に何用有るぞ。」
と足早に行過(ゆきすぐ)る。
彼(かの)女いふ。
「歸りに此道を通り見よ。其時、思ひしらせん。」
と云。
庄九郎、是を聞かぬふりにて、南立町の親類の方へ行(ゆく)。
折節、近くより、人、數多(あまた)打寄居(うちろりゐ)たりけるが、庄九郎が顏色を見て、
「其方が色あひ、常ならず。道にて口論にてもせぬか。」
といふ。
庄九郎、右のあらまし語りければ、何(いづれ)も驚(おどろき)、
「允殿館には化物有り、といい傳ふるは誠にて有りし。必(かならず)、歸りには晒屋町へ出(いで)、湯川を渡り、石塚前より材木町江出(いで)、歸るべし。」
と云。
庄九郎、元來、じやうこわきものなれば、
「もとの道を歸らずは、臆病なりとはらはるべし。」
と思ひ、
「たとい、化物出(いで)たりとも、何事のあるべき。近道也。先の道を歸るべし。」
とて、もと來(きた)る道を歸るに、夜も深々と更過(ふけすぎ)、杉の木梢(こづゑ)をわたる風、身に染々とおそろしく、頭(かしら)の毛、立(たち)のぼる心持するに、道の傍に、先の女、立居(たちゐ)たりけるが、庄九郎をみて、
「それこそ、さきの奴め。それ、とり逃(にが)し玉ふな。」
と、こと葉を懸(かく)るに、眞黑なる大入道、大手をひろげ、飛(とび)て懸りける。
庄九郎、此時、日頃の強氣(がうき)、失(うせ)、ころぶともなく、走(ハシル)ともなく、田も畑も一參(いつさん)に飯寺村へかけ付(つけ)、戸を蹴放(けはな)し内へ入(いり)、氣を失ひ、死入(しにいり)ける。
其後、四、五十日、打伏(うちふし)、氣色、常ごとくに成(なり)にけるが、夫(それ)より大臆病(おほおくびやう)ものと也、氣拔(きぬけ)て、日暮は外出もならぬやうに成たり。
その明(あく)る春、夫(ブ)にさゝれ、江戸江登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける。
[やぶちゃん注:「允殿館(じやうどのだて)」既出既注であるが、再掲しておく。現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。冒頭注で示した個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」も参照されたい。
「飯寺村」既出既注であるが、本話柄では地理が一つのネックとなっているので、再掲する。現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。
「五、六俵」幕府の制度規格では一俵は三斗五升であったが、時代や地域によって増減があった。一応、規格値で換算すると、一俵は三十七・五キログラムのなるから、百八十七・五から二百二十五キログラムに相当する。
「南町」現在の福島県会津若松市南町(みなみまち)か。鶴ヶ城の南直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「中野ゝ十文字原」現在の福島県会津若松市門田町大字中野附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「允殿館弐ツ五輪」允殿館跡にあった二基の五輪塔か。
「成願寺」前にも出たが、現在、この名の寺はない。
「弘眞院(こうしんゐん)」福島県会津若松市門田町年貢町(この附近(グーグル・マップ・データ)。但し、地図には寺は出ない)に現存する。真言宗。
「とふるに」ママ。「通(とほ)るに」。
「荒神堂」不詳。
「三尺斗(ばかり)」九十一センチメートルほど。
「かたびら」「帷子」。
「まてまて。」「待て待て。」。
「南立町」「みなみたてまち」と読んでおく。先に「南町」とあったから、同町内の地名と思われる。ウィキの「南町(会津若松市)」に、当時の南町地区には「竪町」があったとあるから、これであろう。
「晒屋町」「さらしやまち」と読んでおく。前注同様、ウィキの「南町(会津若松市)」に、当時の南町地区には「晒屋町」があったとある。後の地名から察すると、現在の南町の西にあったと推定する。
「湯川」既出既注。
「石塚」現在の湯川新水路を渡った東の石塚観音堂であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「材木町」現在の福島県会津若松市材木町。ここ(グーグル・マップ・データ)。このルートから飯寺に帰るのは、地図を見て戴けば判る通り、決して異様に無駄に大きな遠回りではないようだ。但し、彼は「先の道を歸る」のが「近道」だと明言しているから、彼の住まいは恐らく、飯寺地区の南方東にあったのであろう。
「じやうこわきもの」底本の編者の添漢字によれば「じやう」は「情」。「情強(こは)き者」で、頑固者の意味であろう。
「はらはる」ママ。「笑はる」。
「一參(いつさん)」「一散」。
「夫(ブ)にさゝれ」幕藩領主が普請・掃除・交通などのために、領民に人足役を賦課していた夫役(ぶやく)の一人に指名され。
「江戸江登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける」彼の死と、本怪異の直接の連関性は認められないものの、人格変容を起させたからには、死の致命的遠因とは言える。彼は、この怪異(帰りの)に遭遇しなければ、力自慢としてのきっぱりとした剛毅の自負も失うことは無かったし、長生きもしたであろうからである。そうした暴虎馮河の蛮勇への戒めの意味が、この何気ない後日談には込められているように私は思う。]
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