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2017/10/05

老媼茶話巻之弐 只見川毒流

 

     只見川毒流(ただみがはどくながし)

 

[やぶちゃん注:本条は三年前の二〇一四年八月二十七日に私が公開した、根岸鎭衞(しずもり)の「耳囊 卷之八 鱣魚(せんぎよ/うなぎ)の怪の事」の注で電子化を行っているが、今回、本文校訂を再び行って、注も手直しして示す。]

 慶長十六年辛亥(かのとゐ)七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流(どくながし)をし玉へり。柿澁(かきしぶ)・蓼(たで)・山椒の皮、家々の民家にあてゝ、舂(つき)はたく。此折節、「ふじ」といふ山里、旅行(りよぎやう)の僧、夕暮、來り、宿をかり、あるじを呼(よび)て、此度(このたび)の毒流の事を語り出し、

「有性非性(うじやうひじやう)に及(およぶ)まで、命を惜まざるものなし。承るに、當大守、明日(アス)、此川へ毒流しをなし玉ふと也。是、何の益ぞや。果して、業報(ごふはう)得玉ふべし。何とぞ、貴殿、其筋へ申上(まうしあげ)、とゞめ玉へかし。莫太(バクタイ)の善根なるべし。魚鼈(ギヨベツ)の死骨を見玉ふとて、大守の御なぐさみにもなるまじ。いらざることを、なし給ふ事ぞかし。」

と深く歎(なげき)ける。

 あるじも、旅僧の志(こころざし)を申樣(まふすやう)、

「御僧の善根、至極、斷(ことわり)にて候得共、最早、毒流しも明日の事に候上(さふらふうへ)、我々しきの、いやしきもの、上樣へ申上候とて御取上(おとりあげ)も、是、あるまじ。此事、先達(せんだつ)て、御家老の人々、御諫(おんイサメ)ありしかども、御承引、無御座(ござなし)と承り候。」

といふ。あるじ、

「我身、隨分の貧者にて、まいらする物もなし。侘(わび)しくとも聞召(きこしめし)候へ。」

とて、柏の葉に粟の飯をもりて、旅僧をもてなしける。

 夜明(よあけ)て、僧、深く愁(うれひ)たる風情(ふぜい)にて、いづくともなく、出(いで)されり。

 拂曉(フツギヤウ)に、家々より、件(くだん)の毒類、持(もち)はこび、川上より流しける。

 異類(イルイ)の魚鼈(ギヨべツ)、死(しに)もやらず、ふらふらとして浮出(うきいで)ける。

 さも、すさまじき毒蛇も浮出ける。

 其内に、壱丈四、五尺斗(ばかり)の鰻、浮出けるに、その腹、大きに、ふとかりしかば、村人、腹をさき見るに、あわの飯、多く有。

 彼(かの)あるじ、是を見て、夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにぞ、聞入(ききいれ)、

「扨(さて)は。其坊主は、うなぎの變化(へんげ)來りけるよ。」

と、皆々、あわれに思ひける。

 同年八月一日辰の刻、大地震。山崩會津川の下(しも)の流(ながれ)をふさぎ、洪水、會津四郡を浸さんとす。秀行の長臣、町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫(えきふ)を集め、是を掘(ほり)、ひらく。此時、山崎の胡水(コスイ)、出來たり。柳津(やないづ)の舞臺も、此地震に崩れ、川へ落(おち)、塔寺(とうでら)の觀音堂・新宮の拜殿も、たをれたり。其明(あく)る年五月十四日、秀行卿、逝(セイ)し玉へり。人、皆、

「河伯・龍神の祟(タヽ)り也。」

と恐れあへり。秀行卿をば允殿館(じようどのがたて)に葬る。

 號弘眞院殿前拾遺覺山靜雲【秀行卿御影石塚蓮臺寺にあり。】

 秀行卿御辭世、

  人ぞしる風もうこかすさはくとはまつとおもわぬ峯の嵐を

 

[やぶちゃん注:以上見るように、蒲生秀行が毒流を強行した只見川周辺、及び、彼が助力した会津を守護するはずの神社仏閣が、一ヶ月後の大地震によってことごとく倒壊し、秀行もほどなく死んだ、という紛れもない衝撃的事実を殊更に並べ示すことによって、まさに典型的な〈祟り系の魚王行乞譚〉の様相を本話が美事に呈していることがはっきりと分かる、優れた構成を持つ伝承・怪奇譚であると思う。なお、本条は既に電子化注した三好想山(しょうざん)の「想山著聞奇集 卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」の本文でも触れられているので、是非、参照されたい。

「慶長十六年」西暦一六一一年。

「蒲生飛驒守秀行」蒲生秀行(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生賦秀(氏郷)嫡男。以下、ウィキの「蒲生秀行侍従によれば、文禄四(一五九五)年に父氏郷が急死したために家督を継いだ。この時、羽柴の名字を与えられた。遺領相続について、太閤豊臣秀吉の下した裁定は、会津領を収公して、改めて近江に二万石を与えるというものであったが、関白秀次が会津領の相続を認めたことにより、一転して会津九十二万石の相続を許されている。『その後、秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が許されたが、まだ若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため』、『家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動(蒲生騒動)が起こった』。慶長三(一五九八)年には秀吉の命で会津九十二万石から宇都宮十八万石に移封されたが、その理由としては、『先述の蒲生騒動の他に、秀行の母』、『すなわち』、『織田信長の娘の冬姫が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが』、『冬姫が尼になって貞節を守った事を不愉快に思った』からとする説、秀行が家康の娘(家康三女振姫(正清院))を『娶っていた親家康派』であったがため、『石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説』などもある。『秀行は武家屋敷を作り』、『町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて』、『番所を置くなどして』、『城下の整備を行ない、蒲生氏の故郷である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いで上杉景勝を討つため、徳川秀忠は宇都宮に入』り、『その後、秀忠も家康も西に軍を向けて出陣したため、秀行は本拠の宇都宮で上杉景勝(秀吉に旧蒲生領の会津を与えられた)の軍の牽制と城下の治安維持を命じられた』。『戦後、その軍功によって、没収された上杉領のうちから陸奥に』六十万石を与えられて会津に復帰、『秀行は家康の娘と結婚していたため、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された』。しかし、その後の会津地震や家中騒動の再燃なども重なり、その心労などのため、享年三十歳の若さで逝去している。『器量においては凡庸という評価がなされているが、父は氏郷、母は信長の娘、正室は家康の娘という英雄の血を受け継いだ貴公子であった。蒲生騒動の背景には、蒲生氏の減移封を目論んでいた秀吉及び石田三成らが騒動を裏で操って秀行を陥れたという説もあり、秀行の年齢・器量のみが原因と断定するには疑問が残る』とある。

「只見川」阿賀野川の上流の支流。ウィキの「只見川」より引く。『群馬県と福島県の境界にある尾瀬沼に源を発し』、『尾瀬を西へ流れる。いくつかの滝を経て』、『新潟県と福島県の県境を北へ流れ、福島県南会津郡只見町の田子倉に至り』、『北東へ向きを変える。わずかながらの平地を作りながら伊南川、野尻川、滝谷川を合わせ、柳津只見県立自然公園の中を流れ、福島県喜多方市山都町三津合で阿賀川(阿賀野川)に合流する』。

「毒流」「毒(どく)もみ」のこと。ウィキの「毒もみ」によれば、『海や河川などに毒を撒いて魚を取る漁法である。「毒もみ」とは宮城県などで使われる呼称で、他に毒流し(アメながし)(秋田県)、根流し(福島県)、ドウス(長野県)』『などと呼ぶ地方もある』。『主に歴史上における狩猟採集社会において用いられた。水の中に毒を撒き、魚を麻痺させたり』、『水中の酸素含有量を減らすことで、魚を簡単に手で捕まえることが出来るようになる』。『かつては世界中で行われており、その土地にある固有の有毒植物が使われていたが、日本では主に山椒が使われていた。川の中で山椒の入った袋を揉んで毒の成分を出すので「毒もみ」と呼ぶ(山椒の皮に含まれるサンショオールには麻痺成分がある)。日本では』昭和二六(一九五一)『年施行の水産資源保護法第六条で、調査研究のため農林水産大臣の許可を得た場合を除いて』、『禁止されている』。『現代では主に東南アジアで青酸カリを撒く漁法が行われており、これは環境に著しい負荷を与え、特にサンゴ礁を破壊することで問題となっている』。『淡水・海水問わず、毒もみに関しては世界中で歴史上の様々な文章に記されている』。『昔の人々は食料や医療目的など様々な用途に植物を使っており』、『植物の毒を漁につかうことは』、『人類の歴史の中で非常に古い習慣である。神聖ローマ帝国のフリードリヒ』Ⅱ世は一二一二年に『毒もみを禁止する法令を出しており、同様の法律が』十五『世紀までの他のヨーロッパ諸国にも存在した。アメリカの先住民族であるタラフマラ族も毒を用いた漁を行っていた』。『青酸カリなど』、『魚だけでなく』、『漁業者自身にも生命の危険がある科学的な毒物と違い、植物の毒は魚を一時的に麻痺させる程度の非常に弱いものなので、魚を多く捕まえられるよう』、『個人規模ではなく』、『なるべく』、『大規模』に、概ね、『渇水期』を対象に、『小さい沢で行われるのが一般的であった。現地で長く使われてきた植物の毒には現代の調査で薬効が見いだされ、例えば』、ツツジ目サガリバナ科Planchonioideae 亜科Careya Careya arborea(熱帯、特に熱帯アメリカ・西アフリカを中心に分布)『は鎮痛剤や抗下痢剤として利用されている』。「漁法」の項。『山椒の皮を剥い』で『乾かし、臼で搗き砕』き、その『粉末を、一貫匁』(約三キロ七百五十グラム)『につき木灰七百匁』(約二キロ六百二十五グラム)『の割合で混ぜる』。その『混合物を袋に入れ、河や池の水に入れ手で揉み解す』。『水中に有毒成分が流れ出し、魚は毒に中り腹を上にして浮びあがる』というのが一般的であった。『長野県の湯川では土中から産するミョウバンを流す漁があった。またオニグルミやタデの葉を使うこともあった』とある。ここに出る』柿渋や蓼も納得出来る混入素材である。

「ふじ」福島県河沼郡柳津町藤か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「有性非性(うじやうひじやう)」「有情非情」。人間や動植物に加えて、現在は生物学的には命を持たない石や水などを含めた世界に存在する全てのものを指す仏語。

「果して、業報(ごふはう)得玉ふべし」祟りの言上げである。

「莫太(バクタイ)の」「莫大の」。大いなる。

「魚鼈(ギヨベツ)」魚とスッポンであるが、ここは水産動物の総称。

「我々しきの」我々ごとき。「しき」は名詞「しき(式)」から生じた副助詞で、人代名詞に付いて、「~みたいなもの・~のようなもの」などの意を表わす。

「拂曉(フツギヤウ)」夜明け。明け方。

「浮出(うきいで)ける」読みは推定。「うかみいでける」かも知れぬ。

「壱丈四、五尺」四・一五~四・五四メートル。まさに化け物級の大鰻である。

「大地震」俗に「慶長会津地震」又は「会津慶長地震」と呼ばれ、慶長一六年八月二十一日(一六一一年九月二十七日)午前九時頃、会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生したもの。(以下、ウィキの「会津地震」によると、一説によれば、震源は大沼郡三島町滝谷(ここ(グーグル・マップ・データ))付近ともいわれるが、地震の規模マグニチュードは6・9程度と推定されており、震源が浅かったために、局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び、倒壊家屋は二万戸余り、死者は三千七百人に上った。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、七層の天守閣が傾いたほか、『会津坂下町塔寺の恵隆寺(えりゅうじ・立木観音堂)や柳津町の円蔵寺、喜多方市慶徳町の新宮熊野神社、西会津町の如法寺にも大きな被害が出たという』。『また各地で地すべりや山崩れに見まわれ、特に喜多方市慶徳町山科』(ここ(グーグル・マップ・データ))『付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため』、東西約四~五キロメートル、南北約二~四キロメートル、面積にして一〇~十六平方キロメートルに及ぶ山崎新湖が誕生、二十三もの集落が浸水したともいう。『その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)に』よって、三日目あたりから徐々に水が引き始めた(ここが本文の「胡水」の叙述に相当すると思われる。「胡」は会津の「西方」を意味するものと思われる。「胡」は古代中国に於いて北方・西方民族に対する蔑称であった)。『しかし』、『その後の大水害もあり』、『山崎湖が完全に消滅するには』三十四年(一説では五十五年)もの歳月を要し、『そのため』、『移転を余儀なくされた集落も数多』くあった。『さらに旧越後街道の一部が』、『この山崎湖に水没し、かつ』、『勝負沢峠付近も土砂崩れにより不通となって、同街道は、現在の会津坂下町内―鐘撞堂峠経由に変更されたため、同町はその後』、『繁栄することにな』ったとある。

「柳津の舞臺」「柳津」は現在の福島県河沼郡柳津町(ここ(グーグル・マップ・データ))。やはり会津の西方にある。ここの只見川畔にある臨済宗妙心寺派の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂は「柳津虚空蔵(やないづこくぞう)」として知られ、その本堂の前は舞台になっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「塔寺の觀音堂」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊は十一面千手観音菩薩で、寺自体を立木観音と通称する。この観音も会津地震で倒壊している。

「新宮の拜殿」現在の福島県喜多方市慶徳町新宮にある新宮熊野神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の旧山崎新湖が出現した位置の東北直近。ウィキの「新宮熊野神社」によれば、天喜三(一〇五五)年の『前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後』の寛治三(一〇八九)年の『後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという』源氏所縁の神社であったが、後、盛衰を繰り返した『慶長年間に入り』、『蒲生秀行が会津領主の時』、本社は五十石を支給されたが、『会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった』とある。

「允殿館(じようどのがたて)」「たて」の読みは推定。「たち・やかた」かも知れない。現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「號弘眞院殿前拾遺覺山靜雲」「弘眞院殿前拾遺覺山靜雲と號(がう)す」。原典には「號」の部分にのみ、「カウス」とルビがある

「石塚蓮臺寺」現在の福島県会津若松市城西町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗石塚山蓮臺寺。通称、石塚観音。キリシタンであった秀行の正妻で、家康三女の大のキリシタン嫌いであった振姫が厚く信仰した(秀行没後、振姫は他の藩主に嫁いでいる)。但し、戊申戦争の際に本寺は焼け落ちた。現存するものの、常住する僧もいないらしい(個人サイト「天上の青」の「石塚観音」に拠った)。

「人ぞしる風もうこかすさはくとはまつとおもわぬ峯の嵐を」ここのみ底本表記のままに示した。和歌嫌いなのでよく判らぬが、一応、整序すると、

 人ぞ知る風も動かず捌(さば)くとは松と思はぬ峯の嵐を

か? しかしこれでは意味もよく判らぬ。辞世らしく読み解くならば、

――世人も知っている、風も吹かぬ先に松が風で切り裂け(「捌く」)たようになるというのは、「松」が峰の嵐を「待つ」暇(いとま)もなく身を自ら致命的に裂くからであろうか?――

という意味か? 自信は全くない。識者の御教授を乞うものである。]

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