老媼茶話巻之四 強八斬兩蛇
強八斬二兩蛇一
信濃國住人、安部井強八(がうはち)といふ大力の人、有(あり)。
或時、天龍の川すそを馬にて渡りける時、山岸の片崩成(かたくずれな)ル所に大渕(おほぶち)有。水色、あいのごとく、底のかぎりを知らず。きしに、大木、倒れふし、いと深々たる大渕也。
かゝる所に壱ツの大猪(おほゐのしし)、山より一文字にかけ來り、かの渕へ飛(とび)ひたり、向(むかひ)のきしへおよぎ行(ゆく)所に、水底(みなそこ)より、さもしたゝか成(なる)大蛇、頭(かしら)を差出(さしいだ)し、猪のしゝを引(ひつ)くわへ、何の苦もなく、水中へ沈入(しづみいり)、骨をかむ音、水にひゞく。
強八、元來、水れんの上手也しかば、片はらの松の木に馬をつなぎ、衣裳をぬぎすて、裸になり、刀を拔持(ぬきもち)、水をくゞり、水底を能(よく)見るに、大き成る岩穴、有り。
大蛇、其内にうづくまり、猪のしゝ、喰(くらひ)終り、たぐろをまき、有けるが、強八を見て、首を上げ、目を見はり、口をひらき、ひれを動(うごか)し、呑(のま)んとす。
強八、刀を以て大蛇の咽(のんど)に突入(つきいり)、橫ざまに、刀にまかせ、かきはらひ、又、立(たて)ざまに切(きり)ひらく。
さしもの大蛇、急所の痛手に、よはり、岩穴に倒死(たふれし)す。
強八、水中より上り、宿へ歸り、下人數多(あまた)に、大綱を持(もた)せ行(ゆき)、件(くだん)の死蛇(しじや)の首をくゝり、綱の先を數拾人にてとらへ、
「ゑいやゑいや。」
と聲を上げ、漸々(やうやう)おかへ引上(ひきあぐ)るに、拾間斗(ばかり)の大蛇也。
見聞の諸人、強八武勇を感じける。
其後、強八、三年を經て、春、戸隱明神へ詣(まうで)て、件の川下を馬にて渡しけるに、靑々(せいせい)たる空、俄(にはか)にかきくもり、一面に墨をすりたるがごとく、眞闇になり、大雨、しやぢくを流し、大風、頻りに吹(ふき)て、稻光り、隙(ひま)なくして、水面を引(ひつ)つゝみ、一村(ひとむら)の黑雲、戸隱山の腰より浮出(うきいで)、矢より早く、強八を目にかけ、追來(おひきた)る。
強八、見て、
「扨は、先年殺しける大蛇のしゆうの内ならん。遁(のがれ)ぬ所也。」
と思ひ定め、馬を川中へ立(たて)、刀に手を懸(かけ)、待居(まちゐ)たりけるに、拾丈斗(ばかり)の黑雲、強八が上へ押懸(おしかか)り、黑雲の内より大蛇、頭を差出し、口をひらき、惡氣を吐(はき)かけて、廿間斗(ばかり)に立(たち)あがり、一文字に強八が上に倒れかゝり、強八を、馬、人、共(とも)にさらい、虛空はるかに、東の山際へ、たなびき行(ゆく)。
供人共、手にあせを握るといへども、如何ともすべき樣もなく、あきれて、そらを見る所に、雲井に聲ありて、
「阿部井強八、只今、大蛇をしたがへ、最後を見よ。」
とよばはるとひとしく、黑雲、頻リにうづ卷(まき)、稻光、散亂して、強八を馬ともに散々に喰(くひ)ちぎり、首もむくろも別々なり。
馬、人、共(とも)に地に落(おち)たり。
猶も黑雲、たなびきて、次第次第に上るとぞ見へし。
黑雲、四方に、
「はつ。」
と、ちり、雲間より弐拾間ばかりの大蛇、雲をはなれ、大地をひゞかして、
「どう。」
と落(おち)、のたを返して苦(くるし)み、大木を卷倒(まきたふ)し、石を飛(とば)し、黑けぶりを立て、四方、くらやみになして、くるいけるが、終(つゐ)にくるひ死(じに)に、しゝたり。
皆々、集り是を見るに、頭、獅々(しし)のごとく、面(おもて)、しがみ、つぶりに、毛、生(おひ)しげり、眼は鏡のごとく、口、耳元へさけのぼり、きば、かみ出(いだ)し、死(しし)たる有樣、身の毛よだつ斗(ばかり)也。
強八が右の腕、かた骨よりかみ切られながら、大蛇の首元へ、七刀、突通(つきとほ)し、にぎりこぶし、其儘、大蛇の耳元に殘りける。
「いにしへの田原藤太といふとも、是程には、よも、あらじ。」
と、諸人、かたりつたへしとなり。
[やぶちゃん注:「強八斬二兩蛇一」「強八、兩蛇(りやうだ)を斬る」。
「安部井強八」不詳。
といふ大力の人、有(あり)。
「大渕」「渕」は底本のそれを用いた。
「あいのごとく」「藍の如く」。
「飛(とび)ひたり」「飛び浸り」。
「したゝか成(なる)」異様に頑丈で手強そうな。如何にも体格ががっしりして強そうな。
「水れん」「水練」。
「たぐろ」「蜷局(とぐろ)」の誤記か?
「ひれ」この場合、描写順序と蛇の体勢から見て、舌の叉に切れた先のことを「鰭」と言っていると私は採る。但し、後半の死闘の中で「大蛇の耳元」とあるから、或いはそれを「鰭」と言っているのかも知れぬ。
「かきはらひ」「缺(か)き拂ひ」。払って斬り破り。
「立(たて)ざま」「縱樣」。
「拾間」十八メートル十八センチ。こりゃ、蟒蛇(うわばみ)の類い。
「しやぢく」「車軸」。
「隙(ひま)なくして」あっと言う間に。
「引(ひつ)つゝみ」ひっ包んで。
「一村(ひとむら)」「一叢」。
「しゆう」「雌雄」
「馬を川中へ立(たて)」騎乗のままで馬を川の中に両足でしっかと立たせて。
「拾丈」三十メートル三十センチ。生物学的にではなく、取り敢えず、妖獣として、先年殺したのが雌で、こちらはその夫であったと採っておく。
「廿間」三十六メートル三十六センチ。
「大蛇をしたがへ、最後を見よ。」「大蛇諸共に相打ちせんとす、その最期を見よ!」。
「のたを返して」のたうちまわって。
「くるいけるが」ママ。「狂ひけるが」。
「しゝたり」「死したり」。
「獅々(しし)」「獅子」。
「しがみ」底本は「しかみ」。「嚙(しが)む」と採った。苦しみのために、上下の歯を乱食いの如くに強く噛みしめ。
「つぶり」「頭(つぶり)」。
に、毛、生(おひ)しげり、眼は鏡のごとく、口、耳元へさけのぼり、きば、かみ出(いだ)し、死(しし)たる有樣、身の毛よだつ斗(ばかり)也。
「かた骨」「肩骨」。]