佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その2) / 三 戰慄~了
その四代ほど前といふのは、何でも泉州(ツヱンチヤオ)から臺灣中部の胡蘆屯(コロトン)の附近へ來た人で、もともと多少の資產はあつたさうだが、一代のうちにそれほどの大富豪になつたに就(つい)ては、何かにつけて隨分と非常なやり口があつたらしい。虛構か事實かは知らないけれどもこんなことを言ふ――例へば、或時の如き隣接した四邊(あたり)の田畑の境界標(きやうかいへう)を、その收穫が近づいたところを見計(みはから)つて、夜(よる)のうちに出來るだけ四方へ遠くまで動かして置く。その石標(せきへう)を抱(だ)いて手下の男が幾人も一晩のうちに建てなほして置くのだ。次の日になると平氣な顏をして、その他人の田畑を非常な多人數(たにんず)で一時(じ)に刈入れにかかつた。所有者達が驚いて抗議をすると、その石標を楯に逆に公事(くじ)を起した。その前にはずつと以前から、その道の役人とは十分結託してゐたから、彼の公事は負ける筈はなかつた。彼は惡い役人に扶(たす)けられまた扶けて、臺灣の中部の廣い土地は數年のうちに彼のものになり、そこのどの役人達だつて彼の頤(おとがひ)の動くままに動かなければならないやうになつた、惡い國を一つこしらへた程の勢(いきほひ)であつた。一たいこの頃、沈(シン)は兄弟でそんなことをしてゐたのだが、兄の方は鹿港(ロツカン)の役所の役人と口論の末に、役人を斬らうとして却つて殺されてしまつた。これだつても、どうやら弟の沈が仕組んで兄を殺させたのだといふ噂さへある程で、兄弟のうちでも弟の方に一層惡性(あくせい)がある。實際、兄の方はいくらかはよかつたらしい。ある時、彼等のいつもの策で、隣(となり)の畑へ犂(からすき)を入れようとしたのだ。その時にはその畑に持主が這入つてゐるのを眼の前に見ながら、最も圖太(づぶと)くやりだしたのだ。といふのはその畑の持主といふのは七十程の寡婦だつた。だから何の怖れることもなかつたのだ。しかし第一の犂(からすき)をその畑に入れようとすると、場にあつたこの年とつた女は急に走つて來て、その犂の前の地面へ小さな體(からだ)を投げ出した。
「――助けて下さい。これは私の命なのです。私の夫と息子とがむかし汗を流した土地です。今は私がかうして少しばかりの自分の食ひ代(しろ)を作り出す土地です。――この土地を取り上げる程なら、この老(おい)ぼれの命をとつて下さい!」
沈(シン)の手下に働くだけに惡い者どもばかりではあつたけれども、さすがに犂(からすき)をとめたまま、土をさへ突(つ)かうとする者もなかつた。男どもは歸つてこの事を兄の沈に話すと、彼は苦笑をして「仕方がない」と答へたさうだ。弟の沈はその時は何も知らなかつた。しかし、その後(ご)二三日して見廻りに來て、馬上から見渡すと彼等の畑のなかにひどく荒れてゐるところがあるので作男どもを叱つた。するとそれが例の寡婦の畑だと判つて、初めてその事情を聞いた。なるほど、今もひとり老ぼれの婆さんがそこにゐるのを見ると、彼は馬を進めた。さうして近くに働いてゐた自分の作男に、言つた――
「犂(からすき)を持つて來い」
主人の氣質を知つてゐるから作男は拒(こば)むことが出來なかつた。主人は再び言つた――
「ここの荒れてゐる畑ヘ、犂を入れろ。こら! いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ」
老寡婦はこの前と同じ方法を取つて哀願した。作男が主人の命令とこの命懸けの懇願との板挾みになつて躊躇してゐるのを見ると、沈は馬から下りた。畑のなかへ步み入りながら、
「婆さん。さあ退(ど)いた。畑といふものは荒(あら)して置くものぢやない」
さう言ひながら、大きな犂(からすき)を引いてゐる水牛の尻に鞭(むち)をかざした。婆さんは沈の顏を見上げたきり動かうとはしたかつた。
「本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ」
言つたかと思ふと、ふり上げてゐた鞭を强(したゝ)かに水牛の尻に當てた。水牛が急に步き出した。無論、婆さんは轢殺(ひきころ)された。
「さあぐづぐづせずに、あとを早くやれ――。こんな老ぼれのために廣い地面を遊ばして置いてなるものか」
いつもと大して變らない聲でさう言ひながら、この男は馬に乘つて歸つてしまつた。これほどの男だからこそ、その兄があんな死に方をした時にも、世間では弟の穽(おとしあな)に落ちたのだと言つて、でも自分の手に懸けないだけがまだしも兄弟の情(じやう)だ、などと噂したさうである。何(なに)にしても、兄が死んでしまつてから弟がその管理を一切ひとりでやつた。その後(ご)、その家は一層榮えるし、彼は七十近くまで生きてゐて――惡い事をしても報いはないものかと思ふやうな生涯を終る時に、彼は一つの遺言をしたのだ。その遺言は甚だ注意すべきものである。
「今から後(のち)、三十年經つたら我我の家族は、田地をすつかり賣り拂つて仕舞(しま)はなけりやならない。それから南部の安平(アンピン)へ行つてそこで舟を持つて本國の對岸地方と商賣をするのだ」
[やぶちゃん注:「仕舞(しま)はなけりやならない」は底本では「仕舞(しま)はなけやならない」であるが、読めないので、脱字と断じて特異的に「り」を挿入した。]
その理由を尋ねようと思ふともう昏睡してしまつてゐた。しかし子供はその遺言を守つて、安平(アンピン)の禿頭港(クツタウカン)へ出て來たのだと言ふ。――この遺言の話はやつぱり沈(シン)の一族からずつと後(のち)に洩れたといふので皆知つてゐたが、あの一晩の颶風(はやて)が基(もと)で、それこそ颶風(はやて)のやうに沈家に吹き寄せた不幸の折から、世間の人人は沈家の祖先の遺言から、またその祖先のした惡行をさまざまに思ひ出して、因果は應報でさすがに天上聖母は沈の持舟(もちぶね)を守らない。――あの遺言こそまるで子孫に今日(けふ)の天罰を受けさせようと思つて、老寡婦の死靈(しりやう)が臨終の仇敵(きうてき)に乘り移つたのだとか、あの颶風(はやて)はその老寡婦が犂(からすき)で殺されてから何十年目の祥月命日であるとか、人人は沈家の悲運を同情しながらもそんなことを噂した。何にしても、大きな不運の後(あと)であとからあとから一時(じ)に皆、死に絕えてしまつて、遺(のこ)つた人といふのは年若い娘ひとりで、それさへ氣が狂つて生きてゐた。
[やぶちゃん注:「天上聖母」道教の女神媽祖(まそ)の別称。航海・漁業の守護神として中国沿海部を中心に、特に台湾・福建省・潮州で強い信仰を集める。「天后」「天妃」「娘媽」とも呼ばれ、一部では道教で最も地位の高い神の一人ともされるようである。]
祖先にたとひどんな噂があらうとも、かうして生きてゐる纖弱(かよわ)い女をほつて置くわけにはいかないといふので、近隣の人人は、いつも食事くらゐは運んでやつた。それが永い間絕えなかつたといふのも、いはば金持の餘德とも言へよう。といふのは食事を運んでやる人たちは、その都度何かしら、その家のそこらに飾つてある品物の手輕なものを、一つ二づつこつそりと持つて來る者があるらしかつた。部屋にあつたものは自(おのづ)と少(すくな)くなり、さうなると近隣でも相當な家の人達はもうそこへ行かなくなつた――他人のものを少しづつ掠(かす)めてくるやうな人たちの一人と思はれたくないと思つて、自(おのづ)と控へるやうになつたのである。その代りにはまた、厚かましい人があつて、當然のやうな顏をして品物を持つて來てそれを賣拂(うりはら)つたりするやうな人も出て來た。下さいと言つて賴むと氣の違つてゐる人は、極く大樣(おほやう)にくれるといふことであつた。――「さあ、お祝ひに何なりと持つておいで」高價なものをさういふ風に奪はれて、やつぱりあの家では昔の年貢を今收めゐてゐるのだよなどと、口さがない人人は言つた。
どういふ風に、娘は氣が違つてゐるのかといふのに、娘は刻刻に人の――恐らくは彼女の夫(をつと)の、來るのを待つてゐるらしかつた。人の足音が來さへすれば叫ぶのだ――泉州(ツヱンチヤオ)言葉で、
「どうしたのです。なぜもつと早く來て下さらない?」
――つまり、我我が聞いたのと全く同じやうな言葉なのだ。彼女は姿こそ年とつたがその聲は、いつまでも若く美しかつた! ――我我が聞いたその聲のやうに?
その聲を聞いて、人人は深い哀れに打たれながら、その部屋へ這入つて行くと、彼女は人人を先づ凝視して、それからさめざめと泣くのだ。待つてゐた人でなかつた事を怨むのだ。そこで人人は明日こそその當(たう)の人が來るだらうと言つて慰める。彼女はまた新しい希望を湧き起す。彼女はいつも美しい着物を着て人を待つ用意をしてゐた。たしかに海を越えて來るその夫を待つてゐるのだといふことは疑ひなかつた。さういふ風にして彼女は二十年以上も生きてゐたのだらう―
[やぶちゃん注:ダッシュ一字分はママ。ここは行末であるが、私はここで改行と読んだ。]
「私が十七の年に、初めてこの家へ來たころには、その人はまだ生きてゐたものです」と、この長話を我我に語つた禿頭港(クツタウカン)の老婦人は言つた。――この婦人ももう六十に近いであらうが四十年位(くらゐ)前にこの家へ嫁に來たものと見える。「私は近づいてその人を見た事はありませんけれども、天氣の靜(しづか)な日などには、よく皆(みんな)が『またお孃さんが出てゐるよ』といふものだから、見ると走馬樓(ツアウベラウ)の欄干によりかかつて、ずつと遠い海の方を長いこと――半日も立つて見てゐるらしいやうなことがよくありました。夫を乘せた舟の帆でも見えるやうに思つたものですかねえ。いづれやつぱりその海が見えるからでせう、お孃さんのゐる部屋といふのは、あの二階ばかりで、外の部屋ヘは一足(ひとあし)も出なかつたさうです。皆はお孃さん、お孃さんと呼び慣はしてはゐましたが、その頃はもうやがて四十ぐらゐにはなつてゐるだらうといふ事でした。それが、何日(いつ)からかお孃さんの姿をまるで見かけなくなつたのです。病氣ででもあらうかと思つて人が行つてみると、お孃さんはそこの寢牀(ねどこ)のなかでもう腐りかからうとしてゐたさうです。金簪(きんさん)を飾つて花嫁姿をしてゐたと言ひますよ。――それが不思議な事に、それだのに、その人が二階へ上らうとすると、やつぱりお孃さんが生きてゐた時と同じやうに、凉しい聲でいつもの言葉を呼びかけたさうです。ね! 貴方がたの聞いたのと少しも違はない言葉ですよ! だから死んでゐようなどとは露(つゆ)思はなかつただけにその人は一層びつくりしたとの事です。それから後(のち)にも、その聲をそこで聞いたといふ人は時時あつたのです。――お孃さんは病氣といふよりは、もしや飢ゑて死んだのではあるまいかと云ふ人もあります。といふのはその家のなかには、昔こここにあつた見事な樣々の品物が、もうに何一つ殘つてゐなかつたさうですから。さうして死骸に附いてゐた金簪(きんさん)は葬(とむらひ)の費用になつたと言ひます」
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