老媼茶話巻之三 飯寺村の靑五輪
飯寺(にひでら)村の靑五輪(あをごりん)
[やぶちゃん注:「飯寺(にひでら)」の「ひ」は推定。「飯」の「いひ」からの転訛と考えて「にひ」とした。底本は『にいでら』とするが、これは底本が現代仮名遣ルビを方針としているからに過ぎない。以上から、今回は敢えて歴史的仮名遣を「にひでら」と考えた。]
南山(みなみやま)街道飯寺村、道ばた右の方の田の中に、大垣あり。其塚の上に大榎(おほえのき)有(あり)。
「慈現院壇と云(いふ)山伏、生(いき)ながら入定(にふじやう)せし所故(ゆゑ)、俗、慈現院壇と云。」
と、ふるき者の噺(はなし)也。
今も深夜に聞(きか)ば、塚の中にて、ほら貝を吹(ふく)音、聞ゆ、といへり。
此塚の東向ひ、靑五輪と云(いふ)有(あり)。此五輪、夜々(よなよな)、化(ばけ)て、慈現院より靑五輪迄、一面に鐵のあみをはり、往來の人を、さまたぐる。
或夜更過(よふけすぎ)て、南山のもの、此所を通りけるに、六尺斗(ばかり)の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、
「にこり。にこり。」
と笑(わらふ)。
此男、元來、不敵氣(ふてきげ)もの也。
是をみて、走り懸り、大入道がてつぺんを、したゝかに切付(きりつく)る。
手ごたへして、網も、山伏も、入道も、消失(きえうせ)て、深夜の闇と也けり。
其夜明(そのよあけ)て、件(くだん)の男、夕べ、化物に逢(あひ)ける道筋へ來(きた)る。
尋見(たづねみ)るに、靑五輪の天窓(アタマ)を、半分、切りくだき、血の色、すこし、見えたり。
是より、刀をば「五輪くだき」と名付(なづけ)、祕藏せりと也。
[やぶちゃん注:本話は「柴田宵曲 妖異博物館 斬られた石」に、前の「酸川野幽靈」とともに紹介されている。
「飯寺村」現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。
「南山街道」会津西街道。会津藩主保科正之によって整備された、会津若松城下から下野の今市に至る街道。会津からは「下野街道(しもつけかいどう)」「日光街道」「江戸街道」「南山通(みなみやまどお)り」とも呼ばれた、とウィキの「会津西街道」にある。この「南山」とは天領であった会津南山御蔵入領(あいづみなみやまおくらいりりょう:現在の福島県南会津郡・大沼郡の大半)を指す。個人ブログ「花鳥風月visual紀行」の「南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その1)」を参照されたい。
「慈現院壇と云(いふ)山伏」不詳。しかし、今も地中で法螺貝を吹くばかりか、以下に見るように、人を脅すとなれば、彼は入定なんぞ、していないばかりか、煩悩の果てに妖怪していることになる。但し、これらは狐狸の類いが、慈現院壇の話に合わせて、かく成しているのかも知れぬ。それは、判らぬ。
「慈現院より」「慈現院壇より」が正しい。これでは慈現院という寺があるように読めてしまう。
「六尺斗(ばかり)」一メートル八十二センチほど。
の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、
「にこり。にこり。」
「不敵氣(ふてきげ)もの」大胆で恐れを知らぬ、蛮勇を誇るような輩。
「てつぺん」天辺。脳天。]