北條九代記 卷第十一 伏見院御卽位
○伏見院御卽位
同十年六月に、將軍惟康を中納言に任ぜられ、右大將を兼給ふ。同月十七日、北條彈正少弼業時(なりとき)は、職を辭して入道せらる。左近將監宣時は、時房には孫にて、武蔵守朝直(ともなほ)の三男なりけるを、文才優美の人なりければ、業時の替(かはり)として、貞時、舉(きよ)し申され、執權の加判せらる。北條泰村は京都六波羅の職を止めて、鎌倉に下向あり。同十月、將軍惟康に親王の宣下有りて、二品(ほん)に叙せらる。同月二十一日、京都には主上御讓位の御事あり。主上、今年、僅(わづか)二十一歳に成らせ給ふ。龜山の新院も、只今の御讓位は餘(あまり)に早速(さうそく)の御事なれば、未だ遲からず、御殘(おんのこり)多く思召(おぼしめ)し、主上も本意ならずと聞えさせ給へども、後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし、只、疾(とく)御位を讓らせ給はんは、然るべき太平比和(たいへいひわ)の御基(もとゐ)たるべき旨、關東より奏し申せば、御心の儘ならず、俄に御讓位有りて、東宮熈仁(ひろひと)、御位に卽(つか)せ給ふ。軈(やが)て院號奉りて、後宇多天皇とぞ申しける。改元有りて、正應と號す。御卽位の主上は、是、後深草院第二の皇子、御母は玄輝門院と稱す。山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)公の御娘とぞ聞えし。東宮二十三歳にて御位に卽き給へば、二條左大臣師忠(もろただ)公、關白たり。この時に當りて、後深草、龜山、後宇多天皇にて、太上天皇、三人まで、おはします。後深草院、政(まつりごと)を知召(しろしめ)す。是を一院とも又は本院とも申し奉る。龜山院は中院(なかのゐん)と稱し、後宇多を新院と號す。昔に引替へて、何事に付きても天下の政道は露程(つゆほど)も綺(いろ)ひ給はず、打潛(うちひそ)みたる御有樣にて、其方樣の人々は、自(おのづから)、影もなきやうにぞ見えける。正應元年六月、西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘、入内あり。是等の事までも皆、關東より計(はかり)申して、萬(よろづ)、御心にも任せ奉らず。榮枯、地を換(かふ)るとは見えながら. 誠には賴難(たのみがた)き世の中なりと、高きも賤しきも、思はぬ人はなかりけり。
[やぶちゃん注:「同十年六月」前話「城介泰盛誅戮」(霜月騒動)の最終時制は弘安八(一二八五)年であるから、誤り。將軍惟康親王が中納言に任ぜられ、右近衛大将兼任となるのは、弘安一〇(一二八七)年 六月六日である。惟康親王は当時、満二十三歳。
「同月十七日、北條彈正少弼業時は、職を辭して入道せらる」既注であるが、再掲しておく。北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には北条重時の四男であったが、年下の異母弟北条義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。但し、出家の日付は十八日の誤り。この八日後の六月二十六日に享年四十七で逝去している。
「左近將監宣時」(暦仁元(一二三八)年~元亨三(一三二三)年)この時、執権北条貞時の連署(「加判」)となった。和歌にも優れ、また、何より彼は「徒然草」第二百十五段での、第五代執権北条時頼との若き日のエピソードによって、実は誰もが知っている人物なのである。
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平(たひらの)宣時朝臣(あそん)、老の後(のち)、昔語りに、
「最明寺入道、或宵の間(ま)に呼ばるる事ありしに、
『やがて。』
と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくて、とかくせしほどに、また、使(つかひ)、來りて、
『直垂などの候はぬにや。夜(よる)なれば、異樣(ことやう)なりとも、疾(と)く。』
とありしかば、萎(な)えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子(てうし)に土器(かはらけ)取り添へて持て出でて、
『この酒を獨り食(たう)べんがさうざうしければ、申しつるなり。肴(さかな)こそなけれ、人は靜まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ。』
とありしかば、紙燭(しそく)さして、隅々を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出でて、
『これぞ求め得て候ふ。』
と申ししかば、
『事足りなん。』
とて、心よく數献(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか。」
と申されき。
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「武蔵守朝直(ともなほ)」(建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)は時房の四男であったが、長兄時盛が佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は、突然、出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世し、北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けた。但し、寄合衆には任ぜられてはいない。北条大仏(おさらぎ)流の祖。
「貞時」第九代執権。
「北條泰村」「北條時村」の誤り。既注であるが、これも再掲しておく。北条時村(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は第七代執権北条政村の嫡男。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』、この弘安一〇(一二八七)年に『鎌倉に呼び戻されて引付衆の一番頭人に任じられ』た。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。
「後深草の本院、強(あながち)に待兼ねさせ給ふべし」自分の子である熈仁(ひろひと:即位して伏見天皇(文永二(一二六五)年~文保元(一三一七)年)の即位を、である。
「太平比和(たいへいひわ)」天下泰平と、後深草上皇(持明院統)と後宇多天皇(大覚寺統)の二流の和睦。
「俄に御讓位有りて、東宮、御位に卽(つか)せ給ふ」即位は弘安十年十月二十一日。
「後宇多天皇」誤り。「天皇」ではなく「上皇」である。
「改元有りて、正應と號す」改元は翌弘安十一年四月二十八日。
「玄輝門院」洞院愔子(とういんいんし 寛元四(一二四六)年~元徳元(一三二九)年)。
「山階(やましなの)左大臣藤原〔の〕實雄(さねを)」洞院実雄(承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)は公卿で洞院家の祖。従一位左大臣。娘三人がそれぞれ三人の天皇(亀山・後深草天皇・伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、三人の天皇(後宇多・伏見・花園)の外祖父ともなった(ウィキの「洞院実雄」に拠る)。
「二條左大臣師忠(もろただ)」(建長六(一二五四)年~興国二/暦応四(一三四一)年)は関白二条良実の三男。兄道良の早世により二条家を継いだ。この直前の弘安一〇(一二八七)年八月、関白・氏長者となっている。彼は正応二(一二八九)年に関白を辞し、永仁二(一二九四)年に出家しているが、その後も実に南北朝期まで長生きした。
「綺(いろ)ひ給はず」関与なさらず。
「西園寺大納言藤原實兼〔の〕卿の御娘」伏見天皇中宮西園寺鏱子(さいおんじしょうし 文永八(一二七一)年~興国三/康永元(一三四二)年)。従一位太政大臣西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)の長女。正応元(一二八八)年六月二日に入内、同月八日、女御、さらに同年八月二十日には中宮となった。参照したウィキの「西園寺鏱子」によれば、『実子は生まれなかったが、典侍五辻経子が生んだ東宮胤仁(のちの後伏見天皇)を猶子とし、手許で育てた』とあり、また、『伏見天皇の東宮時代から京極為兼が仕えていたことから、歌を京極為兼に師事し、為兼や伏見天皇を中心とする京極派の歌人として』「玉葉和歌集」「風雅和歌集」等に多くの歌を残している、とある。]
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