ブログ1010000アクセス突破記念 西村少年 梅崎春生
[やぶちゃん注昭和三一(一九五六)年十二月発行の『別冊文藝春秋』に初出。翌年四月角川書店刊の作品集「侵入者」に収録された。
本篇は恐らく、梅崎春生自身の実体験に基づく小説と考えてよい。午砲(ドン)が鳴らされ(彼の知られた三篇アンソロジー小説「輪唱」の中の一話「午砲」は昭和二三(一九四八)年九月発表)、「聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店」とあることから、戦前であり、春生の年譜的事実から言えば、彼は大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子小学校に入学しており、本文に「西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た」とあるから、作者の事実に則したものであるとするならば、大正一五(一九二六)年の時代設定と捉えて問題ない。
本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1010000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年10月15日 藪野直史】]
西村少年
その西村という級友に、僕らはヨリトモという綽名(あだな)をつけた。ヨリトモとは源頼朝のことで、義経なんかをいじめた関係上、頼朝は僕ら子供の間ではあまり人気がなかった。むしろ憎まれてさえいた。
西村は頭でっかちで、背もあまり高くなかった。頭でっかちのくせに、走るのが速く、体操もうまかった。色が白くて、皮膚もつやつやしていた。つまり、見るからに、僕たちよりは栄養が良かったのだ。僕らの級友は平均的にあまり栄養が良くなかったらしい。
毎年の秋、その市の小学校が全部代表選手を出して、リレー競走をやるのだが、僕らの学校はいつもビリか、ビリから二番だった。
代表選手はもちろん六年生だが、その六年の選手の校庭での練習を僕らは見る。選手たちは得意になって走っている。何と速いんだろう、まるでオートバイみたいじゃないか、と僕らはささやき合うのだが、いざ大会になって僕らが見物に出かけると、我が校の選手はたいがいの場合どんじりで、校庭の練習で見せた颯爽(さっそう)さはなく、疲れ果ててよたよたと足を動かしているに過ぎないのだ。どんなに声援をおくってもダメだった。
「何故だろうなあ」
がっかりして帰途につきながら、僕らは話し合う。
「練習の時はあんなに速かったのになあ」
校庭で走っているぶんには結構速く見えるのに、他校との競走となるとどうもうまく行かないと言うのも、つまるところは実力が劣っていたのだろう。体力がそれだけ劣っていたわけだ。そしてそれは栄養にも大いに関係している。
僕らの小学校は海辺にあった。
学区内には、漁師町や商人町や下級給料者の住宅街だのが、ごちゃごちゃに入り乱れていた。
海辺の埋立地には格納庫があり、水上飛行機の発着場になっていた。そこから小さな港があり、港を抱くようにして腕みたいな形で岬(みさき)が伸びて曲っていた。その腕の掌にあたる場所にも人家があって、また午砲(ドン)打ち場がそこにあった。
正午になってドンが鳴ると、学校中の窓ガラスがびりびりと慄えた。ドンの響きはいつも僕らの腹に強くこたえた。それほど僕らのお腹は空いていたわけだ。
ドンの砲手が、西村のお父さんだった。
西村のお父さんは退職軍人で、恩給でゆったりと暮していて、ドン打ちは道楽みたいな副業だということだった。八字髭(ひげ)を立てた、眼つきのするどい、ずんぐりした体格の小父さんだった。頭と背骨をまっすぐに立てた、特有の歩き方を見ただけでも、それはいかにも在郷軍人の典型という感じがした。
西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た。
何故西村小父さんほその息子を、優秀な付属から僕らの小学校に、あまり優秀でないこの小学校に転校させたのか、今考えてみてもよく判らない。何か特別な理由があったのか、それともただ通学距離が近いという理由だけだったのか。僕らは五年の一学期から、中学校や女学校に進学するものだけ集まって、特別学級をつくっていた。進学する者の数が少く、男女合わせて五十人ぐらいしかいなかった。だから僕らの組は、男女組または混合組と呼ばれていた。
僕らは女はニガテだった。それまで男の子ばかりの級で、女と机を並べたことがなかったのだから、今までは校庭や講堂だけのつき合いで、無視出来たのだが、机を並べて一緒に学ぶ、あるいは成績を競うということになると、そんなわけに行かなかった。
その頃この学校では、女の子は男の子より一段下位にあるもの、質的に段差があるもの、と一般に考えられていた。あるいは僕らだけでそう考えていた。強いてそう考えていた。だからこれを呼ぶのに「オナゴ」を以てした。あるいは「メス」。
学校の用事以外では、僕らはオナゴと話し合うことはなかった。話しかけもしなかったし、話しかけられもしなかった。休み時間に一緒に遊ぶことはなかった。学校の帰りも別々に帰った。
オナゴとつき合うことは恥辱であるという具合に、僕らはお互いにけんせいし合っていた。
オナゴは恥辱である、と僕らが考えるのに、理由がないでもなかった。僕らは何かあるたびに男子ばかりの組の者から、「やあい、男女組」「やあい、混合組」とののしられた。男女組、あるいは混合組という名称そのものが、恥辱の代名詞になっていたわけだ。ところが僕ら自身は、恥辱ではあり得ない。すなわちかんたんな引き算によって、オナゴは恥辱である、という答が出て来るわけだった。
しかし、引き算ではそう答が出ても、そっくりそのままを信じるわけにも行かない節があった。学校のふだんの成績、またはモギ試験の成績などで、大体においてオナゴの方が良好だったのだ。いつかのモギ試験などでは、一番から七番までが全部オナゴで、やっと八番目に男が入るということなどもあって、僕らはたいへん面白くなかった。そうなるとオナゴだのメスだのと呼び捨てることによって、軽視したり無視したりは出来ない。もっともそういう面白くなさが、かえってオナゴを蔑視する方向へ、蔑視しようとあがく方向へ、僕らを追いやっていたということもあるが。
「なんだい。あたしたちがメスなら、あんたたちはオスじゃないか」
女子の中で勇ましいのがいて、ある時こう反発した時の、僕らの激昂ぶりは実にはげしかった。入学以来、こんなに怒ったことはないほどに、集団的に怒った。オスとは何ごとだ。動物や植物じゃあるまいし、オスとは何ごとだ。人間をつかまえて、オスとは何ごとだ。メスのくせに生意気な。あやまれ。あやまれ。その勇敢なる女子の名前は、河合政子と言ったが、河合政子はあやまるかわりに泣き出した。声を放って机に泣き伏した。豊かな黒髪を机に這(は)わせ、白いうなじを慄わせながら、河合政子は口惜しげに大泣きに泣いた。
その河合政子と西村一作が、時折教室で顔を見合わせて、にっこりと笑うということを見つけたのは、いや、見つけたのか創作したのか知らないが、とにかくそういうことを言い出したのは、アンパンという綽名の子だった。アンパンの由来は、その子が聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店の子だったからだ。
「今日も顔を見合って、ニヤッと笑ったぞ」
アンパンは口をとがらせて、僕らに報告した。
「あいつら、お互いにホレ合っとるらしいぞ」
僕らは単純にして複雑な気持でその報告を聞いた。西村の席も河合の席も、教室の後部にある。アンパンの報告によると、後部であることを利用して、つまり皆に気付かれないと安心して、笑いを交しているというのだ。では、どういう時に笑いを交すか。先生から指されて、西村がうまく答える。そして西村は着席する。ちらと河合を見る。そこに笑いが交される。あるいは河合が指され、うまく答える。河合は着席しながら、ちらと西村を見る。笑いがそこに交されるというのだ。その説明を聞いた時、僕らすべての胸にもやもやとした、隠微な感情がしばらくたゆたった。怒り。憎しみ。妬(ねた)み。悲しみ。その他百千の気持が。
「付属から来たくせに生意気な!」
僕らは付属小学校を憎んでいた。憎み、反発し、軽蔑していた。羨望するかわりに侮蔑していた。柔弱であるという点において、ゼイタクであるという点において、侮蔑していた。それはオナゴに対する僕らの感情と、どこか似通っている点もあった。その付属から転校してきたということで、西村は僕らの仲間の中で、ある特殊な位置に置かれていたのだ。
「西村を殴(なぐ)ろうか」
アンパンが提議したが、それに応じるものはなかった。殴るという行動によって、僕らの百千の感情が表現されるわけでなし、かえって誤解される(誰に?)おそれもあるような気がするし、先生に見つかると叱られるにきまっているし、それに西村の喧嘩の実力がまだ判っていないし(足も速いし休操も巧いから、相当に強いかも知れない)提議したアンパンもうやむやにそれを引っ込めてしまった。
そして誰言うとなく、西村のことをヨリトモと呼ぶことになった。オナゴが政子なら、男はヨリトモにきまっている。それがその綽名(あだな)の由来だった。おそらくその頃、歴史の時間で、そのくだりを習っていたのだろう。
「ヨリトモ」
「おい。ヨリトモ」
誰も西村の本名を呼ぶものはなくなってしまった。もちろん僕らが何故彼をヨリトモと呼ぶか、直ぐにそれはオナゴたちに伝わったし、当の政子にも伝わったに違いなかった。
「ヨリトモ」
この綽名に西村はすこし当惑したらしい。僕らの組のほとんどが綽名を持ち、それで呼び合っているのだから、綽名をつけられたと言って、そのことで怒るわけには行かない。それから、何故ヨリトモ政子とはやし立てるのか、おそらく付属在校時代はもっと男女間が親しくて、だからそんな綽名をつけられても、軽いからかいに過ぎなかっただろうから、僕らのつけたヨリトモという呼称に対して、どう身構えていいのか判らなかったらしい。軽いからかいにしては、その呼び方に悪意その他が強くこめられていたからだ。
しかしそういうことで、西村と河合の間は妙にぎごちなく、つまりひそかに笑いを交すということが、そのままの形でこわばってきたのだ。そのこわばりは僕らにも感染した。そのこわばりの中でヤユすることで、僕らの呼び方にはますます悪質なものがこもって来た。
「ヨリトモ」
「ヨリトモ」
河合政子も明かにこわばっていた。そしてそのこわばりに全身をもって反抗していた。彼女は組で一番美しい容貌と身体を持っていた。そして勇敢で、寛容だった。いくら寛容でも、こわばる時にはこわばる。成績も良かった。モギ試験でも必ず上位の五人のうちに入っていた。つまりいろんな点において、オナゴの中では、群を抜いていたわけだ。だから僕らが西村をヨリトモと呼び、それが直ちに政子に反応して、政子が困惑することを、内心快とする一部のオナゴたちもあったのだ。そういうオナゴたちは西村のことを、さすがに面と向ってではないが、かげではヨリトモと呼んでいるらしかった。
そしてある日のこと、西村とアンパンは大喧嘩をした。
アンパンがあまりにも西村のことを、ヨリトキ、ヨリトモと呼び過ぎたからだ。それも西村が単独にいる時でなく、また男ばかりの時でなく、直ぐ近くに女子たちが、河合政子などもいる時に、そう呼び過ぎたのだ。西村は顔面を硬化させて、黙っていた。その綽名には応答しなかった。
争いが起きたのは、放課後の掃除当番の時だ。女子たちは皆帰って、当番の男子たちだけが机を動かしたり、帚(ほうき)ではいたりしていた。その帚の使い方がなっとらんと言うので、アンパンが西村の帚を取り上げようとしたのだ。
「帚をよこせ。お前は机運びになれ!」
「イヤだ」
西村は拒絶した。机運びより帚使いの方が高級だという考えは皆にあった。
「だってお前のはき方は、ムチャじゃないか。ゴミがあちこち残っとる。帚はおれがやる」
「イヤだ」
「よこせったら。ヨリトモ!」
瞬間に西村は帚を床に投げ捨てた。パッとアンパンに飛びかかった。二人の身体は床にころがり、格闘となった。ごろごろところがり回り、手足がはげしくぶつかった。
僕らは慣習にしたがって、ぐるりとそこに輪になり、見物した。一対一の喧嘩にはたから手を出さない不文律があったのだ。西村はアンパンを組み伏せながらあえいだ。
「ヨリトモと言うか! まだ言うか!」
「何をヨリトモ!」
今度はアンパンが力をこめてひっくり返した。
「何を。このヨリトモ野郎!」
そのアンパンを足で蹴り上げて、西村がアンパンの上におっかぶさった。西村は涙を流しながら、アンパンの顔を両手で連打した。
「まだ言うか! まだヨリトモと言うか!」
僕は知っていた。西村が怒っているのは、自分がヨリトモと呼ばれることではなく、自分がヨリトモと呼ばれることによって、河合政子が困惑することであることを。そのことは僕の胸をはげしくしめつけた。それはあきらかに嫉妬の感情だった。強い強い嫉妬の情が、僕の全身をがたがたと慄わせた。
そしてその喧嘩は、ついに西村の勝利に終った。西村の執拗(しつよう)な攻撃に、アンパンは戦意を失ったのだ。西村の最後の打撃に、アンパンはワッと泣き声を上げ、敗北を表明した。
しらじらとした喧嘩の終りが来た。西村はほこりをはらって立ち上ったが、勝利者の表情ではなかった。見物の僕らも別にどよめかず、勝利者を祝福することもなく、敗北者を慰撫することもなく、しらじらと元の掃除の部署に戻った。アンパンの泣き声だけが、いつまでもひびいた。
アンパンの表現を借りれば、僕も西村に負けないほど、河合政子にホレていた。口には出さなかったけれども、心の底からホレていたのだ。
そしておそらくアンパンも、またその他の大部分のわが組のオスたちも!