トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 夜ふけ
夜ふけ
夜ふけに、私は起き上つた。暗い窓の外で、誰か私の名を呼んだものがある。
窓の硝子に顏を寄せ、耳を澄し瞳をこらして、私は待受けた。
しかし窓の外には、相も變らぬ樹々のざわめき、また、取留めも無く移ろひながら、ついぞ形を變へぬ、深い夜霧が這ふばかり。……空には星もなく、地に一點の火影もない。窓の外も、此處――私の胸の中と、同じ倦怠がたち籠めてゐる。
ふとそのとき、何處かしら遠くで、哀訴の聲が起つた。聲は次第に高まり近づいて、漸く人語を成したかと思ふ間もなく流れおとろへ、忽ち身ぢかをかすめ過ぎた。
「さよなら、さよなら、さよなら……」かすれてゆく聲は、さう聞きとれた。
それは私の過去の一切、幸福の一切、慈しみ愛したものの一切なのだ――いましがた私に、永遠に歸らぬ別れを告げたのは。
かけり去る自分のいのちに默禮して、私はまた寢床に橫になつた。さながら墓に橫たはるやうに。
ああ、これが墓であつたなら。
一八七九年六月