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2017/10/29

芥川龍之介が中国旅行で「黄鶴楼」として登ったのは「黄鶴楼」ではなく「奥略楼」である

芥川龍之介は中国旅行の紀行の掉尾としてアフォリズム小品「雜信一束」を残している(リンク先は私の電子化注)が、その「三 黃鶴樓」で、

   *

       三 黃鶴樓
 
 甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、
 僕――鸚鵡洲は?
 宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。
   *

と、如何にも感興を削いだ形で呟いているのが、ずっと気になっていた。私はただ、新築復元されていた黄鶴楼が、龍之介には、田舎芝居の安物の大道具のようにしか見えなかったからだろう、ぐらいにしか憶測したに過ぎなかった。

ところが、昨日、中国在住の教え子が以下の興味深い考察――恐らくは芥川龍之介研究家の誰も認識していないであろう事実――を呉れた。以下に引用して示す。写真も彼の送ってくれたものである(1・2・4は写真から絵葉書(或いはそれを複写掲載した古書)と判断出来、それをこの考証の真偽を高める参考引用資料として使用することは著作権上の問題ないと考える。3も恐らくは同じように推定されるが、万一、個人写真で、現在も著作権が存続している場合、当該著作権保有者からの直接親告があれば除去する)。

   *

現在の黄鶴楼は一九八五年竣工。それ以前はどうだったのでしょうか。清代再建の黄鶴楼は現在のように丘の上ではなく、長江のほとり、現在の長江大橋の橋脚が立つ地点にありました。しかしそれは一八八四年に焼けてしまいました(写真1)。同じ場所に一九〇四年、警鐘楼という西洋風楼閣が建てられました(写真2)。続いてその東側、長江から見て奥(二つの建築が同時に見える写真3。その建物の形状と地形から、位置関係が明らかです)に、一九〇七年、風度楼(写真4)という中国風楼閣も建てられ、竣工後に奥略楼と改名されました。西洋人向けの絵葉書などには、警鐘楼が誤って黄鶴楼として紹介される例もありました(写真2がその例)。しかし概ね奥略楼が黄鶴楼と誤認される時期が続きました。一九五五年、二つの建築はともに長江大橋建設のため撤去されます。
さて、龍之介の武漢訪問は一九二一年です。したがって彼が立っていたのは明らかに現在の黄鶴楼ーー長江から一キロも離れた丘の上に立つコンクリート製の楼閣ではありませんでした。それは奥略楼だったのです。念のため申し添えておくと、なぜ警鐘楼ではないのでしょうか。それは、まず『目の下に並んだ瓦屋根』という彼の表現です。警鐘楼の下には瓦屋根の建物はありません。次には、私の確信です。西洋の城郭みたいな建築が黄鶴楼だなんて、龍之介が受け入れるはずはありません。
結論をもう一度繰り返します。龍之介が立ったのは、現在見られる黄鶴楼ではありません。河岸の奥略楼でした。現在の長江東岸、長江大橋がまさに長江の上に伸びて行く直前の、橋脚聳える場所です。どうかいま一度警鐘楼の写真をみてください。もしここに唐代の黄鶴楼があったのだとしたら、漢詩《黄鶴楼送孟浩然之広陵》で想像される景色『孤帆遠影碧空尽  唯見長江天際流』は、随分と違ったものになるのではないでしょうか。


写真1

Koukakrou1

写真2

Koukakrou2

写真3

Koukakrou3

写真4

Koukakrou4


   *


龍之介よ、君が登ったのは黄鶴楼ではなかったのだ。


幽かな憂鬱が、一つ、消えた。
 
 

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