トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 世の終――夢
世の終
――夢
何處か、ロシヤゐ荒凉たる片隅。そこの一軒家にゐる夢を見た。
天井の低い、だだ廣い部屋に、窓が三つ明いてゐる。壁は白く、家具は一つもない。窓の外は一面の荒野原で、次第に低まりながら、つひに眼路は極まる。灰一色の物憂い空が、天蓋さながら重く垂れてゐる。
部屋の中には、私だけではなく、およそ十人ほどの人間がゐる。みな普段着を着た、普通の人達である。一樣に默り込んで、まるで足音を盜む樣に步き𢌞る。互ひに避け合ふ風に見えるが、そのくせ心配さうな眼を見交してゐる。
伺故自分がこの家に居るのか、誰も知らない。自分と一緒にゐるのが何者なのか、誰も知らない。どの顏を見ても、同じ不安と憂愁の色が讀まれる。順番に窓邊に立つては外を眺める。何者かの到來を待つ樣に。
それから、また步き𢌞る。その間を縫つて、小さな男の子が眼まぐるしく駈け𢌞つて、時折きいきい聲で喚く、「お父ちやん、怖いよう。……」
その聲を聞くと、胸が惡くなる。この私まで怖くなる。何が怖いのか。解らないが、兎に角何か途方もなく大きな禍が、刻々に近づく豫感がする。
子供の喚き聲は歇むかと思ふとまた起る。ああ、此處を出て行けないものか。何といふ息苦しさ鬱陶しさ、また胸苦しさ。だが出ては行けない。
空は經帷子のやう。そよとの風もない。大氣までが死んだのか。
不意に子供が窓に駈け寄つて、同じ泣聲で喚いた、「お父ちやん、來て御覽よ、地面が失(な)くなったよう。」
「なに、失くなつたつて?……」本當に、つい先刻(さつき)まで家の前は平原だつたのに、いま家は身の毛もよだつ宙有にもち上つてゐる。地平は逢か下に沈み、窓の眞下には刳つた樣な絶壁が、底知れぬ岩肌を黑ずませてゐる。
一同に窓の所に塊つた。悽愴な思ひが、皆の心臟を凍らせる。「たうとう來た、たうとうやつて來た」と、隣の男が低く呟いた。
そして見よ、地の極まるあたり一面に、何物かか蠢きはじめた。圓い小山の樣なものが幾つも、膨れまた縮みはじめた。
「あれは、海だ」皆が一齊にさう思つた、「もう直きに、俺たちは皆あの中に吞み込まれるのだ。」……しかし、どうしてあれが、この絶壁の上に達くほど大きくなれよう。
しかし、見る見る中にそれは膨れ上つた。巨大な塊になつた。今はもう、別々の小山が遙かに突進して來るのではない。それは怪物めいた團々たる大濤になつて、地平を蔽ひ匿してしまつた。
それが飛ぶやうに、此方へ押寄せる。氷の龍卷と舞ひ、地獄の闇と狂ひながら。……四邊(あたり)は一齊に震動した。押寄せる巨濤からは、雷の爆け鳴る音、千萬の咽喉を一度に衝くかと思はれる、凄じい慟哭が漏れた。
噫、これに何といふ咆哮、また叫喚。恐怖の淵からの、大地の呻きなのだ。
大地の斷末魔、萬物の終。
子供の鋭い聲が、また聞えた。私は隣の男に獅嚙みつかうとした。しかし既に、轟々と鳴る氷の樣な黑濤は私達を吞込み、押潰し埋め盡した。
闇。……永遠の闇。
息も絶え絶えに、そのとき目が覺めた。
一八七八年三月
[やぶちゃん注:「眼路」「めぢ(めじ)」と読み、「目路」とも書く。目で見通した範囲。視界。
「宙有」空中。大空。
「刳つた」「ゑぐつた(えぐった)」。
「達くほど」「とどくほど」。
「獅嚙みつかう」「しがみつかう(しがみつこう)」。]
« トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 處生訓 | トップページ | トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) マーシヤ »