トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) なほも鬪ふ
なほも鬪ふ
時としてなんといふくだらぬ瑣末事が、人間一匹をがらりと變へてしまふことだらう。
ある日わたしは、疑惑に胸を一ぱいにして、大きな道を步いてゐた。
重くるしい豫感に胸は緊めつけられて、心は愈々沈むばかりだつた。
わたしは頭をあげた。脊の高いポプラ並木のあひだを、道はどこまでも眞直ぐに走つてゐる。
その道を越して十步ほど向ふに、雀の一家族が縱列をつくつて、金色にかがやく夏の日を浴びながら、ぴよんぴよん跳ねてゐる。元氣よく、樂しげに、自信に滿ちて。
なかでも一羽だけ、人を人とも思はぬ不敵な聲で囀りながら、しきりに嗉囊(ゑぶくろ)をふくらませ、すんずん列を離れてゆく。その樣子は、あつぱれち英雄兒だ。
一方、空高く、一羽の大鷹が舞つてゐる。宿命の手に導かれて、彼が引つさらはうと狙つてゐるのは、この英唯兒なのかも知れない。
なれを目たとき、明るい笑がこみ上げて來た。私は身を搖すつて笑つた。忽ち、暗い思念はかけり去つて、勇猛心や、生の意欲が、ひしひしと胸にわきあがつた。
わたしの頭上にも、わたしの大鷹が來て舞はば舞へ。
われら、なほも鬪ふ。なんのその。
一八七九年十一月
[やぶちゃん注:「嗉囊」の「嗉」は印刷が不全で(へん)の部分にほぼ「日」の字が、(つくり)は殆んどが消えてしまって判読不能であるものの、「素」の左上部の感じが私には、した。「日」偏の「餌」に相当する字は見出せない。されば、取り敢えずこの字を当てておいた。言わずもがなであるが、「嗉囊(そのう)」は
鳥類・軟体動物・昆虫類・貧毛類の消化管の一部で、食道に続く薄壁の膨らんだ部分を指し、食べ物を一時的に蓄えておく器官を指すから、意味としては腑に落ちるからである。別字が想定出来る方は、御教授戴けると助かる。因みに、中山省三郎譯「散文詩」では、ここは単に『胸』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版では『餌ぶくろ』である。]
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