トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 新聞記者
新聞記者
二人の友達が卓を挾んで茶を飮んでゐる。
そのとき往來で、時ならぬ騷ぎがはじまつた。哀れつぽい呻き聲や、いきり立つた罵聲にまじつて、彌次馬の小氣味よささうな嘲笑がひびいた。
「やあ、誰か毆られてるぞ」と、友達の一人が窓から首を出して言つた。
「罪人か、それとも人殺しかね」と、もう一人が聞いた、「いや、何をしたにしろ、無法きはまる私刑なんか許しては置けないぞ。さあ、ひとつ助太刀してやらう。」
「だが、あれは人殺しぢやないよ。」
「人殺しぢやない? ぢや泥棒か。どつちみち同じことだ。彌次馬の手から救ひ出してやらう。」
「いや、泥棒でもない。」
「泥棒ぢやないつて? ぢや出納役か、鐡道の役人か、聯隊の御用商人か、ロシヤ出來の文藝保護者(メケーナス)か、辯護士か、溫健主義の編輯長か、社會奉仕の先生か。……何はともあれ、助けてやらうよ。」
「いや違ふ。毆られてゐるのは新聞記者だよ。」
「新聞記者だつて? ぢや、まあ、お茶を頂いてからにしよう。」
一八七八年六月
[やぶちゃん注:「ロシヤ出來」「出來」は「しゆつらい」と読んでおく。ロシアから来たところの、の意。「しゆつたい」はその音変化ながら、物品や事件・事態の起動や発生に対して用いられ、人に対してはあまり用いられないからである。
「文藝保護者(メケーナス)」原文は“мецената”。 меценат(ミツナート)は「文芸の保護者」の意。これは所謂、英語のパトロン(patron:後援者・支援者・芸術保護者)のこと。英語のそれはウィキの「パトロン」によれば、『ラテン語のパテル(pater、父)から派生した同じくラテン語のパトロヌス(patronus)に由来し、客に利益を与える者の意味であった。パトロヌスとは古代ローマにおいて存在した私的な庇護関係(クリエンテラ、パトロキニウム)における保護者を指し、被保護者であるクリエンテスとの関係は一種の親子関係にも擬せられた。パトロヌスはクリエンテスに対して法的、財政的、政治的援助を与える存在であり、こうした役割からもっと一般的に保護者を意味してパトロンが使われるようになった』とあるが、それとは別に、古代より『為政者、貴族および富裕層は、芸術パトロネージュを彼らの政治的野心、社会的地位および特権を強化するために利用した。すなわち、パトロンは、スポンサー』(広告主)『として機能したのである。現代では、英語以外のほとんどの言語では、スポンサーとしてのパトロンを指す場合、ローマ皇帝アウグストゥスの寛大な友人で助言者であったガイウス・マエケナス』(ガイウス・キルニウス・マエケナス(ラテン語:Gaius Cilnius Maecenas 紀元前七〇年~紀元前八年:共和政ローマ期からユリウス・クラウディウス朝期にかけて活躍した政治家。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心で、外交・政治・文化に於ける助言者でもあった。アウグストゥス期に活躍した多くの新世代詩人や文学者の最大の支援者としても知られ、後世にはマエケナスの名前は「裕福さ」を示すものとなり、また、そこから、文化・芸術家の経済的社会的保護者としての意味をも有するようになった。ここはウィキの「ガイウス・マエケナス」に拠った)『に由来するメセナ(フランス語: mécénat)と呼称する』とあり、神西の「メケーナス」はその語源の人名“Maecenas”の音写である。]
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